第9章 本番

① 地獄からの生還11月になると、塾に通うために学校を休む同級生が一挙に増えた。もちろんE塾でも、学校を休んで参加する授業が始まっていた。各中学ごとに試験日の前日におこなう「前日特訓」や、特訓授業と自習からなる「直前特訓」などだった。
 どちらも、午前中からという時間設定なので、当然学校を休むことになる。特に後者などは、塾側も気にしてひそかにおこなわれるのか、きちんとした案内のプリントが配られることもなかった。
 長男は、受験を実感していないのか、どれも参加することなく学校に通い続けた。しかし、東大寺中に不合格になってからは、顔つきが変わって、灘中学の前日特訓は絶対受けるといい出した。
 わが家なりのやり方で、たとえ結果的に不合格になっても、決して後悔しない約束だったが、現実に不合格となると、長男のショックはかなり大きかったようだ。
 それでも、国・算・理については、まずまず思った通りのできだったことが分かると、長男も落ち着いてきた。また、もし東大寺中に合格していても、西大和中と同様に、距離的な問題があるために通学がかなり難しく、入学手続きはしない予定だった。
 そのことをじっくり話し合うと、長男は、やっと自分の中で整理がついたようで、気持ちを灘中学受験に向けられた。
 長男にとっても、親にとっても、地獄のような数日間だったが、東大寺中に落ちたことで、やっと長男は、本物の受験生になれたのかもしれない。
 このまま灘中学にも落ちたら、どこにもいくあてがないまま、最後の砦である洛南中にチャレンジしなければならないのだ。洛南中を受けている時の長男の精神状態を考えると、さすがに「結果オーライ」も無謀かと考えてしまった。あれほど家族全員で納得して決めたことなのに、ここで親がぐらついてはいけないと、このときになって初めて、親も必死になったのかもしれない。
 ただ、入試は本当に分からないもので、西大和中、東大寺中と連続合格を果たし、勢いに乗って臨んだ本命の灘中学の入試で失敗してしまった人もいたようだ。
 結果的には、わが家にとっては、この試練が実を結んだことになる。
② 灘中学入試1日目 東大寺中の合格発表以後、入試の本当の厳しさを味わい、灘中学の入試前日には、塾の「前日特訓」にも参加した。長男は、一連の入試の中で、初めて、受験生らしい顔つきになった。西大和中にすんなり合格したことで、甘く考え始めてしまったところを、東大寺中の不合格が、受験の厳しさをあらためて教えてくれたのだ。
 灘中学の入学試験は、2日間でおこなわれ、1日目は、国語Ⅰ80点、算数Ⅰ100点、理科100点の計280点満点。2日目は、国語Ⅱ120点、算数Ⅱ100点の計220点満点。2日間全体で500点満点となる。
 98年度の合格最低点は、340点。わが家の狙いとしては、1日目でなんとか200点を越えたいところ。決して簡単な数字ではないが、このくらい得点できなければ、合格は非常に難しい。できれば、もう少し最低点が下がって欲しいのだが。
 1月29日、灘中学受験1日目。
 西大和中のときも、東大寺中のときも、長男に目に見えて緊張という感じなかったが、さすがに灘中学。夜中に何度も目が覚めて、枕元の時計を確認していたらしい。よく眠れなかったようだが、朝起こしにいくと、すんなり起きてくる。珍しいことだった。こんなところにも、東大寺中の失敗が生きているのかもしれない。
 試験が始まる前に、直前講義があるのはいつもの通りだった。早く着いた子供たちは、直前講義のプリントを受け取って、せっせと計算問題を解いていた。前の方にX先生が立ち、子供たちに気合を入れる言葉をかけていた。後ろの方では、落ち着かない様子で父兄が並んでいた。
 受験生たちは、X先生の声に押されるようにプリントに向かっていたが、果たして、この中の何人が合格するのだろうか。複雑な思いだった。全員が同じように必死の思いなのに、必ず合格者と不合格者にわかれるのだ。
 直前講義の後、父兄全員が見送る中、子供たちが出陣していった。親のできることはここまでで、後は長男に任すのみ。

 試験の終わる頃に迎えにいって、家族でお昼ご飯を食べた。長男はそのまま、塾で午後からおこなわれる2日目用の「前日特訓」に向かった。
 もちろん、終わった1日目のできについては、なにも聞かなかった。


