科学的社会主義・日本共産党批判―        by Y.Kakasi
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する
<その8〜13>  







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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その8)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/362.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 09 日 00:49:13: BW32mpuE76J86

 前回、マルクス経済学(競争の強制法則)市場原理主義者(自生的秩序)も、理論上の最善は「共に市場への人間の意識的・積極的介入を否定します」と述べました。しかし現実の政治では、民主主義の進展によって、また理論的にもフェビアン主義や社民主義、ケインズ理論によって市場への規制や介入が行われています。
 共産党の不破さんもマルクス主義から、北欧型の社会民主主義・福祉国家主義への転換をめざしているように見えます。これは19世紀末からの参政権(民主主義)の拡大を念頭に、現実に合わせざるを得なかっただけで、すでに説明しているようにマルクス主義の二大原理(剰余価値説、唯物史観)とは矛盾しています。今日では、マルクス的共産主義は、不破・志位未来論に見られるように、ほとんど「空想的共産主義」になろうとしています。

 「空想的共産主義」(=科学的社会主義)というのは、「生産手段の社会化」に端的にあらわれています。一体「生産手段の社会化とは何なのか。社会化された生産手段を所有・管理・運営する主体は何(誰)なのか」を考えてみれば、世界、国家、地域、企業体等の膨大な生産・物流の情報を、市場(交換過程)無しで想定することは不可能ではないでしょうか。地球環境も人間の認識・制御能力も、マルクス主義者が考えるほど単純でも楽観的でもありません。

 ここでマルクスが市場の等価交換を前提し、社会主義・共産主義では、市場の廃止を想定したことの欠陥が露呈するのです。搾取が生産過程でなされるなら、生産手段の社会化(共産党管理)が有効かもしれません。しかし、事実としては市場の契約で搾取(不等価交換)が行われるのですから、その利害の調整(共産党と労働者の対立)は、マルクス主義を前提とする限り新たな階級・党派闘争を生じることになります。

 「空想的共産主義」という誤ったイデオロギー支配が、管理(指導)権闘争と社会の不断の対立・混乱を生み出すのです。そこでは社会契約にもとづく公正な市場の交換ではなく、偽善、詐欺、欺瞞、コネ、闇市場、腐敗等が蔓延し、国民の不満を抑えるための経済成長が地球環境を破壊します。また深刻な利害対立は、共産党による計画的生産計画を阻害し、反対勢力の妨害による生産力の低下が起こります。

 空想的共産主義の社会では、確かに資本家による支配と搾取はなくなるかもしれないけれど、「国民が主人公」ではなく「共産党が主人公」となり、共産党による搾取が行われるのは理論的必然なのです。いかに不破さんや志位さんが善人でも、Kakasiのような批判をすれば冷静ではおられないでしょう。ハシズムのような共産党指導者が出現すれば命の保証はありません。マルクス理論の虚偽と偽善と欺瞞を放棄しない限り、共産党には未来を語る資格はありません(放棄すれば「理想的共産主義」の実現をめざす政党として存在理由が生じます)。

 今回は言い過ぎたかもしれません。次回は唯物史観と未来論の批判を続けます。長くなりましたので今回はここまで。

コメント
01. Y. Kakasi 2011年12月09日 00:57:55: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs

 
マルクスの盟友エンゲルスの『空想から科学へ』からの引用を追加しておきます。

 「国家が真に全社会の代表者として現われる最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎによけいなものになり、やがてひとりでに眠りこんでしまう。人にたいする支配に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現われる。国家は「廃止される」のではない。それは死滅するのである。」(邦訳全集19 p221)

国家は単なる階級支配の装置ではなく、種々の集団や個人間の利害対立の調整・管理機関でもあるから、国家のような権力機構(立法・行政・司法)は、死滅することはあり得ない。

 「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによつて、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。」(邦訳全集19 p223」

マルクス・エンゲルスの未来社会論は、疑問をもてばもつほど荒唐無稽で空想的なものであることがわかります。「社会が」「社会の名において」とは一体どのような意味でしょうか。「計画的、意識的な組織」とはどのような組織でしょうか。Kakasiのマルクス批判も「生存闘争」の一つと思いますがどうなるのでしょう。「人間的な生存条件」とは何でしょうか。「人間の支配と統制に服する」とは、どのような人間が行うのでしょうか。Kakasiは、マルクス信奉者のような人間の支配と統制に服させられたくありません。 Sweet dreams!

