第1章 私立小学校受験

①決断あなたの住んでいる学区の公立小学校の評判が最悪だとしたら、どうしますか。仕方ないとあきらめて、自分の子供をそこに通わせますか。あるいは、転居してでも、まともな公立校を探しますか。
そして、もう1つの手段が、私立小学校の受験です。わが家の長男は、ひとまず、近所の幼稚園に2年保育で通うことにした。最初から、どこそこの私立小学校を受験しようという、明確で強い希望があったわけではなかったからだ。私たち、親の年代では、公立の小学校・中学校・高校と育ってくるのがごく普通で、公立の学校に対して特別に悪い印象を持っていなかった。
しかしながら、わが家の近くの公立の小学校はたいへん評判が悪く、できることならそこには通わせたくない、という気持ちはあった。そして、良くない噂がいろいろ伝わってくるにつれて、その気持ちは徐々に強くなっていった。さらに、小学校だけでなく、いやそれ以上に、その上の中学校の評判が悪かった。公立学校も、そのような事態に対して、熱意を持って対処してはいるのだろうが、その中学の生徒たちが、短縮授業なのか、しばしば午前中で帰ってくるのを目にすると、不安感がいや増しに増す。そんなに早く帰って、授業時間は足りているのだろうか。
とはいえ、転居するのも決して簡単ではない。よって、決断するしかなかった。私立小学校を受けてみようというのが、家族の自然な結論だった。が、依然として、どこを受験しようという明確な目標校はないままの、先に「受験ありき」の決断だった。
正直なところ、どこか受かりそうな小学校が見つかればいい、駄目ならインターナショナルスクールに通わせてもらえないだろうかと、まことに不謹慎な気持ちだった。とにかく、地元の公立小学校さえ避けられればいいのだ。
もちろんこのとき、小学校受験というレールにひとたび乗ってしまうと、その先にこれほど厳しい中学校受験が待っているとは、思いも寄らなかった。ましてや、灘中学なんて、想像の範囲を越えていた。
② A会 入会 決断を下したとはいっても、右も左もわからない人間には、私立の小学校を受験するために、やはりプロの指導が必要だった。
ところが、まず、塾を選ぶノウハウがまったくない状態なのだ。一体どうやって選べばいいのだろうか。塾を選ぶための塾が必要だと、家族で笑ったものだった。
そんな時、たまたま新聞で見かけたのが、A会の控え目(?)な新聞広告だった。これといって、特別に惹かれるものがあったわけではないが、わが家から通いやすいところにあるという地理的条件が、唯一で最大の選択の決め手となった。
他に思い当たるところがないから仕方がない、ひとまず通ってみようというわけだが、今思えば、ここに「結果オーライ」受験の原点がある。
幼稚園の年中の、かなり早い時期から通塾を始めたが、他の父兄の熱心さには驚かされるばかりだった。そこは、まさにマスメディアで取りあげられる典型的な「お受験」の世界だった。
塾のドアをあけると、1番目立つところに、前年の受験の結果が張り出されていて、塾生の名前と合格した小学校名がずらりと並んでいる。これも大切な宣伝の1つだろうが、なにやらわざとらしい。
しかも、わが家の人間は誰1人として、それらの麗々しく並んだ小学校名の本当の価値がわからないのだから、こけおどしのようで余計に鼻についてしまう。
わが家のように緊張感のない一家が、本当に一緒に学んでいっていいのだろうか。母親の代わりに長男を迎えにいって、初めて事務所に足を踏み入れたとき、正直、そんな気持ちになった。
毎週土曜日に、幼い長男を連れて出かけていく母親の姿は、端からみれば、いき過ぎの感が否めず、
『いくらなんでも、そこまでやる必要はないんじゃないの?』
と、直接問われることも1度ならずあった。
その通りなのだ。公立の小学校にごく普通の状態が期待できるならば、わざわざ時間も体力もお金もかけて、自分から苦労を買ってでる必要などない。
『うちだって、近くの小学校にいければ、それに越したことはないんだけど』
いつもそう答えてきた。まったく偽らざる気持ちだった。
とはいえ、あいかわらず、なんとしてでも合格しなければという、切迫した気持ちにはならなかった。長男も、そんな余裕を敏感に感じ取っていたのか、案外すんなりと通塾を受け入れてくれた。
もちろん、塾に通うとか小学校を受験するとかいう事態を、きちんと理解しているわけではなかっただろうが、まずまずスムーズな環境づくりだった。
また、A会の授業の前には、幼児体操教室にも通っており、楽しい体操を終えて、そのついでのようにして塾にいくのがよかったのかもしれない。体操教室も、実際には「お受験」のためではあったが、長男にそこまで分かるはずもなく、どちらもそれほど嫌がらなかったのが救いだった。
親の方が必死になっていなければ、その精神的な余裕はすぐに子供に伝わるが、逆に、親の眉が釣りあがってしまうと、子供の余裕はどんどん減っていっただろう。
一緒に学んでいた男の子に、親の期待に負けて途中で断念してしまった子がいたが、親の余裕は、「お受験」をするうえで大切なことにちがいない。

