第3章 大きな転機

① 阪神・淡路大震災 1995年1月17日未明。阪神・淡路大震災が起こる。長男、小学2年生の冬。誰にとっても、決して忘れられない大きな、そして悲しい出来事だった。
 揺れがおさまった後、恐る恐る家の中を見回ってみると、ダンプカーでも飛びこんだかと思われるほどのありさまで、あらゆるものが倒れ、めちゃめちゃだった。文字通り足の踏み場もなかった。取り合えず玄関まで、靴を取りにいったことを覚えている。靴をはいて家の中を一通り見回って、自分の目で被害の状況を確認すると、わずかながら気持ちの余裕ができた。もはや開き直るしかなかった。
 水道と電気が止まっていたために、トイレは使えず、テレビの報道番組は、私たち被災者のもとには届かなかった。なぜかガスだけは出たが、水が出ないのでは、カップ麺さえ食べられない。
 ひんぱんに余震が起きる中を外に出てみると、近所の人たちも、不安を隠せないようすで立ち話をしていた。屋根にのぼって瓦のずれを直していた隣家のご主人が、わが家の壁やタイルにひびが入り、屋根瓦はほとんどずり落ちていることを教えてくれた。ガレージのシャッターも開かず、のちに、市から半壊の指定を受けるほどの被害だった。
 近所では、亡くなった人もたくさん出た。文化住宅が全焼して、逃げ遅れたお年寄りが何人も亡くなったし、壊れたアパートの下敷きになって、よく知っているお嬢さんも1人亡くなった。それに比べれば、半壊とはいえ、そのまま住み続けることができたのだから、文句はいえない。
 幸いなことに、わが家の受験までには、まだまだ余裕のある時期だったが、まさに、受験の真っ只中にいた6年生もいたわけだ。生きるか死ぬかというあの混乱の中で、受験のための緊張を再び高めるのは、並み大抵のことではない。本当にたいへんだったにちがいないと、今さらながらよく分かる。
 長男が通っていたCゼミナールも、教室が入っていたビルがかなりの被害を受け、休講を余儀なくされた。しばらくして、授業再開のお知らせが届いたが、長男は、そのまま休みつづけることにした。
 やはり、地震の影響は大きく、精神的にも肉体的にもダメージを受けたまま、夜子供を外に出す気にはならなかったのだ。
② Cゼミナールの閉鎖 世の中が、ほんの少しだけ地震のダメージから回復し、長男もやっと通塾を再開し始めた頃に、大きな転機がやってきた。3年生の夏だった。突然、長男が通っている教室が閉鎖され、別の地域にある教室に統合されるという通告を受けたのだ。
 Cゼミナールも、各地に教室を開いており、他の地区の教室に移籍して、継続して通って欲しいとのことであった。長男の通っていた教室は、地震の被害が大きかったところにあり、再開後も、塾生の復帰率が悪く、人数が激減していた。
 長男のクラスも3人が残るだけになっており、そのような状態では、教室を維持するだけでもたいへんだと心配してはいたのだが、突然の通告には、やはり納得できない部分が多かったし、そもそもわが家から近いということが決め手になって通塾していたわけで、今さら離れたところの別の教室まで通う気にもなれなかった。
 しかも、閉鎖については、何ヶ月も前に決まっていたにもかかわらず、ぎりぎりになるまで塾生に伝えなかったということが分かり、不信感が増すばかりだった。早めに知らせれば、その時点で多くの塾生がやめていくのは明らかで、テナントの契約期間が切れるまでは、できるだけやめて欲しくないという、まさに経営上の判断があったにちがいない。
 幼稚園の頃から、5年間にわたって通い続けた教室であり、しかも、地震以後、残った3人でやっとそれなりに落ち着いて勉強できるペースができてきたところだった。担任の先生と、3人の塾生というこじんまりした環境は、長男にとってたいへん居心地がよかったように思う。
 残った3人の子供の父兄が集まって、個人的に場所を確保して、その先生にせめて年度が終わるまで見てもらおうかという案も出たくらいだったが、場所を借りて先生を雇うとなると、実際、経済的な負担も大きく、そこまでCゼミナールの授業に固執する気もだんだんなくなっていった。
 結局、3人とも退塾を決めた。3年生の年度末にあたる1月末までは、自分たちで塾のテキストの残りを続けることにした。やれるところまで、あせらずのんびりとやってみようという結論だった。


