マルクス理論克服の視点     マルクス主義批判   HOMEへ

(1)物神崇拝論について
    彼の物神崇拝論は,「人間の意識が存在を規定するのでなくて,逆に人間のが意識を規定する。」(経済学批判序言)にはじまる。そして前節で批判したように,『資本論』の「第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密」につながる。すなわち「商品形態は,人間に対して彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として,これらの物の社会的自然属性として反映するということ,したがってまた,総労働に対する生産者の社会的関係をも,彼らのほかに存する対象の社会的関係として反映する。」」(『資本論』P95)という表現である。つまり,商品の関係は,人間の社会関係であるにもかかわらず,逆に,人間の社会関係を規定するのである。このような「人間に対する幻影的形態」は,「それ自身の生命を与えられて,相互の間で,また人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。」

    彼は,人間関係そのものが商品関係「である(sein)」とおり(注)にではなく,
商品関係が「独立の姿に見える(scheinen)」とおりに,商品世界を抽象し,これを「物神崇拝」と名付けた。そして労働の社会的性格を示す商品の関係が,人間の意識(頭脳の産物)として,マルクスの理論(資本論)に反映しているのである。商品形態は何ら神秘的なものではないにもかかわらず,商品を神秘化し商品社会を神秘化し,資本主義社会の不公正で欺瞞的な人間関係(階級関係を含む)を,「資本の自己運動」に支配されるものとして単純化し覆い隠す。マルクス本来の意図とは逆に,自己の「理論」を絶対化し,現実の人間(マルクスとマルクス主義者たち)の意識を支配することとなるのは,彼の思想が,西洋的思考とりわけヘーゲルの影響を克服し得なかったことを示している(詳細は小著『西洋思想批判試論』白川書院 1976 を参照されたい)。

    マルクスによると,この神秘化は社会主義ないし共産主義社会にならないと克服されないと考える。「社会的生活過程,すなわち,物質的生産過程の態様は,それが自由に社会をなしている人間の生産物として,
彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめてその神秘的なおおいを脱ぎ捨てるのである。」(『資本論』P104)

    しかしわれわれの立場は,資本主義の人間関係すなわち経済的な利害関係と政治,文化等の意識形態を含めたすべての人間関係を正確に把握して,これを正義と公正にもとづいて調整できるような社会を求めるのである。商品形態を通じて「労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格」として
神秘的に(反映しているように)「見えること」と,商品を媒介にした人間関係の「事実」はどうであるか,ということとは区別されねばならない。それが本来の意味の科学的ということである。

    商品交換社会成立の根拠は,人類社会における地域的(共同体的)差異性ないし多様性と人間欲望の発展性ないし拡大性(言語を獲得したことによる「意識」的行動の結果)にある。商品の存在は人間の社会関係そのものであるが,それはマルクスの言うように人間関係を支配する労働生産物の関係ではない。それは
労働生産物等をどのように交換し活用するかという「意識と欲望」をもつ人間そのものの間の関係である。

    商品を交換する主体は,商品所有者そのものであることは科学的に確認できることであって,商品社会(資本主義社会)の科学的分析はここから始められなければならない。それは資本主義社会の中にあっても可能であり,決して「意識的な計画的な規制」のもとでなければできないものではない。むしろ逆に,20世紀の社会主義の歴史は意識的な計画的な経済(マルクス主義的社会主義国)の中で,自由が制約されて全体主義的な傾向が進み,
社会関係が神秘化(英雄崇拝,共産党独裁等)されたことを示しているのである。

    このように,マルクスの物神崇拝論は,人間(個々人)の主体的判断を捨象し,実際にはマルクスが,商品社会を独断的に判断し理論化したものであるにもかかわらず,これを普遍的真理とみなして押し付ける,独善的排他的非科学的方法の正当化である。確かに現代社会の人間疎外は,商品,貨幣,資本の自己運動によって引き起こされているように「みえる」。しかし
その原因を物神崇拝(独断的決定論に連なる)に求めることは,科学的探求の放棄である。むしろそのように「みえる」資本主義社会の人間関係――経済的政治的社会的文化的等――を,社会心理学(例えば労働者の要求,資本家のねらい,庶民・大衆の願い等々)も加味して科学的に明らかにし,現代の疎外的状況を変革し,望ましい社会(とりあえず人間性,正義,社会的公正を目指している社会)を人類的な英知で建設していこうとするのが,物神崇拝に陥らない唯一の方法なのである。

