人間とは何か.もっとよく知ろう、自然、生命、人間、心理、言語
言語とは何か─思考と文法の起源 Home
  <人間の本質は言語である――生命言語説による思考と文法>
   「生命にとって言語とはなにか?」 あなたはこの疑問の意味を理解できますか?

Q.人間と他の高等動物(例:チンパンジー)との違いは何ですか。
A.人間は、二足歩行・手の自由による大脳の発達と発声の分節化(言語の獲得)によって、認識・
思考能力や情報処理・伝達学習機能が飛躍的に高まり、道具の製作や火の使用、社会組織と行
動規範、宗教・文化・芸術・娯楽等が複雑に発展しました。とりわけ人間の創造的機能は、言語的
認識と行動制御のはたらきによるものです。
 チンパンジーも高度な情報処理・伝達能力を持ちますが、直接知覚できる(直示的)対象に対し
てしか反応(情報処理と行動)を示しません。言語信号という第二信号系を持たないため、知覚を
遮れば情報処理ができない(関心を持てない)のです。それに対して人間は、言語信号(内言)の
みによって、情報を処理(思考)することができます。だから両者の決定的な違いは、言語の有無
であり、人間の本質は言語であると言うことができます。⇒人間存在研究所Q&A

 人間は、地上の生命の最高の生存形態だから、人間の本質である言語は、
 生命の生存様式の基本から解明しなければならないでしょう。
 生命の生存様式とは、与えられた環境に対する生命固有の刺激反応性です。
 生命は環境からの無限の刺激(情報)を認識し、固有の反応をします。
 それが、生命進化の頂点にある言語を用いた人間の認知・反応様式の根源なのです。
 今までの言語理論は、言語を単なるコミュニケーションの道具と考えていましたが、
 私たちの「生命言語理論」は、言語を意思伝達の手段としてだけでなく、
 思考や認識の手段として、また欲求や感情・行動の制御機能をもつものとしてとらえ、
 思考の法則性として「文法や論理の本質」(※↓)を明らかにしました。
 今や、「生命言語説」以外の言語理論は、すべて泡沫のごときものとなっています。

(※上の枠内の「言語刺激」によって、あなたはどのような「反応」を示されますか?It's the question.)

(※↑)「文法や論理の本質」とは、適応的に生きるために好奇心を満たす疑問の形式(what, how, which,
  why, when, etc)と対象の関係性(up, down, to, for, etc)を、言語的に表現したものです。

「そらみつやまとの国は・・・・言霊(コトダマ)のさきは(幸)う国と語り継ぎいひ継がひける。」 
                                            (万葉集五)

「私は想像しがちだが,もしも知識の道具としての言語の不完全がもっと徹底的に考量されたら,
世をあれほど騒がせた論争の多くは独りでになくなり,真知への道は,そしておそらくは平和へ
の道も,いまより大いに開けるだろう。」 
                            (ロック.J『人間知性論』大槻春彦訳)

「動物は感じ、また見る。人間はそのほかに考えるのであり、認識するのである。欲するということは
人間にも動物にも共通だ。動物は自分の感覚と気分を身振りや声で他に伝える。人間は自分の思想
を言葉によって他の人に伝える。しかしまた言葉によって隠しもするのである。言葉こそが人間の理性
の最初の産物であり、またその欠くべからざる道具でもある。そこでギリシア語では、「理性」と「言
葉」とが同じ「ロゴス」という言葉で言い表されている
のである。」
            (ショウペンハウエル、A.『意志と表象としての世界』斉藤信治訳)

ことばの創造的な力については、人間は常にそれを感じてきたし、詩人達もしばしばそれを歌って
きた。ことばは、空想的現実を作り出し、活力なきものに生命を与え、まだ起こらぬことを知らせ、すで
に消え去ったものを現代によみがえらせる。あれほど多くの神話が、世の始めに何ものかが無から生
じ得たことを説明するため、天地創造の原理として、この実体なくして至上の本質である言葉を据えた
のもこのためである。
 確かに、これ以上に高い能力はない。考えてみればわかるが、人間のすべての能力は、例外なくこ
こに発するのである。言語をまって始めて社会なるものが可能となる。個人が成り立つのもまた言語
によってである。子どもの自意識の目覚めは常にことばの学習と時を同じくし、これによって子どもは、
個人として少しずつ社会の中に入り込んでいくのである。」
       (バンヴェニスト,E.『一般言語学の諸問題』岸本通夫監訳 みすず書房)


言語の定義 : 言語は人間に固有の本質であって、単なる動物的情報伝達記号(音・光・動作
等)ではなく、外的反応や行動から独立して内的に情報処理可能な音声による記号(意味・情
報)操作・反応である

 言語の基本的機能は、世界を言語記号化することによって、話者の意図や情報を伝達することであ
るが、情報処理・文章構成のための思考や記憶の手段であり、聴者や話者自身の行動を方向づけ、
存在を合理化する手段でもある。
 言語は音声言語に限定される。手話や図形等の信号(シンボル)による情報伝達や知的操作は言語
に含めない。手話言語や図形言語、文字言語などの表現は可能である。人工言語という表現は、音声
を含む限り可能である(エスペラントのように)。また「チンパンジー用の言語システム」という表現はあり
えない。「コンピュータ言語」は人間言語とは次元の異なる概念である。

