<人間とは何か 項目>
                  Home →(やさしい人間存在論 2)
人間とは何か(やさしい人間存在論)(1)  
――「単純教」主宰 Bunkou氏との対話から――
(1)人間存在について  
(2)少し長くなりました 
(3)だいぶん長いです 
(4)新しい宗教に期待します
(5)言葉について、さらに考えてください
(6)真理は単純です 
(7)やはり単純です 
(8)単刀直入に答えます
(9)しつこいのは大好きです
(10)やはり言語がkeywordです
(11)解釈の違いはあり得ること
(12)さらに論理を追求しませんか
(13)言語をこえるために 
(14)論理から宗教へ 
(15)言語から言葉と宗教へ
(16)仏教の再生をめざしませんか
(17)やはり言葉にこだわります 
(18)まとめてみました 
(19)言語と論理の補足 
(20)思索の筋道は主語述語です 
(21)究極の議論は難しいです 
(22)論理は多義的な概念だから難しい
(23)論理は存在合理化の道具です
(24)人間の根源について考えましょう
(25)人間は自由で創造的な存在です 
(26)事実と価値を区別すること
(27)言語の限界性を知り、常識を疑うこと
(28)生きる目的は多様です 
(29)自己チューは自由の根本 
(30)生命と言葉と生きること  
(31)人は生きなければならない
(32)生命の目的と人間の生きる意味
(33)論理実証の限界・・・・「生命の誕生」
(34)人はなぜ「なぜ」と問うのか 
(35)さらに言語について聞かせてください 

 

やさしい人間存在論(2)
――「単純教」主宰 Bunkou氏との対話から――
--------------------------------------------------------------------------------
(1)非言語的思考における「なぜ?」はありうるか
(2)動物的思考における「なぜ?」はありうるか
(3)直観・思考・言語の中間的まとめ
(4)「生きる力」と言語との関係は?
(5)「大きな存在」について 
(6)私の内なる生命神 
(7)古い宗教、新しい宗教
(8)宗教もいろいろ 
(9)幸福論試論
(10)どんな希望(目標)を持つのか
(11)日本的幸福観をどうこえるか
(12)諦めないで、希望をもって
(13)希望があるから諦められる 
14)共通の希望はないのでしょうか
(15)共通のものを 
(16)人間は自己の存在構造を創造します
(17)真理、幸福、生命─イエスかブッダか
(18)幸福や希望は、神の存在を必要としない
(19)聖書にも真理はあります
(20)どのような問題意識を持つか

--------------------------------------------------------------------------------
やさしい人間存在論(3)
――「単純教」主宰 Bunkou氏との対話から――
(1)人間存在と宗教成立の背景
(2)何を諦め、何に執着するか 
(3)「青い鳥」は変幻自在
(4)「希望」は「諦め」をともないます
(5)幸せな気持ちです
(6)愛は神の呪いに打ち勝ちます
(7)積極的幸福論=希望の幸福論
(8)なぜ言葉が争いを招くのでしょうか
(9)釈尊の無明
(10)釈尊の知恵
(11)生命の本質と細胞質
(12)生命の本質、東洋的単純さ
(13)生命の起源と想像力
(14)生命性の自覚
(15)確率は、因果関係を特定しない
(16)生命性の絶対と言語的認識の相対
(17)人間は、夢幻(知識)の世界に生きる
(18)認識と言語──パラダイムの変換
(19)言語は人間を支配します
(20)真理の追究は、認識自体の吟味から
(21)なぜ言語の創造性にこだわるのか
(22)「知性」には方法的懐疑が必要です
(23)言葉を得ることは、人生を創造すること
(24)発見的創造が、人生を豊かにします

--------------------------------------------------------------------------------
やさしい人間存在論(4)  
───なぜ言語の究明が必要か───
以下の文は他の掲示板に投稿したものです(編集中)
                                     <言語論へ>
――─知と言語について――
(1)人間の知は言葉によって成立しています
(2)知は認識の結果です
(3)カオス(コスモスも)は人間が創ります
(4)間主観、間環境──何のための認識か
(5)間主観的な認識が、心の病を創ります
(6)間主観的認識が、「心の病」を創ります(本文)
(7)なぜ誤解(知)が生ずるのか
(8)知はどこまで言語の支配を受けるか
(9)言語の謎の解明は西洋的限界のある現象学では不可能
───マルクス『資本論』批判───
                                   <マルクス批判へ>
(1) はじめまして
(2)『資本論』批判の前提──商品A≠商品B──
(3)マルクスでは展望はない
(4)等置の本質は不等価性です
(5)『資本論』の法則は『聖書』の言葉と同様,人間の創造物です

(1)商品交換はほとんどが不等価ではないでしょうか
(2)言語と不等価交換──マルクスの誤り
(3)的確な情報交換のための言語構造

☆限界効用理論批判

目次へ          
希望の日本文化論 (制作中)
<好き嫌いより、何をすべきかを考える>
 人間は、まずは動物として「危険か安全か」や「好き嫌い」という本能的感情的な判断で行動します。しかし、人間として本当に大切なのは、自分の置かれた状況をよく(正しく)認識して、現在の自分の損得だけでなく、自分の子孫の将来の幸福のためにも、「今何をすべきか」をよく考えて行動すべきなのです。それが言葉をもつ人間として「善く生きる」前提になるのです。功利主義者のように、まず快楽を考えるのでも、ソクラテスの考えたように「魂を優れたものにすること」が「善く生きる」ことなのではありません。まずは人間の本質としての言葉を正しく使い、人間存在の真実を見抜いて(認識して)、なにをすべきかを考えること、そうすれば「今何をすべきか」が明らかとなり、結果として「魂を優れたものにすること」ができるのです。西洋的な認識論の限界を超えること、それは言語による認識の意義を理解することによってはじめて可能になります。
<新しい言語論(生命言語説)はものの見方や生き方を変革します>
 言語は、西洋言語学におけるように対象化された言語記号の構造のみを扱う(ソシュール等)のではなく、生命の刺激反応過程を制御し構造化し創造する認識や思考、感情や行動の表出過程(生命言語説)として扱うべきものです。このような言語観・人間観は自己(私・生命)の主体性(自律性)を確立し、神仏の存在を必要とせず、人間相互の共通理解と連帯を促進し、諸個人の幸福と社会の平和に貢献します。人間は言語によって自らを支え、相互理解(又は相互不信)を深め、新しい自己と社会と文化(文明)を創造する動物なのです。
2006/12