長崎坂づくし   長崎中心部の坂    


坂の名前
別名
町 名
場所と名前の由来
おおいで坂 大井手町馬町交差点から電車通りまでの坂。
中島川沿いのこの町のすぐ上流が二股川の合流点で、これに対して大きい堰(せき、これを”井手”という)が築かれていた。
小川町の坂 上町と中町 NBC長崎放送の西側の坂
旧町名の小川町(立山から流れる小川があった)の坂。電車通りを隔てて豊後坂がある。
<炉粕町の小屋敷一之様より>
オランダ坂 丸山町 オランダ坂の本家?
料亭青柳の前の通り(山崎屋の坂)を南に進むと左右に小道が分かれる。左の小道で電車通りに通じる。
(1)オランダ坂を正覚寺の墓地に沿って上って行くと、福屋という西洋料理店が有ったので付いたという説がある。
(2)(旧一二三亭の亭主尾崎敏夫さんからの情報に、この坂の持つイメージを感じます)
丸山は、江戸の吉原・京都の島原とともに日本の三大花街であった。
オランダ屋敷には本国から女性を連れてくることを禁じられ、日本の女性も丸山の遊女だけが出入りを許された。遊女はあまり目立たないこの坂を通って、今は暗渠になっているが 思案橋の通りの銅座川を下り出島へ通った。
オランダ屋敷行きの坂から付いたという説。
<丸山町の尾崎敏夫様より>
亀の子坂 西山町2丁目”梅屋敷”裏側の坂。”ヴィラ中川”から西に上る坂。
敷石が亀の子のかたちをしていたことから付いたと思われる。 
<田上1丁目の松尾道夫様より>
館内の坂
唐人屋敷
通り
館内町
(かんない)
十八銀行広馬場支店前の通りで、館内町から西小島の仁田小学校に通じる坂。
鎖国から幕末まで長崎港の貿易の主流は中国であった。慶長5年1600年唐船が長崎に初入港。寛永12年1635年には唐船の入港は長崎に限定される。最盛期には1万人の中国人がいたという(長崎の人口は6万で九州一番)。
元禄2年1689年密貿易、キリスト教を取り締まる為に、唐人屋敷(9400坪)を建設し隔離収容した。
厳流坂 興善町市消防局から魚の町の電車通りへ向かう坂。
江戸時代、長崎には九州諸藩の蔵屋敷があり、 坂を挟んで長州屋敷(今の自治会館)と、小倉屋敷(長崎食糧事務所)があった。
(厳流島は、長州下関と豊前小倉の間にある)
けんか坂大音寺坂
天満坂
天満宮坂
万才町長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間の石段。大音寺坂の通称。 長崎版忠臣蔵「深堀喧嘩騒動」の発端となった坂である。
元禄13年1700年深堀藩士のはねた泥が、町年寄高木彦左衛門の仲間にかかった、と言うことで喧嘩になり、仲間たちは深堀屋敷に押しかけ、暴れて引き揚げた。 翌日深堀藩士たちは高木邸に討ち入り、彦右衛門を討ち取った。
赤穂浪士討ち入りの一年前の事件で、赤穂浪士はこの深堀藩士の行動をお手本にしたと伝えられている。
県庁坂ケンチョン
サカ
江戸町他県庁前国道202号の坂
県庁所在地は,森崎という岬の突端であた。慶長5年1600年頃から1614年までイエズス会本部が、寛永10年1633年からは長崎奉行所があった。
安政2年1855年には役所内に海軍伝習所を開講した。また海軍伝習所の第二次教官として長崎に来たオランダ軍医ポンぺが、最初は役所内で医学伝習所を開講した。
金剛院の坂 丸山町思案橋電停近く、料亭”松亭”の横の坂
坂をのぼったところに明治12年3月丸山大火で焼けたが、金剛院という寺院があった。寺の跡に病院が建てられたが、今は本石灰町互助会館(大崎神社横)となっている。
<丸山町の尾崎敏夫様より>
ささやき坂 桜 町長崎市役所の二輪車置き場(元の駐車場)の西側の坂。
“囁き坂”という喫茶店がありその名前からで、今では広く坂の名前が使われている。
18年前の開業当時は、”長崎では坂の途中で商売しても成功しない”と言われたという。愛をささやく人々で繁盛している。
<魚の町の高木亜子様より>
忍び坂 船大工町 船大工町光永酒屋横より大徳寺に抜ける階段。 勅使坂へ続く。
丸山遊郭で遊んだ帰り、丸山の大門を通るのが気が引けるということで、この裏階段を通るところから 名付けられました。
<丸山町の 山口 広助 様より>
十人町の坂ピエルロッチ
の坂
十人町 太閤寿司の先、小岩紳士服から東山手の活水女子学院寮前に通じる坂。途中に”ピエルロッチ寓居の地”の碑が建っている。
現地を訪ねて地元の方に尋ねましたが、”ピエルロッチの坂”という呼称は使われていません。良い名前でありぜひ使って欲しいので、あえて入れました。
フランスの文豪ピエル・ロチは、明治18年35才の時海軍少佐で長崎を訪れ、十人町に長崎娘おかねさんと同棲、小説”お菊さん”を発表した。 明治33年にも長崎を訪れ”お梅の第三の春”を発表し、長崎を世界に紹介した。
玉園町の坂  玉園町玉園幼稚園前の坂。この坂を上ると唐寺の聖福寺がある。
長崎で坂と言えば、石段のことを言った。車が普及し石段が無くなってきた。石畳の昔の面影が残っている坂
