言語とは何か
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“人間の本質は、言語である。言語の謎の解明が、すべての人間の幸福
 地上の生命の持続的繁栄の条件である”

 “人間は問うものであるがゆえに話すものである。動物は問うことが
 できないゆえに語ることができない。
K.レービット「世界と世界史」

人間は、地上の生命の最高の生存形態だから、人間を規定する言語は、
生命の生存様式の本質から解明しなければならない。
その理論こそ生命言語理論である。
それ以外の言語理論はすべて泡沫のごときものである。
 
(※上の四行の「言語刺激」によって、あなたはどのような「反応」を示されますか?It's the question.)

言語の定義
 言語は人間に固有の本質であって、単なる信号(音・光・図形等)ではなく、外的反応や行動から独立して内的に情報処理可能な音声による信号である。
 言語の基本的機能は、世界を言語記号化することによって、話者の意図や情報を表現・伝達することであるが、情報処理・文章構成のための思考や記憶の手段であり、聴者や話者自身の行動を方向づけ、存在を合理化する手段でもある。

 ○ 言語の基本的機能 : 三大機能 ⇒ 伝達機能、情報処理(記憶・思考)機能、行動制御機能:(伝達・認識・制御機能)
                   四大機能 ⇒ 伝達機能、情報記憶機能、思考創造機能、行動調整機能:(伝達・認識・記憶・制御機能)

 言語は音声言語に限定される。手話や図形等の信号(シンボル)による情報伝達や知的操作は言語に含めない。手話言語や図形言語、文字言語などの表現は可能であり、音声言語から独立して言語的操作(伝達・思考・保存)は可能であるが、二次的なものである。人工言語という表現は、音声を含む限り可能である(エスペラントのように)。また「チンパンジー用の言語システム」という表現はありえない。「コンピュータ言語」は人間言語とは次元の異なる概念である。
 言語は、他の動物のような刺激反応性にもとづく単なる音声信号ではなく、主語・述語・目的語等による論理を記号化した音声信号である。それによって、人類は、情報処理の面で創造的構想力の飛躍的進歩を遂げた。

 生命は、言語の獲得によって環境に適応するための認識様式を変革した。とくに、ホモサピエンスに おける言語の新たな構成様式(主語述語等を用いた思考様式)によって、刺激反応性による経験的 適応から創造的適応へと進化した。この進化が、約一万年前の人類の新石器農業革命をもたらし、 余剰生産と人口増、それらに伴う文明社会を成立させ、今日の人類の発展と繁栄の限界を迎えることになった。

 1)言語の生物学的基礎
 動物は,種固有の神経系をもち環境(刺激)をどのように認知し(何がどのようにあるか),またどのように反応・判断するかという根本的疑問(WHAT,HOW)を解決しながら,生存を維持する生得的なしくみを保有している。

    刺激受容    認知    情報伝達
環境 ─―→    主体   ─―→ 共同体
(刺激)            欲求・意図        (意図)
    反応行動   認知判断   反応行動
<原情報>   <情報処理蓄積>   <処理情報>


 この生存のための問題解決を前提とした刺激反応性は,《認知・反応》様式として,言語構成(統語―主語・述語)上の生物学的基礎をなす。さらに種は固有の意志伝達機能をもつが,音声による意志伝達の刺激反応様式も言語成立上の基礎をなす。前者は,認知反応過程の情報処理能力(思考能力)をより高める(大脳の発達)ことによって,また後者は音声反応(発話)と行動反応(動作)の分離による情報処理能力の高度化と分節的発声による音声種類(語彙)の増加によって言語発展の基礎を作った。
 このように、認知・反応様式と音声的意志伝達機能の両者の進化は、分節的発声機能の進化に伴って,言語の成立と発展を確実なものとした。

(2)言語習得論

 言語は,人間の生物学的に基礎づけられた,音声表現欲求を動因とした幼児期の模倣学習によって習得される。人間は,生得的な言語の習得能力をもってこの世に生まれる。言語の習得能力は,類人猿にもみられる対象の区別・指示・構成能力(《認知・反応》様式)を,舌・口腔・声帯などの進化によって分節化する音声信号によって飛躍的に発展させたものである。言語能力の獲得の根源には,環境の状態を的確に認識・把握し,最適の適応を図ろうとする動物の生存本能がある。人間の子どもは,言語環境の中で最適の生存・適応のため,言語を主体的に獲得する。そして自然的社会的環境に対する好奇心を言語的表現欲求として実現する。このように子どもが言葉を使って自由に話し表現する能力があるのは、人間を特徴づける生物学的性質によるのである。

