第4章 大切な5年生

①能力別クラス始まる5年生になると、B小学校でも、算数と国語で受験用の実戦的な授業が始まった。
 算数は、教科書通りに習う「一般授業」と入試問題演習をする「実戦授業」の2種類に分けられ、「実戦授業」は、能力別のクラス編成になった。授業の進度に合わせて、全員が定期的に確認テストを受け、その結果によって、2ヶ月に1度成績順にクラス替えがおこなわれるのだ。
 1学年が50人に満たないほどの少人数の学校とはいっても、5年生ともなれば、実力も目指すところも明らかにちがってきているので、受験対策を第一に考えるならば、やはり能力別クラスの方が効率がいい。
 ただ、成績順のクラスで授業を受けるために、同じ分野を習っていても、クラスによって扱う問題量がかなりちがい、その成果が如実に確認テストにあらわれる。その結果、クラス間の実力差が少しずつ大きくなって、生徒の入れ替えは思った程ひんぱんではない。クラス替えがあるとはいっても、ある程度固定のメンバーになってしまい、上のクラスに上がろうという意欲が削がれやすい面もある。
 しかしながら、生徒1人ひとりの力を把握してできるだけきめ細かくクラス分けすることは、現時点ではベターな選択だろう。幸いなことに、長男は、6年生の終わりまでほとんど一番上のクラスにいられたので、それなりのレベルの授業でもまれ続けることができた。
 毎日配られる教材のプリントを見ると、入試の頻出問題がずらりと並んでいて、E塾のトップクラス講座のテキストほどではないにせよ、受験の標準レベルには十分達していると思われた。中には、考え込んでしまう問題もあり、毎回毎回の宿題をきちんと片づけるだけでも、長男には一苦労だったようだ。
 塾を優先するあまり、この授業を軽視して、宿題などしてこない生徒もいたようだが、たいへんもったいないことに思う。
 国語についても、「一般授業」とは別に、塾の教材とまったく遜色のない実戦的なテキストを用いて、能力別のかなり難しい「実戦授業」が組み込まれるようになった。算数と同じように、定期的に復習テストがあり、その結果でクラス分けがおこなわれた。
 特に、何度も繰り返された「漢字・語句」の演習は、知っていさえすれば確実に得点できる分野の問題なので、読解の苦手な人にもたいへん有効な授業だった。国語の受験勉強の中では、一番即効性があるところなので、本番で役に立った人も多かったはずだ。
② 学校への不信感 算数や国語で実戦的な授業が始まり、ますます学校の授業に期待が高まったが、それ以外の授業については、受験用に手直しが加えられることもなく、特にレベルがあがったとも思わなかった。
 それでも、B小学校の授業には基本的にずっと満足していたし、塾よりも学校を優先する気持ちにまったく変わりなかった。E塾に通い出してからも、たとえば、学校の授業だけが頼りの理科で月例テストの偏差値が伸びなくても、その気持ちは揺らいでいなかった。
 ところが、5年生になって新しい先生が担任になってからは、少しずつ通常の授業に対して不信感が頭をもたげてきた。公立の小学校からB小学校に移ってきたその先生は、前任校では、生活指導主任をしていたということであり、頭の中はもはや教育者というよりも管理者だったようだ。
 長男の学年は、例年になく落ち着きのない学年で、やんちゃな男の子がそろっているといわれていたので、学校側は、その管理手腕に期待したのだろうが、それが見事に裏目に出てしまった。
 担任の先生は、一筋縄ではいかない子供たちの管理に気を使うあまり、どうしたら中学受験に役立つ授業ができるか、ということが疎かになってしまった。授業を工夫して充実したものにしようということまでは、手が回らなくなってしまったのだ。
 公立校のときと同様に、生活指導主任のような立場で副担任にでもなって管理職に徹すれば、たいへん有能な先生だったにちがいないが、管理者とも教育者ともつかない、微妙な形で登用されたことによって、思わぬ方向へと進んでいってしまったのだろう。
 わが家は、B小学校の先生や授業に大きな期待を抱いていたし、それまでがっかりさせられたことがほとんどなかったので、余計に長男のショックは大きかった。
 たとえば国語の授業では、それまでの漢字のテキストがなくなってしまったために、難しい漢字の練習もなく、ただ新出漢字を何度もノートに書かせるだけだった。やり方しだいで、いくらでも効果的になる漢字の練習が、つまらない単純作業に陥ってしまったのだ。
 あるいは、社会では、たびたび教科書のグラフや地図を写させる。それが終わると、そこから分かったことを順に発表させるのだが、生徒が答えたら答えっぱなしで、きちんとしたまとめはしないまま終わってしまう。
 漢字の練習やグラフを写すことなどは、わざわざ授業中に、貴重な時間を使ってすべきことだとは思えないし、たとえこれらの作業がたいへん重要だとしても、各自家でやってくるように前もって指示しておけば、授業中には、まとめの発表をするだけで済むのだ。
 自習や宿題で処理できるようなことばかりに授業時間を費やすのは、本当にもったいことだった。もう少し工夫すれば、無駄な時間をずいぶん省けるはずだ、といつもはらはらして見ていた。
 その結果、時間が足りなくなって、宿題の答え合わせを後回しにしてしまったり、問題集なども、テストの日までに終えるべき範囲に、ほとんど手をつけていなかったりと、授業が計画通りに進まないことも多かった。
 長男は、社会や理科が得意ではないので、普段から社会や理科の問題集を解くのに苦労していたが、テストが近くなると、なんとか自分でテスト範囲まで勉強を進めようというあせりも伴って、ほとんどパニック状態だった。
 そのため、一番苦手な社会の問題集だけでもテスト範囲の部分の答えを見せて欲しいと、先生にお願いしたことがあったが、そのような個別の希望にいちいち対処できるほど、先生に余裕は残っていないようだった。
 一方で、先生は、先生のいうことを聞かなかったり、宿題を忘れてきたりする生徒が多いために、生活面での細かいことに厳しく注意を繰り返さざるを得なかった。もちろん、先生に反抗したり、宿題をしてこなかったりする生徒の方が悪いのだが、授業をするよりも、生活指導をする時間の方が長いことさえあった。
 このような状況から、塾に頼る生徒がますます増え、学校の授業を軽視する傾向は強くなる一方だった。授業の雰囲気は、少しずつゆるんできて、分かっていて宿題をやってこない子供がいたり、授業中の私語が増えたりもした。
 いろいろな点で、大きな意味を持った1年だった。


