人間とは何か?もっとよく知ろう、自然、命、人間、心.
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人間は、地上の生命の最高の生存形態(様式)だから、人間の本質である言語は、
生命の生存様式の基本から解明しなければならない。
生命の生存様式とは、与えられた環境に対する生命固有の「刺激反応性(様式)」です。
生命は環境からの無限の刺激(情報)を知覚を通じて認識し、固有の反応をします。
生命進化の頂点にある人間にとって、言語は人間固有の認知・反応様式なのです。
今までの言語理論は、言語を単なるコミュニケーションの道具と考えがちでしたが、
私たちの「
生命言語理論」は、言語を意思伝達の手段としてだけでなく
認識や思考の手段として、また欲求や感情・行動の制御機能をもつものとしてとらえ、
思考の法則性として「文法や論理の本質」を明らかにしました。
生命言語説以外の言語理論は、すべて言語の一側面を明らかにしているに過ぎません。
そして、言語論の革新が、今までの哲学上の難問(認識論)の根本を解決するのです。

 
 生命の刺激反応性と適応様式から、動物的思考と人間的思考の比較を通じて、 思考における言語の役割を解明する。動物的思考は対象(刺激)に直面するときにのみ機能する。しかし人間的思考は、言語(音声信号・刺激)化された対象(情報・意味・主語述語)を、内的自律的に処理・再構成・創造することによって成立・機能する。



言語論の革新  生命の生存にとっての言語の役割とは
  やさしく⇒ここ
 言語論の革新は、認識・思考の捉え方の革新である。すなわち、認識の基本は、生命にとって
複雑な環境(刺激・対象)の的確な把握であり、その原則は「対象とその状態」の認識・判断で
あり、それは的確性を求める思考の過程である。そして、伝達の手段である言語は、その思考
の過程と結果を的確に表現しなければならない。その時、対象とその状態は、主語(対象)と述
語(状態)の基本的文法形式として著され、対象間の関係や詳細な状態は、目的語や修飾語、
助詞等として出現する。つまり、言語表現とは、対象の状態や関係性を明確にする思考過程に
他ならないのである。


 思考とは何か。
 この問については、生命の生存(個体と種の維持)という観点からは、生命細胞の基本的存在様式である刺激反応性の進化的様式として説明することができる。すなわち、思考とは、環境に対する直接的刺激反応性である反射的行動を抑制し,今まで学習し蓄積した行動様式や学習情報を駆使して、最適の行動を選択し洞察し創造することである。つまり、何らかの問題状況の情報を収集し、その問題状況を解決するための中枢神経における情報処理過程である。このような意味での思考は,人間でなくとも高等動物例えばチンパンジーでも可能である。

 人間の本質は、言語による情報の伝達、記憶、思考を行うことによって適応的に行動することである。言語的思考が、動物的思考を前提として進化的に発展したことは,前編で論証したとおりである。人間は言語的思考によって知識を蓄え宗教や哲学,そして産業技術や社会を発展させ、科学的世界観に基づいて自然に働きかけ、今日の物質文明を築いてきた。我々の高度に発達した文明社会──便利で豊かな生活は、言語的思考による創造的発展的な創意工夫の産物であるといえる。しかるに今日においても人間的思考の本質は正しく研究し理解されているとは言い難い。その証拠に、非科学的な宗教(とくに創造神を絶対化している宗教)が文化や伝統の中で大きな影響力をもち、戦争やテロの口実として利用されている(植民地化されていた貧困国など)。また、哲学の世界でも、カントの認識論はまだ完全には克服されていないし、フッサール現象学のように確実性を求めて自己破産を繰り返す哲学が、今日(21世紀前半)でも大きな力をもっている。

 生命存在は、個体としても種としても環境の変化や生存の競争において、常に生存の危険を伴っている。生存の欲求と意志を阻む困難と問題性は、つねにその困難や問題性の解決を必要としている。生命存在の不安定さを克服して個体を維持しようとする生存原則は、単細胞から多細胞動物の頂点に位置する人類にいたるまで変わらない。そして問題の解決は,無限の「縁起(変化と関係性)」によってもたらされる外的環境(自然)の刺激に、どのように反応・対処するかにかかっている。環境からの無限で多様な刺激をどのように認知し、適応的生存のためにどのように判断・選択し、如何に的確に反応・行動するか、つまり、動物にとって「何が(what)どう(how)あり、どのように(how)行動するか」という思考様式は、生死を左右する問題である。さらに人間においては「何が、なぜ(why)そのようにあるのか」という自然現象(因果)の根源的疑問に臨むことになる。これらの疑問に挑戦しながら、動物進化の過程で人類が獲得したのが言語的思考なのである。

 従って、「何が(主語)、どうあるか(述語)」という疑問に対しては、「思考の形式は、主語・述語を基本とする言語表現の問題解決形式である」という命題が成立する。つまり、人間の認識における言語的疑問は、文・命題によって解明されると言えるのである。


動物的思考と人間的思考
動物的思考
   知覚的思考:学習と洞察──動物の認識と行動
 1 欲求・個体維持・種族維持
 2 刺激反応性と情動・行動
 3 類人猿の認知と判断・思考
    S.サベージーランボー
 4 類人猿研究の限界 
人間的思考
   言語的思考──人間の認識と行動
 1 思考と言語における刺激反応性の意義
 2 進化と成長における言語の獲得(語彙と文法)
   M.トマセロ  D.ビッカートン  T,W.ディーコン
 3 言語の記号としての意義
 4 言語記号による内的情報処理(対象操作)の意義
 5 言語による認識世界の拡大  K.ローレンツ
■ 言語的思考と感情(行動)
    ――心の構造と機能、「心」とは―─
■ 言語学と生命言語説


動物的思考
 「高度の複雑な洞察のはたらきのなかには、学習と記憶の協働を前提としないものは皆無である。そして他方、試行と成功による学習も、洞察から切り離すことのできない定位メカニズムによる操作に導かれてこそ成功する。」(K.ローレンツ『鏡の背面』邦訳p239)

 知覚的思考:学習と洞察──動物の認識と行動
 人間以外の動物(単に動物と記述)に思考があるかどうかは定義の問題であるが、本論では高等動物(特に類人猿のチンパンジーやボノボ)には、学習情報にもとづく対象の操作や洞察などの思考(動物的思考)が存在すると考える。その場合人間的思考との決定的な違いは、動物的思考では思考の対象が知覚的直接的に(目前に)存在しなければならない(認知の直接性)のに対し、人間では、対象が直接知覚されなくても、「言語によって」間接的(内的)に対象についての情報(表象※)操作が可能であるということである。そこで本論では、動物的思考を「知覚的思考または直接的思考」と表現する。それに対し人間の思考を「言語的思考」と名づける。(※「表象」という表現は、『前編』では用いなかった。しかし認識され、内的に再構成された情報の主観性を明確にするため、内的(脳内)に記憶された対象についての情報を「表象」と表現する。3認知の直接性で詳述)

 また思考とは、世界の諸現象(「刺激」とも「情報」とも表現される)を対象として認知し、それら(記憶された「表象」)の状態(関係性や運動・状態)を、認識主体の立場から(意味や解釈、価値判断を加えて)再構成する神経中枢反応(の過程)である。思考の根源は、生命(動物)細胞が環境刺激を受容し、生存維持(欲求実現)のために適応的に反応・行動する過程(刺激反応性)における認知と判断・記憶(選択・再構成)の機能や過程である。多細胞動物における思考過程は、神経細胞の進化によって分化し、刺激の受容(求心・感覚神経系)、運動命令(遠心神経系)、そして体内感覚・交感・副交感(自律神経系)の3系統を統括する中枢神経系が、大脳として発達した。<上>の表と図(省略)は、神経系を模式的に示すものである。このことはすでに前編で述べたことであるが、以下に要約的にまとめてみる。

1 欲求・個体維持・種族維持

 欲求の分類の意義と意味づけ(動因論・動機づけ論)

 動物や人間の認知・行動の動因となる欲求については、すでに前編で述べたところであるが、その根源は「特殊な環境である地球での生命形態の維持存続」ということであった。地球環境における無限に複雑で多様な自然条件(適度な温度・水・光・有機物等々)の中で生命が誕生し、その生命は地球の無限の環境のそれぞれの条件(海・陸・空─緯度・地形・高度等)の中で適応し、動植物合わせて数百万種以上の様々な生存形態をとることになった。これをダーウィンは『種の起源(On the origin of species by means of natural selection, or the preservation of favoured races in the struggle for life.自然選択による種の起源、すなわち生存競争における恵まれた種族の保存について)」において実証的に説明しようとした。後に「進化論(the theory of evolution)』として進歩の概念として用いられたが、彼は種の起源に目的や方向性があるとは考えなかった。しかし、natural selection やthe preservation of favoured races in the struggle for life という考え方、すなわち自然選択や生存闘争という概念は、生命自体の環境選択や適応的性向という主体的側面を軽視しており、生命主体の環境への共生的適応能力を過小評価するものである(詳しくは前編「ダーウィン説の再検討」を参照されたい)。

 さて、動物の認知や思考について考察するために、欲求の概念がなぜ必要なのであろうか。それは、科学的心理学が従来から「何のために」認知や思考があるかをあまり問題としなかったことへの批判になるためである。古い哲学的心理学は意識の問題を内省的に捉えようとしたし、その反動である行動主義は、刺激と反応に重点を置いて、認知や思考などの内的過程を忌避した。それに対し認知心理学や、認知言語学は内的過程を重視したものの、認知を求める動因としての欲求との関係で認知を捉えることはできなかった。また動因の研究は進められたが(本能論、動因論、動機づけ論等々)、動物と人間の認知と行動を体系的に記述するには到っていない。それが後に述べる「心の理論(Theory of Mind )」をめぐる混乱にも現れているのである。

 われわれが前編において試みたのは、生命(動物)に関する捉え方と、言語生命としての人間の言語の原理についてであった。いずれも人間の認知と欲求・感情・行動の基礎的理解をもたらすものであり、人間の心の構造を明らかにするものであった。「心の構造」とは、人間の認知と行動の過程で、内的に脳内で生起する欲求、認知、思考、情動、感情等の活動をひきおこすメカニズムである。そして、それらの内的過程の目標や基準となるのが、個体維持と種族維持のための欲求や感情である。すでに述べているように個体維持の欲求は、個体の安全を守り、内的恒常性(ホメオスタシス)を維持するために食糧を獲得し、生存に必要な適応能力(知力体力等)を高めることである。また、種族維持の欲求は、子孫を残すために異性を求め(恋愛感情)、人間や類人猿の場合は、育児し家族を守る活動である。

 ここで問題になるのが、生命個体と種の存続における利己性と利他性のバランスはどのようになっているのかということである。両者は価値的な用語であり、社会生活を営む種の進化や生存競争と直接関係している。動物の行動は一般的に生得的な行動様式に支配され、利己性が強ければ、カマキリのように個別的に生きるし、利他性が強ければアリやミツバチのように集団生活をすることになる。高等動物(哺乳類)では、食糧や異性をめぐって同種同族の仲間(雄同士)に対し排他性の強い種(チンパンジーなど)もおれば、母系リーダーの率いる利他性協同性の強い種(ハイエナ等)もいる。一般には同一集団内で、個体維持と種族維持は、利己性と利他性のバランスの上で成立している

 そもそも生存欲求は、遺伝子レベルの問題ではなく、細胞レベルの問題である。細胞は生命状態を維持存続させるために欲求をもつが、遺伝子は種の保存のための情報管理をするにすぎない。生命は遺伝子による統制を受けるが、遺伝子自体は細胞の一部であり、細胞なくして存続し得ないのである。なぜこのことに触れるかと言えば、生命はすべて「利己的遺伝子」の存続をめざしているという誤解にもとづく教説が存在するからである。この誤りは、単に科学の世界に価値的な用語を使用する誤りということではなく、生物科学的な誤りだからである。遺伝子は生命存続の手段であっても、遺伝子自体の存続のために生命(細胞)があるのではないからである。「利己的遺伝子」という発想は、個体的生命の主体性(多様な環境への適応的生存欲求)を軽視する「自然選択」や「生存競争」を前提としてのみ生まれる発想である。生命の基本的欲求を個体と種の維持・保存・存続と考える発想からは生まれない。

2 刺激反応性と情動・行動

 刺激反応性(stimulus-responsivety)は生得的であり、生命誕生の起源に遡る物理化学的な生命活動の本質である。なぜなら生命活動の基本は生化学反応であるから、個体的な活動においても常に化学反応を根底に観察する必要がある。例えば光や音や臭いなど環境の刺激は、知覚神経によって電気化学反応(活動電位・インパルス)として伝達される。当然情動・感情や行動も基本は電気化学反応による刺激と反応の強弱によってコントロールされるのである。

 19世紀の後半にはすでに人間や動物の行動や心理の研究は、神経レベルの自然科学的な分析と体系化が進んでいた。アメリカの代表的な心理学者W.ジェームズ(1842~1910)は、心理学の教科書ともなった概説書で次のような見取り図を描いている。
 「今日では神経系統は、印象を受け、個体及びその種族を保存させる反応を起こさせる機械でしかないと考えられている。・・・・したがって解剖学的には神経系統は三つの主要な部分に分けられる。すなわち──

(1)刺激流(current)を内部に伝達する線維、
(2)刺激流を転向する中枢器官、
(3)刺激流を外部に伝達する線維。
機能上から言えぱ、これらの解剖学上の区分に対応して、感覚、中枢的思惟、運勤がある。」
       (W.ジェームズ『心理学 1892』今田寛訳 岩波書店 1992 上p29-30)

神経系と中枢(大脳)の発達
 パヴロフの犬は,「ベルの音だけでなく」研究者たちを含めた実験室のすべての状況から直観的に思考判断し,唾液反応に至る。このように、欲求を充足させることに関係する刺激が知覚・認知されると、身体が反射的(自動的)に反応することを刺激反応性という。すべての生命細胞は、細胞内の恒常性を維持するために、外的環境の刺激に反応する。多細胞生物では、刺激は触覚だけでなく、光や音、臭いや味の刺激を分化して受容する神経細胞(視=目・聴=耳・臭=鼻・味=舌の感覚器官)を発達させ、さらに反応・行動の適応力を高めるため、それらの刺激情報を統合処理する中枢神経(脳)が進化してきた。多細胞動物における「刺激反応性と中枢統合性の法則」は、生命維持活動の根源であるとともに、複雑多様な環境に対する生命体(細胞)の活動原理である。こうして宇宙・自然における縁起(因果)の運動が、特殊な地球環境に「生命体の認知と運動原理」として実現したのである。

 多細胞生物においては、刺激受容(入力)と反応(出力)を統合する中枢神経において、活動の根源(動因)となる生命の維持存続欲求と、内的反応でありかつ活動のエネルギーとなる情動・感情が複雑に生起する。欲求は外界への認知を促し、欲求充足行動(狩、安全確保、求愛等々)に駆りたてる。それと同時に、対象に応じた情動・感情反応が生じて行動を推進・強化する。このように、動物においては、活動の環境が拡大するとともに、複雑多様な環境の的確な認知と行動の判断・選択が必要であり、それは知的な思考能力を必要とする。

・刺激反応性と因果関係の認知・学習・記憶
 周知のように、動物は生存のための活動として、内外の刺激(stimulus)に対して常に適応的な反射(reflex)や反応(responce)によって生存を維持しようとしている。その反応が生得的に行われる場合(触反射、吸引反射、唾液反射等)は無条件反応(unconditioned response)といわれる生理的反応であり、刺激の認知と反応の間には、大脳皮質に関与しない神経の反射弓が脊髄や脳・神経核を通じて形成されている。従って、因果関係の認知といっても、原因としての刺激を確認することもなく、学習や記憶が関与することのない単純な適応反応である。統合的神経中枢をもたない無脊椎の下等動物や誕生直後の新生児は、反射的活動のみで生存している。

 しかし環境(刺激)の多様性を的確に認知して、より適応的な反応をしようとすれば、後天的な学習と記憶(情報処理とその保存=経験の蓄積)が必要になる。パヴロフは、犬の唾液反射とベルの音の結合(連合)から、生理的反応に直接関係のない刺激(音:条件刺激)が条件反応(conditioned response)を引き起こすことを発見した。この学習過程は不随意的(反射的)に起こり、古典的条件付け(classical conditioning)と呼ばれる。それに対し、ネズミがテコを押すと餌が出るような操作をすると、餌を獲得するためテコ押しを学習する。これをオぺラント(操作的)条件づけ(operant conditioning:操作するoperateからのスキナーによる造語)と言い、適切な反応をすることによって、報酬が与えられるので随意反応である。操作的条件付けは、単なる反射ではなく、刺激(装置とテコ、おそらくエサの臭い)が、何であり、どのようなものであるかを認知し、またどうすればエサを獲得できるかを試行錯誤的に学習・記憶していると考えられる。

 このように、対象(環境・刺激)が何(what)であり、どのような(how)ものであるか。生存にとって有益か有害か、快か不快か。またどうすれば(how)欲求を充足させることができるか。さらに高等動物に進化するに従って、諸対象間の因果(why)や質量・時空等の比較関係性を的確に認知し、より適応的な行動の選択・判断が必要(または可能)となるのである。それらの問題意識を検証する動物の認知行動学的知見を前提として、次に人間に最も近い類人猿について認知(思考・判断)や行動の特徴を検討してみよう。

3 類人猿の認知と判断・思考
 直接的・感覚的・直観的判断による問題解決

 動物的思考すなわち直観的反射的認知と判断は、欲求を充足するための問題解決(例えば、狩による食欲・空腹の充足)のために、生得的行動様式や過去の学習経験と直接知覚的状況に基づいて行われる。この様な思考は狩猟行動等と直接結びついている。獲物(欲求充足の対象)を知覚しながら、相手の状況に応じて最善の行動を取ろうとするのである。人間のように狩猟行動をする前に、作戦を立て仲間と打ち合わせて共同行動を取ることはない。そのような「行動と直接結びついた認知や判断」を、動物的思考と名付ける。このような思考は、類人猿のように高度な認知や思考能力を持つ動物にも当てはまる。類人猿のリーダー(ボス)は、グループの力関係に常に注意を払い、直接的行動から独立して思考しているように見えるが、実は状況の緊張の中で「行動を抑えるという行動の中で思考している」のである。

 チンパンジーが直接刺激(欲求の対象)への行動を抑制できない例をあげておこう。脳科学者であるT. W. ディーコンは、脳と言語の共進化(前頭前野の過剰発達)について述べている中で、S, ボイデンの報告から、チンパンジーは目先の大小のキャンディーに目を奪われ、小を取れば大が得られるという課題に成功することができない。なぜなら「あまりに大きい報酬が、刺激情報を反語的に利用する能力を妨害したからである。欲しいものに完全に目を奪われて、いわばその場面から一歩下がって、現実の文脈の下に欲望を抑えることができない。ある目標を達成するのに、いつもと反対のことをしなければならない。解決が間接的であり、排反的な選択肢の強い影響に遮断されてしまう。」(ディーコン,T.W. 1999 p486)ためであるとしている。この点は決定的に重要である。チンパンジーには3歳児に匹敵する対象操作能力があるが、その能力は目先の直接的欲望(または行動)に支配され、十分に発揮できないのである。思考が完全に行動から独立し、直接的時空を越えて脳内で行われるとき人間的思考が成立する

