科学的社会主義・日本共産党批判       by Y.Kakasi(山田武)
 ――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する
<その1〜7>

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                                      続き<その8〜13>へ
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■科学的社会主義・日本共産党批判
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する
。(その1)     
http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/281.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 11 月 13 日 11:54:38: BW32mpuE76J86

 共産党の「赤旗」が阿修羅に頻出するのは、いかにも時代錯誤なことです。共産党のホームページでは、今でも不破哲三さんが社会科学研究所所長として「綱領・古典の連続教室」を主催しています。そこではマルクスの剰余価値説を論じていますが、全く説得力がありません。
   http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 そこでKakasi流のマルクス批判を紹介しておきます。詳しくは「人間存在研究所」HPの「マルクス主義批判」を参照してください。なお批判のポイントは「等価交換」の正当性ですが、アカデミックな議論でも説得力のある説明はなされていません。異論・反論がいただけたらありがたいです。
   http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html

■ 科学的社会主義は、私有財産制度にもとづく資本主義的営利活動を、非人格的・抽象的な「資本の運動」の支配によるととらえます。だから、私有財産である資本(生産手段:土地、原材料、労働手段等)を所有する資本家階級を倒せば、私有制度も消滅するときめつけます。
 しかし私有制度は、自己を守り他者を支配しようとする人間の、利己的権力的欲望のために形成され、国家制度として発達したものです。つまり人間の本性から生じているから、階級闘争という自然史的過程として消滅するような単純なものではありません国家制度は、生活手段や生産手段が有限でありかつ競争的な自然や社会発展の中で、自己と家族や仲間の生存を守るために、物理的精神的強者が、武力と言葉と呪術と神による威嚇によって、所有の独占と支配を行うために創出したものなのです。 

 日本共産党が描く社会主義像では、「生産手段の社会化」によって「搾取の自由」の制限・廃止を目指そうとします。しかしマルクスの主著『資本論』における、「等価交換」による「搾取の自由」理論では、搾取の廃止は不可能です。マルクス主義では、資本家を排除することはできても、<商品交換が等価であると前提される限り>、共産党員階級による新たな搾取が行われ、労働者の社会的自覚による社会主義、すなわち自立した主権者による民主的な社会の成立はあり得ません。

 なぜなら、『資本論』によれば労働者の低賃金(劣悪な労働条件)は、人間的な欲望と生活水準を満たさないにもかかわらず、等価交換の結果として正当とされているからです。社会主義のための「生産手段の社会化」は、労働者階級に還元されるのではなく、党員階級が生産手段を管理することになるだけなのです。共産党独裁国家がそれをよく示しています。

 マルクス主義のような理論的欠陥のある反人間的・抑圧的思想によって、統一戦線とか民主連合政府のような連帯行動をしても、民主主義の進展や社会の進歩はあり得ません。マルクス主義は、利害の一致によって生活向上や平和のために共同して階級解放闘争を行えるという側面もありますが、<人間を労働や生産に矮小化する>ことによって支配抑圧するという否定的側面をもちます。またマルクス主義では、労働や生産力の発展を重視しても、人間の欲望や精神文化の意義を正しく捉える思想を持たないため、未来の文明を左右する資源エネルギー問題や地球環境問題等の成長の限界に抑制的に対応することはできません。

 いずれにせよ、マルクス主義は、西洋思想の限界と19世紀資本主義発展の時代の産物であり、グローバル時代の諸課題を解決できる思想としては時代錯誤であるばかりでなく、強欲資本主義と独裁社会主義の変革にとっても障害となるものです。人間解放に反する理論に未来を託すことはできません。それでも希望を語ろうとするなら、人々に欺瞞と不信を拡大するものとなるでしょう。

※ 『資本論』におけるマルクスの誤りは、
産業利潤(剰余価値)は、労働力商品が等価交換によって、交換過程でなく生産過程から得られるから、経済科学上では隠されている(搾取の隠蔽性)と考えることです。つまり労働者の低賃金は、必要労働価値分(生活再生産分)であり「正当」であるとします。すると、低賃金でも必要労働分だから、マルクス的社会主義社会においても、低賃金は論理的に正当ということになり、剰余労働分(利潤)は労働者に分配する必要はなくなります。

 等価交換による労働者(人間)の低賃金は、抑圧された労働者の必要労働であるかもしれませんが、決して「人間としての再生産」を保障するものではありません。労働者の低賃金は、抑圧された人間に対する不当で不等価な「必要労働」なのです。経済学で一般的な商品交換の等価性は、西洋思想に見られる偏見の典型例の一つにすぎません。

 マルクス主義的社会主義によって社会化された生産手段と利潤は、共産党の一党独裁の下で計画的に管理され、労働者は搾取され続け、自由で民主的な主権者とはなれないでしょう。マルクス主義の下では、「労働」は抑圧的概念であり、自らを止揚して自由な人間になることはできません。

 それでは、事実として産業利潤はどうして資本家のもとに蓄積されるのかと言えば、等価交換から生産過程において得られるのではなく、交換過程の不等価交換から得られるのです。つまり産業資本家は、生産手段と労働力をできるだけ安く買い、それらを技術革新と搾取によってできるだけ安く大量に作り、できるだけ高く販売するのです。利潤の基本は不等価交換(安く買い高く売る)と技術革新(安く作る)です。その具体的典型例が、搾取と独占価格、機械と自動制御の駆使なのです。



01. 天橋立の愚痴人間 2011年11月13日 12:42:39: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE
投稿者さんは、マルクスが経済論(資本論)で言ってる労働と貨幣(富)の関係が、人間本来が持っている感情(利己心)との関係で良く抱合出来てない面から批判をされています。
私も、その面には同意します。
しかしながら、話が進んで(200年先)人間が好む、好まざるに関係なく、いずれ殆どの商品が国家ないし少数の機関で計画的に生産されるような事態も考えられます。

確かに、そのような状況になれば、マルクスの意見は今よりも適ってくると思いますが、問題は、そのようになることこそが、人類は避けなければならないことと思います。

経済は確かに人間が生きる上での重要な要素ではありますが、人生と言うもの、人間が生きると言うことは、それだけでは決して充足できるものではありません。

マルクスまでの哲学や宗教が、人間性のそれに対応してきました。
マルクスも、もちろん哲学的な意味での人間性の把握もしたようですが(名前は忘れてしまいましたが当時の哲学者との手紙のやりとりもあったようです)、この面(人間性の探求)のことが、余りにもあっさりと切り捨てられて登場したのが資本論と思っています。

資本論を書こうと思えば、未来社会のことを言ったように、確かにこの面を切り捨てる必要があったのでしょう。
その瑕疵が、貴方の言われる

>マルクス主義のような理論的欠陥のある反人間的・抑圧的思想によって・・・

と言うように認識されていると思います。
そうして、結局は実験的共産主義国家の破綻を生んだのでしょう。

マルクス研究家の多くは、これには触れることなく、マルクスが指摘した資本主義の欠点に納得し価値を認めていますが、これは共産主義の評価ではないのです。

また資本論の技術的解釈に没頭し、解説に勤しんでますが、これも解説だけで、その運用面の効果には、批判的に見ることをしていません。

私は、マルクスが切り捨てた領域を重要視する故に、マスクスを評価出来ないのです。


02. Y. Kakasi 2011年11月13日 14:34:08: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
○早速のご指摘ありがとうございます。
 私の考えは、HP「人間存在研究」の立場に共感するものであり、マルクス批判はその一部です。従ってまず
>この面(人間性の探求)のことが、余りにもあっさりと切り捨てられて登場したのが資本論と思っています。
という点については、マルクスの時代的制約もありやむを得なかったと思います。私の考えについては、
   http://www.eonet.ne.jp/~human-being/
を参照していただければ、「人間性の探究」が中心になっていることをご理解いただけると思います。なおそこでは斬新な「生命言語説」がベースになって理論が展開されています。
 私が問題に思うのは、マルクス主義が正しく批判されておらず、いまだに社会的発言権を持っていることです。もちろん思想信条、表現の自由は大切なのですが、労働者の搾取(低賃金・劣悪な労働条件)の根拠に「等価交換」があるなど学者の発想であって、常識的には考えられないのです。

>話が進んで(200年先)人間が好む、好まざるに関係なく、いずれ殆どの商品が国家ないし少数の機関で計画的に生産されるような事態も考えられます。 
という点については、想像の限界を超えますが、世界連邦政府の思想(憲法)がどのようなものになるかによって異なると思います。おそらく人間中心・功利主義・個人主義・基本的人権の思想がさらに深化され、生命存在の在り方が問われて、道徳的社会的自覚が高度に求められることになるでしょう。

>私は、マルクスが切り捨てた領域を重要視する故に、マスクスを評価出来ないのです。
という点については同意できます。私はさらにマルクス理論の誤りが、西洋思想の限界を背景にしているという考えに共感したいのです。

ご意見ありがとうございました。


03. 一隅より 2011年11月13日 18:00:54: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA

思想は、>「人間の欲望や精神文化の意義を正しく捉える」ものでなくてはなりません。
しかし、「人間の本性」は、つねに、>「自己を守り他者を支配しようとする」、「利己的権力的」なものでしょうか。
それは時代により、社会のありかたにより、違ってくるのではないでしょうか。

たとえば、「自己を守る」と言いますが、この「守るべきもの」は、時代により社会により、違っていなかったでしょうか。

今はそれは、自分個人であり、あるいは家族でしょう。
でも、たとえば原始部族社会では、あるいは古代奴隷制社会では、そこのところはどうだったのでしょう。

たとえば、古代インカで太陽神に生けにえにささげられる者(=子供?)にとって、「自分」とは何だったのでしょう。
あるいは古代中国や日本で、支配者の埋葬とともに埋められた者たちの気持ちは(後に廃止され、兵馬俑や埴輪になった。)。

こんなふうに考えれば、人間にとって、「自分」や「他者」、あるいは両者の関係のありかたについての意識のもちようというものも、時代により社会により変わりうるものです。
つまり、時代を変え社会を変えていけば、新しい人間のありかた/人間の関係のありかた、それについての意識というものも生まれ、あらわれてくるのではないでしょうか

それはまだ見えない姿のものかも知れません。
しかし少なくとも、人間は・つ・ね・に・利己的なもの、人間は人間にとって(永遠に)オオカミ、と前提してかかる必要はない。

