日本文化論
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                 日本国憲法改正の三条件  普遍的道徳と日本文化の役割


─世界に開かれた日本人のアイデンティティ確立のために、また─
―新しい日本文化の創造による世界の永遠平和と幸福のために―

             日本的心性の弱点(甘え・諦め・曖昧)克服のための日本文化論
日本を強い国にする。
日本を誇りある国にする。
日本を尊敬される国にする。
日本文化によって世界平和を実現する。
そのために、まず日本文化について知る。
なぜなら、日本国は日本文化の基盤の上にあるからである。
今までの日本は、国家があって文化があったのではなく、
日本文化の多様・豊饒性があって、日本国家があったのである。
その上で、過去の国家、政治、経済、社会はどうであったのか?
また、これからの日本はどうあるべきなのか?
世界に向けて、強くて、誇りあり、尊敬される日本国とは何かを考える。
日本の希望、求めるべき道、進むべき道はここから造られる。

                (続きはこのページ末です)
―新しい日本のかたち・・・・日本文化の伝統である「和の精神」をふまえ、
          その限界を克服して、日本人自身による新しい日本を創造しよう―

はじめに
日本文化の地理的位置づけと歴史的変遷:一般化の危険性(例:単一性、純粋性、独立性)
     アジアの中の日本と独自性の展開(純粋性=風土と雑種性=琉球・朝鮮・アイヌ)
日本人的心性の特徴:多様性(自然・ありのまま)を受容(依存)する抑制的情緒(素朴な抽象性)
日本文化の長所と短所:心情倫理の功罪→依存・互助、自律性の欠如、和の精神・曖昧性と排他性
伝統的社会関係と文化:権力者・支配者と文化、権威・権力・制度を単純で融和的に合理化する文化
1.日本の風土と和の精神(価値観の源泉)
・温帯モンスーン気候:春夏秋冬四季の移ろい、変化に富む地形、「花鳥風月」を愛でる
・自然への依存と融和:─厳しさ(畏怖)より優しさ(優和)─自然(神)との一体化(多神教)
・日本列島の地理的特異性:人種・文化の多様性と交流、民族的抗争・支配の乏しさ
・『枕草子』(清少納言)、『風土』(和辻哲郎)、自然を対象化・支配せずに自然と共生
2.稲作農耕と和の関係性
・自然融合的生活:自然との融和(神を祀る)、人間関係における宥和(自己の立場への忍従)
・ムラ社会:集団依存的社会規範、甘えと寛容と排除(村八分)、ウチとソト(ウチへの気遣い)
・他者依存的人間関係:敬語・人称代名詞の多様性、世間体(ウチ)と恥、情緒的人間関係
     ソトへの不信と取り込み、「自己中心語の他者中心的用法」(『ことばと文化』鈴木)
・自然融合的合理性:支配ではなく共生、自律的でなく他律的(依存的・情緒的)合理性
3.日本的思考様式の特性
・因果関係の曖昧性:時間の推移、「森羅万象(自然)」の生成(非創造)→内発的自発的生成、
         主語(主体・原因・目的)の欠如→余情・余韻への美意識、単純・無心
・感情言語の抑制的使用:『古事記』における事象の多様性肯定(ありのまま)と「清き明き心」
       ─言霊─、日本的曖昧さ→現実主義・功利主義・実用主義・快楽主義
・感情の後付的合理化:先情後理→「神ながら言挙げせぬ国」、主客未分離、自然との共生
・日本語表現の特性:古典表現の英訳との比較(日本語における主語や主観的判断・感情の省略)
       因果関係の曖昧性、状況規定的話法:文脈の曖昧性(主語・述語・目的語の省略)、
       →論理の不明確さへの愛着→和歌・俳句、「源氏物語」「枕草子」謡曲・等
4.神道と仏教─霊と心
・自然融合的信仰(天地人):アニミズム(自然精霊主義)、融和・曖昧・諦め・神秘主義、
・神ながら(惟神)の道:現世利益、死者の神格化、神慮(霊性)の曖昧性・無責任性、禊ぎ祓い
・大乗仏教の神秘性:鎮護国家・加持祈祷・現世利益『法華経』→鎌倉仏教・末法からの個人救済
      『般若波羅密多心経』の呪術性→「色即是空」生命・言語(知識)現象の大乗的曲解
・神仏習合:本地垂迹→八百万神と三世諸仏の融合→神(清明心)仏(解脱哲学)の本質からの遊離
5.死生観と美意識の変遷
・縄文から弥生へ:土器の形象→呪術的世界観から言霊的・抽象的世界観へ
・古代から中世へ:朝廷(神々)の権威による秩序→封建(侍・武力)的人地支配と仏教の無常観
・死後と現世の近親性:黄泉の国(穢れ)と祖霊神、仏教的極楽往生、日本的現世中心主義
・憂世と浮世の共存:和歌・俳句、仏教説話、源氏物語・平家物語→武士と町人の文化へ
・自然と生活:料理・茶道・華道、能・歌舞伎、和歌・俳句、美術、建築→自然素材・題材の重視、
・自然の永遠性・包容性への信頼・感動→自然(と共に)に生きる(現世主義)・自然の抽象化(昇華)
6.神道と天皇制イデオロギー
・天皇制と権威主義:日本的権威「記紀神話」→安定と依存の源泉、政治権力の正当化
・神秘主義の集約化:自然崇拝(多神教)、祖霊崇拝(祟り)、世界観としての陰陽五行説と道教、
・日本的情緒性の根源:自然との融和、社会(ムラ)の結合と安定性、依存的性格、非合理主義
・天皇制イデオロギーのねらい:『記紀』の神話伝説と神社、神的権威の一元化、政治的利用
・国学と国粋主義:神国日本、排外的国家主義、政治的イデオロギーとしての皇国史観
7.武士道と儒教
・日本的封建秩序:封建支配、奉公と抑圧(滅私奉公)、儒教的合理主義、私的土地支配の構造
・感情表出の抑制:義理人情、情実支配、以心伝心、忠義・誠の道・潔さ・「生まれつきなる心」
・権威主義的性格:敬神・尚武・仁政→「民可使由之、不可使知之」
        →権威による和の維持(小人同而不和)、合理的思考と個人の自覚の欠如、
・封建社会文化論:恥の文化(ベネディクト)、武士道精神(新渡戸稲造)、雑種的文化(加藤周一)、
        ファシズム的心性(丸山真男)、タテ社会(中根千枝)、甘えの構造(土居健郎)
8.明治国家と大陸侵略
・開国と上からの近代化:アヘン戦争(1840)→攘夷・開国、和魂洋才、西洋科学技術文明の導入
  →天皇制と日本的絶対主義、日本的伝統(家族・ムラ、神道・情念)と西洋的合理(功利)主義の結合
・国家神道と軍国主義:民権の抑圧と帝国主義イデオロギー、国家神道の創設、多様性の排除
  →大日本帝国憲法・教育勅語体制(1890)→国家主義、神国日本、忠君愛国
・帝国主義戦争の勝利と敗北:天皇の軍隊(皇軍)の短慮、日清・日露の勝利、第二次大戦の惨禍(1945)
・帝国主義と神国日本:民族内と民族間の利害と理念の対立、和の伝統の限界性→ソトの排除
9.日本文化と日本国憲法(1947)
・天皇象徴制の意義:日本的心性・こころ(神秘性、曖昧性、純粋性、依存性、幼児性・甘え)の温存、
          国民主権の曖昧性、社会的自覚と自律の障害、天皇制依存脱皮の可能性
・個人主義と基本的人権:授与的(おまかせ)民主主義→自主性なき自分主義、集団(他人)依存主義、
          融和的曖昧主義、民主的道徳の欠如、自律なき享楽主義、
・個人と家族と教育:人生目標の喪失、教育的制約(困難)からの逃避、家族主義の崩壊、
・平和と国際主義:恒久平和主義→所与でなく国際的に構築するもの(憲法前文)、和の国の使命
10.日本文化の功罪と課題
・長所・積極的側面:和、情緒、素直・純粋・無心、善性(人の善さ)、繊細で柔軟な感性、以心伝心、
・短所・消極的側面:非合理主義・論理性の欠如、情緒主義・義理人情、権威主義的性格
         付和雷同、甘え・諦め・曖昧、単純・純粋・淡泊→うちてしやまん、無責任
・生命感情からの出発:生来的善性(和・惻隠・慈悲・利他心)→ウチもソトも、認識の客観性
・問題意識の明確化:日本的「ありのまま(純粋)」の限界性(保守性)の自覚→曖昧性の克服
11.マスメディアの影響と日本文化
・メディアによる情報操作:受動的大衆文化、日本的「こころ」の操作、豊かさの中の不安の利用
・現代の資本主義・商業主義:安易・安楽な情報、快適で便利な享楽的浪費的生活への誘導、
・消費と娯楽の提供:大量生産・消費・利益、芸能スポーツの隆盛、視聴率主義メディア文化の低俗化
・メディアと道徳:映像情報による全人格的支配・現実(生活)感覚の喪失、日本的徳(善)性の溶解
         →衝動的行動、現実的人生目標の喪失、民衆のアヘンとしてのメディア
・インターネットの創る文化:私的世界の増大、現実世界からの遊離、地球市民的結合か分散か?
12.日本文化の伝統と閉塞性の打開
・人間性の根源の自覚:生命の尊厳と共生、欲求・感情の自覚、社会関係の調整と社会的自律
・新社会契約の条件:人間関係の情緒性(感性)と透明性(理性)の両立→新しい認識論・存在論の必要性
          道徳(和・仁・慈悲)と契約(自律)の統合→新しい個人、平和・人権・民主主義の創造
新社会契約の道徳性:家族と学校における人間教育の重視→社会的自覚と公共精神の統合
          社会性の持続的確認→家族・隣人・所属集団(具体)と法的社会・人類社会(抽象)
・言語力(言霊)の活用:自律性・関係性・創造性の獲得、科学的認識と善的関係性の創造
          情緒的人間関係と法的・合理的社会関係の統一(ウチとソトの洞察)、新しい「私」の確立
      ──生命の尊厳と「言霊の謎」の解明が、「日本文化の再生・世界文化の創造」の鍵となる──
13.希望の日本文化と普遍性
・甘え諦め曖昧性の克服:自律的批判的精神、生命・人間としての歴史的社会的自覚、反省と創造
・「ありのまま」から科学的精神へ:神を創造した人間の心の解明→欲望・感情・利害・関係性の洞察
・幸福と自己実現:目標としての永続的幸福、生存と文化を「時空の広がり」の中に位置づける
・東西文化の融合・止揚:融和的合理主義、自然との共生、情緒性の受容と理解、肯定的感情の育成
・地球市民倫理の創造:生命・言語・人類→地球市民連合→融和によるコスモポリタンルネッサンス
・永遠の世界平和のために:生命人類共同体、自然と生命の共生、地球資源の共有、「光は東方より」