 人間を含めた動物が、どのような問題状況の中で、どのような思考・判断により、どのような行動を取って問題解決をするか。その判断基準は、本能的反応(無条件反応)を除いて経験的に学習される。例えば以下のごとくである。

模倣:自己の欲求や興味関心にもとづき、他者の適応的判断・行動(モデル)を自発的・生得的に観察学習するのを基本とする。動物が適応的に生存するために、他者(成獣・親・兄弟)の適応的行動を学習するのは最も合理的な適応方法である(社会的学習)。しかし、模倣には生得的無意識的なものだけでなく、教育的意識的なもの、一回的なものと反復練習的なもの、内的興味関心によるものと外的報酬強化による等の形態がある。

洞察:動物の場合、状況を観察しながら過去の学習経験(情報)を関連づけて的確な判断をする認知活動。対象の状況(エサ、仲間、敵等の在り方)への直接的判断を超えて、時間的空間的に離間した状況を見通して適応的判断を行う。「時間的空間的に離間している」とは言っても、主体の欲求と対象の状況の緊張関係は、エサ、仲間、敵等が直前に見えなくても(ある程度は)続いている。すべての知覚を駆使して状況を見極める動物の直観的判断も洞察に含まれる。類人猿において最も優れた洞察力を持ち、道具の使用も可能となる(ケーラーの類人猿の実験等『類人猿の知恵私見』)。

学習:刷り込み(解発的学習)、試行錯誤、条件反射、連合、刺激般化等によって適応的(欲求充足的)反応・行動様式を獲得すること。上記の模倣や洞察も学習の一形態である。人間の成長や発達は、二本足歩行や言語のように生得的に仕組まれた臨界期のある学習と生活文化や社会慣習に適応するための後天的行動様式の学習がある。どのような行動様式と判断基準を学習経験したかによって、後の適応的行動選択(判断・思考)に影響を与える。

(注)学習とは日本語では、「まな(学)び、なら(習)うこと」である。「まなぶ」とは、真似(マネ)ること、模倣すること、習得することを意味する。「ならう」とは、たびたび繰り返して慣(ナ:馴=倣=習)れること、習慣となることである。英語の<learning>は、「知識」を身に付けること、学習や経験によって「覚える」ことに重点がある。日本語の「学習」が、模倣的・習慣的なのに対し、英語の<learning>は、認知的、主知主義的である。パンデューラ,A(1925〜)が、「模倣」を「観察学習」に含めようとしたのは、刺激反応的学習理論から<learning>本来の認知的側面を強調しようとしたためであると思われる。

シンボル操作:多くの動物(例えばハト)では、シンボルA(例えば音声刺激”まめ”)によってシンボルB(例えば図形刺激「まめ」)を選択的に指示することが学習(訓練)できても、その逆であるシンボルBによって「学習(訓練)せずに」シンボルAを選択的に指示することはできない。この様な逆推論が学習なしで可能な動物は類人猿等に限られるとされる(刺激等価性─逆推論が可能であっても、動物の逆推論への関心を実験的に観察するのは難しい。言語を獲得した人間の幼児では容易に可能である)。

類人猿によるシンボル操作は、創造性をもたない
 人間に最も近い類人猿ボノボやチンパンジーは、人間のように知覚的状況から離れて「話す」(意図を伝達する)ことはできないが、かなりの記号的状況を理解し操作(記述)することができる。類人猿は、言語などの記号(シンボル)が、「目の前にはない対象」を象徴(指示)していることを知っているだろうか? S.サベージーランボーは、ボノボについて「ボノボは、大きさから言っても姿から言っても、チンパンジーではない。彼等はむしろ、小さな脳と格別に長い体毛を持った人間と言われるのがふさわしい。」と述べている。彼女は、カンジと名づけられたボノボの研究において、キーボードを利用した図形記号による簡単な会話を行い、英語の構文を理解し記述し適切な行動ができたことを報告している(S.サベージ-ランバウ, R.ルーウィン『人と話すサル「カンジ」』石館康平訳講談社1997)。つまり、図形記号(シンボル)の組み合わせによって示す意味内容を、実際の状況ではなく「頭脳の中に再構成」し、表現伝達していると考えられる。この報告では、実験者の態度を読み取る「賢いハンス(計算できる馬の名前)」効果ではなく、対象の状況を自ら主体的にキーボードを用いて図形的に記述できる。これを人類学者バーリングの関心に従って検討してみよう。

 「カンジは、最初に要求を耳にしたときには、その物も場所も見えない場合でさえ、部屋の外へ出て、特定の場所から物を取ってくることができた。」「カンジは、語順に意味がある3種類の文に正しく対応できた。『ボールを岩の上に置いて』か『岩をボールの上に置いて』か、語順が重要な形式をしている43の礼のうち33例(79パーセント)に正しく応じた。」(バーリング,R『言葉を使うサル』松浦俊輔訳 青土社 2007 p25-27)※(注)

 この「天才サル─カンジ」は、確かに驚異的な人間とのコミュニケーション能力(信頼関係)をもち、人間並みの認知力、理解力、シンボルの操作・構成能力を示している。しかし、人間言語との決定的な違いは、「音声操作能力の有無」である。音声言語をもたないことによってカンジは、自己の動作と母音中心の叫び声、そして与えられた図形文字の範囲内でしか自分の意志を伝えることはできない。また実験者に首輪をはめられ、自己の意志と表現内容まで実験者に支配されている。サベージ-ランバウが類人猿の認知やシンボル操作によるコミュニケーション能力の卓越性を実証したことは、特筆すべき研究成果であるが、実験者と被験動物、自由な人間存在と拘束された類人猿のこの力関係の差こそ人間言語の決定的優位性を示すものなのである。彼女は人間特有の音声言語の意義を過小評価して次のように主張する。

 「もし類人猿が人間と同じように、教えられることなしに言語を習得することができるとすれば、それは人間が動物とはまるでかけはなれた、独自の知性をもっているのではないことを意味する。たしかにホモ・サピエンスは、会話に適した音声と、道具をつくる能力を与えられている。しかしこれは、彼らが他の生物とはちがった次元でものごとをとらえていることを意味しない。カンジが見せてくれな言語習得の過程は、言語の理解こそが言語習得にとって他の何よりも重要であることを劇的に示してくれる。言語を音声として発するということは、適当な器官が備わっていれば可能な、副次的な処理機能の問題なのだ。しかし言語の理解は、概念的な把握の問題、つまり音声の背後にある音声に込められた意味の問題であって、カンジが理解していたのはまちがいなくこれなのである。」(『人と話すサル「カンジ」』 p200 下線は引用者による)

 彼女は、音声信号(言語)や図形信号(文字)の示す意味概念を理解すれば、人間言語と図形文字の違いはほとんどないと考えている。しかし、これは人間言語の浅薄な理解に由来し、類人猿に対する実験観察行為が、研究者の言語的優位性に基づいていることに無自覚であることを示している。次項(類人猿研究の限界)で詳しく説明するが、人間言語は音声信号の意味理解だけでなく、その信号の脳内での内的な操作(文法的思考・情報操作・対象の再構成)とも関わっている。

 彼女が報告しているように、類人猿は音声言語をもたないが、人間に近い高度な認知・洞察・判断能力を持っている。そして、彼女も音声言語(信号)による内的情報処理(人間的思考)だけは、類人猿には不可能であることを認めている。だがこの音声信号による情報処理が可能か否かが、人間と類人猿を距てる決定的な深い溝なのである。

 つまり人間言語の特徴は、意味の理解や意図の表出だけでなく、音声信号の処理(情報処理=記憶・思考)による言語的創造(想像・思考・表象操作)の能力にあり、それによって自然的世界を超えて人為的世界(文化)を創造することにあるのである。彼女は人間言語に伴う人間の創造性については一切述べていない。類人猿は、研究者の巧妙な統制と信頼関係のもとで、高度な認知的能力や信号操作能力を発揮することができる。また類人猿の自発的学習や創意が見られる。しかし、人間言語のような社会性や文化的創造性をもたないことは、誰の目にも明らかであり、この特徴の欠如こそが類人猿の限界を示すものなのである。

※(注) ボノボの優れた言語(人間の発話と図形シンボル)の理解力・記憶力(2000語以上の英単語)と図形の操作表現力、人間並みのコミュニケーション能力。名詞、動詞、形容詞の文構成能力等々。また実験者の言語指示”Take the umbrella outdoors”と”Take the umbrella indoors”を区別して実行したのは46回中38回で約80パーセントの正解率、3つの単語の構成課題の正答率はほとんど8割前後であった。

4 類人猿研究の限界 

人間の言語習得と類人猿の記号習得の違い
 人間の言語習得は、自らの欲求(模倣と知的好奇心)として、主体的関心や疑問から言語を習得する(自然言語)。しかし、類人猿の手話や記号の習得は、習得それ自体への主体的関心や疑問ではなく、報酬を期待した実験的訓練の対象として、手話や記号の理解や操作を習得する(訓練・芸)。類人猿は世界の対象を記号として主体的に習得しようとする興味や関心を持たない(欲求充足の手段としてでなく)が、人間は世界の対象に対する音声記号化(言語化)自体に関心を持つ。幼児はある程度の言語習得がすすむと、対象の名前や状態の表現(動詞)に関心を持ち、自ら「なに?」「なんて言うの?」「なぜ?」と問いかけ、語彙を増やし、文をつくって喜ぶ。

 それに対し類人猿の言語(記号)習得はどうか?「アイ」という利口なチンパンジーと共に世界的に知られる、チンパンジー学者の松沢哲郎は、チンパンジーにも語(図形文字)の理解と文法の構成能力があることを実証したと報告している(松沢哲郎『チンパンジーから見た世界』東京大学出版会2001 2008)。「特定の場面という限定はあるが、チンパンジーは、『文法』を自発的に生成できるだけでなく、先験的に与えられた『文法』を習得して文法的な文をつくるようになる。」(2008 p157)この実験では、正答ならチャイムが鳴り、報酬としての果物片が与えられる。誤答ならばブザーのみが鳴る。アイは実験に親しむにつれて食物報酬なしに学習場面に応じるようになった。

 確かにこれらの実験は、チンパンジーのシンボル理解と操作能力を明瞭に示している。しかしこれは明らかに、実験的操作・訓練であってニホンザルに芸を教えるのと代わりはない。実験動物の認知能力や可能性を研究することはできるが、「文法」の生成や習得、語の構成によって「言語」を習得できたと言えるものではない。

 このような独創的な認知能力の研究は、類人猿の優れた知的操作能力を知り、人間の言語との違いを比較的に研究するなら、言語をもつ人間の特異性や本質を理解する手助けになる。しかしそうではなく、人間との近さや類似性のみを強調するならば、むしろ人間の本質としての言語の理解を妨げることになる。言語学の困難性や深さを理解しないでチンパンジーの知的操作性を人間の言語と同一視するのは、言語の無理解に由来している。その点では多くの認知言語学者の研究が、言語の多面的な本質(伝達・思考・記憶・行動の制御)を理解していないのと同様の欠陥をもっているのである。

 松沢は、類人猿の研究から、人間との類似性を強調して、「音声言語の有無によって区別することさえ絶対的な妥当性をもたない」(松沢1991 p171)と断定している。しかし、人間の音声言語の特徴は、行動反応と独立に音声言語を外的内的に使用可能にしていることである。動物における音声コミュニケーションの研究において、例えば食餌行動と”同時に”、食餌以外の警戒や求愛の音声的行動がなされた観察例はないし、またおそらくボノボにおいても、図形記号操作中に他の行動を同時に(意識的)に取ることは不可能であろう。人間は一つの行動(例えば食事しながら)から分離して、別の話題で会話や思考をすることが可能であるが、類人猿には記号操作と食餌は物理的に不可能(手を同時に使えない)であろう。これは「視覚人工言語」(松沢)によって手を使わざるを得ない実験において、人間の音声言語との絶対的な違い、すなわち動物の図形シンボル操作と人間の音声言語操作との絶対的な違いなのである。彼等比較認知学者が、パブロフの「第二信号系」やヴィゴツキーの「内言」(第二節参照)について冷淡なのは、人間言語の音声信号的特殊性の基本的理解をせずに認知能力の比較を行い、類人猿の認知能力の卓越性を強調したいがためである。 

類人猿実験研究者の限界
 実験対象の類人猿に対する操作・制御を巧妙に行うことはそれなりの意味があるだろう。しかしそれはあくまでも類人猿自身の認知能力を研究することであって、言語をもたない動物と同等に人間の認知能力理解を制約するものであってはならない。それはサルに反省の姿勢を訓練させて、それを反省しているから人間と同様の能力があると説明するようなものではないだろうか。類人猿の擬人化は、類人猿を大切にしているように見えるが、実は人間の本質や価値を類人猿並みに扱い、人間研究の障害となるだけでなく、類人猿自身を自然から引き離し単なる研究の対象に貶めることになるのではないだろうか。

 研究者の類人猿に対する思い入れとそこから来る偏見は、人間研究のための「比較認知科学」といいながら、結局人間理解を遅らせている。類人猿の認知能力の研究は人間理解のために必要であるとしても、それはあくまでも正当な人間理解にもとづいてのみ有益なものとなる。「チンパンジン」という表現や「『人間と動物』という二分法との訣別」(松沢哲郎『チンパンジーから見た世界』1991)、また「類人猿でなく『類人』という新分類の提唱」(藤田和生『動物たちのちのゆたかな心』京都大学学術出版会 2007)等の類人猿理解は、人間と動物の類似性を報告し興味深いものであるが、同質性ばかりを追求し、人間自身の主体的独自性の過小評価を前提としている。人間は単細胞から進化し他の動物と共通の祖先を持つことから当然共通の基盤を持っている。しかしそれは人間のみがもつ音声言語能力の特殊性についての深い哲学的理解を妨げるものであってはならない。まずは自らを省みて人間自身の行動を観察してみるべきである。

 類人猿を研究意図に従えよう(従ってもらおう、芸をしてもらおう──私は彼等が心優しい研究熱心な人たちであることを知っているが──)とするとき、自分はどのように言語を使用しているか。どのようにして類人猿をコンピュータ装置に慣れさせ、どのように図形記号(これを「言語」に見立てようと)を理解させ、どのように表現させるか。正答と誤答をどのように気づかせるか。ブザーか、エサか。実験に素直についてくるか、そのための訓練学習のさせ方は適当か、ストレスは感じていないか、類人猿とのコミュニケーションはとれているか。実験者はこれらのことを配慮し計画して、自分の行動を方向づけ、実験チームの行動を指揮できているか。そしてこれらの実験研究計画・実施・行動化のなかで「人間言語」はどのように研究者の頭脳の中で使用されているのか。・・・・・これらの研究活動にどのように言語が使われているのか、類人猿に対する場合と同じように自分自身の言語活動を研究したことがあるのだろうか。

 類人猿を、餌なしで自主的主体的に行動させ支配する人間の超動物的な能力はどこに由来するのか。少なくとも比較認知科学を標榜する研究者であれば、その決定的優位性の根源である「人間言語」を、類人猿のシンボル認知操作能力を引き出すために考案された「図形記号」と類似するものとして扱ってはならない。言語を用いて自然(類人猿を含む)と自己と他者を支配する人間と、自然から引き離されケージに閉じこめ首輪を付けられた支配される類人猿とを混同してはならないのである。類人猿は決して実験参加者ではなく、「人間言語」によって計画され支配された名誉ある「天才サル」なのである。人間科学の進展は、まずは「汝自身を知れ」というギリシアの格言を真に理解し、類人猿の記号認知操作能力との違いを明らかにすることから始めなければならないだろう。

 つまり科学として正当に人間と類人猿の認知能力の違いを比較研究しようとするならば、まずは研究者自身が、言語を用いた自己の認知と思考と行動を観察し、人間の心と言語の関係を研究するべきではないだろうか。そうすればその一端を上に紹介したように、彼等自身が研究の過程と方法を記述し、研究者自身の言語的行動(心)と被験者としての類人猿の図形操作行動とその心を、対等な関係で科学的に比較研究できることになるのである。それによって始めて、言語操作の可能な研究者が、(言語の意味を理解できても)言語をもたない類人猿を馴致し、図形操作の可能性を解明することができる。それと同時に人間の音声言語の特殊な優位性と「チンパンジーの心」が理解可能となるのである。チンパンジーとの友好的な関係を築くのは素晴らしいが、それによって(類人猿学者のように)人間の特殊な立場の理解を妨げることは、科学者のめざす方向ではないであろう。(*以上に述べようとしたことは、ヒトや動物の実験研究の倫理の問題ではなく、人間の言語と認知をどのように考えるかという問題である。)

類人猿の言語理解の限界と人間の言語
 類人猿研究の大きな課題は、人間の言語を含む認知能力との比較研究である。とりわけボノボやチンパンジーの研究が注目されている。しかしそれらの多くは今まで述べてきたように、類人猿と人間の認知能力の差は大きくないというものである。しかし両者の類似性を強調することは人類に特質を明らかにするよりも、むしろ曖昧化するものであった。そこで以下に両者の共通性、類人猿の限界、人間言語の本質をまとめておく。

・類人猿と人類の認知と行動の共通性
@基本的欲求 個体と種の維持:食欲、性欲、育児、自然的・社会的安全と秩序、
A刺激反応性 視覚能力、学習・洞察能力、判断・操作能力、感情・行動能力
       (種の固有性─手足の自由度・脳細胞・言語等─を除く)
B道具・シンボル操作能力 視覚的対象の操作(模倣、学習、洞察)
C社会行動の共通性 感情・情動(喜怒哀楽、強調と競争、愛と憎、支配と従属等)

 類人猿と人間の遺伝子(ゲノム)的共通性は、約98.8%で人間とチンパンジーのゲノム全体での違いは、1.2%ほどであるといわれている。こんな小さな違いで、どうして人間がチンパンジーの共通祖先から出現することができたのだろうか。 しかし30億文字からなるゲノム全体では、3000万個以上の文字が違う。共通性と同時に相異性が何であるかを見出すのが重要である。

・類人猿のシンボル操作能力の限界
@図形文字の操作的限界(質・量、図形移動→不自由)
A言語の発声能力(子音)の欠如(*注) 
B内的言語構成・操作能力の欠如(直観的思考にとどまる)
C思考と行動の分離性・間接性の欠如(外的行動の優位)
D想像性・創造性の欠如

 以上の事項は、人間における自発的言語発声と内的操作性(創造性)がいかに重要であり、類人猿にはそれが欠如しているため、図形信号を操作し人間言語を理解しても、その存在や行動は人間の支配下に従属せざるをえないことを示している。またそのことは、音声言語によって内的に自己自身「わたし」を世界に位置づけることができないことも示している。類人猿は、動作や信号を用いて自分のことを了解できるが、「自分・私・カンジ・アイ等」の信号(言語・図形記号)を用いて、世界の関係性の中に内的持続的に自らの存在を位置づけ了解し続けることはできないのである。

