7 カント認識論の批判    西洋思想批判 現象学批判 思考と言語
                                      
  「カントの思想の偉大さを把握することは,実存みずからの根本的決意を前提とする。」(ヤスパース,K.)といわれるように,カントの後の個性的な哲学者たちは,いずれもカント思想との格闘の中からみずからの哲学を構築していった。しかし20世紀の現象学や実存哲学,さらにアメリカのプラグマティズムに至るまで彼の理論を克服することはできなかった。カントを克服することは,西洋哲学の伝統そのものを克服することであるからである。西洋的実存を克服することは,哲学の根源である問いそのものの意味を問い直すことが必要だからである。そして問いの意味は問いそのものが言語であり,その言語の解明,そのための言語の相対化なしにありえない。それはヤスパースが考える以上の「実存みずからの根本的決意」すなわち東洋的思考様式による人間存在への問い直しと生命科学にもとづく哲学的洞察が必要なのである。

 カントはその哲学の完成以来今日にいたるまで、多くの思想家から批判されてきた。しかし21世紀の今日に至るまで克服されることはなかった。なぜか。それは彼の哲学体系が、西洋的な認識論に根源的な起源をもっているからである。そしてこの認識論は西洋的言語(思考)様式にもとづいている。言語論の革新によって始めて西洋思想の中にカントを位置づけ、批判し、克服することが可能なのである
  「ひとたび『[純粋理性]批判』の味わいを知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する。前まえは仕方なしにかかる饒舌をもって満足していたかの理性は,自分を楽しませるものを求めはしたものの,ほかにこれはと思うものを見いだすことができなかったからである。」(カント,I.篠田英雄訳『プロレゴメナ』岩波書店 )

 だがわれわれの立場は,ひとたび言語論の解明(生命言語説)を通じて認識の形式の根拠を知った人は,およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する,ということができる。西洋思想のみならず,およそ一切の過去の認識論は,自己省察ないし心理分析を通じて得た饒舌(もちろんそれらは今日においても価値を失うものではないが)をもって満足していた。カントの認識批判はその中でも最も精緻で体系的なものであった。しかし,認識の形式の根拠は,生命の生存様式すなわち認知・行動様式から,神経の活動様式,さらに言語の人間的役割の解明を通じて確立されるべきものである。

 カント哲学はアリストテレス以来の西洋哲学の伝統の「転換」すなわち「コペルニクス的転換」をなしたといわれる。しかし西洋的認識様式が生み出した今日の科学的知識の常識は,逆に20世紀の現象学に至る西洋哲学の認識論の伝統そのものの大転換を必要としている。そしてその大転換なしに今日の物質文明の危機を克服することはできない。西洋文明が作り出した科学技術は、新たな認識と価値にもとづく精神文化の創造によることなしに人類文明の崩壊をくいとめることはできない。
「涙に値する──ああ、虚しきかな、かかるものの全て[カント哲学]は」  (ハーマン,J, G 『理性の純粋主義へのメタ批判 』田中子訳)
    

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付 論
  批判の立場――生物学的認識論生命言語説
 カントは,人間悟性に関するロックの自然学的方法では,理性的認識についての確実性は得られないと考えた。彼は経験によらない先験的演繹による悟性概念(カテゴリー:思考・理解の形式)の構築を考えたのである。これはによって得られる命題や知識の獲得形式を思考規則とするもので,この規則によって認識(経験)が成立すると同時に、妄想や独断を制約されるのである。しかし今日では、カテゴリー自体の経験的規則化がかのうであり、カント時代よりも科学的知識の増加によって、観測者の相対的立場を考慮せねばならなくなっている。このように経験的自然科学の知識の蓄積が、カント的狭量を越え,西洋的思考の制約を克服する条件ができているのである。

 われわれの批判の立場は,すでに述べているように,生物学的認識論ともいえる生命言語理論による立場である。生物学的認識論の立場は,人間は自己の認識能力自体を自然科学の対象とし、その形式や法則を確立することができる。まず対象化する自己(考える自己)を、言語を用いて論理的に確立するのではなく,自己を対象化してから<考える自己>を分析する。つまり人間が考えること自体,言葉を手段として「考えること自体」を自然科学的に究明する。カントは思考の形式を究明したが,思考や判断・推理そのものの機能における人間的言語的意味を究明することができなかった。

 人間の判断・推理・思考は,主語(対象)を定義する分析的(定義的)判断と,主語がどのようにあるか(状態,位置),他の対象との関係はどうか(関係),なぜそのようにあるか(因果),という総合的(説明的)判断があるだけでなく,人間主体がどのように行動・反応を判断・決定するかという主観的思考形式がある。西洋哲学において,対象に対する判断・推理・思考だけがなぜ論理学の対象となり,人間の行動の選択・決定が論理として扱われなかったか。それは認識された結果としての主語の在り方(主語と述語、概念と命題:ロゴス)のみが存在であるという非主体的な哲学的伝統から生じたのである。しかし,判断思考は対象それ自体に対する知識を得るためにばかりでなく,より基本的には自らの行動を決定するために、人間(言語)的な判断・思考が発達したのである。つまりは、ニーチェが鋭く指摘したように「何のために?」(『権力への意志』)という問、西洋的人間に許されなかった神によらない主体的な問が欠けていたのである。

 カントは、認識の形式としての「純粋悟性概念(カテゴリー)」を確立したが,その限界は認識と行動の生物学的解明によって初めて克服することができる。すなわち質や量の規定については、対象そのもののさらにマクロな宇宙的次元と、ミクロな素粒子的次元の観測において,また因果関係については、対象の運動がどのようにあるか,なぜそのようになるのかという疑問とその解明の形式において,つまりは結果として何が、何によって、どのような結果になったのかの解答命題としての主語・述語の関係が解明される。前者においては,客観的基準(空間・時間,熱,量,色,速度等)に基づいたり,主観的基準(美醜,好悪)に基づいたりする。また後者については,「梅雨前線によって雨が降る」「梅雨前線が雨を降らす」という命題は因果関係の表現である。

 カントは、認識を感性的直観と概念的思考によって成立すると考える。しかし思考は直観の中にも含まれ、単に感性による受動的なものではない。直観は反射的・受動的なニュアンスが強いが、単純な情報の選択・判断だけでなく、まだ概念化されていない複雑な知識や情報から、直観的に一つの結論を得ることがある。東洋的な直観には、そのような「直観的思考」がみられる。つまり、思考は感性的直観的思考と概念的言語的思考に分けることができる。このような見解は生物学的な認識の解明から証明できることである。類人猿の洞察行動は、対象と行動についての感性的情報や経験の蓄積の中から選択判断をしていることが検証できる。人間の概念的思考だけが思考の名に値するというのは、カント時代の動物行動についての知識の限界を示している。言語的論理的思考は確かに人間に特有のものであるが,人間の直観的認識が言語(概念)的形式の制約を受けないと考えるカントの立場は、生物学的知識の時代的制約以上に、人間理解の西洋的限界を表明するもの,ないし人間性そのものに対する無理解ないし独断的偏見である。カントによって,ア・プリオリとされた概念(空間・時間や純粋悟性概念)も経験的に説明しうる。それらは生物(動物行動)学的認識論によって考え説明しうる因果関係(刺激反応性)の把握や,時間空間(長短、大小、遅速等)、重力(質量、軽重、遅速等)、電磁波(明暗、寒暖、色彩)などに対する判断や疑問(what,how,why etc.)の形式から生じ、その解明と言語形式(数式や図形を含む)による表現、法則化として成立する。(注:生物学的認識論は、安全や食糧や異性の獲得等の生存活動における認識や行動の仕方を扱う。人間の認識は、動物の認識活動を前提として、さらに言語的枠組みによって対象自体の存在と運動の法則を解明する。)

