人間とは何か(やさしい人間存在論)
――「単純教」主宰 Bunkou氏との対話から―    全項目      Home
  人間として生きること=疑問の解明→主語述語による論理命題の形成→言語構造の活用
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(1)人間存在について 2003年 9月21日(日)

初めまして
ネットサーフィンをしていまして貴殿の興味深い所論を拝読させていただきました。これは生命教というべきです。ただ生物学はあっても言語論がないのが残念です。自己の言葉が自覚できれば、自己への気づきが深まります。
いまだにコンピュータに慣れない私ですが、「人間存在研究」なるHPを作成しました。理解してもらえそうな方に宣伝をしています。時間が許せば一度ご覧ください。                          大江

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(2)少し長くなりました 10月 3日(金)

Bunkouさん
 小生の言語認識論の特徴は、認識主体の確立にあります。認識主体とは生命そのものであり、その点でBunkouさんの生命神の発想に共感を覚えます。しかし、所論における「今までの生物は全て、環境のなすがままになるだけでした」というのは正しくありません。単細胞生物(例えばアメーバ)でさえ、多様な環境から選択的に自己の生存の可能性を追求し行動します。
 また人間の意識の機能(無意識を含めた心の働き)は、「言語」の働きを無視して考えられません。意識の働きの一つである認識は、言語の支配を受けると同時に意識の支配を受けます。それではどのようにして意識や認識に言語が関係するのかと言いますと、言語による論理的かつ創造的な思考によって、世界(環境)を再構成し、知識・思想となって意識や認識、つまり生命(存在・行動)そのものを支配することになるのです。

 小生の言う認識の主体的な働きとは、対象に対する興味関心(欲求充足をしようとする意図)にもとづいて、対象を確定すること(何がどのようにあるか)と、その対象に対する自らの態度を判断選択することになります。したがって、主体にとって対象の言語的認識は、何が(what)どのように(how)あるかを解明し、それに対してどのように行動するかという態度を決め、それらを言語を用いて論理的に考え、生命主体そのものを自らの創造した世界の中に位置づけることになります。

 従来の認識論(西洋哲学における、また実証科学における)の欠陥は、「何のために認識するのか(知覚・感覚するのか、知るのか)」が欠如していることです。「認識することそれ自体(知ることそれ自体)」を独自的に探求しても、「何のために」が欠如すると認識の生物学的構造が見えてきません。結論を急げば、生命は個体と種族の維持存続のために認識をします。生命(動物)は生きるために対象(環境)を認識し自らの生きるべき方向を判断し行動します。

 従って、意識(認識)には、対象が「何であり、どのようにあるのか」、対象に対して「どのように判断・行動すべきか」という論理構造があることになります。まさにこの構造こそが、認識と思考の基礎構造であり、行動にも直接つながる言語的論理構造なのです。
 人間生命にとって、自らの中に生命(神)を認識するためには、人間言語の理解が不可欠です。人間を視野においた生命論の中に言語の位置づけをしていただけることを願っています。


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(3)だいぶん長いです 10月 8日(水)

 Bunkouさん、質問していただいてありがとうございます。質問の趣旨はよくわかります。言語表現を越える世界が、言語表現よりはるかに膨大なものであることは当然です。そもそも人間個人によって認識され記憶されている「情報」は、その人の経験的世界(欲求、感情、知覚、論理、価値など)すべてを含んでいるのに対し、言語はそれらの(膨大な)「情報」をまとめて表現する手段にすぎません。「太陽が昇る」という表現は、その状態をどのように観察したかという個人の経験により、その人のとらえ方は異なります。言語表現はあくまでも社会的にみれば平均的なもので、その言語表現の意味は、個人の経験の深さや捉え方、感じ方で異なります。 

 しかし、一度、言語的世界──例えば、「単純教でやってみよう」とか「言語が人間の本質だ」のような命題(論理)を作ってしまうと、認識の視野は、その言語表現に限定されてしまいます。実は、人間は言語を認識や表現の手段とすると同時に、その認識や表現(知識や思想)によって、次に起こる自らの意識や認識(さらには行動)を規定し制約しているのです。もちろん、一度規定した内容を改変することはできます。自己の思想や知識に融通を利かすことは日常的に行っていることです。そのようにして次の新しい言語的規定を見いだして、自らを限定する(限定してしまわざるを得ない)のが、人間の言語機能なのです。

 人間の心理(心)は不安定や無意味さを嫌います。人間は、常に、世界の中に安定した居場所や自己の存在意味を求め、世界を言語化して、自らを言語によって安定的に位置(意味)づけざるをえない存在なのです。人間は、言語を使う動物であることによって、自らを言語的に世界に位置づける動物なのです。今日まで人間が自らをどのように位置づけてきたかは、様々な思想や宗教あるいは個々の個人の生き方が示しています。知識や教養のあるものもないものも、言語を使用することによって、そうせざるをえないのです。小生は「人間存在論」によって自らを世界の中に「言語的に」位置づけ、Bunkouさんは、「単純教」によって自らの存在を世界の中に位置づけているのです。
 さらに、「意識」についての定義ですが、「人は意識を手に入れました。意識とは仮想認識を行なえる装置だと思っています。」における「仮想認識」という表現は、人間の意識の特徴をうまく表現しておられます。しかし、「意識が回復しました」とか「サルが私を意識(注目)している」の場合のように必ずしも「仮想認識」でない場合にも使える言葉なので、厳格に人間に使用する場合には、人間的意識又は言語的意識とすべきです。

 また、言語と論理は密接な関係があります。言語はかつてはソシュールにみられるように、「単語(名詞、動詞、形容詞など)」としての記号(能記と所記)であると理解されることが多かったのです。しかし、チョムスキー革命といわれる生成文法の成立以来、言語は論理構造(句構造)をもつものであることが重視されるようになりました。小生としてはこの論理構造が、人間の認識の根源となる「疑問の形式(何がどのようにあり、またどのような関係にあるのか。その関係の中で自らはどうあるべきか。等々)」に由来すると考えています。
 真理は言語的に規定されてこそ不動のものとなります。しかしその言語についての明確な理解なしに真理の確立はあり得ません。人間にとって何が幸福であるか。小生は仏教的な悟りの境地、安心立命の状態を追求することを人生の一つの目標としています。その目標の実現のためにも人間存在の因果の連関と存在意味を解明し、言語によってそれらを確固としたものにすることが必要と考えています。
 また長くなってしまいました。答になるでしょうか。箇条書きの問なら答えやすいかも知れません。真理が単純であるというのは正しいと思います。

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(4)新しい宗教に期待します 10月12日(日)
 Bunkouさん、このような議論ができることをうれしく思います。
 宗教は「信仰」がその核心です。信仰は当然論理を越えています。信仰をもつには論理を越えねばなりません。しかし同時に、信仰は論理によって武装し保護されねばなりません。なぜなら論理(信仰の正当化・合理化)を崩された信仰は説得力や永続性をもたず、必ず自閉的な神秘主義やカルトとなって堕落してゆくでしょう。オウム真理教やパナウエーブなどはその例で、結果として個人を救済することにはなっていません。

 信仰は、傷つきやすい人間の心を癒したり浄化して、安心立命、悟り、恍惚、平安、幸福、救済の世界に導きます。そのような境地にいたるために、宗教は様々の祈祷、儀式、音楽、瞑想、苦行等々を考案しました。しかし、信仰が絶対的なものであるためには、論理によって説明され意味づけられ、強化し擁護されなければなりません。言語による論理構造が、信仰を求める不安定な人間の存在と救済を求める行動を導き方向付けるのです。盤石な信仰の基盤は論理であり、その基盤の上にのみ永続的な平安を求める信仰の世界が開かれるのです。

 今までの宗教は、特定の歴史的社会的背景の中で自己の信仰の世界を言語(論理)的に位置づけ、合理化し正当化てきました。仏教、キリスト教、イスラム教そして神道等の宗教は、すべて何らかの教義によって、論理的に自らを正当化してきたのです。しかし、それらの世界宗教、民俗宗教は、今日では科学的方法論・認識論に対応することができないのは明白です。

 実は、西洋哲学もそうなのです。西洋哲学の最大の難問は「言語問題」です。言語問題は、西洋的認識と論理のつまずきの石であり,残された最後の課題です。言語論を排除したカントの認識論や「事象そのものへ」「判断中止(エポケー)」を方法論とする現象学は、西洋哲学の限界性を如実に示しています。「言語問題」は、西洋的思考様式で解明することはきわめて困難です。ギリシャ以来、ロゴス(言語・論理)によって抑えられてきたディオニソス的なもの(ニーチェによる――感情的・情動的・無意識的なるもの又は生命そのもの)が、言語的に復権されねばならないからです。これは西洋的な思考様式においては矛盾です。なぜなら西洋においては言語的なものが主体だからです(この論証はHPをみてください)。

 宗教・信仰を真に確立しうるものは、「言語問題」の解決です。信仰と論理は対立するのではなく、信仰(宗教)を確実ならしめるのが論理(言語)なのです。これはとても単純な真理だとは思われませんか。われわれは日常的に言語を使用しているにもかかわらず、言語を単に伝達手段とのみ考え、人間存在そのものを、世界に位置づけ(意味づけ、合理化す)るものだということを見抜けませんでした。言語(論理)の重要性を認識し、相対化することによって、その相対化を越えたところに宗教・信仰を見いだすことが新しい宗教(そして哲学も)の必要条件だと思います。新しい宗教は、あなた自身の生命性(欲求、感情、認識、行動など)を自覚し、あなた自身の言葉を正しく使う(自然と社会・歴史の中に位置づける)ことによって初めて可能になると思いますが、いかがでしょうか。


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(5)言葉について、さらに考えてください 10月19日(日)

 Bunkouさん、文章による議論は修正しにくいので緊張します。口頭ですと修正と確認(再質問)がすぐにできますが、書面は難しいですね。でも小生も「哲士」でありたいと思うので、しんどいでしょうがつきあってください。言語については最も重要でありながら、哲学でも古来(プラトンの言語論)から謎の多いものなのです。

 さて議論は平行線なのではなく、「真理」や「論理構造」の意味の捉え方の違いだと思います。まず、「(1)この世の全てのものごと(現象でしょうか)、出来事は論理的構造にある。」という点に関して、「論理」とは人為的なもの(人間の言語的判断の結果)なので、そのように断定することはできません。自然現象が完全に因果関係によって成立しているかどうかを(観測によって)確定するのは、ミクロの世界とマクロの世界では、ハイゼンベルクの「不確定性原理」にもあるように、きわめて困難です。人間が論理や命題の形で表現しうるのは「認識の結果」にすぎないからです。あくまで、因果や論理・命題は、人間の認識の結果(人為)です。昔から人間は、自己の論理を正当化するために、自己の発見した論理を現象そのものであるかのように真理であると主張してきました(近代の実証科学では、「仮説」と表現しています)。その意味で、(3)で言われるように、言語(又は数式)では、この世界の複雑な構造(論理や混沌とは言い切れない無限の因果連関の構造)を表現しきれないのは確かです。

 次に問題なのは、「真理」概念についてです。一般に真理とは、現象を正しく認識し、表現した命題のことを言います。(カントは、真理を定義して「認識と対象の一致」と表現しています。)だから、(4)でまとめられている真理の定義は誤解を招く表現です。論理構造はあくまでも認識の結果なのですから。 又、言語表現は「ただの結果」である場合もありますが、「神は存在する」という信仰を前提として生活している人々にとっては、「神は存在しない」という表現(主張)は、恐怖や嫌悪をもたらす悪魔の誘惑であり、「ただの結果」ではありません。ほとんどの言語表現は、「ただの結果」かもしれませんが、そのひとの「存在理由」を意味するような言語表現(感情や情動と結びついた言語表現)は、生存を左右する場合もあるのです。「思い込み」や「思い違い」でないかと他人に思われるようなことでも、「神の存在」を信仰し拠り所としている人々にとっては、その言葉が決定的な意味をもつのです。聖書にある「初めに言葉ありき」という表現は、キリスト教にとっては神の言葉であり疑ってはいけないものなのです。

 「真理と言語の関係」についてですが、真理とは、現象を人間が認識した結果としての命題(知識)ですから、当然言語表現を伴います。人間の創った構造物や設計図・回路図などは、言語的表現(説明――身振り等で示せますが、人は無意識に言葉を使っています――内言)がなければ、何の役にも立ちません。素養のない人(未開人でもいいですが)に、機械や回路図を見せてもその意味を理解することはできないでしょう。簡単な道具なら言葉は必要ありませんが、それでも人間(好奇心のある人間)は、初めての珍しいものを見れば<必ず>それが「何か」「どのようなものか」等々の疑問を言語で表現している(これを内言といいます)のです。人間理解の根本は、人間の本質である「言語」を理解することです。言語を真に理解することは、言語を無意識的に使っている自分自身を理解することでもあるのです。言語理解とは人間理解であり、自己を人間として、社会的存在として理解することでもあります。

 チンパンジーは好奇心が強く、一定の抽象的論理構造(例えば手話や記号)を理解します。しかし言語をもたないために脳の中に自律的に再構造化できません。目の前に具体的な手や図形又は音声などがないと判断できないのです。人間は違います。言語という自発的な記号をもつために、自ら自律的に現象を再構造化することができるのです。それが人間の創造的な思考の始まりなのです。・・・・・・長くなりますので今回はここまでにしますが、おそらく言語の重要性についてはご理解いただけると思います。


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(6)真理は単純です 10月26日(日)

 Bunkouさん、言語についての根源的な意味を考えるためには、「生命にとっての、また認識と行動にとっての言語」を考える必要があると思います。

 あなたの言われる論理構造は、コペルニクスの例のように常に「おおよその論理構造」なのです。それは「地動説」を主張する程度の場合には、そのような論理も許されます。しかし、「認識され表現されようともされなくても、論理構造は存在すると思います」というのは誤りです。認識され表現されて、初めて論理構造は存在するのです。なぜなら、惑星の運行データをコンピュータに入力しても、それは当面の何千年何万年単位ならそのデータ(人間の測定しうる限りでの、そして、測定すること自体が人間の認識における論理構造なのですが)の論理構造に従うかも知れませんが、何億年というマクロの単位となると、データ自体を測定し確定することが不可能になります。それは宇宙《全体》を光によって測定することが不可能(光速度以上の運動)であることや、それによって銀河系と銀河系の運動の確定が不可能であることによって証明できます。

 つまり、光を用いて測定(認識)することが論理なのであって、その論理構造は、あくまでも認識の結果としての論理構造なのです。惑星の運動自体も、その究極の運行は、人間の認識(観測)を越える以上「認識されなくても論理構造は存在する」とは言えないのです。Bunkouさんの言われる論理構造は、通俗的な西洋の科学的認識の限界性にそのまま影響されているのです。アインシュタインは、観測者の立場を数式で表現することによって相対性理論を確立しましたが、それはある意味では対象(宇宙の運動)を論理的に確定することの限界性(ニュートン的絶対空間の限界性)を示すものです。観測者の位置と、観測(認識)の基準・手段(光そのもの)を確定することができないのに、どうしてマクロ的な宇宙の運行を論理的構造と断定できるのでしょうか。

 私の認識論的発想は、根本的には東洋的なものです。東洋的な観点に立ち、宇宙の混沌(人間の認識を越えた秩序)から銀河系と太陽系の秩序が生じ、地球という特殊な環境において生命が誕生し、進化の最高段階として人類の言語が獲得されました。そこで初めて宇宙・自然・世界を論理的に再構成している──と考えるのです。混沌や無限・永遠も論理構造だと言われれば、返す言葉はありませんが、宇宙の中の秩序は、人間がその有限性の中で言語を用いて認識し論理化しているにすぎないのです(ちなみに、いわゆる宇宙のビッグバンの仮説は宇宙を論理構造と考える西洋的な思考様式の産物です。人間の現在の観測では宇宙の拡大が実証されていますが、永遠に収縮の状態に到らないとは数千年数万年のスケールでは証明できません)。

 論理化し得ない世界(マクロの宇宙とミクロの素粒子のように因果関係を確定し得ない世界) があることによって、論理構造は人間の言語的構想力の結果であると言いたいのです。人間は、世界を論理化(合理化)する動物であるということから、世界を無意識的に論理化している人間自身の認識構造と、言語の重要性が自覚されねばならないのです。われわれ人間は限りなく世界を論理的に認識するでしょうが、それには限界があります。つまりは論理化し得ない構造があるのです。このような考えは神秘的に聞こえるかも知れませんが、神秘的なのではなく人間の認識の有限性というきわめて単純な事実なのです。「初めに言葉(ロゴス・論理)ありき」というギリシア的キリスト教的西洋的発想(思考様式)は、科学技術の発達を生み出しましたが、今こそその慢心と限界性が問われなければならないのです。

 つい西洋思想批判という自説を強調することになりました。Bunkouさんの言われる「論理構造は存在し、認識されるのを待っている」という見解(命題)は、今日の一般的な自然科学的発想であり、西洋の合理主義的思考に基づくものです。しかし、この見解は、仮説でしょうか、真理でしょうか。真理ならば実証できるでしょうか。実はここに言語問題の重要性があるのです。私は、「論理構造は存在する」というのは、「論理構造」や「存在」という言語(概念)の定義によって崩壊すると思います。なぜなら「論理構造」というのは、自然そのものでも存在そのものでもなく、人間の言語的認識の産物だからです。人間が言語的に認識するというのは、人間の受動的な反映ではなく、生命としての人間主体の認識行為の結果なのです。「論理構造は存在する」というのは、カントやマルクスの認識論であり、西洋的思考様式の誤りに基づきます。

 この議論は西洋思想の限界を理解する上で最も重要なものです。しかし、カントの『純粋理性批判』を読み解かない限り、闇に葬られてしまうような微妙な問題です。カントには言語論や生物学的な認識主体への自覚がありません。Bunkouさんは、カントをどのように読まれるでしょうか。生物学に造詣の深いBunkouさんにはカントの認識論の誤りに気づかれるのは容易だと思います。長くなりましたが真理は単純です。

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(7)やはり単純です 11月 3日(月)
 Bunkouさん、あなたの整理能力には感服します。おっしゃるとおり、私は人間には宗教が必要と考えており、また、人間は究極において宗教的にならざるを得ないと思います。ただそれは、従来の非科学的な信仰・信念にもとづく独善的、閉鎖的、秘教的なものではなく、実証性(検証性)があり、柔軟かつ修正可能なもので、あらゆる批判に耐えうる単純・明晰・根源的なものでなければならないと思います。

 さて「全てのものごと(現象)には論理構造がある」という命題ですが、まずは仮説であるとされたことに安心しました。しかし、あなたの言われる「論理構造説」を、「公理」「宣言」とされているのは以下の2つの点で問題があります。
 まずは、(1)前回も述べたように「論理」は人間の創造物であることです。"動物における「力の論理」"とか"地動説の論理構造"のように使用することは全く問題ありません。それらは人間の興味と関心、すなわち問題意識によって実証され、論理的に表現されているからです。ところが「全ての現象」となると、全ての現象(自然)の中には実証に限界があり、論理化できない「観測の限界」(特にミクロとマクロの分野)がありますから、単に「認識技術が未熟だから」技術が進めば認識(発見)できるはずだ、として容認することはできません。私は物理学については全くの素人です。しかし地動説が発見される実証的レベルと、宇宙の限界や光・電磁波を吸収する極大の重力世界(ブラックホール)、揺らぎでしか説明できない素粒子のレベルでは、観測(実証)に限界があるのは明らかです。だから仮説は可能であっても、それを構造そのものと確定することはできないのです。自然に秩序や構造はありますが、それを観測して論理化できるのは、人間という特異な存在がもつ言語的認識能力の限界内においてのみなのです。