 
言語は、他の動物のような刺激反応性にもとづく単なる音声信号ではなく、主語・述語・目的語等によ
る論理を記号化した音声信号である。それによって、人類は、情報処理の面で創造的構想力の飛躍的
進歩を遂げた。




言語
主体の意図と対象の音声的表現機能)は,動物の社会的生存活動における認識論的必要(何が
どのようにあるか
)と意志伝達的必要(何をどのように表現するか)の両者の要請から進化的に形成され
た。人類進化の起点は,平地での直立歩行である。直立歩行によって人類は,自由な手,大脳の発達,
自由な発声の可能性を獲得した。
 また平地での食糧の獲得,安全の保持には,
より確実な世界の認識(認識論的必要)と社会的な
行動
(意志伝達的必要)が有利となる。世界を言語化し,空間的時間的広がりをもった知識を学習・
記憶し,社会的に結束することは,人類の生存に有利にはたらいた。
人類の進歩と繁栄にとって決定
的に重要な役割をはたした言語について知ることは、西洋思想の限界を超えて人類的視野に立った哲学
的認識論を確立するための条件となる。
 人間はどのようにして
多様な刺激の中から,特定の対象を知覚・認識・判断して行動しているか。人間
が行動する場合,何に関心をもち,何を目的としているのか,またその場合意識はどのような動きをしてい
るのか。そしてつまるところ,そのような問題意識が,
言語による疑問(何が WHAT,どのように HOW,
なぜ WHY あるのか)とその解明である言語表現
にどのような関係をもっているのか,というのがここ
での問題意識であり,
認識論全体の目的である。そのことを知るために,まず「欲求を充足するための認
識と行動」すなわち「意識的活動」の原理が明らかにされねばならない。そのために認識と行動の動因
(原因又は動機づけ)である欲求の分析が必要となるのである。
 人間的欲求とその充足において,言語は決定的な役割を担っており,また言語の解明が,古来
の認識論的存在論的
難問の解決に到る唯一の道なのである。

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          <言語原理はここ、言語論はここ、その要約はここを開ける 

              
言語と認識・思考について:認識論における心身問題の解決>           

 言 語 論(スキナーとチョムスキー)
第1節 スキナーの言語行動論
(1)言語行動と動機について (2)マンド (3)タクト (4)自動呼応
(5)自動呼応過程としての文法 (6)行動としての思考
第2節 チョムスキーによるスキナー批判
(1)ラディカル行動主義について (2)言語行動論について
第3節 チョムスキー批判
(1)文法について (2)言語論と文法
(3)ミニマリストプログラム批判 (4)辞書と演算体系


 <生きることは認知し行動することであり,種と共に生きることであり,そのために相互の意図を伝達しあうのである。人は言語によって自らの意図を伝達し,世界を構成し,自らの生き方を選択する。人が生きることは言語によって対象世界を認知し,生き方を方向づけ,選択判断しそれを表現・実行することである。それゆえ人間は、言語によって自らを意味づけ合理化する存在となる。

──なぜ言語の究明が必要か──

 古来人間は自己の存在がどのようなものであるか、またその存在の意味とは何かについて考えてきた。人間とは何か、人間は何故この世に生を受け、様々の煩悩を経験し、やがて死んでゆくのかと。そして、様々の解答を用意してきた。あるものは、因果関係を超えた超自然的精霊に身をゆだね、あるものは動植物の霊力に依拠し、あるものは現世を永遠の生命になるための仮の世界であると考え、あるものは絶対者としての神の被造物と考え、あるものは生命を輪廻転生するものと考え、またあるものは人生を所与のものとしてただ善く生きることに専念しようとした。

 しかし、科学的認識の方法論を持たなかった過去の人間は、自己の考え(宗教や思想)を万人が了解しうる理論まで高めることはできなかった。人間は自己の存在の不安定性(無常)のために、常に存在の意味を問い、その解答としての自己の思想(人生観世界観)に確実性を与えようとする。しかし、人間は中途半端で曖昧な解答に安住できない存在だから、せめて自己満足できそうな理論や思想に執着することによって安心しようとする。

 科学的思考における理論(法則)の仮説性は、自然科学などの客観的知識については了解しても、人生の意味など主観的知識については、客観的確実性や相互の了解を得るのは極めて困難である。そこに過去の宗教や思想の存続の理由もあるのであるが、今日の宗教や哲学・思想上の混迷は、過去の権威や伝統に依存し、科学的思考に耐えられない人々の認識の怠慢であるともいえる。それでは人間の相互了解の障害になっているのは何であろうか。それは人間の思考や認識そのものを成り立たせ、相互了解の手段でもある「言語」についての認識の混乱または無知にある。

 つまり、人間を特徴づけ、思考や意思伝達の手段である「言語」が、人間にとってどのようなものであるかは、未だ明確には了解されていないからである。人間の高度の判断や行動を方向づけるのは知識・思想(価値観・人生観)であるが、知識や思想を構成する要素は「言語」である。人間は言語を用いて「思考」し、その結果として知識を獲得する。思考は、生命の持つ根元的な欲求や感情・意志によって推進され、世界(対象)を言語記号化し、創造的に再構成して、その結果として「知識」を成立させる。「知識」は、感性を通じて経験的に獲得された言語(理性)的構成物である。

