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生命言語論による
西洋思想批判 (「西洋思想の意義と限界」から続く:編集中)
 十九世紀に入ってまもなく、へーゲルによって精神の自律性 - 観念論を説く古典哲学が完成されたが、完成と同時に宗教と政治の両面から批判が展開され解体されざるを得なかった。しかし、西洋的な伝統的思考方法は、今もなお実存哲学や弁証法的唯物論に息づき、また間接的には、科学的知識とその応用、政治・経済・社会・文化の各領域において世界的な規模で開花・成熟していると言いうる。しかし他方、西洋的思考態度の限界は、20世紀前半における帝国主義戦争の中で、虚無思想や文明自体の混乱において、特に芸術文学の面において解体的な影響を及ぼしている。我々の課題は、こうした西洋的な思考方法を哲学思想の分野で批判的に検討しようとするものである。
 人間は本来、言語を媒介として思考するかぎりにおいて合理的な動物であるしかし、思考の結果は、人間自身を非合理的行動に追い込む場合と、思考能力 ( 知性 ) を自律させ、理性に高め、合理的行動を導く場合がある。そして知性を理性 ( 自立的思考 ) に高めることによって、現象学におけるような、「思考する人間の主体性」を失ったのが西洋的哲学である。逆に言えば、思考する主体を犠牲にすることによって、知性を理性に高めることができたのが西洋思想(言語・ロゴスによる自己疎外)なのである。
 理性的な思考 ( 認識 ) 態度とは、思考する主体の興味や関心そしてその感性的情緒的反応を抑制して、対象をそれ自体として言語的 ( 合理的 ) に把握しようとする認識態度である一般に、人間は多様な環境条件 ( 自然的社会的な ) に対して直接知覚的感覚的に関係を持っており、対象は常に<人間にとって>存在する。従って本来から言えば、対象は常に人間の興味関心や感性的情緒的反応などの価値判断の対象として思考されるものである。実際、東洋的思考態度では、天体の運行や季節の変化などの自然現象は、常に感性的に理解され生活と関連づけて思考された。
 これに反して、思考が、感性的生活や価値判断から離れて、対象自体を把握しようとするのが西洋的な思考態度の特色である。しかし、このように理性的 (自律的 ) 思考態度は容易に獲得されたものではない。その困難・犠牲が、上に述べた認識・思考・判断主体の捨象である。この思考態度では、対象が人間の価値判断から離れ、考えられた合理的秩序として前提され、むしろ人間の判断や、多様な自然が、<思考された世界>に支配されるものとみなされるのである。
 歴史的にみれば、<思考された世界>は「神話」の世界である。神話は東洋にも存在する。しかし、西洋の神話と東洋の神話では根底的に異なる点がある。それは価値 (知恵・ 愛・美・感情など ) を司る神の存在(アテネ、アフロディテ、エロスなど)である。人間にとって、一方で対象をそれ自体として認識することができる理性的態度は、他方で、<思考された世界>の中に不死の神々の実在を設定し、多様な自然や、思考主体を二次的・受動的なものとみなすことに帰結する。このことは、思考が自律的であるためには、思考の所産 ( 神話 ) を、確実な前提として規定することが必要であったということを示している。理性的であることは、今日の我々にも困難であるように、古代人にとっては、神の世界を前提し、自己をまったく与えられたものと考えることなくして不可能であったろう。このことはギリシア語の中動態やヨーロッパ語の再帰形の思考様式に於いて説明したとおりである。
 従って、素朴な神話の世界像が崩壊すると、改めて、思考された世界=合理的世界の存在の確実性が問題とされ、思考や知識自体が、哲学 ( 知恵の学 ) の対象とされるに到ったのである。だから西洋哲学の課題は、一貫して知識の存在の追求であり、知識を成立させる思考 ( 認識 ) の原理の追求であり、思考を成立させる言語の意味の追求、一般的に言えば、思考された世界の確実性が追求されたのである。
 しかし実際には、個体的生命から思考が独立してありえない以上、知識の確実性についての根拠の追求は、絶望的ともいえる試みであったことは言うまでもない。考えられた世界は、考えられたものにすぎないのである。
 我々は西洋思想の限界を分析し、思考主体を生命主体と位置づけること(生命言語説によって、絶望を希望に転化させなければならない。人間は生きるために言語を獲得し、言語による知識によって自らを生かしていく存在である(言語的自己疎外からの人間解放)

 ここで一言付け加えておくならば、西洋思想と東洋思想の合理主義の違いは、西洋思想が自然に対して支配的であるのに対して、東洋的合理主義は自然に対して融和的であることにある。なぜそうなったのかは、西洋思想においては上に述べたことであるが、東洋思想においてはインド古代のウパニシャッド哲学にしろ中国の天命・道教思想や陰陽五行思想にしろ、人間を自然の無限の中に包まれたものとして捉えているからである。なお東洋思想については別稿で述べることにする。
 

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プラトン『国家』の批判的分析
 ギリシア哲学はイオニアの自然哲学に始まり、数を重視するピタゴラス学派や、エレア学派の観念的二元論などを経て、哲学的相対主義を唱えたソフィスト達が、アテナイの民主政治の没落期に出現する。そうして、古来の素朴な神話的世界観や政治体制そのものに解体の兆が表われるころ、ソフィストに対抗し、新たな精神的人間像と人生における善とはなにかを追求しようとするソクラテスが現われる。
 「一番大切なことは、単に生きることそのことでなくて、善く生きることである」 ( 『クリトン』久保訳 岩波書店 ) と言うように<善>を人間存在の基礎に確立することが、ソクラテスの使命であった。プラトンは、このようなソクラテスに師事し、その意志をついで、<善>あるいは<徳>や<正義>の存在を追求し確立することになる。この体系的な成果が述べられているのが、主著『国家』である。プラトンは『国家』において、国家の善、すなわち<正義>の実現された状態 ( 理想国家 ) と、<正義とは何か>という問題を追求し、<正義>の存在の確実性を証明する有名な「イデア論」を展開している。我々が『国家』で問題とするのは、直接には、この「イデア論」である。ギリシア的思考の根本的態度は、対象を「それ自体」として把握するものであることは前に述べた。
 そこで<善><正義>もまた、自然的対象と同様 (?) に、それ自体として<善>自体、<正義>自体として、追求されねばならない。しかしそのような試みは、<善>や<正義>が、単に人間が考え創造した名辞にすぎないという我々の立場からは、不可能で絶望的な試みであるということは自明である。だが結論を急ぐことなく、<善><正義><美>などの、考えられたものとしての<知識>が、どのように確立され、証明されているか、『国家』の内容に従って批判を加えつつ検討してみよう。『国家』は他のプラトンの著作と同様に、ソクラテスを中心とした対話である。プラトンの兄であるアデイマントスが、当時流布する<徳>や<正義>の種々の見解をあげて、<真の善>は何であるかを、ソクラテスに質問することから対話が展開する。
  ( 注 ) ギリシア民主制においては、弁論において他人に打ち勝つことが、非常に 重視され、ソフィストなどの主観的相対主義者が、弁論に勝つことのみを目的 とした、種々の見解を述べており、正義や善に関して、その場しのぎの詭弁を 弄することが流行し、価値観の混乱があったことが留意されねばならない。
 「ですからあなたとしては、<正義>は<不正>にまさることを、ことばの上で論証するだけでなく、一方が善、他方が悪であるのは、それぞれがそれ自体として、それ自身の力で、いかなるはたらきをその所有者におよぼせばこそなのかということをも、はっきりと示して下さらなければいけません。」 ( 『国家』田中美知太郎訳、第 2 巻 )
 ここで注意されねばならないのは、「<正義>または<不正>が、それ自体としてその所有者に影響を及ぼす」という表現である。このような表現が可能であるためには、<正義>や<不正>は、人間の判断・思考以前に存在しているものとして前提されねばならない。
