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やさしい人間存在論(4)  全項目 Home 人間存在論 本編 言語とは何か
――なぜ言語の究明が必要か──人間存在論 Q&A 現象学批判 生命言語説
◇ 人間は他の動物と道具の製作、火の使用、文化・文明の発展で区別されるという。最近では、言語の獲得も強調されるようになってきた。しかし、その言語が単に意思の伝達だけでなく、道具や火、文化・文明の発達など創造的な情報処理能力と、自然と人間自身に対する制御能力に決定的に重要であるという点は余り自覚されていない。人間は他の動物と異なり、自然環境の直接的な刺激に対して反応・適応するだけでなく、言語記号を用いて自ら創造した観念や知識に従って、自らと自然を制御し文明を発展させてきたのである。言語こそ人間を人間たらしめてきた本質である。
■ 古来人間は自己の存在がどのようなものであるか、またその存在の意味とは何かについて考えてきた。人間とは何か、人間は何故この世に生を受け、様々の煩悩を経験し、やがて死んでゆくのかと。そして、様々の解答を用意してきた。あるものは、因果関係を超えた超自然的精霊に身をゆだね、あるものは動植物の霊力に依拠し、あるものは現世を永遠の生命になるための仮の世界であると考え、あるものは絶対者としての神の被造物と考え、あるものは生命を輪廻転生するものと考え、またあるものは人生を所与のものとしてただ善く生きることに専念しようとした。
 しかし、科学的認識の方法論を持たなかった過去の人間は、自己の考え(宗教や思想)を万人が了解しうる理論まで高めることはできなかった。人間は自己の存在の不安定性(無常)のために、常に存在の意味を問い、その解答としての自己の思想(人生観世界観)に確実性を与えようとする。しかし、人間は中途半端で曖昧な解答に安住できない存在だから、せめて自己満足できそうな理論や思想に執着することによって安心しようとする。
 科学的思考における理論(法則)の仮説性は、自然科学などの客観的知識については了解しても、人生の意味など主観的知識については、客観的確実性や相互の了解を得るのは極めて困難である。そこに過去の宗教や思想の存続の理由もあるのであるが、今日の宗教や哲学・思想上の混迷は、過去の権威や伝統に依存し、科学的思考に耐えられない人々の認識の怠慢であるともいえる。それでは人間の相互了解の障害になっているのは何であろうか。それは人間の思考や認識そのものを成り立たせ、相互了解の手段でもある「言語」についての認識の混乱または無知にある。

 つまり、人間を特徴づけ、思考や意思伝達の手段である「言語」が、人間にとってどのようなものであるかは、未だ明確には了解されていないからである。人間の高度の判断や行動を方向づけるのは知識・思想(価値観・人生観)であるが、知識や思想を構成する要素は「言語」である。人間は言語を用いて「思考」し、その結果として知識を獲得する。思考は、生命の持つ根元的な欲求や感情・意志によって推進され、世界(対象)を言語記号化し、創造的に再構成して、その結果として「知識」を成立させる。「知識」は、感性を通じて経験的に獲得された言語(理性)的構成物である
 多くの思想家が様々の思想を構想し新たな知識を獲得・創造してきたが、それらの知識そのものの意味や根拠を解明したとは言えなかった。「知識とは何か」に対する答は、「言語とは何か」に対する答なくしてあり得ない。しかし、西洋哲学は、ギリシア哲学の成立以来これらの問の解明に失敗してきた。それは認識(思考)の結果としての「言語(ロゴス)」や「知識」を「存在そのもの」と誤解してきたためである
 このことは、アリストテレスの「そのものが何のゆえにそうあるかは、結局それのロゴスに帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は、究極においてはそれの原因であり原理であるからである。」(『形而上学』)や「はじめにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。ロゴスは神なりき。」という聖書の言葉に端的に表れている。
ソシュールは、「言語記号が結ぶのは、ものと名前ではなくて、概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)である」(『一般言語学講義』)と述べることによって、言語を学問の「対象」にしたのであるが、言語は「対象」の表現記号であり、思考や記憶の手段であり、人間の行動(反応)の一形態であることにまで関心を持たなかった。
 伝統的な西洋的思考においては、言語が対象を支配する理想型(ロゴス)であった。つまり、対象は命名(言語)に先立って「ロゴスとして」存在するように見え、命名の結果としての言語は対象そのものの現象形態であり「言語には実体性がある(言語と存在の一致)」というものであった。
 しかし、西洋思想におけるソシュールの意義は、伝統的言語観を覆し、命名(言語化)を通して、初めて対象が存在する(認識される)ということを認めたことにある。つまり「対象の存在」は、認識の結果(としての概念ないし所記・意味)であるということを「発見した」のである。彼はこのことを対象と言語の間の「差異の体系・関係論的説明」として提示した。
 このことをより哲学的に言えば、「言葉は対象に対する人間主体の興味関心(意味の発生)によって成立する」ということになる。対象は無限であるが、人間の興味関心の結果としての言語的存在は有限なのである。無限の対象と有限な言語(とその概念・意味)の差異や関係性を認識することこそ、言葉の意味を明確にし、人間の相互了解を深めることになる。例えば伝統的な「神・仏」についての非科学的教義も「価値」についての主観的解釈も、ソシュールの構造主義的(科学的)認識方法によって神秘性のベールをとりはらい、生命としての人間存在の意義を明示することを可能にするのである。そして残された我々の課題は、人間存在の構造主義的分析の上に立って、無限の世界に新たな人間存在の構造(生存様式)を創造していくことなのである。

 

 ――マルクス批判について──
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(1) はじめまして                  9/26(Sun)
 T宗教について調べている内に、このサイトに到りました。何ともパワフルなホームページに驚嘆しました。
 マルクスについて造詣が深いようなので、私の批判を紹介します。マルクスは、資本制社会の商品交換を等価交換であると位置づけ理論化(法則化・言語化)しました。私は、商品交換はほとんどが不等価であると考えています。「交換が成立したから等価である」というのは誤魔化しではないでしょうか。むしろ資本主義社会は不等価交換を常態化することによって成立し、労働者の搾取は基本的に詐取であるというのが本当ではないでしょうか。
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(2)『資本論』批判の前提──商品A≠商品B──     10/02(Sat)
 Rさん、早速読んでいただきありがとうございます。わたしのHPでは『資本論』批判の認識論的前提がわかりにくいので、若干のまとめを追加しておきます。マルクスの誤りの根源は西洋思想(西洋的認識論)にあり、それは言語と価値の解明なしにあり得ないというのが私の主張なのです。
@人間の本質は言語であり、言語によって人間は意識的(精神的)存在となった。
A人間の生活を支える労働の歴史的社会的発展性は、人間が意識的(言語的)存在であることによる。
Bすべての商品は、その商品所有者の欲望を充足させること、すなわち利益をもたらすことを目的として交換される。
C商品の社会的価値(交換価値)は、労働生産物であることによって決まる(労働価値説)のではなく、その商品に対する交換当事者間の市場取引によって決まる。また商品の交換価値(価格で表示される)は、社会的平均的なものであり、交換(市場取引)における社会的合意であるに過ぎない。
D「価値がある」という言語表現は、労働生産物や商品自体に価値があるということではなく、市場における取引判断の結果としての意識的産物である。
E「商品の価値」と「言語の意味」は共に、社会的合意として個人の判断を拘束するが、商品自体や言語(記号)自体に価値や意味があるのではない。
F商品価値(価格)も言語意味も社会的平均的なものであって、諸個人の意識を越えた絶対的なものではなく、個人がそれらを使用したときにはじめて実現する。価値も意味も究極的には個人(主観)的なものであり、個人において実現する。
Gすでに存在する価値や意味は、社会的平均的なものとして個人の判断の材料とはなるが、判断・意識そのものを完全に規定するものではない。しかるに、西洋的思考には、個人の主観的判断結果(命題)を社会的に客観的なものとして規定し、思考や判断の前提とする傾向がある。
H主語述語で構成する命題(理論・ロゴス)は、数学的公理といえども、究極的には個人の主観的経験的判断によって実現される。言語や命題に対する社会的共通理解は相対的なものであり、その共通理解を深めるためには不断の経験の共有―事実による検証が必要である。
I『資本論』における資本主義社会の神秘化(いわゆる貨幣の謎を解明したとされる物象化論)は、人間の主体的判断を捨象し、人間的必要性(人権)を歴史的必然性(決定論)に矮小化するという西洋的認識論の限界を示している。
 以上が私の見解ですが、残念ながら理解してもらえる人がおりません。ある経済学の先生に理解を求めましたが、「『資本論』の誤読である」と一蹴されてしまいました。Rさんには念力がありそうですので、何かご意見がいただければありがたいです。 

