掲示板「人間存在研究」 まとめ  やさしい人間存在論<>HOME
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「人間存在研究」のHPや人間・人生についての疑問・質問・難問・愚痴愚問、
何でも自由に書き込んでください。建設的・創造的な議論ができれば幸いです。
[1] 掲示板の心(『論語』から)テスト送信
[2] 言語論について質問 :閑人(ひまじん)
[3] 生命(刺激反応性)と言語 :管理人
[4] 生命は刺激反応性? :閑人
[5] 生命は無限の刺激・情報を処理します :管理人
[6] 言語論はなぜ必要なのでしょう。 :閑人(ひまじん)
[7] ◎@言語論の革新の意義(生命言語論) Name:管理人
[8] なぜ「生命言語論」なのですか :閑人
[9] 言語は生命の生存をより確実に・・・・・・ :管理人
[10] 「生存を強いられている」とは? :閑人

[11] 人間生命をどう意味づけるか :管理人
[12] 人間には強い存在が必要なのでは? :閑人
[13] 人は神仏なくしても救われます :管理人
[14] 言語無知は、言語の力を知らないことです :管理人
[15] 言語論と言語学とはどう違う? :閑人
[16] 言語論は人間哲学、言語学は個別科学かな? :管理人
[17] ◎A革新の意義:西洋思想の閉塞状況の克服 :管理人
[18] 生命言語論は、なぜ、どのように社会主義と結びつくのですか。:閑人
[19] 「閉塞状況」とは、未来に目標を持てないこと :管理人
[20] つづき 「生命言語論」は、未来の目標を創る :管理人

[21] 未来の目標は社会主義以外にないのでしょうか :ひまじん
[22] 言語の理解は価値観の混乱を収束させます。 :管理人
[23] 資本主義に道徳性はあるでしょうか?<上から続く> :管理人
[24] 社会主義と契約の関係は? :閑人(ヒマジン)
[27] (1)道徳的社会主義と社会契約 :管理人
[26] (2)道徳的社会主義と社会契約 :管理人
[25] (3)道徳的社会主義と社会契約 :管理人

[28] 社会的自覚はどこまで可能ですか。:閑人
[33] (1)社会的自覚のための認識論 管理人
[32] (2)生命言語論的自己理解 管理人
[31] (3)社会的自覚の必要条件 管理人
[34] 道徳的資本主義ではダメでしょうか。 閑人 
[35] 道徳的社会主義は、福祉資本主義の限界を超えます 管理人

[36] 金は道徳よりも強し!マルクスの誤りは? 閑人
[37] 人は金のみによって生きるにあらず 管理人
[38] 等価交換は不道徳なのですか :閑人 
[39] 現状は深刻、世界観の変革が迫られています。 管理人 
[40] 「等価」の判断は交換関係の真実を隠します。 管理人

[41] 金融・証券投機恐慌の本質は不等価交換 管理人
[42] 米金融危機 新自由主義の崩壊 管理人
[43] 投機は不等価交換の将来的拡大を想定した利潤追求行為 管理人
[44] なぜ不等価交換の理解が進まないのでしょうか ひまじん 
[45] 等価交換は利潤の追求を正当化します(2) 管理人 
[46] 等価交換は利潤の追求を正当化します(1) 管理人 
まとめ(2)へ
[47]宗教批判と道徳の再建・創造(1)宗教一般について 管理人 
[48]宗教批判と道徳の再建・創造(2)キリスト教について 管理人
[49]宗教批判と道徳の再建・創造(3)仏教について 管理人>
[50]宗教批判と道徳の再建・創造(4)大乗仏教について 管理人
[51]宗教批判と道徳の再建・創造(5)大乗仏教について  管理人

 

[1] 掲示板の心(『論語』から)テスト送信 2008/03/24(月) 18:40

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎
《子曰わく、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、
亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。》
曾子曰、吾日三省吾身、爲人謀而忠乎、與朋友交言而不信乎、傳不習乎
《曾子曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて
信ならざるか、習わざるを伝うるか。》
子曰、學而不思則罔、思而不學則殆、
《子曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)く思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。》
子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也、
《子曰わく、由よ。女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると
為し、知らざるを知らざると為せ。是れ知るなり。》
子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣、
《子曰わく、如之何(いかん)せん、如之何せんと曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末(な)
きのみ。》

[2] 言語論について質問 Name:閑人(ひまじん) Date:2008/03/25(火)

HP拝見しています。言語論に興味あり。なぜ、生命論と言語論を関係づけるのですか。その意義
をわかりやすく示されたい。
[3] 生命(刺激反応性)と言語 Name:管理人 Date:2008/03/26(水)

◎閑人さん、早速ご質問ありがとうございます。
 今までも、人間にとって言語のもつ役割・機能については、よく論じられてきました。すなわち、言語の役割は、@意思の
伝達、A思考の手段、B情報の記憶の3つであることについては意見の一致を見ています。しかし、それらの役割が、人間の行動にどのような影響を与えているかについては十分吟味されていません。
 そのため、一部の類人猿(チンパンジーなど)のように記号(信号・特定の刺激─タッチパネルや手動作等)を操作する高等動物が、言語を有するかのように主張する研究報告もあります(京大霊長類研究所等)。しかし、言語は、パブロフの言う
「第2信号系」として環境の直接的刺激(条件刺激、エサを含む)とは質の異なる人間特有の刺激として、個体(大脳)の中で処理される信号(基本的には音声)です。
 チンパンジーの音声も
意味をもち、意思の伝達手段となりますが、その声を直接的刺激(直接的意味対象)から離れて使用することはできません(環境や場に制約される)。しかし、人間の言語は、第2信号系として、環境刺激から離れて、脳の中だけで意味をもち、そのために、人間独自・個体独自の世界(空想・想像世界)を構成・創造・操作(一般的には思考・情報処理過程として)することが可能となるのです。このことから、人間は、他の生命とは異なる世界(文化・文明)を創造すること、それ故にまた、自らを破滅させることも可能になったのです。
 人間の言語行動を生命活動との比較でみるとき、宗教・哲学・思想そして文明自体の変革につながる新たな視点を見いだすことができるのです。ジョン・ロックも述べているように、言語のもつ意味の再確認は、過去の人類文化のみなおしと、新しい人類文化の創造に寄与するに違いありません。
 
[4] 生命は刺激反応性? Name:閑人 Date:2008/03/30(日)

 返答御礼。さらに質問です。返答のタイトルに「生命(刺激反応性)と言語」とありました。これは、「生命とは刺激反応性である」ということでしょうか。であるとすれば、生命や言語とはあまりにも単純すぎる存在になるのではないでしょうか。
 また、パブロフの第2信号系理論は、生理的側面のみを述べたもので、認知的側面が欠落し、言語の問題を単純化しすぎているのではないでしょうか。言語論は難しいのでわかりやすく。
[5] 生命は無限の刺激・情報を処理します Name:管理人  Date:2008/04/02(水)

 閑人さん、重ねての質問ありがとうございます。
 「生命とは刺激反応性である」というのはまさにその通りです。私は「刺激」という言葉に、無限の深い意味をもたせています。私の考える刺激とは、日常生活で欲求を充足させる対象(エサや仲間、認識可能な自然現象)だけでなく、宇宙からの電磁波・重力やミクロ段階のバクテリアやウィルス、物理科学反応をも含みます。生命とは、地球という特殊に限定された環境(刺激)の中から誕生したものです。生命(細胞)は、無限に多様な環境から半ば独立した、持続(再生)可能なエネルギー代謝システム(構造・系)として成立しています。
 この生命は、環境刺激の無限の変化(多様性)に対して平衡(恒常性)を保っています。この恒常性を維持するために、外界の刺激を取り込み、忌避し、改変するのが生命活動そのものです。その生命活動を的確に行う(環境への適応)ために、環境刺激を把握・認識(因果的関係性の把握)して反応行動するのが動物の活動様式の基本です。そして、その刺激反応性のしくみを支えるのが神経系であり、環境の多様性に対応して神経系を発達させたのが進化の頂点に位置する人類すなわち言語をもつ生命(細胞・存在)なのです。
 これに対し、パブロフの「刺激」は、刺激の多様性・無限性を重視せず、「エサ」に限定した無条件・直接刺激(本能)であり、「ベル」という条件・間接刺激(第1信号系)であって、実験室での実験者の動きや雰囲気などは刺激として考慮されません。これは科学の実験や測定における条件設定の限界として避けられないことですが、生命を哲学的に理解するためには、実験を越えた多様性・無限性(自然性)の理解は絶対に必要なことだと思います。
 さて、パブロフの第2信号系(言語)についてですが、上にも述べたようにパブロフは、刺激を単純化して考えました。「真理は単純」という言葉もあるように、条件刺激を条件反応と関連づけ、単純でわかりやすい「学習理論」を確立する(経験的には常識であったが)ことができたのは彼の功績です。彼はさらに言語についてもこの理論を応用して第2信号系と名づけましたが、言語信号の特殊性については、その全体的機能を十分単純化することはできませんでした。言語は、直接的な反応・行動から独立させることのできる音声信号である(独語または内言:ヴィゴツキー)という理解はあったのですが、これを思考・論理操作まで体系化させることはできませでした。
 ご指摘のように、パブロフにおいては、認知的論理的側面すなわち主語述語関係(何がどうあるかwhat,how)を基本とする対象世界の再構成(思考)を研究対象にはしていません。そのため、彼は、対象の認識・再構成と判断・行動を生理的過程としてのみ捉え、言語的思考による「再構成・判断」の過程すなわち言語機能としての思考(言語的認知)過程を無視しました。言語を生理学的方法のみで解明するにはもともと限界があったのです。
 というのも言語機能の解明には、言語行動としての分析(欲求・情動・感情と言語信号への反応との関係)だけでなく、言語信号(第2信号系)が、脳内で内的に処理される過程の分析(論理過程)とその意義(存在と行動の合理化)の解明が必要なのです。すなわち、欲求・情動・感情的側面と論理・思考・理性的側面、言語表出と言語思考、行動理論と認知理論の統一と体系化が必要なのです。
 また難しくなってしまい、申し訳ありません。懲りずに質問いただけたら幸いです。

<補足> 仏教思想に関心のある方は、刺激反応性を「縁起思想」から理解していただけると、わかりやすいし、私の言わんとするところの生命行動論は「縁起思想」に基づいています。宇宙的発想からは縁起に価値は付随しませんが、生命論の立場からは、縁起の始まりは生命の存続という価値が付随します。従って生命言語論は、生命が言語を獲得した縁起は、生命の存続のためであるということになります。
 
[6]言語論はなぜ必要なのでしょう。 Name:閑人(ひまじん)  Date:2008/04/04(金)

 懲りずに質問します。説明の多くはHPに述べられていることでしょう。そこで次に、なぜ言語論の革新なのか。どのような意義があるのか。
 旧ソ連の言語学の限界は、マルクス的弁証法が禍していることは了解しています。そこで、西洋の現象学や分析的言語論の限界は何か、について説明されたい。昔ウィトゲンシュタインがもてはやされましたが、あれは何だったんでしょう。
[7]◎@言語論の革新の意義(生命言語論) Name:管理人 Date:2008/04/12(土)

 閑人さん、ご質問ありがとうございます。確かにご指摘のような質問には、端的に説明をしておりませんでした。「人間存在研究」のHPの全体を読み込めばご理解いただけると思いますが、これも難しいと指摘され困っています。私の説明能力の不足でしょうが・・・・・。
 以下に主張することは奇異な感じを与えますが、現在様々な形で問題とされていることで、ことさら新しいこととは考えないでください。人間の当面する課題であり、常識の部類である(将来は)と理解していただきたいです。
 人間生命にとっての言語論の革新の意義
@言語論を、生物学・生理学・心理学によって、人間本性論として科学的に位置づける。
A言語学を含む西洋哲学の閉塞状況を打開し、思想的な将来的展望を見いだすことができる。
B言語論の革新による、新しい認識論と存在論によって、社会科学と法の概念を再構成できる。
C伝統的な宗教的世界観を克服し、現代的享楽浪費文化を抑制できる。
D新たな認知行動理論にもとづく社会結合の倫理と幸福論が展開できる。
E西洋近代の人権思想を、所与のもの(天賦)としてでなく、主体的かつ社会的に創造する新しい人権(New Human Rights)として再構築できる。
F新しい人権による社会契約によって、政治・経済に対する主体的参加と自立・協働を条件とする民主的社会的秩序(社会主義)を確立することができる。
 以上「できる」という言葉で、可能性の概略を示してみました。いずれも今後の思索と議論の必要なもので、理念(idea)ないし展望(prospect)を問題提起的に示すものです。以下に、掲示板の性格もあり、要約的に順次説明してみましょう。
@について。チョムスキーの盟友といえるS.ビンカーは『言語を生み出す本能』(NHK出版)において、認知科学的研究から言語の「生成文法」(主語述語目的語等の構成規則)は生得的に獲得されるものであり、人類に普遍的な規則(脳内モジュール)であると述べています。チョムスキーは西洋的思考様式をもつデカルト主義者ですから、まず初めに言語形式(句構造等)ありという誤った前提から生成文法を提唱しました(批判はHPで)。
 言語表現(文)を分析すれば、人類言語には共通の構成規則(主語述語等)があり、生成文法には一面の真理があります。しかしそれはビンカーが主張するような言語的認知の「本能」ではなく、動物に共通する認知行動原則である「刺激反応性=認知・判断・行動様式」に由来するものです。生成文法には人間主体の判断(思考:疑問の解明)過程が欠如してるため、認識における言語的疑問解明の形式(何がwhatどうあるhow等)が検討されず、言語表現(文)の結果のみによって文法を生成させようとしたのです。人間が生きるということは無限の刺激から、有用な刺激を認識し記号化し、どのように適応判断・行動をするか(因果・関係性の認識)ということであり、言語的知識(文・知識)はそのような判断の結果なのです。
 すなわち、大気と水と適当な温度等に恵まれた地球環境は、人間を進化の頂点とする生命(細胞)を誕生させました。生命は無限に多様な地球環境の中で、個体と種族の維持のために、生存の様式を多様に分化適応させ進化定着してきました。生命の生存とは、複雑多様な環境刺激の中で、まずは個体維持のために適応的に反応し、種族維持のために同種の個体と適切に関係を持つことです。そして、適応的で適切な生存の基準は、欲求や情動・感情として生得(本能)的に、神経中枢に組み込まれているのです。
 動物生命における神経系の進化は、知覚認識と反応行動の発達・多様化であり、刺激と行動の情報は、神経中枢によって適応的で適切に処理されることになります。刺激の的確な判断と反応、適応的行動の学習と記憶、そこに音声信号としての言語が獲得され、社会的な情報交換と共に、知的創造的情報も飛躍的に増大します。言語的に処理された情報は、生活や文化の様式として社会制度化され、逆に人間の行動を制約し制御します。人類の多様な文化や文明は、言語的思考(情報処理)能力の拡大の成果です
 <長くなりました。以下続きは後日・・・・・>
[8] なぜ「生命言語論」なのですか Name:閑人  Date:2008/04/15(火)

