プロローグ :第一章 モンシデムシ :第二章 ヒラタクワガタ :第三章 フンコロガシ :第四章 クマゼミ :第五章 アキアカネ :第六章 ヒラタシデムシ :第七章 エンマコオロギ :第八章 カネタタキ :第九章 ミノムシ :エピローグ :

第八章 カネタタキ (1)

前へ 次へ

2003/10/04 Sat.

「……やっと繋がりましたね」
「こっちは忙しいんや。回線をふさがんとってくれ」
「昨日は途中までしか説明できなかったから。堂島さん、このままだと自分の手元で江坂の身柄を確保するのは難しくなりそうですね」
「俺にけんか売っとんか」
「まさか。打開策の提案ですよ。宇多野先生を捕まえりゃいいんです。江坂を通じて金と情報のやりとりをしていたはずです」
「簡単に言うな。学校のなかで起きたことはそうそう逮捕のねたにならん」
「今晩十一時から明け方まで西中を見張っていてください。宇多野先生が侵入しようとしますから」
「なんでそんなことがわかる」
「午前中の集会のあとで確かめました。保健室のPCはまだ戻ってきてません。捜査がどんどん厳しくなってるし、隠し持つのも大変でしょうね。一方で保護者集会が持たれれば健康調査票の漏洩問題が蒸し返されるに決まっている。週明けには保健室にも手が入るでしょう。今晩が最後のチャンス。そう思ってるはずです」
「そんなら十一時まで延ばす意味がないやろ」
「パチンコ屋の営業時間中は動きませんよ。お目付役もいなくなったし、最近相当ストレスをためこんでるみたいだから、ぎりぎりまで台から離れないでしょう」
「何もかもわかったような口をきくやっちゃな。中坊のくせに」
「信用しないのは勝手ですけど。刑事さんにとっても、最後のチャンスですよ」
「……」

 信用していないのはお互い様だ。堂島さんが動こうが動くまいが、僕は自分で宇多野先生を待ち伏せするつもりだった。
 母さんは予定通り旅行に出かけた。勇はまだ一人寝が心細い。父さんを寝床に呼び寄せて、しばらく傍にいてくれとせがむだろう。
 午後十時を過ぎるころ、僕は自室を出てふたりが隣の寝室にいるのを確かめた。トイレにいくふりをして階段を降り、こっそりと家を出た。

 風はなくとも長袖一枚では肌寒い気温だった。この時間、国道を離れると人通りはほとんどない。農地と住宅地の夜はしんとして、ときおり虫の鳴き声が聞こえるばかりだ。
 学校の出入口は正門と通用門の二カ所。正門からだとグラウンドを横切らなければ校舎にたどりつけない。
 僕は通用門から十メートルほど離れた空き地に身を潜めた。周囲には家が建っていた頃の庭木がそのまま残っていて、かっこうの隠れ場所になっていた。
 ポケットを押さえてデジカメと自家製スタンガンの感触を確かめた。周囲をしっかり見張っていなければならないのに、じっとかがんでいると余計な思いが頭をめぐってしまう。
 千林が宇多野先生に密告したかも、と考えてすぐに打ち消した。立場の強い相手に弱みを握っているとわざわざ知らせるようなやつじゃない。
 昼間の学校での噂や堂島さんの口振りからすると、今までにみつかったのは一年生の雑魚ばかりで、江坂と主だったグループメンバーの行方はわかっていない。バイク強盗の真犯人は本当に連中なのだろうか。
 キアは今日も登校してこなかった。出張あけの父親に引き留められて自宅にいるのだろう。くやしいけど、クラスメートからは高井田や門真の欠席と大差ないと見られている。