 例えば、大人は知覚対象としての「あさがお」を,花や葉,蔓状の茎・枝を含めた全体として表象し意味して「あさがお」と音声表現しても,子どもは必ずしも大人の表象意味をそのまま理解しない。「あさがお」の部分である花の形を表象して「あさがお」という音声信号を理解しているのかも知れない。そして同時に「あさがお」に対する自己の好悪の価値判断を,音声信号と表象意味に加えているのである。このようにして言語習得論は,言語意味論に関連していくのである。

(3)言語意味論

 言語の意味は,言語化する対象を音声(刺激)で表現する話者と,音声を聞き(刺激受容)その意味を解釈(認知・反応)する聴者とでは,その対象に対する捉え方(経験)の違いに応じて意味内容も異なってくる。同じ「あさがお」という言語でも,話者と聴者ではその意味する内容(表象・意味)が異なるのである。ソシュール的に言えば,能記(記号表現,signifiant)としての「あさがお」と,所記(記号内容,signifie)としての表象・意味内容は諸個人において異なっている。

 音声信号の表象意味(概念)は,言語共同体内での個人の経験に左右され,共通の意味が意志伝達を可能にしている。共通の意味とは,共同体内での一般的平均的意味であり,話者・聴者の共有する客観的意味である。それは辞書に表現されているような意味をもっている。例えば「あさがお」は,「ひるがお科の一年草のつる草。夏の朝じょうご形の美しい花を開く」(広辞苑)となる。しかし共通の意味は,個々の構成員の経験によって異なり,個人は共同体の共通の意味を体得しつつも独自の意味を実現しながら社会生活を送っている。

 また言語表現(文)は、主部・述部の命題文を完結形として、文中の対象の状態や主体の意図をより的確に表現するために、主語・述語を修飾・限定する語・句・節の形態をとって意味を付加している。すなわち以下のように文・語・句・節の意味や使用法が異なっている。

 文:主部と述部で主語の状態,運動,意図を表現する。言語表現の完結  形である。
 語:品詞によってその機能・意味を異にし,語の使用される状況によっ  て意味が限定される。多くは語を構成要素とする句や文(節)によってその意味を明確にする。
 句:名詞,動詞を修飾ないし限定し,状態,運動,関係,意図などを表現する。
 節:文によって語句や状況を修飾・限定し意味を明確にする。

 
(4)言語行動論

  言語は,自己の認識した状況(例えばトラの出現状況)や,それについての意図(情意:恐怖の感情や避難の意志)を,聴者に伝達することを第一義とする。状況や意図自体は,高等動物であれば,生物学的過程として神経生理学的に説明できる。例えば猿にとってトラの出現状況(その知覚イメージ)と恐怖や避難の意志(行動判断)は,人間の場合とほとんど変わらない。類人猿などは動作や叫び声で,トラの出現や危険性を伝達することが可能である。しかしそれを言語表現するには,文としての構成が必要である。文の構成は,対象の状態と意図の言語化、すなわち「何が,どうあり、どうすべきか?」という,対象についての話者内部の問題意識(興味関心又は表現意図)を解明することで可能となり,「トラが出現した,危険である」という文が構成される。

 従って,言語はその表現(文生成)をどのようにするかという思考過程すなわち疑問とその解明としての文の構成を含む。この思考過程は,新たな状況を創造する過程でもあり,問題意識(疑問)の立て方(何が,どこで,いつ,どうしたのか?など)によって、一つの状況に対して無限の表現内容が可能となる。つまり,同じ状況であっても表現する話者の問題意識の違いによって表現内容は異なることになる。

