9.マルクス主義批判
─科学的社会主義批判─
Staff; Yamada Kakasi の★阿修羅♪ 掲示板投稿 ここ 「科学的社会主義・日本共産党批判」
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。→経済学における等価交換の欺瞞性を考える
このサイトのマルクス主義批判は、従来のような近代西洋思想の枠内での批判ではない。近代西洋が築き上げた世界観・学問体系そのものの批判の一環である。この批判は、民主主義と科学技術文明の発達という光の面を否定するのではない。西洋文明が発展させた現代社会の閉塞状況を打開するための西洋思想批判の一環である。
すなわち、ギリシャに始まり、ローマにおいてキリスト教と融合し、近代ルネサンスにおいて開花し、近代西洋から全世界に拡大した科学と民主主義と技術革新の限界を問うものである。従って、生命と人間存在につ いてのものの見方考え方の転換を前提としている。すなわち、その基本となる「生命言語説」の理解なくして批判全体の意義を理解することはできない。
●マルクス経済学は、新自由主義を含む新古典派的近代経済学と同様に、等価交換(市場万能)原理に由来し、唯物史観は、ギリシア的合理主義にもとづくユダヤ・キリスト教の歴史決定論に起源を持つ。マルクス批判は、両者を育んだ西洋思想の根底的批判によってはじめて可能になる。
■21世紀において、マルクス主義という解放(開発)独裁の呪縛から東アジア(と世界)を解放することが、世界の平和と日本国憲法の恒久平和主義実現の唯一の条件です。社会体制は武力で変革できますが、古い思想は、新しい思想によって以外変革も克服もできません。真正のマルクス主義と未来の世界平和は両立しません。マルクス主義は自己を修正することはできても、自己を止揚し解放する知恵を含んでいないのです。これは当面の現実的な課題である日本から米軍を撤退させ日本の真の独立を可能にする条件でもあります。
●マルクス批判とは何事か、と考えるあなた。『資本論』は読まれましたか。
商品と価値について理解されましたか。等価交換を正しいと考えますか。
マルクスは、資本家の利潤を、等価交換によるものと考えました。
なぜ、そのように考えたのか。それは、市場における商品交換(合意にもとづく売買契約)を、西洋近代の思想家達は、全く合理的なものと考えたためです。
しかし、このサイトでは、西洋的合理主義自体の問題性を、生命言語論をもとに解明し、批判的に克服しようとしています。 資本主義の問題性に気づいているあなた。マルクスに疑問を感じているあなた。是非じっくりと考えてみてください。 経済現象の解明と経済政策の策定には、人間存在と人間関係の解明、さらに人類福祉のための社会的自覚と道徳的意志が必要になります。
■マルクス理論には積極的・肯定的側面と消極的・否定的側面がある。多くの賛同者は彼の肯定的側面に幻惑され,否定面の批判的検討を怠っている。また反対者は否定面を強調して,資本主義社会を社会科学的に分析する政治経済学の伝統までも排除しようとする。(Wikipedia の「マルクス主義批判」はその典型である)
肯定的側面とは人間解放,階級支配の廃絶である。否定的側面とは,西洋的認識論とユダヤ教的世界観の限界性からくる理論崇拝(労働概念の絶対化)による人間支配(ないし疎外)といえる。つまり,労働価値説による弁証法的理論構築とその理論を決定論的に絶対化する宗教的信念が,人間存在の自由性,創造性を抑圧しているのである。
肯定面についてはよく知られているが,否定面については断片的な批判は多いものの,体系的に検討して対案を出しているものはみられない。「価値とは何か」,「労働とは何か」のような根源的な問題の追究が不十分なためと思われる。またこれらのことを検討するためには,「意識と存在との関係」というような認識論(ないし存在論)の問題や歴史観,さらには社会主義の在り方にも触れなければならない。
『資本論』に限って端的に結論を言えば,「労働は解放の概念であると同時に抑圧の概念でもある」ということである。マルクスは「労働」に人間の本質を求めているが,人間の人間たるゆえん(本質)は人間の労働が他の動物と根本的に異なっているということである。それは「労働」が主語になって人間の進歩をもたらしたのでなく,労働の特殊人間的な在り方――直立歩行にともなう自由な手の使用,大脳と言語の発達による認識と創造能力,および欲望の飛躍的な増大に原因がある。労働とは人間的欲望を充足させる手段にすぎない。このことの検討を怠ると,言語による世界のイデオロギー化(合理化),すなわち「イデオロギーとしての労働価値説」による人間の抑圧(自己疎外,理論崇拝)という否定的な意味が理解できなくなる。
★生命言語論における社会主義は、科学的ではあるが科学ではなく、人間の良心と正義の感情が要請する道徳的社会の建設をめざす。つまり、生命としての人間が、自己の存在意義と社会的責任を自覚することによって、西洋的契約における所有と商品市場の偽善性を克服し、公正と正義にもとづく社会契約を結び、持続的な社会的連帯を民主主義的に確立しようとするものである。
本 論
哲学的批判の常識
マルクス理論は,その誕生以来多くの批判にさらされてきた。またマルクスの死後100年には(1983年)には,様々の批判的論文の特集が出版され,ソ連と東欧の社会主義国家崩壊を期に,マルクスの死を宣告するものもあった。ここではマルクス理論を経済学としてよりも,その理論の根拠となった哲学を批判する。ある経済学の体系――スミスをはじめケインズや他の多くの経済学者の体系――はすべて一つの哲学的価値を基盤にして構築されたものだからである。とりわけマルクス経済学すなわち『資本論』は,西洋哲学や歴史観の強固な基礎の上に成立している一つの誤れる世界観である。それは,今日では人類の発展と福祉にとって抑圧的に働いている。そこでこの批判は世界観の基礎をなす認識論から始める。
(1)認識論について
「人間の意識がその存在を規定するのではなくて,逆に人間の社会的存在がその意識を規定する。」(『経済学批判』序言)マルクス哲学の認識論の基本的命題であるこの言葉は,意識と存在を対立させて考える西洋的二元論の誤りを踏襲している。「意識が存在を規定する」というのは,確かにマルクスの言うとおり正しくないが,「社会的存在が意識を規定する」というのも一面的であり,誤りである。意識と存在は統一的に理解すべきであり,人間は「何がどうあり,どうするべきか」を考えながら生きている「意識的存在」として主体的積極的な側面がもっと評価されなければならない。
