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第一章 モンシデムシ (1)

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2003/05/12 Mon.

「烏丸(からすま)ぁ。お前に会わしたいやつがおんのや」
 高井田(たかいだ)はそう言って、通学鞄をかかえた僕の背中を押した。脇には門真(かどま)が、ほとんど身体に触れそうなほどすり寄ってきていた。
 ふたりは示し合わせてSHR(ショートホームルーム)の終了を待ちかまえていたようだ。
 僕は黙って下を向いたまま、押されたほうに歩き出した。
 特に親しくもない同級生に、わけも聞かずに従うなんておかしいかもしれないが、断る理由をみつけるのも面倒だった。
 部活はしていなかったし、放課後の予定など何もはいっていない。
 下手に逆らって話をこじらせるほうが面倒だと自分に言い訳していた。
 僕らは中学校の通用門を出て、田んぼのあぜ道をしばらく歩いた。
 指定の下校路ではない。あたりには他の生徒の気配すらしない。
 泥土を踏む運動靴の音だけが耳についた。
 五分ほどして着いたのは大きなため池のほとりの小さな林だった。
 林と言ってもほっそりしたエノキやミズナラが十数本、なんとなくかたまってはえているだけだ。
「ここで待ってろ」
 そう言い残して高井田と門真は姿を消した。
 僕は林の一番端に立つエノキの幹にもたれてぼんやりとあたりを見渡した。
 初夏の午後、太陽は数分おきに雲間を出たりはいったりしている。
 少し風があるおかげで、日差しがきついわりに暑さは感じない。
 僕の右には池の土手。植物プランクトンが増殖して青緑色になった水面。池の真ん中には三畳敷くらいの小島があって、こじんまりした祠が建てられている。
 ここは地元では青池と呼ばれている。図書館でみつけた地域伝承の本に同じ名前の池が登場していた。竜が住んでいて時折暴れたという話だ。そこから誰かが思いついてここに水の神を祀ったのかもしれない。
 学校のプールよりちょっと大きい程度の水量だ。たかだか数メートルの水底に伝説の生きものが棲んでいるとは想像しにくかった。
 左手には田植え前の泥田。濁った水のなかを何かが泳いでいる。
 カブトエビのようだ。この辺はまだ農薬散布をすませていないのかな。
 田んぼをもっとよく見ようと身体をおこしたとき、小指の先くらいのムシが飛んできて鼻先をかすめた。
 黒と黄色のコントラストに、とっさにハチかと思った。思わず首をすくめたが、すぐに体型が違うと気がついた。
 ムシは羽音をたてて背後の林の奥へ消えた。
 木々の間をのぞきこむと、かすかな異臭がただよってきた。ひょっとしたら今のムシは……。僕はそろそろと林に踏み込んだ。
 においをたどって、地面を覆ったシダの葉陰を捜した。予想通り、ボロ雑巾のような毛皮のかたまりをみつけた。
 さっきハチのように見えたのは、つやつやした黒い前翅に黄色いマークをつけたシデムシだった。
 ネズミの死骸がもぞもぞ動いて見えるのは、つがいのムシが上を歩き、下にもぐりこみ、せっせと毛を抜いて餌の塊を埋めようと忙しく働いているからだ。
 モンシデムシは雄雌一緒に幼虫の世話をする珍しい甲虫だ。
 僕は生唾を飲み込んで身を乗り出した。予想もしなかった貴重な観察の機会だった。
 地面に膝をつき、息をつめてそろそろと作業場面ににじり寄った。
 死骸から飛び立ったニクバエが顔にとまりそうになったのを振り払ったところで、くぐもった笑い声が降ってきた。
 首だけ振り返るとセーラー服の女の子が林の入り口に立ちすくんでいた。
 名前は知らないけど顔には見覚えがあった。この四月に同じクラスになった子だ。
 鞄の取っ手をかたく握りしめた手が震えていた。
 僕と視線があって、口を開いたが声が出ない。
 頭の中はパニックになっているんだろう。
 女の子の後ろでは高井田と門真が肩をこづきあってにやにやしていた。
 おさげ髪のかかった頬が赤くなった。
 僕は立ち上がって膝の土汚れを払い、鞄を拾い上げた。
 目を伏せて女の子と男子たちの横をすりぬけた。すれちがいざま、高井田が肘で突いてきたが、たいした力ではなかった。無視してため池めざし足早に歩いた。
 僕さえいなくなれば、これ以上女の子をからかう必要もないだろう。
 他の連中が追ってこないことを確かめてから青池の小島にかかる木橋をわたり、みつからないように祠の裏手にまわった。

