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エピローグ

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2008/12/13 Sat.

 僕は約束の時間よりかなり早めに青池に到着した。昼下がりの空は気持ちよく晴れて、明るい青色の背景に絵筆で掃いたような薄い雲が浮かんでいた。
 駐輪場の管理人室に声をかけると、すぐにフェンスの鍵を貸してもらえた。事前の相談ですんなり話が通ったのは北野清子さんのおかげだ。
 祠の前までぶらぶらと歩き、すぐには鍵を開けずに客を待った。通路のアスファルトはあちこちひび割れて、ノゲシやオオバコのロゼットがはびこっていた。
 しばらくして、暗赤色のエスティマが坂の下の駐車場に停車した。キアが真っ先に助手席から降りて後ろにまわり、荷物室から車いすをひっぱり出した。その間に後部座席のひとつがリモートコントロールでしずしずと回転し、小柄な老人を地面までそろそろと降ろした。
 反対側のドアから出てきたのは痩せぎすの背の高い老人だった。ステッキをつきながらも元気な足取りで、他の乗客を待たずにひとり階段を上ってきた。
「はじめまして。我孫子さんですね」
 僕が挨拶すると、老人もソフト帽にちょいと手をあてて、きどった会釈をかえした。ツイードのジャケットは着古されて襟がすり切れていたが、元はきちんとしたオーダーメイド品だろう。
「烏丸くんですか。なるほど、なるほど。ここがそうなんですなあ」
 我孫子さんは青池をながめ、池からなだらかに続く南側の坂道をながめ、北側に遠くかすむ山々をながめて、感心したように何度もうなずいた。僕はフェンスの出入り口をくぐり、祠の前戸を開けて菓子折りをお供えした。とりあえず、ふたり並んで柏手を打った。
 座席を収納したエスティマから、最後に冬子さんが降り立った。ドアのロックを確かめると、ショートブーツの靴音も軽やかに階段を駆け上ってきた。長い髪を明るい栗色に染めたからだろうか。夏頃よりずいぶん顔色もよく、溌剌とした印象だ。
 キアは清子さんの車いすを押して、スロープをゆっくりとあがってくるところだった。
 我孫子さんは両手を広げて冬子さんににこにこと笑いかけた。
「あの爺さんのホラ話に多少でも真実がまじっておったとはねえ。お社が小島にないことをのぞけば、聞かされたとおりですよ、ここは」
「楠さんのことですね」
「病院では別の名前を使っとられましたよ。二、三年前にほんの数週間ご一緒しただけでしたが。私は退院、あっちは病棟を移ってしまったからね」
「それでよく僕らが捜していた人だとわかりましたね」
「なにしろ、めちゃめちゃ話がおもしろいんで有名人でしたな。自分は警察の囮捜査に協力していた秘密潜入員だったとか、某流行作家のゴーストライターだとか、大まじめでしゃべり続けるんですから」
 楠さんの人を食ったような澄まし顔を思い浮かべて、ちょっとだけせつなくなった。
「そんな話のなかに、『わしは明智の竜神に仕える神主やった』と言うのもありまして。北野さんがその土地の人と聞いてお話ししたら、たいそう興味をもっていただいて。しかしあなた、その神主の仕事というのがタツノオトシゴを二匹世話することだったとか」
 冬子さんが笑った。
「それを言うなら、竜の申し子と違いますのん」
「さて、こまかいことは私も覚えてませんな」
「その病院に今も入院しておられるかもしれないんですね。僕、行ってみます」
 僕が脳天気に明るく見えたのか、我孫子さんは首をかしげて思案げに顎をしごいた。
「結核病院の慢性期病棟ですからね。確かにまだ入院されてるかも知らんが……もしかしたら……」
「会いに行きます」
 僕は老人に向かってきっぱりと言った。
「楠さんの物語を最後まで確かめに行くのが僕らの役目だと思うんです」
 しばらくは誰も何も言わなかった。やわらかな風が水面をわたって、さわさわと細かな波をたてた。
 キアと清子さんがようやく追いついた。
 油染みだらけの作業服を着た若者と、紬の袷の襟を凛とたてた老婦人。普通ならありそうもないとりあわせなのに、不思議としっくり絵になった。
 僕は我孫子さんから二人に向きなおって親指をたてた。
 キアはわかったというように軽くうなずいた。
 水源池の事故の後も、一緒に西中に通うようになってからも、紆余曲折はあった。それでもいろんな人に出会って助けられて、今は二人ここにこうして立っていられる。もとをたどれば楠さんのおかげで繋ぎあわされた運命だ。どんな状況が待っていようと、僕らなりの返礼はきちんとしておきたかった。
 そうしてもしも僕らの訪問が間に合って、また三人で話をすることができたなら。
 その時には聞かせてもらおう。ため池のほとりで出会った少年たちのことを。

                                          (了)


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