マルクスの命題は「社会的存在が意識を規定する」という一面的真理を述べているが,人間は社会的に規定されつつも,創造的に現在の社会を生き,未来の社会を築き上げていく「意識的存在」である。意識ないし精神活動は,環境の所産としてあるだけでなく,環境を意識的創造的に変革する原動力ともなり得る。人間は,多様な選択の可能性をもち,主体的・意識的に世界を構想し,現実を変革し創造していく存在である。
言語をもつ動物として意識的存在である人間は,自然と社会を対象化し自己と関連づけて,新たな世界を理念的に構成し,自然的世界と人間的世界(物質的精神的)に生きる。人間の意識(脳髄の産物であり,理性だけでなく意志や情緒的な反応を含む)には,単なる社会的(歴史的文化的)存在の反映でなく,社会的対象(関係)を積極的に把握し,選択し,判断し,再構成し創造していく面も含まれる。社会を変え,制御していく現代国家の政治経済的営みは,独占禁止法や財政・金融政策を通じて,福祉国家を追求しているが,このことはマルクスの理論に反して,人間が意識的存在であることを証明しているのである
※ 近年の「マルクス復活」(ピケティや斉藤幸平氏の試み)には、マルクス主義の哲学の誤りについての検討は全く含まれていない。資本主義社会の格差の問題や環境問題、そして晩年のマルクスの再評価等を我田引水的に応用して、いかにもマルクス理論が今日でも有効であるように粉飾しているに過ぎない。
今日のように、環境や資源エネルギー等の人類史的課題の解決が喫緊に要請されている状況では、マルクスを含む古典派および新古典派経済学の欠陥だけでなく、西洋思想の限界が問われなければならない。まずは、「言語論の革新」によって、唯物論を含む観念的認識論を「生命言語論」によって改変し、人文科学系の学問体系を再構築する必要があると思われる。
人間存在研究所では、インターネットを通じて様々な情報を提供しているので、ぜひHOME pageと「人間とは何か」からご覧いただきたい。
(2)弁証法について
弁証法は,もともとは古代ギリシアで盛んになった弁論の方法として確立したものである。弁論では対立的見解を論破し,自己の見解を正当化することが目的であり,対立の克服を通じてより優れた見解も生まれてくる。ヘーゲルは,これを精神の発展を説明する弁証法として,認識論に用いただけでなく,自然界の運動にもあてはめて,存在論として法則化した。
ではなぜこのような誤りを生ずるに至ったのか。その根源は,動物が生得的にもつ認知の構造に由来している。動物は自然界を認識する場合に対象をその動物独自の欲求や関心にもとづいて区別・判断する。ある対象を認識するとは,他の対象と差別ないし区別,すなわち比較対照することによって,ある対象を明確にすることである。人間にとって認識するとは,言葉によってある対象を他のものと分ける(区別する)ことであり,分けることが分かることになるのである。分けられたものを再構成し,より複雑な世界を創造し得るのが,言葉をもつ人間の最大の特徴である。
つまり人間は認識を明確にするために,対象を大小,明暗,長短,愛憎,好悪などのように分け,比較・対照することによって対立的に表す。これは認識においてそうであるが,議論においても同様に対立的に行われると論点が明確になり,自己の主張を分かりやすくすることができるため弁証法が用いられる。
しかし自然界の運動に,作用・反作用,プラス・マイナスや雌性・雄性など対立的な側面があっても,自然のすべてが対立的でないことは明らかである(例えば惑星の円運動や中性子の働き,単細胞の存在や生命の多様性など,見る立場を変えれば非弁証法的対象は無限に存在する)。まして人間の自覚(自己意識)や社会関係・思想内容に,対立を契機とした発展の図式ををあてはめ,強引に解釈してしまう弁証法の適用は,認識の枠組みを固定化し,自然と人間自身を神秘化し,真実を覆い隠すことにほかならない。弁証法は,あくまでも論争や表現におけるレトリックの一つにすぎない。
例えば,歴史の発展における階級対立は,それのみを弁証法的にとらえると,歴史が歪曲され同一階級内部の対立や,民族や文化の対立,諸個人の利害の対立,文化的伝統の役割など複雑な社会関係を過小評価することになり,歴史認識を誤らせることになる。また進化論でも弁証法的な見方を強調すると,進化の定向性や棲み分け(今西説)の役割を見逃してしまうことになる。
自然や人間の社会を,運動と変化において対立的弁証法的にとらえることは,わかりやすさはある。しかし敵を論破するレトリックとしてのみ用いられると,教条主義や事実の歪曲の危険性をともない,多面的な見方や考え方を排除するので注意が必要である。弁証法は,単にヘーゲルの捉え方を唯物論的に逆立ちさせるだけでは正しい理解にはならない。弁証法の認識論的有用性と限界を自覚して始めて正しい応用が可能になるのである。
(3)唯物史観について
いわゆる「唯物史観の公式」(『経済学批判』序言)において「自然科学的な正確さで確認できる」生産力と生産関係の発展については概ね正しいと言える。つまり,生産力の上昇やそれに伴う豊かさの実現は,現実に社会的関係を発展させてきた。しかし生産力や生産関係という概念によって,人間社会のすべてを規定する「土台」と考えるのは誤りである。なぜならば生産力と生産関係には,科学的認識や市民社会の意識など人間の意識(自由競争,利潤の正当化等)が深く関与しているからである。
生産力や生産関係に伴う人間の精神的諸形態(イデオロギー的諸形態――政治,宗教,文化など)は,単純に上部構造として位置づけられるものではない。「社会的生産諸力と社会的生産諸関係」(土台)が,「イデオロギーの諸形態」に及ぼす影響については,自然科学的に確認できる考察が不十分である(例えば,科学的認識や市民社会意識が,なぜヨーロッパにおいてより明確に成立したか,また宗教の本質的意味やアジア的形態における上部構造と下部構造の分析,さらに一般的にさまざまな文明の相違についてなど)。
そもそも「人間社会」は「生産諸関係」に集約できないもので,人間にとって物質的生活条件は必要条件であっても十分条件ではなく,「意識的存在」として精神的文化的生活条件を含めて,統一的にとらえねばならない。つまり人間は「意識的存在」として,宗教や民族さらにはブルジョアイデオロギ-や社会主義イデオロギー等の「イデオロギー諸形態」が「生産諸関係」にも影響を及ぼすのである。人間は資本主義のシステムをコントロールできるし,社会主義のシステムを創造することもできるのである(マルクスは資本主義社会をコントロール不能のシステムとみていた)。