・人間言語の特殊性
@音声信号は身体活動から自由である。(身体活動と同時発声が可能)
A音声信号は外的表現手段を必要としない。(手足、図形等不要)
B音声は無限の表現能力を持つ。(単語・文の構成の多様性・恣意性)
C音声信号を内的に操作できる。(内的思考による行動の制御→内言)
D記憶された情報を、内的に処理・再構成・創造できる。


 人間言語と類人猿の視覚的(図形)信号の操作の違いは、操作自由度の質的違いにある。音声信号は視覚や手指を必要とせず、口が自由であれば表現できるし、音声なしに内的に信号操作(世界の再構成・創造)も可能であり、また自己の行動を制御できる。人間は世界を言語的に再構成し、その世界の中に自らを言語的に位置づけて生存することを強いられた存在なのである。

 サベージ-ランバウが次のように言うとき、実験者人間と被験者類人猿との関係の格差は、実験者自身の置かれた圧倒的優位な立場──実験研究計画、研究費の捻出、研究の組織体制、コンピュータの操作の設定、研究論文の発表、そして何よりも研究への熱意と野心等々──は、類人猿の「心」には計り知れないものであり、これは決して「他の動物と共有する(認知)能力のおかげ」ではなく、「まったく新しく獲得された能力」なのではなかろうか。

 「言語が、思考のプロセスを強化するのは疑いない。言語は心の世界のより込み入った、強力な操作を可能にしてくれる。しかし、言語はすでに存在していた能力の拡張であって、まったく新しく獲得された能力でないことはまちがいない。話し言葉、これが媒介する思考は、人間以外の動物の思考を裏付ける、同じ神経学的な基盤の上に形づくられているのである。」(前出p337 下線部引用者)

*(注) 聴覚障害者(聾唖者)の知的操作能力は、健常者に劣らない。適切な教育で知的抽象的操作能力を身に付けることができるのは、健常者の存在が前提となる。知的操作能力とは、対象(刺激・森羅万象)の存在と状態を区別し(刺激を区別し対象化すること自体、知覚と認知の進化を必要とする)、大脳内で再構成することで、区別や再構成自体は音声言語を必要条件としない。しかし、何らかの知覚(視覚、触覚)信号は必要であろう。


 
人間的思考

 言語的思考──人間の認識と行動
言語の定義:言語は人間に固有の本質であって、単なる信号(音・光・図形等)ではなく、外的反応や行動から独立して内的に情報処理可能な音声による信号である。言語の基本的機能は、話者の意図や情報を伝達することであるが、情報処理・文章構成のための思考や記憶の手段であり、聴者や話者自身の行動を方向づけ、存在を合理化する手段でもある。

 言語は音声言語に限定される。手話や図形等の信号(シンボル)による情報伝達や知的操作は言語に含めない。手話言語や図形言語、文字言語などの表現は可能である。人工言語という表現は、音声を含む限り可能である(エスペラントのように)。また「チンパンジー用の言語システム」という表現はありえない。「コンピュータ言語」は人間言語とは次元の異なる概念である。

人類言語の起源: 
 人類が、直立二足歩行を始め、火を使い言語を話せるようになったのが、約50万年(いわゆる原人)であったが、人類文化の発達は遅々としたものであった。次いで出現したネアンデルタール人を代表とする旧人は、死後の世界を想像し、埋葬の習慣を行い、宗教的な心情を豊かにしたが、それ以上の痕跡を残していない。約5万年前に出現した現世人類である新人は、始めて洞窟に自らの生活の一部を壁画として残し、狩猟生活への強い執着と絵画造形能力の飛躍的な進歩を示している。

 しかし、自然に依存する生活は真に自覚的な世界観を構成するものとはならない。人類の文化と文明を発展させ、世界を支配する思考能力を身につけたのは、約1万年前、農耕牧畜生活によって、定住し自然をコントロールするようになってからである。狩猟採集生活は自然に依存し支配される生活であり、生活の苦楽は情動に支配されていたと思われる。つまり、対象の言語化は具体的な名称として飛躍的に拡大しても、自然現象や人間存在についての意味や因果を追求する思考能力はまだ未完成で、原始宗教という概念で表現される感情の直接的表現に限定されていたのであろう。叫びや脅し怒りや喜びの直接的な表出と呪術的な祈りや音楽・踊りが集団生活を秩序づけていたのであろう。いわゆる未開社会の文化人類学的な研究はこのことを教えてくれる。

 人間的な思考とは、言語が単なる対象の言語化と自己表出(伝達)の手段から、自然と世界の再構成、因果関係の体系化を行うようになった定住生活以後の思考様式を意味している。というのも言語が単に自己表出の手段であった進化の段階(原人、旧人、新人)を実証的に明らかにすることは困難である。いわゆる未開文明の現世人類は共通の抽象的思考が可能である。おそらく埋葬の文化が行われたネアンデルタール人において、死後の世界を考えある程度の人間的な抽象的思考が可能になったのであろう。自然の神秘的現象や飢饉、病気や事故、集団の争い、悪魔的存在への恐怖等々に対する豊かさと安定を求める願望は、言語的に記憶され呪術的に解消しようとされたであろう。

1 思考と言語における刺激反応性の意義

 ほとんどの言語学者、認知言語学者、脳科学者が言語の本質的理解に到ることができないのは、刺激反応性や行動主義を言語理解から遠ざけたことによる。それは前編で述べたように、チョムスキーの認知論的言語論が、スキナーの行動主義言語論を粉砕し、生成文法を生得的な理論として確立したため、動物の生存様式の根源である「認知と行動」すなわち刺激に対する受容と中枢機能を含む反応性を、言語進化と言語機能(中でも行動制御)との関連で理解する契機を失わせたことにある。言語進化とは、認知と行動の高機能化すなわち意図の相互伝達と知識の拡大であり、言語的思考(情報操作)による行動の制御である。特に行動面において、チョムスキーが言語構造の生得性を強調したことから、生得性自体の刺激反応的本質、すなわち、文の構造(文法)が刺激受容と中枢反応性(何がどのようにあり、どのように反応するか)に由来するものであることを見逃すことになった影響は大きい。

 文の構造(主語・述語・目的語等の関係性)は、チョムスキーの主張のように、ある程度は生得的である、しかしその生得性は高等動物の刺激反応的な認知行動様式に起源がある。すなわち、生命個体は、無限に複雑多様な(multiple and complex)環境からの刺激を認知し、生存欲求を充足させるために中枢的判断を伴う適応的な反応・行動をする。その場合に、刺激となる対象(情報)を確定し、その状態や意味(欲求充足性)を認知しなければならない。従来の条件反射学や行動主義心理学、学習理論では、刺激認知や行動選択・判断の中枢神経過程(情報処理・思考過程、内的過程)の考察は不十分で、スキナーのようにそれ自体を否定する学者もいた。しかし、今こそ生命の生存欲求の本質と認知行動様式の意義を解明するために、内的動機と過程を含めた認知と行動の統一的理解を図らなければならない。人間は何のために、どのようにして言語的生存を獲得したのであろうか。   
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 類人猿では、生存のための認知行動の過程は、単なる条件反応を超えて、対象間の関係性の洞察(ケーラーによるチンパンジーの実験)や記号的な問題解決(ランボーによるボノボの記号操作の実験等)を可能にしている。ただ人間と違って類人猿では、対象を目前にすることなくして知的操作(直接的知覚的対象操作)をすることができない。類人猿は優れた洞察力や対象(象徴記号)の操作能力をもつが、知覚的対象に直接対面することなくして知的能力を発揮することはできない。いわば知覚的対象に囚われているのである。人間の心の発達を、霊長類等の認知能力との比較によって研究しようとする進化心理学者であるゴメス(Gomez 2004)が、次のようにいうのは言語的認知を行う人間との大きな違いを示している。彼は、ケーラーの研究のある側面は、チンパンジーの知性に関するものであると同じくらい、「馬鹿さ加減」を示しているとも述べている。

 「チンパンジーが棒の問題に最初に直画したとき、彼らが問題を解くことができたのは、棒と果物とが同一の視野に入っているときだけであった。たとえば、棒を檻の中に入れる、チンパンジーの背後に置くなどしたとたん、たとえはっきりと棒を見ることができても、また、問題を解こうとして歩き回っているうちに棒に行き当たっても、彼らのうちの何頭かはもうそれを使うことができなくなってしまったのだ。しかし、棒を目標物の近くに動かすと、その同じチンパンジーが、それを使って果物を取ることがきるようになる。」(ゴメス2005 p137)

 それに対し人間は、音声信号(言語)によって対象(自然的想像的存在・対象の表象)を大脳内で内的に再構成・操作・創造し、それにもとづいて判断・反応・行動する。また言語を用いることによって、対象(名詞)やその状態、それらの関係性(動詞等)を記憶し、記号的に再構成し、それらを知識として集積・記憶する。さらに他人との交流を通じて、それらの言語的知識を拡大・社会化して活用し、生存に伴う様々の問題の解決に当たる。
 言語による刺激反応性の質的変容は、音声刺激(信号)を対象(名詞)とその状態(動詞等)に結合させ、音声刺激(語句・単語)に意味をもたせることになる。話者は、意味をもつ単語を構成することによって文を構成し、話者の意図や知識を聴者に伝達するのである。言語は話者の意図を伝達するばかりではない。言語によって思考や想像を働かせ、世界を再構成し、新たな反応・行動を決定する。このように言語を用いた思考過程こそ人間特有の知的・理性的認知・行動様式であり、単なる刺激反応性を克服し、動物と人間を区別する質的変容なのである。
 人間は、知覚的対象への囚われを言語によって克服し、自由になった存在である。しかし同時に、人間自身の言語的創造物によって囚われるようになった存在でもある

2 進化と成長における言語の獲得(語彙と文法)

 用法基盤言語学:社会語用論的アプローチ M.トマセロ
 トマセロは、チョムスキーの生成文法が生物学的基盤を持ち人類全体に共通の生得的普遍文法によって規定されているものであるという主張に対して全面的に批判している。しかし批判の根拠はそれほど強いものではない。

 言語の役割である伝達するべき意味・内容・意図の明晰化のための文構成原理(文法)は、単にコミュニケーション成立のみを規定するのではなく、いかに伝達内容を効率的に、的確に表現するかという(言語と思考の)問題を含んでいる。表現するべき対象とその状況や意図を、言語記号(単語・品詞)によってどのように構成し表現するかは、生物学的構成原理をもたなければ、諸言語の翻訳も成立しない。また、現実に諸文法の共通性があるということは、普遍的文法があるということを意味している。しかしすでにチョムスキー批判(『前編第4章』)で明らかにしたように生成文法には、文法を生成させる生物学的根拠の欠如と西洋的限界がある。

 われわれの主張する「生命言語理論(Life-words thory)」は、言語を人間の本質として規定し、生命(動物)の進化全体の中に位置づけようとするものである。人類の言語獲得の意義を知るためには、生命の生存様式としての刺激受容と中枢反応性、すなわち、刺激(環境)に対する欲求、認知、判断、行動の様式を神経系の進化・発達とともに解明しなければならない。チョムスキーにもトマセロにもそのような問題意識はまったく見られない。ここではトマセロのコミュニケーション理論を基礎にした社会的語用論的「用法基盤モデル」について基本的な検討を加える。
 トマセロは、次のようにチョムスキーの生成文法を批判する。

 「(生成文法の)対案になるのが用語基盤(Usage-Based)モデルの考えで、文法のための特定の遺伝的適応を仮定する必要はないと考える。なぜかというと、文法化と統語構造化のプロセスによって具体的発話から実際に文法構造を作り出すことが可能であり、文法化と統語構造化は文化的・歴史的プロセスであり、生物学的プロセスではないからである。」(『ことばをつくる:言語習得の認知言語学的アプローチ 』辻幸夫 他訳 慶應大学出版会 2008 p15)

 上記の批判は、言語学者と認知心理学者の立場の違いをよく反映している。トマセロは言語習得の発達心理学的プロセスや類人猿の認知能力を帰納的に分析するが、チョムスキーは確立した文法それ自体の結果から法則を演繹し、プロセスを法則に従えようとする。トマセロは言語習得と文法学習を分離して考える。まず言語習得のためには、子ども(1歳前後)が養育者と物・出来事との関係を調整し、この3項関係の中で@共同注意、A意図理解、B文化学習がすすんで一語文が成立する。この過程については異論はないであろうが、文法構造の普遍性については上の引用文のように生成文法的理解を拒否する。
 彼の主張の基本は「言語構造は言語使用から創発する」というもので、言語構造(構文)自体を意味のある言語記号の「パターン」と見なして、そのパターンの法則性(文法)の根拠については考察を避けるのである。彼は次のように文法の生成を説明する。

 「用語基盤的なアプローチにおいては、言語の文法的次元は、全体としては「文法化(gramaticalization)」と呼ばれる一連の歴史的・個体発生的プロセスの産物である。ヒトが互いにコミュニケーションをはかるために記号を使用するときには順序に従って配列し、使用のパターンが現れて文法構文が固まってくる。」(同上p6)

 文法構文の研究には必ずしもその成立の根拠を説明する必要はないが、少なくとも生成文法の普遍性を批判しようとするのであれば、「歴史的・個体発生的プロセスの産物」としてその由来や原理に言及する必要がある。「順序に従って配列」したパターンが文法である。その文法は諸言語によって多様であり、子どもの発達過程の変化を説明できるというだけでは説得力を持たない。そればかりか彼自身も「もちろん言語普遍性は存在する。ただ言語普遍性とは、特定の種類の言語記号、文法範疇や統語構文といったような形式の普遍性ではなく、コミュニケーション、認知、ヒトの生理学的特徴の普遍性である」(同上p21)といいながら「名詞と動詞といったようなものは、指示と叙述を言語記号を用いて表現するためのもの」として、言語の普遍性を認めているのである。実は、この「名詞と動詞」については、生成文法の基本となる句構造規則の中核「文S=名詞句NP+動詞句VP」すなわち「指示(主語=名詞句)と叙述(述語=動詞句)」を構成し、普遍文法の根拠ともなっている。「指示と叙述」の普遍性をトマセロは認めているのであるから、生成文法を全否定するよりもむしろ普遍性の根拠を研究するべきなのである。
 例えば、
 庭園の赤いバラが若い女の心をとらえた。
 (The red roses in the garden caught a young woman's heart. )
において、主部となる名詞句は「庭園の赤いバラ」であり、述部となる動詞句は「若い女の心をとらえた」である。主部の名詞句は「赤いバラ=バラは赤い」「庭園の=庭園にある」という主述関係を含み、また目的語となる名詞句「若い女の心を」は、「若い女=女は若い」と「女の心=女がもつ心=女は心をもつ」という名詞句に主述を含んでいる。さらに「バラは赤い」のように主語が名詞一語の場合は、「バラがある。そのバラは赤い」のようにやはり主述関係を含むのである。つまり句構造は省略や略述はあるものの、「名詞と動詞」「指示と叙述」すなわち「主語と述語」を含み、文構成上の普遍的な単位なのである(なお形容詞は基本的に名詞の状態を叙述する)。  
 それではなぜ句構造が名詞主語と動詞述語を含み生物学的な根拠をもつのかを、「生命言語理論」の観点から再度簡単にまとめておこう。

【生命言語説による主述関係のまとめ】
@生命をとりまく環境は、無限の対象とその刺激が、複雑多様な運動性と関係性の変化・変転状態を保ちながら縁起的に成立している。
A生命は、種の特性に従って環境世界の無限の刺激を認識し、生存の維持・欲求の実現のために模倣・学習・洞察(判断・思考)しながら反応・行動する。
B人間は、音声言語によって刺激対象(名詞)とその状態(動詞・形容詞)を区別・概念記号化し、対象名詞を主語(主題)、状態動詞(形容詞)を述語として結合・再構成し、世界を把握・叙述・表現することができた。
C人間は、主述関係(句構造)を基本として世界を叙述し、知識を構成・創造することによって物質的・知覚的・直接的・動物的世界だけでなく、時空を超えた創造的文化的世界に生きるようになった。
 (※なおより詳細には、『前編』言語言論を参照されたい)

以上の説明で付加するべきことは、生命細胞(動物)共通の生存様式である「刺激反応性」が、言語理解と直接関係しているということである。刺激反応性は、多細胞動物においては神経系の機能として進化発展してきたが、この神経細胞の分化、中枢神経系(脳)の発達によって動物の認知と行動はすべて統制されている。従って神経系の情報処理様式を解明することが、心理学の課題であり、心の謎を解く鍵となり、心と行動を統制し自律し幸福と心の安らぎを獲得する端緒となるのである。

 そこで言語を獲得した人間の課題は、生命の生存は不安定であり、常に生存の脅威に直面していることの究極の解決の手段として獲得されたものであることをまず自覚することである。それによって、言語表現の形式や規則(文法)は、「何がどのように存在し、どのように行動するべきか」という生存のための生命共通の問題意識を叙述・表現する生物学的形式を基本構造としていることが見通せるのである。つまり何が(what)どのように(how)あるかを基本として、より具体的には、獲物は(what)いつ(when)どこに(where)、どのように(how)していたのか, どのような獲物か、集団でどのようにして捕らえるか(計画・役割分担)等々である。疑問解明(対象限定)表現こそ文構成の法則であり、何にどのような問題意識を持つかによって、その言語の叙述形式(文法)も決まるのである。刺激とその課題を問題意識として自覚し、その疑問解明ー対象限定の叙述・表現を文法規則の最小単位であると了解できるならば、文法には生物学的根拠と普遍性をもつことが見えてくるのではないだろうか。
 さらに「生命言語説」の立場からトマセロ理論の限界について触れておく。それは認知言語学一般に共通する限界でもある。

 「私は、言語を認知の一形式と考えている。言語とは、人と人との間の意図伝達を目的とする認知のことである。人間は、他者と自分の経験を分かち合うことを望み、長い年月の間に、それを達成するための記号的習慣を生み出した。・・・・・・私は単に言語的認知ということ、特に、指示場面を出来事(あるいは状況)とその参加者(物)に分割すること、指示場面に対する視点の設定、指示場面のカテゴリー化という、言語的認知の三つの側面を議論すべきだと思う。」(『心とことばの起源を探る』大堀壽夫[ほか] 訳 勁草書房2006 p201)