 次に(2)この命題を「公理」とする根拠はありません。数学における公理は、人間の創造物として根拠づけができます。幾何学における直線や三角形も、数字を用いた加減乗除も人間が創ったものです。しかもそれらは言語で規定することによって可能になったのです。「公理」は人間が創ったものである、という観点から言えば、「全てのものごと(現象)には論理構造がある」という仮説も、Bunkouさんの創られた信念・立場にすぎず、もちろん公理ですから実証性(根拠)はありません。

 繰り返しになりますが、「論理構造がある」ということと「構造・秩序がある」ということとは違います。構造・秩序は、太陽系や地球の構造、生命の構造、岩石の構造、行動の構造等々と使用されます。しかし太陽系や地球の論理構造、生命の論理構造等々という表現は一般的でしょうか、又必要でしょうか。また「その現象の論理構造が正しければ、真理となります。」という(5)の命題における「正しい」とはどういうことでしょうか.真理とは「対象と認識との一致」ですから、「論理構造」は「認識された結果」となり、Bunkouさん自身も、真理は認識に影響されていることを認めていることになります。

 認識の限界は、人間の「認識能力の未熟」もありますが、世界があまりにも多様であるだけでなく、認識対象であり認識手段である光・電磁波や重力自体の存在が、人間の認識(観測)能力をはるかに超えていることにもよります。現在の物理科学の到達点は、真理は発見されるのを待っているという状況にはありません(それでも学者は真理を追究し続けなければなりませんが)。現状では地球や生命、人間の存在形態は、この広大な宇宙における極めて特異で孤独なものなのです。

 人間の認識における言語の役割については、拙著を読まれた上でご批判いただければありがたく思います。
 

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(8)単刀直入に答えます 11月10日(月)

 Bunkouさん、私の考え(理論、仮説)の基本は、あくまで単純です。いくつかの質問をいただきましたが、私の解答は予想がつかれると思います。何度も言うように、「論理構造」は認識の結果として論理化できるということであって、構造そのものではありません。論理構造は、西洋的限界のある概念なので、あまり使用すべきでないというのが私の立場です。

 さて、(1)についてです。人間が存在を認識(観測)できるかぎり、存在の論理化が可能となり、論理構造として表現できると思います。現在未知の対象でも、観測が可能になれば論理化できるのは当然です。ただ、想像ないし仮想の世界は、論理化しても実証できませんから真理とは言えません。例えば,神や死後の世界を論理構成しても、それは虚偽の論理構造(虚構)となります。

 (2)「論理化できない」ということは、対象(存在・構造)を、観測できないか、観測できても時空の中に確定できない(実体が不明で仮説にとどまらざるを得ない)ことであって、それを「非論理構造」ということはできません。存在や構造は、論理化<できる>ということであって、そのものが論理構造であるとは限りません。不確定な世界は一定のレベルにおいて不確定でも、観測スケールを光で観測できる物質レベルにすれば確定できます。われわれは、物質的存在の内部に不確定なミクロのゆらぎのレベルと、外部の宇宙に超光速・超重力レベルの世界をもっているのです。そしてそれら全ては連続して存在していると考えるべきなのです。

 (3)当然「物質レベル」の世界に、論理化できない世界の可能性があります。「空中浮揚」は、磁力・重力レベルでの検証をすれば明らかとなります。

 (4)論理化されていない世界を構想すれば、それはあくまでも仮説としての論理化です。例えば、宇宙における重力の理論は整合的に論理化されていません。地球の内部構造やブラックホール、超ひも理論、M理論などは、観測の範囲内で理論化されているものです。それらは決して「全てのもの」という説明はされていません。「全てのもの」の一面を観測しているのです。その結果、それらの構造の理論化が行われています。観測から推論されているのです。論理構造が前提なのではなく、観測(認識)が前提なのです。しかも観測は、全体の一部です。

 (5)自然の「構造や秩序」は、全てのものという意味です。しかし、理論化されるのはその一部です。構造は全体であり、「論理構造」とされるのはその一部を因果性・規則性などで観測しているので、「論理構造そのもの」ではありません。

 (6)その通りです。論理は、未知の全体を、人間が言語的認識力(地球生命の最高能力)によって構造化したものです。また、「秩序構造」なら全体性(物自体)を表現できますが、「因果構造」は、論理的であり、全体の一部と考えるべきです。「論理構造」という表現も、人間の認識能力(人間存在そのもの)を過大評価することになり、西洋的合理主義に見られる道徳的にも危険な方向です。

 また、「公理」は、仮説ではなく、証明(実証)も必要のない前提です。前述したように、「公理」は、人間の創った世界(公理系)です。人間は数学的公理を用いて世界を探求し記述するのであって、それは認識の手段であり、言語的背景をもちます(言語もまた社会的公理体系です)

 しかし、「全てのものごとは論理構造にある」が公理というのは、ものごと(事実)を問題にしていますから証明の必要があり、公理とは言えません。一種の信念だと思います。また、「秩序を保つ論理構造」は、形容矛盾です。秩序は論理構造によって保たれているのではありません。秩序それ自体(おそらく未知の原理)で存在しているのです。

 次に、「天動説」は、プトレマイオス説とすると虚偽ですが、天を宇宙全体と考えると真理となります。「地動説」は実証できます。真理は、知識(認識の結果)について言われるのであって対象についてではありません。人間は当然真理を追究し続けます。真理を求めるとは、対象について正しい認識をして対象に一致する知識を獲得することです。

 以上単刀直入にまとめてみました。世界をどのように認識するか(認識論)は、人間がどのような存在か(存在論)、またどのように生きるべきか(倫理)を考える基本となります。質問をいただけるのはとてもありがたいことで感謝しています。

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(9)しつこいのは大好きです 11月17日(月)

 Bunkouさん、言葉の使い方の難しさは、言葉の意味の曖昧性とも関連しています。言葉の意味に誤解が起こるのは、言葉の意味には、社会性(客観性・絶対性)と個人性(主観性・相対性)が混在していることに原因があります。言葉の意味は公理(前提)を原則としております(社会から与えられる)が、それはあくまで社会的に平均的なものであり、個人の理解度によって異なるものです。極端な話、自分にしか理解できない言葉(の表現)もあるわけです。

 私は、私の文章を検索してみたのですが、「発生」という言葉は使用していません。Bunkouさんの
 "「論理構造」に対する私の「発見」という理解と、大江さんの「発生」と いう理解の齟齬が、議論を平行線にしているような気がします。"
という理解は、全くの誤解です。私は、論理構造は、「発生」ではなく「創造または論理化・合理化」であると主張しています。論理は人間の創ったものです。論理(知識)が、「認識の結果」であるというのは、人間の言語の「創造物」だということです(もちろん言語自体が人間の創造物です)。だから、議論を平行線にしておられるのは、Bunkouさんが私の考えを誤解していることに起因しています。言語(論理)のもつ創造性を理解していただければ、私の考えの単純性が明確になります。

 合理主義はどのような問題があるのか、という問について端的に答えます。実は誤解して捉えられた「論理構造が発生する」(10/28付)という非主体的な考え方が、合理主義の一つの思考の特徴なのです。私は「論理は人間の創造物である」「論理構造は、人間の言語的構想力の結果である」(10/26付)と表現しました。「発生する」という表現は人間の認識の主体的側面を排除します。また、主体的認識の結果としての「論理構造」を、主語にする思考方法は、ギリシャ以来の西洋的合理主義の思考方法の特徴を示しています

 さて(1)アインシュタインの予測についてですが、光が重力の影響を受ける、という仮説は、光や万有引力を観測(測定)することによって出されたものです。Bunkouさんの場合、「仮説」「真理」「公理」や「論理」という概念に混乱があります。「公理」や「真理」は「仮説ではありません。「公理」は論理を組み立てる場合の前提ですし、「真理」は実証された信憑性のある命題(法則・理論・知識)のことです。

 仮説を立てる科学的方法は、論理が定立していない現象に、新たに論理(仮説)を創り、それを実証して現象の構造を明らかにし、法則性(真理)にまで高めることです。決して論理を「発見」するのではありません。何らかの論理があるはず、と想定することは当然ですが、論理があるからその論理を発見するのではないのです。地球と月、地球とリンゴの間に引力がある、という真理は、論理構造があるからではなく引力があるからであり、その事実を論理化して法則とするのです。万有引力の法則という論理は、引力を論理化したのであって、論理構造として存在しているのではありません。地動説の発見、万有引力の発見、原子構造の発見など一般的に「法則や構造の発見」という表現は、現象の構造(秩序)の一つの側面の論理化であって、論理構造の発見ではありません。これは西洋的合理主義にもとづく誤解なのです。

 繰り返しになりますが、西洋的合理主義とは、「初めに論理(ロゴス・言葉)ありき」であり、この西洋的公理が誤っているのです。そして、この誤りを見抜くために「言語論の革新」が必要なのです。また、今日の豊かな科学技術文明は、西洋的思考様式にもとづくものですが、その限界性の自覚こそ、今日必要とされているのではないでしょうか。

(2)「潜在的論理構造」という新しい概念を提案されるのは一種の発明でしょうが、人間(生命)の認識の主体的・選択的・創造的側面を隠蔽することになります。自ら認識し、論理構造を創造しながら、その論理構造(言葉)に支配されることになるからです。しかも、そのことを自覚せず、論理を絶対化する可能性が生じるのです。「新しい宗教」が確立されるとするなら、人間は言語の限界を乗り越え、生命的存在への自覚(気づき)を必要とします。そのためには、東洋思想を、西洋的合理主義に基づいて再構築する必要があります。

 Bunkouさんの「単純教」は、経営論も含め、十分に東洋的であり評価しています。しかし、言語論が欠如しており、言語(論理)を相対化できないため、「論理構造」「潜在論理構造」「非・論理構造」という複雑な構造が必要になるのです。論理へのとらわれ(執着)は、本質的に西洋的なものです。

 (3)科学者や思想家の思索の根拠は、人間が言語を獲得した生命であるということにあります。現象(存在)に論理があるから、思索し法則を求めようとするのではありません。人間が認識(思索)において言語を使用するから、現象を論理化するのです。生命は、地球という特殊な環境中に誕生した化学物質の特殊な存在形態です。人間という生命は、この宇宙と世界を科学的発見によって論理化してきました。しかし究極のマクロの広がりと極小のミクロの世界を論理化することは限界があります。宇宙のビッグバン理論や定常宇宙論も限界があります。私自身は、観測方法の限界(人間の認識の限界)によって、論理化の不可能性を実証できるときがくると思っています。

 (4)Bunkouさんが「論理構造」を前提することに、現実的な問題や限界がないとされるなら、この概念の使用は可能です。しかし、「潜在論理構造」は真理ですが、「人の認識した論理構造」は仮説です。というのは逆ではないでしょうか。前者が仮説で、後者が真理となるように思います。立場が違うと反対に見えるのかも知れませんが、よくわかりません。Bunkouさんの理論を説明している著作などあれば教えてください。

 (5)「構造」は、構成要素の関連(階層構造でしょうか)から全体構造が作られている、というのは同意できます。しかし、「そこに潜在論理構造がある」というのは同意できません。一般的に「構造」や「全体」がどのような構成要素を意味しているか明確でないからです。例えば「細胞の構造」や「宇宙の構造」という場合でも、ミクロとマクロの世界が構成要素となります。その「論理化の限界」は、前から述べているとおりです。私は「未知の原理」を越えて「不可知の世界」すなわちカントのいう「物自体」を想定しています。つまり、人間の言語的(論理的)認識の限界を意識しています。従って、Bunkouさんの区分にあわせるなら、世界を「論理可能構造」と「論理不可能構造」に区分できると思います。
 説明不如意で長くなりましたが、しつこいのは大好きです。
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(10)やはり言語がkeywordです   11月23日(日)

 Bunkouさん、論点がとてもはっきりしてきました。わかりやすく整理していただいてありがたく思います。

@)において"「すべてのものごとに論理構造がある」という基底があるからこそ、生命論から人生論、経済論まで、真理を追い求めて思索できるわけです。"と言われていることを、「生命論」と「論理構造論」から考えてみます。

 私の主張は、当初から述べているように、「論理」と「構造」は分離すべきでり、「まず構造があって、次いで論理がある」ということです。その理由は、まず生命構造があって、その生命進化の構造から言語を獲得して人間が出現し、論理を創造した。その結果として「論理構造がある」という見解が生じた、ということになります。論理はあくまでも人間という知的生命体の創造物であって、論理が「発生した」では、人間存在を正しく自覚することにはなりません。知的生命体としての人間が、自らの存在とそれをはぐくみ存在させているこの環境と世界を、探求し思索し論理化して知識体系を作り上げているのです。

 「自然法則の発見」という一般的な表現も、常に自然階層(次元)の一側面について条件付きで言われるのであって、「法則や論理」はやはり人間の創造物です。人間が真理を追い求めるのは、彼が言語を用いて獲得し創造した法則や論理・知識(仮説や主張)が、確実なもの(または有用なもの)でありたいという欲求をもつからです。「論理構造がある」から、対象の構造に対する知的探求が可能なのではありません。言語を用いた知的探求によって、論理構造(知的探求の結果)が創造されるのです。私の主張では、生命は客体ではなく、言語を用いた構造探求の主体となります。従って、@)の見解を承認できません。

A)については、論理自体は仮想・妄想・夢想など、何でもありです。しかし、"観測がなくても論理を組み立て仮説を作れます"のように観測事実のない仮説は科学的認識の方法としてはあり得ません。また、"導き出された論理構造(法則・知識)"と"すべてのものごとに論理構造がある"を区別することこそ最も重要なことです。前者が認識・発見されたことは、後者の公理(?)・仮説の証明にはなりません。循環論法に陥っています。従って、A)の見解を承認できません。

B)については、「地動説の発見」は「発生」では困ります、意味不明の誤解です。正しくは、地道「説」の創造です。ガリレイは「地球は動いている」という事実を発見し、正しい「説」を創造しました。了解していただけるでしょうか。「構造」とは事実であり、「論理構造」とは人間の創造した「説」「法則」「知識」なのです。従って、B)の見解を承認できません。

C)について、「この世界が論理構造にある」とすると、「非・論理構造」はこの世界と連続・関連しないというのはその通りです。しかし、この世界には論理可能構造と論理化(言語的認識)できない論理不可能構造があるという私の見解(仮説)では、両者の構造は連続して存在しています。現代の科学は、この世界の究極の構造の論理化に成功していないどころか、私の見解では限界に来ていると思います。(実は、成長の限界を迎えている人類には、倫理的に宇宙や世界に対する人知の限界の自覚が必要であると思っています。)

D)これは了解できます。私は誤解されていると感じていました。私は西洋的合理主義を根底から覆し、再建することを考えています。それが「言語論の革新」の内容なのです。

C)の補足について、了承できます。ただし、技術的に実証できない仮説は信念にとどまり、論理化されても真理とは言えません。したがって、「論理構造がある」ことの証明にはなりません。

D)の補足について、「未知の原理」があれば、それは論理可能な構造を論理化したものです。B)で述べたように、「原理」「知識」「法則」と「構造」「運動」「存在」を混同するのが西洋的合理主義の特徴です。さらに言うならば、「事実」と「論理」はちがいます。「事実」は構造・秩序ですが、「事実」を認識し、論理化するのは人間の言語的行為なのです。事実は無限であり、論理は断片的で有限です。自然現象についての科学的論理は、個々の事実を観測し確定することによって成立します。従って承認できません。
E)は、すでに上のところで述べました。

F)は、もちろん了解できます。その通りです。しかし、私の考え方は、言語論から出発しています。生命存在にとって、言語とは何か。言語の自覚こそが人間生命の倫理的自覚の基本であると考えています。言語は単なる伝達の手段、思考の手段ではありません。欲求や情動・感情すなわち人間の行動を操る力も持っているのです。この点のご意見をお聞かせください。また、Bunkouさんは確かに合理主義者ですが、あえて言えば私は合理<化>主義者です。合理化主義者は、合理主義者を、「自らを合理主義者と合理化する人」と考えます。人間は自己の存在と世界を、言語的に合理化する存在なのです。やはり言語がキーワードです。


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(11)解釈の違いはあり得ること 12月 1日(月)

 Bunkouさん、いつものようにわかりやすく整理していただきました。言葉の定義(意味)は本当に難しいものです。意味が異なると議論がすれ違います。
 Bunkouさんの「論理」の意味が「人の思索」範囲の意味を越えて「筋道(または合理的成り立ち)」であることはよく理解できます。当初から述べているように、問題はその「論理の意味の妥当性」です。 

 『広辞苑』によれば、論理の意味は次のように書かれています。「@思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。A実際に行われている推理の仕方。論証の筋道。B比喩的に、事物間の法則的なつながり。C論理学に同じ。」とされ、また平凡社の『世界大百科事典』では、論理とは「人間の思考の筋道,あるいは思考の成果としての知識の構造」とされています。Bunkouさんの「論理」の意味は、おそらく『広辞苑』のBの比喩的な場合であると思われます。これは了承していただけるでしょうか。

 実はすでに理解していただいているように、私はBのような解釈に西洋的な限界があると考えているのです。だから「論理構造」という表現にこだわりました。「論理」を厳密に理解することによって、人間の認識における言語の役割と、認識そのものの限界性を主張したかったのです。Bunkouさんが、「筋道」を「思考」から独立的なものとされたのは、比喩的なものとしては了解できますが、「論理」に対する厳密な解釈とは言えません。論理とは、あくまで「思考の筋道」として両者一体のもので、筋道自体が「成り立ち」や「組み合わせ」として思考から独立することはあり得ません。少なくとも哲学的一般的に「論理」とは、言語を用いた思考の筋道を意味しています。(上記の百科事典の「論理学」の項目は、論理とは何かを考えるのに参考になると思います。是非一読してください。)

 なお「仮想、妄想、夢想」に「論理」の意味の入る余地はない、とのことですが、私は合理的・論理的な「仮想、妄想、夢想」(という思考)も、比喩的にではなく実際に存在することを前提にしています。ご承知のように合理性や論理性は、真理のための必要条件ですが、十分条件(実証性)ではありません。したがって、合理的な誤解や論理的な虚構(妄想、夢想)もあり得ると考えています。あえて表現してよかったと思います。

 さて、「論理」の解釈の違いは、これまでの議論でお互いに了解できるのではないでしょうか。



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(12)さらに論理を追求しませんか 12月 7日(日)

 Bunkouさん、今まで言葉の解釈の違いによる行き違いがありました。言葉には社会的平均的な共通の意味がありますが、終局的にはそれを使う人によって、違いがあります。そのことをお互いに了解したうえで、「論理とは何か」という本質的な問題について議論していきましょう。

 Bunkouさんにとって、論理とは「筋道」であり、しかもその筋道は絶対的にではないにしても「正しい(実証性のある)ものである」という前提のようです。つまり、「論理」ないし「筋道」とは、「実証性」を含むものと考えられているようです。実社会(法廷など)でつかわれる「論理」、ということで「推理」や「論証」をあげておられます。これらはきちんと証拠立て実証的に説明することのできるものです。「論証」という言葉は、論理性と実証性をあわせている用語で、Bunkouさんの立場です。しかし、私が問題にしている「論理」とは実証性を含まない単なる「思考の形式・法則」と解釈して使用しています。だから「妄想」(間違った想い・考え)も「夢想」(夢のような想い・考え)も論理を含むことになります。