 ここ明智市には用水池が多い。市の南端は内海に面し、その海は東西に伸びた二連なりの山地にはさまれている。雲が山にさえぎられるので雨が少ない。平野部には戦後も水田や畑がたくさん残っていて、ため池も大事に管理されていた。
 ところが震災以降、神部市からたくさんの人たちが移り住み、ベッドタウンとして急激に開発が進んだ。
 田んぼをつぶして新興住宅地がひろがると、町中にぽつぽつと池が残る。小さな池は埋め立てられてさらにぎっちりと家が建っていく。大きな池は水利の使命を失い、フェンスで囲われて放置される。ゴミが投げ込まれるだの、子供が落ちたら危ないだの、後から住み着いた人たちが勝手に文句をつける。
 青池のように祠があって、わすかでもお参りの来る池なんて運のいい少数派だ。それでもゴミがまったく浮いていないわけではない。
 祠の陰で制服の上着を脱ぐと、思ったより強い異臭がこぼれた。詰襟をクロマツの枝にひっかけて、池をわたってくる風にさらした。
 ここで少し待って誰もいなくなったら、さっきの場所に戻ってネズミの埋められそうなあたりに目印を見つけておこう。幼虫は数日で孵るはずだから、シデムシの子育てを観察できるかもしれない。
 鞄から愛用のフィールドノートを取り出してメモをとろうとした。
 ふいに強い風が吹いて上着がはためいた。あわてて押さえつけようとしたら、手元から鉛筆がこぼれて池へころがり落ちてしまった。がっくりきたけど鉛筆は惜しい。未練たらしく水面を目で追った。
 鉛筆はぷかぷかと流れて、数十メートル離れた対岸に近づいていった。水面にうつる影がふいにゆらいだ。視線をあげると、岸辺に人が立っていた。あの辺りは水際まで藪がしげっていて道なんか通っていないのに、どうやって入り込んだんだろう。
 ほっそりした男の子。杢のTシャツに膝丈のカーゴパンツ。素足に履き古したスニーカー。
 近所の小学生にしては、見覚えのない顔。何の感情も読めない目。
 すっきりした一重のまぶたにかかる黒髪が風をはらんでさらさらと流れた。
 背景との遠近に違和感を覚えてよく見ると、彼は池の周囲に巡らされた鉄パイプ製の手すりの上に立っているのだった。
 パイプの径は物干竿くらいしかない。男の子は平らな地面を歩くように無造作にその上を渡っていった。
 力んだところなどかけらもないシンプルな動作なのに、身のこなしは猫のようにしなやかで優雅にさえ見えた。
 藪の切れ目まで進んだところで、男の子は不意に僕を振り向いた。ほんの一瞬、視線がまっすぐにぶつかった。彼はまた前を向いて、そこで軽やかに跳びあがって宙返りをした。平行棒競技の体操選手みたいにきれいな着地を決め、そのまま藪の向こうへ消えた。
 また強い風がふいて、宙に浮いた上着がぼけっと立っていた僕の顔にかぶさった。払いのけたときにはもう男の子はいなくなっていた。

 僕は半分夢見心地のまま帰路に就いた。
 トレーラーがびゅんびゅん行き交う国道から山手に折れて、ゆるい坂道を少しあがったところに僕の家がある。わりと早い時期に造成された高台の建売住宅なので、近所の雰囲気は比較的落ち着いている。
 玄関をあがると、リビングから目の前の廊下を横切って階段まで、スプーンでまいたような茶色いシミが点々と落ちていた。シミをたどって二階にあがり、僕の部屋のど真ん中を通ってベランダに出た。
 ベランダでは妹の勇(いさみ)がプランターの土をほじくっていた。
 僕は舌打ちして妹をにらんだ。
「勝手にひとの部屋にはいるなよ」
「だって、そこ通らないとベランダに出られないもん」
 勇はこっちを振り向こうともしない。
「出なくていいんだよ。土いじりなら庭でやりな」
「ベランダはお兄ちゃんのじゃないもん。お母さんもいいって言ったもん」
 まだ小学二年生のくせに理屈だけは一人前だ。
「汚したとこはちゃんと掃除しとけよ」
「ちょっと待ってよ。植え換えがまだ終わってないもん」
 僕は階段をかけおりて台所に向かって叫んだ。
「母さん!勇になんとか言ってよ!」
「はあい」
 エプロンで手をぬぐいながら出てきた母さんが、場違いに明るい声で返事した。
「おかえりぃ、聡(さとし)」
 僕がさらに文句をいう前に階段の下から妹に声をかけた。
「勇。ドーナツ揚がったよ」
 一拍おいて勇がどたどたと階段を駆け下りてきた。そのまま洗面所にとびこもうとするところへ母さんがにこにこしながら立ちふさがった。
「手を洗う前に、こぼした土を掃除してね」
 ぽんと雑巾を手渡されて、勇はぐうの音も出ず、すごすごと二階に戻っていった。
「聡も食べるでしょ」
「甘いものはいらない」
「カレー味のも作ってあるわよ」
「……さきに着替えてくる」
 部屋に戻ると入れ違いに勇があかんべーをして出て行った。
 たわいもないやりとり。どこにでもいそうな家族。
 適当に調子をあわせていれば、さざ波がたつ以上のトラブルもない。
 本当の考えを口に出そうとさえしなければ。
 着替えをすませて階下におりようとしたとき、玄関ドアの開く音が聞こえた。
「おかえりなさい。早かったわね。おなか、すいてはるかしら」
「いそがないよ。お嬢さんもすぐに晩飯は食べられんだろう」
「勇!一個にしときなさいって言ったでしょ!」
 僕は部屋のドアを閉めてベッドに腰をおろした。
 母さんや勇とちゃらちゃらつきあうのは難しいことじゃない。でも、あの人は……。
 父さんの側にいるのはどうしても落ちつかなかった。
 僕の「家族ごっこ」を見透かされている気がするからだろうか。
 部屋の隅に置いた水槽で金魚がぴちょん、と跳ねた。
 勇の友達が金魚すくいでもらってきた小赤は三匹。最初の状態が悪かったのか、あっという間に二匹死んでしまった。
 がらんとした六十センチ水槽の中、ひとりぼっちになった和金は僕がのぞき込むと口をぱくぱくさせて餌をねだった。
 体は小さくても生きる気力は満々だ。時々は食べ過ぎてちゃんと泳げなくなり、水面に浮き上がっていたりもするが、それくらい貪欲でなければ長生きできないのかもしれない。
 僕は金魚のおねだりを無視して、母さんがもう一度声をかけてくるより先に階段を降りた。


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