 この記述はトマセロの言語的認知の基本的欠陥を示している。彼は言語を「認知の一形式」「意図伝達を目的とする認知」と考えている。言語表現を認知と思考一体のものとして考える(what,how,why etc.)のは当然であるが、彼は言語の反応的側面を見逃している。人間は、言語表現によって他者に意図を伝達しようとするが、何をどのように表現するかは認知と思考の過程である。言語表現に認知(と思考)は不可欠であるものの、言語が「認知の一形式」としてのみ進化したものではなく、「認知と”反応”の一形式」であり、意図伝達の反応手段として認知と反応(刺激反応性)を含む過程なのである。
 ほとんどの言語学者が見逃しているのは、言語の刺激反応的側面である。つまり人間は表現・伝達欲求をもち、言語によって伝達内容を認知・思考し構造化するが,その結果が自己了解できず表現という反応結果を生み出さないと、表現欲求は実現できない。例えば、稲妻や雷鳴なぜ起こるか、狩猟や農耕の技術の改善をどうするか、死後はどうなるのか、等々を解明して言語表現的に了解すべき課題は無数に存在する。もし科学的知識のない時代ならば、神々や精霊、悪魔等が問題の根源にあると認知・思考・創造・構文化するならば、呪術や祭礼によって心の安定・浄化・合理化が必要となる。つまり、何らかの問題状況があって、それを解決するために言語的認知と思考を試みても、新たな知見(構文・知識)を得て解決しなければ反応・表現・行動できないのである。

 ここで引用文中の「指示場面を出来事(あるいは状況)とその参加者(物)に分割する」というのは、「動詞・述語(状況)と名詞(対象)」のことであり、「視点の設定」とは、発話者(表現主体)の意図や欲求のことで、カテゴリー化とは言語表現であろう。しかし、トマセロにおいては、子どもの言語習得の発達過程の観察から、対話形成の「共同注意場面」に言語機能の役割を見るが、言語の知的反応的役割を見逃すことにつながっている。つまり、言語表現を通じて世界をどのようなものとして概念化し表現するかは、「対話状況を前提しない」で、世界対象(トマセロの言葉を借りれば「出来事と参加者(物)」)の意味を問うことでもある。

 例えば、通常の対話文に必要な文構成上の疑問、「何がどうした」「何を伝えたいのか」「何を望むか」等の表現でなく、出来事や状況の意味や因果関係を問う疑問と表現、「なぜ(why)そうなのか」「何をすべきか」「どのように解釈するか」のような問の答え(としての構文、例えば、「すべては神の御心のままに」「愛する母は天国で私を見守る」「今は苦しくとも未来は明るい」「あのブドウはすっぱい」等の願望や不快感情の合理化等々)は言語表現(内的表現)によって忍耐を要請し不快な感情反応を抑制することになる。もちろん憎しみや自己否定等否定的感情反応を増幅させる言語表現、例えば、「私の人生を狂わせたヤツを殺す」「私に未来はない、死んでしまおう」等々は、他人に伝達することを意図していない。これらもまた言語が人間行動を方向づけ抑制する内的言語的反応なのである。

 言語は、チョムスキーやトマセロが明らかにしようとしている「認知的側面」だけではその意義を明らかにすることはできない。われわれの主張する「生命言語説」は、従来の言語学における認知論的偏向を克服し、言語の行動主義的側面(行動反応には感情的反応と言語的反応を含ませている)を加味することによって言語論を革新し、人間性(人間のこころ)の本質を解明しようとするものである。生命言語説によってこそ従来の宗教や哲学の閉塞状況を克服することができ、人類の持続的生存の苦しみを軽減する希望を持つことができるのである。

言語進化論:原型言語から真の言語へ D.ビッカートン
 ビッカートン(Bickerton 1990)は、言語の獲得の考察において、類人猿と化石人類の進化、乳幼児の認知能力の発達を総合的に考察して、「原型言語(protolanguage)」という概念の存在を仮定している。彼がその例示として、B.ガードナーのまとめた2歳児以下の発話と訓練された類人猿ワショーの手話の表現の2語文の類似性、さらに「幽閉児」ジーニーの発話とピジン語を、文法構造をもった通常の言語への進化の前段階として考察している。
<2歳児以下の発話>
@Big train (大きい列車); Red book (赤い本)
AAdam checker(アダム コマ) ; Mommy lunch (ママ ランチ)
BWalk street (歩く 通り); Go store (行く 店)
CAdam put (アダム 置く); Eve read (イヴ 読む)
DPut book(置く、本) ; Hit ball (打つ、ボール)
<チンパンジー・ワショーの手話>
@Drink red(あかい飲み物) ; Comb blac.k (黒い櫛)
AClothes Mrs G(服 Gさん) ; You hat (あなた 帽子)
BGo in (行く 中); Look out (見る 外)
CRoger tickle(ロジャー くすぐる) ; You drinki (あなた 飲む)
DTickle Washoe(くすぐる ワショー) ; Open blanket(広げる 毛布)
                (ビッカートン『ことばの進化論』邦訳p129-130)

 それぞれの特徴は、@が対象(名詞:太字)に性質を帰属させる、Aは生き物(名詞)によるもの(名詞)の所有、Bある場所(名詞、場所を含む副詞in,out)への行動(動詞)、C動作主(名詞・主語)の行動(動詞・述語),D動作(他動詞)とその対象(名詞・目的語)という構成になっている。これらの2語文は、いずれも対象(名詞)と対象との関係、名詞の状態を表現している。

 原型言語から言語への進化を考察する前に、「原型言語」「2語文の曖昧性」は、どのように「文法構造の限定性」に到るかの生物学的原理「刺激反応性」が考察されねばならない。彼は原型言語の本質に、いくつかの欠陥があることを指摘している。その根本は原型言語の曖昧性、すなわち統語構造の不完全さ、文法の不備である。統語規則の基本は、主述関係の曖昧さ、因果関係と時空表現の曖昧さを克服することである。しかしこれらの克服が、われわれの生命言語理論の基本原理の一つである「疑問解明と対象限定の形式」による正確性と的確性の追求であることを彼は明確にしていない。つまり「対象(名詞)とその状態(動詞、形容詞)」の表現に対する曖昧さ、不十分さを明確にするために、統語規則(文法)が発達ないし複雑化しているということが指摘されていない。疑問解明とは、「対象が何(what)であり、どのように(how)あるか」ということであり、また対象を明確にするとは、意味を明確にし範囲を定め限定する(define)ことなのである。

 言語(語彙と文法)の成立の起源は、意思の伝達であるが、より正確(適応的)な意思疎通のためには、伝達内容の正確性と的確性が求められる。その実現のためには、認知と表現(刺激認知と反応表現)におけるの正確性と的確性が必要になる。その結果として、音声表現の多様化・複雑化に伴った音韻の規則化(法則化・記号化)が求められ、同時に音声信号に意味(名詞、動詞等:山・川・草・木、話す・歩く・働く等々)が与えられ、音声記号(語彙)の構成によって伝達すべき意図が言語表現されるのである。

 だから原型言語とされる二語文は、表現こそ曖昧ではあるが、人間においては常に伝達意図と表現の明確化が追求されざるを得ないのである。人間とチンパンジーの違いは、一方の人間は、対象への記憶想起によって、対象の確定と対象の状態、さらに対象への自己の態度・価値判断等の明確性(5w1h)を求めるが、他方のチンパンジーは直示的対象への関心に囚われて明確化の努力が前進しないことである。人間は音声表現(信号の意味・内容)を明確にしようとするし、チンパンジーの手話は単なる条件反射に終わるのである。

 また、次のようなビッカートンの「刺激と反応の分離」という考察は基本的には正しい。
「言語は、原型言語も含めて、刺激と反応とを分離させ、言語をもつものが、他の状況においては抑えることができないほどの激しい感情をかき立てる可能性のあるものを、客観的に眺めることを可能にするのである。」(『ことばの進化論』p158)
しかし、その分離の根源は、言語自体が「音声信号(=刺激)」であることと関連していることの言及はない。つまり、音声信号は、記憶され内的に処理されることによって直示性を克服すること(虎が目前にいなくても「トラ」という信号で思い出す)が可能になり、その意味を明確化(「トラ」とは何かwhat、どのようなhowトラか)することを必要とする。対象を音声信号化することは同時に、その信号の意味やさらに詳しい情報の検索や判断を必要とする。類人猿では直示的刺激に制約されるため、記憶想起に伴う意味自体の情報処理能力が貧弱なのである。

 また彼は、動物と人間の認知と行動の研究を通じてわかったことを、「構成的学習」という用語で説明している。構成的学習とは、直接的経験(知覚的環境)なしに過去の複数の情報を内的に構成して新たな状況に対応する能力であり(正確には学習というより「構成的洞察または創造的思考」とするべきである)、抽象的操作能力を必要とする。類人猿にもその萌芽があるが、物理的知覚的環境なしに脳内だけで洞察できるのは言語をもつヒト科のホモ・エレクトス(原人)からに限られるとする。

 「関係する要素がすぐ身の回りの環境に物理的に存在しているのであれば、構成的学習は人間以外の種の少なくともいくつかにおいては可能である。」しかし、「言語に支えられた構成的学習によって、われわれはクラスや今存在しない個体について推論することができる。まさにこのことによってわれわれの種は、自然に対して優位に立つことができるようになったのである。」(ビッカートン『ことばの進化論』邦訳p178)

上の考察も重要な指摘であるが、言語発達における「連続性のパラドックス」(p216)、すなわち、言語発達には、類人猿の「呼び声」のような「進化論的連続性があったはず」であるが、同時に類人猿には見られない言語の抽象的概念性のように「進化論的連続性はなかった」ということについては解明しているとは言えない。彼は人間言語の独自性は、抽象的概念性であるとして「言語は概念を伝達し、呼び声の体系は刺激を伝達する」(p219)だけであると述べている。しかし、上記引用にあるように、言語の運用を「構成的学習」と言い、別のところで、世界は言語のイメージで「再創造」(p218)されなければならなかったと指摘しながら、言語の概念性(語彙の意味)と規則性(文法)とを統一的に理解していない。彼は、幼児が言語を習得するのは、人間には言語の生得的バイオプログラムが組み込まれていると考えているが、「概念化」や「文法化」の起源(ルーツ)については曖昧なままである。そこでビッカートンの「進化的連続性」という問題意識に即して、生命言語説の立場から基本的考え方を述べておこう。

 問題の要点は、意味論に関わる言語記号の抽象性、すなわち言語概念化とその概念による再構成・創造の進化的意義についてである。「進化的意義」とは、動物の認知と行動において、大脳中枢的な情報処理過程が、言語によって連続性を保ちつつもどのように飛躍的に進歩したかということである。

 そもそも動物は,種固有の神経系をもち環境(刺激)をどのように認知し(何がwhatどのようにhowあるisか),またどのように反応する(how,do)かという根本的疑問(what-how 理論)を解決しながら,生存を維持する生得的なしくみを保有している。この生存のための問題解決を前提とした刺激受容・反応性は,脳中枢過程を通じて《認知・反応》様式として,言語構成(統語=主語+述語)上の生物学的基礎となっている。さらに種は固有の意志伝達機能をもつが,音声(呼び声等)による意志伝達の刺激・反応様式も言語成立上の連続的な基礎である。前者は,認知反応過程の情報処理能力(思考能力)をより高める(大脳の発達)ことによって,また後者は音声反応(発話)と行動反応(動作)の分離による情報処理能力の高度化と分節的発声による音声種類(語彙の意味)の増加によって言語発展の基礎を作った。
 このように、認知・反応様式と音声的意志伝達機能の両者の進化は、分節的発声機能の進化に伴って,言語の成立と発展を確実なものとした。

 また言語は,人間の生物学的に基礎づけられた,音声表現欲求を動因とした幼児期の模倣学習によって習得される。人間は,生得的な言語の習得能力をもってこの世に生まれる。言語の習得能力は,類人猿にもみられる対象の区別・指示・構成能力(《認知・反応》様式)を,舌・口腔・声帯などの進化によって分節化する音声信号によって飛躍的に発展させたものである。言語能力の獲得の根源には,環境の状態を的確に認識・把握し,最適の適応を図ろうとする動物の生存本能がある。人間の子どもは,言語環境の中で最適の生存・適応のため,言語を主体的に獲得する。そして自然的社会的環境に対する好奇心を言語的表現欲求として実現する。このように子どもが言葉を使って自由に話し表現する能力があるのは、人間を特徴づける生物学的性質によるのである

 例えば、大人は知覚対象としての「あさがお」を,花や葉,蔓状の茎・枝を含めた全体として表象し意味して「あさがお」と音声表現しても,子どもは必ずしも大人の表象意味をそのまま理解しない。「あさがお」の部分である花の形を表象して「あさがお」という音声信号を理解しているのかも知れない。そして同時に「あさがお」に対する自己の好悪の価値判断を,音声信号と表象意味に加えているのである。このようにして言語習得論は,言語意味論(価値論を含む概念化)に関連していくのである。

 言語の意味は,言語化する対象を音声(刺激)で表現する話者と,音声を聞き(刺激受容)その意味を解釈(認知・反応)する聴者とでは,その対象に対する捉え方(経験)の違いに応じて意味内容も異なってくる。同じ「あさがお」という言語でも,話者と聴者ではその意味する内容(表象・意味)が異なるのである。ソシュール的に言えば,能記(記号表現,signifiant)としての「あさがお」と,所記(記号内容,signifie)としての表象・意味内容は諸個人において異なっている。

 音声信号の表象意味(概念)は,言語共同体内での個人の経験に左右され,共通の意味が意志伝達を可能にしている。共通の意味とは,共同体内での一般的平均的意味であり,話者・聴者の共有する客観的意味である。それは辞書に表現されているような意味をもっている。例えば「あさがお」は,「ひるがお科の一年草のつる草。夏の朝じょうご形の美しい花を開く」(広辞苑)となる。しかし共通の意味は,個々の構成員の経験によって異なり,個人は共同体の共通の意味を体得しつつも独自の意味を実現しながら社会生活を送っている。

 以上の生命言語論の考え方は、20世紀の西洋的言語論における進化論的「連続性のパラドックス」や「言語獲得のパラドックス」、さらに「普遍文法論」に伴う言語生得論論争、そして「言語論的転回」における分析哲学の限界(生物学の忌避)に終止符を打つものである。
言語は、生命の反応であるとともに刺激であり、刺激であるとともに反応である。

3 言語の記号としての意義

 言語が思考とどのように関係しているかは、人間の認知行動を考える場合決定的に重要である。言語表現は思考過程を前提することなくしてありえないし、人間の思考過程は言語を用いることによって始めて、自然対象への囚われ(直示への服属)を克服して創造的になったのである。それではどのようにして言語によって人間の思考は創造的(表象操作的)になったのか。すでに原理論で述べたところであるが、アカデミックな研究は十分に進んでいるとは言えない。言語研究の状況は混沌として饒舌がまかり通っている。何が言語研究において欠落しているのかを見ることによって言語とは何かを明らかにしていこう。

 人類生物学・神経生物学者ディーコン(Deacon,T)は、『ヒトはいかにして人となったか:言語と脳の共進化』(原題The symbolic species : the co-evolution of language and the brain ) という著作において「言語と脳の共進化」という副題にもかかわらず、神経系と脳の進化的役割が生存のための認知処理能力の向上である、という言語の本質的理解から遠ざかっている。確かに言語は脳と共に進化したが、彼の研究には、言語が「何のために」ヒトという生命種に獲得されたのかという考察は不十分である。彼は次のような課題を解決しようとしたが、その課題設定自体に限界がある。

 「言語が事物、事件、関係を表すというのは、すぐれて強力かつ経済的な表示形式である。それによって無限に新しい表象が生まれ、事件を予測し、記憶を体制化し、行動を計画するという、前例のない推理機構ができ上がる。ヒトの思考と世界認識の様式がすべて形成される。それはヒトの知能に深く浸透し、かつ不可分で、ヒトの知能の中に言語によって形成洗練されないものを見分けるのは難しい。この違い(言語の有無)を説明し、こうなった進化の状況を明らかにすることは、ヒトの起源の究極的課題である。」
                         (ディーコン,T,W.1999邦訳 p4)

 言語の重要性について述べた上記の引用文は正しい。しかし彼はこの論文で言語を「前例のない推理機構」「ヒトの思考と世界認識の様式」としてしか述べていない。つまりこの様な言語のもたらす機構や様式は、「何のために」進化したのかという観点が欠如している。そのために、人類における言語獲得の文明史論的意義については引用文のようなすぐれた洞察を示しているものの、記号論や意味論においては西洋哲学に由来する誤りを犯している。彼は意味論について混乱の中にいる。言語は内的処理可能な音声信号であり、語彙においても文の生成においても、常に内的欲求や感情、意図、願望等によって主観的に改新・増幅・創造されていく。そのため、その言語記号(シンボル)の意味は社会的な規則の制約を受けながらも個人的(主観的)に実現されるものであることに思い至らない。 つまり、彼の言語理解の混乱は、一つには言語による情報操作が、生命にとってどのような意味をもっているかという問題意識の欠如である。二つには記号意味論における個人性と社会性への問題意識の希薄さである。前者についてはプラグマティカルな問題意識であるがそれを越えなければならない。つまり欲求や感情とともに言語が検討されなければならない。後者については、少し長くなるが彼の問題意識を見てみよう。

 「語の意味のような簡単なことが、動物にはどうして判らず、厄介なのか。この質問はそれ自体が厄介である。語の意味とは何なのか。これは哲学以前の昔から思索家が考え、思考過程の研究者を悩まし続けてきた。数千年を経、数干冊を数えて、なお語に意味とレファレンスを与える関係とはなにかが明らかにならない。もっとも日常的な経験の一つが、本当のところ、わからない。なにかを意味し、なにかを指すのに、われわれは語を使う。今ままでにない語をつくったり、それに今までにない意味を与えたりもする。符号をきめたり、人工言語を造ることもできる。それでもそのやり方をどうして人間が知っているのか、そのときに人間は何をしているのか。表面的には知っていても、そのもとにある心的過程、ましてやその神経過程はわからない。この基本問題がずっと解決できないでいるのは、単に技術的困難以上のものがあるからかもしれない。これは難しい謎ではないのだが、簡単に使っているだけに、これを理解するというのがはなはだ反直観的に思えるのである。」                      (ディーコン1999邦訳p39 下線は引用者)

 まずレファランスという日本語に訳しづらい用語について考えてみよう。レファランスreference は、記号論に限定すれば、記号の意味は大脳内に蓄積された情報(意味)を照会・参照してその意味内容を連想・了解することである。彼が「語に意味とレファレンスを与える関係とはなにかが明らかにならない」というのは、個人的に引き出される主観的意味ではなく、意味の中に何か社会的に完成されたイデア的なものがあるはずだという前提があるからである。それは心的過程や神経過程が、社会的な情報刺激によって活性化するものであるとしても、まったく個人的な過程であることを考えてみれば「直観的」にも理解できることである。社会的・共同的な過程と個人的・主観的な過程を明確にすることが、記号意味論解明の第一歩である。語に意味とレファレンスを与える関係は、まったく個人的主観的にも設定できるし(個人的暗号として)、通常の言語活動のように社会的平均的意味や情報を、個人的主観的に脳内で検索・参照(レファレンス)しながら活用・実現することもできるのである。  

 語という言語記号は、社会的暗黙的に平均的・慣習的・辞書的な(廣松渉の言う「共同主観的」という表現も可能である)意味があって成立しているが、その意味内容を各個人がどのようにして明確にしているのか。ディーコンにあっては、その意味の在りかが各個人の大脳中にあることは分かっても、どのように存在し、またどのように引き出(検索・参照)されるのかが分からない。なぜか、それは意味には社会的平均的なものと、各個人の中に蓄積・記憶されているもの(情報)との違い(経験・学習の違い)があること、そしてその社会的意味と個人的意味とは、主観的には一致しているようでも厳密には一致することはありえないことが明確になっていないからである。
 特にプラグマティストのパース(Peirce,C.S.1839-1914)の記号論を言語意味論に適用することは、言語理解を混乱させるだけである。次の引用では次のようにパースを取り上げている。