(注)商品は,いかに人間関係をこえて自立的運動をしているようににみえようとも,常に交換当事者が商品交換の主体者として存在している。商品交換すなわち商品は,歴史的社会的発展の過程で,
人間存在の本質から生じたものである。それは現代の発展した資本主義社会においても変わらない。しかしマルクスは,商品を神秘化することによって,人類社会と人間そのものを神秘化した。商品交換の積極面と消極面,さらに商品の生産と交換のありかたは,もっと研究されるべき問題である。また商品交換を永遠的なものとみるか,限定的なものとみるかも,人類社会と人間存在の本質にかかわる問題である。しかし今日までの,マルクス主義国家の計画経済の実験から考えると,自由な交換関係が失われた社会は,人間的な解放された社会とは考えにくいであろう。

(2)歴史決定論について
    マルクスの唯物史観の基本は,人間と自然および人間と人間の関係を生産と再生産にありと規定して,そこから人間の本質を自己対象的な社会的労働におき,人間の意識の諸形態(宗教や文化など)を,社会的労働にもとづく社会的関係の総体に
従属させていることである。彼の歴史観の前提(人間の本質としての社会的労働および生産と再生産)がすでに決定論的なのである。したがって,唯物史観を克服するためには,人間の本性にもとづく歴史観を,正しく確立しなければならない。

    たしかに人間は生きるためには,まず物質的欲望を充足させなければならない。そのために労働によって,生活に必要な物資を生産しなければならない。しかし
人間の人間たるものは「言葉」をもつことによって,意識的存在となったということである。人間は意識的に自由な手を用い,対象を改変することによって自然を支配する。しかし同時に自然とは異なる世界(呪術的,宗教的,理念的世界――政治・経済・社会のシステム)を,意識の中に形成することによって自らを世界に位置付ける。意識的な世界は,物質的生理的条件を前提とするが,同時に新たな経済・社会のシステムを構築しまた桎梏となる。

    このことは,唯物史観的な決定論の誤りを明らかにする。すなわち過去の階級社会において意識的諸形態(イデオロギー)が,階級的利害を反映したものであることは確かであるとしても,そのはたす役割は決して従属的なものではない。その最たるものがイデオロギーとしてのマルクス理論の果した役割そのものであり,また宗教や民族的な意識形態も歴史の展開に大きな役割を果して来たのである。

  さらにマルクス理論(だけでなく西洋思想全般)にみられるような歴史決定論を克服することによって得られる実践上の大きな意義は,
意識形態の意義(人間がどのような意識をもつか)を積極的に認めることが可能になり,未来社会のあるべき姿を検討し,試行錯誤することが肯定されるのである。マルクス理論はこれを否定し,生産を支える労働者階級の階級闘争が歴史発展の原動力として,階級憎悪を煽り,排他的な独善に陥り,労働者の人間的自覚や連帯を阻むことになったのである。

    
生産と労働は,人間存在の必要条件であるが十分条件にはなりえない。また生産と労働にもとづく歴史の決定論は,労働者としての使命と責任を要請しえても,人間としての使命と責任の自覚にまでには及ばない。さらに歴史決定論にもとづく階級闘争(労働運動)は,無責任に人間を抑圧することがあっても,未来における人間の解放はなしえない。人間は現状を変革し,未来を創造する動物である。人間はサルトルの言うように「未来のなかに自らを投企することを意識するものである。」(『実存主義とは何か』伊吹武彦訳)決して生産と労働によって決定されている存在ではない。

(3)生産第一主義について
    マルクスは『ゴータ綱領批判』で次のように述べている。「労働そのものが第一の生命欲求となったのち,個人の全面的な発展にともなって,またその生産力も増大し,協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに涌き出るようになったのち――そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏み越えることができ,社会はその旗のうえにこう書くことができる――各人はその能力におうじて,各人にはその必要におうじて!」(全集 山辺健太郎訳)
    しかし,労働は第一の生命欲求ではない。それゆえ個人の全面的な発展も,労働を人間の本質と考えるマルクス理論ではなしえない。人間にとって本来的に労働は,欲求充足の手段であって目的ではない。人間は労働を目的として生きているのではない。労働が人間の欲求になるとすれば,それは二次的,意識的なものである。つまり労働意欲とはイデオロギー形態なのである。社会心理学ではこれを社会的二次的欲求ともいう。

    人間は労働(生産)するために生きるのではなく,生きるために労働するのである。そして人間は,たしかに生きるために労働しなければならない。「働かざるもの食うべからず」これは正しい。しかしこのような
当為的自覚は,イデオロギー的,意識的自覚なのである。