閑人(ヒマジン)ですが、解答中に口を差しはさみ申し訳ありません。説明が長くなりそうなので、なぜ「生命言語論」なのですか、また何がポイントなのですか、端的に説明してください。思いつきですが、何か生命に目的はあるのでしょうか。
[9] 言語は生命の生存をより確実に・・・・・・ Name:管理人 Date:2008/04/18(金)

 閑人さん、「生命言語論(説)」は、わかりづらいでしょうか。これは、「言語」の本質を理解するためには、生命の生存様式(刺激反応性の深い意味)の理解が前提となることを強調するために名づけました。端的な答えになるかどうかはわかりませんが、とりあえず「生命言語論」としてのポイントを、わかりやすく(!?)箇条書きにします。
@人間は、無限の多様性をもつ地球環境における生命進化の産物であること。
A生命は、有限であり、変化する環境の不安定と危険の中で生存を強いられていること。
B人間(動物)は、多様な環境刺激(ソシュール的には「差異」)を認識し、適応的に反応するために神経系を発達させてきたこと。
C人間の適応的反応の基準は、個体と種族の維持のため、生得的に組み込まれ学習によって複雑化した欲求と情動・感情であること。
D言語は、意思を伝達する音声から、対象(what)とその状態(how)を分節的に音声信号化できるように進化し、情報処理を飛躍的に発達させたこと。
E言語による認識(情報処理)と表現形式(文法)は、対象(情報)に対するwhat, how, where, etc and when, whyの疑問の解明様式であること。
F言語は、生命の有限性と不安定さの中で適応性と安定性を創造(合理化)しようとしていること。
 ”とりあえず”なので、全体を理解していただくためには、是非拙著をお読み下さい。http://www.eonet.ne.jp/~human-being/mokuji.html
 生命の目的?・・・・難しい質問ですが、とりあえず生存を維持し続けることです。しかし、人間という生命(人生)の目的は、単なる生存の維持というわけにはいかないでしょう。人間は、創造的に生きる生命だからです。かつて人間は死後の幸福(?天国や極楽)を創造して、人生の目的にしたことがありました。しかし、これからはこの地上での幸福を目的にしなければならないでしょう。
 言葉をもち知恵ある人間が、この地上で幸福であるためには、幸福そのものも創造しなければなりません。そのためにわれわれにできることは、人間を不幸にしている条件(まずは、人間存在の本質である言語についての無知、生命と人間の善性を傷つけ否定する知識と思想)を取り除くとともに、幸福を実現できる社会の創造を目的と考えることが必要である思っています。

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[10] 「生存を強いられている」とは? Name:閑人 Date:2008/04/20(日)

 閑人ですが、理解できないところがあります。Aで、「生命が有限である」というのは了解できますが、「変化する環境の不安定と危険の中で生存を強いられている」というのは本当でしょうか。自然が不断の変化と多様性の状態であるのはその通りだと思いますが、他方で、生命の生存にとって安定・安全(大気と水と適温で保護されている)だからこそ生命の繁栄があるのではないでしょうか。われわれ(生命)は、生存を強いられているのでしょうか。
 また、「言語についての無知」とはどのようなことでしょうか。なぜ「言語についての無知」が、人間を不幸にしている条件なのでしょうか。わかりません。
 
[11] 人間生命をどう意味づけるか Name:管理人 Date:2008/04/25(金)

 閑人さん、重ねての質問ありがとうございます。おかげで私自身も不十分さを自覚できて思索も深まり、とても助かります。
 ご質問の件は、私の思想・価値観が直接に反映されています。「生存を強いられている」という発想は、私自身も独自のものであると思っています。この発想を理解いただくには、生命論から始めなければなりません。
 生命(人間)の生存は、約40億年の歴史をもち、すべての生命の基本単位は「細胞」であることに異論はないでしょう。人間など高等動物でも、単細胞が分化・結合したものです。これはDNAを含む遺伝情報が、多細胞の個体にあるのではなく、個体を構成するすべてのすべての細胞にあることを見ても明らかです。
 生命存在の在り方(生命の生存様式)を、われわれ人間がどのように価値づけるのかは、人それぞれの人生観や価値観に左右されます。伝統的な宗教では、神や仏によって「生命を与えられた」とか「生かされている」という考え方もあります。また、人生(生命)を「ただ生きているから生きている」と考えることも「生きなければならないから生きている」「人生の意味を求めながら生きている」「人生の意味など考えずに欲求のままに生きている」等々と考えることもできます。
 しかし、人間に共通の人生の意味を求めるとすれば、生命存在の事実に即して科学的に考える必要があります(参照 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page1.html )。その場合に「生命誕生」の意義や、「生命活動の様式(欲求と刺激反応性の構造)」を、どのように捉えるかが重要な基準になります。私の場合は、地球環境に誕生した生命の生存形態(自律的エネルギー代謝システム)を「持続する」ことが、生存の様式すなわち@個体の恒常性維持、A環境の変化と多様性への適応、B老化と増殖への対応を規定すると考えています。
 これらの生命活動(生存衝動)は、欲求を充足する活動様式として、個体(高等動物では大脳の神経組織)に、生得的生理的に組み込まれています。その活動の基本は、上の3つの目的を実現するための刺激反応的活動、すなわち刺激受容と中枢的判断による「認識」、その結果としての反応「行動」ということになります。
 たとえば、生理的恒常性維持のために食欲が起こり、食欲を充足するために食物を知覚し、その食物をより効率的に獲得し、適切な仕方で食事をする。危険が近づけばその正体を把握し、安全のために自己防衛的な行動をとる。このように生があれば死があり、自然の災害や病気もあり、これらの生存の事実に対応しなければなりません。
 われわれが人生の意味をどのように価値づけるにせよ、これは自然的生物学的な事実です。われわれはこれらの事実をどのように人生観に組み入れることができるのか。ここに生命存在の意味を自覚することになった人類の、「言葉による意味づけ」のもつ意義があるのです。なぜ、何のために人(生命)は生きているのか。人間存在とは何か。どのように生きていけばいいのか。等々。
 次に言葉の意義を考えると、言葉は人間の生存(個体と種族の維持)を有利にするために生命が獲得したものです。その働きの基本は、社会的なつながりを強化すること(意思の伝達)ですが、個人としては環境世界を認識し(意思の伝達内容の構想・思考・創造)、自らを世界に位置づけ(自らを創造)、生存のための合理的な行動ができることです。そこで、人間という生命の生存衝動に従うならば、「人間(私)は生きなければならない」と自らを合理化する必要があります。生存衝動は生存欲求ということもできます。欲求であれば食欲・安全欲・性欲等々がありますが、生きるためには食欲を充たし、そのために労働をしなければなりません。やはり言葉は私自身に義務・命令を与えなければならないのです。(生存衝動や欲求は、人間では後天的に歪められることがあります)(参照 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page13.html
 私にとって「生存を強いられている」とは「生存衝動」を生物学的に表現したものであり、それを生命(私)の立場に立って言語化するならば、「人は生きなければならない」ということになるのです。このような表現が奇異に感じられるとすれば、それは今までの宗教や哲学、人生観が生命の実相から遊離していたのです。今までの人間(思想・宗教家)は、自己の存在を合理化するのに、言語や生物学的事実についての十分な知識を持ちませんでした。まずは議論が必要です。ご意見を聞かせてください。
 長くなりました。「言語についての無知」については次回にします。あしからず。

[12] 人間には強い存在が必要なのでは? Name:閑人 Date:2008/04/28(月)

 閑人(ヒマジン)です。生命存在の科学的事実としての生命衝動(個体と種族の維持)を、人間が生命の立場に立って、「生存を強いられている」とか「生きなければならない」と解釈する意味が少しわかりました。生命の立場とは、生命を自覚するということでしょうか。
 また本筋から離れますが、気になるので質問します。「何か(神仏など)にすがって救われたい」とか「生かされている」というような、何か絶対的な存在に頼りたいという気持ち(救済感情)は、弱い人間には生得的で自然なものではないでしょうか。人間はそれほど強くなれるのでしょうか。意見を聞かせてください。
[13] 人は神仏なくしても救われます Name:管理人  Date:2008/05/08(木)

 閑人さん、質問ありがとうございます。 
 人間存在の事実をどのように意味づけ、また無限の事実からどのような人生の真実を見いだし創造するかは各個人の選択の自由に属します。しかし価値観の混乱した現代社会において、多くの人が納得できる共通の真実が求められていると思われます。私にとって人間についての共通の真実とは、人間が生命の進化の最高の位置にあり、その人間を特徴づけるのが言語であるということです。
 だから、「生命を自覚する」というのはそのとおりですが、より正確には「生命を言葉によって自覚する」すなわち「生きなければならないという<言葉によって>生きる」ということです。これは「<神仏の言葉>によって生きる」という伝統的な宗教や、理性の命令・法則に従って生きるという考え方の対極にあるものであり、人間(私)が人間の本質(真実)を自覚することによって創造的に生きるということなのです。人間の歴史は、多様な文化や文明を創造してきましたが、その創造の根源である「言語」の意味を自覚することによって、人間が主体となった新たな文化の創造が可能となると考えています。
 人間は他の生命と同じように、生存衝動(欲求)にまかせて力強く生きることもできますが、同時に、有限な存在である人間は、本来的に不安定な存在でもあるのです。言葉による人生の意味づけを必要とする人間は、持続的な安心を望み、「不安感」の持続を好みません。質問にあるように「何か絶対的な存在に頼りたいという気持ち(救済感情)」は、人間の物質的生存が、不快を避け、快を追求するという不安定さの中にある以上避けることはできません。物質的な不安定を制御するのは言葉(言葉によって制御する理性・精神)であり、言葉によって秩序づけられた日常の習慣や制度です。
 伝統的な宗教は、生存の苦しみ(不安定さ・四苦八苦・生存闘争等々)を様々に解釈し、その解決方法を提供してきました。しかし、人間存在についての根源的な本質である言語については明らかにすることはできませんでした。人間が、物質的な安定だけでなく、精神的な安定と救済を求める感情は人類共通のものですが、その解決は必ずしも神仏のような絶対者を必要としません。人間が本当に救われるのは人間の連帯感情と信頼の言葉がつくる未来への希望の感情です。
 宗教の説明は掲示板では限界がありますし、私にとっても今後の課題です(参照 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page12.html 。ご意見をいただければ幸いです。
 
[14] 言語無知は、言語の力(パワー)を知らないことです Name:管理人 Date:2008/05/12(月) 

 閑人さん、前々回の説明の続きです。
 誤解があると困るのですが「言語についての無知」とは、人間存在の本質についての無知ということです。つまり、言語について考えるとき、ソシュールのように、「人間存在(認識と行動)の結果としての言語」ではなく、「人間存在を規定(合理化・意味づけ)するものとしての言語」についての無知ということです。いわゆるアカデミズム(大学・学会)の言語学は、西洋的伝統を踏まえて、言語主体間の伝達過程の「結果としての言語(ソシュールの言語構造)」のみを取り扱っています。それは言語学としてはやむを得ないのですが、私の「生命言語論」の立場からは、言語哲学の西洋的限界と生命の獲得した言語への無知に基づいているのです。(この点時枝誠記が言語主体の立場を重視して言語過程説を唱えたのは特筆に値します。)
 「言語についての無知」は、上述のような学問的無知だけでなく、宗教的無知、日常的無知等々も考えられます。
 宗教的無知とは、人生の不安や苦難に対する救済や信仰についての言語の役割についての無知です。どの宗教にも宗祖(教祖)の創作した教義があります。これらの教義の共通の特徴は、人間救済の内容や方法がどうであれ、言語化された教義の絶対化(排他的信仰)です。これらの教義の絶対化は、言語が人間存在にとって相対的なものであることが自覚されば、教義としては崩壊するべきものです(文化的価値は残ります)。つまり、伝統的宗教は、言語(の相対性)についての無知の上に成立しているものなのです。ただし、伝統的宗教による人生苦救済の事実(歴史的役割・成果)は否定できません。ちなみに私は釈尊による仏教の科学的継承を自認しています。
 日常的無知とは、われわれが日常使用している言葉についての無知です。
 何気なく言葉を使用しているときには問題はないのですが、自分の人生の目標や生き方を考えたり、友人や職場での自分の立場を考え問題を感じ情緒的に不安定に陥ったとき、その否定的感情(不安・悲しみ・怒りなど)を抑圧すると、神経症的な状態に陥り問題解決自体が困難になりることがあります。しかし、言語表現はいわゆる「癒し効果」があり、相談相手の癒しの言葉(カウンセラーの言葉で傷つく場合もある)や傾聴、また癒しの書物や宗教書がなくても、日常的に元気や自信(幸福)をもたらしてくれます。
 たとえば、病的なものを除けば多くの場合、人生や人間関係の悩みや疑問・不安などの問題は、さまざまの言語表現──個人的な内言・独言・日記でも、饒舌・会話・カウンセリングなどでも──で解決・軽減されることはよく知られています。腹立たしいことがあれば心の中で「チクショー」や「何よ、あんなやつ!」と言ってみたり、日記や文書にしたり、友達に愚痴を言ったりします。また自分の人生は何かと疑問をもち、「お金がすべてだ」と金儲けに走る人もいます。フロイトはフラストレーション(ストレス)への適応(防衛)機制の一つとして、無意識的に「合理化」する(すっぱいブドウの論理)心理を分析しましたが、これは言語の機能の一つです。この合理化の心理的機能を意識的効果的に使用することによって、自己コントロールが容易になり、自己を知ってより積極的(で幸福)な生き方ができるようになります。
 言語には認知的な側面と同時に、情緒・行動論的な側面があることは、経験(臨床)的には了解できるものの、案外科学的な検討はなされていません。
 言語パワー(日本的には「言霊(コトダマ)」)の説明は不十分ですが、このくらいにしておきます。
 
[15] 言語論と言語学とはどう違う? Name:閑人  Date:2008/05/12(月)

 閑人です。言語に関心はあるのですが、無知なのでしょうか。今回の掲示板を読んでいろんな疑問が起こりました。いったい言語論と言語学とはどう違うのですか。言語哲学の説明もお願いします。言語過程説の意義をどのように考えられますか。言語パワー?って何ですか。
[16] 言語論は人間哲学、言語学は個別科学かな? Name:管理人 Date:2008/05/20(火)

