第8章 入試前半戦

① 灘中入試予想模試1999年1月1、2日、灘中学受験を決める最後の試金石、灘中入試予想模試がおこなわれた。それまでの灘中模擬テストとはちがって、この時期の予想模試は、本当に灘中学を受験する子供たちだけが受ける模試で、まさに、本番に直結している。絞りに絞られた100名ほどの受験生が、本番とまったく同じ形式で、狭き門を目指すのだ。
 もちろん、いつもに増してデータの信頼性は高く、ここでなんとか上位60人くらいに入りたいところだった。しかしながら、実力伯仲の受験生が争っている以上、ちょっとしたミスで順位は大きくちがってくる。確実に、1位もいれば、100位もいるのだ。
 わが家では、ここまできたら、予想模試でたとえ最下位になっても灘中学を受験する決心は変えないと、固い決意だった。
 入試予想模試の前日の大晦日には、本番の入試前日と同じように、前日特訓があったが、その申し込みのプリントには、
 「入試直前の大切なこの時期に、1日中家にいる日を作ると、必ず勉強のペースが崩れますので、前日特訓を受講することをぜひお勧めいたします」
とあった。
 1日中家にいると「必ず勉強のペースが崩れる」と、こうはっきり断言されても困ってしまう。わが家では、無理して毎日塾に通うと、必ず精神的にも肉体的にもバランスが崩れるという考え方で通してきたので、このプリントを前にして考え込んでしまった。
 他の受験生は、本当にこれほど追い詰められているのだろうか。このような負荷に耐えているのだろうか。1日も休まずに塾に通うことを求められ、果たして、学校との両立がどうできるのだろうか。
 ところが、ここまで「余裕」を追い求めてきたわが家に、最後の最後に強烈なしっぺ返しがやってきた。
 明けて、1999年元旦。灘中入試予想模試1日目。
 長男に、必要以上のストレスを感じさせないように努めてきたはずなのに、肝心なところで、喘息の発作が出てしまった。大晦日の夜から急に冷え込んだのが、災いしたのかもしれない。持病の軽い喘息のために、定期的に診察を受けるなどして気をつけてきたのだが、6年生になってからはずっとおさまっていたので、少々甘く見てしまったのかもしれない。
 大晦日から元旦にかけて、急に冷え込むことを考えれば、もっと気をつけてしかるべきだったのだ。咳がおさまらなければ、受験はできない。自分の実力が発揮できないどころか、他の受験生の邪魔になってしまう。
 結局、断腸の思いで、1日目の予想模試の受験を取りやめたが、これが本番だったらと、本当に肝が冷えた。今思えば、いい薬になったといえるのだが、その時は、目の前が真っ暗になった。「結果オーライ」受験の破綻どころか、「地球最後の日」といっていいほどだった。
 1時間ほどで、喘息の発作はおさまったのだが、ばたばたしても始まらない。その日はゆっくり過ごすことにして、2日目だけを受験することにした。
 もちろん、2日目だけを受けても判定が出るわけではないが、本番でも2日目のテストが大きく鍵を握っているので、受けるだけ受けてみようという気持ちだった。
 結果は、
   国語Ⅱ 67点 (平均 59点)、 算数Ⅱ 52点 (平均 41点)
だった。
 国語Ⅱも算数Ⅱも、平均点より上だったことが救いだった。死んだ児の齢を数えても仕方ないが、1日目の3科目(国語Ⅰ、算数Ⅰ、理科)で、それぞれ平均点をとったとすると、なんとかA判定のラインに達したはずだ。
 受けられなかったことをくよくよ考えるのは、「結果オーライ」には似合わない。A判定だったと信じて、灘中入試予想模試についてはすべて終わりとした。