終わりに─日本文化の可能性─

 日本人は、いま心の閉塞状態にあり未来への展望を見失いつつあります。戦後の民主主義的価値観を支えるはずの市民的個人が確立せず、日本的伝統である「和の文化」に潜む「甘えと依存」の体質を脱しきれないで、国際的には経済的貢献を評価されても道義的な国とはみなされていません。靖国神社や憲法改正の問題に見られるように、アジア・太平洋戦争(侵略、敗北、犠牲)の反省と責任を曖昧にしたままで、この無謀な戦争を肯定しようとする動きも強まっています。これらは単なる政治問題にとどまらず、日本文化全体の問題です。

 日本人は古来農耕生活の中で、自然を愛し人間の和や情緒を大切にする文化を育ててきました。しかし明治新政府による上からの近代化の中で、富国強兵の推進や立憲体制の確立を通じて西洋の科学技術や政治経済のしくみを導入し、アジアで唯一成功を収めてきました。そしてその急速な近代化の過程の中で、日本文化の負の側面が突出することにもなりました。それは上からの権威主義に依存し、情緒的で無責任な行動に走りがちなことです。具体的には、帝国主義的競争の時代、日清・日露の戦争に勝ち、台湾・朝鮮を植民地にして世界の一等国になり自信を深めた後、世界恐慌などの問題を解決するため、財閥の後押しや軍部の暴走によって満州事変を引き起こし大陸侵略(日中戦争など)を推進しました。そのため物量に勝る大国アメリカとの衝突となり、広島への原爆投下など未曽有の惨禍をもたらし敗戦となりました。

 無条件降伏後、戦勝国アメリカの連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本にとって幸運をもたらす巧妙な占領政策を行いました。日本の文化的伝統を受け継ぐ天皇制を温存した上で、憲法9条に見られる徹底した平和主義を採用し、上からの民主主義を定着させようとしました。しかし日本的な曖昧さが残され、厳しい東西対立や南北問題など錯綜した国際情勢の中で、日本人自身が西洋的文化と十分な対決をせず、西洋的価値である自由・平等主義、民主主義、社会主義を無批判に受け入れ(または反発し)、日本人としての戦前の反省や未来への展望が開けぬまま、アメリカの核の傘に守られて、平和の幻想に依存してしまうことになりました。民主主義の成熟には個人の社会的自立が必要ですが、戦後日本の教育も社会も、憲法や教育基本法のめざす民主的道徳の確立よりも経済的豊かさのみを追求してきたのです。

 いまや日本人は、日本民族が敗戦という犠牲を払い、日本文化と西洋文化を調和的に取り入れた「日本国憲法」の世界史的意義を深く自覚し、日本文化の長所を伸ばし短所を克服して、平和的民主的国民性を育成しなければなりません。21世紀の現代は、全地球的な環境・資源エネルギー、貧困、民族・宗教対立などの問題が解決されねばならない時代であり、狭い国益や利害の対立をあからさまに強調し、武力解決する時代ではありません。

 様々な対立の根源にある過去の宗教(神や仏、天国や地獄、悪魔や怨霊)やイデオロギー(西洋的諸概念マルクス主義、国粋主義等)、生命や心の問題も、科学的な常識で解明でき人類的にも相互了解が可能な段階にきています。また経済・政治的利害対立も、文明による自然破壊をはじめとする全地球的危機を念頭に(Think globally)、開かれた透明な(清き明き)関係を構築すれば、共存共栄のための平和的解決が可能となります。日本文化の受容性と生命力(感性の純粋さ)、自然と和の重視、またそれらを体現した「日本国憲法」こそこれらの今日的な問題の解決に貢献しうると思います。われわれは、歴史に学び反省的思慮を働かせる限り、日本文化に対し十分な誇りと自信を持つことができるのです。
 西洋の分析的、批判的、理性的思考と、そこから生じる主体的個人と民主主義の確立が、日本文化には欠けています。しかし、日本文化の受容的感性(排他的感性ではなく)によって、日本人には、集団の和をもとに、西洋文化の分析的「社会と個人」を肯定的に取り込むことが可能です。その契機となるのが「生命としての言語」すなわち「言霊(言葉の持つ生命力)」についての自覚なのです。「言霊」は、個人を自然や社会の中に位置づけ、「個人と社会」の安定(誤れば不安定)をもたらします。日本文化は、「言霊の謎」の解明と、それによって得られる人間存在(個体の位置づけ)についての普遍的知識によって、人間関係や生き方についての新たな世界標準を創造することができる可能性をもつのです。
 今日の世界の混迷は、物質的な利害の対立が基調にありますが、世界観や価値観という人間の在り方の混迷(宗教や思想の限界)に依るところが大きいことに異論は少ないと思われます。従って世界標準の価値を創造し確立することが、民主主義の育成や異なる文化や価値観の共生という以上に必要とされるのです。受容し昇華する日本人の能力や、自然と共に生きる日本の文化は、文明の危機が叫ばれる今日の宇宙船地球号において、世界平和と人類の永続的幸福への希望を与え、世界の文化や福祉に寄与する可能性をもっています。日本文化の短所である自己完結的自閉性に安住することなく、感性を重んじる日本文化の善性や徳性を伸ばし、世界的普遍性を創造していくことが日本文化の使命と言えるのではないでしょうか。

