(江戸時代)

慶長十八年(1613年)没の十三代、與右衛門尉藤原長基(よえもんのじょう、ふじわらながもと)法名、松月道久より、今の二十八代目まで、約三百九十年書かれています。二十三代目基定までは、代々與右衛門何々基、基何々と、名乗っています。昌基利基吉基基忠基定と続きます。手紙や箱書きなどには、角谷與右衛門としか、書かれていませんので、どの與右衛門なのかで苦労します。ちなみに與右衛門と言う名は、太閤秀吉公から頂いたと伝わっています。角谷のつのと言う字は、本当は真ん中の縦棒が下まで突き抜けていますが、パソコンでは変換出来ないので、仕方なくを使っています。

角谷本家血脈

三百九十年の時を経た、貴重なものです。市場村の庄屋を代々務める、角谷彦兵衛家も十七代目の吉基(約三百年前)の時の分家です。何とか、苦労をして読み解き、家系図を作りましたが、当時の人は、今のような長命では無かったようです。

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十三代(長基)の正室は、尾崎村(今の阪南市尾崎町)の庄屋、吉田九右衛門の娘です。長基の位牌の戒名は、泰壽院殿松月道久居士となっていますから、地元ではそこそこの実力者であったと、思います。ちなみに大名は、○○院殿××大居士ですので、院号ではそれに次ぐものを貰っています。
泉州谷川村の新湊、鑿開の時も尽力し、その賞として、新湊に若干の屋敷を給わったとも伝わっています。

角谷家血脈

古伊万里 金襴手 唐草文 茶碗