 自分の心臓の音がやけに甲高く聞こえると思ったら、背後の木蓮の枝でカネタタキが鳴いているのだった。チッチッチッチッとリズミカルで澄んだ音色。秋に鳴く虫のなかでは控えめな音量だけど、あたりが静かなのでよく響く。
 時間はゆるゆると歯がゆいほどゆっくり流れていった。
 ようやく日付が変わった。門の周辺には誰も現れない。警察は張り込みをしているのだろうか。僕にはその気配もわからない。どこかで推論をまちがえたのだろうか。しびれた足をそっと踏み換えようとして、路地を曲がってくる人影に気がついた。
 あわててデジカメをひっぱりだそうとしたその時だ。
 ふっと虫の音がとぎれた。
 どきっとしてとっさに身体を横ざまに転がした。背後から飛びかかってきたやつが僕のいたところに手をつき、ひらりととんぼをきった。鮮やかな赤い髪が瞬間街灯に照らされてすぐ闇に沈んだ。僕は地面に倒れたままスタンガンを手にとろうとして一撃の手刀で払い落とされた。逃れるひまもなく両腕を後ろ向きにねじあげられ、背中に膝蹴りをくらって息がつまった。そのまま上半身を草むらに押しつけられて身動きとれなくなってしまった。
「ようもこけにしてくれたな、秀才くんよ」
 耳元でささやいた、からかうような声。聞きなれているはずなのに全身の毛がぞくっと逆立った。
「……江坂……」
「大声出すなよ。腕の関節を増やしとなかったらな」
 通用門の電子錠をいじくる鈍い音がやけに遠く聞こえる。今騒いだら宇多野先生に気づかれてしまう。
「なんで……僕を……」
「多聞を使うて、ポリコとクソ爺の馴れ合いを手引きしたんはお前らやろが」
 多聞さんと……出戸?
「……何のことかわからな……」 
 江坂が手の力を強めた。痛みに耐え、必死で声を飲みこんだ。
「吐け。多聞はどこにおる。クソ爺をどこに隠した」
 こいつは警察から逃げまわっていただけじゃなかった。意趣返しのために父親を追いかけていたんだ。
 ずっと江坂のそばにいたはずの多聞さん。出戸と一緒に姿を消した?
「……ばっくれんなら、お前を餌にして葺合を呼び出す」
 頭にかっと血がのぼって思わず声が大きくなった。
「あいつは何も知らない。堂島さんに話したのは僕がひとりで……」
「そこまでや、ガキ」
 いきなり強い光に照らされて目がくらんだ。
 がさがさと何人もの足が草っ原を踏みしだく音がした。押さえつけられた体勢から精一杯顔をあげてみた。急に明るくなった空き地に少なくとも三、四人の男の人たちがいた。
「深夜徘徊、他人の土地への侵入にくわえ、暴行の現行犯や。まっすぐ家には帰されへんで」
 逆光で顔は見えないが、堂島さんの声だ。今まで黙って僕を見張っていたのか。
 通用門のあたりから宇多野先生と別の男の人の押し問答、門扉に何かがぶつかる音が一度に聞こえてきた。
「教師が学校に入って何が悪い!」
「合鍵を黙って持ち出して深夜無断で入り込むのは住居侵入罪ですよ」
「仕事の用事を思い出しただけだ!」
「火災の捜査中は特に勝手な行動は慎んでくださいと、学校長と警察連名で通知してたでしょうが。ともかく、お話は署で聞きますから……」
 江坂が頭をのけぞらせてけらけらと笑った。
「先コが門をくぐりぬけて既遂犯になるまで待っとったんかよ。ご苦労さんやな」
 そうして僕をあざけるように見おろした。
「囮に使われたな。気ぃついてへんかったか?ええ?」
「いいかげん静かにせんか」
 男の人たちのひとり……若い刑事が雑草をかきわけてこちらに近づこうとした。
 江坂は無造作に僕の腕をねじった。
 痛みから反射的に逃れようとしたが、動きを封じられてどっと汗が噴き出した。
「こら!」
 つかみかかってきた刑事の手を、江坂は僕の腕をてこの支点にしてさっとかわし、素早く足技を使った。
 刑事は脛を払われて転倒し、頭を雑草の茂みにつっこんだ。
「ああっ」
 肘に激痛が走り、僕はもうなりふり構わずに悲鳴をあげていた。
「あーあ、無理な運動さすから、また坊やを痛い目にあわしてもたやんか」
 頭の芯がどくどくと脈打ち、目の奥がしびれてきた。気を失うまいと必死で考えをめぐらせた。見慣れた身体の動き。キアと同じ技だ。こいつも多聞さんの弟子なんだ。
「かわいそうになあ。恨むんならお前に目ぇつけた刑事やでえ」
 江坂は僕の腕をひっぱりあげて無理やり立ちあがらせた。
 堂島さんが熊のようにうなった。
「まだ逃げられる思ぅとんのか。往生際の悪い……」
 江坂は世間話でもしているみたいにへらへら笑いながら、僕の指に指をからめた。
「俺をとりおさえるまでに、こいつの指が何本折れるか賭けてみるか?」
 堂島さんは両手を中段に構えてじりじりと間合いを詰めてきた。
 江坂は僕を楯にしながら、そろりと体勢を整えた。
 空き地の外からどたどたと足音がした。宇多野先生ともうひとりの刑事がもつれあいながらなだれ込んできた。
「気安くさわるな!まだ同行するとは言ってないからな!名誉毀損と不当逮捕で訴えてや……」
 宇多野先生はそこで江坂に気づき、血走った目を見開いた。
「どうして……あんたがここに……」
 つぶやいたまま、がくんと顎を落として腰をぬかしそうになった。
 江坂がいらっと眉をひそめた。
