長崎坂盡し(づくし)  浦上周辺と時津(浦上)街道の坂


坂の名前
別名
町 名
場所と名前の由来
打 坂 時津町打坂
滑石2丁目他
時津から長崎に入る国道206号。”メガネの三城”長崎北店前の坂。
坂のため馬や牛の尻を打って上った。
”ケンタッキー・フライドチキン”の対面にあるお地蔵様は、昭和22年バスが故障した時、身を挺して殉職した車掌さんをお祀りしたものです。詳しくは 「長崎の坂に関する雑学」 をどうぞ。
<大橋町の井口晏好様より>
Sカーブ滑石の
Sカーブ
北栄町8,9,
14丁目
滑石(なめし)5丁目から北栄町に上がる坂。
アルファベットの”S”の形に似ている。昭和40年頃いわゆる”滑石団地”としてスタートした時から自然に呼ばれるようになった。
<北栄町の山田正視様より>
滑石峠
(なめしとうげ)
  県道28号の長崎畝刈(あぜかり)線の、北陽町にある峠。昭和44年に完成した、「滑石トンネル」が通り、長崎新漁港へ通じています。
滑石トンネルの上にある旧道の「滑石峠」は、今は歩きでしか通ることが出来なく廃道になっています。
御手水の坂
(おちょうず)
 三川町長崎バスの三川町バス停から三川川に沿った道を上って行くと観音橋に出る。右に(東に)上っていく坂道。左(西)は七曲がりの坂。
旧西浦上郡三組川内郷御手水への坂。
手水という地名は、清水が湧き出る所という意味で、”御手水の坂”を上りつめた先に”御手洗水”がある。
<お母さんの郷里が三川町の、時津町の濱松祐一様より>
かまぼこ坂おにぎり坂花丘町住吉神社の南側の通りになり、”ボンヌール花丘”北側の坂。
蒲鉾のように上って下っている坂道。 
  <花丘町に寮がある村上英憲様より>
 おにぎり坂については、「坂の想い出」をご覧下さい。
サントス通り
の坂
サントス坂橋口町
上野町
岡町
浦上天主堂〜如己堂〜大橋交差点への坂道。
長崎の姉妹都市ブラジルのサントス市にちなんで、サントス通りと名付けられた。移民の関係から昭和47年から姉妹都市となっている。
秋は「長崎市の木」である南京櫨(なんきんはぜ)の紅葉が美しい坂です。
<長崎文化No.41(特集長崎の坂)より東 静子さん、永井元さん >
じごく坂 千歳町
家野町
西浦上中学校西側にあるプールの、西の坂。
体育系のクラブで、筋力トレーニングのためこの坂を上り下りしているので、クラブ員は地獄坂と呼んでいる。
<川平町の古田要様より>
じごく坂 江平2丁目 江平中学校西側の由良商店から西に降りる急坂。
冬、坂道が凍った時には、ロープを張ってそれを伝って上ったり降りたりする。
<お子さんが江平中に通学されていた住吉町の土屋凉一様より>
宿ン坂
(しゅくんさか)
 平野町時津(とぎつ)街道、平野宿への坂道。
山王神社から長崎大学病院の旧正門を降りて、再び”急な坂”を登ると平野宿があった。長崎ダイハツ横の坂段。
<「アルバムながんさき NO.1」昭和55年8月重陽堂薬品(株)発行92ページに,昔と今の写真が載っている>
十字架道 辻 町辻町の十字架山へ上がる坂道。聖フランシスコ病院前東側のバス停より、 一筋北側の小道を東側に上っていくと、十字架山登り口の案内がある。
浦上信者が信仰を守り通した事への、神に対する感謝のため十字架を建て、聖地としています。
すいこみ坂 西山台二丁目三川公園バス停前の坂で、西山台から三川町に降りる坂。
吸い込まれてしまいそうな急な坂。
<戸町の洞ノ上(ほきのうえ)サダ子様より>
セントポール通り
の坂
 平野町浜口電停〜長崎国際文化会館(長崎市立博物館) 長崎原爆資料館への坂道。
昭和50年に長崎の姉妹都市アメリカミネソタ州セントポール市との20周年を記念して、セントポール通りと名付けられた。セントポール市にも長崎通りがある。
この坂も、秋は「長崎市の木」である南京櫨(なんきんはぜ)の紅葉が美しい坂です。
<長崎文化No.41(特集長崎の坂)より東 静子さん >
