人間とは何か(やさしい人間存在論)(2)
――「単純教」主宰 Bunkou氏との対話から――         全項目      Home
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(36)動物の意識と人間の意識  6月12日(土)
 Bunkouさん、お答えいただきありがとうございます。新しい提案はとても刺激になり、思考を深めることになるので、楽しみです。 
 「人間の意識」をどのように定義するかを考える場合に、他の「動物の意識」と比較するのは基本的に賛成です。さて、「知性」という概念を動物に適用するのは、常識的(平凡社百科事典による)ではありませんが、「動物の知性」を想定するのは比喩的である以上に有用であると思います。人間も又動物的知性の土台の上に「人間的知性=理性(reason)=言語的思考」を発達させました。
 動物的知性と人間的知性の違いは、動物的知性が、欲求や感情(直接的刺激)に従属しているのに対し、人間的知性は欲求や感情を抑制・克服して知性を働かせることができることです。食事をとりながら、怒りながら次の予定を考えられる(訓練が必要ですが)のは人間の知性です。もちろん対象のイメージやパターンの組み合わせ、創作(創造)もおこないます。
 次に、「動物の意識」と「人間の意識」です。「意識」というのは包括的な概念で、欲求、知覚、感情、知性(思考能力)をふくむ「心の働き」と思われます。意識の発達は、知性の発達そのものです。チンパンジーの知性は、相当発達しており、かなりの抽象的な知的操作が可能です。しかしそれらの操作は、人間による教育と訓練によって開発され、記号や図形が直接的刺激として目の前にある場合に限られます。しかもその知性は、餌などの直接的刺激(誘因)があるときのみ働き、人間の知的欲求や関心のように脳(心)の中だけで操作をすることは不可能です。「なぜ」このような違いが起こるのでしょうか。また、「人間の意識」が、自分自身を客体化し、自分自身(私)を操作の対象にできるのはなぜでしょうか。対象(情報)を整理・再構成(創造)して、他に伝達しうるのはなぜでしょうか。
 対象(情報)は明らかにパターンでありイメージとして脳内の中枢神経に記憶されています。Bunkouさんの言われるように言語は「感覚で感知できないもの」も「擬物質化」します。つまり、事実的対象ばかりでなく想像的対象も言語化します。では「なぜ」そのようなことが、人間に可能なのでしょうか。「なぜ」、「対応する意識」は、「想像的対象」を「擬物質化」できるのでしょうか。私は、動物と人間の認識(知性、意識)の決定的な違いは、言語にあると考えていますので、当初は「想像的対象(パターン・イメージ)」を「後追い的」に言語化するにしても、想像的対象がパターン化されるには、疑問と解決の言語的表現が必要だと考えています。「何が、どのように、なぜあるのか、そしてどのように対応すべきか」という疑問は、言語をもたない動物には本能的・生得的能力として以外あり得ません。単なる「整理」だけでなく「なぜ」の理由(reason=理性)を働かせるのが人間なのです。
 例えば、ライオンに出会って逃げ出す判断には、言語の必要はありません。しかし弱い人間が「前もって」(目の前にライオンがいないのに―直接的刺激がないのに)、ライオンから効果的に逃げたり武器を創ったりするには、創造(想像)的な知性(何が、どのように、なぜあるのか、そしてどのように対応すべきか)が必要です。また、多くの発明や発見は、自然現象のパターンを言語的に操作している(「なぜリンゴは落ちるのか」「なぜ風呂の中で浮かぶのか」)からこそ、直接的な現象の背後にある法則を新たにパターン化できるのではないでしょうか。
 人間が欲求や感情を抑え、外的刺激に影響されずに、大脳内部で自律的に対象(パターン)を操作することができるのは、言語を媒介した人間的認識能力(すなわち言語的思考)による以外考えられないのではないでしょうか。ぜひご批判ご意見をお聞かせください。

 

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(1)非言語的思考における「なぜ?」はありうるか  6月20日(日)
 Bunkouさん、「思考と言語の関係」において「パターン認識」がどのように機能しているかについては、科学的検証が必要です。しかし定説はなく、私自身も研究中というところなので、この問題について議論できるのはとてもありがたいです。
 さて、私の見解は、記憶された情報(パターン、イメージ、観念)を「操作すること」(思考)は、言語(記号・信号)なくして不可能である、というものです。それに対してBunkouさんの見解は、「なぜ」という「疑問の思い」は、それだけで思考を可能にし、言語を生み出すことにもなった、というものです。この見解は、次に述べるように、「非言語的思考」について言われている限り正しいと思います。また、「記憶力の異常発達がヒトへの進化の始まり」というのは賛成です。直立歩行とそれによる大脳の発達、さらに発声器官の進化による音声信号の分節化が、記憶力を増大させたのは疑いありません。
 しかし、「なぜ?・・・・」は、ライオンの直接的な脅威があるときのみ、「火を持っているから・・・・」と言語がなくても思考(非言語的思考―洞察)できますが、直接的な脅威のない昼間に、「以前」と「今回」を時間的に整理して、言語なしに「ライオンと火の関係」について思考することはできないと思います。Bunkouさんの言われるこの場合の思考は、高等動物の行う条件反応としての思考(試行錯誤や洞察を含む)であって、言語の必要な持続的・創造的な思考ではありません。「認識の違和感感覚」(好奇心・問題意識・疑問の思い)は、高等動物にもありますが「火の力」を理由づけ(合理化)するのは言語的思考に限られます。なお「火のコントロール」は、原人の段階で可能になりましたが、同時に言語の使用が解剖学的に確認されています。つまり、言語の獲得によって、火を言語化し意味づけ、はじめて自発的にコントロールできるのです。
 そこで私の見解をまとめてみます。まず
@思考とは
、欲求を充足するために、複雑多様な環境(刺激・情報)をどのように捉え、どのように行動(反応)するか(何が、なぜ、どのようにあり、いかに行動するか)に答える(問題解明)ことである。
A思考には、非言語的思考と言語的思考がある。A前者は高等動物の試行錯誤や洞察による学習があり、それらは必ず直接的な条件刺激(目前にある思考の誘因、問題情況)が必要である。
B人間にも非言語的思考があるが、直接的な刺激(情報、情景,情況)を前提とする。例えば、道に迷ったとき景色を見ながら直感的に方向を決めたり、芸術的な創作(音楽や美術)をする場合である。
C人間に特有の言語的思考は
、言語刺激(第二信号系、音声信号)によって、記憶された情報を脳内で自律的に想起し、その情報を操作・再構成することによって新しい情報を創造することができる。言語を持たない生得的な聾唖者には、援助者による言語的統制・教育によって言語的思考が可能になる。
 さて「なぜ」という疑問は、高等動物にもみられる認識と思考の原則として、環境刺激に対する的確な反応のために、「なぜ」その刺激が起こったのかという原因を追及することです。動物の基本行動は刺激反応性であり、刺激の因果関係を認識することは、より適応的に行動するために必要だからです。また、what,how,who,whereについては、直接的刺激から視覚的に解明できますが、時間に関係する「whyとwhen」は、知覚的な直接的刺激では解明が困難であり、言語信号による記憶の操作なしには、疑問自体が持続的に起こらないと思います。結論としては、やはり「なぜwhy」と「いつwhen」を深めるのは、言語による記憶の操作が必要となるのではないでしょうか。いささか厚かましいですが、具体的な反証を期待します。
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(2)(改)動物的思考における「なぜ?」はありうるか  7月 4日(日)
Bunkouさん、返信ありがとうございます。迷いのある質問の要請に戸惑われたのでないかと思います。私の迷いとまとめ方の悪さのため、やはり「厚かましい」表題になったことに気づきました。「非言語的思考における『なぜ?』はあり得るか」というのはわかりにくかったと反省しています。非言語的思考には人間以外の動物の思考と、人間の直感的思考が含まれています。しかし、人間の直感的思考は、私の見解では、人間は言語によって定義しますから、意識的にではなくとも、言語が介在していると考えるべきなのです。
 従って人間の直感的思考について、Bunkouさんの指摘のように『「why」だけが直接的刺激により解明でき、「what,how,who,where,when」が言語による記憶の操作が必要』とされるのは理解はできます。ただ、言語が必要とされる理由として、後者の4w1Hが、言語による「特定を必要」とするとされていますが、言語がなくても(つまり動物の場合でも)対象の特定は、個体の興味関心(パターン記憶)によって可能なのではないでしょうか。対象(what)も、状態(how)も、主体(who)も、場所(where)も知覚的に確認できますし、時間(when)は記憶によって特定できます。しかし、事象の結果(現象)に対する原因や理由は、単なる条件反射(ベルの音→<肉>→唾液)ではなく、特定すること自体に記憶と判断(因果関係の言語化・対象化=主語・述語・目的語)を必要とします。ここでBunkouさんの指摘される「以前の記憶との違和感」が関係してきます。起こった事象結果が、記憶どおりのものであれば問題ありませんが、異なる(予想や期待されない)結果を生じた場合、当然、違和感・不満・原因追求の感情が起こります。しかし「何でやねん?why」とは感じますが、それだけでは記憶を利用した思考まで展開できるでしょうか。単に疑問が起こること(なぜベルが鳴るのか)と、思考によってその「疑問を解決する」ことは別ではないでしょうか。
 私は、刺激反応性という因果関係の追求から、「なぜ」が生じたと考えますので、「特定」が必要と思います。しかもこの特定は、対象の特定とともに、因果・理由を求めるもので、高度な疑問であり、言語を必要としているのです。もちろんBunkouさんの指摘のように「以前の記憶との違和感」から「なぜ」が生じることが多くあります。「以前の記憶」すなわち「学習された記憶パターン」と実際の環境との違いを「なぜ」と疑問に思うのは当然です。いつもあるところに「エサ」がない、「なぜ」。これはパターン認識ではどのようになるのでしょうか。「なぜ」はあっても(言語的記憶がなければ)、解答を追求できないことがあるのではないでしょうか。
「what,how,who,where」については、「特定」するから言語が必要、とのことですが、非言語的思考でも、対象(ライオン)、状態(怖そう)位置(ヤブの中)など、言語がなくても知覚的にパターン認識ができる(動物の場合でも)のではないでしょうか。
 私は基本的に動物の疑問(問題意識)は受動的消極的なものではなく、能動的積極的なものであると思っています。過去の経験との違和感や欲求実現の障害になる対象への疑問だけでなく、初めての対象や変化そのものに対する好奇心も疑問の原動力となります。不断に変化する環境世界(変化は違和感そのものでもあります)のなかに生命主体を安全に位置づけ、欲求を実現することは生命の認識と行動の目標でもあります。
 どうもこの件は、重要であるにもかかわらず、私自身実験的データが少ないので断定しかねます。疑問の立て方を「非言語的思考」とせずに、『動物的思考における「なぜ?」はありうるか』とすべきかも知れません。右脳の話については私の知識不足です。しかし、言語なしに「違和感」を持続させ、whyまで深め解答に導くのは無理があるのではないでしょうか。今後の課題にします。歯切れが悪いですがご意見をお聞かせください。
 
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(3)直観・思考・言語の中間的まとめ  7月17日(土)
Bunkouさん、返信ありがとうございます。とてもよくわかるご意見で、私の迷いも多少整理ができそうです。同じ物を見て考えているようでも、微妙な違いがあることが、かえって思考を刺激し、論点を明確にするようです。
 さて、まず「仮想認識能力」=「想像力(imagination)」と「創造力(creative power)」を明確に区別することは難しいです。たしかに動物は、欲求や外界の刺激に応じて、過去に経験し学習した記憶を想起するでしょう。しかしこれを「想像力」と表現するには抵抗があります。というのも動物における記憶の想起は、あくまでも、欲求や外界の刺激に反応する形で「受身的」に起こります。しかし人間の想像力は、もう少し能動的で、欲求や知覚・行動に直接つながらず「自由性」のある認識能力(思考)なのではないでしょうか。Bunkouさんの言われる『「逃げ道」を想像し、先回りを組み合わせた』ことが想像力になるのでしょうか。この場合は応用力や自由性の少ない、模倣や教育、試行錯誤や洞察による単なる経験的な「学習」の結果(融通性のない条件反射)ではないでしょうか。ちなみに『広辞苑』では、想像力は「実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること」とあります。
 「創造力」は、ご指摘の通り、目的意識的で、言語的操作を必要とし、何らかの具体的な形を創る、より能動的積極的な思考活動だと思います。いわば想像力は頭の中だけで考えますが、それを形に表すのが創造力と言えないでしょうか。
 そこで今までの指摘をふまえて、前々回の人間の思考についてのまとめを修正します。人間の思考は、@動物的直観的思考、A言語的直観的思考、B言語的論理的思考の3段階がある。
@は生理的欲求や知覚的直接刺激にのみ反応する認識能力で、条件反応や試行錯誤・洞察を含む判断的思考。自然的生理的な統制を受けます。
AはBunkouさんの言われる仮想認識能力=想像力で、直接刺激がなくても頭の中で様々の記憶パターンを想起し組み合わせることができる認識能力。議論になるところですが、言語的統制をある程度受ける。例えば今日の一日をイメージする場合、言語的問題意識がイメージを方向づけます。「今日は何日、何をするか、早く返信をまとめよう。まとまらない、忙しい、知識が乏しい」等々の言語が介在します。
Bは全面的に言語的統制を受ける。
 3つの段階はともに脳科学を含めた具体的な実証が必要です。
 ここまでまとめて、『続き』を見ました。ここで「人間の仮想認識」が納得できる表現であることに気づきました。ただ「動物の」となると留保せざるを得ません。野生の類人猿(チンパンジー、ゴリラ)の行動をビデオなどで観察して、リーダーが仲間のもめ事にすぐには介入せず、情勢判断をしているのを見ると、「仮想認識」があるのかな、という気もします。それでも、仮想認識状態が、外的刺激なしに起こることは考えられません。人間は、言語刺激を内在化させる(まずは疑問形式what,how)ことによって、はじめて「自律的」に仮想認識が可能になるのではないでしょうか。
 次に「なぜwhy」について、『言語の前に、この「WHY]感覚があった』というのは理解できます。とくに「WHY感覚」は使いやすい表現です。
 学者的な詮索は、私の知識の限界を感じます。「疑問の形式と言語」についてのBunkouさんのまとめ(中間)がいただければありがたいです。次回からは『単純教』にあるような、幸福に到るための個人的・社会的「秩序」について議論できればと思いますがいかがでしょうか。
 