 

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(3)マルクスでは展望はない                      10/13(Wed)
 Rさんちわぁ。この挨拶は気に入りました。ご多忙中にもかかわらず、道場に入れていただいてありがとうございます。マルクス愛好家(信奉者)からはいつも門前払いをされるのに、Rさんの度量の大きさに敬意を表します。
 さて拙論について「過剰批判」というのは当たっていると思います。マルクス主義の理解もずれているのは確かです。『資本論』の批判もおそらく小生のような等価交換批判は今まであまりなかったと思います。おそらくプルードンがマルクスによって徹底的に批判されたため、あまり日の目を見なかったのでしょう。それをふまえた上で、無政府主義者バクーニンのようなパワーを持ったRさんの意見を聞きたいのです。マルクス主義というのは胡散臭いと思われませんか?小生がHPから推察するに、Rさんは隠れ無政府主義者に思われるのですがいかがでしょうか。
 小生の売りは、言語認識論の確立と西洋思想批判によってマルクスを批判しようとするものです。全く内在的ではありません。「商品価値」の「価値とは何か」というところから出発しています。社会的に評価・判断される価値は、個人の判断を左右することはあっても、決定論的に個人の判断(意識)を規定するものではありません。歴史と社会の在り方を規定するのは、人間の欲望と意識の総体です。人間(個人)の意識(言語的に規定される)は、人間(個人)を社会的歴史的に規定します。意識の所産である理論(マルクス主義も)は、人間存在を規定(合理化)し、社会的実践を方向づけます。
 人間は欲望を充足させるために労働しますが、その労働を価値づけるのは人間の意識です。価値のある労働もあれば、ない労働もあります。疎外され抑圧される労働もあれば、疎外し抑圧する労働もあります。問題は「資本と労働の対立」ではなく、貨幣を所有し貨幣で人を支配しようとする人間(誰?)と、貨幣を持たず貨幣のために支配される人間(誰?)の対立と、それを競争と効率性(経済成長)の名によって容認し隠蔽しようとする社会の仕組みと理論です。マルクスの理論(とりわけ等価交換理論)は、資本主義社会のそのような反道徳的な人間関係を神秘化し隠蔽するのに手を貸しています。
 ということで、「等価交換」について是非意見を聞かせてください。
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(4)「等置」の本質は不等価性です                   11/15(Mon)
 ちわぁ、Rさん、。私はHPを始めてまだ1年しかたたずコンピュータの操作にも不慣れです。T教の縁でRさんのHPを知って、
「情況に棹させ!時代の深部を切開し迫撃せよ!
ノンタブー・本音主義・体張り作法で結集せよ!(以下略)」
に共感を感じました。小生のような考え方は、『資本論』を正しいと考える信奉者には理解できないようです。しかし、今日の社会主義が中国や北朝鮮に見られるように、マルクスの想定したものとはおよそかけ離れたものになっていることや、資本主義の修正がある程度成功したことで、マルクスの根源的な批判も可能になっているのではないでしょうか。
 さて、「等価交換」についてですが、もう少し付け加えておきます。マルクスは、古典派経済学を継承しながら、価値を生産(創造)する労働(力)の特性によって、剰余価値が生産過程において生み出されていると考えました。つまり、労働力商品は等価で交換されているけれども、資本家がそれを使用する段階で、搾取がおこなわれているととらえたのです。労働力商品と労賃との交換契約は資本家の有利な条件と労働者の不利な条件の下で結ばれたものです。労働者にとって高い価値のある労働力商品も、資本家に買いたたかれ低賃金が常態化しています。このように人間の生存にとって、最も重要な労働を低賃金・低価値におとしめているのは、交換の不平等な条件によります。「等置」(交換の成立)は、価値の主観性と社会的強者による強制によるものであって、決して等価なのではありません
 そもそも低賃金や劣悪な労働条件の理由は、資本家と労働者の不平等な立場のちがいに由来しています。一般商品の交換価値(価格)は、その商品の生産価格が交換成立の重要条件になるでしょうが、労働力商品の場合は労働者という人間そのもの(資本家は、売買契約によって「労働力商品」を拘束しているのではなく、労働者という「人間」を拘束している)ですから、労賃の決定が労働力(人間能力)の再生産のためだけであれば全く不十分です。労賃と労働力商品の交換を等価であるとすると、低賃金が合法化され、人間的価値が無視されることになります。マルクスは、支配され抑圧され貶められた社会的平均的な人間的価値や欲望を、合法則化しようとしたのです。
 ただマルクスは、抑圧されたものの怒りと連帯の力が、人間と社会変革の原動力となると考えました。そして労働者の主体的道徳的自覚に期待をしました。しかし、彼が労働者に与えたのは、労働への誇りと未来への希望と階級敵への憎しみを煽る闘争のみで、人間を解放する理論は作りませんでした。もともと労働の概念は、人間的生存を支える従属的概念であり、人間を全体として解放する概念にはなり得ないのです。
 人間を解放するためには、「商品交換関係の不等価性」を含む人間関係の不等価性、個別性、多様性、有限性を批判的に見抜き透明化する能力を必要とします。マルクス経済学は、人間と社会を「等価交換」によって神秘化したもので、科学的検証に耐えられません。等価交換によっては、商品交換関係にあらわれる反道徳性不正義性を見抜けないのです。ご批判がいただければ幸いです。
(注)上の文では労働力商品の売買取引における不等価性と強制性について取り上げましたが、不等価交換は資本主義社会(人間社会とも言いうる)のあらゆる場面で見られるものです。商品交換による利潤追求を至上命題とする社会では、独占価格や協定価格、投機的商品売買、賃金や労働条件における格差、過剰な役員報酬や創業者利得、発展途上国と先進国の格差等々によって、独占禁止や公正取引、労働者保護、社会福祉等々のルールはあるものの、むき出しの利己主義と合理的効率主義が幅を利かし、政治権力やマスメディアを通じて、共生や協働を含む人間的な善性が破壊されていくのです。「金儲けは悪いことですか」「悔しければ金持ちになりなさい」と反論する人がいます。マルクスはこれに対して階級闘争と資本主義崩壊の必然性で応じました。今や我々は、成長の限界と地球環境破壊の現実を見据え、人間的道徳的理論と行動によって、今日的危機を乗り越えることが必要になっています。
 さらに等価交換思想の不道徳性について一言しておきます。アダム=スミスによる古典派経済学の成立以来、等価交換という思想はその根本において不道徳なものでした。スミスは人間の善意を信じ「他人が悲しんでいるのを見るとすぐに悲しくなるのは、何ら例証する必要のない自明の理である」(『道徳情操論』)と述べていますが、これは「同類感情fellow feeling」を持てる条件がある場合に限ります。人種的、民族的、宗教的偏見や敵対心を持つ場合には、同類感情が消失し他人の苦しみや悲しみが征服感や優越感等の快感をもたらすことは歴史的事実としても、また日常的にも経験することです。しかるに、市場における商品交換は私的利益を得る競争的関係であり、一定の部分は相手の利益よりも自己の利益を優先します。競争的関係は対等な関係とは限らず、強者優先の交換の成立(等置)を等価と見なすのは強弁にすぎません。スミスの次の主張を吟味して下さい。「貨幣または財貨は、一定量の労働の価値を含んでおり、われわれはそのとき、それらを等量の価値を含むと思われるものと交換するのである。」(『諸国民の富』)
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(5)『資本論』の法則は『聖書』の言葉と同様,人間の創造物です             1/10(Mon)
 ちわぁ、Rさん。貴学院正門はにぎやかなので、裏門(マルクス門)から失礼します。私の投稿は誰も読んでくれないのですが、Rさんの度量の大きさによって、大切に貼られているので感謝しています。
 私は、キリスト教の『聖書』が誤っているのと同じように、マルクスの『資本論』は、根本において誤っていると考えています。『聖書』の言葉が、神の言葉でなく人間の言葉であり、神は人間が創ったと同じように、『資本論』の貨幣が人間の交換関係を支配するのでなく、人間の交換関係が貨幣を支配し、この交換関係の円滑化のために、人間が貨幣を創ったのです。
 人間の言葉は、かつて西洋では「神の言葉」と誤解されることがありました。それと同じように、マルクスや古典派経済学者は、結果としての交換価値が、人間の意識(価値判断)や市場を支配するものと誤解し、労働価値説として法則化しようとしてきました。両者に共通しているのは、結果としての人間の判断(「神の言葉」や「等価交換」)を、人間の意識を支配する絶対的な法則(真理や価値法則)と考えていることです。
 剰余価値は、生産過程から正当に資本家の手に渡るのではなく、労働者(人間)の労働力(人間力)商品を、交換(流通)過程において不当に低くごまかして購入し、さらに、労働者を抑圧し人間性を奪う労働を強制し支配を永続化させることによって得えられるものです。資本家(経営者)は、利潤の追求に都合の良い一握りの労働者を競争によって見いだし、金銭で手懐け、多数の労働者を支配管理し、非人間化・無自覚化・愚民化することによって、自分たちの支配的立場を持続させようとします。
 マルクス(イエスも)の意図は善意であったと思います。しかし、彼らの「言葉」(『資本論』『聖書』)は、人間存在の真実を明らかにすることに有害(現世の不正や不平等を合理化する)であるばかりではありません。彼らの「言葉」を使った権威主義者(主に後継者・幹部)が、教団や組織・党の絶対者となって議論を封殺し、反対者を排除して人間性を抑圧するのです。
 Rさん、共産党を支持している多くの人々は、マルクスを良心的に解釈している善良な人々です。マルクスを容認して共産党の批判をしても益するところはありません。逆に、労働者や民衆の分断と離反を招き、日本のリーダーを気取る右翼と支配層を喜ばすばかりです。それよりもむしろ、もっと根源的に現代社会と思想・宗教の問題点や資本主義の不正義・不公正を暴き、警鐘(連太鼓)を鳴らす方が、日本と世界の将来の利益になると思うのです。
 Rさんの「マルクス主義批判」を読ましていただくと、納得できる点が多々あります。是非、リカードやプルードンに見られる社会主義の原点に戻っていただきたいと思います。裏(勝手)口から、勝手な主張をして失礼しました。本掲示板に感謝します。

