『資本論』批判の要点  マルクス主義批判  「等価交換」批判  経済学批判

    『資本論』の批判には様々なものがあるが,彼の膨大な体系の代案を築くに至っているものはないと思われる。われわれの批判の要点は,「商品交換の不等価性」を重視して,貨幣と剰余価値の意味を解明することである。すなわちマルクスは,資本論の中で十分な論証もなしにこの不等価性を否定している(資本論第2編第4章第2節 一般定式の矛盾 を参照)。

    しかし,我々は,(1)
貨幣は商品交換における不等価交換の困難性を克服し,交換を円滑にするために発明されたものであること,また(2)剰余価値は,労働力商品と賃金の不等価性,すなわち労働者の搾取によって生じたことによって説明する。そうすれば,「商品の物神礼拝」などという資本主義社会の神秘化や,「商品の不等価性」の意味を明らかにすることによって労働力の価値を単なる「その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値」におとしめる必要はなかったであろう。つまり,マルクスの解釈に反して,商品は交換によって社会的価値の決まる物やサービスのことであり,労働力の価値は人間の価値そのものであって,階級社会において抑圧された労働者の価値(低賃金,長時間労働など)ではない。またこのように「資本主義社会のマルクスによる神秘化」からの解放や,労働力商品の所有者である「労働者(=人間)の主体性を確立」する可能性も生まれてくるのである。

    資本制生産が確立した「発達せる商品社会」では,「等価交換」が支配しているというマルクスの見解を根底から批判することは,政治経済社会のあり方を考える上での前提となる。そこで次の@〜Eに『資本論』からの引用によって
マルクスの思い込み(それは,「思考の結果(思想)が現実を支配する」ことを自覚しない西洋思想の限界を示している)を明らかにしておこう。

@「農民は,その穀物を価値以上に売り,あるいは衣服をその価値以下に買うことがありうる。彼のほうが衣服商人から詐取されることもありうる。だがこのような価値の相違は,この流通形態自身にとっては,
純粋に偶然的なものである。」P195(『資本論』向坂逸郎訳 岩波書店版ページ 以下同じ)
   ○ 偶然的なものの集積が,必然的なもの(平均的基準)になるのであって,逆ではない。したがって,「このような価値の相違(不等価)」こそが一般的なのである。

A「商品の価値は,それらが流通に入る前に,その価格に表されている。すなわち,
流通の前提であって結果ではない。」(P204)
   ○ 価格に表されても,その価格通りの交換が行われるわけではない。すなわち,商品の価値を表す価格は一の基準であって,市場での交換の結果を想定したもので,交換の前提になるのではない。商品の価値(を表す価格)は,市場における
交換の結果,確定する。

B「商品はその価値から離れた価格で売られえるのであるが,しかし,この乖離は,商品交換法則の毀損として現れる。
商品交換は,その純粋なる態容においては,等価の交換であって,したがって,価値を増すための手段ではない。」(P205)
   ○ 純粋なる態容は,不等価の交換である。そこに
交換を推進する原動力がある。商品は,平均的価格で売られるが,それはあくまで平均的なものであるにすぎない。商品交換は,その純粋なる態容においては,不等価の交換であって,したがって,価値を増すための手段である。ここで言う価値とは、マルクスとは違い交換当事者にとっての(主観的)価値である。価値とはすべて諸個人一人一人のものであって、社会的に実在する価値というものはない。あるとしてもそれは人間社会にとっての平均的なものにすぎない。マルクスは、(労働による社会発展という)絶対的な価値観を人間に押しつけるべきではなかった。