大音寺坂けんか坂
天満坂
天満宮坂
万才町長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間の石段。
法務局のところに、ミゼリコルディア教会が有ったが、キリシタン弾圧で跡地が大音寺になった。大音寺は、寛永15年1638年現在の鍛冶屋町に移転し、坂の上天満宮が建った。 この天満宮も昭和20年の原爆で焼失して法務局となり、坂の下に「坂の上天満宮」が再建された。
代官坂 桜 町桜町電停東側から桜町公園の横を通って市役所通り(国道34号線)桜橋に上がる坂。昔はこの坂を電車が走っていた。
桜町(旧勝山)小学校の所に代官屋敷(奉行所とは別)があった時期もあり、代官坂と呼ばれている。
また長崎奉行所は、今の県庁所在地に東役所と西役所があった。延宝元年1673年県立美術館、知事公舎一帯の広大な地域に東役所が移り、立山役所と呼んだ。
<つつじが丘1丁目の牛津豊様より>
ちこく坂 鳴滝一丁目県立女子短大前の坂。
県短の敷地は唐通事・さかき仁左右衛門の別荘跡である。
ちこく坂を上りつめて左へグランドに沿って上って行くと、シーボルト記念館がある。
<県短OBの森下由美子様より。以前の状況は長崎文化No.41(特集長崎の坂)の島内八郎さんの記述が詳しい>
勅使坂   丸 山カステラの福砂屋本店前から丸山の派出所の前に出て道を右にとり、大徳寺公園に行く坂。
台湾の役、西南の役に戦没した人の遺骨が粗末に扱われているのに憤慨した、熊本鎮台の谷千城が明治天皇に直訴して、招魂社が建てられた。その招魂祭に勅使が派遣された時作られた坂
とりい坂 伊良林一丁目
二丁目
若宮稲荷神社へ上る坂。
秋の例祭(10月14・15日)に、竹ん芸(たけんげい)が奉納されます。雄狐と雌狐の面をつけた二人が、地上10m余りの2本の青竹の上で曲芸をします。
トロトロ坂中川坂中川二丁目長崎旧街道の風情が残っており、古橋を渡ればトロトロ坂。
古橋は1654年唐通事林仁兵衛が、亡母の追善供養のため私費を投じて架設した半円アーチ型石橋で、石橋としては1634年の眼鏡橋、 1652年の高麗橋、1653年の一ノ瀬橋につぎ古い。大正7年新しい中川橋(なかごばし)が出来た為、古橋と呼ばれる様になった。
長 坂 上西山町諏訪神社の石段。73段ある。
国指定 重要無形民俗文化財である長崎くんちの最高の観客席になる。
坂の名前
別名
町 名
場所と名前の由来
西 坂 西坂町NHK横、坂を登ると西坂公園があり”26聖人殉教碑”がある。
昔は海中に突き出た小さな岬で、その高台に刑場が有った。豊臣秀吉の禁教令で宣教師ペトロ・パウチスタら外人6人,三木パウロら日本人20人が京都、大阪などで捕らえられ、長崎に送られ慶長元年1597年、この刑場で殉教した。 1862年ローマ法王から聖人に列せられ、国際的巡礼地となっている。
ピンコロ坂長久橋の坂
長久坂
江戸町 県庁横の吉丸印房前から江戸町センタービルへの坂道。
昔かまぼこ型の石敷きで石の間に下駄が取られてよく転んだ。
立方体の石を建築用語でピンコロ石と言いそこから付いたのではないか?との情報を頂きました。
県庁〜中央橋の道路ができるまでは、この坂がメイン道路であった。
<築町の高橋秀彰様より>
豊後坂 桜町、興善町
金屋町
市役所西の“割烹大判“前の坂
旧町名の豊後町(ぶんごまち)があった坂。島原城主であった松倉豊後守が開いた町であるとされているが、豊後守着任以前 にすでに豊後町の町名が見られる。
ヘフリ坂ヘイフリ坂
(幣振坂)
ヘブリ坂 
寺 町大音寺と皓台寺の間の坂で風頭山上につづく坂。
寛永14年1637年諏訪神社の大鳥居(現在の”二の鳥居”で、もともとは”一の鳥居”)を建てるとき、この坂から石材の風頭石を降ろした。 運ぶのに人夫二千人を要したとされており、その時御幣を振って指揮をした。
屁ふり虫がたくさんいたと言う説もあり?
<長崎名勝図絵S6年4月発行他より>
ヘフリ坂 寺 町延命寺と長照寺の間の坂で風頭山上につづく坂、料亭一力まえ。
急坂でお腹に力を入れて上ったのでと言う屁フリ説も有り?
ヘフリ坂 筑後町東本願寺東側の坂段。
運動靴で歩くと足音が、”ぷんぷん”と両側の壁に響いた。
<高丘の谷村ハツヱ様、炉粕町の小屋敷一之様より>
ミルスの坂 鳴滝一丁目県立女子短大と付属幼稚園の間の坂。
戦前2階建ての洋館ミルス邸が有った。
<葉山二丁目の宮副英俊様より>
山崎屋の坂森崎の坂丸山町 料亭「青柳(あおやぎ)」前の石段。 この坂は、オランダ坂へ続く。
青柳は、山崎屋という茶屋の跡で、その後料亭杉本屋となり、昭和24年青柳となりました。
また、この場所は江戸時代、長崎村小島郷(こしまごう)に属し、小島から見てこのあたりは岬(みさき)になっていたので、尾崎または森崎と呼ばれていました。
ここには江戸時代、丸山遊郭の裏門があり、門番がおいてありました。 この石段の石は、当時のままの風頭(かざがしら)石です
<丸山町の山口広助様より>
ゆうれい坂子泣き坂
 