私は、以上が、マルクス主義の大前提と考えます。
だから、「人間というもの(の本性)は・・・なのだから、マルクス主義は間違っている/間違っていた」という考えかたは、少し違うのではないかと思います


04. Y. Kakasi 2011年11月13日 19:56:55: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
 ご意見ありがとうございます。
>「人間の本性」は、つねに、「自己を守り他者を支配しようとする」、「利己的権力的」なものでしょうか。それは時代により、社会のありかたにより、違ってくるのではないでしょうか。
というのはおっしゃるとおりです。私が言いたいのは、私有や階級の制度、資本主義の発展を支えているのが利己的本性である、ということです。
「生命言語説」では人間の本性を、生物学的な「個体と種の維持・存続」から出発して理論を組み立てています。個体維持は利己的本性であり、種族の維持は家族や仲間と共に生きようとする本性です。誤解を与える文章になったのは、マルクス主義の欠陥を強調したいためでした。次の項などを読んでいただければ、ご理解いただけると思います。
  http://www.eonet.ne.jp/~human-being/keiji1.html#27
  http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page3.html

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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その2)

http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/328.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 11 月 14 日 15:06:04: BW32mpuE76J86

 日本共産党の不破哲三さんが社会科学研究所所長として講演されている内容はとてもわかりやすく、マルクス主義を理解するためにおすすめです。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2 
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-1

 不破さんが、千年の思想家のうちで最も頼りになるのはマルクスであった、というのはその通りでしょう。しかしそのマルクス思想が現在でも科学的に正しいというのは間違っています。

 商品交換の等価性(等価交換)は、労働力の等価性によるのではありません。労働の投下量は、人間の「交換の判断」材料の重要な一つですが、商品への欲望の強さも判断材料になります。商品価値は「交換結果」でしか決まりません。学者は権威に弱いから、スミスやマルクスが言ったことだから正しいと考えているので、自分の「判断」ができません。

 商品価格は一般に市場で決まるので、絶えず変動し一定ではありません。マルクスが重視する価格の平均性(平均価格)は単なる判断材料であるに過ぎず、平均性が市場を支配するように“見える”のも、単にそう“見える”からに過ぎません。マルクスやスミス等は、西洋思想(合理主義)と時代の制約(競争と発展の時代)から、単なる平均性を法則性と見なしてしまったのです。詳しくは 
   http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
を参照してください。

 不破さんの話によると、聴講者の感想ではマルクスやエンゲルスの古典を読んでいない人がほとんどであったそうですが、おそらくこの「阿修羅」でもマルクスや共産党とは関係のない人がほとんどでしょう。Kakasiも昔つきあっていた共産党員たちは、マルクスは知らずとも、みんな正義感が強くいい人ばかりでした。クリスチャンが純真ないい人達が多いのに、教会の言葉と組織に縛られて怯えているのと同じように、共産党員も信念を持ちきれない人は、単に組織に依存して活動しているに過ぎないのです。

 「阿修羅」投稿者は時事的な話題がお好きのようですが、日本と世界の政治にマルクスが(そしてヤ−ヴェもイエスもムハンマドも)まだ生きています。彼らの価値観が国際政治に大きな影響を与えているのです。グローバル化の大波を乗り越えるには、「現状維持的な国益」にとらわれることなく、世界の一体化をめざす新しい科学的契約思想が求められるのです。


01. 天橋立の愚痴人間 2011年11月14日 16:05:05: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE

Y. Kakasi さん
手の込んだ論理を展開されているようですが、要するにマルクスを見直そうと言うつもりでしょうか。

 それならば、そりゃ無理な話ではないでしょうか。
マルクス主義は世界の多くの国で、すでに70年以上に渡り実践されました。
 何故、旨く機能しなかったと言う反省をするのに、資本論を書き直すことなく、理解の仕方で解決しようとは、話になりません。
 マスクス主義は、共産党革命が世界に行き渡り、競合する資本主義社会がなくなってしまっていれば、その独裁性により、成功例として長らく続いたことでしょう。宗教国家の様に。

 人間の価値観、生き様というようなものを、どのような形にせよ、集約しようと言う試み、そのものが間違っているのです。

そういう意味で、紹介されているマルクスの間違いなどと言うテーゼは成り立たないのです。
資本論の背景として、マルクスの哲学的認識はあれで、正当なのです。

資本論の考え方を変えないで、もしくは一部を変えたとしても、マルクス主義が再生することはないでしょう。

もともと、利己を求める人間性の多くの部分を規制して、社会のありようを求めること事態が人間には合わないのです。

ですので為政者側に強権が必要なのでしょう。
また、マルクスの様に、人間社会の仕組みの多くの部分を生産と関連つけることも、生産手段が飛躍的に発達した現代社会では無理なのです。

人間社会は平等、公平と言う概念よりも、難題が存在していることを見て欲しいものです。


02. 2011年11月14日 17:55:06: FUviF2HWlS

●マルクス主義経済学は、その提起する問題は、今日的価値を持っている。
「消費者を求めて全地球をかけめぐる大工業は、国内大衆の消費を飢餓の最低限にまで制限し、これによって自国の国内市場を破壊するのである。」(エンゲルス『空想から科学へ』)

「産業予備軍とよんだものであって、それは産業界が多忙な時期には自由に利用でき、それに必ず続く恐慌のときには放り出される労働者である。」(ibid.)

前者は、国境を越えた無政府的な市場主義の問題であり、TPP問題そのものである。
後者は、雇用の調整弁として使われる非正規雇用製造業労働者の問題を語っている。
いずれも19世紀的問題であるにもかかわらず、21世紀初頭の世界経済の中心的問題であり、いまなお解決不能な課題である。

●しかし、自然科学史と比較すれば、同時代に築かれたマクスウェルの電磁気学理論のように、今なお古典力学の一体系として普遍の価値を持つ一方で、自然科学史においてその後の相対性理論や量子論、ゲージ理論の登場を待ってしか説明できない幾多の現象があるのと同様、現代的経済理論によって解明せねばならない事象があるのも、また事実である。

経済学者シュンペーターは、資本主義は究極において、産業資本家は衰退し、金融資本家と労働者からなる社会に行き着き、やがて社会主義に至ると結論した。

「最後にシュンペーターは、資本主義はその成功のゆえに崩壊するという、衝撃的な結論を導く。革新を導くためには、トラスト化資本主義を認めるが、これは企業者の衰退をも招く。また個人主義的功利主義の出現によって、革新の力が失われてゆく。企業者のようなロマン的心情が消え失せ、企業そのもの、いや社会そのものが官僚化してゆくのである。
 壮大なシュンペーターの議論には反対論もあるが、しかしそれでも今日の政策問題に重要な示唆を与える。企業者の革新こそが発展の原動力という基本的視点が、多くの人々に共感されるからである。また同時に、資本主義は成功のゆえに衰退するという彼のビジョンが、今の日本にあまりに当てはまっているのだ。」
(竹中平蔵のポリシー・スクール、『企業者の革新が発展の原動力 ― シュンペーターの政策観』、日本経済研究センター、
http://www.jcer.or.jp/column/takenaka/index208.html)

●さらに、シュンペーターは、資本主義社会を社会主義へと導く者が、必ずしもマルクス主義者ではないと断じた。

社会主義の真の先導者は、それを説法した知識人や扇動者ではなくて、ヴァンダービィルト、カーネギー、ロックフェラーの一族のごとき人々である。この結論は、あらゆる点においてマルクス主義的社会主義者のお気に召さないものであるかもしれない。いわんやいっそう通俗的な(マルクスならば俗流と呼んだにちがいない)種類の社会主義者にはなおさらであろう。」(シュンペーター「資本主義・社会主義・民主主義」)

●社会主義を標榜する国家が存続していた間は、歴代の自民党政権は、国民の社会主義への関心をそらすために、労働者に対するあらゆる懐柔政策をとった。企業の労働賃金は上昇し、原則的には雇用慣行は守られた。20世紀末に社会主義を標榜する国家群が消滅した結果、1990年代において、日本は欧米追随型の産業技術から脱して日本独自の産業技術が次々と開花した(ステッパや反応性イオンエッチングなど半導体の新しい露光技術・加工技術、大型液晶ディスプレイ技術、リチウムイオン電池、青色発光ダイオード・青色レーザ、メモリカード・メモリスティック技術、など)にもかかわらず、日本の世界戦略上の地位が低下したことにより日本企業の株価は下がり、日本の産業競争力は低下していった。

社会主義国家群の消滅により、世界の労働運動が社会主義化につながる可能性がゼロになった後に、新自由主義の台頭めざましく、新自由主義の名を借りた19世紀的労働環境が再来した。

この状況を打破するヒントのひとつが、マルクス・エンゲルスやシュンペーターの古典的著作であると考えるとともに、自然科学史における相対論や量子論に匹敵する革命的な経済理論の登場を期待する。

03. 2011年11月14日 18:42:49: HCF3LmPLDo

 TPP + 消費税 + マルクスの資本論 + BI
 これらが 現代のほとんどの問題を解決すると 考えます
 世界中 同一労働 同一賃金 と 同一商品 同一価格
 結果的には 最低賃金を下げて 物価を下げていくので 一見 デフレスパイラルになる
 そこに BIが 加わるので 日本は豊かになるのです


 *** 愛の愛は愛の 善意 ***
 経済とは 一言でいうと 善意 と 善意 の 交換 なのだが
 資本主義経済では 善意が 資本となったとき 善意は悪意に代わるものだ。 マルクスは そのことを 「数学的に証明」したわけで、マルクスの資本論は 理論的に正しく 疑問の余地はない
 現在起きていることは まさに マルクスの予言どうりになっている
 ===
 結果としていえることは、金融(金貸し)は 労働者(人々の善意)を搾取する(善意が悪意に変わる)のだ
 そして この同じことを イスラムでも 金利をとるべからずと 規定している。実際に リーマンショックに代表される 事例を見ても マルクスの正しさは、証明されて 余りあるものがある

 *** 愛の愛は愛の マルクス資本論 *** 2011/10/24
 私は マルクスの資本論を 深く信ずるものです
 経済 = 善意  というのが 私の基本的な考え方です
 善意 = 無償の労働  と定義しますと
 マルクスの資本論は、
 労働者 = 有償の労働 + 無償の労働   となり
 経営者 = 無償の労働を 収奪する人  となります