 さて、Bunkouさんや西洋思想の(または比喩的な)立場では、「論理」とは、論証であり、事物間の法則性を解明すること、ないし法則性そのものという『広辞苑』ABの解釈が根底にあます。そのことを批判することは、言語批判や新たな認識論・存在論の確立をもたらすというのが私の主張なのです。ところで、西洋思想史上では、論理やそれによって成立する観念が優先するデカルトやカント・ヘーゲル等の観念論の立場がありました。しかし、今日のような科学の時代の哲学は、「論理実証主義」という立場が常識的なものと考えられています。哲学的には、論理と実証は区別されるべき(『広辞苑』の@C)なので、自然現象そのものを「論理構造」とする表現は厳密なものではないとと考えます。人間が認識・思考し、創造した理論や知識以前の対象それ自体(自然現象)に「論理構造がある」と表現するのは、ともすると見過ごしがちですが、自然現象それ自体には使用できない、というのが私の立場です。このことは「立場の違い」「解釈の違い」で、当面は放置することができます。

 しかし、「論理が間違いを許容しない」という立場は、本来の「論理」の意味を変えてしまいます。これは『広辞苑』ABの立場であるとしても、「論理」における実証性を過大に評価することになり、、自己正当化に使用される危険性をもちます。「理屈が通れば正しい」、「矛盾がなければ正当化される」ともなりかねません。ちなみに「矛盾」という中国の故事(何でも通す矛と、何も通さない盾の存在)が、論理的には(つまり実証的には)あり得ないのですが、「矛盾の論理」として存在するのです。また宇宙創生のビッグバン理論は、ある程度の実証性を前提としますが、仮説の論理にとどまります。それどころかこの理論はビッグバン以前の論理を拒否する危険性をもっています。論理的であることは必ずしも真理性を意味しないのです。真理の探究にとって、論理は必要条件でありますが、実証性が伴ってはじめて必要十分条件となります。Bunkouさんの「論理が『間違いを排除する』性質をもっている」ということは正しいのですが、逆に「論理が間違いを隠蔽する」性質をもっていると思われませんか。「理屈(論理・筋道)と膏薬はどこにでもくっつく」というのが真理ではないでしょうか。

 さて、立場の違いを保留して、「論理」から実証性(真理性)を切り離し、「論理とは何か」を科学的実証的に解明することが、問題の本質の解明に必要だと思うのですが、いかがでしょうか。つまり、論理や筋道は、自然や社会現象そのものにあるから、それを人間が認識して理論化しているにすぎない、そしてその認識の結果である理論や知識は、自然や社会現象の反映である、と考えるのか(反映論)。そうではなく、論理や筋道すなわち人間の認識の結果としての理論や知識は、自然や社会を人間主体の言語的認識能力に基づいて認識し再構成・創造したものである、と考えるのか(再構成・創造論)。もちろん後者が私の説で、前者はおそらくBunkouさんや教養ある思想家の立場です。私は、論理や筋道は対象それ自体に根拠があるとしても、終局的には人間の創造物であると考えています。次回にその説明をしますが、重ねて批判をいただければうれしく思います。

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(13)言語をこえるために 12月14日(日)   命題・論理・疑問の解明→主語・述語(目的語)

 Bunkouさん、解釈の違いや誤解は避けられないものだなと改めて感じます。
しかし、議論が続けられる限り、真実を追究しようとする限り、違いや誤解は少なくできると思います。この点では意見の一致があると信じています。

 さて、ご指摘のように先の文中の「論証」は、論理的な証明であって、実証性を必ず含むというのは誤りです。Bunkouさんが「実社会(法廷)」で使用されている例をあげておられたので、証拠第一主義の立場から実証性を加味して使われているものと理解して説明しました。明らかに「論証=論理性と実証性」は、「論証」が常に実証性を含むとは限らないので誤りです。「法廷での論証」と条件を付けるべきでした。しかし『広辞苑』では、「論証は確実と認められる真理(論証ずみの命題、公理・公準など)、または経験的な事実によって与えられた論拠を前提として、提題を結論とする推理である・・・。」とあり、「法廷での論証」は、後者の実証性を前提としているので、私の誤解が誤りとは言えません。

 次に「論理」についてです。"「論理」という道具は、「矛盾(間違い)を排除する」という機能を持っている。"というのは、「論理」に「実証性」が加えられてはじめて成立します。論理的であること、筋道立てて考えることは、必ずしも「矛盾(間違い)を排除する」ことにはなりません。論理自体は価値中立的で、矛盾を排除するのは「人間の良識(正義の感覚)と実証性」です。もちろん「夢想や妄想」も論理を使用します。「矛盾」という中国の故事も、現実に実証し得ない世界(死後の世界――天国や地獄)も論理によって構築されています。これらは私にとっては「夢想や妄想」の類です。「論理」は確かに道具ですが、道具は価値中立的です。つまり正しく使えば真実の探求に使えますが、誤って使うと虚偽の世界を作ってしまいます。論理の使い方によっては、矛盾(間違い)を、矛盾でないように言いくるめることもできます。一般に、道具は手段であり、それを用いる人によって善にもなり、悪にもなります。論理は自由度の大きいもの(実はBで述べるように主語述語の関係にすぎない)であり、そうであるが故に、正しく、できれば(法廷における論証のように)実証的に用いる必要があるのです。

 さて、後半の「人間存在論」については、当たらずしも遠からずで、Bunkouさんの「生命神」「自己神」という表現に共感するところがあります。人間の存在意義などの議論をしたいのですが、今回は「言語」と「論理」について、私の合理主義批判の根拠を概略的に述べておきます。

 @ まず、論理=筋道が、対象(自然現象)それ自体の構造である、という判断(認識)は、Bunkouさんをはじめとする多くの人々の前提(無意識的であるにせよ)であるのは了解しています。しかし、対象それ自体に論理=筋道があるという判断の前に、言語表現を用いない対象そのもの(「宇宙」「引力」「電磁波」「素粒子」「原子」「分子」「地球」「海・山・川」「生命」など)が存在するというのも感覚的に確認できるのではないでしょうか。また、対象それ自体(言語化すれば名詞=対象の名前となり、論理化すれば述語に対する主語・目的語になる)も、対象それ自体の運動や状態・関係(言語化すれば動詞や形容詞・助詞等となり、論理化すれば主語に対する述語や修飾語等になる)も人間の認識・判断の結果です。「生命とその運動」や「物質の引力とその働き」は、それらの事実を認識して、その「存在と構造」が解明されてはじめて、理論・法則としての知識となります。例えば、「地動説」や「万有引力の法則」が、「発見」であるか「創造」であるかという議論をしましたが、両者を対立させるのはよくありません。私の論法では「発見」とは「事実の発見」であり、創造とはそれを理論(知識)として論理化したものです。私の論法によると、「法則」とは、対象の事実を人間の認識(観測)によって発見し、言語的に再構成され創造され論理化したもの、つまり自然の一面(ある部分・階層・次元)である地球の運動や物質間の関係に問題意識をもちその関連性(法則性)を発見し、「地動説」や「万有引力」として再構成(論理化)したもの、となります。

 さらに単純化すると、対象に対する知識(法則)や観念(「ビッグバン」、「ブラックホール」、「生命」、「細胞」などのように言語的に表現したもの)は、人間が認識(観測・発見)して創造した(自然から切り取り主語述語化した)ものであり、直接「今ここで」知覚(観測)しうるものだけが確実な対象(自然)そのものです。つまり、知識・観念として自然の一部を言語的に(頭脳の中に)構成したもの(イメージ、記憶を含む)は、全て創造物ということになります。人間は、共通の知識を得ようとしますが、共に知覚しているときだけある程度共通なのです。人間は、共通性を得ようとして、対象を言語化(例えば「ビッグバン」「地球」「生命」など無限に)したり、数式や図形、さらには写真や映像で表現しようとします。しかし、加工し再構成したもの(写真や映像は共通性を得るには有効ですが再構成したものです)は、必ず個性(違い)が出てきます。

 われわれは、実証的に認識し創造した知識を、共有しうる科学的真理としていますが、それらは社会的には平均的なものなのです。万人に認められている万有引力でさえ、ミクロとマクロの世界では確定的に捉えることはできず、個人の理解度には違いがあります。このような観点からすると、知識を究極的に絶対化するあらゆる試みは危険なものです。知識の絶対化は、その知識を獲得し、創造した個人に限ってのみ有効です。それぞれの人間は、その個々人が信じるところに従ってのみ、生きています(従って、自己神という考え方はは正しいということになります)。だからこそ、社会的である人間は、共通理解(一般的知識)を不断に求め誤解を避ける努力が必要になります。

 A 次に、絶対的なもの、確実なものとしては、個々人に直接知覚(観測)できるものに限られると述べましたが、知覚するのは我々の感覚です。究極に確実なものは個々人の感覚です。我々は何を日常に知覚しているでしょう。光、音、臭い、温度、湿度、味、その他の物質を知覚しますが、それらは全て生命にとっての環境であり多様な刺激です。生きるとは、化学反応としての生命状態を持続させるために、このような外界の刺激に反応し適応することです。生命は、多様な環境に応じて、様々の生存形態をもちますが、刺激反応性と個体の恒常性維持が究極の原理です。動物は、多様な環境に応じて行動することによって,種における適応を繰り返し、神経細胞を発達させ、記憶による学習機能を身につけました。さらに人間は、直立歩行によって大脳を発達させ、言語を獲得することによって単なる刺激反応性を克服し、自らの大脳に、自らの世界――創造的知的世界を作りました。知識すなわち言語的に構成された世界は、人間だけが社会的共同性の中で獲得し創造した世界なのです。人間は、世界(自然だけでなく想像的世界を含めて)を言語化(論理化、知識化)することによって生きる動物なのです。西洋的合理主義は、人間自らが自分自身と世界を言語的に合理化しながら、そのことに気づかないで、言語的世界を創造し(それが文化であり文明なのですが)それを絶対化して、生命自体の本質を見失わせているのです。

 B さて、論理=筋道とは何か、という基本的な問題に対して端的に言えば、主語と述語(目的語を含む)の関係である、というのが私の答です。これは『広辞苑』の「論理」の意味の全て(@〜C)に当てはまります。自然そのものに論理があるとするABの立場でも、論理構造は必ず主語述語で表現されます。記号でも図形でも、主語(対象)と述語(状態)がなければ、意味自体が成立しません。主語とは「何がwhat」の答であり、述語とは「どのようにhow」の答です。これは生命(動物)の行動様式でいえば「刺激反応性」そのものです。つまり、論理は生物学的(行動論的)起源をもち、まずは、個体の生存行動を決定する論理(どのような刺激に対してどのように行動するか)として生じ、それが対象そのものがどうあるかという論理(何がどうあるか)を創造することに発展します。

 例えば、「地動説」の論理は、「地球が太陽の周りをまわる」という事実を理論化したものです。ここで地球と太陽が対象として確定され、地球が動くことと、その軌道が太陽の周囲であること(つまり両者の関係)が確定されます。論理は5W1Hを基本として、対象の状態(質・量)や因果関係、空間や時間への位置づけなど、様々の疑問に答える形で成立します。そして、どのような問題意識をもち、それを「どのように論理的に構成するか」を考えれば、論理構造は自然それ自体ではなく、その一部(一面)を取り出したものであり、論理化の結果としての知識(論理的構成物)は人間の創造物であると言えないでしょうか。論理や筋道は、欲求や関心にもとづく問題意識を解明する(無意識的な場合が多いのですが)ことによってはじめて創造的に成立するものなのです。

 以上が、論理や筋道は、対象それ自体にあるものではないという私の概略的な説明です。 それでも「論理や筋道は、対象それ自体にある。科学はその筋道=真理を求めている。」と主張されるのは当面は了解できます。しかし「新しい宗教」「新しい生き方」を目指されようとするなら、「言語(論理や知識)の効用と限界」を見極めておくことが必要だと思うのですがいかがでしょうか。(長くなりました。前回のご指摘については次回に述べさせていだきます。よろしくご了解ください。)

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(14)論理から宗教へ 12月22日(月)

 Bunkouさん、いつものように的確な整理をしていただいて、私自身にもわかりやすくなりました。「論理」という概念については解釈の差がありますが,科学的認識の方法については、両者ともに論理実証主義の立場なので、見解の相違は大きくないと思います。

 問題は「法則」や「科学的知識」をどのように捉えるか、というところにあります。私は単純でありたいし誰にもわかってほしいと思いますが、一般的に「知識とは何か」という問題は、「論理とは何か」と同様に、残念ながら「常識」が確立していません。前回の説明のように、私の見解では、「知識や論理」は「生物学的起源」をもち、言語的な疑問の形式(5W1H)を解明した結果としての創造物であり、基本的には「主語・述語(・目的語)」で表現される、というものです。この点は単純な事実ですが、「刺激反応性(今、ここで)と言語(知識)の役割」や「文法(論理構造)の意味」についてもっと説明が必要かも知れません。どうも掲示板では限界があります。

 さて、指摘されているように、私の「論理」解釈が「自由度が大きくなりすぎ、問題解決への効果が薄い」また「恣意的だ」というのは「なるほど、そうみえるかも」と納得しています。しかし、私は「論理」について言語論から論理的に説明しようとしていますので、その単純性や無矛盾性は理解してもらえると思っています。言語は単なる思考や伝達の手段だけでなく、感情や行動に働きかけ、個人に固有の世界を作り、自己の存在を世界の中に位置づけ合理化する働きをもちます。

 私は、個々人が使っている言語について省察することが、自己自身(人間自身)の存在理解につながると考えるので、どうしても議論をその方向に向けようとしています。日常的な言語使用(科学的使用ばかりでなく)が、人間の感情や行動にどのような影響を与えているかを知ることは、今日のように言語(思想)が混乱している時代において特に重要です。言語を正しく使うことは、人間理解を深め、人間性を豊かにしていくものです。ところが過去の哲学や宗教が、正しい言語(思想や行動)をめざしながら、時代遅れになっていることに危機感を持っています。とくに宗教(仏教やキリスト教など)は、かつては人生苦の由来を説明し、その克服の援助(祈りや修行)を行い、人間の生涯を意味づけるものでした。しかし今日では、多くの人々にとって誕生や結婚、葬式など人生の節目の儀式の中でわずかに存在意義をもっているだけです。

 そこで以上のような問題の解決に、言語論から根本的に「論理」や「知識」を捉え直すことが必要になります。言語は人間の本質です。私は、言語論を革新することによって、過去の哲学や宗教上の見解を、現代的に改変できると考えています。哲学のめざす「人間の存在理由の解明」や、宗教における「人生苦の緩和や解消」「幸福の追求」は、自己(人間)自身の言語の自覚によって、過去の言語(思想や教義)を超えるところではじめて可能となります。そしてその場合の「論理」「言語」「知識」は、「生物的影響力を排除」するものではなくコントロールするものであると思います。おそらくBunkouさんの「単純教」の試みも科学的生命論を背景に、価値観が混乱しストレスの多い現代社会への新しい生き方を提案されているのではないでしょうか。

・神が存在しないのなら、神は人が作り出した概念ということになります。
 神は、どのようにして作り出されたのでしょうか?
・神が実在しない今、「神のシステム」は忘れ去られようとしています。
 「神のシステム」を失い、人は道に迷い始めています。
 神に替わるものが必要とされます。
・人は意識を持ち、自己の存在を明確に区別しています。
 意識野は、言語を使用して、思考します
・自己神は秩序を尊重します。生きることが、秩序を形成すること、そのもの だからです。―――――以上の提言は、私の言語論によってさらに説明が可能です。次回にまとめますので、多少のコメントをお願いします。


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(15)言語から言葉と宗教へ 12月28日(日)

Bunkouさん、「言語と論理の関係」についてさらに議論を進めていただき、うれしく思います。「論理」の解釈については、Bunkouさんは自由度が小さく、私は自由度が大きいという以前の指摘はその通りです。今回のBunkouさんの具体的な考察はとても参考になります。
 「論理」の意味と言語との関係をどのように捉えるかは、具体的論証によってのみ解明されると思います。私はあくまで「論理は言語の創造物である」と考えますが、Bunkouさんの立場(『先に「論理」思考があったから、「言語」が発生出来た』)で言語発生の論理(原理)を説明することもできます。

 例えば私のHPの例で、目の前にトラが出現したとき、サルでもヒトでもトラの存在(対象―名詞、主語)を確認し、トラがどのような状態(述部―動詞、形容詞、副詞など)にあるか、さらにそれに対して、サルやヒトはどのような行動をするか(逃げるか、隠れるか、戦う!か)を決めます。これはサルでもヒトでも共通する「認識と行動の論理(原理)」です。しかし、その過程はヒトだけが言語記号化して、思考し表現できるのです。これはヒトによる「対象とその状態の言語化の論理(原理)」と呼べるでしょう。私の「論理」によると、これら二つはまとめて「言語発生の論理」ということになり、Bunkouさんの言われる「先に論理(認識・行動と言語化の論理)があって、言語が発生した」ということになります。

 しかし、以上の論証の過程を、「私の論理」で説明すると、これらの「論理」は「言語による創造物」または「言語発生の論理は、先に言語があってはじめて成立する」ということになります。トラに対するサルやヒトの認識と行動の論理自体は、私が言語的に再構成して創造したものです。そして私はこれを正しいと確信しています。多くの人が同意してくれることを期待しています。たとえ重力の法則という「論理」であっても、言語によって構成された知識(論理、法則、原理)はそのように納得と同意を得てはじめて価値あるものとなるのです(今日では論理と実証はそのための必要十分条件です)。

 多くの人は現在までに獲得し疑いをもたない自分の知識や信念を放棄することを拒みます。それはその人の人生そのもの、存在理由そのものだからです。そしてそれは決して悪いことでも恥ずべきことでもなく、ごく自然なことなのです。我々人間は、個々の人間が築いたその人独自の世界に生きているのです。独自の世界が社会の共通性を逸脱すると、反道徳や犯罪・狂気扱いされてしまいます。だからこそ社会の平和と福祉を維持するために、道徳的な相互理解を追求していくことが必要なのです。そしてそのために、人間の本質である(と私が考えている)言語についての根源的な解明と反省が不可欠なのです。

 言語は人間にとって空気のようなものです。しかし言語は記号としては空気のように社会的共通性がありますが、その意味する内容はその人の欲求や思索や経験に応じて異なります。反面、我々は言語の中に人間として共通のもの(習慣や伝統、共通の文化や科学的知識等)を多くもっています。共通のものを増やすことによって、さらに理解し合えます。そして、そのためにこそ、相互理解の手段でもある言語について十分な吟味が必要なのです。人間の本質である言語を根源的に知らなければ、言語による呼びかけは、限られた集団内にだけ通用する空虚なものに終わるでしょう。しかし、逆に言語についての、つまり人間についての共通の理解があれば、それを出発点として人間同士の相互不信を最小限にすることができるのではないでしょうか。

 Bunkouさんは、科学技術の時代、宇宙の時代、地球の時代の新しい生き方(生命性と自己性の自覚)を提案されているのだと思います。それは価値の混乱している今の時代に、とても必要なことです。しかし、科学を生み出した西洋合理主義の発想が限界に達しており、その慢心を超克することなしには地球生命の未来は暗澹たるものになります。少なくともあと一万年は現在の地球の平衡状態の中で生き続けるという希望があれば、当面は安心して生活できます。人間は当面の安心があれば、もう少し穏やかに自分を律し、人間関係をもう少しよくできるのではないでしょうか。