 閑人さん、いろいろと質問ありがとうございます。疑問や問題意識を与えられることほど人間(の脳)を活性化することはありません。また疑問は、論理能力や文章力を高めます。特に先を急ぐ必要もありませんので、私もじっくりと解答を考えたいと思います。
 さて、言語論と言語学は英語ではどちらも-linguisticsであり、的確に区別するのは難しいです。しかし、強いていえば言語学は言語についての学問全般であり、ネットで検索されてもわかるように諸言語の音韻や意味・文法などを含む学問で、言語論(理論)を含んでいます。それに対し、言語論は実証的な言語知識をもとに、言語理論を組み立てることで「言語哲学」の部門にはいると思います。言語の本質や人間にとっての意義、哲学における認識論や存在論を追求すること、さらには日常生活への応用を考えることになります。
 私の考えでは、西洋思想における言語哲学の限界は、一般に合理主義的と言われる西洋的な思考様式(認識論)にあると考えています。つまり、合理主義によって、言語(認識)主体が対象化した言語(ラング)は、科学的分析の<対象>とされたものの、言語主体と言語の関係(生存の合理化)や言語認識の過程(対象の言語化)については対象化できなかったのです。つまり、言語とは、分析の対象とされる表現結果(単語や文)だけでなく、言語主体の思考・表現過程を含むものなのです。したがって、ソシュールが言語学の埒外におき、ウィトゲンシュタインが言語の西洋的限界に気づきながら探求を放棄したのも、人間存在の言語的本質に迫ることの危険(言語や神は絶対化できない)を感じていたからなのです。
 なぜなら、西洋的思考様式においては、合理主義に必要な論理の絶対的な条件(端緒・原因・主語)が、被造物である有限な人間であるはずがないからです(ギリシアや「聖書」におけるおける神と人間の関係をみよう)。言語(ロゴス)が非合理的存在である人間の、認識・表現の所産であると考えることは、合理(ロゴス)主義者である西洋的人間にとっては矛盾なのです。西洋人にとっては、対象(世界・環境)は、合理的に見えているのです。しかし、その対象が、自らが言語によって合理化した《結果》であることは、合理性の根拠を失うことになるのです。西洋的思考様式では、再帰形や受動態の多用にみられるように、思考は基本的に主体的によってなされるのではなく、ロゴス(神)に守られて受動的になされるからです。ソシュールは、西洋的ロゴス中心主義の克服をめざしましたが、言語主体が確立していない思想的背景のもとで、自説を公表するに到りませんでした。
 少しややこしいでしょうか、次を参照してください。 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page5 .
 批判(現象学・分析哲学等)はまたの機会に。
 時枝の言語過程説の意義については、日本語学の立場から当然主張されるべき独自の理論です。ソシュールへの誤解もあるようですが、言語表現と理解の主体的過程を重視することによって、言語研究を資材的対象としての言語(ラング)から、人間関係の微妙な綾を表現する日本語の特徴を文法論に取り入れたこと(辞:助詞助動詞の重視)が評価されます。しかし、言語の哲学的側面への関心はほとんどなく、言語の認識論的分析、すなわち言語記号と意味・概念の関係(シニフィアン・シニフィエ関係)や、文法における主語・述語等々の品詞間の論理分析についての展開はありませんでした。この点で言語過程説は、言語論というより、強烈な日本語論であったと言えるのではないでしょうか。
 最後に「言語パワー(言語力)」というのは、何かの宣伝文句のようですが、心理的な問題を抱えている人には、臨床的にも宗教的にも意味があります。詳しくは他の機会にしますが、言語は人の感情に訴える力をもち、共感力や説得力と関係があります。聴者にとって言葉が、単なる音声として聞こえる場合もあれば、大きな意味をもって人の成長や治療につながる場合もあります。
 例えば、神の存在を信じる人にとって神の言葉は絶対ですが、そうでない人にとっては単に神話的対象にすぎません。説得力があればパワーがあるし、なければ意味ないものとなります。また、心理治療においても言語力(治療的関わりは言葉で統制する)は、話者の表現力と、聴者の問題意識(自己治癒力)が一致した時点で最大のものになります。言語は単なる情報提供の手段としてばかりでなく、話手の感情や意図、情報の意味内容によっては、聞手の感情や行動に大きな影響を与えるものなのです。
 さて、長くなりました。この掲示板の読者の問題意識と管理人の表現力(言語力)が一致すればよいのですが・・・。管理人の表現力の不十分さは、読者の理解力で補っていただければ幸いです。
閑人さん質問に答えられているでしょうか。またの質問・批判をよろしく。
 
[17] A革新の意義:西洋思想の閉塞状況の克服 Name:管理人 Date:2008/05/22(木)

 4/12付けの続き、Aについて説明をします。前にも述べたように、生命が「諸現象(無限の刺激)間の関係性」を認識・表現する様式が「論理」であり、その表現規則が「文法」ということになります。そして、その認知・行動の論理は「疑問解明と問題解決」すなわち「認知・判断(何がwhat、どのようにhow、なぜwhy)と行動の様式」で成立しています。行動とは認知・判断にもとづく問題解決の過程とも言えます。
 ところが西洋思想では、言葉や論理は、生物的認識主体から知的情緒的に遊離して、人間(自然)存在の前提(例えば、ロゴス<言葉や論理>としての「創造神」や「法則」)として、人間自身を支配すると考えられていました。とりわけ、宗教家(神官・預言者等)や哲学者は、人生や世界や権力の由来を説明(合理化)するとき、自己の構想(想像)による知識(言葉)を絶対化しようとしますから、知識(論理:哲学者等が構想)は目的(end)ともなって人間(の認識や存在)を規定し支配しようとするのです。
 それは哲学者プラトンにとっては「イデア」であり、アリストテレスでは「形而上学的世界」、聖書の作者にとっては「ロゴス」、デカルトでは「考える自我」、カントでは「思考(悟性)の形式としてのカテゴリー表」または「純粋理性」、ヘーゲルでは「概念の自己運動」または「絶対精神」ということになります。また、スミス、リカード等の古典派経済学やマルクスにおいては「労働価値説による商品の等価交換」※1)であり、新古典派経済学においては「市場均衡」※2)という理論になります。さらに現代言語論では現象学(「事象そのものへ」)、分析哲学(論理性の再検討)等におけるように、言語(記号)そのものを意識の中に位置づけようしようとましたが、成功しませんでした。
 現代哲学における言語論は、チョムスキー理論を含めて西洋的思考様式の限界性の産物(自然からの認識主体の分離傾向=理性主義・合理主義・ロゴス主義)であり、その限界を克服するためには、生命の生存様式(無限の刺激反応性と個体維持=生命目的)の解明から始めなければならないのです。つまり、ロゴス(言語・論理・理性)によって支えられていた西洋的思考様式が崩壊または閉塞状態にあるため、科学的人間生命観(生命言語説=生きるための言語)の確立によって新たな言語観を獲得する必要があるのです。(東西思考様式の違いは?)
 ところで、言語哲学や分析哲学に大きな影響を与えたウィトゲンシュタインは、とても正直な人で、このような西洋的思考様式の限界に気づきました。つまり、自己の意識を反省的に解明(現象学)したり、論理の絶対化を追求して認識や存在を解明するのではなく、それらを表現・記述する言語そのものを哲学の対象にしようとしたのです(「言語論的転回」)。しかし、言語やその論理を「それ自体として」究明しようとしても、言語の生物学的起源や根拠を明らかにしなければ行き詰まってしまいます。
 ショウペンハウエルやニーチェ、ベルグソンやメルロ=ポンティ等のように、認識(意識)の生物学的根拠を理解しようとする思想家(生の哲学)もいましたが、論理の根拠(アルケー)を確立することができず挫折してしまいます。なぜかといえば、生命現象を哲学的に追求すると、論理の限界性(不安定性)に到り、必然的に、神の存在や西洋思想の限界に気づくからです。
 ソシュールは、近代言語学の祖といわれており、人間の生得的言語能力(ランガージュ)、各共同体に規制される言語(ラング)、そしてラングの具体的使用としてのパロールという言語の分類や、シニフィアン(言語記号)とシニフィエ(意味内容)という記号(シーニュ)意味論、通時態と共時態など言語を体系的に理解する基本的図式を明らかにしました。しかし、西洋的ロゴス主義の限界を乗り越え、言語の構造を理解する学問的な意味はありますが、言語(ラング)は、基本的に生命活動の「認識と行動(刺激反応性)」に起源をもつものであり、彼のように言語を言語活動(ランガージュ)と分離して、知的操作的側面に限定すべきものではありません。また人間における言語的思考の創造的役割や、言語の構成規則(文法)の解明、認識と行動の過程である「差異と関係性」における西洋的限界など検討すべき重要な課題もあります。
 生命言語論は、これらのすべての問題の根源を明らかにし、西洋思想を起源とする閉塞状況を打開することができます。
※1)商品の価値(ロゴス)が、交換当事者の判断や関係性を規定し支配しているという決定論。貧富の格差の根源と利潤追求の反道徳性を隠蔽することに役立っている。
※2)需給の均衡(というロゴス)が市場の常態であり、現実の不均衡を規定し支配する。つまり資本主義的市場経済は、多少の動揺はあっても永遠の均衡を保ち、資本家の支配も永続するということを示そうとした。
 
[18] 生命言語論は、なぜ、どのように社会主義と結びつくのですか。 Name:閑人(ヒマジン)  Date:2008/05/26(月)

 閑人ですが。説明が飛躍しているようで理解するのが大変です。とりあえず質問します。
 「閉塞状況」はどのように理解しておられますか。またHP「人間存在研究」を拝見すると、穏健な社会主義の提案かな思っていましたが、ここではやや過激さを感じます。生命言語論は、なぜ、どのように社会主義と結びつくのですか。社会主義は実現するのでしょうか。
[19]<1> 「閉塞状況」とは、未来に目標を持てないこと Name:管理人 Date:2008/06/01(日)

 閑人さん、説明の難しい質問をされ(受身と尊敬の助動詞!)てしまいました。とうてい掲示板では説明し切れません。できればHP全体から読み取っていただけたらと思います。(home indexページ項目10,11)
  http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html  
  http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11.html
 さて現代の「閉塞状況」は欧米の思想状況だけでなく、世界の環境・政治・経済の状況にも現れています。日本も例外ではありません。これらの点について掲示板での説明は無理ですが、私のHPでは、
「不都合な真実」 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/hutugou.html
「日本文化論」  http://www.eonet.ne.jp/~human-being/bunka.html
の項目で述べています。私にとって閉塞状況とは、単なる学問的な研究の対象ではなく解決すべき課題であり、その解決の展望を見いだして実践しようとするものです。お閑(のようですが)であれば、是非実践上の提案をいただければと思います。
 次いで社会主義についてです。私の生命言語論が、社会主義を志向していることは確かです。今更社会主義か、と思われるかも知れません。実際、ソ連東欧の社会主義の崩壊や全体主義的・独裁的社会主義や人権抑圧のような周知の事情によって、社会主義の評判はすこぶる悪いものです。資本主義国でも、大きな政府の非効率や公務員の汚職など、社会主義的なもの(社会保障政策・福祉国家論)を排除し強者生存を永続させようとする新自由主義的な動きも強くあります。いわく悪平等、非効率、怠惰、官僚統制。
 社会主義は様々な立場があるので、まず私の立場を述べておきましょう。私の立場は、物理学者であるアインシュタインの理解に近いものです。幸いネットに公開されています。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11.html の引用冒頭文『何故社会主義か』>
その一部を紹介しますが、全文を数回は読まれることをおすすめします。
→ 「社会主義の本来の目的は正に『略奪期』を克服して人類史上に新しい時代を創る事にあるのだから、現在の経済学が未来の社会主義社会についていえることはほとんどない。」
→ 「現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。
→ 「人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だと私は思う。われわれの全教育システムは、この害を被っている。過度に競争的な態度が学生に叩き込まれ、学生はその将来のキャリアの準備として、欲深い成功を崇拝するように訓練される。
 私は、このような深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。」
 さてそこで「生命言語論」との結びつきですが、これはアインシュタインの上記引用文中の「人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だ」という点にあります。資本主義の害悪は、一般には「貧富(階級)の格差・対立」と考えられています。しかし、それ以上の害悪は、アインシュタインの言う「人々の社会意識のマヒ」です。すなわち、資本主義においては社会関係(社会的意識)が金銭関係(金儲け)に還元され、利己心がはびこって人間的な道徳(人間の良心や善性にもとづく真実や正義、人間的な連帯や生命への慈悲心)感情が奪われ失われることです。資本主義は基本的に利己的利益の追求(競争市場原理)が、社会全体の福祉を高めるという功利主義的価値観に基づいており、その結果は経済成長至上主義に帰結します。そのため人間性よりも金銭が目標とされ、道徳の退廃を招きます。資本主義は基本的に反道徳的なのです。   <つづく>

[20] <2> 「生命言語論」は、未来の目標を創る 

 「生命言語論」は、生命の実相(生命は個体と種族の維持をめざし、刹那性と永遠性の中で生きる、等々)を言語化(合理化)し、人間として感性的かつ理性的な自覚のもとに生きることを価値観の基本においています。人間の価値判断は基本的に個人的相対的であり、生存のための競争は生物的本性の一つに属します。しかし、利己的・否定的感情を理性的に制御できない個人・社会は、過去の歴史が示すように腐敗し崩壊しますから、競争万能の社会を永続化することはできません。それは言語を持つ理性的人間の否定を意味します。言語は人間の認識能力を高めるわけですから、社会的存在として自らを歴史の中に位置づけ、望ましい社会の設計・建設をめざすことができます。「生命言語論」は、人間が基本的に道徳的・自己制御的生命であること、従って社会的自覚と社会経済の制御が可能であることを主張しますが、ここに未来における社会主義実現の意義があるのです。
 なお社会主義という場合の社会とは、私の場合、人類社会のみでなく地上の生命社会をも意味します。人間生命は地球環境において他の生命と共に生きることができるようにすべきです。地球環境の崩壊をくいとめ、子孫に美しい地球を残し、更なる地上の生命の持続を望むなら、社会的自覚による社会主義の実現以外にはないと考えますがどうでしょうか。
 以上は社会主義全般の可能性を述べたものではなく、「生命言語論」に限ってその関係を述べたものです。人権や自由、道徳と正義の在り方、平等・不平等(所得・財産)の程度、経済成長と市場原理・効率性、政治の役割等々、問題は多くあります。さらに掲示板で議論できればありがたいです。
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[21] 未来の目標は社会主義以外にないのでしょうか Name:ひまじん Date:2008/06/03(火)