<資 料>日本文化の特性を表す言葉
T.「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である。自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。」(和辻哲郎『風土』)
U.「基本的には、日本人は自然を人間に対立する物、利用すべき対象と見ていない。むしろ、自然は人間がそこに溶け込むところである。自分と自然との間に、はっきりした境が無く、人間はいつの間にか自然の中から出て来て、いつの間にか自然の中へ帰っていく。そういうもの、それが『自然』だと思っているのではなかろうか。」(大野晋『日本語の年輪』)
V.「日本人の非論理的性格は、おのずから論理的整合性のある首尾一貫した思惟作用がはたらかぬようにさせている傾向がある。すでに古代において柿本人麿は『葦原の水穂の国は神ながら言挙げせぬ国』であると詠じている。そこにおいては、普遍的な理法を、個別的な事例をまとめるものとして構成するという思惟がはたらかない。古代日本の精神を明らかにした称する本居宣長によれば、『古の大御世には、、道という言挙もさらになかりき。故古語に、あしはらの水穂の国は、神ながら言挙せぬ国といへり。・・・・・言挙せずとは、あだ(他)し国のごと、こちた(言痛)く言ひたつることなきを云なり。』という。」(中村元『東洋人の思惟方法3』)
W.「ヨーロッパ精神の対照をなすものは、何かと言えば、境界をぼかしてしまう気分の中でする生活、人間と自然界の関係における感情のみに基づいた、従って相反を含まない統一、両親、家庭及び国家への批判を抜きにした拘束、自己の内面、自己の弱点を露わさないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する風習への因襲的服従、万事仲介による間接的な形式、等である。」(カール・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』柴田 訳)
@「天地のはじまりし時、高天原に成りませる神の名は、天御中主の神。・・・・この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。・・・・・ここに天つ神(別天つ神々)諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。」(『古事記』倉野校注 )
A「葦原の水穂の国は/ 神ながら言挙げせぬ国/ しかれども/ 言挙げぞわがする/ 言幸くまさきくませと/ つつみなくさきくいまさば/ 荒磯波ありても見むと/ 百重波千重波にしき/ 言挙げす吾は/ 言挙げす吾は
反歌 志貴嶋の/ 大和の国は/ 言霊の助くる国ぞ/ ま幸くありこそ」(『万葉集 巻十三、柿本人麿』佐々木 校注)
B「現身(うつそみ)の身にも心にも罪といふ罪はあらじと 祓ひたまへ清めたまへと白(まを)すことを所聞食(きこしめ)せと 恐(かしこ)み恐みも白(まを)す」(『神言』)
C「有子曰わく、礼の用は和を貴しと為す。・・・・和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦た行なわるべからず。」(『論語学而十二』金谷治 訳)
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。」(聖徳太子『十七条の憲法』)
D「我(釈尊)諸の衆生を見れば 苦海に没在せり 故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心恋慕するに因つて 乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し 阿僧祇劫に於て 常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり」(『妙法蓮華経如来寿量品第十六』中村元訳)
 「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性によりてなり。」(『正法眼蔵・仏性』)
 「此体に生死無常の理をおもひしりて、南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心、身の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。」(『一遍上人語録』)

E「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(紫式部『紫式部日記』池田校注)
F「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に墻根の草萌えいづる頃より、やや春深く霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも、雨風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。」(吉田兼好『徒然草 第十九段』西尾校注)
G「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」(松尾芭蕉『笈の小文』中村校注) 
H「すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理非は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅たる物にて、哥のおもむきぞよくこれにかなへりける。」(本居宣長『うひ山ふみ』村岡校注)
I「東洋の道徳、西洋の芸。匡廓(版木の枠)あひ依りて圏模(円形のかた)を完うす。大地の周囲は一万里、また半隅を虧(欠)きうべきやいなや。」(佐久間象山『象山書簡』植手校注 )
J「大日本帝国憲法 第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」(『大日本帝国憲法』)
  「ヘ育ニ關スル勅語 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」(『ヘ育ニ關スル勅語』)

K「人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失はれる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後にする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義・自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであつて、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。(文部省『国体の本義』1937年初版)
L「武士道は、その表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。・・・・それは今なおわれわれの間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。」(新渡戸稲造『武士道』矢内原 訳)
M「日本の武人は開闢(カイビャク)の初めより此国に行はるる人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養はれ、常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各其権義(right)を持張する者に比すれば、其間に著しき異別を見る可し。」(福沢諭吉『文明論之概略』)  
N「朕(チン)ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジクシ休戚(喜びと悲しみ)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶(チュウタイ)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ヒイ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。」(昭和天皇『新日本建設に関する詔書』1946/1/1)
「明治の国家神道というのは、それまでの日本的伝統にはないものですね。」(司馬遼太郎『対話選集3敗戦体験から遺すべきもの』)
「自分としては敗戦というのは、なんて言いますか、ショックでした。なんてくだらない戦争をする、そして、くだらないことを色々してきた国に生まれたんだろうと。一体こういうバカなことをやる国というのは何だろう。そういうことが日本とは何かとか、日本人とは何だということの最初の疑問になったわけであります。」(司馬遼太郎「NHK戦後史プロジェクト『22歳の自分への手紙』」)
O「日本国憲法 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(『日本国憲法』)
 「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」(『教育基本法』)
P「日本人は歴史の長さにもかかわらず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で測ると、われわれが四十五歳であるのに対し、日本は十二歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新しいモデル、新しい理念を身につけやすい。日本では基本的な概念を植え付けることができる。事実日本人は生まれたばかりのようなもので、新しいものの考え方に順応性を示すし、また、どうにでもコントロールが利くのだ。」(西鋭夫『マッカーサーの「犯罪」』米上院公聴会記録)
Q「日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。」(『甘えの構造』「甘えのイデオロギー」)
「欧米人において、「自分がある」という自覚が日本人に比較してより持ちやすいとするならば、それは彼らの精神的伝統の中に、個人をして集団を超越せしめる何ものかが存在するからであろう。それは集団を超えながら、しかも確実な所属感を個人に与える何ものかである。」(土居健郎『甘えの構造』「甘えの病理」)
R「日本の文化は根本から雑種である、という事実を直視して、それを踏まえることを避け、観念的にそれを純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよいずれ枝葉の刈り込み作業以上のものではない。いずれにしてもその動機は純粋種に対する劣等感であり、およそ何事に付けても劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできないのである。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるかということであろう。」(加藤周一『雑種文化』)
S「『デモクラシー』が高尚な理論やありがたい説教である間は、それは依然として舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化が行われねばならぬ。」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)
○「日本はわれわれ(アメリカ)の基礎の上にではなく、日本自身の基礎の上にその自尊心を再建せねばならないであろう。そしてそれを日本独自の方法によって純化してゆかなければならないであろう》(R.ベネディクト『菊と刀―日本文化の型』長谷川訳)Meantime Japan will have to rebuild her self-respect today on her own basis, not on ours. And she will have to purify it in her own way.
○「戦争は第一に法の権威を毀損するものでさかのぼっては、人間の道徳的本分にそむくものである。法というものは、人間社会の無制限の自由の相互侵犯を調停し、道徳的自由実現の妨げになるものを取り除き、人格の品位を擁護しようとして成り立つもので、これを侵害することは人間の共同生活の理念にもとるものである」(カント『永遠平和のために』宇都宮訳)
”言葉の力(言霊)は、肯定と否定、快と不快、幸福と不幸、安心と不安の間で迷い揺れ動く心(心情)に平安と確信と希望をもたらすことができる。言葉は人間の証であり、行動の動因となり、人間の理性として正しく使う限り、人間を最も人間らしくする。日本人は言葉の力を「言霊」として真に理解し、日本的心情の善性を普遍的なものとして世界に広めることができる” 大江矩夫

◎補遺
1)言霊思想

「言語が人を支配することは、信仰や恋愛などにおける言語の機能を考えてみればわかる。呪言の効能は古代人によって一般に承認され、その心意は今日に至るまで伝承されている。しかし人がよく言霊というのは、その意義を正確につかんでいるのではなくて、ただ言霊ということばを持ち出して自己満足しているのである。こういうことも言霊思想のあらわれかも知れないが、言霊の名の下に意義のわからないお題目によって国民が盲動するのは悲しむべきことである。ことに日本は昔から言挙手げせぬ国という言葉が悪用されて、一切の論議に批判を許さず、反対意見に耳をかす雅量を持たないような弊風は、早く除去してしまわねばならない。」(大藤時彦『日本人の表現力』)
 「彼ら古代人にとって、言葉は現代のある種の人々が主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と一体をなすものであった。これを私は『言事融即』の言語観(言霊観)というように考えたいのである。」(豊田国夫『日本人の言霊思想』)