 多くの思想家が様々の思想を構想し新たな知識を獲得・創造してきたが、それらの知識そのものの意味や根拠を解明したとは言えなかった。「知識とは何か」に対する答は、「言語とは何か」に対する答なくしてあり得ない。しかし、西洋哲学は、ギリシア哲学の成立以来これらの問の解明に失敗してきた。それは認識(思考)の結果としての「言語(ロゴス)」や「知識」を「存在そのもの」と誤解してきたためである。

 このことは、アリストテレスの「そのものが何のゆえにそうあるかは、結局それのロゴスに帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は、究極においてはそれの原因であり原理であるからである。」(『形而上学』)や「はじめにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。ロゴスは神なりき。」という聖書の言葉に端的に表れている。

 ソシュールは、「言語記号が結ぶのは、ものと名前ではなくて、概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)である」(『一般言語学講義』)と述べることによって、言語を学問の「対象」にした.。しかし言語は「対象」の表現記号であり、思考や記憶の手段であり、人間の行動(反応)の一形態であることにまで関心を持たなかった。

 伝統的な西洋的思考においては、言語は対象を支配する理想型(ロゴス)であった。つまり、対象は命名(言語)に先立って「ロゴスとして」存在するように見え、命名の結果としての言語は対象そのものの現象形態であり「言語には実体性がある(言語と存在の一致)」というものであった。

  西洋思想におけるソシュールの意義は、伝統的言語観を覆し、命名(言語化)を通して、初めて対象が存在する(認識される)ということを認めたことにある。つまり「対象の存在」は、認識の結果(としての概念ないし所記・意味)であるということを「発見した」のである。彼はこのことを対象と言語の間の「差異の体系・関係論的説明」として提示した。

   このことをより哲学的に言えば、「言葉は対象に対する人間主体の興味関心(意味の発生)によって成立する」ということになる。対象は無限であるが、人間の興味関心の結果としての言語的存在は有限なのである。無限の対象と有限な言語(とその概念・意味)の差異や関係性を認識することこそ、言葉の意味を明確にし、人間の相互了解を深めることになる。例えば伝統的な「神・仏」についての非科学的教義も「価値」についての主観的解釈も、ソシュールの構造主義的(科学的)認識方法によって神秘性のベールをとりはらい、生命としての人間存在の意義を明示することを可能にするのである。そして残された我々の課題は、人間存在の構造主義的分析の上に立って、無限の世界に新たな人間存在の構造(生存様式)を創造していくことなのである。

<新しい言語論(生命言語説)はものの見方や生き方を変革します>
 言語は、西洋言語学におけるように対象化された言語記号の構造のみを扱う(ソシュール等)のではなく、生命の刺激反応過程を制御し構造化し創造する認識や思考、感情や行動の表出過程(生命言語説)として扱うべきものです。このような言語観・人間観は自己(私・生命)の主体性(自律性)を確立し、神仏の存在を必要とせず、人間相互の共通理解と連帯を促進し、諸個人の幸福と社会の平和に貢献します。人間は言語によって自らを支え、相互理解(又は相互不信)を深め、新しい自己と社会と文化(文明)を創造する動物なのです。

 ※ 時枝誠記の「言語過程説」は、言語主体の役割を基本に据え、伝達手段としての「言語資料ラング」を科学的対象にする(ソシュール)のみでなく、話者と聴者の伝達過程(表現と理解)を分析することによって、言語学の対象を言語の本質に近づけようとした。しかし、対象をどのように表現するか(認識論),また表現することは言語主体にとってどのような意味をもつのか(存在論)を考察することがなかったために、言語主体が言語を手段として情報処理をすること(認識・思考)の意味や、認識・思考過程と行動過程に及ぼす言語の知的・創造的意味(存在の意味づけ・合理化的役割)を見いだすことができなかった。
 時枝のソシュール批判は、西洋的人文科学の限界(認識論的限界)を的確に捉えている。彼らは人間的活動の結果としての「言語資料ラング」を、科学的対象とすることはできたが、人間にとっての言語(ランガージュ)の意味を科学の対象にすることができなかった。なぜなら、西洋的思考様式においては、自己(人間存在)を言語的に規定することによって自己の存在を確実なものとしてきたが、その言語を伝達手段以上のものとして相対化することは自己の存在の不安定化を招くことだからである。言語は伝達の手段であるが、伝達するべき内容を認識するとき、人間存在そのものを規定することにもなるのである。「何がwhatどのようにhowあり、どのようにするべきか。なぜwhyそうなのか」を認識・思考・構成するのは、無限の対象を言語記号化できる人間だけがもつ言語構成(思考・理性)の原点なのである。ソシュールの「言語差異論」の限界は、言語主体による認識・表現過程の積極的評価──それは西洋思想の批判につながる──から明らかとなる。つまり言語の特質は、認識の結果としての「差異」にあるのではなく、言語主体が世界を認識し生きていくための、音声記号による「区別・限定・表現」という創造的思考・表現過程なのである。(ここを参照)
 日本文化を担う時枝に、なぜソシュール批判が可能であったのか。それは日本文化論の課題でもある。
 また「言語論の革新」は、西洋思想の限界を克服することによって、人間存在を「構造から創造へ」また「創造的理性の生成へ」と誘うであろう。