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(4)「生きる力」と言語との関係は? 7月30日(金)
Bunkouさん、返信ありがとうございます。指摘される動物知能の「融通性(応用性)」や「言語の不完全性」を常に念頭に置くことは当然です。これは単純で私にとってもわかりやすい指摘です。ただ高等動物と人間の「言語の有無」による決定的な違いを強調することは、最も重要なことと考えています。想像力の一般的な定義は別にしても、「非言語的」想像力と「言語的」想像力とは違います。言語を持たぬ動物(例えばハイエナやオオカミの集団的狩り)は、認識の対象(獲物)を直接知覚しないと狩りの情況を「想像」しません。人間は、対象がなくても言語刺激によって想像します(ブツブツ独り言を言いながら想像してキーをたたいています)。
 自然と生命の多様性は、言語的論理によって説明し尽くすことは不可能です。言語はよい意味でも悪い意味でも、現実(実体)をフィルターにかけ、主観的世界を拡大し、さらにその内容を社会化しようとするものです(Bunkouさんの掲示板にはとてもお世話になっています)。言語は社会的存在ですが、主観的にしか実現しないものであり、言語の意味は、それを使う人の経験に限定されるものであることは常に自覚する必要があります。
 さて、これまで哲学で「認識論・存在論」といわれる分野での議論をしてきました。しかし、特に認識論では私たちが人間として生きていく生き方や社会との関わり方、幸福な生き方についてはあまり論じません。Bunkouさんの『単純教』では、人生をいかに生きていくか、という実践的な処世術が説かれているように思います。私は「人間とは何か、どのような存在か」、という知的な面が強すぎて、未だ実践的ではありません。いかにすれば幸福な人生を送れるのかという、Bunkouさんの「独創的」な見解は、「仏教(宗教)の革新」をめざしたい私にとって参考になります。
 質問したいことは「山」ほどあるのですが、まず第5章『生きる力』を中心にした「生きる力」の本質と効用についてです。私は、生命の「生きる力」を、人間以外の動物にとっては、欲求や本能そのものと考えています。そして、人間にとって「生きる力」すなわち欲求や本能を自覚(意識化)することは、「人(私)は生きなければならない」と言語的に意識化することであって、それ以外の何らかの他者の力(例えば創造神、生命神)が加わることは、「生きる力(=私自身の力)」を、非主体的なものとして歪めないか心配です。生命とは「生きる力」であり、欲求や本能そのものです。その生命は言語を創造しました。言語は当然「生きる力」を実現するものです。だから「私(生命)は生きなければならない」のです。「どのように(how)生きなければならないのか?」これが私にとっての課題になります。
 そこで、質問の@として、第5章冒頭の「生命神は『生きる力』を、生物に与えます」というのは、生物(人間)を受動的存在として「のみ」捉えておられるのではないでしょうか。質問のAとしては、本能同士のぶつかり合いが「生きる力」を弱めるとされていますが、少しわかりにくいです。例えばミツバチの集団では、外敵に対して働きバチが自己を犠牲にして集団を守り、ヒバリの親鳥は、命をかけてヒナ鳥を守ろうとします。これらは種存本能の優先によって、「生きる力」を弱めることになるのでしょうか。むしろ種としての生きる力を強めることなのではないでしょうか。質問のBとして、「生きる力」と言語との関係について、私は上記のように「人は生きなければならない」と言語表現することと、言語は生きるための認識・思考・記憶・伝達能力を向上させるものと考えますが、Bunkouさんの見解はいかがでしょうか。よろしくお願いします。
 
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(5)「大きな存在」について  8月 9日(月)
 Bunkouさん、ご意見ありがとうございます。今回の主張は今までで一番よく理解でき、説得力を感じました。人間の現実をふまえた実践的幸福論・宗教論だと思います。指摘された点はいずれも「なるほど」と納得できるものです。 誤解を恐れずに言えば、Bunkouさんの立場は仏教で言う大乗(在家)の立場に近く、私の立場は小乗(出家)に近いと思います。私は世俗の仕事を持つ人間ですが、かつては小乗の解脱(苦悩からの永遠の解放)にあこがれたことがあります。しかし「人間存在とは何か」について研究を進めるにつれて、過去の哲学(西洋思想)や宗教(キリスト教や仏教)を克服する必要を痛感してきました。現在では、人間の心や幸福の問題は、環境や教育など社会的歴史的な背景の中で生じるものであるとの観点から、自己変革と社会変革が同時に必要と考えています
 さて@の「生命は受動的存在か?」という問題について、あらためて微妙な問題であると認識しました。「生かされている」という表現はとても日本人的な生命観です。日本人の心情には「甘え」や「曖昧性」があり、神道や日本の仏教に反映されています。私はこの言語表現について、共感はするのですが真理ではないと思っています。理由は、西洋的合理主義と日本的曖昧性をともに克服できないからです。この点は機会があれば、さらに議論ができればと思います。
 私は、生命は地球という特殊な環境の中に「受動的」に誕生したが、「能動的」に環境に働きかけて生命性を維持をしている,と考えています。人間生命の場合、自らをどのように言語化するかと言えば、当然「生かされている」では不十分ではないでしょうか。また、「生命神」=「生命の連鎖」は、生命の「生きる力」そのものであり、生命の「生きる力」は「生命神」によって「受動的」に与えられるものではなく、生命の連鎖を持続させようとする「能動的」な「生命神」そのものではないでしょうか。
 さらに、生命(私自身)が、「生かされている」のではなく、「生きている」ないし「生きなければならない」という自覚は、人間の生命力を高めるもので、十分に宗教的な自覚であると思いますがどうでしょうか。私達が、自分自身を「生かされている」と認識(規定・自覚)するのか、「生きている」「生きなければならない」と認識(規定・認識)するのかは、とても重要な宗教上の違いを生じます。前者は「調和」や「癒し」「慰め」「愛」「慈悲」「救済」等の感情を含みますし、後者は「挑戦」「自力」「自律」「自尊」「勇気」「秩序!」等の感情を含みます。私自身まだ整理されてはいませんが、後者が前者を含むことは容易ですが、前者から後者を得るのは難しいのではないでしょうか。Bunkouさんの「単純教」は、表現上は「生命神」が「生きる力」を与えるようになっていますが、実質は力強い「自己神」が、後者の働き(高い意識を得る)をしているように思うのですがどうでしょうか。
次にAの後半述べられている「『種の維持』は、生物の異種間で争わせ、さらに強い存在になって命を繋ぐよう進化させるための生命神の戦略です。」という点については疑問があります。種の多様性が、異種間を争わせ、「種の生きる力」を強める生命神の戦略であるとは思えません。種の多様性は、環境の多様性に対応したものであって、競争によって「さらに強い存在」になるためのものではありません。多様な種は、多様な環境に共生できることが前提であって、生命全体の「生きる力」を強めることではないと思います。人間の決意次第ですが、未来においても生命は十分に共存共栄することができます。
 Bについて、「生きなければならない」というのは知性的な意味での「生を全うする」ということではなく、「いま、ここにある生」の本能的な要請を言語化したものです。私は生命です。その生命(神)が、「いまここで」、「生きなければならない」と語るのです。これは知性から生じるものではなく、私の欲求であり感情であり意志の表現(生きたい、生きてる!、生きるぞ)からの帰結です。「生きなければならない」は、知性の結果というよりはむしろ知性の出発点です。
 さらに、人は「生きなければならない」という自覚からこそ、自己と種・族、そして自己につながるすべての生命のために、よく(正しく)見て、よく(正しく)考え、よい(正しい)行動をとらねばならないという結論が得られます。単に「生きている」「生かされている」という受動的な知性から、どのようにして未来を志向する倫理的道徳的な生き方が生まれてくるのでしょうか。自己満足や慰め・癒し・救いは得られても(過去の宗教はその傾向が大でした)、充実した幸福感が得られるとは思えません。Bunkouさんの「生きる力」にもとづいた「秩序志向」の主張は、十分に「生きなければならない」という意志を感じますがいかがでしょうか。
 また私の考えでは「大きな存在」とは生命そのものであり、私達一人ひとりの中にそれはあるのです。人が幸福に生きる鍵は、この「大きな存在」を、どのようなものとして認識し、創造していくのかにあると思います。ただ「大きな存在」は、人がそれに従い任せるものではなく、自らの内に見いだし創造するものです。私は、人がそれぞれ自らの内に「大きな存在」を見いだし創造することが幸福につながると思っています。そして共通の「大きな存在」もあると信じています。人の「哀れ」は、自らの内に「大きな存在」を見いだせないいまの時代と社会の「哀れ」にも原因があると思います。
 長くなりました。Bunkouさんの主張に共感しつつ反論をさせてもらっています。ご批判ください。
 
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(6)私の内なる生命神  8月15日(日)
 Bunkouさん、返信ありがとうございます。私自身が現在思索中の課題なので、的確な指摘をいただけることを大変うれしく思っています。生命(活動)の在り方を、受動的と捉えるか、能動的と捉えるかは価値観の問題ですが、それ故に大きな広がりを持つことがわかりました。
 Bunkouさんの分析にもあるように、私は個々の生命の立場から見るために「生命は受動的に誕生し、能動的に生きている」と捉えようとします。Bunkouさんは「長い生命の連鎖から見れば、その生物の生は『受動』」となると考えておられます。このような見方の違いは、「生かされている」と「生きなければならない」の違いを生み出しています。
 私は、生命自身であろうとしていますから、生きることは「能動的」となります(特に動物の場合)。私自身が長い生命の連鎖を背負っていますから、自己神として「能動的」なのです。「神のごとき振る舞い」は私自身の中に体現されているのです。それに対してBunkouさんは、生命38億年の歴史と進化の過程を「神のごとき振る舞い」として「生命を司る仮想の神(生命神)」(第4章)を想定(創造)されました。そのために個々の生命的なものは、神に対して受動的となります。私は、生命のパワーやシステムを「神のごとき」もの(生命神)とすることは賛成ですが、この神を主体として個々の生命を依存させることには疑問があります。「神」は、あくまでも「生命」を形容する言葉に過ぎないのですから。その点『単純教』では「生きる力」や「自己神」を主体とすることによって、生命神と個々の生命の間にバランスがとれているので安心できます。『単純教』では、生命神や自己神から「神」という言葉をのぞいても「生命(神)は自己を守り、癒し、導く」のように、十分成立すると思うのですがいかがでしょうか。
 「進化と種の多様性」については、地球の多様な環境への多様な適応の拡大が進化の事実だと考えています。生物は競争するより、多様な環境に棲み分ける方が、生命全体の維持存続の戦略として有効です。適応力をなくした個体や種は生命を維持存続できずに滅びますが、生存競争の結果とは限りません(環境の変化による巨大獣の絶滅等)。また、生命は、無数の単細胞生物から多細胞の植物や動物に到るまで相互依存で生存していますから、「一つでも生き残ればよいという戦略」は、現実的ではないし、実証できないと思います。
 「知性と言語化」について、「生きなければならない」と言語化するには知性が必要との指摘は納得します。ただ、知性のある人・ない人という次元で考えると、知性のない人にも「生きなければならない」は義務として直観できると思います。この「生への義務」は、私にとっては、生きている細胞(例えば、アメーバーの動きや細胞分裂の映像、無数の生命活動など)を観察して、感性的直感的に浮かんだ命題であって、知性以前のものです。「義務」の感覚は、高い意識(知性・理性)を必要とすると言われればそうかも知れませんが、幼少時に教育されれば自然と身に付くものでもあります。私自身は、この義務を「道徳的知性」すなわち「正しい生き方(の秩序)」を考える出発点にしたいと思っています。
 正直なところ、「生きたい(欲求)」では秩序のない個人的な願望にとどまりやすいし、「生かされている」では創造的主体性に欠け、秩序は硬化します。そこで、単なる欲求の自己主張とならず、主体の積極的能動性を明示でき、生きることへの意志を簡単に直観できる「生きなければならない」(生への義務)が、道徳的根源としてふさわしいと考えたのです。言葉は生存のための秩序、幸福に生きるための秩序を創造するべきであると考えるからです。ご意見ご批判をお願いします。
 幸福論と自己・社会変革まで頭が回りません。次回以降と言うことであしからず。
 
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(7)古い宗教、新しい宗教 8月22日(日)
 Bunkouさん、返信ありがとうございます。今回もよく整理されていてわかりやすいです。ただ何をもって宗教とするかは、定義の問題でもあります。仏教の始祖釈尊は、絶対者を創らず、自らの知性と修行によって解脱したと信じました。かれは「犀の角のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば』岩波文庫)とか「実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。」(『真理の言葉』岩波文庫)と言って、自力救済を勧めました。私は釈尊の教え(小乗仏教)は、宗教であると思っています。救済を説く教えがあり、それを信仰し実践して救済されれば宗教が成立します。人は神や仏を信仰すると救われると言いますが、結局は、神仏を想定し、信仰することによって現実(事実)から逃避し、自己(人間)省察を妨げているのです。神仏のような仮想の「大きな存在」を創らなくとも、釈尊の主張(教え、言葉)のように、帰依し信仰するに値する「大きな存在」であれば、人々の心を癒し、自信をつけ、宗教として成立すると思います。身近な例では、本田時生氏の『幸せのホームページ』(http://www.din.or.jp/~honda/)の主張を信仰すべき対象とするなら、立派な宗教になります(今のところオタク宗教でしょうが)。
 Bunkouさんの「人には、どうにもならないことがある」というのはそのとおりです。だからこそ、弱い人間が何らかの拠り所(「大きい存在」「救世主」「菩薩」「阿弥陀仏」等)を求めてきたのもその通りです。しかし、よくよく考えてみれば、それらの「大きな存在」はすべて人間の創造物です。重要なのは人間の創造物である理論(秩序)が、十分な説得力を持つかどうかです。今日ではキリスト教の「聖書」は、イエスの偉大さを知ることはできますが、主張自体の説得性はありません。釈尊の主張は驚嘆に値し、帰依したい気持ちはありますが解脱(涅槃・欲望の滅却)という目的自体が現実的ではありません。それらは優れた「物語」ではあっても今日の科学的実証的批判には耐えられません。だから、Bunkouさんが、生命についての科学的な知識と人間真理の周到な分析に基づいて、新しい宗教を提唱されるのは理解できます。
 そこで二つの質問です。@『単純教』が論理的、システム的、バランス的、シンプル的であるのそのとおりだとおもいますが、「実証性」についてはどのようにお考えでしょうか。ABunkouさんは、「秩序」と言う言葉で、仏教で言う「法」、西洋科学で使う「法則」を表現されていると思います。そして環境と自己の秩序を、それぞれ自然の法と人為の法に分けておられるようなのですが、一般的な「法則」と「秩序」の微妙な違いを教えてください。
 追伸「人は生きなければならない」について
 上の命題について、今まで論証不足であると感じてきました。少し付け加えておきます。動物は生物として、個体と種の維持存続という欲求をもっています。動物が生きるのは、この欲求を充足させる活動です。それは、個体維持のため自然に働きかけ食料を得る活動(労働)、個と種の安全を守るため、災害を避け外敵と戦う活動、種の維持のため、パートナーを見つけて子孫を残そうとする活動、などがあります。
 人間にとって欲求の充足は、「生きたい」という欲求や願望にとどまらず、欲求充足のために「行動しなければならない」(言語化するとそうなる)という義務(当為、意志)を必要とします。「何か食べたい?それなら働くべし」「恋人がほしい?自分で見つけ同意を得るべし」などの行動が必要です。「人は生きなければならない」とは、「人は欲求を充足しなければならない」であり、そのために「行動しなければならない」ということです。
 オリンピックのためか、思索が前に進みません。ご容赦ください。
 