C「商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には,多くは,一の混乱,すなわち,使用価値と交換価値の混同がかくれている。それで,たとえば,コンディヤックはこう述べている,『商品交換で,等しい価値と等しい価値とが交換されるというのは,謬りである。逆だ。両契約者のおのおのは,つねにより大きな価値に対して,より小さな価値を与える。・・・・実際にいつも同一価値が交換されるならば,どの契約者にとっても,少しの利得も得られないだろう。しかしながら両者ともに利得しているし,また利得すべきである。(以下略 引用者)』コンディヤックが,使用価値と交換価値とを混同するのみならず,発達せる商品生産の社会を,まことに無邪気に,生産者がその生活手段を自ら生産し,自分の欲望以上の剰余のみを,すなわち,不用部分のみを,流通に投ずる状態によってすり変えているのを知るのである。」(P205)
   ○ 発達せる商品生産の社会も,独立生産者のみの社会も,原則は変わらない。むしろ,交換価値が使用価値を支配する,と想定することに誤りが生じたのである。しかしコンディヤックが,「両者ともに利得しているし,利得すべきである。」というのは願望ではあっても,事実を反映しているとは言えない。
強者の利得が多くて、弱者を支配し収奪することは今までの歴史の常であった。

D「商品の流通過程は,その純粋なる形態においては,必ず等価の交換となっている。だが物ごとは現実においては純粋にばかり行くものではない。だから我々は非等価の交換を想定しよう。」(P205)
   ○ ここで無意味な証明(流通する価値は,総体としては増えない)が行われる。『資本論』を参照されたい。そして結論は以下のようになる。

E「だから考えたいように,どうにでも考えて見るがよい。不足は同じようにいつも出てくる。等価が交換されるとすれば,剰余価値は成立せず,非等価が交換されるとしても,また何らの剰余価値も成立しない。
流通又は商品交換は何らの価値を生まない。」(P212)
   ○  我々にとって,商品交換において価値を生まないことが重要なのでなく,また流通する価値の総和を問うのでもなく,
誰により多くの価値が蓄積されるかを問う。ここに不等価交換の意義がある。


(1)労働価値説について

    マルクス理論には積極的・肯定的側面と消極的・否定的側面がある。多くの賛同者は彼の肯定的側面に幻惑され,否定面の批判的検討を怠っている。また反対者は否定面を強調して,資本主義社会を社会科学的に分析する政治経済学の伝統までも排除しようとする。

    肯定的側面とは人間解放,階級支配の廃絶である。
否定面とは,西洋的認識論とユダヤ教的世界観の限界性からくる理論崇拝(労働概念の絶対化)による人間支配(ないし疎外)といえる。つまり,労働価値説による弁証法的理論構築とその理論を決定論的に絶対化する宗教的信念が,人間存在の自由性,創造性を抑圧しているのである。

    肯定面についてはよく知られている(注1)が,否定面については断片的な批判は多いものの,体系的に検討して対案を出しているものはみられない。
「価値とは何か」,「労働とは何か」のような根源的な問題の追究が不十分なためと思われる。またこれらのことを検討するためには,「意識と存在との関係」というような認識論(ないし存在論)の問題や歴史観,さらには社会主義の在り方にも触れなければならない。

    『資本論』に限って端的に結論を言えば,
「労働は解放の概念であると同時に抑圧の概念でもある」ということである。マルクスは「労働」に人間の本質を求めている(注2)が,人間の人間たるゆえん(本質)は人間の労働が他の動物と根本的に異なっているということである。それは「労働」が主語になって人間の進歩をもたらしたのでなく,労働の特殊人間的な在り方――直立歩行にともなう自由な手の使用,大脳と言語の発達による認識と活動能力,および欲望の飛躍的な増大に原因がある。労働とは人間的欲望を充足させる手段にすぎない。このことの検討を怠ると,言語による世界のイデオロギー化(合理化),すなわち「イデオロギーとしての労働価値説」による人間の抑圧(自己疎外,理論崇拝)という否定的な意味が理解できなくなる。

    またマルクスは資本論の中で,資本主義社会のもとでの労働力の価値(賃金)を「その所有者の維持のために必要な生活手段の価値」としているが,これは
階級支配下にあって抑圧されたもとでの労働力の価値であることを無視して正当化している。つまり,資本主義社会での労働力の価値は,人間的欲望を満たすものになっていないにもかかわらず,これを歴史的社会的な所与とみなし,低賃金・長時間労働などの搾取を正当化しているのである。

    しかし,抑圧された状態の賃金で得られる労働者の生活手段は,彼の人間的欲望を満たすものではありえない。人間にとっては,労働力の再生産だけでは,人間的な生活にはなりえないからである。
人間の価値は,資本制生産における労働力の価値以上のものなのである。