 

付録
(1) 言語の原理

 言語(主体の意図と対象の音声的表現機能)は,動物の社会的生存活動における認識論的必要と意志伝達的必要の両者の要請から進化的に形成された。人類進化の起点は,平地での直立歩行である。直立歩行によって人類は,自由な手,大脳の発達,自由な発声の可能性を獲得した。(注1) また平地での食糧の獲得,安全の保持には,より確実な世界の認識(認識論的必要)と社会的な行動(意志伝達的必要)が有利となる。世界を言語化し,空間的時間的広がりをもった知識を学習・記憶し,社会的に結束することは,人類の生存に有利にはたらいた。人類の進歩と繁栄にとって決定的に重要な役割をはたした言語についての原理を以下にまとめる。

@ 言語は,内的外的刺激に対する動物個体の反応行動として,他の個体や同族集団への音声的な意志伝達機能(鳴き声,叫び声)を起源とする。そのため,言語表現は,客観的内容であってもその根底(深層)に,自己の生存欲求を充足させる主観的な意志や意図の表出・伝達を含んでいる。
A 言語主体は,まず自己の主体の欲求・興味・関心に従い,無限の多様性をもつ環境から,認識対象とその状態・運動・関係,およびそれらに対する自己の意志を区別・限定する。そして,言語は、区別・限定され,内面化(観念化)された対象(観念・表象・イメージ)と対象に対する意志を音声信号化(言語化,記号化,象徴化)することにより成立する。ここで注意すべきは,この音声信号は,感覚的対象(自然環境)を指示(意味)することがあっても,音声信号と結合しているのは終極的には知覚主体の観念と意志であるということである。言語の意味内容の客観性は,平均的日常的には成立しているようにみえるが,厳密にいうと言語の意味はすべて主観的経験にもとづいている(付録2概念図参照)。(注2)

B 言語は,主観的表象(観念)を,分節化された客観的な音声信号(音声刺激)と結合することによって,内外の刺激や行動(情動)から独立し,客観化する可能性を獲得した。さらに対象の言語化とそれに伴う音声信号の内的構成(内言――内的発話)によって,具体的感覚的対象だけでなく,自由で創造的な観念的知的世界を創出した。

  従って,言語は行動を操る主観的情緒的側面(行動主義的スキナー的側面)を出発点としながら,行動に支配されない事実や観念を表現する客観的知的側面(認知的チョムスキー的側面)を持つことになる。前者は,主体の価値判断を含む主観的自己表出的言語表現であり,後者は,科学的数学的知識などを代表とする客観的論理的言語表現である。両者は通常混合して用いられ,言語理論や認識論の混乱や対立の根源でもあった。

C 言語の機能は,基本的に対象の状態と主体の意図を音声化することにより,主体の意図や認識(判断,推理,想像)内容を記憶し,再構成(思考)してその思考内容(観念・思想・情報)を他者に伝達することである。しかし派生的には,再構成された内容を,主体自体(内面)に向けることによって主体独自の観念的知的世界(自我ないし世界観)を形成し,それにもとづいて自己の行動を方向づけることができる。理性的である人間を特徴づけるのは,言語による思考によって構成された個人的社会的世界(観念的環境――すべての思想的なもの・イデオロギー形態)の中への自己の知的行動的位置づけである。(注3)

D 言語は,意図の伝達と問題意識において情緒的価値的であり,その情緒性を動因として知的情報の記憶・再構成・問題解決を創造的に推進する(作話,観念的世界の形成)。そのため,言語に含まれる意味内容(価値・情報・知識)は,たとえ科学的数学的情報であっても,言語を使用する主体の主観的な認識と経験による影響を受ける。数学的知識としての観念的世界の構成物(2+3=5,三角形の内角の和は二直角,等々)は,具体的感覚的対象に関与せぬ限り絶対的な客観性をもつ(厳密には無限の数や定義上の三角形は,具体的には存在しない)が,主体の問題意識においては情緒的価値的である。

E 言語は,対象や意図の正確な認識と表現のために,常に音声(記号)とその音声の意味の確認作業(認知過程・問題意識)が要請される。そして,言語の表現内容(意味,観念,情報)は,社会的平均的な意味(定義的辞書的意味ないし客観的意味)と,それを獲得している主体の経験に限定された個人的主観的な意味(実現的,具体的意味)をもつ。一般的に,人間は自ら使用する言語の意味が,社会的平均的ないし普遍的なものであると誤解しがちである。しかし,人間の作った意味をもつ記号(それに類する貨幣やシンボル等を含む)は,本来個人にとって絶対的であっても(あると思っても)社会的には相対的で,その意味基準の曖昧性は避けられないのである(数学のような観念上の厳密に制限された対象を表す記号を除いて)。(注4)