③ D塾かE塾か 4年生になるにあたって、いよいよ、どこか新しい塾に通うことにした。「結果オーライ」受験とはいえ、そろそろ、本気で受験勉強を始めるべき時がきていたが、それまで、A会・Cゼミナールという、どちらかといえばマイペースで続けられる塾にいたので、同じように無理なく続けられそうな塾をさがすとなると、皆目見当がつかなかった。
 もちろん、実態まではよくわからないながら、D塾・E塾・F塾の3つの名前くらいは知っていたし、関西で私立中学の受験をするとなれば、この3塾をおいてほかにないと、断言する人さえいた。少しでも余裕を持って受験したいという気持ちは捨てられなかったので、例によってまず、地の利を考えながら、この3つの塾を検討することにした。
 学年があがるにつれて塾の授業時間が遅くなっていくので、送り迎えについても十分考えておかなければならない。通塾の手間は、大きな問題になりそうだった。そんな点から、3つの中で、わが家から交通の便が一番よくないF塾が消えた。
 『そんな安直な決め方で大丈夫か?』
という不安もあるにはあったが、近いということは、やはりわが家の優先順位第1位の条件だった。受験する中学校を決める際になっても、やはり少しでも近いところをという方針は変えなかったくらいだ。
 残り2つの塾は、通塾の手間があまり変わらなかったので、もはや地の利だけでは決められなかった。そんな経緯で、D塾とE塾の入塾テストを受けてみることになった。
 最初に受けたD塾の入塾テストは、D塾の看板クラスである「灘コース」選抜テストを兼ねていた。算数・国語の2科目のテストで、なぜか、思ってもみないよい結果が出た。かなり上位に食い込むとともに、「灘コース」に入る資格も与えられたのだ。
 この「灘コース」は、灘中学合格を目指す子供たちだけが、4年生から6年生まで一貫して同じクラスで鍛えられていくというコースだった。3年間「灘コース」に囲い込まれるということで、子供たちに自覚と強い連帯感を持たせ、学習の効果をさらに高めようという意図だろうが、それにしては、選抜テストの内容が少々物足りなかった。
 長男は、週に1度Cゼミナールに通っていただけだし、さらに地震以後は、それさえもきちんと続けていないのだ。B小学校でも、3年生では、受験用の特別な対策が施される前の段階で、実戦的な模擬テストのような問題のパターンに慣れているとは思われない。
 それなのに、「灘コース」にまで入ることができるとは、狐につままれたような気分だった。長男自身でさえ、うれしいというよりも、
 『なんか、でき過ぎとちがうかなあ』
と納得していなかった。
 そもそも「灘コース」については、説明会に出席しなかったので実態がよく分かっていなかったし、4年生の時点でコースを限定してしまうのも、少々不安だった。
 あわてて決めることではないので、続いてE塾の算数・国語の2科目の入塾テストにもチャレンジしてみることにした。E塾の入塾テストも、D塾ほどではないにせよ、まずまずの結果がでた。こちらも、一番上の「トップクラス」に入る資格が得られたのだ。
 しかも、長男自身の感触は、
 『E塾のテストの方が難しかったよ』
というものだった。
 E塾の方は、D塾のような固定制とはちがって、ひとまず「トップクラス」から始めるというだけであり、これからどう変わっていくか分からないクラスだった。毎日毎日通うわけでもないので、どうせなら、少しでも難しい方がいいという長男の意見もあって、E塾に決めた。
④ E塾のシステム その1 E塾の4年生用のカリキュラムは、3年生の2月に始まった。おおむね1月中に私立中学の受験が終わるので、どの塾でも、同じように新年度を2月に始めるシステムをとっているようだ。長男も、2月からE塾の一般コースに通うことになった。
 4年生の一般コースは、週3回、約2時間ずつの授業で、算数・国語・理科の3科目を受講する。社会については、入試に必要な中学とそうでない中学があるため、選択科目となっている。
 ちなみに、社会も必須科目で、全員が受講することになっている塾も多いという。そうなると、たとえば、灘中学が第1志望の人も、入試科目にない社会を受けなければならないのだ。
 社会を必須科目にする理由はよく分からないが、最初から併願受験を考えてのことかもしれない。灘中学が第1志望とはいえ、現実には、そのほとんどの受験生が東大寺中や西大和中を併願するわけで、そうなれば、社会が必要になる。
 しかしながら、わが家のような、少しでも余裕がほしいものにとっては、やはり、そのような塾は合わない。たとえ、算・国・理3科目の授業がどんなに素晴らしくても、社会まで受講するとなると、その負担を素直には受け入れられない。
 もし、近くにそのような塾があれば、なんの疑いもなくそちらに通い出したはずで、社会の受講で問題が起こっていただろう。塾選びも、まさに、「結果オーライ」だった。
⑤ E塾のシステム その2 E塾に通い始めてすぐに、進学塾の厳しさをいやというほど思い知らされた。しかも、実績という裏付けによる自信は揺らぐことなく、E塾は、その厳しさの価値をみじんも疑わないのだ。
 Cゼミナールの週1回とはちがって、週3回あるだけでもかなり負担が増えたのに、それに加えて宿題も多かった。
 前回の授業の内容がどれだけ理解できているのか確認するために、毎回復習テストがおこなわれるので、前回習った部分の問題をすべて復習していかなければならない。さらに、この復習テストは、となり同士で答案を交換して、その場ですぐ塾生が採点し合う。得点がよければ、大きな励みになるのだろうが、得点が低いときには、自分の答案をとなりの子供に見られるだけでも嫌だろう。このスタイルは、慣れるまでに相当の時間がかかった。
 それまでのCゼミナールの授業は、まさにぬるま湯だったのか。自然、そんな疑問も沸いてきたが、D塾の入塾テストにしても、E塾の入塾テストにしても、それなりの結果は出たのだから、いちがいにCゼミナールの授業を否定するわけにもいかない。
 いずれにしても、目の前には、E塾が自信を持って実施する塾生相互採点というシステムがあるのだ。ひとたび塾生になった以上は、それに慣れるしかない。悪い成績をとなりの塾生に見られたくないというのは、子供たちにとって本当に切実な願いで、だからこそ一層の頑張りが期待できるのかもしれない。
 しかしながら、よく考えて見ると、そのシステムに慣れるまではプレッシャーばかりを感じ、慣れたら慣れたで、今度は開き直ることも可能だ。実際、塾生の中には、一種の自己保身なのだろうが、成績が悪くても平気で笑っていたりする子供もいるという。わが家の「結果オーライ」受験には、どうしてもそぐわないものだった。
 また、この復習テストの結果と、塾生全員が受ける月例テストの結果から、クラス替えがおこなわれる。上のクラスの下位何人かと、下のクラスの上位何人かが入れ替わることになっていた。翌月になれば、誰が落ちて誰があがったのか、はっきり分かってしまう。これも、子供たちにプレッシャーを与えるシステムだ。
 とはいえ、これも、相互採点と同じで、慣れるまではプレッシャーばかりを感じ、慣れると平気になってしまい、いい面ばかりではないように思った。
 後になって、E塾のX先生との個人懇談で、このプレッシャーに慣れていくことによって、本番でパニックに陥るのを最小限に押さえることができるのだと説明されるのだが、この時点では、わが家の「結果オーライ」受験とは、相容れないものでしかなかった。

