言語論(スキナーとチョムスキー)     home

第1節 スキナーの言語行動論

   スキナーは,『Verbal Behavior』(1957)を刊行して以後,言語論をさらに追求することはなかった。後年の『About Behaviorism』(1974)においても,言語行動論の追加説明を行っていない。スキナーの行動主義的言語論は,彼以後の心理学や言語学において新たな潮流となる「認知」理論に,有効な反論を加えることはできなかった。それらを考察の対象にするには体系的に完成しており,時代は行動のレベルから神経生理学のレベルへ進もうとしていたのである。

 スキナーが言語を考察するのは,行動主義の立場から「刺激する者」と「反応する者」,すなわち「話者」と「聴者」の間の会話状況が前提となる。そして両者の言語行動を統制するのは,社会的環境としての聴衆である(『Verbal Behavior』1957 P52――以下ページ数のみ示す)。彼は基本的に,脳内の中枢神経で起こる過程――認知・疑問・判断・思考・想像・創造――には関心がない。関心があるとしても,「皮膚の内側の世界」(Skinner 1974)として切り捨て,言語表現のすべてを,発声に関係する筋肉組織の反応と,その結果に随伴する強化と学習の記憶(レパートリィ repertoire―言語目録)に解消してしまう。ここではそのような「認知と反応の過程」を排除する行動主義自体の欠陥を批判しながら,言語を刺激反応性として位置づける「言語の行動統制的・価値的側面」を評価して,両者を統一しようとする《認知・行動》論的立場(注;生命言語説》のこと)から彼の言語論を考察してみよう。

 すでに本論第2章刺激反応性で,彼の行動理論を批判した。その要点は,刺激反応性や強化・学習理論のみで,人間の受ける刺激や反応の複雑性や多様性を理解するのは困難ということであった。とりわけ環境(刺激)を統制因(統制変数)として,環境に対する行動強化の「結果」で,行動の「原因や目的」を決定づけようとする方法には限界があり(例えば,誉められること<刺激としての環境要因>だけで正しい言語行動の学習<結果としての行動強化>が成立するのではない),人間の心理や行動の全体性(中枢神経に統合されている)を把握するには不十分である。強化の原因には,言葉の学習に対するやその他の学習推進要因も原因として含まれる。 刺激反応性は,生命活動の基本であるが,高等動物では刺激反応過程の中間における大脳中枢過程の機能が重視されねばならない。とりわけ行動から独立しておこる認知過程としての「疑問と解決の様式」(欲求,認知,判断など),すなわち論理的統合過程(何が,どのようにあるか)は,人間における言語の考察に欠かせない(動物主体にとって,問題状況の解明は,個体維持欲求の基本である)。

 スキナーの行動主義における強化・学習理論は,強化における中枢過程の役割(判断・思考)を無視して,行動の動因に欲求制限(deprivation)や嫌悪刺激(aversive stimulation)という判断基準を使っている。そのため行動強化は,外的刺激(正ないし負の強化子)によって,随伴的(非主体的)に成立するという主張となり,主体の生得的かつ積極的な行動選択や言語獲得の役割を軽視することにつながっている。

 ここではスキナーの言語論を,価値と論理の二つの観点から批判的に説明してみたい。価値とは行動をコントロールする言語信号が,その人の感情や行動に直接影響を及ぼすことである。また論理とは「何が,どうあるか」という,対象に対する主体の認知と行動を,言語的に統合する文法構成の側面である。ここではスキナーのように,言語行動を刺激反応性のみで解釈することの長所と欠点についてと,文法におけるスキナー的言語構成規則を(チョムスキーの批判を念頭に置きながら)考察してみよう。

(1)言語行動と動機について

 スキナーの言語行動論は,「最近の(動物における実験的)研究は,その方法が重大な変更なしに人間行動に拡大しうることを示した。」(p3)という見解のように,動物実験の成果を言語研究に応用することを前提とする。『言語行動論』では,まず観念(ideas)や意味(meanings)を中心とした従来の言語理解を批判する。スキナーにとっての言語の研究は,科学的方法にもとづき厳密に「観察と推測を区別」して行われなければならない。すなわち言語の使用は,刺激反応性にもとづく観察可能な行動であり,強化の三項随伴性(a three-term contingency of reinforcement,三項とは刺激−反応−強化のこと)によって,その学習と獲得が行われる。そして言語の研究は,言語行動を予言し統制しようとすることを目的とし,行動主義言語論を展開するのに障害となる行動の内的(中枢過程に含まれる)「動機」や「情動」については制限を加える。この点は重要なので彼の説明を引用してみよう。

 「話者の言語行動の完全な説明をしようとすれば,動機と情動の分野におけるその他の変数[嫌悪刺激以外のもの]を検討することになる。しかし,その過程は、ここでは言語行動に関係するのはあるとしても極めてまれである。」
             (p33―[ ]内は引用者,以下同じ)

 彼は,子どもが「キャンディ」という言葉を学習して使用する場合を例示している。子どもはキャンディへの欲求を生じたとき,それを求めて「キャンディ」と反応(発話)する。その後キャンディを取り上げたり(罰),与える(賞)ということによって,子どもの言語反応を調節・統制することができる――と考える。

 しかし子どもは,キャンディへの欲求がなくても,「キャンディ」という言葉を使いうる。例えば,キャンディを描いたカードを見て「キャンディ」と言うし,「キャンディ」という言葉を使って「その家は,キャンディで作られている」と言うこともできる。つまり,「その家は,キャンディで作られている」は,「キャンディの家」が「何であるか」「どのようにあるか」に対する内的な疑問への答えの表現であり,外的な問いかけもありうるが,自らが自問して表現することも可能なのである。

 というのは,興味・関心の対象を言語で操作し構成すること自体が,人間の言語行動の中に,内的欲求(疑問とその解答としての表現欲求)として存在しているのである。換言すれば,対象に対する疑問(好奇欲求)は,そのまま言語によって表現されることによって,欲求充足として完結するのである。ここに言語行動における「動機と情動」の決定的重要性がある。

 スキナーにおける内的過程の欠如は,言語行動の分析に大きな障害となっている。それは言語を通じた疑問・表現欲求の過程や思考・判断過程を,環境(刺激)決定論に従わせ人間の主体的創造的判断や表現の欲求を過小評価ないし排除するのに役立っている。これは彼の言語行動の分類のすべてに当てはまる。ここでは彼が分類した言語行動のうち,マンド(mand),タクト(tact),自動呼応(autoclitic),についてみてみよう。

(2)マンド

 マンドは,"Wait"(刺激)と言えば「待ち」(反応),"Candy"と言えば「キャンディを獲得し」,"Out"と言えば「ドアが開かれる」ような言語行動を言う。これらはオペラント条件づけによって強化学習され,言語目録(repertoire)として記憶されている。マンドは通常の文法では,命令法として聴者の判断や行動を支配したり,要求,哀願,取消,依頼などを含んでおり,これらに関係する単語,command,demand,countermand を簡略化してマンド(mand)としたものである。マンドの定義は「その反応が,特定の結果によって強化され,それ故に欲求制限(deprivation)又は嫌悪刺激(aversive stimulation)と関連した[環境刺激]条件の関数統制のもとにある言語オペラント」(p35)とされる。
 具体例として"Bread,please.(パンを下さい)"が図示されている(p38―簡略化して示す―以下同じ)。

話者 「パンをください」   「ありがとう」
      ↓↓   ↑    ↓↓ 
聴者        パンを渡す 「どういたしまして」

 この表示は,ごく日常みられる話者と聴者の関係であるが,スキナーの解説には重大な問題点が潜んでいる。話者の「パンをください」が,「結果として」話者の空腹(欲求)による反応であることは,スキナーの指摘するとおりである。しかし,なぜパンなのか,ケーキや果物ではだめなのか,誰にそれらを求めるべきなのか,などの「判断」は捨象されている。また聴者にとって,誰に言っているのか,自分に対してか,どんなパンか,どこにあるのか,否,パンなど渡す必要はない――などの反応も可能であるのに,そのような思考過程は存在しない。一口にマンド(この場合要求文)と言っても,言語行動としての刺激反応性は,結果としてはこの表に示されるように単純になっているが,実際には様々の表現の可能性がある。言語行動の研究や分析には,表示された結果だけでなく,その表現(反応)の結果が言語的にどのような認知や判断の過程を経ているのかが問題にされなければならない。

 次に疑問文"What is your name?"をみてみよう(p39)。

  話者  「君の名前は何か?」    「ありがとう」
             ↓↓     ↑↑
  聴者          「レスター」

 スキナーによれば話者の質問は,応答する聴者のための言語刺激となる。それは聴者が反応する不断の傾向を持っているか,又は質問に含まれる脅し,あるいは話者が前もって感情的に答えやすいようにしている状況(ないし文脈)のためである。そして「レスター」という返事があり,話者はその返事を弁別し,「ありがとう」によって完結する。これらの過程は3〜4秒で終わる。

 しかしこの過程も,話者の質問の動機は何か――なぜ,名前を聞くのかという理由――,また答える内容をフルネームにするのか,"My name is〜"とすべきかどうか,答えたお礼をどのようにすべきかなど,単なる刺激反応性によって起こる単純な言語行動ではない。短時間の中に認知・疑問・判断などの過程が,神経中枢の過程で働いているのである。

 ただ,始めて見た「ヘビ」という(状況が限定された)対象を,「あれは何ですか」と直接に尋ねるのに対して,「ヘビ」と答えるように,選択の余地のない単純で反射的な刺激反応性の場合もある。しかしそれは人間的な選択や判断を経験し学習した後の場合の反応である。人間的な言語行動の言語行動たる理由は,複雑多様な条件をもつ課題の解決(言語的思考・再構成の過程)であって,その過程を経た後の刺激反応的な無意識的反応は,言語を特徴づけるものではない(「ヘビ」は言語表現であるが,反射的発話という言語「行動」そのものである)。

 またマンドという用語によってこれらの会話状況を分類することが有益なわけでもない。むしろ聴者の存在を前提とした会話状況における意図伝達的言語表現は,その時々の主観的判断(どのように反応して答えるべきか)を必要とするので,「価値的言語表現」とすべきではないだろうか。

 前者の例で,水を求める場合でも,様々の求め方がある。スキナーがあげている例では,"May I have some water?""Would you getting me a drink?"など,どの場合にどの反応をするかは高度な思考判断を必要とするのである。どのような反応も,単に「様々の欲求制限の統制の下にある(come under the control of different deprivation)」(p41)では済まされない。

 つまり反応が統制されるのに,欲求制限は1つの判断材料にすぎない。水を求める場合でも,制限の状況などによって冷たい水,熱い水(湯),水の量,水の容器など様々である。また求め方も,その場の状況,求める相手によって様々であり,その反応は多様である。
 またスキナーは,マンドにおける文法や統語の困難性について述べている。(p44)しかし,単純な意図の伝達である命令法が,マンドに分類されることは分かりやすいが,なぜ疑問や仮定法もマンドの部類に入れるのか。とくに疑問や仮定は,単なる刺激反応性にはなじまない。なぜなら「何であるか?」「どのようにあるか?」などの疑問の形式は,刺激反応性を一旦停止(ないし延滞)した内的過程を必要とするからである。また仮定法も「もし〜ならば〜である」という高度な選択・判断の思考過程を含んでいる。スキナーが話者と聴者の状況を配慮してこれらをマンドに分類するのは理解はできるが,言語の本質を追求するには障害になっている。

 彼はエピクテトスの言葉を引いて説明する。「友人に手紙を書くべきとき,文法は書き方を教えてくれる。しかし手紙を書くべきかどうか,文法は教えてくれない。」(p44)これは,「手紙を書くべきかどうか」という刺激に対する反応であり,行動主義的ないし価値的な関心を重視するが,文法には関心を持たないことを示している。チョムスキーも批判する(第2節)ように言語の豊かさや創造性は文法的な起源を持つ。言語理解の困難性は,いかにスキナー的な「価値・行動」とチョムスキー的な「認知・論理―文法」の両者を統一的に理解するかということである。

 スキナーは,彼自身の説明原理を,ニュートンの原理のように「科学の体系的単純さ」(p45)を有していると自己評価しているが,この単純さこそ行動主義の実験室的単純さに他ならず,生命存在や人間理解の浅薄さを表している。しかし彼は文学者を志し,人間観察にはすぐれたものをもっていた。そこで単純な理論に合致しない分は,多くの例外的追加説明を必要とすることになる。それがこの章の最後の「拡大されたマンド(The extended mand)」(p46)や,第3部「複合的変数(Multiple Variable)」において説明されるのである。

 マンドでは,話者の刺激(発話)を受け,それを強化する聴者の存在が重視されたが,「拡大されたマンド」に含まれる非合理的局面(irrational aspects)では必ずしも聴者の存在は必要ない。例えば,自動車に向かって「止まれ!」と言うことや,孤独な病人が水を求めて一人部屋の中で「みず〜」とあえぐ場合などの反応は,相手が自動車のように人間でないか,誰もそこにいないので道理にあわぬ(unreasonable)ことであると述べている。しかし『言語行動論』では,この言語行動を説明するために,なぜ聴者の存在が必要ないかという理由は述べられない。(p47)

 また「拡大されたマンド」に「迷信的(supersttious)マンド」を区分し次のような例をあげている。サイコロを振るとき,誰に言うのでもなく出てほしい数を「3出よ!」と言ったり,風に向かって「風よ,もっと吹け」と言う場合,その言語行動と結果の関係は無いにもかかわらず(通常サイコロも風も人間の意図には従わない)そのように言う。このことの説明についてもスキナーは,「気まぐれかまじめか」分からないままに,「偶然的な結果」,そして「反応の形式を厳格に具体化」しないままに,「非合理的マンド」として一括してしまう。これは次の「魔術的(magical)マンド」(願望,呪い,許可,推量など)についても同じである。実はこれらの表現は,心理学的な欲求動因論からすると,言語的な自己表現ないし願望表現欲求として簡単に説明がつくのである。つまり,"Let there be light""Happy birth day""Bad luck to you""You may go"など,「話者の願望や感情」を言語化したものに他ならないのである。

 また,文学上とりわけ叙情詩におけるマンドの説明として,「詩人の欲求制限(the poet's deprivation)」をあげているのも,上記と同じように説明ができる。つまりスキナーによれば,詩人は読者や読者の注目を引き社会参加をするためにマンドとしての詩を書く。しかし,このことは,欲求制限という用語の原因となる「内的欲求」を考慮することなくして合理的に説明することはできない。すなわち自己の社会的表現欲求を実現するために詩を書くのである。これはスキナーの意図に反して,詩人の内的過程の探究の必要性を示しているのである。

 さらに述べれば,"deprivation"という用語は,外的に統制可能な要素を相対化する必要から作られたもので,主体的には"frustration(欲求不満)"という「動機・情動」に関わる用語と同じである。従って,この場合は直接には欲求の剥奪であるから"frustration"がふさわしい。さらに"deprivation"の意味は,「欲求不満の状態を作ること」つまり「欲求制限ないし欲求剥奪」が正しいのである。

 このようにスキナーは,行動主義の原理に合致しない例外に気づいて,様々の説明を加えているが,それがこの書の量を多くし分かりにくいものにしているのであろう。

(3)タクト
 まずスキナーがあげるタクトの例をみてみよう(p81)。子どもは目の前の人形に対し,"ドール(doll)"と言うことによって,同じような他の人形に対しても"ドール"という「般性強化(generalized reーinforcement)」を成立させる。つまり,人形と思える対象を,音声の"ドール"と結合させるのである。タクトという用語は,「自然的世界とコンタクト(contact)をとる」という行動からヒントを得ている。

 タクトの定義は,「ある一定の形式の反応(例えばドール)が,特定の対象ないしそれらの特性によって引き起こされる言語オペラントである」(p81ー82)。そしてタクトのオペラント反応の強さは,対象に対する一定の形式の反応が,どれほど言語共同体にふさわしく強化されるか,ということを示すことによって説明される。これを関数関係で示すと,ある刺激(独立変数としての対象やその特性)があると,ある反応形式(従属変数としての言語表現)が起こる可能性が生じるということになる。

 マンドとタクトの違いをみると分かりやすい(p83)。マンドでは,最初の(欲求を制限し不安をもたらすような)状況をマンドの刺激(「水が欲しい」)によって断つこと,つまり反応の統制に関係する欲求制限と嫌悪刺激を解消することによって,最も効果的な結果(欲求充足)が獲得される。しかしながらタクトでは,欲求制限や嫌悪刺激との関係は弱められ,弁別刺激(対象やその特性)への固有の関係(対象の言語化――例えば"ドール")を設定する。つまり多様な強化要因を有する一つの刺激に,できるだけ持続的にその反応(「それはドールです」のように"refer to""mention""name""denote"する)を(共同体ないし聴衆が)強化することによって,タクトを形成するのである。

 大まかに言えば,マンドは,外的環境にかかわらず話者の意図(願望・命令・疑問などの刺激)について,聴者が何かを推量して反応する。タクトは話者の意図の実現より環境(外的対象―弁別刺激)について,聴者に固有の関係を推測(説明)させる。例えば,人形が欲しいときにはマンドの"ドール!"を感情を込めて発声し,人形を表現するときにはタクトの"ドール"が感情を抑えて発声される。またミルクが欲しいときにはマンドの「ミルク!」が発せられ,ミルクを説明するときにはタクトの「ミルク」が使われる。  スキナーは,子どもが「赤い」というタクトを学ぶときの構造を表示している(p84)。

 赤い対象物は話者(子ども)と聴者(聴衆)にとっての刺激である。ここで聴者はその話者に対して,例えば「それは何色?」というマンドを自発していることが想定される。すると話者は,「赤い」と反応し,

 話者(子ども)
 (対象と聴衆を弁別して)「赤い」(と反応し)(正しい!と強化される)
[赤い対象物]
       ↓↓     ↑  聴者(大人)    (「赤い」と刺激されて)「正しい!」

