大名行列

 本陣使用手桶 

参勤交代の大名行列の人数は、百万石の加賀藩で約三千人、五十五万石でも、徳川御三家の紀州藩は、約四千人(十一代藩主、斉順(なりゆき)公の時)と、いわれています。幕府では、武家諸法度で、最低の供揃いの人数は定めていましたが、大名の見栄の張り合いで、段々多くなったそうです。その費用も莫大で、千両箱が幾つも、必要だったと聞いています。そんな大人数ですから、大名行列を泊めるということは、宿場の最大の行事だった様で、御家来衆は数軒あった旅籠も含めて、宿場の街道筋の民家に分宿をします。その宿の手配等を、抜かりのないようにするのも本陣役で、角谷家は、幕府より二十五石五人扶持(馬問屋役を兼ねた時で、下級武士の禄ほどか?)を、拝領していましたが、決して高給ではなく、名誉職であったようです。参勤交代は、宿場はそれなりに潤ったかもしれませんが、多くの村の人々にとっては、大変迷惑な事であったかも知れません。

ウィキペディアより園部藩の行列 (南丹市文化博物館蔵)

大名行列は一日約、十里(四十キロ)程を歩くのが常であったと聞いています。夜明けから日暮れまで、昼の休憩、小休止2回以外は歩き詰めでした。大坂、江戸間は、約百三十里ですから、十三日、紀州公は大坂まで、二十里程ありますから、十四泊十五日で、江戸まで行っていました。紀州公の行列が、それまでの大和街道,伊勢街道、松阪経由から、紀州街道、上方回りになるのは、元禄時代(1700年前後)の三代藩主、綱教(つなのり)からで、平坦地で歩きやすいのと、上方が発展していたので、見聞を広げる為や、権力を誇示したいが為だと言われています。枚方宿の史料によりますと、天保十二年一月十二日の江戸参府、十一代藩主斉順(なりゆき)公の行列は、上級家臣、203人 下級家臣1,436人 人足、2,337人 馬、103疋の大行列であったと、書き残されています。三百諸侯の中でも、最大規模だった様です。馬二頭に千両箱が積まれてあり、支払いをしながらでした。一説では壱万両も掛かったといわれています。本陣は、泊まるお殿様に、部屋を貸すだけで、お殿様は、自分の道具類(食器鍋釜布団便器風呂桶食材まで、中には、寝ている時に床下から、刺客に襲われない様に布団の下に敷く鉄板も)は持って、料理人まで連れていたので、賄いは一切無しでした。当家に泊まる大名は、一年に一回紀州様だけですので、忙しくも無かったと思いますが、東海道の本陣では、日替わりで様々な大名が着き、その調整をするのに、神経をすり減らしたと聞いています。

文久三年

(1863年)