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(8)宗教もいろいろ  9月 5日(日)
 Bunkouさん、丁寧な解答をいただきありがとうございます。いろいろ配慮されて『単純教』を構成されていることがよく理解できます。
 私は、過去のビッグな宗教はそれなりに人間存在の根源を探求して独自の世界観や人生の意味づけをしていると思います。ただ、一般の民衆が救いや現世利益を求めて、深い理由づけもなく単純に神仏に帰依し、宗教組織を支えてきたのも事実です。人生いろいろ、宗教もいろいろと言えばそれまでですが、人間の能力の限界や心の弱さを補い、人生を意味づけてくれる何らかの神秘的な力―呪術、霊力、超能力などのパワー(大きな存在)を求めればそれは宗教になると思います。だからBunkouさんの宗教の定義は、コンセンサスを得られると思います。
 しかし私はもっと単純に、人生の不安や心配を除き、欲求や希望を実現するパワー(大きな存在)として「言葉」を考えています。私にとっての「大きな存在」は、「生命」と「言葉」です。特に「言葉」は人間の心を捉え、感情を揺さぶれば大きな力を発揮します。この事実は他人がどう捉えるかに関係なく、私の主観的な信仰ですから、Bunkouさんの定義でも私の主張は「宗教」だと思っています。釈尊は、生命の輪廻の苦しみからの解脱(大きな存在)を信じ実現したので「宗教」になります(もちろん求道・探求は宗教家の属性です)。人間の心を捉える大きな存在は、生命であれ、神や仏であれ、言葉であれ、個人の主観的な信仰であるというのは単純な事実ではないでしょうか。
 次に質問の解答についてです。@の解答については、私も幸福のために信仰(納得)が必要であると思います。美味しいものを食べ、癒される音楽を聴いてその場の幸福感を味わっても、それがある程度持続しなければ本当の幸福とは言えません。信仰は幸福感を永続させます。しかし、信仰のためには真実性(真実そのものでなくとも)は必要です。疑えば際限がない(懐疑論)ので、ある程度で折り合いを付けざるを得ません。そのためには、『単純教』にもあるように、物事の道理を諦(明める=真実の探求)めた後に、真の諦め(真理=諦念)に到達せざるを得ないでしょう。
 質問Aについても、どこで折り合いをつけるかの問題でしょうか。私も(は)aboutな性格で、OさんよりBさんに近い整理能力の人間です。しかし、生命の研究とともに言語の研究もしたため、言語への思い入れが強く、言葉が飛躍してしまうのです。私の主張は、今は、「高い理性」や「崇高な意志」を持つように感じられるかも知れませんが、とても単純でわかりやすいので、将来的には、小学生にもわかるような常識的な考えになると思います。逆に私から『単純教』を拝見すると、東洋思想の「気」がみなぎり、高い理性や崇高な意志を感じます。「〜なければならない」というのは、自分自身への努力目標ですから、当然「自己秩序」に含まれているものです。そして教育や学習によって自己秩序になるほど自分の身に付けば、義務や当為も自然に喜びや幸福につながるのです。
 ところで前々回に約束をしました幸福と自己・社会変革についてまとめてみました。掲示板には重いですが、読んでご批判ください。         
 
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(9)幸福論試論─希望を見いだすこと─  9月 5日(日)
 何が「幸福」かは、主観的な価値観の問題で、人それぞれに違っています。当然それでOKです。美味しいものが食べられる、旅行・スポーツなど諸々の趣味に打ち込む、愛するパートナーと一緒にいる、そして家族や友人との語らいなどいろいろあります。そしてそれらの「幸福(感)」に共通するのは、自己肯定の感情すなわち「安心」「快適」「喜び」「充実」「希望」等です。なかでも「希望」(目的性・持続性)は、言葉をもつ人間特有の肯定的感情です
 例えば、美味しいものは動物でも満足感(快感)を与え、好物として記憶され、次の満足への期待へとつながります。しかし、動物の場合この期待は、想像や夢のような広がりを持ちません。人間の場合、言葉という内的な刺激によって満足感への期待は想像力を駆り立て、夢や希望として持続的・目的的に広がります。夢や希望があれば、多少の苦労もがまんできます。というより、苦労自体を幸福(感)に転化できます。スポーツ選手は栄光の勝利をめざして、自ら苦しい鍛錬に挑戦します。多くの宗教では、難行・苦行も解脱や救済への「希望」によって耐えられるものとなります。そればかりか他人から見て苦労や無意味と思われることも、快楽に転じることがあります(脳内に快楽物質が放出される)。
 使徒パウロが、キリスト教の三元徳として信仰と愛に、「希望」を加えているのには大きな意味があります。孔子の信念を支えたものは、「天命」という名の希望であったし、フランクルの分析(『夜と霧』)では、ナチスの強制収容所で人々の生きる意志を支えたのも希望(生きる目的)でした。また仏教の始祖釈尊の説いたことは、欲望から起こる煩悩を断ち切ることによって得られる涅槃(解脱・浄福)への希望でした。
 人間にとって幸福の最大の条件は「希望」です。希望のない愛や信念や行動は、一時的な快楽(幸福感)を得られても、言葉を持ち、未来を考えざるを得ない人間にとっては、空虚で不安なもの(つまり未来なき不幸)にならざるを得ません。肯定的感情には、常に、未来への「希望」が伴っていることは、何人も認めざるを得ないでしょう。(もっとも、考えたくない人、考えようとしない人、反省も後悔もしないで「幸福など糞食らえ」「夢も希望もない、今さえ良ければいい」と開き直る幸福な人もいるようですが、人間存在の本質を知らない不幸な人と言えるでしょう。)
 さてそこで、単なる身体的・物質的・動物的快楽による幸福ではなく、内面的・精神的・人間的快楽、つまり目的的・持続的な幸福、夢や希望を伴う快楽とはどのようなものであるのか、その条件を考えてみます。
<永続的に希望をもてる幸福な人生の条件>
@幸福(感)とは何かについて知ること
幸福とは、幸福感・満足感・充実感・安心感という感情の持続によって、感性的に知覚し理解される心(精神)の状態です。この感情は欲求の充足によって得られますが、欲求が充足されない場合不幸になります。人間の場合、欲求は想像力によって肥大化するため、想像力自体をコントロールして、幸福感を持続させることができます。この想像力(創造力、思考力、言語力、精神力)によって得られた人生観(生き方)、価値観(世界観=ものの見方考え方)、人生目的などが、個々人の幸福を左右することになります。人生の目的を、家族の慎ましやかな生活とするか、大金持ちや権力者になるか、精神世界に浸るか、社会変革をめざすか等々によって、幸福観とその実現のための過程は大いに異なります。そして、これらの人生目的を実現するためには、それぞれの理由付け、つまり幸福を獲得するための人生観(価値観、世界観)の確立が必要となります。
A自分で納得できる幸福観を持つこと
幸福感(観でない)は、個人の人生観(価値観・人生目的・自己認識)によって異なります。最低限、毎日の物質的・精神的生活が、不可解なものとしてでなく、自分の人生観と一致(満足)するか、または許容範囲(不満でない)の内容であることが必要です。そのためには自分の幸福観を明確にした人生観の検討・吟味と幸福実現の不断の努力が必要です。幸福であるかどうかを意識しないことが幸福であると言う幸福観もありますが、「幸福論」だから幸福を意識し考え論じます。幸福は追求するものであり、その獲得能力を高めること自体(希望)も幸福につながります。
B幸福は追求し創造することによって強化されること
・人間として可能な求めるべき幸福、人生の最終幸福は何か、そもそもそのようなものはあるのか、あるとすればどのようにして身につけるのか。人間の行動は、快・不快の情動や感情(脳内の快不快中枢の反応)に支配されます。しかし人間は、言語的思考の働き(理性につながる)によって、単なる情動的動物的な快・不快の反応を越えた知性的精神的な快不快の感情を得ます。さらに苦痛を快感情に高めるような、より高次の快の感情(自己肯定的な精神的感情)によって、永続的な幸福を得ることもできます。言語によって自己の存在や行動を合理化し、幸福の感情を引き出すことも可能なのです。幸福という自己肯定的感情(快適、安心、満足、充実等々)は、自覚しなければ、その場の否定的情況に支配され、すぐに不快や不安、不満足な感情(不幸な状態)が全身を襲います。しかし自分がどのような状態にあるかを自覚できる人は、不幸の原因を避けるか、取り除くか、問題を解決するかなどによって克服することができます。問題状況を合理的に分析し、または言葉の内的刺激によって、感情や行動のコントロールをおこなうのです(合理化、気分転換、精神集中)。このような能力を高めるには、指導者の援助を伴う学習や訓練・修行が必要です。
C自分の人生観が、社会的承認を得られるものであること。
・自分の人生観(目的)に疑問が起こっても、誰かの理解・支持を得られる内容であれば、情緒的安定又は満足感が得られます。人間の判断や人生観の根源は情緒的(又は本能的であり合理性には限界がある)かつ社会的に形成されたものですから、一人の理解者(感性的又は知性的理解)があるだけでも自信をもつことができます。人生目的は究極的には主観的なものだから、自分一人でも納得できますが、他人の批判や無理解・曲解があれば不安が生じるものです。人間は社会的動物であるために、社会の中で安心感を得るものであると同時に、社会の中で人間になるので、自己の人生観や生き方について自分で納得するだけでなく、社会的承認を求めるのです。
D自分の人生観が、社会的情況の変化に対して、修正可能であること。
・人生観(人生目的)に確実性や永続性、社会性があると、幸福は社会的評価に対して安定的になります(人々が既成の宗教に依存しやすいのはそのためです)。人生の目的は、その根拠や実現の可能性が、確実であればあるほど、得られる幸福は盤石なものとなります。幸福が確実で永続的であるためには、まず物質的に生存するための最低限の欲求の充足(福祉社会)が必要です。しかし、時代や社会的価値の変化によって、自分の人生の目的と異なる(思い通りにならない)状態になることは不幸です。現在の幸福観がいつまでも真理であるとは限りません。社会の変化に自分の幸福観や人生目的が対応できること、柔軟性を持つこと、そして何よりも大切なのは不断に向上心を持って、自分だけでなく社会との関係の中で幸福を追求することです。
E個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながること。
 幸福は、究極には、個人的主観的ですから、社会的条件を考慮する必要がないと考える人もいます。しかし、誰もが幸福であるためには、社会が安定しており、最低限の生活が保障される福祉社会が必要です。自然の災害や戦争、犯罪、環境破壊など、個人の努力を越えたところで、物質的生存を脅かしているのが現実の社会です。いくら幸福を追求しても、それが個人の努力を越えるものであれば、社会的な連帯の力で、すべての人々の幸福を実現できる条件を創造する必要があります。自然災害は別にしても、戦争や犯罪、環境破壊などは人災です。これらは人間の力によって防ぐことができます。
 現代社会は、地球規模での相互依存の時代であり、個人の幸福の実現のために、避けられる不幸を最小限にする社会的・公共的な努力が求められます。現代は、人類が幸福の実現を追求すれば可能な時代です。その障害となっているのは何か。人間の共通理解の欠如(仏教で言う「無明」)と利己主義(同じく「我執」)を根源とする相互不信と不安、そして経済的な競争主義と富の不平等です。現代は、個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながることと、逆に、すべての人間の幸福と生命の存続が、個人の幸福につながる時代なのです。だから、世界人類が幸福になるような社会的条件を創造できる希望を持ち、その実現のための行動をすることも幸福の条件になるのです。
 他人の不幸や犠牲・失敗をもとに幸福になろうとする人がいます。しかし、そのような不正義な人を少なくする教育的条件をもつ社会は可能です。それが理想であり、夢や希望であるとしても、そのような夢や希望を持つことによってこそ、はじめて永続的な幸福を個人的主観的にも実現できるのです。「希望」こそは、言葉をもつようになった人間の最大の幸福の条件なのだからです。          (以上、長くてすみません。)
 