 ===
 愛の公式に変換すると 
 労働者 = 有償の労働 + 善意   となり
 経営者 = 善意の収奪者     となります
 ===
 たとえば これに 数字を当てはめて考えると
 労働者 = 1000円(賃金労働) + 1000円(無償労働) となり、マルクスの資本論の基礎が出来上がります

 当然 経営者(資本家)は その無償労働の1000円を 手にすることになります。

 断っておきますが 愛は 資本主義には賛成なのです
 なぜなら 経済は「善意」なので 経済を回転させるためには 無償の労働が 必要なのです 
 ===
 そして マルクスは 言いました 「富は工場の労働者」により作られる 愛は 考えるのです 「善意」は「工場の労働」によって「のみ」作られる
  ===

 極論するならば   人間は働くことによってのみ  善意を作り出すことができる
 善意がない世界は さみしい世界だ だから 資本主義は必要だ
 
 *** 愛の愛は愛の 善意 ***  2011/09/04
 経済の原則は 「善意」 である

 ===
 江戸時代は 農民の善意(年貢)によって 日本の経済は回転していた
 「善意」の 大元は 山川海の自然の幸であり  太陽の恵みである
 ===

 消費税5%の意味  100円(実質的価値) + 5円(善意)
 消費税は 『善意』を強制的に徴収する仕組みである
 日本人は 100円のものを手に入れるとき 5円分しか 余分に働く必要がない。 日本人は 消費税が少ない分 健康な人の 強制労働が 少ないわけだ。 善意は 健康な労働者によって作られるのです
 政府とは 善意を集めて 善意を分配することである
 善意を受け取るのは 年寄り 子供 女性 障害者などである
 善意の分配は 日本古来の美徳に反するものではない
 「老人を大切にしよう」
 「子供を健やかに育てよう」
 「困っている人を助けよう」
 「妊婦に過酷な仕事をさせない」
  ということになる
 ===
 消費税が 30% なら 100円のものを手にいれるのに 130円分 働かされるわけで 健康な人は 30円分 強制的に働かされる
 この30円が 働くことのできない人に 分配されるわけである
  消費税が多い国(北欧の国々)は 「善意」に満ち溢れることになり
 年寄り 子供 女性 障害者 などに 優しい国となっている
 ===

 現在 日本では 消費税が少ないため 善意の欠乏した社会になっている  日本は どこか ギスギスした 社会になっているのは 弱者に善意が届けられていないからだ 「労働なき善意は 偽善である」   by  愛
 愛は ベーシックインカム(善意の効率的配分方法)に賛成であり
 ミニマムインカム(善意の欠乏)には 賛成しない


04. 2011年11月14日 21:01:52: v9I0GzB2Vc
日本共産党と科学的社会主義なるものとはは何の関係もない。
日本共産党が勝手に主張しているだけ。

もとより人間の生活、幸福の尺度と科学とも特に関係はないが。

05. Y. Kakasi 2011年11月14日 21:28:50: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
 天橋立の愚痴人間さんの、愚痴(失礼)ではなく、有益なコメントについて考えているうちに、いろんなコメントをいただきました。ありがとうございます。
天橋立の愚痴人間さんの「阿修羅」での精力的な活躍には、とても太刀打ちできません。天才マルクスについても全面的な批判はできないでしょう。不肖Kakasiには、案山子のように沈黙して雀の監視をして、たまに風に任せて警告することができるぐらいです。
 今日のように、何事にも検証の必要な科学の時代には、絶対的な真理などというのは不可能です。しかし、人間とは何か、人間にとって言語や知識・理論の意義や役割については、現代哲学の混乱が顕著ですが「集約する」ことは可能です。さらに西洋思想の限界についても明確にできます。HP「人間存在研究」では、言語論の革新によって政治経済学をはじめとする人文科学の前提を転換できるとしています。

>手の込んだ論理を展開されているようですが、要するにマルクスを見直そうと言うつもりでしょうか。
→というのは、見直すというのでなく単に批判するということです。社会主義が人類史の必然的発展の結果であるという決定論が、人間の階級闘争の結果であるというのであれば、あまりにも人間性を矮小化しているのではないかと思うのです。マルクス主義(それを体現する共産党)には、労働が、人間性を抑圧する危険性が常に潜んでいます。その意味で宗教以上に抑圧的です。

>マルクス主義が再生することはないでしょう。
→これはその通りだと思います。そしてその原因の一つが、『資本論』の要である、「等価交換を通じての剰余価値説」の誤りであるということになれば、マルクス主義の崩壊にとどまらず、
欧米由来の主要な経済学大系自体が崩壊することになるのです。また逆に、商品市場の取引交換が平均的に「等価交換」であるとされれば、市場には平均的に不正(失敗)はなく、個別的な不正(独占や不公正取引、不正な金融商品等)であっても合法化され、労働力商品においても強者支配が貫徹されることになってしまいます。
  天橋立の愚痴人間さんは、マルクス主義と新自由主義が正当化する「等価交換」を支持されるでしょうか。これは単なる理論の問題だけでなく、現代の政治的経済的「難題」を解決する入り口にすぎないのです。

>もともと、利己を求める人間性の多くの部分を規制して、社会のありようを求めること事態が人間には合わないのです。
→この点については、人間の利己心は本性ですから半分は正しいと思います。しかし人間は、言語によってみずからを合理化しそれで満足する動物でもあります(あのブドウは酸っぱい、のように)。理論武装をするということや、般若心教を唱えて欲望を抑えなさい、といわれるようなことも可能なのが人間です。主体的自律的に社会のありようを考えれば、自己規制が可能なのが人間です。
 Kakasiはそのように考えますがいかがでしょうか。人間は信じることができると思います。再度のコメントありがとうございました


.06.Y.Kakasi 2011年11月14日 22:32:04: fXOQhCwWGs
 Kakasiの疑問は、
剰余価値は、強い資本家と弱い労働者の力関係から、つまり生産過程ではなく交換過程(契約)から生じるのではないか、商業利潤と産業(製造業)利潤の根源(安く買い高く売る、そのためのコストを下げる)は同じではないかということです(製造業では安くいいものを大量に作るが加わる)
 19世紀の商品交換は、win winの関係ばかりではなく、労働力商品のように劣悪で非人間的な条件の取引交換が、交換過程で常態化していたのです。この点ではマルクスが『哲学の貧困』で批判した無政府社会主義者のプルードンが正しいという考えです。

 政治経済学が趣味で、『資本論』を読まれている方におたずねします。
エンゲルスが、社会主義を科学にしたといわれる剰余価値の発見、すなわち剰余価値の搾取が等価交換を通じて行われるというのは、科学的に検証できるのでしょうか。
 03の「マルクスの資本論は 理論的に正しく 疑問の余地はない」と『資本論』を深く信じられる御仁には、ぜひご教示をお願いしたいです。


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その3)

http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/413.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 11 月 16 日 22:39:23: BW32mpuE76J86
 マルクスによる「剰余価値の発見」とならんで社会主義を科学にしたといわれる「唯物史観の定式(公式)」について批判してみましょう。不破さんの古典教室はマルクスにとても忠実でわかりやすい。その公式が述べられているのが有名な『経済学批判・序言』で、丁寧にテキストが添えられています。マルクスを理解したい方は是非ご覧ください。
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-1
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/data/04-05_02.pdf

 「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、および精神的生活過程全般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。」(『序言』)
 Kakasiは、この序言の「自然科学的な正確さで確認できる」生産力と生産関係の発展についてはほぼ正しいと考えます。つまり,生産力の上昇やそれに伴う物質的豊かさの実現は,現実に社会的関係を発展させてきました。そしてそれが精神的生活全般を「制約」してきましたし、これからも「制約」し続けるでしょう。

 しかし、「生産力や生産関係」という表現によって,人間社会のすべてを規定する「土台」と考えるのは誤りです。なぜならば生産力と生産関係に対しては,
科学的認識や市民社会の意識など、言語を基本にする人間の意識形態(欲望や知識の発展、自由競争,利潤の正当化、契約等々)が深く関与し、生産様式を「制約」しているからです。不破さんは制約という言葉を重視していますがこれは、逆も真なりと言えます。

 つまり生産力や生産関係に伴う人間の精神的諸形態(イデオロギー的諸形態――政治,宗教,文化など)は,単純に上部構造として位置づけられるものではありません。「社会的生産諸力と社会的生産諸関係」(土台)が,「イデオロギーの諸形態」に及ぼす影響については,自然科学的に確認できる考察が不十分です(例えば,科学的認識や市民社会意識が,なぜヨーロッパにおいてより明確に成立したか,また宗教の本質的意味やアジア的形態における上部構造と下部構造の分析,さらに一般的にさまざまな文明の相違についてなど)。

 そもそも「人間社会」は「生産諸関係」に集約できないもので,人間にとって物質的生活条件は必要条件であっても十分条件ではなく,「意識的存在」として精神的文化的生活条件を含めて,統一的にとらえねばなりません。つまり人間は「意識的存在」として,宗教や民族さらにはブルジョアイデオロギ−や社会主義イデオロギー等の
「イデオロギー諸形態」が「生産諸関係」を「制約」するのです。そもそも人間の生産力の発展は、言語的思考による想像・創造能力によるものです。また人間は、現代の資本主義のシステムをコントロールできるし,社会主義のシステムを創造することもできるのです(マルクスは資本主義社会をコントロール不能のシステムとみていました)。

 
マルクスは自己のイデオロギーが,世界史の発展に及ぼす[否定的]影響について理解できませんでした。つまり彼は自らの理論を「マルクス主義イデオロギー」として相対化できず,また当然ながら,その及ぼす影響について予測することができなかったのです。マルクス主義(イデオロギー又は意識形態)にもとづく20世紀の社会主義は,マルクスの認識論に反して、「人間の意識がその存在を規定した」のです。つまり20世紀の歴史は,マルクス主義そのものが,マルクス主義を否定したことの証明になるのです。不破さんが言うように「経団連」という財界・経営者・資本家の組織、また労働者やその他の圧力団体の組織等々も、社会変動を制約する社会的意識形態の結果なのです。