 「彼(パース)は、サイン関係の一般図式の中に、レファランス連合の三つのカテゴリーとして、イコン、インデクス、シンボルを区別した。もちろんこれらの用語はこれまでにもいろいろな使われ方をしているが、パースはサイン・トークンの特性とそれが表す物的対象の特性との形式的な関係を、これによって分類した。簡単に言えば、イコンはサインと対象の相似性によって、インデクスはサインと対象の何らかの物的時間的結合によって、シンボルはサインと対象のいかなる物的特性とも関係のない何らかの形式的あるいは単なる規約的結合によって、それぞれ媒介される。」(p64)
(注)レファランスreference:照会・参照して記号の意味内容を検索・推理・連想・解釈すること、イコンicon:アイコン・図像のような具体性をもつ視覚的記号、インデクスindex:索引・目録のように内容の一部が含まれる表現記号、シンボルsymbol:象徴・記号のように抽象性の大きい記号、サインsign::一般的な記号、トークンtoken:しるし・証拠

 まずパースの目ざすものは、概念の明晰化(すなわち知識の探求)のために、推論の指導原理を明らかにしようとしたのであって、行動への実用性は必要と考えたものの、そこには「生存のための概念・知識」という問題意識はなかった。パースには効果的な行動を、認識・推論の目的とするという問題意識はあったにもかかわらず、生存(生命)のための認識の過程(何が、どうあり、どうすべきか)を判断や知識の基準とする考えはなかった。生命の生存過程は、認識・推論と行動の過程を含むが、概念の明晰化とそのための推論・解釈は、パースにとっては生存のための行動ではなかった。少なくとも「生命にとっての言語(または記号)」という概念についての推論は、パースにはもちろんディーコンにもなかったのである。動物的な推論の起源と人間的な言語の起源とは別であり、両者を結合して初めて言語の生命的本質を理解することができるのである。

 さらに上記の引用文については、パースの記号論は、言語の意味論とは別のものである。記号論としては三分類も意味があるが、言語意味論としてはシンボルのみが有効である。しかもシンボルでさえ言語記号と比較すると飛躍的な違いがある。言語記号は、人間生命の生存と欲求や感情・行動において直接結合していること、さらに本能的とも言える文法構造(チョムスキー的には深層構造)を持っていることである。プラグマティズムの記号論が、科学的探求に哲学的意味を与えていることは評価できるが(注)、言語の生命的意義を解明し、新たな価値の創造に成功しているとは言えない。その点については「欲求と感情」の章において説明をすることになる。

(注)「信念は疑念という興奮を静めるので、その興奮が思考の動因である限り、信念が得られたときには、思考は弛緩ししばらく休止することになる。しかし、信念は行動のための規則であって、この規則を行動に適用すればさらに疑念を生じ、思考を生ずるので、信念は終着点であると同時に新しい出発点なのである。」(パース,C,S『概念を明晰にする方法』上山春平訳 中央公論社1968 p85)

 ではディーコンは、「言語と脳の共進化」によって言語の獲得がどのように進行したと考えたのであろうか。大人社会の言語の進化と子供の言語獲得における脳の進化の相互関係(共進化)に留意して、以下の引用文を読んでいただきたい。

 「チョムスキーは子供の文法と統語の知識の多くは、語のようには学習されたものではないと言う。それはそのとおりだろう。それは[子供によって]発見されたのである。ただし脳にすでにある規則の内省によってではない。見たところ子供は文法と統語について、単に「ラッキーな推理」をする不思議な能力をもっているかのようである。彼らは語が組み合わされて働く仕方を自然と予期している。」(p114 下線は引用者)
 「言語はただ変わることはなく、進化する。・・・・子供は言語を受け継ぐ主体であるから、言語は子供のしそうな推理に合うように強力な淘汰圧を受けている。言語は交信、学習、社会的関係、記号レフアレンスすらふくめて、すべて子供の自発的な発想に適応しなければならない。というのは子供こそが唯一の標的だからである。非常に奇妙なようだが、こうして問題の発想を反転させることによって、子供が言語を必要とするというよりは、言語が子供を必要とするということになった。」(p117下線は引用者)

 まず彼は行動主義の学習理論による言語起源論を批判するだけでなく、チョムスキーの「脳にすでにある規則」すなわち深層構造生得説を「チョムスキーの逆立ち」として批判する。どういうことかと言えば、言語における複雑な文法と統語の知識は、脳内に深層構造として存在しているのではなく、大人や社会の言語構造がまずあって、子供はその構造を直観的推理によって発見し、試行錯誤的に獲得するというものである。そしてその過程は子供の自発的な推理や発想にもとづいておこなわれ、言語構造自体も言語が「自分で自分をデザインする」し、また、「もし言語が子供の心の素質に合っているならば、子供の心が生得的に言語構造を持っている必要はない」(p116)というのである。つまり、人類を特徴づける言語シンボルは、言語と脳の共進化によって社会と個人に獲得された。「現代のヒトの脳を造ったのは社会過程と生物過程の間の進化のダイナミクスであり、それこそが言語適応という前例のない進化を解明する鍵である。」(p408)

 しかし、このような主張は人類における言語獲得の意義を説明する根拠になりうるだろうか。また人間の生き方に関わる現代の諸問題の解決になるのだろうか。ダーウィンの進化論は自然選択によって適応した生命の生存形態(様式)の多様性の根拠を示し、結果としての生存競争(適者生存)と没主体性(『前編ダーウィン説の再検討』)を合法則化する役割をになった。同じように、ディーコンの「言語と脳の共進化論」は、人間の言語的認識と脳の適応的進化(彼の言葉では「過剰発達」)の過程をある程度説明したとしても、言語の認識論的・主体的意義(欲求・感情・認識・判断・創造・行動等)や文法的規則性の根拠についての考察を遠ざけ、人間と言語の本質理解の障害になっている。彼は次のように主張する。 
「かくして私の提案する言語能力理論は次のように言い換えてもよい。前頭前野の過剰発達によって、われわれはみな言語と記号学習のサバンになった。」(邦訳p480)

 確かに世の中に知識や話題が豊富でおしゃべりな(talkative and verbose)人は多い。だがなぜ人類は、そんなにも一方的なおしゃべりが好きなのか。ディーコンはなぜ「共進化」についての探求と論証を一冊の著述にまとめたのか。おそらく、雑談(井戸端会議等)の場合は、談話の仲間に自己の存在を示し、また気になる他人を良くも悪くも評価することによってストレスを解消することができる。またディーコンの場合は、人間についての真実が知りたいし、自己の学問の成果や主張を人々に知らせたいからであろう。またそれによって自己の社会的地位の確立・安定を図りたいのかも知れない。これらの欲求や願望の基本は決して人間特有の行動ではなく、社会生活を営む高等動物であれば類似行動が見られるものである。好奇欲求や情報伝達、安定欲求や自己主張、情動的安定等は動物の社会的生存に不可欠のものである。動物の欲求実現と比べれば、人間の言語能力は「サバン(savant 賢人)」であると言えるかも知れない。しかし、ディーコンは脳と言語の「過剰発達」を捉えて「賢人」と述べているが、果たしてサバンであることは過剰なのだろうか。むしろ過剰発達をしているのは、言語を存在そのもの(ロゴス)であるかのように捉えてきた「西洋的思考様式」ではないだろうか。

 もちろんこれは言い過ぎであるかも知れない。しかし我々の主張は、言語の獲得が、生命(動物)の生存における認識と行動の発達(これを「進化」とも言うが)の必然的結果である(過剰ではない)、というものである。つまり、生命は、生存における個体の恒常性維持と種族の繁栄を求めて、多様で複雑な環境への刺激反応的行動原則による適応をめざしているのであるが、その過程で環境の的確な認識と中枢的判断、そして適応的行動のために神経系を合目的的に発達・高度化させ、膨大な環境情報の処理が可能な言語体系を発達させたのである。この発達・進化の過程は、生命にとって「自然選択」という客観的な表現も可能であるが、生命の立場から主観的(主体的)に表現すれば、定向的な「生命選択」とも言える必然的発達傾向を示しているのである(注)。だからむしろ人間は、今まで言語を有効に利用してきたものの、言語自身の意義について十分理解していないのだから、さらに反省を加えて言語についての認識を深め、人類の福祉のみでなく地上の生命全体の保全に努めなければならないのである。

(注)誤解のないように付言すれば、アメーバにはアメーバの生存環境における生存様式の選択があり、ミツバチにはミツバチに適応的な環境と行動様式の選択があり、・・・・そして人間には人間に最適の生存様式と環境がある。種の多様性は、多様な環境と多様な種の関係性の中で、種自身が自ら保守・適応し、変化・発展することによって生じてきたのである。願わくば、選ばれた人間(または創造神、自然)の立場から生命を見るのではなく、地上の全生命の一員としての人間の立場から生命の多様性や生存様式を科学されることを望むものである。

4 言語記号による内的情報処理(対象操作)の意義

  言語表現(文・命題)は、何らかの対象(名詞)の状態や関係性(動詞・副詞・形容詞等)を示す音声信号(刺激・記号)によって、「意味」を表出する行為(反応)であり、基本的に生命活動としての刺激に対する反応である。意味(例:犬が歩いている状態)を表出する(例:「犬が歩いている」という表現)行為とは、社会的平均的に了解されている記号の意味(名詞の「犬」、動詞の「歩いている」と結合した文)を用いて、表現者自身の了解する個人的・主観的な意味を構成・創造して、社会的に了解可能な客観的言語表現(文・命題)とすることである。

 意味には、語彙の意味と文の意味とあるが、社会的に絶対的な意味もあれば、相対的な意味で了解されるものもある。定義(公理axiom)によって規定される数学上の記号(数字や図形、計算や証明)は、社会的に絶対的なものとされるが、個人的には理解の程度によって意味が異なってくる(意味理解の主観性、数の定義等)。自然的(山・川、動植物等)想像的(神々、天国・地獄等)対象とその状態を示す記号(名詞、動詞・形容詞等)は、社会的絶対的意味をもつもの(唯一のもの:固有名詞)と、社会的に平均的な意味(標準的意味)をもち、辞書を調べても多様な意味理解が可能なものがある。例えば、「犬(イヌ)」という記号は客観的に存在するが、その記号の意味は多様なイヌの変種があり生物学的分類では、オオカミを含める場合もある。多くの形容詞(的名詞)は、「赤」のように濃い赤もあれば薄い赤もあり、また紫や朱色と呼ばれる場合もある。このように個人や言語文化の違いによって意味が異なり、社会的平均的意味と個人的主観的意味の区別をすることは、言語記号(語彙と文・論理)の意味の客観性・イデア性を前提としてきた西洋的思考様式を批判的に考察する必要条件となる。西洋的思考様式においては、ギリシアにおいて典型的なように、言語(表現=ロゴス)は存在そのものと考えられたり、イデア論のように典型的な意味は客観的実在と考えられることがあった。中世における普遍論争でも概念(言語)が実在するかどうかという争いがあった(実在論と唯名論)。

 言語は、直接的な対象(感覚刺激)に対して、直接的に音声反応(言語表現)するだけでなく、音声化された対象が目の前になくても、対象を音声記号(名詞)で指示し、その状態(動詞)を表現できることが原則となる。言語表現(文)には、「何が(what)」の疑問に対する対象の確定(主語)と、「どう(how)あるか」の疑問に対する状態や関係性、表現意図が叙述(述語)される必要がある。人間は、安全や欲求の実現のために、われわれをとりまく世界への疑問と意味への追求心(好奇心)をもっている。このような疑問の解明とその表現こそが言語的思考である。つまり、言語的思考とは、「何が、どうあるか」を言語表現することそのものなのである。別言すれば、言語表現には、言語記号による内的情報処理(対象操作と文の構成・創造)という思考過程が常に伴っているのである。
 この様な言語的思考の特色を、ニック・ランドの4項目分類(『言語と思考』)を参考に、オリジナルなものとして5項目にまとめてみると次のようになる。

@記号性:言語記号は社会的約束として成立するが、個々の言語においては恣意性がある。
A間接性:音声記号を脳内で処理することにより、直接的対象(感覚刺激)から独立する。
B意味性:言語記号は社会的標準的意味として成立し、個人的に実現(意味了解)される。
C創造性:言語表現(文・命題)は、対象の再構成であり、常に創造性を前提としている。
D情報処理性:言語は、世界の知覚的想像的情報(脳内の表象)を記号化し、価値判断や再構成(思考)によって自らを世界に位置づけ、情報(知識)を伝達・共有し、行動を方向づける。

 このように言語は、思考すなわち情報処理の道具であるとともに意思疎通のための道具でもあり、さらには知識を共有するための手段でもある。また思考は、世界を言語情報化して、個体自らを世界の中に位置づけ行動を規定する。例えば動物は自然の規制を受けて行動するが、言語を獲得した人間は、自然に規制されるだけでなく自然を克服し、生活の場所である住居や田畑、学校や会社等を作って命名し、時間的には季節や日時を区別して計画的に日常生活(行動)を営んでいる。一度獲得した慣習的行動は、言語なしに行われるが、目標や課題を変え行動を変容するときには言語的再構成を必要とする。毎日の通学や通勤などで、習慣的・無意識的に電車やバスを乗り継ぎ道路を間違わずに歩いていても、一旦事故などで状況が変化すると、言語的思考が総動員されねばならない。今どこにいるのか、目的地までどう迂回するか、地図を見る場合にさえ言語的思考が必要である。言語的に創られた人間社会は、言語的情報処理ができなければ円滑な生活は不可能なのである。人間は世界を言語的に合理化し秩序づけているが、その秩序の中で行動するために行動を合理化し言語的制御をおこなっている。イヌの行動は記憶された直接的知覚に従うが、人間は言語的に創作された地図やイメージのような間接的知識に従って行動する。

 言語による内的情報処理とは、脳内に記憶・保存された経験的情報を用いて、新たな欲求や課題を実現しようとする思考過程である。それらの情報は言語記号化され、対象化されて意識のもとに引き出し想起される。言語記号は、価値や意味を付与されたそれらの情報を想起し対象化して、操作的に再構成する「刺激」となる。例えば、テニスをしようとするとき、「テニス」という言語刺激は、過去に獲得していたテニスに関する情報(ラケット、ボール、ルール、晴天のコート、試合風景等々)を想起させ、いつどこで、誰と試合をするか、そのうち合わせや試合後のビールの味まで考えが及ぶであろう。それらの内的過程は言語を必要としないで次々に連想される場合もあるが、言語的な問(課題)に対しては、「次の日曜日に、同僚と公園で(テニスをする)」のように、言語的に内的処理が行われ、実際に行動に移されるのである。

 これは日常的な言語的情報処理の過程であるが、さらに重要なのは、自己の人生の意味やものの見方考え方を言語処理する場合である。ほとんどの人間の場合、人生の意味や生き方については親や大人、教育機関等によって既成の伝統的な人生観や世界観を与えられる。例えば、「この世は神が作ったから、被造物としての人間は神の定めた道徳(戒律)にしたがわなければならない。」「この世は地獄へ行くのも天国へ行くのも金次第だから、金儲けや立身出世のために、しっかり勉強をしておきなさい。」「苦しいときの神頼み」「地獄の沙汰も金次第」「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」等々のようにきりはない。

 人間は言語を獲得して以来、言葉によって人間存在を規定し合理化し、行動化して様々の困難を克服してきた。ある場合には神話として、ある場合には宗教的体系として、ある場合には哲学や思想として、ある場合には生活や道徳の指針として成立し、今日でも大きな影響を与えている。しかしまた、それらの言葉が限界を示し世界的な閉塞状態に陥っているのもまた現代的事実なのである。

 次いで、言語と人間形成や生き方について、とくに青年期と言語の役割についてひと言触れておきたい。思春期は、依存的な子ども期から自立へ向かう時期で、身体や性的な成長がいちじるしい。また精神的にも多感で衝動的になり、自己の感情のコントロールが難しくなる。人間関係においても大人などからの干渉を嫌い反撥することも多くなり第2反抗期とも位置づけられている。この時期多くの青年は、「自分が何ものか?」「周りからどのように見られているか?」など自己のアイデンティティをめぐって迷い葛藤することが多くなる。このような内的葛藤が、言語的問いとして自覚される場合(問いをもたずに病的に抑圧されたり行動化される場合も多い)、伝統的信念体系(宗教、芸術、スポーツ、受験等)に没入したり、固有の信念体系を模索するが、その場合に自己の生き方を「〜をめざして生きる」とか「私の生き方は〜から教えられた」等、言語的に衝動をコントロールしようとする。精神分析の立場から自我や防衛の機能について論究したA.フロイドは、青年の自我の形成における知性化の役割について次のように述べている。

 「衝動の知性化、つまり衝動を言葉でいいあらわし、意識的に処理できるようにし、衝動を自由に支配しようとする試みは、自我の最も一般的で、もっとも早くからあらわれ、もっとも必要な学習的習慣である。知性化は自我が営む活動というより、むしろ、自我の欠くべからざる成分であるように思える。」(フロイド,A『自我と防衛』外林大作訳 誠信書房 1958 p245)

 A.フロイドは、明確に自覚はしていなかったが、知性化と言語の関連性や自我の形成における言語的役割についてすぐれた洞察を示している。つまり、言語による内的情報処理を、思春期の不安や悩みの解決の過程として説明することができる。すなわち、思春期の葛藤について、言語的問題意識(「いかにするべきか」)を持たずに何事か(宗教や恋愛、趣味やスポーツなど)に集中して克服する場合もある(昇華)が、その場合でさえ「私は何をすべきか」「どのように生きるべきか」という言語的疑問で表現すれば、言語的に答えざるを得ない。しかもそのような問いは、ある場合には全人格をかけ自己の生命をも脅かすような問であり、また答えなのである。例えば、孔子が「朝(アシタ)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」(『論語』里仁篇)と言って「道」を求め続け、アウグスティヌスは「不滅のものは滅びるものにまさる」(『告白録』第7巻第4章)として神の永遠性を生涯をかけて追求した。それらの「道」や「不滅」なるものは人間の創造(想像・構想)力の所産であるが、それ自体が孔子やアウグスティヌスの観念を越えて存在するものではない。おそらく彼らは、永遠性やイデア的なもの(理想)を求める青年時代に、先人や書物から学んで、それらの理想の追求を自らの課題あるいは使命として自覚し、自らの生涯をかけて追求すべき目標と考えたのであろう。言語とはそのように、多くは青年期に形成され人間の一生涯において、欲望や衝動を方向づけ、言語刺激によって規制される理想や生き方や、それらにもとづく行動や感情を支配することができるのである。