聴者によって「正しい!」という強化を受ける。このように言葉の学習は,「教育的強化」を通じたタクトによる。
 タクトによって,話者は直接接触していない聴者に対し,自己の意図を伝えることができ,聴者はタクトによって環境との接触を拡大することによる利益を得る。また,対象(環境)を正しく分類(把握)することによって,適切な認識や行動が可能となる。
 さて以上のタクトの説明は,何ら問題が無いように思われる。しかし,この説明に誤りはないかもしれないが,「言語とは何か」ということを探究しようとすると,単純過ぎて言語の本質的な理解を逆に妨げていることが明らかとなる。
 まず第一の問題点は,マンドとタクトの区別についてである。第3章第1節で概説しているような我々の観点からマンドとタクトについて説明すると,マンドは主観的情緒的側面に重点を置いた分類であり,タクトは客観的知的側面を重視して分類したものである。本来2つの側面は多かれ少なかれすべての言語表現に含まれるものである(例えば「水が欲しい」や「ミルク!」というマンドにも客観的側面はあるし,「血の色は赤い」や「君に電話だ」というタクトにも,また「2+3=5です」という内言語行動(intraverbal behavior)でさえ主観的側面はある)。マンドは,主として欲求制限や嫌悪刺激を動因として表現されるものであり,タクトは,主として対象やその特性を弁別し,聴者や聴衆の要請(賞賛や承認)によって表現しようとするものであった。
 しかし,マンドの表現における認知・反応の過程は,単なる刺激反応性によるものではなく,主体の価値判断基準(欲求)にもとづく判断・思考過程が含まれている。またタクトは,客観的な言語表現であり,対象(刺激)の弁別性が重視されているが,弁別の動因は欲求自体であり刺激反応性や強化では説明しきれない。つまり,行動主義(刺激反応性と強化)にもとづくマンドとタクトの区別の言語論的正当性は存在しないのである。
 また一つの言語表現における主観性と客観性の区別は量的なものであって,質的に区別し分類する必要はない。その区別は第3章の言語論で述べているように,一つの言語表現に含まれる二つの側面として理解すべきなのである。例えば"ミルク!"と"ミルク"をその反応の状況を考慮して,マンドとタクトに区別することは可能である。前者は「ミルクが欲しい」という主観的表現であり,後者は「これはミルクです」という客観的表現である。しかし,このような区別は,言語論的には問題の本質(言語の内的過程)を見えにくくするだけである。
 第二の問題として,タクトにおいて重視されている「弁別刺激(discriminative stimulus)」(p83)という用語が言語行動の本質を見えにくくしている。第2章第2節で批判したようにスキナーの行動主義は,刺激と反応の中間における認知過程を排除して,主体の思考・判断を考慮しない。この欠陥が言語論に顕著にあらわれている。すなわち,外的な環境刺激は,弁別の対象ではあるが,その弁別を推進するのは内的欲求と深く関わっている。例えば,マンドにおいては,水や食物,他の人間などに対する欲求であり,タクトにおいては対象の言語記号化と言語的好奇心(知的欲求)が根源にある。スキナーにおいては,弁別は聴者や聴衆による強化という外的な要因によるとされるが,第2章第3節欲求や第3章言語論で述べているように,個体維持を支える一つの柱である好奇欲求(何が,どのようにあるか)という内的な動因にもとづいている。チョムスキーもそうであるが,スキナーにおいても動因論が不十分である。
 動物は,生存を維持するために外界を認知し,欲求が充足されるように反応・行動する。それと同じように人間は,外界を言語的に認知し,言語的世界(知識,思想)をつくり言語的に反応することができるのである。
 第三の問題点は,チョムスキー的観点,すなわち文法論の欠如である。スキナーにおいては,正確な対象の把握・表現として,タクトの説明に文法的・論理的観点が必要と思われるが,これは別に自動呼応として説明している。そこで次にチョムスキーの文法論との関連で「自動呼応(autoclitic)」を検討してみよう。

(4)自動呼応
 スキナーは,刺激反応的に解釈できるマンド,タクト,反響(echoic),読文(textual),内言語(intraverbal)の言語行動に加えて,これらで説明できない論理的すなわち統語・文法的部分を,最終的な説明は困難としながらも,「自動呼応」で説明しようとする。これらの説明は,作家としての志を持っていたスキナーの言語表現への観察の深さがあらわれている。これらの分析解釈は,どのような環境や人間関係の状況で,人間が自動的にどのような反応表現をするかというもので,表現法の研究としても一読の価値がある。しかし言語における論理とは何であるかということについては,行動主義の限界から出ることはできない。
 まず自動呼応の意味は,cliticが付属語・臨接語と訳されるように,本来はenclitic(例 cannot,I'llの not,ll)や proclitic(例 of course,to run のof,to)として使用される。スキナーは,一つの語に自動的に付接されるという意味でautoclitic という用語を作ったのである。つまり,語と語の関係(統語や文法)を説明するための概念である。これらの語の区別や結合(叙述)の関係(秩序)の一部についてスキナーは言う。
「言語反応の間の秩序[統語]は,言語間の相対的強さ,内言語的結合(intraverbal linkages)そして話者の生育環境や歴史と符合する秩序から生じている。」          (p312)
 そしてこれらをまず3つの自動呼応に分類する。これらは,どのような人間関係の状況で,どのような反応・表現が行われるかの分類であり,言語表現法の研究としても一読の価値がある。すなわち,
(1)叙述的自動呼応(Descriptive autoclitic)
(2)限定的自動呼応(Qualifying autoclitic)
(3)数量的自動呼応(Quantifing autoclitic)である。

(1)叙述的自動呼応は,マンドやタクト,内言語の場合にも出現する。マンドは I demand や I ask you などで,タクトは I tell you ,I declare(a state of war)などで,I remember はタクトや内言語で用いられる。マンド・タクト・内言語それぞれの情報(刺激,表現)を,話者が叙述(表現)するときに,自動的(慣用的)に自発する使用法である。
 次に別のグループとして,I guess,I estimate,I believe ,I think ,I knowのように,不十分な情報(刺激)を叙述する場合がある。さらに I agree,I confess など,話者自身と聴者との関係において生起するその時々の欲求,情緒,期待,意図,誇張,強制,同意,丁寧,微妙な言い回しなどを表現し伝達する。
(2)限定的自動呼応は,聴者の行動(反応)の強度又は方向が,修飾・限定されることによって,話者のタクトを限定する自動呼応である。具体的には,否定や断言(主張)の表現に使用される。
 否定では,一般的には否定を使用せざるを得ない言葉(表現・刺激)によって否定文が生成される。例えば,"Is it raining?"という疑問(刺激)に対し,雨が降っていなければ,"No,it is not raining"と答える。このNoは,雨が降っていない「状態」に対して発話されるのではなく,it is not raining の表現に呼応して反応として起こるのである。また始めは禁止や否定のマンドとしてのNoでも,例えば"Red"に対して"No"という表現が,後にNo―redやnot―redのように自動呼応の反応になるのである。
 断言(assertion)の自動呼応は,聴者に反応を強めさせるような微妙な表現を用いるマンドとも言える。例えば,"I think it's Joe"と"It IS Joe"と"Yes ,it is Joe"では下線部が自動呼応であるが,比べるとその違いがよく分かる。また,自動呼応はタクトに付属して,"It's a kind of chair "や "He is like a lion "における a kind of やlike,as のような特定的に限定できない曖昧ないし包括的な表現にも用いられる。
 否定も断言もいずれも話者の状況に応じた微妙な判断・意図・感情などを表現し,伝達しようとするものであって,本来は論理的な意味はない。
(3)数量的自動呼応とは,all,some,no,a,the などの形容詞,冠詞で,他の自動呼応と同様,何らかの言語行動(発話・表現)が無ければ起こらない。何らかの言語表現は,その場(環境)で話者の判断によって付加されるのが自動呼応の特徴である。従って"some butter"などの成句は自動呼応ではない。
 スキナーは,行動主義言語学の立場から,後にチョムスキーが批判した論理学における解釈(Chomsky 1957)を批判している。つまり,"all swans are white"において,論理学では all は swans を修飾すると考える。しかし,行動主義における「科学的説明」では,all は"swans are white"すなわち white swans のすべてを制約(修飾)していると考える。なぜなら,all という自動呼応は,red や black の swan を前提せずに,この表現を用いる人物の個人的歴史(経験)の中(彼の見た swans はすべてwhite で, black swans の存在を前提していない)で言語行動(反応)として形成されたものだからである。つまり,スキナーの行動主義言語学は,まず論理よりさきに刺激反応性として言語行動があると考え,後から論理学的分析があると考えるのである。
「論理学は,自動呼応が適用されている当初の言語行動[刺激反応性]を通常は無視して,自動呼応の相互関係[文法・統語]に関心を示す。論理学は[視覚的対象としての]swans に注意を払わずに,文[としての論理]に注意を払う。・・・・・叙述は本質的なものではない。」                   (p329―[ ]内は引用者)
 以上のスキナーの指摘は,言語論の統合において重要な示唆を与えている。すなわち,大脳中枢の認知・思考・統語過程が,スキナー的行動主義の中に含まれておらず,論理成立の前提となる対象確認(対象の認知や状態の判断)の明確化の過程(叙述の過程)――高等動物に存在すると考えられる――が捨象されているということをスキナー自身が認めているということである。彼は叙述を本質的なものと考えていないが,この点が主張の分かれる点なのである。そこでチョムスキーの認知過程を重視した言語の叙述的論理的性格と,スキナーの言語の刺激反応的・伝達的性格を統一するために,スキナーの文法論をみてみよう。

(5)自動呼応過程としての文法
 スキナーの造語である「自動呼応」言語行動には,その名称に本質的な意味が含まれている。すなわち,スキナーにとって言語行動は刺激に対する反応であり,語と語の結合もまた,刺激反応的に決定される。しかも,統語や文法は,一つの言語共同体では「自動的」に決定されている(ようにみえる)から,自動的言語行動過程に「思考や判断の過程」は含まれないと考えるのである。
 しかしこの解釈は一面的であることを免れない。すなわち,我々の言語表現は,言語共同体によって主語や述語・目的語などの順序は決定されており,その意味では刺激反応的に強化・学習されて自動化されているように「みえる」のである。ところが大脳中枢における認知過程を詳しく分析すれば,対象がどのように存在するか,また,それをどのように言語表現するかは「自動的」に反応するものではない。 例えば,言語以前の高等動物の反応として,サルは仲間のサルの表情(刺激としての喜怒哀楽や敵・身方)を識別し反応する場合,まずその対象が仲間のサルかどうかを判別し,その後表情について判断する。そしてさらにどのような反応をするかが選択・判断され決定される(通産省電子技術総合研究所などの研究, 1999.8.26 朝日新聞)。その過程は1秒の何分の1かで終了する場合もあるが,情報処理が困難な場合(対象が曖昧で判断がつきにくい場合など)判断思考過程が延長し,判断困難な場合にはパニックに陥ることがある。
 これを言語表現の場合に当てはめると,まず「何であるか」という対象の確定(名詞すなわち主語)が必要であり,次にそれが「どのような状態にあるか」(動詞・形容詞・副詞すなわち述語ないし修飾語)が必要になる。その意味では,言語表現による統語の過程を「自動呼応」と表現することは,決定的な誤りである。動物にとって何が,どのようにあり,それによってどのように反応するかということは,生命維持にとって本質的な問題でありその過程は言語表現においても基礎になっている。言語表現が行動から発生していることは確かであるが,それは単に言語共同体における刺激・反応・強化では説明できない。動物行動の基本的過程としての《判断・思考》の過程と,判断・思考を推進する「疑問解明」「好奇心」という「欲求充足過程」を抜きに考えられないのである。  以上のことを前提にして,スキナーの『言語行動論』における文法・統語の問題を考えてみよう。彼によれば,伝統的文法は「思考過程」という用語で文法を理由づけするという不幸な結果をもたらした。彼は文法と論理学を,自発(発話)した言語行動の多くの例から分析して行動主義的(?)説明を加えている。
 まず言語行動としての自動呼応反応を制約する原則は,スキナー自身も明確ではない。例えば,前置詞,接続詞,冠詞や屈折形は,習慣的なものとしてタクトのように理解できるが,自動呼応機能も伴っている(p331)。また言語行動を操作的に理解すると,「言語反応の分類と秩序化」という操作――すなわち文法や統語も自動呼応とされる。
 例えば「関係的自動呼応(relational autoclitic)」の例として数・性・格の一致がある。これはThe boy runs. の runs が,三人称単数として,刺激となる the boy を統制(秩序化)する反応である。またこの The boy runs. という表現は,スキナーによればthe object described as the boy possesses the property of running (p333)のようになる。つまりthe boy の属性としての running という表現反応が The boy runs.なのであり,述語 runs は主語 the boy に自動的に呼応しているのである。
 しかし,スキナーの解釈では the boy が running 状態の主体であることの認知(区別・判断)過程が欠如している。The boy という対象を,名詞ないし主語(何が)として判断し,その対象が running 状態なのか walking 状態なのかを判断(どのようにあるか)して叙述表現することの自覚がないのである。つまり,the boy として示される対象(主語)が走っている状態を所有するのではなく,走っていると表現(判断)する主体が,走っている状態に注目して,認知・判断することによって表現したのである。結果としての叙述(反応) The boy runs. は,その文を叙述(反応)する主体の問題意識(関心・欲求)なしに存在し得ないのである。

[命題の叙述(文の構成)について]
 文の構成すなわち主語・述語・目的語・修飾語(句・節)の順序について,英語では極めて複雑な刺激反応状況の統制下にあると考えられる。例えば,The boy runs a store.(少年が店を経営する)は,経営する少年と,経営される店という2つの対象があるが,この順序を変えて,The store runs a boy とすることはできない。スキナーによるとその理由は,単に強化による刺激反応性を成立させないからである。(p334)(日本語では「店を少年が経営する」のように名詞の格を助詞が示すので順序を変えることが可能である。)

 文の構成(表現)において,表現主体が,何をどのように表現するか,語をどのように構成するかは決定的に重要である。とりわけまず何を主語とするか,また何が主語となるか――これは主体の興味関心(問題意識)に完全に委ねられている(スキナーでは環境または聴衆の刺激による)。この主体の興味関心がスキナーだけでなくチョムスキーにおいても(そして西洋思想家の多くにとって)欠如している。つまり,何を(what)刺激として認知し,その刺激をどのように(how)判断するかという主体の受けとめ過程,すなわち「認知と判断の過程」が軽視されているのである。そしてその過程は,スキナーの述べるような自動呼応によるのではなく,認識の根源である《WHATとHOW》を基本にした自然的対象の区別(where,whenや対象の質や量,そして対象と対象の関係性)をどのようにするかの解明が,すなわち言語表現の法則の解明(さらに認識論の解明)につながるのである。

 このことをさらにスキナーの句構造の例から説明してみよう。スキナーにおいては,the red book ,the book on the table という表現は,言語共同体によって習慣的に環境刺激に対する反応として強化・学習されたものである。「赤い本」や「テーブルの上の本」という環境があるから,その環境状況を刺激として共同体によって習慣的に形成された反応なのである。つまり,本や赤,テーブルをどう認知するか,という過程が欠如しているのである。本の存在,赤色,テーブルだけが主体の目の前にあるのではない。電灯や本棚・椅子などの中から,本や赤色・テーブルが意識され,興味関心が持たれてはじめて「反応」が可能になるのである。

   従って,スキナーが述べるように,the whole expression the book on the table or the red book may function as a unit ではなく,the, book, on, table, は,個々それぞれに,何がどのようにあるかという反応が大脳中で起こり,統合されているのである。(近年の大脳生理学の認知研究では,対象が何であり,どのような状態であるかという判断区別は,脳細胞の連携において,1秒の十数分の1の単位で行われているといわれている。)つまりスキナーの
   "We do not need to analyze grammatical or syntactical  process in accounting for such behaivior .(そのような「言語的]行動を説明するのに,文法的又は統語的過程を分析する必要はない。)"(p336)

という主張は全く根拠を欠いているのである。

 また命題(文)と句構造(名詞,動詞,助詞を含む)の区別は極めて重要であるが,スキナーはこれを単に習慣的行動に解消してしまう。The horse neighs(馬がいななく)は,the neigh horses(いななく馬)と表現できるが,スキナーはこの区別を「究極には無意味である」と断定し(p337),動詞と名詞の区別も習慣的反応として,単に荷札(tag)を付けるような反応とみている。

 この区別の重要性は,両者の表現(反応)で,何が問題(関心)となっているかを知ることで解明される。すなわち,文においては何が(名詞―主語)どのようにあるか(動詞―述語)という疑問の解答(好奇欲求の充足)があるが,句構造においては,the neigh horses が「どうあるのか」,という疑問が解消していない。runs the store も on the store も the book on the table も表現主体にとっては「何が,どうあるか」に答えていない。

 それだけでなく,ある対象をより正確に表現するには,(スキナーも指摘しているとおり)主語としての名詞と述語としての動詞を,人称や時制に応じて変化させねばならない。その対象が主語・述語として確定されたのち始めて状態を表現(形容)する動詞が,形容詞(分詞)としてその対象名詞を修飾することも可能になるわけである(まず「花が咲いている」があって「咲いている花」がある)。動物にとっての環境(対象―名詞)は,常に変化を免れないが,しかし主体(の意識)にとっては,常に疑問の少ない安定的な(欲求充足の)状態にあらねばならないのである。

 しかるにスキナーの説明は,物や状況への反応(表現)が「自動呼応」や「内言語反応」によって,名詞+動詞,名詞+形容詞,語形変化,前置詞句という単語の結合となり,文法や統語が成立すると考える。これは,主語と述語さらに修飾語を結合する過程を結果として述べるだけであって,単語結合そのものの根拠や法則性を解明するものとはなっていない。重要なのは,法則的な単語結合が起こる人間言語の根源的な構造である。

 課題を先取りして述べれば,チョムスキーはそのような構造を統率・束縛理論(government-binding theory)という普遍文法に求めたのであるが,これとて理論の根拠を説明してはいない。人間の認知構造の根底にある知的欲求すなわち疑問や問題意識の構造の分析が欠如しているからである。なぜ統語構造が,人類に共通の文法として法則的な共通の過程を有しているのか,スキナーもチョムスキーもその根源についての考察を欠いているのである。

 [文法的構造の恣意性又は多様性について]
 スキナーは,ある現象を表現するのに様々の表現方法があることをとらえて,文法構造を恣意的であると考える。例えば「言語反応が強化されるには,まずその反応が引き出されねばならない」を表現するのに,同じ意味の反応が以下のようにいくつかあることを例示する。

@ Before a verbal responce can be reinforced,the responce must be elicited.
A To be reinforced a responce must first be elicited.
B Elicit responce ,then reinforce.
C No elicit,no reinforce.
                etc.  (p338-339)
 @は通常の文法に従い正確に表現されているが,A以下は省略が進んでいる。そしてBCは,@の文脈がなければ正確に理解することはできない。しかし省略は進んでいても表現の意図は同じである。従って,文法は自動呼応活動であり,相対的に恣意的であると考える。なぜスキナーが多様な表現のうちでも省略的な表現を,文法としては恣意的であるとするのかといえば,主語,述語,目的語という文法的形式を整えていないにもかかわらず(環境的状況―文脈によって)表現の意味は伝えることが可能だからである。意味が伝われば,刺激反応性は伝わるので,文法としても成立していると考えるのである。

 さらに刺激反応性と強化という概念では,統語構造を説明することができないからでもある。説明できないけれど意味を伝えることはできる。だからこそ彼にとっては自動呼応反応――すなわち説明できないが自動的に強化され学習された反応なのである。  しかしこのように同様の現象を,異なる表現ですべて的確に示すことができるのか。表現の多様性は,環境(現象)の多様性とその環境に対する主体の興味関心が恣意的であることに起源を持っている。例えばBは,ブロークンな( brokn )形式であるが,これは@の状況を前提として意図的に省略された表現である。それにもかかわらず,何が,どのようにあるか(what,how)は,respons=a verbal respons が elicit(引き出)されれば,reinforcement(強化)が可能であることが理解できるのである。つまり,一度表現対象に対する興味関心の方向性が,表現の文脈の中で定着すると,特定の言語における慣用句として,また言語文化として確立するのである。