<これ以降はRさんの意見は途絶えます。私の体系的な「マルクス主義批判」については、ここをご覧下さい>
限界効用理論批判
──交換価値は、相手商品の支配(営利活動)の結果を示す概念である──
<商品の交換価値(価格)の決定>
@ 商品の交換は、市場における商品所有者間の暗黙または公然の契約(合意)によって成立する。

A 商品所有者は、交換において相互の商品の価値と損益を比較考量して、交換するか否かを決める。

B 相互の商品の比較考量は、供給側は自己商品の価値を高く評価し、需要側は相手商品の価値を低くみようとするが、自己の商品の生産・獲得に要した費用(労働量・原材料等の資本)、商品の効用・満足度、商品所有量(必要不必要度・需要供給量)、損益度(利益率の増加:安く買い、安く作り、高く売る)などを基準としてなされる。

C 商品交換の成立により、相互の商品の価値が相対的に評価され、交換価値が交換当事者間で定まる。ここに貨幣商品が介在すると商品価格として数量的に表現される。この取引成立による交換価値(価格)は、他の多くの交換の判断基準となり、社会的平均的市場価格(均衡価格・相場)を成立させる。

D 平均的市場価格は、商品と商品所有者(生産者)をめぐる条件──生産技術の革新、新商品の発明、宣伝や流行、大量生産、価格競争の激化、需給量等々──によって、不断に変動するもので、
完全自由競争による「均衡」状態とは、西洋的な理念重視の観念と現状を肯定しようとする立場の経済学者の願望の表現にほかならない。

E 交換価値(価格)の決定は、完全不完全競争にかかわらず商品所有者(需要・供給の主体)の社会的力関係によって左右され、需給量はその力関係における一つの重要な要因にすぎない。弱い立場の労働者・消費者は、自由な選択権は持つけれども、強い立場の企業(資本家経営者)の価格支配力に個々人での対抗は困難である。ここに、多様な民主政治による多様な政策的市場介入の余地が生ずる。

<限界効用理論の誤り>
@ 需要量・供給量と価格の関数(需給曲線、需給量と価格の関係)は、交換成立すなわち価格決定の一条件を示すにすぎない。交換の成立は、交換主体(需給者)の欲望や意図・判断・力関係を除いてありえない。需要者は、単に安価な商品を求めるばかりでなく、その質や独自性も求める。また供給者は多量の商品を高価に売るために宣伝や供給調整、独占や寡占、特許制度を利用する。さらに市場均衡の前提となる完全な競争というものは、現実には今までなかったし、今後もありえない。新古典派経済学者の経済分析は、資本主義市場では、現実の不平等と不公正と不道徳を隠蔽するものになっている。

A 完全自由競争を前提とした分析手法は、商品所有者の平等と自立、理性的存在を前提としている。しかし、現実における利潤追求の過酷な競争は、企業や家計において不平等と支配・依存の関係を再生産し、動物的な無意識的情緒的反応や不安を駆りたて、人間を単なる労務提供者、与えられた商品消費の享楽者にしようとしている。効用とは単に直接的な消費による欲望の充足だけでなく、利潤を拡大する欲望、貨幣による人間支配の欲望(効用)をも含むものである。

B 資本主義市場では、企業(資本家・商品供給者)の利潤原理が優先され、ワルラスの考える商品の希少性、すなわち「効用と量の制限」が、商品の価値を決める、という現実にはなっていない。供給者としての企業は、効用を商品化するばかりではなく、利潤のために希少性を利用し、需要者である消費者を供給者側の価格設定の独占的支配下におこうとする。また需要者としての企業は、労働力商品(人間)の効用を高め安価なものとするため競争を操作し、雇用水準を低下させ(量の制限)て労働力の価値の低減を図ろうとする。そのため消費者は不必要で有害な商品を押しつけられ(娯楽商品に多い)、労働者は競争のもとに低賃金と孤立化を強いられる。ワルラス市場における限界効用理論は、数学を用いた純粋科学理論の体裁を採りながら、現実においては「強者の支配による市場均衡」を隠蔽・奨励・擁護・願望しているのである。