 また,主体(話者)は,状況(刺激:全体状況の一部「トラがいた」)を認識すると,その状況に対する様々の判断・問題意識(「危ない!」)を生じ,適応的な行動の判断選択を行う(「逃げろ!」)。状況(世界)の認識と判断が言語的に整理(合理化)されると一定の知識(観念表象)が形成され,他者(聴者)に伝達されたり、自己の行動を方向づける。聴者は話者の言語(と行動)に対して疑問をもち(「どうしたのか?」「どんなトラか?」など),間接的にその状況を把握して合理化し,聴者なりの知識(観念表象)を形成し自己の行動を判断し決定する(危険。逃げよう」)。人間は状況を言語化(合理化)し,合理化された知識は,必ずその時の状況(刺激反応すなわち経験)を背景にもつ。人間は言語によって世界を合理化し,その知識によって世界に生きる動物である。

 ──人間は言語によって自らを意味づけ合理化する存在である 
     また、人間が生きるとは、主語・述語その他の語句を用いて、
   対象と自己との関係を、認識・判断・創造し、自己を環境の中に
   存続させることである。──
        
                                                                                                                                   言語論本論へ

 

 

 

 「生命言語理論」の人間存在論的意義
 
―― 「人間とは何か」の答えは、「言語とは何か」の理解なくしてあり得ない。
    今までの哲学的思考は、すべて言語を対象化・相対化することはできなかった。
    新しい哲学は、生命科学によって言語の意義を解明し、人類が共有できる人間観を提供できる。


人間は、地上の生命の最高の生存形態だから、人間を規定する言語は、
生命の生存様式の本質から解明しなければならない。
 その理論こそ「生命言語理論」である。
 これ以外の言語理論はすべて泡沫のごときものである。

 「生命言語理論」の構造はシンプルである。
 それは、言語は生命の適応的生存のために進化したものであり、生命が自然と社会環境に対して、適応的に認識・行動するために獲得した生存様式である、という理論である。
 人間は、欲求や興味関心に従って、自然と社会環境の状態を、何が(what)どのように(how)存在するか(認識して)音声信号(言語=主語+述語)化し、それらを再構成(判断・思考)して、自己の欲求と感情に基づいた観念的世界(知識)をつくり、それらに従って世界を合理化(意味づけ)しながら行動する存在である。

 それゆえ、言語についての理解は、自己のものの見方や生き方(知識)についての反省を迫り、既成の知識の相対化をもたらす。
 今日までの宗教的・哲学的・科学的なすべての知識は、「生命言語理論」によって見直されなければならない。
 『人間存在論』は、そのような人間存在の根源的問題意識に従って、言語論を革新し、現代文明の基盤をなしている西洋的思考様式を再検討し、新たなものの見方考え方を提唱して、人類の直面する問題状況を打開しようとするものである。
 人類の歴史によって育まれた多様な伝統的文化や生き方は、人類共通の本質的普遍的知識によって改変され発展されなければならない。地球上の生命と人類の持続的共生は、「生命言語理論」の正しい理解によってはじめて可能となる。



<環境・認識・適応・言語―人間言語の本質・特徴>
 すべての生命の生存様式は、環境との関係をどのように保持しているか、また、環境にどのように適応しているかによって規定されている。つまり環境をどのように捉え・認識し、どのように適応的な反応・行動を取るか・判断するかが、生命の生存様式を決める。
 朝顔における夏の暑さと蔓の支えは、朝顔らしさの必要条件である。また、虎における生存条件は、食欲を満たす草食動物と身を隠す草木である。とりわけ動物にとっては、環境の的確な認識と判断は、適応的行動と種の存続にとっての絶対条件である。そこで動物にあっては、環境情報の認識と伝達を的確にすることが必要になる。ほとんどの動物においては、化学物質の拡散や音・動作等の信号による伝達が行われるが、音声・鳴き声による意志・情報伝達が多様な伝達性において最も効率的である。
 そこで、まず認識した環境情報の的確性が問われる。対象(what)とその状態(how)の正確な特定と判断は、高等動物の鳴き声においては分離しない(ベルベットモンキーは猛禽、ヒョウ、ヘビの対象に対する警戒音を異にするが、対象自体を分離すること、行動と分離することはしない)。しかし人間の音声言語では、対象とその状態や関係性を分離し、行動や判断からも分離することができる。
 その結果、言語(単語自体とその構成)の意味そものの吟味・思考・確認が、判断・行動から独立して行われる。情報の的確性・創作性が格段に高まるのである。その意味で人間言語の情報伝達は、他の動物と比べて、思考と創造を伴っていることに特徴がある