 [構成とその効果]

 スキナーによれば,自動呼応行動の究極的説明は,「聴者(話者自身も含むが)に与える効果」にかかっている。だから,聴者の感情的想像的行動の多くは,文法や統語とほとんど関係ない。不快な言葉は,その位置や文法に関わりなく効果をもつ。(p344)

 しかし,言葉の使用される状況はそれほど単純ではない。具体例として「トラを見た」という表現は,人の感情を揺さぶるが,その程度は状況による。市街地でこの表現を聞けば,奇妙な表現として変人扱いされかねないが,ジャングルで聞けば真実味があり恐怖心は増大する。何が,どのようにあるか,――近づいてくるのか,どんなトラか,子牛のようなトラか,など――対象を確定し,状況を把握すること,対象の存在する場所や時間,状況,そしてそれを表現する主体の価値観――これらのことは言語論でも述べたように,すべて「文法や統語」に関係があるのである。

 文がどのように構成されるかをスキナーは,The man is hungry の例で説明する。もし man と hungry の言語刺激を聞き,その状況が反響反応を求めれば,man hungry と言うより, The man is hungry と自動呼応反応すると言う。なぜなら,人は「完全な文で強化され,ブロ−クン な表現で罰せられる」(p346)からである。また,散文などを思い起こすとき,断片的な言葉より,誤っていても文として完全なものを自発するからである。言語共同体は,相互理解を図るため,そのように教育する傾向を持つものなのである。そしてスキナーは,「状況によって引き起こされる反応は,自動呼応的に処理されるまでは,本質的に非文法的である」(p346)と結論づける。

 しかし,実際には「状況によって引き起こされる反応」は,本質的に文法的である。それは,スキナーが上記の例で,man と hungry という言葉を聞いて,What did he say ? という疑問を発したことで説明される。スキナーは自覚してはいないが,高等動物(下等動物についても同じであるが)は,基本的に自己に関係ありそうな刺激に対して,常に本質的に What と How という根本疑問を持つのである。それは個体維持を図るために,対象を明確にし,自己の適応的行動を判断決定しなければならないからである。

 その「根本疑問の解決」すなわち《認知・反応》様式が,本質的に文法的なのである。つまり,上記の例でいえば,「何(誰)が,どのようであるのか」の答えが The man is hungry なのである。この根本疑問は,第3章言語論で述べたように,Where や When さらに対象の質や量,そして相互関係への疑問へと広がり,これらの総体が文法と統語を構造化しているのである。

 スキナーにとっての自動呼応は,分類や順序付け――つまり文法や統語を含むが,それらは言語共同体の習慣や学習として説明される。しかし,どのような原理によって分類や順序付けができるのか,つまり文法の根源については,チョムスキー同様闇の中にある。スキナーが Sam rent boat と引用して,何気なく(無意識的に),当然のように指摘する言葉「予期される疑問(the anticipated query)――What boat?――」の中に解答があるにもかかわらず,彼自身には自覚されていないのである。

[自動呼応過程としての複文]
 次に自動呼応としての複文について例文を引用して検討してみよう。
 When you hear the bell,then you will receive a shock.(p361)

 これは一種の条件文であるが,when 節と then 節との関係は,刺激(bell)に対して,その刺激(shock)を受ける(反応)という刺激反応関係にある。スキナーはこれを自動呼応と考えるが,それぞれの節は「誰がどうなる」と「誰がどうなる」という関係であって,「自動的」のように見えても,「原因と結果」という論理的な関係があり,自動的ではないのである。

 複文は,それぞれの文中に主語・述語の叙述があり,その上に他の文との因果を考えるのである。接続詞や副詞(日本語では接続助詞も)はそのような役割をになっている。そしてさらに,この複文自体が言語刺激になって聴者の反応を導くと言う解釈をする。彼は文法や統語を問題とするのでなく,言語行動の含む意味(伝達内容)のみを問題としている。

(6)行動としての思考
 スキナーは『言語行動論』の最後で思考(thinking)について述べる。「言語行動の説明は,思考の解明によって初めて完全になる。」(p433)しかし,彼にとっても思考の領域は「難しい領域」であり,「今日の分析は,行動主義だけでなくあらゆる心理学理論において完全とは言い難い」(skinner 1975 邦訳 p119)と述べている。我々にとっても,思考をどのように考えるかは,認識論上の重要課題であり,西洋思想批判の前提として後編において詳述することになる。しかしスキナーの思考行動論批判においては,我々の考察の立場をまず明確にしておかなければならない。

 第2章でも述べたように,思考の根源は,生命としての個体と種族の維持を目的として,複雑な環境の中に自らの安全と繁栄を見いだす生存のための内的過程として位置づけられる。行動は外的な反応過程であるが,思考は大脳を中枢とする神経系の中に構造化されている。従って,思考は言語を持つ人間に顕著であるが,他の動物においても環境に対する適応的な認知や判断の過程として認められねばならない。その上で言語を持つ人間は,自然環境だけでなく,人間的言語的環境をも情報化することができるようになり,より高度な思考(論理的創造的思考)が可能になったのである。

 以上のことを前提にして,現在の心理学上の常識に従い(心理学事典 1975 平凡社)4項目にわけて略述する。
1)指向性:思考は,生命維持のための欲求充足を目的とする。思考の完結は行動をもたらし安定と充足につながる。
2)問題性:思考は,欲求充足のために環境(無限の刺激)をどのように認知・判断し,どのように行動するのかという問題を解決する。
3)延滞性:刺激の的確な認知・判断には,行動を一時延滞(行動しながらでも可能であるが)し,大脳中枢過程における情報処理時間を要する。
4)論理性:環境への的確な反応は,対象の的確な認知と再構成が必要であり,言語は何がどのようにあるのかを論理的に明らかにするのに中心的な役割を果たす。              (p306 新田倫義)

 [言語行動論における思考]
 さてこれに対してスキナーは,思考をどのように捉えているのであろうか。結論から言うと,彼は徹底的行動主義の原則に従い「人間の思考とは,単純に,人間の行動である Man thinking is simply Man Behaving」(p452)と結論づける。彼によれば,思考とは言語の働きであり,言語の働きはすべて行動である。そのような思考行動はどのようにして行われるか。彼は,「自分が聴者である話者(the speaker as his own listner)」(すなわち自分自身に話しかけること)と「潜在的言語行動(covert verbal behavior)」であることをその根拠にする。つまり,心的過程を重視する伝統的な「思考」の捉え方は,「潜在的言語行動」で説明できるが,「自分自身を聴者とする発話」は,潜在的,顕在的を問わず「思考」という名の「言語行動」と考える。

 初期の行動主義者(J.B.ワトソン)は,思考を「音声下で進行しているあらゆる言語行動」すなわち「音声下でしゃべること(subvocal talking)」「自分自身に向かってしゃべること(内言)」(Watson,J.B. BEHAVIORIZM 1930 邦訳 p329)としている。スキナーの立場も基本的にワトソンと変わらず,思考はまず集団の調整としての会話から始まり,それが自分自身に話しかけることによって「思考」へと変わる。すなわち「始めに言葉ありき」である。この点が我々の立場――思考は,対象を認知し最適の行動を選択・判断する中枢的起源を持つ,という考え方とは根本的に異なる。

 スキナーによれば,自己への発話が思考であり,それが潜在化して一般的に言われる「思考は行為(doing)ではない」状態と同一になる。これが「声に出さない発話(subaudible speech)」であり,潜在的言語行動としての思考である。従って,彼にとっては「生きている人間は,何も行動していない間も,ある意味では行動している」(p434)と「思考は行動である」という命題が結論づけられる。

 それではどのようにして,自己への顕在的な発話が潜在的な思考になるのか。それは子どもの潜在的発話の成立(罰による声を出さない発話の獲得)や自分が自分に話しかけるとき,大きな声で話す必要がないし,また声に出さないほうが容易であることからも理解できる。独り言の潜在化や,また曖昧な判断の場合(I think 〜)発話の音声は小さくなり、全く潜在化してしまう。  言語行動が本来顕在的であるのは,行動の強化が本来外的なものであり,言語行動が対人的に強化学習されたものだからである。それが「人が自分自身に話すこと」を通じて,潜在的言語行動となり,伝統的な「思考」と呼ばれるものになるのである。その典型は,「静かに座っている人が,"君は何をしているのか?"と問われれば,"何もしていない,今は考えごとをしている"」(p434)のような状態である。

 [自分が聴者としての話者(The speaker as his own listner)]
 スキナーにとって本格的な「思考」である「自分自身に話しかけること」は,声を出そうが(顕在的)出すまいが(潜在的)「自己刺激(self-stimulating)」になり,自動的に強化される。「聴者[自分自身]は,彼[自分]が言ったことを理解するのに最も良く準備されている」(p438)から,強化が進められ,容易に思考できる。

 ではなぜ自動的に強化されるのか。スキナーの説明は,話者と聴者が同じで,欲求不満も嫌悪刺激も同じ,そして最も良い理解者であるから強化される,と言うにすぎない。これでは,潜在的言語行動による強化理論の説明にはなっても,なぜ考えるのかという意味での「思考」の説明にはならない。

 我々の見解では,思考は欲求を実現するための問題解決過程であり,思考によって行動するばかりでなく,世界を知的に再構成(ないし合理化)することによって「知的安心」をも得るからである(いわゆる人生観,世界観とはそのようなものである)。しかし,スキナーの見解を好意的に理解することもできる。つまり,行動としての「言語的な思考」とは,何がどのように存在し,どのように行動すべきか,すなわち,いかに生きるべきかを,自分自身に問いかけることになる。

 そうは言っても,外的に話しかける言語行動を,思考と同一視することはできない。思考は行動ではない。思考とは,行動をするための対象(環境と主体)の認知と判断・再構成の過程である。思考と行動とは,新行動主義が示すように厳格に区別しなければならない。思考過程で起こる感情や腺,筋肉で起こる微妙な反応(それは単に生理的な反応にすぎない)を行動と呼ぶことは,言語を持つ人間の特殊性を理解する妨げになり,混乱を招くだけである。思考は言語によって決定的な進歩をしたが,言語的な思考が思考の本質ではない。高等動物に見られるように言語を持たなくても高度な思考(感覚的ないし直観的思考とも言いうる)は可能である。そこに認知心理学の存在の意義がある。
 思考については認識論と共に,後(後編)に詳しく述べることになる。

[言語行動論の積極的な意義]  言語的思考を行動とみなすことは,スキナーの誤りであるが,言語が行動を統制(control)することの意義や実践的な効果(practicai effect)を強調したのは彼の功績である。特に行動に対する言語的思考の役割を追求したことは,重要な意味がある。  まず行動の単純な統制では,自己マンド(self-mand)(p440)で自己の言語行動を強化する。例えば,寒い朝に get up ! と自分に言い聞かせ,猟に出て獲物に近づくときstand still ! とつぶやくことで,自己の行動を統制している。つまり,"静かに!"と自分に言う猟師は,効果的に自分を統制するのに有利だろう。その結果は自己マンドの形式で言語行動を強化し続けるだろう」と述べている。

 また自己タクト(self-tact)は,対象に適切な名前をつけ(カテゴリー化),対象の状況を明確にする。例えば,国家間の対立を It is war と言ったり,誰かの名前が曖昧なとき,思い出すと安心して行動が変化する。

 フロイトの力動主義では,無意識の防衛機制のうち合理化(言語的逃避や補償・昇華などを含む)は行動の自動的強化,自己の行動の正当化である。このような倫理的意味の表現(言語行動)すなわち ought, should ,must などのような義務,当為,要求,禁止,命令や自分にNOと言うなどは,永続的な強化の効果がある。「三カ月間は,タバコをすわない」という自己刺激を与えつづけたり,ピアノを弾くときその演奏手順を考えながら弾く場合,「持続的自己刺激言語行動(sustained self-stimulating verbal behavior)」として,行動を統制している。また人が,思考や問題自体の解決に失敗したとき「もう一度やってみよう」という決意の言葉は,行動に先行し,行動を力付けしている。

 このような言葉による自己統制(方向付け)は,スキナーの引用で,9歳の少女がピアノを練習している場合の緊張した状況が詳細に例示している。彼女は,「聞いて,これでいい?もう一度やってみるわ」と,時計や自分自身の技量を気にしながら,それを口に出して練習を続ける。これらの言語行動は,自らの演奏行動を方向づけようとしているのである。

 このような行動や情緒・情動に与える言語の役割は,宗教や道徳・哲学思想の分析に大きな役割を果たす。例えば,宗教における「苦や不安からの救済」や道徳における「行動の統制」,哲学における「世界観の確立」などは,すべて言語をもとに行われる。キリスト教におけるイエスの言葉,「悲しんでいる人たちは,幸いである。彼らは慰められるであろう」や仏教におけるブッダの言葉,「一切の生きとし生けるものどもに対し,無量の慈しみの心を起こすべし」また,孔子の言葉,「朝に道を聞かば,夕に死すとも可なり」等々,人々の心を打ち行動を統制してきたことは明らかである。その人のもつ「言葉」はその人の行動をあらわす。言語を思考や行動と共に考察することの解明,これは本書の後編の課題である。
 しかしこれらの「言語による行動統制」の例は,スキナーが考えるような言語的思考の本質ではない。「言語的思考」と「自己刺激」つまり言語による自己統制や倫理的(さらに宗教的)行動は,同じ個人の中で起こるので必然的に結合しているが,言語思考の本質は,自己刺激から分離することが可能であり,従って必ずしも人間は思考によって統制されないし,現実の行動と関わりのないことを考えながら,行動することができるのである。人は歩きながら考え,言葉を話しながらでも別のことを考えることができる。
 「言語による行動統制」と「思考による行動統制」は別の次元で考えなければならない。つまり,言語があって思考が生じるのではなく,思考に言語が結合して人間的な発展が可能になるのである。
 スキナーは,「声に出して自分自身に話すこと」を,思考の先行形態と考え,内的思考は,音声的思考の変化した形態と考える。しかし事実は,思考は生得的な思考形態に,人間独自の言語的思考形態が結合し発展したものである。これは言語を持たない高等動物でも,対象を区別し再構成することが可能なことを見ても明らかである。高等動物と人間の思考の大きな違いは,人間が思考の対象を言語で記憶し整理でき,対象を直接感覚しなくても思考し問題解決できるのに対して,高等動物には対象を直接感覚していない限り問題解決的思考が不可能なことである。
 従って「思考の結果は,しばしば全く驚くべきものであり,明らかに説明するのは不可能である。」(p447)というスキナーの主張は,思考は内的過程だから,外的な行動理論によって根本的な説明は不可能であると告白しているようなものである。また「行動の分析からあらわれる概念や方法は,人間精神の研究に最もふさわしい。」(p449)というのは,人間精神の研究には,行動だけでなく,行動から分離可能な情緒や思考の個性的様式の分析が不可欠であると反論することができる。つまり,言語の本質は行動統制の側面をもち且つ行動統制されないという二面性において追求されなばならないのである。
 以上でスキナーの言語行動論の基本的な批判と,それにもかかわらず積極的に評価するべき点があることを指摘した。次にチョムスキーはどのようにスキナーの言語論を批判したであろうか。

第2節 チョムスキーによるスキナー批判

   チョムスキーは,スキナーのラディカル行動主義とその理論を応用した著書『言語行動論』にラディカルな批判をおこない,チョムスキー革命といわれる認知主義言語論を確立した。彼は多くの書で,行動主義とその背景をなす経験論的言語論に対して厳しい批判を加えている。

 彼は,「言語と精神」について述べた論文(Chomsky,N 1972)のなかで,「行動の根底に存在するが,行動においてはいかなる直接ないし単純な仕方でも実現されない言語能力の体系」そして「一つの認知体系・知識と信念との体系」の確立を意図して,構造主義や行動主義など彼以前の経験主義的言語研究を批判している。彼は「この言語能力の体系は,構造言語学の分類学的方法,S−Rの心理学の概念・・・・・,を視点として記述されえるものとは質的に異なっている。」(Chomsky,N 1972 邦訳P19)と述べ,「思考と自己表現の用具としての言語」の特徴として,生得的かつ内的な「改新」「無限」「自由」という三つの概念を,行動主義の経験的かつ外的な「刺激反応」や「習慣」に対抗させている。

「正常な言語使用は改新であり,範域において潜勢的に無限であるばかりでなく,外的か内的かの別を問わず,刺激から自由でもある」(同上邦訳P30)

 チョムスキーは,単純で欠陥の多い「刺激・反応・強化」の三項関係を中心にすえたスキナーの『言語行動論』(Skinner,B.F.1957)を標的に選び,徹底的かつ効果的な批判を行った。彼の『言語行動論』に対する論文は,示唆することの多いスキナーの言語論を闇に葬るほどの説得力をもっている。そこでこの書評論文(Chomsky,N.1959 A Review of B.F.Skiner's Verbal Behavior .Language,35,26-58)に従ってコメントを加えていこう。

 まずチョムスキーは,スキナーの基本的立場であるラディカル行動主義(外的な刺激だけでなく「皮膚の中の私的な世界で起こっている出来事」を考察することができる)を取り上げ,その前提となる刺激・反応・強化等の用語をやり玉にあげる。そしてスキナーの造語である「マンド」や「タクト」等を駆使した言語行動論そのものを具体的に批判している。

<1>ラディカル行動主義について
1)チョムスキーの批判の立場――内的要因の重視
 チョムスキーは,人間の複雑な行動の説明が,今日まだおこなえる状態でないと断りながら,行動主義の外的経験を重視した一面的な行動理解について断固として反対する。彼はまず「行動の決定における外的要素と内的構造の相関的重要性」を強調する。  「複雑な有機体の行動の予言は,外的刺激についての情報に加えて,有機体の内的構造についての知識を必要とし,有機体がその情報を処理する方法は,情報を入力し自分自身の行動を組織することである。このような有機体の特性は一般に生得的な構造から複雑に生じ,発生的に決定づけられた成熟の過程であり,そして過去の経験の結果である。」(Chomsky,N.1959 p27―以下ページのみ記入)

 そして,この立場から出発して,スキナーの行動主義で言語行動を説明することが,いかに正当化しがたいか明らかにする。とくに「言語行動の正確な予言」が,実験室的に下等動物で分離される「いくつかの外的刺激要素の具体化である」という主張については,科学的研究にふさわしくない「投機的(speculative)試み」であるとしている。
 しかしチョムスキーの検討は不十分である。つまりスキナーは,行動の要因(変数)を外的刺激だけでなく,食物遮断(food-deprivation)等を含めて動因(drive)としてとらえているが,後者は実験反応を顕著にするために消極的に必要とされているだけである。スキナーは「動因や欲求」を実験促進のために必要とするが,行動の方向を決める大きな役割を果たしていないと考える。しかし動因や欲求の強弱は,言語行動にとっては,スキナーとチョムスキーの両者が考える以上に重要である。言語行動にとって,意図の伝達と知的欲求の充足の二つの側面は,言語行動の推進力である。この点でチョムスキーの批判は徹底を欠いている。  また彼は次のように批判している。
「もし彼が広い定義を受け入れるならば,有機体と衝突する自然的現象を刺激として特徴づけ,有機体の行動の役割を反応と特徴づけるとき,彼は行動が合法的に実証されていないということを決定しなければならない。現在の知識の状態では,われわれは現実の行動における圧倒的影響を,注意,姿勢,意志そして気まぐれというはっきりしない要素に帰さねばならない。」(p30下線は引用者)