2)ロゴスと言霊

 ギリシア的なロゴス(論理・言葉)は、言葉に感情移入せず、むしろ感情を対象化(言語的合理化)することによって、世界を合理的なものと理解し
表現することを可能にした(本HP「6.西洋思想批判」参照)。しかし、日本人は言葉に感情移入し、神秘化することによって、行動の霊力を得ようとした。ギリシア的ロゴスの単純さ(自然の合理化)は、逆の意味で日本的単純さに通じている。ロゴスは言葉を存在そのものとして神秘化し、言霊は言葉に霊力を見いだして神秘化した。
 日本人は言霊への畏怖を感じて,自然の根源(ギリシア的アルケー)の追求(自然の対象化・分析・言挙げ)を怠ってきた。本居宣長の発想(「生まれながらの真心」という性善説)はその典型的なものである。「言挙げせぬ国」とは「うまれつきたるまゝの心」を大切にし疑問や批判的言動を慎むことである。自然と自然な心情(真心=清明直の心)を大切にする精神は、日本的精神の根源であり、持続的生存と互助共生を維持するための未来への希望となる。しかし日本的言霊精神は、科学的精神、民主主義的精神(言挙げ的精神)には反している。言霊精神に欠けているのはロゴス的精神である。
 「人間存在研究」における言語の謎の解明は、言霊の真の力が、単なる意図の伝達だけでなく、人間存在の疑問の解決と自己を適応的に安定させる能力であることを示している。ロゴスと言霊の総合的認識論的統一が人間存在の新たな地平を開くことができるのである。
3)日本人の特性を表す言葉

 水に流す 禊ぎをする 長いものに巻かれよ 寄らば大樹の陰 出る杭は打たれる 由らしむべし知らしむべからず
 臭いものには蓋 和を以て貴しと為す 明日は明日の風が吹く 諦めは心の養生 死ねば仏 以心伝心
 心情(情緒)主義 権威主義 事大主義 事なかれ主義 ご都合主義 身内主義 集団主義 排外主義
 大和魂、大和撫子 <敷島の 大和心を人問はば 朝日ににほふ山ざくら花>飾らない 衒わない 素朴
  
4)排外的国家主義・集団主義の思考

  反個人主義・反世界市民主義・反普遍主義・非民主主義・非平和主義。人間の普遍性(ヒューマニズム)に対する忌避と日本的偏狭(小心)への逃避。情愛的権威的家族主義への依存と自我確立・個人的社会的自覚の欠如ないし忌避。理性的な個人の自覚にもとづく社会的結合より、感性的な権威主義的発想にもとづく義理人情的結合(個人的・家族的・集団的情念の重視)は、日本文化の陥りやすい否定的特性である。
「そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心なるぞ、道には有ける。眞心とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ」「下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひおる物にこそあれ」(本居宣長『玉かつま』)「なぜ」という学問の基本(科学的精神)に答えられない単純な「真心(誠)」は、真実を見抜けず知的退廃を招き、「道」を誤らせる。日本的心情主義は、自然との融和や受容性から生まれ生命の持続性にとって普遍性を持つが、高揚して理性的抑制を欠くと独善的閉鎖的になりやすい。様々な(異なる)立場にある人間への配慮と思いやりを欠き、共に生きる未来社会への展望を持たない思想は永続性を持たない。
 日本的心情主義は、素朴で自然な感情を重んじるが、理性的な自我が十分に確立していないので、集団的権威や権力に依存しやすい。集団に依存することは、他者に対する排他的心情を醸成することにつながる。いわゆる国粋(国柄)主義者が重視する日本的伝統は、日本的なるものの潜在力と可能性(既述)を自覚せず、普遍性をさらに豊かなものとすることがないために、日本と世界の未来に貢献できず、混乱と閉塞状況をもたらすのみである。
 日本文化の伝統における限界性を洞察しない国家主義の自己愛的単純さと甘え・知的退廃は、日本の文化的発展と世界平和のためには克服されなければならない課題である。
<文化理解の観点>
@ 文化とは人間が創造した物質的精神的産物である。(文化=飾り変わる、culture=耕されたところ)
A 文化は直立歩行し言語を獲得した人間が、生存・生活のために製作した道具(衣服住居・機械等)や社会組織(経済政治制度)であり 、人間の生存・生活を意味づけ豊かに表現(宗教・芸術)した結果である。
B 狭義の文化は、精神的な産物としての宗教や学問・芸術等に限定されるが、ここでは「文明」と して表現される政治(社会制度)や経済(物質的要素)を含めて考える。
C 文化の価値性については、ものの見方・感じ方・考え方、美意識によって異なり、時代や地域の環境要因、風土やそれによって形成された生活様式として減少するが究極には個人の価値観によって決定される。従って、文化は多様な価値判断が可能であり、文化相対主義という学問的な立場となっている。
<文化(culture)の定義>
@ 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神生活に関わるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。自然の反対語。(『広辞苑』)
A 文化ないし文明とは,民族誌的な意味における知識,信仰,芸術,道徳,法律,慣習,及び社会の成員としての人間によって獲得せられたその技能及び慣習を含む複合的な全体(whole complex)である。(タイラー『原始文化』1871比屋根訳 誠信書房1962)
B 特定の集団の構成員によって習得され、共有され、伝達される行動様式、あるいは生活様式の全体系(クラックホーン,C.『文化と行動』城戸譯. みすず書房1956)




