紀州公は、参勤交代の折には、約千五百人の供侍を
連れ、和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿の
土生本陣で昼休憩をとり、信達宿に向いました。当時、
山中宿の先には、琵琶ケ崖という街道一の難所があり、
そこは、十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の
細道で、その昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ちそれ以降、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえる為
そう呼ばれています。そんな所を千五百人が越えるのですから、相当難渋したことでしょう。信達宿で一泊した
行列は、明朝、七ツ(午前四時)には出立し、
泉大津北助松の田中本陣で、昼休憩を
とり、二泊目は、天満八軒家にあった
紀州藩大坂屋敷ですから、行列は、
五十キロ弱を、十二時間で、歩きました。

本陣とは

江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備され、参勤交代制が確立されると、主要な宿場に本陣と、人馬問屋が置かれました。本陣とは、元は戦の時に大将が詰める本営の事ですが、以後は大名公家、幕府の上使門跡などの貴人の宿舎となりました。宿泊本陣としては五街道の主要な宿場には1〜2軒(脇本陣)置かれており、他に休憩専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は信達宿市場村と、貝塚宿願泉寺に宿泊本陣が、山中宿(今の山中渓)と、助松宿(今の泉大津)に休憩本陣があり、それぞれ千坪以上の屋敷地に、御成門(おなりもん)や式台、上段の間などの格式を備えた建物がありました。角谷(つのや)家は、十三代、與右衛門尉藤原長基(法名)松月道久「慶長十八年(1613年)没」より、二十四代目の與三郎まで、代々本陣役を勤めました。(と思います) 角谷家本陣は、立地上、紀州徳川家の専用で、絵図面では、敷地は千四十三坪とあります。

角谷(つのや)家

家紋

(片木 哲男氏所蔵)

大和七在所廻り道中記

この史料は、旅籠などが宣伝のために、旅人に配ったもので、信達宿は新立と言う字になっています。上の案内板には信達をしんだちでは無く、したちと振り仮名をうって有ります。そういう風に書かれ、またそう呼ばれた時代も、あったのでしょうか?

泉南市が製作した、当家の案内板

写真をポイントしてください。

丸に三つ盛り
反り亀甲花菱紋