類人猿の認知と判断・思考

 直接的・感覚的・直観的判断による問題解決

 動物的思考すなわち直観的認知と判断は、欲求を充足するための問題解決(例えば狩をする)のために、過去の学習経験と直接知覚的状況に基づいて行われる。この様な思考は狩猟行動等と直接結びついている。獲物を知覚しながら、相手の状況に応じて最善の行動を取ろうとするのである。人間のように狩猟行動をする前に、作戦を立て仲間と打ち合わせて共同行動を取ることはない。そのような「行動と直接結びついた認知や判断」を、動物的思考と名付ける。このような思考は、類人猿のように高度な認知や思考能力を持つ動物にも当てはまる。類人猿のリーダー(ボス)は、グループの力関係に常に注意を払い、行動と独立に思考しているように見えるが、実は状況の緊張の中で「行動を抑えているという行動の中で思考している」のである(思考が完全に行動から独立して脳内で行われるとき人間的思考が成立する)。

 人間を含めた動物が、どのような問題状況の中で、どのような思考・判断により、どのような行動を取るか。その判断基準は、本能的反応を除いて経験的に学習される。例えば以下のごとくである。

模倣:他者の経験的判断・行動の自発的・本能的学習。動物が適応的に生存するために、他者(成獣)の適応的行動を学習するのは最も合理的な生得的適応方法である。

洞察:動物の場合、状況を観察しながら過去の学習経験(情報)を関連づけて的確な判断をする認知活動。対象の状況への直接的判断を超えて、時間的空間的に離間した状況を見通して適応的判断を行う。類人猿において最も優れた洞察力を持つ(ケーラーの実験等)。

学習:刷り込み(本能的学習)、試行錯誤、条件反射、刺激般化等によって適応的反応・行動様式を獲得すること。どのような学習経験を獲得したかによって、後の適応的行動選択(判断・思考)に影響を与える。

シンボル操作
:多くの動物(例えばハト)では、シンボルA(例えば音声刺激”まめ”)によってシンボルB(例えば図形刺激「まめ」)を選択的に指示することが学習(訓練)できても、その逆であるシンボルBによって「学習(訓練)せずに」シンボルAを選択的に指示することはできない。この様な逆推論が学習なしで可能な動物は類人猿等に限られるとされる(刺激等価性─逆推論が可能であっても、動物の逆推論への関心を実験的に観察するのは難しい。言語を獲得した人間の幼児では容易に可能である)。

類人猿によるシンボル操作は、創造性をもたない

 人間に最も近い類人猿ボノボやチンパンジーは、人間のように知覚的状況から離れて話すことはできないが、かなりの記号的状況を理解し操作(記述)することができる。類人猿は、言語などの記号(シンボル)が、「目の前にはない対象」を象徴(指示)していることを知っているだろうか? S.サベージーランボーは、ボノボについて「ボノボは、大きさから言っても姿から言っても、チンパンジーではない。彼等はむしろ、小さな脳と格別に長い体毛を持った人間と言われるのがふさわしい。」と述べている。彼女は、カンジと名づけられたボノボの研究において、キーボードを利用した図形記号による簡単な会話を行い、英語の構文を理解し記述し適切な行動ができたことを報告している(S.サベージ-ランバウ, R.ルーウィン『人と話すサル「カンジ」』石館康平訳 講談社1997)。つまり、図形記号(シンボル)の組み合わせによって示す意味内容を、実際の状況ではなく「頭脳の中に再構成」し、表現伝達していると考えられる。この報告では、実験者の態度を読み取る「賢いハンス(計算できる馬の名前)」効果ではなく、対象の状況を自ら主体的にキーボードを用いて図形的に記述できる。これを人類学者バーリングの関心に従って検討してみよう。