02. 2011年12月09日 22:17:17: SkuAZ53yWk
日本共産党のやっていることとマルクスの思想はあまり関係がない。

03. Y. Kakasi 2011年12月11日 12:01:04: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
02)さん、コメントありがとうございます。
>日本共産党のやっていることとマルクスの思想はあまり関係がない。

→とのことですが、マルクスの思想を信じている人たち(JCP)にとっては、
死活問題ですよ。でも思想信条の自由は大切ですから、信仰までを否定するこ
とはできません。
 まずは過去の教説への信仰と利権の根源を解明批判していかないと、今日の閉
塞状況を打開することはできないでしょう。
ところで02)さんは、マルクス支持者であるようにも見られますが、次回は是非見解をお聞かせください。


04. 2011年12月11日 13:26:20: EVskgte9f6

またお会いしましたね。
マルクスの思想は、時代と共に変わっていきましたので、最終的な結論に近いところで捕らえたほうがJCPとの関連が良くわかるのではないかと思います。誤解を恐れず、ざっくりまとめると、

1)平均的生活水準の維持
皆が人間らしく生活し、家族を持ち、子を育てることができる社会を作る。
2)純粋な需要に基づく生産
生産手段を共有し、各人が欲しいと思ったものは、自力で生産出来るようにする。これまでのように景気を維持するために無駄な事業を行ったり、余分な消費を誘う必要はなくなる。

というところだろうと思います。マルクスにとっては市場の等価交換は最終的に、あまり重要な位置を占めなくなったのではないかと思います。

市場の等価交換が成り立たない理由は様々で、原因が搾取なのか福祉なのか一概に言うことは難しい。例えば、一次産業のように生産量が自然頼みの場合、取れすぎた作物は破棄して価格を維持します。これは搾取か、福祉か、それとも他の何かか。中古ゲームは新品と殆ど同じ実用的な価値ですが、定価の数千円から100円まで下がったりします。しかも、その値段で売れません。これを等価交換ではないと見るか、等価交換と見るか。そんなかんなで、等価交換(その定義自体が問題かもしれません)から話を進めるのはかなり困難のように思います。

話は変わりますが、
多くの人が気にされているのは、共産主義では一党独裁になるのではないか、という点でしょう。マルクスの論理が「全て」正しければ共産主義の一党独裁になるかもしれません。ただ、現在のように資本主義が正しいという政党が大半の場合、これも一種の一党独裁だと思います(資本独裁制とでも言うべきか)。
マルクスの主張の中で、個人的に印象に残っているのは、経済発展の必然として資本主義は限界を迎えるだろう、という所です。この限界を乗り越える出発点(あくまで出発点ですよ)が共産主義なんじゃないかな、と思います。


05. Y. Kakasi 2011年12月17日 16:25:48: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
04)さん コメントありがとうございます。スレッドが流され、次の投稿の記述のためにせっかくコメントいただきながら、見逃してしまいました。

>マルクスにとっては市場の等価交換は最終的に、あまり重要な位置を占めなくな>ったのではないかと思います。
→というのはそのとおりで、「等価交換」はスミスやリカードにとってだけでなく、現在の経済学者にとっても、経済学の常識であり前提だったのです。Kakasiたちはそれを問題にしています。交換の成立結果(等置)を前提とし、結果(end)を究極目的(end)とみなす西洋的循環(円環)的思考様式を問題とし、批判しているのです。マルクス批判は、西洋的思考様式の一部に過ぎないのです。
 なお経済発展(人類の生存)には、人間の欲望の所産である資本主義だけでなく、理性的空想的共産主義のも限界があります。