 僕のぼやけた視界のすみを黒い影が走った。目の錯覚ではなかった。影は僕のすぐ横で跳躍し、江坂の頭に覆いかぶさった。
 江坂はくぐもった声をあげ、僕を突き放して影に手をかけた。
 影は江坂の首にしがみついたままくるりと背中にまわり、足をからめて脇をしめあげた。
 僕は茂みにへたり込み、腹を折って息を吐いた。肘の関節をはずされたと思っていたが、痛みは嘘のようにひいていた。
 江坂は影を……キアをふりほどこうとして前のめりに転がった。地面にたたきつけられても離れないとわかると、身を起こしてクロマツの木の幹に背中から体当たりした。
 キアの頭のあたりでごつっ、ごつっと鈍い音が何度も響き、樹皮のかけらが飛び散った。
 僕は大声をあげて走り寄ろうとしたが、堂島さんに腕をつかまれてつんのめった。
「ぼけっとしとらんと、止めんかい!」
 堂島さんの一喝で刑事たちがわっと二人に群がり、もろともに押し倒した。
 江坂が両手両足を捕まえられたとわかって、キアはようやく腕をゆるめた。
「この坊主どこからわいて出た……うえっ……」
 肩で息をしているキアをひきはがした刑事が素っ頓狂な声をあげた。僕と別れた時に身に着けていた服のまま……。どろどろに汚れたカッターは、あちこち裂けて乾いた赤茶色の染みをつけていた。よじれたスラックスからのびた素足は砂利まみれ。右手首にはきつく結ばれたロープ。左手首には無数の擦り傷と縄目の痕。
 僕はことばにならない声でわめきながら堂島さんの手をふりほどき、キアに駆け寄った。
 江坂は刑事に腕をつかまれてしおらしく立ち上がったかにみえた。その刑事の足がふわっと浮いて空に向いた。すっころがった同僚をもうひとりが支えようとして膝裏を突かれ、折り重なるように倒れた。二人を踏み台にして江坂がダッシュした。
 退路の先に僕が走りこんでしまった。ほとんど真正面からぶつかって跳ねとばされ、頭から地面にたたきつけられた。
 キアが雄叫びをあげ、スズメバチのように江坂に突進した。
 江坂は蹴りこまれた足を片手でいなしてその勢いで投げをうった。キアはくるりと後転して踏みとどまり、またも江坂の懐にとびこんだ。
 二人は抱き合うようにからみあったままごろごろと横転した。
 僕は額をおさえて立ちあがりかけたが、足元がふらついてすぐに膝を折ってしまった。うつむいた頭の上を、ひゅっと風を切って何かがかすめ飛んでいった。
 下になった江坂に喉輪をかまされてキアが上体をおこした。その肩あたりでぎらりと何かが光った。
 カッターシャツの身頃がまっすぐに切れてめくれあがった、と思うまもなく真っ赤に染まって垂れ下がった。キアの肩に冷たい金属の刃が生えていた。
 キアは叫びそうに大きく口をあけたが、すぐに歯をくいしばって悲鳴を呑みこんだ。
 江坂の両腕をつかんだ手もゆるめなかった。
 傷からあふれ出た暗赤色の血が江坂の頬にぼたぼたとしたたり落ちた。
「だぼくれが……離さんかい!」
 江坂の顔がひきつった。こんなに焦ったやつを見るのは初めてだった。
「俺がばらすんはお前やない……」
 江坂は両足を大きく振って背中を弓なりにはずませ、身体を起こした。押し返されたキアの肩から諸刃のナイフがはずれ落ち、開いた傷口からさらにおびただしい血が流れ出した。
 それでもキアは江坂の腕を離さなかった。
「えらいとばっちりや。迷惑やで!」
 しびれたように身動きできなくなっていた僕は、背後の騒ぎで我に返った。
 千林が刑事のひとりに片腕をつかまれ、両足を地面にひきずったまま引き立てられて来るところだった。
「違うんだ。烏丸を脅そうとしただけで……嘘だろ。まさか本当に刺さるなんて……」
「あほう!こんな得物使うて、いいわけできるか!」
 僕はよろけながら歩きだした。
 刑事の怒号と金属のがちゃがちゃぶつかりあう音を背に聞きながら。腰を抜かして大口を開けている宇多野先生の前を通り過ぎ。
 江坂の腕にくいこんだ指を無理やりはがそうとしている刑事の横から身体をすべりこませてキアの背中をそっと抱きかかえた。
「もう、いいんだ。僕は大丈夫だから。お願いだから。もう楽にして……」
 傷口を押さえた僕の左手に、キアの右手がのせられた。
 手首にはロープが食い込んだまま。黒ずんだ指先は皮がめくれ、爪がはがれて血がにじんでいた。
 縛りあげられた状態をなんとか自分でほどいたのだ。
 頬を熱い水が伝って擦り傷にしみ、視界がぼやけた。
 ぐったりと寄りかかってきたキアの身体は爬虫類のようにひんやりしていた。僕を見上げた目は膜がかかったように焦点がさだまらず、顔色は紙のように白かった。
 皆が急に黙りこくった空き地でまたカネタタキが鳴きだした。僕の心臓の鼓動はその音よりずっと早くなっていた。
「おい……しっかりしろよ……」
 キアの身体が急に重みを増して、ずるずると僕の腕のなかからずり落ちそうになった。
「……葺合……キア!……しげるぅぅ!」
 僕の絶叫が合図だったかのように、周囲の人達が一斉に動き出した。
 声を限りに叫び続けながら、僕の頭の中も真っ白になっていって……。
 パトカーと救急車のサイレンの音を聞いたと思ったのはもう、現実なのか空耳だったのかもわからなくなっていった。


前へ 次へ
第七章 エンマコオロギ (1) に戻る