 「カンジは、最初に要求を耳にしたときには、その物も場所も見えない場合でさえ、部屋の外へ出て、特定の場所から物を取ってくることができた。」「カンジは、語順に意味がある3種類の文に正しく対応できた。『ボールを岩の上に置いて』か『岩をボールの上に置いて』か、語順が重要な形式をしている43の礼のうち33例(79パーセント)に正しく応じた。」(バーリング,R『言葉を使うサル』松浦俊輔訳 青土社 2007 p25-27)※(注)

 この「天才サル─カンジ」は、確かに驚異的な人間とのコミュニケーション能力(信頼関係)をもち、人間並みの認知力、理解力、シンボルの操作・構成能力を示している。しかし、人間言語との決定的な違いは、「音声操作能力の有無」である。音声言語をもたないことによってカンジは、自己の動作と母音中心の叫び声、そして与えられた図形文字の範囲内でしか自分の意志を伝えることはできない。また実験者に首輪をはめられ、自己の意志と表現内容まで実験者に支配されている。サベージ-ランバウが類人猿の認知やシンボル操作によるコミュニケーション能力の卓越性を実証したことは、特筆すべき研究成果であるが、実験者と被験動物、自由な人間存在と拘束された類人猿のこの力関係の差こそ人間言語の決定的優位性を示すものなのである。彼女は人間特有の音声言語の意義を過小評価して次のように主張する。

 「もし類人猿が人間と同じように、教えられることなしに言語を習得することができるとすれば、それは人間が動物とはまるでかけはなれた、独自の知性をもっているのではないことを意味する。たしかにホモ・サピエンスは、会話に適した音声と、道具をつくる能力を与えられている。しかしこれは、彼らが他の生物とはちがった次元でものごとをとらえていることを意味しない。カンジが見せてくれな言語習得の過程は、言語の理解こそが言語習得にとって他の何よりも重要であることを劇的に示してくれる。言語を音声として発するということは、適当な器官が備わっていれば可能な、副次的な処理機能の問題なのだ。しかし言語の理解は、概念的た把握の問題、つまり音声の背後にある音声に込められた意味の問題であって、カンジが理解していたのはまちがいなくこれなのである。」(『人と話すサル「カンジ」』 p200 下線は引用者による)

 彼女は、音声信号(言語)や図形信号(文字)の示す意味概念を理解すれば、人間言語と図形文字の違いはほとんどないと考えている。しかし、これは人間言語の浅薄な理解に由来し、類人猿に対する実験観察行為が、研究者の言語的優位性に基づいていることに無自覚であることを示している。次項(類人猿研究の限界)で詳しく説明するが、人間言語は音声信号の意味理解だけでなく、その信号の脳内での内的な操作(文法的思考・情報操作・対象の再構成)とも関わっている。

 彼女が報告しているように、類人猿は音声言語をもたないが、人間に近い高度な認知洞察判断能力を持っている。そして、彼女も音声言語(信号)による内的情報処理(人間的思考)だけは、類人猿には不可能であることを認めている。だがこの音声信号による情報処理が可能か否かが、人間と類人猿を距てる決定的な深い溝なのである

 つまり人間言語の特徴は、意味の理解や意図の表出だけでなく、音声信号の処理(情報処理=記憶・思考)による言語的創造(想像)の能力にあり、それによって自然的世界を超えて人為的世界(文化)を創造することにあるのである。彼女は人間言語に伴う人間の創造性については一切述べていない。類人猿は、研究者の巧妙な統制と信頼関係のもとで、高度な認知的能力や信号操作能力を発揮することができる。また類人猿の自発的学習や創意が見られる。しかし、人間言語のような社会性や文化的創造性をもたないことは、誰の目にも明らかであり、この特徴の欠如こそが類人猿の限界を示すものなのである。

※(注) ボノボの優れた言語(人間の発話と図形シンボル)の理解力・記憶力(2000語以上の英単語)と図形の操作表現力、人間並みのコミュニケーション能力。名詞、動詞、形容詞の文構成能力等々。また実験者の言語指示”Take the umbrella outdoors”と”Take the umbrella indoors”を区別して実行したのは46回中38回で約80パーセントの正解率、3つの単語の構成課題の正答率はほとんど8割前後であった。