 閑人です。アインシュタインの社会主義は、とてもわかりやすかったです。半世紀前の物理学者のものとも思えません。
 「生命言語論」と社会主義との関係については、人間が未来の目標を必要としているのはわかりますが、「社会的自覚」や「社会経済の制御」、「理性や道徳性」だけで説得できるとは思われません。人間は社会的な自覚によって、個人の欲望や社会経済の計画的制御は可能なのでしょうか。人間はそれほど賢明なのでしょうか。
 世の中には変化を好まない頑迷固陋な人間、現状に満足している人間、神仏によって自己の社会的地位や安心立命を得ている人々、目標を持たず人生に絶望している若者たち、営利企業の提供する快楽商品や情報によって癒されている大衆、社会主義をバカにする半知識人、自分の利益や出世のために他人を欺き排除しようとする利己主義者等々、保守的で刹那的に生きている人々が大半です。道徳や我慢、お説教や夢物語に耳を傾けるでしょうか。福祉国家は、結局、子育てや老人介護を国家(税金)に依存し、個人的な快楽を要求するだけになり、家族の崩壊と人間関係の希薄化を招いているのではないでしょうか。
 今までと違った社会主義を提案されているのはわかりますが、一度に説明できないような問題というのは了解できます。そこで質問です。@「言語の適切な使用は人間の認識能力を高める」をもう少し詳しく説明してください。A未来の目標は社会主義以外にないのでしょうか。福祉国家ないし福祉主義ではダメなのでしょうか。またB民主主義における自由と平等の両立はどこまで可能と思われますか。私も質問はできますが、多くの問題を十分に考え理解することはできませんのでぼちぼち説明してください。
[22] <1>言語の理解は価値観の混乱を収束させます。 Name:管理人 Date:2008/06/21(土)

 閑人さん、御意見、御質問ありがとうございます。
 ご心配されているように、資本主義や社会主義の様々な問題を安易に述べることはできません。世の中には多様な立場や意見の人がいます。そして多くの人は「今ここで」自分の欲求が充たされ、存在していることに納得することで生きています。もちろんハイエク(市場原理主義者)のような「ゆでがえる」学者とその追従者は、強者の自由を主張し続けるでしょう。経済的繁栄は自由なくしてありえないと。
  参照 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/hutugou.html#7
 社会主義の評判の悪さの原因は、全体主義、官僚主義、計画経済、悪平等、非効率など、基本的には自由の抑圧にあると考えられています。しかし私が考える悪さの原因は、科学的社会主義(共産主義)の教祖ともいわれるマルクスの思想です。彼は言うまでもなく人類史の上でも傑出した天才であり、その正義感と社会科学的洞察力には、了解できる面があるのですが、人間理解の面では限界と偏見があります。
 マルクスの限界については、myHPの「9.マルクス主義批判」 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html  を熟読していただきたいのですが、批判の基本はマルクスの唯物論的認識論「人間の意識がその存在を規定するのではなくて,逆に人間の社会的存在がその意識を規定する」という命題の誤りにあります。この誤りは私の「生命言語論」的認識論から説明できます。生命言語論では「人間は、自己の社会的立場(存在・在り方・関係性)を合理化(言語化)する動物である」と規定することから、人間の意識は、自己の社会的(階級的)立場(存在)を正当化する(階級的イデオロギー)ことは正しいのです。しかし、人間は現在の社会的立場を正当化するだけでなく、積極的能動的に(社会的立場にかかわらず)意識や認識を変革することによって社会的立場や関係を変革できる存在なのです。
 マルクス主義者は否定したいでしょうが、マルクスは、労働者が賃上げ要求や人権を掲げて階級闘争を進めれば、必然的決定論的に連帯や団結が進み、恐慌や戦争を契機にして革命的ないし民主主義的に社会主義が実現すると考えていました。しかし、社会主義は高度に自己抑制的自律的なシステムであるため、多数の人間の自由で目的意識的な選択と民主的手続が保障されなければ持続的なものにはなりません。社会主義は、環境問題や地球温暖化(市場の限界)の克服のために自己抑制が必要なのと同じように、単なるビジネスや生活向上、技術革新による経済成長をめざすだけでは持続できないのです。
 前置きが長くなりましたが、@の言語の適切な使用とは、言語表現が、問題意識(好奇心─what,how,why etc))の解決(文の生成)であり、資本主義固有の問題(矛盾)が自覚されれば、その解決もまた明確に言語化され、社会問題そのものの解決が目的とされるということです。もちろん矛盾を自覚するどころか、開き直って言語の不適切な使用(自己の立場の正当化)をはかり、金銭欲や権力欲を満足させようとする狭量な人間もいるでしょう。しかし私は、人間にとっての言語の適切な使用の意味が理解されたなら、価値観の混乱から来る相互不信は解消され、自己抑制の能力が高まり、競争よりも互助の方がより多くの利益(現在の安心と幸福、将来への希望と確信)をもたらすことに気づかれると考えています。<下へ続く>
[23]<2>資本主義に道徳性はあるでしょうか? 

 次にA、について。現状の福祉国家は、人間的最低生活を経済的に保障する功利主義的弱者救済的な制度であり、市民の
積極的主体的政治参加を推進するものとはなっていません。社会福祉政策は必要なものとはいえ、国家のサービス提供に限定され、社会的自覚・連帯・互助の精神を育成し、民主主義の発展を推進しようとするものではなく、単なる恩恵的安全網(セーフティネット)にしかすぎません。とりわけ日本では、日本的な和の精神が封建社会で歪められ、連帯して自覚的に市民社会を形成しようという伝統が希薄であったため、依存心の強い偏狭な権利意識が育ってしまいました。
 私は、社会的関係性や正義を自覚的に追求するためには「社会主義」という用語を用いないと、民主主義は利己的欲望追求の側面が強調され、社会の腐敗が進み地球環境の問題も解決できないと考えています。福祉政策は、社会的連帯を前提としてはじめて健全なものになります。社会主義とは、社会制度としての国や政府(公)が主体となって個人を援助するのではなく、個々の人間関係(社会関係)が中心となる相互援助システム(制度)にするべきであると思うのです。
 従来の社会主義の中心課題である「生産手段の社会化・共有・共同管理、計画的生産と平等な分配」のような、人間性(諸個人の多様で複雑な関係性)を無視した、上からの社会制度では持続性に限度があります。従来の社会主義や福祉主義には分配的正義が強調されても、交換的正義(市場の正義・不等価交換の公正透明化)が軽視されてきたことに問題があるのです(詳論は後日に)。
 Bについては、自由と平等の両立は、公正と正義の感覚があれば両立すると考えます。要は道徳的良識の問題です。競争的強者が、弱者のことを配慮しなければ、自由と平等は両立しません。また強制的平等は自由の抑圧となり、社会の腐敗と停滞を招きます。本来自由と平等は対立的概念であり、友愛が両者の均衡を保つのです。しかし、友愛は弱い個人的な感情なので壊れやすいため、公正と正義の強い感情で制度的に自由と平等を調整維持する社会主義が必要なのです。
 いずれにせよ、資本主義(C)も社会主義(S)も多義的な概念であり、その問題点が20世紀の現実の歴史の中で検証され修正されてきました。今日ではこれら資・社(C・S)問題は、地球環境問題の解決と合わせて総合的に検討しなければなりません。それは同時に、現代世界の推進力となった西洋文明の再検討と、自然との共生を基調にした東洋文明の再評価、両者の融合、そのための言語論の革新を含む新しい人間存在概念の確立が必要と考えています。
 長くなりました。質問の答えになったでしょうか。道徳性のないCやSは永続しないし、金銭追求のCよりも、人間中心のSに道徳性と希望があるのは明白ではないでしょうか。問題意識を共有して、さらに質問や意見、ご批判をいただければ幸いです。
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[24] 社会主義と契約の関係は? Name:閑人(ヒマジン)  Date:2008/06/24(火)

 閑人です。言語論と社会主義のつながりは単純ではないということはわかりました。私の勝手なまとめによれば、人間の本質である言語の
理解によって、人間への問題意識が高まり、自己抑制と社会的自覚と道徳性が向上して、人々の連帯が意識的に追求され、資本主義の欠陥や問題点(特に非道徳性)が改革され、社会主義が実現する、というのが管理人の言われる「社会主義」ということでしょうか。
 社会主義を道徳的な課題にしようというのは新しいことだとは思いませんが、人々の心をつかめるでしょうか。現代の若者は言語的・理性的であるよりも感性的・自己中心的で、理屈だけで理解できるだろうとは思えませんが・・・・。
 近年よく問題にされる資本主義と社会主義における「市場の役割」はどう考えられているのでしょうか。
 それにしてもタイトルの<言語の理解は価値観の混乱を収束させます>というのは刺激的というか、過大広告というか、眉唾というか、どういうことなのでしょうか。「価値観の混乱」をどのように捉えられているのでしょうか。
 少し多くなりますがHP内の「11 新しい社会契約と社会主義」について簡単に説明してください。社会主義に契約が必要だというのは面白い発想です。ご多忙とは思いますがよろしくお願いします。
[27] (1)道徳的社会主義と社会契約 Name:管理人  Date:2008/07/02(水)

 閑人さん。根気よくつきあっていただいてありがとうございます。いずれの疑問も根本的な問題を含んでいるので、わかりやすく説明
するのは難しいです。しかし真理は単純でわかりやすさが求められますので努力します。
 大約まとめていただいたように、私の主張する社会主義は、社会(国家・政府・公共)にすべておまかせするのではなく、社会的自覚にもとづく「道徳的社会主義」です。これはユートピアでも単なる理想(空想)でもありません。この地球上で、すべての人類が平和で幸福な生存を維持していくために、必要な(necessary)目標であり条件なのです。
 現代の人類は、私益や国益を越えた全人類的課題──すなわち環境問題・資源エネルギー問題等々に取り組まなければなりません。自己の利益だけを追求しておれば(個人主義)、「神の見えざる手」(アダム・スミス)が働いて社会の調和が保たれ、福祉も向上するという時代は終わったのです。
 私の言う「社会的自覚」とは、隣人を同胞として尊重すること(ここでは「愛や慈悲」という感性的な言葉はあえて用いませんが)であり、家族はもちろん地域や国家社会だけでなく全人類的社会の一員としての自覚、さらに根源的には生命の代表としての人類の自覚です。
 かつてこのような自覚は、少数の天才的な宗教家や指導者が、過酷な犠牲的精神をふるって我々に警告し、すぐれた生存の指針(教義)として民衆を平安と至福に導くものでした。しかし現代のような科学的知識の普及した時代は、知的感性的努力(自己陶冶)は必要だとしても、特定の人間が超能力を発揮し、神秘的な儀式や呪文で人々を教導することはできませんし、その必要はありません。
 もし現代の若者(大衆)の多くが、自己中心的で刹那的な人生観(生き方)しか持てないとすれば、それは心ならずも資本主義社会に適応しようとしているのであって、彼らを責めることはできません。この社会は基本的に、欲望を拡大し浪費(競争原理・拡大再生産・生活向上)を奨励することによって成立しています。エコロジーやリサイクルの精神がかなり普及しているとはいうものの、この社会に安住している立場の人々は繁栄を謳歌し、弱者へのまなざしは冷ややかです。「格差があって何が悪い」「金儲けをしたくないのですか」「ニートは自己責任だ」等々。
 なるほど、格差や不平等は自然的な実在であり、それ自体が悪いとは言えません。問題は格差の大きさであり、それを拡大再生産し、金儲け自体を自己目的化し、人々の金銭欲(生活向上心とは異なる)をあおり立て(競わせ)、敗者を蔑視するような人間性を再生産する社会システムにあります。
 資本主義のシステムのもとで、人類的な諸問題を解決できると考える人々や、現状に安住したい(している)人々は、市場レベル(ビジネス)での工夫(二酸化炭素排出権取引など)や科学技術の進歩(CO2回収貯留、新エネルギー等々)が、現代の危機を救えるかのように主張しています。しかし両極の温暖化やアルプス・ヒマラヤなどの氷河の溶解の状況等を見れば、地球環境は加速度的な悪化を示しています。今や時間はないし、資本主義的な市場システムでの解決も望めないでしょう。
   http://www-cger.nies.go.jp/index-j.html
   http://www.yasuienv.net/index.html
[ 26] (2)道徳的社会主義と社会契約 Name:管理人

 では、私の言う道徳的な社会主義的市場システムはどうでしょうか。まず中央統制的な経済は、歴史の示すとおり人間性を否定した悲惨な
結果をもたらします。資本主義も修正され、いわゆる市場の失敗は政策的ルールで規制されています。市場における創意工夫や自由な商品交換(取引)は、健全な社会存続の必要条件です。なのに今更、なぜ社会主義なのでしょうか。資本主義成立から繁栄期の、資本家によるあからさまな支配がなくなり、独占の禁止や労働法制、財政・金融政策や福祉政策によって、社会主義的な制度も導入され、社会主義などもう古い、というのが大方の見方でしょう。
 しかし問題は、経済活動のインセンティブ(動機・誘因──道徳の領域)をどう考えるかということです。資本主義的インセンティブは、利己的な収入と財産、人間への不信と管理(支配)という、人間の自然ではあるが偏った感情・欲望を基本においています。資本主義の問題点の多くは修正されているとはいうものの、格差は拡大・人心は荒廃、企業不正は後を絶たず、労働者は使い棄てられ、弱者へのしわ寄せは強まっています。このような状態で社会的自覚や環境問題など考えられるでしょうか。(利潤追求のための競争原理の問題点については他所<マルクス主義批判>の項で述べています。)
 社会主義的インセンティブは、生活向上のための協働と連帯にとどまらず、社会的自覚と精神的な価値を重視します。労働やビジネスを自己実現の手段とみなし、利己的利益追求よりも社会的連帯をめざし、権力による強制に依存しないからそれが可能なのです。
 「競争の強制法則」(マルクス)なしに技術革新や効率的経営、経済成長は可能なのか、と問われれば、我々は、市場における競争や利己心を否定する必要はないし、創意工夫や民主的討議を重視しながら、なによりも連帯と精神的価値を重んじる社会を創るという目的を持つから可能であると答えます。市場での利己的自覚を刺激するのではなく、社会的自覚と責任ある行動の奨励が「道徳的社会主義」の眼目なのです。
★ 長くなりますが、言語論に戻ります。「言語の理解は、価値観の混乱を収束させます」というのは、まだ論証が不十分です。ただ言語の理解が進めば自ずと混乱は収束します。まずは、人間のすべての知識──神仏の存在や死後の世界、西洋哲学や数学、宇宙論や素粒子論を含めたすべての知識は、言語的所産であるということが理解できれば半分以上は解決します。誤解や宣伝(あるいは無意識)にもとづく欲求充足や不安解消の方法──宗教を代表とする人類文化の集積の多く──が、膨大な知識(宗教教義やイデオロギー等)として創造されてきました。
 それらの知識は言語のないところに存在しません。言語がなくても、対象の知覚や直観、学習された内容は脳内に記憶されますが、それらは言語で記号化され再構成されて初めて「人間的知識」となります。直観的知識、知覚的知識、映像的知識という表現はあっても、言語的に構成され、意味づけられ、伝達できなければ人間的知識とは言えません。単に映像(写真やビデオ等)を見、音楽を聴いただけでは客観的知識とはならないのです。
 そこでまず、旧来の宗教的知識は、その存在意義が科学的方法によって説明され、新たに改変される必要があります。宗教批判は、いままで唯物論(自然科学・進化論)や階級的立場、あるいは創造神や天上界批判という形で行われてきました。生命言語論の立場(人間は自らを合理化する動物である)からは、宗教は人間存在の非科学的合理化(意味づけ)と考え、宗教科学(新設)的に批判します。詳細は省略しますが、私の尊敬する仏教も神秘化された側面は批判の対象です。
 (キリスト教やイスラム教などの創造神批判は多くあります。神の存在証明という議論もありますが、私は、「人間は世界を合理化する存在であり、そのために、人間が神を創造した」と考えています。ドーキンスの進化論による批判では不十分です。人間は救いや慰めを与える権威を求める動物なのです。)
 「価値観」とは、自己をどのように合理化するか、ということです。人はそれぞれの欲求や感情に従って生き、無意識的に言語を使用していますが、問題状況が現れると言語を用いて思考し、解決し、自己の存在や行動を方向づけ意味づけ納得します。コンピュータを操作しながらブツブツおしゃべりをする人もいます。この独言が心の中に「価値観」を創るのです。そしてこの独言の相異や対立が、「価値観の混乱」の実態なのです。
[25] (3)道徳的社会主義と社会契約 Name:管理人