 アデイマントスの問、 ( それはプラトンの問でもあるが ) では、<正義>や<不正>は、人間の判断・思考の結果としてあるのではなく、反対に、判断・思考の前提であり、判断・思考を支配するものと考えられている。換言すれば、プラトンは<正義>や<不正>を、人間の主観的判断を越えて、主観的判断がそれに従わねばならぬものであり、人間にはそれを見ることが非常に困難なものと考えているのである。つまり<正義>や<不正>は、考えられたものではなく、それ自体としてすでに存在するものと考えられているのである。
 <正義>や<不正>を<価値>とするなら、価値は与えられてあるものであり、人間の判断によって変化させることのできぬもの、しかも、人間は<正義>の価値を見出だすことが、<不正>と比べてより困難なものとして理解される。
 ここで我々の価値の観念を述べておかねばならない。<正義><不正>はある特定の社会的・歴史的制約下において、ある特定の対象に対して下される個人の判断である。そして、この個人の判断の基準は、判断主体の歴史的・社会的条件によって左右され、その一般的・平均的な価値判断の基準が、特定の対象の個人的判断の基準として採用される。従って、条件を同じくする社会的諸個人は、大抵同じような判断・思考をするということになる。
 一般には、時代、社会、宗教、階級、身分などによって価値判断の基準は異っている。しかし特定の条件において判断基準を異にするということは、究極には、個人的経験に制約されて、判断・思考がなされるということであり、このことが、ソフィストらの主観的相対主義者によって悪用されているのが、ソクラテスらの直面した現実であった。そしてソクラテスらは、伝統的な歴史的条件に制約されつつ、この価値観の混乱を解決しようと試みたのである。この解決が独特の西洋的解決<考えられたもの>が、<考えるもの>を支配するという、決定論的解決を導くのである。
  ( 注 ) 周知のように、マルクスは特定の社会における支配的イデオロギー ( 判断 の基準 ) が、歴史的・階級的な制約の下にあることを、彼の理論の基礎においている。それを前提としながらも、彼は労働と階級闘争を判断の基準におこう とした。しかし我々の試みは、両者もまた有限なイデオロギーであることをみようとするものである。
 さて、プラトンにおいては<正義><不正>の価値判断の基準が、所与のものとして前提されたが、これは論理的に証明されねばならない。そこで、人間の<正義>よりも理解しやすい<国家>の<正義>が検討される。まず正義の国家、理想の国家が建設される。だが、正しく建設された国家は、何故に<正義>であり、<善>であるか?
 「いったい ( この国家の ) どこに<正義>があるのか。」 ( 第四巻四二七 )
 「われわれの国家は、いやしくも正しく建設されたものなら、まったき意味において<善きもの>である。・・・・・・したがって明らかにその国には<知恵>があり、<勇気>があり、<節制>をわきまえたところがあり、<正義>がある。 ( 同上、四二七 )
 「われわれが、この国家を建てたその当初から、一般に守られるべき原則として定められたものがあるが、どうもそれが、あるいはそれの一品種が<正義>なのだと思われるのだ。」 ( 同上、四三三 )
 それでは結局、正しく守られるべきものとして、<正義>あるいは<善>として、ソクラテス(プラトン)によって考えられたものだけが、<正義>や<善>であるということになる。しかし問題は、<正義自体>とは何であるか、というのではなかったのか? それを<正義>として考えられたものだから<正義>であるとは!?だがプラトンにとってはこれでよいのである。ソクラテスのような哲人によって<正義>として考えられたものは、必然的に<善>であり<正義>なのだから。 つまり考えられたものが<正義>であり<善>であるためには、まず考えるものが<哲学者>であることが必要条件なのである。<善>と<正義>を考える<哲学者>は、<善>と<正義>の国家の建設者であり、統治者としての資格をもつのである。
 「哲学者が国々において王になるのでないかぎり、あるいは今日王と呼ばれ、 権力者と呼ばれている人達が、真実にかつ十分に哲学するのでないかぎり、国々にとって不幸のやむことはないし、また人類にとっても同様だと思う。」 ( 第 五巻四七三 )
 「それでは、真の<哲学者>とはいったいどんな人だと言われるのですか。」 「真実を観ることを愛する人だ」。 ( 同上、四七五 )
 こうして、プラトンは、哲学者にとってのみ観ることのできる「真実在」に関して、自己のイデア論を展開するのである。彼にとって最初の問題とされ<善自体><正義自体>は、<善>および<正義>の<真実在 ( イデア ) >として前提されて存在しなければならない。かくて<イデア>の追求は、<善自体><正義自体の>追求でもあるのである。
 では一体、哲学者にとってのみ観ることのできる、ものの<イデア>とは何であろうか?
 「<美>とく醜>とは、たがいに反対のものである以上、二つのものである。 二つのものである以上、それぞれは一つのものである。」
 「そして<正>と<不正>、<善>と<悪>、それからすべてのイデアについても同じことが言える。すなわち、それぞれは、それ自体としては<一つのも の>であるけれども、いろいろの行為と結びつき、物体と結びつき、相互に結びつきあって、いたるところにその姿をあらわすために、<多>としてあら われるのだ。」 ( 第五巻、四七六 )
 プラトンの言わんとするところはこうである。我々の認識の対象には、一方では<美>それ自体、すなわち「恒常不変に同一のあり方を保つ」<美>のイデアというものがく一者>としてあり、それを認識するのが<真>の知識である。他方<美>それ自体が「いろいろの行為と結びつき、物体と結びつき、いたるところにその姿をあらわ」した、<多>くの美しいものが認識される。しかしこれらの美しいものは、常に美しいとは限らず、醜いこともあるから、真の実在でなく、<思いなし> ( 臆見 ) にすぎない。「それらのものは、必ず何らかの形で、美しくもあり、醜くくもあるようにあらわれる。」個別的な多くの<美>を認識するものは、真の愛知者ではなく、「恒常不変に同一のあり方を保つ<美>のイデア」を観得するものこそ、真の愛知者 ( 哲学者 ) なのである。
 しかし、我々が言語論で考察したように、自然界の多様な現象や対象に対する多様な主体の判断によって、共通性のあるものを一般化して言語化したのが、記号としての言語であり、<美>や<醜>もその例にもれないということが示さなければならない。言語は、対象を区別する記号にすぎないが、その対象は決して自然物に限らない。言語は、物質の状態 ( 例えば、色、大きさ等 ) を区別するのみならず、人間の想像物や、精神態度、判断 ( 良い、好き、快、不快その他 ) をも区別する。言語の表現する対象は、実在の物質およびその状態に限らないことは、一般的に言って、言語が人間によってつくられたもの ( 創造物、人為定在 ) であることを示している。言語の対象は実在の必要がない。認識主体をも含めて、何らかの状態・事物が想像されるだけでよいのである。
 すなわち、<美>それ自体──<美>のイデアなるものは、それ自体で、人間の認識・想像・判断から独立しては存在しえない。なぜなら<美>とは、特定の対象に対する我々の心的状態叉は判断にほかならぬからである。またより詳しく言うならば、人間の主観的判断を形容する言語<美しい>の名詞形が<美>である。<美しい>も<美>も本質的に変らず、認識主体たる人間を前提してのみそれらの言語は存在するのである。
 人間は外界の種々のあり方に対して、自らを維持・確立するために、その対象に即した感情のはたらき(反応)をする。その場合、感情の変化の基準は、生命の安定性・調和・平衡状態の維持であり、その基準を保障するのが一般的に<美>であるに他ならない。しかし人間の判断や感情様式は、後天的 . 経験的な影響を受けやすいが故に、歴史的・社会的な制約を受けている。従って、ある時代・ある場所で<美>であり<正義>である事柄が、別の時代・別の場所で<醜>であり<不正>であることが起こりうる。プラトンが言うところの、ものの<イデア>とは、いずれにせよ<考えられたもの><認識されたもの>に他ならぬのである。存在に関して、より明確にイデア論の立場を示すのは、生成消滅するものと、恒常不変なものに対する見解である。