付録
<「改正」教育基本法批判>
教育は文化の根本──日本の文化をどのように継承発展するべきでしょうか
○ 2006(H18)年12月15日、新しい教育基本法が、第165回臨時国会において成立し、12月22日に公布・施行されました。教育基本法は、本来日本国憲法の精神を教育において具現しようとするものですが、果たしてそのようになっているでしょうか。また日本文化の在り方や世界史の流れの中で、将来の国民に幸福をもたらし、人類の平和や福祉に貢献するものとなるでしょうか。
 まずは成立の事情からして国民的理解と合意を得ているとは思えません。それは旧教育基本法の内容を十分国民に啓発し実現しようとはせず、学校教育や人心の荒廃の責任を教育基本法や憲法に押しつけようとしている政治家や指導者(改憲勢力)の動きや発言の経緯を見ても明らかです。また改正の内容の検討が、与党の密室協議によってなされ、世論の慎重論を無視して選挙の中心争点にもせず、さらにタウンミーティングでは「やらせ質疑」をさせるなど、教育的(道徳)的)説得力を持つべき基本法にあるまじき成立事情であるといわざるを得ません。
 以下に、新しい教育基本法が、旧基本法と比べてどのように真実と正義に反し、普遍性を欠き、世界に対して閉ざされた独善的なものであるか、またあるべき倫理思想として、日本の文化的伝統の欠点を自覚しない未熟で偏狭なものであるか、それ故に21世紀の日本の教育に、いかに相応しくないかを示しておきましょう。
○ 『日本文化論』でも述べているように、日本的心情倫理は、共同体(ウチ・ムラ・国家)における和をもたらすと同時に、共同体的権威( 神・権力・メディア)による集団主義的強制と自閉的完結性(排他性)をもたらし、個人の自覚・自律と自由・共生にもとづく開かれた民主主義の成長を阻んできました。個の自覚と自律なき共同体の倫理では、個々の生命や人間としての権利尊重の精神が、共同体(国家)の名によって制限され、世界に開かれ信頼される日本的アイデンティティを創造的に構築することは不可能でしょう。
○ 教育による民主主義道徳の創造は、従来の依存的要求型の民主主義でなく、主体的参加型の民主主義をめざすことによってこそ実現されます。しかし旧教育基本法でも主体的参加に必要な自主・自立の精神を育成する方向が明確であったわけではありません。旧法では「個人の尊厳を重んじ」や「個人の価値をたっとび」と表現しながらも、自律的個人による参加型の民主主義が強調されなかったこと、自律的個人を育成する心情的基盤となる新たな家族倫理と人間関係( 道徳) を明文化できなかったこと、そして議論( 言挙げ) 忌避の日本的文化伝統を打破できなかったことなどの問題を指摘できます。
 個人が安定的な人間関係( と美しい自然) の中で、ありのままの心情・要求を自覚し、言語的に表現し議論してこそ自己自身や相互の理解が深まり、個人の成長と参加型の民主主義の実現が期待されるのです。ちなみに文部省や地方教育委員会が、戦後学校現場に民主主義を根付かせようとしたことはほとんどありませんでした。
○ 「新」教育基本法には、共同体(国家) への従属の倫理としての「公共の精神」があっても、民主主義の主権者を育成する精神がありません。また「伝統の継承」「伝統と文化を尊重」と伝統が強調されていますが、伝統には日本文化全体に特徴的なものや戦後の日本国憲法に相応しい民主的伝統や戦前の封建的国家主義的伝統もあって、後者の日本的偏狭さに逆戻りする可能性をはらんでおり、非常に危険な基本法であるといえます。
 現行憲法や旧教育基本法に見られる「普遍的な理念」が、新法において欠如していることについては、成立後の総理大臣談話や文科大臣談話(注)にもかかわらず、「大切に」されていないし「継承」もされておらず、巧みに(あからさまに)抹消されています。例えば、前文において「普遍的な理念」と考えられる「民主的で文化的な国家」と「世界の平和と人類の福祉」は、旧法ではその「理想の実現」を「教育の力」に託していますが、新法では「理想」も「教育の力」も削除され、「願うもの」すなわち願望に終わっています。
 また旧法にあった「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」そのものが削除され、新法では、普遍的でない(愛国心中心の)「公共の精神」と(封建的)「伝統の継承」が中心項目として加えられています。そして、それらに基づく「新しい文化の創造を目指す教育を推進する」とされています。しかし一体公共の精神と伝統を継承する「新しい文化」とはどのようなものになるのでしょうか。戦前の「滅私奉公」「精神主義」を連想するのはそう難しいことではないでしょう。
 さらに旧法では、学校の教員は「全体の奉仕者」(第6条)とされていたのが削除されて、「自己の崇高な使命を深く自覚し」(第9条) とここでも精神主義が強調され、教員を聖職者にしようとの意図が感じられます。これは宗教教育を、旧法では「教育上これを尊重」(第9条)する義務であったのが、宗教的教養として「教育において尊重」(第15条)する義務に変えられ、学校教育への宗教(神国)教育の導入を可能とするものになっていることと無関係ではないと思われます。
○ 上で述べたような「新」教育基本法における普遍性の欠如(滅私奉公)と日本の伝統の継承(特に神道)の最大の問題は、「新しい文化の創造を目指す」(新法前文)と表現してはいますが、旧来の退嬰的な宗教・道徳の強制や普遍的理念(憲法三原則」)の実現の障害になると考えます。多様な価値観の共生を図るべき学校教育の場で、思想信条の自由を侵害するような教育は厳しく抑制するべきなのです。いわゆる社会規範の乱れや公徳心の欠如した状態は大人社会の反映であり、競争や拝金主義、マスメディア(誰が主体なのでしょう)の流す低俗文化、保守政権や高級公務員の不正をただすことこそ「教育荒廃」を克服する特効薬なのではないでしょうか。
 「新」教育基本法に見られる発想は、日本国憲法における普遍性すなわち「平和・人権・民主主義」を、日本文化の肯定的な基礎(和・共生の精神)の上に強化するよりも、日本文化の否定的側面(依存的集団主義・言挙忌避)によって隠蔽ないし溶解しようとするものです。これではとうてい前文にあるような「我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立」できませんし、世界とりわけアジアから尊敬される品格ある国には成り得ないでしょう。
 まず日本国憲法前文では「主権が国民に存することを宣言」していますが、新法では、その理想の実現を主権者の育成や旧法にあった「自主的精神・自発的精神」よりも、教育行政(新基本法)の押しつける「公共の精神」が強調され、憲法で保障された幸福追求や思想良心の自由(第13、19条等)などの民主的道徳よりも、人権を無視した官製の強権的公共道徳が推進されるおそれ(すでに現実化している)があります。
また日本国憲法第26条「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」に対して、新法第14条では「能力に応じた教育を受ける機会をあたえられなければならず」となっています。ここには「等しい教育」を受けさせなくても「能力に応じた教育」で十分であるという人間能力を固定的に捉える差別的教育観が現れています。
 さらに憲法第26条では「義務教育はこれを無償とする。」とありますが、旧法と同様に新法第5条では「義務教育については、授業料を徴収しない。」とされており、「無償」を「授業料」に限定することは違憲の疑いを避けられません。
○ 以上のように、個人の自覚(自我や人権の確立)にもとづく民主主義や平和の追求を忌避するという基本的な欠陥を持つ新しい教育基本法は、日本が世界に尊敬され、世界に開かれた日本の新しい文化を自信を持って創造し、世界の平和と福祉に貢献するためには大きな障害になります。今日の日本が当面する社会の混迷を打開するためにも、新法の問題点を解明し、今後の関連法の審議を深め、早急に基本法自体を再改正し、日本の担うべき世界的使命をはたす必要があるのではないでしょうか。
 日本は決して「普通の国」ではなく、「言霊の幸ふ国」であり、そのことを自覚していた国なのです。法は人の心と行動を拘束する言葉です。しかしその言葉が「真実と正義」に基づく人類的普遍性を持たなければ、日本の築き上げてきた伝統的価値は、再び悲惨な戦争をもたらしかねません。日本を再び世界の孤児にしないために、自然と人間の間の「和と共生」が世界に広まるように、日本の国益が人類の持続的生存と福祉につながるように、日本の教育が世界平和に貢献し賞賛されるように、生命が獲得した言葉が、正しい言葉(法)として役立つように、この教育基本法はさらなる改訂によって真の(!)国民的合意を得ることが必要とされているのです。・・・・・・・・・・・
 しかしわれわれは、西洋近代の合理主義と発展的精神が築きあげてきた人権や民主主義をそのまま普遍的なものと考えるのではありません。未来の日本と世界にとって普遍的な理念は、新たな人間存在の理念によって、つまり人間の本質である言語の創造性と関係性の機能を自覚し生かすことによって可能になるのです。それは容易なことではありませんが、新たな人類文化の創造にとって、また日本文化の発展にとって必要不可欠なことなのです。
(注)
・安倍総理大臣談話:「この度の教育基本法改正法では、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、道徳心、自律心、公共の精神など、まさに今求められている教育の理念などについて規定しています。」
・伊吹文科大臣談話:「これまでの教育基本法が掲げてきた普遍的な理念を継承しつつ、公共の精神等、日本人が持っていた「規範意識」を大切に、それらを醸成してきた伝統と文化の尊重など、教育の目標として今日特に重要と考えられる事柄を新たに定めています。」

◎ いったい、「これまでの教育基本法の普遍的な理念」とは何であったか。それは今まで完成されたものとしてあったものなのか、これから創造していくものなのか。改正教育基本法には、普遍的理念の放棄(隠蔽)と矮小化はあっても、世界に開かれた普遍的教育理念は見られない。
 日本の文化や伝統を強調する人々には、世界が直面している問題(環境問題や資源・エネルギー問題、南北問題、宗教対立等々)に対する危機意識が、国益主義に偏り、地球世界への正義の観念が欠如している。最も愚かなのは、国益の追求を軍事力の強化と教育の統制によって実現しようとし、日本文化の伝統を矮小化しようとしていることである。
 過去の伝統や文化に安住し固執する人々は、過去の伝統や文化を矮小化し、神道的伝統、仏教的伝統、儒教的伝統、武士道的伝統、近代天皇制的伝統など日本文化の一面のみを強調しがちである.。しかし、今日教育に求められている普遍的な理念とは、近代欧米が推進してきた物質的功利主義の価値観と自然支配を目指す科学技術文明の限界を認め、合理主義の慢心を抑制する言葉の霊力を自覚し、自然(すべての生命)と共に生きる生き方を育んできた日本文化の全体を見直すことによって新たに創造すべきものではないだろうか。
 西洋的な価値観に見られる普遍性とは何か、日本的、東洋的価値観に見られる普遍性とは何か。両者の総合・止揚はありえないのか。またそのような文明論的な提案や議論はなされているのか。われわれは人類史における日本文化の役割を検討し、未来に向けての新たな憲法・教育基本法体制を創造しなければならない。これから起こりうる不幸を最小限のものとするために・・・・・・・・。
・日本人の主体性や自我の弱さ・欠如は、自らのもつ弱点に気づきこれを克服する度量をもてないことにある。しかしその弱点に気づくためには、それを越える人間的普遍性への理解を必要とする。その普遍性は人間の本質としての言霊のうちに潜んでいる。日本文化を真に愛しその潜勢力に期待するものは、すべからく言語について考察を深めるべきであろう。そのために必要なのが日本の文化と歴史(伝統)への反省なのである。
 「丘や幸いなり、苟も過ちあれば、人必ずこれを知る。」(『論語 述而』) 
 「過ちて改めざる、是を過ちと謂う。」(『論語 衛霊公』)
 「過てば則ち改めるに憚ること勿かれ」(『論語 子罕』)
 「定公問う。・・・・・・・・・一言にして以て邦(くに)を喪(ほろ)ぼすべきこと諸(こ)れ有りや。孔子対(こた)えて曰わく、言は以て是くの若(ご)とくなるべからざるも、其れ幾(近)きなり。人の言に曰わく、予(わ)れは君たることを楽しむこと無し。唯だ其の言にして予れに違(たが)うこと莫(な)きを楽しむなりと。如(も)し其れ善にしてこれに違うこと莫(な)くんば、亦た善からずや。如し不善にしてこれに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾かからずや。」(『論語 子路』)



