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第三章 フンコロガシ (1)

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2003/06/02 Mon.

 僕と葺合は始業三十分前に教室に乗り込んだ。
 少し遅れて入ってきた御影が
「おはよう……」
と言いかけて、けげんそうに僕らの制服を見た。
 ほとんどの生徒たちは今日を待ちかねたように夏服に衣替えしていた。開襟シャツを用意していなかったらしい数名も、重い上着を脱いでカッターシャツ姿になっていた。
 教室中にあふれる白のなかで、僕ら二人だけが真っ黒い詰襟のままだった。
 最後列の自席に座った葺合のさらに後ろの壁にもたれて、僕は登校してくる連中をカウントアップした。

 五月最後の週末は梅雨の前触れのような雨だった。
 青池の祠のお供えは土曜日も日曜日も手つかずのまま。今朝回収したナツミカンの皮にはムクドリだかヒヨドリだかのくちばしが穴をあけていた。
 土曜日には明智市消防本部に行って泣き落としを試みた。救急隊員は楠さんをどこの病院に運んだかなんて教えてくれなかった。金曜日の夜、西分署にどなりこんだ中学生が、剣もほろろに追い返された話は聞けたけど。
 帰り道の旧街道で葺合とすれちがった。
 葺合はだぶだぶの雨合羽を着込み、ペダルの重そうなごつい自転車にまたがって新聞配達の真っ最中だった。
 楠さんが災難にあう直前に瀬戸日日新聞の販売店を紹介してくれたのだそうだ。そこの店長は勧誘が強引なので評判はよくないけど、葺合のぶっきらぼうな態度もとやかく言わないらしい。

 日曜日の朝に青池でおちあった。
 僕らのほかには池のほとりに人影もなく、あたりはしんとして国道の騒音も遠い。降る雨が葉を打つ音ばかり聞こえるせいで、静けさがよけいに身にしみる。そこにいない人のことがいやでも思い出される。
 葺合は寂しげな祠の前に立って、雨合羽のフードをひっぱった。
「……『救急車なんか呼ぶな』て最後まで言うとった。いっぺん根をあげたら、二度とここで暮らせんようなるて」
「楠さんは誰にも迷惑かけてない」
「あちこち身体悪うして、ろくに働けんようになっとった。病院につかまったら最後、役所につきだされて身動きとれんようになる、てな」
「病気を治してから好きに暮らせばいいじゃないか」
「治療代踏み倒してか?」
 ぐずぐず言いながら自分でもむなしくなった。
 そもそも楠正成というのが本名だとも思えない。今になって、僕らは楠さんのことを何も知らなかったと知ってしまった。

 始業十五分前、住之江も登校してきた。僕らをみつけて、うれしそうに手を振ってくれた。体調は悪くなさそうだ。金曜日のことはもう気にしていないのか。
 始業十分前、ようやく千林が姿を現した。高井田と長居はいなかったが、観衆の数は足りている。
 僕は制服の裾をひっぱって姿勢をただし、わざとゆっくり教室を横切った。シロアリの巣に闖入したクロアリが一匹。常磐がぴんと耳をたてて僕に注目した。他の連中の目も十分にひきつけてから千林の前に立った。
 千林の顔は青ざめていたが、自分から口を開くほど間抜けではなかった。
 僕は胸ポケットから三つ折りのレポート用紙を取り出して千林に突きつけた。
「なんだよ、これ」
「書いてあることを確かめて欲しいから、読み上げてくれないかな」
 千林はしぶしぶ紙を受け取ってひろげた。
「『私こと烏丸聡は今学期の期末考査において、全教科、千林洋二さんよりも高得点を取ることを宣言します』……なんだよ、これ」
「読んでもらったとおりだよ。テストの点なんて、上げようと思えば簡単なんだって教えてやる」
 千林の顔が青黒くふくれた。
「できもしないこと、えらそうに吹くなよ」
 僕はわざと馬鹿にしたように笑って、後列の席に戻った。
 あとは周りで見ていた連中が適当に話を広めてくれるだろう。
 葺合の傍らを通り過ぎたときに低い声で聞かれた。
「これが、お前なりのやり方てか」
「あいつをへこませる一番確実な方法だ」
「勝ち目があると?」
「もちろん」
「お前ひとりで勝負するんか。俺はどうなるんや」
 喰いついてくれたね。心の中で親指を立てた。
「もうやり返す気はないって言ってたんじゃないの?」
「お前がやるんなら、話は別や」
 僕は葺合の耳に顔を近づけて二言三言ささやいた。
 葺合は目をまん丸に見開いたが、その場で聞き返してはこなかった。