 「<哲学者>とは、つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる 人たちのことであり、他方、そうすることができないので、変転する雑多な事 物のなかにさまよう人たちは、そうではないわけだ。 ( 第六巻四八四 )
 今日では、恒常不変の知的存在が実在なのでなく、変転する雑多な事物こそが実在であることは常識の部類に属する。しかし、変転する事物の中にあって、人間が生命を維持すること、そのために、変転する運動や雑多な事物の中に共通の一般的法則、知識を求め、自己を知的に世界の中に位置づけようとするのは、言語をもっている動物としての人間にとってまったく自然なことである。
 しかし一般的法則は前提されて存在するものでなく、今後も獲得せねばならぬものである。まして物質的自然の運動法則ならいざ知らず、人間の価値の問題に絶対的に妥当する法則の存在を前提とすること自体が危険な試みであることを知らねばならない。そこでプラトンのような転倒した見解 ( いわゆる観念論 ) のもつ意味が検討されねばならない。もし<変転する雑多な事物>から経験的に一般的知識を構成し、それを事物の支配や秩序づけに応用する態度なら、現実の人間の態度として賞賛すべきであろう。しかしプラトンは<真実在>の知識を<変転する事物>から切離し、<真実在>の知識を対象とする人間だけを優れたものとみなすばかりか、そのような<知識>から<変転する事物>が導き出され、後者を支配するという転倒した思想を展開するのである。
 知識は、多様な事物から、人間の認識能力によって獲得された、変化する人間の所産である。プラトンにおいては、このことを無視し、絶えず緊張と動揺の中にあり、成長し滅んでゆく、この現実の多様性の中に生きている人間の本性を無視(軽視)する思想となって展開していくのである。変化こそは実在であり、永遠不変なものは考えられたものにすぎない。
 ソクラテスは、「私は何も知りはしないが、知っているとも思っていない」 ( 『弁明』 6) と言ったが、これは言葉の厳密な意味で正しい。すなわちソクラテスは、自分の知っていることが、単に<知られたこと>にすぎぬということを知らなかったのである。つまり、「知ろうとする生命としての人間」を知らなかったのである。彼が毒杯を仰いだというのも、まったく無知によるものであったと考えられてよい。<生>はく微々たるもの> ( 第六巻四八六 ) であるが、生命たる我々にとっては、それが<すべて>なのである。
 さて、ギリシア的思考態度は、対象をそれ自体として、そのあるがままに追求するということであった。それは、プラトンにあっては、「<有>とは<何であるか>の問い」 ( 第七巻、五二四 ) である。ここで<有>とは<一>であり<イデア>であり、我々の立場からすれば<言語>である。しかし次の引用の場合は、特定の対比的な言語──プラトンの場含指の<大><小>──である。
 「もし何かそれ ( 大または小 ) の反対のもの ( 小または大 ) がつねに同時に見られ て、それは<一> ( 大自体または小自体 )なのか、それともそれの反対のもの(大かつ小)なのか、そのあらわれにお差がつかないようならば、これはもう判別するものがなくてはならないということになるのであって、魂はここに於いて当惑し、自分自身のなかで知性活動を起こし、<一>とはそれ自体そもそも何なのか、と問い、これの答を探求せざるを得なくなる。」(同上五二四)
 このように、指の<大><小>のような、比較的にのみ区別され、主観的判断の影響を受けやすい対象は、比較性、相対性を嫌うプラトンにあっては<大・小>の区別・判断を支配している何ものかを想定せざるを得ないのである。こうして想定されたものが、恒常不変の<イデア>であり<一>であり<有>といわれるものである。上の例で言えば<大>自体、<小>自体となるのであろう。こうして判断の絶対性を、演繹的に確立しようとするのが、西洋哲学の伝統的な課題となるのである。
 しかし人間の判断・思考を超えて、判断・思考を支配する絶対的存在(法則・論理・ロゴス・神)を確立しようとする試みは、科学的事実と言語の壁に阻まれて必ず挫折する。なぜなら、思考や判断は人間のみでなく高等動物にもみられ、また、人間特有の認識・思考を成立させる手段であると同時に、認識・思考の対象でもある言語(概念・ロゴス)自体が相対的・経験的なものであるからである。さらに人間の主観によってその基準が決定・創造される<善><美><正><大・小>などのように、人間の主観によって、比較的にのみ区別・判断される価値的対象に到っては、認識・思考・判断の結果であるから、それを支配する法則を発見しようとすることは、まったく絶望的な試みであると言ってよい。
 プラトンのイデア論は、以上のように<考えられ><想定され>たもののうちで、恒常不変とみなされるもの(それは究極において言語をもつ人間の所産に他ならない)を前提すること、従って、現象界で生成消滅すると知覚されるものは人間の判断も含めて、その前提されたものすなわち<イデア>の支配を受け、イデア自体が生成消滅の原因となっている。しかしイデアは、対象を示すあらゆる<言語>(名詞に限られる)の数が同数だけあり<善><美><醜><正><不正>もあれば、<指><木><花>などにもイデアがあると考える。そして、それらの個別的イデアのすべてを支配しているのが、最高のイデア<善>である。
 ではイデア論の帰結を引用しておこう。プラトンは、太陽がものを見させ、生物の生長と発生を促すことを例示して<善>もまたしかるものであることを示している。
 「認識される事物に対しても、まさにその<認識される>ということが、<善>によって現実化されるばかりでなく、それの<ある>ということそれの有もまた<善>によって賦与され、それに帰属することになっている。・・・・ただし<善>はただちに<有>ではなく、位においても力においても<有>のなおはるか彼方に超絶する・・・・・。」(第六巻五〇九)
 ここでは<善>は、最早<創造主=神>としての姿を整え、あらゆる存在の原因であり生成の根源とされている。かくてイデア論の全体は<神なるもの>の存在の証明なのである。しかももちろん<善><神なるもの>を含めてすべてのイデア──恒常不変の真実在は、考えられ、抽象され、一般化されたものにすぎないのであるが、この<考えられたもの>を見出すために、思考するという精神的生活の中に、自らの平和と秩序を見出したのである。確かに、正しく考えられたものは正しいし、考えられたものを観るためには、考えなければならないであろう。
 
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アリストテレス『形而上学』批判
 アリストテレスの場合、その「形而上学」は、完成された書物ではなく、彼の手稿を後世の学者が編集したものであるため、論旨が首尾一貫せず、論証も曖昧なところが多い。しかし、その方法論(間題意識)とロゴス(言語)の規定は、ほぼ明確であるから、両者の点から、彼が何を追求し何を言いたかったかを検討しつつ批判してみよう。
 一般に、アリストテレスはプラトンとちがって、神秘的な問題(イデア・神の問題) に執着せず冷静に対象の観察をおこなったこと(例えば、自然学とくに生物学の体系的な研究) から、経験主義の祖とも言われる。しかし<存在>をめぐる論証では、プラトンが<真実在>( アリストテレスで言えば、形相・現実的存在・ロゴス)から雑多な事物が生成するときの、転化や運動を問題とせず<イデア>と雑多な事物を、個別的・一元的にしか扱わなかったのに対し、アリストテレスは直接に、生成や転化そのものを問題としたという違いがあるのみで、<形相>と<質量>を対立させ、前者を優位に置く点で、本質的な変りはないといえる。その相違点に関しては、プラトンでは意味論(言語と対象との関係の追求)はあったが、論理学(言語構成──生成・転化の研究) はなかったといえる。従って、アリストテレスでは、<存在>についての研究は、イデア(複数エイドス)の研究であると同時に、生成・転化(推論)の原理(論理学)の研究でもあった。  ではまず、アリストテレスの<存在>の概観をみてみよう。