類人猿研究の限界 

人間の言語習得と類人猿の記号習得の違い

 人間の言語習得は、自らの欲求(模倣と知的好奇心)として、主体的関心や疑問から言語を習得する(自然言語)。しかし、類人猿の手話や記号の習得は、習得それ自体への主体的関心や疑問ではなく、報酬を期待した実験的訓練の対象として、手話や記号の理解や操作を習得する(訓練・芸)。類人猿は世界の対象を記号として主体的に習得しようとする興味や関心を持たない(欲求充足の手段としてでなく)が、人間は世界の対象に対する音声記号化(言語化)自体に関心を持つ。幼児はある程度の言語習得がすすむと、対象の名前や状態の表現(動詞)に関心を持ち、自ら「なに?」「なんて言うの?」「なぜ?」と問いかけ、語彙を増やし、文をつくって喜ぶ。

 それに対し類人猿の言語(記号)習得はどうか?「アイ」という利口なチンパンジーと共に世界的に知られる、チンパンジー学者の松沢哲郎は、チンパンジーにも語(図形文字)の理解と文法の構成能力があることを実証したと報告している(松沢哲郎『チンパンジーから見た世界』東京大学出版会2001 2008)。「特定の場面という限定はあるが、チンパンジーは、『文法』を自発的に生成できるだけでなく、先験的に与えられた『文法』を習得して文法的な文をつくるようになる。」(2008 p157)この実験では、正答ならチャイムが鳴り、報酬としての果物片が与えられる。誤答ならばブザーのみが鳴る。アイは実験に親しむにつれて食物報酬なしに学習場面に応じるようになった。

 確かにこれらの実験は、チンパンジーのシンボル理解と操作能力を明瞭に示している。しかしこれは明らかに、実験的操作・訓練であってニホンザルに芸を教えるのと代わりはない。実験動物の認知能力や可能性を研究することはできるが、「文法」の生成や習得、語の構成によって「言語」を習得できたと言えるものではない。

 このような独創的な認知能力の研究は、類人猿の優れた知的操作能力を知り、人間の言語との違いを比較的に研究するなら、言語をもつ人間の特異性や本質を理解する手助けになる。しかしそうではなく、人間との近さや類似性のみを強調するならば、むしろ人間の本質としての言語の理解を妨げることになる。言語学の困難性や深さを理解しないでチンパンジーの知的操作性を人間の言語と同一視するのは、言語の無理解に由来している。その点では多くの認知言語学者の研究が、言語の多面的な本質(伝達・思考・記憶・行動の制御)を理解していないのと同様の欠陥をもっているのである。

 松沢は、類人猿の研究から、人間との類似性を強調して、「音声言語の有無によって区別することさえ絶対的な妥当性をもたない」(松沢1991 p171)と断定している。しかし、人間の音声言語の特徴は、行動反応と独立に音声言語を外的内的に使用可能にしていることである。動物における音声コミュニケーションの研究において、例えば食餌行動と”同時に”、食餌以外の警戒や求愛の音声的行動がなされた観察例はないし、またおそらくボノボにおいても、図形記号操作中に他の行動を同時に(意識的)に取ることは不可能であろう。人間は一つの行動(例えば食事しながら)から分離して、別の話題で会話や思考をすることが可能であるが、類人猿には記号操作と食餌は物理的に不可能(手を同時に使えない)であろう。これは「視覚人工言語」(松沢)によって手を使わざるを得ない実験において、人間の音声言語との絶対的な違い、すなわち動物の図形シンボル操作と人間の音声言語操作との絶対的な違いなのである。彼等比較認知学者が、パブロフの「第二信号系」やヴィゴツキーの「内言」(第二節参照)について冷淡なのは、人間言語の音声信号的特殊性の基本的理解をせずに認知能力の比較を行い、類人猿の認知能力の卓越性を強調したいがためである。 

類人猿実験研究者の限界

 実験対象の類人猿に対する操作・制御を巧妙に行うことはそれなりの意味があるだろう。しかしそれはあくまでも類人猿自身の認知能力を研究することであって、言語をもたない動物と同等に人間の認知能力理解を制約するものであってはならない。それはサルに反省の姿勢を訓練させて、それを反省しているから人間と同様の能力があると説明するようなものではないだろうか。類人猿の擬人化は、類人猿を大切にしているように見えるが、実は人間の本質や価値を類人猿並みに扱い、人間研究の障害となるだけでなく、類人猿自身を自然から引き離し単なる研究の対象に貶めることになるのではないだろうか。

