第七章 エンマコオロギ (2)
2003/10/01 Wed. 12:40
旧校舎の角をまがってグラウンドに出た僕らは、そこでいきなり日常的な光景を目にしてぽかんと口をあけた。
月に一度の全校集会そのままに、生徒達がクラスごとに集められていた。教師達に囲まれ、だらだらと身体をゆすりながら、かろうじて列らしきものをつくっていた。
いつもの集会と違うのは、本館前に二台の消防車が赤いライトを点滅させたまま駐車しているのと、そこいら中を何人もの消防士たちがせかせかと動きまわっていることだった。
僕らはその場に立ちすくみ、全校生徒の注目を集めてしまった。
みんなの目つきを見て自分たちの格好に気がついた。
キアの顔は黒い煤だらけ、制服は灰をかぶって黒白のまだらになっていた。僕は胸から腹まで泥土にまみれ、ちぎれた葉と草の種を髪にくっつけたままだった。
「お前ら、今までどこにかくれとった。放送を聞いてへんかったんか」
伏見先生がどなった。
「ラブラブしとって気ぃつきませんでしたぁ」
上級生の誰かのあざけりに、どっと笑い声がわいた。
教頭と並んで立っていた制服姿の消防士が、つかつかと近寄ってきた。
「君たち、大丈夫か。けがはないか」
教頭が小走りに追いついてきた。
「生徒の体調は学校で把握します。すぐに養護教諭が……」
最後まで言えずに、もごもごとことばを濁した。壬生先生の後釜はまだ赴任しておらず、保健室は鍵をかけたまま放置されている。
消防士は疑わしげな目で問いかけた。
「在校者全員の点呼は済んだ、とうかがっていましたが」
教頭は大掃除の後でゴミをみつけられた生徒みたいな顔をした。
「宇多野先生!あなたのクラスでしょうが!」
教頭に呼びつけられた宇多野先生は大儀そうに歩いてきたものの、視線は中空を漂っていた。あらぬほうを向いてぶつぶつ独り言をくりだす先生を見て、消防士は頭を横に振った。
「本当にもう、行方不明者はいないんですね。校内にいる生徒は全員把握できているんですね」
「当然です」
よく言うよ。普段の集会もそうだが、生徒の出席率は八割にもならない。
さっきまで立ちのぼっていた煙がそのまま色を染めたような曇り空から、とうとう雨が降り出した。生徒達は吹き降りにせき立てられるように教室に戻った。
「ホームルームが終了したらすぐに帰宅するように」
教頭の声などもう誰も聞いてなかった。
一年C組の教室にはいると、宇多野先生の目がようやく焦点を結んだ。
先生は不機嫌そうに出席簿を開き、生徒達の点呼を始めた。
「荒田。有野。伊吹。岩岡。魚崎……」
生徒の返事があってもなくても、かまわず同じペースで読み続けた。
「……花山。稗田。平野。葺合……葺合。立て。こっちに来い」
黙って前へ出たキアに向かって、先生が声を荒げた。
「火災報知機を鳴らしたのはお前だってな」
出席簿の縁を顎の下につっこまれても、キアは顔をあげることを拒み、醒めた目だけを先生に向けた。
「指示もないのに勝手に行動しおって。騒ぎを無駄に大きくしてくれたな」
とんでもない言いがかりだ。これにはさすがに他の生徒たちも不満げにざわめいた。
なかのひとりの声が大きめに響いた。
「報知器が早う鳴ったおかげで、被害がひどならんですんだんちゃうんか」
宇多野先生は血管の浮いた白目をぐりっとめぐらして生徒たちをにらんだ。
「誰だ。今ほざいたのはどいつだ」
生徒たちは決まり悪そうにちらちらとお互いの顔をうかがった。
先生は出席簿を両手でつかんで縦にみしみしと折り曲げた。誰も名乗り出る者がいないとわかると、台紙にひびのはいった出席簿でばしっと机を叩いた。
教室は水を打ったようにしんとした。
みんなの後ろに隠れて、うつむいた常盤が目に入った。血の気のひいた横顔が震えていた。
僕は大きく息を吸い、短く吐いてからキアの一歩前へ進み出た。
「お前の声じゃあなかった」
なじるように言われて肩をすくめた。
「言いたかったことは同じです。口に出そうとしたら先を越されただけで……」