 マルクスは「(変革の時期の)意識を物質的生活の諸矛盾,社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない」(『序言』)としていますが,変革の時期の意識(それは「経済的社会構成が進歩していく段階」に限らず,人類の文明が成立して以降現在にいたるまで続いている)は,階級対立を基軸とする「生産諸関係」の敵対関係だけにとどまらないのです。つまり「敵対関係」は生産諸関係のみによっては規定されず,むしろ,民族的偏見や宗教的・文化的イデオロギー形態が,社会的対立に及ぼす影響を重視しなければならないのです。これは,社会主義諸国解体後の地域紛争が,民族的宗教的対立を主要な原因としていることを見ても明らかです。 

 とすれば,人類の文明が成立して以降の「敵対関係」を終わらせるか,可能な限り最小限にするために,社会の「敵対関係の解決のための物質的諸条件」の成立は必要条件であるが,さらに
十分条件として未来を志向する新しい社会観を含むイデオロギー形態を創造することが求められるのです。不破さんは、そのための共産党の存在意義や役割を強調されますが、そのためには科学的認識を前提として,「イデオロギー形態」そのものの人間的な位置付けと「敵対関係」を生み出す物質的精神的利害,資源の偏在や民族的宗教的信念・感情・情熱などの考察が必要となります。そのような未来への展望あるいは理念・理想なくして,単なる階級闘争によって「人間社会の前史」を終わらせることはできないのです。

 マルクスとは逆に、
人間の意識は存在を規定するのです。マルクスの唯物弁証法には、意識(言語的意識)か正しく解明されていないために、『資本論』における商品・貨幣論や剰余価値論を誤ったものにしてしまったのです。マルクス主義とマルクスに依拠する共産党は、博物館でその役割を果たすのが、人類の進歩にとって貢献できる唯一の道なのです。
 以上は、不破さんの名講義に触発されて、以下のHPの一部をまとめました。
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その4)

http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/493.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 11 月 19 日 00:47:36: BW32mpuE76J86
 共産党の優れた理論家・実践家・研究者である不破さんが、マルクス・エンゲルスのわかりやすい解説を、ネットで公開されていることに敬意を表します。しかしKakasiの立場は、マルクスの剰余価値(搾取)説と史的唯物論が、西洋的・19世紀的欠陥をもち、現実の政治経済社会に適用するのは不可能と考えます。そしてその誤りが、社会主義と人類福祉の実現にとって障害になり、マルクスの人間解放の意図とは逆に、労働者支配と人間抑圧の結果を招くと考えます。

 共産党の古典教室では、1〜3回で剰余価値説について、4〜5回で史的唯物論について述べられています。そして6回目から9回目にかけて、エンゲルスの『空想から科学へ――社会主義の発展』をテキストにして「科学的社会主義」の概要が講義されています。是非、テキストを読み聴講してください。「科学的」の意味の、時代錯誤性が理解できます。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 さて、この投稿では、逐条的に批判することはできないので、不破講義からの着想の一部にとどめます。つまり、9回目第3章後半の社会主義未来論についてです。
 エンゲルスによれば、人類の前史が終わり社会主義社会の成立後の様子を次のように述べています。続きも是非読んでください.

 「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。・・・・」(邦訳全集19「空想から科学へ」 p223)

 上の記述は、マルクスが社会主義を科学にしたとされる二つの発見(「唯物史観」と「剰余価値の秘密」)の虚偽性が導く結末を明らかにしています。すなわち上の引用は、@商品生産の廃止、A計画的な組織(計画経済)の出現、B個人間の生存闘争の終了、C動物界から分離(理性的自律的人間)等によって、「必然の国から自由の国への飛躍」がおこなわれるとするのです。

 これらの想定は、今日から見ると、ソ連の失敗を例に引くまでもなく、およそ考えられないことです。貨幣を用いた市場の商品交換という自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除し、人間の動物性を無視する。このような一種絵に描いたような機械的ロボット的な社会と人間像こそ、マルクスが『資本論』を構想しつつ、未来の社会主義社会を思い描いていたものなのです。

 エンゲルス(マルクスも)は、資本主義社会は動物的人間の支配する必然的な社会であり、社会主義社会は理性の支配する自由な社会と考えます。この考え方は、社会が変われば人間が変わるという唯物史観と、搾取は合理的(等価交換)であるとする剰余価値説に由来します。つまり両者一体となって人間の判断の個別性と主体性を排除し、そこで社会主義が必然的に実現するのを科学であると自称するのです。しかしこれは検証されていない(できない)非科学的な社会観・人間観です。このような人間観のまま生産手段が社会的な計画経済の下に置かれると、計画をする人間集団、すなわち共産党組織(党員)による新たな官僚制的民衆支配が行われるのは必然的なことです(「国民が主人公」としても変わらない)。

 さて前置が長くなりました。不破さんはこれをどう説明するでしょうか。かれは、「ソ連は社会主義とは無縁であった」と言いますが、それは一つの主張であるとしても、ソ連はマルクス主義を忠実に実現しようとしていました。不破さんは「社会主義の原点であるマルクス・エンゲルス(の原点)に帰って、現代の条件にふさわしい社会主義に発展させるべきだ」と言います。しかし
剰余価値説と唯物史観の二つの欠陥をもつ原点を考えれば、生産手段の社会化すなわち労働者集団による管理は、マルクス共産党の代行的支配にならざるを得ません。

 なぜなら等価交換(による剰余価値説)は、市場の不等価性・多様性・個別性・複雑性・具体的な利害の対立を見失わせますから、管理は画一的になります。また唯物史観は、抽象的階級支配・生産手段の強圧的管理が優先し、人間の個別的主体的判断を制約しますから、特定の個々の集団や個別的集団的指導権が排除され、疑心暗鬼が横行して官僚統制が必要となります。いずれにせよ生産手段を独占する一党独裁体制は不可避となります。

 これは階級支配に代わるマルクス思想の共産党支配を意味します。物神(貨幣欲)崇拝に代わる理論崇拝です。マルクス思想による社会管理は、労働者を抑圧的なままに計画的に管理支配し、人間としての自己解放を理論的に保証しないのです。不破さんは、マルクスの晩年の著作『フランスにおける内乱(第一草稿)』から、社会主義への過渡期は漸進的な過程で「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」(第9講義資料)によっておきかわりうるという言葉を引用し、現在では「生産者が主役(主人公)という社会主義の原則」を独自に綱領に規定したと述べています。

 しかしマルクス理論はもちろん綱領でも、商品市場における契約関係(自由取引)の未来像は述べられていません。「自由な結合的労働」の記述はあっても「商品生産の廃止」の原則は残されています。一体、自給自足の小さな社会ならいざ知らず、今日のような高度に発達した地球経済の中で、自由な結合的労働があって、貨幣も商品もない、交換もない社会が想像できるでしょうか。自由な結合は、未来社会においても社会契約の問題を無視して存在し得ないでしょう。
参考→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11.html

 長くなってしまいました。また続けます。抽象理論嫌悪症の方も多いようですが、ごまかされないためには頭の訓練も必要なのではないでしょうか。


01. 2011年11月19日 05:17:06: msaJyupoKE
投稿者は元党員か?
なんなら共産党の内部事情とかを投稿したほうがいいんでない?

02. 2011年11月19日 11:03:27: lGQ9x4NIUs
> これらの想定は、今日から見ると、ソ連の失敗を例に引くまでもなく、およそ考えられないことです。
マルクスの想定では、社会主義社会はヨーロッパの資本主義の次に生まれるとされており、農業社会のロシアが資本主義を飛び越えて社会主義社会になるとは一言も言っていません。つまり、「これらの想定は、今日から見ると、ソ連の失敗を例に引くまでもなく」
マルクスの想定したこととは無関係です。

> 貨幣を用いた市場の商品交換という自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除し、

現在のイギリス、フランス、ドイツはマルクスの言う資本主義社会ですが、「自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除」など起きていません。

今後、イギリス、フランス、ドイツが社会主義社会になると「自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除」する社会になると思っているのですか?
そんな社会をイギリス、フランス、ドイツ人が目指すはずがありません。

つまり、マルクスはイギリス、フランス、ドイツのようなヨーロッパ社会を念頭に置いていたのであり、ソ連や中国、北朝鮮のような独裁的国家を念頭に置いたのではありません。

北朝鮮が「自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除」しているからマルクスは間違っている、と主張しているのと同じです。


03. 2011年11月19日 14:18:25: aGP1IKCKxw
投稿者は、共産党というどうでもいい死に体を今更叩き起こして、
団塊左翼がその全盛時代に永遠くりかえしてきた論争をまた蒸し返しているだけです。
(共産党を出汁にした諸左翼への再注目がねらい?)
経済真理の追求よりも、
党派性や反党派に重きを置いているので中身が新鮮でない
と思うのは私だけでしょうか。


古典派の経済学がニュートン力学同様に
完全じゃないのは現代からみれば自明のことで、
それを間違っていると今更披露するより、
自流の経済学に真理があることの証明を披露していただきたい。

ダメ教義をダメと復唱する投稿よりも、
ここのマニアはもっと完成された理論投稿を望んでいるんですよ。

04. Y. Kakasi 2011年11月19日 15:53:05: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん 読んでいただいてありがとうございます。
コメントというのはそれなりのエネルギーが必要です。
無視されることほど悲しいことはありません。感謝。
02)さん 重ねてのコメントありがとうございます。
1つめは、微妙な指摘ですね。意見が分かれます。
2つめは、誤解があります。引用されている文は、エンゲルスの想定した社会主義の4つの原則を批判したものです。現在の英・独・仏とは無関係です。誤解を与えてすみません。

03)さん 
>共産党というどうでもいい死に体
→というのは全く誤っています。共産党は、現状の問題点を克服して成長発展していこうとしています。共産党の綱領・古典教室を聴講されることをおすすめします。
>ここのマニアはもっと完成された理論投稿を望んでいるんですよ。
→失礼しました。肝に銘じます。是非お手本をご教示願います。

05. 2011年11月19日 18:54:56: v9I0GzB2Vc

国民皆保険の制度、国民健康保険で医療の皆保険の制度、雇用されているものの団体交渉権、失業したときと手当てをする雇用保険の制度。
いずれも資本主義で運営している社会に対して社会主義というアンチテーゼがあったからこそ生まれたものだ。
マルクスの思想がなかったらいずれも生まれていないものだ。過去の資本家階級も今の市場原理主義者が自主的にそんな制度を作るはずがない。
ただ今の日本共産党の政策は科学的社会主義などと呼ばれるものとはほど遠いというか何の関係もない。