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(10)どんな希望(目標)を持つのか  9月19日(日)
 Bunkouさん、拙論をお読みいただきありがとうございます。自分の考えが人に読まれ、批評されるというのは嬉しいものです。私自身この試論の不十分さを感じていますので、改訂しようとの希望がわきます。
 さてBunkouさんの「幸福論」が、アリストテレスと同じく「中庸」をめざされているのがよくわかります。『単純教』にある「幸福を受け入れられる状態に自分を置く」というのは意味深長な表現です。「幸福を受け入れられる状態」とは、ほどほどの(ささやかな)幸福感を追求し評価できる状態(そのような幸福観・自己秩序)を意味しているのでしょうか。「自分を置く」とは「自分をできるだけ持続的に幸福な状態に位置(秩序)づける」というように自己流に解釈しました。つまり、困難な中にあっても苦しみを乗り越え、幸福感を得るように希望を持って、肯定的に物事を考え努力をするということでしょうか。
 人間は自然を越えて(壊して)、創造的に新しい秩序を創ろうとする動物です。私は人間生命として、自然環境を破壊し生命秩序を危うくする人間の行動を見聞きすることは悲しく不幸なことと思っています。今日の競争的・攻撃的・享楽的な文化と文明(環境秩序)は、「気の流れに従う」ことによって、人間を「優しさや寛容」に導いてくれるでしょうか。
 次に拙論についてですが、「欲望(希望)にまっしぐら」は「動物的」に感じるといわれるのはその通りです。持続的幸福の条件として、私は「社会的承認」をあげています。希望を持つことが幸福に必要であるとしても、希望の内容が希望を持てない(希望に値しない)ものであるなら幸福は持続しません。
 人間は希望を持つことによって、現実の困難を乗り越えることができますが、希望(目的)の内容と手段を間違えば、悪魔的な独善的幸福(廃墟を造って平和と呼び、自爆して天国へ行く)を招くことになります。テロや戦争、宗教的排他主義はその例です。そのような独善的な幸福は絶対持続しません。またスポーツ競技で栄光(幸福)を得るためのドーピング使用は、発覚してもしなくても他人に多くの迷惑をかけます。ドーピングは、「社会的承認」を得られないため、一時的な栄光は得られても幸福の条件には入りません。他人を犠牲にして自己の幸福を得ることは可能ですが、怨みや対立を生じるだけで、逆に不幸の種をくことになるでしょう。
 だから、どのような希望を持つべきかという課題は、どのような夢や希望が、自己と社会、生命と人類(「四界」かな)にとって有益であるのかということになります。しかしこれは相当困難な課題であると思います。ご意見をお聞かせください。
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希望(幸福) (駄文) 投稿者:お肉   9月25日(土)
お久しぶりです。「先に謝っときます、内容が重複または過去ログに書いてあったらすいません。」
 希望(幸福)とありますが、どういうことでしょうか?「希望=幸福」ということですか?
 私は幸福や幸せということが良くわからんのです、私はよく「あの時は幸せだった」と人の前で話すことがあります、もちろんこのときの「幸せ」は、「幸福」の置き換えです、私の中での「幸福(幸せ)は常に過去のこと」なのです、しかし実際に私の中では「幸せになりたい」と常にどこかで祈っているのです、「なりたい」というのは未来のことです、幸せ(幸福)を現在で感じてみたいたい。
 幸せの感じ方は人それぞれというのは当たり前のことですが、実際に幸せというのを実感したのは何時なのでしょうか?それは「目標に到達したとき?」それとも「目標に到達してから過去の道のり(苦しみ)再認識してからなのか?」、
 今、私の中で「幸せ=苦しみ」のような矛盾した答えが浮かんできているのです、幸福とは何時感じるものなのか?
 それともどこか、いつか、誰か、と比べて感じるものなのか。
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(11)日本的幸福観をどうこえるか  9月27日(月)
 Bunkouさん、ご意見ありがとうございます。「固執」に固執しないことを固執する、というのは難しい論理です。いっそ、人間は固執する動物であると単純化した上で、何に固執すべきかを考えた方がいいのではないでしょうか。
 一般に動物は、安全と食料と家族が与えられればそれ以上固執しません。動物園に捉えられ、一見おとなしく生活しています。しかし、人間は違います。欲望や創造力には際限がありません。自由を求め、幸福を求め、未知のものに挑戦し、さらに刺激を求めて様々の娯楽やゲーム・スポーツを考案し、優越感を得るために自分の身を飾り化粧してそれでも満足しません。このように人間が、物事に固執し利己的な欲望を肥大化して虚飾に走るのは、言葉による想像と創造が可能になったためで、欲望に固執するのは人間の本性であると言えます。さらに、困ったことに、拝金主義の現代では、社会(誰か)が悪意を持って「不正義の競争」を奨励するために、必要以上に利己心を刺激され、欲望を肥大化させています。
 さて、Bunkouさんは、「苦しみは固執」だから、「固執にとらわれない情況を作り出す」ことに固執しようとされています。固執・妄執・執着・こだわり・業などは、仏教もまたこれを克服することに固執します。そして、もはや固執することのない悟りの状態こそ解脱であると考えます。仏教は解脱という「希望にまっしぐら」で、家出(出家)も必要と考えます。解脱への徹底性(まっしぐら)は、解脱という目標(希望)が、客観性を欠くために、やはり危険性を持ちます。いわゆる出家した僧侶の幾人かは、本当に解脱を体得しているか大いに疑問であり、今日のように欲望解放と科学の時代には、仏教のめざす解脱を一般化するのは極めて困難です。
 そこで Bunkouさんは、「諦め」の必要性を強調されます。仏教では「諦め」とは、真理を明らめることであり、真理そのもの(四諦の説)です。Bunkouさんの場合も、ある程度(60%ぐらい)の欲望充足で満足し、それ以上の幸福追求に固執しないで諦めることが、(持続的な)幸福につながるとされています。いわゆる「足を知る」こと(知足)だろうと思います。これはとても大切なことで、また日本的な幸福観でもあると思います。日本の神道における「神ながらの道」はそれほど厳しい修行を求めませんし、罪や穢れは、禊ぎやお祓いによって取り除かれます。また天理教では「陽気ぐらし」を生活目標におき、困難なことは「親神」様におまかせします。
 さて問題は、科学技術の進展による物質文明と、西洋的合理主義が浸透し自我の露出と過度の競争が支配する拝金主義の中で、「日本的な牧歌的宗教」が、今後も永続的に成立しうるだろうかということです。だからこそBunkouさんは東洋的精神をベースにし、科学的に再構成された幸福への道を「単純教」としてまとめようとされています。欲望への固執すなわち自我の露出と過度の競争を抑制し、正しい生き方(自己環境秩序)を身につけることによって、求める幸福を得られるという主張だと思います。
 おそらくこれから展開されるでしょうが、私は「社会環境」と個人の幸福が密接に関わり、今の社会の変革・創造なくして永続的な個人の幸福はないと考えています。「希望にまっしぐら」というのは、閉塞感のある現代社会を打破し、日本や世界の将来が「希望」のもてる社会であることと、現在に生きる人間の幸福が深く関わると考えていることによります。論点が広がり、まとまりの悪い文になりました。この点についてさらに議論ができれば嬉しく思います。
 お肉さん、お先に失礼します。よく考えてみます。
 
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人それぞれの観点 投稿者:お肉 10月 6日(水)
この文は思ったことをそのまま書き込んでます。 幸福とはなんなのか、私の幸福と友達の幸福、一人の幸福と皆の幸福、すべては同一のものなのか。
 あの人が幸福で、自分は不幸なのか。あの人が不幸で、自分が幸福のか。幸福という一つの文字が持つ意味(幸せという状況)とはなんなのか、意味(幸せという状況)が一つだと断定していいものなのか。
 言うのを忘れてましたが、私は倫理、論理、宗教、などの思想的授業は一切まともに受けたことがありませんので幼稚な考えをご了承ください、すべて自分の周り(社会)を見た結果の思考の産物です。
 幸福と不幸の一線はどこなのか、それは自分で決めることか他人が決めることか。
 上記のことは私が悩んでいることです、皆が幸福になるということはどういうことなのか、皆が望む状況になればそれは皆が幸せになったことになるのでしょうか、すなはち人の幸せを他人は不幸と見るかもしれないということです。Bunkouさんが例に出した「ガンの治療薬の開発」の彼のは趣味、楽しみで薬を作っていても、その薬で治った人は喜びを感じるはずです。その彼は他者から見れば立派な医師となるのではないでしょうか。開発者の彼と治った人は二人ともある程度の幸せを感じる可能性はあるはずです。
 この場合は両者が幸せになりました。しかしこの世はそうはうまくはいきません、例えば「二人の人がいて、この二人は友達です」二人いるということは、幸せの形が二つあるはずです、どのような形にしても、しかも二人の幸せの感じ方がまったく逆だとするとどうでしょうか、例えば一人は人ごみが好きで、もう一人は静かな場所が好きだとしたら、その状況でどちらかの幸せをとればどちらかが不幸になります。
 その結果みんなが幸せになるということは難しく、皆を幸せにしようとすれば社会の秩序が崩れてしまいます。
 
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(12)諦めないで、希望をもって 10月 8日(金)
 お肉さん、「幸福とは何時感じるものなのか」という疑問ですが、人間が幸福を感じるのは、常に現在です。私の考えでは、幸福は、肯定的感情(快、喜び、楽しさ、充実、安心など)の反応が持続している状態を言います。感情は、過去の思い出や未来の出来事、夢や空想についても働き(反応し)ます。
 動物にも幸福感情はあるでしょうが、人間だけが過去を思い出し、未来を心に思い描いて幸福感情に浸ることができます。楽観的な人は、常に、肯定的に過去や未来を思い描いて幸福ですし、悲観的な人は、不幸な過去や未来を思い浮かべて自らを不幸な状態に追い込みます。
 しかし、Bunkouさんの言われるように、現実では苦しいことつらいこと思い通りにならないことが多いものです。だから、現実から逃避したり、投げやりになって他に責任を転嫁し、攻撃的になることも多いのです。未来に夢や希望(未来への肯定的感情)があれば、現実の苦しさを乗り越えることができます。現代社会は、思想的にも混乱の時代なので閉塞感があり、極端な言い方をすれば、身内を越えた異文化間の共通の価値観は、自由契約にもとづくパワーゲームと物質的な欲望をめざすぐらいのことになってしまいました。そして人々は、利己的で刹那的になり、金銭や力だけで問題を解決しようとするところがあります。幸福の本質を明らかにし、未来に希望を持てる信仰、宗教、思想、哲学があれば、人間はもっと安心してゆったりと爽快に人生を送ることができるでしょう。パンドラの箱が開けられて災厄が多いのも人生ですが、「希望」だけは残っているのですから、われわれ人間はまだ諦めるのは早いです。希望を持ってなすべきことがまだまだあるのではないでしょうか。
 さてBunkouさん、ご意見ありがとうございます。「諦め」「知足」と「希望」「まっしぐら」が対立しているようです。しかし論争的には対立しているようですが、私は、いずれも程度の問題であると理解しています。程度の問題を先鋭化させると議論が発展します。私は、「今は諦める時ではない、未来に希望を持って前進しよう」という気持ちが強いですが、「これだけできれば十分だろう、今の状態で満足しておこう、ハッピー!」という気持ちもあります。ただ「欲望(希望でなく)まっしぐら」は、おっしゃるとおり動物的で人間を破滅に導きますので、私も反対です。
 私は、「幸福における希望の役割」を強調しています。「希望」は「欲望」の一種ですが、人間にしかありません。人間だけが死後(来世)への希望(天国や極楽における永遠の幸福)を思い描いてきました。神仏の愛や慈悲にすがって人生苦に耐えてきたのです。しかし、今日では死後の世界に幸福を想定するという共通理解を得ることは不可能です。だからどのような希望を目標にすべきかが問題になります。
 と、書いたところで、お肉さんの<人それぞれの観点>を見つけました。私は「人それぞれ(違い)」と「人みんな(同じ)」をうまく調和させて、違いを認めた上で、共通点を追求することが大切だと思っています。何がみんなにとって幸せなのかを求めれば、「みんなが幸せになるということは難しく、皆を幸せにしようとすれば社会の秩序が崩れてしまいます」ということはないと思います。みんなが幸せになれることについての共通の希望はないのでしょうか。私は、一人一人が自分自身の存在の意義――言葉を正しく使って、生命としての自分を、世界に正しく位置(秩序)づける――を理解することによって可能であると考えています。人間は創造的な存在だから、「共通の希望=共通の幸福=共通の秩序=共通の契約」によって、「みんなの幸せ」も創造できるのではないでしょうか。ご批判を歓迎します。
 
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(13)希望があるから諦められる  10月15日(金)
 Bunkouさん、とてもわかりやすい説明をありがとうございます。特に私にとってわかりやすいのは、「無理な『幸福』を諦めるということが、新たな『幸福』の道を開く」という指摘です。人間が幸福を求めて諦めることができるのは、ここで指摘されているように「新たな幸福の道を開く」という「希望」があるからです。「幸福という欲望」に固執することができるのも、「希望」があるからです。希望のない欲望(絶望)に固執すれば、それは絶望的な固執であり、破滅と不幸の底に落ち込むのは明らかです。おそらくBunkouさんも、幸福への希望があるからこそ、60%の満足で諦め、足るを知ることを推奨されるのでしょう。しかしその場合も、「何に希望を見いだすか」を検討すること(まだ十分議論をしていませんが)は、持続的な幸福を得るために絶対に必要であると思います。
 「希望」の内容については、幸福と同じように個々人によって異なります。希望の感情(意志)と希望の内容(何に希望を持つか)は、厳密に区別する必要があります。前(9月19日)にも述べたように、社会的に承認される目標(希望)は、Bunkouさんの言われるような「自己制御」を伴う深い洞察なしにはあり得ません。「希望にまっしぐら」というのは私の表現ではありません。また「希望の内容」はあまり検討していませんが、「諦め」は、「希望の感情」に担保されてはじめて「幸福」に結びつきます。「欲を出さず、ここで諦めても幸福であり得る」と達観できるのは、「幸福への希望」に裏打ちされてはじめて可能ではないでしょうか。
 私は、考えることは自分を制約し秩序づけることだと思っています。それは常に未来を志向しています。自殺を考える人は、その時点で考えることを拒否し、未来の見えない人です。希望は幸福と同様に人それぞれですが、大切なのはどんな希望を持つかということです。Bunkouさんの『単純教』の「秩序」も人が幸福になるという希望に基づいていると思います。「何がどうあり、どう生きるべきか」を考えることは、それ自体が自分の存在を秩序づけることです。人間が考えながら生きていることは、自分を過去現在未来と社会・自然の中に秩序づけていることであり、これからの在り方を考えることは未来への希望を見いだしていることになります。
 だから『単純教』の秩序も又希望を述べているのです。今までのBunkouさんの所論は、私の観点からはすべて「幸福への希望」に基礎づけられていると言えます。人間は希望を持ち、希望に生きる存在であり、希望があるから自己制御ができるのです。こうやって「掲示板」で議論をするのも希望があるからです。絶望や虚無主義からは議論は生まれません。すべての宗教は人々に希望を与えることによって成立しています。ご意見を期待しています
 
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熊殺し 投稿者:お肉  10月17日(日)
題名のとうりです、なぜ熊をころすのか?。熊が人を襲うから、原因を根本からけすのか、熊が人を襲うようになったのは人が彼らの土地を奪ったからではないのか、その土地には食料があった、その土地(食料)がなくなったため降りてきたのではないのか。そして人に攻撃されると思って人を攻撃するのではないでしょうか、人が襲われる原因はなぜなのか、根本を見れば人のせいではないのか、人が人を殺すよりよっぽど酷いことだと思います、食料にするわけでもなく、なにするわけでもない。
「人間は動物なのか、人間は人間なのか」?そんな自己中心的な生き物のなかに「共通の希望=共通の幸福=共通の秩序=共通の契約」、共通という行動ができるのでしょうか?
団体になっているのはただ単に気が合うからじゃないでしょうか。
人間は立場を、何か間違えているのではないでしょうか。そんな中ですべて生物、物質が幸福になれるでしょうか。人間だけが幸福の世界だたら、私はいらない。
 