F 言語(音声信号)の表現する内容(意味)は,人間が関心を持つすべての<対象>とその<状態>,さらに<主体の意図>である。<対象>は大きく客観的対象(物理的対象――自然物,人工物など知覚的対象)と主観的対象(心的対象――想像,観念,習慣,制度,法など)に分けられ,名詞として分類される。<状態>は,対象(名詞)の運動・性質・形状や時間的空間的関係であり,<主体の意図>は対象に対する主観的判断(快苦,好悪,善悪など)や命令・感嘆・疑問・要求・意志などで,動詞,形容詞,助動詞などで表現される。さらには対象(名詞)やその状態・意図を限定ないし関係づける助詞,副詞,形容詞,接続詞などの品詞の構成によって現象と主体の意図をより多様に表現する。また上述の<状態>の表現の上に,さらに音声の強弱,抑揚や表情などの主体の行動によっても微妙な表現がおこなわれる。

G 言語表現は、<対象>とその<状態>や<主体の意図>を,<主語>と<述語>を基本にして叙述するが,これを文(又は命題)という。<対象>とその<状態>や対象に対する<意図>は,人間(動物)の認知や関心にとって本来不離一体である。対象が「何であるか What」,そしてその状態が「どのようであるか How」,またどのように感じ反応行動するかは,高等動物の生存にとって「根本的疑問」であり,その一つの解答が人類の場合「文」という言語表現をとって完結するのである。
  言語表現は,このような生物学的生得的<認知・反応>様式に基づいて,<対象の状態><主体の意図>を,基本的に主語(名詞)と述語(動詞,形容詞)に区別して線的に表現する。そのため両者(主語・述語)は相互に不可分の文の成分である。(注5)

H 対象(名詞)の状態や意図は,主語と述語だけで表現できるほど単純ではない。カントが図式化したような空間的時間的関係や質・量への疑問,そして判断の多様な形式が存在する。つまり,対象(名詞)の状態の表現においては,対象の相互関係(主格,属格,与格,対格など)を,語順や屈折・助詞などで表すし,対象の質や量を表す形容詞や数量名詞がある。また対象の状態を表す動詞からみれば,他の名詞との相互関係(運動の目的や対象)を示すため,その動詞に固有の目的語ないし補語をとり,時制や態,疑問や否定を表現するために語尾変化をしたり助動詞をとったりする。さらに名詞や動詞の状態は,形容詞・副詞や助詞句・関係節(連体,連用節)によって修飾・限定され,より詳細に表現することが可能になる。これらの文構成上の規則は,文法と呼ばれる。

I 言語表現は,人類に共通の生物学的生得的な言語能力をもとに,表現主体の興味関心に従って発達した。その言語能力を基本にして特定の民族的文化状況において,特定の意味をもつ多様な語彙や統語規則(文法)が出現したのである。つまり言語表現(文)は,多様な自然とその中での人間の生活状況に応じて多様性をもつのが当然なのである。そこで,我々が言語を研究することは,多様な文化状況を知り共通理解を深めるとともに,人間の普遍性や人類共存の可能性について知ることにもなるのである。

(注1)言語の誕生の条件は,直立2足歩行,声帯の発達,多様な音素の組合せによる分節的発声,刺激を内面化する中枢的認識能力の発達等があげられる。そして,これらの生物学的<認知・反応様式>の機能が総合的に働いて,言語の獲得が可能になった。
   フンボルトは,「言語音声」の要請が直立を促したようなものであると比喩的に考える。このような言語の理解は,彼の言語理論の特徴をよく示しているが,正しくはない。言語は思考を通じて「世界を人間に結びつけている」(邦訳『言語と精神』p87)だけでなく,人間を世界(自然)から分離させる「病的機能」ももっている。フンボルトのように肯定的な言語理解は,理想として追求されねばならないが,人間言語が持つ否定的側面(自然的世界からの遊離)の指摘も人間理解にとっては必要である。

(注2)動物の音声的な伝達は,環境に対する主体の欲求や行動の直接的な表現(反応)である。それに対し人間の音声言語の特徴は,環境に対する主体の欲求や情緒・行動から独立して,自由な音声表現が可能なことである。人間は,食事(摂食行動)をしながら人生について語る(発話行為)ことができる。また音声化(言語化)は,有限の音素(アルファベット,五十音など)の組合せによりなされ,意味を持つ音声言語としての単語(語彙)がまず創造される。そして単語の規則的なつながり(ソシュールのシンタグム syntagm 連辞)により文が成立する。この見解は,言語学者のチョムスキーの見解と異なっている。チョムスキーも,音素の連鎖を文と考えるが,単語(品詞・語類)の創成過程を省略し,単語を文生成の要素としてのみ取り扱う(「文法の構造」1957)。彼は言語における「創造性」を強調するが,創造性や無限性は文の構成においてばかりでなく,まず単語(とくに自立語)の創成において示されなければならない。言語の構成規則(文法)の理解には,句構造の基本となる諸単語(品詞:名詞・動詞・形容詞・助詞等)の機能と相互関係の解明が不可欠である。 さらに,言語の主観性について述べたフンボルトの見解,「個人において,言語ははじめて窮極の規定性を得る」(上記邦訳p102)は,正しいものの,社会的言語に対する個人の「自由の原理」は,「説明のつかない現象」ということはありえない。世界は無限であり,諸個人の経験すなわち諸個人における言語の意味は有限であるということ,それ故に社会的言語は平均的意味(法則性)を個人に強制(言語の支配力)している。言語の絶対的基準は,一定の公理の上に成立する数学的知識を除いて存在しないから,平均的意味に抵抗して,各人が自己の経験的(相対的)意味を主張する自由は原理的に説明が可能である。