 「<ある>というのにも多くの意味がある。・・・・・すなわち、(1)或る意味では、もののなにであるかを、またはこれなる個物を指し〔自体的存在〕(2)他の意味では、そのもののどのようにあるかを、あるいはどれほどあるかを、あるいはその他のそのように述語される物事のそれぞれを意味する。〔付帯的存在〕」(〔〕は引用者による)(『形而上学』出隆訳1028b 岩波書店)
 つまり<存在>とは、自体的存在と付帯的存在がある。前者は名詞によって表現され、付帯的存在から離れて存在し、後者は数詞をも含めた形容詞あるいは動詞であり、自体的存在から離れては存在しえたい。例えば、前者に石・木・花など感覚的対象を表現する具体的名詞、または、神・運動・全体・時間などを表わす抽象的名詞である。後者は、形容詞の「白い・熱い・多い等々」や、動詞の「歩く・流れる・動く等々」である。従ってアリストテレスの<存在>とは、繋辞<ある>で表現されるすべて、すなわち言語・ロゴスで表現されるすべてを指す。 彼にあっては、感覚的対象も、およそ言語であらわされるものはすべて、対象の状態・性質・主観的判断・願望も含めて、<存在>なのである。言語はすべて対象・意味をもつが、この記号的側面と内容的側面が、彼にとっての<存在>である。
 上の引用に続くところで、彼の研究の方向が指摘されている。
 「これらの諸義の存在のうち、第一義的の存在は、言うまでもなく明らかに、もののなにであるかを示すそれであり、これこそは〔実体〕を指し示すものである。」
 また、そのすぐあとで。
 「それゆえ実に、あの古くから、いまなおまた常に永遠に問い求められており、また常に難問に逢着するところの『存在とは何か?』という問題は、帰するところ、『実体とは何か?』である。」(第7巻、1028b)
 そこで<実体>が追求されねばならない。 まず<実体>は、認識する物事(対象)の原因であり本質である。(第1巻983c) その意味するところは、上に述べた自体的存在 ── すなわち主語を形成しうるということである。アリストテレスにあって、運動は常に推理とのみ関連づけられ、言語構成の上位にくるものが常に原因となる。そして、論理上、上位にくる実体を確定するのが、『形而上学』の一つの課題なのである。
 「実体は二種に、すなわち、結合体とロゴスに区別されるが、──そして前者は、それのロゴスが質料と結びついているものとしての実体であり、後者は全くのロゴスそのものである。」(第7巻1039d)
 ここで<結合体>とは感覚的実体を指し、その言語は<ロゴス(または形相)>といわれる。また<全くロゴスそのもの>と言われるのは、非感覚的実体──前の例で言えば神・運動等──である。存在のうちでも、第一義的存在・本質であり原因であり主語である存在・実体を区別すると、下様である。
                 ┏質料
     ┏感覚的実体━━┗ロゴス(形相)
実体━┫
     ┗非感覚的実体━━ ロゴスそのもの
 これで<存在>とは何であるか、が大体把握された。しかし、アリストテレスの最も重要な問題意識は、<存在の原理・原因>の追求をその究極にまで、最も第一義の原理・原因にまで追求を進めることである。さてアリストテレスにとって<存在>とは、生成・転化・消滅している我々の世界そのものである。しかし、彼にとって世界はすべてロゴスを内在させていることによって、感覚的対象の生成、転化の運動は、ロゴス的に、論理的にのみ存在する。彼は(プラトンにも共通しているが) 感覚的対象自体の運動と、その運動の認識主体の頭脳における表現(説明・構成)とを区別することができない。それは、前に触れたように、<存在>がロゴス(言語)で表現されるものすべてであること、むしろ非感覚的対象をあらわすロゴスの方が、確実な<存在>であるとされることによって明らかである。また次のような引用も、世界およびその運動のロゴス性を示している。
 「消失しつつあるものもなお消失するなにものかを保っており、生成しつつあるものもすでにそのなにかは存在しているにちがいない。すなわち、一般になにものかが消減するならば、そのなにものかは存在していなくてはたらず、なにものかが生成するならば、このものがそれから生成するところのそれや、それによってその生成過程が始められるところのそれが存在すること必然であり、しかもこの生成過程は無限にさかのぼりえない。」(第4巻1610a)
 <何もの>と表現された時、彼にあってはその表現(<何>)が、即<存在>なのである。また。
 「自然によって存在し、あるいは生成する事物は・・・・・それらがその形相をもっていないかぎり、なおいまだその自然をもっていないと我々は言う。」(第5巻1015a)
 <形相>とはもちろんロゴス・言語である。このような推論が生じるのは、我々の観点からすれば、明らかであるので、少しく説明しておこう。アリストテレスによれば、<存在>とは、言語(ロゴス)で把握されたものに限られる。なぜなら、<存在>(Sein)とは本来、繋辞の<ある>(sein)から来ているのだから。従って繋辞で結ばれるものだけを、彼は<存在>と呼んでいるのである。また<ある>というのは本来主観的判断である。なぜなら、人間がある対象を認識した結果、<ある>というのだから(注)。
 従って<存在>は、本来は、物質的・感覚的対象について言うのでなく、主観的判断について言われているのである。この点を取り上げ批判的に悪用したのがプロタゴラスの著名な命題、「人間は万物の尺度である。あるものどもについてはあることの、あらぬものどもについてはあらぬことの。」(プラトン『テアイテトス』152)である。プロタゴラスの誤りは、結果としての主観的<存在>に安住して、<存在>の客観性を追求しなかったことである。<存在>の客観性は、社会的な共通の合意によって、たとえ相対的にではあっても可能なのである。
  (注)「思惟することと、あることとは同じである。」(パルメニデス『ギリシア思想家集』山本訳p48)  注意すべきなのは、人間が認識することによって初めて<ある>と言語表現するのであって、認識する以前に<ある>と言語表現するのではない、ということである。このことは、言語表現(言語そのもの)を、生物学的、進化論的に相対化することによってはじめて可能となる。物質や生命は言語以前に確かに存在する(唯物論)。しかし、物質や生命は、その言語表現によって初めて人間的な認識と意識化が可能となったのである。
 <存在>が、言語化され、認識された結果的所産であるのは、伝統的な思考方法に拠っているが、この所産が、<認識主体>を通じて認識されたのである。このことを捨象している結果、認識以前の物質的存在と認識された存在の混乱がおこるのである。なお、悪いことには、前者(認識以前の物質的存在)を真実の存在と認めることができないことである。さらに悪いことは、そのことによって、認識し判断し思考する人間を見ることができなくなったということである。絶対的な知識を前提し、知識だけを追求(注)するような人間であっては、何のための知識であるかを理解しえないだろう。
(注)ニーチェは『権力ヘの意志』の中で言っている。「目標が欠けている。『何のために?』に対する答が欠けている。」(原佑訳、河出書房 p12)
 話をもとにもどそう。アリストテレスにあっては、生成や転化の運動は、言語(ロゴス)の構成──>論理とともにあることが指摘された。論理の基礎は、主語、述語の関係である。『形而上学』では、未だ主語の概念は使用されていないが、これは前に述べた自体的存在、すなわち<実体>であり、物事の原因である。物事は直ちに主語、述語の関係で表現され、生成・転化するものとされる。しかし生成転化は、たとえそれが感覚的対象であっても、言語で論理構成されねばならない。従って、「始まり」と「終わり(限界)」がある。なぜなら、言語は対象を区別し抽象する記号だからである。
 記号は、絶対に有限でなくては、その用をなさないものである。そして最も明瞭で、第一義的な区別は、主語となりうる名詞である。対象としての名詞・主語なくして、形容詞、動詞すなわち述語は存在しないからである。このことは前に述べられた自体的存在(主語)と付帯的存在(述語)の区別である。自体的存在こそ運動(論理)の始まりであり限界であり、目的である。
 「生成や運動があるなら、そこには必ずある限界があらねばならない。なぜなら、いずれの運動も無限ではなく、そのすべてに終りがあり、そしてその生成を完了しえないものは、完成の過程もありえず、逆に、その生成を完了したものは、必ず存在していなくはならないからである。」(3巻99b)