 さてそこでまず、カント認識論批判の前提としての生物学的認識論ないし生命言語論的認識論の原則を以下に整理しておく。
@ 認識の起源ないし基本は,自己(主体)を環境ないし世界にどう位置づけるかということである。そこから動物主体にとって環境と世界そのものの因果や状態に対する的確な認識・理解の必要性が生じる。

A 認識は、動物(細胞)の認知・行動過程における刺激反応(刺激の受容と判断・反応)様式に基礎づけられている。すなわち認識の生得的形式は,刺激(対象=原因)の認知の形式であり,対象(何が)とその状態(どのようにあるか=質量、または成るか=結果),そしてそれらに対してどのように行動(結果)するかの認識と判断の様式である。この認識の様式は下等動物から高等動物に至るまで基本的に変わらない。

B 人間における上記の認識様式は、言語記号によって規定されることに特質があり,その思考、判断、想像の結果(学習結果)は,社会的な影響を受けつつ個人的に大脳と言語を中心とする記憶の中に知識として構成され体系化される。

C 言語記号は,社会的意味をもち,諸個人の表現過程において実現する。つまり言語的知識は社会的に形成され、それをどのように解釈し実現するかは,個人の経験に左右される。

D 知識を拡大し確実にする論理構成は,対象への疑問(問題意識)の形式(何が,どのようにあるか,何と何がどのような関係にあるか等)によって成立し,文法としての社会的承認を得て秩序化される。

E 疑問の解明は、問題状況に対する判断・思考の過程であり,判断には主観的判断,客観的判断そして創造的判断がある。

F 主観的判断は,主体の欲求や感情による判断基準に基づいて行われ,錯覚や偏見、先入見によって誤る場合がある。主観的判断が社会的に認められ権威をもつと,一つの社会的価値基準として一般化し、一定の価値や知識となり、文化や制度等が形成される。

G 客観的判断は,時間や空間、重さや長さ,明暗・寒暖・強弱・臭いなど判断の基準を物理化学的対象そのものに置き,数学的な測定によってその判断を社会的に認められる確実なものとして、自然科学的知識の発展を推進した。この知識を応用したのが科学技術である。

H 創造的判断は,判断過程における分析・選択・総合という思考過程によって産出される(宗教・芸術や知識・技術等)。判断の過程とその結果は言語とは限らない(音楽や美術、図形を含む)が,通常は言語による再構成の過程を含む。つまり一般的に判断は,対象の定義(何であるか)と諸対象の運動状態や関係(どのようにあるか)を示し,命題ないし文として表現する(ことが可能である)。

I カントがア・プリオリな認識形式とみなした空間・時間そして純粋悟性概念は,上記の前提を通じて実証的科学的に解明されなければならない。

J 判断における「論理」とは、言語構成による疑問の解明であり思考の様式である。(思考と言語参照)
<補論1>
 カントは認識論ないし論理学を,ニュートン的自然科学の体系全体に位置づけようとした。その点からいうと認識論は生物的根拠だけでなく物理学的根拠も必要となる。すなわち,カントのカテゴリーにおける因果性の認識の根源は、いかなる根拠をもつかということである。因果性は物質の存在形態すなわちエネルギーの変化や運動形態として現象し,感性的認識の根源となり,原因と結果の認識はそれらの自然現象を言語的に表現したものである。カテゴリーはその意味で物理学的・生物学的根拠をもっている。しかしその根拠は純粋悟性概念ないし悟性の形式なのではなく、言語を媒介した疑問(因果関係であれば、どのようにして how、なぜwhy そうなるのか)とその解決的表現様式(主語・述語、なぜならbecause, for)なのである。悟性の本質は言語を媒介にした疑問の解明すなわち思考の様式であり,そこに論理が存在するのである。(言語原理参照)

補論2

 生物学的認識論を前提としたカント解釈をおこなおうとした生物学者のユクスキュルやローレンツ,ピアジェはカントの認識論に対して親近感をもっている。彼らはいずれも認識主体の先験的様式の存在(認識本能)を前提とするからである。ユクスキュルは次のように述べている。
「あらゆる主体は,ただ主観的現実のみが存在し,そして環境世界のみが主観的現実である世界に生きている。主観的現実の存在を疑うものは,自分自身の環境世界の基礎を認識していない。」 (ユクスキュル,J.『生物から見た世界』日高,野田訳 思索社 1973 p123)
 確かにこのこと自体は問題はないが,彼らに欠けているのは,その生物に特定の環境世界が限定されてしまって,限定された世界を越える適応能力やその限定をこえる判断能力やその可能性を捨象する可能性を見失う危険性があるということである。例えばいつ来るとも限らない哺乳動物を待ち続ける樹上のダニにとっての環境世界は、食糧についてだけの環境世界であって,自らの安全維持については認識されていない。認識の限界は,生物学者の認識の限界を示しているともいえる。つまり,ユクスキュルにとって哺乳動物のもつ酪酸の臭いだけがダニにとっての環境ではないということ,生存に直接係わる刺激(酪酸の臭い)のみを環境という概念でくくるのは誤っているということである。酪酸は多様な刺激のうちの最も重要な刺激なのであり,環境の一部にすぎない。生得的な生物の環境や刺激は特定されるけれども,特定された結果だけを「環境世界(Umwelt)」として区別するのは環境概念や生物の不断の認識作用や判断過程を不用意に限定してしまい,人間のみを特殊的に無限の能力をもつものとしてしまう危険性を有している。正しくは生物はその主に特定の適応的な環境があるのであり,その環境の中で特定の生存様式をもち,特定の刺激を適応的に認識し判断して行動するのである。

 ローレンツは,人間の認識装置が発生的系統性を持ち、生得的なものであることを強調する立場から、カントの観念論的性格を克服しようとしている。しかし、動物行動学のみで人間の認識と行動を規定することには限界がある。人間の言語的認識(彼は「概念的思考」と表現している)の創造性(積極的限定性─神や天国、文明を創るような)を解明するには、生命言語理論によって西洋的思考様式そのものを克服する必要がある。ローレンツは、認識論の革新を図ろうとした論文『鏡の背面』において、デカルトを含む観念論を批判する前提として次のように述べている。

 「人間が省察する生物として定義されることは間違ってはいない。人間そのものが現実を反映する鏡であるという認識は、当然にも人間の他のすべての認識機能に徹底的な遡及効果を及ぼした。これらの認識はことごとく、より高い統合水準の上に置かれた。すべての科学の一つの前提である客観化も、この認識によってこそ可能となるのである。」(ローレンツ,K.『鏡の背面』谷口茂訳 1974 思索社 p36)

 この引用において、彼は西洋において科学的認識が発展した認識論的背景を述べているが、人間の認識装置が「現実を反映する鏡」であるという西洋的認識論の限界を超えていない。人間にとっての対象(世界)は、単に現実世界を「反映」したものではなく、人間の欲求や関心にもとづいて主体的に判断・選択し、世界の中に自らを位置づけ合理化するべき対象なのである。従って、その「鏡の背面」考察したとしても、鏡自体の認識目的を考察しなければ、単なる自然科学的な認識と文明に対する警鐘しか見いだせないのである。 さらに付言するなら、彼はカントやチョムスキーと同じように、概念的思考と言葉の関係を統一することができなかった。概念的思考は、人間が言葉を獲得し、対象の直接的刺激(感性的情報)を言葉と結合して、頭脳内で独立に操作できるようになって始めて可能になったのである。