 今の時代の根源には、西洋的ユダヤ的思考がもたらしている虚無主義(ニヒリズム)があります。欲望の肥大化を肯定的に見るのは、自然を人間の知識の支配下におこうとする西洋的合理主義の発想そのものです。Bunkouさんの指摘されるように、人間は神を創りました。その意味は、世界を言語によって合理化しようとする人間の本質に由来します。根本原因としての主語=神があり、結果としての世界と人間の状態があります。

 しかし東洋思想とりわけ仏教は、根本原因としての主語を神としませんでした。ユダヤ・キリスト教は人間苦の根本原因を神との契約違反である原罪にありとしました。仏陀は苦しみの根本原因を十二因縁によって説明し、「無明(根本無知)」をそれであるとしました。仏教では永遠の幸福(悟り・涅槃)は、神に依存することではなく、八正道を実践することにあるとしました(後に大乗の思想では方便として仏への帰依も説かれましたが)。キリスト教は救いの宗教であり、仏教は智恵の宗教です。

 Bunkouさんはもちろん後者を目指しておられます。私はBunkouさんの目標を支持する立場から議論ができればうれしく思います。私自身は仏教思想を科学的知識によって再構成できないかと考えています。そのために(!?)論理から言語への飛躍が必要だと思うのですがどうでしょうか。

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(16)仏教の再生をめざしませんか  1月 5日(月)

 Bunkouさん、明けましておめでとうございます。新年も続けて質問していただけることを感謝します。実は今のところ私のような考えは孤立しており、親しい友人でさえ本気で考え質問してくれるのは少ないのです。現代の知的倫理的危機状態を感じ、同じような問題意識を持つ人間は極めて少数派です。多くの人は漠然とした不安を感じながらも現状に安住しているのが実態ではないでしょうか。

 さて、ご質問の件ですが,@について「価値あるものになる」の価値は《社会的価値》として認められるという意味です。もちろん「多数決」という意味ではありません。しかし、アメリカの一部の州の学校における「進化論」の取り扱いや、日本の教科書における「ビッグバン」の記述は、「多数決」で決められています。また「知識とは何か」という問自体が価値あるものとされていません。さらに国によっては「神はいない」ということ自体、知識としては認められていません。特定の個人が価値あるものとみなすことと、それを他の人が価値あることとみなすのは別のことなのです。

 Aについて、「西洋人が自己欲望中心的である」と言おうとしたのでなく、自己の欲望を実現するための「知識(思考)体系」が、自然(対象)支配的であるというものです。西洋人も東洋人も、自然を支配し文化を創造してきたのは人間の特性です。しかし西洋的思考様式は、ギリシアにおいては、自然や人間そのものを対象化(主客分離)しますし、『旧約聖書』の創世記においては、神は自然支配を奨励します。思想的に西洋は物心分離であり、東洋は物心一如なのです。

 もちろん現代の西洋社会は、アメリカや日本よりも環境問題・自然との調和に対する意識が進んでいることは承知しています。これは科学的・合理主義的な反省の結果であり、人権思想や民主主義と共に西洋思想の優れた結果です。しかし、問題は西洋思想の限界性についての自覚が乏しいということです。もし哲学や宗教が人間存在の根源に迫るものであるなら(そのような問題意識のもとに議論したいのですが)、単に西洋的合理主義の現代的到達点であるプラグマティズムや功利主義で、今日的問題に対応できるものではないというのが私の考えです。

 プラグマティズムは、「神」の存在は実用的価値があるから有用であると考えますし、功利主義は社会の最大幸福を追求します。おそらくBunkouさんは、科学的合理主義の立場から神を否定し、東洋的な感性で人間存在と人間関係を新たに構築しようとされる理想的なプラグマティスト・功利主義者ではないでしょうか。私はそれだけでは納得いかずに、さらに言語論から人間の認識と行動の原理を問い直すことによって、西洋思想そのものの根底的限界を批判しようとしています。Bunkouさんの思想に共感しつつも議論を続けたいのは、このような私の立場を理解していただきたいからなのです。

 次にBの仏教について少しだけ触れておきます。
 仏教は、ゴータマ=ブッダのオリジナルな思想(原始仏教)と後世の大乗仏教の思想に大きく分かれることはご承知のとおりです。ブッダの思想の根本は整然とした体系で、一般に「中道・四諦・八正道」で説明されます。大乗ではさらに「空観」や「菩薩信仰」が加えられ、神秘性が増しました。両者共通に求めるものは「苦からの解放(解脱)」ですが、前者はこれを出家による自力修行で行い、後者は在家の衆生を救う他力信仰です。私は、科学的合理主義の時代に、非科学的な要素の多い仏教に対して批判するのは当然であると思います。しかし、仏教の目指す「解脱」の分析とその方法は、今日でも科学的批判に耐える内容が含まれています。

 例えば、よく知られている『般若心経』(玄奘訳)の中の「照見五蘊皆空、度一切苦厄」というのは、「五蘊」すなわち現象(色)と精神作用(受想行色)は空であると認識することによって、すべての苦厄を取り除くという意味です。これは空の認識(現象を空とみなすこと―色即是空)が、対象への欲求を断ち切る(諦める)ことによって解脱を導くことを説いています。「色即是空」とは、Bunkouさんの言われる一種の「諦念」に導くための論理なのです。苦しみ(ストレスもその一種)を克服する(解脱)ための方便を説いているのです。
 たしかに、大乗の思想は、神秘性を増していますが、本来解脱とは、死んで得るものではなく、現象の誘惑と欲望に負けることなく、生きることの喜びを見いだすことなのです。また、苦の根本原因が、無明(根本無知)にあるというのも、無明を克服する知識(教義)が、苦しみからの解放の条件となることを示し、知識の意味を分析しています。

 人生にとっての正しい根本知識を獲得すること、これは仏教の根本教義であると共に、今日においても人間の幸福にとって必要なことではないでしょうか。仏教は再生する価値のある宗教だと思いますが、いかがでしょうか。


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(17)やはり言葉にこだわります  1月14日(水)01時39分8秒

 Bunkouさん、いささか大それた提案をしたために迷惑をかけたようです。私のHPが難解であるのは、誰からも言われるのでよく自覚しています。わかりやすいものが必要と考えているのですが、生活の糧を得る仕事と『後編』の執筆に忙しく、あと数年はかかると思っています。今はBunkouさんとの議論がとても有意義で、私の考えをまとめるのに役立たせてもらっています。

 ところで、いかに過去の難解そうな理論(実証性の不十分な非科学的な理論)であっても、体系的に整理されている理論の基本的な発想(観点、原則)は、案外単純なものです。ただ、西洋現代哲学の多く(実存哲学、現象学の系譜)は、「言語問題」で暗礁に乗り上げているため、中途半端でわかりにくいです。とりわけ「言語」に対して実証性」を欠く理論は、学ぶだけ時間の無駄です。それらの哲学的著作が、「木を見て森を見ず」というのは、言われるとおりです。私自身は、それでも批判の価値はあるだろうと、フッサール、ハイデガーなどを読んで、西洋思想の根底的批判の必要性に行き着いたわけです。そしてそのことが私のHPを難解にしています。

 理論の単純性、明晰性は、人々に理解してもらうには絶対必要条件です。私の場合、「生命論」と「言語論」をもっとわかりやすくすることが必要と思っています。しかし生命論はまだしも、言語論は哲学上の認識論、存在論、知識論と関係が深く、人間存在の根源に関わる問題だけに、単に「言語は、適応的な認識と行動のための生命の創造物である」と述べても、すぐに「なるほど」とならないことも事実です。その上に私は「生命論(欲求と感情)と言語論をもとにした新たな倫理観」を見いだそうとしています。欲求や感情を含む生命論と、そこから帰結する幸福論については、Bunkouさんの「単純教」と共通する面があると思います。

 さて、言語論ですが、以下のようなデッサンを考えてみました。多くの説明が必要と思いますが、「言葉をもつ生命」としての人間が、サルやロボットにない創造性をもち、生命としての使命感をもつべきという考えの一端を示しています。ご批判をいただけたらと思います。

<客観的知識として>
 @人間の本質は、進化の過程において生命が言語を獲得したことにある。
 A言語は、生命(動物)の認識(認知)と行動に、刺激反応性を超える力を与え、人間の文化を創造する根本的要因になった。
 B言語的認識の本質は、対象の言語化と言語的再構成(創造)である。
 C言語的再構成は、対象(主語)の状態(述語)とその関係性(目的語)の記述であり、知識の根源となる。
 D言語的行動の本質は、言語的に再構成(合理化)された世界(知識)にもとづく反応(感情)・行動である。
 (以上のから、以下の倫理的知識を提案します。)

<倫理的知識として>
 @人間は「言語をもつ生命」として、個体と種族の維持をめざす動物的本能的欲求をもつとともに、これらを言語的人間的に理論化する存在である。
 C人間は、自己の存在の合理化において、すべての生命状態の維持・存続をはかることを自覚し、理性的判断の基準としなければならない。つまり「言語をもつ生命」としてふさわしい知識(言葉)を創造し、それにもとづいて行動しなければならない

 ※これはかなり抽象的なので、追加すると、「言語をもつ生命」としての人間は、「生命の存在意義」を実現するものとして言語を使用しなければならないということです。通常人間は、自己の欲求を実現するために無自覚的に言語を使用していますが、「言語をもつ生命」として自覚した人間は、言語を使用することに慎重とならざるをえないのではないでしょうか(悪用もあるでしょおうが)。もちろん教育と社会のシステムの改善が必要となります。それによって生命(欲求、感情)と言語(認識、行動)への自覚が生まれ、言語を用いる自己と他者の人間性への理解も深まるでしょう。

 「言葉を大切にしなさい。」「言葉を理解しなさい。」「言葉の意味を感じなさい。」「言葉はあなた自身の命と経験のすべてです。」「私。」「あなた。」「お母さん。」「お父さん。」「好きです。」「嫌です。」「何がどうしたのですか。」「しっかりしなさい。」「よく見て生きるのです」・・・・すべての言葉(たとえ数字の暗唱であっても)は、それを表現する人間の命と経験を含んでいます。
 多くなりますが、次に「単純教」の言葉についてコメントさせてください。

・「神が存在しないのなら、神は人が作り出した概念ということになります。
 神は、どのようにして作り出されたのでしょうか?
 :動物は細菌から高等動物に到るまで、常に環境の多様な刺激を受け、その刺激を知覚・認識し、最も適応的な反応を判断・選択しようとします。その意味で「何がどのような状態にあり、どう反応するか」又は「何がどのように存在し、どう行動するか」は、全ての動物に共通の認識と行動の原理(論理)であり課題です。さて人間はこの課題(問題状況)を言語的に解決しようとします。つまり、「何がwhat、どのようにhowあるか」という問と、その問に対する答としての「主語・述語の関係」は、生命存在の根源的な在り方(原理)なのです。 主語・述語の関係は、刺激の対象(名詞)が多い場合、対象間の関係(主語と目的語)を含みます。「トラが人間を襲う」という表現には、すでに原因と結果の関係(因果関係)が含まれています。この関係は視覚の発達した動物の認識の構造(空間認識)にはすでに含まれています。しかし、人間にのみ明示される疑問があります。それは「なぜwhy」という疑問と「時間認識」です。「なぜ」という疑問は「なぜ雨が降るのか」「なぜ人間は死ぬのか」など、自然や人間存在の根源に対する疑問につながります。

 哲学の根源は、この「なぜ」という疑問を追求することでもあります。「神」の創造は政治権力の合理化という側面もありますが、より根源的には「なぜ」に対する一つの解答です。人間は、自己の存在の不安や苦しみ(不条理性)を和らげ解消するために、不条理を解明合理化し、それを克服できる宗教や絶対者(神)を創りました。人間は言葉を獲得したがために、「なぜ」を解明せざるを得ないのです。従って神は、「自然を理解するために」というよりも、自然を合理化するために人間が創り、権力者は自己の存在と権威の根拠を神に求めたのです。

 宗教の意義は、人間存在の不条理性に対し、「なぜ」をもはや考えさせないこと、つまり、一つの教義(思想、知識、世界観)に対する「信仰」「帰依」「絶対服従」による安心の確保です。「信じるものは救われる」というのは宗教の根幹なのです。では、過去の宗教において、科学の時代の今日でも信仰するに値するものはあるのか。価値観が混乱し、不安が増大している現代社会において「信仰」するに値する思想はあるのか。残念ながら「否」と答えざるを得ないでしょう。
 ではどうすればいいのか。私はやはり根源を追求すること、人間を人間たらしめている言語(思想・知識)と人間が究極に求める幸福(安心・充足)の本質を究明することが必要であると考えています。言語にこだわる意味をわかっていただけるでしょうか。


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(18)まとめてみました : 1月25日(日)

 Bunkouさん、ものごとの根源にこだわられるのは当然のことです。私が言語と論理の関係を曖昧にしたのは、まず「言語とは何か」をどのように考えているかを説明すれば理解していただけるだろうと考えたからです。しかし説明が不十分であったと反省しています。そこで今までの私の主張を4点にまとめてみました。

@論理と論理構造は別の次元の問題である。
A宇宙のすべてを論理構造である(と認識できる)とは断定できない。
B論理構造がある(と認識する)といっても、それは終局的には人間の言語的思考の産物にすぎない。
C言語は、論理としてだけでなく、人間の認識と行動に直接関係している。


 まず@について。古代ギリシアではロゴス(広義の論理)は、言語と存在が一体のものと考えられていました。「初めにロゴス(言葉・実在・論理)ありき」というのがそれです。しかしプラトンは、一方で永遠不変のイデア(言語的理想)を想定しながら、他方で言語をイデアから分離して研究しました(『クラテロス』)。またアリストテレスは『形而上学』において言語的構成(論理)の根源(主語の原因)に神を想定しました。それ以来西洋思想上では、言語と論理と論理構造(実在と考えていた)の関連は、認識論・存在論や論理学の中で混乱を極めてきました。経験論の中心人物であったロックは、言語問題の解決が哲学上のすべての問題を解決すると予言しています。
 しかし今日に至るも哲学的には言語は闇の中です。その理由は、西洋的思考様式が、言語記号によって成立する「論理」と言語的思考(構成)によって認識された結果としての「論理構造」(実在・物自体についての知識)を混同していること、また後者の論理構造(知識)自体を実在と誤って理解していることによります。論理構造として理解された内容は、今日でも比喩的に実在とされますが、あくまでも言語的認識の結果なのです。言語の解明が論理の解明に優先するのです。

 A論理の問題は、この宇宙の根源に対する見解の相違から生じるので完全な合意をうるのは困難です。つまり Bunkouさんは観測技術が進めば宇宙の論理構造を解明できるとされますし、私は観測(光・電磁波)の限界に到達するとしています。現時点ではマクロの次元では結論が出ていませんが、限界が明らかになると思います。論理構造は対象を確定せずに構築することができません。例えばビッグバン理論では、ビッグバンの原因やその前の状態を想定できません。もはや数学的推論を用いた論理構造には限界があるのです。

 B未解明の論理構造の存在(ある)を判断するのは人間の言語的思考(構想力)であり、言語の解明が、論理の解明に優先します。例えば、ある人が「論理構造がある」と言った時点で、そのこと自体が言語的判断ですし、「万有引力の法則」は、引力や重力の定義を必要とし、さらに質量やエネルギーの定義も必要となります。言語による対象の指示と意味内容の規定は、論理以前の困難さも含んでいるのです。論理は対象の言語的意味規定が行われてはじめて成立するものなのです。

 Cについては、どのように世界を認識し、自らを世界の中に位置づけるか、という倫理的道徳的な問題は、言語的な背景をもつということです。人間は世界を言語的に秩序づけ、行動します。言語は単なる意思伝達の手段ではありません。言語的に構成された世界が、その人間そのものなのです。その人の言語内容とは、その人の世界観・人生観そのものです。人間の行動と感情の多くは、自分自身の隠された言葉(内言)によってコントロールされています。人間の言語を理解することは人間を理解することであり、個人の言語を理解することはその個人を理解することなのです。この場合、「論理的に考えよう、行動しよう」のように、論理は言語的認識と行動に明晰性を与える条件にすぎないのです。

 以上が一応のまとめです。私の世界や宇宙に対する認識は、究極的には宇宙にとっての人間存在は卑小なものである、しかしその与えられた特殊な条件の中で、すべての個々人が充足しながら生き続けなければならない、ということに尽きます。人間の認識には観測技術がいかに進歩しても限界があり、まずは今この時点(21世紀の地球環境)における諸問題の解決が必要であると考えています。現在の地球の状態を一万年は続けようという目標を持てば、人間はもっと冷静に理性的に現状の改善を目指せるのではないでしょうか。私は孔子が「怪力・乱神を語らず」現実主義的な改革を目指したことに共感しています。 論理を言語に優先させることは、自己の論理を自己の言語的判断(にすぎないのに)に優先させ、ビッグバン理論のような数学的推論(仮説)を優先させることにつながります。従って、Bunkouさんが言われるような「言語というのは漠然としていて個人差が生まれすぎ重視できない」という心配はむしろ危険なものだとおもいます。むしろ言語について、さらに合意を追求すべきであるし、今まで明晰に論理的にその有効性や限界性を把握できなかったことに問題があるのではないでしょうか。まず認識主体としての観測者がいて、言語(と数学)を使って時間と空間の判断基準を作り、論理的法則的に世界を再構成してきたのが科学の歴史だと思います。その場合に神の創造した論理構造の解明という背景が科学的探求を推進したのは事実ですが、現代はもうそのような虚構は必要ありません。生命としての人間主体が言語的認識によってどのように世界を構成しうるかが問われるべきであり、仮説性と限界性、そして反論がもっと重視されるべきだと思います。

 追伸 私のHPに無断でBunkouさんの「単純教」をリンクしました。Bunkouさんの指摘から刺激を受けて、私のHPに不足しているものを補えると思い感謝しています。ご了解ください。経営論・組織論も参考になりますので、是非再掲してください。


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(19)言語と論理の補足   2月 1日(日)

 Bunkouさん、いつものように明快なご指摘をいただきありがとうございます。人間の「認識や存在」に関して「言語」がどのような関連をもっているのか、容易に理解しがたいのは西洋思想上においても未だに解決していない難問だからです。言語が人間の思考や認識(さらに行動)にとってどのような意味をもっているのか。論理や知識(命題)とは人間にとって何であるのか。アカデミックの世界ではまだ解明されていません。  

 さてその中でBunkouさんは、「論理」についてこだわっておられます。私の説明が漠然として捉えがたいと思われるのは、上にあげたような思想史上の諸課題の中に、広く「論理」を位置づけて説明しようとしているからだと思います。そこで「論理」に絞って説明します。論理の意味については前に『広辞苑』の定義で説明したように(12月1日付)、Bunkouさんの場合は常にB番目の比喩的な意味に固執されています。つまり論理は「事物間の法則的なつながり」であり、「論理」は「思索の範囲を越えた筋道の意味が強い」とされています。
 しかしここで考えてほしいのは、「事物・対象・物自体の存在と、それをどのように認識・判断・思考・構成するのかは別の問題である」ということです。一番わかりやすいのは、Bunkouさんの次の例示です。