例をあげれば,プロテスタンティズムの精神が資本主義成立に及ぼした影響(マックス=ウエ-バ-の研究)やマルクス主義(というイデオロギー形態)が20世紀を通じて世界に及ぼした影響があげられる。特に後者では,マルクスは自己のイデオロギーが,世界史の発展に及ぼす影響について理解できなかった。つまり彼は自らの理論を「マルクス主義イデオロギー」として相対化できず,また当然ながら,その及ぼす影響について予測することができなかったのである。マルクス主義(イデオロギー又は意識形態)にもとづく20世紀の社会主義は,マルクスの認識論に反して,「人間の意識がその存在を規定した」のである。つまり20世紀の歴史は,マルクス主義そのものが,マルクス主義を否定したことの証明になるのである。
マルクスは「(変革の時期の)意識を物質的生活の諸矛盾,社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない」(『経済学批判』序言)としているが,変革の時期の意識(それは「経済的社会構成が進歩していく段階」に限らず,人類の文明が成立して以降現在にいたるまで続いている)は,階級対立を基軸とする「生産諸関係」の敵対関係だけにとどまらないのである。つまり「敵対関係」は生産諸関係のみによっては規定されず,むしろ,民族的偏見や宗教的・文化的イデオロギー形態が,社会的対立に及ぼす影響を重視しなければならない。これは,社会主義諸国解体後の地域紛争が,民族的宗教的対立を主要な原因としていることを見ても明らかである。
とすれば,人類の文明が成立して以降の「敵対関係」を終わらせるか,可能な限り最小限にするために,社会の「敵対関係の解決のための物質的諸条件」の成立は必要条件であるが,さらに十分条件として,未来を志向する新しい社会観を含むイデオロギー形態を創造することが求められる。そのためには科学的認識を前提として,「イデオロギー形態」そのものの人間的な位置付けと「敵対関係」を生み出す物質的精神的利害,資源の偏在や民族的宗教的信念・情熱などの考察が必要となる。そのような未来への展望あるいは理念・理想なくして,単なる階級闘争によって「人間社会の前史」を終わらせることはできない。
われわれの「人間存在研究」の課題は、人間の本性から生じた資本主義的人間支配構造を、どのようにして自由で創造的な社会主義的自己管理構造に近づけるかということである。
<資料> エンゲルス, F.『空想から科学へ』
「搾取の本質がなんであるか、どうしてそれが発生するのか・・・・。問題は、一方では、資本主義的生産様式をそれの歴史的連関のなかで示し、また一定の歴史的時期にとってのその必然性を明らかにし、したがってまたその没落の必然性を示すことだったのであり、他方では、あいかわらずおおいかくされたままだったこの生産様式の内的性格を暴露することだったのである。この仕事は剰余価値の発見によってなされた。不払労働の取得が資本主義的生産様式とそれによっておこなわれる労働者の搾取との基本形態であるということ、資本家は、彼の労働者の労働力を、それが商品として商品市場でもっている価値どおりに買う場合にさえも、自分がそれに支払ったよりも多くの価値をこの労働力から引きたすのだということ、そして、この剰余価値によって形成される価値額が、結局、有産階級の手のなかにたえず増大する資本量が積みあげられてゆく源泉なのだということ、これらのことが証明された。こうして、資本主義的生産と資本の生産との由来が説明されたのである。
これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスのおかげでわれわれにあたえられたものである。これらの発見によって社会主義は科学になった。いまなによりもまず重要なことは、この科学をそのあらゆる細目と連関とについて仕上げてゆくことである。」(邦訳全集19 p206)
※搾取は、生産過程で秘密裏に起こるのではなく、交換過程で反道徳的な姿をとってあからさまに行われる。搾取は、劣悪な労働条件という姿で公然と行われてきた。搾取は、労働力商品が価値どおりに買われ(等価交換による)使用された結果行われるものではない。搾取は、秘密ではなく資本家による労働者支配の検証可能な事実である。従って、マルクスの言う「等価交換による剰余価値の搾取」こそ、科学ではなく空想の産物であり、人間の抑圧を永遠化するものである。
『資本論』批判の要点
『資本論』の批判には様々なものがあるが,彼の膨大な体系の代案を築くに至っているものはないと思われる。われわれの批判の要点は,「商品交換の不等価性」を重視して,貨幣と剰余価値の意味を解明することである。すなわちマルクスは,資本論の中で十分な論証もなしにこの不等価性を否定している(資本論第2編第4章第2節 一般定式の矛盾 を参照)。
しかし,我々は,(1)貨幣は商品交換における不等価交換の困難性を克服し,交換を円滑にするために発明されたものであること,また(2)剰余価値は,労働力商品と賃金の不等価性,すなわち労働者の搾取によって生じたことによって説明する。そうすれば,「商品の物神礼拝」などという資本主義社会の神秘化や,「商品の不等価性」の意味を明らかにすることによって労働力の価値を単なる「その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値」におとしめる必要はなかったであろう。つまり,マルクスの解釈(労働価値説)に反して,商品は交換によって社会的価値の決まる物やサービスのことであり,労働力の価値は「人間の価値そのもの」(平均賃金よりもはるかに高い人間的価値がある!)であって,階級社会において抑圧された労働者の価値(低賃金,長時間労働など)ではない。またこのように「資本主義社会のマルクスによる神秘化」からの解放や,労働力商品の所有者である「労働者(=人間)の主体性を確立」する(人間の真実の価値に目覚める)可能性も生まれてくるのである。
資本制生産が確立した「発達せる商品社会」では,「等価交換(商品A=商品B)」が支配しているというマルクスの見解を根底から批判することは,政治経済社会のあり方を考える上での前提となる。そこで次の①~⑥に『資本論』からの引用によってマルクスの思い込み(それは,「思考の結果(思想)が現実を支配する」ことを自覚しない西洋思想の限界を示している)を明らかにしておこう。(なお現実の自由市場で、平均的に等価交換が行われているという主流派経済学の誤りについての批判は、『資本論』中で批判されたコンディヤックや、新古典派経済学のメンガー、それに加えて、制度学派や行動経済学において十分示されている。)
①「農民は,その穀物を価値以上に売り,あるいは衣服をその価値以下に買うことがありうる。彼のほうが衣服商人から詐取されることもありうる。だがこのような価値の相違は,この流通形態自身にとっては,純粋に偶然的なものである。」P195(『資本論』向坂逸郎訳 岩波書店版ページ 以下同じ)