06. Y. Kakasi 2011年11月19日 23:32:16: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
05)さん コメントありがとうございます。
前半は同意見です。
後半については見解が異なります。アメリカ独立宣言やフランス革命の自由・平等・友愛・人権の思想があれば、社会保障や労働者保護の制度は生まれてくるのではないでしょうか。
 現実の社会主義運動は、イギリスのチャーチスト運動(1830年代後半)やフランス二月革命(1848、共産党宣言)を通じて盛んになりますが、思想家など(マルクスを含めて)は後追いをしているだけです。ちなみに最初の保険制度は、ドイツのビスマルクが、労働者などの不満を和らげるために作ったものです(飴と鞭)。ご承知のように、社会福祉はマルクス的発想ではなく、労働者の望む生活改良主義と、支配を永続させようとした権力者の妥協的発想の産物でしょう。
 日本共産党の科学性については判断がつきかねます。検証が必要です。


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その5)

http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/635.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 11 月 23 日 16:18:34: BW32mpuE76J86

 共産党HPの「綱領・古典の連続教室」で志位和夫委員長が講演されている内容は、現在の日本共産党の自主独立路線の正当性が、わかりやすく情熱的に説かれています。現代社会の情勢の変化に応じてマルクス・レーニンを創造的に発展させた理論構成は理解しやすいです。しかし、今まで繰り返し主張しているように、科学的とされる「唯物史観決定論」と「等価交換剰余価値説」の誤りが、商品交換市場の評価と社会主義の在り方、つまりは人間観や社会観・世界観、また社会的存在としての人間のものの見方や考え方・生き方を歪めさせることになっています。まずは「綱領教室」の名講義を聴講してください。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 さて講義は長いのでKakasiの選好に従って、これから(移行期)の社会の在り方に焦点を絞って、志位さんの講義の問題点を明らかにします。まず自主独立を確立したレーニンの原則とスターリン批判について。レーニンの残した社会主義建設に向けての4つの原則は現実主義的で反対することはできないでしょう。4つの原則は、@新経済政策(ネップ)は「市場経済を通じて社会主義へ」、A資本主義国との平和共存、B世界革命は議会を通じた民主主義(多数者)革命から、C大国主義・覇権主義(スターリン主義)との闘争ということでした。志位さん達はこれで自主独立の光を見いだしたと言います。しかし問題は、これらの原則が、マルクス主義の二つの原則と相容れないということです。

 というのは、前回指摘したように、マルクス主義的社会主義においては「市場経済」は、考えられていません。結合した個人(労働者の革命的団結)によって生産手段が社会化(とりあえず国有化)された共同社会では、商品交換は廃止され「計画的生産」が行われるからです。それが可能とマルクスやエンゲルスが考えたのは、商品交換(市場)関係を、平均的にでも「等価交換」と見なしていたからです。つまり、等価交換と見なすことによって、労働者の人間としての労働の価値を、結果として単なる再生産に必要な労働に貶め、人間的欲望や価値を考慮せずに、それを合理的なものと前提していたからです。

 「市場経済」とは、貨幣と同様に、不等価な商品を円滑に交換するために、ハイエクの言葉を借りれば「自生的に」、人間の欲望と社会的本性から発達してきた、とKakasiは考えるからです(しかしKakasiはハイエクには明確に反対です)。つまり、Kakasiは、
市場で行われる自由で不等価な交換が、搾取と経済発展の原動力になっていることを見ない限り、市場経済の複雑性を制御し乗り越えて、社会主義を平和的かつ主体的に実現することはできないと考えるのです。

 さて志位さん達の社会主義的変革のための課題「移行・過渡期の問題」はどうなるのでしょう。「古典教室」では、エンゲルスの言葉を引用して「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活条件の全範囲が、いまや人間の支配と統御のもとにはいる」とされていますが、その際、唯物史観(『共産党宣言』『資本論』)の基本命題である、労働者階級の権力奪取・独裁(執権)はどうなるのでしょう。

 不破さんの指摘されるように、唯物史観の定式に「階級」という言葉はありませんが、「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である」とあります。この定式では、「最後の敵対的形態」終わらせるためには「労働者の革命的団結」や「結合した個人」のような組織的な階級的独裁(敵対の逆転)の形態をとることは避けられないのです。そこから得られるのは、単に、前史における資本家支配から、本史における労働者党・官僚支配にならざるを得ないのです。

 社会主義への移行の問題は、マルクス主義の二つの誤った原則がある限り解決ができません。「生産手段の社会化」は、マルクス主義イデオロギーでは、党組織と官僚による労働者・国民支配にならざるを得ません。つまり、定式による「社会化」は、意識的・イデオロギー的形態であり、政治的上部構造ですが、それにふさわしいイデオロギーは唯物史観では自生し得ないのです。なぜなら唯物史観では「人間の意識がその存在を規定するのではない」からです。敵対逆転・労働者独裁の段階では、階級闘争という唯物史観イデオロギーを体現した政党と官僚による敵対者(資本家はいないのでKakasiのような反対者)への抑圧・支配が続くのです。

 人間の「前史」においては、人間の利己的本性によって下部構造が構成され、革命的イデオロギーが自生することによって「労働者の革命的団結」「結合された個人」のような上部構造(意識形態)が組織されます(労働組合や社会主義政党のように)が、それは「敵対的形態」の中で、つまり階級敵を想定してのみ維持されるものであって、「階級としての自分自身を廃止する」(『共産党宣言』)ことにはつながりません。「社会化」されるためには、それにふさわしいイデオロギーが必要になるのです。

 そもそも政治的上部構造(政治権力)は、他の階級を支配するためのものだけではなく、権力そのものを維持しようとする人間本性(独裁政治)や、民主的福祉国家のように弱者救済や、利害(利益集団)の対立調整という役割も果たすことができます。上部構造の行う「社会化」において、市場(商品交換)経済を肯定する限り、それはマルクス主義的社会主義とは矛盾するし、
マルクス主義(的社会主義)であろうとすれば、市場経済は党と官僚による労働者・国民に対する管理・支配にならざるを得ないのです。

 日本共産党の生きる道は、マルクス主義の原則そのものを批判し放棄する以外にはありません。そしてまじめでまっとうな諸要求実現政党として戦う政党になれば未来はあります。市場の真実、不等価性と不正と腐敗をただし正義を追及する政党。マルクスに欺かれることなく、インターナショナル(グローバル)化には対応できないのでささやかな共産主義をめざすのが良策かと・・・・。

 
21世紀、成長の限界が現実のものとなる世界において、欧米の近代思想は終わりを告げています。成長や発展ばかりでなく、人間の不自由や不平等な現実から再出発し、分かち合い支え合うグローバル世界がめざされなければなりません。過去の時代錯誤で誤った宗教、学問、政治制度は克服されなければなりません。良き伝統は残すべきですが、悪しき伝統は博物館に入れ、人間の互助と協働を拡大させ、善性を伸張させる良き競争は推進し、人間を欺瞞し堕落させる悪しき競争は抑制しなければならないでしょう。しかし戦いを活力とするマルクス主義には困難でしょう。
 志位さんたち日本共産党の更なる弁証法的自己発展を期待します。

【再説】二種類の剰余価値(搾取)理論
1)等価交換を通じての搾取(マルクスの立場)

 労働力の価値=歴史的社会的平均的な労働者の再生産に必要な価値
 労働者の賃金=劣悪な労働条件と抑圧的状態の再生産に必要な賃金
 =人間的生活の要求を無視した非人間的状態を唯物史観で合理化
 =必要労働分=必要労働時間分
・剰余労働を、労働者でなく資本の所有物とし、抑圧された必要労働の価 値を不当に低く考える立場、人間の解放でなく抑圧を招く理論     

2)不等価交換を通じての搾取(生命言語説の立場)
労働力の価値=弱い立場で不利な条件を認めざるを得ない搾取的価値
 労働者の賃金=労働力の再生産と人間的生活の持続が困難な劣悪賃金
 =人間的生活と等価交換の要求を、社会主義においても主張する立場
 =不当な抑圧労働分
・剰余価値(労働)を労働契約時点で前提し、労働者(人間)が低賃金 劣悪な非人間的労働条件を受容せざるを得ないことに反対する立場

○マルクス経済学が等価交換を肯定する理屈、
「社会全体の価値総額が常に等価である」と言っても、社会全体の中で、多くを獲得・所有できる資本家奴隷的賃金しか得られない人間との所得の格差が生じる。所得の格差は等価交換によって発生するのではなく、流通過程における不等価交換の契約によって発生する資本家が獲得する利潤は、労働力を含む商品を安く買い、搾取と技術革新によって安く大量に商品を作って、高く大量に売ることで得られる。一個人の能力には限界があり、過大で不公正な利得は、すべて流通・交換過程で生じる。蛇足ながら、価値は人間が判断する。
 参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その6)

http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/942.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 01 日 00:06:38: BW32mpuE76J86
 
マルクス・レーニン主義の創造的展開をめざしている不破さんと志位さんの「綱領・古典教室」の講義はとてもわかりやすいものです。「阿修羅」愛読者には、聴講していただけたでしょうか。
  http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 理論ばかりですが、Kakasiの投稿を読んでいただいた方は50名ほどあったようです(見ただけではカウントされていません)が、ありがとうございました。しかし理解していただいた方は皆無に近いようです。共産党員でも古典を読んでない人が多いようですから仕方ありません。なのでもう少し続けます。

 同じことは繰り返したくありません。しかしマルクス主義の肝であり、科学的とされている「等価交換にもとづく剰余価値説」と「唯物史観の決定論」は、人間抑圧・支配の傾向をもつだけでなく、様々な観点から批判が可能でありかつ必要なので、重複をおそれずに述べてみます。今回は「等価交換」の問題点を、「自由市場経済の欺瞞性」と「新社会契約論」という観点から略述します。

 さて、流通過程での「労賃の等価交換」(労働力の価値通りの交換)と生産過程での剰余価値(搾取)の隠蔽というマルクスの誤りについては、すでに説明しました。彼の説明では労働契約に不正(不等価・不当性)はないとのことでした。しかし、Kakasiの考えでは、手続きは正当で等価交換に見えても、劣悪な労働条件での交換は道徳的に不正です。労賃が労働力の再生産に必要なだけの低賃金を肯定するマルクスの等価交換論は、人間抑圧と搾取を正当化したものであり、この不等価な労働契約(不等価交換)は欺瞞であると考えます。つまり、マルクスによる生産過程での搾取の隠蔽性の暴露は、実は、交換(流通)過程での搾取の隠蔽性であって、交換過程(労働市場)における契約の欺瞞性(等価交換の欺瞞性)を、隠蔽することになるのです。このことの検証はもう必要ないでしょう。