<リンゴは「人の主体」に関係なく存在します。「論理」も人の思索がなければ認識できませんが、しかし「人の主体」に関係なく存在するのではないでしょうか?>

 リンゴが「人の主体」に関係なく「存在する」というのは「ほぼ」正しいのですが、「論理」は「人の主体」に関係してのみ存在します。というのも「論理」は必ず「主語・述語」の形式をとるからです。リンゴは認識主体に関係なく存在しますが、リンゴの存在の仕方(論理―何がどのようにあるか)は、認識主体の関与なしにあり得ません。万有引力の論理(法則)等についても同様です。従って「思索の範囲を越えた筋道」が「論理」であるということはあり得ません。「思索」とは言語的認識(思考・構成)であり、「筋道」とは主語・述語等の言語構成による表現ということになります。これは単純な事実と思うのですが、納得するには世界観の転換が必要だと思います。

 なお「ほぼ正しい」というのは、「存在する」は人の言語的判断ですから「人の主体」と関係しているのです。言語は人間にとって空気のようなものですから、言語表現をする限り人間の主体(認識・判断)と関係してくるのです。だから言語の漠然性は避けようがないのです。西洋哲学は言語の明晰性を追求してきました。しかし言語は社会的平均的な意味しかもちえないですし、また究極の意味は個人の経験によってしか規定できないので、漠然とせざるを得ないのです。

 さて前回の私のまとめに対するBunkouさんの指摘ですが、誤解を招いたことについて表現が不十分であったと反省しています。とくに@の『論理と論理構造は別次元』というのは、『論理と論理構造と対象(事物・実在・物自体)はそれぞれ別次元』とすべきでした。誤解されているなと思うのは、次の要約です。

<大江さんの説では、(a)「人の存在下(認識下)に環境(認識可能なものごと)がある」―(b)「人の認識下に論理がある」(c)「認識下においてのみ論理構造が成立する」ということになります。>

 要約の(a)は誤解です。環境は、対象(事物・物自体)だから、私は認識に限界があるとは主張しますが、主体のもとに環境があるとは言っていません。誤解のもとは、私のまとめ@に「物自体(環境・事物・対象・実在)」を含めなかったためです。重要なのは上の「リンゴの存在」の例示と同じです。論理構造(実在・物自体の知識)とは、何がどのようにあるか(主語・述語)ということなので、「論理と論理構造」が、「人の認識下にある」というのは(b)(c)のとおりです。また、「人も環境の一部」というのはそのとおりですが、環境がどうあるかという論理構造の理解は、人間主体の認識能力や興味・関心によって異なります。

 Aについても上に説明したとおりで、論理とは主語・述語の関係なので、人の主体(人間の言語的認識形式)のもとにあります。

 Bについては、知識の定義は何かということになり、これも議論は尽きませんが、私の主張は「論理構造もまた知識である」ということになります。もちろんご指摘の経験的事実や妄想も知識に入ります。

 Cについて。言語は「リンゴの存在」には影響を与えませんが、それをどのように認識するかについては影響を与えます。そのリンゴが「甘いか」「酸っぱいか」「堅いか」「柔らかいか」等です。

 おおよそ、言語についての議論は昔から平行線を保ってきました。多少の齟齬には困惑しませんし、議論を続ける内にお互いの問題点も整理されてくると思います。重要なのは、言語について考えることが、人間と自己の存在について気づくことになるということです。多少の違いがある方が自然ですし、議論が深まるのではないかとさえ思っています。私自身も言語の論理を整理し尽くしていないという反省もあります。ただ議論の蒸し返しは、あまり生産的ではないと思いますがどうでしょうか。


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(20)思索の筋道は主語述語です  2月 9日(月)

 Bunkouさん、あなたの指摘によって論理の問題がますます明確になることをうれしく思います。私の主張の漠然としたところ、頼りなさ、判断基準への疑問等です。しかし実はこの言語の曖昧性が人間の主体性確立の眼目なのです。というのも西洋的発想においては、言語を相対化(対象化・問題化)すること自体が不安なのです。言語について考えると論理もまた相対化してつかみ所がなくなってしまうからです。

 ご指摘の通り私は、事実でない「言語表現」も論理であると考えています。論理は主語述語の表現だから幻想や妄想のように事実に基づかず、正しくない論理があるのは当然のことです。論理は思索の筋道ですが、その筋道は主語述語の関係であり、事実の観察や、統計的計量、数学的確実性とは無関係です。思索は時に事実を飛び越えて論理的結論を導き出します。ビッグバンの仮説はその例に当たると思っています。

 私たちは、「論理は思索の筋道である」という点では共通理解が得られています。そして今回、「思索の筋道」とは何かについて新たな問題提起をしていただきました。しかし、「数学的統計・集合・確率に基づいての関連」を論理であると定義することが、「当たり前の理解」とされるのは疑問があります。Bunkouさんは、おそらく事実の法則的認識を科学的論証や実証的論理として説明しようとされていると思います。いわゆる論理実証主義の立場です。前にも説明したように私は論理実証主義の立場ですが、「論理」という概念は数学的論理を含めて実証性を前提していません。論理とはあくまでも思考の筋道としての「主語述語の関係」であって、数学的正確さや実証性を重視する科学的認識方法だけが論理であると限定されているわけではありません。

 以上のことを前提した上で質問に答えます。
 (1)における@)〜H)は、私の場合すべて論理です。ただ主観的論理をすべて「論理的に正しい」というのは誤る場合があります。それが事実に合致しているかどうかが問われる場合です。しかし事実を表現しなくとも論理は論理となります。
 (2)について。"「論理構成力」が、人の言葉を「主語述語」の形にして表現させるのではないでしょうか。"とあるのは興味ある表現です。「論理構成力」は、「言語能力」と言い換えてもよいと思います。ただ、認識・表現するのは生命たる人間です。Bunkouさんの言い方を借りるなら、むしろ「論理構成能力は、<人間が>言語を通じて身につけたもの」とすることができます。
 また、言語の漠然性・曖昧性は、そうであるが故に事実を実証的に検証し、論理的に説明する必要があります。そうして初めて漠然・曖昧な論理を明晰にすることができます。「何がどのようにあるか(主語述語)」の明確化こそ、論理を確実なものとすることができるのです。私が重視したいのは、言語表現のの検証と明晰化であり、言語の曖昧性・限界性の自覚なのです
 (3)について。私にとって論理構造は、事実にもとづくものとは限りません。しかし科学的認識としての論理構造は、論理的実証的であることが必要です。私の主張の独自性は、言語の曖昧性限界性を克服し、社会的共通理解を深めるための言語理解であり、西洋思想批判なのです。そして、このような人間存在の本質である言語の理解が、人間存在や自己自身の理解につながるものと考ええています。
 「思索の筋道」については上述の通りです。数学は、私にとっては人間の思考の産物です。「1に1を加える」において、「数字1」と「加える」の定義は、公理によって人間の産物となり、対象を正確に認識し操作する手段となりました。「算数とは何か」は、哲学的に重要な問題で今後の課題です。


---------補足:以下はBunkouさんの質問です。
ふたたび論理について 投稿者:Bunkou  投稿日: 2月 6日(金)
 ふたたびいくつかの質問をさせてもらいます。
(1)大江さんは「論理は主語述語の関係である」と言われました。また「論理は思索の筋道であり、その思索は言語的認識・思考・構成であり、筋道は主語・述語などの言語構成による表現」と言われています。では@)「「リンゴが存在する」と言うのは論理でしょうか?A)「リンゴは酸っぱい」B)「リンゴが割れている」と言うのは論理でしょうか?C)「リンゴがテーブルの上にある」D)「青いリンゴは酸っぱい」E)「リンゴが床に落ちて割れている」と言う表現は論理でしょうか?大江さんは「論理構造とは何がどのようにあるか(主語・述語)」と言われていますが、上の例は「論理構造」と言えるものでしょうか?ある人はF)「リンゴは床に落ちれば、その衝撃で割れる」と言い、ある人はG)「リンゴは床に落ちたぐらいでは割れない」と言いました。これらの表現は「論理」でしょうか?「論理構造」でしょうか?二人とも「論理的に正しい」のでしょうか?H)「風が吹けば桶屋が儲かる」と言うのは「論理または論理構造」であり「論理的に正しい」のでしょうか?
(2)上の例はどれも主語述語の関係にあり、人の言語的認識による表現です。人の言語的表現は必ず「主語・述語」の形になります。その形にならなければ他者に意味が伝わらないからです。「主語・述語」の形が「論理」を生み出すのではなく、「論理構成力」が人の言葉を「主語・述語」の形にして表現させるのではないでしょうか?人の言語的認識も、言語構成による表現も、人それぞれで勝手です。言語は大江さんも認めておられるように漠然・曖昧性を持っています。このような言語や人の認識、表現が「論理の主体」であったら、論理とは何と頼りないものでしょう。このような論理が何の役に立つのでしょう?このような論理と言うものが存在する意義があるのでしょうか?
(3)「知識」「経験的事実」「妄想」、大江さんはこれらも「論理構造」だと言われています。たとえばI)「なまずが騒ぐと地震が起こる」と言うのも「論理構造」と言うことになります。「何らかの論理構造があるはずだ」と想像、推定するのは自由ですが、何の実験的根拠、理論的裏付けもなく、これを「論理構造」と言ったなら誰もが理解に苦しむはずです。「世界観の転換が必要」、「独自の新しい世界観」と言われても、誰もが首を傾げるだけだと思うのですが、どうでしょうか?
 「論理」を「思索の筋道」とするのは大江さんも私も同じだと思います。私はこの「筋道」を「数学的統計・集合・確率に基づいての関連」と定義しています。「関連」ですから必ず互いの対象物が必要となります。「思索」は妄想、夢想を含むような「人の自由な思考」を意味しているのでなく、「1に1を足せば2になる」や「物に力を加えれば、加えられた方向に物が変形または移動する」「確率が高ければ起こりやすい」などの「当たり前の理解」のことを指していると思います。この「当たり前の理解(基本思考)」とは「証明できないが、万人の経験により、純粋なもの全てがそうであると、万人が認識できる共通理解」のことです。「1に1を足せば2になる」ことは「公理」であり証明できません。しかしその基本の共通理解が、たとえば複雑な経済社会を形作り、科学は人を月へと送りました。この基本的な共通理解(思索)に基づく筋道(物事の関連)が私の定義する「論理」です。私の言う「論理」はほとんど自由度のないものです。(ただ論理の精度の差はあります。大雑把な論理から精密な論理です) 一般的に言う「論理的に正しい」「論理的な人」と言う表現や「法廷論理」とか「論理回路」などの「論理」に近いものです。自然を客観的、合理的に理解し、科学を発展させてきた「論理」です。
 「論理構造」は、要素としての各々の「論理」の組み合わせからなる全体構造を指します。私にとって下の例は、@)は「存在というリンゴと空間の関連を示す」ため、「論理、論理構造」となります。A)やB)は「リンゴ単独の状態」であるため「論理」とは言えません。C)は「リンゴとテーブル」D)は「青いリンゴとリンゴ全種」E)「リンゴと床への落下」それぞれの関連を示しているため「論理、論理構造」となります。F)やG)は精度の劣った「論理」だと思います。
H)「風が吹けば〜」は因果の確率が低く、到底「論理」と呼べるものではありません。I)「なまずが〜」は事実だとしても、ももちろん「論理」とは言えません。「なまずと地震」の関連が基本的な共通理解の要素まで分解されたならば、「論理、論理構造」となります。「知識」は「論理的」または「論理構造」とは限りません。たとえば「占い」は古来東西において厖大な知識体系を形作って来ましたが、その内容のほとんどが「論理的」と言えないと思います。以上、ご批判を待っています。
http://www1.odn.ne.jp/~cev29720/sr-index.html


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(21)究極の議論は難しいです  2月15日(日)

 Bunkouさん、根源的な問へと進まれていることに多少戸惑いを感じています。しかし私自身が何気なく真実と考えていることを、再び問い直す機会を得たことに感謝します。
 Bunkouさんの問は、フッサールの現象学の問と同じような性格を持っています。――"突き詰めて考えてしまうことが間違いなのではないでしょうか?「思考の中断」という言葉がありましたが、まさしく根源的(究極的)思考を中止することが、逆に「論理」の意義を再認識でき、その「有効性」を上げることができるのではないでしょうか?"――しかし、フッサールは「突き詰めて考えてしまう」方向を間違えたために、「論理の意義」を再認識することに失敗しました。彼のあとを継いだメルロ=ポンティは、身体の問題から言語へとす進み、この問題を解決しようとしましたが挫折しました。現象学は、「認識の結果」(すでに言語が使用されている)を前提におき、「認識の過程」(対象の言語化過程)を認識することができないために、人間の本質である言語的認識を見抜くことができませんでした。

 「論理」の問題を、ロゴス(論理)=存在=言語とすると(Bunkouさんはそうではないようですが)、西洋的限界に到ります。「論理」はあくまでも認識の手段としての「言語」の形式ないし思索の筋道(文・命題=主語述語=諸対象・名詞の状態とそれらの関係、さらに複文=主節従属節=文と文との接続関係)に過ぎないのです。つまり、論理は本質的に言語的認識の中に主語述語として含まれるのであって、論理(構成力)によって主語述語(主節従属節)が現象するのではありません。(さらに付け加えれば、主語述語の関係は、疑問の形式=5W1Hに由来し、疑問の形式は多様な環境に生存する生命の存在様式=欲求と刺激反応性に由来します。)

 ただ重要なのは、論理=言語が究極的に主観的でも、我々は努力をすれば社会的平均的意味で十分理解し合えるし、日常的には不自由はしません。また論理による対象の認識とその言語表現が、観測的事実に基づけば科学的知識としてより厳密性と明晰性が増大し、共通理解が進みます。さらに人間といえども共通の動物的本能と感覚・直観・感情をもっていますから、「言語の漠然性、曖昧性」を誇張して相互理解が不可能であるかのように悲観することもないと思います。

 さて以上のことを前提とした上で、質問に答えましょう。
@.思索は、言語的思考によって筋道立てて疑問を解明することであり、論理はその思索の形式です。論理は比喩的に運動法則そのものや存在そのものとされますが、それは言語的認識の本質の一つである論理的認識過程(諸対象の確定と相互の状態の表現)を見失わせます。

A.「正しい論理」は矛盾のないこと、文法的に正しいことであり、科学的論理であれば事実にもとづく実証性が必要です。「論理的でないもの」は、主語述語修飾語や文と文とがつながらず、支離滅裂で、首尾一貫性がなく、意味不明なものでしょう。
B.公理は、論証できません。論証できなくても論理はあるのではないでしょうか。
C.あると思います。

D.上述のように、論理は言語表現の形式ですから、その対象に「夢想、妄想」も含みます。問題なのは論理の主語が、客観的な事実を対象にするのか、つまり科学的であるのかどうか、また、文と文の関係に矛盾がないかどうか、ということです。Bunkouさんは、論理は真理(事実)を反映したものとされているため、論理に言語表現の意味・内容を含んでおられます。しかし、論理とその内容は別のものです。論理は形式であり、問題は論理によって何を表現するかです

E.私の言う「論理的」とは、文法的に正確で矛盾がなく、事実を対象とするなら実証的に対象を確定し表現するという意味です。もちろん数学的論証性も含みます。

F.ビッグバン仮説については詳しくはわかりません。私がわかるのはHPhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/index.htm「21世紀物理学の新しい公理の提案」程度のものです。

G.「誰もが疑い得ない共通の思考」は、数学についてはその通りでしょうが、数学以外ではどのようなものがあるでしょうか。突き詰めるととても難しい問題です。宇宙、太陽系、地球、生命、原子、素粒子の存在についての思考はどうでしょうか。私は「思索の筋道」として「主語述語」「何がどのようにあるか」というのは、「共通の思考」でありかつ「根源的な思考」であると思っています。また反対されるかも知れませんが、「論理」は言語的思考の根源である「主語述語」という共通の思考の筋道があって初めて成立すると思っています、いかがでしょうか。

F.社会的共通理解は、「完全を望まない」「自己の知識を絶対化したり他者の知識を排除しない」、つまり、突き詰めて考えなくとも議論に不自由がなければ可能なのではないでしょうか。「論理構成力」が先か「言語的思考力」が先か、どちらがより根源的かは、議論が分かれて当然と思うからです。また議論が分かれるからこそ議論が可能なのではないでしょうか。言語や論理、認識論や存在論は未だに解決のついていない問題なのです。私自身は掲示板で議論を尽くせるような問題ではないと思っています。でも議論を続けていただけることをうれしく思っています。ご意見をお聞かせください。


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(22)論理は多義的な概念だから難しい  2月22日(日)

 Bunkouさん、いつものようにわかりやすくまとめていただきありがとうございます。しかし私の論理解釈を「自由思考の論理」とされるのは少々抵抗があります。というのも人間の思考は、本質的に自由で創造的なもので、特に自由をつける必要はないと思うのです。また論理は思考の筋道ですから、思考の対象によって多様な思考の筋道があって当然です。数学的論理、物理化学的論理、生物学的論理、法的論理、歴史的論理、経済的論理、空想夢想的論理等々です。しかしそれらの論理の根底に共通するのは言語的論理です。数学的論理も言語的論理がなくては成立しません。また論理は真理を追究する場合だけではなく、単なる自己主張の場合も必要というのが私の立場です。

 前回「究極の議論は難しい」と言いましたが、今回もそれを強く感じます。というのもこのような掲示板では、論理について究極的に論じるための多方面にわたる記述は基本的に無理があります。そこで提案ですが、前にも例に出した平凡社の『世界大百科事典』の該当項目を共通理解として議論するのはどうでしょうか。「論理」に関してみてみると、「論理学」「論理実証主義」「科学哲学」「分析哲学」「数学基礎論」「幾何学基礎論」は、「論理」の概説をしています。他にもあれば指摘していただけるとありがたいです。Bunkouさんが参考にされたか又は主張を述べている文献などありましたら読んでみたいと思います。私の感触では、Bunkouさんは、論理に関してはB.ラッセルの考えに近いのかと思いますがどうでしょうか。

 さて、Bunkouさんは、「論理」の定義を「万人の基本的な理解に基づく、数学的統計・集合・確率によるものごとの関連」とされています。論理における「思考の筋道」の「筋道」を「数学的統計・集合・確率」に限定されるわけです。私は「数学的統計・集合・確率」も言語的規定を受けている、つまり言語的論理が数学的論理に優先すると考えています。数学的公理は、人間が言語的に規定(公理化)したものです。2+3=5は、「2に3を加えると5になる」ということですが、「加える」のは人間の言語活動(思考操作)です。だからこの数式は、正確には「数」と「加える操作」の定義(公理)を前提として「私(人間)は、2に3を加える。すると合計(和)は5になる」という主語述語、命題間の関連になります。つまり数学的論理(思考操作)は言語的論理を基盤にしているということになります(これは私独自の考えです)。

 このように私は統計・集合・確率を含めた数学の基本にある「論理」=「思考の筋道」は言語的であると考えています。幾何学も又人間の定義・公理にもとづく言語的操作の産物です。数学的思考の筋道は、それ自体で人間の言語的思考を超えて独自に成立しているように見えますが、人間の創造した数や加減乗除、点や直線・円などの定義・定理から出発しています。そして定義にもとづいて数や図形を論理的に操作・構成し、現実の諸対象に当てはめてそれらを操作・構成する道具としています。数学的論理の精度が高いのは当然ですが、やはり言語的論理にもとづいた「自由な思考」の一部に過ぎないのです。新幹線や精密機器、莫大な数量の処理、宇宙を含む自然の解明などを扱うには数学的な精度が必要です。しかし人間理解にとって不可欠とは言えません。「論理」は多義的な概念であり、数学的な論理もその中に含まれますが、基本は言語的論理がその根底にあり、人間存在を理解するためにはその全体を問題にする必要がある、というのが私の主張です。

 「論理とは何か」という問をたてた場合、Bunkouさんの数学的定義も一つの立場として理解できます。しかし、「論理」は、百科事典的には多義的な概念なので、究極の議論に決着をつけるのは困難です。我々(私)にできるのは既存の概説を自己流に解釈するのが限界と思っているのですがどうでしょうか。また私の議論したい「単純教」の内容が、東洋的・仏教的な論理(倫理)であり、私の論理解釈に近いと思えるのですがどうでしょうか。


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(無題) 投稿者:お肉  投稿日: 2月27日(金)23時05分18秒

 Bunkouさんに質問です。私は長く生きていないので、わからないことだらけです。「当たり前のことを当たり前に」とありますが、「当たり前」とはなんでしょう?私は信号無視はいけないと教えられました。しかし、多くの人が守っていないのをみています。
 私は信号を守るのは「当たり前」と思っていました。私が思うに「当たり前」とは、個人の域を出ない言葉なのではないでしょうか?私の「当たり前」とBunkouさんの「当たり前」が違うように。
 次に「自由思考」についてです、例えについては納得できます。私は「自由」について、こう考えました。「自由とは束縛があるから自由ができたのだと。数学的論理や言語的論理を考えるのも自由だと思うのですが?さらに数学的論理では、見えないものを計算するときに困ってしまう。言語的論理ではそれがたしかなのかは分らない、所詮は想像でしかない。数学的論理と言語的論理があって初めて物事を証明できるのでわないでしょうか?