06. 2011年12月23日 00:53:39 : g0r0PeqIMy
投稿者の人、無知過ぎます
科学的社会主義というものの、日本共産党の文献は読んだ形跡はなく、マルクスやエンゲルスやレーニンの著作も読んだ形跡が全くみられません。いったい何の文献を読むとそのような記述ができろのでしょうか、笑われますよ。
記述内容がデタラメで、前段で読むのを止めました、

★日本共産党綱領には当面の革命と社会主義革命は区別されており、貴方の憶測でいう「北欧型・・」云々は、それらの革命以前の課題として位置づけられているものです。
★「市場の廃止」――そんな規定がマルクスやエンゲルスの文献のどこにあるのでしょうか。そんな文献が有るわけがありません。展望されている社会主義社会の経済制度は、市場原理と計画的経済(統制経済とは無縁)の組合せですよ。

投稿者は、原典をまるで読んだことのない人です。


07. Y.Kakasi 2011年12月27日 00:59:52 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
06)さん コメントありがとうございます。
 誤解される方がないようにと、01)で以下の文を引用しておきましたのに・・・。やはり反論をするときは、最後まで文を読んで頂きたいものです。
 一体「商品生産は廃止」された後で、市場は残るのでしょうか。「市場の廃止を想定(規定でなく想定)」するのが当然ではないでしょうか。なお付け加えるならば、下の引用文で「個人間の生存闘争は終りを告げる」とはどのようなことなのでしょうか。マルクス主義的共産主義が存在する限り、「理論的生存闘争」は永遠に続きそうです。だから「空想的共産主義」というのです。 以下のことは起こりえないのです。

★引用→「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによつて、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。」(邦訳全集19 p223」

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■科学的社会主義・日本共産党批判――
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その9)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/469.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 11 日 23:20:11: BW32mpuE76J86

 投稿者Kakasiは、日本共産党の指導者による「綱領・古典の連続教室」がとてもわかりやすいので、皆さんに是非聴講していただき、その批判へのコメントを期待して投稿しています。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 今まで、マルクス主義は、科学的社会主義ではなく「空想的共産主義(似非科学的社会主義)」であり、これを科学と考え実践すると様々の誤りを起こすと述べてきました(愚痴人間さんによる「壮大なペテンの実験」に半同意します)。具体的内容は周知のこと(党派組織による人民解放と労働者・人間支配)なので、できるだけ理論面に絞っています。だから「教室」でしっかり勉強していただかないと理解困難・意味不明ということになります。
 マルクス批判の要点は、社会主義を科学にしたといわれる二点、「等価交換による剰余価値説」と「社会的存在が意識を規定するという唯物史観」についてです。その批判の詳細は、「人間存在研究所」のHPに展開されている理論「生命言語説」に依拠しています。
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/index.html
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html

 前者(剰余価値説)については、労働者搾取は、生産過程ではなく交換(流通)過程でおこなわれること、すなわち、強者資本家と弱者労働者との自由で対等な労働契約が、等価交換ではなく不等価交換(低賃金・劣悪な労働条件)によって行われていることを指摘しました。労働契約がたとえ合意の下で行われ表面的にwin winの関係だとしても、実態としては半強制的な労働が行われてきたことは、過去においてはもちろん、今日においても企業役員、正社員、派遣社員等々との格差賃金にあらわれています。

 資本家・企業家・経営者がいかに能力に優れているとしても、人間の知的体力的能力は、平均的(普通の)労働者・人間能力の10倍を超えるものではないでしょう。平均的労働者の生涯所得が3〜4億円として、一年の収入で10倍を超えること(30〜40億円以上)になるのは、市場の不等価性に由来しています。ちなみに日本の上場企業の役員年間報酬1億円以上は、約300名とされています(役員報酬ランキング)。高額納税者公示制度が廃止されましたがネットでは残っています。おそらくすべて流通による不等価交換の所得でしょう。芸能スポーツ関係の高収入でさえ個人の能力を超えた所得です。累進課税の社会的存在意義は、不等価に対して多少でも公正と正義を考慮したものなのです。