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『純粋理性批判』の批判

 カント哲学の歴史的位置づけはよく知られていること──ライプニッツの独断的形而上学とヒュームの懐疑論を経て、ニユートン物理学の自然観を導入して、科学的知識の基礎と、道徳の絶対性を確立した──で十分であると思うので、我々は直接に『純粋理性批判』の問題の中へ入っていこう。この論文の問題意識は、理性(思考)による理性能力(思考能力)の批判、すなわち理性(思考)規則の確定である。
 この批判は無前提ではない。それは理性の獲得した絶対確実な(とカントに考えられた)判断・知識としての数学・物理学上の成果を前提としている。カントにとって理性能力とは、すなわち数学と物理学の方法であり知識である。
 「理性は自分の計画に従い、みずから産出するところのものしか認識しない。」             (『純粋理性批判』篠田英雄訳 岩波書店 p30)
 数学・物理学の知識は、理性能力の所産であるとともに、理性自体でもあるのである。しかしこれらの知識は有限であり、神・自由など(物自体)とは区別され理論理性の関係するものである。そして物自体を認識する理性は、実践理性と呼ばれ、道徳的命令が生ずる源泉とされる。このように理性を二種類に区別したのはカントの特殊性であり、道徳を知識に解消するのを避けるためになされたのである。
 我々の問題意識は、数学・物理学その他感性的直観の対象としての物を認識する理論理性に限られる。認識がどのような原理によって成立するかというのが、カントを含めて一般に西洋哲学の根本的な問題であった。それは認識論と言われ、存在論とともに同じ問題の他の一面をなしている。つまり<認識>とは<存在>するものの認識であり、存在を規定することは、存在を認識することだからである。今日では認識の対象(存在)は、感覚的・物質的・対象と非感覚的対象とにわけられ、認識された結果は両者ともに、人間という生命個体の所産であることは明白であるが、過去においては、認識された結果としての存在を、確実な存在とみなそうとする強い傾向があったのである(注)。従って認識されたものの確実性を保証することが、認識論の課題でもあった。

 (注)我々の見解によれば、認識は、進化の過程を経た経験的約束にもとづく言語的認識であると考える。言語的約束である以上自然科学的存在のような絶対的な認識の確実性はない。観念論はその問題の設定自体が誤っている。ヘーゲルはこう言っている。「認識の吟味となると、これは認識することによってでなければ不可能である。認識の道具の場合、道具を吟味するとは、道具を認識することに他ならない。」(『エンチュクロペディ』第十節 樫山ら訳 河出書房)ここに西洋思想の特色がある。だが、これは認識が先か、道具が先かというにわとりとたまごの問題設定と同じ誤りをおかしている。

 カントの試みの革新性は、認識主体のうちに認識を成立させる原理があることを発見し、今まで知識を所与のものとしていたのを、人間の認識能力の所産であることを明確にした点である。これは、デカルトの<考える自我>と経験論の<経験>概念と数学・物理学の知識を結合した結果であり、カント自身によってコペルニクス的転回と言われたものである。
 カントは、対象の認識を、対象が感性に与えられると同時に、認識主体内部に対象を規定する一定の仕方があって始めて成立するものと考える。認識主体の認識構造は二重になっている。まず対象を直観として受け入れる感性の形式として空間と時間があり、受け入れられた対象の直観を規定する悟性の形式(規則)として、特定の概念がある(注)。すべての概念は悟性概念であり、この内で認識(経験)が成立する以前に、ア・プリオリに悟性の中にあって、経験を規定するような概念を特に純粋悟性概念(カテゴリー)と呼ぶ。一般に経験から独立して存在する抽象的概念を規定するのが理性であるが、純粋悟性概念の発見も理性の仕事である。

 (注)カントによって経験が認識過程に限定されたことは、経験論からの後退であることは、前もって強調しておこう。ロックは概念自体が経験の所産であるという正しい主張を展開したが、カントは概念を所与の確実な前提であるとする西洋的伝統に従って、認識は、主体に内在する概念と対象の経験的結合によって成立するとした。

 以上のように、カントは認識主体の内部にある認識の規則(形式)を、ア・プリオリな悟性概念として構成した。我々は西洋的思考態度におけるこれらの概念のもつ意味を理解し、一般に<概念>が確実な与件ではありえず、経験的な歴史的所産なのだということ、および、人間の悟性(思考)の形式には、単に感覚的知識(判断)ばかりでなく、主観的選択的判断(欲求、願望)もあることを示して批判してみよう。
 我々の立場は、言語論で述べているように、まず概念とは言語であり、対象を表現する手段にすぎないこと、そして言語は、具体的な対象の表現から漸次抽象的一般的言語に発展したということである。また、判断は、対象の表現であり、言語を構成する(主語と述語の結合)ことによって成立し、客観的対象の判断(自然の描写等)と、主観的対象(意図.願望)の判断(価値判断)がある。
 ではカントの見解を具体的に検討してみよう。次はこの書の冒頭からの引用である。「我々の認識が、すべて経験をもって始まるにしても、・・・・・必ずしもすべて経験から生じるのではない。その訳合は・・・・・我々の経験的認識ですら我々が感覚的印象によって受げ取るものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が・・・・・自分自身のうちから取り出したところのもの〔悟性概念〕が付け加わってできた合成物だということである。(前出上巻一五二頁〔〕内は訳者による)
 ここで<自分のうちから取り出したもの>は、訳者が注をしているように<概念>(概念はすべて悟性の働きによる)である。認識は、この概念と感覚的印象の<合成物>として成立するのである。しかし認識は単に一つの概念と感覚的印象との合成物ではない。認識は、論理的な判断<命題>すなわち概念構成として成立するのでなくてはならない。「およそ悟性の認識は、例外なく概念による認識であり、直観的でなく、論証的な認識である。」(前出 p141)そこで認識が必ずしもすべて経験から生じるのではないという意味は、認識された合成物すなわち判断が、経験と関係をもたなくても論理的必然性をもつだけで成立しているということになる(注)。

(注)「或る種の認識は、一切の可能的経験の領域を捨て、単なる概念によって──というのは、自分に対応する対象が経験においてまったく与えられ得ないような概念によって我々の判断の範囲を経験の限界を越えて拡張するようにみえる。」(前出p62)ここで「単なる概念」とは、抽象的・想像的概念のことであるが、これが、数学的認識・物理学的に形成されたことはカントにとってはまったく問題外である。

 例えば、数学の命題がそうである。「数学は我々が経験にかかわりなしにア・プリオリな認識をどこまで進め得るかということの立派な実例を示すものである。」(前出p64)カントは、数学の命題(例えば2+3=15)が、経験から生じたのでたく、ただ論理的に生じ、論理的必然性と普遍性をもっていることを述べている。そしてこのように特定の命題が経験的証明を必要とせず論理的必然性をもって成立するとき、ア・プリオリな認識と呼ばれる。そして重要なことは、このようなア・プリオリな認識があって始めて個々の経験が可能になると考えられていることである。「もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、従ってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性を何処に求めようとするのだろうか。」(前出p67) 今日からみれば、論理的必然性が経験的証明に従属することは明らかであるが、カントはその逆であった。例えば、矛盾律は、我々にとっては経験的事実に従うが、彼にとっては、純粋に論理的なものと思われたのである。

 上の命題でカントの示すところは、すべての経験的認識は、概念およびその構成物から出来ている。そこで概念や概念構成が経験的な認識の所産であれば、それらは結局、相対的、経験的にしか規定されない(実はそれでいいのだが)。しかしそれでは悟性に含まれていて反省的に確認できる概念や、論理的必然性をもった判断(概念構成─数学的知識)の確実性の根拠がなくなる、そんなはずはない──というものである。
 この確信はまったく西洋の伝統的な思考態度から来ており、従来、プラグマティズムや分析哲学(H・ライヘンバッハら)によって2つの側面から批判された。一方(プラグマティズム)では概念をまったく生物学的に、道具・手段としてみること、他方(分析哲学)ではカントが基礎にしたニュートンの古典物理学の相対性から批判されている。そこで、我々もまたそれらの観点をひきつぎ、カントの概念およびその構成原理が、悟性や理性(両者の区別は、理性がより抽象的・一般的な対象の認識に関係する点にある)に、確実な前提として内在しているという見解を中心に検討し、批判してみよう。

