プロローグ :第一章 モンシデムシ :第二章 ヒラタクワガタ :第三章 フンコロガシ :第四章 クマゼミ :第五章 アキアカネ :第六章 ヒラタシデムシ :第七章 エンマコオロギ :第八章 カネタタキ :第九章 ミノムシ :エピローグ :

第二章 ヒラタクワガタ (1)

前へ 次へ

2003/05/22 Thu.

 中間考査が始まった。
 今週になって僕は葺合と直接話をしていない。後を追いかけたり捜したりするのもやめていた。
 彼は相変わらず誰とも親しくならず、昼休みや放課後にはすいと姿を消してしまう。
 常盤の流す噂話に興味をもつ者はだんだん減っていた。
 校長室に来客があったこと。たぶん教育委員会だか補導センターだかで、西中の近隣住民から生徒の素行について苦情がはいったらしいこと。
 宇多野先生が教卓に放り出していた出席簿には、いつのまにか「葺合滋(しげる)」の名前が書き足されていた。
 校内の事情をほじくり返されるのがよほどいやだったのか。職員会議はさっさと彼の区域外就学を認めたらしい。
 クラスの女子が別の情報を持ってきた。
「もともとうちの県住におった人が昔別れたお父さんやねんて。いつのまに転がり込んできたんかわからへんけど。管理の人がぶうぶう言うてたわ」
 西中在校生の推定二割は離婚家庭の子だ。種明かしがされたことで、みんなの好奇心は急速に薄れていった。
 売布や茨城も何もしかけてこなかった。

 試験は十一時前に終了した。僕は通用門から学校を出た。田植えの始まった水田のあぜ道で深呼吸をし、青池に向かった。
 母さんには「放課後も図書室で勉強したいから」と理由をつけて、普段通りに弁当を用意してもらっていた。
 
 今週から始めた新しい日課。今までより少しだけ早起きして青池にたち寄ること。
 祠にゆで卵やチーズ、果物などのお供えをする。その上には、先週末神部市で買ってきたポリ袋を裁断してかぶせてやる。「カラスの視覚を混乱させる」という触れ込みの、紫外線を通さないフィルムだ。両手をあわせてから登校し、放課後にはクロスを回収に行く。
 月曜日にはどうなることかとどきどきしながら見に行った。食べ物はきれいになくなり、クロスとフィルムは畳んで置かれていた。火曜日も水曜日も同じだった。
 昨日の午後から今朝にかけて雨が降った。今日の池は水かさを増し、川から流れた空き缶をためこんでいるだろう。そろそろ何かを期待していいかもしれない。