② 受験校決定 11月の東大寺中入試予想模試、第4回志望校判定模擬テストと、続けてB判定を受けて暗雲がたれ込め始め、その総仕上げといわんばかりに、正月の灘中入試予想模試欠席という思ってもみない事態となった。
 他の受験生が、一般コースはいうにおよばず、正念場の2学期以降は、夜11時まで続く「夜間講座」にまで通って、多くの負荷に耐えて鍛えてきたのに比べ、長男は、最後まで、余裕重視の受験を貫いてきた。
 入試の直前になっても、家庭では、1日4時間の勉強というペースを崩さなかった。さらに、塾の宿題にしても、できない問題に見切りをつけるのがうまくなり、できるまでとことん考えるという姿勢が減ってきた。
 『こんな問題が出たら、本番では捨て問題だな』
などと、ずるさが身についてしまった。
 このような毎日の積み重ねが、大きな差となってきているのだろうが、それでも、灘中入試予想模試の2日目の結果を信じて、受験校を決定した。以下の4校で、いわゆる「三冠」プラス洛南中である。
   1月12日試験、13日発表 西大和学園中学(4科目)
   1月22日試験、25日発表 東大寺学園中学(4科目)
   1月29、30日試験、31日発表 灘中学(3科目)
   1月31日、2月1日試験、2日発表 洛南高校付属中学(4科目)
 灘中学以外は、すべて社会を含む4科目入試なので、見通しは決して明るくない。特に、東大寺中は、4科目が100点ずつという配点なので、社会のウェイトが他校に比べて一番重く、合格する可能性がかなり低いのだが、塾側からは、厳しい受験に慣れるためにぜひ受けるべき、という説明だった。
 また、最後の洛南中は、入試の初日が灘中学の合格発表の日と重なっているのだが、灘中学が不合格だった場合を考えて、ここに願書を出して入試の1日目を受けておいて欲しいという、塾側の強い勧めだった。
 結局は、受験校選びに関しては、塾の敷いたレールに乗ってしまったが、今考えてみると、あまり賢い選択ではなかった。わが家は、「三冠」達成などにまったく興味がなかったし、現実問題として、体力的に不安のある長男が、西大和中や東大寺中に通えるはずもなかった。
 それにもかかわらず、受験日程と偏差値の関係から、このあたりになってしまったが、西大和中と東大寺中の代わりに、実際に通うことができる大阪の中学校を受けておくという路線もあったはずだ。



③ 西大和学園中学入試 1999年1月12日。いよいよ、最初の受験がやってきた。
 西大和中の配点は、算数・国語が150点ずつ、社会・理科が100点ずつで、計500点満点。98年度の合格最低点は、265点だから、算数と国語で大きな取りこぼしさえなければ、理科と社会が半分程度でも合格できるという見通しだった。苦手な社会があるとはいえ、算数・国語の配点が高いので、取りこぼすわけにはいかない。どうしても、いいスタートを切って、気分よく一連の受験をしたいものだった。
 試験当日の朝、長男は、いつものように寝起きがよくなかった。入試初日だという自覚がまったくないのか、緊張感が感じられない。入試に向かうJRの中でも、立ったまま居眠りをする始末だった。こんな状態で頭が働くのか心配になるほどだったが、緊張し過ぎるよりはまだマシかと、むりやり自分を納得させた。子供より親の方が、緊張していたのかもしれない。
 西大和中に近づくと、かなり手前から、正門の辺りにひるがえる各塾ののぼりが目にはいった。塾の先生や職員が塾の名前の入ったのぼりを持って塾生を出迎えるのだが、まさにテレビで見た受験風景だった
  試験が始まる前に、どの塾も、グラウンドや校庭の一部に陣取って、競うように入試直前講義を開いていた。直前講義のプリントを受けとって、ビニールシートに座っているE塾の一団を見ていると、進学塾の持つパワーがよくわかった。塾に通わずに1人で受験するとしたら、どんなに心細いだろうか。
 直前講義を終えて、試験場に向かう子供たちを見送ると、もはや親の出番はなく、学校側の用意した場所で試験が終わるのを待つ親と、いったん帰宅する親とに分かれた。わが家は、後ほど母親が迎えに来ることになっていたので、どうにも落ち着かない気持ちながら、さっさと帰ることにした。