いきなり頬に打撃を受けてよろめいた。キアの腕がさっと伸びて倒れかけた僕を支えてくれた。その腕をしっかりとつかんで心で念じた。頼むからそれ以上は動くな。今は何も言うな。
舌に鉄の味がした。唇をぬぐうと、指に薄い血のすじがついた。
宇多野先生は今の一撃で完全にふたつに割れてしまった出席簿を教卓に放り投げた。
「今日はこれで終了だ。部活も中止。全員すぐに帰れ」
僕は話しかけてこようとしたキアの手をそっとほどいて席に戻った。
部屋を出て行った教師の足音は窓をたたく雨と風の音にかき消された。生徒たちはおたおたと帰り支度を始めたが、誰もが動揺を隠せなかった。
僕の真後ろで、女子生徒たちが額をくっつけあって早口でしゃべっていた。
「バリやばいよ。さっきのウタノンの目ぇ見た?マジでプッツン来てもとうよ」
「あたしら、いったいどないなるん?」
「親に言うてみる?」
「無理!他の先生に言うたかて何もしてくれへん。おタマは病院やし」
「そやな。ちくったてバレたら、何されるかわかれへん」
「目立たんように頭下げとかな」
「もう、誰かがいらんことしてキレさすから、ええ迷惑!」
背中に女の子たちの冷たい視線を感じた。
教室を見まわしてキアがもういないことを確かめた。今の話を聞かれずにすんで良かったと思うべきか。事態は僕の願いもむなしく、ますますこんぐらがっていく一方だ。
暴風雨警報が発令されたのは全校生徒が下校してしまってからだった。
横なぐりの雨に傘は何の役にも立たず、家に帰りつく頃にはスラックスの膝から下がぐずぐずに濡れていた。
母さんは泥んこになったカッターを僕から受け取って、いつになく心配そうな顔をした。
「なんか、大変やったみたいね」
「火事と地震と台風のトリプルトラブルだからね。冬服の上着を着て行かなくて良カッター、なんちゃって」
べたな駄洒落にも普段のように軽くのってきてはくれなかった。
「担任の先生からお電話もろたわよ」
それで家の中まで雲行きがあやしかったのか。何も無かったとごまかしても母さんは納得しないだろう。
「友達がどこに行ったかわかんなくなったり、先生がケガしたり、いろいろあったんだ。それで避難の集合に遅れてみんなに迷惑かけちゃった。先生、怒ってただろ?」
「まあ……ね。先生もかなりお疲れみたいやったけど……」
「心配かけて、ごめんなさい」
息子がさっさと頭をさげたので、母さんもそれ以上つっこむのをためらった。僕はなんとか話題を変えられないかと思案しながら食べ損ねた弁当を鞄から取り出した。そこで食卓に置かれた大きな紙箱に気がついた。
「へえ、見つかったんだ。洋服」
蓋を開けて薄紙をめくると、すっきりした仕立ての女物スーツが現れた。落ち着いた青磁色の生地がクリーム色の包装紙に映えて、部屋の中がほんのりと明るくなった。
母さんが思わず顔をほころばせた。
「店長さんが卸屋さんまでわざわざ探しに行ってくれはったんよ。どうしてもその色のサイズのあうのが欲しいてわがまま言うたら」
「旅行に間に合ってよかったじゃない。もう今週末だろ」
「……お天気が心配やけど」
「大丈夫だよ。この台風が通り過ぎれば、すっきり秋晴れだ」
玄関からどたどたと元気な足音が聞こえた。
「えーっ、なんでお兄ちゃんのほうが先に帰ってるのぉ?ずっるーい!」
「勇!ランドセルはお玄関に置いて、すぐにお風呂場にはいりなさい!」
僕よりもずぶ濡れになって帰ってきた妹のおかげで、その場はお茶を濁すことができた。
遅い昼食を終えて自分の部屋にひきあげた。地震のせいか、金魚が水槽のなかを落ちつきなく泳ぎまわっていた。いつもなら餌をねだってぱくぱく口を開けてくるのに。今日は僕がのぞきこんでも、まるでそっけなかった。
ベッドに寝転がって天井を見上げた。火事と緊急下校の通知が連絡網で流れることまでは予想していたが、宇多野先生がわざわざ電話してくるとは思わなかった。ひょっとしたら、キアの父親にも連絡を?