③ 灘中学入試2日目 1月30日、灘中学受験2日目。
 長男は、1日目の試験の疲れからか、ぐっすり眠ったようだが、簡単に疲れがとれるはずもなく、寝起きが悪かった。泣いても笑ってもあと1日の勝負。親としては、とにかく頑張ってくれと願うしかない。
 1日目と同じ場所で、直前講義がおこなわれた。1日目と同様に、受験生を見送って、親のつとめは終わった。長男には、他の受験生よりも余力が残っているはずだという信念が、わが家の最後の頼みの綱だった。そのための「結果オーライ」受験だったはずだ。

 2日目は、母親が迎えに出かけた。
 本命の試験を終えた長男が、母親と一緒に帰ってきた。思った以上に、長男の機嫌がいい。聞くと、心配だった算数Ⅱのできがよかったという。
 『1問は捨てたけど、5問中4問に手をつけて、かなりできたと思う。国語Ⅱは、まずまずだから、受かったと思う』
とまでいい出した。そういわれても、灘中学に簡単に受かるはずはなく、翌日の洛南中の1日目の試験に向けて、少しは頭を使っておいて欲しいのだが、長男は、緊張が解けてしまったようだった。
 その日は、いつもとちがって食欲も旺盛で、洛南中の過去問に目を通しただけで、さっさと寝てしまった。

③ 灘中学入試2日目 1月30日、灘中学受験2日目。
長男は、1日目の試験の疲れからか、ぐっすり眠ったようだが、簡単に疲れがとれるはずもなく、寝起きが悪かった。泣いても笑ってもあと1日の勝負。親としては、とにかく頑張ってくれと願うしかない。
1日目と同じ場所で、直前講義がおこなわれた。1日目と同様に、受験生を見送って、親のつとめは終わった。長男には、他の受験生よりも余力が残っているはずだという信念が、わが家の最後の頼みの綱だった。そのための「結果オーライ」受験だったはずだ。

2日目は、母親が迎えに出かけた。
本命の試験を終えた長男が、母親と一緒に帰ってきた。思った以上に、長男の機嫌がいい。聞くと、心配だった算数Ⅱのできがよかったという。
『1問は捨てたけど、5問中4問に手をつけて、かなりできたと思う。国語Ⅱは、まずまずだから、受かったと思う』
とまでいい出した。そういわれても、灘中学に簡単に受かるはずはなく、翌日の洛南中の1日目の試験に向けて、少しは頭を使っておいて欲しいのだが、長男は、緊張が解けてしまったようだった。
その日は、いつもとちがって食欲も旺盛で、洛南中の過去問に目を通しただけで、さっさと寝てしまった。