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Y氏掲示板への投稿
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(1)商品交換はほとんどが不等価ではないでしょうか  7月10日(土)
はじめて書き込みをさせてもらいます。
 YさんのHPを読ませてもらいました。非常に多方面に関心を寄せておられることに敬服します。小生は言語論と、マルクス批判に関心があります。昨年HPを開きましたが、ほとんど反応がないので、読んで理解してくれそうな方に宣伝しています。
 そこで質問です。Yさんも言語に関心を寄せておられますが、私は言語が人間の本質であると考えています。人間は世界を言語化(主語述語化)し、言語によって世界を構成(創造)し、合理化し、そして、自己を世界の中に言語的に位置づけながら生存しています。マルクスは、商品交換を等価交換であると位置づけ理論化(法則化・言語化)しました。私は、商品交換はほとんどが不等価であると考えています。交換が成立したから等価であるというのは誤魔化しではないでしょうか。むしろ資本主義社会は不等価交換によって成立しているのが本当ではないでしょうか。
 ぶしつけとは思いますが、ご意見をお聞かせください。
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(2)言語と不等価交換──マルクスの誤り       7月12日(月)
 Yさん、早速返信をいただきありがとうございます。何か共通しているところがありそうなので、議論をさせてください。
 私は、言語の謎の解明が、今日までの人類思想や哲学の難題克服の鍵になると考えています。人間にとって言語とは何なのか。この問題は、古代からの東西の哲学においてはもちろん、現代の科学においても解明されていません。私自身も研究の途上にあります。ご意見をいただけることを期待しております。 さて、言語の起源が、「交換」すなわち意思の伝達にあることは万人の認めるところです。しかし「交換」を商品に限定するのは疑問です。商品の交換は暗黙のまたは明示的な「契約行為」ですから言語の存在を前提にしているのではないでしょうか。私は言語問題解明の課題は、意思の伝達にあるのではなく、
その言語がどのように「認識や思考」さらには「感情や行動」に影響を与えているのかだと思っています。
 言語は、認識や思考に関与することによって、人間の創造性や発展性、さらには自己の存在を合理化し、世界に位置づける役割を持っています。哲学や思想・宗教の根底には言語があります。人間は自己の存在を、言語を用いて合理化し情緒的な安定をはかろうとします
 「何が(what=主語=名詞)どのように存在し(how=述語=動詞・形容詞)、どのように判断するべきなのか。」このような問は動物的・生理的起源を持ちます。人間はこの問に言語で答えます。言語は音声信号として記憶され、自然の環境世界から独立した、人間的言語的環境世界を創ります。これがいわゆるイデオロギーである、というのが私の考え方です。
 次に『もし不等価交換なるものを法則性としますと市場を規制する原理を説けないわけで、経済学は成立しない』とのことですが、今まで市場を規制する原理を解明した経済学があったのでしょうか。物を交換するかどうかを判断するのは人間(物の所有者)であって、「等労働時間」であるかどうかは交換する判断の材料の一つではあっても決定条件ではありません。むしろ交換する当事者においては、その商品に対する損得の判断が重要なのではないでしょうか。 それではなぜ等価形態(商品価格)が成立するのかといえば、等価であるからではなく、交換の契約が成立したから、結果として等価になったということに過ぎないのではないでしょうか。需要と供給の関係といっても結果としてそうなるというにすぎません。売買契約の内実を見ると、多くの場合、交換が当事者双方にとって利益を生む(不等価)から、その契約(等価)が成立するのではないでしょうか。
 私のような見解は、交換当事者の判断を重視し、市場価値(社会的価値=マルクスの交換価値=等価形態)は、諸個人の価値判断の材料に過ぎない、というところからきています。マルクスは逆に、社会的平均的価値(市場価値)が、競争の強制法則によって個人(交換当事者)を支配していると考えていました。
 私の考えでは、当然、労働者の搾取は、有利な条件にある資本家と、生活のために求職せざるを得ない不利な立場の労働者との間の不等価な交換契約です。労働力商品の価値は、マルクスの言うように「等価物が等価物と交換された」のではないのです。
 労働するのは人間であり、もっと人間の尊厳と価値を評価すべきなのです。人間存在にとって労働は、必要条件ではあっても十分条件ではありません。また人間は歴史的に決定される存在ではなく、諸個人がそれぞれに歴史を創造する存在なのではないでしょうか。
 いささか長くなりました。ご批判いただければ幸いです。
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(3)的確な情報交換のための言語構造    7月18日(日)
 Yさん、ご意見ありがとうございます。自分と違った意見を持つ人との議論は、とても刺激になり思考が深まります。
 さて、「なぜ世界を主語・述語的に認識できるようになったのか」についての、Yさんの主張は、物資の交換にその起源を求められているようです。私は、「情報の交換」すなわち「意志の相互伝達」自体に主語述語構造の起源を求めています。情報とは、環境の多様さや主体の意志であり、これらの情報は、できるだけ的確に伝達される必要があります。多様な環境がどのようにあり、それに対して主体がどのように判断するかを正しく伝えることは、個体と種族(集団)の生存にとって決定的に重要です。
 動物の進化は、ある意味では、外界の刺激(情報)に対してどのように反応(行動)するか、すなわち<知覚―中枢―反応>構造の発達であり、その機能を果たす神経系の進化といえます。
 動物は、身体(動作、音声、臭い等)を使って、様々の情報を伝達します。人間は言語を使います。名詞は対象を指示し、動詞や形容詞は対象の状態や対象間の関係、主体の意志などを表現します。つまり、「何が(what)どのように(how)あり、どう判断すべきか」が表現されます。
 対象の客体化(自己及び他者の意識の成立)は、「何が」の答である「名詞」が、音声信号として行動から自立したとき成立します。「私」「あなた」「個々物」の言語化(音声記号化)は、それらのパターン認識を(脳内で)操作すること、則ち客体化することを可能にします。つまり、主語・述語構造は、主客の分離としての物質交換が先にあるのではなく、言語記号による対象の認識(情報の記憶)自体、すなわち言語記号による対象の客観化(記憶された対象のイメージ、パターン)、または疑問解明(何がどうなのか)という認識過程の自立自体にある、というのが私の主張です。
 だから、対象とその状態を音声信号化(まずは行動から独立した名詞)することそれによって自己の意図=情報を正確に伝達すること、すなわち、意思伝達、情報交換の的確性の追求(文法性)が、言語の主語・述語構造の起源になるのではないでしょうか。Yさんの言語についての所論は、共感できるところも多いのですが、まずは違いを強調して返信させてもらいます。
<これ以降はYさんの意見は途絶えます。私の体系的な言語論については、ここをご覧下さい>
<補足引用>
 言語学者の時枝誠記は、言語(判断)主体を軽視する西洋的思考方法の枠を抜けきれないソシュールを批判しつつ、次のように述べている。「価値関係が生ずるのは、これを利用しようとする主体的立場でなければならない。・・・・・・経済的交換価値においては、客観的な貨幣あるいは物質それ自体が価値を持っていると認めるべきでなく、必ずこれらの価値を決定すべき経済主体を考えずしては表明することができないものである。」(時枝誠記『国語学原論』岩波文庫上p51)