 このように、生成や運動の過程は、論理・推論の過程でもある。そして、言語を媒介する推論には、必ず限界もしくは始まりが、また<何である>の、何があり、これは、存在の原理・原因としての<実体>ないし<主語>なのである。
 さて<存在><論理>の原因・目的または限界である<実体>には、二種類感覚的実体と非感覚的実体があった。前者は形相(ロゴス)と質料の結合体である。アリストテレスは、この区別を、プラトンと同じ思考基準をもって、形相を<現実態>、質料を<可能態>と名づける。つまり、質料は形相と結合して生成・転化するが、形相は質料の先にあってこれを規定する。
 プラトンと異なるところは、生成・転化が質料を規定しながらあるということである。これはアリストテレスが、論理を問題としたことから考えて当然である。ただ注意したくてはならない点は、両者がともに<認識主体>を考慮に入れずに、<考えられたもの>言語・形相あるいは論理を、生成・転化する存在(質料)の所与の秩序としたことである。後者の非感覚的実体については、プラトンが、下位のイデアを支配する最高のイデア<善>を想定したごとく、すべての実体(主語)の原因となる<不動の動者>としての<神>を、設定する。これは、思考およびその所産を、第一義的な存在とする哲学的態度の必然的な帰結である。なぜなら思考(言葉)自体は思考(言葉)によってその原理・原因を与えられねばならないが、それは永遠の循環に終らぬためには、絶対者を想定せざるを得ないからである。
 「或る認識の場合には、その認識は、その対象そのものである、すなわち理論的認識の場合にはそのロゴスが、すなわちその思惟が、その対象そのものではないか。そうだとすれば、およそ質料をもたない物事についての場合には、理性で思惟されるものと、思惟する理性とは、互いに他ではなくて同じものであり、その思惟は思惟されるものと一つであろう。」(第12>巻1075a)
しかしながら、思考は生命活動の一環としてあるものであり、絶対にそれ自体として存在するものではないから、実際には何ら神を想定する必要はない。思考が生命に対して相対化されねばならないのである。しかしこのためには、人間自体を他の動物の中に相対化する<進化論>の出現が待たれねばならなかった。
(参考) 「昔の形而上学の根本前提となっている考えは、事物について、また事物において思惟によって認識されるもののみが事物の真実の真理だということであった。従って事物はその直接性のままで真たるものではなく、思惟の形式に高められ、思惟されたものとなるときに始めて真なるものである。」(へーゲル『大論理学』武市訳上巻p28)
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ヘーゲル──古典哲学の完成者
 ヘーゲルは思考(精神・理性のはたらきであり、その結果として思想・知識がある)の西洋的な自律性を究極(注1)まで押し進めた人である。思考とは言語(概念)による対象の再構成である(もちろん動物的な思考は除外する)が、彼によれぽ、思考の自律性は概念自体の自己運動として理解される。少なくとも哲学の対象とされる絶対者の把握についてはそうである。つまり概念の自己運動(思考)の目的は、概念自ら(即自)が、絶対者であることを自覚すること、そしてそれは自らを対象化(対自)することによって自らを知ることであり、自らを知ることによって自己を完結的存在(絶対者─即且対自)とすることである。
 またその自己運動の方法は、自己(精神思考の結果又は思考の出発点としての概念・思想)を対象化し区別して、見る自己(即自)と見られる自己(対自見る自己でもある)の両者を対立させ、より高い認識に止揚─総合する自己展開的、自己発展的な弁証法、しかも、思弁的な概念弁証法である。かくて、「真理は概念においてのみその現存の場をもつ」(注2)ということになる。
(注1)
 観念とは一般的に言えば、記号としての言語と、その示す意味内容であるが、言語を構成することは、すなわち意味を構成することである。意味は言語によって操られ、秩序あるものとなる。従って我々は、言語と概念と厳密に区別しない場合がある。ヘーゲルは概念を言語と考えないが、我々は概念を記号(言語)とその意味内容とした上で、記号の側面を重視し、概念は言語であると便宜的に同一視する。
(注2)
「精神は本来認識するところの運動である。つまりその自体を対自に、実体を主体に、意識の対象を自己意識の対象に、すなわち、同じ意味で廃棄された対象に、つまり概念に変える運動である。この運動はその始まりを前提に、終りに至って始めて達せられるような、自己に帰ってゆく円環である。」(『精神現象学』樫山訳、河出書房、p449)
・ここで<認識する>とは<知る>ことであり、精神が自らを<知るための思考>をすることになる。<自己意識(精神)>は、自らを対象化(知られる自己化)することによって自らを認識するが、その対象化した自己が<廃棄される>とは、<自己(精神)に帰ってゆく>ことである。人間は概念(精神)があるからこそ、その概念によって自己を対象化し、自己(精神・意識)を知ることができるのである。

 「哲学の歴史は思想の対象である絶対者に関する、様々の歴史の発見である。」         (『エンチュクロペディ』序文、樫山ら訳、河出書房)
・ヘーゲルの言う絶対者とは、精神自体を自己対象化し、その精神を知ることによって精神自体を確立した精神である。
 「(精神が絶対者を確立する)方法のみが思想を制御し、真理へ導き、真理のうちに保ちうる。」                   (同前序文)
 私はヘーゲルがなぜ、かの巨大な体系を築かねばならず、またどのような根拠によってこの体系を築きえたか、そしてこの体系における前提がどのような意義をもつのかを素描してみたいと思う。しかし、ヘーゲルの思想はかなり強引な論証がみられ、容易に定式化しえない、従って我々の素描も強引さは避けがたい。願わくばその言わんとするところのみをご理解頂きたい。
 まず、ヘーゲルにおける問題意識・課題は何であったか──それはカントの批判哲学の克服である。彼はカントが〈理念〉を語ったことについて評価しつつ、「だが〔カントには〕思想の怠惰ともいえるものがあって、これがせっかくこのような最高の理念が立てられているのに、あまりにも安易に当為を逃げ道にして逃げてしまい、究極目的を真に実現しようとせず、概念と現実性との分離状態に固執する。」(『エンチュクロペディ』第五五節)と述べ、自らの目標を究極目的、すなわち分離した現実性を真に現実性とするために(ヘーゲルにとって真の現実性とは思想の中にあること)、概念(その全体的結実としては理念)に還帰させねばならないのである。そして、この究極目的を実現すること、すなわち理念を実現することのためには、認識・思考の問題にまでさかのぼらなくてはならない。カントは認識を成立させる形式(思惟規定=カテゴリー)を完結させ、認識そのものを制限しえたと信じたが、ヘーゲルにとっては認識を成立させる絶対的な確実性が問題となる。
 「認識の吟味となると、これは認識することによってでなければ不可能である。認識の道具の場合、道具を吟味するとは、道具を認識することに他ならない。」(前出、第十節)
 ここに認識能力の確実性を求めようとする西洋哲学のジレンマがある。カントはこの認識能力を思惟規定によって制限し、認識能力を確実なものと信じた。しかしヘーゲルにとっては、「思惟諸規定はその必然性において示されねばならない。」(前出四二節)
 そこでヘーゲルは考える。「認識作用の制限・欠陥という場合にも、やはりそれが制限・欠陥として規定されるのは、もっぱら普遍者という一つの完きものという現にそこにある理念との比較を通してたのである。」(前出第六〇節)
 また「哲学は、思惟を思惟の対象にして始めなければならないように思われる。しかし思惟が自己自身に対してあり、したがって自己のために自己の対象を自分で造り与えるという立場に自己を置くことこそが、まさに思惟の自由なるはたらきというものである。」(前出第十七節)そこでこの思惟(精神)の自由なはたらきによって、自己を対象化するのであり、この方法が弁証法ということになる。