(注3)音声信号は,外的な刺激反応(外言)として他者(聴者)の認識を触発し行動を方向づけるだけでなく,主体に観念的に内在することにより,内的な刺激反応(内言)として自らの行動を方向づける(自律的行動)。つまり,自己の感情を抑え,行動を変えようとするとき,自己自身に命令する(内言)ことによって,自己を統制する。自我ないし世界観は,自己を統制し,行動を合理化(正当化)する背景や判断基準となっている。このような内的世界(とりわけ宗教や哲学的世界観――マルクス流に言えばイデオロギー形態)がどのようにして形成されてきたか,またどのような意味があるのかは今後検討されるべき最大の哲学的倫理的課題である。

(注4)つまり,言語は,それを使用し(表現し),また理解する諸個人にとってのみ存在している。従って,言語の意味は,(1)社会的平均的な意味と,(2)個人的意図的に実現される意味の2種の意味が存在すると考えられる。通常,言語は話者ー聴者に共通する社会的平均的な意味を表現しているとされるが,究極的には個人的な意味で表現されているのである。
   換言すると,言語記号は社会的客観的に示されるが,その意味は個人的主観的に実現されるのである。この点が理解されると,ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム理論」における「言語規則の無根拠性」(「哲学探究」邦訳 1976)やクワインの分析した言語の「不明瞭性」(「ことばと対象」邦訳 1984)の理解が容易になる。謎めいてみえる言語の曖昧性(両義性)は言語の自然なのである。この曖昧性を最小限にとどめ,人類とその文化の相互理解を深めようというのがこの論文のねらいの一つなのである。
   また言語の個人的と社会的意味の混乱は,ことばは単なる名称なのか,それとも神(ヨハネによる福音書)なのか,そして唯名論と実念論,経験論と合理論の対立にみられるような「概念」や「観念」などの用語の多義性(ヘーゲルを一方の極とする)にみられる西洋哲学における存在論ないし認識論の最大の課題であった。言語論においても「語用論」と「発話行為論」の分離にみられる混乱を生じている。この点は後に詳しく論ぜられるであろう。

(注5)主語は独立して述語と関係するものか,それとも述語の補足成分かという議論がある。しかし文を中心的に構成する成分である主語と述語は,本来不離一体のもので,相互依存の関係にあるから,主語は述語の補足成分ではありえない。文は話者が興味関心をもつ対象の状態・運動や主体の意図を表現するものであり,対象と状態・運動又は主体と意図は本来――というのは対象を区別し概念化する手段である言語をもたないとき又は直観的認識の場合――それらは一体のものとして認識されていたのである。
   例えば「歩いている人」を認知するとき,われわれはその状態をどのように知覚するであろうか。また「飛ぶ鳥」を想像するとき,まず「心的な映像」(表象ともいう)として一体のものを想起しないであろうか。「人が歩く」や「鳥が飛ぶ」「水が欲しい」などでわかるように,述語としての「歩く」「飛ぶ」「欲しい」に,主語として区別された「人」「鳥」「私」が補足的にあるのではなくて,一体のものとして捉えることによってこそ文によって表現しようとする内容,すなわちその文の意味が正しく伝達され理解されるのである。
   この点で「山田文法」において,主語と述語の結合としての文を,「統覚作用」による「観念関係の結合」というのは不十分である。統覚作用による文の成立は「観念関係の分析・区別と結合」と言わねばならない。
   なお日本語のように相互了解の前提と認識の曖昧性がある場合,主語の省略が多くみられる。しかしこれは主語(主体)を前提した上での省略であり,主語の重要性を否定したものではない。


(2) 文法の原理

@ 言語表現は,無限の現象とそれに対する主体の多様な意図や判断・推理を,有限な音声記号によって表現し伝達しようとするため,おのずと限界がある。その表現上の限界を広げより正確に伝達するために,それぞれの言語共同体に言語表現上の規則すなわち「文法」が形成された。(注1)

A 言語表現は,単独で意味をもつ単語の存在を前提にする。単語(語,語彙)は,主体の意図,そして客観的主観的対象とその状態を表現する音声記号である。単語には自立語と付属語がある。自立語は名詞,動詞,形容詞などがあり,それ自体で独立の意味をもつ。付属語は助詞,助動詞があり,自立語に付属して自立語の意味を限定ないし賦活をする。言語表現としての文は,それらの単語を組み合わせて,より正確に対象と意図を表現するための規則(文法)によって成立している。

B 言語表現は,まず一語文と構成文に分けることができる。
  一語文(一語発話)は,それが表現される背景や状況(そしてそれらのイメージ)がなくては,表現の正確な意味を聞き手に伝えることはできない。この場合の一語文は,構成文の省略形ではなく,発話の抑揚や身振り,表情によって言語の意味を伝える通常の言語表現であり,主に会話の中で使用される。会話の中では,背景や状況を話し手と聞き手が共有しているため,一語文で平叙文,命令文,感嘆文などの表現による相互理解が十分可能なのである(例:雨。雨?雨!走れ!何?暑い?はい。いいえ。など会話状況を想像されたい)。
  構成文(文法文)は,主語(名詞又は対象)の状態や意図を説明する述語(動詞,形容詞)や目的語・補語の構成を基本単位(基本構造)とし,さらにそれらの語句の意味や役割を明確にするための活用や格変化,助詞(前置詞),助動詞をともなって構成される。そしてそれらの語句を説明する修飾語や句,節によって語句のイメージ(意味内容)をより詳しく説明することができる。
(例:その注意深い学生は,教授が強調した話の中のすべての言葉を書き留めた。
The cautious student wrote down every phrase in the professor's
(修飾句) (主語) (述語) (目的語)     (修飾句)

speech that he stressed.――誰が,何を,どのようにしたか。)
    (修飾節)