<さらに新しい補足2012>経済学的人間観の限界――◇ 言語と商品価値の共通性とは何か 
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以下の文は、人間学アカデミーHPhttp://www.ittsy.net/academy/index.shtmlの掲示板に投稿したものです。『単純教』の場合と同様、他人の土俵で相撲を取るのは気が引けますが、人間存在とは何かを知っていただく一助になると思います。 
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『知について』           3/23 (水) I.K.氏の問いかけ
  知の意義とは何なのか、誰かご意見をお聞かせ下さい。  
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(1)人間の知は言葉によって成立している      06/07 (火)
 はじめまして。  人間の知は、言葉によって成立しています。人間は言葉を使用することによって「何がどうあるか」と問いかけ(思考)、情報を整理し、「どのように生きるべきか」「どのように行動すべきか」を方向づけます。知とは、そのような問題意識を整理した結果としての情報です。情報(知)は、言葉として記憶蓄積され、自分自身の知的世界を創造し、他の人間にも伝達され共有されます。人間は自己を情報(知)によって世界に位置づけ合理化する存在です。知とは、「何が(what)どう(how)あるか」の解答であり、主語・述語で構成される二次的な世界です。どのような知をもつかが人間の生き方を決定します。自己と世界に対する正しい知識を持ちましょう。  私のHP http://www.eonet.ne.jp/~human-being/を参照していただければ幸いです。    
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(2)知は認識の結果です                 6/11 (土)
 NMさん、ご意見ありがとうございます。言語についての微妙な問題を研究している私にとって、このようなご意見はとても刺激になります。 <人間の知は、言葉を超えたものによって成立しています。人間は、後付けで言葉によって近似的なものとして、そのごく一部分を了解するほかないのです> という指摘はほとんど正しいと思います。  「ほとんど」というのは、「成立している」という表現と「後付で」という表現に、微妙だけれども重要な問題点を感じるからです。まず、認識が言葉を越える情報量(知覚・感情・直観)をもつことは明白ですが、「知とは何か」となると、「人間の知」は、単なる感情、感覚、直観によって成立するような主観的で曖昧なものではなく、客観的論理的に言語化され表現されたものです。知とは、感覚、感情、直観の認識過程を経て、言語的論理的に思考・整理された「結果」なのです。
 人間の知は、必ず言葉によって「何がどうあるか」「何をどうするべきか」が、明確にされねばなりません。感覚知や直観知があるとしても、それらはユングが述べたような主観的神秘的な世界であって、そのユングでさえも言語的にしか自己の主観的な世界を表現しえなかったのです。感覚知や直観知というのは、実際には言語的に表現しないと知には成り得ないという意味で、形容矛盾になります。感覚や、感情、直観で捉えた情報は、言語の介在なくして人間の知としては成立し得ないのです。つまり知覚、感情、直観の主観的な情報は、知を成立させる背景、内容にはなりえても、客観性をもつ知ではありえないのです。  ただ、井上さんが「知の意義とは何なのか」と問題提起されたとき、「人間の知は言葉によって成立している」と単純に答え、感覚や感情・直観という認識過程(心のはたらき=思考過程)を省略したのは、NMさんが指摘されたように私の言葉足らずという以外にありません。認識が言葉を超える情報量をもつのは当然です。にもかかわらず、言葉は個人の主観(心のはたらき)を越えて、人間の知を成立させ、個人の認識を制約し行動を方向づけます。その意味で言葉は単に、言葉を越えたものを後付けするだけでなく、言葉によって成立した「認識結果としての知」によって、「心のはたらき」そのものを制約します。 
 知の意義とは、言葉によって成立した知が、世界と自己の立場を明らかに(合理化)することによって、人間の心のはたらきを制約するものとなる、ということになります。イソップの寓話を例にとれば、「美味しいブドウがある。食べたいが届かない。きっとあのブドウは酸っぱい。」というキツネの「知」は、感覚や感情・直観を含みますが、それが言語化されてこそ主観的な経験が客観的な情報となり、自己自身の悔しい感情を抑制し、食べることを諦める力になるのです。
 NMさんは<知=言葉によって成り立つもの>とするには、 <言葉によって成り立つもの=言語知、とひっくりかえしたうえで、言語知=知と限定して定義するほかない>とされており、私の立場を了解されているようです。しかし、私の真意はあくまで「言葉なくして知は成立し得ない」というものです。認識過程(感覚、感情、直観等)と認識結果(知)を厳然と区別すること、人間的認識(過程)には言語的思考過程が不可欠であることを自覚することは、人間の認識過程や言語、知識の意義を理解する前提になると考えています。
 私は、人間の本質である言語の見方を変えたいと思っています。私の「言語論の革新」とは人間のものの見方考え方を変えることです。できればHPを一読された上でご批判をいただければ幸いです。    
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(3)カオス(コスモスも)は人間が創ります          6/18 (土)  
 NMさん、同じような問題意識によって世界を見ようとしておられるようで心強く思います。しかし、違いも明らかであると思われますので、私自身のものの見方で議論をします。ご意見をお聞かせ下さい。  私はHPで主張しているように、生物学的知識にもとづいて、私にとって常識的と思われる認識論を体系化したいと思っています。しかし個々の常識を体系化すると他の理論家とは世界が異なって見えてきます。NMさんの主張について順に意見を述べてみます。まず >言葉を知らない状態では、世界はカオスとして表象されるよりほかない< という点ですが、言葉を持たない動物の表象には「カオス」はあり得ません。個々の動物は、生物学的特性(本能)と後天的・経験的に獲得された認識と行動の様式にもとづいて世界を選択的に秩序づけ表象しています。NMさんの言われる世界の「有意味性」、ユスクキュルの言う「環境世界」がこれです。動物にとっては、自分が生存していくための秩序が自分にとっての世界そのもの、すなわち有意味性としてとして表象されます。  さてNMさんの言われる「言葉を知らない状態」とは、人間が、対象世界を把握(言語化・主語述語化)し得ていない認識過程の状態を言われているのだと思われます。しかしこれは「カオス」と言うよりも、認識の一過程(何がどうあり、どう判断すべきかの解明)が、問題意識のままでとどまっている状態であって、対象自体が「カオス」であるという意味ではないと思います。つまり、「言葉によってカオスと向き合」うのではなく、言葉によってカオスを創り、秩序化しようとしていると言うべきではないでしょうか。世界自体はカオスでないにもかかわらず、認識主体が単に対象(世界)に対する疑問(問題)を言語化し得ていないだけのことではないでしょうか。だから、「カオス」とは、カオスそのものが存在するというのではなく、人間が言葉を獲得し、世界の秩序(意味)への問を解明し言語化できなかったがゆえに創出した言葉(概念)なのではないでしょうか。  私は、ハイデガーを西洋思想における挫折と限界性を示した思想家、極論すれば知的言語的敗北主義者であると考えています。また生命の「死」は暴力でもカオスでもなく、自然であり秩序であり運命であり、極論すれば人生の到達点としての「安らぎ」であると考えています。人間の有限性や「死」のみを強調して人間存在を捉えるのではなく、死の意味は安らぎであり、生の意味は、生に専心し安らぎの死に到達する過程であると考える方が建設的ではないでしょうか
 次に>本質的に、世界を言語化することなしに世界と向き合えない存在であるとするならば、人間にとって、主観の外に出ることは、原理的に不可能である< という点についてですが、たしかに人間は世界を言語化することなしに世界と向き合えない「側面」を持っています。また言語(意味の)理解は、究極的に主観的なものであることは前回述べたとおりです。しかし言語は「主観の外から」与えられ(幼児期)、経験的に獲得されるものであることも事実です。主観の外から与えられたものが、主観の外に出られないことがあるでしょうか。  我々は「世界そのもの」の中に生きていますが、動物的な生存が保障されれば、「世界そのもの」を認識できなくても、虚構(宗教や思想、人生観など)の中でも、生きてゆけるのです。むしろどのような虚構(的知識)でお互いが了解すればよいのか、どのような「言語化された世界」を共有(合意)するべきかが問われているのです。主観の外に出て、共有できる主観(近似的なものであっても)を持つことができれば、それを客観(「合意を取り付けやすいもの」)とすることができないでしょうか。  だから私の言う客観(的知識)とは、社会的に絶対的なものではなく(言語自体が絶対的なものではあり得ない)、情報伝達の手段として、相対的知識であることを越えられません。しかし客観的知識の構成要素である言葉(の意味・概念)は、社会的には相対的平均的なものであっても、主観においては自己の存在を確立するために絶対化することがあり得るのです。例えば神の存在を、主観的には客観的存在(知識)として絶対化することはありえます。しかし、今日のように科学的知識の普及した時代にあっては、常識的な意味で客観的存在とすることはできないでしょう。
 逆に>人間の認識は、原理上、主観の外には出られない<というのは、人間の主観的認識を主観の内に絶対化(自閉化)することになってしまい、認識の共有の努力を阻むことになり危険ではないでしょうか。知識の絶対的な共有は極めて困難であるにしても、人間の生物学的(大脳生理学的)知識や言語獲得の共通性から考えれば、ある程度の客観的知識(辞書的、事典的知識)は可能ではないでしょうか。かつて「共同主観性」などという用語を創作した学者がいましたが、幾ら新しい蛸壺に「共同」を押し込んでも、西洋近代は越えられないし社会の変革もできないでしょう。重要なのは、人間的社会的な客観的知識を構築し共有するために、積極的に主観の外に出るという努力を持続させることではないでしょうか。  最後に「算術」や「幾何」の問題は、NMさんの主張の通りだと思います。「1+1=2」や、「三角形の内角の和は2直角」は、自然的客観ではあり得ません。数字や加減乗除、直線や三角形は、自然的存在ではなく人間的な合意(ルール)として創造された知識です。フサールはこの認識に近づきましたが、西洋思想的限界を超えることはできませんでした。我々にはそれができます。西洋的(近代的ではない)認識論の限界を超えることができるのです。
 長くなりました。説明が不十分であることは承知していますが、このような議論ができるのは楽しいことです。ご批判いただければ幸いです。     -
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(4)間主観、間環境──何のための認識か          6/26 (日)