○ 偶然的なものの集積が,必然的なもの(平均的基準)になるのであって,逆ではない。したがって,「このような価値の相違(不等価)」こそが一般的なのである。
②「商品の価値は,それらが流通に入る前に,その価格に表されている。すなわち,流通の前提であって結果ではない。」(P204)
○ 価格に表されても,その価格通りの交換が行われるわけではない。すなわち,商品の価値を表す価格は一の基準であって,市場での交換の結果を想定したもので,交換の前提になるのではない。商品の価値(を表す価格)は,市場における交換の結果,確定する。
③「商品はその価値から離れた価格で売られえるのであるが,しかし,この乖離は,商品交換法則の毀損として現れる。商品交換は,その純粋なる態容においては,等価の交換であって,したがって,価値を増すための手段ではない。」(P205)
○ 純粋なる態容は,不等価の交換である。そこに交換を推進する原動力がある。商品は,平均的価格で売られるが,それはあくまで平均的なものであるにすぎない。商品交換は,その純粋なる態容においては,不等価の交換であって,したがって,価値を増すための手段である。ここで言う価値とは、マルクスとは違い交換当事者にとっての(主観的)価値である。価値とはすべて諸個人一人一人のものであって、社会的に実在する価値というものはない。あるとしてもそれは人間社会にとっての平均的なものにすぎない。マルクスは、(労働による社会発展という)絶対的な価値観を人間に押しつけるべきではなかった。
④「商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には,多くは,一の混乱,すなわち,使用価値と交換価値の混同がかくれている。それで,たとえば,コンディヤックはこう述べている,『商品交換で,等しい価値と等しい価値とが交換されるというのは,謬りである。逆だ。両契約者のおのおのは,つねにより大きな価値に対して,より小さな価値を与える。・・・・実際にいつも同一価値が交換されるならば,どの契約者にとっても,少しの利得も得られないだろう。しかしながら両者ともに利得しているし,また利得すべきである。(以下略 引用者)』コンディヤックが,使用価値と交換価値とを混同するのみならず,発達せる商品生産の社会を,まことに無邪気に,生産者がその生活手段を自ら生産し,自分の欲望以上の剰余のみを,すなわち,不用部分のみを,流通に投ずる状態によってすり変えているのを知るのである。」(P205)
○ 発達せる商品生産の社会も,独立生産者のみの社会も,原則は変わらない。むしろ,交換価値が使用価値を支配する,と想定することに誤りが生じたのである。しかしコンディヤックが,「両者ともに利得しているし,利得すべきである。」というのは願望ではあっても,事実を反映しているとは言えない。強者の利得が多くて、弱者を支配し収奪することは今までの歴史の常であった。
⑤「商品の流通過程は,その純粋なる形態においては,必ず等価の交換となっている。だが物ごとは現実においては純粋にばかり行くものではない。だから我々は非等価の交換を想定しよう。」(P205)
○ ここで無意味な証明(流通する価値は,総体としては増えない)が行われる。『資本論』を参照されたい。そして結論は以下のようになる。
⑥「だから考えたいように,どうにでも考えて見るがよい。不足は同じようにいつも出てくる。等価が交換されるとすれば,剰余価値は成立せず,非等価が交換されるとしても,また何らの剰余価値も成立しない。流通又は商品交換は何らの価値を生まない。」(P212)
○ 我々にとって,商品交換において価値を生まないことが重要なのでなく,また流通する価値の総和を問うのでもなく,誰により多くの価値が蓄積されるかを問う。ここに不等価交換の意義がある。
【利潤の獲得方法】
ということで、商品交換社会で利潤を獲得する方法を、商業利潤と産業利潤に一般化して追加しておきます。
商業利潤:商品を安く買って高く売る。その差額が利益になる。高く売るには「交換(情報)の非対称性」を生かして商品を粉飾する。
産業利潤:商品を安く買って安く作って高く売る。安く作るために、労働力商品を安く買い、機械を用いてその価値以上に使役する。
商品交換市場では、通常は売り手と買い手は、双方が利益を得る(win win)。しかし、交換(情報・使用価値)の非対称性によって、双方の売買事情が異なり、利益の幅も差(win lose)が生じる。産業利潤は、商業利潤に加えて労働力商品を価値以下で買い(低賃金)、価値以上に使役(酷使)し、労働力による価値付加によって利潤の増大がはかられる。資本主義の原動力は、利潤(欲望)の飽くなき追求であり、そのためには商品生産と売買にかかるコスト(費用)を極力下げようとする。商品売買の市場は、欲と欲、損と得の価値評価の競争の場であり、公正を装う等価交換(市場)などは実態を表したものではありません。需要と供給によって均衡する価格(交換価値)は常に変動し、交換成立(win win)の関係もよく見れば損得(win lose)を伴っているのです。このような価値移動(商業利潤)と価値付加(産業利潤・技術革新)は、競争によって加速され、経済成長と格差の拡大、文化と社会の変質・混乱をもたらし、今日の人類の閉塞状況を招いているのです。
(1)労働価値説について
マルクス理論には積極的・肯定的側面と消極的・否定的側面がある。多くの賛同者は彼の肯定的側面に幻惑され,否定面の批判的検討を怠っている。また反対者は否定面を強調して,資本主義社会を社会科学的に分析する政治経済学の伝統までも排除しようとする。
肯定的側面とは人間解放,階級支配の廃絶である。否定面とは,西洋的認識論とユダヤ教的世界観の限界性からくる理論崇拝(労働概念の絶対化)による人間支配(ないし疎外)といえる。つまり,労働価値説による弁証法的理論構築とその理論を決定論的に絶対化する宗教的信念が,人間存在の自由性,創造性を抑圧しているのである。
肯定面についてはよく知られている(注1)が,否定面については断片的な批判は多いものの,体系的に検討して対案を出しているものはみられない。「価値とは何か」,「労働とは何か」のような根源的な問題の追究が不十分なためと思われる。またこれらのことを検討するためには,「意識と存在との関係」というような認識論(ないし存在論)の問題や歴史観,さらには社会主義の在り方にも触れなければならない。