    また欲望は,肉体的・生理的欲求を越えて,意識的・社会的なものになるとその限界を規定するのは困難である。人間の欲望は相対的なもので,ブルジョア社会の私的欲望は,マルクスの想定したように,社会主義になれば抑制できるような,単純に利己的なものではない。「各人の必要」が,測定困難で有限なものでないために,どこかで調整が必要になる。それは結局「市場」を通じて行わないと,中央統制的な抑圧社会となる。

    またマルクス理論における生産第一主義は,19世紀西洋の思想という歴史的制約があるとはいえ,地球的生態的限界を視野にいれていない。生産と再生産が,地球資源とりわけ化石燃料の消費・枯渇と環境汚染をまねき,生態系の破壊によって生命の生存さえ危うくしている。
マルクスにおける生産中心の全面発展論(自己対象的活動に対する西洋的楽観論)は,生態論的視点が欠如し,自然改造計画における自然破壊は,文明の存立そのものを脅かしている。これはマルクス理論を頂点とする,西洋的価値観そのものの限界を示しているといえる。

(4)階級一元論について
    マルクスが,社会の諸個人諸集団間の物質的な利害対立や思想的宗教的対立の科学的な分析を行ったことは,社会科学の発展にとって大きな役割を果した。彼は歴史を,原始共産制から交易戦争を通じた奴隷主と奴隷,封建制度における領主と農奴,自由契約にもとづく資本家と労働者の対立,そして一般的に支配者と被支配者,所有者と非所有者,有産者と無産者の対立という階級闘争の図式で説明したことは,歴史的社会的事実として確認可能なものである。

    しかし
階級間の利害の対立だけが歴史を作るものでないことも事実である。たとえば部族間,民族間,国家間の対立や奴隷主間,領主間,資本家間の対立など支配階級の間における対立,被支配者間の対立,つまり様々の個人・集団の間における利害関係も歴史の中で大きな役割を果してきた。それらの多様性が今日の民族や国家の在り方の多様性を生み出しているのである。

    社会の対立と協調の諸段階(概念)として,たとえば戦争,殺人,反乱,弾圧,威嚇,駆引き,懐柔,支配,服従,臣従,詐欺,契約,多数決,権力欲,名誉,地位,奉仕,互助,妥協,納得,協力,打算などが考えられる。そしてそれらの原因ともなる経済的社会的利害関係の正確な把握,社会的地位・名誉・財産等の諸段階の科学的な分析なしには社会の諸矛盾を解決することはできない。

    それらの分析を通じて社会的に
不公正,不平等で反道徳的な社会関係を調整しうるし,また民主的な手続きにもとづいて,対立を制御する社会的抑制も可能になるのである。そして社会関係の分析のなかで,様々の対立の大枠となる利害関係が,階級対立であるといえる。

    今日の社会主義国は,マルクスの考えた社会主義とは大きな隔たりがあるが,階級闘争と共産主義を実現するというマルクス主義政党(共産党)が,社会の利害の調整を代表するシステムとなっている。マルクスの意図とは離れているとはいえ,やはり社会的利害を階級闘争に一元化し,権力集中を指向したマルクス理論の帰結であるといえよう。

    
階級一元論は,階級内部の利害関係を不透明にするばかりか,常に階級敵を想定し,自己を独善的に階級の代表であるとみなす。敵対階級とその利害を明確にすることは,政治的経済的に重要であるが,階級一元論では,自ら階級関係を止揚(廃棄)することはできない。マルクスは,階級支配(私有財産制度)の廃絶後に社会は透明化される考える(注)が,これは誤りである。逆に,社会の透明化すなわち人間の解放を目ざすことが,階級支配を廃絶することになるのである。

    労働者は被支配階級として,支配階級と利害の対立関係にあるが,人間として自己を解放しているわけではない。階級闘争は,それ自体が目的ではなく,また社会主義実現のための手段でもない。労働者の団結の中に社会主義の萌芽はあるが,マルクスの決定論にあっては,
支配者に対しての団結であって,自立した個人の連帯や互助自体を目ざしたものではない。その結果,共産主義社会への政治的過渡期の国家は「プロレタリアートの革命的独裁」が行われ,絶えず階級敵を作って大衆を指導し抑圧するのである。

    従って,階級社会を止揚する運動は,それ自体の中に自らを解放する理念を追求しなければならない。そのような変革の運動は,運動内部の人間関係も重視され,透明な関係を目ざすものものでなければならない。それは大衆の民主主義であるが,衆愚政治ではない。特定の人間に情報を握られ,大衆が操られるものではなくて,大衆自体に判断と参加の機会が与えられる。
秘密がなく人間性と正義が確立し,社会的公正が常に追求される運動こそが,階級一元の運動を越える,自立した個人の互助共生・連帯共同の社会を創造し得るのである。