 NMさん、示唆に富むご意見をありがとうございます。掲示板で議論するには重すぎる内容かも知れません。しかし認識論上のNM的な問題なので十分整理できないかも知れませんが、私見を述べさせていただきます。  私の認識論の基本は、生物学的生命論的なものです。つまり、 @人間(動物)の認識は「生存するため」であり、認識それ自体のためではない。 A生存するためには、外的環境と主体(内的環境)の関係を、適応的に認識し、行動(反応、位置づけ)しなければならない。 B人間は、言語を獲得することによって、「何(世界)がどのようにあり、(自己が)どのように行動するか」を、知的論理的(主語述語的)に認識し再構成(創造)する。  
 上記の認識論の生物学的前提を踏まえて、西洋的認識の限界を超えようとするのが私の主張の特徴です。そこでNMさんの議論に沿って説明してみます。まず >知とは、知ることであり、知ることは、思考、感覚、感情、直観による認識過程そのものである。なおそこには、認識過程の言語による再把握も含まれる。と「知」を定義します。< について。「知とは、知ることである」という主張は、「知ること」とその結果としての「知」を、西洋的にロゴスとしての存在と誤認する危険をはらんでいます。アリストテレスは、愛智者が認識を追求したのはなんの効用のためでもなかったとして、「知ること自体」を生きるための認識から独立させました(『形而上学』)。ニーチェは、西洋哲学の伝統を「何のためにが欠けている」(『権力への意志』)と指摘して批判しました。また、現象学的な認識論は、「何のための実存」「何のための認識」であるかの検討を排除し、「事象そのもの」の認識を追求しようとして失敗しました。認識論に言語を位置づけることができなかったために、「判断中止」という「判断」をせざるを得なかったのがその理由です。
 言葉は、蝶のように常にひらひらと飛んでいるのではなく、明らかな効用(目的)があって、人間が獲得したものです。言葉は、意図の伝達(表現)が中心的な効用ですが、意図の伝達のためには、意図を明確に認識し言語化される必要があります。言葉は単に「認識過程の言語による再把握」ではなく、「何がどうあり、どうすべきか」という、生命的実存を確認しながら生きる人間的認識の核心をなします。言語的な問題意識(what,how,why etc.)が、認識の内容自体を左右するのです。しかし、言語の獲得が、直ちにすべての問題の解決に役立ったかというと、もちろん否です。人間の言語的創造力は、神や仏、天国や地獄を創って、世界と自己を合理化しました。「イデア」や「事象そのもの」の認識可能性を信じて追求もしています。
 「知と知ること」「結果と過程」の混同は、それらの本来的意味「何のために知るのか(過程)」また「知ったもの(結果)」が有効であるのかの検討を怠らせ、「事象そのもの」が、人間の問題意識を越えて存在するという錯覚をもたらします。「事象そのもの」と認識される(た)すべての現象は、すでに人間の認識(問題意識)のフィルターを通った、判断の結果であることを見失わせてしまうのです。以上のことから、私は、「認識の結果に重きを置く」のではなく、「結果と過程」の区別に重きを置くべきであるという主張なのです。
   次に「幼児における言語の獲得」についてですが、私は、言語は「母親の視点」で立ち上がるのではなく、「幼児(太郎)の視点」のみで立ち上がると考えています。これは微妙な問題で、母親(他者)の言語を学ばせたいという意図や関わりがあることは当然ですが、しかし、幼児には言語を獲得する装置とその意図が生得的に備わっており、「他者の視点と重ね合わさる」必要はないと思っています。つまり、幼児の言語獲得に、言語的環境(他者)は、必要条件であっても、音声信号「ニャーニャー」をどのような対象「毛むくじゃらのなにやら動くもの」に一致させるかは、幼児自身の判断よるものです。私の「主観の外から与えられ、経験的に獲得されるもの」というのは、「獲得する」という「主体的判断」に重点があるので、私の記述に問題があったと思います。  母親(他者、NMさん)の思いと、幼児(自己、大江)の思いは、重なり合わなくとも、言葉として主観(NMさん)の外(大江)から与えられ、その言葉は誤解を伴いながらも、主観において立ち上がるのです。誤解は、言語(知)の交換(対話)において常態的であるがゆえに、常に主観の外に出て、「主観の内容=結果としての知」を確認する必要があるのです。その確認の過程こそ認識の過程としての「知ること」であり、両者を区別するところに、共有しうる客観的な知(真理とは限らない)が確立しうると思うのです。
 人間の認識は、自分の視点(主観)への「他者の視点の伴い」は、必ずしも必要ではなく、他者の視点を無視しても成り立つものであり、それ故にこそ、不断の相互理解への努力が必要になるのです。主観はその本質において、間主観を含む「間環境(内的、外的環境)」への問─「何がどのようにあり、自分はどうあるべきか」─の解(主語・述語)として構成される、というのが私の認識論です。NMさん流に言えば、「認識は、間環境の場において立ち上がる」「言語的認識は、間主観を契機として、間環境の場において立ち上がる」ということになります。  独我論的認識を越えようとしつつ、独我論になってしまったかも知れません。しかしこれは、相互に認識しうる正しい認識(知)を確立するために必要な認識の過程なのです。誤解を誤解として認識し、誤解の過程を認識することから、結果としての相互理解・知の共有が可能になると思うのですがいかがでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。   
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(5)間主観的な認識が、心の病を創ります         6/27 (月)
 NMさん、早速とてもわかりやすい所論をありがとうございます。私の答はとても簡単です。おっしゃるような心の病は、間主観的な認識に拘泥するところから発生します。私の言う「間環境」とは、自然や宇宙に対する認識をも含めるものです。幼児は、母親の濃密なエロスばかりでなく、自然や宇宙との関係を持ちながら言葉を獲得しようとします。幼児を狭隘な間主観の世界に閉じこめ、間環境的な自由の感情を抑圧するからこそ心の病は発症します。  少々簡単すぎますが、私はゆっくりと考えるタイプの人間なので、詳細な議論はまた後ほどに。  
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(6)間主観的認識が、「心の病」を創ります(本文)    07/10 (日)  
 NMさん、レスが遅くなって申し訳ありません。「知の意義とは何なのか」という井上さんの問いかけに、言語論で問題提起をさせていただきましたが、「人間観」の問題に発展してしまいました。認識論(知識論、言語論)は、人間観のNMでもあるので丁寧な議論が必要であると思います。  まず今までの議論で私は、「知と知ること」「結果と過程」を区別することの重要性を強調し、共通理解を得るためには、知識の結果と過程を相対化し、間主観にとらわれない認識が必要であると主張したつもりでした。それに対し、NMさんは「認識の過程」「人間存在の実存」「認識の現場そのもの」「発語の現場そのもの」に重きを置き、自己表出をしつつ実存している不条理な人間をもっと見つめるべきである、と主張されているように理解しました。
 私は、「知の意義とは何なのか」と問われれば、NMさんの人間観である「不条理人間への知識」がそうであるように、知は人間の自己表出の一形態であり、その人間観(知)によって自己の存在を合理化(正当化)すること、と答えます。私の考えでは、人間観は、認識論や言語観から由来するよりも、その人の感情や価値観(視野)に由来することが多く、認識や言語自体を科学的に洞察することを困難にします。
 認識や言語、さらに結果としての知識は、科学的考察の対象になります。私の人間観は科学的であることを前提としています。しかし価値概念とされるであろう「生きるために」というのも、私にとっては科学的なのです。科学的であるために価値を排除しながら、価値を法則化するというのが私の生命科学の特徴です。なぜそのような矛盾しているようなことが可能なのか、それは「生命にとっての言語」の本質理解からきています。私にとっての言語や発語は、自死のように自らを殺すことに使われようとも、科学的に見て「生きるため」のものなのです。この見解は反論されることを期待していますのでここまでにしておきます。
   さて、前回の私の認識論上の生物学的前提は、誤解を招くものであったと反省しています。つまり、@ABの前提に、以下の人間的前提(人間観)Cを追加すべきであったのです。
   C 再構成された知識(間主観的「常識」を含むイデオロギー全般)は、人間の価値判断や行動を制約し、差別、不平等、不自由、抑圧、狂気、不幸等(否定的事象)を創出してきた。しかしまた、人間の肯定的感情(善性)から構成される知識は、それらの否定的事象からの人間の解放をもたらす。    以上の追加は、説明を必要とするでしょうが、NMさんなら理解してもらえると思います。そこで、「人間存在の不条理」(というNMさんの知)については、「そのとおりだな」と賛意を示しつつも、やはり、人間に対する不条理な認識(間主観的な世間の常識)から産出されている、というのが私の立場です。私にとって、いわゆる幻覚や幻聴、罪障感、強迫観念など「人間存在において普遍的に見られる」現象を「狂気」とする「知(判断)」こそ逸脱にほかならないのです。むしろ「心の病」とされる症状を「狂気」と位置づけ、現代的常識で「生存すること」を「心の病」と決めつけるのは、誤った知(世間知、業界知、学会知、党派知などの蛸壺知)からみた逸脱であり、それらの症状を逸脱とみる判断(知)自体が、私から見ると逸脱になるのです。言うまでもなく、誤った知とは、西洋的合理主義と幾多の過去の神秘主義を肯定する、生命の本質から逸脱した現代のイデオロギーのことです。
 M.フーコーは、逸脱や異常を、正常normの名において権力の内部に取り込む構造を解明しました。産業社会(資本主義社会)とは、標準的労働を正常とみなす社会であり、言語という間主観的な力を活用して他者を籠絡し、金銭の力で、強者が弱者を抑圧する社会です。間主観性にとらわれた社会は、現象学者がそうであるように自らを抑圧する社会であり、他者(神を含む)との関係においてのみ自ら(人間)を進歩し発展させようとする人間中心主義の社会です。おわかりだろうとは思いますが、私の生命論は、言語の意義の解明によって、人間自身を自然(環境)の中に相対化・有限化しようとするものです。  
   続けます。NMさんの言われる「人間は何故不安を抱え込みながら生きるほかないのか」というのは、逸脱した社会とその社会の常識知のもたらす問であって、すべての社会や個人に普遍的なものではありません。フーコーは、「狂気」は、社会の変化で捉え方も異なることを主張しました。実存的な「不安の概念」は、社会的に育成され、特定の個人が構成した「知」がもたらしたものです。不安な社会と不安な認識過程が不安の概念(知)を産出します。社会や養育者の思いが、幼児の思いと「重ね合わせ」が、うまくいくはずだという間主観的な思い(固執、こだわり、常識──ある種の強迫観念としての知)が、人間の心に焼き付き、不安の感情(否定的感情)を「知」によって拘束してしまうのです。  周知のように、知(記憶)は、大脳において感情と結合しています。不安をもたらす知(常識)が、不安の感情と結合して、人間存在を不条理の感情に固執させるのです。不安をもたらす間主観的常識知が、外的(内的)強制をもたらし、人間の不安性や自閉性(独我性)を、心の病にまで増幅させるのです。摂食障害もまた、「成熟した女の身体になることは悪である」という常識知が、不安感情と結合して症状化するものです。