(付言)一語文と構成文の中間に,文法要素が不完全で,語彙を連ねただけの語彙言語を追加することができる。これはビッカートンの「原型言語」(Bickerton,D. 1990)に類似し,幼児の2語文や3語文,またピジン(移住者の現地語)やおそらく化石人類にもみられたのではないかと考えられる。(幼児の言葉には,語順の一貫性や助詞を欠くもの――オウマ リンゴ タベタ――がみられる。)

C また言語表現を,会話状況と説明状況に分けることができる。
  会話状況では,話し手と聞き手相互の抑揚や身振り・表情,さらに発言の背景や状況によって言語の意味が正しく理解される。つまり話し手と聞き手が,言語の背景を共有し,疑問と説明がその場で行われることによって,両者の相互理解が円滑におこなわれるのである。上記の「原型言語」を想定すれば会話状況に限定されるであろうし,幼児の言語の獲得は,会話状況の中でのみ行われる。
  説明状況(説明文)では,一方的な言語表現のため,より具体的に詳しく,しかも正確に表現しないと,聞き手に誤解されるおそれがある。誤解や曖昧さを避けるために,表現すべき内容の綿密な検討,すなわち発話(作文)での文法的正確さや「疑問」「問題意識」の的確さが要求される。このような状況になれば,文構成上の思考や文法規則の発達が行われるであろう。

D 諸言語の品詞分類(語類)は,名詞的なものと動詞的なもの以外は普遍性を持たないと言われている。しかし多くの言語では感嘆詞,接続詞,名詞,代名詞,動詞,形容詞,副詞,助動詞,助詞(前置詞・後置詞)等が分類される。感嘆詞は主体の意図や反応を単独で直接的に表し,接続詞は発言を接続する。名詞・代名詞は,対象を指示する。動詞・形容詞・副詞等は,対象の客観的主観的状態(動作・存在・性質)を表現し限定する。助詞や助動詞は,それぞれ名詞や動詞等に付属して意味を限定ないし賦活する。
  また言語によっては,名詞・代名詞・形容詞は,他の名詞や動詞との関係を限定するために格変化をしたり(屈折語),性・数を表示したりする。動詞や助動詞が法や時制・態の変化を示し,動詞・助動詞・形容詞が活用によって意味や修飾を変えたりする場合がある。品詞間の関係(連結・語順)は,諸言語によって多様であり,それぞれの言語の文法を構成する。一般的にその言語を使用する個人や共同体の興味関心及び伝統・文化の違いによって,言語の表現様式は多様である。(注2)

E 文法は,一語文では正確に説明できない内容を,語の組み合わせによってより正確に表現し説明するために成立したものである。つまり文法は,表現すべき対象である名詞を主語とし,主語の状態・運動や意図を動詞を中心とした述語や,動詞で限定される目的語・補語,句や節で表現し,それらの意味や内容を,よりわかりやすく説明するための語の構成規則である。
  日常的な会話では,厳密な文法に従わなくても話者と聴者の共通の状況(文脈・背景)や抑揚・表情・身振りによって,ある程度の意志の伝達は可能であり自立語中心の原型言語で十分である。しかし説明文では話者と聴者の間に直接の経験を共有しないため,曖昧さを最低限に抑える厳密な文法の適用が必要となる。

F 文法は,対象の状態や運動,対象と対象との関係,そして表現主体の意図をどのように的確に表現し伝えるか,という単語構成(文生成)上の規則である。従って,表現する内容はできるだけ「疑問」や「曖昧さ」の余地のないように,話し手によって整理し限定して構成されねばならない。ということは,話し手が伝えようとし,聞き手が知りたいと考える対象や意図に対する表現上の「疑問」を,話し手が前もって,または,表現を組み立てながら内的に解明しておかねばならないということである。文法成立には,何が(what)どのようであり(how)何を選択するか(what,which)を正確に表現しようとする生物学的な認識論的欲求(「根本疑問」の解明とその言語的表現)が根底にある。(注3)

G そのような「疑問」は,外的刺激に対する,より的確な認識・区別と判断・推理を行い,反応・行動しようとする生物学的起源を持つ(外的刺激は,より適応的な反応が学習されれば慣習的な行動となるが,何らかの困難が伴う場合に中枢過程における疑問解明――思考・洞察・試行錯誤――が行われる)。これらは英語では「5W1H」の疑問詞で表現される。これらの疑問詞は,それぞれ認識論的な解明が必要であるが,ここでは文法上の説明にとどめておく。
  まず何が(what,who),どのように(how,where,when)ある(存在)かが問われる。「何が」で指示対象(主語)が明確にされる。「どのように」というのは,対象の知覚的想像的状態(運動,存在,性質等)の説明であり,それは,述語動詞によって対象(主語)の状態や運動また他の対象(目的語)との関係,さらに空間(where)と時間(when)へ位置づけされ,文全体として対象の運動や状態(存在)が示される。さらに,対象に対する主体の興味や関心・態度が,何を(what),どのように(how)またどちらを(which)という主体の選択的判断として,より明示的に表現される。
  次いで,より高次の「疑問」として,その対象が,なぜ(why)そこにあるのか(存在理由)ということが問われる。これはより高度な因果関係の洞察が求められ,空間・時間の観念とも関連し,極めて哲学的な疑問である。そして,文はそれらの疑問に対する解答として表現されるのである。(注4)