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(14)共通の希望はないのでしょうか 10月23日(土)
 お肉さん、人間が自己中心的なことは当然です。なぜなら、人間も動物であり、その認識や行動は基本的に自己中心的なものだからです。しかし同時に、身近な種や一族が、自然の中でお互い助け合って、子孫や種族の存続を図ることも遺伝子に組み込まれています。ただ人間は、言葉をもつことによって、自然法則の秩序を越え、自然を利用・改造し、または破壊して発展・成長してきました。もはや自然のままに動物的に生活する存在ではありません。
 生命を破滅させることもできる人間が、今何をするべきか。当然お肉さんが考えておられる「すべての生命との共存」を目指すべきで、熊のエサがなくて人里に出てきたから凶暴なものは射殺せよ、というのは許してはなりません。
 すべての人が幸福になるのは、もちろん難しいです。しかし、できないと断定できる理由はあるのでしょうか。過去・現在にないから、未来にもないと断定できるでしょうか。私はすべての人が幸福になることは可能であると思っています。もし不可能と断定できるのならその理由を知りたいものです。
 人間は欲望の固まりです。しかも、その欲望は、肉体的な生存を別にすれば、社会的相対的に決まる場合が多く、単に最低限の生活だけで満足できません。今よりも良く、他人よりも幸福でありたい、人に負けたくない(勝ちたい)、侮られたくない・・・・等々で、必要以上の過剰な競争がいつも起こっています。これは、良い意味でも悪い意味でも、自然の制約を超えることのできる人間の本性でもあります。だからBunkouさんは、できるだけ多くの人が幸福を得るために、「足を知る」「諦める」ことの必要性を説かれるのだと思います。幸福を得るために、人間の限界を知り、欲望を抑え、自然と社会の中で「自己環境秩序」を整え調和を図ること求められます。
 私の考えでは、地球環境の保護や生命の存続、人間の共存共栄について、総論として反論する人は、人間に絶望している利己的な悲観主義者だけだと思います。人間に希望を持つ人は、積極的肯定的な具体的行動をとることができます。あれもしたいこれもしたい、自分の我がまま(我執・固執)を実現したいと熱望する人も、人間にとってもっと意味や価値があり、それが持続的な幸福であることを知り、そのことを追求する(固執する)ことができれば、それまでの欲望を抑制し、諦め、棄て去ることもできます。
 「足を知る」「諦める」「抑制する」ことも大切ですが、それ以上に、肥大化した利己的悲観的刹那的な欲望や目標を忘れさせるような、それ自体の価値を高められるような欲望・目標―すなわち「希望」を持つことが必要ではないでしょうか。欲望についてその程度を云々するよりも、自分自身や他の人々の幸福につながるような意味(価値)のある欲望(目標や希望)を見いだして、それに執着する方が大切ではないでしょうか。初めから諦めるのはやはり日本的東洋的であると思いますがいかがでしょうか。
 さてそこで、利己的な人間に欲望を制御できるか、ということが問題になります。人は幸福になりたいと願っています。しかし、感情的で十分に考えない人にとっての幸福は、利己的刹那的な幸福になりやすいものです。いわゆる自己中心的なのです。だから、みんなが幸福になるのは無理だということになります。しかし本当に、共通の幸福は無理なのでしょうか。人間の自己中を利他的な自己中に変えられないでしょうか。また利他的とはいわなくても、他人を害しないような幸福の追求はないのでしょうか。私はそれはお互いに助け合うことによって可能だと思っています。これはBunkouさんが指摘されるようにユートピアかも知れません。しかし、ユートピアを考え、それを追求していけるのも人間らしさではないでしょうか。ご意見を期待します。
 
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食料 投稿者:お肉  10月24日(日)
 私はBunkouさんの言うように牛、豚、鳥の殺しに関して考えました。その結果出た答えが「食べる」ということです、牛の死は人間という存在を生かすために殺されたと、私は考えました、自然界ではどんなに強い動物でも腹が一杯のとき、もしくは襲われたとき意外には攻撃を仕掛けることはないそうです、仲間が襲われても復讐することもありません、それが動物です。熊の殺しに関しても「食べる」ということで熊の死を弔うことができると思うのです。しかし人間は欲望のため常に食べ物が用意できるようになりました、しかし、それを批判してもなにもできません、私はこの状況から抜け出す自信がないからです、馬鹿にされるかもしれませんが、最低限買ってくる肉や野菜は残さず食べます、それが私にできる殺された動植物への最大の礼儀です。
 大江矩夫さんの言うことはもっともです、理想があるからこそ、その理想を求めるように努力する、「私の理想は・・・」とか「私はこうなりたい」とか、それは理想であり、それに近ずくことによって幸せに成れるかの知れません、目標とは理想であり幸せに近ずく第一歩ではないでしょうか?何も考えないで楽しく生きるより、何か目標を持って生きるほうが楽しく生きられるのではないでしょうか?理想という名の架空の現実「こうしたい」という意志があるから何かに立ち向かえるのではないでしょうか?それにこの議論は人間が個々で持つ意思の統合化のために行われているのではないのでしょうか、それは「人間が個々で持つ意思の統合化」とは所詮理想でしかありません、しかし理想であるがために「意思の統合化」を必死でめざすのではないでしょうか?
 私は信じたい、この世に意味がないことはない、としかし無抵抗(一生懸命逃げようと抵抗としているもの」の命を「襲うかもしれない」という確率で命を奪うことほど誇りのないものは人間くらいだと思います、しかしそれが人間の程度だと決め付けてしまっては後世に生きる私やそのほかの子供たちは夢をもてません、私もすでに18ですが、時代についていけません、幼稚園、小学校低学年で教わった衆知の法律の常識は今、私のなかで混乱しています。何が良くて、何が悪いのか?。何処までが臨機応変なのか。すべてがわからなくなっています、そのために何らかの基準を作るためにこの掲示板に書き込みをしています、それが私の今の目標であり、自分の理想です。
 
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(15)共通のものを 11月 3日(水)
 Bunkouさん、お肉さん、我々(諸個人)それぞれが、何に欲求や関心を持っているか、何を認識し、何に感動し、どんな判断を行い、どんな行動をして満足したり不満を持ったりするかが、違うことは了解済みだと思います。しかしそれにもかかわらず、私は共通の欲求や関心、認識や判断、行動やそれらについての共通の評価があり得ると確信しています。
 私はドイツの詩人ヨハンネス・ベッヒャーの次の詩が大好きで、意見や志向が違って困惑するときはいつも思い出して勇気や希望をもらっています。
 共通のものを
ぼくも
君とおなじように
泣き、そして笑ったことがある
君とぼくと――
そこには、いろいろのちがいもあるが
しかしそれは、へだたりではない
われわれは
小さなことでは、ちがっているが
大きなことでは、みんなおなじだ
われわれを、ちがわせているものも
かぎりない人生の真実によって
われわれみんなに共通の真実によって
一つの全体につながっている
人生への希望と
人間のすばらしさとによって
一つの全体につながっている
                篠原正瑛 訳
 この詩は、お肉さん、Bunkouさんにも共有できるのではないでしょうか。さらに議論が深まることを期待しています。
 
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(16)人間は自己の存在構造を創造します   11月21日(日)
 Bunkouさん、また新しい知的刺激を与えていただき、ありがとうございます。構造主義について十分理解しているとは言えませんが、世間で言う構造主義者の著作(ソシュール、レビ・ストロース、フーコー)には関心を持って読んだことがあります。西洋的思考(近代的合理主義や発展思想)に批判的で、人間存在のありのままの構造を分析し、未開や文明など人類に共通の言語や文化・社会の構造を探求する方法であると理解しています。構造主義は、人間の創造物(文化全般)に優劣をもうけず、価値の押しつけをしないで、人間を相対的抑制的にとらえようとします。この点、Bunkouさんの主張と通じる面があると思います。
 私は、西洋的合理主義を批判し、欲求(感情)と理性(論理)の調和ないし統一を目指していますが、何らかの価値(天国やユートピア、悟りや幸福、善や徳など)が与えられたものとして決定づけられているとは考えていません。しかし人間の創造した文化や社会制度は、人間性(人間の生理的心理的構造)の範囲内で新たに創造し変革できると信じています。人間性の構造は崩すことはできませんが、人間の創造した否定的で有害な構造(例えば古い宗教や社会制度・慣習等)を崩すことによって、新たな肯定的構造(例えば『単純教』や理想的な社会制度等)を創造することは可能であると思っています。これが未来への希望であり、それを実現するわれわれの実践的活動は、生活を充実させ幸福を与えてくれると思います。
 現代の日本は、物質的豊かさを享受していますが、人間の善性を成長させる文化や社会制度であるとはとても思えません。伝統的な宗教や思想は、人々が現代社会に生きる指針を提供していません。人間が創造した現代社会の物質的精神的文化構造は混迷し、地球的にも日本的にも、未来への希望を持てる情況ではありません。人間存在の構造の究明と新たな価値の創造が求められています。
 Bunkouさんは、『単純教』において、新たな価値を創造しようとされています。その中で気になることが二点あります。一つは、前にも述べた点ですが、教義の内容が科学的なようで、生命神・自己神や「気」の働き(因果性)が十分解明されず、神秘的であり説得性を欠いています。また二つには「高い意識構造」という概念は、実践的目標と思われるのですが、自己の運命を切り開く(目的を持って創造する)よりも、運命を達観(諦念)する方向を向いているのは、私の立場からすると消極的であると感じます。人間は創造的な動物であって、人間の創造した文化(人間の生き方や価値観の構造)は、人間性の限界内で創造し変革できるのです。
 構造主義は、西洋思想の限界性と異文化の相対性を解明したという意義はありましたが、今日の思想的閉塞情況を克服することはできません。新たな人間性(人間の本質)の構造解明が必要なのです。
 また独断的な発言になりましたが、お許しください。 
 
<ここからは、Bunkouさんとの議論が中断し、クリスチャンのゆきこさんの投稿によって、話題が宗教や神の存在についての議論に移ります。>
 
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お肉さんへ 投稿者:ゆきこ  投稿日:12月 1日(水)
初めて投稿させていただきます
特にお肉さんの投稿を読んで、心をひかれました。と言うのも、私も同じようなことで何年も悩んでいたからです。そして私は、その答をどこに求めればよいのか分からず、しかし人に尋ねても、真実は得られないと分かっていたので只ただ毎日、「本当に正しいものは何なんだろう?」と思いあぐねていました。それは、人によって、状況によって、時代によって変わることのない不変で普遍のものです。
人に尋ねても得られるのは、その人の意見や、その人の信念であって、それが真実かどうかは分からないと思っていました。私がそれまで考えていた”善いこと、正しいことと言うのは、常識を基準にしていました。それは、私が生まれ育った日本の常識を基準にしていました。しかし、海外で暮らすようになって、常識は、国によって変わるものだと知りました。そして常識は、その国の文化や習慣、しきたり、歴史等によって、人間がつくり出したものだと気付きました。そしてその常識を基準にして善し悪しを判断していた私は、海外で暮らすようになって、何に従えば善いのか分からなくなってしまったのです。
 
私が悩んでいたのはそれだけではありません。死後のこともです。輪廻転生だとか、極楽.地獄だとかいろんな情報がありますが、どれも、自分と同じ”人間”が考えに考え出した答。それが真実かどうかなど、死んでみないと分からないこと。私は、死後の自分の魂が行く場所を失って暗闇を永遠にさまようイメージに、25年以上も脅えていました。
 
そしてもう一つは、自分の人生の目的です。私は特に、キャリアや金もうけに興味はなく、ただ愛する人と幸せな家庭を築ければ他には何もいらないといつも考えていました。
しかし、過去に私に「あなたの夢は何か」と尋ねた人がいて、迷わず「幸せな家庭を持つこと」と答えた私に、それ意外に自分自信の目標はないのか?と聞くのです。私はこれをきっかけに、自分の人生の目標、目的を考えるようになりました。それは、考えても、好きなことや興味のあること、または自分のためになることなどあげてみましたが、どれも自分の人生の目的になるものなどではありませんでした。
それから何年もかかりました。しかし、やっとこれらの答全てが一度に分かる時が来たのです。
私が思い悩んでいた事柄全てに答を出してくれるものがありました。それは、「聖書」でした。これは、Bunkouさんがこちらのホームペジで語られている教えとは違うものです(ごめんなさい!)。私が聖書を読もうと思ったのは、人に勧められたわけではなく、家にあったからでもありません。聖書にどんなことが書かれているのかも全く知りませんでした。しかし、前記した通り、毎日のように正義を求め考えていたある日突然、「聖書を読んでみたら?」と、心に浮かんだのです。
 
それから約五年になります。今、私はクリスチャンになりました。そこには、お肉さんが疑問をもたれている、”幸福”があったからです。そしてそこには、真理があったからです。世の中には宗教と呼ばれるものがたくさんありますが、信じれば何でもよいと言うわけではありません。自分が出会った宗教を信じて、その教えに従えば、何でもよいと言うわけではありません。その信じるものが本当のもの”真理”でなければ何にもならないと思います。私はお肉さんに、キリスト教を信じろとか私の言葉を信じろと言っているわけではありません。お肉さん自身に”真理”を見つけてほしいし、あなたには、それを見分ける能力があるからです。”真理”はひとつしかありません。それを見つけるまで諦めないで下さいね。
 
さて最後に、お肉さんの疑問、「幸福とは?」です。
幸福とは心に平安があることです。不幸とは心に平安がないことです。
人ごみが好きな人(1)と、静かなところが好きな人(2)の例ですが、(1)さんが静かなところで暮らすようになっても、心に平安があれば不幸だとは思わないと思います。
反対に、(2)さんが、都会に暮らすようになったとしたら確かに「もう、うるさくてやんなっちゃう!」と思っても、心に平安があれば自分が不幸だとは思わないと思います。幸福だと思う状態は、他人が決めれることでもなければ人に左右されることでもありません。そして、自分が置かれている状況によって変わるものでもありません。自分で決めることではなく、自分で分かること、感じることです。
 では、心に平安があるとはどう言うことでしょうか。それは、希望があることです。この”希望”とは、私たちが普段使う”希望”とは全く別のものです。叶うかどうか分からないと言うような望みのことではありません。この”希望”は、保証されていると言うものです。誰も壊すことができず、裏切ることもありません。これほど確実なものは他にはないと言うものです。これが”希望”で、この希望の正体を知り、受け入れることができると、心に平安がやってきます。私は、この平安を受け入れ、初めて私は幸せものだと心から感じました。
長々となってごめんなさい。
お肉さんや他の方々が、これを読んでどのように受け止められるかは分かりませんが、もし、お肉さんが持っているような人生における疑問の答を、どこにも見つけることができなかったら、一度、聖書(新約聖書)を手に取ってみてはいかがでしょうか。周りに聖書やキリスト教に批判やその真偽を疑う方がいるかも知れません。反対に、執拗に勧める方がいるかも知れません。まずは、その方々の意見に蓋をして、ご自分の意志でページを開き、実際に読まれてみてはいかがでしょうか。そしてご自分で判断されるとよいと思います。そこに、お肉さんが求めているものが見つかれば幸いと思います。
 