    このように価値は,「労働」という抑圧概念から生まれるものでなく,人間的欲望(労働者の生活の維持に必要なだけの欲望ではない)から考えられるべきものである。
欲望を満たす生産物はすべて価値があるが,労働生産物でも欲望を満たさないもの(欠陥商品等)に価値はない。労働は,人間の生存にとって必要条件であるが,人間的な自由な生活にとっては十分条件ではないのである。

  マルクスは人間的本質としての労働に価値を認め,労働者の解放(人間解放)をはかろうとしながら,労働の抑圧的側面を見抜けなかったために,結果として『資本論』を抑圧の理論としたのである。マルクス自身は,「労働」を人間の本質と考えたためにこの矛盾に気づいていない。人間解放のためには,
労働概念からの解放,すなわち人間的「欲望」概念――欲望は人間存在の2つの核心の内の1つである――の確立が必要なのである。(注3)

(注1)社会経済における発展的理解,被抑圧階級の解放,資本主義の非道徳性の指摘,科学的(?)認識の重視などは肯定面といえる。しかし『資本論』に結実した,科学の名による決定論(独断と偏見)は,20世紀に多くの悲劇をもたらしたことも事実である。 実はマルクスにあっては,自己のイデオロギーの相対化,すなわち唯物史観や労働価値説などの理論――マルクス主義(という人間意識)が,人間行動に及ぼす影響の解明をなしえないゆえに,本来の科学的認識から遠ざかり似非科学となった(人間の意識を正しく科学していないがゆえに,ドイツ語の「知の体系 die Wissenschaftとしての科学」という概念を勘案しても科学的とは言い難い)。
人間が意識的動物である,ということを自覚して始めて本来の科学的認識が成立するのである。

(注2)「労働過程は,使用価値をつくり出すための目的に合致した活動であり,人間の欲望のための自然的なものの所得であり,人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり,人間生活の永久の自然条件であって,したがってこの生活のいかなる形態からも独立したものであり,むしろ,人間の一切の社会状態に等しく共通なものである。」 (P239)
   ○ 労働過程自体は,確かに「永久の自然条件」であるが,人間と自然,人間 と人間との特殊(発展的)な関係は,労働の自然条件から生まれるのではな く,人間の特殊な存在形態によるのである。それは基本的には
人間の言語を 媒介とした,思考・記憶・創造等の能力による。重要なのは「目的に合致し た活動」と「人間の欲望」の特殊な在り方を,人間性の本質としてとらえる ことである。それなしに「永久の自然条件」とされる「労働」で人間を規定 するのは,人間を人間以下におとしめ抑圧する思想につながる危険性を孕む のである。
人間存在にとって「労働」は必要条件ではあっても,それで十分条件とな るのではない。「人はパンのみにて生きる者にあらず,人はエホバの口より出る言葉によりて生きる者なり」は聖書の言葉であるが,後半の「エホバ(神) の口」を人間の口とすれば概ね正しいと言える。また人間は「働かざるもの 食うべからず」であるが,
卑しむべき労働もある。例えば人類社会の生産力 が高まり,私有財産が生じて以降,支配的な人間が,その優位な立場を利用して,他の人間を精神的・物理的に支配し管理する抑圧的労働はその代表で ある。

(注3)「欲望」概念と意識や言語との関係は,第2章でもふれたが,さらに後 編で詳述する予定である。


(2)商品の等価交換について   やさしく→→ここ

    マルクスは労働価値説にこだわったために,商品の等価交換とそれにもとづく剰余価値説という虚構を設定し,人間自身を抑圧し,社会を神秘化し,歴史を歪曲することになった。マルクスが,資本制生産の「細胞」として分析した商品は,何ら「神秘」でも「魔術や妖怪」でもないし,また労働生産物とその社会的性格を隠蔽するものでもない。労働生産物であることは,商品にとって必要条件ではあっても十分条件ではない。商品は何らかの労働を必要とするが,それで欲望を満たせるとは限らないし,それゆえに価値があるとは限らない。商品とは,商品所有者が交換によって何らかの利益を得るため市場に出した,欲望を充足させる対象(物やサービス─労働力を含む)である。