 さて次に「社会契約と社会主義」についての説明です。近代の社会契約説(ホッブス、ロック、ルソー)は、現代の憲法(constitution)規定に実現していますが、その原則は基本的人権の実現と国家権力の民主主義的運用にあります。社会契約説によって、私有財産と自由な経済活動を保障する資本主義経済が成立する(正当化される)のです。しかし自由な経済活動すなわち私的利益の追求は、必ずしも公正平等な交換関係によって成立するのではありません。飽くなき利潤の追求は不平等を拡大再生産し、弱肉強食と社会的無責任は恐慌と帝国主義戦争をもたらし、労働者と植民地の犠牲を強いるものでした。
 その間、民主主義の進展によって資本主義経済のしくみを修正し、競争の制限と社会福祉、平和の実現のために、憲法に生存権と公共の福祉、戦争放棄を定めた日本のような憲法が成立しました。しかし国家はあくまで国民の利害の調整役で、個人の利益を優先しながら、福祉政策を安全弁として、経済成長と強者の論理を貫くしくみになっています。
 しかし近代の社会契約説の問題点(限界)は、法的(言語的)契約の限界を、根本的なところで認識していないことにあります。ルソーは、一般意志に基づく社会契約を、国家成立の神聖絶対な条件と考え、契約の限界を過小評価しました。社会関係において契約は、国家を正当化する社会契約だけではありません。日常の経済活動も私的公的契約(民法・商法・税法等々)によって規制され運営されています。そして社会契約によって保護される商品交換は、市民間の「合意(約束convention F)」が成立すれば、それが不等価交換であっても法的正義であるとされます。
 しかし一般的に契約(社会契約、個別契約)は、契約の抽象(言語)性と当事者の置かれた状況の違いによって、多様な解釈が生じ争いのもとともなります。私の考える社会主義は、単に多数決によって上から権力的に私有制を制限し、交換的正義を実現しようとするものではなく、不断の「合意」を前提にした社会契約によって、自覚的に実現しようとするものです。また契約は、その抽象性のためつねに更新され、検証され、契約に伴う事実は公開されて評価されなければなりません。なぜなら契約の内容の解釈は主観的なので、つねに学習と討議と教育によって、確認されなければなりません。言葉の約束はつねに危ういものだからです。
 社会主義は必ずしも人間の感性的性質(欲求、本性)に基づいたものではありません。社会的自覚は、高度な知的理性的(言語的)認識能力を必要とし、また自己利益だけでなく他者の存在と利益を配慮しなければなりません。社会主義は必要なものであっても、誰にでもその意義が理解できるとは限りません。日常の生活に追われている庶民・大衆にとっては、目先にある刹那の享楽(欲求の充足)が人生の生き甲斐の源です。だからこそ社会主義(社会的な自覚)のために、継続的な契約行為が必要なのです。
 とても長くなりましたが、十分な説明ではありません。さらに説得力のある論にしたいと思っております。御意見ありがとうございました。少しはわかりやすいと思いますが、どうでしょうか。
 
[28] 社会的自覚はどこまで可能でしょうか。Name:閑人(ヒマジン)  Date:2008/07/03(木)

 閑人です。なるほど道徳的社会主義は、わかりやすい名称です。でも、道徳は、日本ではお説教や戦前教育のイメージが強く、反発する人が多いのではないのでしょうか。道徳も社会主義もイメージとしてはよくありません。右からも左からも嫌われそうです。
 経済学はよく分かりませんが、人間の利己的な欲望がコントロールされる市場とはどのようなものでしょうか。反論するだけの知識はありませんが、他人よりもよくありたい、目立ちたい、金儲けがしたい、もっといいものが欲しいなど人間の欲望にはきりがありません。まして「社会的自覚」がそう簡単に行われるとも思えません。「生命言語説」と「社会的自覚」はどのようにつながるのでしょうか。
[33] (1)社会的自覚のための認識論 Name:管理人  Date:2008/07/18(金)
<1>社会的自覚のための認識論

 閑人さん。御意見ご質問ありがとうございます。簡潔にわかりやすく説明できればいいのですが、残念ながらそうもできないのでお閑(ヒマ)なままにお付き合い下さい。

 道徳も社会主義も古いといわれればその通りです。イメージをよくするためにモラル社会主義(MS)や倫理的社会主義(ES)というのも考えられます。また類似のものとして人間性(ヒューマニスティック・人道的)社会主義、アソシエーション論(主義)、仏教的社会主義、福祉社会主義というのも考えられないことはないですが、ここは奇をてらうことなく正統派でいくのが正しいと思います。

 言語(意識)的動物である人間にとっての道徳は歴史とともに古く、人間や世界の根源についての問題や、理想的な国家・社会の在り方は、二千年以上の昔から議論されています。とくにギリシア、インド、中国等の文明において、人間とは何か、論理(言語)とは何か、生きることの意味は何か、死後の世界はあるのか、争いをなくすにはどうすればいいのか、どうしたら幸福な人生が送れるのか等々です。それらは哲学、自然学、論理学、倫理学、政治学、経済学等々とわかれ、当時としてはかなり科学的な検討が行われました。

 しかし結局は非科学的な宗教的な世界観(キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教等々)が人間世界を伝統的に(二千年前後の
間)支配し、現在でも一部(?)ではその状態を克服できず、戦争や道徳的混乱の原因だけでなく、社会の変革の障害にもなっています。我々は信教(思想信条)の自由という権利を得ましたが、宗教を克服すると考えられた社会科学的認識においても、充分な説得力のある体系的な理論をもたず、未だに人類共通の信念を持っていないのです。

 それは一面では資本主義にとっては都合のよいものです。いわゆる価値観の混乱は、人々の理性や精神力が鈍り、人間を安直な判断や刹那的行動に走らせ、何事も金銭で解決しようとするからです。民主主義の進展によって社会主義の考え方が取り入れられ、資本主義は修正されて福祉国家的方向は揺るがないと思われます。しかし、経済成長に限界があるのも明らかになっており、資本主義的利潤の追求は、成長がなければ(成長しても)他人の労働の成果を奪うことよってしか存在しないのですから、限られたパイの取り合いとなり、競争は激化して不正や対立が横行することが予想されます。

 そのような今日の閉塞的状況の中で、社会的自覚など夢のまた夢だと思われるかも知れません。しかし人間存在のアポリア(難問)の中で最後に残されたのが言語の問題です。言語問題は西洋哲学では未解決の問題です。カントは理性批判(認識論)の中で言語を封印し、思考力の限界と思考法則(範疇・カテゴリー)を規定し、観念的認識論を確立しました。しかし西洋哲学はカント認識論の誤りを克服できていないのです。新たな人間知の始まりは、言語能力の解明から新たな認識論を構築することであり、そこから人間の共通認識を得ることができるのです。新たな言語論の構築が、人間の社会的自覚と行動の出発点になるのです。(詳しくは http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page7.html )
 
[32] (2)生命言語論的自己理解 Name:管理人 
<2>生命言語論的自己理解


 そこで人間の社会的自覚と行動の筋道を見てみましょう。自覚というのは何であれ、「それは知らない(無知・無明)」「そうあるはずだ(先入見・偏見)」「そうありたい(願望・欲求)」「そうあるべきだ(当為・義務)」という人間(自分)の行動原則を知ることから始まります。自分の行動原則は何だろう。安定した地位か、他人から賞賛される名誉か、欲望をかなえる金銭か、人を動かす権力か、愛・友情・安全・自己顕示等々、人間は様々な行動原則を持ちます。人間はたとえ無知であっても、当面の欲求が実現するなら社会的行動を行います。これら欲求の実現は、民主主義・資本主義・功利主義の原則であり、マスメディアを通じての大衆の欲望喚起や世論誘導・扇動も可能にする原則です。

 しかし我々の考える社会的自覚は、あるべき社会の制度と社会の利害の中に自らを位置づける自覚です。言語を用いた理性的思考力や討議によって獲得できる自覚です。まず社会科学的認識等の認識能力を高めること、例えば、土地の私有制や権力の介入、格差や利潤、分配や交換、協力や競争、努力や幸運等、社会関係における利害をどう考えるかの判断基準の吟味、つまり社会道徳的問題への自覚です。これらは容易に解決する問題ではありませんが、それらの問題に関与し、その責任を共有すること、すなわち社会的存在としての責任の自覚です。いまの社会は個人の社会的自覚を推奨しますが、あくまで個人の自己責任であり、金銭的競争が社会の活力の源泉なので、利害対立を抑制しようとする基準の乏しい社会なのです。

 先進国の今までの社会主義(資本主義批判)は、少数の金持ち資本家と大多数の貧乏人労働者という極端な不平等(格差)を変革するものとして、民主主義の延長線上に成立する(多数決原理)と考えられていました。しかし、技術革新と富の蓄積によって実現した豊かな社会は、今までピラミッド型であった社会構成を「玉ねぎドーム型」に変え、最下層は生活保護で守られるようになりました。いわゆる福祉国家の成立です。しかし格差を再生産し道徳的退廃を温存する福祉国家が実現しても、我々のいう社会主義、社会的自覚にはならないでしょう。

 さて詳細は省略して、社会的自覚の必要性に進みましょう。まず社会的自覚の前提条件として、「生命言語論的自己理解」が必要です。なぜなら、我々の使う「言葉」は、我々の意志と感情と思想を表現するものであり、自己を感性的かつ理性的に理解する人間の本性であるからです。まず自己の言葉を感性的レベルでチェックする(「私の言葉は心の中でどのように機能しているか」)ことで自己理解が深まり、自己を確立する(言語的アイデンティティの確立──「私は言葉使う存在です」「私は言葉で自分の存在を合理化します」等々)ことで自らを社会の中に位置づける必要性を了解できるのです(詳細は次のURLを参照してください http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html )。

[31] <3>社会的自覚のための認識論

 まず以前説明した「生命言語論」からはじめます。その上で「社会的自覚」という価値観を含む筋道をまとめます。
@人間は、生命細胞の集積分化したものであり、内外環境の刺激変化に反応しながら、細胞の恒常性を維持しようとしている。
A人間は、個体と種族の維持のため、自然的社会的環境の中で欲求を充足しながら、生きる存在である。
B人間は、食欲、性欲、安全欲の三大欲求を基本とし、安全(safety)安定(constancy)のために社会と関係を持ち、自己(の欲求)を維持拡大しようとして行動する。
C人間は、意志と感情が内的動因となり、また判断と選択の基準となって行動する。感情は、肯定的、否定的、意志的感情にわかれ、否定的感情は不安や怨み、嫉妬など自己と他者に対して否定的行動を招きやすい。
D人間は、言語によって感情や行動をコントロールできる。「何がどのようであり、どうすべきか」は、言語の情報操作(思考)によって解明され行動に移される。

 上記の原則によって、「私は言語を用いる生命である」ということが感性的理性的に理解されます。人間が言語的存在であることを理解することによって、自分の思考や思想を科学的理性的なものとする筋道・方法が理解され、社会的自覚が容易なものとなります。一般に、社会を自覚するのは、他人との利害や社会的な状況に問題(危機)意識を持つときです。例えば1)社会的混乱・腐敗、2)民族的対立・戦争、3)支配者への抵抗・反乱、4)資本主義制度の欠陥(貧困、腐敗、不公正等)、5)地球的危機・環境問題などをきっかけとして社会的行動が起こされます。

 しかし、それらの問題意識や不満が科学的方向性をもたなければ、単なる抵抗や反乱、または社会的退行現象(政治的無関心、刹那主義等)に終わってしまいます。
社会的自覚への方向性をもつとは、問題解決の筋道を言語化(理論化)し、未来の幸福な地球と社会を創造することによって確信や希望がもてるようにすることです。宗教は死後の世界への幻想によって未来への希望を与えますが、社会的自覚(道徳的自覚)は、人間と社会への科学的認識にもとづいて、この地上に希望の未来を創造する力を与えます。 また、社会的自覚は、社会参加・契約・創造につながりますから、当然に結社・組織を必要とします。しかし、言語的認識論の理論的帰結として、公開性・透明性を原則とする組織は、唯一絶対でなく秘密や独裁、神秘主義とは無縁です。社会的自覚は、組織がなくても可能ですが、持続的な実践力を持つためには、主体的な契約によって成立する様々な段階での組織が必要です。新たな社会契約に必要と考えられるいくつかの原則をあげておきましょう。

@契約を結ぶ諸個人は、自己の利害関係の複雑性を客観的に認識するために、
認識主体として確立され安定していること。(生命言語論の確認)
A契約当事者は、社会(概念)の多義性・重層性、すなわち家族関係から地球共同体までの諸段階の
利害関係と、その流動性を認識できること。(社会的相互依存関係の理解)
B契約当事者は、諸関係の透明化をはかり、その
関係の中に自らの役割を位置づけ、他の役割との互換性を準備しておくこと。(変化への対応)
C前AB項の諸関係は、言語的了解にもとづく
法的契約関係として明示され、すべての社会構成員(家族、住民、市民、団体員、社員、国民、地球市民等)に諸関係の内容が教育され、不断に討議・検証されること。(社会的規範の意味理解)
D社会的自覚とは、
自己が獲得し、社会的に与えられた構成員としての地位役割を果たすために、法的社会的契約を自覚し、その責任を遂行すること。(認識と行動の一致)
E社会契約は、基本的人権(自由・平等・幸福追求の原理)にもとづいて締結され、契約を遂行する上での
利害の調整は、公正と正義にもとづき社会連帯を維持する目的で評価・判断され民主的に決定されること。(社会正義の実現)

 以上がとりあえず
「社会的自覚」の必要条件です。多少の注釈を付けます。1)社会的自覚は容易ではないが、生命言語論の認識論によって共通理解が得やすい。2)資本主義的利害は、国家(公共)による「分配」段階で調整するだけでなく、格差や詐欺、独占や収奪の生じる「交換(市場)」段階での公正と正義を実現することで、社会主義協同体へと接近していく。3)人間は環境と教育の所産であり、教育が希望ある未来社会の創造にとって最も重要です。子どもだけでなく、成人においても、あらゆる段階の社会において、自己啓発や相互の研修が社会的自覚の必要条件となります。

