第5章 いよいよ6年生

① 塾の新学期5年生の1年間、学校の授業については、本当にはらはらどきどきの連続だった。
 同級生の中で、兄のいる人たちは、すでに中学入試を経験しているので、どこで手を抜いてどこで力を入れるべきかよくわかっている。当然のように、塾が頼りと、断言する人さえいた。
 さっさと学校の授業に見切りをつけて、塾にのめり込んでいく同級生を見ていると、なにやら釈然としなかったが、それも仕方がないことかもしれないと感じながら、2月を迎えた。
 平成9年度の灘中学の入学試験・合格発表も終わり、いよいよ長男の受験戦争が本番を迎えたわけだ。E塾からは、入試の結果速報がたびたび配布され、否が応でも受験生気分が高まってくる。
 E塾でも、例年のごとく2月から新6年生のカリキュラムが始まった。
 6年生のトップクラス講座は、毎週土曜日に国語と算数を続けておこなう長時間授業となった。また、週1回別の日に理科のトップクラス講座も始まった。それ以外にも、日曜難関中学特訓という授業が始まり、これが、月に2回おこなわれた。
 4年生から5年生に進んだときよりは、授業時間の増え方が大きいが、それでも受験生となる長男にとっては、まず適度なステップアップだった。もちろん、6年生でも、一般コースに通うつもりはなかった。
 ただし、いよいよ理科を始めなければならない時がきていた。それまで、X先生のアドバイスを信じて放っておいた理科は、見事なほど偏差値が低かった。少しずつでも、他の受験生に近づいていかなければならない。そのためには、まず、週1回のトップクラス講座の理科を頑張ることだった。
 6年生から新しく始まる日曜難関中学特訓のクラス分けは、その前の月例テストの成績で決められた。ところが、長男の12月、1月の成績が最悪で、平均すると、
   国語 59、 算数 65、 理科 52
と、国語などは、スランプから回復するどころか、ますます泥沼だった。
 この偏差値でクラス分けがおこなわれたために、長男は、「トップクラス1組」ではなく、「トップクラス2組」からのスタートとなり、内心それなりの屈辱を感じているようだった。
② 第1回灘中模擬テスト 6年生になる直前の3月末に、第1回灘中模擬テストがおこなわれた。本番とまったく同じ形式でおこなわれる灘中模擬テストは、1年間に全部で3回あり、その記念すべき1回目だった。
 もちろん、「結果オーライ」の、身のほどを知らない受験ながら、自分の実力を知るいい機会であり、長男もチャレンジしてみた。
 結果は、
   国語Ⅰ 18位、 国語Ⅱ  26位、 国語総合 20位
   算数Ⅰ 65位、 算数Ⅱ 129位、 算数総合 89位
   理科  91位
   総合順位 263人中 42位
だった。
 例年のE塾の入試結果からすると、60人前後が灘中学に合格しているので、この程度の位置にいれば、本当に灘中学に合格できるのかもしれない。このとき初めて、灘中学受験が実感を伴ってきた。
 長期低落傾向にあった国語が少々持ち直してきたことは、親子共々うれしかったが、算数は60位以下しかとれず、先行きは決して明るくなかった。国語とはちがって、ほとんどの勉強時間を算数に割いているので、これで結果が出ないということは、致命的ではないかと、灘中学の算数の難しさを思い知らされた。
 灘中学の算数は、1日目が、短い時間にテキパキと処理する問題で、2日目が、じっくり考えさせる問題である。普段の勉強の仕方からすると、長男には、2日目の方が合っているはずだが、さすが灘中学の問題で、相性がいい程度のことでは得点は伸びなかった。少しでも得点を稼ぎたい算数Ⅱで、129位では、話にならないのではないか。本番までに、本当に算数が解けるようになるのだろうか。
 疑い出せばきりがなかったが、それでも、わが家の方針に変わりはなかった。