伊良林1丁目
と八幡町
中通り(なかどおり)八幡町の中華軽食”有楽”前から伊良林の光源寺に上る坂。
光源寺に伝わる 「飴(あめ)屋のゆうれい」の話から名前が付いたという。
(ただし、特定の人々に使われている坂の名前のようで、一般的には使われていません。)
<八幡町の小田俊之様より>
頼朝坂 桜馬場二丁目松尾常正宅と二階建て空屋の間から岩永正宅から蔵岡宅を通って桜ヶ丘幼稚園への坂道。 現在は通行出来ず蔵岡宅から見れば竹藪になっている。
”花の香におう 桜の馬場は、昔なつかし 庄屋の屋敷、そのかみたどれば 鎌倉幕府、頼朝坂も 我が町に”と桜馬場二丁目の町歌(昭和51年作)にある。
庄屋屋敷跡は、現在の桜馬場中学校で石垣に当時の面影がある。慶長10年1605年長崎村は大村領から公領となり、長崎代官の支配下で、森田家が長崎13郷の大庄屋をつとめた。 
<桜馬場二丁目の川添利男様より>
龍馬通りの坂 寺 町寺町通り禅林寺と深崇寺の間の坂で風頭公園につづく。。
この坂を上ると、亀山社中(かめやましゃちゅう)跡に行く。亀山社中は、坂本龍馬が同士と作った日本初の貿易商社で、海援隊の前身である。
六角道
(ろっかくどう)
かすみ道
(かすみじ)
上西山町
立山一丁目
西山町一丁目
日本銀行長崎支店西側から知事公舎前をとおり、立山の長崎中学校へ上がる坂。
長崎公園の中にある道路で、車も通れるが道路の真ん中に、”くすの木の大木”が7本ほどある。とくに県立図書館横の楠木の左側を、車で通り抜けるのは相当の勇気がいる。
坂を上っていくと右側に”六角堂”という、屋根が六角形をした東屋がある。
この六角堂から、「六角道」と呼ばれるようになったと思われる。それともカーブが6あるから、”六角道”と呼ばれるようになったのでしょうか。
<西山台2丁目の満本隆介様と西山の蒲原タクシーさんより>
 さて、諏訪ノ森の「六角道」ですが、下から見ると、かすみ(雲)のようにゆらゆらと しているところから「かすみ道(かすみじ)」と言うこともあるそうです。 昔の時代絵巻に出てくるような…
<丸山町の山口広助様より 2000/09/03>


 坂マップその1 市役所周辺 

東山手と南山手、小島周辺の坂 (オランダ坂、ドンドン坂)

長崎街道(蛍茶屋から東長崎)の坂 (はらきり坂、日見の七曲がり)

浦上周辺と時津街道の坂 (打坂、永井坂、力馬坂)

稲佐地区の坂 (上の坂)


坂に関する雑学 「休み石」 対州馬 ほか

坂の想い出

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