◇日本国憲法改正の三条件編集中) ⇒⇒ ここ
  誇りと尊敬の日本国憲法とは――世界恒久平和への希望の国となるために

■日本語と日本文化
<日本語の曖昧性・深義性と主語の省略、助辞の多様性について>
  日本語に主語は必要である。「主語」廃止論は、科学的認識の劣化を招く。

 日本語文法学者には、日本語は「主語」概念が不要または、廃止すべきと唱える人々がいる。三上章の『現代語法序説』(三上1953、72)を典型とする考え方である。
 日本語は「主語」という概念を、英語のように文構成(文法)上の基軸に据えても、現状の日本語の文法上の特性(主語の省略や助辞の多様性)を理解する妨げにはならない。むしろ日本語の特性を分析するためにも「主語」の概念は必要である。またそれ以上に、言語の普遍的意義は、情報や意図の伝達とそのための対象の的確な認識・判断であるから、日本語に希薄な主語(対象名詞)への意識を確認するため、また因果関係を明確にし科学的認識に習熟するためにも主語概念は必要である。
 人間をとりまく諸現象(森羅万象)は、それらの現象(運動)の因果関係や縁起を正しく把握し、人間の生存のための知識体系や知恵を探求し、的確な判断をするためにも、因果関係(変化や運動)の主体(主語)となる対象を明確にすべきである。

 主語廃止論者は、主語は補語と同じく述語に従属しているだけであり、主格ではあっても西洋語のように主語(の性・数・格)が述語(の活用)を支配していないから、「主語」という概念は使用すべきでないという。彼等としては、文の成分となる名詞はすべて動詞の補語ないし連用修飾語として扱われる。しかし、主語は、述語に従属するから「主格」という表現で十分であるというのは、主語の表現や省略の本質への洞察、すなわちなぜ日本語には主語の省略が多いのかという日本文化への問題意識をも不十分ならしめる。また彼等の解釈は、言語が話者の意図や対象の状態等の情報を正しく明確に認識・表現し、伝達するという言語本来の存在意義を見失わせるおそれがある。

 つまり主語と述語はお互いを、「何がどうある」「こうあるのは何か」「何が何とどう関係するか」「何をどう考えるか」等々を明晰にしあうという相互関係があり、主語対象が何(what=主語)であり、どのように存在しているか(状態にあるか)(how=述語)は、生物学的認識様式、すなわち普遍的言語表現様式の基本なのである。日本語では、誰が?誰に?何を(どのように)?するのか、表現しなくても理解してもらえるだろう、理解しているはずだという、対話する相互にとっての「甘え、諦め、曖昧さ」によって成立している。それは日本文化の特性であり長所でもあるが、人間としてまた国際社会の一員として生きてゆくためには克服していくべき課題なのである。(※参照『日本語の省略がわかる本How can we know who did what to whom in japanese?』成山重子 明治書院 2009)

 日本語の特性は、主語の省略だけでなく助詞・助動詞(助辞)の多様性等の明晰性を追求しない曖昧な表現様式(文法)にもある。それによって人間の心(欲求・関心や感情等)の微妙な動きや情緒の豊かさを表現し、他人への思いやり、以心伝心や和の精神、自然と共に生きる生活態度等々という好ましい心情や意図(日本的美意識)を、表現・伝達することができる。しかし他方、主語廃止論は、日本語の特徴を言い当てているとはいえ、言語と認識の生物学的普遍性の追求を阻害し、科学的認識や合理的精神を劣化させ、日本語の弱点を隠蔽することにつながるのである。
 以下に、言語の人間的普遍性を重視するわれわれの「生命言語説」の立場から、「主語廃止論」を批判し、西洋語の違いと日本語及び日本文化の関連についても述べてみたい。

・三上章による主語廃止論
 「主語否定(廃止)論」(三上章 1953,59,63等)、「日本語に主語はいらない」(金谷武洋2002)といわれている。これは西洋語特に英語の文法(SVO文法)を、標準的普遍的なものと考える立場(日本語の学校文法)への反論として提示された。つまり、英語文法における主語述語は、文構成の必須要件であるのに、日本語では現実の場面で主語(subject)が省略されることが多く、また係(副)助詞(名称はいずれも狭義すぎる)「は」や格助詞「が」は、西洋語的「主語」と言えるほど「述語」との結びつきをもっていないので、「主語」と規定するべきではない。もし文中に何らかの主題(theme題目)が必要だとしても、それは述語(動詞)の補語(または連用修飾語)として位置づけられるべきであって、西洋語のような不動の「主語」の位置を占めるものではないというのである。
 まずは彼の「主語廃止論」の主張の強さと主述関係への敵意を見ておこう。

 「ヨオロッパ語のセンテンスが主述関係を骨子として成立することは事実であるが、それは彼等西洋人の言語習慣がそうなっているというにすぎない。決して普通国際的な習慣ではないし、また別に論理的な規範でもない。わが文法界は、それを国際的、論理的な構文原理であるかのように買い被ってそのまま国文法に取り入れ、勝手にいじけてしまっている。だから、主述関係という錯覚を一掃し、その錯覚を導入しやすい「主語」を廃止せよ、というのは、いわば福音の宣伝なのである。」
                (三上章『続・現代語法序説』くろしお出版 1972 p29)

 三上の言語表現(文法)の捉え方は、日本語表現の特性である曖昧性に着目しており、日本文化を理解するためにも必要な観点である。しかし、文構成の要素である対象(名詞主語what)とその状態(動詞述語how)の相互関係性を重視する「生命言語説」の立場からは根本的に誤っているといえる。ここではその言語観の誤りと日本文化論的な意味について、「生命言語説」による西洋的思考様式への批判の立場から原則論を述べてみる。

 西洋語と対比した日本語の独自性は、SOV型文、多様な人称・敬語、助詞の多様性等々あるが、「主語廃止論」に限定して考えてみよう。
 「主語廃止論」を唱えた三上は、日本語における係助詞「は」は文の題目を示し、格助詞「がのにを」のそれぞれを「代行(兼務)」している。しかし、それらの格助詞を顕在化し「は」を潜在化することによって、文自体を「無題(目)化」することができるので、格助詞「が」を「主格」として示せば、取り立てて「主語」という用語を必要としないと考える。例えば次のように。

 象は、鼻が長い。(「は」は「の」を代行)→象の鼻が、長い。(「は」の潜在化」)
 彼は、財産が多くある。(「は」は「に」を代行、「財産が」は主格補語)→彼に財産が多くある。
 歌は、私が歌った。(「は」は「を」を代行)→歌を、私が歌った。
 私は、赤い花が好きです。(「は」は「が」を代行、「赤い花」は主格補語)
                     →私が、赤い花が好きです。