 しかるにマルクスはこう言う。「彼ら(私的生産者)は,その各種の生産物を,相互に交換において価値として等しいとおくことによって,その異なった労働を相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし,彼らはこれをなすのである。」(岩波書店版『資本論』P97)

 人間労働が等しいことは交換成立の条件であるが,これを知らずに,人は結果として等価交換を行う。なぜか,それは商品社会における労働生産物が,個人的な使用価値と社会的な価値(交換価値)の二重性を内包しているからである,とマルクスは言う。ここに価値形態論におけるマルクスの
弁証法的神秘化がある。

 さらに,等価交換を前提とする価値形態論が,貨幣の神秘性を暴露したことになっているが,貨幣の成立を論証したと言えるものではない。そもそも
商品交換の「結果としての等価」(商品の等置・等号化 商品A=商品B)は,次なる交換(等置)の成立条件になりえても,市場における無数の交換を支配する定在ではありえない。

  マルクスは,「価値形態の秘密」を述べる条りで,「亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。‥‥‥第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。」(『資本論』P63)としている。しかし,
交換すなわち等置は,交換された事実を示すもので,価値が等しいことを表わすのではない。等置は,必要物を手に入れるための便宜的な社会的行為である。つまり市場における,当座の交換成立をしめすものであって,それが次の無数の交換成立の基準になるとはいえ,常に等置されるとは限らない。市場的平均的には等価とみなされ,交換成立の根拠とされても,市場における交換当事者の関係において、等置の関係は変化しうるものである。

 商品交換には,交換(等置)成立の条件として,商品所有者間の合意が必要である。
合意の判断材料の一つとして,商品生産に費やされた労働量(労働時間や質)や有用性,さらには社会的な慣習が考えられる。

 このような無数の交換によって成立した交換(等置)価値は,あくまで平均的なものにすぎない。
平均はあくまでも平均であって,実在は個々の交換である。その意味で,交換は当事者の利害・損得判断,商品に対する需要の大小,すなわち不等価性にもとづいているのである。貨幣は,その個々の交換・取引・判断の困難性を克服し円滑化するものとして,社会的に考案され創造されたのである(これは歴史的事実として容易に説明し得ることであり,貨幣成立の法則としては,交換の合理化法則とでも名づければよいものである)。貨幣の最適の要件が,有価性,稀少性,均質性,耐久性,可分性であり,金,銀,銅などがこれに適合するが,穀物でも羊で貝でも石でも有効である。

  以上のように,マルクスにとって「謎」にみえる商品の形態は,何ら謎でも神秘でもない。労働時間による商品価値の規定は,その科学的根拠を確認できないが,交換当事者が市場においてどのように社会的に評価するかは確認が可能である。商品交換社会の無政府性は,商品の謎的性格に由来するものではない。それは経済社会の意識的な無政府性,すなわち
自由放任・自由競争,あくなき利潤の追求を,社会(の強者すなわち支配階級)が推進していることによるのである(すくなくとも『資本論』の時代は「競争の強制法則」が優位であった)。

   以下に,商品の等価交換について,マルクスからの引用@〜Cにコメントを加え,立論を補強しておく。
@「一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは,ひとえにその中に
抽象的に人間的な労働が対象化されているから,または物質化されているからである。そこで財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている『価値形成実体』である労働の定量によってである。労働の量自身は,その継続時間によって測られる。」(P50)
   ○ マルクスが言うように,労働が対象化されているから商品に価値があるのではない。
「価値」とは,人間の判断に属するもので,人間の判断を越えた(人間の判断を支配する)法則ではありえない。たとえ労働量が,意識的・無意識的な当事者間の判断の大きな比重を占めるとしてもである。

A「この
価値の大いさは,つねに交換者の意志,予見,行為から独立に変化する。彼ら自身の社会的運動は,彼らにとっては物の運動の形態をとり,交換者はこの運動を規制するのではなくして,その運動に規制される。相互に独立して営まれるが,社会的分業の自然発生的構成分子として,あらゆる面において相互に依存している私的労働が,継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは,私的労働の生産物の偶然的で,つねに動揺せる交換関係において,その生産に社会的に必要なる労働時間が,規制的な自然法則として強力的に貫かれること,あたかも家が人の頭上に崩れかかる場合における重力の法則のようなものであるが,このことを経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには,その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。」(P99)