 カントによれば、まず純粋理性批判の対象となる概念は、感性的直観によって受容される対象(数学・物理学等)に限られ、物自体(自由・神等)の概念には適用されないことが前提される。これは論理的必然性から来ているよりも、より多く、道徳的・信仰的対象を、単に<知識>として解消しないための恣意的とも言える解決法である。「私は信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった。」(前出 p43)
 こうしてギリシャ的な問いである「知識とは何か」に限界を設けたことは、道徳主義者カントの妥協でもあった。しかし、実践的知識も知識には変りないところから、その全体的原理を求める要求が起ってくる。この問題を西洋的伝統の内部で解決したのが、「概念の自己運動説」を展開したヘーゲルである。カントにおいて<与件>として前提された概念(実は言語のこと)は、ヘーゲルにおいては概念自らが弁証法的運動をするものと解されるのである。対象を数学・物理学・天文学に限定した上での概念構成(思考)の原理が、本来完全なものであることは言うまでもない。物自体は、それが実践的・道徳的であっても、やはり思考の対象であることには変りないからである。従って、思考を限定しようとするカントの意図は、悟性能力の内に、人間の欲求や願望という価値判断を捨象してしまう結果となってあらわれる。人間の判断.思考の対象は、感性的対象だけでなく、人間の感情や価値判断など生活過程として多くの主観的判断を含むのである。純粋悟性概念の中に実践的知識をも含まれることについては後に触れられるであろう。

 さて、獲得された概念の確実性の検討に話をもどそう。この場合、数学上と物理学上の概念に限定されてよい。我々の立場では、概念の確実性を云々する場合、経験的認識に用いられる概念は、それが如何に所与のものであれ、必ず経験的に獲得されたものであると主張する。つまり、認識を成立させるために悟性に内在する概念は、確かに認識を規定する条件になっているが、人間の所産でありその確実性は絶対的なものではない。カントを含めて、伝統的な思考態度にあっては、所与の概念の確実性を疑うことは、自己の存在を疑うことに等しかった。しかし人間による概念獲得(形成)の過程が明確にされれば、数学、物理学上の命題が、ア・プリオリなものだとして思考の規則の前提になることはないであろう。概念自体が獲得されたものであり、約束に基づいているのであれば、判断(命題)もまた、対象を再構成する約束に基いていることは明らかである。そして、数学の基礎となる数が、最も確実な概念とみなされるのも、まったく約束に基づいているからに他ならない。一を単位としてこれを無限に拡張していけることの発見、その呼び方に規則性を与える(例えば十進法)ことの発見は、数の約束性をよく表わしている。

 物理学的概念は、それが決して確実なものでないということが明らかになったのは、二十世紀にたってからのことである。例えば<物質>という概念について、それを<延長>として規定することができないこと、また物質の位置を究極において確定できぬことの発見(「不確定性原理」ハイゼンベルグ)は、<物質>の概念を根本的に変えてしまった。そして、物理学的概念のほとんど(質料・速度等)すべては、条件つきでのみ確実なものとされるのである。従ってカントは、概念構成の原理を探究する前に概念自体の確実性を探究する必要があったのであるが、それは西洋の歴史的伝統と社会的な限界をもっていたことは言うまでもない。そしてカントの欠陥は、人間観を過剰に厳格に規定する基礎となっているが故に、今日では有効性が薄れているばかりでなく、真理を追究するためには、障害となっているのである。

 概念の相対的・人為的性格を述べたあとで、カントの主たる目的である、概念構成(思考・判断・命題)の原理に進もう。この際に今一度対象が物理学と数学に限定されていることが注意されねばなたらない。この限定における欠陥は、前にも触れたが、以下カテゴリー表について述べるときに触れられる。まず、<ア・プリオリ>の意味が検討されなくてはならない。カントにあっては、〈ア・プリオリ>な認識とは経験に係わりなく、偶然に支配されず、従って論理的必然性と普遍性をもつ認識のことを言う。ここで注意されねばならないのは、ア・プリオリな認識をもつ判断は、それが成立する過程において如何に経験的であっても、結果においてその判断が経験に左右されなければ<ア・プリオリ>と呼ばれるということである。例えば、「2+3=5」の命題において、この命題は人間の経験的努力の結果獲得されたものであるが、一度必然的・普遍的なものとして成立すれば、<ア・プリオリ>な認識と呼ばれるのである。そして、成立した命題(判断)は、経験的認識を可能にする規則として定置される。これは物理学上の命題においても同様である。カントにとって重要なのは、事実を経験的観察にもとづいて表現するということでなく、表現された結果が、存在そのものの構造であり、体系であり、学であるということである。
 認識が何のためになされるかと言えば、知識の学的統一のために、ということになる。

 「理性の支配下にあっては、我々の認識は連絡のない断片的なものであってはならぬ。つまりそれは一個の体系をなすものでなければならない。認識はかかる体系となって始めて理性の本質的目的を助成し促進することができるのである。」    (前出下巻、p23)

 さて判断は<所与>の主語概念を述語概念によって分析したり(分析的判断)、主語概念とはまったく無縁の述語概念を付加し拡張する(綜合判断)ことである。そして特に後者の判断は認識を拡張するものであるから、その概念構成の原理の追求が直接の目的となる。概念構成は悟性の機能であるが、その原理は、数学・物理学の知識から導き出され、「先験的論理学」と名づけられる。しかしカントに従って、まず「先験的感性論」に触れておくのが順序であろう。我々は前に、認識の成立は、感性的直観に与えられる対象と、悟性概念の綜合によることについて触れた。

 「対象は、感性を介して我々に与えられる。また感性のみが我々に直観を給するのである。ところが対象は悟性によって考えられる。そして悟性から概念が生じるのである。」(前出、上巻 p86)

 そこでまず感性の、直観を受けとる<形式>が追求される。感性に概念的形式を見出すのはカントの特徴であるので、まずその誤謬を指摘しておこう。
 我々の立場からすれば、外的対象はまったく対象の物理的・化学的刺激として感覚器に受容される。そして対象が多様なままに受容されると、それは言語によって種々の区別(形・色・音・温度等)がつけられて表現される。この区別は決して対象についての完全な区別でなく、知覚された限りにおける区別である。 例えば、人間に紫外線や放射線は知覚されず、従って日常の意識では区別されないが、対象自体はあくまで存在している。
 従って、カントが<現象の多様な内容を或る関係において整理するところのもの>とした<形式>は、<空間>としては成立せず、人間の有限な感覚器官の内でのみ成立するということになる。空間は感性の形式としてあるのではなく、むしろ感性的存在自体が、空間の中に相対化されねばならないのである。この意味で、空間は有限な感性にとっての、無限ともいえる外的環境に他ならない。にもかかわらず、この環境が悟性によって<空間>と名づけられたのである。

 だから概念としての空間は、カントの言うように、感性の形式としてはありえない。空間概念は、感性に比べて無限に大きな概念なのである。以上は<空間>について述べられた。<時間>についても同じように説明することができる。空間概念は知覚のうちでも特に視覚について言われるが、時間概念は<記憶>と切り離して考えることができず、記憶によって、永遠の広がりをもつ時問の流れは、悟性の区別によって自覚される。それは感性の形式(機能)を越えた、はるかに大きく、より人間的な内容をもつ概念なのである。
 しかし、空間・時間の概念が、感性ないし悟性を有する人間をも相対化するには、進化論と生物学の発達が必要であった。知覚するもの、思考するものが、絶対的な存在ではなく、空間と時間の拡がりの中の一部であることは、今日では常識の部類に属する。しかし、カントのように空間・時間を「認識の条件」と考えることは、人間の認識能力を絶対的なものとみなす西洋的思考の隈界として始めて理解されうるであろう。
 カントは空間・時間が主観に属し、観念的なものであると考えることによって、実は、多様な環境の中に生活している人間の存在を過度に純粋化し、そこに安住するのである。