(注)「現実世界の宗教的反映は,一般に実際的な日常勤労生活の諸関係が,人間に対して,相互間および自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになって初めて,消滅しうるものである。社会的な生活過程,すなわち,物質的生産過程の態容は,それが自由に社会をなしている人間の生産物として,
彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて,その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。」(資本論 P104)  弁証法的唯物論のような神秘的決定論的人間理解のもとにあっては、「実際的な日常勤労生活の諸関係」における神秘化は再生産される。

(5)競争廃絶論について
    「資本主義的生産の内在的法則が,資本の外的運動に現われ,
競争の強制法則として貫かれ,したがって,推進的動機として,個々の資本家の意識に上る仕方は,いま考察されるべきことではないが,しかし,次のことだけは初めから明らかである。すなわち,競争の科学的分析は,資本の内的本性が把握されるときに,初めて可能なのであり,それは,天体の外観的運行が,その実際の,しかし,感覚的には知覚されえない運動を知る者にのみ,理解されうるのと全く同じである。」(p410)

    マルクスによれば,資本主義的生産が終われば,その内在的法則は消滅し,内在的法則から生じていた利潤獲得すなわち利己主義的営利衝動の競争も人間行動の推進的動機として消滅する。資本の内在法則とは,利己的諸個人の商品交換から生じる価値法則であり,それは労働者の資本家に対する階級闘争を通じて,資本主義のシステムと共に消滅すると考える。(注)

 しかし「資本主義的生産の内在的法則」があって「競争の強制法則」があるというのはマルクスの虚構であり,資本主義の神秘化である。人間社会においては競争は避けることはできない。競争は,地上において繁栄しようとするすべての生命にとって,多様で有限な環境における不可避の定在である。しかしこれは一面的に強調されてはならず,互助,共同,協調,共生もまた生命の不可避の定在である。
生存競争と互助共生は,生物学的な研究と人間心理にもとづいた社会科学的な研究をもとに,共通認識が可能な独自の倫理的課題である(古来性悪説と性善説また利己心と利他心等として考察されてきた)。

    人間は,理性によってある程度の意識的なコントロールは可能であるが,
動物的な競争本能を内包している。それは意識的無意識的に自己の存在を主張し,自己の安定と優位性を図ろうとしたり,理性的な経済活動の形態をとることもあれば,暴力や戦争のようにむきだしの闘争となる場合もある。マルクスが,無政府主義などとの理論的「競争」に精力を費やしたのは,社会科学の考え方や国家権力のとらえかた,労働運動の進め方や組織論の違いをめぐっての競争の一形態である。

    社会主義社会――「協同と土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする,個別的所有」(『資本論』P952)の社会――から競争が廃絶される(なぜなら資本主義的生産の内在的法則がなくなるから)というのは,マルクスが否定したユートピア社会主義のもつ,非科学的な願望ないし理想である。

 「階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって,各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる。」(共産党宣言)
    しかし競争を人間社会の前提とすることは,上記の「宣言」にみられるような協同社会を理想とすることを否定するのではない。競争を不可避ととらえつつも,これを人間の弱さとみてそこから
社会的な人間の望ましい在り方を求めていくことはできる。競争の多くの否定的側面が現れないような人類社会の建設――戦争,略奪,殺人,差別,専制,隷従,搾取,貧困そして不平等・不公正など,様々の人権侵害や不幸から自由な社会の建設を求めるのである。マルクスは,目的(社会主義)の正当性によって,手段(階級闘争)を科学的法則として正当化した。階級を消滅させるために,階級闘争の高揚を宣伝し,暴力を肯定した。しかし暴力によって暴力は止むことはない。不正をもって作られた社会から不正は止むことはない。

    公正なルールにもとづいた競争のゲームは,人間の活動を活発にする。自然を大切にし人間を思いやることを前提とした競争は,人間の生活を豊かにする。真実と正義を追求する競争は,人間を向上させる。文学や芸術など人情の機微をとらえ,感情の豊かさと人間の素晴らしさを表現する競争は,人生に潤いをもたらす。生活を便利で豊かにする発明や発見の競争,自然の豊かさを人間の心に取り入れる競争などは人生にゆとりと豊かさを生む。 これに反して,
人間の悪徳を助長する競争は,人間を腐敗堕落させ,自然環境と人間自身を破滅に導く。エゴイズム,独善にもとづく競争は,人類社会共通の敵である。生産第一物質万能の独善的な資本主義もマルクス主義も,未来社会には有害な遺物とならねばならない。