 ここでチョムスキーが下線部に指摘した事項は,不十分であるが重要である。反応を決定する認知・判断は,人間の場合一人ひとりの主体である。その主体にとって,スキナーのように過去の歴史的経験を決定要因とするには,認知・判断は余りにも複雑かつ膨大である。とりわけ下線部の指摘は,我々の用語でいえば「興味関心ないし欲求情動」ということになる重要な観点であり,実験室の下等動物の行動では検証しえないものである。つまり欲求は,前章で述べたように,飲食欲や性欲など生理的欲求だけでなく,知的欲求や意図の伝達によって得られる,安全や社会的関係をも含む複雑なものであり,その面からの行動主義の限界も強調されるべきであった。これらは,チョムスキーが指摘するように「はっきりしない要素」では決してなく,チョムスキーにおいて人間存在全体の中に「はっきりした位置づけ」ができていないだけなのである。
 次に行動主義理論の前提となる実験室的状況の批判に移る。

2)実験室状況からえられた結果を現実の動物行動に応用することの 限界
 まずチョムスキーの,動物実験の結果に対する批判を引用してみよう。
「彼は,大胆にも繰り返し次のことを実証したと主張している。すなわち話者の[認知主体としての]貢献はまったく些細で初歩的であり,正確な言語行動の予言は,彼が下等動物に対して実験室的に分離したいくつかの[強化ないし条件づけという]外的要因の具体化のみに関係している。」  (p28 [ ]は引用者,以下同じ)

「彼は実験的結果を,行動システムの科学的正確さのための証拠として,さらに類推を科学的領域のための証拠として利用している。このことは,かなりの広い視野をもつ厳格な科学的理論であるという幻影を作り出している。しかしながら,実際には現実のネズミの生活[例えば,エサの探索]と実験室のネズミの行動記述に使用されている用語[エサの探索]は,単なる(意味の曖昧な類似を伴った)同音異義となるであろう。」(p30)

   引用の意味は,同じ「エサの探索」でも意味が異なるということであるが,チョムスキーが批判するように,有機体の現実の行動が,実験室的状況を越えたものであることをスキナーは無視している。これは行動主義の原点となる反射理論を確立したパヴロフの実験態度とも類似している。パヴロフは,実験室内の犬の唾液反射が,実験室の実験的操作によるベルや他の条件刺激に反応したのでなく,肉を持参した実験者の物音に反応したことを故意に隠そうとしたという。つまり実験者の意図する刺激は環境の一部であり,多様で複雑な環境のすべてを統制するには限界があること,すなわち「現実の生活」における行動のすべてを,科学的方法(実験的操作的方法)で証明することが困難であることの自覚を欠いているのである。
 そこから決定的な科学的方法上の欠陥が明らかとなる。つまり実験動物(人間をも含めて)は,実験者の枠組みを超えた主体的判断をするものであって,実験者の構成した統制的刺激状況を越えているということである。このような事実の認識から判断主体の欲求や情動,興味や関心を行動科学の対象にする必要性が生じてくるのである。この意味ではハルやトルーマンの新行動主義は「現実の生命」により近くあることを目指したものである。

3)刺激と反応の関係は,特定刺激によって反応を予言(profit)し統制(control)できるほど単純でないこと(P32)
 まずチョムスキーは実験室的な因果関係の確定についての困難性を述べる。
「我々は,現実に生命の行動にこれら〔刺激・反応・強化――引用者〕を拡大する前に,ある困難に直面する。我々は,まず第一に次のことを決定しなければならない。すなわち,有機体が反応することができるある現象が,ある特定の場合における刺激と呼べるかどうか,また有機体が現実に反応する唯一の現象(刺激)であるかどうか,そして,それに応じて,次のことを決定しなければならない。すなわち,行動の役割が反応と呼ばれるか,又は合法的な方法でたった一つの行動だけが刺激と結合しているのか,ということを。この種の疑問は,実験心理学者にとって何らかのジレンマを提供している。」(p30 下線は引用者)
そして言語行動の場合には,
「我々は,〔結果としての言語〕反応を聞くとき,〔原因としての〕刺激の元を確認する。そのような例から<刺激統制>の用語は,単に心的心理学への完全な退却を偽装している。我々は,話者の環境の中の刺激ということばで,言語行動を予言することはできない。というのは,何が現在の刺激か,話者が反応するまで分からない。さらに高度に人工的な場合は別にして,伝統的なシステムに反対するものとして,言語行動の実際的統制をスキナーのシステムが可能にするという彼の主張は,個人が反応する自然的対象の性質を統制することはできないので,まったく偽である。」(p32 下線は引用者)

 スキナーはチョムスキーの批判に対して,晩年の著作『行動主義について――人間工学』(Skinner,B.F.,1974 About Behaviorism)の中で弁解を試みている・・・「結果として以外説明の仕様がない」と。さらに「すべての行動は,直接的間接的に結果によって決定されている。」(skinner 1972 邦訳 p148)「強化と呼ばれるある種の結果を,その行動の一部が伴っていると,その行動は再び起こりやすくなる。」(同上 邦訳 p53)
 またスキナーは,特定の刺激に反応しやすくするため,空腹状態にしておくなど様々の実験室的条件をつける。しかしこのような実験的状況における外的統制は,現実の言語行動には,まったくなじまない。例えば,乳幼児の言語の獲得を研究するために,彼らに言語条件を与えないように実験室的に統制し条件づけすることは許されない。
 つまり「結果としての強化の随伴性」(学習された行動様式)は,次の行動の判断材料の一つであって,特定の同じ刺激条件があっても,全く同じ刺激条件を再現することは人間にとって至難のことであり,同じことが繰り返されるとは限らないのである。スキナーの小説『ウォールデン=ツー』(自らの行動理論にもとずく空想的ユートピア小説)の理想は,狭い行動主義的人間観にもとづく夢想であり,宗教的信念や文学的には想定しえても,子どもを現実から隔離し,人間としての成長を奪う危険を伴うものである。

4)強化,強化の随伴性,条件づけについて  この論評の中でチョムスキーが力を入れたことは,動物(人間)の行動を方向づける「強化」や「条件付け」の批判である。強化という用語は曖昧であり,それが動物の行動や,とりわけ言語行動の方向づけにとって,必要ではあっても十分条件とはなりえない。スキナーが強化と呼ぶ例を取り上げてみると,ある強化子(例えば餌,励まし)が,ある行動にふさわしい刺激となるという条件でさえ厳密に捉えられていない。「強化が,学習や行動の持続的有効性のために必要である」というスキナーの主張をチョムスキーは,「空虚」なものであるとして『言語行動論』の多くの例を引用している。
 例えば,子どもや大人の学習は,話すこと,聞くことなどの外的刺激を受けると「自動的に」強化・学習されるのであって,内的に反応を自発したり,強化する話者の刺激が強化される聴者に作用(impinge)しなくてもよい。(P37)さらに想像や願望が刺激となってもよい。つまり好きな音楽を演奏し,好きな本を読む理由として,演奏したり読んだりするのが強化であるというとき,強化という用語は,純粋に慣例的な機能をもっているだけと結論することができる。つまり「XはYによって強化される」という表現は,「XはYを望む」として使われている。このことはYが外的な刺激であるというより,Yを有益なものとして判断する主体(X)の内的願望(want,like,wish,etc.)を表現したものであり,単に願望を「強化」と言い換えただけだというのである。
「このような言い換え(強化の意味の拡大)が,願望や嗜好の描写にも新たな明白性又は客観性を取り入れているという考えは,重大な思い違いである。」(p38)

 チョムスキーは,このようにスキナーの実験室的用語である「強化」に対する拡大解釈を拒否する。また強化と連動して「条件付け」という用語に対しても批判を加える。とりわけ「情報の教授や伝達」を単純に条件付けの問題に解消し,生得的内的な要請を無視することに反対する。内的動因(又は動機ないし機能)を先に考えるか,外的刺激(又は外的条件付け)を先に考えるか,これは思考を支配する内的イデアや形式を重視する「観念論」と,思考は環境と主体との相互的所産であるとする「経験論」の対立の基本となる問題でもある。もちろんチョムスキーは前者の立場をとり,スキナーは後者の立場をとる。
 さらに「強化の随伴性」に対しても人間への応用は実験室での下等動物の研究(バー押しや迷路の学習など)からの類推であり,人間の複雑な行動(言語の獲得,道具の製作,文化の創造など)に当てはまらない。チョムスキーは,ハーロウ(Harlow,H.F.)やヘッブ(Hebb,D.O.)の実験結果をふまえて,「刺激の新奇性や多様性は,ネズミに好奇心を目覚めさせ,探索を動機づける」し,またこれらによる「問題解決は,明らかにそれ自体が報酬である」と述べている(P40注)。つまり好奇心や探索は,強化の随伴性によるのではなく,それ自体を行動の内的動因と考えるのである。とくにヘッブの引用は効果的である。 「なぜ人は金のために働くのか,子どもは苦痛なしに学ぶのか,人々は何もしないことが嫌なのか――を説明するために,こじつけ的で不可能な方法を苦心して作る必要はない。」(P40注)

 さらに決定的な「強化・学習理論」批判として,動物行動学における「刷り込み(Imprinting)」をあげている。「刷り込み」は,動物の基本的な行動が必ずしも報酬や動因低減によらぬことを示し,「生涯にわたって基準となるある方向に学習する動物の生得的性向にとって,最も驚くべき証拠である」と述べている。
 全体として,スキナーのラディカル行動主義の欠陥を,チョムスキーは的確に批判している。それは動物の行動様式の獲得すなわち「学習」が,「刺激―反応―強化」に従って形成されることの根底的な批判である。学習は,スキナーが考えるような「外的刺激」も必要ではあるが,十分条件ではない。むしろ内的生得的な能力や動因が大きな役割を果たしていると考える。人間の複雑な言語行動,とりわけ文章構成能力を行動主義で説明することには「まったくどんな支持も見いだせない」(p42)
「言語共同体によってもたらされる言語行動の強化」の源泉は,現在ではほとんどまったく謎である。」「強化は疑いもなく意味ある役割を演じている。しかし人類の場合には,重大なことは何も知られていない様々の動機的要素が意味をもっているのである。」(p43)
 以上のように実験室的な行動主義を人間に適用することの欠陥が,その根本において批判されたが,さらに『言語行動論』に焦点を当てた批判がおこなわれる。チョムスキーは,スキナーにおける「強化」という用語のルーズさ,創造性のなさを的確に批判した。――しかしチョムスキーは,スキナーに代わりうる言語論の統合を意図してはいない。彼は,言語論の新たな体系を提言することなく言語の形式的論理的分析に向かい,言語の「学習」や「強化」の動因となる「欲求」を追求しない。(p36〜37)
 むしろ彼の関心は,言語の形式的論理的側面を中心とした普遍文法の構造の研究に向かい,言語の情緒的,価値的,行動支配的側面すなわち言語行動の研究には進まなかった。言語の研究は,スキナーの視点を全否定するだけでは前進しない。言語における外的要素と内的要素の統一が,言語の謎を明らかにする唯一の方法なのである。

(2)言語行動論について
1)刺激・反応・強化と言語による統制
 チョムスキーは,言語の生得的内的形式(普遍文法)に言語の本質を求めているから,話者と聴者の関係だけで言語行動が成立しているとすることに対して反対する。「スキナーの言語行動論が伝統的言語領域を,話者と聴者の行動のみに限定しているのは誤りである。」(p45)
 また同じく文の獲得や構成が,話者である大人や子どもたちの話す発話(刺激)を学習したことにのみ起因することに反対する。学習された特定の文章(刺激――「この花は赤くある」)が,「文章構成能力」として他の文章の創造(「この山は高くある」)に応用されることの原因や過程を分析することなく,<刺激般化>と呼ぶことは「言語の謎を永続化させるだけ」である。「種々の強化を通じてゆっくりと注意深く言語行動が形成されるというのは全くどんな支持も見いだせない」(p42)
 言語が聴者にとって刺激となることは確かであるが,それは可能性としてそうなるのであって,日常生活にあふれる言葉がすべて刺激となるのではない。その意味で言語刺激は,聴者を統制することもあるが,それは「話者の言語(とその意味)に関心を示す聴者の判断」に委ねられている。これをチョムスキーは「言語行動におけるスキナーの<統制(contorol)>は,単に伝統的な表示(denote)又は言及(refer)の紛らわしい言い換えに過ぎない。」(p33)と批判している。
 スキナーは,行動の統制に関わって,刺激(統制変数)を統制すれば行動(反応―従属変数)が統制されることを前提としている。これは動物の行動訓練(例えば,犬のしつけや調教)で実証され,日常に観察される事実である。そして人間もまた生育の過程で,適切な刺激を与えることによって,一定の行動様式(習慣)を学習し獲得する。しかし人間は他の動物とは違い,人間的環境によって強化・統制されるだけでなく,自ら新しい行動様式や文化を創造する。この人間の行動を特徴づけるのが言語行動である。その言語行動の「反応強度」を「反応頻度」(ないし反応の自発,エネルギー水準,声の高低,自発の遅速など)で表現するのは単純過ぎる。言語反応の強度は,一般的に外的に表現される(大きく感動すれば大声がでる)が,人間が単純でないのは,表現を内的に抑えることも可能なことである。言語行動の反応強度は,単に反応の頻度に還元できものではない。また科学的確証の程度も,反応強度によって正当化されるものではないのも当然のことである。(p34〜35)
 またチョムスキーは,「言語における情報の教授や伝達は,単なる外的<条件づけ>ではない。」(p38)と批判している。これは,彼が情報の教授や伝達について,主体的な判断や理解(言語による文章構成)の役割を念頭においていることを示している。とりわけ話し言葉による情報の内容は,丸暗記(語り部のような)という場合は少なく,多くの場合は主体の解釈にもとづく再構成が含まれている。
 言語が刺激であり,刺激に対する反応が大きいことが強化や学習の条件であれば,強化や学習は反応の頻度に左右される。しかし反応やその意味の理解は,その意味内容そのものに対する欲求充足度や情動反応,すなわち問題意識の強さ(又は深さ)に左右される。学習条件は外的なものだけでなく,思考し問題を意識する主体の興味や関心,すなわち<動機の要素>にも支配されるのである。「言語行動で,強化は意味ある役割はあるのか。重要なことは何も知られていない動機(motivation)の要素にある。」(p43) しかしチョムスキーが示唆しているが,体系的には言及していないこの「動機の問題」が,我々の言語論にとって最大の関心事となるのである。

2)マンドとタクトについて
 スキナーは,マンド(commandからの造語――価値的)やタクト(contactからの造語――接触的)が,「欠乏状態の統制」にもとづく反応であると考える。欠乏状態の時間的長さで反応の強さを統制する(例えば塩や本の欠乏状態)のは,命令文に対して「単語の構成の説明」をするのと同じように何の役にも立たない。たとえば Pass the saltや Give me the book などが,「欠乏状態の統制によるマンドであるという主張は空虚(empty)」であり,これらの反応は形式(論理の観点――なぜ me book give でないのか)から検討すべきである。
 またスキナーが,文法的な規則の裏付けもないのに「古いマンドの類推から,新しいマンドを創造する」というのは,「救いがたい(not helpful)」(p46)としている。これは,チョムスキーの立場からは,「類推」過程の論理的法則性(名詞,動詞,形容詞等の構成法則)そのものが問題とされねばならない。
 このような行動主義的言語理解の皮相性(反応偏重,論理無視)は,タクト(表示と意味の刺激反応的な結合)に対する言語意味論の面でも現れる。言語記号は話者と聴者にとって何らかの意味をもつが,言語を刺激反応性の観点からのみとらえると,意味が刺激によって統制されるという反応的側面にのみ限定されてしまう。これについてチョムスキーは次のように考える。「言語タクトに対し<刺激統制 stimulus control>という用語を採用した結果,表示reference と意味 meaning の間の重要な相違が曖昧になった。」(p50)。例えば,赤い椅子を指して,chair と反応(表示)するか red と反応するか――どちらの反応も可能であるが,chair と反応(表示)すれば椅子全体を意味(刺激統制)するし,red と反応すれば色のみを意味している。しかし,刺激統制によって意味が成立するタクトの考えでは,話者が red と反応しても,聴者にとって椅子を意味する可能性がでてくる。つまり,表示に対する意味が説明的論理的でなく,単純な「随伴的強化」の学習に還元されてしまうのである。
 ところが「脊椎動物 vertebrate 」と「脊椎をもつ動物 creature with a spine 」は,異なる表示であるが,同じ意味をもつ。vertebrate という表示の意味は,単なる刺激反応的なものではなく,「脊椎をもつ動物」のような説明的論理的そして重層的名意味を持つものである。特に「脊椎動物」などの抽象的対象(名詞)の場合は,スキナー的なタクトの解釈では大きな限界がある。

3)自動呼応と文法について
 チョムスキーのスキナー言語論批判の根底には,言語の論理的文構造(普遍文法)に対する洞察がある。この論理的構造(文法や統語論)をスキナーは「自動呼応反応(autoclitic respons )」として説明しようとする。これは話者自身の言語行動が弁別刺激となって,その反応として文を構成する場合(例えば,「主語[私は]+述語[と考える]」,「もし〜ならば〜である」などである。)に当てはまる。
 スキナーによる言語行動の分類では,「マンド」や「タクト」のほか「反響(echoic behavior)」や「読文(textual behavior)」,「内言語行動(intraverbal behavior)」があるが,自動呼応は,話者自身の言語行動が弁別刺激となるため,内的に隠された又は潜在的な言語行動に対する反応(語彙及び文の非論理的・刺激反応的な順序づけ・配列)とされる。
 これに対しチョムスキーの批判は,「似非科学的な用語の controlや evoke を使って,配列や修飾が行われ,文構造(深層構造)が区別されていないために,現実の言語学的行動を説明することはできない。」(p53)と厳しい。つまり現実には,言語使用は,論理的・文法的な法則性をもつがゆえに,「新しい文を直ちに作り出し,理解する話者の能力」(Chomsky 1965 邦訳 p68)によって全く新しい状況の中で新しい表現が可能になる。例えば,お菓子が欲しい場合,単に「お菓子!」と言う発話から「お菓子を!」「私にもお菓子を!」「私にお菓子を下さい」「私に昨日買ったお菓子をすぐに下さい」というような創造的表現が可能なのか。それは人間の言語が,スキナーの学習・習慣による単なる反応では説明できない(生得的な)構造をもっているからだというのである。
 しかしチョムスキーの批判はここまでであり,なぜスキナーがこのような見解に満足してしまったのかの分析までには到っていない。実は言語表現における文法・統語過程は,スキナーが自動呼応反応と考えたように,刺激反応的な性質をもっているのである。というのは,言語主体にとっての認知過程は,何が(what),どのようにあり(how),どのように反応するかという過程であり,疑問(問題意識――欲求充足)に対する解明,すなわち判断・選択・表現の過程であって,刺激と反応の過程の中間に位置する中枢過程の構造なのである。例えば,話者が「お菓子!」と言った(刺激)のに対して,聴者が話者の伝達意図を明確にするため(問題意識)「誰が,何を,どうするのか」と疑問を内的に抱いて(中枢過程における認知・判断),話者の刺激に対する解答をすると,その言語表現(反応)は「君は(主語),お菓子を(目的語),求めている(述語)」ということになるであろう。
 言語表現はそれ自体が意図の伝達・表現であり,その表現のための疑問(問題)の解明であり,欲求の充足である。すなわち,話者にとって言語表現は,話者の問題意識の解明と表現であり,聴者にとってはそれが音声刺激となって,その刺激自体が聴者にとっての疑問の解明と行動につながるのである。この過程を話者と聴者の疑問の解明と相互伝達として認知論的に説明すれば,「自動呼応」の背景が了解されるであろう。すなわちスキナーにとっては,主語も述語も目的語も統語構造はすべて,主語の刺激に対する述語の反応であり,述語の刺激に対する主語の反応として自動呼応しているのである。
 しかしこの統語過程は,正しくは動物にとっての「根本的疑問とその解明」(どのような刺激に,どのように反応するか)の過程であり,スキナーにはこれが「自動呼応」に見え,チョムスキーには生得的過程としての言語表現の構造的普遍的文法過程なのである。 (この点は後のチョムスキー批判において詳述する。)