 試験を終えて、母親と一緒に戻ってきた長男は、特に興奮した様子もなく、
 『算数の答え合わせがしたい。理科と社会は、思った通りあかんかったけど、算数と国語は大丈夫とちがうかな』
という、なんとも頼りない感想だった。長男と2人で、なんとか算数の答え合わせに取り組んだが、大きなミスはなかったようだった。


④ 西大和中合格発表 翌13日、合格発表。
 午後3時の合格発表に合わせて、少々早めに家を出た。示し合わせたわけではないが、同じ西大和中を受験したQ君のお父さんやR君のお母さんと電車で一緒になった。
 1つ目から落ちるわけにはいかないが、長男の口から出た、
 『算数と国語はともかく、理科と社会は、思った通りいまいちだった』
という言葉がどうしても気にかかり、内心かなり不安だった。できれば誰にも会いたくなかったが、適当な電車の本数が限られているために、知っている人と出会う可能性は高かったのだ。
 車中、3人で少々話したが、Q君は試験の感触がまずまずだったようで、お父さんは余裕のある態度だった。R君のお母さんは、かなり緊張していたのか、いつもにまして口が重かった。
 学校に着き、合格発表のおこなわれる体育館にいくと、P君のお父さんがすでに並んで待っていた。皆が同じ路線を受験するので、これ以降、たびたび同じ顔ぶれが揃うことになった。P君は、長男と同じで、あまり感触がよくなかったとのこと。P君も、理科と社会が得意ではなく、不安な気持ちは一緒だった。
 3時になると、体育館のドアがあけられ、父兄が一斉に体育館の中に向かって小走りに駆け出した。受験番号順に200人ずつ列を作って待つように案内があり、自分の列に並んで待った。
 先頭の人から順に、受験票と引き換えに封筒を受け取り、父兄の並ぶ列の間を縫うようにして、最初に入ってきた入り口のドアへと向かう。
 合格者の封筒には、学校紹介のビデオテープなどが入っておりかなり分厚いが、一方、不合格者の封筒はぺらぺらで、そのちがいは一目瞭然。まわりの人間に合格・不合格が完全に分かってしまうのだ。もちろん、不合格の烙印をはっきり押されたまま、衆人環視の間を帰っていかなければならない場合もある。
 これが、西大和中の「手渡し」という合格発表の方法だった。中には、母子で発表を見に来て、ぺらぺらの封筒を胸に抱いて逃げるように列の間を走っていく人さえいて、かなり考えさせられてしまった。それぞれの努力の結果が出ただけ、厳しい受験に甘えは許されない、という見方もあるかもしれないが、12才の少年にはたいへんな試練だろう。
 どきどきしながら待っていると、ちがう列に並んでいたPさんもQさんRさんも、一足早く分厚い封筒を受け取って帰ってくるのが目にはいった。
 いよいよ自分の番がきた。
 『お願いします』
と、受験票を手渡し、その係りの人の手先を見ていると、分厚い封筒を取りだした。ここでやっと、ひと安心だった。すぐに長男に電話を入れると、やはり内心は不安だったのか、ほっとしているのが電話越しによく分かった。
 これでなんとか、いいスタートを切ることができたわけで、帰りの車中は、さすがに4人とも機嫌がよかった。誰もが、感じていることは同じだった。
 Q君のお父さんは、西大和中・高の熱心な受験指導が気に入っていて、入学の手続きをしておくつもりだという。一方、P君のお父さんやR君のお母さんは、手続きをするかどうか迷っているとのことだった。
 わが家は、西大和中まで6年間通学することは現実的に無理なので、入学手続きはとらなかったが、手続きをしないような中学校を受験する意味が、よくわからなくなっていた。いずれにせよ、西大和中に対しても、他の受験生に対しても、腕試しのように受験することは、たいへん失礼なことかもしれない。