⑥ 大きな壁
 B小学校自体、一般の公立小学校よりかなり宿題が多い。だからこそ、わが家は、学校の授業優先の決断を下したのだ。これをきちんと続けていこうという決意だった。
 しかしながら、E塾の一般コースに通っていると、E塾からの膨大な量の予習・復習が加わる。この両方が重なると、そのような負荷に慣れていない長男は、すぐにバランスが崩れてきた。
 さらに厄介なことに、長男の性格がそれに追い打ちをかけた。それまで、学校の宿題は必ずきちんとしようという方針を貫き、真面目さこそを大切にしてきたわけだが、長男は、塾の宿題に対しても同じスタンスをとってしまった。学校の宿題も塾の宿題も、すべて確実に片づけないと納得できないのだ。絶対量が少ないからこそできたことを、急激に量が増えても、同じように続けようとしてしまった。
 必然的に、睡眠時間が削られていった。睡眠時間を削ることによってしか、長男は対処できなかったのだ。もちろん、それなりの効果が得られるならば、無理を続ける意味があるのだろうが、現実には、学校も塾もどちらも中途半端になってきた。
 長男には、学校の勉強と、毎日のようにある塾の予習・復習の両立に耐えるだけの体力がなかったというのが、最も大きな理由だったが、結局、2ヶ月もしないうちに退塾する決心をすることになった。余裕を持って受験しなければ意味がない、という基本にかえって、やり直そうという気持ちだった。それが、わが家の受験に対するスタートラインだったことを、ここで再確認したわけだった。
 決心さえつけば、話は早い方がいい。思い切って、すぐにE塾に電話を入れた。なんといわれようとも、ひとまずやめて、長男の精神的なバランスを回復するつもりだった。なにがなんでもと気負い込んで、事務室に電話をかけた。
 『4年生の牧瀬ですが、今月一杯で塾をやめさせていただきます』
 電話に出た事務の方は、特別、慰留しようともしなかった。気負い込んだ自分が愚かにみえるほど、あっさりと事務的だった。拍子抜けだった。ところが、事務室に申し出たその日の夜に、長男が一番尊敬するX先生から直接電話をいただいた。
 『牧瀬君がE塾をやめられると、事務のものから連絡があったのですが、どうしたのでしょうか。よその塾にいかれるのですか』
 先生の最初の言葉は、あくまでも確認を求めるものだった。
 『いえ、よそに通うつもりはありません。私立の小学校に通っているのですが、学校の宿題も多いですし、また、体力的にもきついので、塾の宿題との両立ができないのです。今のままでは、どちらも中途半端になっていますので。5年生になったら、もう1度一般コースに挑戦します』
 よその塾にいくつもりなどまったくないことを正直に答えた。
 『どう考えても、今やめるのはもったいない。難関中学の受験に勝ち抜くには、常に負荷を与え続け、その負荷のもとでどれだけ自分の力を発揮できるかという訓練が必要なのです。中途半端を気になさっているようですが、灘中学に合格した生徒でも、E塾の授業や宿題でやっていることをすべて理解できたとは限りませんし』
 突然、難関中学受験が前提の話になってしまった。しかも、灘中学の名前まで、X先生の口から飛び出してきた。
 『一般コースの週3日が難しいなら、週1回のトップクラス講座だけでも続けてはどうでしょうか。5年生になったら急に体力がついて、一般コースに耐えられるようになるわけでもありませんし、少しずつでも続けるべきです』
 熱心な説得を受け、ひとまず4年生のうちは一般コースには通わず、トップクラス講座の算数・国語だけを受講することになった。これで、なんとか、学校の授業を中心に据える姿勢を保ち続けることができた。