 これまでの人類の歴史において、私の言う「生きるために認識する」という知が、知として成立したことはありません。前々回に述べたとおり、西洋的思考様式ではあり得ない知なのです。それが常識知になっていないからこそ「心の病」が頻発するのです。実存哲学や不条理哲学が、不安を煽り、それを常識(標準)知としているからこそ、そしてまた、自分自身の知の問題性を自覚しないからこそ、社会的な不安が増大し、オカルト的な宗教知が勃興するのです。  心の病を持つ人は、社会の不安を煽る哲学者や思想家、デマゴーグの犠牲者であり、またそのような常識知を醸成し、彼らを病者として隔離し排除しようとしている権力者(市民も)や知識人等こそ、社会的弱者を犠牲者にしているのです。

 さてそれでは、「心の病」は治癒するか、また、発症を防ぐことができるかという問題ですが、社会的不適応としての「心の病」はなくすことができると思います。神経症の多くは、育児、教育、社会環境などが大きな原因となる(心因性)ので、対応の仕方を工夫すれば発病を防ぐことができます。内因性(機能性)の精神病とされる統合失調症や躁鬱病は、遺伝的な要因があるとは言え、薬物の治療が可能ですし、ストレスを軽減すれば認知能力を高め自己コントロールが増大します。私が10年以上つきあっている青年は、分裂病(当時)と診断され服薬していますが、明らかに両親の対応が症状を悪化させます。しかし私と話すと、気分良く帰宅します。社会的不適応をもたらす「心の病」は、ほとんど「個性」としての社会的適応が可能です。