 二重主語文とも言われる「象は鼻が長い」の文の構造をどのように説明するか。「象は」と「鼻が」はどちらが主語か。この議論は現在も決着のついていない問題であるが、三上は「主語」という概念を廃止することで解決できると考えた。
 ここで三上が主張するのは、助詞「は」は格助詞「が、の、に、を」を代行(兼務)しており、「が」は主格となるが、「の」は所有格、「に、を」は目的格であるから、必ずしも「は」は主語を規定するのではない。だから「象は、鼻が長い」という文を、主語が二重になっているという立場(二重主語文または総主語+述部主語)で考えると、「主語が述語を規定する」という西洋語的文法では説明がつかない(「鼻」は「象」とは並列ではない)。また「象は」という主語と「鼻が長い」という「連語述語」も考えられるが、格助詞「が」のみが主格の資格があるのであって、副(係)助詞としての「は」は文の題目(=「象について言えば」)を示しても、主格としての主語ではありえない、と考える。

 係助詞「は」は、通常、動詞の格をとらないとされるが、主格助詞「は」と考えれば問題は解決する。助詞「は」は、認識主体(話者)が対象(名詞)への注意を喚起し、「何(what)?」と疑問をもたらす表現であり、その説明として用言(動詞・形容詞)との関係を生じさせる。その関係が主格主語(「何が」または文頭)となる場合もあれば、「母象が小僧に乳を飲ませる」のように対格・与格目的語との関係を生じて「何を」「何に」となる場合もあるのである。また「は」が「が」の代行になるのならば、「は」が主格を代行して「象は」を主語としても何の問題もないのである。

■文法上の<主語=subject> における西洋的かつ日本的誤解

 <subuject> の本来の意味は、「下へ(sub)投げる(ject)→thrown under」から「認識・支配などの対象となる人・物」(名詞の場合)とされる。
 西洋的誤解とは、本来認識の対象(客体)であるべきsubuject が、哲学的には「主体・主観」の意味も併せ持つことになったことである。subuject は、認識(思考・研究)すべき「対象」であることから、「主語・主題・題目・話題」の意味をもつことは容易に了解できる(支配される対象である「臣下・家来」も意味するが)。しかしsubujectに主体の意味をもたせることによって、二つの問題が起こってくる。一つには、西洋語において人間の行動を表現する場合、文構成の認識主体である話者の立場(欲求や興味・関心の主体)が弱められ、対象であるべきsubujectが独立した主体となって他の対象(認識主体)に働きかけ支配する(他動詞)ようになること(例えば「怒りの感情が、敵への復讐にかりたてる」のように個体の一部の反応である感情が個体から分離されsubuject=主体となって個体を操作する)。二つには日本語にsubujectが主語として導入されるとき、必須事項として主語が文頭に要請され、日本語の微妙な表現に貢献している主語の省略や助詞の曖昧さ(日本語の文化的特色)が阻害・軽視されてしまう。

 すでに他の場所で述べているように(6 西洋的思考様式の意義と限界)、西洋的思考様式(に由来する文法)の限界は、「認識や思考の結果(所産)である言語的知識」を、生命的情緒的主体(理性的主体でなく欲求や情緒の主体)の認識の所産であると認識できなかったことである。西洋的合理主義の根源はロゴス主義であり、ロゴス(言語)が存在とされる(ギリシア哲学)が、ロゴスを操作する真の生命的情緒的主体もロゴスで対象化(ホメロスの叙事詩における怒りや嘆きの対象化)することによって、個体的生命主体から情緒(的主体)を分離し、ロゴスによって個体的生命を操作(制御)しようとしたのである。

 従って、subuject もまた文構成上の動作や状態の主体(動作主体)であるかのように理解され、また通常西洋語では文構成の必須要件として文頭に来るため、文の中心であるかのように誤解され、日本語においても「主語」と翻訳されたのである。ところが日本語のように膠着語では、名詞に膠着する助詞の役割がきわめて重要で、助詞の用い方が話者の微妙な判断・表現に影響をもたらし、またそれが日本語及び日本文化の根源にも影響をもたらしているのである。古代日本人が言葉に霊性を観じたのも、微妙(曖昧)な人間の心情に留意することのできた世界的に卓越した能力と言えるのではないだろうか。

 しかし他面で、心情への配慮は合理性への忌避を意味する。合理性の忌避は科学的認識の忌避をもたらす。その点で西洋的合理主義にもとづく文法(思考様式)は、対象(主語)の状態や対象間(主語・目的語等)の動作や運動の関係を明晰に表現する。日本文化に科学的合理性が希薄であり、現代の日本人に個人の自立性が不十分であるという事実を克服するためには、言霊や言語力そのものへの不断の反省が必要ではないだろうか。


■日本語と朝鮮語と文化

 日本語と韓国朝鮮語(以下韓朝語)は共に膠着語として同一のルーツをもつといわれている。言語社会学者の渡辺吉鎔(キルヨン)は、『朝鮮語のすすめ』(1981)で、朝鮮語と日本語における助詞や主語の省略の共通性をわかりやすく説明している。そのなかで、文化論との関係で、日本語学者の大野晋や金田一春彦の日本語独自論を、朝鮮語を無視し欧米語との比較に偏っていると批判して次のように述べている。 

(引用1)”日本語の「主語なし文」が野暮を嫌う日本的な美意識のあらわれであるとか、省略の美学のあらわれであると唱えても、全く同じ「主語なし文」を有する韓国人にはそんな美意識はない。したがって,論理的に美意識と「主語なし文」は無関係であるということになる。むしろ、私にとって「主語なし文」を美学とか美意識とかに結びつけようとする心情が、非常に日本的な言語観のように映り、興味深い。はたして言語現象は、すべてその文化独自の性格を投影するものなのであろうか。”(渡辺吉鎔『朝鮮語のすすめ』講談社 1981 p95)

(引用2)”日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシである。このモノサシなしで、日本文化・日本人の特色を測ることを試みれば、欧米語との違いを日本語の特色と誤認し、その日本語の特色を日本文化の特質と無理やりに関連づける、従来の日本語論の轍をふむことはさけえない。その結果、ゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができないのはあきらかである。
 地理的には日本に最も近い韓国、そして言語的に類似性の高い朝鮮語に目を向けたうえで、日本人は自らが何であるのかを正しく見つめ直す作業を一日も早く開始すべきである。日本の本当の意味での国際化への道はここにはじめて可能になる。”(同上p117)

 日本語が韓朝語と同一のルーツをもち、語順(SOV型)や助詞の多様性、主語の省略、指示詞(コソアド)など文法的・語用論的に似通っていながら、自己主張の強(韓朝)弱(日本)や「暗黙の了解(以心伝心)」の有(日本)無(韓朝)について隔たりがあることは、著者が指摘するとおりであろう。おそらくそれらの違いは、韓国朝鮮が北方遊牧民との接触によって大陸的な社交的生活文化であるのに対して、日本の孤立的・島国的な閉鎖的生活文化(縄文・弥生?の地域生活)との違いから生じているものである。しかし、欧米語と日・朝共通文法の違い(主語・助詞の省略使用等)は、朝鮮よりも孤立した島国日本において、より洗練(純粋化または単純化)された文化を形成したことは否めないであろう。これは、日本の生活文化の特色であり、朝鮮語とは異なる日本語文化の特色(和や縮みの文化)(※注)とすることができる。

 つまり、日韓の文法は類似していても、生活様式の違い(大陸性と島国性)から来る文化の独自性(差異)は、時代の経過とともに日韓それぞれに大きくなる。それは基本語彙(生活に密着した数や身体語など)についての日韓の類似性が、きわめて小さいことにも現れている(安本美典1990)。 しかし渡辺氏による上記の指摘は一面的真理(言語と文化の安易な関連づけへの警鐘)はあるものの、積極的に日韓文化の違いの背景を説明するものではなく、また欧米との比較の重要性を低減するものでもない。