 この事実を前提にすると、マルクス主義が、世界史(人類史)に及ぼした重大な欠陥、反人間的抑圧的な性格、歴史発展に与えた否定的側面が明確に浮かび上がってきます。それはマルクスやマルクスの追随者(マルクス主義者)が、いかにマルクス主義を肯定的に捉え、人間解放のために命をかけたものであったにしても、代償の方法はありません。専制政治や独裁政治、植民地支配、貴族、大地主、強欲資本家等々の人間抑圧・支配からの人間解放(革命)が、歴史的必然と見なされても、その否定的側面を隠蔽するなら世界は閉塞状態が続きます(この件は次回に)。    

 自由放任・弱肉強食・優勝劣敗・不公正・不道徳を信条とする自由競争市場(社会)、すなわち強者支配・強欲支配の欺瞞社会は、産業資本主義下の自由市場を「等価交換」によって予定調和(均衡)している(するはず)とみなします。確かに新自由主義(市場原理主義)の市場では、商品交換の当事者にとってwin win であれば公正な取引(=等価交換)とされますが、win lossであれば不正です。得winか、損lossかの判断基準は、その商品を消費し使ってみてはじめてわかります。弱い立場の労働者の労働力の価値は、搾取の状況によって決まるのです。労働者は、損(低賃金・低価値)とわかれば労賃を上げる交渉をします。

 もう詳しい説明は不要でしょう。商品の価値などは、交換して使用(消費)してみなければわからないのです。「等価交換」などは、全くマルクスを含む経済学者の欺瞞・詐欺・絵空事にすぎないのです。交換・取引・駆け引き、損か得か、どれほどの最大利益最小損失になるかは、相手との取引次第です。功利主義的に決まります。「労働時間」が価値を決める材料、条件の一つであることは確かですが、「労働価値説」の永久性などは、人間の本質を「労働(生産過程)」に貶めようとする人間抑圧の発想に過ぎません。社会的平均的に貫徹しているとマルクスの言う「価値法則」は、とんでもない虚構にすぎません。

 それでは商品の社会的平均的価値は、どうして決まるか、それはもし市場に社会的常識・良識・公正な競争があれば市場が決めます。それが相場です。しかし独占・寡占価格は、一方的に非常識に明確に不等価のものとして市民に押しつけられます。非正規労働力なども不等価なものがほとんどです。もちろんマルクス時代の労働者は、不等価な奴隷的労働を強いられたのです。
 長くなりましたので、「自由市場経済の欺瞞性」と「新社会契約論」については次回にします。管理人さん、悪しからず。

01. Y. Kakasi 2011年12月01日 00:26:22: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs

★追加です。ここまで述べてもマルクスの誤りを認められない方がほとんどです。なので『資本論』の該当箇所を添付しておきます。一度頭を冷やしてゆっくり読んで、どなたか反論をお願いします。なお「等価交換」については、学者の間で議論が分かれています、念のため。
マルクス『資本論』
第三篇 絶対的剰余価値の生産 
第四章 貨幣の資本への転化 から

等価が交換されるとすれば、剰余価値は成立せず、非等価が交換されるとしても、また何らの剰余価値も成立しない。
流通又は商品交換は何らの価値を生まない」(向坂訳岩波文庫第二分冊、p39)

● 確かに通常商品の売買では、新たな価値の生産はありませんが、
価値の所有者移転は発生します(商業利潤)。労働力商品の場合は、自由な契約を通じて労働者の生産した剰余価値(富)が、資本家の所有になります。この剰余価値の移転(搾取)は生産過程でなく、労働力商品の流通(交換)過程で、労働契約を通じて行われます労働者の労働条件(低賃金)は、生産手段を所有する資本家と、労働力しか所有しない労働者の間の労働契約によって決定します。つまり商品交換の不等価性(致富欲の動因)が、労働力商品の出現によって、産業資本確立の推進力となるのです。利潤は交換契約の不等価性から発生します。

「貨幣の資本への転化は、
商品交換に内在的な法則の基礎の上に展開すべきものである。したがって、等価物の交換が出発点として考えられる。まだ資本家の蛹として存在しているに過ぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売らねばならぬ。そしてそれにも拘わらず、この過程の終わりには、彼が投入したより多くの価値を引き出さねばならぬ。彼の蝶への発展は、流通部面で行われなければならず、また流通部面で行われるべきものでもない。これが問題の条件である。Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、さあ跳べ!)」(p43ー44)

● 「商品交換に内在的な法則」とは、価値法則ないし等価交換法則のことですが、これは予定調和のスミス経済学以来の伝統に従った「労働価値説」を前提とした考え方です。しかしマルクスには、弁証法的な飛躍があります。それは、論理(弁証法的自己発展)の出発点を「労働と商品」におき、商品交換における市場の多様性、商品交換を推進する人間的個別的条件性を無視して、特殊な発展段階にある自由放任資本主義のすべてを「平均化」「法則化」してしまったことです。個別の交換関係ばかりでなく市場全体のルール(社会契約)は、人間の判断、約束、規制等の意識(イデオロギー)的諸形態の制約を受けます。かれは、市場管理の可能性を予測できない時代の制約を受け、「等価交換」という学者的神話に従ったのです。彼は人間の存在を無視して弁証法的な飛躍をしすぎたために、跳ぶには跳んでも海の上に浮かんでいるのです。彼を救うことはできるでしょうか。

第五章 労働過程と価値増殖過程 から 
「さらに詳しく見よう。労働力そのものには半労働日が対象化されているがゆえに、すなわち、労働力の生産のために日々必要な生活手段は半労働日を要するがゆえに、労働日の日価値は三シリングであった。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力が遂行しうる生きた労働とは、労働力の日々の維持費と労働力の日々の支出とは、二つの全く異なる大いさである。前者はその交換価値を規定し、後者はその使用価値を形成する。労働者を二四時間生かしておくためには半労働日が必要であるということは、決して、彼がまる一日労働することを妨げない。
 したがって、労働力の価値と労働過程におけるその価値増殖とは、二つの異なる大いさである。資本家が労働力を買ったとき、彼はこの価値差額に着目していたのである。・・・・・そして、事を決定したものは、価値の源泉であり、しかもそれ自身が有するよりもヨリ多くの価値の源泉であるという、この商品の特殊なる使用価値であった。これが、資本家がこの商品に期待する特殊なる用である。そして彼は、その際、商品交換の永久の諸法則にしたがって行動する。
 実際に、労働力の売手は、すべての他の商品の売手と同じく、労働力の交換価値を実現して、その使用価値を譲渡する。彼は、後者を手放すことなくしては、前者を受取りえない。・・・・・貨幣所有者は労働力の日価値を支払った。それゆえに、その日の中の労働力の使用、すなわち一日中の労働は、彼に属する。労働力はまる一日はたらき、労働しうるにかかわらず、労働力の日々の維持が半労働日しか要しないという事情は、したがって、労働力一日間の使用でつくり出される価値が労働力自身の日価値の二倍であるという事情は買手にとっては特別な幸運であるが、とはいえ、
売手に対する不法では決してないのである」(同上p92〜93)。
● 上の引用文は、投稿の補足です。


09. Y. Kakasi 2011年12月17日 18:01:25: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs

07)08)さん コメントありがとうございます。
 Kakasiは、マルクス経済や近代経済学を超えようとするつもりも能力も全くありません。この投稿で主張したいマルクス批判は、搾取(低賃金)が、労働契約が、雇用が、労働者の合意によって「価値どおり(等価)」でなされるものなら「不当ではない」というマルクス『資本論』の反労働者的な記述に対してです。
 近代経済学に人間的良心があって、「等価交換」によってマルクスは労働者搾取を合理化しているという批判は聞いたことがありません。もう一度『資本論』と、近代経済学を読み直されることをおすすめします。
 労働者搾取を肯定して、革命によって搾取社会を発展的に止揚するという『資本論』の弁証法論理は、労働者・人間の抑圧をもたらしても人間解放にはならない、というのがKakasiたちの主張です。
 お二人のコメントは、投稿を続行する元気をいただけます。
Kakasiにとっては「科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。」という表題は、とてもアクチュアルで政治的なものであると気に入っています。



*****************************************************************************
科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その7)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/214.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 04 日 16:41:23: BW32mpuE76J86
 日本共産党の不破さんの古典教室が行われています。毎回紹介していますが、わかりやすいので聴講されることをおすすめします。テキストはエンゲルスの『空想から科学へ』です。政治に関心を持つ人にとっては常識になっているテキストです。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 講義冒頭不破さんは、「マルクスの原点に帰って、社会主義の理論を発展させる」と述べています。Kakasiは、原点が誤っていると考えます。
 不破さんは、「資本主義社会が深刻な矛盾に直面しており、この解決には社会が生産手段を掌握する以外にない」と述べ、地球温暖化や原発爆発を、資本主義の矛盾の現れと捉えています。しかし、これはテキストの「資本主義社会の経済的衝突」を拡大解釈したもので、エンゲルス(マルクス)の「経済的衝突」や「生産力と生産関係の矛盾」は、「成長や制御の限界」を意味しておらず「資本主義の矛盾」とは全く異なります

 そもそもマルクスの誤りを見抜くことさえできない不破さんに、資本主義の矛盾を見通す力や生産の管理を委ねることを期待するのは困難です。マルクス・エンゲルスにおいても自らの人間理解の限界を認識できないのですから、生産力を社会化することによって、人間(生産者)の認識能力を結合したとしても、今日的な科学技術(生産手段)のすべてと、多様な人間文化と欲望を「生産者・勤労者集団(実は党官僚)」が掌握することは不可能です。
 一般的に、人間の認識や知識、言語の相対性(可謬性)を理解しない人間は、民主社会の指導者(管理者)にふさわしくありません。