 「心の病」を逸脱と捉え排除する社会は、反生命的社会であり、狭隘な間主観性に拘泥することが、病を発症させ特殊化させるのです。高度資本主義の「過剰さ」は、「心の病」の温床です。その温床を思想的に保護しているのが、現象学的な間主観的認識論です。・・・・・  さて長くなりました。現象学を批判するあまり、勝手な主張を並べました。掲示板の議論はどうしても限界があります。ゆっくり考えても説得力を持たせるには不十分です。私は、二年間近く掲示板上で議論を重ねていますが、相互理解に到っていません。許されるなら寛容の精神で、ゆっくりと気長に議論をしたいものです。
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(7)なぜ誤解(知)が生ずるのか。            7/17 (日)  
 NMさん、辛口のコメントをありがとうございます。私もかなり辛口なので議論がスムーズに進みそうです。「知とは何か」という井上さんの問が、私の予想を超えて、人間観の違いにおいて激突したようです。私は、「現象学的な知の限界性」を明らかにしたいと考えていますが、発問者の井上さんの疑問の根源を知りたいものです。  さて、NMさんの主張は、「知とは何か」についてよりも、私の言説について「全体主義」の危険性を感じて忠告していただいているようです。もし「全体主義」を、民主主義に対立する概念として使用されているならば、はっきりと杞憂に過ぎないと思います。しかし、キリスト教やマルクス主義、現象学など西洋思想全般について批判し、新たな人間存在観を構築したいと考えていることに対する批判であれば、ご心配ももっともなことです。また、これらの思想や信仰に拘泥されている人たちにとっては、傲慢と思われるのは当然です。
 私は言語や言語によって成立する知を、どのような人のものであっても大切にしたいと考え、全体主義的反民主主義的に絶対化する立場をとりません。言語や知は、他人や自分自身をも殺すことがありますが、無視することもできます。個々人の知(言説)を、どのように意味づけるかは個々人の自由です。自分の知に自信があれば、異なる知を恐れる必要はありません。むしろ個々人の知や価値観が異なるのは言語や知の本質上当然のことなのです。私はヴォルテールの「私は君の意見には反対だが、君がそう発言する権利については私は命をかけても守る」を、自分の生き方として実践したいと考えています。
   私は先の掲示板で、誤解について次のように述べました。 >誤解は、言語(知)の交換(対話)において常態的であるがゆえに、常に主観の外に出て、「主観の内容=結果としての知」を確認する必要があるのです。その確認の過程こそ認識の過程としての「知ること」であり、両者(知の結果と過程)を区別するところに、共有しうる客観的な知(真理とは限らない)が確立しうると思うのです。(6/26付け)  なぜ誤解(知)が生ずるのか。これは誤解の過程(背景)を理解することから明らかになります。誤解の成立については、よく知られているように、F.ベーコンが4つの先入見(イドラ─種族、洞窟、広場、劇場のイドラ)を示しました。そして、その解決方法として帰納的実証的方法を提案しました。私はこれらのイドラに、西洋思考的イドラを追加したいと考えています。これは「はじめに言葉(ロゴス)ありき」というイドラで、ベーコン自体もこのイドラを超えることはできませんでした。もちろん科学的知識の限界がありましたから、カントもフッサールも言語問題でつまずき、この状態は現在も続いています。
 私は現象学的知のように「誤った知」(蛸壺知)と、そこから由来する社会病理の解釈(知─不条理人間起因説)を「断罪」していますが、指摘されているような「一般社会を断罪」していません。私は「心の病」の原因を、唯物論的な脳の器質的疾患に限定したり、存在の不条理性に矮小化するのではなく、社会環境的養育的背景を重視しています。過度の競争や規制から来る社会の緊張や不安、そのような社会の変化と動揺に対応できない宗教や思想・道徳の混乱、終末や不条理や刹那的快楽を煽る社会風潮など、社会的要因を重視し、批判しますが「一般社会を断罪」しているのではありません。そのような現状を見過ごし、すでに過去の遺産となっている「蛸壺」に入って、自己の存在の安住を図っている知的怠慢こそ断罪されるべきだと思っています。
   さて、「人間存在をめぐる不条理性(狂気、自閉症、高度資本主義、文学)」についてですが、これは心の琴線に触れる問題なので、あまり辛口の主張はしたくありません(もうしてしまったかも)。ただ不条理性とは、西洋的条理(論理)性 の限界から生じた概念であり、東洋的条理においては感性的世界(物心一如、無、空、道など)に解消されてしまうものです。西洋的実存哲学の不条理性は、サルトルの『嘔吐』におけるロカンタンの経験や、カミュの『異邦人』におけるムルソーの殺人において文学の題材になりました。しかし、私にとっては、彼らの主張は人間存在の本質を捉えるというよりは、西洋思想の限界を超えることができなかった知識人の挫折を示すものと理解しています。  彼らは「人間はいかに生きるべきか」「人生の意味とは何か」という問に対して、納得のいく解答を得ることができませんでした。彼らは西洋的伝統であるロゴスを超えて、実存(事象そのもの)から始めようとしましたが、ロゴスの本質である言語の生命的根源を理解できなかったがために、ロゴスを超えられず、挫折したのです。
 私は、生命存在を合理的に解明することは不可能であり、人間存在の不条理性を、合理的共感的(東洋的)に理解することが必要であると考えています。言語を獲得したために、生きていること(生命性)を自覚した人間は、人生が不条理であろうとも、生きるために自己の存在を世界の中に位置づけ、言語化(理論化・知識化)する必要があります。ただ、「自らを生命として自覚する」という「当為性」については、「自覚」の本質上、決して押しつけて自覚が成立するものではありません。何かの解答なったでしょうか。  掲示板としては長くなりました。お互いに辛口で端的な表現は、問題の本質をわかりやすく建設的創造的にします。さらに辛口の批判をお待ちしています。    
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(8)知はどこまで言語の支配を受けるか。           7/23 (土)  
 NMさん、さらに辛口のご意見をありがとうございます。私はインターネットを通じて、種々のHPに意見を求めてきましたが、今までほとんど無視されてきました。唯一の例外は、「単純教」のBunkouさんで、2年近く平行線の議論を続けています。意見が一致することはなくても、自己の問題が何であるかを自覚するにはとても有益です。NMさんのように、辛口で丁寧でねばり強い意見をいただけるのは、自分の理論を確認し、強化していくためにとても参考になります。
   私自身は生物学が好きで、言語を本質とする人間存在を生物学的に分析しようとしていますが、旧来の伝統哲学(観念論)から見ると「傲慢」に見えるかも知れません。常に的確な批判に耳を傾け、議論を継続することが必要と考えています。文章能力については、NMさんが指摘されるように、全く自信はありませんので、弟子入りするつもりで文体も磨いていきたいと思います。
   私のHPをご覧の通り、生物学と言語論、そしてマルクス批判の骨格はできあがったつもりですが、まだ「言語と思考」の関係、カントと現象学の批判、新しい契約と社会主義については未完成です。議論を深めさせていただければ幸いです。
   私は仏教徒であることを自認していますが、「釈尊は解脱に<執着>しているから自己理解が足りない」と批判したために、友人から「傲慢」であると叱られたことがあります。何でも疑い、何でも批判するのは私の性格のようです。縁あってこの掲示板に投稿しましたが、NMさんには「見放さないでおつきあい下さいと」言われて、かなり本音で投稿させてもらっています。私の傲慢さにしばらくおつきあい下さい。人間多少は高慢でないと思想家はつとまりません。今は「ゴーマン主義」の時代ですから、多分私の「ゴーマン」にもすぐに慣れられるだろうと思います。
   NMさんは、小浜逸郎さんのファンのようです。HPの評論はすべて読ませてもらいました。日本人的な感性をもとに、西洋的知性と論理を駆使した誠実で良識的な論調で、NMさんが賞賛されるのも宜なるかなと思います。是非見習いたいものです。ただ現象学や言語論については、すでに述べているように見解の相違があります。NMさんによると、その原因は私の「人間観」の欠陥にあるということのようですが、確かに私は独善的な見解を持っているとはいえ、それほど悪い人間ではありません。むしろ「お茶目でかわいい」部類の思想家です。指摘される批判は了解できますので、あまり深刻がらずに、さらに批判していただければありがたいです。
 そこで両者の主張で、相違点が生じている問題について整理をしてみます。我田引水の整理なのでNMさん側の修正・批判をお願いします。   @ 人間の知にとって、言語はどの程度必要条件とされるか。または、知はどこまで言語の支配を受けるか。
A 知は、認識の結果か、それとも認識過程を含むものか
B 言語は、認識にどのような影響を与えるか。
C 人間の認識は、何のために行うのか。「生きるため」「欲望を実現するため」「志向性のため」、それとも「認識自体のため」か。またこの問はどの程度有効性をもつか。
D 人間存在にとって、知の与える影響は何か。
E 客観(的な知)は、世界そのものか、人間の認識の結果に過ぎないか。
F 人間にとって、主観の外に出ることは原理的に不可能か。
G 人生の過剰さは何に由来するか。無限の欲望は制御可能か。
H 人間存在の実存は、「知」とどのような関係にあるのか。または、実存は人生目標(という知)を持つか。
I 主観(的認識)は、間環境と間主観のどちらによって立ち上がるか。
J 文学にとって、人間観のような知は、どのように関わっているか。または、文学的自己表出性に、目的はあるのか。
K 人間的欲望は、制御するべきか、または制御できるか。できるとすれば、どのようにして、どこまで制御できるか。  
以上、とりあえずたたき台ですので、ご批判下さい。またすべてを一度に議論できないので、少しずつ気になるところからできればいいと思います。
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(9)言語の謎の解明は西洋的限界のある現象学では不可能         8/06 (土)
 NMさん、レスをありがとうございます。言いたいことは尽きたということで安心しました。私は、文学的センスのないことは自認しているつもりです。NMさんのご指摘を機会に、小浜さんの著書を読ませてもらっています。私は言いたいことを端的に主張するタイプの人間なので、彼の著書はとても参考になります。彼は哲学者というよりも、思想家、随筆家、評論家というタイプの人でしょうか。さすがプロの文筆家らしく、その文体は人の心を引きつけるものです。  
 さて、NMさんとの議論のいきさつは、以下の通りです。当初、私は「言語論」でネットの検索をしていて、小浜さんの論文に到達し、私の問題意識とも重なるところがあったので、何かコメントをいただけるかなと気軽に投稿しました。その後レスを期待して掲示板を見ていますと、井上さんの「知の意義」についての問いかけがあり、「人間の知は、言葉によって成立している」と自説を述べてみました。そして、NMさんの好意的なレスがあったのです。そこで議論好きであると自称されているNMさんに乗せらて、私の主張が「傲慢」で「無神経」になってしまいました。これは、私としては結論を先に言っておこうという「サービス精神」から、現象学や間主観性の限界を指摘したものですが、十分な説明を抜きにしてしまったために、NMさんの心を傷つけてしまったようです。まずは、失礼のお詫びと、弁解をさせていただきます。
 私は対話好きで、相手と話を合わせることは得意な方であると思っています。しかし、NMさんが、私の挑戦的な主張に辟易されているようで、全く当惑しました。通常、対面的対話の相互理解においては、言葉の役割は低く、大半は表情や態度によると言われていますが、文字表現による掲示板の対話の限界をあらためて知りました。これは対話と言うよりは、一方的な自己表出に過ぎないのかなとも思います。ただ「知の意義」に関連して言えば、「知」は、単なる「指示表出」とも言えるので、文字表現の一字一句に感情的な反応をしない方がいいのではないでしょうか。
   NMさんと私の主張の違いは「人間存在の原理論」を、文学的実存的(現象学的)に捉えるか、それとも自然主義的心理学的(科学的)に捉えるかの違いだと思います。私は両者を、対立的に捉えたくはありません。両者の接点は、生の欲望を実現するものとしての言語にあり、言語の謎の解明は西洋的限界のある現象学では不可能である、と考えています。
 言語は、まずは自然主義的科学的に解明できるし、しなければなりません。そもそも自然主義的世界観(方法論)を抜きにして、生命論も身体論も欲望論も情緒論もジェンダー論も、従って人間とその実存の機微も、現代文学も論じられないのではないでしょうか。とりわけ、言語は、生命としての人間を特徴づけるものであることは、何人も反論の余地はないと思われます。私の言語論も一つの「知」にすぎません。人間の知は、究極において主観的です(この点について、NMさんとの一致があることは嬉しいことです)。知は、生命や人間の存在が有限であるように、数学的知識(フッサールの悩みの種でした)においてさえ有限です。人間は人間存在の有限性という前提において、共通理解を広げ、間主観性の限界を克服しなければならないのです。  
 そこで、NMさんの意見を聞きたいのですが、「知の意義」を科学的に解明することは可能でしょうか。私は可能であると考えています。現象学的方法では、科学的方法の限界を指摘しています。上述のように、私は両者の対立の接点に「言語」があると考えています。その対立の克服が「生きるための認識」「生きるための言語」「生きるための知識」という、NMさんにとっては理解しがたいかもしれない私の結論なのです。「それは全体主義だ」などと言わないで、率直なご批判をいただければ幸いです。  
    <以上で議論は途絶えました>
 
目次          人間存在論 本編
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