4)言語の獲得と学習について
 チョムスキーのスキナー批判は,言語獲得論において顕著にあらわれる。スキナーの言語獲得は,行動主義の強化・学習理論で説明され,経験論哲学の系譜を継承している。つまり,言語行動は,乳幼児の段階から同意やうなずきを強化子として,学習し習慣化されるのである。これに対し,チョムスキーは,「生得的原理としての言語能力」を前提として,強化・学習も作用しながら言語が獲得されると考え,強化が言語行動の理解に必要であることを否定してはいない。「強化理論がこれまで示すのに失敗してきた言語行動のような複雑な活動に,広範な動物行動の研究が,何らかの適切な説明をもたらすかも知れないということは,全くありそうにないことではない。」(P41)しかしチョムスキーにとって,子どもの言語の生得的獲得は,彼の理論を正当化するのに決定的に重要である。チョムスキーの指摘をみてみよう。
「言語を学習する子どもは,文と非文(つまり言語共同体による修正)の観察をもとに,ある意味では自分自身のために文法を構成している。」
「子どもは,一つの文を生成するための極度に複雑なメカニズムを構成することができる。」
「全く普通の子どもが,非常に複雑な,本質的に比較可能な文法を驚くべき早さで獲得するという事実は,人類が,データ処理又は仮説形成のまだ知られない性質や複雑な能力によって,文法を獲得するように特別にデザインされているということを示している。」(以上P47)

 しかしチョムスキーに明解な言語理論があるわけではない。「言語の獲得は,強化,日常の観察,そして自然的な好奇心(ignistiveness)などあるが,まだ明白な理論も証拠もない。」(p43) そして彼は今日まで「生得的な構造依存の原理」の存在を確信し,統率・束縛理論など,より普遍文法に近い文法の構築を追求するが,人間にとっての言語の意味の追求からは遠ざかっていると言わざるをえない。この点をとらえて,後年スキナーは「文法の原理は,生まれたとき精神の中に存在している,といった主張を支持する,もっともらしい淘汰の諸条件を見つけるのは難しい。」(Skinner 1972 邦訳p42)とチョムスキーに反批判を加えている。  両者の相互批判は,言語の体系的な統合理論を構築しえていないために,いずれも中途半端である。その理由は,スキナーもチョムスキーもともに,言語の本質について一面的な理解をしていることによる。
 スキナーは,刺激反応と強化学習のみの分析で言語を説明しようとする。しかし,言語の表現する情報が,話者のどのような論理で構成され,聴者にどのように理解されどんな反応を生じるかは,言語を使用する諸個人の価値観(判断基準ないし世界観)――諸個人の欲求にもとづき経験的に形成される(スキナーの言う言語レパートリーの内容)――に依存する。そしてその価値観は,社会や文化の影響を受けつつ,個人の情報処理すなわち判断・思考・創造過程の中で形成されるのである。
 チョムスキーは,スキナーの不完全さ,曖昧さを否定することによって,言語における価値性(刺激反応性)をも排除して,論理性や合理性(文法や統語)のみを強調する。しかし,言語は「価値」と「論理」が統一されたものとして説明されなければならない。  またスキナーは,自発的なオペラント行動を重視したとはいえ,外的条件づけに固執したが故に,主体の選択的創造的側面を捨象する。それに対し,チョムスキーは,言語のもつ論理性・合理性・内面性に固執し,言語の価値的・行動的側面を捨象する。一般的に,西洋的思考は,内的に形成された価値(思想・理論――それらを形成する合理的思考)を自然的社会的状況の中に相対化することができず,絶対化する傾向がある。思考する主体を相対化せずに,価値(スキナーもチョムスキーも新たな価値の創造をめざした)を確立するのは,人間の存在や思考,そして人間の主体性を相対化しえない思考優位の合理主義的発想である。
 「何のために」結果としての価値(思想)が成立したのか,つまり価値を創造する主体にとって,価値がどのような意味や役割をもつのかが問われなければならないのである。スキナーは,言語行動を生じさせる内的要因(認知過程)を捨象し,チョムスキーは,内的原理(文法)を生じる行動原理(刺激反応性)を捨象したのである。
 人類の本質を説明しうる言語理論は,認知論と行動論の統合から,すなわち《認知・反応》様式(構造)の解明という発想の転換からのみ,またそれは比較的常識的な言語理解によって可能になる。その意味でチョムスキーの次の指摘の前半は正しいが,後半は誤っている。つまり,子どもの言語獲得の事実の解明は,スキナーの強化学習理論だけでなく,チョムスキーの普遍文法理論にも当てはまり,我々の理解を超えるものではないのである。
「子どもの言語の獲得が,文を非文から区別する複雑で抽象的な性格をもちながら,驚くべき短い時間に完成されるという事実を,学習理論は解明せねばならない。しかしこれをする人類の能力は,我々の現在の理解をはるかに超えている。」(p57)

 言語論の統合は,人類の能力や理解を越えているどころか,我々の身近に,ものごとに対する明確な区別・指示と表現を追求する生物学的基礎に,すなわち「何がどのように存在し,どう行動すべきか」という欲求実現の表現形態として,また「疑問解明の形式」「問題解決の形式」として存在しているのである。

第3節 チョムスキー批判

はじめに
 チョムスキーの言語理論(生成文法)は,理論上の変遷があるとは言え,基本的問題意識は一貫している。それは普遍文法の追求である。普遍文法(Universal Grammar,UG)とは,彼によれば,言語の表現である構造記述(Structure Discription)を生成する言語機能の初期状態である。つまり,人類のあらゆる個別言語に共通する規則(初期理論)又は原理(P&P理論)であり,すべての人間の幼児の言語獲得装置として生得的に備わっているものである。
 第一次認知革命といわれる初期理論(拡大標準理論まで)では,「句構造規則」にもとづく変形理論が中心であったが,第二次認知革命といわれる「原理とパラミター(P&P)理論」以降は,句構造規則が簡略化され,Xバー理論やα移動等に集約されることになった。そこで歴史的な変遷をたどりつつ,まずは初期理論を中心に我々の批判の立場と観点を述べてみよう。

(1)文法について  まず文法の概念の批判から始めよう。結論からいうと我々の立場は,言語論試論(第3章)で述べたが,文法は話者の意図(伝達する内容―意味)を的確に伝えるため,すなわち,表現した音声記号の「意味」を的確に聴者に伝達するために発達した言語表現上の規則(約束)である。つまり,言語記号によって表現し伝達する内容が何であるかを追求する「意味論」と,意味をどのように言語表現するかという「文法」は密接に結合したものである。しかしチョムスキーにあってはそうではない。彼は初期の論文『文法の構造』(Chomsky,N.1957)で次の有名な例を出して述べている。
  「文法的」という考えは意味論的な意味での"meaningfull"とか "significant"とかいうことと同一視することはできない。次の(1)と(2)との文は等しく無意味であるが,英語の話者なら誰でも前者だけが,文法的であることを認めるであろう。
  (1)Colorless green ideas sleep furiously.
  (2)Furiously sleep ideas green colorless.
(Chomsky,N.1957 邦訳p4)
(1)が文法的であることの根拠は,いうまでもなく,一つ一つの語彙の品詞としての役割が,主語・述語・修飾語などを形成し,しかもその語彙の連鎖が,語順を重視する英語の文法に合致していることにある。Colorless green は客観的に存在せず,無意味(了解不能)であるが,形容詞として名詞 ideas を修飾しており,また ideas が sleep することも sleep が furiously になされることも無意味であるが,主語・述語や動詞・副詞の位置は正しいのである。
 しかし文法は意味を伝える規則として歴史的に確立してきたものであり,(1)を無意味であると考えるならば,語順は正しくとも文法的であると定義することは誤りである。文法がまずあって意味があるのでなく,より的確に意味を表現し伝達するために文法があるのである。言語は,人間の生物進化の所産であるが,その中で文法は人間の意識の所産であり,社会的に認められた約束である。
 文の構造(語彙の適切な変更や語順)が正しいだけで文法的とみることは,言語の本質を理解する障害になる。一つ一つの語彙の意味のうちに,他の語彙との関係や意味を示す規則すなわち文法が含まれている。このことは語彙(辞書に含まれる語彙の素性)の役割を重視する近年の『ミニマリストプログラム』において,彼自身も自覚し始めたと思われる。これはむしろ意味論と文法構造を結合しようとする努力であると言える。
 彼が結論づける「文法は自律的なもので,意味とは別のものである」(Chomsky,N.1957 邦訳p6)というのは,西洋的な偏見にもとづくもので,全く誤った前提である。文法は決して意味から独立した自律的なものではなく,歴史的にも変化し,地域的にも多様なのである。そして,人類普遍の真実として,言語は何事かを表現し,その意味を他者に伝達しようとするものであり,文法構造はその表現意味の伝達を目的としたものなのである。
 例文(1)では,対象を客観的かつ正確に表現していないという意味で「無意味」かもしれない。しかし,主観的には「緑の観念」や「色のない緑色」という形容矛盾が,客観的にはありえないが故に「荒れ狂って眠っている」という心象表現を「生成する」ことを了解できるのであって,「無意味」と断定することはできない。これに対し,例文(2)では,英語における文法構造をもたないがために,単なる語彙の羅列であり,「文」とはいえず、従って「無意味」なのである。これに対し,もし例文(1)によって話者が何かを伝えようとしておれば,(1)は文であり,意味があり<その結果>文法的といえるのである。

 また,彼の初期理論における文法の組織
  1) 辞書部門 2) 統語部門 3) 音韻部門 4)意味(論理形式)部門
と,文生成における深層(D―deep)・表層(S―surface)構造の体系は根本的に誤っている。つまり,文の生成(構成)すなわち言語表現は,話者すなわち文の生成者(言語表現者――文の生成において生成主体の役割を重視する発想は,チョムスキーにはない)が,聴者に意味や意図を伝達しようとするものであり,文法とはそのための規則である。つまり意味部門は,言語表現の端緒から存在しなければならないのである。従って,意味部門は,言語獲得の当初から辞書(単語)と統語(演算)の両者に含まれなければならない。そして音韻部門は,言語表現が話者の意図を伝達する行動であるから,辞書部門(単語の発音として)と統語部門(文の抑揚・強弱として)の中にも含まれることになる。また,チョムスキー文法の出発点ともなった変形規則は,単に疑問や問題意識の強調や焦点化を,語彙の移動によって示すものであって,これを彼は統語上の変形と称しているにすぎない。
 正しい文法の組織をチョムスキーのように大枠で示すと次のようになる。
  辞書部門:意味,用法(品詞,活用,屈折等),音韻
  統語部門:文(命題:主部・述部),修飾語句節,発音・抑揚

(2)言語論と文法
 彼が生得的言語能力とする言語知識(言語能力)は,高等動物の刺激に対する《認知・反応》様式から発達したものである。それは複雑な環境刺激の中に自らを生存維持させるため,刺激の複雑性を整理・集約した言語情報として神経中枢に記憶させ,適応行動に役立たせようとするものである。そのため,まず環境(情報)をどのように把握し,どのように行動するかが動物の認知・行動様式の中に組み込まれている。その様式は,自己の肉体的・生理的生存領域(生得的生存領域)における限定的自然環境の中で,
 a.何が、どのようにあるか,
 b.どのように行動するか,
を解決する過程として解明されなければならない。これは個体の神経構造に生得的に組み込まれた《認知・行動》様式である。このようなすべての動物に共通する生存様式は,高等動物の《認知・行動》様式への進化を経て,言語を有する人間にどのように実現されたのか。これを分類すると,
 T 伝達手段(種内交流)
 U 思考手段(再構成・創造)
 V 記憶手段(知識情報保存)
の三点にまとめられる。
 これらの中で文法に関連するのは,《思考過程》での言語による思考・統語(論理形式)と,それによって構成され記憶された言語的知識である。言語による思考の様式は,文法・統語の規則をもつ。本来言語は伝達を目的とするが,その中で統語(論理)過程は、対象を認知し言語によって,対象を再構成して,自らの行動を判断選択する過程として発展したのである。  人間の言語は,動物の《認知・行動》様式の過程(又は構造)と音声表現から進化したものである。この進化の過程は,第3章の言語論試論において説明したが,簡単に要約しておこう。
1)動物は,多様な環境の中から,自己の生存に関係のある興味関心の対象を認知・区別する。そしてその対象が自己にとってどのような状態にあるか,欲求を充足するものであるか,また自己との関係はどうかを認知・判断し,自己の行動を決定する。
2)高等動物(とりわけ類人猿)の認知能力はさらに,自己と対象との関係を前提としながら,認知過程を直接的行動から分離し,対象自体を観察し,対象の状態や他の対象との関係を洞察・認知することができる。
3)高等動物として進化した人類は,対象(想像的対象を含めてすべての対象,すなわち名詞)とその状態(動詞,形容詞)を音声信号化(言語化)し,その音声信号(語彙)を構成することによって「文」を作り,自己の意図を伝達できるようになった。 4)名詞・動詞・形容詞は,他の形容詞や副詞によって修飾・限定され,主語・述語・目的語・修飾語という文の基本形をつくる。さらに名詞に助詞(前置詞)を付加して句(分節)を作り,動詞等を変形(活用)したり,関係節によって説明を加え,文中の対象の状態や関係を,時間と空間の中に位置づけることができる。

 以上は,言語と文法成立の基本構造であり,この観点からチョムスキー理論への批判を要約すると以下のようになる。
@ チョムスキーには,言語習得への解答がない。彼の言うように子どもの言語習得は「有限な(乏しい)経験から」豊かな知識を得るのではなく,子どもの無限の知的好奇心によって,無限の経験をしているのである。子どもは言語の習得を完成する前に,言語習得の構造を生得的に所有しており,その習得の前提として言語習得を推進する知的欲求と社会的伝達(社会的自己表出)の欲求をもっている。そのような子どもにとって,自然な社会関係の中にあっては「刺激の貧困」(Chomsky, N.1957)は,ありえない。
 自己の生存環境の中で,何が(what)どのように(how)存在するかは,人間だけでなく,他の生命にとっても生存するための第一の関心事である。そして,何がどのようにあるかという問題意識こそは,言語表現の論理的形式的側面(普遍文法)の根源なのである。そしてこの問題意識は,同時に社会的伝達という生存のための自己表現と表裏一体の,人間に固有の《認知・行動》様式なのである。

A チョムスキーにとっては,「言語使用の創造的面に関係する中心的な諸問題は,従来通り手の届かぬまま残って」おり「終局的な解決のヒントさえも与えられていない。」(『言語と精神』邦訳p151)しかし,言語使用が,なぜ,どのように創造的であるのか。その構造はどうなのか。これらの答えは,高等動物のもつ知的欲求と認知構造,及び適応的行動の選択判断能力そのものに依拠している。高等動物は,多様な環境から,問題となる対象や状況を判別・認知し,自らの生存様式にとって最も適応的な行動をとることができる。
  人間の言語は,他者への音声的な意図の伝達とともに環境(刺激・対象)の音声信号化(言語化)によって対象そのものを再構成しうるように進化したものである。そして対象の言語による再構成は,対象が「何であり,どのようにあるか,そしてどう行動すべきか」という高等動物にも共通する《認知・行動》様式の言語的発展形態であり,高度な情報処理過程なのである。この過程はチョムスキーの言う「言語使用の創造的面」であり,またこの論理的形式的言語構造(文法)は,「主語・述語・目的語」の命題形式(文構造)とその修飾・限定形である「句・節構造」で表現される。

B チョムスキーには,文の生成において果たす話者(文の構成主体)の問題意識(疑問・興味・関心)の役割に対する究明が,欠如している。「統率理論」では,動詞によって,ある名詞に格が付与されたり,前置詞によって名詞に格が付与されたりすることになっている。しかし格は,話者がどんな対象をどのように表現し関係づけようとしているかを示すものであって,動詞や前置詞が,表現すべき対象である名詞を統率しようとするものではない。
  例として,John has left his book on the table において, has left はJohn に主格を, his book に対格を付与し, his book の位置を明示する前置詞 on はthe table に斜格を付与して統率している。しかしこの文の表現者(話者)は, John が何をしようとしたかを述べようとしたのであり, 動詞である述語(has left)によって本を置いていたことを表現したのである。つまりJohn とhas left his book は, 文に不可欠の要素として相互に関係しているのであって,has left だけが「主要部」なのでなく「指定部」とされる主語の John も又(状況によって自明のときは省略されることはあっても)文の主要部なのである。一般に,名詞(対象)に関心がいくと,その名詞が「如何にあるか(How)」が問題になり,動詞(状態)が示されるとその状態を引き起こす主体が「何であるか(What)」が問われるのである。名詞(主語)と動詞(述語)は,対象を区別し,その状態を示すのであり,相互に表裏一体の関係にある。

C チョムスキーの文法論は,「何のための言語か」「何のための文法か」,という言語や文法における目的意識がなく,結果としての言語記述の分析に偏向した言語論,文法論である。言語表現は,いかに正確に話者の意図が聴者に伝達できるか,表現の意味が理解されるかという表現意図の実現という目的から分析されなければならない。彼の文法分析は,発話の結果としての言語の統語法則のみであって,いかに的確に発話(言語産出)されるのかという問題意識がない。従って,統率や束縛の意味,移動や格の根源を説明し得ない。
  例えば,主語,述語,目的語における統率は,チョムスキーでは述語(動詞)が名詞句(NP)を統率することになっているが,名詞(主語)が動詞を統率することは述べられていない。またWH 移動や名詞句移動にともなう空範疇や痕跡理論は,英語に固有のものであるが,それは語順を優先するからそうなるのであり,日本語にも共通する普遍的なものではない。

