浦 上 街 道
日本二十六聖人が歩いた道
ウォーキングマップ

 このホームページは、 社団法人長崎国際観光コンベンション協会が発行した「浦上街道ウォーキングマップ」を、許可を得てPDFとしました。
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時津港(日本二十六聖人上陸の地)〜浦上の地図  PDF 368 KB

      図1、図2、図3の詳細図  PDF 111 KB

      @〜Bの説明  C〜Dの説明  HTML

浦上〜長崎市西坂町(日本二十六聖人殉教地)の地図  PDF 228 KB

      図4、図5、図6の詳細図  PDF 108 KB

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浦上街道(時津街道)と日本二十六聖人

 浦上は、戦国時代には有馬領でしたが、1588年(天正16)には豊臣秀吉の直轄領、1605年(慶長 10)には南側は天領、北側は大村藩領になりました。さらに天領浦上は、浦上川の東側を山里、西側 を淵とされ、大村藩領浦上は、浦上西村など5ヵ村に分割されました。この浦上を縦断して長崎と 時津を結んだのが浦上街道でした。

 そのコースは、長崎村西坂(長崎市西坂町)から、浦上村山里、浦上北村、滑石村、高田村などを 経て、大村藩領時津村(西彼杵郡時津町)まで距離は3里(約12キロ)の道のりでした。そして時津 からは海上7里(約28キロ)で彼杵宿(東彼杵郡東彼杵町)に至りました。この浦上街道をいろい ろな人たちが往来していますが、なかでも二十六聖人は最も有名です。このように浦上街道は、江 戸時代の中頃までは、長崎における第一の街道とされました。

 二十六聖人は、豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって京都や大阪などで捕らえられた6名の外国 人宣教師と20名の日本人信者で、長崎で殉教しました。最年少は12歳のルドビコ茨木、その次は 13歳のアントニオという長崎出身の少年でした。

 長崎へのコースは、1597年1月10日(慶長元年11月22日)に大阪を出発、岡山や広島などの山 陽道を経て、2月4日に彼杵宿に到着後、すぐに舟で大村湾を横断、その日の夜遅く時津に到着 しました。舟中で厳寒の一夜を過ごした二十六聖人は、朝早く時津を出発、正午頃西坂に到着、 直ちに処刑されました。時に1597年2月5日(慶長元年12月19日)のことでした。二十六聖人は、 最初二十四人でしたが、長崎への旅の途中、2人の信者が加えられ二十六人となりました。

 二十六聖人は、1627年(寛永4)に教皇ウルバノ8世によって福者に列せられ、さらに1862年 (万廷2)教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。また、1865年(慶応元)に落成した国宝 大浦天主堂の正式名称は二十六聖殉教者聖堂で、二十六聖人に捧げられた教会でした。

浦上街道ウォーキングマップ(原田博二監修)より

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