③「お受験」勉強 A会の授業の内容は、予測を大きくはずれるようなことはなく、まずまず標準的なものだったと思う。
筆記試験のための、知能テストや、のり・はさみ・クレヨンなどを使った訓練を、子供たちの興味を引きつつ、なおかつそれなりの秩序を保って繰り返す。また、時に、体育館などを借りて、運動機能の練習も取り入れる。ボールを使った競技や、縄のぼり、逆上がりなどを反復練習するのも、大切な授業だった。
どちらの練習においても、あれができるとか、これもできるとかいうことだけでなく、先生の指示にきちんと従うという点が、重視されるということだった。長男は、これといって得意なものがあるわけではなかったが、自分から前に出ていくという性格ではないために、その点がかえって有利かもしれないと、家族では考えていた。
さらに、夏休みになると、いつもの教室でおこなう夏期講習以外に、4泊5日のプレ受験合宿があった。
長男にとっては、効果よりもプレッシャーの方が大きいと考え、年中、年長いずれのときも見送った。わが家だけ合宿に参加しないと決心するのには、かなりの勇気を要したが、受け持ちの先生と相談して下した結論だった。
後になって、他の塾に通っていた知人と情報交換しても、授業内容などのシステムは、やはりかなり似通っていたことが分かった。受験の内容に即していて、一定の水準以上の授業をしてくれるならば、どこの塾に通っても大差ないのかもしれない。
それより、まだ幼い子供にとっては、塾の雰囲気や、直接指導を受ける先生との出会いの方が、大きな問題にちがいない。
長男の場合、常にひとクラス10人に満たない生徒数だったこと、受け持ちの先生が女の先生がだったことなどが、たいへんよかったようだ。次男とは年齢が離れているので、1人っ子同然で、塾に慣れるまでは、人数が少ないということがかなり重要だった。また、受け持ちの先生とたいへんうまくいったのもありがたいことだった。
受け持ちの先生は、はきはきしており、いい加減なことが嫌いで、何事もきちんとしておかずにはいられない女性で、のんびりした長男は、うまくそのペースで引っ張られたように思う。信頼しきっているようすがはっきり分かった。
④受験校決定A会でも、時折模擬テストがあり、その結果を見ているうちに少しずつ目標校が決まってくる。長男に、どれだけの実力があるのか、どこまでなら受験可能なのか、模擬テストの結果が客観的に示していた。
年長になってから、塾の先生と何度か懇談をした後、塾側の薦めもあって、受験校はB小学校と決まった。
B小学校は、例年男女合わせて50人にも満たないほどの募集定員で、6年生になると、男子生徒のほとんどが中学受験にチャレンジする。少ない生徒数の割には、中学受験にも実績があって、雲の上にかすかにみえる灘中学にも、時折合格者が出ていた。
わが家のように、とにかく地元の公立校を避けたいというケースでは、少なくとも小・中一貫教育の私立を、できることなら高校・大学まで続いている学校を受験するのが正解だろう。実際、せっかく私立小学校を受験するなら、そのまま上までエスカレーター式に進学していくところを受けたいという考えの父兄も多い。
しかしながら、塾の先生のアドバイスによると、たとえば小・中一貫の学校では、のんびりし過ぎてしまう子も多く、思ったほど学力が伸びないケースもあるという。やはり、学校選びは簡単ではない。
わが家は、結局、A会入会を決めたときと同様に、電車の乗り換えなしでいけるという地の利が大きく、また、生徒数がそれほど多くないというのも長男の性格には合っているので、B小学校に決定した。
もちろんこの時点で、私立中学受験については、具体的なイメージなどまったくなく、まだまだ先のことだった。
⑤入学試験1992年11月。
B小学校の入試が始まった。1日目は、本人の筆記テストおよび運動能力テスト。