③5年生の1年間 5年生になって、担任の問題を通して、学校に対してわずかながら不信感が生まれてきたが、だからといって、塾の回数を増やす気にはならなかった。あいかわらず、トップクラス講座に通うだけだった。
 ただし、5年生のトップクラス講座は、4年生とはちがって、国語と算数の曜日が別々になり、算数は週に1回、国語は月に2回と、少しだけ通塾回数や授業時間が増えた。この程度の自然なステップアップが、結果的には長男にはちょうどよかった。
 X先生のアドバイスでは、一般コースの週3回(5、6年生になると週4回に増える)の通塾が基本で、その程度の負荷に耐えられるように訓練する必要があるということだった。
 わが家でも、5年生になったら、頑張って一般コースにも通うつもりではいたのだが、4年生の一年間の通塾を通して、トップクラス講座をしっかりやれば十分ではないかと思うようになっていた。国語と算数は、なんとかトップクラス講座の授業についていけば、月例テストでそれなりの結果が出ていたので、学力面で心配はしていなかった。もちろん、理科はひとまずおくとして、だが。
 また、この頃長男は、1日4時間の家庭学習というリズムがやっと身についてきたところだった。午後5時~7時と、9時~11時の4時間は、塾のない日の勉強の基本的なリズムで、このペースを受験までずっと守り通すことになった。
 1日4時間という勉強時間は、他の受験生に比べれば、絶対的に少ないのかもしれないが、これ以上になると、長男は途端にストレスをため込んでしまう。バランスを保って勉強できる最大値だった。
 その時間内で、学校の宿題とトップクラス講座の復習を、自分なりにこなすことがができるようになってきたところなのに、急に塾の授業数を増やして、いいリズムを崩したくなかった。長男にとっては、それまでの週1回の難しいトップクラス講座が適切な負荷だったし、5年生では、それが週1回プラス月2回に増える程度のことで十分だという印象を持っていたのだ。
 通塾回数を増やしていって、より大きな負荷に耐えられるように鍛えていくことも大切だろうが、長男の性格からすると、依然として消化不良をおこす可能性が大きかった。無理して薮蛇になるよりも、長男が納得できるまで時間をかけさせてやる方がいいと、ごく自然に判断できた。
④ 初めての志望校判定模擬テスト5年生の8月に、初めて、志望校判定模擬テストを受けた。この模試は、その名の通り、志望校を3つまで書くことができ、その合格可能性が判定される。
 わが家では、まだ特に志望校が決まっていなかったので、分からないまま、灘中学1つだけを書くことにした。灘中学に受かるとか受からないとか、まったく気にすることなく、せっかくだから書いてみようかという軽い気持ちだった。「結果オーライ」だからといって、少しくらい夢を見てもいいのはないか。まさに、夢だからこそできた大胆さだった。
 5年生の4月~7月の月例テストでは、平均の偏差値で、
   国語 69、 算数 67、 理科56
程度だった。相変わらず理科はダントツに弱いが、それは覚悟の上のこと。国語と算数で少しは挽回できるかもしれないということで、灘中学を書いてみたのだ。
 模試を受けてみた感触は、
 『よう分からん。できたような、できないような』
という、あまりにも頼りないものだったが、長男の場合、自信のあるときの方が総じて結果がよくなかった。よく分からないというのが、本音だろう。
 戻ってきた模試の成績表は、灘中学がB判定で、「(準合格ライン)あと一歩です。これからもこの調子で努力を続けていけば、この学校を志望校にすることも可能です。着実な努力を期待します」と、書かれていた。
 灘中学でA判定をもらうには、3科目の総合偏差値が62必要だったが、長男は、
   国語Ⅰ 72、 国語Ⅱ 66、 算数Ⅰ 66、 算数Ⅱ 54、 理科 43
    灘中型の総合偏差値  60
だった。いつもの月例テストにまして理科が悪く、偏差値50を大きく下まわっている。家族全員で、思わず苦笑いをしたものだ。
 いずれにしても、B判定なら、灘中学が全然駄目というわけでもないということで、このとき、初めて本当に灘中学を受けてみようかと、家族の新しい希望が生まれた。
 とはいえ、理科が悪いことより、算数Ⅱが悪いことの方が問題だった。総合でB判定ということは、今の段階では、理科の悪さをカバーできるほど、算数や国語の力はついていないということだ。やはり、甘くはなかった。算数をもっと頑張れば見込みが出てくるのかもしれないが、算数の力は本当に伸びるのだろうか。灘中学の算数は、ちょっとやそっとの難しさではないのだ。日本一の難しさといわれるくらいだ。
 もっとも、それほど切迫していたわけでもなかった。できる範囲で精一杯努力して、灘中学が駄目なら受験校を下げるだけのことだ。家族は、その方針でまとまっていた。
 苦手な理科については、心配しても仕方がないので、X先生のアドバイスを信じて、
 『理科は6年』