何か疑問などありましたらどうぞ、お便りください。
 
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(17)真理、幸福、生命─イエスかブッダか 投稿日:12月 4日(土)
 ゆきこさん、はじめまして。あなたの思いやりと優しさのあふれる投稿に、心を洗われる思いがしました。私がもし聖書の研究をしていなければ沈黙を守っていたでしょう。しかし私はキリスト教や仏教を研究し、既成の宗教に疑問をもっているために、私の考えを述べざるを得ないと思いました。
 私の身近な知人には、何人かのクリスチャンがおり、いずれもゆきこさんのように、救い主イエスへの信仰をもち、善良で清らかな心を持っておられます。そのような方々とは論争はしませんが、Bunkouさんの掲示板なので、いささか難しい話しになりますが、お許しください。
 現在、私は仏教徒を自認していますが、イエスも仏陀(釈尊)と同じく、人類史上の奇跡と思われるほど素晴らしい人物であることは否定できません。キリスト教の聖書については、旧約も含めて何度か読み返し、そのたびに感動を覚えました。そこには人々にもたらされる様々の災厄や罪に対して、預言者と神の子イエスによる多くの希望と癒しの言葉が述べられています。
 しかし、聖書には神への信仰の大切さは述べられていますが、地上の生命の大切さについては述べられていません。イエスは、「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。」(マタイ10-34)と言って、地上に争いをもたらし、また、「信じてバブテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16-16)と諭して、イエスの福音を信じない者を、地獄に落とそうとします。彼自身も、生命の大切さより、むしろ血による贖い(あがない:罪人の救済)を選択し、自ら十字架刑にかかりました。クリスチャンが、生命(肉体)よりも信仰(魂)を守ろうとするのは、敬虔なクリスチャン(ムスリムもそうですが)である先制攻撃のブッシュ大統領が、最も悪い典型例としてあげられます。
 聖書に真理を認め、救い主イエスへの信仰によって救われたい、幸福でありたい、平安でありたいという気持ちはわかりますが、生命を大切にするという考え方では、仏陀(仏典)のほうがはるかに優れています。例えば「(130)すべての者は暴力におびえる。すべての生き物にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ブッダの真理のことば』中村元訳 岩波文庫)「あたかも、母が己(おの)がひとり子を身命を賭(と)しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみのこころを起こすべし。」(『ブッダのことば』同上)
 ゆきこさん、もし許される時間があれば、ぜひ仏典にも目を通してください。イエスとブッダを競わせるつもりはありませんが、目の前の地上の生命の大切さ(天国での永遠の命に希望を持つのではなく)を主張する点では、ブッダの方に「真理」があると思います。ただ、ブッダは、信仰よりも智恵や洞察、修行を大切にするので、幸福を得るにはイエスの教えよりも努力が必要かも知れません。
 ゆきこさん、真理は決して一つだけではないと思います。真理は一つという信仰は、確かに、そう信じる人に幸福をもたらしますが、世の中に争いの種を増すばかりです。これからの時代は、いろんな考えの人が、いろんな希望と幸福を求めて、お互いを認め合い共に生きる時代になると、私は思うのですがいかがでしょうか。
 Bunkouさんへの返信を先にすべきでしたが、次回にします。ゆきこさんへのご意見を、「科学」よりも先に、是非知りたいものです。
 
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真理、幸福、理想、宗教、(自分という人間) 投稿者:お肉  投稿日:12月 4日(土)
 お初目にかかりますゆきこさん、今後の失礼な発言を許してください。
まずは、真理についてです。真理とは何か、この世の真理か、各個人の真理か。私にとって最も重要な真理は自分の生まれてきた理由です。何のためにお前は存在するのだと聞かれた時に相手に反論させないほどの、しっかりした理由が欲しいのです。
 私にとってこの世の真理ほど価値のないものはないと思いはじめました、なぜか?、それは他人に言おうとした一言です、「他人は自分か、自分は他人か」ということです、これは完全なる自己中心的発言です。各個人の意識の違い、思考の違い、があるのにその中で真理を探すのとはできるのか、さらに言えば「誰かが死ぬ、誰かが生まれる」(輪廻転生とは関係なく)この繰り返しです、入れ替わるということは、一人生まれればこの世が変わります、一人死ねばまた変わります。すなわち真理とは一つの変わらない固定観念の中にしか存在しないと考えています、人は考えれば考えるほど変わっていくものだと思います、私の中で真理がわかるときは自分が死ぬ瞬間だと思っています。
 次に幸福です、確かにゆきこさんの意見に一理あります、「心に平安があれば不幸だとは思わない」確かにそうだと思います。しかし自分が最悪な状況に陥ってもその平安を保っていられるか、たとえ誰かができたとしても、私にできないのは明白です。私はまだまだ小さい人間です、心に余裕を持とうとしてもできません、常に五感の情報と葛藤しています「自分が迷惑になっていないか、なんでこんな事するのか、なぜ回りのことを考えないのか、」などのことを考えると自分がどんどん追い詰められていきます。すなわち平安とは心の定線で、余裕とはどれだけ他人の行動や思考を受け入れられるかだと思います。
 いきなりですが、「高い意識構造を目指すと言っておきながら創造性に欠け、消極的である」というのはおかしいです、創造し前進するのも重要ですが進むだけではいつか進めなくなります。構造とは土台(基礎)があり、骨組み(基礎の応用)があり、外壁(完成型)がある、というものだと思います、しかし今の世界を例えにしてみるとどうでしょうか?技術が進行しすぎて後ろを顧みない、顧みても技術を進行させてどうにかしよう、最終的には進むだけ、そのために問題も進行している、問題が解決しないで進み続ければどうなるか、この後は各個人に任せます。家は基礎、骨組み、外壁、でできています、骨組みに問題があれば、そこを中心に壊れるということです。問題を修正しながら進めば進みは遅くなります、それは傍から見れば消極的に見えるのではないでしょうか?
 私にとって宗教などはどうでもいいことです、私にとっては自分がすべてですから誰が何を言おうと自分の筋を通す、人に言われて自分が間違っていると気づけばその考えを取り入れ、間違っていると思えば質問する、というような感じです。
 わたしはどんなに偉大な人でもついて行くことはしません、とくに宗教などはもってのほかです宗教の枠の中で生きる人はどんなに大きくなっても枠の中でのことで、外に出た瞬間どうなるかわからない、私の唯一の枠は人であることです。それに私は自己中心的な人間です。絶対に地震などが起こり全体が窮地に陥った起きに一人でも生き残ろうと他人を蹴落とします。
 
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真理とは神 投稿者:ゆきこ 投稿日:12月 8日(水)
 大江さん、お肉さん、Bunkouさん、みなさんそれぞれの思いや考えを正直に述べて下さりありがとうございました。
まず、大江さんへのお返事から。
大江さんは聖書を研究されたと言うだけあって、聖書の言葉をよくご存じで、質問も鋭いですよね(笑)。”聖書には神への信仰の大切さは述べられていますが...”と大江さんはおっしゃっていますが、全くその通りです!しかし、”地上の生命の大切さについては述べられていません。”ともおっしゃっていますが、私が読むには、私たち自信よりも、もっと深く神様が私たちの生命を尊く思い、大切にして下さっていると言うことが聖書から伝わってきます。大江さんが言う”地上の生命”とは、人間の命のことを指しているのでしょうか、それとも、地上の生物全ての命のことを指しているのでしょうか?仏教では、虫けら一つに対してもその命を尊く思い、殺すことのないように教えていると思いますが、聖書も同じことを言っている箇所があります。(どこか覚えてませんが....)”地上でどんな小さなものと呼ばれるものにでも、大切にする者は、天の御国では偉大なものと呼ばれます”と言うような内容です。
では、人間の命についてはどのように聖書は言っているでしょうか。大江さんは、イエスが私たちの罪の”犠牲”になって十字架にかかったことから、自らの命を投げ出しているのではないかと、取られたのでしょうか。
大江さんはお子さんをお持ちでしょうか?もしくは心から愛する誰かをお持ちでしょうか?もし、その愛する誰かが、ものすごいスピードで車が走ってくる道路に飛び出してしまったら、どうしますか?その子を助けるために自分も道路に飛び出していかないでしょうか?自分が”犠牲”になって死んでしまうかもしれないけど、愛する人の命を救う方が大切と思うのではないかと思います。そのようにして、亡くなった方、大けがを負われた方がこれまでたくさんいらっしゃると思います。
昔、実際に起こった事件で、こんな話もあります。汽車の先頭車から離れてしまった大勢の乗客を乗せた旅客車が、長い坂道を後方へ走り出してしまい、ブレーキも利かずどんどん加速していきました。そのまま進んでいくと急なカーブがあり、そのスピードでは曲がれきれずに脱線し、乗客全員の命が危ないと言う状況があったそうです。みんなどうしていいか分からない中立ち上がったのは、一人の若い男性でした。彼は、自分が線路に身を投げて車両を止めることができれば、この乗客全員の尊い命を助けることができると思ったのです。何十人もの命を亡くすよりは、自分一人の命を犠牲にした方が良いと彼は考えたのでしょう。彼は、本当にそのようにしてその乗客を救ったそうです。(三浦綾子さんの”塩狩峠”と言う小説がこの事件を元にして書かれた本です。)
このように自分の命を犠牲にして、他人の命を救おうとした人たちは、自分自身の命を粗末に扱っていることになるでしょうか?聖書では、このような人々のことを天の御国では偉大な人と呼ばれると言っています。”自分の命を守る者はそれを失い、神の御名によって自分の命を捧げる者はそれを見い出す”(これも聖書のどこかに書いてあります)
自分の命を誰かのために犠牲にすると言うことは、私たちが表現できる、最大の愛の形だと言っています。そして、そのように、地上で命を失った者は、死後(肉体の)永遠の命が神によって与えられるということばを、私たちは信じています。
 次に、誰もが腑に落ちないと思われている、「信じる者は救われ、信じない者は地獄に落ちるぞ!」というフレーズですが...。こう聞くと、神様ってなんて意地悪なやつだって思いますよね。このことを説明する前に、神とはどんなお方なのかということを言わせて下さいね。私たちが信じる神とはこんな方です。神は愛で、霊で、正義です。神は優しく、怒るに遅く辛抱強く、間違わず、嘘をつかず、約束を守る方です。神は何もかも知っており、神から隠せるものなどないと知っています。そして神は、私たちクリスチャンだけではなく、仏教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も無神論者も変わらず全ての人を非常に愛しています。神が人を造った時、”自由意志”というものを私たちにくれました。それは私たちが、自分の心/脳で考え判断し、自分の意志で行動することができるようにしました。それは、私たちは神のロボットではないということです。もし、神がただ、忠実な僕が欲しくて人間を造ったのであれば、わざわざ、’自由意志”を与える必要はなかったはずです。私たちはこの自由意志を使って、好きなことを考え好きなことをやり、自分の目的のものを得るために嘘をついてみたり、人を悪くいったりと、自分の意志は自分が操っています。神は、私たち人間に”自分の意志”で神に付いて来てほしいと願っているんです。そして、できることなら全ての人が自分の許に戻って来てほしいと思っています。神は全能者ですから、私たちを無理矢理自分の方に向かせて自分の理想通りの世にするなど簡単なことでしょうが、そうしないのは、人間の自由意志を尊厳しているからだと思います。そして、できるだけ多くの人が自分の許に戻ってくることを、今はただ辛抱強くまっています。
では、イエスを信じる信じないを問わず、みんなを救えば良いではないかという人がいます。神は正義の方ですから、罪を裁かずにしておくことはありません。私たちの社会も同じですよね、違反や犯罪を犯したものは、裁判にかけられ、公正に有罪か無罪かを言い渡されます。それは、私たちが、悪いことをしたものは裁かれ、悪いことをしなかったものは裁かれないという”正義”を求めるからです。私たち人間界でさえ、そのようなことは当たり前なのですから、神が全く公正に私たちを裁くのは当たり前なことです
しかし私たち人間は誰でも、神に従って生きていないということから、罪人です(十戒から)。十戒を全て守れた人など誰もいません。そんな私たちをも心から愛して、ぜひ助けたいと考え、神ご自身が人のかたちとなって地上に降りて来たのが、イエスです。そしてイエスは、人間を裁くため、地獄に蹴落とすために来たのではなく、一人でも多くの人々が自分のみことばに耳を傾け真理(神)を見い出し、自分の意志で神(イエス)に従うことを呼び掛けました。そして、彼のみことば(福音)を信じて、イエスを自分の救い主だと信じて付いてくる人は、イエスが望み通りに天の御国に連れていってくれるということです。ですからこの福音が、世界の隅々まで広がり、みながイエスを知るようになるまで待っています。もし、誰かが地獄に落ちることがあればそれは、神が蹴落とすのではなく、その人本人が、神が出してくれた助け舟(イエス・キリスト)に乗らないと決めた結果ではないでしょうか。天国に行くのも地獄に行くのも、神が決定しているように思われますが、実は、私たちの自由意志の結果ではないのかと思います。神はただそれを、公正に判決しているのだと思います。
 
大変、長くなってしまって、ごめんなさい。文中で神はこうだ、聖書の教えはこうだと断定的な言い方をしてしまったことをお許しください。それを信じない方にとっては、あまりいい響きではなかったことと思います。
 
真理については、真理=神であることから一つであるといいました。真理の意味を辞書で調べると、その説明にあてはまるのは神しかいないなと私は思いました。
今日はこのへんで....失礼がありましたらお許しください。
 
