第5章 天下分け目の2学期

① 第3回志望校判定模擬テスト 協議の結果、日曜難関中学特訓は、今まで通り1番上の灘コースに通うことを許された。灘中学への細い細い道は、なんとか途切れることはなかった。
 そして、9月6日、問題の第3回志望校判定模擬テストがおこなわれた。特別な協議まで経て灘コースに残った以上、ここできちんと結果を出しておきたかった。というより、結果が出ないようなら、志望校を変える時期が来たということだ。この志望校判定模擬テストでも、志望校欄は、灘中学と甲陽学院中を書いただけだった。
 結果は、
   国語Ⅰ 72、 国語Ⅱ 66、 算数Ⅰ71、 算数Ⅱ 65、理科 61    灘中型の総合偏差値  67
だった。
 第2回志望校判定模擬テストと比べて、全体的に下がってはいるが、理科もなんとか偏差値60を越えているので、よしとすべきかもしれない。灘中学も甲陽学院中もA判定だったことから、ひとまず、ここでは志望校変更にまでは至らなかった。
 これで、後期の日曜難関中学特訓も、堂々と通うことができるし、なによりもまず、わが家の「結果オーライ」受験を続けることができたわけだ。
 まさに、山あり谷ありだが、この後は、下がる一方だった。「谷あり、谷あり」へと、長い長い下り坂だった。
② 東大寺中入試予想模試 6年生になってから、灘中模擬テストや志望校判定模擬テスト、さらには志望校判定特訓などで、灘中学に関しては常にA判定を続けてきたために、毎月の月例テストの結果がどれだけ悪くても、高をくくって見ている部分があった。
 それでも、現実にどのテストも全体的に偏差値が下がってきており、いよいよ1日4時間勉強の余裕受験では、一生懸命頑張っている他の受験生に伍していくことができないのかと、感じ始めていた。学校の同級生の中にも、毎日のように塾に通ってしんどい思いをしている子供が多く、もしかしたら、長男の2倍も3倍も勉強しているのかもしれなかった。
 わが家には、駄目なら駄目で、志望校を下げるという奥の手もあると、心の底ではまだ安心していたが、6年生のこの時期まで灘中学受験の夢を見続けてくると、志望校変更も簡単ではないように思われた。
 とにかく、これまで努力してきたのは長男本人であり、どれだけ「結果オーライ」受験で家族全員一致しているからといっても、長男は、灘中学受験だけを考えて、もはや抜き差しならないところまできているかもしれないのだ。
 ちなみに、9月、10月の月例テストの平均偏差値は、
   国語 67、 算数 64、 理科 60     平均 63
であり、5月~8月の絶不調時よりはましであるものの、灘中学を受けるには、物足りないものだった。実際に、12月~1月の日曜難関中学特訓で、灘コースを受講する資格を得るには、平均偏差値64が必要で、やはりこのままでは、前回と同じ「特別協議」組だった。
 そんなときに、東大寺中入試予想模試がおこなわれた。11月1日だった。この模試では、本番の東大寺中の入試と同じように、4科目とも同じ配点で争われる。長男にとっては、初めて社会込みで受けるE塾の模試だった。
 もちろん自信があるわけはないが、算数と国語でどれだけ社会を挽回できるのか、実際に合格の可能性があるのか、などがよくわかるだろう、という目論見だった。
 東大寺中入試予想模試の結果は、
   国語 53位、 算数 31位、 理科 174位、 社会 201位    総合順位  238人中 112位
で、合格判定はBだった。E塾では、毎年東大寺中に100人程度合格しているので、なんとかボーダーラインといったところ。B判定も当然だろう。
 理科の174位もひどいが、社会の201位は、悪過ぎて笑うしかない。全受験者数は、238人なのだ。いくら悪いといっても、これほど後ろになるとは思わなかった。他の受験生は、一体どんなに頑張っているのだろうか。
 ただ、わが家では、実際問題として東大寺中には通学がほとんど不可能なので、
 『B判定なら、もしかすると、東大寺も受かるかもしれないということだな』
と、あいかわらず楽観的で、あまり深刻には受け止めていなかった。