 さて十分条件となると、「社会的自覚」の障害となる事項があまりにも多いため、さらに困難が増します。しかし、資本主義の発展によってもたらされた
地球環境問題を考えざるを得ない今(21世紀初頭)こそ、それらの障害を除去し克服する好機でもあります。十分条件については、「道徳の力」に待つ以外ありません。欧米型超合理主義的資本主義、すなわち私的利潤の合理的な追求、自然と人間の利己的合理的な支配は、地球自然と社会関係の在り方そのものを崩壊させ、人類と生命の平和で幸福な存続さえ脅かしています。このような課題の解決には、人間の共同体的社会的自覚、すなわち道徳的社会主義的自覚以外にないのです。

 検討すべき具体的課題としては、人間の本性としての私利私欲(エゴイズム、享楽主義、刹那主義、私的所有、嫉妬競争心、支配・権力欲等)、認識能力の限界性、伝統・宗教・思想等への保守・現状維持傾向、悪意ある反対者の攻撃・誹謗・中傷等々を、どのように説得的に克服し、相互了解によって多数派を形成し、民主的に制度化できるか、ということです。解決のヒントは、危機感や問題意識の共有と、どのような解決の展望持つかということです。・・・・・・
 その詳細は後日に期したいと思います。御意見、ご批判、御質問を歓迎します。
[34] 道徳的資本主義ではダメでしょうか。 Name:閑人(ヒマジン)  Date:2008/07/20(日)
 長文読みました。私など余命幾ばくもないので地球や人類の将来など心配するより、日常を暇に任せて生きるほうが、心の健康のためにもいいのかなと思っています。しかし世間への好奇心は強く、一言申すのも心の健康になるようです。
 さて、御意見のように多岐にわたる問題の簡単な解決法があるとも思えません。読ませていただく内容の限りでは、社会的自覚や社会参加は、「資本主義の修正」でも可能ではないかとも思います。いっそ「道徳的資本主義」とされて、資本主義の枠内での道徳や契約を考えてみるのはどうでしょうか。それに人間は厳しい真実よりも、安易な幻想を好む動物ではないでしょうか。道徳的社会主義では、堅苦しく、抽象的でわかりにくいと思いますが・・・・・。
 そこで社会的自覚についてですが、現在の若者の刹那的状況、メディアの流す情報、子どもの教育の問題、競争万能の社会風潮などを考えると、今が楽しいことに対しては敏感ですが、とても自覚や責任など考えるゆとりはないのではないかと思います。人々の意識を変える良い方法はないものでしょうか。ゆるりと考えてください、何せヒマですから。
[35] 道徳的社会主義は、福祉資本主義の限界を超えます Name:管理人 Date:2008/08/09(土)
 閑人さん、御意見ご質問ありがとうございます。拙論を丁寧に読んでいただいていることに感謝します。いろいろとご指摘いただくと、解決すべき多くのことがあることに気づき、読書と資料あさりの意欲もわきます。
 さて、なぜ資本主義がダメなのか。資本主義的利潤の競争がなぜ道徳的になり得ず、また修正に限界があるのか。未来社会がなぜ道徳的社会主義(社会的自覚)の原則を必要need(必然necessaryではない)としているか説明してみます。
 まず二点を前提にします。ひとつは、資本主義的投資が、人間社会を急速に便利で豊かにしてきた反面、植民地支配や労働者の犠牲のもとに資本主義の発展がある(あった)ということ、二つには、貨幣の発展形態としての「資本」を独立した主体(マルクスの場合)として制御不可能(無政府性)と考えるのではなく、また自由放任が社会の発展を導くと考えるのでもなく、貨幣も資本も技術革新も歴史的経済社会の中で、人間(の致富欲求)によって発明され制度化されたもので、人間によって自己制御可能であるということです。
 後者の点では、福祉国家(福祉主義)の充実と資本主義の持続延命のために、「道徳的資本主義(ケインズ的福祉主義)」も短期的には可能であり必要です。しかし長期的にみると、資本主義のもとでの「道徳」は、競争の勝者とその恩恵を受ける人々によって歪められます。なぜなら資本主義は人間の利己的本質に由来しますから、競争的致富欲求にもとづく投資や経済成長は、際限のない利己的な利益と欲望の追求を前提にします。
 そのため資本主義は、公教育における道徳やメディアによる広告宣伝(への投資)を通じて、利己心(刹那主義・競争教育・民族主義を含む)を育成し、真実を見ない・見えないようにします。また資本主義は、社会主義道徳が「社会的自覚」を促して人間関係を透明化し、利己心を抑制するためこれを排除しようとします。そして、人間の持続的生存には、「資本主義的成長」を抑制し、連帯や互助が必要とされる、という事実を覆い隠し、人間の善性(優しさや思いやりの心)より、利己心や排他的心情(いじめや差別・優越感)を当然のことと考え競争に駆りたてるのです。
 今までの社会主義運動は、自由や平等を求める人権思想、平和や生活向上を求める民主主義の進展、抑圧された貧しい労働者大衆の団結と政治参加から必然的に社会主義が成立すると考えてきました。その結果、社会主義を取り込まざるを得ない先進国では資本主義の修正、福祉国家の成立ということになり、途上国を犠牲にしつつも平和な状況を作ってきました。しかしその限界(官僚制と依存性、財政拡大と負担増等)も明らかになってきました。
 それに対し、「社会的自覚」を重視する道徳的社会主義は、人間の善性(善的感性)を育成し、人間存在と社会的利害関係の自覚にもとづき、欲望と行動の調整(抑制)をめざします。また不断に投資や成長、利潤や競争の意味を問い(競争や利潤を抑制し)、私的利益よりも社会福祉や連帯を求めます。この社会主義は、人間関係における正義と連帯を実現するため、個人の社会的(歴史的人間的)自覚と社会参加を可能にするための社会契約を結びます。( 参考 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11html
 まずは資本主義を根本から変革するための議論の出発点、または思考実験として、資本主義の非道徳性と持続不可能性をまとめてみます。 長くなるので、項目だけを並べ、説明はこのページ( http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html#naze )を見て下さい。感想、御意見、ご批判をいただければ幸いです。
@ 資本主義は、人間存在と人間関係を不透明にします。
A 資本主義は、人間社会を刹那的な浪費社会にします。
B 資本主義は、人間の活力や創造力を引き出すために、能力・成果を金銭化し、社会を所得格差競争に駆りたてます。
C 資本主義は、人間の善意や互助の精神を、金銭的取引に利用し、悪意や利己的精神が裏面で暗躍する非道徳的社会を温存します。
D 資本主義は、人類的な財産である文化的科学的成果や技術革新のもたらす豊かさを私的に商品化して、万人の福利のためよりも一部の人間の満足を持続させるための手段とします。
E 資本主義では、地球資源の偏在と地域発展における南北格差、および競争原理のもたらす所得格差とその永続化は、貧富の対立と戦争の温床となります。また自由競争の無政府性は、地球温暖化や資源エネルギー問題の解決に必要な成長の抑制と、富の公正な分配による地球共存社会の実現を阻害します。 (・・・・HPへつづく)
[36] 金は道徳よりも強し!マルクスの誤りは? ひまじん Date:2008/08/16(土)
 閑人ですが、御意見拝読しました。「道徳」や「社会主義」は疲れます。なぜなのでしょう。社会主義はやむを得ない選択なのでしょうか。結局人間(大衆)は金(市場の損得)でコントロールするしかないのではないでしょうか。努力して金を稼げば自由に使えるし、なければないで節約しなければならないでしょう。「金は道徳よりも強し」という格言があってもいいと思いますが。
 管理人の言われる「社会的自覚」のような難しいことは、9割の人には無理でしょう。私は労組の活動をしていましたが、「社会的自覚」や「道徳的自覚」よりも、正義の仮面をかむった自己主張や目先の要求に動かされる人が多かったように思います。みんな自分の理想や欲求を実現しようとしているのですが、日常化した問題の処理に追われて日々過ごしていました。高邁な理想や体系的な知識も必要でしょうが、一般大衆にとっては我が身の安全安心、生活防衛、娯楽やストレスの解消で手一杯なのではないでしょうか。
 資本主義のもとでは、結局機会に恵まれた少数の人間が勝者となって、金の力で人々を支配するのでしょうか。そして大衆は、勝者をめざして勝ち目のない競争に駆りたてられ、負ければその理由もわからずストレスをためて、勝者のメディアにストレスを解消してもらっているのでしょうか。
 さて質問ですが、@社会主義といえば私有財産の否定とか、社会的所有ということになるのが本来だと思いますがどうなのでしょう。またA社会主義といえば、マルクスの科学的社会主義といわれていましたが、その有効性はどうなのでしょうか。今まで疑問に思っていたことなので、難しそうですがよろしくお願いします。
 
 [37] 人は金のみによって生きるにあらず   管理人 Date:2008/09/03(水)

 閑人さん、御意見ご質問ありがとうございます。私にとっては、厳しいながらも了解できる現実的な御意見です。しかし、現代の危機的状況を考えるとき、この状況を克服できる提言が必要であると考えています。私の考える危機とは、人類と生命の源である地球環境の平和で持続的な生存の可能性に対する危機です。これは、われわれの子孫にこの美しい地球を残しておいてやれるかどうかの問題です。

 おそらく閑人さんの考えは、資本主義も修正を重ね、社会福祉を充実させ、さらに競争を抑制する社会的責任の道徳があれば、今後とも資本主義でやっていける、またはやっていかざるを得ないということだろうと思います。しかし前回も述べたように、資本主義の修正には限度があり、人間の欲望を貨幣によって制御することや社会的責任の自覚は、資本主義の原理とは矛盾します。社会的自覚は、個人の自己責任(競争)を一般化する社会ではありえないし、社会的責任を一般化できる社会とは、社会主義社会にほかなりません。
 資本主義社会において社会的責任の道徳を説くことは、資本主義的支配(貨幣による支配や格差)を永続化しようとする道徳にほかなりません。マルクス主義を含めて「人間存在と言語の関係・意義」を究めない道徳は、人間と自然、人間と人間の関係性を透明化しない(できない)神秘的な誤魔化しの道徳になってしまいます。過去の道徳における論理(例えば宗教的背景をもつもの)は、一面的真理はあるものの現代の心理的諸科学(生物学・生理学・脳科学・言語学等)によって検証されなければなりません。 さらに今日では、人間社会の物質的諸関係(政治・経済等をめぐる利害関係)の科学的分析と透明化にもとづく公正と正義の道徳、つまり社会的認識能力を高め、参加と連帯を通じて社会的自覚を持続させ活力を引き出す社会的制度やしくみ(学校教育、企業制度、地域活動、メディア)も必要となります。自己責任・自由放任の限界(競争・格差による活力)を超え、社会的自覚と参加・連帯の社会システムは社会主義の創造的課題と言えます。
 さて御意見のように「地獄の沙汰も金次第」「成るも成らぬも金次第」「金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる」と昔からいわれているとおり、金(貨幣)は、われわれの生活や企業活動などに必要不可欠なものであり、貨幣のあるなしで人や企業の評価など経済活動全般が決められます。貨幣が多ければ活動の幅が広がりますし、また経済学は、生産・流通・消費の経済活動の中で、貨幣がどのような役割を果たしているかを研究する学問でもあります。とくに自由放任経済学は、封建的束縛に対抗していた初期の資本主義においては、スミスのように「神の見えざる手」によって道徳的に十分推奨されるものとされました。しかし世界史に見られるように、19世紀以降は「金は道徳に勝る」ものとなり、拝金主義のもとで今日に至っています(土地バブル、サブプライムローン等々も)。
 便利で快適な生活とそれを築いた経済成長は、資本主義の発展を推進した冒険的企業家の努力の賜物ですが、同時に貧しい労働者と植民地支配の犠牲によって成立したものです。ニーチェはこのような犠牲者の嫉妬を見下したものですが、権力者にしろ犠牲者にしろ「嫉妬」によって成立する道徳は永続しません。だからこそ権力者はパイのばらまきや「花火」を必要とし経済成長を追求するのです。社会的自覚の道徳は、必要以上のパイの分け前を求めませんが、企業活動を含む自由な社会参加・連帯と自己実現をめざします。競争的自己主張は人間の本性、活力の源として否定できませんが、社会主義においては、社会的自覚と福祉・平和に貢献するものとして賞賛されるでしょう。
 質問@ Aについての解答は、文字制限上、次のページ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11.html#keiji1 を見て下さい。
ずいぶん長くなってしまいました。短文ではとても説得力のある説明にはなりません。とりあえず読んでいただいて批判し御意見を下さい。
 
[38] 等価交換は不道徳なのですか :閑人 Date:2008/09/12(金)
閑人です、なかなか力作ですが理解するのに苦労しました。やはり所有の問題やマルクスの理論は理屈っぽくて難しいですね。この難しさが社会主義の疲れるところでしょうか。
 しかし、言われていることは少しはわかります。今までの資本主義は、貨幣(生活向上)への欲望を刺激し、競争によって活力(能力)を引き出して労働者を搾取し、資本家の私腹を肥やそうとしたのでしょう。それに対して、社会主義は、貧困や恐慌・失業など社会問題の根源が資本主義にあり、人間らしい生活を得るためには、労働者の要求を実現する理論である社会主義に未来を託すべきだと考えました。

 その後、民主主義の進展により資本主義は修正され、多数派(労働者)の意志を実現して福祉資本主義が成立した。その結果、経済発展が進み中産階級が増加して豊かで便利な生活が<ある程度>実現しました。しかし、民主主義によって利己的な利益を望む多数派は、労働政策や福祉政策によって物質的生活がある程度充たされると、社会的自覚や責任とは無縁の大衆になってしまいました。

 大衆は議論(おしゃべり)は好きでも科学的思考や理論は得意とは言えません。そこに資本主義的メディアが進出し、享楽的・刹那的情報を流し、現状に多少不満や不安はあっても、テレビがあればストレスを解消できるようになりました。しかし、他人(メディア)志向が強く、民主主義の理想である参加や自律、その前提となる批判的精神ということになると、大衆に期待できるか疑問を抱かざるを得ません。その点でいうと管理人のいわれるように福祉資本主義は、民主主義的批判精神に必要な正義や公正の感覚すなわち道徳性が衰弱しています。

 とくに管理人がマルクス批判と絡めて、「分配的正義」はそれなりに多数決によって実現できても、市場における「交換的正義」の実現について
批判しておられるのは卓見だと思います。マルクスをはじめほとんどの経済学者は、交換(契約)成立を「等価=正義」と考えていますが、はたしてそれは正しいのか。市場の失敗や不正(不公正取引や独占的利益、労働者搾取)を分析すると、自由競争市場のルール(民法や商法、独禁法など)も、「強者の正義」として強者の有利なように構成されています。 