  (注)マルクスは,競争が資本主義社会の内在法則の原因でなく,結果であることを明確に述べている。「競争一般,ブルジョア的経済のこの固有の牽引車は,ブルジョア的経済の諸法則を創設するものではなくて,それらの執行者なのである。それゆえ無制限の競争は,経済的諸法則の心理の前提ではなくて,結果――そこで諸法則の必然性が実現される現象形態――である。」(『経済学批判要綱』高木浩二郎監訳 VP489)

では 何を目標とするか
(1)人間の道徳性と連帯
    マルクスは,商品の内在法則から生じた
貨幣の自己運動が,資本に転化し,剰余労働を搾取して,価値増殖をはかることを論証しようとした。資本が主体であって,資本家はその人格的表現にすぎないというのである。資本は,競争を通じて資本家へ致富を強制する。「こうして,価値は自己過程的の価値となり,自己過程的の貨幣となる。そしてこのようなものとして,資本となる。価値は流通から出てくる。再びそこに入る。その中に自己を保持し,殖える。ここから増大して帰ってくる。そして同一の循環を,つねにまた新たに始める。」(『資本論』p201)

    このような『資本論』における「資本」の自己運動論は克服されなければならない。なぜなら
「労働」という概念は人間を解放しない。また「労働」という概念を人間の本質として「階級闘争」を推進しても,階級を止揚(廃棄)することにはならないからである。

    マルクスは,資本家の致富衝動と貪欲を,資本家社会固有の現象と考えるがそうではない。いや正しくは,資本家は資本家社会固有の存在であるが,致富衝動と貪欲さらには
権力欲や支配欲は,人間であるがゆえに陥り易い本質的弱点である。人間性を子細に観察すれば,このことは明らかになるが,それはこの小論をこえる。ただこれらの弱点は,階級社会ないし「歴史の前史」においては,必要以上に(または不当に)あるいは美化(英雄崇拝,成功物語など)され,あるいは正当化(優勝劣敗,民族宗教など)されたことは確かである。

    「起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は,資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら,ここでは,個人は,経済的範疇の人格化であり,一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ,問題となるのである。私の立場は,経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって,決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は,主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても,社会的にはひっきょうその造出物にほかならないものだからである。」(『資本論』第1版序文p5)

    マルクスが,もし資本主義社会の非道徳性を暴露し,人間性と正義,社会的公正にもとづく社会主義社会の実現に寄与するために,社会科学と経済学を完成したのなら,20世紀はもっと別の民主主義的な成長を遂げたかもしれない。しかし実際はそうでなかった。その理由は,人間もしくは個人は,「主観的」に人類の歴史に責任を負わねばならないにもかかわらず,
マルクスの理論によって,階級的憎悪を煽り民族的偏狭を刺激することによって,人間性と正義,社会的公正などの道徳的価値が矮小化されることに大きな役割を果したからである。

    人間は,資本主義社会では階級的関係(一般的に社会的利害関係)に拘束されるが,各個人の社会的行動は「主観的」に行われる。
人間は,「社会的な造出物」であるが,同時に新しく「未来の歴史を造る意識的な存在」でもある。資本主義を道徳的に容認するかどうか,未来社会をどのようなものに変革創造していくかは,各個人の「主観的」な判断による。マルクスは,下部構造としての経済的社会構造を優位において,人間の社会的個人的行動の意識性イデオロギー性を軽視した。そのために階級的意識は重視したが,階級を止揚する人間的意識は「小市民的」であるとして軽蔑した。19世紀の無政府主義は,マルクスの攻撃の対象になったが,自由や平等そして社会的連帯そのものを目指した人間的な思想と運動であった。

    「生産手段の集中と労働の社会化とは,それらの資本主義的外被とは,調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(『資本論』P952)

  マルクスには,階級的敵意と解放の思想はあったが,人間的連帯の思想は小市民の思想として排斥された。資本家の非道徳性は攻撃したが,労働者の利己的な人間的側面は追及しなかった。資本家と労働者の階級的属性については,社会科学的分析をおこなったが,人間の解放に結びつく意識的道徳的分析はできなかった。しかし人類が文明的危機にある今日において必要なのは,決定論的予言や独善的思想ではなく,
階級対立を含めた社会の利害関係の科学的分析と人間性,正義,社会的公正を基本にした社会的連帯の思想である。