 研究者の類人猿に対する思い入れとそこから来る偏見は、人間研究のための「比較認知科学」といいながら、結局人間理解を遅らせている。類人猿の認知能力の研究は人間理解のために必要であるとしても、それはあくまでも正当な人間理解にもとづいてのみ有益なものとなる。「チンパンジン」という表現や「『人間と動物』という二分法との訣別」(松沢哲郎『チンパンジーから見た世界』1991)、また「類人猿でなく『類人』という新分類の提唱」(藤田和生『動物たちのちのゆたかな心』京都大学学術出版会 2007)等の類人猿理解は、人間と動物の類似性を報告し興味深いものであるが、同質性ばかりを追求し、人間自身の主体的独自性の過小評価を前提としている。人間は単細胞から進化し他の動物と共通の祖先を持つことから当然共通の基盤を持っている。しかしそれは人間のみがもつ音声言語能力の特殊性についての深い哲学的理解を妨げるものであってはならない。まずは自らを省みて人間自身の行動を観察してみるべきである。

 類人猿を研究意図に従えよう(従ってもらおう、芸をしてもらおう──私は彼等が心優しい研究熱心な人たちであることを知っているが──)とするとき、自分はどのように言語を使用しているか。どのようにして類人猿をコンピュータ装置に慣れさせ、どのように図形記号(これを「言語」に見立てようと)を理解させ、どのように表現させるか。正答と誤答をどのように気づかせるか。ブザーか、エサか。実験に素直についてくるか、そのための訓練学習のさせ方は適当か、ストレスは感じていないか、類人猿とのコミュニケーションはとれているか。実験者はこれらのことを配慮し計画して、自分の行動を方向づけ、実験チームの行動を指揮できているか。そしてこれらの実験研究計画・実施・行動化のなかで「人間言語」はどのように研究者の頭脳の中で使用されているのか。・・・・・これらの研究活動にどのように言語が使われているのか、類人猿に対する場合と同じように自分自身の言語活動を研究したことがあるのだろうか。

 類人猿を、餌なしで自主的主体的に行動させ支配する人間の超動物的な能力はどこに由来するのか。少なくとも比較認知科学を標榜する研究者であれば、その決定的優位性の根源である「人間言語」を、類人猿のシンボル認知操作能力を引き出すために考案された「図形記号」と類似するものとして扱ってはならない。言語を用いて自然(類人猿を含む)と自己と他者を支配する人間と、自然から引き離されケージに閉じこめ首輪を付けられた支配される類人猿とを混同してはならないのである。類人猿は決して実験参加者ではなく、「人間言語」によって計画され支配された名誉ある「天才サル」なのである。人間科学の進展は、まずは「汝自身を知れ」というギリシアの格言を真に理解し、類人猿の記号認知操作能力との違いを明らかにすることから始めなければならないだろう。

 つまり科学として正当に人間と類人猿の認知能力の違いを比較研究しようとするならば、まずは研究者自身が、言語を用いた自己の認知と思考と行動を観察し、人間の心と言語の関係を研究するべきではないだろうか。そうすればその一端を上に紹介したように、彼等自身が研究の過程と方法を記述し、研究者自身の言語的行動(心)と被験者としての類人猿の図形操作行動とその心を、対等な関係で科学的に比較研究できることになるのである。それによって始めて、言語操作の可能な研究者が、(言語の意味を理解できても)言語をもたない類人猿を馴致し、図形操作の可能性を解明することができる。それと同時に人間の音声言語の特殊な優位性と「チンパンジーの心」が理解可能となるのである。チンパンジーとの友好的な関係を築くのは素晴らしいが、それによって(類人猿学者のように)人間の特殊な立場の理解を妨げることは、科学者のめざす方向ではないであろう。(*以上に述べようとしたことは、ヒトや動物の実験研究の倫理の問題ではなく、人間の言語と認知をどのように考えるかという問題である。)