 まだ離れたところから池のほとりに目をこらした。空き缶拾いをしている人影を見つけたときには胸が高鳴った。しかし、近づいてみるとそれは葺合ではなかった。
 いや、中学生でさえなかった。見覚えのある鉤つきの竿をあやつっていたのは、大人の男の人だった。
 はじめ六十歳を越えて見えたのは、渋を塗ったように固くしわだらけの肌のせいだろうか。ぺらぺらの黄色いTシャツに赤いチェックの綿シャツを重ね着して、首には温泉旅館のロゴのはいった手ぬぐいを巻きつけていた。縞柄の野球帽はひさしの端がほころびて芯のボール紙がはみだしていた。
 男の人は呆然とたちすくんだ僕を振り向いて目をすがめた。竿を置いて大儀そうに腰をのばし、ズボンの尻ポケットからたばこの箱と百円ライターをひっぱりだした。
 いがらっぽい煙の筋が流れてきた。僕は制服の袖で目元をぬぐった。
 男の人は手すりにもたれてたばこをくゆらしながら空を見上げた。身長は僕とさほどかわらない。もしかしたら父さんと同世代かもしれない。
 小島の祠の前には昨日一昨日と同じように畳んだクロスが置かれていた。
「ここんとこお参りしてくれとんは、坊け。」
 しわがれ声で話しかけられて、こくんと頭を下げた。
「お供えの後かたづけは……おじさんがしてくれてたんですか」
「わいは竜神さんの神主や」
 男の人はすまして言った。
「カラスや猫がたかる前に掃除したっとう。こんなビニールかぶせても屁のつっぱりにもならんさけな」
「今までお会いしたこと、なかったですよね」
「野暮用で十日ほど留守しとってん。その間にこっちに通うようになったんけ」
「はあ……」
 僕はふわふわした足取りで小島にかかる橋を渡った。クロスを鞄におさめて、そのまま祠の前にすとんとしゃがみこんだ。
「……お世話をかけました」
「礼を言うのはこっちやろな。けど、朝からチーズやらソーセージやらは胃にもたれるわ。この歳になるとな。次からはミカンだけでええで」
 男の人は指が火傷するぎりぎりまで吸ったタバコを地面に落としてゴム長で踏み消した。
「そいで、神さんには何をお願いした?青池の竜神さんの御利益は確かやで」
「お願いですか……」
 僕は願いごとをしていたのか。何を期待していたんだろうか。
 頭の中は脳味噌が気化してしまったみたいにからっぽで、ちゃんと機能している実感がなくなっていた。
 膝をかかえて見下ろした水面がじんわりとにじんだ。もう一度ごしごしと目をこすった。水面に映ったクロマツの影が風にゆらいだ。さわさわと柔らかい葉ずれの音が降ってきた。
 木の影をぼんやりと眺めるうちに、茂みに隠れるように何かがいるのに気がついた。はじめはカラスかと思ったが、もっと大きいようだ。
 影からたどってゆっくりと顔をあげた。池の外周からは見えない角度。クロマツの太い枝の上に葺合がいた。片膝をたてて顎をのせ、ゴルフ場のある小山のあたりを眺めていた。また風が吹いて、ざんばらに切られた前髪をなびかせた。
 葺合は置物のように動かなかった。そのまま何分ぐらいじっとしていただろう。
 葉ずれの音にヒヨドリのさえずりがかさなった。
 僕が立ち上がったのにあわせるように、葺合も枝の上で身じろぎした。自分の背丈より高いところから無造作に飛び降りてかろやかに着地した。僕など目に入っていないみたいに、つかつかと祠に歩み寄り、格子戸を開いて片手をつっこんだ。
 遠慮のかけらもない動作にどきりとした。ご本尊の横から引っ張り出されたのは白いレジ袋だ。確かに食べ物の隠し場所としては一番安全かも知れない。
 葺合はそれを持って、水辺の手すりにひょいと尻を載せた。両足をぶらぶらさせながら袋から市販品のサンドイッチをつかみ出した。
 僕も並んで座ろうとしたが、手すりは中途半端な高さで足が地面に届かない。落ちないようにバランスをとるのがやっとで、弁当をひろげるどころでなかった。
 あきらめて葺合の足元に腰をおろした。
 目の前で揺れているレジ袋は近くの農協直営スーパーのものだ。値引きシールを貼ったサンドイッチがもう一袋はいっていた。閉店直前のタイムセールで買ったのだとしたら、昨夜のうちに消費期限を過ぎてしまっているはずだが。
 僕は弁当箱の蓋に卵焼きとキンピラを載せて持ち上げた。
 葺合はそれを無視して、僕の鼻先にサンドイッチを一切れ、突きだした。
 黙って受け取ってかぶりついた。レタスがしなびて、パンがちょっとぱさぱさしていた。
 葺合はサンドイッチが僕の腹におさまるのを見届けて、かすかに息を吐いた。
 そうして僕がずっと捧げ持っていた弁当箱の蓋を手にとり、卵焼きをつまみあげて口に放り込んだ。
 少し間をおいて、今度はキンピラに手を伸ばした。細切りのニンジンとゴボウをきれいにさらえて、名残惜しそうに指についた汁をなめた。
「もっと食べる?」
 僕の申し出には首を横に振り、目をそらしたまま前髪をかきあげた。
 何か言おうとしたのだろうか。開きかけた口をすぐに閉じて、への字にまげた。少し首をかしげ、また動かなくなった。
 そっと見上げて葺合の顔をのぞきこんだ。一瞬、その目が潤んでいるように見えて焦った。すぐに気のせいだとわかったけど。

 野球帽のおじさんは対岸で火箸とバケツを持って吸い殻拾いをしていた。葺合が食べ終わるのを見計らって島に渡ってきた。二本目のタバコをくわえながら、鉤つき竿を放り出した。
「ほれ。缶拾いかわれ」
 葺合が口をとがらせた。
「『この池はわいのショバや』言うて、ひとの道具まきあげとって、勝手ぬかすな」
「肉体労働は加減せんとやっとれん。年寄りをいたわれ。もうちぃとしたら、もっと部のええ仕事世話したるけ」
「自分の仕事もようみつけんとって、あてになるか」
「わいはここの神主や言うとろうが」
 おじさんはタバコを舌にはりつけたまま、へらっと笑った。
「お前には住所と電話と体力があるやろ。よそ様に使われて人生経験してこい」
「くそ爺ぃが」
 罵り言葉のはずなのに、なんだか間の抜けた口調だったので、ちょっと笑ってしまった。そんな僕を見て、葺合も少しほっとしたようだ。
「……お父さん?」
「アホぬかせ」
 弁当箱の蓋で、こつんと頭をたたかれた。
 痛くはなかったけど、びっくりして箸を落としそうになった。
 おじさんがのけぞって、けらけらと笑った。
「しゃあないな」
 葺合は手すりからぴょんと降りたって竿を拾った。僕も弁当箱を鞄に片づけてズボンをはたいた。仕事のじゃまはしたくなかったし、これ以上気を遣わせたくもなかった。
「帰るよ」
 歩きだした僕の背後でおじさんの声がした。
「ほれ、挨拶くらいせんかい」
「うっさいわ」
 振り向いて軽く手を振った。
 葺合も肩まで片手をあげかけてすぐに横を向いた。
 それだけで十分だと思った。
 国道につながるあぜ道を歩きながら、ふと思った。
 彼は中間テストの勉強をしていないんだろうか。


前へ 次へ
第一章 モンシデムシ (1) に戻る