③ 休みなし6年生を迎えても、週4回の一般コースを受講しなかったので、それなりに余裕が確保できたはずだったが、さすがに6年生、そんなに甘くはなかった。週2回のトップクラス講座、月2回の日曜難関中学特訓、月1回の月例テストだけを受けることにしたのだが、それだけでは済まなかった。
 学校が休みの土曜日や、空いているはずの月1、2回の日曜日でさえ、いろいろな単発の講習や模試が随時組み込まれた。塾側の、受験生に休みはないといわんばかりの姿勢がよく表れていた。
 まず、最難関中学○○という名前のついた、模擬テストや特訓講座がたびたびおこなわれる。ちなみに、E塾のいう最難関中とは、灘・東大寺・洛南・甲陽・洛星などで、さすがに錚々たる中学校名が並ぶ。
 これらの模擬テストや特訓講座は、参加者も多いので、毎日毎日同じように努力している受験生にとっては、参加せずにはいられない気持ちになってくる。ひとたび同じレールに乗って走りだした以上、1人だけとまるわけにはいかなくなってしまっているのだ。一種のおまじないのようなものだった。
 しかしながら、いくつかの中学をひとまとめにしておこなうものなので、間口が広い分だけ、逆にいえば、それぞれ底の浅いもの、どっちつかずのものになってしまうおそれがあったように思う。長男も、ほとんどすべてに参加したが、これなど、塾の勢いに流された典型的なケースかもしれない。
 また、××中学特別講座という名前のついた、中学校別の特訓講座もおこなわれた。これは、まさに各中学の入試問題研究のような授業で、過去問の解説や予想問題演習などからなっていた。
 E塾が××中学専用と称するからには、その内容は、本番の入試に直結するものにちがいない。もしかしたら、本当に同じような問題が出題されるかもしれない。国語では、塾で練習したものと同じ出典の問題文が本番でも出るかもしれないし、その1問1問で、合格と不合格に分かれるかもしれない。自分が参加しないことは、つまり、その分だけ他の受験生が得をすることにつながるのだ。
 そんな強迫観念さえ持ったようだ。結局これも、灘中学という名前がつけば、参加しないわけにはいかなかった。
 いずれにしても、一般コースを受講していない人でさえ、空いているはずの日が確実に塾でつぶれていって、本当にしんどい受験生生活が続くのだった。
④ 小6第1回志望校判定模擬テスト小6第1回志望校判定模擬テスト
  4月5日、6年生最初の志望校判定模擬テストがあった。6年生になって最初の志望校判定で、これから先本当に灘中学を目指して進んでもいいのか、大きな目安となる。
 今回は、5年生のときの第2回よりさらに現実的になって、灘中学、甲陽学院中に加えて、明星中も志望校欄に書いてみた。しかし、第1回灘中模擬テストの順位から考えて、そこそこの成績はとれるのではないかということで、大胆にも、第1志望の灘中学を変えるつもりはなかった。
 結果は、
   国語Ⅰ 67、 国語Ⅱ 73、 算数Ⅰ 62、 算数Ⅱ 61、 理科 70
    灘中型の総合偏差値  66
というものだった。いちおう、3つの志望校全部でA判定をもらったが、灘中学のA判定の基準は、偏差値65以上であり、理科の思わぬ高得点に支えられた結果という感が強い。決して喜んではいられなかった。
 灘中学の理科は、暗記の勝負というより、その場で与えられた条件からじっくり推論するという傾向が強く、記憶量では確実に劣る長男には、差が広がりにくい分だけ多少は有利なのだが、本番でこれほどうまくいくとは考えにくい。
 よく見ると、常に勉強時間のほとんどを割いている算数が、どちらも65を下まわっており、あいかわらず算数が問題であることがわかる。
⑤ 第1回志望校判定特訓講座1992年11月。
4月29日、第1回男子難関中入試志望校判定特訓講座があった。ここでいう難関中も、灘・東大寺・洛南・甲陽・洛星などを指していた。
 志望校判定特訓講座は、朝9時から夜9時までの12時間にわたって、テストと特訓授業が続く講習だった。いくら途中に休憩時間があるとはいえ、12時間も集中力が続くとは思えないが、これも、厳しい本番の入試に勝ち抜くためにはどうしても必要な訓練ということだった。きつい負荷に耐えるということは、常に、塾の授業の重要なテーマの1つだった。
 12時間の授業となると、親の側にも負担が大きくなる。当然、お昼と夜の2回分のお弁当が必要なので、夕方の休憩時間に夜のお弁当を届ける父兄も多い。この程度の協力は親として当然のことだろうが、最寄りの駅から塾の玄関まで列をなして歩く姿は、一般の人たちにしてみれば、かなり異様なものにちがいない。
 12時間の具体的なスケジュールは、
1 午前中に、4科目の志望校判定テスト
2 午後から各科目90分ずつの特訓授業(その間に、午前中のテストの採点が終わる)
3 テストの結果から、各中学校の入試科目の配点に従って、学校ごとに合格判定
4 各学校別に合格者を発表し、合格者には合格証を授与
というものだった。
 長男は、6年生になってから理科を始めたばかりであり、社会についてはまったくなにもしていない。これで、東大寺中や洛南中のような、入試に社会が必要な中学に合格するのはたいへんなことだった。
 志望校判定特訓講座は、12月まで隔月でおこなわれたが、なんとか、最後まで灘中学には合格し続けることができた。社会のあるところについては、結果を気にするつもりはなかった。
⑥ 第2回灘中模擬テスト
ゴールデンウィークの真っ只中、受験生には休みなどまったく関係ないとばかりに、第2回灘中模擬テストが設定されていた。
 それに先立って、まず、5月3日に灘中対策講座と灘中学文化祭見学会があった。午前中に、灘中学を目指すための対策講座を受け、午後から塾の引率で、灘中学の文化祭を見学に出かけるというものだった。
 塾の説明では、この段階で、灘中学のレベルに達していなくても、目標を高く持ち続けることができるように、灘中学の雰囲気を味わうことによって気持ちを高めることを目指す、とあった。長男も、灘中学の名前の入ったペンケースなどをうれしそうに買ってきたので、それなりの効果がありそうだった。
 続く5月4、5日に、第2回灘中模擬テストがおこなわれた。今回は、2日に別れており、1日目は、灘中入試練習と解説があり、2日目には、本番と同じ形式でテストがおこなわれる。3月の第1回に比べて、どれだけ算数で得点が伸ばせるのかが長男の最大の課題で、特に、算数Ⅱがポイントだった。
 結果は、
   国語Ⅰ 6位、 国語Ⅱ 17位、 国語総合  8位
   算数Ⅰ 39位、 算数Ⅱ 63位、 算数総合  48位
   理科   71位
   総合順位  258人中 31位
だった。体的に得点が伸びており、31位という思ってもみない好成績だった。特に、不安の種だった算数Ⅱで、前回よりまともな順位がとれたのがうれしかった。