   ○ 自由放任のもとでの資本制社会で,マルクスが
人間の主体的判断を無視したのには,それだけの歴史的社会的条件があった。しかし今日では,人間は経済活動をある程度は政治的にコントロール可能(資本主義の修正ないし混合経済)なことを知っている。いわゆる独占資本主義が階級社会を貫徹するために,資本家や労働者に自制を求めそれを制度化しているのは,「重力の法則」と違って,「労働価値説」が「マルクスの虚構の産物」であることを端的に示している。マルクスの『資本論』が,「資本主義的生産の自然法則」(序文)を解明しようとした意図とは逆に,社会から人間の主体的判断を疎外することによって,『資本論』を似非科学の体系としたことは明白である。

B「貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で,種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ,したがって又,事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は,
商品性質の中に眠っている使用価値と価値の対立を展開させる。この対立を,交易のために外的に表示しようという欲求は,商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。」(P114)
   ○ 
貨幣の成立を,弁証法的に解明したとする上記の文は,「商品性質の中に眠っている使用価値と価値の対立」という表現によって,商品交換の本質を隠蔽する役割を果している。商品交換は,自分にとって価値が少なく,相手にとって価値の多いものの交換であって,等しく置かれるのは交換当事者間の合意に過ぎない。その合意が成立し,それが社会的な習慣になるのは,人間の欲望と意識の共通性に根ざしている。

  しかし,そ,のような合意すなわち物々交換における利害の一致は,常時存在するとは限らない。したがって,人間は欲望を充足させ(生活を快適にする)ため遠隔の共同体間と商品取引をするし,また共同体内では貨幣という共通指標によって取引を円滑化するのである。何も「使用価値と価値の対立」があるから貨幣が生じるわけではない。「交易のために外的に表示しようという欲求」は,
人間の生活向上(自由と創造性)とそのための交換欲求自体の中にあるのである。

C「
貨幣物神の謎は,商品物神の目に見えるようになった,眩惑的な謎であるに過ぎないのである。」(P122)
   ○ この文は,「マルクスによる商品の物神化」すなわち商品社会の神秘化を,端的に示す表現である。商品も貨幣も何ら謎ではない。ただマルクスが生きた,自由放任,弱肉強食の時代にマルクスにそう見えただけに過ぎない。人間とその社会が作ったもので,謎に見えるものも,人間自身とその社会を科学的に解明することによって明らかにすることができる。


(3)商品の物神的性格について

    資本主義的生産の運動法則を分析する出発点を,商品の等価交換においた結果,マルクスにとって商品は,「きわめてきむずかしい物であって,形而上学的小理屈と神学的偏屈に充ちたもの」(『資本論』 P94)になってしまった。
   「商品形態の神秘に充ちたものは,単純に次のことの中にあるのである。すなわち,商品形態は,人間に対して彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として,これらの物の社会的自然属性として
反映するということ,したがってまた,総労働に対する生産者の社会的関係をも,彼らのほかに存する対象の社会的関係として反映するということである。」(『資本論』P95)
   商品は,労働の社会的性格からでなく,欲望をもつ(自由と創造性、生活向上欲,致富欲等)人間と人間との関係から生じる。
商品交換という行為は「人間労働の社会的性格」からでなく,自らの欲望にとって過剰である物と,自らの欲望にとって不足する物との交換である。しかし,欲望をもつ人間と人間との関係を,マルクスは「労働生産物の社会的関係」から説明するのである。マルクスにとっては,商品所有者の欲望が商品形態を形成するのでなく「労働生産物自身の対象的性格」が,商品所有者をつき動かして交換させるのである。
   また,上記引用文で「反映する」とは,欲望をもつ人間の頭脳(マルクスの頭脳)に反映しているだけであって,商品所有者は労働生産物の「等一性」や「労働時間」や「社会的性格」に関係なく,自己の欲望充足のために行動しているのである。マルクスにとって商品形態が,謎的・幻影的に見え,物神礼拝の対象に「見える」のは,彼の生きた時代の自由競争にもとづく生産の無政府性に起因する。しかし,商品が物神的性格をもつように「見える」ことは,商品形態が謎であり「価値の大いさは,つねに,交換者の意志・予見・行為から独立して変化する」(『資本論』P99)ことを意味しない。
 いかに成熟したブルジョア社会であっても,商品市場の交換主体は商品所有者であり,
商品の価値は平均的な市場価格として規定される。そしてこれらの平均的市場価格は,交換者間の置かれた条件(商品の量・質・必要性等,とくに商品の独占的・統制的形態は不等価を自明のものとする)によって,どう取引判断(意志・予見・行為)されるかによって決まるのである。商品形態に「謎」は存在せず,マルクスが自己の頭脳中に科学という名で謎をつくって,資本主義社会を神秘化したのである。これは「マルクス理論の物神礼拝」と呼ぶことができる。