 諸個人がもつ理想や目標を形成する背景は、先人達に社会的共通的に存在し、言葉(概念)に支えられている社会的観念(伝統、通念、イデオロギー)である。社会的観念とは、言語記号(道・不滅等々)を媒介的刺激として諸個人に伝達され、彼らの主観に構想・記憶され、また想起されるものである。個人に構想される「道」や「不滅または神」は、個人主観に構想される過程で自己の追求する目標にもなり、ものの見方や生き方(世界観・人生観)ともなるのである。「道」を求め「神」に仕え、永遠の生命を目指すこと等の精神的な生き方だけでなく、先祖の家督財産を守ったり、立身出世を目指すような物質的経済的な生き方もまた質的に異なるものの、人間は言語的な枠組みを伴う観念や思想(ものの見方や考え方)をもつことによって歴史的社会的に生きざるを得ないのである。その意味で人間は、人生においても日常においても、自らの存在や行動を言語的に規定し合理化する存在である。

5 言語による認識世界の拡大

 これまでの論述で、生物の認識する力(無限の刺激を選別し判断する能力)は、個体と種の維持・存続という目的を持つものであることに言及してきた。その認識能力は生物種によって異なり、種はそれぞれ固有の「環境世界」をもってその限られた世界の刺激に反応しながら生存活動をしている。生物学者のユクスキュル,J.(1864-1944)は、「ダニの環境世界」の紹介によってよく知られている(『生物から見た世界』邦訳1973)。灌木の枝先で待ち伏せるダニは、哺乳類の汗に含まれる酪酸の匂いによって落下作用を引き起こし、皮膚の温かさに導かれて体液を吸引するが、その間、視覚や聴覚・味覚は一切関係なく目的を実現するという。高等動物においても、猫の視覚は暗さには強いが色には弱いし、イヌの嗅覚はヒトの数千から数万倍とされる。類人猿においても、ゴリラ、オラウータン、チンパンジーはそれぞれの生活世界(フッサールの専門用語ではない)を異にし、それぞれ特有の環境世界を持つ。だから当然それぞれの種においては生活環境にあった知覚・認識と反応・行動の様式が異なっている。しかしいずれの種もそれぞれの生存様式によって適応し、自らの個体と種の維持・存続を目的として環境世界に生存しているのである。
 人間の特色は直立二足歩行で自由な両手を使えることにある。しかし、より人間的な本質は言語を用いて生活・環境世界を記号情報化し、自らの情報操作によって想像(創造)的世界を作り、さらに社会的な情報伝達によって、空間と時間を超えて膨大な情報を獲得し蓄積して、それらの情報を認識・検索・操作して問題状況に応じた最も適応的で有効な行動をすることである。生命言語論においては、言語的認識は人間的知識(=情報)の根幹になるが、知識の増大と生活や生産技法の発展は緊密に結びついている。とりわけ西洋における科学的認識の成功は、人間による自然(世界)の支配(『創世記』では神の命令であった。)を推進した。イギリスのルネサンス期において科学的知識にもとづく学問と技術の発展を予言し実現しようとしたベーコン,F.(1561~1626)は次のように述べている。

 「人間の知識と力とは合一する。原因が知られなければ、結果は生ぜられないからである。というのは、自然は、服従することによってでなければ、征服されないのであって、自然の考察において原因と認められるものが、作業においては規制の役目をするからである。」 (ベーコン, F.『ノヴム・オルガヌム』邦訳p231)

 歴史的に見ると人間はこの言語をそれほど有効に使ってきたわけではない。そもそも人間は言語を獲得することによって道具を発明・製作し、農耕牧畜によって生産力を高めた点では文明を発達させたが、異なる言語や民族文化(特に宗教)に対しては冷淡になることが多かった。世界各地における民族間の紛争は、文明成立以前から今日まで続いており、奴隷制度や封建制度など殺戮と支配、差別と暴虐の根源となってきた。民族集団内でも、自己顕示欲の強いボス的権威主義的人間は、人望や統率力がないにもかかわらず社会的地位を維持するため宗教的(神秘的)権威を利用し、支配と差別の社会制度を作ってきた。人間の環境世界は、都市生活に代表されるように自然によって与えられたものよりも、人間自身によって創られたものが多くなっている。そればかりではない、環境問題といわれているように地球温暖化を代表として自然環境自体を破壊しようとしている。このような認識が世界的に共有されるようになったのは20世紀の後半であった。このまま両極の氷が溶解すれば地球上の生態系が崩壊し、50億人をはるかに越える人口を維持することができないだけでなく、破滅的な事態が予想される。人間の世界認識がどのようであるべきか、諸個人がどのようなものの見方や考え方で生きるべきか、を考察し実行するためにも言語的世界の拡大がもつ意味を確認しておく必要があるのである。

 「今は昔」という言葉があるが、西洋哲学における認識論は、ニュートン力学の体系にもとづいて、カント, I.(1724~1804)によって徹底的に研究された。しかし、ベーコンの現実的な考察を『純粋理性批判』の劈頭に掲げたにも関わらず、カントの認識論の欠陥は生物学的(経験的)認識を排除したことである。そしてカントは21世紀の今日に至っても完全には克服されていない。それでは、西洋的心理学や動物行動学者がこのことを自覚し的確な批判を行えたかというとそうではない。発生的認識論を提唱した心理学者のピアジェ,J.(1896~1980)は、1970年のユネスコ編「社会諸科学及び人間諸科学の主要動向」の序文においてカントと同じ誤りを犯している。次の引用文をよく読み取っていただきたい。
「人間主体は、論理数学的諸構造のつくり主なのであり、この諸構造こそが、論理学や数学の形式化原理化の出発点をなすのだ。」(『人間科学序説』邦訳p148下線は引用者)

 「認識主体である人間が、論理数学的諸構造をつくった」という疑う余地がなく当然正しいと思われるこの表現のどこがおかしいのだろうか。カントはピアジェと同じ問題意識を持ち、認識(直観、経験)を成立させる思考形式があると考え、これを空間・時間と12のカテゴリー(純粋悟性概念:分量・性質・関係・様態×3様式)としてまとめた(カント認識論は別項で詳細批判する)。ピアジェはそれらの思考形式を認識の「出発点」と考えた。つまり、ピアジェは(カントと同じく)、「論理数学的諸構造」が論理学や数学を成立させる前提条件となると考えたのである。しかし「論理学や数学の形式化原理化の出発点」は、さらにその前提となる出発点があることに、ピアジェも気づいていない。それは「論理数学的諸構造」をつくる原理である言語についての考察の欠如である。言語なくして論理数学的構造も悟性概念も、そして人間的想像的思考さえも成立しないのだ。

 例えば「数」を定義する場合、自然界に数は存在しないので、言語によって人間が数を創って定義しなければならない。我々は一般に1,2,3・・・を「自然数」と表現するが、正確には数はすべて人為的なものである(「数」についてはフレーゲとの関連から第2章で述べる)。「数」や加法・減法、幾何学等の「論理数学的諸構造」は「加える」という言語構成的過程(思考)によって成立するが、「この諸構造」は言語的構成によってつくられた「結果」であって、決して「出発点」ではないのである。つまりピアジェのいう「論理数学的諸構造」(カント的にはカテゴリー)には、それらを「つく(創)る」「言語構成的過程」が欠如しているのである。人間の対象認識過程には、言語獲得の初源(化石人類)から言語記号(特に精霊や神々、呪術や祭礼等)の意味内容を確定する困難な社会的過程が存在しており、ある意味では今日もまたその過程は個人的・社会的・人類的規模で続いていると言えるのである。

 なお上記引用文に続けて彼は「諸科学は終わりのないらせん型をなしている。その円環性は、けっして悪しき円環(悪循環)をなすのではなくて、主体と客体との弁証法の最も一般的な表現に他ならぬ。」と述べているが、諸科学(science体系的知識Wissenschaft)には終わりのないことは確かであるとしても、始まり(origin)と目的(ends)をもっている。また、西洋的科学(知識、論理)における論理(ロゴス、存在)の円環性は、ギリシャ以来の西洋的思考様式の特殊性にすぎない。すなわち、言語的認識の《結果》得られた知識(ロゴス)が、次の新たな知識の《出発点》になるとき円環性が成立する。人間は言語によって認識主観を規定し、言語によって対象・客観を認識する。人間の認識(結果としての知識)は言語的に規定されるために、言語的に規定された結果的存在(知識、科学、定理、ロゴス等)からしか論理を始めることができない。だから円環になる。「我思う、故に我あり」は、近代において近代の観念論哲学を呪縛した円環的論理の究極的表現であった。弁証法がこの知識の円環における主観と客観の分裂を統一できる、という議論もまた言語論理のつくる詭弁である。言語表現(論理)に弁証法を適用できる側面があるとしても、それはあくまで論理上の問題にすぎない。弁証法を賞讃したヘーゲル、マルクス、サルトル等の哲学者が、弁証法を駆使していかに現実を歪めたかをみれば、その限界は明らかである。生命における言語の解明によって初めて、西洋的な主観と客観の分裂を統一することができるのである

<ピアジェの発生的認識論批判>
 ピアジェの科学思想史理解の限界は、彼の発生的認識論の限界性と軌を一にしているので批判的説明を加えておく。
 まず、彼の「刺激・反応(S─R)」理論の理解と批判は、あまりにも単純かつ短絡的である。もしピアジェがS−R(Stimulus-Response)を、S−O−R(O=Organism)として正しく理解していたなら(新行動主義)、人間の認知過程を「認知的同化」などという閉鎖的な用語(注1)で理解することはなかったであろうし、認知における言語の役割も正しく研究対象とすることができたであろう。神経生理学の基本である「求心神経(刺激受容)→中枢神経(欲求・感情・認知・判断・構成・記憶)→遠心神経(反応行動)」の構造を考えれば、ピアジェの認識論が動物の生存のための認知と行動の基本を踏まえていないことは明らかである。

 彼の基本概念である「同化」理論は、刺激(環境)の認知過程における有機体の動因と判断(選択)基準が明確でないため、例えばハーロウの「刺激飢餓」に対する捉え方(小猿は針金の支えるほ乳瓶から乳を飲むため接近するが、常時は毛皮刺激に愛着を持つ)も誤ったものになる(『認知発達の科学』邦訳p30)。すなわち、生命にとって環境刺激は安全(毛皮)か危険(針金)かを問わず常態であり、潜在的危険性の中で安全な刺激があって初めて自己の安全性を「確認」できるのである。安全な刺激を求めるのは生命の基本的欲求であり、刺激を遮断することはそれ自体不安定(危険)を意味するから安定を求めて認知と行動を求め続けるのである。しかるにピアジェは、このこと(安全刺激を求めること)を連合(刺激反応)説的な「環境への従属」と捉えて批判し、「むしろ反応を供給するシェムや構造に同化できるような『機能的栄養物elements fonctionnels』の探索」(シェムscheme:情報処理様式)と考える。どういうことかというと、環境とは刺激(毛皮)のことであるから、刺激(危険・安全等々)が単純に反応をもたらすのではなく、主体の「反応を供給するシェムや構造」に同化・摂取できるように(主体のために)機能する要素(邦訳で「栄養物」はわかりやすいが、飢餓に対する「栄養」、具体的には安心できる「毛皮」刺激の意味か)を求めて(同化するため)探索する。つまり、一方向的なS→R形式ではなく、刺激(毛皮)への主体の反応構造(シェム)があるからこそ刺激への反応が起こると捉えるのである。しかし、ピアジェの同化説は、無限の刺激から特定の刺激を選別認知する過程と構造(O=Organism認知思考判断構造)を考慮に入れず、特定の刺激だけを同化して構造化する点では、彼の批判するS−R連合説と変わらない。

 そもそも彼の同化(assimilation)説は、知覚認識を生物のエネルギー吸収(食物摂取・同化→食欲)と同列に置き、知覚や食物の限られた対象を、限られた目的(知識や食糧の獲得それ自体)のために実現する概念である。彼は次のように言っている。

 「生物学的観点からみると,同化とは,発達途上にある有機体の構造へと,あるいはその完成された構造へと,外的要素を統合することである。通常の意味において食物の同化は,有機体をつくる物質へと食物を合体する化学的変換から成り立っている。クロロフィルによる同化は,植物の代謝サイクルに光のエネルギーを取り入れることから成り立っている。・・・・有機体の反応はすべて同化過程を伴い・・・・。同化という一般的概念は有機的生命だけはでなく、明らかに行動にもあてはめることができる。」(『認知発達の科学』邦訳p27)

 しかし動物の認識は、複雑多様な自然的社会的環境(刺激)に対して、安全欲求や性的欲求等(有機体)も実現(反応)しようとするものであり、認識自体も単なる同化や知的操作にとどまらず欲求的情動的判断のバイアス(bias偏り、先入観)に左右されるものである。同化説に欠如しているのは、無限の環境の中から何のために何を同化するかという有機体の「判断」である。確かに有機体は、生存に必要な刺激を同化し統合するが、認知にとって重要なのは何(どのような対象)を同化するかの選択である。その選択のために対象を的確に把握する過程を同化というのである。ピアジェは同化(という認識)を的確にするために「調節」で修正し、「均衡」状態(知的発達、欲求充足、反応完結)を導こうとする(「同化+調節=均衡」理論)。確かに、感覚運動的段階の乳幼児なら刺激・反応過程は比較的単純で、基本的に主観的(自己中心的)なため、認知を「同化・調節・均衡」概念で説明可能である。しかし、概念操作段階の言語的抽象的思考では、概念の理解自体に複雑な情報や外的な学習・教育・訓練の影響が大きく、概念的な問題意識(何がどうあるか、なぜそうなるのか等の疑問)による思考や判断が、認知様式(シェム)や認知内容を決定づけるのである。「同化+調節=均衡」のような単純な図式(シェマ)構造で、人間の複雑高度な情報処理(問題解決)様式(シェム)を説明できるはずもないのである。また彼は、新行動主義者(バーライン,D.1960)がピアジェ理論を学習理論に還元しようとしたことに対して、学習理論では認知発達の説明に必要な創造の問題を解明できないとして、次のようにピアジェ理論の優位性を述べている。
 「同化,調節,操作的構造(それは単なる発見ではなく,主体の活動の結果として創造される)といった諸観念は,あらゆる生きた思考の特徴である創造的構築を志向しているのである。」(『認知発達の科学』邦訳p76)

 新行動主義が不十分であることは了解できるとしても、ピアジェ理論に創造の問題を説得的に説明できるとも思われない。両者共に思考における言語の創造的性格を理解していないからである。ピアジェは言語の意義を評価しながらも具体的説明では、自己の枠組みの擁護に終始し、言語における創造的意義に言及することもない。人間が先入見に囚われると、自己中心性を脱却することがいかに困難かを示している。

「(思考において)言語の役割がいかに重要であっても、言語は記号論的機能という,もっと一般的な視野のもとで考察されねばならない。・・・・
 言語と論理的操作との関係の問題に関して、論理的操作の起源は、言語よりもいっそう根が深くかつ発生的に言語に先行していること、つまり、その起源は言語そのものをも含めたあらゆる活動を支配する、行為の一般的協応の法則にあることを、われわれは常々主張してきた。論理の芽生えは感覚運動的シェムの協応にすでに認められ、それはまだ言語的でも象徴的でもないが一つの知能形態として存在している。」(『認知発達の科学』邦訳p124)

 ピアジェは思考における言語の重要性と困難性を指摘しつつ、できるだけ自己の知能の発達理論に影響の及ばない解釈を試みている。彼が言語の本質的理解を欠如しているのは、意味や表象を伴った言語記号は、知覚や行動から独立して脳内で操作や再構成(創造)を行え、また価値判断や行動を方向づけるということである。そのため、彼は言語を、彼が知能の発達実験で使用する記号論的機能(延滞模倣、心像、描画等)という静的な機能と同一に考えようとしている。目の前にモデルの存在しない延滞模倣や心像は、言語的な記号化と意味づけがあってはじめて活用(記号的操作)が可能となり、また、描画や象徴遊びでさえ、内言や外言を伴う言語的操作によって具体化されている。彼は子ども達に多くの実験を行ったが、その際課題の設定や質問に言語を使用し、子ども達も言語で考え(何をどう答えたらいいの?)、子どもの論理で答えている(『量の発達心理学』等)。彼の言う記号論的機能こそ言語によって支えられていたのに、彼がそれを理解していたとは思えないのである。

 彼は、言語と(思考における)論理的操作との関係を、論理的操作の起源の問題にすり替えている。起源を論ずれば、確かに論理は言語よりも先行し、チンパンジーにおいても論理的操作は可能である。しかしその起源が「言語そのものをも含めたあらゆる活動を支配する、行為の一般的協応の法則にある」といわれても、そのような「協応の法則」を仮定しなくても説明はできる。生存活動自体が、危険を避け、食糧を獲得する等の、認知と行動の論理的操作を伴う過程であることを考えれば、動物の刺激反応性自体が論理的操作(何がどうあり、どう行動するかという判断)を伴っているからである。
 知能発達や思考との関連で問題なのは、言語の獲得によって論理的操作とその表現(分類、順序、命題操作等)がどのような影響を受けるか、ということである。自己の表象が現実と未分化な前操作期においてさえ、認知と行動における言語的情報処理(思考)能力の拡大(言語による実験統制、象徴遊び等)を考えてみれば、知能(対象操作能力)ばかりではなく想像(創造)的能力(表象操作能力)においても、言語によってもたらされる認識の飛躍的な発達は明らかであろう。チンパンジーの論理的操作能力は、感覚運動期には人間の幼児より優っているが、言語獲得以降は幼児の能力の方が飛躍的に増大するのは、言語(表象)操作能力の賜物である。

 以上でピアジェ理論批判の趣旨は理解されると思う。言語獲得以降は、論理的操作能力(認知能力、知能、表象操作能力)は、言語の媒介なしで論じることはできないのである。ピアジェの感覚運動期における知能発達論の多くの成果は、同化・調節・均衡という概念でなくとも記述しうる。知能は生命の課題解決(生存)能力を意味するから、認知や行動、欲求充足における解決の様式(シェム)は、思考、学習、洞察、模倣、試行錯誤、調整、適応、記憶、判断、理解、構成、想像、創造等の従来の認知心理学的用語で十分表現可能である。ピアジェ的概念による人間の認知と行動理解は、主体と客体(環境)の関係を同化理論に限定したあまりに自己中心的なものといえないであろうか。
 生命言語論の立場を明確にするために、彼のいくつかの公理(定理)とも言える命題を批判しておきたい。
@「客体を認識するためには,主体は客体にはたらきかけねばならない。すなわち,客体を変換しなけれぱならない。つまり,主体は客体を移動し,結合し,組み合わせ,分離し,再結合しなければならない。最も基本的な感覚運動的行為から、最も洗練された知的操作に至るまで、認識は常に行為や操作に、つまり変換(transformation)に結びついている。」(『認知発達の科学』邦訳p8)