類人猿の言語理解の限界と人間の言語

・類人猿のシンボル操作能力の限界
@図形文字の操作的限界(質・量、図形移動→不自由)
A言語の発声能力(子音)の欠如(*注) 
B内的言語構成・操作能力の欠如(直観的思考にとどまる)
C思考と行動の分離性・間接性の欠如(外的行動の優位)
D想像性・創造性の欠如
 以上の事項は、人間における自発的言語発声と内的操作性(創造性)がいかに重要であり、類人猿にはそれが欠如しているため、図形信号を操作し人間言語を理解しても、その存在や行動は人間の支配下に従属せざるをえないことを示している。またそのことは、音声言語によって内的に自己自身「わたし」を世界に位置づけることができないことも示している。類人猿は、動作や信号を用いて自分のことを了解できるが、「自分・私・カンジ・アイ等」の信号(言語・図形記号)を用いて、世界の関係性の中に内的持続的に自らの存在を位置づけ了解し続けることはできないのである。

・人間言語の特殊性
@音声信号は身体活動から自由である。(身体活動と同時発声が可能)
A音声信号は外的表現手段を必要としない。(図形等不要)
B音声は無限の表現能力を持つ。(単語・文の構成の多様性・恣意性)
C音声信号を内的に操作できる。(内的思考による行動の制御→内言)
D記憶された情報を、内的に処理・再構成・創造できる。
 人間言語と類人猿の視覚的(図形)信号の操作の違いは、操作自由度の質的違いにある。音声信号は視覚や手指を必要とせず、口が自由であれば表現できるし、音声なしに内的に信号操作(世界の再構成・創造)も可能であり、また自己の行動を制御できる。人間は世界を言語的に再構成し、その世界の中に自らを言語的に位置づけて生存することを強いられた存在なのである。

 サベージ-ランバウが次のように言うとき、実験者人間と被験者類人猿との関係の格差は、実験者自身の置かれた圧倒的優位な立場──実験研究計画、研究費の捻出、研究の組織体制、コンピュータの操作の設定、研究論文の発表、そして何よりも研究への熱意と野心等々──は、類人猿の「心」には計り知れないものであり、これは決して「他の動物と共有する(認知)能力のおかげ」ではなく、「まったく新しく獲得された能力」なのではなかろうか。
 「言語が、思考のプロセスを強化するのは疑いない。言語は心の世界のより込み入った、強力な操作を可能にしてくれる。しかし、言語はすでに存在していた能力の拡張であって、まったく新しく獲得された能力でないことはまちがいない。話し言葉、これが媒介する思考は、人間以外の動物の思考を裏付ける、同じ神経学的な基盤の上に形づくられているのである。」(前出p337 下線部引用者)
*(注) 聴覚障害者(聾唖者)の知的操作能力は、健常者に劣らない。適切な教育で知的抽象的操作能力を身に付けることができるのは、健常者の存在が前提となる。知的操作能力とは、対象(刺激・森羅万象)の存在と状態を区別し(刺激を区別し対象化すること自体、知覚と認知の進化を必要とする)、大脳内で再構成することで、区別や再構成自体は音声言語を必要条件としない。しかし、何らかの知覚(視覚、触覚)信号は必要であろう。

 “人間は問うものであるがゆえに話すものである。動物は問うことが
 できないゆえに語ることができない。
K.レービット「世界と世界史」

 
“猿学者は、猿をオリに閉じこめて自由を奪い、言葉によって猿の情報
 処理(記号操作)能力を研究する。しかし、彼らは自らを言葉のオリ(偏
 見)に閉じこめて研究の自由を奪い、しかもその言葉の意味(情報操作
 能力)について知らない。”



□■<こよなき幸せ>■□
 (『ブッダのことば─スッタニパータ─」中村 元訳 岩波書店)

★下のブッダのことばを読まれて、あなたは何を感じられますか。「人間は言語によって世界を合理化し,その知識によって世界に生きる動物である」ことの意味を考え感じ取ってください。そしてさらに「仏教の現代化」という言葉に関心を持たれたら、わたしたちは<こよなき幸せ>を感じます。
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 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。

258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いて下さい。」

259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。

260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。

261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。

262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。

265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。

266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。

269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。

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