 「等価交換=価値法則=労働価値説」についてのコメントが一切ないのはなぜでしょう。この「阿修羅」で一言もないのは残念なので再論しました。もっとも「労働価値説」に反対しても、「等価交換」に反対できない学者・評論家がこの問題を避けているので仕方ありません。もちろんマルクス経済学者は全滅です。商業利潤、国際的不等価交換、独占価格、格差社会から考えれば答えは簡単に出てくるのですが、皆さんマルクス等の西洋的偏見・イドラ・トリック・神秘化に欺かれているのです。一つだけ実例を挙げておきましょう。→http://www.a-jrc.jp/pdf/ajj/047_068_ito.pdf

 さて、不破さんの好きな「唯物史観の未来論」に話を進めましょう。唯物史観は、単純な階級闘争論ではありません。階級闘争を意識せざるを得なくなる資本主義的生産様式の社会的矛盾が問題になります。労働組合の賃上げや諸要求実現闘争は、生産力の上昇にもかかわらず生じる生活の困窮に対する、労働者の自覚と団結によって引き起こされます。ここでマルクス理論では、「市場」の交換過程に関心があるのではなく、搾取労働が行われる生産過程、過剰生産と失業を制御できない生産様式が問題とされ、生産手段の社会化・政治権力の奪取(社会主義社会)をめざします。

 つまり、マルクス主義的社会主義は、意識的(契約的)過程ではなく、生産力と生産関係の矛盾、すなわち生産力の発展が低賃金、恐慌、生産の無政府性を拡大するため、必然的に労働者の団結と生産手段の社会化、それに伴う意識的計画的生産が起こるというものです。しかし、恐慌と低賃金が、福祉国家をめざす政府(と中央銀行)の意識的介入によって、多少とも矛盾の調整と制御、すなわち生産力の発展と生産関係の矛盾の低減が可能となり、事実として唯物史観の公式が否定されることになりました。つまり資本主義的生産様式は、マルクスの考えた矛盾をある程度克服し、別の矛盾、すなわち資源エネルギーの偏在・枯渇や環境汚染・温暖化問題、人間による制御困難な原子力開発等にみられる地球的規模での成長・発展の限界に直面しているのです。

 では、なぜマルクス的見通しが、誤ってしまったのでしょうか。それは根本には、弁証法論理に見られる西洋的思考様式の限界、ユダヤ・キリスト教的歴史決定論(終末思想)があります。人間の社会契約関係(不等価な交換・取引関係)を、市場の多様性・不均等性の中に見ないで平均的法則性を重視したこと、18〜19世紀の科学と革命と発展の時代であったこと、レーニンの言うようにドイツの哲学、イギリスの経済学、フランスの社会主義の統一が課題とされていたことなどがあげられます。

 マルクス主義は、時代の産物であり、西洋思想と伝統の産物であり、合理主義と楽天主義の産物です。 楽天的なところは「空想的共産主義」という名称が全くふさわしいのです。今更、「市場経済を通じて社会主義へ」(綱領)などという方針は、マルクスの真意に反します。それでも不破さん達がそう思っているなら、彼らはマルクス主義者です。様々なキリスト教や仏教があるように、様々なマルクス主義があるのです。しかしマルクス理論に依拠する限り、その理論にもとづく行動は、人間と労働者を抑圧し不幸に陥れることになるでしょう。人間と地球の生産力には限界があるからです。
 
 今回はここまで、次回の予告をしてもそのとおりに進みませんが、ご容赦ください。次回は、市場と不等価交換と社会契約について考えてみます。


コメント
01. 2011年12月12日 00:49:41: 4nYOVoK0vw
議論板か経済板に行ってほしい。
マルクスも日本共産党の存在もアクチュアルな政治話題ではない。
場違いはなはだしい

02. 2011年12月12日 17:53:01: XmrRXp4oz2
マルクスはイギリスに亡命していましたが、その頃に、欧州大陸からマルクスの著作を読んで「マルクス主義者」になった人たちがマルクスを訪ねてきました。
 マルクスはその人たちと話し合いをした後に、あなたがたが「マルクス主義者」だとすると、私は「マルクス主義者」ではないとマルクスを訪問した人々に言ったそうです。
 マルクス思想は、残念ながらマルクスが生きていた頃から、既に誤解されていたのです。
 Y. Kakasi は、残念ながらマルクス思想を誤解して批判していると思います。
 是非、広松渉の著作を読んで、広松渉のマルクス論を批判してみて下さい。