 T→ピアジェは、主体は環境を客体として対象化して認識するという常識的な見方を、経験論・主知主義として批判する。彼にとって客体の認識は、主体が客体に働きかけることによって客体を変換(して同化・調整)する行為である。しかしこの見方では、認識すべき客体(対象)は同化するものとして特定されており、認識されたものを評価し判断選択する過程は含まれない。認識とは単に対象それ自体の存在形態(量や質、数や形等)を把握するだけでなく、それらの対象に対する主体の価値評価や取捨選択を含むものである。ピアジェの認識論は、対象それ自体を知的操作によって内化しようとする思考行為を論じるが、それは認識的事実の一面を研究しようとしているのにすぎない。なお言語的認識特に数学のような「最も洗練された知的操作」は、実在しない定義・公理的(観念的)対象の言語記号的操作なので、行為とは言えない純粋に内的な思考過程である。

A「新生児は客体から構成される外的世界と,内的で主観的な世界との間の区別とその境界をいささかも知らないであろう。」(『認知発達の科学』邦訳p10)
 T→新生児は視覚こそ未分化であるが、触覚・聴覚・味覚・嗅覚は十分機能して外的世界を認知し境界を感じている。手のひらを触れば握るし、唇に触れれば吸いつき、音に反応するのであって、単に内的恒常性の低下(空腹)のために泣くだけではない。自己保存のための反射的行動は、外的世界が安全であるか危険であるかという区別を前提にしている。

B「適応とは、同化と調節との均衡である。・・・・適応とは、主体と客体との間におこなわれる相互作用間の均衡である。」(『知能の心理学』邦訳p22)
「しだいに実現される同化と調節との均衡は漸進的脱中心化の結果であって,この脱中心化によって他の主体の観点や客体の観点を考慮に入れることができるようになる。」(『認知発達の科学』邦訳p46)
 T→まず「同化と調節との均衡」が認識や適応の要諦になるのではなく、対象(客体・環境・刺激)と主体との関係を的確に把握し、主体を対象との関係の中に位置づけ、適応可能な判断・選択にもとづいて反応・行動することが、生物学的生存の基本である。多様な環境における生存の過程は不均衡と変化の連続であり、その中で均衡は生存の一時的過程にすぎない。認識の自己中心性や主観性からの脱却とされる状態は、「脱中心化」が要因(原因)なのではない。他者や客体の客観的認識や理解は、主観性の基盤の上に可能性として存在し外的な強制による教育と主体的学習の結果である。主体は生存(認識と行動)において自己中心性を脱却することはできない。人間は認識と行動の広がり(発達)によって脱中心化しているように見えるだけである。
 客体それ自体を認識する態度は古代ギリシアに始まったが、それは主体自体を受動的存在とする脱中心化によって始まった。ギリシアの神話時代には客体である不死なる神々が、主体である死すべき人間を支配していると考えていたのである。科学的認識の本質は、情動や表面的現象に支配されず対象そのものの状態や本質を追究しようとする知的態度から発生してきたものである。それはピアジェの科学的姿勢であるが、脱中心化という態度ではなく単に客観的知識を求めようとする態度である。

 さてこの項における課題は、認識における言語の役割について述べることである。しかし、ピアジェのように言語の重要性を指摘しても的確に認識論に位置づけているものは少ない。しかし生物学や動物行動学の観点から認識の問題を根本的に考察したのが、ローレンツ,K.(1903-89)である。ピアジェが認識の構造を同一化や調整・均衡という認知的行為によって形成されると考えたのに対して、ローレンツは、動物の認識の構造(形式)の生得(本能)性を重視しただけでなく、その延長上に人間言語(概念)の成立を考察した。

<ローレンツの場合>
 ローレンツの認識論は、同一化、調節、平衡というピアジェ的な用語を用いているが、ピアジェに比してはるかに遠大な視野を持つ。それは単に食糧を有機体内に取り入れ同一化することと認識を同じ適応の次元で見るのではなく、動物と人間の認知・行動(すなわち生存様式)の比較を通じて適応の多様性を進化的に検討し、人間の概念的思考(言語的認識)過程の本質を解明しようとする。しかし、解明に成功したかというとそうではないが、我々の人間存在論に多くの基本的視点を提供してくれる。まず現代の人類の置かれた危機的状況に対する彼の問題意識の深さを示す著書『文明化した人間の八つの大罪』(1973)から彼の文明に対する危機意識とその具体例を略述し、その著作の正編である『鏡の背面』(1973)によって動物行動学的認識論を批判的に検討する。
 「文明人は自分をとりまいている自然、自分を養っている生きた自然を盲目的かつ野蛮に荒廃させることによって、自らを生態学的に崩壊させるおそれがある。彼らが経済という観点からはじめてこのことに気づいたとき、おそらく彼らは自分たちの失敗に気づくであろうが、それではきっとおそすぎる。」(『文明化した人間の八つの大罪』邦訳p31)

 彼の文明論の立場は、自然のもつ個体と生態系の平衡を人間だけが急速にしかも無思慮に破壊しており、それは正常細胞に対するガン細胞の無秩序で醜悪な増殖に似ている。人間が精神的にも心の上でも健全でいるためには、自然美と人間の創り出した文化の美がともに必要であるというものである。彼は文明の発達に対して、「不幸にも」という言葉を使い、自分の種の外にある自然環境の力を支配することはできたが、自分自身についてはほとんど知らなかったために「種内淘汰の悪魔的なはたらき」(資本主義的競争のこと)に身を委ねてしまっていると考える。彼の文明批判はそのほとんどは生物学的に的確なものであるが、ただ、人間についての自己理解に到らないものは「抽象的な思考や言語や意識や責任のあるモラルを発達させることはできない」と述べている点については不十分である。それは、以下に述べる言語的認識論とおそらく彼の専門外である政治経済学に関してマルクスの『資本論』を「すべて正しい」(『ローレンツは語る』同上邦訳p128)と断定していることである。ローレンツは、文明化した人類の大罪(Todsunden致死の罪)を断罪しようとしたが、その根源の一つに西洋的思考様式があったことを見抜けなかった。人間的自己理解には、西洋的自己理解を相対化してその本質(合理主義)と限界を解明することも必要なのである。

 さて「八つの大罪」とは、次のことである。@人口過剰 A生活空間の荒廃 B人間どうしの競争 C感性の衰滅 D遺伝的な頽廃 E伝統の破壊 F教化されやすさ G核兵器の脅威、以上である。これらの問題性を論ずる意義はあるが、全面的な議論は別の機会にして、簡単にコメントだけを加えておく。まず全体的にみて人間の本性的な要因の結果を否定的に見るだけでは単に人々を「イライラさせる」だけで問題解決の提言には直結しない。本性的要因というのは、一面では彼が動物行動学者として重視している遺伝的本能的な要素(共同体的道徳的観点)であり、他面では「えせ民主主義的」として批判する学習的行動主義的な要素(利己的快楽追求的観点)である。ローレンツは現代の人類が置かれている危機的状況を、後者のアメリカ的価値観(西欧近代の代表)がヨーロッパや世界中に悪影響を及ぼし人間の本能的伝統的平衡システムを破壊していると考える。     

「人口過剰も商業の競争も、自然環境の破壊も自然に対する畏敬の念をおこさせる調和からの疎遠化も、そしてまた、虚弱化によってひきおこされた強い感性の減弱も、すべていっしょにはたらいて、何が善で何が悪であるのかの判断力を近代人から奪っている。」(同上p73-74)

 彼の危機の分析は、西欧の近代とりわけアメリカ的価値観と資本主義的経済競争に対する批判を中心にしており吟味に値するものであるけれども、「ありとあらゆる弊害や荒廃現象は、直接、人口過剰によるものである」と述べているように、人口過剰を原因の根底に置けば、人口が減少することによって危機的状況は克服できるということになる。しかし、21世紀の今日にあっては、人口減少は可能である(個別では日本のように減少している国もあり、世界的にも現象に向かうと考えられている)が、それで人類的危機が克服できるか、または新たな地球的平衡が得られると考えることはできないであろう。本来人口の急激な増加は、農耕牧畜の発展によって生産力が増大し多産が奨励されたことに原因がある。今日ではその国の社会政策的な影響も大きいが、多産によってこどもに未来を託すよりも子育ての苦労を避け、人生の快楽を追求することに重点が置かれていることが大きく影響している。彼自身も「楽観的なまえがき」で「自分の発言を喜ばしい方向に訂正せねばなるまい」と述べているが、基本的な主張は変わっていない。この主張で「全人類に対する悔悟と改悛」を勧めるのは無理であろう。むしろ今日的危機としては資源エネルギー問題や地球温暖化問題とそのことによって起こるであろう破滅的混乱にどのように対処するかが最大の問題であろう。この問題については別の機会をとって論じる予定である。

 さて、いささかローレンツの文明批判に寄り道をしすぎたが、これは人類の有する生物学的認識論的本性のゆえに直面せざるを得ない危機的状況を、必ずしも的確とは言えないが、彼がいかに科学的に冷静に分析しようとしているか、を示そうとするためである。というのも20世紀後半のドイツには、観念論哲学の伝統(現象学や分析哲学等)が根強く残っており、彼の師であるハインロ−トは、一切の哲学を「自然を認識するという目的のために人間に与えられた諸能力の、病的な骨折り損」と定義していたし、またアメリカ的行動主義心理学も流行してきたからである。そのためこれから検討する『鏡の背面』では、鏡の表面で反映した対象を実在とするだけでなく、その背面となる現実の対象を認識する生理(心理)的認識装置そのものの生物学、動物行動学的観点から検討しようとするのである。

 彼は人間の成立のための新たな働きは、「概念的思考の、言語の、超個人的知識の蓄積の、自らの行為の予見の、従って責任ある道徳の能力」(『鏡の背面』邦訳p309)であるとする。そしてそれらの概念的思考の基礎を、まとめると以下の6つ(彼は8つとしているが6つにまとめる)の認識的機能と能力の認知機能に求めている。これらはすべて生存の重要機能であるが、概念的思考との関連で取り上げる。

@知覚の抽象作用
 対象の選択的知覚・判断──色・形・大きさ・方向等のゲシュタルト知覚
 知覚内容(対象)を抽象化・客観化して推論を容易にする
 (月夜に見るススキが幽霊なのか、ススキなのか)
A洞察と視覚による中枢的表象
 洞察は、視覚による空間的定位と中枢的表象処理(情報処理)によって可能となる
 空間的定位とは、空間における諸対象の関係を位置づけること
 (類人猿が吊されたバナナと箱や棒をどのようにして関係づけるか)
B随意運動
 洞察や探索で得られた情報によって、反応や運動が調節・制御される
 手の自由な使用や音声の微妙な発声調節(口、舌、唇等の運動調節)
C好奇心行動と自己探索
 好奇心や遊びは<世界に開かれた性質>をもち、自己を対象として認識することに発展する→その意味は:人間(自分自身)の置かれた状況を知ること
D模倣学習
 模倣は、集団の<凝集>の前提であり、鳥や人間の声では遊びや好奇心行動と結びつく。
 (鳥のさえずりの模倣は後天的・学習的だが、警告や発情・誘惑の声は生得的である)
E伝統相続
 動物的伝統(危険や敵、芋洗い等の習得)の相続は、対象に束縛された性質をもつ。
 しかし、人間の言語は、対象の現存なしに伝統(獲得された知識)を相続する。

 以上6つの機能のまとめとして、彼は概念的思考とことば(パロールのこと)の最も重要な指摘を2カ所でおこなっている。両者は同じことを言っているのであるが、言語理解にとって動物の思考(洞察、学習、対象操作)との違いを明らかにするのに有益である。つまり、人間の言語の特徴は「対象の具体的な現存なしに」「対象に依存しない」で伝統的な知識を蓄積し伝授するところにあると明示している。これは言語が動物の認識や思考と決定的に異なる点であり、両者の表現が異なるので重複を恐れず引用しておく。

 「概念的思考と、それと同時に登場することばこそ、はじめて伝統を対象から独立したものにするが、それはこの両者が、事実と関連とを対象の具体的な現存なしにさらに伝達する可能性を与える自由なシンボルを作り出すからである。」(『鏡の背面』邦訳p289 強調は引用者による)

 「人間の概念的思考とことばが、自由なシンボルの形成によって伝統的な知識の譲渡を、はじめて対象に依存しないものとした。この非依存性は、人間にのみ可能な知識の蓄積とその伝授との前提をなす。」(同上p296 )

 ここで概念的思考というのは言語(シンボル)的思考のことであるが、その本質は人間が環境(自然・対象)との関係において、具体的「対象」に依存せずしかも個人の主観を超えて集団(民族・社会)の伝統から学習し、また集団を通じて伝統を相続・継承することを意味している。このように人間と言語と対象の三者間には、フンボルト,W.(1767-1835)の言う次の過程が含まれている。

 「対象と人間との間には、[個々の語という]個別の音声が入り込んでくるように、人間間と、人間の内外両面にわたって影響を与える自然との間には、言語全体が入り込んでくるのである。人間は、もろもろの対象の織りなす世界を自己の内に取り込み、それを再構成するために、音声の世界で以て自己を取り囲んでしまうのである。」(『カヴィ語研究序説』邦訳p95)

 一般にフンボルトは言語哲学者としてドイツロマン主義の系統を引き、言語を民族精神の現れとして捉え、屈折語であるヨーロッパ語を最も優秀なものであると考えたことで知られている(彼は他言語<中国語、マレー語>についても固有の偉大さを認めている→第30、35節参照)。彼の言語論は、言語を精神や悟性・理性の所産と考えた当時の観念的な言語論(ヘルダーの『言語起源論』等)と同じく、言語の活動的な生成作用を重視し、語形の変化(屈折)によって人称・性・数・格の多様性を語彙間で関連づけようとすることを精神の豊かなあらわれと評価する(逆に英語の単純化を退化と考える)。進化論の観念のない17,8世紀の彼らにとっては、言語によって理性(ヘルダーでは「内省意識」、フンボルトでは「思考」)が生じるのではなく、人間の理性(精神)が言語を生成させるのである。しかしそのような限界性を持つ時代にあって、フンボルトのすぐれている点は、カントが無視した言語と認識論の関係(言語の内的形式)や文法形式について考察したことである(注2)。ここではフンボルトの認識論について詳論する場でないが、彼には体系を完成することができなかったので、現代の動物行動学者ローレンツとの関連でとりあげたが、19世紀前半の言語哲学者の優れた考察が、20世紀の分析哲学や現象学に生かされておれば西洋哲学の現代的閉塞状態はもっと緩和されていたと思われる。

<生物学からの言語認識論とは>
 動物行動学者ローレンツの言語認識論が、他の動物行動学者と異なる先見性をもつものであることを述べたが、言語論自体には発展性は少ない。シンボル構造の分析において、動物行動学的観点からの動物の「求愛ディスプレイ」や「グルーミング」「優劣承認」等の行動に見られる系統発生的儀式のシンボル的意義は理解できる。しかし、人間の文化に見られる儀式のシンボル構造や言語自体については残念ながらお粗末と言わざるを得ない。そこで彼に欠如している人間の認知と行動における言語の意義について次の4点を指摘したい。

@無限の多様性を持つ環境(刺激・対象)とその状態の分別による音声記号化(命名)
A音声記号による対象(名詞・主語)とその状態(動詞等・述語)の論理の形成
B音声信号(刺激)による自己自身と他者の反応(行動)の誘発・支配
C集団仲間への状況に応じた自己と他者の意思の相互伝達

 これらはすでに説明したところであるが、多少の注釈をしておく。@は「多様な環境からの対象の分別」と「対象の音声記号化(命名)」について考えてみるが、最も混乱しやすい記号論・意味論の領域を含んでいる。まず1)注意しなければならないのは、言語による音声言語化の「対象」は、人間が関心を持つ自然と人為、物質と精神、具体と抽象、知覚と想像等々森羅万象のすべてにわたるが、それらの対象を音声記号化して人間の主観(大脳)に記憶したとき、その内容(情報)を「表象」と言い、また音声記号の「意味・概念」と言う。ソシュール的に表現すると音声記号とは(能記signifiant)であり、意味・概念とは(所記signifie)のことである。次に2)西洋的思考様式との比較で注意すべきことは、西洋的なものとは、対象の認識(分別)は対象が合理的だから合理的に表現(音声化)できることを前提としている。合理的というのは、ことばによる明晰な説明の可能性だけでなく、現実の対象自体と主体によるその認識・表現の結果(理論・知識)がどちらも合理的であることを前提しているから、「対象の分別」も必然的に合理的に説明できる。つまり、結果が前提と同じになるという循環的思考法で対象を言語表現(音声化)するため結果的知識を絶対化してしまうというものである。「空が青く存在する(The sky is blue )」「知は力なりIpsa scientia potestas est. 」「我思う、故に我ありcogito ergo sum」はその代表例で、結果的知識として主語の状態が述語と結合されて存在(is, est, sum)しているのである。

 これに対して、我々の観点では、認識主体の認識意図(目的)は明白なものの、環境(対象)の多様性(曖昧性)を重視するため、「分別の非合理性」つまり「分別や選択・判断は必ずしも明晰・確実なものではない」と考えている。このことは、対象(実際の白いイヌ)の表現(音声記号化「このイヌは白い」)も絶対的に合理的なものではなく、主観的相対的なものであり、対象は主観的な表象(意味・概念)になっているから、音声記号(認識結果)と対象の関係も主観的相対的なものであることを意味している。だから、音声記号は客観的なものであっても、分別・選択・判断された表象(意味・概念「白っぽいイヌ」)は必ずしも一致しないのである。

 つまり、話者Aが言語で示す対象(意味・概念)は、音声(文字)としては社会的・客観的なものであっても、その意味内容においては主観的・相対的にならざるを得ない。「犬が歩く」という言語表現は、話者が示そうとする意味内容と聴者Bが理解する意味内容は異なる(犬に種類、歩き方、背景等)のである。異なるとしても我々は社会生活上それほど困らないし、疑問に思えば詳しくはAに聞けばよい。ところが過去の世界に創作された言語(と言語によって構築された理論・知識)の中には、今日の科学的常識では説明不能・理解困難なものが多い。特に宗教や哲学で使用される自己(とその教義・知識)を絶対化しようとする言語は、生命言語論(科学的常識と言ってよい)によって容易に批判が可能なのである。しかし、言語の根底理解のために上記の観点が常識になる必要がある。

 Aは、何がどうあり(what, how)、どのように判断・行動するか(how, do)等のように文法と論理の根源(5W1H等と対象の関係性)を指摘している。
 Bは、言語の行動論的側面を強調している。言語刺激は、単に感情的な命令・警告・嘆願等の刺激を与えて直接的行動を引き起こすだけでなく、間接的にも行動計画や生活設計等にもとづいて活動をしているのである。内言・外言(「泣いちゃダメ」「私の考えは正しい」等々)による行動統制がこれに当たる。
 Cの意思伝達(コミュニケーション)は最も一般的言語のはたらきである。しかし、伝達の手段としての言語は、伝達内容を正確にするために対象を確定し、その状況や判断を的確に表現しなければならない。そこに文法や論理が必要となるのである。