③ 灘中学入試説明会 どこの塾でも、毎年秋になると、各中学校の先生を招いて入試説明会が順に開かれており、E塾でも、9月の灘中を皮切りに、東大寺中、甲陽中、洛南中、西大和中、と続いていた。しかしながら、灘・西大和・東大寺の3つに合格する、いわゆる「三冠王」などまったく意識していないわが家は、説明会をそれほど重視していなかった。
 灘中学が無理なら受かりそうなところを受けるだけだ、としか考えていなかったので、結局、灘中学の説明会に出席しただけだった。母親が、仲のいいP君のお母さんと一緒に出席したのだが、他のお母さんたちの入れ込み具合を見て、2人とも、まだまだ真剣味が足りないことを再認識したという。
 とはいえ、過熱ぶりばかり目立つ親の側とちがって、招かれていた灘中学の先生は、自分から勉強のできる生徒が欲しいという、しごくまともな内容だった。つまりは、親がいくら子供の尻を叩いて灘中学に合格させても、入ってからいずれ壁にあたってしまうということらしい。
 長男がまだ5年生のときに、朝日新聞社主催の私立中学展に出かけていって、灘中学の先生に直接お話を聞いた際も同じような内容だった。
 そのとき、遅れている理科について、
 『今はまだ5年生で、週に2日、算数と国語だけ塾に通っているのですが、それが精一杯で、理科などはまったく手がつけられない状態なのですが』と尋ねると、『それで十分ではないですか。灘中学の入試の理科は、じっくり考えるタイプの問題ですから、あわてて詰め込まないでください。詰め込んで追い込んで合格しても、後で苦労しますよ』という返事がいただけた。
 わが家にとって、この言葉は、思い出すたびに安心できるお守りのようなものだった。できることなら、少しでも余裕を持って進学したいという「結果オーライ」受験にも、それなりに理に適った点があるのだと、少々自信を持ったものだった。
 また、毎年のことだが、灘校においても、灘中・高合同の入試説明会がこの時期におこなわれる。98年は、11月12~14日の3日間で、同時に、中1、2の授業を参観することができた。
 この説明会では、なぜか灘高の校章入りの瓦せんべいが1袋ずついただけるが、これは、ぜひ仏壇にでも供えておきたい。なお、老婆心ながら付け加えると、ものがものだけにすぐに欠けたりもするが、気にしないでおくべきだ。わが家の瓦せんべいも少し欠けてしまったが、合格・不合格には関係なかったから、気を回し過ぎないでおくことが必要だ。
 閑話休題。
 説明会に出席し、同時に願書を購入してきたのだが、中2の英語の授業参観で、すでに高1のテキストを使用しているのを見て、そのスピードに驚いた。
 それでも、授業中に寝ている生徒がいても気にせず放ってあるし、もちろん、尻を叩いて追い込んでいる様子もない。生徒たちは、のびのびしているといえる。
 このあたりが灘校の強みだろうし、また、自主的に勉強する姿勢があるからこそ、自由な校風が保てるのだろう。勉強するのも自分なら、怠けるのも自分で、すべて最終的に自分に返ってくるのだ。こういうところを目にすると、やはり長男には、灘中・高の自主性を重んじる雰囲気の中でもまれて欲しいと思った。
 わが家なりのやり方で、結果的に灘中学に合格することができれば、最高なのだが。