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尊敬します。 投稿者:お肉  投稿日: 2月28日(土)19時07分7秒

 自分の未熟さを思い知りました。
貴方方の議論を見ていて、1つ思ったのですがお二人の食い違いは「論理」の観点の違いでわないでしょうか?大江さんは「論理」を多義的と考え、Bunkouさんは「論理」を1つの意味を持つものとして考えているのではないでしょうか?(間違っていたらごめんなさい)この二つの観点から見るとお二人の意見は両方とも正しいと思います。
 私は「論理」というのを、なんとなくしかわかりません。申し訳ないのですが「論理」をご教授してください。ついでに「理論」というものお願いします。

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くだらんこと 投稿者:お肉  投稿日: 2月28日(土)19時47分55秒

人間はこれからどうなるとおもいますか?
私は今のままでは、人間は自滅すると思うのですがどうでしょう。


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(23)論理は存在合理化の道具です  2月29日(日)

 Bunkouさん、お肉さんに参加していただいて、議論がわかりやすくなりました。現代は百家争鳴の時代なので、いろんな主張があると議論がおもしろくなります。

 私たち二人の主張の共通点は、「論理は思考の筋道である」と定義することです。相違点は「思考の筋道とはどのようなものか」という点です。私はこれを「言語的思考(主語述語)」とするのに対し、Bunkouさんは「数学的(統計・集合・確率)関連」と解釈されます。このような解釈の違いが生じるのは、Bunkouさんが「論理は真実を追究する道具である」とされており、私が「論理には虚偽(夢想・妄想)を追求する場合もある」と考えるところから来ています。(ただBunkouさんが対比されている「自由な思考」と「万人の共通理解」についてはもう少し考えてみます・・・・・。)

 私の主張は、数学的関連(論理)も言語的思考(論理)の中に含まれるというものですが、これについては認められているようです。結局大きな違いは「論理は真実を追究する道具に限定されるかどうか」だろうと思うのですがどうでしょうか。そこで私は「論理とは多義的な概念である」として、百科事典を提案したのです。私自身の考えは百科事典よりも過激で、Bunkouさんの批判の的になっている「夢想・妄想も論理に含まれる」と考えていますが、その理由を説明します。

 なぜ論理に夢想・妄想を含むのかを説明します。私の主張では、論理をどのように定義するかでその後の論理展開が異なり、二人がお互いの論理を組み立てることになります。共通の論理としては、数学的定義(公理)にもとづいて数学的体系を作り上げ、自然探求の道具とします。これは万民が認めるように科学的な成果を上げ、自然に対する認識を拡大し、応用することによって科学技術を発展させました。相違が生じるのは、数学が公理から出発するように、論理も公理から出発します。

 私の場合、公理(定義や意味)の対象は数字や図形に限らず、人間の想像や創造の対象(神や仏、愛や信頼、天国や地獄、社会や集団、契約や課税等々)も含みます。人類は今まで宗教や哲学、社会科学などを通じて様々な世界観を構築してきました。それぞれの体系はほとんどが論理的な首尾一貫性をもっています。ピタゴラスは数学的な論理を駆使して宗教を創りました。キリスト教や仏教はもちろん、日本の神道でさえ、論理的な教学をもっています。それぞれが神や仏、救済や悟りの定義にもとづいて真実の探究をしています。しかし私にとってはそれらはほとんど夢想妄想の類です(現存の宗教が信仰によって癒しや救いをもたらす面があることは真実です・・・・これは宗教心理学の対象になります)。主観的に真実を追究すると言っても結果的として科学的実証的に証明できない部分があれば夢想妄想と考えざるを得ません。

 従って、私にとって論理とは世界(自然を含む)を認識し、自己の主張や存在理由を合理化する手段(道具)にすぎないのです。もちろん私の「人間存在論」もそのようなものにすぎません。

 生命の本質はほとんど不自由ですが、人間の思考の本質は全くの自由にあります。思考は論理的でなければなりませんが、不必要な制約は有害です。自由な思考こそが真実(虚偽も)を追究することができるのではないでしょうか。ご批判を楽しみにしています。
 追伸 お肉さんの質問はとても興味深いものです。よく考えますので後日答えさせてください.


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私なりの考え。 投稿者:お肉  投稿日: 2月29日(日)14時04分36秒

 私はたまに、わからない言葉があると、漢字から意味を推測することがあります。
例えば、「夕日」、日(太陽)が夕(暮れる)というように読み取ります。
「理論」と「論理」、字が逆になったもの、なにかしらの意味があると思うのです。
上の例のように読み取ると、「理論」とは、「理解」(理解したもの)を(論ずる)、と読み取ります。「理解したもの」、つまり数学的関連(精度を上げたもの)、「論ずる」つまり言語的思考(精度の低いもの)例えば「風が吹く」(精度の高いもの)なぜ風が吹くのか?「気圧の高いところから、低いところえ・・・」というのが、(精度の低いもの)「理論」なら「論理」は?「論ずるものを理解する」。まずお二人の共通点「論理は思考の筋道である」と定義しています。「思考」とは考えること、「筋道」とは一本の道、「論ずる」とは、個人の思考(自由な思考)を多くの人と議論し、討論して一つのものにしていく(万人の共通理解)とするものではないだろうか?
 言葉とは人の作った物を区別するもの。言語的思考を数学的関連で意味を固めていくというのが「論理」でわないだろうか?


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(24)人間の根源について考えましょう  3月 6日(土)

 Bunkouさん、お肉さん、三人ともに単純さを大切にしているようです。
どのように単純であればよいのか、私の考えは、とりあえずは、万人の共通理解を出発にするべきであると考えます。そこで『広辞苑』と『平凡社世界大百科事典』を出しました。一応出発点は権威に従っておこうと思います。しかし「言葉・言語」「論理」については、西洋的な理解の翻訳に過ぎないので不満です。

 私は辞書や事典を読むのが大好きです。独断や偏見を避け、常識的な見解を知るのに役立ちます。しかし、「常識」が正しく有益であるとは限りません。知識は日々更新される必要があります。
 そこで私は言語(言葉)の重要性について、多くの人に気づいてほしいと念願しています。人間は知覚的情報やそれをもとにした想像的情報を、言語的に再構成し(夜と朝、仕事と休息、季節の変化、日々の生活、人生・人間・言葉とは何だろう、等々)、自らをその中に位置づけ日々生活しています。言葉は我々に喜びや怒り、哀しみや楽しさをもたらしたり与えたりします。又自分自身を励ましたり、行動づけたりもします。さらに、世界を数字化して和や差を求め、統計や集合によって世界を数学的に再構成し、それに合わせて人工物を創ったります。

 言葉がなければ、世界を数字化することもできないし、遠い将来や過去の出来事のように知覚できない事象について、反省や希望や不安を感じることもありません。その場その時の状況(刺激)に、動物的本能的に反応するだけでいいのです。言葉がなければ文化や文明の進歩もあり得ないし、豊かな感情や心の機微(人情)も形成されません。

 実に言葉(言語)が、動物を人間にするのです。言語(的思考)を「曖昧」だとか「精度が低い」と考えるのは一面的な言語理解です。日常的に使われる曖昧な言語使用もありますが、数学的な言語使用(論理)のように公理にもとづく厳密な使用方法もあるのです。

 しかし言語の重要性を強調するからと言って、「初めに言葉(論理)ありき」なのではありません。言語は生物学的な進化の所産です。言語は多くの生命の生存形態のうちの一つの形態として、生命(人間)が進化の過程で獲得したものです。生命が言語を獲得して人間になったのです。その意味で人間は言語を獲得した「生命神」の化身なのです(神と言っても地球という特殊な環境における有機化学反応に過ぎないのですが)。

 言語は、無限の対象(事実と想像の世界)を記号化して、知識(論理、主語述語)として再構成します言語の基本的機能は、知識や意図の伝達、蓄積(記憶)、再構成(思考)の3つです。私たちはこの世に生を享け、人間として成長する過程で、言語の使用を無意識的に学習し、身につけ、言語はもはや空気のような存在になっています。そのため、その機能と使用過程を正しく自覚することが困難です。

 しかし、言語は生物学的な進化の過程で獲得した以上、生物学的な起源をもっています。全生命の基本構造は細胞であり、その生存様式は細胞を単位とした生化学反応です。細胞の生存(持続的生化学反応)活動は、環境との間の刺激反応性によって行われます。刺激反応性は、動物においては、環境の認知と行動であり、高等動物においては神経細胞による刺激反応の連合と統合によって行われます。人間の場合、環境の認知(認識)と行動の統合は、大脳中枢において行われ、音声言語が介在するようになって、飛躍的に多くの情報(知識)処理が行われるようになりました。

 言語と大脳の機能については、未解明の部分が多く、現在研究が進行中です。まだわからないことも多いのですが、私は言語による世界構成(世界の論理化・合理化・秩序化)の意義は、今までこの掲示板とHPで主張してきたようなことだと考えています。
論理は世界の言語的(主語述語的)構成であり、理論(命題・知識)とはその結果です。理論は、論理(数学的論理や空想等も含む)の結果としての知識です。正確・確実な論理は望ましいですが、誤った偽りの論理もありうるのです。

 さて、お肉さんが心配されている、人間の運命は・・・・?これは難問ですが簡単です。人間の決意次第で数万年は続くことができると思います。しかし、決意によっては直ちに自滅することもあり得ます。核兵器や遺伝子操作は自滅の危険をはらんでいます。又、巨大彗星の衝突も考えられますが、当面は大丈夫でしょう。問題は私たちがどう決断するかです。希望は十分にあります。Bunkouさんの言われる「秩序の意識」を、私たちは開花させ実らすことができると思います。そのためにはまず、人間が人間自身について知り、共通理解をもつことです。私は、その一歩は言葉について知ることだと思っています
 さらに議論が深まることを期待しています。

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秩序って? 投稿者:お肉  投稿日: 3月10日(水)23時46分51秒

 私は正直ひねくれています。お二人は「秩序の意識」というのを望んでいますが、できるでしょうか?。秩序とは共通の理解の上で人間が決めたことを守ること、すなわち法律を守ることと思い込んでいます。法律とは過去に人が作った規則。それを破った者には罰を与える。それが秩序を守ってきたと思います。しかし今、私は秩序が壊れていると思います。
 昔どこぞの哲学者は人間と動物の違いは「理性」を持ているところと言ったそうです。理性とは何か?私は理性を「がまんすること」と思っています。人は理性を働かせ秩序を守ってきたと思います。しかし今の人間は理性がないと思います。すなわち「がまんができない人が多い」・・・「自己中心的人間が多い」それなのに秩序って、できるとおもいますか?
追伸、「信号無視も殺しも度は違えども同じ犯罪だ。」どう思いますか?


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(25)人間は自由で創造的な存在です  3月14日(日)

 Bunkouさん、お肉さん、ともに難問を出されるので、単純に答えるのがむつかしいです。しかし、あえて単純化して私の考えを述べさせてもらいます。

 人間の特徴は、従来の主張の通り、言語的思考によって自由で創造的世界を作り出したことです。自由といっても生命存在としての限界はありますが、人間の思考によって創造された世界(文化・文明)は、人間の創り出したものであり、人間を取り巻く現状(自然・文化・文明)を変革することが可能です。現状が悲観的に見えるからと言って、問題克服の展望がないとは言えません。誤った問題意識や思考では、誤った展望しかあり得ません。

 そこで、お肉さんの問題とされている「秩序が壊れている」「今の人間は理性がない」ということについて考えてみます。まず「秩序」については、この言葉の意味する対象(内容)を確定する必要があります。すべての言葉はそれを用いる人によって、その意味や対象が異なるからです。お肉さんは、「秩序」を「共通の理解の上で人間が決めたことを守ること」=「法律を守ること」とされています。しかし、そもそも法律は多数(強者)の意志ではあっても、必ずしも「共通の理解」によって成立したものではありません。法律は多数(強者)の意志で作られ、国家(警察など)という強制組織(装置)によって、国民(市民)に守らせようとするものです。従って、その法律秩序に不満があり、同意できない人にとっては苦痛の強制であり、違反は見つからなければかまわない(見つからないように違反しよう)ということになります。

 今の社会の体制は競争にもとづく私的利益の追求が経済活動の基本になっていますから、努力しても報われない競争の敗者は、勝者への怨恨・復讐・不満解消をはかろうとするのは、むしろ自然の論理です。この社会は利己主義的刺激を、物質的繁栄のテコにしていますから、個人の「理性」は、いかに自己の能力を高め、他者を出し抜き、自己の利益を得るかに使われています

 社会秩序の問題を考える私の立場は、「公共福祉のための競争」は奨励されても、金銭や物質的欲望を満足させるためだけの競争は、理性と文明の滅亡を招くことになり、抑制すべきであると同時に、むしろ互助(助け合い)を奨励すべきであるというものです。人間の欲望や行動は、理性による「がまん」で抑制できますが、人間の生き方や世界観にも影響されます。例えば宗教は「がまん(修行・信仰)」を「喜び(悟り・救済)」に転化(昇華)させる働きがありますから、「がまん」を積極的にとらえて人間の価値観や行動様式を根本から変えることもできます。

 「理性」も多義的な言葉です。一般に西洋での「理性」とは、自分の欲望を抑えて「がまんして正しく考える」ことで、本質的に善と考えています。しかし、私は「理性」を単に「思考能力(考える力)」と考えているので、「理性を用いて悪事をはたらく」という表現も可能だと思います。社会秩序の乱れは、「理性が弱まった」というよりも、利益第一主義によって現代の大衆が、享楽的・刹那的になり、人間としての生き方や社会の在り方についての拠り所や人生の目標を見失っているからだと思います。私は自由で創造的な人間だからこそ、生命と人間についての自覚が進み、共通理解が深まれば現状の混乱を克服できると考えています。

 追伸にある「犯罪云々」はその通りです。法律を犯せばどんなに軽微でも犯罪になります。

 Bunkouさんの「論理」についてのこだわりは理解できます。正しい筋道を求めて誠実に思索されていることが伝ってきます。私とBunkouさんの思考法の違いは、思考の前提の違いです。私は、思考の正しい筋道(論理とその結果としての知識)は、すでに存在しているものではなく、自由に創造していくものだと考えています。数学的真理の存在基盤についても再検討が必要と考えています。それに対してBunkouさんは、正しい筋道・論理は、個々の人間の思考以前に、数学的・確率的・集合的に共通理解として存在している、だから論理は真理の前提であると考えておられるのではないでしょうか。

 正しい認識、正しい人生観・世界観、そしてすべての人間にとっての幸福とは何か、創造的思考の活躍する場がそこにあります。


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わからない! 投稿者:お肉  投稿日: 3月14日(日)18時15分6秒

「動物的本能」の回りに、薄皮のように「対応意識」が被い、そこに点々と「秩序意識」が存在しているというのが本当ならば、我々人間より動物のほうが秩序意識が高いと感じます。さらに人間の思考は動物的本能に負けていることが動物の群れを見るとよくわかります。基本は人間と同じ階級性です。(弱肉強食。ちょっとちがうけど)しっかりした社会があり、秩序があります。すなわち本能のほうが秩序意識が高いということになってしまうのです。
 物にはそれぞれ意味があると思います。信号には交通を安全にするために作られたもではないでしょうか?それに赤・止まれ。青・進め。黄色(青のちかちか)・渡っている途中ならば急げ、渡る前なら止まれ。でわないのでしょうか?それに自分の判断渡でるなら信号は要らないし車も守る必要がないと思います。
 質問です秩序を見出すにはどうすればいいのか?
 秩序は0か100でしか存在しないと思います。言い方は悪いですがこんな感じです。
(私はこの世に100%のものはなかなか存在しないと思っています。)


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(26)事実と価値を区別すること  3月21日(日)

 Bunkouさん、「秩序と論理」について、もう少し考えてみました。Bunkouさんは、「秩序はもっとも効率良く対応できる体制」「論理は真実探求の道具」「秩序=論理に従うのが理性」「論理は秩序を導く」のように使用しておられます。今までの議論からもわかるのですが、このような使用法は、言語(概念)の意味する事実性と価値性を区別できず、秩序や論理の意味する人間的側面が曖昧になってしまいます

 言語は、対象(事実)を意味する事実判断と、その対象に対する主観的判断を意味する価値判断を同時に含むことは避けられません。例えば、人が「赤いバラ」と表現するとき、対象をそのまま指示する事実表現の側面と、「赤いバラ」が好きであると強調したい(「赤いバラ!」)価値判断の側面を含みます。事実判断と価値判断の混合は、日常の認識では厳密には避けられないことですが、「科学的認識」という場合には、主観的価値判断をできるだけ排して、対象それ自体について、その存在(対象・事実・主語・WHAT)と状態(法則性・述語・HOW)を追求するべきです。

 「秩序」や「論理」の意味についても、客観的科学的な、共通理解が必要です。ほとんどの言語は、社会的平均的な意味をもっています。それを無視して、自分の定義だけで議論を進めても発展性はありません。社会の混乱は、言語の混乱を生じさせます。なぜなら、人々が勝手に事実判断や価値判断をすることは、言葉の意味を勝手に解釈していることなのです。価値観の混乱とは、言語そのものの混乱であり、この混乱を克服するには言語そのものの科学的検討が必要なのです。

 「論理」は、今までも主張しているように、真実も虚偽も夢想も導きだします。言語がそうであるように「論理」もまた人間の創造物であり、認識の道具だからです。「秩序」には、整然としたものばかりではなく、混沌としたもの、煩雑で効率の悪いものもあります。「理性」は無秩序と屁理屈を人々に押しつけることがあります。アメリカのブッシュ大統領の言動は、一見首尾一貫していますが、アメリカの単独行動主義を合理化しようとしているに過ぎません。アメリカの平和、アメリカの利益、アメリカの論理、アメリカの正義、アメリカの秩序などと、言語の前提(定義)を一方的に決めつけると、とんでもない結論になることがあります。

 重要なのは、人間にとって言語がどんなものかをまず明確にして、共通理解を得る努力をすることです。現代社会は、価値観の混乱した時代です。まず議論の出発点として、人間存在の本質としての言語について深刻な反省が必要とされているのです。そこで、言語使用(議論)の前提の一つとして、言語は「何をどのように表現しようとしているのか」を明確にしなければなりません。