 さて、前回までの結論は、「等価交換は、マルクスを含む経済学者の欺瞞・詐欺・絵空事にすぎない」また、「労働者の低賃金は、交換(流通)過程における不等価な交換契約による」というものでした。経済学者が解明できなかったこの結論は、「自由市場経済の欺瞞性」と「新社会契約論」の検討を導くことになります。
 交換価値は、労働力や効用や利潤(損失)が含まれ、市場における交換当事者間の社会的交換交渉(契約)によって決まります。商品の交換価値は、売買当事者間の力関係・交渉能力・交換条件によって決まるので、彼らの置かれた歴史的社会的個人的意識状況が、価値決定に大きな影響を与えます。人間の交換契約における意識(価値観・取引観他)は、社会的存在(立場・状況)に影響されますが、逆に社会的状況を変えることもできるのです

 交換当事者の「合意」による商品交換は、かつては、経済学者が前提として認めるように合意である限り等価であり合法とされました。しかし今日では自由放任の思想は修正され、独占的契約や不当な労働契約は、合意すること自体が非合法化されています。それは等価であるけれども非合法なのではなく、現実には不等価(低賃金・独占価格等)であるからこそ不公正なものとして非合法化されるようになったのです。
 マルクスは、人間の意識の社会的物質的経済的被拘束性を強調して(唯物史観)、自由放任下の労働力の不等価交換を合法化し、また、反マルクスの市場原理主義者は人間の市場介入を批判します。
共に市場への人間の意識的・積極的介入を否定します。マルクス主義は、賃上げや社会改良(福祉増税)よりも政権奪取(革命と選挙)と生産手段の社会化を、反マルクス主義は、賃上げや社会改良(福祉政策)よりも、競争と成長戦略(強者支配と市場原理主義・自生的秩序)を主張します。
 両者ともに「自由市場経済の欺瞞性」と社会的利害関係(意識形態)を自覚させる「社会契約」の必要性について言及することはありません。彼らにとって、市場における具体的人間の契約関係などどうでもよいのです。というか、経済学の役割として、ミクロにせよマクロにせよ全体的な経済社会(の法則性)が問題なのです。その結果、政治経済学の失敗と混迷を招いているのです。・・・・・・

 長くなりましたので今回はここまで、管理人さん悪しからず。前回までは<BW32mpuE76J86> で検索していただけば、わかりやすいかも・・・。あわせて以下のサイトも参照を・・・・・・。
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html
 

  
コメント
01. 2011年12月04日 17:42:07: EVskgte9f6

>マルクス・エンゲルスにおいても自らの人間理解の限界を認識できないのですから、生産力を社会化することによって、人間(生産者)の認識能力を結合したとしても、今日的な科学技術(生産手段)のすべてと、多様な人間文化と欲望を「生産者・勤労者集団(実は党官僚)」が掌握することは不可能です。
確か、不破さんはマルクスの古典を紐解いて
「共産主義は、生産手段を公共化、消費は個人的。私有財産も認めるもの」
という発言をされていたような(古典教室での発言だったかな)

個々の人間の多様性については、kakasiさんと認識は同じだったのではないかと思います。

02. 2011年12月04日 21:39:41: W1595Y4I7k
断っとくが,日本共産党はマルクス主義でもないよ。
古典であるマルクスの著述から自分たちに都合の良い片言半句を引っ張り出してそれを元に屁理屈を云ってるだけ。
釈迦やキリストの文言を適当に並べて説教しているそこら辺の新興シューキョーとレベルは同じ。
誤解しないように。

03. Y. Kakasi 2011年12月05日 13:12:25: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん、コメントありがとうございます。
舌足らずの説明が誤解を与えたようです。Kakasiは、マルクス・エンゲルスの人間観・世界観では、人間の多様性を掌握するのは不可能なことを主張しているのです。唯物論や弁証法はもちろん、等価交換や価値法則、唯物史観を科学的に検証しても、決してマルクス理論が正しいことにはなりません。人間の本質である言語の理論が欠如しているからです。不破さんはマルクス同様優れた人間観察者ですが、マルクスの誤りを継承されています。

02)さん、コメントありがとうございます。
マルクス主義の理解にも色々あります。共産党は、マルクス主義を現代社会に創造的に適用しようとしています。その意味でマルクス主義なのです。誤解されないように。
>そこら辺の新興シューキョーとレベルは同じ。
→というのは、言い過ぎでしょう。誰にも誤解や信仰というものがありますが、新興宗教法人は、税金ドロボーですよ。
混同されないように。


04. 天橋立の愚痴人間 2011年12月05日 16:55:54: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE
Y. Kakasi さん、
>マルクス・エンゲルスの人間観・世界観では、人間の多様性を掌握するのは不可能なことを主張しているのです。

貴方のように理論的に説明できませんが、この一点のマルクスの評価について同じように考えてきました。
今を去ること40年以上前、学生であったころは、まだ左翼運動が活発なときでした。
共産主義が言うところの公平性について、明らかな疑問があったのです。
小学生のような例えですが、住宅地を選ぶなら、誰でも湘南のような場所や、都心に近い良い環境の地を希望します。

金は公平に分け与えることが出来たとしても土地など自由に作り出せないものの配分はどのようになるかと考えた時、誰もが希望する土地の所有権は、抽選でもしなければならず、抽選したとしても、その家族が代々引き継ぐ理由があるのか。

もしくは、そのような土地について価格を上げて購入出来る財力のあるものに譲渡するかです。
この場合、労働者の立場から言えば、高所得を得られる地位にいなければならず、その地位の取り合いが始まる。
結局は、特別の価値のあるものを手に入れるため、競争が生じ、それも公平な競争ならともかく、1党独裁であるならば、結局は権力争いか、コネが横行する社会となると思いました。

それと、全ての活動の価値を一定の基準で定め、本人の能力に比例する評価が必要以上に施行されると、能力のないものは、完全に追い詰められてしまいます。
資本主義社会で見られるような、親の七光りで金持ちになったり、偶然に成功する方が、成功しないものにとって、自分は運がなかったと、自身に言い訳できるのです。
お前は能力にかけるので、お前の立場は当然だと、決め付けられるよりは
同じように弱者に甘んじても、個人個人に逃げが取れるシステムの方が、よほど住みよい社会であると思いました。


当時、マルクス主義をどんなに説明されても、本を読んでも、これに答える何もありませんでした。
結局は、貴方が言われているような人間性の把握をマルクス主義は手を抜いて考えていたのです。
マルクス共産主義は、壮大なペテンの実験であったと思います。


05. 2011年12月05日 18:05:24: eJZDFF7GeM

>人間の本質である言語の理論が欠如しているからです。
↑が充足されれば人間の多様性を掌握できるとでも?
「人間の多様性」が何を指してるのか曖昧ですが、
タブララーザでなく生得的な存在と捕らえてのことでしょうか?
その場合根拠はどこにありますか?
前にも書きましたが言語学とマルクスを繋ぐのは飛躍があるのではないでしょうか。

>一般的に、人間の認識や知識、言語の相対性(可謬性)を理解しない人間は、民主社会の指導者(管理者)にふさわしくありません。

社会言語学やウィトゲンシュタインの言語ゲーム的視座を相対性、他者理解とみなして指しておられるんだとは思いますが、指導うんぬんとは射程がそもそも違うのみで、それらを繋ぐ方が不自然だと思います。

10. 2011年12月05日 22:00:16: EVskgte9f6
等価交換が理想論という指摘には共感します。
マルクスの論には色々ツッコミどころがあることでしょう。
ただ、その一方で、不破さんのマルクスの再構築に希望を感じるのも事実です。

たとえば、住みよい社会についての意見が >>04 >>06 で出ました。
不破さんの読み解き方によれば、マルクスの主張は弱者に対する生活保障も含んでいます。以下、ちょっと長くなりますが。

不破さんによると(というか、マルクスによると)社会の発展というのは、経済活動をより進展させるために必然的に起こるものである。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制へと変わってきたのは人間生活の物質的充足を目指して必然的に生じた変化である。
特に、封建時代では、人々は自分(の家族)を養うための労働と、君主への奉仕労働(余剰価値)が明確に分かれていた。それが資本制(分業化)が進むにつれて渾然一体となった。だから、資本は労働者に生活を保障するだけの賃金を与える義務を負う。

これが不破さん的マルクス論の再構築なのだと思います

ですので、不破さんとしては福祉(別の言い方をすれば人々が己の家族その他を再生産するために必要な費用)は資本(あるいは国家)が与えることが義務である。つまりJCP的解釈では、共産主義は福祉を包含する、ということになるのかな。

その一方で、不破さんの思想に多少の不安を感じるのも事実です。

たとえば、不破さんはマルクスと同じく、社会発展の必然として共産主義に到達するという見解を持っていると思います。簡単に言えば、すべての人が思索を巡らして賢明な判断をすれば、資本主義の次は共産主義になるはずである、という主張だと思います。そこが幾分、楽観的に過ぎるような気がしなくもありません。もちろん楽観的に事が進めば嬉しいのですが。


14. 天橋立の愚痴人間 2011年12月05日 23:44:56: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE
10 さん、
>すべての人が思索を巡らして賢明な判断をすれば、資本主義の次は共産主義になるはずである、という主張だと思います。そこが幾分、楽観的に過ぎるような気がしなくもありません。もちろん楽観的に事が進めば嬉しいのですが。

資本主義の次は共産主義になると言うくだりは、ある意味、うなづけることが出来ます。
その意味は、資本主義と言うよりも科学の発達で、人間が必要とする殆どのものを工場生産で、しかもロボット化で生産するようになると、人々は雇用もなくなり、競争することも出来ません。

そうした人類が数十億もいると、彼等に生活をさせるためには、無料の物資の供給か、それともそれを手に入れるための仮想の仕事、ないしは軽作業を国家が作り出さねばなりません。

これは、明らかに計画経済であり、共産主義のシステムといえます。
そうして、共産主義のシステムで人々の生活を維持することが出来たとして、この様な退屈な世界が、果たして人類にとっての理想郷と言えるでしょうか

殆どの人たちは、人生で緊張することは稀になり、弛緩した精神生活を送ることになります。
人間性を考えると、これこそが最も非人間的なシステムであり、天国どころか地獄の一丁目で暮らしているようなものです。

家族などの生活単位は希薄になり、身勝手な犯罪、特に性犯罪、殺人が横行し、麻薬が蔓延る社会となって行くでしょう。
原始共産主義社会はともかく、理想的な共産主義となることこそ人類の恐怖の的といえます。
そのような社会となるには、まだ数百年先のことであり、今、心配することもないでしょうが、少なくとも共産主義のシステムを理想とすることは避けたいものですね。