 「弁証法なものは学的進行を促し動かす魂であり内在的関連と必然性を学の内容の中へもたらす唯一の原理であるとともに、この原理の中に一般に、有限者を超える外的ならざる真の高揚があるのでもある。」(前出第八一節)
 こうしてカントによる思惟の怠惰すなわち認識能力の制限は、ヘーゲルによって思考(思惟)の自由なはたらき、すなわち弁証法によって、有限なるものを超える真の高揚絶対者の確立へと高められるのである。 
 次いで我々は絶対者の確立とは何であるかをみなければならない。ヘーゲルにとっての絶対者とは何か──それは西洋思想、とくに観念論の系譜の上での考えられた絶対者──考えられた確実な存在、つまり考えられ創造された神の設定である。我々は西洋思想において<考えられたもの(思想)>が、人間間の現実的生活から離れていること、<考える主体(認識主体)>の軽視ないし無視があることをみてきた。この思考の自律性に確実な根拠を与えることこそ、絶対者の発見であり、哲学の任務であるとヘーゲルは考えたのである。
 「哲学が知という形式に、一層近づくために、つまり愛知という名を捨てることができ、現実の知であろうとする目標に一層近づくために、努力を人々と分かとうとするのが私の企てたことである。」(『精神現象学』前出p17以下)この現実の知こそ<知>が、単に対象でなく、自らにおいて完結した、つまり自ら知っている<知>すなわち絶対者に他ならたい。だがこの<知>に達するためには、カントの認識における制限が超えられねばならない。そして認識・思考のはたらき自体のうちで必然的な論理的完結をもつ体系(論理学)が確立されねばならない。そこでヘーゲルは「人が天国を地上にひきおろしたと同じだけの無理なやり方」を見出すのである。それは精神の偉大さに対するヘーゲルの確信であり、精神の内的必然性による論証である。絶対者の発見は、絶対者すなわち精神自身の仕事でなければならない。そうして得られるものが真理である。
 「真理とは、自己自身が生成することであり、自らの終りを自らの目的として前提し、始まりとし、それが実現され終りに達したときに始めて現実であるような円環である。」(前出p23)この自己自身の生成こそ、絶対者が「終りに至って始めて自ら真にある通りのものとなる」ことつまり、「精神の実体を完全に知る」こと「自己自身を知る精神」となることでありこれが絶対者の確立である。絶対者とは自らを知った精神である。
 ここで、<自己自身を知る>こと、また自己自身を知る<運動>の仕方が問題になる。この点で我々も認めうる認識の弁証法的性格に対するヘーゲルの鋭い観察がある。すなわち、(一)一般的に認識の成立の仕方と、とくに(二)自己自身に対する認識(つまり自覚)の仕方についてである。前者においては、我々が『言語論』で詳しく検討したように、人間の認識はまず対象の言語化と、その言語による記憶された対象の再構成によって成立する。対象の言語化とは、すなわち対象の<分析>または<区別>である。対象は正しく分析され、言語化されねばならないし、逆に言語によって対象が正しく指示されねばならない。この過程に弁証法が含まれる。
 例えば<塩>は他の白い粉状のものと<区別>されねばならないし、また<多>と<少>は相互に比較して<区別>されねばならない(注)。この<区別>を見出す認識の過程がヘーゲルによって神秘化される。つまり我々の精神の中に記憶されてある<塩>という観念(概念とも言いうる)は、それが知識として存在するためには、個々の対象──それは白い粉状のもので、化学変化によって変化し、あれこれと数多くある個別的・感覚的対象──を吟味し区別するが、その過程こそ、概念が自らを感覚的対象の中に否定し(一の否定)、さらに自らに帰ってくる(二の否定)過程と考えられる。つまり我々にあって<塩>という言葉で表現される観念中に記憶された対象と感覚的対象の一致が、ヘーゲルにあっては、言語により代表される観念(概念大脳中にある所与の記憶)側より感覚的対象への一方向の運動と考えられるのである。
 「われわれが、知を概念と呼び、実在つまり真を存在するもの、または対象と呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するかどうかを見ることである。」(前出p63)ここで我々が明確にせねばならぬ点は、概念と対象との一致が、認識主体の不断の吟味ということでなく、概念は我々の精神にすでにある前提とされ、対象との一致が、概念よりの弁証法的運動と解されるということである。ここに認識が、概念を成立させる(対象を言語化する)はたらきとしてでなく、すでに成立している概念(神や精神・理性等)を対象に一致させようとする転倒した運動として把えられているところに、ヘーゲルの概念に対する神秘化があるのである。
(注)
 後者のように対象を形容する認識の場合は、ヘーゲルの吟味の対象にはならない。しかし、対象の正しい認識のためには、対象の比較的区別(ヘーゲルでは規定態としてあまり重視されない)は絶対に必要である。形容詞における対象の区別は、認識における相対性、約束性を非常によくあらわすが、これの軽視は、彼の論理学の体系が非常に恣意的であることを示している。
 次に問題となるのは、対象の(再)構成、つまり命題(主語と述語)とくに<判断>(これは命題のうちに含まれる)をどう考えるかということである。我々にとっての<判断>は、日常生活の中で自己の行動を方向づけるためや、対象そのものを把握するために不断に必要なことである。ここで西洋思想を論ずる場合、我々にとっての人間の主体的<判断>は、常に哲学自体や論理学の対象とはならなかった。さらに、哲学の対象としての、対象そのものの把握を目指した<判断>についての認識も同じようなことが言える。とくにヘーゲルにあっては主体的<判断>の無視が極端にまで押し進められる。
 哲学における<判断>は、ある対象Aを主語として、述語Bにおいて規定することである(「AはBである」という命題)。しかしヘーゲルにあって対象は、絶対者の確立や神・自然・精神・世界など内容の豊かなもので、その命題は、判断の形式では十分満足なものにならないことである。
 「判断の形式は、具体的なもの──真なるものは具体的だが──と思弁的なものを表現するには不適当である。判断というものはその形式上、一面的であり、その限りにおいて偽である。」(『エンチュクロペディ』第三一節)
 そこでヘーゲルにあっては、この主語と、述語の繋りの欠陥を両者の分離から強引に統一へと進めざるを得ない。このはたらきをたすのがコプラ(繋辞)の役割であり、思弁的思惟の運動そのものである。
 「主語と述語と規定された内容または同一性は、・・・・・差別あるもの、相互にばらばらなものとして措定されている。・・・・・この同一性によれば、主語は述語の規定の中にも措定せられるべきであり、このことによってまた述語は主語の規定を維持しコプラは満たされる。このことは内容に満ちたコプラによって判断を推論へとさらに進んで規定することである。」(前出第一七一節)
 結局ヘーゲルによれば、絶対者(神・精神・理念等)の観念に<人間の判断>は必要でなく、絶対者の概念(主語のみでなく述語も)のうちに、すでに内容ないし同一性として含まれていると考える。従って、内容を含んでいる概念は、コプラによって意味をもたらされているとされる。そこで<判断>という人間の主体的な認識(思考)過程は神秘化され、ヘーゲルにとっての恣意的な理性の支配下にある<推論>(注)なる用語に移行せられるのである。確かに人間の<判断>によっては絶対者は確立されえない。絶対者は<判断>を超えるものであり、それに対して<判断>を成立させる概念自体が相対的な約束にもとづいたものであり、さらに、対象(主語)の規定(述語)は、条件的限界つまり主観性を有しているからである。だが新たな論理学が予想されるなら、この判断にこそ焦点が合わせられねばならず、判断の主観性が客観性に高められる科学的方法こそが確立されねばならないだろう。
(注)
 推論(Schlu
ß)は結論・終結・決定などの意味がある。判断(Urteil)から推論(結論)への発展とはよく考えられたものである。「推論はすべての本質的根拠である。そして絶対者の定義は今や、絶対者は推論である、というふうに言えることになり、この規定を命題として言い表わせば『すべては推論である』ということになる。」(『エンチュクロペディ』第一八一節)  