D チョムスキーは文や句の統語構造を,表現対象(名詞)の状態や関係を示す意味としてでなく,形式的な構造として理解する。しかし,統語の目的は,話者の疑問を解明し意図を伝達することであり,文や句の構造は意味があっての構造である。文法は,正確には「構造依存規則」ではなく,「意味依存規則」でなければならない。意味や内容があって構造や形式があるのである。つまり意味や意図を的確に表現するものとして形式的な文法構造があるのである。チョムスキーにとって基本的(平叙文的)統語関係を表す深層構造は,表現主体(話者)の意図(表現意味)を欠き,結果としての形式的な語彙の連鎖(文)を解釈者(聴者)の立場からのみ分析しているのである。
  例えば,「花子は太郎に一冊の本を与えた―Hanako gave a book to Tarou」の文は,話者にとって「花子がどう(How)したのか」「太郎にどう(How)したのか」「誰が誰に何を(What)与えたのか」「一冊の本がどう(How)なったのか」が問題なのである。この問題意識を解明し表現するのが,文の生成ということであり,その文の生成を統制するのが文法ということになる。つまり文法の根源は,話者の問題意識(興味関心)すなわち話者にとって「何が,どのようにあるか」の疑問の解明と表現の法則が文法ということになる。

E チョムスキーは,「理想的な言語使用者」(Chomsky 1965)に限定された言語を対象とするが,実際には「書かれた言語」を対象にしているにすぎない。書かれた言語には,話者と聴者をめぐる状況が抜け落ち,言語そのものの本質――意図と意味の的確な伝達――が捨象され,文法の普遍性も歪められてしまう。文法の普遍性を解明するならば,話者による文の表現と,聴者による文の理解の相方にとっての言語表現の意義が追究されねばならない。そうすれば,心/脳の言語様式が,心/脳をもつ主体の問題意識として理解され,言語の論理構造がその問題意識(WHAT―HOW,何が,どのように)の的確な説明と表現に根源をもつことが理解されるであろう。

F チョムスキー文法におけるα移動理論は,文生成における話者の問題意識や疑問の変化であり,英語文法に特有の規則である。彼の使用する例文によれば, sincerity may frighten the boy の受動化変形は, 話者の関心が sincerity から the boy に移って主語となり, frighten は過去分詞となって形容詞化するのである。またWH移動も,何に疑問をもつかという関心の移動である。英語では語順が重視され, WHは通常文頭に移動するため, 元の平叙文にその痕跡が残り適正に統率されなければならない(空範疇原理)。しかし日本語では必ずしも疑問詞が文頭に移動しないので, 痕跡も残らない。例えば次の如くである。
  who did he say Mary kissed t.(tは痕跡)  であれば,
    メアリがキスしたのは誰だと彼は言ったのか。(又は) 誰にメアリがキスしたと彼は言ったのか。(又は) メアリが誰にキスしたと彼は言ったのか。
 となる。
  また,Xバー理論も,主語述語構造としての「文」と,文中の主語(名詞),動詞(述語)を修飾しその関係を示す「句構造」を,同一の次元で論じるのは上記Bのように誤りである。文はその全体を通じて,話者の伝達意図を表現するところに成立する。句は,文にとっては必要な脇役であり,部分的な修飾限定構造にすぎない。

G 以上のようにチョムスキーの普遍文法は,言語獲得,言語知識,言語運用も含めたすべての言語理論体系の構築に失敗している。その失敗の根源は,言語は動物の生存欲求の,人間的言語的発展形態であることの自覚の欠如にある。そのため,言語を使用する主体の欲求や問題意識(興味,関心)が欠如し,「何のために言語表現が行われるのか」の追究が排除されてしまう。また,言語表現の主観的側面も無視され,客観的論理的側面のみで言語を定義するという誤った方法がとられることになった。
  人間主体の生存する自然環境は,無限の名詞の状態や運動があり,人間はそれらを対象として選択的に認知し,生存のための適応的行動をとる。言語はそのような対象の状態と主体の意図を言語記号化したものであり,言語の構成法則の基本は,何がどのようにあり,それに対してどのように判断するかをより的確に表現しようとするものである。このように,言語は論理や文法だけでなく,行動主義的・実存的意義をもっている。言語は人間の行動と共にあり,また人間の存在そのものでもあるのである。
  ではなぜチョムスキーは論理的形式にこだわったのか。人間言語に共通する形式性つまり普遍文法の人間的根拠は何か。実は彼にはその根拠がないのである。それはプラトン,デカルト,カント,フンボルトそしてユダヤ・キリスト教の神話(聖書の記述)という西洋的思考の限界の中で,形式的普遍性を求めてさまよっている誠実な思想家・言語学者の姿なのである。

H 普遍文法は,言語獲得において人類に共通する普遍的法則性を追求する。言語獲得装置は,基本的に主体の興味関心の対象を言語化する。言語化することによって,名詞(対象)の状態と対象相互の関係を表現し伝達する。それは知的社会的欲求を充足する装置として人類に生得的に備わっている。つまり言語獲得は,対象の言語的再構成であり,その過程(何がどのように,またどのような関係で存在するか)を追求することなくして統語の規則性は明確にはなり得ない。例えば『言語と精神』(Chomsky,N.1972)では,精神のはたらきにおける言語の影響を強調するが,精神の何たるかは不明である。
  彼は人間言語の研究の「中核問題」に言及するとき,その研究に対する魅惑とそれに劣らぬ挫折感を味わっている。彼はその中核問題を次のように述べている。
  「ある言語を体得してしまうと,人は自分の経験には新しく,そして,自分の言語経験を構成している表現と何らの単純な物的類似性も有せず,何らの単純な仕方でも類同しない,無限の数の表現を理解することができ,それらの表現の新規性にもかかわらず,また探知し得る限りの刺激の配置型とは独立して,そのような表現を適切な折りに,ある時は容易にある時は容易ならずに,産出することができ,そして,この今なお神秘的である力量を分有する他の人々によって理解されることができる,ということである。言語の正常な使用は,この意味で,創造的な活動である。正常な言語使用のこの創造的面は,人間言語を動物のコミュニケーションのあらゆる既知の体系から区別する一つの基礎的な因子である。」(邦訳P159)

  つまり,なぜ人間は無限の数の表現を理解することができ,また新たに産出することができるのか。とくに「新奇であるが適切であるような言語表現の創造が,言語使用の正常な様式であること」「正当な様式とは改新的であり,外的な刺激による制御から自由であり,新しい不断に変化する状況に適切であること」という洞察が,彼にとって重要である。
  しかしこの問題は「初めに言葉ありき。言葉は神とともにありき。言葉は神なりき。」(ヨハネによる福音書)という西洋的偏見を捨てれば,たちどころに解決に向かう。言語によって,この自然界を合理的に理解するという呪縛を離れ,言語が宇宙や生命にとって二次的なものであること,言語が高等動物の《認知・行動》の生存様式からの連続性のもとにあることを理解することが,まず問題解決の第一歩である。それによって,無限の自然的,人工的,想像的対象とその状態に対する音声信号化,状態の記号化における対象の区別・指示(what)とその状態(how),主体における価値判断(how)が産出される。
  従って,彼が普遍文法において目論んだ次のような試みは,当然限界がある。
  「私にとっては,現代の文法研究の最も興味深い相は,精神の特質の普遍的反映であると提唱される言語組織の原理を定式化する試み,そしてこの想定に立って個別言語の一定の事実を説明することができることを示す試みである。」(邦訳p163)

  精神の特質は,言語表現に大いに関係があるが,さらに重要なのは,人間の価値判断や感情生活に関係のある経験(善悪,幸不幸,安心不安等の感情)と,言語の意味表現(命令,願望,制止,疑問等の表現)との関係である。この関係は,人間の感情や価値と結合する言語はどのように生成されるべきか,感情と論理によって如何に自己が語られるべきかという問題――倫理や道徳の問題――さらに宗教的問題ともかかわってくる。人間の倫理や道徳の問題については本論文の後編で論及するつもりである。
  結論的に,チョムスキーの言語論は,最も進化した動物としての人間が,「何のために認知し言語化するのか」という問題意識と,対象とその状態を認知し言語化する過程が欠けている。また話者の伝達意図を示す主語,述語,目的語,補語の関係を,文法において派生的・形式的なものとして(文を句の構造の一種として)捉えている。しかし,文(統語)としての言語表現の論理的形式的側面の根底には,人間だけでなく動物にも共通した《認知・行動》様式(すなわち《WHAT,HOW》構造)があり,これを理解して始めて人間に固有の言語理論とその普遍文法が確立するのである。

(3)ミニマリストプログラム批判  以上のようなチョムスキー理論に対する批判の観点は,1980年代以前の生成文法の疑問や批判をもとにしたものである。しかしこの批判の観点は,1980年代における「原理とパラミター理論(P&P理論)」や「ミニマリストプログラム(最少限主義者計画)」における新理論においても当てはまる。そこで従来の理論をふまえながらも新たな理論の展開を示し,その限界も明確に示されている著書『ミニマリストプログラム』(Chomsky,N.1995 邦訳 1998)に従って,批判を加えてみよう。
 まず,チョムスキー理論の前提となる「これまでのところ間違っているとは確認されていない」「最も簡潔な仮定」から始める。それは言語機能(language faculity)についての仮定である。
 1)言語機能には,情報を蓄積する認知システムと,その情報にアクセスして様々な形でこれを使用する運用システム群という少なくとも二つの部門があるというさらなる経験的な命題も正しいものと考えておく。本書で主に我々の関心の対象であるのは,このうちの認知システムのほうである。
 2)[運用システム群は],言語的な環境の変化に対応して認知システムが変異を示すようには変化をしないのである。これが最も簡便な仮定であり,かつ大いに間違っている可能性はあるが,これまでのところ間違っているとは確認されていないものである。  3)認知システムは,専門的な意味での言語表示諸レベルによって運用システム群と相互作用を行うと仮定する。もっと明確な仮定は,認知システムは,調音−知覚システム(A−P)と概念−意味システム(C−I)という二つのそのような「外的」システムとだけ相互作用を行うというものである。従って,A−Pインターフェイスにおける音声形式(PF)とC−Iインターフェイスにおける論理形式(LF)という二つのインターフェイスレベルがあることになる。この「二重インターフェイス特性」は,言語を意味を伴う音声であるとする,少なくともアリストテレスにさかのぼる,伝統的な記述の一表現法である。           (Chomsky,N.1995 ,邦訳p2)
 以上の引用において,1)の「言語機能」は,人間の心/脳の中にある他のシステムと相互作用するものであるが,言語機能としては,発声による意図伝達という行動を出発点にしており,行動は認知に支配されるということから《認知・行動》様式こそが言語機能の究明に必要なものである。「情報を蓄積する」だけの認知システムを優先する探究法は,言語の本質理解に制約をもたらす。認知と行動を統合し,価値判断の過程や行動を統制する言語機能を導入して,始めて言語機能の全体像が明らかになるのである。
 端的にいえば,認知システムを,情報を蓄積すること(又は言語知識)に集約することは誤りである。人間主体の問題意識によって,対象は判別・認知され,適応的行動をとるための情報が蓄積されるのであって,何が(What)どのように(How)あり,どう(How)判断・行動するのかという認知「過程」のより詳細な分析が,言語の文法構造の確定に直接影響を与える。
 2)運用システムは,言語機能を埋め込み,生成手順にアクセスするものとされ,文法にとって二次的な役割しか与えられていない。チョムスキーによれば,言語運用は具体的な個人が言語能力を用いて自分の考えを表現したり,聞いたことを解釈するなどの場合である。つまり主体の問題意識(WH構造)が言語運用においてあらわれるのであるが,チョムスキーはこれを文法理論構築の対象から除外する。しかし,何を表現しどのように解釈するかという運用の課題こそ文法構造の基礎になっているのである。何が(What)どのように(How)あり,どう(How)判断・行動するのか,という運用の問題を認知的に解明し表現・伝達することこそ言語の統語と表現の中心的な目的だからである。
 「言語機能(faculity)は,言語運用体系に埋め込まれている」(邦訳p15)という説明は正しいが,運用から言語能力(competence)が成立するのであって,言語能力(ないし知識)が運用についての「指令(instructions)」を提供するのではない。何のための言語能力か。チョムスキーを含めて西洋的知識の探究方法には,合理性を重視するがゆえに人間存在の最も根源的な問いである「何のために?」が欠如しているのである。なぜなら,「何のために」を合理的に説明することは(ニーチェが初めて指摘したように,神の支配する文化にあっては)極めて困難であるからである。
 3)において,二つの「言語表示レベル」である調音−知覚システムと概念−意味システムのうち,前者については問題はない。しかし,後者については彼自身も「C−Iインターフェイスに関する問題は,さらに不明瞭でよく分からないものである」(邦訳P3)と述べるように,言語理解の根本であるにもかかわらず解明に失敗しているのである。すなわち,彼は「概念−意味」システムを「論理形式」としてのみ理解するが,これは正しくない。
 言語(音声信号)は,それを使用する話者と聴者の主観(的経験)を離れて客観的に意味をもって存在するということはありえない(外国語を初めて聞く人にとって,それは単なる音声の連続にすぎない)。しかし,客観的な単語としての「概念−意味」には存在意味があるといえる。例えば,音声記号の「き(ki)」は,気・木・黄等の意味があり,特定可能な「本(hon)」でもどのような本(文庫本・辞書・雑誌等)を指しているかで意味が分かれる。つまり言語は,単語はもちろん論理的な文においても,言語主体と状況の中で始めて「概念−意味」が特定されうるのである。
 従って,「概念−意味」システムは,「論理形式」として出力される以前に,「単語の意味」というソシュール的次元・統語文法以前の次元をも含まなければならない。言語論においてチョムスキーが意味論を避けたのは,単語に始まる言語意味の「不明瞭性」(主観性と状況性)を克服できなかったことに起因している。

<原理−パラミター理論>
1)言語能力又は言語知識について
 チョムスキーは,生成文法の基本的関心事である言語能力の初期状態(生得的言語能力)を,人間に特有の能力であると考えるが,これは半面の真理を述べるにすぎない。言語能力に関連する《認知》の様式は,適応的行動のための対象の的確な把握と主体の判断として,高等動物や人間に共通の様式である。分節的発声は人間固有のものであるが,《認知》様式は,チンパンジーやボノボの行動の実験観察で,人間にも共通のものであることが確かめられている。それは前節の「言語論」でも何度か触れているように,何が(what)どのように(how)存在し,どう主体的に判断するかということであり,文の基本構造である,主語・述語・目的語そして修飾語句節で構成されている。文を生成する統語の推進力は,主体の現象把握(好奇心)と自己表現・伝達の欲求であり,統語の様式は,「何がどのようにあるか,そしてさらに高度には,なぜあるのか」という問題意識に対する解答である。しかしチョムスキーは違う。少し長くなるが引用してみよう。
「生成文法の研究は,それぞれが伝統的な趣をもついくつかの根本的問題によって導かれてきた。生成文法の基本的関心事は,特定の個人のもつ言語能力(capacities)を特定し,明らかにすることである。そうすると,我々の関心事は,言語機能(faculity)の状態であり,これは人間の心/脳の一部門である,ひとまとまりの認知特性や能力であると理解できる。言語機能には初期状態があり,これは遺伝的に決定している。通常の発達過程において,言語機能は,子供が幼い頃に一連の段階を経て,比較的不変の安定状態に到達し,この状態は,その後は,辞書を除いては,ほとんど変化しない。最初の妥当な推定としては,初期状態は人間という種にとって均一であるように思われる。伝統的な用語を特別な意味に転用して,到達した状態の理論をその(個別言語)の文法,初期状態に関する理論を普遍文法(UG)と呼ぶことにする。
初期状態は本質的に人間に特有な特徴であり,その諸特性は生物界に類を見ないものであると信じる理由がある。これがもし本当ならば,これはより広範囲な関心を呼ぶ問題となるが,心/脳が有する言語機能の特性とその本質を決定することに対しては直接的な関心は何らもたない。」(Chomsky,N.1995 邦訳 P14)

 この引用で「言語能力」は,我々の立場からは「主体の意図の表現と伝達の能力」である。つまり彼の述べるような「認知特性や能力」ではなく,《認知・行動》様式や知的社会的欲求と深い関わりがある。彼においては,認知と行動の推進力としての知的社会的欲求が,言語論から捨象されているのである。この点については第3章言語論で述べたので参照されたい。
 また普遍文法とされる初期状態については,人間に特有のものであるとされる。しかし確かに分節的な発声は人類に固有であるが,認知の特性については類人猿についても共通性がある。類人猿は興味関心のある対象について,何がどのようにあるかを,記号や手話で表現することができる。つまり類人猿も,人間に共通する認知・行動様式としての《WHAT,HOW構造》をもっているのである。
 次に,言語の生成手順について次のように説明する。言語を話し理解する方法としての「有限の手段の無限の使用」(フンボルトの言葉)は,無限の記号を指定する「言語能力」(構造記述能力)と,その言語能力を用いて自分の考えを表現したり,聞いたものを解釈するときなどの「言語運用」に区別されている。言語能力は,無限集合となる構造記述を(選択された)有限個の記号で指定し生成する手順(関数)とみなせる。そしてこの構造記述が指令を提供し表現や解釈がおこなわれることが,言語運用である。つまり,言語を有していることは,言語の運用体系に構造記述能力(言語能力)が埋め込まれており,それが言語の生成手順を構成していることになる。(邦訳P15)
 しかし,人間言語は高等動物にも共通する《認知》様式と,人間に固有である対象の音声記号(言語)化という二つの側面の生成手順(過程)をもつ。認知様式は《何が,どのようにあり,どう行動するか》という《WHAT,HOW(WH)》様式であり,その認知様式が「対象とその状態,さらに対象に対する主体の意図」の音声言語化と結合して,言語の初期状態が成立したのである。そして統語・論理形式の基本となる主語・述語・目的語構造は,発話の内容・意味の的確さが求められると,形容詞や句・節によって修飾ないし限定され,また付加ないし簡略化されて,論理が複雑になり形式化されてくるのである。
 例えば,幼児の初期の言語使用は,「ママ,いない(ママがいない)」「欲しい,それ(ボクはそれが欲しい)」のような単語の羅列であり,状況が言語の意味を説明する。そして成長とともに文法的に正確になり,表現の的確さが増し形式的,論理的表現が可能になる。
 しかしチョムスキーは,言語表現を「無限の対象とその状態および主体の意図」を記述(表現)するものとしてでなく,すでに言語主体(話者)によって,結果として選択し指定された記号(語彙)の生成(構成)手順であるとみなしている。つまり,語彙の配列を指定する手順(関数)が言語能力であるとする。しかし言語能力とは,まず配列があるのではなく,表現すべき対象に対する興味や関心(WH)があって,それを配列し音声化する能力である。配列を指定するのは主体の問題意識(興味・関心)である<WH>様式であって,彼のいう「言語能力」なのではない。言語の生成手順は,言語主体が興味関心のある意味や意図を選択的に表現する過程である。その意味で言語の生成手順は,基本的には What(何が)とHow(どのように)の関数であると言いうる。
 以上のような不完全な言語理解から,彼は次のような「言語研究の古典的問題」を整理している(邦訳p18)。そしてその解説は当然のことながら混乱したものとなっている。
 a.ジョーンズがある個別言語を知っているとき,何を知っているのか。
 b.ジョーンズが,どのようにしてこの知識を獲得したのか。
 c.ジョーンズが,この言語知識をどのように使用するのか。
 d.心/脳にあるこのような特性が人間という種においてどのように進化したのか。
 e.脳のメカニズムの中でこのような特性がどのように具現化しているのか。