ちこく坂 竹の久保町西高(旧瓊蒲中)正門前の坂。
1961年(昭和36年)卒業の方からお便りを頂きましが、今も変わっていないのは、旧体育館・西高生気質・女子の制服に、「ちこく坂」との事です。
<西高OBの皆さんより>
永井坂 城山町 城山小学校の正門に上る坂。この坂の右手に、コンクリート3階建ての被爆校舎が、保存されている。
永井隆博士の「この子を残して」の著書の印税から基金をいただき、植樹した桜の木があることから命名されました。
昭和24年4月に寄贈された桜は、毎年春になるときれいな花のトンネルになり、見事です。
坂の想い出にも収録>
七曲がりの坂 三川町長崎バスの三川町バス停から三川川に沿った道を上って行くと観音橋に出る。左に(西に)上っていく坂道。
右(東)は御手洗(おちょうず)の坂。名前の通り七曲がり。
<お母さんの郷里が三川町の、時津町の濱松祐一様より>
ひこうき坂 岩屋町岩屋竹下公園から東側に上る坂。
空を見上げる様な急な坂。現在地元の岩屋町では、「ひこうき坂」の名前は使われていません。かって学校などで児童がそう呼んでいたようで、いまでは周辺の人や特定の会社などで使われています。
<横尾5丁目の大野正男様より>
病院坂 坂本一丁目長崎大学病院の旧正門の坂。現在の長崎大学歯学部付属病院への坂。
長崎大学付属病院が北へ移転するまでは、病院坂と呼ばれていました。今はどう呼ばれているのでしょうか。
<「アルバムながんさき NO.1」昭和55年8月重陽堂薬品(株)発行103ページ>
平和坂 城山町 城山小学校に上る体育館の北側の坂。城山小学校は、爆心地からわずか500mほど西に位置し、1500名以上もの犠牲者をだした学校です。
被爆する以前からあった坂で,今も通学路として毎日子ども達に親しまれています。ここの桜の木も永井博士から寄贈されたものです。
永井坂に対して昭和50年代に平和坂と命名され,現在に至っています。
力馬坂
 (りきばざか)
 川平町
赤水平
浦上川沿いの市道の、長崎バス・力馬坂バス停前の坂。
江戸時代の「西山街道」の坂。
昔は地道で道路幅も狭く、浦上川に落ちて亡くなった人もあり、この坂の上りになるところに、お地蔵さまがお祀りしてある。
昔、殿様が草場神社の対岸の広場で、力士(人)や馬を休ませて休憩したところから、力馬坂の名前が付いたという。
<お子さんが川平小学校の生徒で、秋に実施される「のびのび少年デー」の資料を読まれた川平町の古田要様より>
また、昔からの言い伝えとして、殿様が休憩をしてを食(じき)事をした場所で、食場(じきば)と呼ばれていたが、いつからか力馬(りきば)と呼ばれるようになったと言う説もある。
<川平町の佐藤吉己様より>

 
時津街道:
 
(浦上街道)

時津(とぎつ)街道は、長崎と時津を結んだ街道で、長崎街道の裏街道にあたる。
本街道の日見越えを”東目通り”、時津経由を”西目通り”と呼ばれていた。
朝、長崎の「西坂」をたち時津港で昼食、舟で大村湾を渡り、夕方に彼杵(そのぎ)港に着いた。本街道よりも一日、旅程が短縮できた。
詳しくは
(1)長崎文化 第43号 時津街道 田中敏朗著 昭和60年6月 長崎国際文化協会発行
(2)長崎滑石郷土史誌 時津街道巡見 團 龍美著 1988年(昭和63年)6月発行
(3) 浦上街道・日本二十六聖人が歩いた道・ウオーキングマップ (社)長崎国際観光コンベンション協会 (詳細な地図です。お問い合わせ先 095−823−7423)  


長崎中心部の坂 (ヘフリ坂、六角道、けんか坂)

東山手と南山手、小島周辺の坂 (オランダ坂、ドンドン坂)

長崎街道(蛍茶屋から東長崎)の坂 (はらきり坂、日見の七曲がり)

稲佐地区の坂 (上の坂)


坂に関する雑学 「休み石」 対州馬 ほか

坂の想い出

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