(4)剰余価値説について

    マルクスは,貨幣が資本に転化し,資本が等価交換から剰余を得るために,「価値を生む商品」としての労働力商品を考案した。しかし不等価交換からこそ,資本家にもたらされる剰余は得られる。
 
資本家と労働者の取引は,明らかに不等価である。なぜなら労働者は,自己の労働力を売る以外生活ができないという,不利な条件にある。生活するためには,資本家に屈服しなければならない。労働者にとって労働力商品の交換は,この商品が歴史に登場して以来,すなわち生産手段たる土地と道具などから引き離されて以来,屈辱的なものであった。歴史上,このような労働力商品及びその所有者は,政治的経済的要因によって,貧民・流民としてあふれるほど生み出されていたのである(資本の原始的蓄積)。

    労働力商品の交換は,歴史上つねに資本家にとって有利な,そして労働者にとって不利な,しかも多くは不公正に行われる不等価交換であった。にもかかわらず,マルクスはこの交換を「価値法則」によって合法化し,さらに労働者の「必要なる生活手段の平均範囲」を一定の国,一定の時代に与えることによって,人間の「必要な欲望」を限定し抑圧する。マルクスの分析を借りれば,
人間の労働力の価値を半減して,それを合法則化しているのである。(ただしマルクスは,他の半分を資本家が手に入れる剰余価値に配分した。しかし人間労働を過小評価し,人間的欲望を矮小化したことには変わりはない。)

    労働力商品の価値は,厳密には労働者と資本家の階級関係と労働者個人の置かれた企業内の社会的関係によって規定される。そして平均的にはその時代や社会的利害,とりわけ
階級的対立関係によって不等価に,「本来あるべき価値以下!」に決められる。競争社会においては,資本の存立と拡大のために利潤の追求,剰余価値の獲得は,資本家にとっては至上命令である。資本家は,資本という主君に仕える者ではなくて,資本を増大させ自らの利益を追求するために労働者の賃金を下げ首切りをする主体である。さらに労働者(人間)間の競争は,労働者に必要以上の犠牲を強いる。

    また,われわれにとって,労働力の価値は「その所有者の維持に必要な生活手段の価値」すなわち,「抑圧された下における生活手段の価値」にとどまらない。つまり労働力の価値は,マルクスの表現を借りれば,「半労働日(6時間)」でなく,「一労働日(12時間)」の価値があるべきなのである。(注1)
 マルクスが考えたように,1日の労働は必要労働と剰余労働に分けるべきでなく,
労働力の価値は,1日の労働すべて(職場における人間的協動的労働)であり,そこから半日の労働が搾取されていると考えるのが正当なのである。人間として労働者の費消した労働は,本来すべて労働者の所有に帰すべきものなのである。そしてそこから資本家の生産手段等にかかる費用を差し引いて,賃金が決定されるべきものなのである。すべての人間は労働をするのであり,その質や量は異なっても賃金の決定は人間的協動的労働から始めるのが人間的な賃金決定の原則でなければならない。
    以上が商品の不等価交換による,貨幣と剰余価値の説明である。