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真理とは。お肉さんへ。 投稿者:ゆきこ  投稿日:12月10日(金)
 今日は特にお肉さんへのお返事です。真理についてです。
真理とは何か。私が意味したのは、人間が生きている意味についての真理です。「人間は何のために生きているのか」の答です。これは誰もが長い人生の中で一度は抱く質問じゃないでしょうか。これは究極の質問であり、人間にとってこれ以上に重要な質問とその答はないのではないでしょうか。
 では、これを答える前に、人はどのように生まれたのか、という疑問から入らなければいけません。私たちが学校で習ったのは”進化論”です。そう教わった頃は、学校でそう教えてるんだからそれが本当なんだと、疑いもしませんでした。しかし、生き物の始まりが、長年をかけたいろんな物質の化学反応/変化によっての”偶然の結果”であるのなら、そこにどうやって生まれた意味を見つけることができるでしょうか。”たまたま偶然にできてしまった命”であるのなら、その生き物は生まれてくる理由など何もなかったのです。それで、自分が生きているということ意味を見つけようとしたって、存在しないものを見つけるわけにはいきません。
ですから、進化論を信じている限りどうがんばっても、人生の意味など見つかりはしないと思うし、これが答だ!と思っても、それはあなたが考えだしたものに過ぎないのではないでしょうか。仏教でもまた「人が何のために生まれてくるのかは、誰にも分からない。自分から希望して生まれて来たわけでなく、偶然の生を得ただけのことだ。」と、あるご住職は言っておられました。
 では、人間は誰かが目的を持ってつくり出したものだとしたらどうでしょう。聖書では、神が人間を造ったと言っています。地球も宇宙も光も音も、生き物もそして人間をも造ったのは神ですと、言っています。「そんなの信じられない!」と、言うかも知れません。でも信じられないようなことをできるのが全知全能の創造主なのです。では、神はどうして人を造ったのでしょうか。それは、愛するためです。そして、神は人と一緒に生きていくことを喜びとしているのだと思います。
 人間は、神を知らずに生まれてきます。五体満足に生まれて、住む家もあり、愛する両親もいて、食べることに欠くことなく、すくすく育っても、なぜか100%幸せだと自信を持って言えない自分があると思います。いつも何かが欠けているような気がして、より充実するために、目標を決めてはそれに向けてがんばり、達成すると嬉しいけど、それでも100%の幸福を感じないのでまた別の目標を決めてはそれに向けてがんばってみる。
また達成すると、達成感と嬉しさでしばらくは幸福に感じるけど、なんだかこれも自分が求めている幸福とは違うような気がする。こんな繰り返しで、生き甲斐を仕事に追いかけてみたり、趣味に励んでみたり、愛する人に求めてみたり、何かの研究に打ち込んでみたりするのではないでしょうか。そんな中で、人生とはこんなものだと諦めてしまう人と、お肉さんのように「何かおかしい、私が生きている理由はほかにあるはずだ」と疑問を持つ人がでてくるのだと思います。そして私たちは、その欠けているかけらを探して、円満になるために生きています。そのかけらとは何か。それは神の愛だとクリスチャンは信じます。その欠けたところを埋めれるのは、お金でも、名誉でも地位でも人間愛でもありません。自分に命をくれた方、神の愛だと知ったのが私たちクリスチャンです。
 
 お肉さんは、「私にとっては宗教などはどうでもいいことです」とおっしゃっています。その気持ち、よく分かります。私も昔はそう思っていましたから。宗教に走る人は、何か弱い人、現実から逃げている人、ちょっと変わった人と、思っていました。ちょっと無気味とさえ思っていました(笑)。カルト系の宗教も多いしね。
 お肉さんを宗教に引き込もうとか、説得しようとかいう気はありませんし、できるとも思ってはいません。安心して下さいね。私が真理、真実を求めて行き着いたところが聖書だったことは確かです。それが自分が嫌ってた宗教と呼ばれるものだっただけです。でも、私は、それを恥ずかしいとかはまってしまったなど思いません。
 お肉さん、気を悪くしないで下さいね。本当に”枠の中”で生きている人は誰でしょうか。自分という人間の枠の中で答を見つけようとしても、あなたの持っている知識から以外でてくるものはないのではないでしょうか。例えば、「1+1=」という問題があって、次の中から答を探しなさいという選択肢があり、そこには「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」とあります。まず最初に、1と2と9は嫌いな数字だからといって答から抜いて、残りの数字の中から答を探そうとしても、いつまでたっても、拉致が空かないように思います。好きでも嫌いでも、取りあえず一つ一つ吟味してみるのもいいと思います。最終的に決めるのは自分なんですから。なんかこういうとよけいに勧めてるように聞こえますよね。ごめんね〜。
 
 最後に前にわたしがいった幸福についてです。説明が足りなかったですよね。心に平安がある状態だと言いました。平安とは、保証された希望があると言うことだと言いました。(bunkouさんがぴったりのことば”保証”と言うのをあげてくれました!)
ただ、この平安が心にあるから、悲しい時に悲しまなくなるとか、辛い時に泣きたくならないとか言うのではありません。私たちも同じように泣いて笑って、苦しんで戸惑って生きます。ただ、そういう最悪な状態に陥った時に、自分自身より、肉親より確かなものがあります。それに頼ることによって、その苦しい状態から抜け出すことができるんです。それは、決して簡単にできるとは限りません。しかし、希望があるからこそ必ず平安を心に取り戻すことができるのだと信じてます。
 これは、説明して頭で理解してもピンと来ないと思います。これを感じることができた時に本当に分かります。お肉さんにも、その日が来ますように....。
 私は説明が下手ですので分からなくてもしょうがないですね。(ごめんね)
まずは真理、本物を求めて下さい。それを見つけて自分のものとした時、その他のあなたが持っているたくさんの疑問の答は、分かってきます。
では、このへんで。
 
 
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(18)幸福や希望は、神の存在を必要としない  投稿日:12月11日(土)
 ゆきこさん、私の主張へのご意見をありがとうございます。キリスト教についての細部にわたる議論は、掲示板では限界がありますから、私の主張をまとめてみます。
@まず一般論として、「神は存在します。」しかし、神は「言葉」として存在し、その意味・内容は、神(キリスト教の神、日本の神々等)を創った文化や文明、さらに、その神についての個人の解釈により異なります。
Aそれでは、イエスの父とされる神(旧約の神)に対して、人間はどのように位置づけられるでしょうか。神は、天地とそこに生きる生命・人間を創造し、人間(アダム)に、この天地とそこに生きるすべての生命を食物として与え、エデンの園に住まわせました。そして、園の中央の「善悪を知る木」の実を食べるなと命じました。しかし、狡猾な蛇にそそのかされたエバとアダムはこれを食べてしまい、神の命令に背いた罪で園を追放され、神から「出産と労働と死の苦しみ」を命じられました。キリスト教にとっての人間の歴史は、この命令違反(原罪)による楽園追放に始まります。
Bこの原罪思想は、地上の人間を罪人(ツミビト)とみなし、地上の生活の苦難からのがれ永遠の生命と平安を得るために、神による救済の必要性を説きます。
Cしかし、人間にもたらされる災厄や苦難の原因は、神の命令違反という「原罪」によるのでしょうか。人間は本当に罪人としてこの世に存在しているのでしょうか。私は、人間の日常生活における苦しみ(不快)の根源は、生きる(行動する)ための現象にすぎないのであり、災厄は自然現象であると考えています。ところが、多くの人間は、この苦しみの因果(縁起)を悟らず、感情を高ぶらせて利己心と我欲にとらわれ、物事の道理(真理)を見抜くことができずに、「神(や仏)を創って救いを天国(や極楽)に求める」ようになったのです。
D私達人間は、神を創って、神に救いを求めることで、天国での永遠の生命を保証されるという、「虚構の希望」を持つ必要はありません。人間存在を正しく認識し、神との虚構の契約によらない、人間同士の新しい社会契約によって、「地上での幸福な生活への希望」を持つことができるのです。
E神の存在(絶対的真理が存在するという様々の主張)は、今日では、人々の不信を募らせ、争いをもたらす根源の一つになっています。人間は自らが創った神の呪縛から解放され、「神を創った人間自身の存在意味」を自覚すべきです。「言葉を持った人間の創造的精神」によって、神の存在を前提とせずに、すべての生命とともにこの地上に共存し、幸福な生活と希望を持てる社会を創造し、永続させていく努力が必要なのです。
 ゆきこさん、クリスチャンであることによって、幸福と希望と平安を得られていることは素晴らしいことです。しかし、他人の信仰を変えることは難しいものです。「聖書」すなわちイエスの贖罪への信仰とイエスの再臨によって、終末を迎えた人間を救おうとする「最後の審判」の瞬間が、早く来る方がいいと思いますか。私は、まだ1万年は終末が来ないようにすべきであると思っています。しかし、地球は現在すでに危険な状態になりつつあります。人類が協調して、助け合わねばならない時代です。神や仏に救済を願い、自己満足をしている時代ではありません。
 ゆきこさん、自己を犠牲にして愛する人を救おうとするのは、「神の御名」を必要とせず、また「神の国」ばかりで偉大なのではなく、地上においても賞賛されます。自己犠牲の精神は、種の維持を図ろうとする生命の本性でもありますが、悪くすると自爆テロリストや特攻隊を生じさせます。
 また、神が与えたとされる人間の「自由意志」とは、私にとっては「神をも創造する意志」であり、人間が神を創造して、自ら神に愛されようとする意志です。自己の存在について思いをめぐらす人間は、クリスチャンのように「聖書」を拠り所として自分の存在理由を創造します。クリスチャンにとっての存在意義は、人間によって創造された神を信じ、神に愛されて、天国での永遠の生命を保証されると信じることで、地上(現在)の苦しみを克服し,幸福と希望と平安を得ることです。私にとっては、クリスチャンにとっての「自由意志」を、そのように解釈しますがどうでしょうか。
 ゆきこさん、あなたも自己の存在を肯定し、幸福を得るために、自由意志に基づいてクリスチャン的世界を創造しているのではないでしょうか。人間は、言葉によって自己の存在の意味を求め(疑問)、自己を肯定的に創造(合理化・論理化・解明)する存在であり、それが人間存在の真理なのです。
 断定的な表現になりましたがお許しください。このような考え方で地上での幸福と希望を見いだしている人間がいることは、神の与えた自由意志のおかげでしょうか。私は神に感謝すべきなのでしょうか。神は存在します。しかしそれは単に言葉として存在するのです。そして、その言葉で人間は生死を選択することもできるのです。言葉は人間存在の本質なのです。
 
 
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単なる疑問 投稿者:お肉 投稿日:12月12日(日)
宗教に関する質問です。
 宗教の中で人間以外の動物はどう定義されているのかです。「人が何か(例えば動物)を殺せば罰を受ける」、まあよしとしましょう。では「動物が何かを殺したら」どうなるかです。下らん質問なのですが答えていただきたい。これで判るのは、Bunkouさん、大江矩夫さんは知っていると思いますが私の一つの悩み「人間の中の人間か?、動物の中の人間か?」です。
 次に平安とは?です。平安とは何か?例えば私はあえて自分を淋しい状況(一人)になるときがあります。それはなぜか淋しいという状況が心にあれば友達や家族が大事に思える、すなはち他人の大切さがわかるのです。それに私の考えと他人の考えが違うように平安というのも人それぞれです、(私の平安とはもしかしたらですが畑などの土をいじって泥にまみれながら汗をかくことかもしれません・・・(苦笑))今の私の住んでいる場所(都心)だとなんともいえません(涙)。
 次に駄文「死についての自分論」です。私は死はある程度受け入れました、だってどんな動物だって、どんな偉大な人でも死には勝てない、すなはち「生があれば、死がある」それは、何をしても避けられない現実、死ぬことより生きることが私とって重要なことであって死ぬことを前提には考えてはいない。いわゆる諦めです。それに生きてる限り、常に死は隣に居るし、死んだ跡のことまで考えるより今をどう生きるかを考えています。だって動物はそんなこと考えませんし。人間だけですよ、そんなことまで保証されてないと怖いと思うのは。しかし死ぬのは怖い誰だってそうです、動物だって、だから必死に生きようとする、「殺されないように逃げる仲間が犠牲になろうと、しかし犠牲になった仲間を弔うことを忘れない」。だから「私は仲間を犠牲にしてでも必死に生きる、そして安全なところで仲間を弔う」、死人に口なしですから(実際は犠牲者になりそう)。まあ簡単にまとめると、目や自分の五感で感じないと信じないということです
 私は自分で言うのもなんですが、動物が下等なら私も下等な動物でいいと思っていますから。
           わけ分からんことかいてすいません。
 
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(19)聖書にも真理はあります  投稿日:12月22日(水)
 お肉さん、ブッダは殺生を厳禁します。肉食動物は殺生しながら生活していますから、生存中の魂の平安はあり得ず、そのために攻撃的で貪欲な体型や表情をしています。人間も動物ですから肉食をしますが、ブッダは自ら殺生しなければ肉食を禁止していません(後世の仏教は禁止しました)。動物を捕獲し殺そうとする行為が、ブッダにとっては人間の我執(欲望)を拡大させると考えたのでしょう。
 平安や幸福・希望は心の状態です。心の平安自体の追求に精神を集中できれば、感情が動揺することなく、賤しい情欲に支配されることがなく、心は平安の状態を保つことができます。自己チューと精神集中(禅定)とはいささか違います。精神集中のためには、「縁起の法」(仏教の真理)を理解しておく必要があります。死の苦しみを受け入れることも、縁起の一部を知ったことになります。死の苦しみを知って受け入れることができるのは、お肉さんを含めて人間だけです。死を受け入れるのに、神による永遠の生命の保証を必要とするか、死の現実をそのまま安らかに受け入れるかは、その人の度量(知的認識力と多少の努力)によります。お肉さんは殺生を厭い、かつ死を受け入れられるのですから、神を求めなくても自分の人生に十分希望を持つことができると思います。
 ゆきこさん、あなたが今、心が平安であることほど大切なことはありません。しかし、あなたは、人間にとって「最大の罪は、神を知らないことだ」と言われます。この言葉は、神を知らなくても心が平安で幸福な生涯を送った、または送っている人に対して、どのように残酷で侮蔑的・排他的な意味をもっているかお考えになったことがありますか。キリストの神を知らない人間を、罪人であると断罪されていることにお気づきでしょうか。
 あなたは、神の名において、神を知らない人間を罪に陥れることによって、自らの独善的立場を擁護していることにお気づきでしょうか。あなたの心の平安は、神を知らない人間を憐れみさげすむことによって維持されているのでしょうか。あなたの神、キリストの神は、自らの存在を知らない人間を断罪するほどに狭量なのでしょうか。キリスト教は、排他的独善的な信仰によって世界に拡大し、多くの生命を奪いました。このようなキリスト教に、地上の生命と人類の未来を任せることができるでしょうか。
 ゆきこさん、キリスト教に対する厳しい批判になりました。しかし、これはキリスト教への批判であって、この宗教の始祖であるイエスや、ゆきこさんを含めた多くの善良な信者──イエスの贖罪を信じること、十字架に祈りを捧げることによって、現世の様々の苦悩から救済され心の平安を得られた多くのクリスチャンの責任ではありません。真理・真実を見ることが困難(「不可能」は誤解を招くので訂正)であり、探求を妨げられてきた、無知・無明の時代の人間の創造物(文化・伝統)なのです。私達は現在、科学技術の進展によって新しい文化、新しい宗教を創造する時代にいるのです。
 さて、それでは人類にとっての偉大な書物『聖書』は、過去の遺物かというとそうではありません。真理を述べている部分もあります。一つは、救世主であることを自覚した「イエス」という偉大な人間の存在です。これは『福音書』を読めば明らかです。他の一つは『ヨハネ福音書』の冒頭の言葉です。「初めに言(コトバ)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。・・・・この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」人類に残された最後の希望は、この言葉を解明することです。熟考願えれば幸いです。
 