 以上『鏡の背面』は、副題が「人間的認識の自然史的考察」となっているように、人間の認識装置を自然科学的に研究したものである。しかし、当時としては画期的な内容であったにしろ、ローレンツにおいては人間の認識の基本装置である言語理解がまったく不十分である。また自然や生命・人間に対する理解が西洋的思考様式を克服できているとは言えない。それは彼の認識装置を「鏡」に準拠していることでも分かる。彼は「客観化のはたらきは、これはそれ自身すべてのそれ以上の高度の認識行為の基礎となるものであるが、外的現実を反映する自らの装置にもとづいている」(同上p312下線は引用者)と述べているように、西洋思想に見られる単純な反映論(弁証法論者にみられる人間主体の認識過程に対する吟味不十分な認識論理──ヘーゲル、マルクスが代表例)からの脱却に失敗しているのである。認識の基礎を対象の反映(reflection反射)におくという西洋的な認識論の誤りは、環境世界の多様性・無限性を無視することになりやすい。正しくは「認識は対象の《選択的》反映を基礎にしている」と言うべきなのである。このように生物学に依拠していても西洋思想は批判されなければならないのである。

<生物学と生命言語論にもとづく認識論>

 近代西洋思想においてカントの認識論が果たした役割は大きい。しかしカントの認識論が人間存在の理解にとって積極的な役割を果たしたのかというと疑問である。カントの意義・限界については後に検討するが、その前に、生命言語論にもとづく人間の言語的認識の特徴をまとめなければならない。生命にとって環境の的確な認識は、直接に生死や種の存続に関わる問題である。食糧の獲得や安全の保持・危険の回避、生殖伴侶の獲得などの欲求の充足は、すべて環境の的確な認識に左右される。

 認識における神経生理学的な過程は、環境に対する刺激反応性という「単細胞」の根源的な行動様式を、多細胞動物において特化した神経細胞の分化発展(刺激受容と判断行動の情報処理過程=神経系の進化)によって説明できる。生命(動物)は物理的接触、光や音、臭い等によって複雑多様な環境を知覚し欲求を充足しなければならない。認識の根源は欲求の充足すなわち生命種の維持を目的としている。それを前提とした上で、環境の的確な認識が行われる。ここではその認識を有性生殖をおこなう動物と人間特有の認識に分けて簡単にまとめておく。

《動物の認識》
@認識の目的:
 個体維持→内的恒常性の維持、危険の回避 種の存続→最適の配偶者との生殖
A認識の基準:
 欲求の充足→快(肯定的感情)を求め不快(否定的感情)を避ける。意志を実現する。
B認識の対象:
 欲求充足の対象を区別・判断する。不快は無限(四苦八苦)であり快は有限である。
C物理化学的環境:
 細胞存続の環境→水、適温、栄養(有機物等)、酸素(嫌気性生物を除く)
D触覚・味覚:
 対象との接触による物理化学的環境の知覚→快不快・危険の認知、栄養の探索 
E嗅覚・聴覚・視覚:
 対象との非接触による環境の知覚(空間認識)→快不快・危険の認知、食糧の探索
 空間的対象をシンボル化して知覚・探索→例:刷り込み(親鳥)、ベルの音(餌)を学習
F個体内伝達・記憶:
 細胞内外の伝達物質による伝達と化学変化による記憶、さらに情報の選択・構成・処理
G種内伝達・協働:
 匂い(嗅覚)、音声(聴覚)、動作(視覚)による相互伝達→音声伝達の優位→言語の獲得

《人間の認識》
@言語認識:生物学、言語学
 対象とその状態・関係性、自己の意志・判断の的確な認識と表現→語彙の細分化(品詞)
対象の言語記号(シンボル)化→対象情報の中枢的思考処理→反応行動からの独立知識化
A言語論理:文法学、論理学
 文法の成立・対象の再構成→主語・述語・目的語・修飾語等、態・時制・法等
 複雑な対象の認識と認識主体の判断・意図の的確な表現の追求(文化的多様性)
B空間認識:論理学、物理学
 非接触的知覚における遠近、長短、大小、深浅等の3次元的認識(視覚の進化)
 言語による「どこにwhere」という疑問の答として場所を確定(ここhere, そこthere)
C時間認識:論理学、物理学
 過去の記憶と将来の予定→言語的疑問(いつwhen)によって成立→動詞の時制
 今(現在)はナイ(is not)、昔(過去)はアッタ(was)、この先(未来)はアルダロウ(will be)
 自然の変化(流動する万物、昼夜、季節、生死等)を区分し時間を確定する
D質量認識:物理化学
 自然的対象の比較→大小、長短、軽重、多少、強弱等(動物の必要:求餌・求愛・闘争)
 基準に基づく数学的記述→数(0,1,2,3・・・)長さ(m)、広さ(u)、量(?, l)、重さ(g)等
E運動認識:物理化学
 対象の速さ・力・エネルギー→速さ(遅速)、力(強弱、大小)、気圧(高低)等
 基準に基づく数学的記述→速度(m/s)、力(kg・m/s2、ニュートン・ジュール)、気圧(Pa、Hg)等
F知覚認識:物理化学
 対象自体の明るさ(明暗)、色(色合い)、硬さ(硬軟)、温度(寒暖)、湿度(乾湿)等
 基準に基づく数学的度数→照度(lx)、硬度(水mg/l、鉱物)、温度(℃)、湿度(%)等
G縁起(関係性)認識:文法学、論理学、数学
 自然的対象間の空間的・時間的関係→原因と結果、作用と反作用の相互的関係性の認識
 認識主体と対象間の関係→主語・述語・目的語等の論理的関係づけ、問題意識の吟味
 論理的関係→<命題内>肯定・否定、命令、願望、<命題間>順接・逆説、仮定、比較等
H内面認識:心理学、脳科学、倫理学等
 自己の判断行動の基準・価値観の行き詰まり→閉塞感、自覚・反省(自己認識)
 人間の行動の原因→心・精神・魂、善・悪、理性・情念(感情)等の観念的想定
 精神的対象の探求→欲求・感情論と生命言語論にもとづく、無意識、観念、心・精神、価
          値観・知識、道徳・宗教等の再吟味・再構成→幸福の本質認識
I社会認識:倫理学、社会学、政治学、経済学等
 家族、地域、集団、国家、世界の混乱→人心荒廃、貧富格差、道義衰退、犯罪、戦争等
 社会的環境・人間関係の原理の追求→哲学・宗教等の諸知識学問・価値観の見直し
 認識と欲求充足(行動)の基本原理→利己主義、快楽主義、社会(関係)主義の捉え方→
       →人間認識論の総合:人間(自己)をいかに自然と社会の中に位置づけるか
       →ものの見方考え方(生き方・倫理道徳)→人間知識(科学science)の確立

 以上の生物学にもとづく生命言語論的認識論の素描は、人間知識の全体像を明らかにしようとするが、その応用については倫理的なものが中心であって技術的なものではない。しかし、人間知識の科学的全体像は、医学、工学等の技術応用にあったっても、常に人類福祉を目的とするという観点から必要とされるものである。また哲学的認識論における「心身問題」については心身の統合を図るものとして、心・精神と身体・物質に共通する「欲求・感情論」と「生命言語論」を全面的に導入したことが特徴である。これによって西洋哲学を悩ました観念論と唯物論の対立は解消することになり、今後はエゴイズム(egoism)とヘドニズム(hedonism)をどのように制御するかが人類永遠の実践的課題となる。  

(注1)ピアジェの「同化」(と「調節」)という用語を「閉鎖的」と表現したのは次の理由
による。彼は生物学を研究して、生物は環境から栄養物を摂取し、これを「同化」して白分の身体組織に作り変え、また自分の身体組織を環境に適合するように能動的に「調節」しながら「均衡」のとれた生活をしている、と捉えた。しかし生物の生存(個体と種の維持存続)は、単に栄養を摂取するだけでなく、多様な環境(刺激)の無数の危険を認知・回避・撃退し、安全を確保することや、異性の選択・獲得のための先天的経験的認知能力(知能)を必要とする。これらの過程における認知能力は、単に「同化や調節」という概念で説明できるものではない。生物種に固有の認知能力は、それぞれの環境に適応できる刺激受容と反応行動を判断選択する様式を、細胞自体または多細胞動物にあっては神経組織によって連携し、中枢神経によって統合されている。感覚器官や中枢神経に「同化や調節」の機能があることは確かであるが、これを環境の認知や判断、まして言語的(概念的)認知や思考に適用することはできない。安全の確保や異性を含む社会関係、さらに行動動機としての欲求や感情を、同化・調節・均衡などの用語で説明しても生物の全体性を捉えることはできない。

(注2)フンボルトの遠大な構想は、時代的制約の下で実現されなかったが、言語形式の民族的個性と普遍性の研究は今後も言語学の重要な課題となるだろう。
「言語そのものを考察するに当っては、考えられ得る言語形式の中で、言語の目的と最もよく一致する一つの言語形式が明らかになってこなくてはならない。そうすれば、我々は、言語がこの唯一の形式にどの位近づいているかという度合によって、現実の言語の長所も短所も判断できることになるからである。・・・・今述べた唯一の言語形式とは、人間精神の普遍的な歩みに必然性をもって最大限に適合するとともに、精神の活動を最もうまく規正してその成長を促進するような形式であり、それと同時に、精神の進むぺきさまざまな方向がすべて関連を保ちつつ調和するのを助けるばかりでなく、その形式が精神に対して逆に与えてゆく刺激によって、却ってそういう調和を生生と作り出すというような形式でもある。・・・・すなわち、世界の把握の仕方を整理して学問的な体系を構築し、今度はその学問的な立場から再び精神に対して創造的な働きかけをするというのが、精神活動の外面的な目的になるわけである。」(フンボルト『カヴィ語研究序説』邦訳p389-90)     <続く>
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西洋思想批判の核心
 我々にとっての「西洋思想批判の核心」
は,言語とそれらによって構成し確立された知識(観念や思想──ギリシア神話・聖書等々から近代哲学・科学・文学に到るまで)を「与えられたもの」として捉えるか,それとも,生命たる人間が進化の過程において「獲得し創造したもの」として捉えるかの違いにある。西洋思想批判と言えば、東洋思想を対置するのが通常であり、西洋の合理主義的ロゴス的世界観と東洋の融合主義的主客合一的世界観の対立を想起するのが一般的である。しかし、ここで我々の言う「核心」とは、合理主義批判を含むが、それだけでなく「生命言語論」に基づく西洋的没主体性批判である。この場合の主体性とは、心理学における欲求・感情論すなわち動因論を、言語論の基底におく考え方で、思考や発話等の言語過程には不断に情緒的動因が相互に影響を及ぼしているという考え方である。それに対して、没主体性とは、言語的思考や発話の過程で、言語的論理(分析)が、動因としての欲求や感情から独立して機能する(論理主義)というものである。つまり、前者(東洋的主体性)とは、欲求・感情に従順に言語表現が行われるが、後者(西洋的没主体性)とは言語表現(論理、分析)が優先して欲求・感情を増幅しまたは抑制するということである。後者の例としては、哲学や思想における論理や理性(言語的合理化)の重視、自我の言語的定義(デカルト)、言語による感情や行動の支配、文学等の感情・行動描写における欲求・感情の対象化、神々による運命や行動支配、そして受動態(中動態、再帰形)がある。その分析については別項にゆずるがいくつか例示しておこう。

【例1】
 「(始源的な原因・原理の一つ=四原因のうちの形相因)は、物事の実体(ウーシア)であり、何であるか(本質=ト・テイ・エーン・エイナイ)である。けだし、そのものが何のゆえにそうあるかは結局それの[何であるかを言い表す]説明方式(ロゴス=論理・説明・合理化)に帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は窮極においてはそれの原因であり原理(アルケー)であるからである。」(アリストテレス『形而上学』第一巻第三章出 隆訳改 下線は引用者)

・アリストテレスは、哲学発祥の地古代ギリシャにおいて、最も実証的に世界の存在構造とそれを認識しロゴス化する論理構造を根源的に探求した人類史上最高の哲学者であった。しかし「言語とは何か」の解明がすすんだ今日では、上記のようにロゴスを存在と見なす見解は科学的検証のもとに否定される。物事の実体は、言語によって成立するロゴスそのものではなく、ロゴスで表現・説明し尽くせないものである。

【例2】
「いとこよ。・・・・だが、じつはこの牢獄がわたしに声を立てさせたのではない。わたしはたったいま、わたしの目をとおして心の中に傷をうけたのだ。それがわたしの死の原因となることだろう。むこうの庭の中をあちこち逍遙している人が見えるか、あの貴婦人の美しさがわたしの叫ぴ声や嘆きのすぺての原因なんだ。わたしは彼女が人間の女性なのか、女神なのかわからない。だが確かにあれはヴイーナスだと思うね。」(チョーサー,J.『カンタベリー物語:騎士の物語』桝井迪夫訳p69-70)
'' Cosyn, ・・・・ ; This prison caused me nat for to crye, / But I was hurt right now thurghout myn eye/ Into myn herte, that wol my bane be./ The fairnesse of that lady that I see/ Yond in the gardyn romen to and fro/ Is cause of al my criyng and my wo./ I noot wher she be womman or goddesse,/ But Venus is it, soothly as I gesse. '' (Chaucer,J. The Canterbury tales ; Knight's Tale)

・『カンタベリー物語』は、14世紀にイギリスの詩人、チョーサー(1343頃-1400)によって書かれた物語集である。原文は中世英語(Middle English)で書かれているが、その表現方式は現代英語にも通じている。後にも述べることであるが、西洋語の特徴の一つとして。発話(文)における主語が明確であるとともに、主体(人格的発話主体)の判断・動作(動詞)自体は第三者的であるということである。第三者的というのは、他動詞受動態または使役動詞を使用することによって、主体(主語ではない)が何ものか(第三者)に動因・判断を委ねることが多いということである。This prison caused me(主体) nat for to crye.(この牢獄が私に叫ばせたのではない。→私はこの牢獄のために叫んだのではない。)やAnger caused her(主体) to leave the room.(怒りが彼女に部屋を出て行かせた。→彼女は怒りのために[怒って]部屋を出て行った)の場合、文の主語(対象)は判断や動作の人格的主体ではない。まず判断や動作(他動詞)が先にあって、認識・判断の主体(発話主体)は他動詞に、受動的・使役的に支配されるのである(他動詞中心主義)。I was hurt(私は傷つけられた。→私は傷ついた。)の場合も、「私(I)は(すでに)傷ついたもの(hurt;過去分詞)として存在する(be)」ので、主体である(主語でもある)「私」は、第三者(貴婦人の美しさ)によって傷つけられているのである。このことは発話中にも次のように明言されている。The fairnesse of that lady・・・ Is cause of al my criyng and my wo. つまり、私が傷ついたのは、私自身の主体的な判断というより、その判断を主体(私)にとらせた「婦人の美しさ」に原因があるというのである。これを単なる文学的修辞ないし表現上の慣習と見なすことはできるが、そのこと(没主体性)自体が西洋的思考様式の特徴なのである。

【例3】「おれは人類全体に与えられたすべてのものを、内部の自己で味わいつくすのだ。
おれはおれの精神で、最も高いものと、最も深いものをつかむ。
おれはおれの胸のなかにあらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。
そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう。」(ゲーテ『ファウスト』大山定一訳)

・無限の知識欲を満たしきれず人生に失望していたファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスに誘惑され、自らも存在の限界を究めようと契約を結ぶ。上記の文は、自己を越え神も悪魔も恐れないファウストの決意を述べるが、この文には感情を赤裸々に表現する西洋的自己表出の精神があふれている。しかし、しかし彼は、欲求と感情のままに生きることを追求したが、現世において永遠の魂の救済を得ることはなかった。人類の自我と西洋の自我とはその質が異なっていることを知らなかった。ファウストはその意味でも悲劇の人であった。

【例4】「あの子は、ちょっとしずんだ。でもまた、こえをふりしぼった。
『すてきなこと、だよね。ぼくも、星をながめるよ。星はみんな、さびたくるくるのついた井戸なんだ。星はみんな、ぼくに、のむものをそそいでくれる……』
 ぼくは、なにもいわない。
『すっごくたのしい! きみには5おくのすずがあって、ぼくには5おくの水くみ場がある……』
 そしてその子も、なにもいわない。だって、ないていたんだから……」
(サン=テグジュペリ『あのときの王子くん(別名「星の王子さま」)』大久保ゆう訳)
Il se decouragea un peu. Mais il fit encore un effort:
? Ce sera gentil, tu sais. Moi aussi je regarderai les etoiles. Toutes les etoiles seront des puits avec une poulie rouillee. Toute les etoiles me verseront a boire . . . 
Moi je me taisais.
? Ce sera tellement amusant! Tu auras cinq-cents millions de grelots, j'aurai cinq cent millions de fontaines . . .
Et il se tut aussi, parce qu'il pleurait . . ..
                (LE PETIT PRINCE Antoine de Saint-Exupery)

・ヨーロッパ語の特徴の一つに再帰動詞(フランス語では主に代名動詞という)がある。再帰動詞は、意味上の動作主(主語)と被動者(目的語)が同じであるような構成をとって自動詞的意味をもたせる他動詞である。自己を目的化して強調すると同時に、動作主としての自己(主語subject)を分析的に被動作の自己(対象化され動作された自己、見られた自己=目的語object)に区別する。自己を動作主体と被動作客体として区別し、他動詞によって自己の存在を位置づける(再帰させる)過程が無意識的に含まれているのである(フランス語では再帰的意味から派生して、相互性、受動性を持たせることがある)。

 上記の引用で、@Il se decourageaやAje me taisais.やil se tut の動詞は、それぞれ他動詞decourager(・・・を失望させる;単純過去), taire(・・・を言わぬ;taisais半過去,tut単純過去), である。@については、対象(目的格)としての彼(se)を落胆させたのが、動作主(主格)としての彼(Il)であるから、文体上は主格に主導権があるように見えるが、対象化(分析、言語化、合理化)することなしに自己の動作や存在を確認できないことが「没主体性」の意味なのである。東洋的に言えば、言葉なくして、分析なくしても主体は厳に存在している(無名天地之始、不立文字)。英語においてもHe was discouraged (彼は落胆させられた→落胆した)と、受動態の表現をとる(言語化する)ことによって、すなわち、動作主(subject)を対象(客体object)化することによって自らの動作を明らかに(合理化)しているのである。Aの例(je me taisais.)についても同様に、私(me)について言わない(隠す)ことは、私(me)を対象化することによって、動作主としての私(Je)が、自己の動作を分析的に確認(合理化)しているのである。自己を含む対象を言語的に分析し合理化することによって、動作主の存在や動作を確認すること、これが西洋的言語表現、すなわち、認識と思考の様式であり、存在を規定する様式なのである。そして、西洋的思考様式の功罪を論じて人類のあるべき思考等式を創造しようとするのが本書の究極の目的である。

 言語は,個人にとって歴史的社会的な「所与」ないし「前提」であるが,同時に、諸個人の経験的知識の拡大に伴う創造的所産でもある。我々は言語とその意味を前提として与えられ獲得するが,同時に新たな意味を付加・創造している。それによってさらに、今までにない言語記号とその意味を創造し獲得していく。これが言語の表現形式(語彙と文法)の多様性の根源なのである。