言いようのない不安を覚えてベッドから身を起こした。すぐにでもキアの家を訪ねたくなったが、この天気に校区のはずれまで出かけるなんて言い出したら、母さんにまた問いただされてしまう。
ぐずぐずと悩んでいると、父さんから電話がはいった。JRの線路が倒木でふさがれ、運行を停止しているそうだ。母さんが駅まで迎えの車を出した。その隙に僕は家を抜け出し、傘を飛ばされそうになりながら最寄りの公衆電話ボックスまで歩いた。堂島さんはちゃんと電話に出てくれた。
今日の学校での出来事をかいつまんで説明した。刑事さんは既に消防署の初期調査の概要をつかんでいた。
「火の元は家庭科室。スプリンクラーはちょいと前の調理実習で誤作動してから解除したままやったらしい」
「玉出先生は……」
「運ばれたけが人は二人。その教師と住之江っちゅう生徒が軽い火傷でな。どちらも避難時の負傷てことになっとる」
「それで済むんですか?」
「済まんやろな。消防には今までのしがらみが無い。学校の対応には、まじで腹たてとるで。警察の尻たたいて徹底的に現場検証する気や。まあいろいろほじくりだしてくれるやろな」
「加害者被害者に直接話を聞けばいいじゃないですか。住之江と玉出先生と……」
「生徒のほうは、親が知り合いの医者を楯にとって聴取を拒んどる。心理的負担がどうたら言うてな。教師のほうは……まだ話の聞ける容態やない。まあ、この天気や。今日はこれ以上の動きはないわ」
まだ言いたいことはあったが、両親より先に帰宅しなければならなかった。帰り道の風雨はさらに激しさを増していた。
2003/10/02 Thu.
登校時間になっても風雨はまだおさまりきっていなかった。。
母さんが父さんを駅まで送り届ける間、僕は留守番と勇のお守りをいいつかった。少し遅めに届いた朝刊には、中学校のボヤでけが人がでたというベタ記事が載っていた。
八時前になってようやく警報が解除された。僕はわずかに晴れ間ののぞく空の下、緑色の葉をつけたまま折れ落ちた小枝をまたぎ越えながら、学校まで走りとおした。
正門をくぐると、グラウンドに人だかりができていた。また救急車が停まっているのを見てぎくりとした。
旧校舎から担架で担ぎ出されてきたのは淡路だった。ちらりと見えた顔は青あざだらけで、目の周りと唇が紫色に腫れていた。
僕は救急車を取り囲む人垣から抜け出し、見知らぬ大人たちが出入りしている本館と黄色いテープを張りめぐらされた旧校舎の間を通り抜けた。新校舎に入ろうとしたところで大柄な上級生とすれ違った。
昨日、淡路と一緒に音楽室に乗り込んできた二年生だ。ちらりと僕に向けた顔は青ざめてひきつっていた。声をかけるまもなく、救急車の走っていった方向に足早に歩き去った。
思案にふけりながら教室に入った。ノートを一冊置き忘れていたことを思い出し、無造作に机の棚をさぐった。とたんにぬるりと冷たいものが指にへばりついた。手にしたノートにはべっとりとマーガリンが塗られていた。
汚れていないほうの手でポケットティッシュを取り出してノートと指を拭ったが、紙に染みこんだ油分が落ちるはずもなかった。
授業が始まっても、キアは登校して来なかった。今まで遅刻も欠席も一度もしたことのないやつなのに。
僕以外にそのことを気にとめる者などいない。長居、金岡はもちろん、住之江、高井田、門真、三国、本山に常盤までが欠席していたのだから。
居心地悪そうに座っているのは、ストレスにめげるほどひ弱ではないが授業をフケるだけの度胸もない中途半端な生徒たちばかりだ。鉤爪も牙も持たない生き物は、身を守るために羽毛をむしりあうことくらいしかできないのだろうか。
三限目、玉出先生の社会科は自習だった。先生の入院については何の説明もなかった。
それぞれのグループに分かれて好き勝手な噂話を始めた同級生達から離れ、僕はひとり教室を抜け出した。
図書室は無人だった。後ろ手にドアを閉め、人の声が聞こえなくなったことでほっとした。周囲の雑音は気にしていないつもりだったが、知らない間に気持ちを張り詰めていたらしい。
ゆっくりと書架をめぐって、隅っこに震災関連の文献を集めたコーナーをみつけた。地元の新聞社が発行したムックを一冊引き抜き、テーブル席について広げた。
巻末の資料編に、自治体の慰霊碑に名前を刻まれた人たちの名簿が載っていた。
明智市で十一名。神部市で四千五百六十四名。虹宮市で千百二十六名。味屋市で四百四十三名……。