(2)資本主義と倫理
    マルクスの積極面は,人類史を社会構造的に概観し,それによって社会の科学的認識を深めたこと,そして資本主義の競争原理の非道徳的側面を鋭く批判したことである。しかし同時に,今まで述べてきたように,それらの
積極面は西洋的偏見に基づいていたため,自らの価値観の限界を自覚することを阻み,人間的抑圧も生み出すこととなった。マルクス理論を克服・再生し,実践的課題を見いだすためには,資本主義の非道徳的側面をどのようにとらえるべきか追究せねばならない。そうでなければ,旧来の宗教や道徳・偏見が,反科学的反動的な動きや利権と結合して,世界を停滞・混乱させるさせることになる。人類的道徳を今日も支えているこれらの誤った思想的伝統は,生命や宇宙科学の時代ふさわしくない。

    例えば,キリスト教の神話や儀式,仏教の神秘主義,日本における天皇制など,未だに現実を歪曲する思想や謬見が,避けられる不幸を永続させている。進化論の否定,葬式仏教,君主制による既得権の擁護,カルト宗教,右翼の暴力的行動の助長など,過去の誤った伝統を保守擁護させることによって,現実への変革的意欲を喪失させている。また現代西洋思想の閉塞状況(現象学の行き詰まり,実存哲学の挫折,プラグマティズムの限界など)は,これらの誤った伝統に,退行的な開き直りの機会を与えている。

    長い年月にわたって培われた政治的社会的文化的伝統には今後も継承し,学ぶべき点も多い。しかし,今日ほど人類的地球的規模での危機が迫っている時代はない。経済的側面から言えば,人間の交流・交換の場である市場に新たな倫理的基準が設けられねばならない。地球の一体化が進行する中でこそ,個々の交換・取引における社会科学的観点による分析が必要になる。
利己的な致富衝動にもとづく刹那的・投機的市場は,必ず人間的道徳的退廃を生じ人類的生存を危うくする。競争や悪平等を主張することは,自己抑制や互助・共生という道徳的価値を考えない浅薄な発想である。

    資本主義の非道徳的側面を鋭く指摘したレーニンは,資本主義競争が行き着く「独占」の本質を捉えて,次のように述べた。
    「帝国主義のもっとも深い経済的基礎は独占である。この独占は資本主義的独占である。すなわち,資本主義の中から発生して,資本主義,商品生産,競争という一般的環境のうちにあり,しかもこの一般的環境との不断の,そして解決の道のない矛盾のうちにある独占である。だがそれにもかかわらず,この独占は,他のすべての独占と同様に,不可避的に停滞と腐朽化への傾向をうみだす。」
(『帝国主義』宇高基輔訳 岩波文庫 p162)

    さらにレーニンは,貨幣資本の膨大な累積が,生産からの離脱状態を強め,金利生活者の寄生性をもたらすことを加えて,金融資本主義の段階を「寄生的な腐朽しつつある資本主義」と述べている。
    今日の資本主義の状況においては,帝国主義のあからさまな暴力的支配は,ある程度克服されている。しかし世界的な巨大企業(多国籍企業)による地球支配は,相互利益を図るという商業道徳をも踏みにじって進行している。
巨大資本は,高度な技術革新による相対的剰余価値の独占を継続するため,様々のメディアを駆使し伝統的文化を破壊しながら利己的競争原理を世界の隅々に広めている

    国民経済の活動は,教科書的に言えば,「企業,家計,政府」の三経済主体によっておこなわれる。企業は富を生産し,商品として販売することによって利潤をあげ,資本の蓄積と家計のために分配される。しかし家計の収入は,富の公正な分配によって貧富の格差を生じさせる。企業と家計に対する租税によって運営される政府は,企業と家計の経済活動を調整する。しかし,
既得権を擁護しようとする保守的政府は,一方では競争の推進を言いながら,他方では貨幣と利権によって民主的選挙の票を集めようとする。

    今日の資本主義経済では,国民経済に及ぼす政府の役割は極めて大きい。ケインズが明らかにしたように,政府をどのように機能させるかによって資本主義経済のコントロールが可能になった。いわゆる古典的資本主義が修正されたのである。しかし,資本主義であるかぎり競争原理は経済活動の主動因である。
人間的な倫理は無視されるか,競争的本心を糊塗するために偽善が増加する。他人に道徳を説きながら,自らは不正をなす政治経済の指導者が後を断たない所以である。管理的立場にある人物――すなわち資本主義的原理のもとで成功した人物の,倫理的道徳的麻痺は,その原理のゆえに減少することはない。大衆も労働者もまたその流れに抗することは難しい。カネが世界を不透明にしている