 「空間と時間はどのようなものであるか。現実に存在するか。」という問に対しては、その問自体が愚問であること、「空間と時間」は無限と永遠の拡がりをもつ存在に対する名称(言語)であり、感性をもつ人間はその中の一部分にすぎぬことを示せば十分に理解されるであろう。空間・時間とは、感性・悟性を超えた、それ以前の問題であり、我々の知識は、それらに対する断片を示すにすぎないのである。(「ビッグバン」という宇宙創生の仮説が、いかに西洋的な思考様式のもとに創造されたものであるか、その実証不可能な理論の限界性もまた我々の観点から説明しうる。)

 では次に、悟性(思考)能力そのものを解明するという「先験的論理学」をみてみよう。カントの理性批判の本旨とする先験的哲学の仕事は、「ア・プリオリな概念をその出生地であるところの悟性においてのみ求め、悟性の純粋使用を分析することによってこれらの悟性概念の可能性を究明することにある。」(前出 p19)つまり、経験概念をその根源において支配する純粋概念の発見である。

 「純粋概念のいわば胚芽と発展の素質とは人間の悟性に宿っている・・・・・。純粋概念は、かかる胚芽ないし素質として触発を待っている@のであるが、遂に経験を機縁として発展しA、またこの同じ悟性によって、自分に付着している経験的条件から解放せられB、その純粋な姿を開顕するのである。」(前出上巻 p139)

 概念構成の原理(悟性・思考・判断の原理)は、カントによれば、純粋悟性概念によって規定されている。この純粋概念は、人間の悟性に宿っているものの発展として理解される。へーゲルの用語を借りれば、引用文の傍線@は、即目的状態にあり、Aは対目的状態、Bは即且対目的状態として概念がその姿を最も純粋に現わしたものである。そしてAの状態は経験科学としての数学・物理学上の概念・知識として、Bはカントの先験的哲学自体の仕事として理解されよう。カントによれば、概念の純粋な姿──すなわちカテゴリー表(量・質・関係性等)はこうして完全なのである。このように、カントによる「概念の完全性(確実性・必然性)の証明」という西洋思想の任務が一応の解決をみた。
 しかし繰り返すが、概念は与えられて在るものが、開顕するものではなく、人間によって経験的に獲得されてきたものであり、つねにその内容の更新がなされねばならないものである

 「かかる完全性は、ア・プリオリな悟性認識の全体という理念士、この認識を構成しているすべての概念をかかる理念に基づいて適確に分類することによってのみ、従ってまたこれらの概念を関運させて一つの体系にすることによってのみ成立しえるのである。」(前出上巻 p17)
 我々は二つの観点から、カントの努力の成果を批判的に解釈しうるであろう。一つには、学の体系の完成に役立ちうるという点については、知識自体というものが存在せぬ以上、カテゴリー表は何の意味ももちえないだろうということである。知識の意義は、生命の生存を基本的問題意識として、経験的事実の集積を通じて獲得され利用されるべきものであろうということである。他の一つは、判断の対象(内容)が、自然的・客観的対象に限られて、主観的選択的判断が道徳哲学の中で神秘化──定言命令として──されていること、そのことによって複雑な社会環境の中で生活している個々の人間の条件を無視し、結果として人間に対する厳格すぎる道徳を強いるものとなるということである。

 こうしてカント哲学は、西洋思想の限界性における、近代の物理学・数学を基礎においた哲学上の一成果である。つまり、概念とそれによって成立する認識や、数学・物理学的世界を、ロゴスによって与えられた論理的な、概念表現の完全に可能なものとして理解したため、その合理的秩序の確実な根源(純粋理性の原理)の発見が任務とされ、認識を成立させる概念(言語)もまた合理的なものと考えられた。
 しかし世界に対する人間の知識は、概念の成立(人類の言語の獲得)によって合理化されたのであり、その成立の過程(絶えずその内容が検討されねばならない)こそが問題とされねばならない。にもかかわらず、カントは数学・物理学の論理化された結果のみから、概念の根拠を体系化しえたと信じたのである。しかし今日では物理学・数学的知識の存立の基盤自体が問題とされているのであり、我々は数学・物理学的に世界を論理化(把握)してゆく過程、認識する過程、概念を成立させる過程──すなわち生きてゆく過程(何がどうあり、どのように判断すべきか)をこそ重視せねばならないのである。
 人間存在に対する共通理解は、人間にとっての言語すなわち概念の役割を科学的実証的に解明するとき始めて可能になるであろう。
『純粋理性批判』から得られる知恵

イギリス経験論から学ぶこと
 すでにカントにとってのヒュームの意義は述べてきたが、あらためてカント哲学の限界(それは西洋思想の限界でもある)をどのように乗り越えるかを考えてみる。我々もまたヒュームの問題提起を創造的に取り入れることができる。

「ヒュームは,形而上学だけにある唯一の,しかしこの学にとって重要な概念――すなわち原因と結果との必然的連結という概念(従ってまたそれから生じる力及び作用の概念等)を,彼の考察の主たる出発点とした。そして彼は,この概念を自分自身のうちから産出したと称する理性に対して弁明を要求した。・・・・・ヒュームの証明はこうである,――概念だけからア・プリオリにかかる結合を考え出すことは,理性にはまったく不可能である,この結合は必然性を含むからである,とにかく何か或るものが存在するからといって,何か他の或るものまでが存在しなければならぬという理由や,それだからまたかかる必然的連結の概念がア・プリオリに導入せられるという理由は,まったく理解できないことである。ヒュームのこの証明は,反論の余地のないものであった。」(『プロ』邦訳 p14下線は引用者)

 カントは因果関係の問題を「原因の概念の起源の問題」ととらえア・プリオリな純粋悟性概念を着想するに至った。われわれにとって原因の概念の起源は,認知と行動の様式である「疑問の形式」からであると答える。つまり「何がどのようにあるか」は「何がどうなるか」「何が何をどうするか」を含むものであり,主語が原因となって結果としての述語を導くのである。たとえば,「万有引力がりんごを落とす」これこそがア・プリオリな形式なのである。そして科学的方法とは、事実の観察と検証から仮説を構成することによって、客観的な知識を獲得する。絶対的知識への疑念は健全なものであるが、我々にとって確実なものとは生命の発露としての欲求と感情反応であり、それらを確実なものとするのが知覚と言語的認識なのである。
 イギリス経験論の祖ともいわれるF. ベーコン(1561-1626 )は、『ノヴム・オルガヌム[新機関]』において「知は力なり」と述べ、経験科学的知識による人類福祉の時代の到来を予言した。イギリス経験論は、結局、旧来の秩序を破壊する懐疑論と資本主義の発展を支える功利主義を生み出し、科学技術の発展による物質的豊かさと、自由平等を実現しようとする社会契約で結合した市民社会をめざす「福祉welfare」概念に結実していった。そしてそれは世界的規模で実現しようとしている。しかし人間生命にとっての知識は、今日では、生命の代表としての人間として生きるための知識でなければならない。すなわち,人間の知識は単なる自然を支配する力としての知識や隣人・生命を犠牲として成り立つ社会の知識ではなく、地球共同体すべての成員が人間を自然と社会に正しく位置づける正義と公正の知識でなければならない。単なる物質的豊かさや旧来の伝統に支えられた利己心や既得権益に基づく社会契約ではなく、地上の生命全体の永続的生存を目ざす新しい知識と契約を必要としている。つまり単なる諸個人の功利的経験の総和によるのではなく、人間の存在を意味づける言語的本性にもとづいた生命存続のための知識を必要としているのである。