⑦ 学校指定の模擬テスト

B小学校では、6年生になると、生徒の実力を客観的にはかるとともに、進路指導の際の基礎データとして活用するために、「G模擬テスト」を受けるように指導していた。原則として、全員受験であり、受けていない場合には、進路指導に支障をきたすといわれるが、必ず塾の月例テストや単発の講習と重なり、受け続けるのは決して簡単ではなかった。
わが家では、当然、学校を優先する方針のために、できるだけ受験することにしたが、これが、すぐにたいへんに厄介なものだと分かった。
5月の第1回「G模擬テスト」では、さっそく塾の月例テストと重なってしまった。午前中に「G模擬テスト」を受けて大急ぎで塾に向かったのだが、それまで、少しでも余裕を持っていこうという方針でやってきた長男に、1日に2つの模試を受けるのはやはり無理だった。
「G模擬テスト」は、理科と社会以外はなんとかできたものの、その後に受けた肝心の塾の月例テストがさっぱりだった。集中力が続かなかったのは、明らかだった。もちろん、その程度の集中力がなければ、灘中学など無理に決まっているといわれるかもしれないが、わが家の方針には合わない。どちらかを捨て、余裕を作るべきなのだ。
その後も「G模擬テスト」を受験し続けたが、塾の月例テストと重なることが多く、どれも散々な結果だった。
結果が悪いのは、長男の実力のせいなのだから、もちろん仕方のないことだが、問題なのは、テスト範囲が、学校の授業よりもかなり先に進んでいることだった。特に苦手な理科や社会で、習っていないところを受験するのは疑問だった。塾で補うこともできない長男に解けるはずもないのに、この結果を、学校側は進路指導の資料とするというのだ。
毎日のように塾に通って、理科や社会も受講している同級生にとっては、学校の授業の進度など、なんら問題ではないのだろうが、わが家には、どう考えても納得できないことだった。学校の授業を優先してきた挙げ句、このような仕打ちを受けるとは。
さらに、「G模擬テスト」に対しては、もう一つ疑問に思うことがあった。たとえば、6月の「G模擬テスト」では、長男の偏差値は、
国語 72、 算数 74、 理科 63
灘型3科目総合偏差値  72
と、珍しくかなりよかったが、灘中学の目標偏差値76にも届いていないし、さらに成績表をよく見ると、灘中学でA判定をとるためには、なんと偏差値80が必要とされているのだ。
それまで、E塾の模試を何度も受けてきたが、偏差値80など、もちろん見たことがなかった。どんな母集団なら、80という高い偏差値が可能なのだろうか。この判定基準を見て、「G模擬テスト」の意味が分からなくなってしまった。
そんなことから、少なくとも、学校の授業が追いついていない範囲の模試は辞退したいと、学校に申し出ると、学校側は、わが家のわがままを認めてくれた。

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