(江戸時代)

角谷(つのや)家には、苗字のいわれを書いた巻物が残っています。「古記云、泉州信達角谷氏先祖之姓名歳月深遠にして難知」と始まり、その当時、家の戌亥の角に弁財天を奉り、榎の大木がありました。この大木が度々光を放っていたので、人々から木下太夫と呼ばれていました。
今から、約九百年前頃、白河法皇が熊野行幸の折、この家に泊まる事になり、主が立処に新造し、旧宅より角屋(つのや)を出し、御所の間をしつらえ、御輦を入れ奉り、此時、角屋を出し谷あるにより、角谷の二字を法皇より、被下されたと書かれています。この由来書は、本陣屋敷はなぜ除地(年貢を払っていない)なのか、江戸幕府から説明せよと言われて、報告のために書かれたもののようで、その為に江戸時代も除地を継続できたようです。

角谷氏家譜

大阪夏の陣「慶長二十年(1615年)」の時、紀州浅野但馬守長晟(ながあきら)、樫井表より帰陣の折、大坂勢(遅れていた本隊)競い来り、郷里焼亡の刻、一人の老翁、白馬に乗り、角谷、小川(当時の庄屋で三軒南隣)両家の間を駆け廻り、声高に「此の両家を焼くことなかれ、我は此の家を守護するものなり」と叫び、東の山に姿を隠し給うとあり、その為両家は大過を免れた。これすなわち、榎の大木に崇め奉る弁財天女の擁護、または長慶寺観音大士の化身なりと、いいつたふ。というくだりも書かれてあります。

宝永五年(1708年)正月、松月道久、六代末裔角谷與右衛門、歳月を記すとあります。
この巻物は、後の時代に、清書されたものですが、宝永五年に書かれたそのものも、残されています。

角谷氏家譜

蒔絵手箱

角谷家由来書