 さて次は(二)自己自身に対する認識(自覚)が問題とされねばならない。我々にとっては、自己自身に対する認識は<反省>のはたらきであると考えられる。〈反省>とは、自己の過去の行為を顧みることによって自己を知ることである。過去の行為とは何か──それは自己の対象化・自己表現された姿に他ならない。だから、認識するとは対象を知ることで、自己──行為主体でありかつ認識主体である──が、自己対象化した姿(行為)を<反省>することによって、自己を認識す(知)るのが<自覚>のはたらきである。ここで<反省>は主体(行為と認識の)にとっての表現であることは我々には自明である。
 しかし、対象化された姿そのものが、自己に帰ってくることが<反省>であると考えられないだろうか。行為する主体も認識する主体も同じなら、行為主体から出たもの(行為)が、認識主体によって知られることは、前者そのものが、後者に受け入れられる──つまり帰っていくことではあるまいか。つまり、両者はともに一者である、この一者をまとめるものが精神であるなら、<自覚>とは精神から出たもの(行為)が精神に帰ってくること(認識)ではあるまいか。つまり、行為──すなわち対象は、我々が<反省>するのでなく、対象(精神の所産)自体の運動によるのではあるまいか。実はヘーゲルにとって<自覚>とは認識主体による<反省>なのでなく、自己(精神)が、自らを対象化し自己に帰ってくることなのである。彼にとって、認識主体の<反省>による<自覚>というものはありえない。これは、ヘーゲルの弁証法を理解する上に決定的に重要な点である。この点から前に引用したものをもう一度分析してみよう。
 「真理とは、自己自身が生成することであり、自らの終りを、自らの目的として前提し、始まりとしそれが実現され終りに達したときに初めて現実であるような円環である。」
 そこに出てくる<自己>とは<精神>であり、〈生成する>とは<精神>の自己対象化すなわち<対象>となることである。この<対象>は<精神>であって、これを認識するとは<対象>を<対象>として知ることでなく、<対象自体>の運動であること、つまり<精神>から<対象>が生じ、<精神>を目的として運動し、精神に帰ること、これこそがヘーゲルの認識の弁証法に他ならない。この弁証法的運動によって始めて、精神(行為と認識自体)が始まりであり、終りを目的とした<円環>、すなわち<真理>が成立する。
 以上から、我々によって明確にされる点は、ヘーゲルが<自覚>の常識的なはたらきを考察しつつ<認識>の主体を捨象し<反省>の過程を神秘化していることである。<認識>は、主体(個体的生命)の認識を離れて精神の自己運動となった。我々はここでも、認識の過程に対する合理的根拠を含んではいるが、転倒した方法を見るのである。 
 次いで、ヘーゲル理論の結論の一つ、西洋思想の誤解の極点ともいうべき<概念>について簡単にみてみよう。概念の性格については「対象の把握」のところで触れたが、対象を指示する記号としての言語と、言語とともに観念の中に経験的に獲得(記憶)される内容(意味)が概念の意味と考えられるべきである。しかしヘーゲルにあっては、概念における区別は、旧来の論理学の用語を借りて神秘化された姿で出現する。
 「概念が有(Sein)と本質(Wesen)との真理として表明せられ、有と本質との両者は、概念において両者の根拠へ帰っていったものとしてあることになったのであるが、また逆に観念はそれの根拠としての有から自己を展開したものであるのである。」(『エンチュクロペディ』第一五九節)
(注)
 さらにこの運動は、概念から始まるが故に、その転倒さが明白となる。「概念つまり完全なものは、たしかに不完全なものから自己を展開することである。しかしながら同時に、自己を措定することとして前提するのは概念だけなのである。(前出第一五九節) とにかく、概念が完全なものであり、概念には、前提すべきすべてがある。しかし、概念は、ヘーゲルの世界にあっても「最も理解困難」(第一五九節)なものなのである。

 概念を自己運動させるヘーゲルは<言葉>をどう把えるか。我々とは逆に彼にあっては言葉が、神秘的なものとみえるらしい。彼によれば「言葉は思想の所産」(前出第二〇節)、又は「言葉は知性の所産」(前出第四五九節)であるといわれ、我々が人間の認識・思考を成立させるものは言葉(ここでは、言語と言葉を区別しない)であるとする考えとまったく逆である。また『精神現象学』では言葉の不可解さを次のように述べている。
 「言葉というものは思いこみ〔感覚的確信〕をそのまま逆のものとし、別のものとするだけでなく、言葉に表現できないものにしてしまうという神にもふさわしい天性をもっている。」(前出七五頁)
 言葉の持つ神にもふさわしい天性こそ、ヘーゲルが追求してみるべきものであったのである。そして我々の観点はデューイによって確立された「概念道具説」の立場と共通する。しかし概念道具説にあっては、言語と概念の関係についてのさらに十分な解明がなされなかった。概念なる用語は広範囲に使用されているため定義が容易でたいが、少なくとも概念とは何であるかと究明する際に、概念の基礎になる言語とは何か、観念とは何かの考察が不可欠である。そうすれば当然「自然主義」として一部で軽視されるような「概念道具説」に対する偏見はなくなるであろうし、また現象学に見られるように、論理のみによって意識や思想の確実性を探究しようとして<判断中止>を行なわなくても、自ずと真理の有限性が明らかになろう。その意味で我々の「言語論の革新」は、概念の問題の解明に一役を果すことになろう。
 「言語論」においては、人間の認識や思考にとっての言語の究極的な重要性が述べられたが、ヘーゲルにとっては西洋思想にとっての究極の確実性をこの言語すなわち概念の基礎まで進めることができなかった。人間の使用する言語と認識の成立との関係について理解することができれば、認識の主体的・経験的過程に行きつかざるを得ないが(注)、西洋思想の限界にあってはこれを逆に、認識を精神や思想およびそれを規定する概念の自己運動としてしか理解することができなかったのである。概念は言語ではないにしても、言語を除外して考えることのできぬものであることを、我々はもっと明晰に知るべきであろう。
(注)
 何のための精神。何のための認識が問われるべきだろう。そうすれば、知識や精神が、それ自体として存在しえないこと、またそれらの確実性には限度があることが知られるであろう。 
 こうして、精神・思考・知識を、それ自体として完結させようとするプラトン以来の試みは絶望的なものであることを西洋思想批判という形で示してきた。それがヘーゲルにおいて最高(最終)の段階に達したのである。対象をそれ自体として把握する西洋的思考態度は、思考自体をもそれ自体として把えようとしてきたのである。
 しかし思考は本来反省的なもの(whatやhowへの解答だから)であるとしても、思考自体を反省的思考によって確立することはできないのである。思考を人間の生命活動の一部として相対化することは、科学的思考(事実による言語的再構成)自体の生みだした「進化論」や「脳科学」によって始めて可能になったのである。ヘーゲルはこの困難を西洋思想の完成として、思考自体の自己運動として解決しようとした。まさに西洋思想の悲喜劇的結末であると言いうるであろう。思考は、論証的に思考自体によって確実な根拠を求めることは絶対に不可能である。
 思考は、人間が言語をもち、言語構成をすることのできる動物として理解してのみ説明しうるものである。思考の成立要素としての言語およびその内容、すなわち概念は、経験的にのみ、経験的条件刺激としてのみその意味をもちえる。人間の思考は、論理的な反省でなく、人間の生存活動の一機能(言語的認識機能)としてのみ正しく理解されうる。<考える自我>があって<自己>が存在するのでなく、考える自我はなくとも自己は生命として存在するのである。
 西洋思想を概観した我々の立場は、言葉の厳密な意味で<個体的生命主義>とも言うべきものである。我々が我々自身と我々をとりまく世界を、好奇心に従って探究する場合、我々がまずその基礎に据えねばならないのは、地球という特殊な環境条件の中で、変化と多様性に満ちた中で生存している個体としての生命である。我々は何よりも他の地上における生命と同じく生命である。すべての生命は、その種に固有の社会組織と生活形態をもっている。各々の種は限られた環境条件を自己の生存能力を最大限発揮して生活している。