⑤ 第2回志望校判定模擬テスト 「結果オーライ」のんびり受験で、たとえその結果が悪くても決して後悔しない、ということを家族で再確認した上で、ひとまず灘中学を第1志望にして、5年生の2学期が始まった。あいかわらず、トップクラス講座以外も受講しようとは、まったく思っていなかった。
ところが、自分のペースを崩さずに勉強を続けていても、周りの5年生がペースをあげてくれば、相対的に成績が悪くなるのは当たり前で、月例テストの結果が、それまで以上に悪くなった。5年生の9月~11月の月例テストの成績は、3ヶ月の平均偏差値で、
国語 62、 算数 64、 理科55
だった。以前に比べて、特に国語の落ち込みが激しかった。国語は、小さい頃からよく本を読んでいたことと、B小学校で低学年から作文指導などで鍛えられてきたことの2つが頼りで、特別な努力をしてこなかっただけに、いったん成績が落ちてきたら、どう対処していいのか分からなかった。
空いている時間を見つけては、本をよく読むようにすること以外では、学校の授業と、塾のトップクラス講座の授業や復習を、今まで以上に真面目にすることくらいしか思いあたらなかった。
一方、理科が突然伸びてくるということも当然なく、11月末の第2回志望校判定模擬テストが思いやられた。
今度は、B判定どころでは済まないかもしれない。それほど真剣に決めた第1志望校ではないので、判定が悪ければあきらめればいいのだが、もう少し夢を見ていたいというぜいたくな希望も持っていた。身のほど知らずとそしられそうだが。
第2回志望校判定模擬テストでは、第1志望と第2志望に、灘中学、甲陽学院中を書いてみることにした。第1回に比べて、少しだけ現実的な選択になっていた。
結果は、
国語Ⅰ67、 国語Ⅱ68、 算数Ⅰ74、 算数Ⅱ57、 理科 44
灘中型の総合偏差値  62
だった。算数Ⅰの思わぬ大健闘で、見事に灘中学の合格ラインの偏差値62に達して、A判定をもらうことができた。もちろん第2志望の甲陽学院中も、A判定だった。
しかしながら、本番の算数で、これほどの成績がとれる可能性は少なく、喜んではいられなかった。特に、短い時間で問題を見極めて、解ける問題からテキパキ処理していくという部分が、長男の最も苦手なところで、そこが伸びているように思われなかったからだ。
やはり、じっくり考えて解くパターンの問題の方で、大幅な底上げが必要だった。もちろんここでも、理科はひとまず置くとして、だが。E塾の指導やテキストを信じて、トップクラス講座を続けるだけだった。

 

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