④ 灘中学合格発表 1月31日、正午過ぎ。洛南高校付属中学の門の前で、1日目の試験を終えた長男が出てくるのを待ちながら、母親からの電話連絡を待っていた。
 洛南中の入試1日目であると同時に、第1志望の灘中学の合格発表の日でもあり、気持ちはどうしても灘中学にいってしまっている。
 灘中学の合格発表を一足先に見にいっている母親からの電話は、まさに運命の電話であり、考えてみれば、やむにやまれない私立小学校受験に端を発し、今まで続いてきた私立中学受験の総決算である。合格していれば、洛南中の2日目の試験を受けに京都まで来る必要はなくなり、電話が鳴った瞬間に長く厳しい受験レースが終わるのだ。
 いや、なによりもまず、明日の朝、連日の受験で疲れ切っている長男を、ふとんから引き剥がすように起こさなくてもいい。ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
 灘中学は正午に発表の予定なので、もういつ電話が鳴ってもいいはずだった。携帯電話を持たない母親が、次男とともに、公衆電話を探すのに手間取っているのだろうか。それとも、もしかして、、、。
 考えても仕方ないことを、ついあれこれ考えてしまう。しかも、ついつい悪い方の結果を考えている。
 そのとき携帯電話が鳴った。思わず時計を見ると、12時45分だった。母親からの報告にちがいない。あわてて着信ボタンを押した。
 『もしもし、わたしです』
 やはり、母親からだった。
 『どっ、どうだった? 受かってたか?』
 声が震えるのが、我ながら情けない。
 『灘中が見つからないの。近くに区民センターていうのがあるんだけど』
 気が抜けるような電話だった。JRの住吉駅から灘中学までは、ほんの10分ほどの道のりである。今さらすんなりたどり着けないなんて、灘中学が拒否しているとしか思えない。まことに幸先の悪い電話だった。
 母親の説明する現在地からの道筋を、大急ぎで説明して電話を切ったが、周りの父兄の耳は気になるし、気分は最悪だった。家族全員の願いが、今にも消えそうだった。
 振り返ってみると、わが家は、どの受験校にもきちんと下見にいっていなかった。
 西大和中は、大阪駅で、何時のJR大和路快速に乗ればいいのかを調べただけで、あとは、塾からもらった地図が頼りだった。
 東大寺中は、下見に出かけたPさんから、一番便利な電車の乗り継ぎを教えてもらった。乗り換えのための近鉄電車の時刻表は、インターネットで調べただけだった。
 洛南中は、願書の案内地図を見ると、京都駅から一本道だと分かったので、もうそれで安心していた。京都駅付近なら、おおよその土地勘があった。
 そして、本命の灘中学は、長男が塾からまとまって文化祭に出かけたことがあり、わたしも学校説明会に出席していたが、母親は、最後までどこに灘中学があるのかよく知らないまま受験の本番を迎えていた。
 受験校の下見にいかないのは、親の手抜きといわれればまさにその通りで、他の受験生にしてみれば考えられないことだろう。そのツケが今になって回ってきて、肝心の灘中学の合格発表で道に迷うなんて。
 母親から連絡が入るのが早いのか、長男が試験を終えて出てくるのが早いのか、いらいらしながら待っていた。もちろん、これほど落ち着かない瞬間は、それまでに経験したことがなかった。自分の受験のときでさえ、こんな気持ちにはならなかった。

⑤ 「結果オーライ」の結果 
 

洛南中から、直接灘中学に向かった。自分の受験番号を自分で確認し、受験票と引き換えに試験の結果を受け取るためだった。他にも、同じように洛南中から灘中学に向かう受験生も多かった。
京都から住吉に向かうJRの車内で、長男と2人、コンビニのおにぎりをぱくついた。まことに質素な昼食だったが、あれほどおいしいおにぎりは生まれて初めてだった。周りの乗客の視線も、まったく気にならなかった。
灘中学に着くと、体育館の前では、合格発表を見にくる塾生のためにE塾の先生方が待っていた。あの「特別協議」でお世話になった塾長の姿もあった。長男の合格は、先に発表を見にいっていた母親がすでに塾側に報告していたために、塾の先生方はにこにこして、
『早く見ておいで』
と、落ち着いたようすだった。
挨拶もそこそこに体育館の中に入り、自分の目で確認すると、確かに長男の受験番号はあった。掲示板には、合格最低点も書き添えてあり、321点だった。この最低点の低さが、長男合格の原動力だった。
すぐに事務所に出かけ、受験票と引き換えに成績表を受け取る。長男は、2日目の算数のできがよかったと信じており、自分の得点を見るのがが楽しみで仕方ないようすだったが、封筒から取り出した小さな用紙には、

国語 146点、 算数 112点、 理科 65点
合計 323点

と、書かれていた。
長男が楽しみにしていた算数は、112点だった。塾の灘中模擬テストなどでとったことがない高得点だが、それでも、自分の感触をかなり下まわったようで、
『算数Ⅰと算数Ⅱを、別々に書いてくれないとあかんわ』
などと勝手な文句をいっていたが、それも、合格したからいえることだった。
さっそくE塾の先生のところに、成績の報告にいった。国語のZ先生によると、
『国語で受かったな』
という分析だった。
確かに、国語も、灘中模擬テストでとったことがない高得点で、これが合格の要因だったが、それ以上に、合格最低点の低さが最大の要因にちがいない。
合格最低点と2点差で合格というのは、わが家の「結果オーライ」受験にまさにぴったりの結果かもしれない。
いつもの月例テストのように、誰もが稼ぐべきところで大きなポカがでて、あと1問でもミスしていたら、不合格だった。まさに、「結果オーライ」のすれすれ合格だった。

 

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