    国家間や国民間における富や所得の格差が,どこまで是認されるのか。限りある資源・富の分配がどのようにあるべきか。人々がこの分配の過程にどうかかわるか。これは世界と国民の世論によって決定されるのが民主主義である。どのような世論が望ましいか。この判断を,科学の時代にふさわしい公正かつ有効なものとするための知識――
社会的諸関係を透明にする知識こそ,我々が求める人類的価値判断の基準である。

    現在は先進資本主義国とりわけアメリカ合衆国の価値基準が世界標準になろうとしている。貧富の差の拡大すなわち一部の階層に偏る富の分配,それでしか社会の活力を得られない社会は異常である。アメリカ的豊かさをどう考えるか。確実に言えることは,
地球的観点に立ち全地球市民の幸福なくして地球市民の永続的繁栄と幸福はありえないということである。

    
西洋的価値が物質的欲望の増大,進歩の観念を前提している限り,地球との共生はむつかしい。これに対し,東洋的な自然環境との共生の観点は,人類の経済活動を評価する中心的基準にならねばならない。西洋的進歩は自然を支配する(破壊する)という観点からの経済成長を前提として成立している。産業革命後の資本主義は,西洋的価値観の物質的表現である。そこでは全体的福祉は利己的進歩に従属している。アダム=スミスの分析は,素朴な善意に満ちているが,無責任な願望に過ぎなかった。

    マルクスは『資本論』の初版序文で「私利という復讐の女神 (die Furien des Privatinteressen)を最も狭量な,そして最も憎悪にみちた人間胸奥の激情」と述べ,他方で,「私利」によって活力を与えられる競争を,資本主義的生産様式に固有の法則として捉えている。しかし,「私利」を資本主義にのみ固有のものと捉えることは誤りである。

    利己心と利他心の対立をどのように調和させるかは,イギリスのロックやスミス,そしてフランスのルソーばかりでなく,人間性を社会的に考察したすべての思想家,哲学者にとって大きな問題であった。道徳の起源は,古今東西を問わず,利己心にもとづく人々の争いをめぐるものである。これは人間性(だけでなく生命の本質)にとっても根源的なものであり,単純に解決しうるものではない。

    しかし,資本主義は,私利をめぐる競争が,市場において調和的におこなわれ,これこそ人類の進歩と活力の根源であるとしている。そして,政府などの公的組織による分配の調整は,打算的であるか又は旧来の伝統的な道徳によって行われている政治的利害関係の妥協点として,民主主義の制度によってかろうじて調和安定が図られている。そのため,民主政治の担い手である市民の人類的社会的自覚が困難となり,共通の理念にもとづく連帯を得るのを困難にしている。

    政府が景気の調整や社会問題の解決を行う資本主義の修正では,問題の抜本的な解決は不可能である。
市場の利潤追求競争が円滑であるためには,経済成長――すなわち環境破壊,浪費,欲望の肥大化が必要であり,人間社会の利己主義化と非道徳化は進行する。資本主義と倫理は本質的に相入れないのである。マルクスはこれを競争形態の一形態である階級闘争によって解決できると考えた。しかしこれは理論的にも実際的にも破綻している。今日及び将来にとっても必要なのは,経済倫理そのものの根源的な変革なのである。

(3)科学的社会主義論について
    マルクスは『「資本論』における科学的分析の方法を,カウフマンの言葉を借りて説明している。「マルクスは,
社会の運動を自然史的過程として考察する。この過程を左右しているのは,人間の意志や意識や意図から独立しているだけでなく,むしろ逆に人間の意志や意識や意図を規定する諸法則なのである。」(『資本論』第2版後書)

    しかしマルクスがその確立に大きな役割を果した社会科学の方法論――社会の運動の分析における科学的方法――は,2つの点で誤っている。
    (一)『資本論』では「人間の意志や意識や意図」を規定する「商品社会の運動」の秘密は,「第1章商品 第4節商品の物神的性格とその秘密」の中で解明されている。すなわち,「商品社会の運動」の基本は,「商品価値の大いさ」が,交換者の意志,予見,行為から独立して,「労働時間」で規定されるように,交換者を規制しながら労働生産物(商品)の運動の形態をとって変化するところにある。

    「その(労働生産物の)
価値の大いさは,つねに,交換者の意志,予見,行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は,彼らにとっては,物の運動の形態をとり,交換者はこの運動を規制する代わりに,その運動の規制のもとにある。相互に独立して営まれるが,社会的分業の自然生的構成分子として,あらゆる面において相互に依存している私的労働が,継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは,私的労働の生産物の偶然的でつねに動揺せる交換関係において,その生産に社会的に必要なる労働時間が規制的な自然法則として強力的に貫かれること,あたかも家が人の頭上に崩れかかる場合における重力の法則のようなものだからであるが,このことを,経験そのものの中から科学的洞察が成長して来て看破するに至るには,その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。」(『資本論』P99)