『資本論』に限って端的に結論を言えば,「労働は解放の概念であると同時に抑圧の概念でもある」ということである。マルクスは「労働」に人間の本質を求めている(注2)が,人間の人間たるゆえん(本質)は人間の労働が他の動物と根本的に異なっているということである。それは「労働」が主語になって人間の進歩をもたらしたのでなく,労働の特殊人間的な在り方――直立歩行にともなう自由な手の使用,大脳と言語の発達による認識と活動能力,および欲望の飛躍的な増大に原因がある。労働とは人間的欲望を充足させる手段にすぎない。このことの検討を怠ると,言語による世界のイデオロギー化(合理化),すなわち「イデオロギーとしての労働価値説」による人間の抑圧(自己疎外,理論崇拝)という否定的な意味が理解できなくなる。
またマルクスは『資本論』の中で,資本主義社会のもとでの労働力の価値(賃金)を「その所有者の維持のために必要な生活手段の価値」としているが,これは階級支配下にあって抑圧されたもとでの労働力の価値であることを無視して正当化している。つまり,資本主義社会での労働力の価値は,人間的欲望を満たすものになっていないにもかかわらず,これを歴史的社会的な所与とみなし,低賃金・長時間労働などの搾取を正当化しているのである。
しかし,抑圧された状態の賃金・労働条件で得られる労働者の生活手段は,彼の人間的欲望を満たすものではありえない。人間にとっては,労働力の再生産だけでは,人間的な生活にはなりえないからである。人間の価値は,資本制生産における労働力の価値以上のものなのである。(なおマルクスは人間的欲望の基準を、歴史的に規定されているとしているが、その際は抑圧された労働のみを考慮し、資本家や有閑階級の欲望との平均として扱っていない。)
このように価値は,「労働」という抑圧概念から生まれるものでなく,人間的欲望(労働者の生活の維持に必要なだけの欲望ではない)から考えられるべきものである。欲望を満たす生産物はすべて価値があるが,労働生産物でも欲望を満たさないもの(欠陥商品等)に価値はない。労働は,人間の生存にとって必要条件であるが,人間的な自由な生活にとっては十分条件ではないのである。
マルクスは人間的本質としての労働に価値を認め,労働者の解放(人間解放)をはかろうとしながら,労働の抑圧的側面を見抜けなかったために,結果として『資本論』を抑圧の理論としたのである。マルクス自身は,「労働」を人間の本質と考えたためにこの矛盾に気づいていない。人間解放のためには,労働概念からの解放,すなわち人間的「欲望」概念――欲望は人間存在の2つの核心(欲望と言語)の内の1つである――の確立が必要なのである。(注3)
(注1) 社会経済における発展的理解,被抑圧階級の解放,資本主義の非道徳性の指摘,科学的(?)認識の重視などは肯定面といえる。しかし『資本論』に結実した,科学の名による決定論(独断と偏見)は,20世紀に多くの悲劇をもたらしたことも事実である。 実はマルクスにあっては,自己のイデオロギーの相対化,すなわち唯物史観や労働価値説などの理論――マルクス主義(という人間意識)が,人間行動に及ぼす影響の解明をなしえないゆえに,本来の科学的認識から遠ざかり似非科学となった(人間の意識を正しく科学していないがゆえに,ドイツ語の「知の体系 die Wissenschaftとしての科学」という概念を勘案しても科学的とは言い難い)。人間は意識的(言語的)動物である,ということを自覚して始めて本来の科学的認識が成立するのである。
(注2) 「労働過程は,使用価値をつくり出すための目的に合致した活動であり,人間の欲望のための自然的なものの所得であり,人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり,人間生活の永久の自然条件であって,したがってこの生活のいかなる形態からも独立したものであり,むしろ,人間の一切の社会状態に等しく共通なものである。」 (P239
○ 労働過程自体は,確かに「永久の自然条件」であるが,人間と自然,人間 と人間との特殊(発展的)な関係は,労働の自然条件から生まれるのではなく,人間の特殊な(言語的)存在形態によるのである。それは基本的には人間の言語を 媒介とした,思考・記憶・創造等の能力による。重要なのは「目的に合致し た活動」と「人間の欲望」の特殊な在り方を,人間性の本質としてとらえる ことである。それなしに「永久の自然条件」とされる「労働」で人間を規定 するのは,人間を人間以下におとしめ抑圧する思想につながる危険性を孕む のである。
人間存在にとって「労働」は必要条件ではあっても,それで十分条件とな るのではない。「人はパンのみにて生きる者にあらず,人はエホバの口より出る言葉によりて生きる者なり」は聖書の言葉であるが,後半の「エホバ(神) の口」を人間の口とすれば概ね正しいと言える。また人間は「働かざるもの 食うべからず」であるが,卑しむべき労働もある。例えば人類社会の生産力 が高まり,私有財産が生じて以降,支配的な人間が,その優位な立場を利用して,他の人間を精神的・物理的に支配し管理する抑圧的労働はその代表である。
(注3) 「欲望」概念と意識や言語との関係は,心の構造で説明している。経済活動の根源は欲望の充足であり、労働はそのための活動である。「価値」の本質は欲望の充足性(効用)であり、また価値判断(評価)は、どれだけ欲望を充足するか(または、したか)にかかわり、歴史的、文化的、社会的影響を受けながら、究極には諸個人の主観的判断による(欲望価値説)。
欲望充足の対象である商品への投下労働力は、価値の判断材料ではあっても、決定因ではない。多種多様な商品の価値は、個人的にはその商品に対する主観的判断(使用価値)であり、社会的には価格として市場の需要供給の関係で平均的に決まる(交換価値)。しかし、平均価格は、労働価値説でいう自然価格や投下労働力に規定される法則ではない。価値の本質は、投下された労働力ではなく、商品(モノや労働力・サービス)への欲望充足度(効用)であり、労働力価値(賃金)の決定は、生産手段の所有者である資本家(階級)が、有利で強い立場を生かして労働者の人間的価値を抑圧的に低評価し、不等価交換によって搾取的に決定されてきたのである。そのうえ、労働者は、労働力を投下する労働使役過程において、自由な契約のもとに全人格を拘束され人間的価値を奪われ、人間的価値の減価に対する対価はない。したがって、「労働価値説」にもとづいた等価交換による剰余価値搾取理論は、人間的価値を奪い隠蔽する欺瞞の理論ということになる。
(2)商品の等価交換について
やさしく→→ここ