④ 第4回志望校判定模擬テスト 東大寺中入試予想模試でB判定になったものの、社会がひど過ぎるという原因は、十分納得できるもので、長男は、ショックを受けることもなく、11月の月例テストを迎えた。本当なら、少しはショックを受けた方がいいのかもしれないが、実際のところ、どう考えても社会の勉強まで手が回らないのだから、気にしていても仕方がない。
 月例テストの結果は、
   国語 69、 算数 62、 理科 61
    平均 64
ということで、平均で偏差値64あったので、ぎりぎりではあるが、入試直前の12月~1月の日曜難関中学特訓で灘コースに通う資格が得られた。この勢いで次も乗り切りたいと願いながら、11月29日、第4回志望校判定模擬テストにチャレンジすることになった。この模擬テストでも、志望校欄には灘中学と甲陽学院中だけを書き込んだ。
 ところが、第4回志望校判定模擬テストの結果は、
   国語Ⅰ 73、 国語Ⅱ67、 算数Ⅰ 61、 算数Ⅱ58、 理科 56
    灘中型の総合偏差値  63
だった。
 第2回志望校判定模擬テストと比べて、算数と理科の偏差値が下がっているが、特に、算数の落ち込みがひどく、算数Ⅱなどは60にも満たない。灘中学のA判定ラインの平均偏差値65には、当然ながら及ばなかった。
 ここにきて、とうとう灘中学の判定がBに落ちた。165人中93位という順位では、どう考えても塾内の合格ラインに到達しないだろう。最後の最後の志望校判定模擬テストでB判定に落ちたのだ。甲陽学院中はA判定だったものの、いよいよ、「結果オーライ」が破綻をきたす時がきたのか。

⑤ 2度目の個人相談 6年生のこの時期になって灘中学がB判定となると、その前の東大寺中のB判定も気になってくる。灘中学に受かるような受験生は、まず東大寺中にも合格するといわれており、いくら本命ではないといっても、このB判定の連続は精神的に本当にきつかった。
では、灘中学をあきらめたとすると、一体どこを受験すればいいのだろうか。いくつか候補は頭に浮かんでくるが、これといったところがなく、困ってしまう。
頭に浮かぶどの中学校と比べてみても、わが家から通いやすいのはやはり灘中学であり、6年間通うことを考えれば、当然、近ければ近いほどよい。地の利は、塾を決めるときも、小学校を決めるときも、常にわが家の優先事項だった。
結局、家族全員、志望校を変えないということで、意見が一致したのだ。
しかしながら、客観的な第三者の意見も聞いてみるべきだった。こんなときに相談できるのは、E塾のX先生しかいなかった。
いつものように事務所に連絡すると、その日のうちにX先生から電話があった。このあたりの対応の早さは、E塾のいいところだった。
『連絡をいただいたそうですが、どうしましたか』
『はい、東大寺中入試予想模試と志望校判定模擬テストがどちらもよくなかったので、相談に乗っていただきたいのですが』
『そうですか。東大寺の結果はどうだったのですか』
『B判定でした』
『ちなみに、社会は何点でしたか』
『26点でした』
『やっぱり社会が原因ですね。それなら気にしないでおきましょう。で、志望校判定の方はどうでしたか』
『はい、それがもっと問題で、灘中学でB判定がつきました。下がる一方ですので、あきらめた方がいいということでしょうか』
『ご両親が、弱気になっているのですか』
『いえ、家族全員、あいかわらず灘中学を受けるつもりでいるのですが、無謀かと思ったもので』
『直前になって志望校を下げるのは、だいたいご両親が弱気になるのが原因なのですが、ご両親が弱気になっていないのなら、下げる必要はないですよ』
『こんな成績で、受かる可能性はあるのでしょうか』
『あります。今はとにかく、元旦の灘中入試予想模試に向けて、全力で突き進むだけですよ。頑張りましょう』
X先生にこのように励まされると、B判定でもチャレンジするのが「結果オーライ」受験だと、再び力が湧いてきた。わが家の「結果オーライ」に軌道修正はなかった。また、ちょうどこの頃、学校でも受験のための個人懇談があった。長男と母親が、進路指導の先生との三者面談に臨んだ。
『牧瀬君は、どこを受験するつもりなのかな』
『いちおう、灘中が第1志望です。あとはよく分からないのですが、東大寺、西大和の2つになると思います』
『そうか。今の成績なら、灘中の合格の可能性は5割以上あると思うけど、東大寺の方がきびしいなあ。社会も少しずつ頑張りや』
というようなやりとりで、灘中学に受かる可能性があるとのことだった。学校と塾の両方から、灘中学合格の可能性を示唆され、もはや、なにも気にかかることはなくなった。チャレンジするだけだった。

 

→第8章へ