 言語は、事実と価値を表現します。人間が事実(刺激)を認識し、それをどのように判断して行動するか、・・・・・前者は何が(WHAT)事実であるか(事実判断)であり、後者はその事実についてどのように(HOW)評価するか(価値判断)です。人間は事実認識と価値認識を日常生活で区別することはほとんどありません。空腹になると食物を求めます。食物は事実認識ですし、どんな食物をどのように食べるかは価値認識です。食欲を満たす行為は、言語的には「何がどのようにあり、いかに行動するか」であり、具体的には「リンゴがあり、皮をむいて食べる」と表現します。どんなリンゴかは事実認識ですし、食べるかどうかは価値認識です。しかし多くの人は、空腹であれば、リンゴを見つけることは、すなわち食べることと同じで、事実認識と価値認識は一体化しています。

 しかし、「リンゴとは何か」を議論する時は、リンゴが好きか嫌いかに関係なく、リンゴそのもの(様々なリンゴの種類における共通の意味――リンゴは赤い?丸い?甘い?・・・・)について確認せねばなりません。これは、「秩序」や「論理」についても同じことが言えます。事実については、対象そのものについての科学的な検証が必要となります。言語としての「秩序」も「論理」も、議論として使用するには、その社会的(歴史的)な意味を吟味した上で、共通理解を図り、自らの立場(価値判断)を決めるべきなのです。とりわけ、人間が関与して創造した言語(概念――秩序や論理、幸福や愛、神などの抽象概念)は、価値判断が多く含まれます(良い秩序、真実の論理など)。「事実と価値の区別」は、言語そのものについての誤解によって、西洋的思考方法の中で失敗してきた(初めに言葉がある―西洋思想―ではなく、言葉は生命の創造物―化身―であり、人間の本質です)だけに、今後もさらに追求していかなければならないと思っています。


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最近 投稿者:零@横浜  投稿日: 4月 1日(木)00時09分11秒

なんか、面白いことないかなぁ〜と、ぼぉっと生きています。
イマイチ、自分が何のために生きているのかが判らなくなっています。
つまらん、実に世の中はつまらない。
でも、つまらない理由も判っています。
それは自分の使命、生きる目的をもっていないからです。
生きがいが無いからです。

はぁ〜、俺って何のために生きているんだろ?
死ぬ間際になって、あぁ、これだったんだ!って思うんなら
なんかつまらなくない?
今知りたいんですよ。
自分が生きている目的を。


…人に言わせりゃ、この状態はウツだ!っていうんだろうなぁ〜
いいよ、ウツで。その代わり、俺の生きる目的を教えてくれ!
誰か、頼むよ、ねぇ、教えてくれよ。


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はじめまして。 投稿者:お肉  投稿日: 4月 1日(木)02時29分46秒

零@横浜さん、そんなことよくありますよ。これは正直楽になりすぎた結果です、
生と死が同一の位置にある。生物からみれば馬鹿じゃねーってゆう話になります。私も貴方と同じことを思っている1人です。それに死ぬ間際に分かるのは人間の境地だと思います。生きる目的はそのときそのときで変わると思いますが、どうでしょう。


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確かなのですが 投稿者:お肉  投稿日: 4月 1日(木)02時39分25秒

自らの立場(価値判断)を決めるべきなのです。確かにそうです。しかし社会は1人で生きてるわけではないのです。共通の理解の上に立つ秩序こそ大事な物ではないのでしょうか?
一言「平和だから秩序がある。否 共通秩序があるから平和なのだ。」



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(27)言語の限界性を知り、常識を疑うこと  4月 3日(土)
 Bunkouさん、根源的な問題を議論すると多くの人は論議を放棄します。しかし、Bunkouさんは私との主張の違いにもかかわらず、根気強く私の主張を分析し批判していただいており感謝します。

 実は私は、今の時代に、根源的なところで「共通理解がある」という前提自体に疑問をもっています。人間にとっての共通理解は、これから創造していくものだと考えています。今の時代が価値の混乱の時代であること、だからこそ「主観そのもの」(主観の認識能力)から吟味して出発する必要があります。

 デカルトは「我思う、故に我あり」として思考を独立させ、カントはその思考能力を法則化しようとしました。今やこの発想の誤りを転換して「我あり、故に我思う」とするだけでなく、「我」という人間存在と思考(認識)の在り方・意味を科学的に究明する必要があると考えています。「我」とは生命であり、動物であり、欲求と感情をもつ人間です。そしてもちろん、その本質は今まで述べてきたように「言語」です。「我に言語あり、故に我思う」が主観の在り方なのです。

 Bunkouさんは、言葉の多義性・曖昧性・主観性に不安?不満?不信?をもっておられるようです。いったい何を基準に議論をすればよいのかととまどっておられるようにも感じます。私は多少意図的に混乱をさせようとしているかも知れません。「ものごとには事実認識と価値認識がある」という命題または考えが主観的であることは事実です。主観と主観が論議をして何らかの共通性が生まれれば客観的になります。しかし言葉だけで客観性(共通理解)を得ることは極めて困難です。その困難性や言語の限界を理解した上で議論はすべきなのです(共通理解をより深めるには、欲求や感情、認識手段としての感性を経験的に共有することが必要になります)。

 今の時代が価値の混乱の時代であること、そしてBunkouさんがそのことを自覚され克服しようとして「単純教」を発表されていること、このことは私にとっても「共通理解」として共感と敬意を抱き、議論に参加する意欲を生み出します。しかし、いくつかの根源的な問題については主張が異なっています。前回に引き続いて「事実と価値の区別」について述べてみます。

 まずは「主観的な常識感覚」つまりは「人間の認識様式(認識過程と形式)」を吟味することが必要です。感覚や認識についての「常識」こそ疑う必要があります。常識は必ずしも共通認識ではないし、まして真理と言うよりもむしろ欺瞞に近い場合があります。今までの宗教の世界がそうですし、一部のマスコミの報道や過剰な商業主義、さらには学問の世界にも欺瞞的な常識が広まっているのではないでしょうか。人間はある意味では自己と世界を「常識」の名によってごまかしながら生きています。常識よりも自分の主観に素直になることの方が大切かも知れません。

 まずは「主観的な常識感覚」自体を疑うことです。「何がどのようにあるか(事実)」と「それについてどう評価するか(価値)」をできるだけ厳密に分けることです。もちろんそのように「事実と価値を区別する」と言うことも疑う必要があります。その上で私は、Bunkouさんと同じように生物学的な事実を前提にして考えます。Bunkouさんは人の意識を以下のように分析されています。  「意識は、ヒトが五つの機能から成り立っています。
     観察:ものごとの変化の差異を知る。
     記憶:ものごとをパターン化して記憶する。
     分析:ものごとを分解して整理する。
     推理:ものごとの因果を予想する。
     創造:新たに、ものごとを組み立てる。
   これらの機能は、ヒトが仮の状況を想定できるようになったからです。」

 私の主張の特徴は、人間の意識の根源を言語的事実から解明しようとしたことであり、それによって上の5つの機能は言語的に説明が可能になります。とりわけ「創造」の機能は、言語によって「仮の状況を想定できる」ことと一体の関係にあります。動物は欲求を実現するために、環境に対して問題意識(疑問・好奇心)をもちますから、言語的な表現は、何度も述べているように「何がどのようにあり(事実)、どのようにするべきか(評価・価値)」ということになります。両者(事実と価値)の区別は、このように人間(自己)の言語的な自覚によって初めて可能になります(詳細はHPを参照してください)。このような私の主張は、全く主観的独創的(今は独善的かも)です。事実と価値の区別の必要性については是非批判をしてください。

 さて「論理とは何か」という議論は、過去にも多くなされてきました。「論理学」とはまさにそのような論争の結果生まれてきたものです。そして多くの「論理」が構成されてきました。形而上学、形式論理学、弁証法論理学などがありますが、近代科学の方法(仮説実験的方法)が確立するまで、神について、存在について、理性や認識について、社会発展について様々の論理が駆使され説明されてきました。おそらくアリストテレスの『形而上学』やヘーゲルの『精神現象学』『論理学』は、読めばわかるように、「夢想・空想の論理」そのものといえます。キリスト教における神学も、神による創造と終末思想を論理的に構成したもので、「夢想・空想」と言えるでしょう。論理は、誤った空想を前提として組み立てることもできるというのが私の主張です。

 「秩序」についての反論は当然予想されるものです。「秩序」は、本来価値概念であり、物事の条理、整然とした状態を意味しています。しかし、条理や整然性は、価値概念であるため、人の観点の違いによって程度の上で判断の異なる(主観的である)場合があります。例えば、官僚制は、上からの組織の運営には論理的で効率的な秩序ですが、下から改革しようとすると煩雑になり、変化への対応がむつかしくなります。宇宙の秩序は解明されていませんが、未知の部分や人知を越えるものがあるため、混沌とした秩序という表現も可能です。
 さてそれでは、言語の曖昧性の問題をそのままにして、どうして議論が成立するのか、ということになります。そこで私は「事実と価値の区別」が必要と主張するのです。例えば「論理」は、「思考の筋道」であるとすると、その筋道は事実として正しいか(実証性はあるか)ということと、その事実に対してどう評価するか(価値性)を区別することです。筋道が通っているから正しいというだけでは、筋道の前提や観点が異なれば反対の結論も生じるため、神学論争のように議論がかみ合わなくなります。私の主張する「論理実証主義」は、筋道が通っていれば正しいという「論理」の西洋的な限界を克服しようとして生まれたものなのです。

 結論を急ぐと議論は行き詰まります。議論が行き詰まれば原点に戻ることが必要です。議論の原点は何か。それは「何がどうあり、どうするべきか」「人間とはどのようなものであり、どう生きるべきか」等々であり、それらは言語による「対象の表現と疑問の形式」となります。哲学的には認識論と存在論であり、その前提としての言語論が必要になります。

 いつものように「単純」なのが望ましいと思いながら長くなってしまいました。価値的概念の客観性を科学的に証明することはできません。皆さんそれぞれのの好きずきですから・・・・。しかし議論によって共通理解を深めることは可能です。と言うことで、今後ともよろしく。

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(28)生きる目的は多様です
  4月 8日(木)

 零@横浜さん、零さんと呼びますがよろしいでしょうか。
 零さんは「自分が生きている目的」を今知りたいとのことですが、私は「生きる目的」についてあまり考えたことがありません。私は生きる目的について考え悩むよりも、いつも「生きなければならない」と思ってきました。私は約60兆の細胞の連合体として、いつも生命としての自分を感じています。そして「生きなければならない」というのは、私という生命が、言葉という姿を借りて私に呼びかけている(私に発話させている)のだと思っています。「何のために生きているんだろう」という疑問は、人間に特有のもので、「なぜ」という疑問と同じく人間を哲学者や科学者にするものですが、必ずしも真実をとらえてきませんでした。「なぜ」とか「何のために」「どのように」と言う問は、その問の根源(言葉の意味)自体を解明してこなかったからです。

 つまり、それらの問(言葉)は、生命から発生したものであるけれども、生命から遊離して、別の世界(事実や虚構)を作ってしまうからです。神話や宗教だけでなく、科学的に構成された自然的世界も、生命から分離してしまうと、逆に人間生命を傷つけ滅ぼしてしまいかねないと思っています。「生きる目的」がないからといって、何も不安になることも悩むことも絶望することもありません。
 Bunkouさんは、"全ての生物が目的もなく「生きるために生きている」のです。人も同じです。"と主張されています。私もそれに近いのですが、言葉をもつ人間については、「生きる目的」はなくても「生きなければならない」のように言葉を使うべきだと思っています。言葉は生命の化身であり、本質的には価値的なものですから、自分が生命として生きることに言葉を使う場合は、徹頭徹尾「生きなければならない」と価値的に使うべきだと思っています。

 しかし「生きる目的」を、「生きがい」や「使命」「生きる意味」という功利的な意味で使っておられるのなら、これはその人その人によって異なっており、多様なな生き方や目的があると思います。金持ちになりたい、人の役に立ちたい。有名になりたい、恨みを晴らしたい、社会を変えたい、天国へ行きたい、幸せになりたい、真理を追究したい、等々です。このような意味の「生きる目的」は、人それぞれ違っていても、どんな目的でも人生を充実させることができます。

 零さん、死ぬ間際にわかることって何かあるのでしょうか。おそらくそのような余裕はないだろうし、動物は死ぬ間際には快楽中枢が刺激されて悟りの境地(一種の諦め)になるとも言われています。現在がつまらなくなるのは、何か大きな意味があるのでしょうか。本当に世の中はつまらないのでしょうか。世の中は様々の刺激に満ちています。これらの刺激は確かにつまらないこともありますが、インターネットのように使い方によっては楽しい刺激を見つけることもできます。この掲示板に書き込みをなさるのも刺激になるのではないでしょうか。世の中にはおもしろいことに充ち満ちていると私は思っています。「生きる目的」のようなを難しい問題を追求するようなよりも、「今ここで」、零さんの興味関心にあった楽しい刺激を見つけることが先決だと思いますがどうでしょうか。


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どう思います? 投稿者:お肉  投稿日: 4月11日(日)

自己中心主義(自己ちゅー)ってどう思います。
私は別に自己チューでもいいと思います。
自己チューが、なぜ悪いのか・・・悪いことなのか?
わからない。
・・・・・・・・・・・常識的判断ではどうなんだろう?
教えてください。

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(29)自己チューは自由の根本  4月18日(日)

 お肉さん、「自己チュー」は悪いことなのでしょうか。私はむしろ「自己チュー」大賛成です。自己チューであることは自由であり、自由があるから創造的であることができます。そもそも人間は本質的に自己チューであり、欲求や感情、そして自由の根本に自己チューがあります。これは哲学的心理学的には「主観的」と言います。天才的な芸術家や新たな事業を興す人物の多くは、世間の常識を越えた自己中心的で創造的才能を持っています。常識的判断は、時には、停滞と閉塞状況を生み出し、社会の進歩を阻害します。

 ただ、自己チューでも悪くなることが2つあります。1つは自分が自己チューであることを自覚せずに、正義の代表者であると強弁して、人々を自分の支配下におこうとすることです。ヒトラーやサダム=フセインなどの独裁者はこの代表的な例です。
 2つ目は、自己チューであるために他人に迷惑をかけることです。幼児の「わがまま(自己チュー)」は、まだ世間知らずで悪意もないので許されます。しかし、大人になって、自分の自己チュー性を知らないと、社会性のない欠陥人間とされます。人間は社会的存在ですから、他人との関わり(関係性)の中で生きています。自己チュー大賛成と言っても、他人に迷惑をかける自己チューや自由は、単なる我がままで、社会の混乱のもとになります。

 フランス人権宣言では、「自由は、他人を害しない(迷惑をかけない)すべてをなし得ることに存する」と定義しています。「自己チュー」自体は自由と同じく悪いことではないのですが、その結果として他人に迷惑をかけることが悪いのです。「常識的判断」としては、やはり迷惑をかけなければ何をしてもいいのではないでしょうか。


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(30) 生命と言葉と生きること  投稿日: 4月18日(日)

Bunkouさん,質問ありがとうございます。「なぜ人は生きるのか?」という問いが、「危険である」ことの意味について答えます。人間は今まで、生きることや人間存在の意味について考えてきました。人間は生存の意味を問います。どこから来てどこへ行くのか。空腹、病気、老衰、他者との不和・不信・争い、敵との戦い、そして死――生存への不安、敵への脅威、隣人への不満・憎悪等々人生における悩みや苦しみは、否応なく人々に人生の意味を考えさせます。

 「なぜ、何のために、何によって」(意味、理由、目的、因果、縁起)の問は、その答を宗教や哲学によって解明しようとしてきました。しかし今日に至るまで明快な教説はなく、逆に根源を問いつめると、主張や意見は対立を深めるばかりです。
 現代の多くの人々は、物質的生活の豊かさに流され、根源の問題を考えることもなく、苦しいときの神頼みで、従来の神や仏が必要なときだけ利用しています。現代日本人は無宗教、無哲学で、現世を浮き世として楽しみながら日々快適な生活を送ることにつとめています。高収入、高い地位、名誉をめざし、趣味と娯楽に生きて満足しているのが現代人です。

 さて、それでは「なぜ人は生きるのか」を考えることが「危険」なのか。人間は、「なぜ、何のために、何によって」生きているのかと考えても、生物学的事実はBunkouさんの言われるとおりで、「生きるために生きている」のであって、人生の意味も理由も目的もありません。言葉をもった人間だけがこれを考え、創造し、それによって個々人が満足したり、また創造した主張の違いによって反目しあうのです。いわゆる主義主張は、結局自己を肯定し合理化するために作られているのであって、一致させること自体が困難なことは歴史が証明しています。だから人生についてのこの問は危険です。人生や人間存在についての意味や理由や目的についての問は、誤った結論を導くだけで証明もできず、主観的な価値を主張するだけで建設的なものにはなりません。

 人生の意味についての完全解答はないのです。問うこと自体が「危険」なことなのです。人が「なぜ、何のために、何によって」と問うことは避けられません。しかし、人生について絶対的な意味を求めれば、意味を求める言葉が一人歩きして自己の生命性を忘れさせ、「不信と対立の原因となる観念」を生じさせるという危険性を自覚するべきなのです。それと同時に、生命的事実を人間が言語表現すれば、「生き続けたい」「生きなければならない」という、生命的欲求・願望や義務の表現が生じざるを得ないと思うのです。そしてその次には、「生きるために何をするべきか」という問が生じ、「自分を取り巻く世界をよく観察し、よく考え、良い判断をする」ことが求められるのです。

 もちろん私の主張も価値的なものなので批判を免れません。しかし言語の本質が、生命の生存という価値的のものとして進化的に獲得されたものである以上,言語は生命の生存とともにあることが求められるのではないでしょうか。すなわち、生きることは単なる目的として言語化されるのではなく、目的として問う(考える)前に、「生き続けなければならない」と言語化すべきなのではないでしょうか。



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生と死 投稿者:お肉  投稿日: 4月23日(金)

生きる目的とはなんなのだろうか?人間以外の生物はこのことを考えているのだろうか、「窮鼠猫をかむ」いわずとも知れている、古事。鼠は猫に食べられそうになったところを「生きる力」というもので、怯ませたとおもいます。Bunkouさんの生きるために生きるということは正しいと思いますが、なんだか足りないと思います。私が一番生きていると思うときは、好きなことをしているときでもなく、感情を感じているときでもありません。
唯一感じられるときは「痛みを感じているとき」、すなわち生と死を感じるとき。すなわちスリル、などを感じるときです。
しかし、確かにこの質問は考える人が考えればとても危険です。一つの意見にこんなものがあります。「人は何でがんばるんだろう?どうせ死んでなにもなくなるのに、なんでこんなにがんばるんだろう?」という考え、ほかにいもいくつかあります、そしてそのひとが出した最終結論は「他人を悲しませないためにも生きよう」というのが出した結論です。しかし私が思うにただ死が怖いから死ねないだけだと思います。人はなぜ生きるのか?と問われたときこう答えます、じゃあ死ねば、怖いんだったら生きいればいい、それが生き物の本能なんだから。と・・・・・・(なんだこの文は)

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(31)人は生きなければならない  4月26日(月)