マルクスは労働価値説にこだわったために,商品の等価交換とそれにもとづく剰余価値説という虚構を設定し,人間自身を抑圧し,社会を神秘化し,歴史を歪曲することになった。マルクスが,資本制生産の「細胞」として分析した商品は,何ら「神秘」でも「魔術や妖怪」でもないし,また労働生産物とその社会的性格を隠蔽するものでもない。労働生産物であることは,商品にとって必要条件ではあっても十分条件ではない。商品は何らかの労働を必要とするが,それで欲望を満たせるとは限らないし,それゆえに価値があるとは限らない。商品とは,商品所有者が交換によって何らかの利益を得るため市場に出した,欲望を充足させる対象(物やサービス─労働力を含む)である。
しかるにマルクスはこう言う。「彼ら(私的生産者)は,その各種の生産物を,相互に交換において価値として等しいとおくことによって,その異なった労働を相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし,彼らはこれをなすのである。」(岩波書店版『資本論』P97)
人間労働が等しいことは交換成立の条件であるが,これを知らずに,人は結果として等価交換を行う。なぜか,それは商品社会における労働生産物が,個人的な使用価値と社会的な価値(交換価値)の二重性を内包しているからである,とマルクスは言う。ここに価値形態論におけるマルクスの弁証法的神秘化がある。
さらに,等価交換を前提とする価値形態論が,貨幣の神秘性を暴露したことになっているが,貨幣の成立を論証したと言えるものではない。そもそも商品交換の「結果としての等価」(商品の等置・等号化 商品A=商品B)は,次なる交換(等置)の成立条件になりえても,市場における無数の交換を支配する定在ではありえない。
マルクスは,「価値形態の秘密」を述べる条りで,「亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。‥‥‥第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。」(『資本論』P63)としている。しかし,交換すなわち等置は,交換された事実を示すもので,価値が等しいことを表わすのではない。等置は,必要物を手に入れるための便宜的な社会的行為である。つまり市場における,当座の交換成立(表面的なwin win の関係)をしめすものであって,それが次の無数の交換成立の基準になるとはいえ,常に等置されるとは限らない。市場的平均的には等価とみなされ,交換成立の根拠とされても,市場における交換当事者の関係において、等置の関係は変化しうるものである(交換条件の非対称性)。
商品交換には,交換(等置)成立の条件として,商品所有者間の合意が必要である。合意の判断材料の一つとして,商品生産に費やされた労働量(労働時間や質)や有用性,さらには社会的な慣習が考えられる。
このような無数の交換によって成立した交換(等置)価値は,あくまで平均的なものにすぎない。平均はあくまでも平均であって,実在は個々の交換である。その意味で,交換は当事者の利害・損得判断,商品に対する需要の大小,すなわち不等価性にもとづいているのである。貨幣は,その個々の交換・取引・判断の困難性を克服し円滑化するものとして,社会的に考案され創造されたのである(これは歴史的事実として容易に説明し得ることであり,貨幣成立の法則としては,交換の合理化(便宜・簡便化)法則とでも名づければよいものである)。貨幣の最適の要件が,有価性,稀少性,均質性,耐久性,可分性であり,金,銀,銅などがこれに適合するが,穀物でも羊で貝でも石でも有効である。
以上のように,マルクスにとって「謎」にみえる商品の形態は,何ら謎でも神秘でもない。労働時間による商品価値の規定は,その科学的根拠を確認できないが,交換当事者が市場においてどのように社会的に評価するかは確認が可能である。商品交換社会の無政府性は,商品の謎的性格に由来するものではない。それは経済社会の意識的な無政府性,すなわち自由放任・自由競争,あくなき利潤の追求を,社会(の強者すなわち支配階級)が推進していることによるのである(すくなくとも『資本論』の時代は「競争の強制法則」が優位であった)。
以下に,商品の等価交換について,マルクスからの引用①~④にコメントを加え,立論を補強しておく。
①「一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは,ひとえにその中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから,または物質化されているからである。そこで財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている『価値形成実体』である労働の定量によってである。労働の量自身は,その継続時間によって測られる。」(P50)
○ マルクスが言うように,労働が対象化されているから商品に価値があるのではない。「価値」とは,人間の判断に属するもので,人間の判断を越えた(人間の判断を支配する)法則ではありえない。たとえ労働量が,意識的・無意識的な当事者間の判断の大きな比重を占めるとしてもである。
②「この価値の大いさは,つねに交換者の意志,予見,行為から独立に変化する。彼ら自身の社会的運動は,彼らにとっては物の運動の形態をとり,交換者はこの運動を規制するのではなくして,その運動に規制される。相互に独立して営まれるが,社会的分業の自然発生的構成分子として,あらゆる面において相互に依存している私的労働が,継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは,私的労働の生産物の偶然的で,つねに動揺せる交換関係において,その生産に社会的に必要なる労働時間が,規制的な自然法則として強力的に貫かれること,あたかも家が人の頭上に崩れかかる場合における重力の法則のようなものであるが,このことを経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには,その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。」(P99)
○ 自由放任のもとでの資本制社会で,マルクスが人間の主体的判断を無視したのには,それだけの歴史的社会的条件があった。しかし今日では,人間は経済活動をある程度は政治的にコントロール可能(資本主義の修正ないし混合経済)なことを知っている。いわゆる独占資本主義が階級社会を貫徹するために,資本家や労働者に自制を求めそれを制度化しているのは,「重力の法則」と違って,「労働価値説」が「マルクスの虚構の産物」(マルクスたち古典派経済学者)であることを端的に示している。マルクスの『資本論』が,「資本主義的生産の自然法則」(序文)を解明しようとした意図とは逆に,社会から人間の主体的判断を疎外することによって,『資本論』を似非科学の体系としたことは明白である。