2003/06/03 Tue.

 僕は午前七時に青池に着いた。
 試してみてわかったのだが、僕の大脳皮質は時刻にかかわらず目を覚ましてから二時間経過した頃に機能しはじめる性質らしい。そこから逆算して起床時間を決めれば予定にあわせた活動ができるということだ。
 そういうわけで今朝も五時起き。こんなに毎朝早起きを続けるのは生まれて初めての経験だ。

 住之江は先に来ていて、拾った葉っぱを池に放り込んで遊んでいた。
 七時五分。葺合は、いつも通りの軽快な足取りで現れた。
「ご苦労さん。バイトにはもう慣れたかい?」
「前にもやったことあるからな」
 汗ばんだTシャツを脱いでまるめてぎゅっぎゅっと身体を拭き、小島に置いていた制服に着替えはじめた。今日から夏服の開襟シャツだ。
 壬生先生がジャージと一緒に用意して、なんとか受けとらせるのに成功したのが昨日の放課後だった。
「しつこい女にからまれて仕事に遅れとなかっただけや」
 僕にはそう弁解したが、もともと女の人にはあんまり強い態度をとれないやつなんじゃないか。
「昨日話したあれ、持ってきてくれたかな」
「……」
 葺合はちょっと躊躇したが、覚悟を決めて通学鞄から一枚の紙を引っぱり出した。
 僕はそれを受け取って、上から下まで丹念に目を通した。その間、持ち主は居心地悪そうにそっぽを向いていた。
 不合格点をとった答案用紙なんて、ひとに見られて平気でおれるはずがない。申し訳ないけど、計画のためにはこの行程をとばせない。
 赤ペンでバッテンをいれられた答案の上に、青のマーカーでさらにチェックをいれていった。
「葺合くん、かけ算の九九、うろ覚えだろ」
「……えっ……ちょっ……」
「単純な計算問題なのに、まちがってるとこはほとんど同じパターンだ。七の段と九の段が一番怪しいな」
 葺合は目を白黒させながら口を開き、何も言えずにまた閉じた。
「小学生の時、転校か欠席か何かでちゃんと教えてもらえなかったんだろ。頭のできのせいじゃないよ」
「おおきなお世話や!なんでお前にそないなことで……」
「僕の計画のためだ。協力するって言っただろ」
 葺合の目をまっすぐに見据えた。からかっているわけでも嘲笑しているわけでもないとわかってもらえただろうか。
「僕のも」
 住之江がうれしそうに答案用紙を持ってきた。
「……住之江くんは同じ解き方を全問に使おうとしたね。もうちょっと問題をよく読まないとな。文章題は全滅か……」
「烏丸。何考えとんや」
「葺合くんと住之江くんの成績が上がれば、僕ひとりよりずっと効果的だ。千林に一泡吹かせてやれ」
「……」
「……あの程度のやつに見下されて黙ってることないんだよ」
「……簡単に言うな……」
 葺合は口をへの字にまげて横を向いてしまった。殴り倒されなかっただけめっけものかもしれない。
「いやならいいよ。僕ひとりでも……」
「誰がいやや言うた!」
 いきなりそばで大声を出されて、住之江がひくっと身を震わせた。
 僕はその肩をおさえて微笑んだ。
「怖がらなくていいよ。きみを怒鳴りつけたんじゃないからさ。じゃあ、今からこの先の予定について説明するよ……」

2003/06/14 Sat.