 Bunkouさん、いつものように的確なご指摘ありがとうございます。
 人間が根源を問うことは、言葉をもつ以上避けられません。「何がどのようにあり、どうするべきか」という問は、動物の認識と行動にも共通する根本的な問です。さらに、人間の「なぜ(何のために、何によって)」という問は、因果の根源に対する人間に特有の問です。われわれは、日常でも、自分の思いや欲求が通らないとき、「何でやねん」とか「意味わからへん」(大阪弁ですが)と問います。この日常的な問は、当然、自分自身や人間存在自体に対する根源的・哲学的な問と同じです。だから根源を問うことが悪いのではなく、むしろ根源を問うのは、言葉をもつ人間にとって不可避であり、本性であると言えます。私が主張するのは、「人生の意味についての<完全解答>」や「人生について<絶対的な意味>」を求めることは、自己の観念(言葉)を絶対化し、他を排除するだけでなく、その言葉(観念)が一人歩きをして、人間の生命性そのものを気づかせない危険性を伴うということです。

 前回の「生命と言葉と生きること」の主張は、「言葉」が、生命や人間にとって「両刃の剣」であることを言おうとしました。言葉による問は、言葉による解答を導きますが、その解答は、常に、真実の一部のみを表現し、「完全な解答」や「絶対的な意味」を表現しえないのです。根源的な問と答えに関する議論は、Bunkouさんのご指摘のように、繰り返しされるべきです。しかし、「言葉」そして「言葉による論理」は、人間の文化と文明を創造しましたが、キリスト教文明のように、人間(または自己)の主張や観念を絶対化することによって、他の人間(個人や民族)を圧迫し、排除し、殺戮してきました。今日その勢いは、地球の生命環境をも滅ぼそうとしています(終末思想は、神を信じない地上を破壊します)。

 根源への問は、言葉をもつ人間にとって必然的ですが、その答(観念)の有限性(絶対化することの危険性)を自覚すること、「なぜ」という問そのものの危険性(有限性)を自覚しなければ、安直な問と答えの氾濫(現在の宗教と哲学の現状)、価値観の混乱、時代の閉塞状況を克服することはできないと思うのです。

 「人はなぜ生きるのか」という問の危険性は、その問に絶対性を求めず、その答は人それぞれに多様であり、有限なものであると自覚することによって低下します。しかし、多くの人は、「人はなぜ生きるか」という問に対して、自分なりの答を発見したとき、その答を絶対化しないでしょうか。例えば、「神の意志だから」とか、「親や隣人が生きなさいと言うから」とか、「生きることが楽しいから」とか、「夢があるから」とか・・・・・生きる目的は、その問に答える人の問題意識の違いによって異なり、一度答をだすとそれ以上問うことをしない傾向があるからです。

 私自身は、人間の生存の目的や理由・意味への問は、自然現象のように客観的な答をだすのは不可能だと思っています。「人はなぜ生きるのか」という根源的な問は、主観的な答えしかでないでしょうし、それでもその人が納得すればよいという価値しかないと思っています。人間は主観的な答え(言葉・観念・知識)でも、十分に自己の存在を合理化し、意味づけ、納得し、安心できるものです。

 私の立場では、「人はなぜ生きるか」という問の答はありません。そのような疑問自体が無意味であり、言葉をもつ人間の限界性を示すものと思っています。私にとって、「どのように生きるか」が問題であって、「生きること」に「なぜ」はありません。私は、人間がどのような存在であるかを問いつめて、「なぜ生きるのか」ではなく、言葉をもつ人間が正しく言葉を使うとすれば「人間は生きなければならない」という答を得たのです。人間が生きることに「なぜ」と問うこと自体が誤った問ではないかと思うのですが、・・・・・ご意見をお聞かせください。



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(32)生命の目的と人間の生きる意味  5月 5日(水)

 Bunkouさん、いつも私の常識をはずした独断的な議論につきあっていただきありがとうございます。
 Bunkouさんの<「どのように生きるか」を問う者は、危険ですが必ず「ではなぜ生きるのか」を結論付けなければならない>という指摘は、もっともであると思います。Bunkouさんは、「人はなぜ生きるか」という問に対して「人は生きるために生きている」と結論づけられています。私は、この問の答はなく、疑問自体が無意味でありかつ誤っているのではないか、と言いました。そして「人は生きなければならない」と結論づけています。しかし実は、私もそうは言いながら、「人は生きなければならない<ために>生きている」と結論づけて答えているのです。

 なぜ私の結論がこのようになってしまったのか、説明(弁解)します。私は「人はなぜ生きるのか」という問に対して二段階で考えます。まず一段階は、人間を客観的に生物学的次元からとらえて、「人は生命だから生きる」と答えます。つまり、私やBunkouさんのHPで述べている生存の維持が目的となります。しかし、二段階目となると「なぜ」という人間的な問は、自然科学的・客観的な因果関係であるよりも主観的、意味論的、価値的となります。つまり、「なぜ」とは、因果的な関係よりも人生の意味や目的、生き方を尋ねているので、「論理的で本質的な答」はないのではないか。だから、強いて因果関係を示せば、その原因(主体)は、人間自身(私や彼)の主観的判断(欲求や願望)になるのではないでしょうか。「人はなぜ生きるのか」は、「あなたはなぜ危険なイラクに行くのですか」と同じような、主観的因果(意味・理由)を追求しているのではないでしょうか。その結果私は、言語を持ち出して、言葉は生命の要請(「生きたい」よりも「生きよ」)に従えと言いたいのです。

 さて次も意見の分かれる議論になります。「生きるため」と「生きなければならないため」の違いを我田引水的に考えてみます。「生きる(生命の維持)」というのは、生命の客観的本質的事実です。しかし人間は、単に「生きるために生きている」(一段階)のではありません。人間は、単に刺激に反応して生きるだけでなく、未来を想像し目的をつくることのできる創造的な動物です(二段階)。人間は「なぜ生きるのか」を考え、「どのように生きるか」という観念の世界(生き方、考え方、価値観)を創って生きています。人間は、言語的思考のために「なぜ」という問を発し、実証的にしろ、想像的にしろ(正誤に関係なく)その答を創り出して納得し行動します。

 人間も単なる動物的な生存にすぎないなら、「なぜ」という問に対し、生命の維持存続(生きるため)と、客観的に答えられます。しかし、人間は単なる動物ではないので多様な答があり、万有引力のような本質的な正解はあり得ないのです。人間にとって「なぜ生きるのか」は考えざるを得ない問ですが、実証的科学的に結論づけてはならない問なのです。なぜなら、「リンゴの落下」は、自然現象ですが、人生は人間的現象だから、「なぜ」の答は個々人の創造力(想像力・構想力)という主観性に頼らざるを得ないのです。当然「どのように」という問に対しても、主観性によって答えなければなりません。そこで今後の課題は、どのような主観的な目的と方法を構築するか、となるのです。

 「人はなぜ生きるのか?」・・・・・「生きるために生きている」「生きたいから生きている」「死ねないから生きている」「したいことがあるから生きている」「生きる権利があるから生きている」「何も考えないから生きている」・・・・・いろいろあるとは思いますが、私は生命30数億年の歴史の重みを感じるとき「人は生きなければならない」と言葉に表すのが最もふさわしいと思っています。


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(33)論理実証の限界・・・・「生命の誕生」  5月 5日(水)

 さて、「生命の誕生」についてですが、専門家ではないのでHPに述べた知識程度しかありません。ただ私は、生命の誕生=高分子の複製という考えには疑問をもちます。またドーキンスのようなDNA中心主義(利己的遺伝子説)もとりません。生命の誕生=細胞の持続性の維持、すなわち細胞(生命システム=細胞膜で囲まれ蛋白質合成機能を持つ核酸と物質代謝機能を持つ細胞質)の持続性の成立が生命の誕生と考えています。細胞は、「分裂」によって若返りと増殖を可能にし、生命状態を維持、増殖させます。「分裂」を「複製」と考えることもできますが、「高分子の複製」となると、生命のシステム(の複製?)という観点が見失われるのではないかと思います。ただ分裂だけだと変化と適応が不十分なので結合(接合)によって多様化し適応性をたかめます。

 分裂は基本的に、原始の生命の細胞質を持続させていきます。ヒトを構成する個々の細胞は、生命の誕生以来、無数の分裂と進化(進化には多細胞生命を含む))を繰り返していますが、細胞の構造(システム)は原始生命から断絶することはありませんでした。クローン生命でさえ、細胞膜と細胞質は原始生命から持続しています。

 「一番最初の生命の誕生」について興味は尽きません。細胞膜、細胞質、核酸、蛋白質・・・・何が始まりなのか、原始生命のシステムについては、実証的に再現することができない以上、インターネットを検索して、それらしき仮説に満足する以外ないのではないでしょうか。でもビッグ=バンと同じように神に助けを求める必要はないと思いますが・・・・・。

 「人はなぜ生きるのか」という問に論理的な答がないように、根源の問題は、追求することは必要ですが、限界があることも事実なのではないでしょうか。


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(34)人はなぜ「なぜ」と問うのか  5月16日(日)

 Bunkouさん、わかりやすくまとめていただき、また新たな課題を得て感謝します。
 生命存在の意味の深さを知る人は誰でも、自己の存在の意味に感動を覚えるものです。生物学的な生存は、それだけで大きな意味をもちます。しかし、「人間は言語をもつ生命である」ということに気づくとき、さらに重大なことを知るのではないでしょうか。それは、人間が自らの存在の意味を問い答えることが、則ち、自己自身を世界の中に言語的に位置づけ意味づけることなのです。人間は世界と自己を言語化(論理化・ロゴス化)しながら生きる存在なのです。

 さて、「言語をもつ生命」ということと「なぜ?」という問の関係について考えてみました。「なぜ(why)?」という問は、まず、事象の存在(雨が降る)の根源を問います。根源は、事象の原因・理由・目的を問います。因果は、単に、「何が、何を、どのように(what,what,how)?」という主語・述語・目的語の関係からもわかります(神が雨を降らす)。単純な因果は、高等動物でも認識します(敵が近づく)。極端に言えば、生命の刺激反応性は、因果関係の基本であり、認識と行動の根源です。しかし、事象の存在の理由や目的や意味については単純な因果関係を超えています。

 人間以外の動物的な認識では、「なぜ、何のために?」という問はほとんど(?、チンパンジーはそれらしき反応をします―好奇心・洞察?)ありません。あるとしても恒常的なものではありません。しかし、人間的な問である「なぜ?」は、人間が言語をもつことによって恒常化されました。高等動物の本能的な因果の認識よりも、さらに飛躍的に高い思考能力を必要とします。幼児は「なぜ?」を連発しますが、大人になると多くの人間は一定の段階で「なぜ」と問うことに執着しなくなります(信仰をもった人。充足した人。考えたくない人)。「なぜ?」の追求は、おそらく大脳前頭葉と言語能力の発達によるものと思われます。

 実は人間でも「なぜ?」はなくても生きられます。しかし、「なぜ?」は、現象の因果関係の根源を問い、さらに問の連鎖を導きます。「なぜ、なぜ、なぜ・・・・・?(縁起の連鎖)」・・・・「なぜ?」の追求の生物学的根拠は、言語の獲得です。そして言語による世界の構成と自らの行動の位置づけ(いわゆるものの見方考え方、世界観、人生観、価値観の形成)を行います。「人はなぜ<なぜ?>と問うのか?」それは根源(究極)を求める人間的な問なのです。今日まで人間は、とりあえず多くの解答を宗教(信仰)や哲学・思想という形で創ってきました。しかし、それにもかかわらず、人間は「なぜ」を問い、「なぜ」に答えることによって、自らを言語的に規定せ(位置づけ)ざるを得ない存在なのです。

 従って「人はなぜ生きるのか」と言語的に問うとき、生物学的に単に生きていると答えるだけでなく、言語的存在として「生きなければならない」と義務的な答をださざるを得ないのです。「なぜなら」生命の欲求に従えば「生きたいから」となりますが、言語的存在としては現在の欲求だけでなく、未来にも責任を持たねばならないからです。「なぜ?」は前頭葉の働き(意志・意欲・好奇心)と密接な関係があり、未来を志向するものです。未来を志向するからこそ「なぜ?」という因果と目的・意味を問うのではないでしょうか。

 ところで、人は言語を手に入れて「特別な存在」になりました。それに関連してBunkouさんは「対応する意識」を提案されています。意識と言語の関係について私は明確な考えをもっていません、合わせて説明していただければありがたいです。

 「生命の誕生」と「葉緑体」の関係については、昨夜のNHK番組「地球大進化」でも光合成生物の役割の重要性について解説していました。光合成が生命誕生に関係したのかどうかは微妙な問題です。生命の誕生が太陽エネルギーによるのか、地熱エネルギーによるのか、興味は尽きません。


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(35)さらに言語について聞かせてください  5月29日(土)
 Bunkouさん、「対応する意識」についての問いに答えていただきありがとうございます。「意識」という言葉は重要であるにもかかわらず、私の最も不得手とするところです。私の理解では、「対応する意識」とは、人間が何らかの課題(欲求不満)を解決しようとして、心の中で「課題を解決しようとする意識」すなわち「高度な課題に対応する意識」または、「何が?なぜ?と問う問題意識」となるのでしょうか。また現象学で言う「志向性」や「生きる意志」と解釈できるでしょうか。言語以前にそのような生命の認識能力を前提とすべきなのは当然であると思います。しかし、人間を特徴づけるものとするには漠然としているのではないでしょうか。

 パターン認識は、高等動物においても外的刺激を認識する過程で行われていると思われます。しかし、パターン(情報)を自ら創造的に構成しうるのは、言語によるパターンの記号化とその操作(構成)の実現によるのではないでしょうか。「対応する意識」はあっても、パターンを「心(脳)の中で操作する」ことができなければなりません。操作を可能にするのは、対象(刺激パターン)を、言語記号を用いて操作する「記憶と思考の過程」が必要です。その意味では、「対応」は、広く動物にも適用できるものであるけれども、人間にとっては単なる対応だけでなく「操作する意識(言語的操作意識)」を加えた方がよいのではないでしょうか。

 チンパンジーはある程度目の前の対象を操作(洞察)できます(2本の棒で離れたバナナを引き寄せる)。しかしその対象(バナナと棒)が目の前にない場合、脳の中だけで操作することは困難です。脳の中だけで対象(あるパターンないしイメージ)を操作するには、対象を記号化(音声言語から内言へ)する必要があります。脳の中に思い浮かべて(記憶して―英語のmemoryは両方の意味を含みます)操作する言語的な思考過程が必要なのです。例えば、事実構成としての「雨が降る」、観念創造としての「神が雨を降らす」という場合の「雨」も「神」も音声イメージ(パターン)の結合した脳の創造物です。やはり言語がなくては人間の認識(と行動)を特徴づけることはできないと思いますがどうでしょうか。

 とは言えBunkouさんの言われるように、言語よりも先に言語を必要とする認識と行動への何らかの意識や志向(対象を的確に捉え、適応的な行動をする)があるのは確実です。言語出現の端緒は、自己の意図を仲間に伝達する意識や志向があります。そして、決定的なのは言語の獲得によって、認識と行動にどのような変化が生じたのかと言うことです。「対応する意識」が言語を創り、その結果、人間の認識と行動には変化が起こりました。これは私の見解ですが、対象(名詞)とその状態(動詞・形容詞等)を言語化することにより、対象を言語的に記憶・再構成・創造(記憶と思考)し、それによって人間の行動と感情を言語的に方向付けることが可能になったのです。

 私は言語を主語にして「言語が人間を特別な存在にした」と言いましたが、これは厳密には正しくありません。言語はあくまでも手段です。言語「によって」、生命が特別の存在になり、それによって生命が人間となり、環境を変え、文化や文明を創りました。「言語は生命の化身である」というのも、比喩的な表現ですが、言語は主語ではなく、生命の生きようとする意志(認識と行動、生命の維持・欲求の充足)を、言語によって行おうとしていることを言おうとしたものです。

 「対応する意識」の我田引水的な解釈です。誤解しているかも知れませんので、もう少し詳しく内容を示していただければありがたいです。言語についてのさらなる見解をお聞かせください。

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(36)動物の意識と人間の意識  6月12日(土)

 Bunkouさん、お答えいただきありがとうございます。新しい提案はとても刺激になり、思考を深めることになるので、楽しみです。 
 「人間の意識」をどのように定義するかを考える場合に、他の「動物の意識」と比較するのは基本的に賛成です。さて、「知性」という概念を動物に適用するのは、常識的(平凡社百科事典による)ではありませんが、「動物の知性」を想定するのは比喩的である以上に有用であると思います。人間も又動物的知性の土台の上に「人間的知性=理性(reason)=言語的思考」を発達させました。

 動物的知性と人間的知性の違いは、動物的知性が、欲求や感情(直接的刺激)に従属しているのに対し、人間的知性は欲求や感情を抑制・克服して知性を働かせることができることです。食事をとりながら、怒りながら次の予定を考えられる(訓練が必要ですが)のは人間の知性です。もちろん対象のイメージやパターンの組み合わせ、創作(創造)もおこないます。

 次に、「動物の意識」と「人間の意識」です。「意識」というのは包括的な概念で、欲求、知覚、感情、知性(思考能力)をふくむ「心の働き」と思われます。意識の発達は、知性の発達そのものです。チンパンジーの知性は、相当発達しており、かなりの抽象的な知的操作が可能です。しかしそれらの操作は、人間による教育と訓練によって開発され、記号や図形が直接的刺激として目の前にある場合に限られます。しかもその知性は、餌などの直接的刺激(誘因)があるときのみ働き、人間の知的欲求や関心のように脳(心)の中だけで操作をすることは不可能です。「なぜ」このような違いが起こるのでしょうか。また、「人間の意識」が、自分自身を客体化し、自分自身(私)を操作の対象にできるのはなぜでしょうか。対象(情報)を整理・再構成(創造)して、他に伝達しうるのはなぜでしょうか。

 対象(情報)は明らかにパターンでありイメージとして脳内の中枢神経に記憶されています。Bunkouさんの言われるように言語は「感覚で感知できないもの」も「擬物質化」します。つまり、事実的対象ばかりでなく想像的対象も言語化します。では「なぜ」そのようなことが、人間に可能なのでしょうか。「なぜ」、「対応する意識」は、「想像的対象」を「擬物質化」できるのでしょうか。私は、動物と人間の認識(知性、意識)の決定的な違いは、言語にあると考えていますので、当初は「想像的対象(パターン・イメージ)」を「後追い的」に言語化するにしても、想像的対象がパターン化されるには、疑問と解決の言語的表現が必要だと考えています。「何が、どのように、なぜあるのか、そしてどのように対応すべきか」という疑問は、言語をもたない動物には本能的・生得的能力として以外あり得ません。単なる「整理」だけでなく「なぜ」の理由(reason=理性)を働かせるのが人間なのです。

 例えば、ライオンに出会って逃げ出す判断には、言語の必要はありません。しかし弱い人間が「前もって」(目の前にライオンがいないのに―直接的刺激がないのに)、ライオンから効果的に逃げたり武器を創ったりするには、創造(想像)的な知性(何が、どのように、なぜあるのか、そしてどのように対応すべきか)が必要です。また、多くの発明や発見は、自然現象のパターンを言語的に操作している(「なぜリンゴは落ちるのか」「なぜ風呂の中で浮かぶのか」)からこそ、直接的な現象の背後にある法則を新たにパターン化できるのではないでしょうか。

 人間が欲求や感情を抑え、外的刺激に影響されずに、大脳内部で自律的に対象(パターン)を操作することができるのは、言語を媒介した人間的認識能力(すなわち言語的思考)による以外考えられないのではないでしょうか。ぜひご批判ご意見をお聞かせください。
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