    しかしこれは,ナンセンスである。第2節でも述べたように,人間は価値の大いさを,交換者の置かれた
様々の条件を勘案して市場で決める。交換当事者の間の欲望,意志,予見,必要の結果として価値の大いさが決まる。個人が意図して価値の大いさを決めるのではないが,市場における諸個人の交換関係の結果として決まるのである。

    このことは,マルクスが例示する(P99)ような「1トンの鉄=(等価)2オンスの金」と「1ポンドの金=(等量)1ポンドの鉄」を対比させるような次元と意味が異なるのである。前者は人間の社会的価値判断を基準とするし,後者は不変の重量を基準としている。つまり「その生産に社会的に必要なる労働時間が規制的な自然法則として強力的に貫かれる」というのは,全くの独断であり,
労働時間は価値判断の単なる重要な条件の一つにすぎない。このような社会の運動の分析方法は「科学的洞察」の名に値しないものである。

    (二)エンゲルスは,「社会主義はこの発見(唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露)によって一つの科学となった。」(『空想より科学へ』大内兵衛訳 岩波文庫)と述べ,またマルクス主義者であるヒルファディングは,「論理的に科学的な,客観的な,
価値判断から自由な科学であるマルクス主義」(『金融資本論』序言 岡崎次郎訳)と表現している。しかし,生産や労働を人間的存在の本質と考え,歴史観や剰余価値の基準を規定すること自体価値判断である。マルクス主義とは,労働価値説を基本にすえた価値判断の経済学理論であり,価値判断から自由な経済理論ではありえない。

    確かに自然科学においては,自然法則の解明によって自然の運動を予測することができる。しかし社会科学においては,
未来の社会の動きは,現在の人間の価値判断に影響される。したがって,人間の「価値判断自体」を科学の対象とする必要がある。

  しかるに『資本論』の根底を貫く労働価値説は,古典派経済学を継承しているが,いずれも
個人(人間)の社会的な価値判断の過程を無視した一面的なものである。人間にとって価値あるもの,効用あるもの,欲望を充たすものは労働生産物に限らない。逆もまた真である。土地や美しい自然,優しさやおもいやりなども価値がある。また労働自体の価値も『資本論』のように「労働時間」だけでなく「質」も問われなければならない。価値を扱う社会科学では,自然を対象とするような明確な判断の基準を設けること自体が困難なのである。

    唯物史観も剰余価値説もすでに批判したように,独断と偏見にもとづいている。それだけでマルクス的社会主義は,科学の名に値しない。さらに「社会主義」自体が,人間の選択可能な一つの価値判断である。
社会主義は科学的でなければならないが,価値判断である以上は,決して科学ではない。社会主義は一つの理想である。人類にとって実現されるべき理想である。それは人類共通の価値である人権(human rights―人間の正義)と社会的公正の思想から必然的に帰結する理想である。

    しかし近代における人権は,個人(とりわけブルジョア)の利己心から生じ,平等は形式的なものにすぎなかった。
資本主義は,自由競争と労働者を犠牲にした飽くなき利潤の追求によって発展した。そこに多くの社会問題や西洋の世界支配が引き起こされ,経済的不平等は拡大した。これは形を変えて現在も続いている。そして社会問題を解決するために,労働者を主体にして経済的平等と人間の解放を求める社会主義運動が起こされた。

    
今や有限な地球にあって市場の行き過ぎを統制するための理念は,弱肉強食の競争原理ではありえない。人類的な課題を解決するために,諸個人の人間的自覚と社会的連帯が求められている。社会主義は,種々のイデオロギーをもつが,これらの課題を人類の社会的連帯によって解決するために,将来においても有効性をもっている。

 社会主義は,マルクスのような「科学的法則」として独善的に決定されるのでなく,多くの人々の英知を集めた人類共存のための「実現すべき理想」とされなければならないのである。
社会主義とは,社会正義を実現する運動であり,人間性に根ざす道徳的社会の実現を目ざす運動である。そしてこの事業は,理想を理想として自覚すること,すなわち西洋的な理想(思想)が,人間の認識や価値判断の結果であるにもかかわらず,あたかも神から与えられた絶対的真理であるかのような思考様式を克服することから出発しなければならないのである。

    マルクス理論の再生は,その理論の完全な死をもってしかありえない。そしてその死を完全なものにするには,
言語論の革新によって西洋的思考様式と思想的伝統を克服することによって,はじめて可能となるのである。

     マルクス主義批判       
Home    科学的社会主義批判