 韓国における「道理と情」による価値観は、ドライな割り切り型で自己主張が強い。それに対し、日本における「和と情」の価値観は、相手思いのウェット型で自己主張が苦手である。その意味で渡辺氏の(引用1)に見られる指摘は当たっている。「主語なし文」のような文法的類似性は、「美学とか美意識」のような「その文化独自の性格を投影する」ものではない。また、(引用2)に主張されているように、日本語と朝韓語の文法上の類似点が、日本文化の特質(内向的和=縮み)を形成したのではなく、自然環境がもたらす生活様式が、文化の様式を創出したのである。この点で大野や金田一の日本語文化の考察に「ゆがんだ自国語論・自国文化論」といわれる面があったことは事実である。
 しかし、「日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシである」というのは正しくない。上記のように、文法(的文化)は民族文化よりも根源的であり、個別の文化を規定すると断定することは困難である。つまり、文法(表現・思考規則)は語彙(言葉)に優先するのである。例をあげれば印欧語は文法だけでなく語彙においても共通起源をもつが、インド、イラン、ヨーロッパの文化は個々に変化し大きく異なっている。言語は文化の基本となるが、印欧語族における諸民族の文化の違いとウラル・アルタイ語族に位置づけられる日本や韓国・朝鮮文化の違いを比較すれば、後者の方が語彙の面からは文化的差異が大きい。にもかかわらず(自覚しているかどうかは定かでないが)、日本語学者が、韓国・朝鮮語よりも欧米語との比較に大きな意味を見出すのは、文法が文化の根源をなす認識規則や価値観(何をどのように考えるか)の根源であるからである。

 われわれの生命言語説の言語規則(文法)においても、伝達するべき対象の確定(主語)とその叙述(述語)が文法の基本だから、主語が省略できるという日本語と韓朝語の共通の文法的特徴は、日本と韓朝の文化の違い(語彙等)よりもはるかに大きな意味をもっている。つまり日・欧の文法上の違いが、日・韓の文化的違いを凌駕している。従って、日本語及び日本文化の特色は、欧米語のように違いの大きいものとの比較によってより明確になるのである。

 文法(的文化)と語彙(的文化)は分離して考えるべきである。文法は、東洋と西洋の文化というより大きな違いの説明が可能であり、語彙は、日本と韓朝の文化というより小さな違いを説明することができる。つまり欧米語との違い(合理主義と非合理主義)を検討することは、東洋的な共通の文化(非合理主義と情緒主義)を見出すことにもなるのである。ここで合理主義とは、認識の対象となる森羅万象を言語的存在と見なすこと、すなわち、認識対象としての非合理的存在(森羅万象)を、言語によって合理化し、その結果を存在そのものと見なすことである。

 日・韓の言語表現にみられる省略や微妙な情緒的表現は、必ずしも非理性的(irrational)ではない、むしろ日本の詩歌(特に俳句や和歌)に見られる省略や情緒的表現は、論理的(logical)ではなくてもきわめて理性的抑制的、つまり非論理的・理性的であり情緒的である。だから日本の「和」や「縮み」の文化は、情緒的かつ理性的であってこそ成立するのである。しかし、同じ省略でも、韓国朝鮮のように論理的・道理的(reasonable)ではあっても、情緒的非理性的なことはあり得るのである。

 「日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、」という条件的要請を、より人間的に深めるならば、朝鮮語を超えて、欧米語の文法や思考様式は、必要不可欠で最適なモノサシである。このモノサシなしで、朝鮮語との比較による日本文化・日本人の特色を測ることを試みても、相互にゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができず、文化的違いや対立を深めるだけで多文化共生の創造的関係を築き永続化することは困難である。自国文化の根源にふれるには、認識の根源となる文法の根源、すなわち「生命言語説」を理解することが必要なのである。

(※注)『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン)によると、「縮み文化」とは、小さいものを神格化したり、有り難がったりする文化。日本人は、トランジスタラジオを発明したり、手のひらサイズのLSI電卓を発明したりとモノを縮める・小さくする技術に優れている。扇子、風呂敷、巻物…等々 、「可愛い」小さくまとまっていて、愛でるような気持。
 内向的な「縮み」志向は、島国の稲作文化から生じた「和」の精神と通じている。稲作農耕は、自然に依存し村落内の融和を必要とするため、現状のありのままを維持し内的結束を重んじる。自然の変転と無常に立ち向かうには、自然に逆らわず自然を自己のうちに取り入れざるを得ない。そのような人間生活と社会集団をふくむ自然(八百万の神々)との融和は、必然的に自然の縮小化(縮み)による内的取り入れを含む。
 日本の右翼的発想(排他的自国中心主義)は、和の精神が縮んだ(矮小化した)ものである。しかしこの縮みは、物事を矮小化することが本旨ではない。俳句や生活工芸品、坪庭や盆栽、茶道や華道等々における自然描写は、人間生活と自然の融合を図り、対象を縮小しながらも、大きなイメージを思い浮かばせるものである。縮みや和の精神は、広大で変転する自然・宇宙を自己のうちに内在化し、自己自身との融和と安心立命を図る契機ともなるのである。


―欧米の植民地主義と日本の植民地主義―侵略と自衛
■欧米の残虐非道な植民地支配によって、日本の温情不正な(?)植民地支配を正当化することはできるか
 ・世界の他民族侵略支配 :
  4大文明の古代奴隷制支配、ペルシャ帝国、ローマ帝国、秦・漢帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国等々
 ・欧米の植民地主義 :
  スペインによるアメリカ先住民(インディオ)支配、オランダによるインドネシア支配(強制栽培)、イギリスによるインド支配(大反乱)、オランダ・イギリスによる黒人奴隷売買、列強による中国の半植民地化(アヘン戦争、太平天国、義和団事件等)、アメリカ白人による先住民(インディアン)支配等々
 ・日本の植民地主義 :
  アイヌ民族支配、(秀吉の朝鮮侵略)、日清戦争(脱亜論・大陸侵略へ)台湾・朝鮮統治支配、義和団事件、中国侵略―アジア太平洋戦争・・・・事実と評価は?
 ・? 植民地争奪・弱肉強食から民族自決・国際協調そして世界連邦へ :
  欧米帝国主義時代(19世紀)から、2度の世界大戦を経て東西対立、南北対立の克服を目指す運動へ 
 ・? 民族独立・社会主義・福祉国家・国際協調、国際連合の時代、そして時代は世界連邦による恒久平和を確立する時代(21世紀)へ
 ・参照⇒ 日本の果たすべき役割は何か


◇ さて以上の簡潔な日本文化論のまとめで、どのような感想を持たれただろうか。
一体、今の日本は強い国か、誇りある国か、尊敬される国だろうか。
その答えは、強い面もあれば、弱い面もあり、
誇れる面があれば、恥ずかしい面があり、
尊敬される面もあれば、軽蔑される面もある。
つまり長所もあれば、短所もある。

だから何が長所で、何が短所かを見つめよう。
長所と短所の判断は、見る人の立場、価値観によって異なるが、
このように二項対立的に、そして縁起的に、またそれ故に多面的に、
現象を捉えるのは、人間の正しい認識の基本である。
その上で、具体的に国家の強さ、誇り、尊敬される点を考え、
長所を伸ばし、短所を小さくするように努めよう。

さてそこで、
今日の日本の強さ、誇り、尊敬されることとは何か
われわれの立場から考えをまとめてみよう。
日本文化についてはすでに上に述べた。
日本人の自然、人間、社会に対する一般的特徴は「和の精神」、
しかしこの日本的和には重要な欠点がある。
それは「甘え、諦め、曖昧さ」を伴っているということだ。
日本的集団主義の欠陥は、個人の自律を欠いていることにある。
依存的民主主義の克服こそ、世界に貢献できる日本文化を創造できる。

それでは、
日本文化の短所は、西洋的合理性によって補えるか?
西洋的合理性は、人類的普遍性を体現していると言えるか?
また、単に「和魂洋才」という折衷策で乗り越えられるのか?
今日の日本と世界の閉塞状況と危機は、新たな人類的創造性を必要としている。
つまり――政治、経済、宗教、文化等々における全面的な変革である。
そしてそれは、科学的で検証可能な知識・イデオロギーによる意識変革を伴うだろう。
われわれは、そのために生命言語仮説新社会契約説を提唱する。

そのうえで
日本を守り誇るべき国にするためには、
武力ではなく日本の善き文化を育て理論化すること
日本にできる世界への貢献は、東西文明の融合と人類文明の創造
世界の諸文明は日本で融合され、人類文明として世界に広がる。
日本は普通の国ではなく、従来のような弱肉強食の国であってはならない。
とりわけ平和憲法を持つ日本の特殊性は、特殊ではあっても、
未来における世界的普遍性の手本であり希望である。
日本文化の単純と繊細、和と思いやり、そして心の深さと強さは、
生命と人間の真の在り方を目覚めさせ、人類の幸福と繁栄をもたらすだろう。

参照⇒ 日本文化の可能性
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