⑦ トップクラス講座
 

毎週土曜日のトップクラス講座の授業は、週に1回とはいっても、その名に恥じないだけの難しい内容で、宿題を片づけるだけでもまるまる1週間かかってしまう。かなりの負担であることに変わりなかった。
一般コースの週3回に比べれば、質はぐんと高いにせよ宿題の絶対量が少ないので、自分の納得がいくだけの時間をかけて宿題を考えることができ、なんとか続けることができた。もし、あのまま一般コースに通っていたら、きっと破綻をきたしただろう。
結果からすれば、X先生のこのときの一言がなければ、長男が、灘中学を受けることさえなかっただろう。本当に、X先生にはどれだけ感謝してもしたりない。
しかも、わが家の、少しでも余裕を持って受験をしたいという方針に合った形で、トップクラス講座だけでも続けたらと、アドバイスをしていただいたわけで、E塾としては、決して望ましい塾生ではなかったはずだ。
ただし、ここで、1つ問題が起こった。理科である。4年生のトップクラス講座には、理科がないのだ。算数・国語については、なんとかしてトップクラス講座の授業についていけばいいが、理科については、一般コースを受講している他の塾生に遅れることは確かだ。
その不安を口にすると、X先生は、きっぱりと
『今は、算数と国語に全力投球で、理科は、6年になってから、頑張って遅れをとり戻すことにしましょう。きっと大丈夫ですよ』
という意見だった。
この結果、理科はずっとお荷物のままで、毎月の月例テストを受けるたびに、理科が大きく足を引っ張ってきた。算数や国語に比べて、偏差値で10~15は確実に劣り、50を切ることさえあった。
手元に残っている月例テストの成績表を見ると、4年生の2~3月の平均偏差値が、
国語 69、 算数 68、 理科 52
となっている。この頃は、国語と算数がたいへん好調で、でき過ぎといっていいくらい素晴らしい偏差値が残っているが、理科については、まさに実力通りである。いや、これでも実力以上だったかもしれない。
学校の授業で使う理科の問題集は、親が見てもかなり難しいものだと分かったが、受験用にうまく活用されていないのか、あるいは塾のテストと範囲がうまく合っていないのか、偏差値には跳ね返ってこなかった。
私立の小学校に通っていても、学校の授業だけではなかなか受験に太刀打ちできないことが少しずつわかってきた。これが、現実の厳しさかもしれないが、「結果オーライ」の方針を変えようとは思わなかった。親の態度がころころ変わっては、子供が動揺するにちがいないと、貫き通した。

 

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