③「貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で,種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ,したがって又,事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は,商品性質の中に眠っている使用価値と価値の対立を展開させる。この対立を,交易のために外的に表示しようという欲求は,商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。」(P114)
○ 貨幣の成立を,弁証法的に解明したとする上記の文は,「商品性質の中に眠っている使用価値と価値の対立」という表現によって,商品交換の本質を隠蔽する役割を果している。商品交換は,自分にとって価値が少なく,相手にとって価値の多いものの交換であって,等しく置かれるのは交換当事者間の合意に過ぎない。その合意が成立し,それが社会的な習慣になるのは,人間の欲望と意識の共通性に根ざしている。
しかし,そ,のような合意すなわち物々交換における利害の一致は,常時存在するとは限らない。したがって,人間は欲望を充足させ(生活を快適にする)ため遠隔の共同体間と商品取引をするし,また共同体内では貨幣という共通指標によって取引を円滑化するのである。何も「使用価値と価値の対立」があるから貨幣が生じるわけではない。「交易のために外的に表示しようという欲求」は,人間の生活向上(自由と創造性)とそのための交換欲求自体の中にあるのである。
④「貨幣物神の謎は,商品物神の目に見えるようになった,眩惑的な謎であるに過ぎないのである。」(P122)
○ この文は,「マルクスによる商品の物神化」すなわち商品社会の神秘化を,端的に示す表現である。商品も貨幣も何ら謎ではない。ただマルクスが生きた,自由放任,弱肉強食の時代にマルクスにそう見えただけに過ぎない。人間とその社会が作ったもので,謎に見えるものも,人間自身とその社会を科学的にを解明することによって明らかにすることができる。
(3)商品の物神的性格について
資本主義的生産の運動法則を分析する出発点を,商品の等価交換においた結果,マルクスにとって商品は,「きわめてきむずかしい物であって,形而上学的小理屈と神学的偏屈に充ちたもの」(『資本論』 P94)になってしまった。
「商品形態の神秘に充ちたものは,単純に次のことの中にあるのである。すなわち,商品形態は,人間に対して彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として,これらの物の社会的自然属性として反映するということ,したがってまた,総労働に対する生産者の社会的関係をも,彼らのほかに存する対象の社会的関係として反映するということである。」(『資本論』P95)
商品は,労働の社会的性格からでなく,欲望をもつ(自由と創造性、生活向上欲,致富欲等)人間と人間との関係から生じる。商品交換という行為は「人間労働の社会的性格」からでなく,自らの欲望にとって過剰である物と,自らの欲望にとって不足する物との交換である。しかし,欲望をもつ人間と人間との関係を,マルクスは「労働生産物の社会的関係」から説明するのである。マルクスにとっては,商品所有者の欲望が商品形態を形成するのでなく「労働生産物自身の対象的性格」が,商品所有者をつき動かして交換させるのである。
また,上記引用文で「反映する」とは,欲望をもつ人間の頭脳(マルクスの頭脳)に反映しているだけであって,商品所有者は労働生産物の「等一性」や「労働時間」や「社会的性格」に関係なく,自己の欲望充足のために行動しているのである。マルクスにとって商品形態が,謎的・幻影的に見え,物神礼拝の対象に「見える」のは,彼の生きた時代の自由競争にもとづく生産の無政府性に起因する。しかし,商品が物神的性格をもつように「見える」ことは,商品形態が謎であり「価値の大いさは,つねに,交換者の意志・予見・行為から独立して変化する」(『資本論』P99)ことを意味しない。
いかに成熟したブルジョア社会であっても,商品市場の交換主体は商品所有者であり,商品の価値は平均的な市場価格として規定される。そしてこれらの平均的市場価格は,交換者間の置かれた条件(商品の量・質・必要性等,とくに商品の独占的・統制的形態は不等価を自明のものとする)によって,どう取引判断(意志・予見・行為)されるかによって決まるのである。商品形態に「謎」は存在せず,マルクスが自己の頭脳中に科学という名で謎をつくって,資本主義社会を神秘化したのである。これは「マルクス理論の物神礼拝」と呼ぶことができる。
(4)剰余価値説について
【利潤の獲得方法】 (再掲)
商品交換社会で利潤(剰余価値)を獲得する方法は、商業利潤と産業利潤に一般化して要約できます。
商業利潤:商品を安く買って高く売る。その差額が利益になる。高く売るには「交換(情報)の非対称性」を生かして商品を粉飾する。
産業利潤:商品を安く買って安く作って高く売る。安く作るために、労働力商品を安く買い、機械を用いてその価値以上に使役する。
マルクスは,貨幣が資本に転化し,資本が等価交換から剰余を得るために,「価値を生む商品」としての労働力商品を考案した。しかし不等価交換からこそ,資本家にもたらされる剰余は得られる。
資本家と労働者の取引は,明らかに不等価である。なぜなら労働者は,自己の労働力を売る以外生活ができないという,不利な条件にある。生活するためには,資本家に屈服しなければならない。労働者にとって労働力商品の交換は,この商品が歴史に登場して以来,すなわち生産手段たる土地と道具などから引き離されて以来,屈辱的なものであった。歴史上,このような労働力商品及びその所有者は,政治的経済的要因によって,貧民・流民としてあふれるほど生み出されていたのである(資本の原始的蓄積)。
労働力商品の交換は,歴史上つねに資本家にとって有利な,そして労働者にとって不利な,しかも多くは不公正に行われる不等価交換であった。にもかかわらず,マルクスはこの交換を「価値法則」によって合法化し,さらに労働者の「必要なる生活手段の平均範囲」を一定の国,一定の時代に与えることによって,人間の「必要な欲望」を限定し抑圧する。マルクスの分析を借りれば,人間の労働力の価値を半減して,それを合法則化しているのである。(ただしマルクスは,他の半分を資本家が手に入れる剰余価値に配分した。しかし人間労働を過小評価し,人間的欲望を矮小化したことには変わりはない。)