⑤ 東大寺学園中学入試 1999年1月22日。
 誰からも、一番厳しいと指摘されていた東大寺中の受験を迎える。灘中学より合格の可能性は低いのだ。国・算・理・社の4科目で、各100点の400点満点。98年度の合格最低点は259点。4科目が均等というのは、本当に厳しい条件だった。
 長男の場合、結局社会は、学校の授業を受けただけで、まったくといっていいほど特別な準備をしていなかった。当然、ほとんど得点の目処がたたない、というより、得点が望めない。国・算の頑張りが相当必要だった。
 ところが、東大寺中の国語はかなり難しいために、得意の国語で得点を稼ぐという見込みもたたなかった。狙いは、国語65点、算数75点、理科70点、社会50点の計260点。これでなんとか合格ラインに到達するかと思われるが、社会の50点はあまりにも楽天的で期待薄だった。
 さらに過去何年かを遡ってみると、98年度の最低点が一番低いことがわかる。もう少し前の95年度には、最低点が273点で、こうなると、もう長男の合格の可能性はなくなってしまう。
 東大寺中の入試には、母親と出かけたが、やはり途中電車の中では眠っていたとのこと。緊張感がまるでない。かなり見込みが厳しいというのに、本当に自覚しているのだろうか。

 試験を終えて帰ってきた長男は、あきらめでも感じたのかのように、淡々としていた。
 社会の問題を見てみると、びっしり文字の並んだ問題用紙が8枚もあった。たとえ知識があったとしても、ほとんど考えるひまもないほどの量だった。今度は、西大和中とはちがって、算数の答え合わせをしたいともいい出さなかった。ここで、東大寺中は、内心不合格を覚悟したが、もちろん口には出さなかった。

⑥ 東大寺中合格発表1月25日、合格発表の日。出かけるときに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。冷たい雨の中、たいへん暗い合格発表の日となった。
西大和中の時とちがって、長男は本当に自信がないようで、今回は絶対に1人で発表を見にいって欲しいといい張った。PさんやQさん、Rさんに会わないことを祈りながら、午後3時の発表より早く着くように、早めの電車に乗った。早めに早めにという気持ちから、2時過ぎには着いてしまった。
気の早い父兄に混じって待っていると、3時の発表の予定だったが、2時半過ぎには、校舎のベランダに何人かの職員の姿が見えた。その下の方に、父兄がぞろぞろと移動し始めた。訳がわからないまま、わたしもあとに続くと、なんの前ぶれもなく、予定時間よりかなり早く合格者の番号が書かれたボードが掲示された。
やはりというべきか、現実は厳しく、長男の受験番号は掲示板になかった。何度見直しても、なかった。験をかついで、西大和中の合格発表のときとまったく同じ服装で出かけてみたが、やはりそんなものは役に立たないことがよくわかった。どれだけ験をかついでみても、受かるときは受かるし、落ちるときは落ちるのだ。
わたし自身平常心をなくしていたようで、何人合格したのか数えてくるつもりだったが、それも忘れてしまうほどだった。
長男にどう伝えるべきか一瞬迷ったが、事実は事実、そのまま伝えることにした。逃げるようにして他所に移動する気にはなれず、その場で堂々と電話すると、長男が出た。
『残念だった。駄目だった』
予定の3時よりかなり早く電話をしたために、まさか結果を伝える電話だと思っていなかったようで、一瞬の間があった後、
『あ、そう。分かった』
という、そっけない返事だった。
あとで母親に聞くと、最初は、
『やっぱり駄目だったか』
と、あっさりしていたが、母親に、
『悔しくないの? 悔しかったら、泣けばいいよ』
といわれると、途端に泣き出したそうだ。遅過ぎるかもしれないが、このときになってやっと、受験生だという自覚が生まれたのかもしれない。
翌日、東大寺中から成績表が送られてきた。結果は、
国語 62点 (平均 55.4点)、 算数 73点 (平均 59.2点)
理科 71点 (平均 67.6点)、 社会 34点 (平均 53.4点)
合計 240点 (合格最低点 254点)
だった。社会が平均点に達していれば十分合格圏だったが、それは、最初からあきらめていたはずで、結局、「結果オーライ」とはならなかっただけのことだ。算数と国語で、カバーできなかったのだ。

 

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