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(20)どのような問題意識を持つか 投稿日:12月30日(木)
 ゆきこさん、丁寧な書き込みをありがとうございます。イエスの誕生後、およそ2004年目(?)が終わろうとしています(!)。あわただしいですが、難しい話におつきあいください。
 さて、私達が直面する困難──人生に意味を見いだせない、生きる気力がわかない、何か虚しい、家族や友人と不和である、人を信じられない、自信が持てない、失敗が多い、不安、空虚、孤独、寂しさ、怒り、そして死への恐怖というように、人生は否定的な情況や不如意なことが多いものです。他方人間は、物事が順調に進んでいるときや成果が現れるとき、夢や希望を持てるとき、誰かに必要とされ、期待され、評価され、信頼されているとき等は、あまり人生の意味や自分の価値などについて深く考えず、文化や伝統、宗教や慣習等自分の経験の範囲で、直面する問題を肯定的に解決していくことができます。
 しかし、前者のような深刻な困難に直面すると、その問題解決のために苦悩し考えます。先哲の思想や宗教に関心を向け、人の意見に耳を傾け、解決法を探ります。そして、どのような問題意識を持つかによってその解答も異なってきます。問の確かさが、答の確かさを生み出し、問の不十分さが答の不十分さを作り出します。不正確な問いかけは、不正確な答を導きます。この問いかけは、本当に根源的な問いかけなのだろうか。問題解決にとってふさわしい問いかけなのだろうか、の吟味が常に必要です。
 私は、人間とは何かを考える場合、神が自分の似姿に人間を創造したと考えるのではなく、まず人間の本質とは何かと問います。人間は二本足で立ち自由な両手でものを作り、大脳の発達した動物であるととらえます。そして、人間がものを作り文化を創造し、情報を交換しながら知識を共有・蓄積し、お互い助け合って生活できるのは、「言葉」を獲得したことによると考えています。「言葉」は、単に知識や情報の伝達というのではなく、情報を再構成したり(思考・創造)、自らの感情や行動そのものを言葉の情報によって方向づけます。「神が人間を創った」のか「人間が神を創った」のかという「言葉」の問いかけでさえ、人々の感情を揺さぶり混乱に陥れ、問題意識を持たざるを得なくします。
 「何が、なぜ人生の苦しみや困難を生じさせるのか?」「苦しみや困難の解決策はないのか?」イエスとブッダは全く異なる原因を考え、問題解決の道すじを見いだしました。イエスは、神への信仰が、人間救済(心の平安)の絶対条件と考えました。ブッダは、縁起の法(四諦の説)を知り実践することが解脱(心の平安)への道であると考えました。いずれも人生の不如意・不条理の根源を求め、その解決を示すことによって人々の支持を得て、世界宗教としての立場を確立しました。
 しかし、人間は、イエスやブッダのような根源的な問題意識にまで到らなくても、言葉をもつことによって日常経験的に、学習した過去を記憶し、生き方を考え、未来を築き創造するなど、自分の問題意識(経験)に従って、世界を再構成し合理化しながらその人生観や価値観によって生きている存在です。
 「神が人間を創造したか」「人間が神を創造したか」かは、別の言い方をすれば、「神の本質は言葉である」のか「人間の本質は言葉である」のかの違いです。『聖書』では、言葉は神の本質であり、神は言葉そのものです。しかし、人間もまた言葉を自由に使え、また、新しい言葉も創ることができるのです。従って、神の本質も、人間の本質も言葉であることになります。私達が使う言葉は、神の本質でもありますが、神と同様に「神」を含めて様々のものを創ります。
 つまり、神は存在してもしなくても、人間が現に言葉をもつ限り、「神」を創造することができるのです。「神」は存在します。しかしそれは、イスラエルの神であり、イエスの神であり、ゆきこさんの神であり、Bunkouさんの神なのです。私の神こそが、イスラエルの神こそが、イエスの神こそが唯一絶対で、普遍的創造的であると、「言葉」では言うことはできます。しかし、それは決してすべての人間に共通する「真理」ではありません。人間(という言葉をもつ特殊な動物)は、「言葉」によって、自己の存在を意味づけ、自己の存在を合理化し救済するために、神という「言葉」によって、自らを創造してくれる存在「神」を創ったのです。
 自らを救済し平安を与え、幸福と未来への希望を与えてくれる「神」を創り信仰するのです。人間はそれによって、存在の意味や人生の困難に納得し、満足し、救われ、平安や希望や永遠の生命を得ることのできる存在なのです。
 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」というのは、人間存在にとっての真理です。言葉によって──たとえ神が与えたものであるとしても──、はじめて人間は、人間であるのです。自らの存在の意味を自問し、快楽や幸福、安心や救済そのものを求め、その手段として神を創造することになったのです。
 私はイエスを仏陀と同様に人間の奇跡と思い、尊敬しています。イエスの贖罪の犠牲は決して無駄ではありませんでした。『新約聖書』のイエスの素晴らしい言葉は、神を信じたイエスの、生きることに苦しんでいる民衆と人間に対する深い愛と、救世主としての確信(十字架上での迷いはあったものの)で満たされています。イエスとその父なる神を信仰して、平安と人生への希望を得られ、さらに信仰を深めることは素晴らしいことです。大切なのは「今ここで」心の平安があり未来への希望がもてることです。
 しかし、イエスの神を信じなくても、十分に心の平安や希望を得られること──ブッダや他の宗教の存在を忘れないでください──、そして大切なことは、自分の宗教を信じない人を罪人にしたり、排除しないことです。私はイエスの神を祝福し、その信仰ゆえに幸福である人を大切にしたいし、うらやましいとも思います。人間はそれほど強い存在ではなく、困難は次々と起こります。だからこそ人間は絶対的な救い主を創り、自らの救いと心の平安を求めます。人間は、救い主を創り、『聖書』のように自分の存在を「言葉」によって意味づけ合理化するのです。そのようにせざるを得ないのが、言葉によって自己の存在の意味を問う、人間という存在なのです。
 人間という生命は、「言葉」によって「何が、どのように在り、いかにするべきか」「私は何であり、どのように生きるべきか」を問い、何らかの答を見いだそうとしながら生きている存在なのです。そしてその答は、残念ながら今日では、人間の数ほどあり、お互いが自己主張をしながら共通理解を求め混乱している状態なのです。
 私自身はブッダを尊敬し、ブッダの教えに未来の希望を見いだしています。ブッダ的な方法で自分の存在を意味づけ、心の平安と希望を得ています。しかし、当然のことながら、ブッダの思想(意味づけ・合理化)そのものは、現代から見ると非科学的で、反現世的な面が強く、そのままでは正しくありません。仏教の批判は今後の私の課題であり、Bunkouさんの掲示板への投稿も、その課題解決を目指しています。ご迷惑かも知れませんが今後もおつきあいください。
 ゆきこさん、あなたの優しい気遣いと私の問題意識を明確にしていただいた勇気に感謝し、さらに信仰を深められ永遠の生命をえられるようにお祈りしています。
 皆さん良い新年をお迎えください。
 
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(21)人間存在と宗教成立の背景 投稿日: 1月 9日(日)
 Bunkouさん、イエス誕生2005年の新年おめでとうございます。
 昨年末以来、クリスチャンであるゆきこさんの投稿で、宗教と信仰について真剣に考えさせていただきました。『聖書』という2000年近く(新約)の風雪に耐え、人類の歴史に多大の足跡を残した書物を相手に議論するのは大変です。このような機会が与えられたことに感謝します。とくに「進化論」に対立する「創造説」をHPで、あらためて学び、科学的方法とは何かを考えることができました。
 「創造説再評価HP」http://www.concentric.net/~hnori/earth.htm では、科学的認識の出発点が、「全知全能の神」であって、神の存在を科学的仮説とする余地が全くないので、前提の議論ができません。『聖書』を科学的真理の前提にすれば、天地創造6日間、宇宙の歴史6000年を、証明することが「創造科学」(という表現)の役割ということになります。人間の科学的探求心・知的好奇心の出発点ともなり、実証科学の長所である「知識(真理)の仮説性」(相対性・有限性)の逆手をとって、科学的議論を「全知全能の神」の名において封じ込めるようとしているのです。神業を肯定することが、地上における人類の幸福に否定的結果をもたらすものであることを改めて痛感します。(「エホバの証人」http://biblia.milkcafe.to/index.html は、創造論をとっていますが比較的寛容です。)
 過去のキリスト教では、教義の対立や教会の経済的利害から、宗教戦争や宗教裁判・魔女狩りなどがキリスト=イエスの名において行われました。その反省から宗教的寛容が定着しつつあると理解していたのですがそうではないのでしょうか。私の知るクリスチャンは、「そんな考え方もありますね。でも私の信仰は堅いですよ。」と言われ、お互いに人間的な感情でおつきあいできます。
進化論を推論に過ぎないという人が、神の存在もイスラエルの民と人類を救済するための推論であり、仮説であるとなぜ言えないのでしょうか。
 宗教的信仰が、ある程度独善的になるのはやむを得ません。しかし、Bunkouさんの指摘されるように、現代の科学的「常識」を「全知全能の神」によって否定してしまうのは、無理があり「非常識」と言わざるをえません。もっと穏やかで力強い宗教にしようと思えば、「神の言葉は、実は人間の言葉である」と考えれば、有限で罪深い人間を救済しよう、という警鐘を込めたイエスの死も無駄にならないと思います。
 クリスチャンにとっては非常識な話になりますが、神の存在と世界創造の神話は、無知な時代の人間の創造神話です。科学技術の進歩した現代の人間が追求するべきは、言語的本質をもつ人間性(神の言葉は、実は人間の言葉)の科学的な理解と、「地上」における人類社会の平和と幸福を実現するための地道な努力ではないでしょうか。
 前回述べたように、神は存在しなくても人間の幸福や希望は得られます。また人間存在について研究すれば、「全知全能の神」も、人間の創造物であり、地上の幸福や心の平安は、人間の創造的活動(努力)によって実現可能であると思います。「神」という言葉を創って、人間の言葉(自己の存在を合理化・正当化・強化する働きがある)を、「全知全能」の神の言葉として強化する必要は全くありません。それでも「神」という言葉にすがりたいという人は、人間存在の真理に背を向けることになると思います。
 ところで、宗教が、人々に存在の意味や幸福・平安を与え(寺院や教会・モスクにおける信者の心)、政治や権力者に利用されてきた(階級支配の手段として)し、現に利用されている(イスラエルの建国、ムスリムのテロリスト、クリスチャンのブッシュなど)のは事実です。なぜ宗教にはそのような力があるのか。人間が、宗教を信仰し帰依することによって精神的物質的幸福を得ようとする背景は何か、という観点に限って、宗教活動の存在しうる背景をまとめてみます。
 
@人間存在(人生)は、問題解決(欲求充足)すべき事態に常に直面している。
 これらの問題事象の捉え方と解決の仕方によって、人生観(宗教や哲学・思想)が形成される。
A問題事象の根源とその根本解決を追求すると宗教的信仰が有益となる。
 通常、人間は根源を追求せず、慣習に従い適度な問題解決で満足するか、あきらめることで問題解決を図ろうとする。しかし、個人では解決できないほどの困難や不幸に対しては、絶対的権威をもつ宗教信仰に依存することによって平安や希望を見いだそうとする。
B問題事象(人生苦)の根源は、人間存在の3つの有限性にまとめられる。
 生命の有限性:欠乏、病気、競争、災害、老化、死(生存の不安定性)
 人間の有限性:感情の動揺、想像の飛躍、認識の限界(言語の不完全性)
 社会の有限性:利害の対立、相互の不信、強者の専横(競争の無制約性)
 (それぞれに詳細な解説が必要ですが省略します。)
C問題事象は、持続的な否定的感情として自覚される。
 否定的感情とは、欲求が充足されない心の状態であり、不満、不安、悲哀、恐怖、憤怒、憎悪、怨恨、焦燥、悔恨、恥辱、抑うつ、喪失、嫉妬、挫折、劣等、不信、不幸、絶望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(汗、涙、震え、緊張、脱力など)を伴う。(なお感情の分析についてはhttp://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkayw308/page4.html を参照してください)
D問題事象の解決はどのようにされるか。
 問題解決の仕方は、どのような問題意識(疑問)──何が、どのようにあり、どうすればよいか──をもち、どのように言語的解決(理論、教義、思想)を図るかによる。たとえば、科学的解決、医学的解決、政治的解決、キリスト教的解決、仏教的解決、功利的解決、逃避的解決、暴力的解決等々がある。
E問題事象は、肯定的感情の獲得によって解決する。
 肯定的感情とは、欲求が充足された心の状態であり、満足、安心、歓喜、親愛、信頼、爽快、優越、幸福、平安、永遠、希望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(涙、震え、気力、生気など)を伴う。
F肯定的感情は、言語的解決をもとに実践的行動的に獲得される。
 言語的解決は、それ自体で喜びであるが、解決の希望を仲間と共有して実践することでさらに確実なものとなる。
 過去のほとんどすべての宗教的活動は、このような原則をもとに教義、教団、修行(祈り)を構造化することで成立してきた。人間存在の解明は、創造神の存在を前提とする『聖書』も、人間の創造神話に過ぎないことを明らかにします。
 説明抜きの断定的な表現になりましたが、Bunkouさんの「神のシステム」論を意識しています。ご批判いただければありがたいです。
続きはここ
 

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