純粋認識と経験的認識との区別は有効か
 カントにとっての哲学的認識論の最大の課題は,独断的形而上学の批判よりもむしろ、懐疑論をもたらす経験論哲学の克服であった。ロックによる経験論では、我々の認識は,対象にしたがって「白紙の心」に受動的に植え付けられるというものであった。カントはこの考え方を,いわゆる「コペルニクス的転回」によって、認識主体に対象を受け取り構成する形式・規則があると考えた。そしてそのような形式・規則を経験の助けなしに成立させる認識を「純粋認識」と考え,「経験認識」から区別した。

「我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても,そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。その訳合いは,恐らくこういうことになるだろう。即ち――我々の経験的認識ですら,我々が感覚的印象によって受け取るところのものに,我々自身の認識能力が(感覚的印象は単に誘因をなすにすぎない)自分自身のうちから取り出したところのものが付け加わってできた合成物だということである。」(『批判』B1)

 この有名なカントの主張は,今日の生物学的認識論においても正しい。しかし「我々自身の認識能力」がどのようなものであるかは,自然科学的な実証を必要とする。カントはこの能力を「悟性概念」であると結論づけるが,「概念とは何か」という問いを欠如させ、言語との関係を封印した「概念論」は西洋的独断に陥いらざるをえない。言語についての考察を欠いた概念による認識論はありえず,言語的認識を超越した「純粋な認識」もありえない。我々自身の認識能力は,言語的認識能力の解明なくしてありえない。経験を超越した「純粋認識」という発想は、西洋的認識様式の限界において言語や概念(ロゴス)を与件と考えることに起因している。言語(概念)が個人や社会にとって与件または理性的思考の結果と考えられてきた背景は、言語が人間主体の経験的創出物であるという生命言語理論の発見によって初めて明らかにされるのである。

ア・プリオリな認識の根源は、生命・言語である
 カントによれば、純粋な認識は,空間・時間の直観形式と判断を構成する純粋悟性概念(因果関係などのカテゴリー)によって成立する。純粋な判断の存在は数学的認識がその代表とされる。

「我々はかかる必然的な,また厳密な意味で普遍的な,従ってまたア・プリオリな純粋判断が,人間の認識に実際に存することを容易に証示することができる。その一例を緒学に求めるならば,数学の命題の中からどれ一つを取ってきても事足りるのである。」(『批判』B4)

 数学が経験をこえた必然的な命題から成立しているというのは,西洋思想の特色を示す好例であり、今日においても哲学的な議論が行われているが結論が出ているとはいえない。本書でも前章で触れたが,我々にとって数学は,人間的経験において創造的に構成されたものであり,論理的に必然的な確実さをもつのはそのためなのであって,経験を超越したア・プリオリなものではない。むしろ数学的命題がロゴスや言語のようにア・プリオリにみえることこそ西洋的思考の特色であり限界なのである。
 数学的完全性は人間の創造物である。このことはカント的世界観すなわち西洋思想的世界観を批判するわれわれの基本的立場であり,純粋理性批判の前提に対する基本的観点の相違である。数学の原理については他の場所で詳述している通りである。(数学の原理は,1と2を区別したことに始まる。つまり1に1を「加える」ことが,数という人間的な存在を創造し,四則を始めとする数学的法則を生み出すことになった。――カントが「数は1を1に順次に加算することを含む表象である」(『批判』B182)というのは正しいが,「加算する」ことの人間的意味についての考察は欠如している。――また幾何学の原理も同様に人間の所産である。自然界に点・線・三角形・円など純粋に定義されたものは存在しない。これによって人間は自然的対象を,点や線、数によって秩序づけることが可能になったのである。)
 カントは認識とその結果としての知識の確実性を求めて,経験を支配する規則,形式,概念を求めた。しかし科学的知識は、実証科学の方法論の常識や哲学的には、J.デューイの主張のように仮説的なものであり、確実性には限度がある(『論理学:探究の理論』)。認識をより確実にするための根源的な基準は自然科学的に確認しうるものであり、すでに自然科学的方法として確立している。しかし残された課題は認識における言語の役割についてである。認識論の課題の解明は,人間的言語的認識の解明によって初めて可能となるのである。                                             
直観は「受容性」だけでなく主体的「判断性」をもつ
 直観はカントが前提とするような「受容性」のみにその特性があるのではない。人間は感性的直観も含めて、外的対象を<生存のために>認識する。つまり直観における主体的積極的選択的特性も重視されなければならないのである。

「直観は,対象が我々に与えられる限りにおいてのみ生じるものである。ところで対象が我々に与えられるということは,少なくとも我々人間にとっては,対象がある仕方で心意識を触発することによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)を感性という。それだから対象は,感性を介して我々に与えられる,また感性のみが我々に直観を給するのである。」(『批判』B33下線は引用者)

 すでに前編や第1章で検証したように、動物は種の生存様式に適合した認知行動様式をもっており、環境に対して積極的に働きかける。つまり人間以外の動物にも感性的直観の形式はあり、外界の対象を受容的に認識するだけでなく,欲求や興味関心に伴う問題意識によって判断や洞察、欺き等の思考判断が行われる。判断と思考は、人間悟性による概念的言語的なもののみではない。それは直観的判断ないし直観的思考と呼ぶことができる。我々はこのことを生物学的認識論(前編第2章)において十分に解明してきた。
 カントの想定する直観形式としての空間・時間は,認識の前提や条件となるような形式ではない。両者はわれわれ認識主体が対象を認識し分析する限りで意味をもつ経験的・創造的な概念である。空間・時間は無限な存在として規定されるが、認識主体は個々の経験によって認識・理解された部分的または有限的な空間・時間の概念をもつ。人間にとって
空間・時間は,物質とその現象(運動)の<存在形式>であって,認識を成立させるための直観形式としてあるのではない。すなわち,物質・生命、運動・現象をどのように世界へ位置づけるかという疑問――何時・何処に・どのように(when,where,how)――の解答として概念化されたものである。従って,空間・時間の概念は,歴史的にも人間の認識への努力と発見,科学的世界像の進展によって変化してきた。ギリシャ神話の時代から,アリストテレス,ニュートン,そして現代の相対性理論,量子論、膨張宇宙論等の世界像は,その変化を示している。いかにして物質とその現象を的確に把握し表現するか,この科学的発見の過程で,空間・時間の認識が拡大深化してきたのである。従って直観・認識の形式があって空間・時間の形式があるのではなく,空間・時間のうちに物質とその現象があり,人間の科学的知識の追求――知的好奇心の充足つまり疑問・問題意識の解明によって物質の現象を、様々の基準(時間、距離、質料等)を設けて空間・時間の中に位置づけてきたのである。

哲学はア・プリオリな認識の可能,原理および範囲を規定するような学を必要とする
──それは概念を分析する学である、だがより正しくは言語を分析する学である
 『批判』の冒頭、“緒言V”の標記の命題「哲学はア・プリオリな認識の可能,原理および範囲を規定するような学を必要とする」は正しい。しかし、それはカントのように認識の解明から言語を排除することではなく、概念を言語から導き、概念のア・プリオリ性と言語のア・ポステリオリ性から、判断・命題の言語哲学的根拠を解明することでなければならない。またカントが懸念したように、もし経験論が経験を認識の起源であるとすると,道徳的問題についても経験的な知識となり,「神,自由及び不死」なども諸個人の勝手な判断に任されてしまうことになる。そこでカントは数学と同じように絶対確実な認識の根拠を示す必要があると考えた。カントの認識論は、厳格な道徳命法を根拠づけ正当化するために、経験や主観に左右されない「純粋理性」や「純粋概念」を創定したのである。それが一切の経験を必要としない先験的な判断をおこなう「純粋悟性」であり、純粋悟性において機能する「純粋悟性概念」を産出する「純粋理性」であった。