 生命の生活は、一律に環境との関係の中にあり、その活動様式は、外部環境の変化を刺激として受容し、それに従って内部環境の恒常性を維持することを目的として、欲求を充足する反応を行い、また危険から自らの個体を維持するものである。従属栄養生物としての動物は、この活動様式に著しい分化と統合がみられることが特色である。環境の変化の受容は、分化・発達した感覚器官の役割であり、その反応は行動の器官(手・足)の役割である。そして受容器と反応器の間は、神経細胞で結ばれ、さらに環境の多様な変化に有効に適応しうる統合器官としての大脳がある。大脳は、環境条件に対する活動の様式を、先天的にも後天的にも持っている。特に、後天的に獲得される分野は高等動物において重要な役割を果たす。すなわち経験の蓄積と試行錯誤を通じての行動様式の獲得である。人間以外の高等動物では、行動を通じて経験的に行動様式が獲得されるが、人間は言語をもつことによって行動を再構成(創造)し、相互に知識を交換し拡大することができる。これは人間における生命の偉大な飛躍である。人間は世界を与えられる(神・自然法・ロゴスによって)ぼかりでなく、世界を(主体的創造的に)再構成することによって世界を拡大し創造し、未来を自ら創りあげてゆく存在である
 しかし他方では、言語をもち世界を再構成し拡大しえることは、知覚と行動の間に分離が起こることを意味する。個体は確かに刺激を受容し反応する過程を基礎としているが、この受容と反応の過程は、大脳という器官の機能において、言語を媒介とする思考の発達、空問的.時間的な情報の拡大によって、情報の処理・判断に多くの時間を必要とするようになる。かくて思考の自律性が現実のものとなる。
 西洋思想における根本的な問題は、言語構成しうる以前の存在(無限・多様・混沌の世界)すなわち知識(言語的認識)以前の存在、またすべてではないにしても感覚的存在と、言語構成した限りでの、知識(言語的認識の結果)としての存在(ロゴス)の混乱を、後者の実在を確信することによって解決しようとすることにある。というのも我々が「存在」を問題にする場合、常に表面的には、言語・知識として問題とされざるを得ないからである。誰かが、「人間は、物質的なものである」と正しいことを言ったとしても、それはやはり知識なのである。従って、知識は常に社会的・経験的・約束的なものであることを出発点とすることを避けることができない。知識のこのような相対的性格を極端に解釈したのがギリシヤのソフィト達であった。しかし、言語・知識は相対性をもつとしても、従って個人的経験によってその表わす意味が多少異っているとしても、現実には平均的(共通的・普遍的)な厳密さで十分相互の意志を伝え理解しうるのである。
 さて本来、言語とその表わす意味に実在性を与える(言葉・ロゴス・イデアを存在とみなし、ロゴスの背後の意味を深く感じ考えなかった)傾向の強かったギリシア人──というのも彼らは、個体的生存・欲求・感情・行動を理性的(言語的)に把握することによって、把握されたものを軽視しえた(言語化することによって納得した)──は、ソフィストに対立する意味で、まったく主観に影響されず、それ自体で存在する<真実在>なるものを想定した。これは自然学者が言うような感覚的存在ではなかった。感覚的存在は生成消滅するが故に実在とはされず、反対に、生成消滅を支配し、それ自体は恒常不変の、通常の人間には見ることのできぬ<イデア>が真実在とされた。イデアはプラトンの仮定によるが、それは言語と同じ数だけあることから考えて、明らかに言語そのものの意味を言語とともに理想化し、神秘化したものと思われる。
 アリストテレスは単に一つの言語だけを把えず、一歩進めて、論理(言語構成)に確実な前提を見出そうとした最初の人である。いづれにせよ<考えられたもの><観念的世界><知識>が第一義的なものとみなされ、知識以前の存在(感覚的存在)は、単に可能的な不完全な存在にすぎなかった。こうして、言語および言語によって構成された知的世界の優位が、西洋思想の主流を形成したのである。 「世界は私たちには論理的なものと見える。というのは私たちが世界をまずもって論理化しておいたからである。」(前出)
 この著名な命題でニーチェはギリシア的な世界観をよく見抜いている。ギリシア的思考は、世界を論理化することによって始めて自己の存在感・充足感をもちえたのである。だが論理自体が確実性の根拠とされる言語が、究極的に個人の経験に左右される相対的なものであることが理解しえるようになった現代において、彼らは徹底的なニヒリズムに陥り、神という絶対者に代わって「民族や階級という概念」による非人間的独裁者の出現を許すことになったのである。これはまた、人間や自己や言語(概念)を生物学的に相対化することができず、言語的認識における自己疎外(観念の迷想)を招いた西洋的思考様式が一つの要因となっているのである。
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マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』に関して
 マルクスは、ヘーゲルの観念的弁証法を転倒させ、唯物弁証法という思考方法を『資本論』に適用することによって、市民社会の経済的原理を歴史的社会科学的方法(唯物史観)で分析し、資本制社会の没落と社会主義社会の成立を必然的な歴史法則として解明したと考えました。そのマルクスが、ヘーゲルの弁証法を転倒させ、世俗的市民社会の経済的分析に向かう契機の一つになったのが、ヘーゲル批判の代表で唯物論者となったフォイエルバッハをさらに乗り越えることになったのが、「フォイエルバッハにかんするテーゼ11」(1845)でした。以下に第4テーゼを引用し批判的解釈をします。
 「四  フォイェルバツハは宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的世界への世界の二重化の事実から出発する。彼の仕事は宗教的世界をそれの世俗的基礎へ解消するところにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から離脱して、雲のなかに一つの自立的な王国を自身のためにしつらえるということは、ただこの世俗的基礎の自己減裂状態と自己矛盾からのみ明らかにされるべきである。それゆえにこの世俗的基礎そのものがそれ自体において矛盾したものとして理解されるとともにまたそれ自体において実践的に変革されねぱならない。したがってたとえば地上の家族が聖なる家族の秘密としてあばかれた以上は、こんどは前者そのものが理論的かつ実践的になくされねばならない。」(『全集』真下信一 訳)
 フォイエルバッハが『キリスト教の本質』において批判した、「宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的世界への二重化」を「世俗的基礎へ解消する」ことは、マルクスにとっては「世俗的基礎の自己滅裂状態と自己矛盾」の克服を実践的活動によって変革することであった。マルクスが切り開いたこの世俗(階級)社会批判を前提とした唯物論的立場は、のちに『ドイツ・イデオロギー』や『共産党宣言』に結実し、社会主義の新しい流れをつくるものでした。
 しかし、宗教的自己疎外の根源である言語的・観念的意味(言語的合理化と欲望の肥大化)は、宗教においてだけでなく世俗においても当てはまります。つまり、世俗的世界においてもフォイエルバッハ的な感性的意味においても、ものの見方考え方、すなわち思想や知識、階級的立場や集団的利害などイデオロギー一般において、人間は言語的動物としてイデオロギー性を避けることができません。そのイデオロギーの本質を理解することなしに、宗教と世俗、世俗の中の階級対立という二重性を弁証法的対立に単純化して社会的人類として自覚(自己止揚)しようとしても、共同体的な人間的社会(「第11テーゼ」)を構築することはできないでしょう。なぜなら、宗教的自己疎外は、宗教的世界と世俗的世界の両者ともに、「言語的合理化と言語による欲望の肥大化」という人間の本質を共有しているからです。(参照「心の構造」「マルクス批判」)
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