 結論から言うと,上にあげられたa〜eの問題は,すべて「人間(ジョーンズ)は,言語能力によって,伝達・表現すべき意図や欲求を表現し実現する」という命題で解明されるべきものである。このことを念頭において,彼の答えを見てみよう。
 a.についての答えは,「ジョーンズにはSD(構造記述)を生成する言語があり,このSDが(3)[邦訳p18ー19]のような言語事実[韻を踏む,文には文法判断が与えられている,そして4つの例文]を表現する。」しかし構造記述は生成されるものではなく,結果として生成されたものであって,言語表現の規則でもない。人間は対象と自らの意図(WH様式)を音声表現する能力を習得しているのである。その言語能力(WHを解明し,音声表現する能力)によって,人間主体が構造記述を生成するのである。  b.については,「普遍文法にかなり見いだされる」としている。言語の獲得は言語論でも述べた。彼の普遍文法では,初期状態という生得的な文法を想定しているが,これは我々の生成文法批判ではじめて解明される。つまり「言語知識」と彼が名づけた能力の根拠は,彼の認知理論では解明され得ず,我々の《認知・行動》理論から導かれるWH様式論によってはじめて可能になるのである。
 c.の問題については,彼が一貫して考察を避けてきた言語運用の問題であり「人智を越えている」とみなす。しかしジョーンズが,どのように欲求や興味関心(問題意識)をもっているかを知れば,この問いへの解答が可能になる。言語知識は,認知,伝達そして好奇心(環境に自らを位置づけるための)という欲求にもとづいて,特定の言語社会からの学習によって獲得される。言語知識の基本は,対象とその状況の音声言語化とWH様式による論理的配列である。それによって,ジョーンズは対象を認知し,言語化し,伝達し自らの行動を定めるのである。
 d−eの問題については,彼には答えることができず,次のように述べている。
「(d−e)の問題は,認知に関する多くの類似の問題一般と同様に,当分の間は本格的研究ができないように思われる。ここでもまた,多くの落とし穴に注意しなければならない。これらの問題は取り扱わずに,脇に置くことにする。」(邦訳p20)

 言語研究においてこれほどナンセンスなことはない。認知の問題が言語研究において重要であると彼も認めているにもかかわらず,そしてその解明なしに言語における文法・統語の問題の解決はないにもかかわらず,その追究を放棄しているのである。我々はd−eの問題について,すでに第2章言語論試論とスキナー批判において触れておいた。今日の大脳生理学の知識を構成することでこれらの問題を解明することができるのである。
 そして最後に,彼だけでなく西洋的思考形式にとって決定的に欠如している問題がある。それは「ジョーンズは,何のために,なぜ言語を使用するのか」という問いである。我々はこの最も根源的な問いに,すでに答えてきた。生きることは認知し行動することであり,種と共に生きることであり,そのために相互の意図を伝達しあうのである。人は言語によって自らの意図を伝達し,世界を構成し,自らの生き方を選択する。人が生きることは言語によって対象世界を認知し,生き方を方向づけ,選択判断しそれを表現・実行することである。

<辞書と演算体系の批判的視点>
 今まで主に言語能力(competence)について述べたが,次に言語の生成手順にアクセスする運用体系(performance systemes)の捉え方についてみてみよう。まず言語には二つの部門があると仮定する。すなわち演算体系(computation system)と辞書(lexcon) である。演算体系は構造記述(SD)の形式(D構造,S構造,論理形式LF,音声形式PF)を生成し,辞書は SDに生じる語彙項目(lexical items)を特徴づける(邦訳p22)。これらの関係を表示すると以下のようになる。

       D構造 ←―辞書
        ↓
  PF←― S構造
        ↓
        LF       (邦訳P25)
 これに対し,我々は言語の生成手順は,以下のように4つの部門(又は過程)があると考える。
@ 話者(言語主体)にとっての対象と,それに対する判断を言語表現 す る問題意識(欲求・興味関心・意図―what/how反応)が生じる。(→認知 と発話行動への 欲求)
A 表現対象とその状態の名称,さらにそれらを関係づける語句を想起し 又は新たに創る。(→語彙体系の検索)
B 対象とその状態(運動・関係と意図など)を心/脳において構成する(音声化しながら考えることもある)演算体系(→what,how 構造の生成)
C 心/脳で構成された文の音声化(→音声表現)

 例えば,名称の分からない花が,色とりどりに咲いているとする。その状況に関心をもって他者に伝達しようとするとき,まず花を指等で指示(区別を含む)し,さらに指示代名詞(これ,あれ,それ等)で音声表現する。しかしそれでは不正確だから,名称をつけて特定する。さらに命名した対象(チューリップ)の状態(赤い)を表現し,自己(話者)の感動(きれい)を伝達する。
  「チューリップの花が赤い。赤いチューリップの花がきれいだ。」
   <何がどのようであり,それについてどのように思うのか。>
 つまりチョムスキーのようにA B だけでなく,言語には言語表現をする主体の表現欲求を欠かすことができない。演算と語彙化(区別,記号化)の前提として,それらを推進する問題意識や欲求(これらを含めて深層構造と言いうる)が,言語表現の必要条件となるのである。
 このような条件を欠くために彼の統語的演繹体系(文法)は曖昧なものとなる。例えば,過去形 walked を考える場合,語幹[walk]と屈折性[時制]の結合の説明は,二つの可能性を考えている。一つは,語幹を辞書から引きだし,演算規則が[過去]と結合するものであり,他の一つは辞書内部の操作(余剰規則 redundancy rules)ですでにwalked が指定されており,演繹規則がこの walked を内在素性[過去]として照合し,認可するというものである。(邦訳p23)
 ここでは内在法則の内容が不明なままに「辞書から引き出」されたり,「照合と認可」が行われる。「辞書から引き出」したり,「照合と認可」が行われるためには表現主体(話者)の問題意識や関心が必要条件である。「時制の過去」は,主体の時間に対する問題意識「いつ When ?」によってはじめて可能になる。しかしこの演算規則は彼にあってはブラックボックスであり,表現された過去形 walked の生成の根拠は説明されていない。実はこの演算規則とされる内容にこそ、主体の表現欲求・問題意識・認知・行動の重要な規則が含まれているのである。(この点については,後編の「言語と思考」及び「カント批判」において考察する予定である。)
 例えば、時制であれば時間的区別であり,これには yesterday や tomorrow のような名詞,副詞,さらに助詞句( at〜,in〜)による区別がある。また,空間的区別は here,there,this,that 等の名詞(代名詞),副詞と助詞句( at〜,in〜)がある。これらの区別は,主体の対象認知における興味関心や問題意識に根拠をもっている。人間に普遍的な演算規則が主語なのではなく,個々の状況に対応する個々の主体の問題意識や判断が,時間や空間の区別を意識化し,個別言語の文法慣習に従った言語表現がなされるのである。  この事実は,主語・述語・目的語,句構造規則・Xバー理論(指定部・主要部・補部の関係)そして修飾・被修飾の関係ではより基本的である。すなわち何度も述べてきた「何がどのようにあるか」というWHAT,HOW の構造(WH様式)が,演算すなわち統語・文法構造の根源なのである。そしてこの考え方によれば。チョムスキーの重視した「変形規則やα移動」は,表現主体の問題意識(一般に5W1H)の重点の変形や強調・移動にすぎないことになる。

<初期生成文法からP&Pアプローチへ>
 初期生成文法は,伝統文法の考えを借用し,次の二種類の規則を用意していた。(邦訳p26)
(T) 句構造規則:句(名詞句,節など)の階層関係を表現するSD(構造記述)を生成し,これらの句が一定の文法関係にかかわる。
(U) 変形規則:基本的な文法関係から,受動や疑問などの文を生成する。
 すなわち,主語・述語・目的語,修飾語・句・節等は,チョムスキーの樹状図によって示され(句標識),また平叙文(核文―深層構造)の変形によって受動文や疑問文(表層構造)を生成する。

 しかし,句構造規則における主語・述語・目的語などの機能的概念は,辞書の中に含まれる語彙特性とされて,今までの演算体系から分離された。その結果,指定部(specifier)・主要部(head)・補部(compliment)の構造をもつXバー理論の三項関係(筆者の造語)がより基底的・普遍的であるとされ,句構造規則は廃棄された。彼は「句構造規則は,変形規則と違って,初めから怪しい装置であり,必ず辞書に表示されなければならない情報を繰り返し述べていた」(邦訳p28)と回想している。

     XP        
                      XP:X",句(最大投射)
  ZP     X'         ZP:Z",指定部 
                    X':一次投射
                    X :主要部 
        X       YP    YP:Y",補部
                         (邦訳P205)
 句構造によって文構造を説明する規則をつくろうとした彼にとって,主述の文法構造があって,それらを修飾・限定する句構造が付加されるという本来の統語順序が逆になるのだから当然の困惑である。正しくは,句構造が文構造を包摂するのではなく,句構造は,対象名詞やその状況を修飾ないし限定する文構造の変形ないし簡略形なのである。典型的には文構造の基本となる自動詞構文に補部はないが,文は完結しており,また句に変形することができる(例えば,花が咲く→咲いている花)。しかし彼にあっては,伝統的構文の概念は「記述的人工物」であり,これを形成する一般原理(Xバー理論等の規則)が普遍文法UGとされることになった。こうして生成文法は,認識と文法の関連性を指摘した功績を残しつつも,自滅・崩壊の道を歩むことになる。
 そして,初期理論において重要な位置を占めていた変形規則は,変形操作として移動,代入,削除などがあり,総称して「α変更」とされる。また,言語はモジュール(単位)として取り扱われ,束縛理論(binding theory),θ理論(thematic theory),格理論(case theory)等が関与する。そしてこれらが今後整理されることによって,UGとして「簡潔でエレガントな理論」を構築するという希望を述べたのであった。
 しかし,初期生成文法理論からP&P理論に到る大きな流れの本質は,演算体系の簡略化に伴う伝統的「主語・述語構文の解体」である。チョムスキーの追求したこのUGの構文解体こそ,言語の本質を歪曲してしまい,言語の生成における話者・聴者の主体性を見失わせる元凶である。なぜか。それは,高等動物に共通する<認知>様式としてのWH構造が,言語構造の基本となる主語・述語構造を進化させてきたことを見ないからである。つまり,区別・特定された対象である名詞(主語)と,その対象(判断主体を含む)の状態をあらわす述語としての動詞(形容詞),そしてその周辺の対象(名詞)との空間的時間的関係(形容詞句節,副詞句節)という認識つまり,何が(What)どのように(How)あるかの洞察を欠くことになるのである。
 高等動物は,多様な環境への生存を維持するため,全知覚,全神経を駆使して世界を認識している。そして,言語をもつ人間は,これらの環境(対象)を言語化する(言語化することによって二次的な環境を創ることは人間の本質的な特徴である)。まず無限の主語対象があり,それらの中から主体の問題意識に従って対象の認識(名詞化)がおこり,そして対象やその状態・関係を示す述語(動詞・形容詞)が作られて文が生成される。さらに状況の明確化のために対象とその状態・関係を限定・修飾することが,句や節の生成となっている。そしてさらには,対象やその状態が「なぜ(Why)」あるのかは,宗教・哲学・科学の成立の基盤ともなっている。
 チョムスキーの普遍文法追求の結果である「(伝統的な意味での)構文概念は,記述的分類としては有用であるかも知れないが,理論的な地位はない。従って,動詞句構文,疑問節構文,関係節構文,受動構文,繰り上げ構文といった構文は存在せず,このような記述的人工物を形成するのに関与する一般原理だけが存在する。」(邦訳P29)という結論は,人間主体にとっての言語の意味(情報伝達・思考創造・行動制御)を曖昧にするばかりでなく,文法構造の本質(WH構造)をも見失わせるものである。結局,彼の目指した「言語研究の何千年という豊かな伝統からの決定的な離脱」(邦訳P6)は,見果てぬ夢に終わるであろう。
 以下に『ミニマリストプログラム』に従って,辞書と演算体系の具体的規則・原理に批判を加えよう。

4)辞書と演算体系
<辞書>
 辞書には,言語のどのような情報が収蔵されているか。辞書中の単語には,単語の意味・概念,文法的役割,音声表現の三つが記されている。チョムスキーは,この三つのうちで,文法的役割を重視し,Xバー理論の主要部となる単語(名詞,動詞,形容詞,前置詞)の意味選択と主題特性に関心をもつ。
 例えば,動詞 give は,主語・直接目的語・間接目的語を指定する他動詞であり,主題や項位置(主語や目的語の位置)は大部分が予測可能である。なぜか。我々の立場からは give には,誰が,何を,誰にという格を含む疑問(問題意識)が付随していると考える。動物は,対象に対して必ず自己と対象との関係で認識する。giveを考える場合,give の主体(主語)は物(直接目的語)と他者(間接目的語)との関係においても表現される。
 しかし,彼はこの《認知》における《疑問解明様式》を動詞 give において次のように説明する。
「動詞give は,動作主(agent)役割,主題(theme)役割,着点(goal)/受手(recipient)役割を付与すると指定されなければならない。(5)において,John,a book,Mary はそれぞれ,これらの主題(θ)役割をもつ。
   (5)John gave a book to Mary 」      (邦訳p34)

 つまり John が主語であり,a book が直接目的語であり,to Mary が間接目的語となるのは,すべて動詞 give の役割付与と考える。いわゆる文における動詞中心主義である。
 しかし,John,a book, Mary という対象名詞(whatの答え)は,それぞれがどのような(How)状態や関係にあるかを問われている。すなわち,まず与える主体の John はどうなのか(何を為すのか),a book がどうしたのか,Mary はどう関わっているのか。「誰が,何を,誰に,どうしたのか。」この疑問は確かに動詞 give からも発しているが,発話主体の問題意識は,主語である John はもちろんa bookや Mary からも発する疑問である。つまり動詞 give からの疑問(動詞中心主義)でなくとも,主語の John について「どうしたのか」という疑問が生じてから gave が想起され( John gave),さらに「何を与えたのか」という疑問が生じ,a book という対象が指示される(John gave a book)。一連の疑問はそれだけに終わらず,a book が「誰に与えられたか」という疑問が生じto Mary が生成する(John gave a book to Mary)。(さらに when ないし where という状況が,主体の関心に応じて付加されることもある。)
 このように動詞 give や throw は他動詞として目的語をとる。なぜそうなのか。彼の説明は次のようになる。
「与えるべき(義務的な)複数のθ役割をもつ動詞[他動詞のこと―引用者]は,これらのθ役割を受け取ることができるだけの(おそらく補部を含む)十分な数の項[名詞を含む目的語や前置詞句など―引用者]をもつ配置の中に生じなければならないだろう。・・・ある特定のθ役割を受けるには,項の内在的意味素性が,受け取るθ役割と合致しなければならないのである。」 (邦訳p35)

 上の引用で,彼は何を言おうとしているのか。下位範疇化(主語・述語・目的語など)の形式的側面と,意味素性という内容的側面(語句の意味)のどちらが,統語(文生成)に重要な役割を果たしているのかという疑問に対して,彼は辞書の動詞に含まれるθ役割によって統御していると結論づけようとしている。しかし,彼にあっては当然結論は出ない。なぜなら,主題(θ役割)は,語彙を使用する「主体の問題意識と対象との関係」にあるものだからである。 give を使用するのはあくまで話者であり,give は How に対する解答(結果)にすぎない。つまり give は人間の所産なのである。彼にあっては,とにかく辞書(結果)を参照せよというのであるが,それでは統語における文法理論を根源から構築することにはならない。
 実はこの問題の解明は,今までも示してきたが,主語(名詞)と述語(動詞)は相互に,「何が」と「どのように」という疑問と密接不離に関係し,目的語は動詞に依存する。そして,目的語や前・後置詞句における関係は,人間の《認知》における因果関係や空間的・時間的関係,質や量などの洞察と深く関わっている。また認識論的には,カントが確立した認識における形式や範疇という哲学的問題意識にまで発展するのである。
 チョムスキーは,文法の形式的側面の規則を追求する。しかし,文法における哲学的認識論についての関心(文法が認識論的カテゴリーの制約を受けること)はない。彼が哲学者プラトンやデカルトに関心を寄せるのは,認識ないし言語の形式性のみである。認識論の確立は言語問題の解決と同義なのであるが,意味論を排除したチョムスキーの普遍文法論では,西洋哲学における認識論的課題の解決からは遠く隔たっている。そこで言語論によるカントの認識論の克服がつぎの課題となる。この点については,後に「思考」の章で,カントとフッサールの批判を通じて,哲学的認識論として検討を加える。

   <演算体系>
 原理とパラミター(P&P)理論において,「辞書」の解説は単純であるが,演算体系はP&P理論の中心を占め多岐にわたっている。しかし,その内容は,今まで批判を加えた前提を基盤に理論化されたものである。
 彼の統語論は,文生成主体(話者)の問題意識(WH)を排除して,生成された結果としての文や句の構造上の関係を統語論・文法として分析する。次の文例を我々の観点とチョムスキーの観点から検討してみよう。
@ 太郎は 本を 読んだ。 Taro read the book.
A 本を 読んでいる 太郎。 Taro reading the book
B 机の 上の 本。 the book on the desk
C 私は 本を 読んでいる太郎を 見た。 I saw Taro reading the book.