「純粋理性にとって避けることのできない課題は神,自由及び不死である。そしてこれらの課題の解決を究極の目的とし,一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。」(『批判』B7)

 西洋哲学にとっての最大の課題は神の存在証明であった。神は全知全能であり人間の認識においてもその絶対確実性が論理的に証明されなければならない。それが可能なのが純粋理性なのでる。しかしその困難な課題の解決を「我々のすでにもっている種々な概念の分析するところにある」(『批判』B9)とカントは考える。カントが概念をどのように考えたか。これはカント批判の要となる。カントは種々の次元の種々な概念を想定するが、いくつか例示してみる。

@「概念は、経験的概念であるかさもなければ純粋概念であるか、二つのうちいずれかである(Der Begriff ist entweder ein empirischer oder reiner Begriff)。純粋概念が、悟性にのみその起源をもつ限りそれは悟性概念と呼ばれる(der reine Begriff, so fern er lediglich im Verstande seinen Ursprung hat heist Notio. )。悟性概念から生じて、経験の可能を超出するような概念 は、理念即ち理性概念である(Ein Begriff aus Notionen, der die Moglichkeit der Erfahrung ubersteigt, ist die Idee, oder der Vernunftbegriff. )。」(同上B377 一部略、原文・下線は引用者)
A「純粋理性概念の客観的使用は常に超越的である。これに反して純粋悟性概念(reinen Verstandesbegriff) の客観的使用は、その性質上必ず内在的でなければならない。このほうの客観的使用は可能的経験だけに制限されているからである。」(同上B383)
B「直観なり概念なりが、感覚を含んでいれば、それは経験的であるし、またその表象にいささかも感覚を交えていなければ、それは純粋である。・・・それだから純粋直観は形式だけを含み、この形式によって何かあるものが直観されるのである。また純粋概念は、対象一般を思惟する形式だけを含んでいる。かかる純粋直観或は純粋概念のみが、ア・プリオリに可能であり、これに反して経験的直観或は経験的概念はア・ポステリオリにのみ可能である。」(同上B123-24)
C「悟性から概念が生じる」(同上B33)
D「悟性はもともと概念の能力である」(同上B199)

 さて以上の引用から何が分かるであろうか。経験的概念とは、引用Bから、経験を含みア・ポステリオリに産出されるから、通常の言語と読み替えることができるので、それほど問題はない。しかし@にある純粋概念と悟性概念(Notio)は極めて問題が多い。そもそも(生命言語理論からみると)純粋概念とはカントの創造した恣意的な概念である。通常の概念は、言語記号で表示する「対象の意味内容を表す」(犬や猫の概念は?・・・・であるのように)が、カントの純粋概念とは感性的経験を超越してア・プリオリに成立し「対象一般を思惟する形式だけを含んでいる」、つまり、この純粋概念の形式によって直観に対応する対象が思惟されるというのである。再びそもそも人間の思惟(denken, think)とは、生命が生存するために、対象(環境)を認識し自己の行動を選択判断する(認知反応)過程である。もし悟性(思考能力)に言語(概念)的思考の形式があるとすれば、それは「何はどうあるか?」という疑問に対する「甲は乙である」という主語・述語の形式であることに異議を唱えることができるであろうか。
 しかしカント的、西洋的観念優位の思考様式(習慣)にとっては、この発想ができなかったのである。彼らにとって認識は、存在するものの判断と確定なのであるが、それは概念によって行われるから、DEのような命題が生じる。しかも概念の根源をさかのぼると、つまり@のように、<悟性にのみその起源をもつ>《notio》(notion)が出現する。《notio》は確かに「悟性概念」と訳すこともできよう。しかし《notio》は概念生成の根源であり、経験の可能を超出するような概念<理念即ち理性概念>を産出するのである。いわば人間の思考を規制し支配する根源なのである。それは「何はどうあるか?」という疑問の余地のない思考を生み出す原理であり思考の根源(アルケー)なのである。人間存在というのは、その精神(心)の中に、経験に左右されないで認識や思考を成立させる「純粋」な理性や悟性や概念の形式原理があるのではない。少なくとも概念に関しては、言語記号なしに意味内容はありえないし、記号の意味内容は経験的に理解される以外ないのだから、記号としての「因果性」や「関係性」などの「純粋」悟性概念も経験的に産出(獲得・創造)すると考えざるを得ない。西洋観念論哲学において、人間的本性から《notio》(概念・イデア・ロゴス)が案出されたとしても、それらは根源(アルケー)とされるべきではなく、むしろそれらの原理がどのようにして生成したのか、「概念とは何か?」「ロゴスとは何か?」等が疑問と探求の対象にならねばならなかったのである。それは同時に、概念や理念、神や自由等々は、言語の下位概念であり、言語は生命の下位概念であることが解明される必要があったのである。


カントの時間・空間は感性形式か悟性形式か
 カントを批判したJ. ハーマンは、すでに紹介したように『批判』における「感性」と「悟性」の分離に言及したが、この問題は後の哲学者達にとって頭痛の種となった。ヘーゲルは概念の「弁証法的発展」を用いて解決しようとした(『精神現象学』)。ショーペンハウエルやニーチェは、カントの理性や悟性の優位性を嫌悪して、感性や意志を重視し人生の不条理を説く<生の哲学>を始めた。それに対し、カントに忠実であろうとする新カント派のコーエンやナトルプは、感性と悟性の統一的理解を求めて、知性と感情と意志の調和的発展を目ざした。またE. カッシーラは、「言語と言語的思考形式への批判が、前進を続ける科学的・哲学的思考の不可分の構成分になる」(『シンボル形式の哲学』<一>p35)として言語や象徴の研究にすすんでいった。なおカントにおいて不十分であった客観的自然認識に対する認識主体(考える自我、コギト)の位置づけは、現象学の課題であったが、フッサールやハイデッガーにおける失敗は、西洋観念論哲学の限界ないし終焉を意味している。
 ここでは実存哲学者M. ハイデガーのカント批判を紹介しておこう。

「[マールブルク学派の]コーエンとナートルプは,彼ら以前のだれ一人として為しえなかったほど判明に,『批判』に究極的・包括的な統一性が欠落しているということを感知していた。――つまり詳しく言えば,超越論的感性論と超越論的論理学とのこうした統一と,そしてこの統一の根拠とが,カントによっては表明的に光のもとにもたらされていなかったし,また光のもとにもたらされることもありえなかった,ということである。」(『カントの純粋理性批判の現象学的批判』邦訳p84)
「マールブルク学派は超越論的感性論を本来論理学に属するものと捉え,したがって空間と時間の直観を思惟の形式として,すなわちカテゴリーとして捉えるのである。」(同上p132)

 新カント派に属するマールブルク学派は、感性的直観にも悟性的論理が含まれていることを示したが、19世紀の諸科学の発展が、カント的独断を許さなくさせたのであろう。

「カントの超越論的哲学の体系のうちで,時間と空間とが[つまり超越論的感性論が]対象の思惟の法則[つまりカテゴリー]の前に置かれているということは,きわめて重大な過ちであり,いずれにしても,先取りをしたという意味でのみ理解可能で許諾しうるものである。もっと厳密に体系構成がなされたならば,時間や空間は恐らく様相のところに,つまり現実性のカテゴリーのところ[すなわち論理学のところ]に,その場所を見いださなくてはならないものであろう。」(ナートルプ『精密な学の論理的基礎』1910 p276 上記引用 p83)