筆記テストに関しては、塾の模擬テストの結果などから、あまり心配してはいなかったが、運動能力テストの方は心配だった。体操教室に通ってはいたが、自信が持てないまま本番を迎えていたのだ。
テスト当日は、まず、テストの前の待ち時間に、トイレにいっておくように指示されたという。そのときに、ハンカチを持っているかどうかがチェックされた。気をつけてさえいればなんでもないことだが、緊張しているとうっかり忘れかねない。親の落ち着きを試されているようなものだ。
運動能力テストでは、縄のぼり、縄跳び、ドリブルなどが課せられるが、長男は特に縄のぼりが苦手で、本番でも、のぼれないままつかまっていただけだった。結局は、
『はい、降りてください』
と指示されて、ほとんどのぼれないまま降りたとのことである。
これを聞いて、親としては、心配になるやら情けないやらで、結果が恐くて仕方なかったが、ここでも、最後までのぼれたかどうかだけではなく、きちんと指示された通りに動くとができるかが判定のポイントになる。
実際に、上まですいすいのぼり切った中に、不合格になってしまった子がいた。
試験後の塾の先生の話によると、知能テストは、塾で受けていた問題と同じものが出題されたとのことで、見通しが明るくなった。運動能力テストの方も、大きな減点ポイントはなかっただろうとのことだった。
2日目は、子供と両親の3人で受ける面接がおこなわれる。
長男は無邪気なもので、1日目のテストが終わった時点で、緊張が解けたようだった。また、塾で、面接の練習は何度か受けており、案外リラックスしていた。一方親の方は、かなりの緊張だった。
想定問答のようなものはあったが、やはりできることならば、自分の言葉で答えたいという気持ちが強く、そんな気負いが、かえって緊張を高めたのかもしれない。
内容的には、ごく普通に、そしてていねいに答えることを心がけさえすれは十分で、言葉の端端に熱意がこもっていることが大切だということだった。
面接の教室はいくつか用意されており、受験生はそれぞれ呼ばれた順に、指示された教室に入っていく。わが家は、校長先生の面接だった。
一通り長男に質問があったあと、両親に質問があった。
『お子さんに対して、お父さんが一番大切にされていることはなんですか』
と、問われ、
『自分のすべきことを、自分から進んでやれるような自主性です』
と、答えたことが印象に残っているだけだ。
これですべては終わった。後は結果を待つだけだという心境で、家族3人で帰路についた。
⑥初めての合格発表

驚いたことに、発表の前日、すでに塾側には長男の合格が分かっていた。
このような、学校と塾との密接な関係を目にすると、塾に通わないで受験することが無謀にさえ見えてくる。スタートラインから、ハンデを背負っているようなものだ。有形無形の、入試における塾の力は、この後たびたび実感することになる。
長男は、なんとかB小学校に合格することができたが、合格の要因が今1つよく分からなかった。
塾には、ずっと週1回通っただけだし、夏休みの合宿にも参加していない。体操教室にも週1回通ったが、運動能力テストの準備は、納得できるところまでいかなかった。
ただし、
『受験なんだから、もっとしっかり』
とか、
『なんとか合格しなきゃ』
などと、長男の尻を叩いて追い込んだことは1度もなかった。悲壮感のなさが、わが家の最大の売り物なのだ。
やはり、このような親の側の余裕は、確実に長男にも伝わっていたようで、案外リラックスしたまま受験を迎えられ、なんとかBに合格できたのだ。親子の面接には、親の方が緊張していたぐらいだ。
いずれにしても、これで、中学受験への第1歩を踏み出すことになったわけだが、できるだけのんびりゆったりいこうという「結果オーライ」受験の基本が、ここに自然にできあがってきた。

 

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