 マルクスの唯物史観は様々な意味がありますが、その中には、ありとあらゆる人間の思想は暫定的なものに過ぎず、変化してゆくものという考え方もあり、マルクス自身がマルクス思想も暫定的な思想であることを知っていたと思います。
 つまり、マルクス自身がマルクス思想も、マルクスが生きていた時代の歴史的な制約を帯びていることを知っていたのであり、その意味では、マルクス自身がマルクス思想も絶対的なものではないと思っていたのです。

 ですから、マルクス思想を正当に批判する人なら、マルクス自身が大歓迎するでしょう。
 世の中には様々なマルクス論があり、日本共産党のマルクス論はその中の一つに過ぎませんが、残念ながら、日本共産党(不破)は誤った解釈をしていると思います。 是非、広松渉のマルクス解釈を読んで、広松のマルクス論を批判して下さい。広松自身も、広松マルクス論の正当な批判なら、大歓迎するでしょう。
 マルクス思想が誤解されてきたのは、マルクス思想は、<色即是空>という仏教のような世界観とほとんど同じ世界観に基づく思想だったからだと思います。

 マルクス思想は、ヨーロッパに生まれた事実上の<仏教>であると思います。
 たとえば、講談社現代新書の「入門哲学としての仏教」という本で、著者である仏教学者の竹村牧男氏は、広松渉がマルクスの世界観を述べた「事的世界観への前哨」(勁草書房)が主張するマルクスの「関係主義的世界観」を、仏教とほぼ同じ世界観だと言っていますし、広松渉自身が仏教の世界観とマルクスの世界観が非常に良く似ていると述べています。
 しかし、日本だけでなく、世界のほとんどの「マルクス主義者」は、日本共産党のような実体主義的世界観こそが唯物論の世界観と誤解して、実体主義的世界観を前提にしてマルクスを解釈してきたと思います。
 我々近代人は、日常的には実体主義的世界観に基づいて思考していますので、<色即是空>という非実体主義的世界観は、非常に理解しがたい世界観です。

 ですから、我々にとって釈迦が唱えた<色即是空>という非実体主義的世界観が中々理解しがたい世界観であるように、マルクスの非実体主義的思想も、多くの「マルクス主義者」から誤解されてきたのも無理はない面もありますが、誤った解釈でマルクスを批判しても無意味です。
 是非、広松渉の著作を読んで、広松のマルクス論も批判して下さい。

 世界資本主義は、ほぼマルクスやエンゲルスが予想した通りに、大悲劇=世界同時恐慌=に向かって迷走しています。
 今こそ、真のマルクスの復活が必要な時です。
 そのような時に、誤ったマルクス解釈でマルクスを批判しないで下さい。
 お願いします。



03. 2011年12月12日 20:18:52: m67BSuHnKM
マルクス思想が誤解されて拡散されているとするなら、彼自身の記述、表現に問題があるからでしょう。それを棚に上げて、今こそマルクスっていうのは滑稽です。そもそも時代の異なる広松の解釈が他より正統性があると誰が承認するんでしょうか。

04. 一隅より 2011年12月12日 23:13:09: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>02さんのあげる問題も、>>03さんのあげる問題も、どちらも重要なのですが、ひとつ分かりにくい。
>そもそも時代の異なる広松の解釈・・・

とは何の時代と、何の時代が異なるというのでしょうか。(ひとつは広松の時代でしょうが、もうひとつは?)