 ナートルプの批判は正しい。生物学的に考察すれば,空間については感性的直観によって認識しうるが,少なくとも時間については概念なしに認識することはできない。動物において空間は,視覚や触覚・聴覚ないし身体感覚によって認識が可能である。また時間については、生命細胞本来がもつ学習能力によって過去の判断・行動様式を記憶しうるが,未来についての時間感覚は感性的直観においてはほとんどない。学習はあくまで過去の経験の蓄積であり、言語は構想力によって初めて未来を展望することができる(イヌが主人の帰りを待つのは、学習による条件反応である)。過去・現在・未来にわたる時間感覚は,言語的な時間把握すなわち時間概念の獲得なくしてありえない。このような見方によって、空間についても概念的な悟性的認識の必要性が理解でき、人間的認識の整合性が得られるのである。生物的人間的認識にとってまず基本は、生命自体が自らを世界の中への位置づけることであり,世界を対象それ自体として認識するという学的認識はその基礎の上にのみ成立しうるのである。そして西洋思想の伝統として,世界を対象それ自体として認識しようとするところから全体的な唯一の空間・時間の存在(という観念)が必要となるのである。

空間と時間論 先験的(超越論的transzendental)感性論とは何であったか
 カントの空間時間論については、新カント学派やハイデガー等によって感性的形式であるかどうかの疑念が表明された。我々もまた生命言語理論の立場から、空間時間は認識の形式ではなく、人間の概念的(言語的)存在として創造されたものであるとしてきた。ここではさらに、カント時代のガリレイ的ニュートン的物理世界の空間と時間の考え方と、現代の相対性理論による時間と空間の考え方の違いを検討することによって、カント並びに西洋的観念論哲学の限界を解明しておく。相対性理論の創始者アインシュタインは、古典物理学の時代の常識を「錯覚」と批判し次のように述べている。

「相対性の理論が発表される以前にはびこっていた錯覚――つまり,経験の立場からすれば,空間内で離れている出来事についての同時性の意味,つまり物理学における時間の意味は先天的に明白であるとする――この錯覚は,われわれの日常経験においては光の伝播する時間を無視することができるという事実にその起源をもっていました。」(『物理学と実在』p219 下線は引用者)

 上記の下線部は、ニュートン(カント)的世界観の限界(錯覚)をわかりやすく説明したものである。日常的な経験における時間の同時性は「局所的」なものであり,離れた空間における同時性を確定する客観的絶対時間は存在しない。このことは、カントの時間概念がマクロの領域においては「直観の純粋形式」として成立しないことを示している。なぜなら時間を直観的に捉えるのは「錯覚」そのものであるからである。また「あらゆる経験に先立つ思惟の必然的結果がユークリッド幾何学の基礎をなしており,その空間概念もその種のものとする誤り,この致命的誤謬は,ユークリッド幾何学の公理的建設の根底にある経験的基礎が忘れさられてしまったということに基づくものであります。」(同上p218)とされる意味は、カントにとっての理論的基礎となったユークリッド幾何学の公理が、実は、人間の想定した経験的的仮説であって、カントの考えるような認識を規定する原理的形式ではなく、経験的に建設された人間の創造物であることを示唆している。ここにカントの空間と時間にかかわる認識論の誤りが、相対性理論によって明確に否定されたのである。
 
また数学・物理学・天文学者であったH. ポアンカレは、感覚から得られる表象を、カントのような直観的形式による「受容」とはみなさず、これを感覚を通じた「再生」であるとしている。「われわれの表象は感覚の再生にすぎないから,この表象は感覚と同じ枠である表象空間の中にしかはいらない」(『科学と仮説』邦訳p172)彼は空間の認識において、空間的直観形式よりも主体の感覚を重視している点で正しい方向に向かっている。しかし表象は主体によって対象を知覚した時点ですでに単なる「再生」ではなく再構成されたものである。
 ここでアインシュタインの相対性理論と時間・空間について整理しておこう。
@ 物質(運動またはエネルギー)を規定する空間と時間は,光を媒介とする観測者の座標系と分離して考えなければならない。しかも光は物質の重力によって歪められる。
A 空間と時間は認識主体の認識形式ではなく,対象それ自体として存在している。しかし相対論的世界認識においては,認識主体とは異なる座標系を考慮しなければならない。つまり一つの座標系や観測者の座標系の基準だけでは対象を確定できない。
B ニュートン的世界では,絶対時間と絶対空間があって静止した物質の存在を前提としている。従って運動は静止があり,始まりと終わりをもつことができる。しかし相対性理論では絶対時間は存在せず,従って運動は空間と時間として確定できない。つまり,空間・時間は運動とともに人間の主観から独立の存在なのである
C 物質の運動の世界への位置づけは時間と空間で規定するが,その現象形態は多様であり素粒子の段階の変化から,電磁波(熱,電波,光,磁力)を発生したり,化学変化(合成,分裂,爆発等)を起こしたり,宇宙の階層的な存在構造を示す。ただし現在の物理学の知見では,素粒子的ミクロの世界と,宇宙的マクロの世界では,空間と時間で対象の位置や速度,エネルギーを確定することが可能ではないばかりか,不確定性が積極的に主張されているのが量子物理学的世界観である。
 行列力学と不確定性原理によって量子力学に大きな貢献をした理論物理学者のW. ハイゼンベルク(1901-76)は、次のように述べている。

「現代の精密自然科学の自然像について述べられるとすれば、それは実際はもはや自然の像ではなく、自然に対するわれわれの関係の像についてである。一方には時空間における客観的経過、他方にはその経過を自身に写す精神とに分ける世界の古い分剖、それゆえ思う者[精神]と広がっているもの[延長・物質]に分けるデカルトの区別は近代自然科学の理解への出発点としてはもはや適切ではない。・・・・・自然科学はもはや観察者として自然に立ち向かうのではなく、人間と自然の相互作用の一部であることを認める。分離、説明そして整理という科学的方法は、方法が対象をつかむことによって対象を変化させ、変形するということ、それゆえ方法はもはや対象から離れえないということによって課されるその限界を知るに至る。したがって自然科学的世界像は真に自然科学的なものではなくなるのである。」(『現代物理学の自然像』邦訳斜体は傍点,下線は引用者p23)
 
カントは自然科学をどのように考えたか
「定義1 物質とは空間のうちを運動可能なものをいう。それ自身運動可能な空間は、物質的空間あるいはまた相対空間と呼ばれる。あらゆる運動が究極的にはそこで考えられるべき空間は(そうした空間自身はそれゆえ,端的に不動である),純粋空間もしくは絶対空間とも呼ばれる。」(『自然科学の形而上学的原理』p22 下線は訳書では傍点)

 物質とは運動可能なものではなく,運動そのものである。また「相対空間」は観測基準の相対性を意味しているが,それは絶対空間と絶対時間を前提としたものであり,当然相対性理論とは関係がない。

 「絶対空間は現実的な客観の概念として必要であるのではなく,あらゆる運動をそこにおいて単に相対的なものとみなすための規則の用をなすべき,一つの理念として必要なのである。」(同上 p153)

「我仮説を作らず」と述べたニュートンと異なり,カントは「絶対空間」を現実的なものと考えず,理念的なものとしている。この点は認識主体のア・プリオリな形式を考えたカントが,観測者の視点を取り入れた現代の相対性理論の立場により接近しているといえよう。しかしカントにあっては,観測における光の速度に対する理解が欠けているために,以下のような見解で満足せざるを得ないのである。

「経験(すなわち,あらゆる現象に妥当するように客観を規定する認識)においては,相対空間のうちを物体が運動しようと,あるいは,その物体が絶対空間のうちで静止していて相対空間のほうが反対方向に等しい速度で運動しようと,そのあいだにいかなる区別も存在しないわけである。」(同上 p146)
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