H話者による文の表現と聴者による文の理解とは表裏一体である。話者は「何が,どのようにあるか」あるいは「何を,どのように伝えるか」という問題意識(無意識的な場合も多い)をもって聴者に理解されるように表現する。それに対し聴者は,話者の表現意図を「何がどのようであるか」あるいは「何を伝えようとしているか」という問題意識によって意識的にあるいは無意識的に情報操作し,記憶を思い起こして理解しようとする。文法とは,共同体内の情報伝達のための言語表現と理解を円滑にするための約束であり,その約束は表現と理解のための生得的な問題意識(上述Gのような)を前提としている。それは特定の共同体における特殊性と同時に人類共通の生物学的な普遍性をもっている。

(注1)音声信号は,何らかの対象を抽象(象徴)化したものであり,その対象は無限の多様性をもつから,その内容(意味)を信号(音声)だけですべて伝えることは困難である。例えば人名は,具体的な対象を指示するが,「ゴータマ=シッダールタ」がどのような人物であるかは詳しい説明を要する。また花の名称である「アサガオ」「バラ」も,幾つかの品種があり,その姿や色は多様であって「アサガオ」「バラ」だけでその内容をすべて伝えることはできない。そこで,その多様さを言語によって表現し説明するのである。
   しかし,それだけで説明できないときは図で示したり写真をみせたり,そして最後には実物を見せなければならない。「ゴータマ=シッダールタ」のように実物を示すことができなければ,多様な解釈が生ずることになる。

(注2)品詞の分類は,言語学では議論の多いものである。英語や日本語は品詞分類が比較的容易である。しかしサピーア(「言語」邦訳1921 )によれば,形容詞や副詞・疑問代名詞などは名詞や動詞で代用できるとのことであり,またブルームフィールド(「言語」1962)によれば中国語の品詞は,実語(full words)と小詞(particles―是・的など)の2種であるとのことである。しかしサピーアのいう名詞や動詞が形容詞的に使用された語こそ形容詞(句)であり,これは品詞の定義の問題であって彼の分類は厳密過ぎると言える。またブルームフィールドの分類は,実際の中国語をみればほとんどの品詞はそろっており正しくない。

(注3)w・h疑問文と平叙文の文法上の関係は,w・h疑問文が深層にあって,それに答える形で平叙文があるのであって,逆ではない。チョムスキーは,答え(表現結果)としての理想的な平叙文から普遍文法を求めようとし,さらにそのために疑問文または関係代名詞をその手段として使った(whの島の制約や移動のように――これは日本語にはあてはまらない)。しかし普遍文法があるとすれば,それは何(誰)をどのように表現するかを決める主体の欲求・興味・関心と疑問の形式から検討するべきである。
   人は,初めての語ないし文を生成・表現するとき,意識的か無意識的かにかかわらず,必ず表現への問題意識(疑問)を持つ。その疑問の内容とは,主語となる対象(名詞)が何(誰)であるか(what,who)ということと,述部となる対象の状態(運動,存在,性質)がどのようであるか(how)ということである(どのようであるかは,動詞にあってはどのように運動し何をどうするかも含まれる。「彼女は菓子を作った」のように)。
   疑問(問題意識)は,生物学的な背景を持つ。つまり環境に対する動物の行動は,新奇な環境に対する疑問・探索と,それに対する主体の評価と社会的行動の選択(すなわち認識・判断)に依存しているということである。欲求の分類では,好奇心や自己表現の欲求,さらに社会的結合の欲求があり,これらが言語活動を推進していると考えられる。

(注4)例えば,"私は,昨日彼女と公園へ行った。I went to the park with her yesterday"という文では,「私」とは誰(who)であり,「昨日」とは何時(when)であり,「彼女」とは誰(whom)であり,どのような(how)「公園」であるか,またどのように(how)して「行った」かが,明確にされねばならない。更に,なぜ(why)二人が公園に行ったのかも疑問の対象になるだろう。文は,それらの疑問を解明し表現するものである。人間は,世界(あらゆる興味関心の対象)を言語化し,それらを空間時間の中に位置づけ,それらに対する主体の評価・判断・推理・意図などを表現するが,それが文とされるのである。

       <文法の原理「言語表現限定構造としての文法試論」ここを開ける> 目次参照

   <日本語の曖昧性・深義性と主語の省略、助辞の多様性について>→→→ここ
       
日本語に主語は必要である。「主語」廃止論は、科学的認識の劣化を招く。

   <文法上の主語=subjectにおける西洋的かつ日本的誤解>→→→ここ
          付論:「は」と「が」の違いについて

   <日本語と朝鮮語と文化→→→ここ

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