 まず我々の観点から分析すると,@〜Cの文や句はすべて「何が,どのようにあるか」を表現している。@とCの場合は,文として叙述が完成している。Aは,日本語では動詞の連体形で,また英語では現在分詞で,太郎の状態を修飾している。Bは格助詞「の」又は前置詞 on によって本が机の上にある状態を示している。AとBは,ともに文としては完結せずに,自立語を修飾ないし限定している。
 これに対し,チョムスキーの説明によれば,@の主語(Taro)述語(read)目的語(the book)の文を,句構造と捉え,それぞれXバー理論の三項関係――指定部,主要部,補部とする。Aは文でなく太郎の状態を叙述した句であるが,名詞 (Taro ),動詞連体形(読む)又は現在分詞(reading),目的語(the book)は,それぞれ指定部,主要部,補部となる。同様にBは,名詞(the book),前置詞(on),名詞(the desk)も,三項関係に当てはまる。また日本語では,机の上,または(机の)上の本が三項関係を示している。Cは@に準じて,I=指定部, saw=主要部,Taro=補部となる。
 しかるに,ABは,いずれも文構造を主体の問題意識に応じて派生ないし簡略化したものである。なぜなら「太郎が本を読む」「本が机の上にある」(チョムスキーの深層構造に当てはめることができる)状態から,話者・聴者の心/脳中で関心(問題意識)の対象が絞られ,「太郎が読む本」ではなく「本を読んでいる太郎」,「本が上にある机」ではなく「机の上にある本」の状態が意識され(問題意識に応えてイメージされ)表現される。つまり「何が(what)どのよう(how)にあるか」から「どのようにある何なのか」が問われる。WhatとHowは,心/脳中で様々の展開(多様な疑問詞―who,which,where,when,why等)を見せ,個別言語において多様な表現が可能である。そしてそのような問題意識に応じてABの句が派生・簡略化され,主題となる「太郎」や「本」を表現した(表層構造といえる)のである。そこで@〜Bは,DやEのような文を生成することができる。
D 太郎は,机の上にある本を読んだ。
    →Taro read the book on the desk
E 私は,机の上にある本を読んでいる太郎を見た。
    →I saw Taro reading the book on the desk

 しかし彼は,主体の心/脳中における問題意識(WHAT・HOW構造)を法則化することができず,三つの誤った原則を提案する。
 一つは,強引なXバーの設定である。それは前述したように,文を句構造とみなすこと,つまり主語と述語は独立して相互に意味を明確にするWH関係(何がどのようにあるか)があるのに,述語における屈折(時制,性,人称,数)機能を分離させて屈折句(IP―inflection phrase)としてのXバー構造を想定する。VP(動詞句)を設定する可能性はあるが,VPからIPを分離すれば,意味によって成立する主語・述語関係そのものが崩壊して,言語の普遍的本質が隠蔽されてしまう。屈折はあくまで主語・述語関係における派生的・個別言語的出来事に過ぎず,UG(普遍文法)的法則ではない。
 二つには,「統御(command)・統率(government)・束縛(binding)」という概念で,WHAT・HOW構造における統語関係(主語述語目的語,句構造,ないし格関係)を説明しようとする。すなわち言語は,対象(名詞―対象はすべて名詞化できる―Whatの答え)の状態と,それらの関係(および言語主体の意図)を表現するものである。そのことを彼は,名詞の統御・統率関係(格を持つ関係)と考えている。つまり,統御・統率は,名詞の意味(How―名詞の状態や関係―述語又は動詞等)に対する問題意識によってなされるのであるにもかかわらず,これを形式的関係(語彙に内在する素性)つまり問題意識の結果としてのみ捉える。
 代名詞や再帰代名詞の指示・照応関係(束縛原理)についても,言語における名詞は,すべて What によって示される。つまり, What に対する解答は,代名詞の意味が具体化されることである。従ってチョムスキーの考える代名詞束縛の原理も,意味の簡略化と明確化の原理から生じるものである。本来,統御・統率(さらに束縛)という概念には,それらを遂行する主体が必要であり,その主体はNP(名詞句)やIP(屈折句―文の中心となる動詞を含む)ではありえない(結果としてそのように見えようとも)。文を生成(構成)する言語主体(話者)が,WHを心/脳内で思考しながら構成するのである。
 三つには,統率・束縛理論とも関連するα移動(疑問詞WH文と受動文)と空範疇(移動に伴う痕跡)という英語(語順を重視する言語)に特徴的な構造を,普遍文法化しようとしていることである。これは格助詞によって名詞の格を示す日本語と比べれば普遍化し得ないことがわかる。つまり英語は語順を重視し,WH疑問文では疑問詞を文頭(又は節頭)に移動するが,日本語はそうではない。
 @ What do you study (t) ?         (t) は痕跡
 A あなたは何を研究しますか。(又は)何をあなたは研究しますか。
 B 何ですか,あなたが研究するのは。(又は)あなたが研究するのは何ですか。
 疑問詞を文頭に出すことは話者の意図(問題意識)を明晰にするが,日本語では必ずしも文頭には来ない。我々の見解では,まずWH(何が,どのようにあるか)があって文が生成する。文の生成におけるWHとWH疑問文は基本的に同じである。疑問を生じ,それに解答することは,文の生成(構成)手順と何ら異ならない。日本語では疑問となる内容を文の途中に置くことができるが,英語ではむしろ疑問を明確化し強調するために文頭に置かれる。英語は言語表現の目的(意図の伝達)を端的に表現している点で明晰である。日本語の疑問文における疑問の終助詞「〜か」は,動詞と同様に文末にくるため結論が曖昧になりやすい。
 日本の生成文法論者は,平叙文「私は言語を研究する」をD構造とし,「言語を私は(t)研究する」を移動変形文として,例文のような痕跡(t)を認める。しかしこれは英語において" you study what ?"や"you gave what to me ?"を疑問文として認めるのに等しい。いずれも理論的には矛盾はないが,現実的には十分に意味を表現している例文に,痕跡を認める必要はない。また通常 What を文頭に置かない英語のWH疑問文はない。
 次に受動文について考えてみよう。まず受動文の変形例を示す。
 @ Yumi loves Kenji.―→ A Kenji is loved by Yumi.

 受動文の生成については,結果としての文を分析すれば,確かに平叙文@の目的語の Kenji が,受動文Aの文頭に<移動>し,主語となっている。これは話者主体から見れば,目的語を主語として関心の対象を変えて強調したものである。しかし,これを法則とする前に,そのような結果を生じた言語主体の問題意識(Yumi から Kenji への関心対象の移動)を見なければならない。語彙の「移動」とは,話者主体の疑問と関心の対象の「移動」であり,その強調ないし明晰化である。
 チョムスキーは基本的に,結果を原因と取り違えている。結果には必ず原因がある。彼は移動した結果を分析して,移動前の構造をD(深層)構造,移動後の変形した文をS構造と区別してその変形生成の法則性を追求した。彼にあってはDからSへの変形・移動の「原因」が,論理や法則性とは別のところにあることに考えが及ばなかった(論理や法則性にはWH構造という生命の根源にもとづく原因があるのである)。これこそ西洋的思考の限界であり,西洋思想の現在に到るまで越えることのできなかった人間主体欠如の結果である。結果としての言語的思考は,非言語的思考を起源にしており,その起源は行動主義の説明で述べたように,動物生命の生存に対する<認知と行動の様式>にもとづいている。
 以上の観点から,移動に伴う空範疇(EC―empty category)原理や移動の痕跡は適正統率されていなければならないという痕跡理論における移動・変形の制約は,意味論との関連で考察されなければならないということになる。いずれにせよα移動は普遍文法にはなり得ないものである。
 また同様の人間の主体性重視の観点から,チョムスキー理論についての以下の問題の解明が可能になる。

<格表示の意義>
 「すべての音声的に具現化されるNPは,(抽象的な)格を付与されていなければならない。」(邦訳P131)と,チョムスキーは正しく指摘する。しかし,彼にはその説明はできない。付与する(assign)「主体(話者)の判断」が捨象されているからである。彼は別のところで次のように明言している。
「ここでは話者の選択や意図にではなく,メカニズムにだけ関心を持っていることを想起する必要がある。・・・・・・・・
 話者の意図もしくは会話での(可能な)共有前提の何らかの表示である「前提構造」が存在するということもできるであろう。しかし,そのような可能性を追求するのは確実に誤っている。」(邦訳P279)

 しかし我々の観点からは「前提構造」の存在を説明することが可能である。彼にとって「確実に誤っている」ことが,実は正しいのである。
 「名詞が格を持つ」ことは,名詞(WHAT)の状態(HOW)すなわち名詞がどうあるか,他の名詞とどのような関係にあるかを示している。――名詞(対象)は,動詞,形容詞等によって文として,また前置詞・後置詞によって句として,名詞(対象)の状態や他の名詞(対象)との関係が表現される。「名詞(句)が格を持つ」という表現は,言い換えれば,名詞は常に主体(話者)の判断(思考・構成)によって「名詞がどのようにあるか」という一定の評価を受けることを意味する。話者は常に無限の対象(名詞)を話者の問題意識によって分析判断し,言葉で再構成し,表現伝達しているのである。格とは,様々の名詞の状態・関係を示す用語なのである。「言語は,話者の意図を伝達する」という文において,「言語は」は主格として文の意味の主体となり,「話者の」は所有格として「意図」の主体を示し,「意図を」は目的格として「伝達する内容」を示しているのである。
 ではなぜ名詞は格を持つのか。これはチョムスキーが自己の問題意識から排除したものであるが,今までの説明から明らかであろう。つまり,言語表現とは基本的に「無限の名詞の状態や関係」を,「話者の意図や判断」にもとづいて構成・表現・伝達するものだからである。

<演算(統語)における主体の欠如>
 以上に述べたような,結果を根本原因と取り違え,意味論を排除したチョムスキーの転倒した発想は何処からきているのであろうか。語彙選択と構成すなわち演算がどのように行われるのか。まず一つには語彙選択そのものの非主体的捉え方(P266ー268)つまり語彙を選択する主体(話者)の無視があげられる。
 演算について述べた彼の文は彼の言語論の立場をよく示しているので,引用してみよう。
「派生(derivation)の経過において,選択(select)または融合(merge)を適用する動機(motivation)について,何の問題も起こらないことに注意する必要がある。・・・・・選択と融合は「タダ(costless)」であり,収束や経済性の議論の対象にはならない。なぜある列挙が別の列挙ではなく,形成されるのか――あるいは何も形成せず沈黙することをせず,その列挙が形成されるのかについて,意味ある問いかけは存在しない。
 それは,・・・・視覚機構もしくは運動調整機構の理論で,なぜ誰かが日没を見ることにしたのか,あるいはバナナに手をのばすことにしたのか説明するように求めているようなものである。行動選択の問題は実在し,大部分不可解であるが,生体機構の限定された研究の中では取り上げられないのである。」(邦訳p267ー8)(注) 派生(derivation):句・文の形成・生成
 選択:演算(CH)操作において,語彙の列挙(numeration)から語彙項目を選択し,その派生の中に統語構成物として導入する手順である。
融合:演算手順において,すでに形成された統語構成物を合成して,新たな統語構成物を作ること。

 まず派生すなわち文の生成において,「動機」こそが派生の根源である。文(言語)という人間の所産は,動機なしに成立しえない。結果としての文から,その生成(構成)法則を見いだすことは,ある程度可能であるが(伝統文法や生成文法のように),限界がある。少なくとも人間の諸言語に普遍的な文法を追求しようとする場合,高等動物にとっての言語成立の根源すなわち言語の必要性や動機は不可欠である。
 それは,地球にリンゴが落ちるのを見て,万有引力を法則化し,その常数を確定することはできても,引力の根源を解明したことにならないのと同じである。言語は人間の本質をなすものであり,論理的な結果だけをみて言語の本質や普遍文法を解明することはできない。逆にチョムスキーの問題意識では,言語すなわち人間の本質的な部分を見誤らすことになるのである。
 また「選択や融合」という表現は,文の生成において適用可能であるが,「選択」とは選択の基準を前提としており,また「融合」についてもそれを推進する手続き上の規則が必要である。従って,選択や融合によってどのような文を作るかという場合,「タダ」ではありえない。また文の完全性(話者が聴者に,いかに的確に意図を伝達しうるか)をめぐっての「収束や経済性」は,いかなる表現が最も妥当であるか,という文構成・表現上の問題となりうる。
 語彙の「列挙」においても,常に「意味のある問いかけ」が必要である。対象と音声信号の一致は,記号の恣意性はあるものの,社会的合意は必要である。また「視覚機構もしくは運動調整機構の理論」についての例えは,以上の批判からもナンセンスであることが分かるであろう。なぜなら,生理的メカニズムといえども,環境の変化や主体の欲求を充足することが説明できなければならないし,日没を見ることも,バナナに手を伸ばすことも説明できなければならない。むしろ,チョムスキーが「大部分不可解」であるとしている行動選択の問題は,「生体機構の限定された研究」の中でも研究の対象ないし前提とされ,その全体の中に位置づけられる必要がある。人間の本質である言語についても,生体機構の全体に位置づけられなければならないのは当然である。
 彼の言語理論に対する上記の批判は,次の引用でも明らかである。
「言語機能は認知システムの中で,あるいは有機世界の中でさえも,極小主義[minimalist]の仮定を充たすという点において独特なのかもしれない。さらにまた,形態論のパラミターは,その特質において独特であり,演算システムは,生物学的に孤立しているのかもしれない。」(邦訳p261ー62)

 つまり言語が独特なものであることは異論がないが,言語成立は認知システムだけでなく,有機世界でさえもその根源を持っている。また演算システムは生物学的に規定しうる《認知・行動》の様式にもとづいて進化したものである。言語活動は,生命の生存活動から進化したものである。にもかかわらずチョムスキーは,人間の判断の結果としての文法を,言語構成の基準とみなしているのである。これは西洋的思考の限界を端的に示すものである。

 また二つには,チョムスキーにおいては,語彙のもつ「素性」(音韻,意味そして時制,屈折,性,数,人称等の形式素性)の内在性を前提とするが,素性は語彙にあるのではなく,語彙が人間の創造物であるように,素性と言われるものも,対象に対する人間の捉え方を示している。例えば,airplane,build についての彼の説明をみてみよう。
 「FF(LI)[語彙項目LI(lexical item)]の形式素性群FF(formal features)の素性のあるものは,その語彙項目に内在的(intrinsic)なものであり,語彙記載に直接明示的に記されているか,あるいは他の直接明示的に記されている特性によって厳密に決定されたものかのいずれかである。他は,随意的(optional)であり,LIが列挙に参入するときに加えられる。・・・・・・
  airplaneの場合,内在特性としては範疇素性[名詞類],人称素性[3人称],そして性素性[−人間]を含む。随意特性としては数と格の非範疇素性を含む。buildの内在特性は,範疇素性[動詞類]と格素性[対格付与]を含むが,φ素性[性,数,人称]と時制は(項目内部に含まれていても)随意的である。」(邦訳p272)

 チョムスキーは,語彙の素性を音韻素性と意味素性,形式素性の3つに分類し,形式素性を語彙に内在的なもの(範疇−品詞,人称,性,格付与−動詞)と,随意的なもの(数,格−名詞,性・人称−動詞,時制)に分ける。しかし,問題は,形式素性における内在特性と随意特性の分類をどう考えるか,ということである。airplane の内在特性としての<名詞><人称><非人間>という分類は,事実を述べているが,どのように内在化されているかの分析はなされていない。内在的な素性と随意的な素性を分類することに,どのような意義があるのか。
  airplane においては<名詞,3人称,非人間>が, build においては<動詞,対格付与>が内在的であり,名詞における<数や格>,動詞における<性,数,人称>や<時制>は随意的で,統語主体の問題意識や状況に支配される。airplane のように素性が名詞ということによって決まる場合はそれほど問題はない。しかしair や build 等のように,素性が名詞としても動詞としても可能な場合,語彙の素性があって文の生成があるのではなく,主体の問題意識によって素性の表れかたは異なってくる。he aired himself the build of an airplane は語彙の素性を分類するだけでは生成しないのである。つまり,語彙が文の構成を規定するのではなく,語彙を用いる主体が文を構成しているということが明確になる。
 さらに諸言語においても,英語のように性・数・人称が厳格に規定される言語もあれば,日本語のように曖昧にする言語もある。格の表示についても,英語のように語彙の素性によるというより語順による場合もあれば,屈折や前置詞・後置詞によって示す言語もある。
 また彼にとって,音韻素性と意味素性が内在的なものであることは容易に了解できるが,ここに問題がある。というのも,まず根本的なことであるが,音韻とは音声信号そのものであり,その信号の素性(feature―特徴)を意味の素性と対比的に分析することは誤っている。airplane も build も発音には方言のような幅があり,意味についても歴史的・地域的・個人的に違いがあるからである。
 結局,チョムスキ−の分析は,現象としては彼のような解釈も可能であるが,普遍文法を追求するには基本的に誤っているのである。

[意味論と生物学的根拠――おわりにあたって]

 チョムスキーの批判を終えるに当たって,当初の彼の問題意識に戻ってまとめておきたい。彼の理論は変遷はあるものの首尾一貫した「意味論」排除の基本的観点から成り立っている。初期の論文『文法の構造』(Chomsky,N.1957)では 「意味によらないでどうして文法が作れるか?」という問題に答えるために非常な努力が払われてきた。しかしこの設問自体が誤っている:文法はもちろん意味をもとにして作れるという考えそのものがまったく根拠のないものである。これは「話者の髪の色を知らないでどうして文法が作れるか?」というような質問と同様に的外れである。真に問題とすべきことは「どうしたら文法は作れるか?」 (邦訳 P78)

 言葉の意味は,それを創り使う人間主体(話者・聴者)にとっての意味である。そして今まで何度も述べてきたように,言葉は「何が,どのように(WHAT・HOW)」という問題意識があって,音声信号として表現される。自己主張的発声(叫び,うなり,怒り等)でさえ「何が,どのように」ということを示すものである。そして,文の意味とは,このような「WHAT・HOW構造」によって成立している。
 意味とは,話者・聴者にとっての問題意識の対象(言語表現の内容)であり,その意味を明らかにすることは,対象の明確化であり,対象とその状態を話者と聴者が共有しうることである。従って意味論を欠くことは,話者・聴者(言語主体)の関係を無視することであり,言語論の基本を欠くことになる。そして文の統語構造は,基本的に文法による「生成」ではなくて,人間の問題意識や関心による「創造」であり,「自己表現」であり,「問題解決」である。
 言語は基本的に話者の意図を聴者に伝達することであり,そのためにこそ的確に意味が表現されなければならず,文法の成立する根拠も意味表現の約束ごとを作ることである。そして意味とは,結局,重ねていうように「何が(What)どのよう(How)にあるか」(WHAT・HOW構造)なのである。
 意味論を追求することによって,対象に命名された音声信号としての「ことば」の意味が,主体から離れて存在するものではないことが分かる。また主述関係を完結的に示す「文」と名詞の状態や関係を示す「句」の違いも「節のまとまり」も,各種の修飾・被修飾の関係も,各言語における語順や疑問文,態による強調点の違い(言語文化の違い)も説明がつく。SVO言語とSOV言語等の意味論的違いは,何を強調するか,何を明示するかという言語文化の違いを示している。  次に,彼の問題意識としてあった文法の生物学的根拠は次の二つあった。
 (T)人間の精神・脳には,有限の言語要素を使って無限の文を生じさせる計算装置である文法が存在する。
 (U)子どもには,データに接して文法を生物学的必然として生じさせる言語機能が備わっている。
この問題意識に対しては,彼自身も認めているように,形式的な文法理論では説明不可能であり,行動主義的な要素を含めた我々の立場こそ彼の問題意識に答えられるものである。すなわち環境(対象)の的確な認識と個体間の意志の伝達における言語利用の進化論的優位性――言語の主要機能である「情報の伝達,思考,記憶」そこから派生する文化的創造性,行動の自律性――を説明することが可能となり,彼の最近の理論におけるように形式的理論の泥沼から,より人間的で文明論的な展望をもてる展開が可能になるのである。

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