 数週間前の住之江そっくりに、僕は旧校舎前の草むらをうろうろ歩きまわっていた。
 葺合、住之江とあと二、三名の生徒が旧校舎一階の学習指導室に呼び出されていた。安土先生が到着したのは一時過ぎ。もうすぐ三時になるというのに、部屋からはまだ誰も出てこない。
 そもそも公立中学校の一年生に追試を課すなんて発想がどうかしてるのだ。他の教科はおろか、安土先生以外の数学教師だって、こんなことしちゃいない。
 しびれを切らしてトイレに行ってこようかと考えはじめたところで、生徒たちがばらばらと旧校舎から退出してきた。
 葺合はすぐに僕をみつけて群れを離れた。住之江の姿は見あたらない。
 目配せされて、そのまま青池へ脱出した。
 最近ますます色濃い緑色になってきた水のほとりで、葺合は背伸びをし、軽いため息をついた。
「住之江はまだ開放されてへん。合格点に足りんかったゆうてな」
「じゃあ、葺合くんは……」
 ポケットから出てきた小さく畳んだ紙が僕に手渡された。
「……すごいな。計算間違いがなくなった」
「わけのわからん問題もようさんあったけど」
「九九を覚え直しただけでも成果はでてるよ」
 この十日間、朝刊配達がすんでから登校までの一時間はこの場所がかけ算教室になっていた。
 今さら小学校低学年の算数を同級生に学ぶなんて屈辱だったと思う。葺合はよく辛抱してくれた。
 期末考査の範囲は一次方程式までだから、この調子で四則演算をおさえられればなんとか間に合うはずだ。それは明るい材料だが。
「住之江くんのほうはあんまり助けてあげられなかったんだな……」
 放課後の教室では住之江が塾に行くまでの時間、授業の復習につきあってきた。
実はこちらのほうが難物だった。彼に新しい解法をひとつ教えると、その前に覚えていた方法を使わなくなってしまうのだ。学習塾と教室で教え方がちょっと違っただけでも混乱してしまう。いっそ塾なんかやめてほしいとさえ思った。
「僕、戻って住之江くんを待つよ」
 もうすぐ新聞配達の仕事が始まる時間だ。葺合と別れてひとり学校へ引き返した。
 フェンスをくぐって草むらから首を伸ばしてみると、住之江が安土先生と並んで職員室に向かうところだった。
 ふたたび身を潜めて二人が見えなくなるのを待ち、今度はちゃんと正門から下校した。

 家に帰ると、母さんと勇が台所でおしゃべりに花を咲かせていた。
「サクランボいただいたんよ。山形産。すぐに食べる?」
「……今は、いい」
「月曜日のお弁当までは残ってないよぉ」
 勇が口から飛ばした種が、ゴミ箱を五センチほどはずれて床に落ちた。
 僕は種をまたいで二階にあがった。
 金魚に餌をやってから机に向かい、問題集をひらいた。

 クワガタ採集の日のごたごたについて、母さんからは「お友達のおうちの都合も考えなあかんよ」と言われただけだった。
 そのあと住之江に聞いたら、
「烏丸くんは優秀だから、お友達にしていいってママが言ってた」
 けろっとして応えてくれた。
 葺合とのつきあいについて「ママ」がなんと言ったかは怖くて聞けなかったが、本人はあまり深く考えていないようだ。
 たいしたお咎めがなくとも自重するにこしたことはない。
 僕は先週末の誕生祝いを辞退した。そろそろ家族パーティーも気恥ずかしくなってきていたのでいい機会だった。
 ご馳走を食べ損ねたと不満たらたらの妹をなだめるために、母さんは妥協案としてバースデーケーキだけ焼いてくれた。
「いつの間に甘いもんが嫌いになってもたんかしらねえ」
などと言いながら、どっさりとホイップクリームを載せて。

 僕はその後も自主的に午後五時帰宅を心掛けてきた。
 寝るまでの時間は自分の勉強にあてている。
 やるべきことは把握しているつもりだったが、一番の不安材料は自分の睡眠不足と体力だということもうすうす感じていた。


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