すみません。分かりにくかったものですから。補足お願いします。

05. Y. Kakasi 2011年12月12日 23:55:11: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん コメントありがとうございます。
>場(板)違いはなはだしい。
→とのことですが、見解の相違だろうと思います。マルクスも共産党の存在もきわめてアクチュアルな問題です。マルクス主義を信条とする大国があることはご存知の通りです。マルクス主義がめざす社会革命は、優れて政治的・現実的な問題です。なぜなら、共産主義革命は中国などで進行中ですし、日本でも革命を創造的に進めていこうとしているのが不破さん達だからです。
 この「阿修羅」の政治板等でも、「赤旗」「共産党」の宣伝が行われています。マルクスの誤りは、彼らも自覚されていないでしょう。経済や議論板でゆっくりとやればいいというご意見もありましたが、Kakasiは、管理人さんの判断に任せています。ダメと言われるなら投稿は中止します。クレームは賢明なる管理人さんへよろしく・・・・。
 多くの投稿に流され、すぐに消滅するような拙稿に目をとめていただき感謝です。

02)さん ユニークなコメントありがとうございます。
 広松さんの支持者のようですが、彼の著作は、9巻の著作集程度は「見」させていただきました。ここで広松論を述べるゆとりはありませんが、現象学の限界、すなわち西洋思想の限界を超えてはいません。ハイデガー的・現象学的な「共同主観性」という概念では、人間も、人間の意識も、人間社会も捉えることはできません。人間存在は、社会科学以前に、自然科学的・生物学的に解明され「言語」を「非実体主義的世界観」の根底に位置づけなければなりません。
 人間社会の関係性(運動法則)を理解するには、「共同主観性」の解明以前に、「言語」によって規定されている「自然的主観性」の解明が必要なのです。「生命言語説」の存在意義がここにあります。

 広松の言うようにマルクスが「近代の地平」を越え、彼もそれをめざしていたとしても、広松哲学では、西洋思想の地平(限界)を超えることはできませんでした。
 Kakasi達も仏教には関心を持ち、「仏教の現代化」をめざしています。広松の仏教理解が優れているとしても、「空観」は「縁起」の理解があってはじめて意味を持つのであって、『般若経』や龍樹の『中論』ように、はじめに「空」ありきという発想では、西洋思想を克服することはできないでしょう。

 03)さんが指摘されるように、広松は、全く過去の人です。
 ついでながら、『資本論』の「等価交換」について、広松が何かコメントをしているなら是非教えてほしいものです。

現象学批判→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page8.html
仏教の現代化→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html#engi

04)さん 割り込んですみません。マルクスの時代だと思いますが・・・。


06. 2011年12月13日 12:50:54: FUviF2HWlS
不破さんは「古典講義第8回」で、エンゲルスも「空想から科学へ」においてマルクスの説を誤解していると述べていますね。

07. 2011年12月13日 13:15:14: EVskgte9f6
 現象学的アプローチの問題点として言語を使うからと仰られていますが、そういうアプローチが生まれた頃には記録手段が(ほぼ)文字しかなかったからというのが理由ではないですか。今では研究手段として映像も音声も使われていますし、言語の限界を有る程度はカバーしていると思います。また言語の限界については大抵の人は判っていると思います。
で、話は変わるのですが、

>人間社会の関係性(運動法則)を理解するには、「共同主観性」の解明以前に、「言語」によって規定されている「自然的主観性」の解明が必要なのです。「生命言語説」の存在意義がここにあります。

『生命言語説』とは具体的には何なのでしょうか。貴方のページを拝見しましたが、

<新しい言語論(生命言語説)はものの見方や生き方を変革します>
 言語は、西洋言語学におけるように対象化された言語記号の構造のみを扱う(ソシュール等)のではなく、生命の刺激反応過程を制御し構造化し創造する認識や思考、感情や行動の表出過程(生命言語説)として扱うべきものです。このような言語観・人間観は自己(私・生命)の主体性(自律性)を確立し、神仏の存在を必要とせず、人間相互の共通理解と連帯を促進し、諸個人の幸福と社会の平和に貢献します。人間は言語によって自らを支え、相互理解(又は相互不信)を深め、新しい自己と社会と文化(文明)を創造する動物なのです。

 ソシュールは、言語で感情や行動を表現することについて言及していませんが、だからといってそれを否定したわけではないような気がしますが、それはともかく、Kakasiさんは、政策決定における人間の感情の重要性を主張されているような気がするのですがどうでしょうか。だとすると、言語論とは関係が薄いような気がするのですが。