マルクスは、何故、そこまで考えなかったのか、
おそらく科学の発達は、彼にとって予想外であったのでしょう。
資本主義の将来は見えていても。

1
5. Y. Kakasi 2011年12月06日 18:30:27: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
コメントありがとうございます。
05)さんの
>「人間の多様性」が何を指してるのか曖昧ですが、
人間の多様性とは、市場における商品交換が等価(労働価値説)でなく、商品交換者の多様な条件(効用、欲望、労働、利益、生活等々)による取引で決まるということです。つまり価値観、市場の多様性です。

05)さんは、言語論にこだわっておられるようですが、Kakasiはそれほど込み入ったことではなく、 マルクス主義の労働(生産)価値説のように人間を誤って規定する独断的な理論を前提にすれば、「民主集中性」のような、似非民主主義(独裁)になってしまうということが言いたいのです。なお、「生命言語説」は、言語認識(意味理解)自体の相対性を前提にしています。
参照→ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page5.html
09)さんの議論は難しい。ハイデガー批判は、下記HPをご覧ください。
参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub1.html

10)さんは、JCPに好意的で、Kakasiもそれに近くありたいとは思うのですが、「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明しないと、人間の解放ではなく抑圧の理論になることを指摘したいのです。つまり「等価交換=等労働量交換=労働価値法則」が、人間(経済学者一般)の判断の結果でありながら、逆に、人間の社会的判断(意識)を規定するものであるという決定論となり、結局、労働という概念が、人間の自由な判断や創造的な認識能力を抑圧することになると考えるからです。

11)一隅よりさん、「人間の多様性」は、科学的領域にとってきわめて重要です。社会科学は人間の社会的多様性の中から、事物を対象化することによって、共通的・法則的・普遍的原理を見いだすものです。現実の市場は複雑多様なのですが、マルクス達経済学者は、その多様性の中から「等価交換」という虚偽の(欺瞞に満ちた)原理を見いだしました。彼らが、西洋的・ロゴス(合理)的偏見(限界)の中で思考していたからです。 参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page6.html

12)さん
>科学は「非人称」で語ります。
→という指摘はとても興味深いです。ロゴス的思考様式では、「非人称」的法則・原理すなわち「知識の体系Wissenschft、science」の獲得を追求したからです。しかし今日では科学とは実証科学が主流であって、一人称で語るのは単なる主観的知識になります。

愚痴人間さん
>共産主義のシステムで人々の生活を維持することが出来たとして、この様な退屈な世界が、果たして人類にとっての理想郷と言えるでしょうか。
→愚痴人間さんらしい指摘で、マルクスもびっくりしていると思います。近代的合理的発想では、退屈な世界はないのでしょう。東洋的発想の共産主義システムであると思いますが、成長と環境の限界によって、とても退屈とは言えない社会になるのではないでしょうか。



16. 2011年12月06日 22:50:40: EVskgte9f6

>10)さんは、JCPに好意的で、Kakasiもそれに近くありたいとは思うのですが、「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明しないと、人間の解放ではなく抑圧の理論になることを指摘したいのです。つまり「等価交換=等労働量交換=労働価値法則」が、人間(経済学者一般)の判断の結果でありながら、逆に、人間の社会的判断(意識)を規定するものであるという決定論となり、結局、労働という概念が、人間の自由な判断や創造的な認識能力を抑圧することになると考えるからです。

言語論については、私はソシュールの分析が一番的を射ていると思いますが、そこはそれぞれ判断があると思います。それはそうとして、「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明」というのは無理だと思います。語義からして「等しい価値」という言葉の「価値」が、人間が規定するものであるからして、等価であるかどうかは状況次第で幾らでも変わります。

例えば、リチウムやジルコニウムがレアメタルとして価値を持つと考えられるようになったのは最近のことです。大容量の二次電池や強力なモーターが必要とされるようになって初めて価値が生まれました。他にもRSA暗号で使われている整数論は100年近い歳月が経ってようやく評価されたものです(とある人に言わせれば「整数論が初めて経済的価値を持った」)。

人間が人間であるゆえの不確かさをJCPは理解しているから、JCPは『確かな野党』を標榜しているのではないかと思います。つまり完全でないことを自覚しているから与党になろうとは思わない。尤も、そういう優等生的態度が世論の反感を引き起こしていることも事実ではありますが。

それと、共産主義の社会的必然性について私の考えをかいつまんで述べますと、

1)生産手段の共有化は、分業化が発展するにつれて困難になる。例えば、自動車や携帯電話を作るための技術を全て理解するには大変な労力が必要となる。ある日突然、自由に工場を使っていいよ、と言われても使いこなせるわけがない

2)上記に記したように、共産主義というのが(不破さんの言うとおり)全ての人が創造的作業に貢献する社会だとすると、これは人々に、永遠の切磋琢磨を要求するものであり、ある意味大変な苦労を伴うものである。もちろん、その結果得られるものは現在の資本主義体制を超えるものであることは間違い無いのですが

3)共産制が資本制の論理的帰結であることを納得するには、マルクスど同じ程度の、とは言いませんが、それに順ずるほどの洞察が必要になります。これを全ての人に求めることが可能なのでしょうか。もし不可能だとすると、生産手段の独占に回帰する人が必ず現れ、共産主義は実現しません。

上記の理由から、社会的必然としての共産主義への移行は、まだまだ時代的な準備が整っているとは思えないのが正直な感想です。


17. Y. Kakasi 2011年12月07日 00:29:44: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
16) EVskgte9f6さん コメントありがとうございます。
マルクスについても詳しいようなので、「等価交換による剰余価値の搾取」についてぜひご意見をお聞かせください。Kakasiは、剰余価値は交換過程で、つまり資本家と労働者の不等価な契約によって行われていると考えますが、どうでしょうか。
また、Kakasiは、JCPのような「空想的共産主義」はありえても、マルクス的共産主義はあり得ないと考えますが、どうでしょうか。 次回の投稿時にでもご意見をください。



18. 2011年12月07日 00:49:56: xW2u8Ge1ks
>しかし今日では科学とは実証科学が主流であって、一人称で語るのは単なる主観的知識になります。
当然です。しかし民主主義において人々は各々一人称で語るでしょう。
政治の世界でも、革命を目指すにせよ、非人称な科学的視座は
調査や研究はできても、社会変革の動力それ自体とは何の関係もない。

そもそも政治において観察者と対象物という科学の視座、フレームワーク自体を問題視しています。
フハさんにしろ、科学的視座で経済の精緻化はできるとしても、近代史観をまるで反省しない姿勢のままで社会変革や人々を救済できると盲信していることにあきれます。

クロポトキンの相互扶助論などを、よむとそれぞれの時代にそれぞれの方法で豊かな助け合いがあったようです。近代以降はむしろ鈍化しているように思います。


19. 2011年12月07日 10:21:17: FUviF2HWlS

>>14
>家族などの生活単位は希薄になり、身勝手な犯罪、特に性犯罪、殺人が横行し、麻薬が蔓延る社会となって行くでしょう。

古来、戦争は若者には規律を正し、享楽に飽きて退屈に倦む庶民を覚醒して来た。

20. 2011年12月08日 22:27:11: EVskgte9f6
>>17 さん
私は決して共産主義に詳しいわけじゃありませんが、私なりに考えてみました。

等価交換についてはマルクスも色々考えたようでして、最初の頃は市場における等価交換を原則と考えていた節があります。ですが、それでは説明の付かないことが多くなるとして、等価交換から労働時間との交換へ、さらに労働能力との交換へ、そして社会の平均的な生活水準を維持する考え方へと変遷してきたように思います(この点に関しては不破さんが説明されたとおりだと思います)。

結果として、マルクスは資本による搾取を主張しました。それは、等価交換を根拠にするのではなく、労働階級の再生産(つまり家族を持ちそれを扶養すること)のため資本家が資材を提供しないことを搾取と呼ぶようになったのだと思います

で、話は変わりますが、
『空想的社会(あるいは共産)主義』という言葉は、マルクスが「論理的に突き詰めて考えなかったことが原因で失敗した思想」を指摘した言葉でして、おそらくはkakasiさんが考えられていることとは別の思想だと思います。

私が思うに、kakasiさんは、マルクスが当時主張していたような形の共産主義は実現しそうにないが、JCPが再構築した共産主義なら実現するのではないだろうか、と仰っているのだと思います。それを仮定した上で言いますと、実のところマルクスは私有財産制を否定しなかったし、人間の善性(理性)を前提とする社会体制を肯定することもなかったと思います。JCPはマルクスの思想のある意味正当な後継者であり、その意味でマルクス的共産主義もJCP的共産主義も同時にありうるものではないかなと思います
と、言いますのもマルクスは最期まで思想家として生きた人です。決して革命運動の実行部隊ではなかった。レーニンや毛沢東のような実行部隊(革命家)がマルクスの思想に(言い方が悪いですが)乗じて人々を動かしたというのが真相だと思います。

さらに話は変わりますが。
私が思うにクロポトキンにせよマルクスにせよ、色々考えた結果の共産的(相互扶助的あるいは生産手段の共有)思想にたどり着いたわけで、大枠では相当近い結論に達したのではないかと思います。志を一つにする人たちだったろうと思います。

それと、戦争は若者に規律を正したわけではないと思います。
戦時中は強奪・強姦を公式に認める軍隊が多数存在しました。たとえ軍隊の過半数がそうではなかったとしても、非戦時下の通常の市民生活において許される以上の強奪と強姦を認めたことは、殆どの人は異存がないことと思います。
戦争の効果というのは主にテロリズムに近いものだと私は思います。

2
1. Y. Kakasi 2011年12月17日 17:09:01: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
20)さん 遡ってコメントを発見しました。重ねてのコメントありがとうございます。 
>JCPが再構築した共産主義なら実現するのではないだろうか、と仰っているの>だと思います。
→というのは誤解です。JCPが、マルクスの「等価交換による剰余価値説」と「唯物史観」の欠陥・誤りを認めて修正・放棄しても、共産主義は一部のサークル(党派)的な活動に終わるだろうと思います。人類社会を民主主義的に運営するには、「能力に応じて働き、欲望に応じてとる」という共産主義の原理では限界があります。欲望は無限であり、地球と人類は有限だからです。


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