労働力商品の価値は,厳密には労働者と資本家の階級関係と労働者個人の置かれた企業内の社会的関係によって規定される。そして平均的にはその時代や社会的利害,とりわけ階級的対立関係によって不等価に,「本来あるべき価値以下!」に決められる。競争社会においては,資本の存立と拡大のために利潤の追求,剰余価値の獲得は,資本家にとっては至上命令である。資本家は,資本という主君に仕える者ではなくて,資本を増大させ自らの利益を追求するために労働者の賃金を下げ首切りをする主体である。さらに労働者(人間)間の競争は,労働者に必要以上の犠牲を強いる。
また,われわれにとって,労働力の価値は「その所有者の維持に必要な生活手段の価値」すなわち,「抑圧された下における生活手段の価値」にとどまらない。つまり労働力の価値は,マルクスの表現を借りれば,「半労働日(6時間)」でなく,「一労働日(12時間)」の価値があるべきなのである。(注1)
マルクスが考えたように,1日の労働は必要労働と剰余労働に分けるべきでなく,労働力の価値は,1日の労働すべて(職場における人間的協動的労働)であり,そこから半日の労働が搾取されていると考えるのが正当なのである。人間として労働者の費消した労働は,本来すべて労働者の所有に帰すべきものなのである。そしてそこから資本家の生産手段等にかかる費用を差し引いて,賃金が決定されるべきものなのである。すべての人間は労働をするのであり,その質や量は異なっても賃金の決定は人間的協動的労働から始めるのが人間的な賃金決定の原則でなければならない。
以上が商品の不等価交換による,貨幣と剰余価値の説明である。
(注1)マルクスからの引用①~④によって立論を補強する(なおここでは、個々の企業や個人の業績は、マルクス同様考慮に入れていない)。
①「他のすべての商品と等しく,労働力は一の価値をもっている。それはいかにして規定されるか。」(P 221) 「労働力の価値は,その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値である。」(P221)
○ 労働者は,「必要な生活手段の価値」を賃金として得てきたか。否であった。必要以下の価値に値切られ,劣悪な労働条件のもとで酷使され人間的な生活を奪われてきた。
②「生活手段の総額は,この労働せる個人を,労働する個人としてその正常なる生活状態に維持するに足りなければならない。」(P222)
○ 「生活手段の総額」(賃金)は,労働せる人間としての豊かな生活を営むのに十分であったか。否であった。労働力の価値とは,人間の価値である。だが賃金は,人間の価値に値するものであったか。否であった。低賃金と過酷労働によって、労働における人間性が奪われてきたからである。
③「いわゆる必要なる欲望の範囲は,その充足の仕方と同じく,それ自身歴史的の産物であって,したがって,大部分は一国の文化段階に依存している。なかんずく,また根本的に,自由なる労働者の階級が,いかなる条件の下に,したがって,いかなる価値と生活要求をもって構成されているかということに依存している。したがって,他の商品と反対に,労働力の価値規定は,一の歴史的の,そして道徳的の要素を含んでいる。だが一定の国にとって,一定の時代には必要なる生活手段の平均範囲が与えられている。」 (P222)
○ 階級社会における労働者の必要なる欲望の範囲は,抑圧され強いられ人間性を奪われたものであって,「与えられた」ものではない。「必要なる生活手段の平均範囲」は,人間的な生活をするものとしては,不十分であり抑圧され不正なものであった。それを歴史の必然性によって合理化し,抑圧したものを免罪するべきではない。人間である労働者にとっての必要な欲望が,同じ人間としての資本家の必要な欲望と異なるという合理的な理由は何もない。
④「毎日の労働力の生産のために必要なる商品の量をAとし,毎週必要なるものの量がB,毎4半年期のそれがC,等々であるとすれば,これらの商品の毎日の平均は 365A+52B+4C+等々/365 であろう。この平均日に対して必要なる商品量に,社会的労働の六時間が投ぜられていると仮定すれば,その労働力には毎日社会的平均労働の半日が対象化されている。換言すれば半労働日が,労働力の毎日の生産に必要とされる。この労働力の毎日の生産に必要とされる労働定量が,労働力の日価値を形成する,あるいは毎日生産される労働力の価値をなす。」 (P223)
○ マルクスは,労働力の価値を「半労働日」と仮定した。しかしこれは不正である。労働力の価値は,全日労働日分であり,そのうちから,労働者の賃金と生産手段費消分を差し引いて,資本家の剰余価値となるのである。つまり資本家は,労働者の労働力の価値(マルクスでいえば半労働日分)ばかりでなく、人間としての価値を交換過程で半日分に過小評価し、生産過程で奪いつつ,富を増大させてきたのである。マルクスや主流派経済学者の等価交換論は、労働価値説とともに自由と平等(競争と効率性)の美名のもとに労働者(人間)抑圧を推奨し隠蔽するものであったといえるのである。
(5)マルクスの誤りの背景
ではなぜこのような誤りが,マルクスによって理論化されたのか。それはマルクスが科学的方法を用いたとしながら,その実,西洋的そしてユダヤ・キリスト教的世界観の限界性から抜け出ていなかったからである。西洋的な限界性とは,思考による結果(結果としての等価交換、ヘーゲルにおいては理念)が,現実の過程を支配するというヘーゲルの弁証法的思考様式(カントにおいては思考の形式としてのカテゴリー、または自然法概念)である。またユダヤ・キリスト教的限界性とは「原罪としての労働観」と「終末論的世界観」である。
すなわち「資本論」第1巻の構成は,ヘーゲルの弁証法における「精神」の発展(概念の自己運動)を「労働」に入れ替えたものに他ならない。マルクスは「労働」を主体として,労働の自己疎外の形態である「資本」から労働自らを解放しようとしたのであるが,それは結果的に抑圧概念である抽象的「労働(者)」を支配者に置くだけで,人間の解放を目指すものになっていない。つまりマルクスの理論では,人間を解放するのではなく,人間を「労働」に抑圧するだけで,自己解放をなしえないのである。マルクスは人間解放を目指しながら,人間を労働に矮小化し抑圧している。これはヘーゲル弁証法に毒され,ユダヤ・キリスト教的呪縛をかけられたマルクスの自己矛盾である。マルクス主義の桎梏(シッコク、束縛)を打破・克服しない限り,人類と時代の閉塞状況を乗り越えることはできないと思われる。
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