 福祉と道徳の資本主義が成立困難であれば、社会主義の道徳は成立するのでしょうか。確かに嫉妬のような否定的な感情から作られる道徳は、魔女狩りや収容所列島を思い出させます。マルクスの社会主義が、資本主義市場(商品社会)を抽象化しすぎた失敗と共産党宣言に見られる限界は、今日から考えるとわかりやすい。しかし積極的に社会的自覚が可能か、可能とすればどのような道筋があるのか。不明です。

 そこで質問です。@ 「等価交換」に対してその不公正さはわかりますが、不公正不正義でも、交換が成立すれば、等価になるのだというのも説得力があるのではないでしょうか。
 またA 文中に「過去の道徳における論理(例えば宗教的背景をもつもの)は、一面的真理はあるものの現代の心理的諸科学(生物学・生理学・脳科学・言語学等)によって検証されなければなりません。」とありますがどういうことなのでしょう。
 多少スリリングな質問だと思いますがよろしく。
[39] 現状は深刻、世界観の変革が迫られています。 Name:管理人 Date:2008/09/24(水)
 閑人さん、御意見ご質問ありがとうございます。資本主義の問題点については、考え方を共有できるのでうれしく思います。
 閑人さんを含めて知識人のなかでも良心的な人は、現状への不満、将来への不安はあるが、資本主義の修正でも仕方ないのではないか。資本主義のもとで豊かな生活を享受しているではないか。資本主義に問題があるとすれば、道徳を見直すのが先決ではないか。社会主義への挑戦はリスクが伴いすぎるのではないか。社会的自覚など百年河清を俟つようなものではないか。などと思われているかも知れません。

 確かに資本主義的物質文明の繁栄の状況を見れば,そしてある程度の豊かさを享受しているのであれば、また、未来においてもこの安心が保障されるのであれば、閑人さんのような発想も了解できます。しかし、現状ははるかに深刻であり、楽観的な状況は長くは続かない、というのが私の見解です。というのも、宇宙船地球号の生存能力には、資源やエネルギーの面で限界があり、人口の増加と欲望の増大によって、現在の富裕層または先進国の贅沢をすべての人が享受することは不可能だからです。

 しかも、資本主義のもとで拡大する富の偏在や格差は、歴史的に不正に蓄積され、地域的に独占されることによって形成されてきたものです。世界大戦や地域紛争は、ほとんど先進資本主義の帝国主義的商業活動によって引き起こされたものでした。そして「成長の限界」や「環境問題」を契機に叫ばれるようになった「地球的に考え、地域的に行動する」というスローガンに意味があるのも、利己的な目先の利益や欲望の充足にとらわれてきた、またはとらわれがちな人間に、新しい価値観や生き方が求められているからなのです。

 しかるに、資本主義的な営利追求の精神(とりわけ市場原理主義)は、大衆に豊かさと便利さを広めながらも、拝金主義と競争原理を推し
進め、経済格差とメディアを通じた刹那的な快楽・文化的退廃をもたらしてきました。とりわけ大きな教育的機能を持つメディア(テレビ、新聞、雑誌等)は、センセーショナリズムと政治不信を植え付け、社会的自覚と民主主義の可能性(希望)を失わせようとしています。
 もちろんこの責任は、世界や我が国の方向を左右する立場の指導者達にありますが、彼らもまた彼らの信念──時代に制約された信念の限界を自覚できていません(ブッシュ・ブレア・小泉等々)。イスラム原理主義を批判するが、同時に、ユダヤ・キリスト教原理主義やマルクス主義を批判する識者・指導者はいません。世界人権宣言の存在を知りながら、その内容を理解しその理念を実現しようとする先進国の指導者もいません。権力を持つほとんどの指導者は、人類の未来を考えるよりも、自己の立場を保守し現実主義的な利害に目を奪われすぎています。
 とりわけ資本主義の盟主、自由と民主主義の守護者としてのアメリカ、軍事力・経済力ともに群を抜く超大国アメリカの存在は人類の運命を左右します。アフガニスタン・イラクへの侵略、キリスト教原理主義、市場原理主義の押し付け、自国中心主義等々アメリカについて書くべきことは多いのですが、長くなるので別の機会にします。・・・・・・・
 ではなぜこのような世界的混迷が続くのか。それは過去の古い伝統的知識のもとで、「人間存在についての無知による思想的閉塞状況」を克服できないことが根源にあります。そのために、経済学で常識とされる「資本主義における等価交換(均衡・完全競争)という思想(幻想・詐術)」は、その思想自体が交換過程の事実──不公正・不自由・不平等な競争、不等価、搾取、偽装、詐欺、誇大広告、不当表示等々の事実──を隠蔽することに役立っています。これらは「市場の失敗」とか「政府の失敗」などと揶揄されることもありますが、生産・消費過程における地球環境問題に端的にあらわれているように、単なる修正可能な失敗なのではなく、人類の持続的平和的生存をかけた深刻な問題なのです。
 道徳や規制、社会的自覚や自己抑制など、他人から押しつけられるのは自由の侵害、誰も嫌なものです。しかし、人間が信頼しあい、自由に安心して生きていける社会の創造は可能です。そのためには、容易に確信を持って困難に立ち向かえる危機の自覚と、人間存在についての「真実の言葉」が必要なのです。
 次に質問についての回答ですが、まだ未完成なので、あまり期待せず気長に待っていただければ幸いです。
 
[40] 「等価」の判断は交換関係の真実を隠します。 Name:管理人 Date:2008/09/28(日)
 経済学の常識は、いかなる不正な取引でも、交換(契約)が成立すれば「等価」と考えます。市場における取引(商品交換)は、不正な取引(詐欺・強制)であったとしても、当事者が合意し、納得したことにされれば、当事者の自己責任によって行われたことになり、合理的で正当なものとされます(win win 関係、互恵関係)。合理主義は、社会関係においては、契約合理性を意味しますから、その意味で「等価」であり、正当(正義)とされることになります。これが「経済学」における科学的合理性なのです。

 しかし、一商品の交換成立によって、他の同じ商品の価値が同じように決定するものではありません。一つの等価が決定(A=B)して、その等価を参考にすることがあっても、次には同じ取引が成立するとは限らない(A=2Bもありうる)ので、等価はあくまでも一回限りのものです。市場(需給)全体の均衡価格の場合でも、平均的価格はあくまでも平均であって、等価であるがために均衡するのではありません。経済学の常識が誤っているのは、等価や均衡はあくまでも一時的なもので、それを判断の一つの条件とすることはありえても、商品価値そのものであると考えるのは、結果しか見えない西洋的合理主義の誤りです。

 等価・等置・等号の決定(契約の成立)は、古典経済学やマルクスの考えるように、公正・正義の原則によって、投下される労働量や、労働時間で決まるものではありません。基本的には商品取引は当事者の力関係で決まります。経済学は経済現象の解釈学ですが、そのなかに交換的正義や契約自由の原則という自己の利害や価値観を含めようとしているのです。「儲ける」ということは、創造的で挑戦的なため、活力が生まれ楽しいことですが、必ずしも取引相手も儲けさせるとは限りません。あくまで自己の利益が確保される限りで売買契約(等号)が成立するのです。

 市場原理主義というのは、自己の科学的分析能力に限界を感じ、現状を追認するために市場に任せよという理論です。それは市場の不公正、交換的正義を追求したくないための方便にすぎません。市場における商品交換の推進力は本質的に不等価性すなわち「儲かる商品」なのです(K.ポラニーの言う「互恵」は、交換結果を合理化するための幻想の場合が多い)。そして、明らかに不等価であるものを「等価」として貫き、交換過程の非道徳性(例えば剰余労働、独占価格)を隠蔽するのがマルクスなのです。マルクスは(労働者、資本家の立場は別にして)他の多くの経済学者と同じように、経済発展を至上のものとし、等価交換を合理化することによって、資本主義的交換関係の非道徳性を隠蔽している(無自覚的に)と言わざるを得ないのです。

 資本主義の倫理性については、M.ウエーバーが資本主義の発展に果たしたプロテスタンティズムの役割について分析しています。彼は、勤労から得られる利潤は、神の命令に応じるもので正当化され、資本主義の発展にはカルヴァンの召命説思想の役割が大きいことを指摘しています。しかしカルヴァンは、利潤(蓄財)の正当性を職業労働の意味づけから説明しますが、利潤の非道徳性の由来は不問にしています。すなわち、利潤は生産的労働から得られると同時に、他人の労働からの価値の移動(不等価・詐取・搾取)過程からも得られることを、無視しています。利潤の正当性は、交換の正当性(交換的正義──神の命令ではなく、交換当事者の労苦や費用の公平性の吟味)からも考察されねばなりません。

 商品生産(安く作り・作らせ)と交換(高く売る)によって獲得される利潤は、生産の労苦(費用)ばかりでなく、市場の需給や力関係によって決定される交換(取引)の駆け引きにも左右されます。しかるに交換(契約)成立を等価交換とみなす考え方は、契約自由の原則と労働価値説に由来しており、経済学に根強いが、それは商品の「価値」が決定される法則を自然法として見いだそうというところから出発しています。しかし交換成立に正義がある(等置・等価は正当である)とする考えからは、交換の不等価性・不正義性は見えてこないのです。

 交換の不等価性が典型的なのは、独占的商品や労働力商品ですが、最近わかりやすいのは、派遣労働やパート労働の低賃金、産地偽装や毒入り食品、それに実態がわかりにくいのはサブプライムローンのような証券化商品です。いずれも不当性・犯罪性の明白なものですが、露見しているのは一部にすぎません。商品の交換価値の不正なものが、自由な契約によって等価とされているのです。いったい誰がどのようにして商品化し、市場で取引をするのか。これらの商品交換の成立を、「等価交換」とすることの非道徳性は明らかと言えないでしょうか。
 <参考>http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html#sankou
[41] 金融・証券投機恐慌の本質は不等価交換 Name:管理人 Date:2008/10/19(日)
 閑人さん、解答Aの返信が大幅に遅れていて申し訳ありません。私事万般にわたり多忙であるのと、質問の重大さに返答をためらっていることによります。というのも宗教の問題については即答できるほどに容易なものではないからです。概略については本HP( http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page12.html )に掲載しておりますが、何とか近日中にまとめたいと思っていますので、お待ち下さい。

 その前に、今回の米国発「世界金融恐慌」について私なりの説明しておきたいと思います。
 今回の世界金融市場の崩壊は、政府・中央銀行等の介入によってある程度救済されましたが、資本主義市場経済が自己コントロールや均衡、ないし単純な景気循環の状態には収まりきらないこと、また今日の金融資本主義を理論的に支え、政治経済の主流となっていた新自由主義理論の底の浅さを示しました。

 この経済恐慌状態は、利潤追求のために過剰生産・過剰投資をした結果生じた1929年の世界恐慌と外見ないし発進源は異なっていますが、本質は同じです。それは、金を儲けるためには(合法性の仮面は付けるけれど)手段を選ばない、利己主義・反道徳性・不正義・社会的責任の欠如いわゆるモラルハザード、自己の利益だけの、競争に勝って勝者となるためだけの経済活動であるということです。

 もちろん、今日の企業家・資本家・経営者の多くは社会的責任感のある人たちです。しかし、マスメディアや巨大企業の経営者、体制維持の政治家たち(多くは市場原理主義者・利己的自由主義者)は、企業活動・利潤追求において「競争や効率」のみを金科玉条のごとく唱え、勝者としての社会的責任と指導力を発揮することなく、自己の地位・立場・収入・支配力の確保と安定をまず第一に考えて発言し行動します。曰く、グローバル競争に勝ち抜くためには「競争と効率」化・非人情的経済合理性・弱肉強食は避けられない、と。しかし、そこには、利己的金銭競争や格差・差別を利用することによってしか人間は動かない、という皮相で貧困な性悪説的人間観があります。(単純に性善説のみで人間が行動すると考えるのも皮相ですが)

 今回の金融恐慌は、貨幣や投機とは何かを端的に示すものとなっています。
 本来貨幣は、不等価な商品の交換困難性を克服し、商品価値の尺度と手段として、交換を円滑にするために市場で発明され、その価値(貨幣商品)の信頼性を高めるために市場管理者・権力者達によって流通させられているものです。歴史的には、分業の拡大によって交換(市場)経済は発展しましたが、貨幣は市場において交換・流通手段として大きな役割を果たしました。

 貨幣が、自生的にそれ自体価値を持つ金や銀(商品)で流通し、それで市場が機能している場合は良かったのですが、貨幣の質や量に限界や問題があり、市場のコントロールも困難でした。そこで、市場管理者(政府・銀行)によって信用貨幣(有価証券 securities)が作られ、貨幣自体に価値がなくても国家の保証のもとに貨幣商品として流通するようになり、国家の都合で市場をコントロールしやすくなりました。また個々の銀行等が価値の信用創造をするようになり、信用取引によって利益を得失するような証券化商品の取引も可能になりました。

 ここに実体経済とは遊離した、信用(金融・投機・先物・虚構)市場経済が生じる根拠があります。信用創造の原理が、「投機」(リスクはあるが儲かるだろう)の手段として利用されると、不良債権(実体価値以上の信用創造)が生じ、金融機関の破綻が起こるのです。
 ここで資本主義の本質、金儲けの本質が不等価交換にあることを、岩井克人氏の新聞掲載主張(朝日新聞10-月17日付け朝刊)から説明してみましょう。岩井氏は新聞の見出しに「資本主義は本質的に不安定」「貨幣自体が実は純粋な投機」「セカンドベスト目指すしかない」と述べています。彼の主張に賛同するところも多いのですが、基本的な人間存在の洞察が欠けています。(以下は次回に)
 次回の結論を予告しますと<投機は不等価交換の将来的拡大を想定した利潤追求行為である>ということになります。

[42] 米金融危機 新自由主義の崩壊 Name:管理人 Date:2008/10/28(火)
 市場万能、自由放任、新自由主義の欠陥がまたしても露呈しました。今回の世界金融危機で現れた資本主義の不可避的な欠陥が、人為的なものであることが実証されたのです。資本主義の欠陥の根源はどこにあるのか、それは利潤追求のための商品交換という人間関係の根底に潜む不等価性・詐欺性にあります。次のネット記事はその一面を示していているので是非ご覧下さい。

崩壊…目に見えていた 米金融危機でグリーンスパン氏、持論の敗北認める   2008/10/25
http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200810250062a.nwc
 (フジサンケイビジネスアイ) 記事がありません。すでに削除されています。検索すれば出て来ますのでよろしく。

戦犯、その名はグリーンスパン
  ニューズウィーク日本版9月24日
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080924-00000000-newsweek-int
  (ヤフーニュース) 記事がありません。すでに削除されています。検索すれば出て来ますのでよろしく。
[43] 投機は不等価交換の将来的拡大を想定した利潤追求行為   :管理人 Date:2008/10/31(金)
 閑人さん、世間の動きが騒がしく、遅くなってしまいました。Aの問についてはまだまだ時間がかかりそうです。