細かい文字に指をすべらせながら名前を読んでいった。最後まで目を通し終わる頃には自習時間は終わりに近くなっていた。結局、どこの市町村にも「葺合」という姓の人はみつからなかった。
僕は本を閉じてその表紙の上に額をのせた。
さほど意外だとは思わなかった。かえって得心がいったのかもしれない。
キアの妹と祖母は、震災の犠牲者として公式に数えられてはいない。たぶんなにか事情があって、それには両親の離婚も関係しているのだろう。身内以外の誰も知らない事情。あいつが打ち明けたのも僕が初めてなんじゃないか。
僕らはどちらも、あの四歳の寒い日から迷子のままなんだ。
僕の記憶については、両親に聞けばすぐに答えをもらえたのかも知れない。けれど、僕は真実を聞いてしまうことが怖かった。両親は震災以前のことをめったに話そうとしなかったし、僕の前でその話題を出すことを避けているとさえ思えた。
勇が生まれてから後のことはけっこう話題になっていたから、よけいにそのギャップにひっかかった。
僕は烏丸篤と理子の息子ではないのかも知れない。
不安は消えなかったけど、キアはそんなことにはおかまいなしに僕の肩を支えてくれていた。
極端な話、僕が日本人ではないとか犯罪者の子だとか、そんなことがわかったとしてもキアは気にかけないだろう。
烏丸聡でなくてもいい。ここにいる僕はキアが名付けたラスなんだ。
たとえ全世界が僕らに背を向けても、ふたり一緒なら持ちこたえられる。そう思ったことで気分がましになった。
いきなりすぐそばで咳払いが聞こえて、現実に引き戻された。
「マイワールドにはまっちゃうと、まわりで何がおこってても気がつかないのよね。相変わらず」
御影だった。いつから僕の前に座っていたんだろう。
「何の用だよ」
つい、ぶっきらぼうな聞き方になってしまった。
「忠告よ。葺合くんとのつきあい、今はちょっと距離を置いたほうがいいんじゃないの」
相手の返事も負けないくらい無愛想だった。
「どういう意味だよ」
御影は、わかっているくせにとでも言いたげに、つんと鼻をあげた。
「ふたりでくっついていたら、どちらの敵も刺激しちゃうってこと。特に今、クラスの連中は担任を怒らせないことに必死だからね。自分たちより目立つやつを前に立たせて息をひそめようとしてる。ワンセットで人身御供にされるのはいやでしょ。まずは自分の身を守んなさいよ」
「友達を見殺しにはできない」
「かっこつけないで。面倒みるほうの身にもなってよ。あんたひとりフォローするんだってぎりぎりなんだから」
むっとして御影をにらみ返した。こいつはどうして、ここまで人を見下した口がきけるんだろう。僕が相手だと特別ひどくなるのは気のせいじゃない。
「お前にお世話を頼んだ覚えなんてないぞ」
これには相手もむっとした。
「頼まれてやってたんじゃないもん。一学期だって噂を鎮めるのにどれだけ苦労したと思って……」
御影はそこであわてて口を押さえた。手遅れだ。僕の頭にかっと血がのぼった。
「そうかい。全部知っててお情けをかけてくれてたってわけだ。おおきなお世話さまだったな」
女の子らしい端正な顔が泣きそうにゆがんだ。それを見ても僕の腹立ちはますますふくれあがるばかりだった。
「いいからもう放っといてくれ。お前なんかにこれ以上、口出しもおせっかいもされたかない」
僕が足音も荒く図書室を出たときにも、御影は口元に手をあてたまま凍りついていた。
教室へ戻って、自分の席のまわりと鞄の中を慎重に調べた。椅子の座面に貼りつけられた画鋲にはすぐに気がついたし、鞄に入れられた砂もマーガリンに比べれば始末は簡単だった。この程度のいやがらせで僕がひるむと思うなよ。そそのかしたやつも、手をくだしたやつも、黙って見ていたやつも同罪だ。まとめて徹底抗戦してやるからな。
腹の中は煮えたぎっていたが、それを態度に出してしまえばこちらの負けだ。僕はつとめて平然と授業を受けた。
四限目の数学、安土先生はまだ習っていない範囲の演習問題を僕にあてた。僕が正答を出すと、その後は何度手をあげても完全に無視された。
SHRのかわりに再度の全校集会がもたれた。教頭先生の話はだらだらとまわりくどかったが、要は「学校外の人に事情を聞かれても余計なことをしゃべらないように」と言いたかったらしい。僕はじりじりしながら本館正面の時計をちらちらと盗み見た。とうとう伏見先生によそ見をみつかって背中をどやされた。
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