(注1)マルクスからの引用@〜Cによって立論を補強する(なおここでは、個々の企業や個人の業績は、マルクス同様考慮に入れていない)。
@「他のすべての商品と等しく,労働力は一の価値をもっている。それはいかにして規定されるか。」(P 221) 「
労働力の価値は,その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値である。」(P221)
   ○ 労働者は,「必要な生活手段の価値」を賃金として得てきたか。否であった。
必要以下の価値に値切られ,劣悪な労働条件のもとで酷使され人間的な生活を奪われてきた。

A「生活手段の総額は,この労働せる個人を,労働する個人としてその正常なる生活状態に維持するに足りなければならない。」(P222)
   ○ 「生活手段の総額」(賃金)は,労働せる人間としての豊かな生活を営むのに十分であったか。否であった。
労働力の価値とは,人間の価値である。だが賃金は,人間の価値に値するものであったか。否であった。

B「いわゆる
必要なる欲望の範囲は,その充足の仕方と同じく,それ自身歴史的の産物であって,したがって,大部分は一国の文化段階に依存している。なかんずく,また根本的に,自由なる労働者の階級が,いかなる条件の下に,したがって,いかなる価値と生活要求をもって構成されているかということに依存している。したがって,他の商品と反対に,労働力の価値規定は,一の歴史的の,そして道徳的の要素を含んでいる。だが一定の国にとって,一定の時代には必要なる生活手段の平均範囲が与えられている。」 (P222)

   ○ 階級社会における労働者の必要なる欲望の範囲は,抑圧され強いられたものであって,「与えられた」ものではない。「必要なる生活手段の平均範囲」は,人間的な生活をするものとしては,不十分であり抑圧され不正なものであった。それを歴史の必然性によって合理化し,抑圧したものを免罪するべきではない。
人間である労働者にとっての必要な欲望が,同じ人間としての資本家の必要な欲望と異なるという合理的な理由は何もない。

C「毎日の労働力の生産のために必要なる商品の量をAとし,毎週必要なるものの量がB,毎4半年期のそれがC,等々であるとすれば,これらの商品の毎日の平均は 365A+52B+4C+等々/365 であろう。この平均日に対して必要なる商品量に,社会的労働の六時間が投ぜられていると仮定すれば,その労働力には毎日社会的平均労働の半日が対象化されている。換言すれば
半労働日が,労働力の毎日の生産に必要とされる。この労働力の毎日の生産に必要とされる労働定量が,労働力の日価値を形成する,あるいは毎日生産される労働力の価値をなす。」 (P223)

   ○ マルクスは,労働力の価値を「半労働日」と仮定した。しかしこれは不正である。労働力の価値は,全日労働日分であり,そのうちから,労働者の賃金と生産手段費消分を差し引いて,資本家の剰余価値となるのである。
つまり資本家は,労働者の人間としての価値を奪いつつ,富を増大させてきたのである。

(5)マルクスの誤りの背景

    ではなぜこのような誤りが,マルクスによって理論化されたのか。それはマルクスが科学的方法を用いたとしながら,その実,西洋的そしてユダヤ・キリスト教的世界観の限界性から抜け出ていなかったからである。西洋的な限界性とは,思考による結果(結果としての等価交換、ヘーゲルにおいては理念)が,現実の過程を支配するというヘーゲルの弁証法的思考様式(カントにおいては思考の形式としてのカテゴリー)である。またユダヤ・キリスト教的限界性とは「原罪としての労働観」と「終末論的世界観」である。

    すなわち「資本論」第1巻の構成は,ヘーゲルの弁証法における「精神」の発展(概念の自己運動)を「労働」に入れ替えたものに他ならない。マルクスは「労働」を主体として,労働の自己疎外の形態である「資本」から労働自らを解放しようとしたのであるが,それは結果的に抑圧概念である抽象的「労働(者)」を支配者に置くだけで,人間の解放を目指すものになっていない。つまり
マルクスの理論では,人間を解放するのではなく,人間を「労働」に抑圧するだけで,自己解放をなしえないのである。マルクスは人間解放を目指しながら,人間を労働に矮小化し抑圧している。これはヘーゲル弁証法に毒され,ユダヤ・キリスト教的呪縛をかけられたマルクスの自己矛盾である。マルクス主義の桎梏を克服しない限り,人類と時代の閉塞状況を乗り越えることはできないと思われる。


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