 岩井氏はケインズを引き合いに出して、「市場経済は不安定であり、政策によるある程度のコントロールが不可欠である」としています。しかし、市場経済に限らず、自然や人間存在そのものは、本質的に不安定で、生存のためには知性的(言語的)コントロールが必要なのです。このようなケインズ的発見ないしは理解が必要になったのは、資本主義を「神の見えざる手」とか「需給の均衡」、「唯物史観」等々で法則的に説明しようとする西洋的経済理論の偏見にすぎません。むしろ東洋的思考様式を知っておればケインズを待つこともなかったのです。
 世界恐慌と戦争という社会的混乱の克服からコントロールの必要性が自覚されたわけですが、そのような現実を待つ必要までもなく、人間という利己的創造的な存在には、抑制とコントロールが必要です。西洋近代においては、人間中心のヒューマニズム思想によって無限の発展(神と人間の栄光)が期待されましたが、20世紀にいたってその限界と自己抑制の必要性が明らかとなってきたのです(東洋思想では自然との共生という観点からつねに自己抑制を重視してきました)。

 ではなぜ資本主義が不安定なのか、岩井氏の答えは、「それは基本的に投機によって成立しているからだ」といいます。これは正しいのです。しかし、岩井氏が「資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考える」ことから誤りに陥ることになります。投機とは英語でspeculation (思索、推測、思惑)のことですが、貨幣は決して投機でも投機的なものでもありません。貨幣はあくまでも交換、評価、蓄積の手段となる商品なのです。彼はマルクスを批判しますが、マルクスの価値論(西洋的思考様式)の呪縛から逃れてはいません。商品交換や貨幣について論ずる場合には、市場の交換当事者の関係性(相互の状況)を考慮に入れる必要があります。つまり、商品交換にはつねにそれによって何らかの利益が得られるという思惑(speculation)と思想を持つ人間が存在するということです。この思惑こそが商品交換と投機(的利潤追求・ビジネス)の動因・動機・誘因なのです。

 将来的に利益(profit)がある・儲け(gain)られるという思惑(地価が上昇する、石油が減少する、小豆が不作になる、トウモロコシの需要が高まる等々)に確実性が高ければ投資になるし、リスク(賭博的・詐欺的思惑、危険性)が低い場合は投機になります。ということは投機の対象となる商品(地価・石油・小豆等々)の価値は、本来的に不安定・流動的であるということであり、不等価性(得失)の割合が大きいということです。変動の激しい商品の交換が成立して、その時は等価であったといってみても何の意味もありません。等置(交換成立)は等価ではありません。

 このことは投機的商品に限らず、すべての商品交換の前提となります。つまり、商品の真の価値は主観的なものであり、それを購入し消費してみなければわからないのです。商品の買い手は、売り手の商品について1)価値があるだろう(交換原因)、2)価値がある(交換成立)、3)価値があった(なかった・交換結果)と判断をしますが、三者には交換の原因(誘因)と結果で決定的な違いがあります。2)の段階で社会的平均的価値(交換価値・価格)が決まりますが、この価値は3)の使用(価値)段階におけるように交換原因とは異なる場合があります。ここに交換における不安定性・危険性がありますが、またそこには資本主義的利潤追求の危険性(投機性→価値があるだろう→予想・先物)と誘因性(おもしろさ→私にもチャンスがある→希望・夢)があるのです。

 交換成立による商品の価値評価(交換価値・価格)は、社会的平均的なものであって、労働価値説のような絶対的なものではなく、一時的相対的なものにすぎません。しかしそこには相対的(主観的・人間的)であるがために商品の価値を偽装して、実体以上の価値で交換し得るという詐欺的(競争的)要素があるのです。つまり社会的平均的価値は、一時的相対的なものであるにもかかわらず、次の交換の商品価値を過大または過小に評価する基準ともなり、過大な(儲かる)場合は供給量は増大し、需給の安定を崩し、市場全体を不安定なものにします。強いものはますます強く、弱いものはますます弱くなるのですが、このカラクリは「市場へのコントロール」がない限り実体経済とかけ離れ、需要と供給の法則を越えて、やがて破壊します。

 それでは貨幣は、資本主義的利潤追求において、どのような役割があるのでしょうか。<つづく→>
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html#kinyuu

[44] なぜ不等価交換の理解が進まないのでしょうか   ひまじん Date:2008/11/05(水)
 閑人です。続きの議論があるようですが追加質問を一つします。
 今回の金融危機で管理人のいわれる不等価交換の意味がわかってきました。不等価交換は例外的なように思われてきましたが、よく考えてみると交換の推進力は不等価、つまり商品交換はAにとって必要なもの(価値の大きいもの)を、Bにとって必要でないもの(価値の少ないもの)と交換することですね。結果としての交換価値(価格)は、交換当事者間の社会的妥協の産物と言えるのではないでしょうか。「商品交換は等置であっても等価とは限らない」という管理人の考えは『主観価値説』といえるのではないのでしょうか。

 それにしても交換が成立すれば等価交換であり、等価交換のもとで資本家による労働者の搾取が行われるというマルクスの『資本論』の真の意味は、ほとんどの「マルクス読み」が理解していないのではないでしょうか。普通人は、資本家の搾取を不公正・不平等で不等価と考えているのではないでしょうか。昨今話題になっている派遣労働者の賃金など不等価の典型事例でしょう。いったいなぜ不等価交換の理解が進まないのでしょうか。『資本論』には、労働者の搾取は等価交換によるというのは書かれているのですが、なぜマルクスはこれを不等価や詐欺であると考えなかったのでしょうか。

[46] 等価交換は利潤の追求を正当化します(1)   :管理人 Date:2008/11/17(月) 
ひまじんさん、重ねての質問ありがとうございます。
 交換の成立は等価(正義)なのかどうか、また商品価値がどのようにして決まるのかは、経済学の基本的な問題です。この基本は、経済学の世界では「主観価値説(限界効用説)」が多く、「客観価値説(労働価値説)」は、マルクス主義の衰退とともに劣勢の状態ですが、両者の対立は克服されていません。等価交換か否かについては、以下に説明するように双方とも等価交換であることで一致しています。

 私の見解は、今まで述べてきたように、「ある商品の価値は基本的に主観的に決められる(使用価値・効用)。しかし、交換(契約)の成立(合合意)による社会的平均的価値(交換価値・価格・相場)は、その商品の次の交換の価値判断の基準となり、次の交換の成立を制御(規制)するようになる」ということになります。つまり、交換成立には、当事者双方の商品に対する評価条件(=需給状態、相場、力関係、費用、効用、労働量、利潤設定、思惑等)の影響を受けるということです。交換価値(価格)は、決して需要と供給または労働量という単純な関係だけで決まるのではありません。需給の均衡自体が評価条件(例えば利潤設定)の影響を受け、使用価値(効用)以上の価値を産む場合や逆の場合が出てくるのです。

 商品価値は基本的に主観的(個々に評価は異なる)であり、「交換価値(価格)は便宜的な数値」(社会的平均的な規制性はある=相場)なので、交換(等置)が成立したとしても等価とは限りません。競争的に利潤を得ることを目的とするような交換であれば、なおさら不等価によって価値が一方的に移動し拡大する場合(独占的商品・超過利潤・搾取的労働)があるのです。

 ではなぜ経済学は、交換成立(等置)を等価交換と強弁(または誤解)してきたのでしょうか。交換の成立(等置)を等価交換と考えるのは、客観価値説(古典経済学)も主観価値説(近代経済学)も同様です。これは「契約の成立や合意を正義と考える」西洋的合理的人間観から来ています。商品交換によって相互に利益を得る取引(win win の関係)は、誰が考えても社会的正義ですから、これは等価に違いない、等価であるはず、等価としようということなのです。しかし、交換が詐欺である場合は不正義なので不等価とされます。交換した時は正義=等価であっても、後から不正(詐欺、偽物、欠陥、胡麻菓子等)が発覚すれば不等価となります。

 また不正(不等価)が発覚または不正と認識されない場合はどうなるでしょうか。現代国家の多くは、交換の正義を実現するために公正取引を確保するための法律(民法、商法、独占禁止法等)で等価交換を維持しようとしています。なぜ法律で規制しなければ(規制しても)不正がなくならないのでしょう。これは競争的商品交換(市場経済・利潤追求)そのものに内在する不正性(不道徳性・利己性)、すなわち不等価性によるものなのです。資本主義を擁護する国家と経済学者は、あからさまな不等価交換の事実(詐欺)を法的に規制することによって、常在的な不等価交換を隠蔽しようとしているのです。

 それではなぜ、両説において不等価交換が採用されないのでしょうか。
 労働価値説が等価交換に疑問をもたないのは、容易に理解できます。商品の交換価値は、その商品に投入された労働量によって、交換以前に決まっているからです。彼らにとって交換(等置)は、等価であるから成立していると考えるのです。交換当事者の、交換時における自己や市場の主体的具体的条件や判断を無視して、価格の決定を自然的過程(自然価格)であると考えてしまうのです(スミス、マルクス)。それでも経済成長が停滞したり、社会の混乱や矛盾がなくならないことに気づいた学者は、財政政策や社会主義によって自然過程(市場)に介入する必要性を考えるようになります(リカード、ミル)。
 近代経済学には、資本主義の擁護(反社会主義)という使命があります。だから、主観(効用)価値説の立場からは、交換が不等価になるのは当然(交換当事者の価値観は「相互に」異なる)なのに、等価であると強弁します。しかし、それはそれなりに理由があります。市場競争による契約「合意」は正義(等価、give and take, win win, 互恵原則)であり、その正義に問題(不等価性)を見いだせば、社会主義的制度化(市場介入)を考えざるを得なくなるからです。 (2)へつづく

[45] 等価交換は利潤の追求を正当化します(2)   :管理人 Date:2008/11/17(月)
 主観価値説の創始者達(ジェヴォンズ、メンガー、ワルラス)は、市場では合理的に判断できる自律的で平等な個人間の完全競争という前提をつくって、市場の価格決定を需給法則に依存させ、交換価値(価格)の社会的意義(交換価値の市場規制力)の説明を放棄します。そして市場における価格変動の現象面(需給法則)のみを分析しますが、交換の推進「動機」の一つである利潤追求の意図(主観価値に含まれる)を無視します。彼らの内でメンガーは、交換の具体的場面を数多く分析して労働価値説の「等価交換の誤謬」や「交換の不等価性」を指摘しています。彼は、商品交換は主観的には等価であるが客観的には不等価であるとして、独占的交換を批判していますが、利潤追求的交換そのものの主観的客観的不等価性(の意味)については追求していません(メンガー『国民経済学原理 1871』安井・八木 訳)。また彼らは共通して、商品交換における利潤(営利)追求が欲望充足(効用)であること、すなわち商品が効用としてでなく営利の手段ともなることを検討していません。その結果については以前にもふれたところです。

 以上のように交換というのは、個々人の認識や評価の違う商品を合意の上で交換(等置)しようとするものですが、その交換(取引)は双方の欲望を完全に実現するものとは限りません。しかも、交換欲望が利潤の追求や無理な取引・営業・商売となることを考えると、これを交換する前から、また交換成立後も、等価物とすることがおかしいのです。交換の結果としての社会的平均的な価格(交換価値)は交換円滑化の擬制的慣習であり、その社会的創造的評価(価格)は、基本的に確実性の不確かな価値で、商品交換というのはこの不確実性の中で行われているからリスクが伴い、成長の期待によって活力を生み出すものなのです。

 なぜこのような基本的な認識が、経済学者たちによってできなかったのか。それは西洋の合理主義的認識や思考の習慣によります。西洋的思考様式のもとでは、人間に思考されたこと、合意されたこと、契約されたこと──言語的に判断されたこと(合理主義)からしか議論が始まらないからです。「価値がある」という判断は、社会的評価(価値判断)の影響を受けながらも主観的なものであり、交換成立後の社会的客観的とされる交換価値は、一時的相対的なものにすぎないのです。
 これは商品価値論と言語意味論の相似性の解明によって明確になります。つまり、言語論( http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page5.html )でも述べているように、言語の意味は、基本的に主観的個人的であり、客観的社会的なものは平均的なもの、慣習的なもの、すなわち社会的に獲得され、個人的に実現するものです。そして言語記号(音声・文字)は意味伝達の手段となります。これと同様に、商品の価値は、基本的に主観的個人的に判断され(使用価値)、客観的社会的なもの(交換価値)は個人の判断を制約するにすぎないもの、すなわち社会的に制約され個人的に実現するものです。また貨幣は流通の手段であるとともに価値表現(価格)の手段となります。

 商品の価値は言語の意味と同様に、基本的に主観的です。それでは客観的な価値(商品)ないし意味(言語)とは何か。それは両者共に、
社会が円滑に機能するために相互了解のもとで平均的に存在する約束(ないし慣習)であるということになります。日常の言語的意思疎通や商品交換は、主観と客観の多少の隔たりがあっても、それで問題がなければ円滑に機能します。しかし社会的客観性が軽視され、価値観が混乱し商品(貨幣)や言語への信頼性がなくなると、この平均的価値ないし意味は機能しなくなります。それは恐慌や道徳の混乱、社会の衰退を招くことになるのです。
 長くなりました。数式を用いた近代経済学は、私の不得手とするところです。まだ質問があるでしょうが掲示板では限界があります。次は
話題を変えます。質問・御意見はメールでよろしく。

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強欲資本主義の一例
公的支援の米金融大手9社、収益上回るボーナス支給
【2009年7月31日 AFP】
 世界金融危機で前年秋に米政府から公的資金を注入された米大手金融機関9社が、業績悪化にもかかわらず多額のボーナスを支給していたことが、ニューヨーク( New York)州のアンドリュー・クオモ(Andrew Cuomo)司法長官の報告書で30日、明らかになった。

 2008年の金融危機発生から9か月かけて作成された報告書は、各金融機関の業績と業務内容の調査結果をまとめたもの。これによると、一部の金融機関は2008年分の役員ボーナスとして、総額で同年の収益を上回る額を支給していた。

 ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の支給額は、08年収益の28億ドル(約2700億円)の約2倍に相当する48億ドル(約4600億円)。モルガン・スタンレー(Morgan Stanley)は収益17億ドル(約1600億円)に対し、44億7500万ドル(約4300億円)を支払った。両社は各100億ドル(約9600億円)の公的資金を受け入れている。

 一方、250億ドル(約2.4兆円)の注入を受けたJPモルガン・チェース(JPMorgan Chase)は、収益56億ドル(約5300億円)に対しボーナス支給額は86億ドル(約8200億円)。それぞれ270億ドル(約2.6兆円)以上の損失を出したシティグループ(Citigroup)とメリルリンチ(Merrill Lynch)も、シティが53億3000万ドル(約5000億円)、メリルが36億ドル(約3400億円)をボーナスとして支払っていた。(c)AFP