08. Y. Kakasi 2011年12月17日 15:23:19: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
 06)さん、07)さん スレッドが流され、次の投稿の記述のためにせっかくコメントいただきながら、見逃してしまいました。
06)さんの指摘は、研究者としての不破さんの優れた点だと思います。エンゲルスは『自然弁証法』などでは観念的でしたが、マルクスよりも現実的な人だったようです。あまり決定論的ではなかったと思います。

07)さん「生命言語論」の要約が、以下にありますのでご覧ください。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub2.html

「政策決定における人間の感情の重要性」は、言語表現が主語・述語による自己意思の表明(反応)であり、意思(意志)は感情の表出と考えるので、指摘のとおりです


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その10)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/590.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 15 日 21:56:46: BW32mpuE76J86

 マルクス(とエンゲルス)は、19世紀西欧の資本主義の発展と社会の矛盾・争乱を分析し、被抑圧者・労働者が資本家の階級支配から自らを解放することが、人類の解放であり、苦難の人類前史を終わらせることであると考えました。このような彼らの強烈なメッセージは、主著『資本論』に結実し、理解困難でも多くの人々の心を捉えています。
 その難解なマルクスの思想を、日本共産党の指導者である不破さんと志位さんが「綱領と古典教室」で講義され、ネットで公開されています。日本と東アジアの政治にとって、マルクス主義の動向は見逃せません。聴講をおすすめします。
 「綱領と古典教室」→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 さてマルクス思想を理解されていることを前提に、その批判を続けてきました。しかし、色々とコメントがあるものの、肝心の「等価交換による剰余価値の搾取」についての意見・異見はまだ一つもありません。なので、この問題の重要性について、説明不足を補います。
 前回の説明は次のとおりです。資本家の利潤の獲得(搾取)は、資本家が労働者の労働力商品を「等価交換」で購入し、「生産過程」での隠された剰余労働によって行われる、というマルクスの剰余価値説は誤りですつまり、商品の価値は、その商品に投下された労働量で決まり、商品は原則すべて等価で交換される、という当時の経済学者達の偏見(労働価値説)を、うまく労働力商品にも適用して搾取を説明した、とマルクスは考えたのです。しかし、搾取は、強い立場の資本家が弱い立場の労働者の労働力を、「交換過程(売買契約)」において、不等価で不当な低賃金で買い取り、それを酷使して行われるものです。

 「ウィキペディア」で「剰余価値」の説明を見れば、『資本論』の記述のとおり
 「剰余価値は商品交換(流通過程)によっては生まれない。なぜなら、流通過程においてどんなに不等価交換が生じたとしても、社会全体の価値総額は常に等価であるからである。それゆえ、利潤が商品売買の差益から生まれるという議論は誤りである。」

とあります。ごらんのように、「社会全体の価値総額は常に等価であるからである」という説明は、全く説明になっていません。剰余価値(利潤)は、「社会全体の価値総額」を問題にするべきなのではなく労働力によって産出された価値が、「誰のものになるか」を問題にするべきなのです。剰余価値は「生まれる」ものではなく、流通過程で「奪われる(移動する)」ものなのです。Wikiの記述がいつも正しいとは限りませんが、「岩波経済学事典」でも「資本主義社会全体で等価交換が行われる」としています。アカデミズムが、『資本論』の権威にいかに歪められているかがわかる例です。

 マルクスが、「等価交換の剰余価値説」で犯した最大の失敗(誤り)は、労働者の社会的平均の必要労働(生活費)分を算出するのに、抑圧された労働者の賃金(生活費)のみを基準に置いたことです。本来人間的に必要な欲望を充足するためには、労働力の再生産(必要労働)分だけでなく、剰余価値(利潤)分すなわち資本家の取り分を算入した上で平均化すべきなのです。等価交換として得られる労賃(必要労働)分は、決して労働者の必要生活費をまかなえるものではないのです。

 労働者の低労賃は、決して等価交換による正当なものではなく、支配と抑圧、詐欺と欺瞞による、不正で不等価な搾取によるものなのです。ある一定の社会の労働者の生活費は、労働者だけの平均によって決めるべきものではなく、資本家の収入である利潤(剰余労働とされる分)を含めて、人間的社会的平均として決めるべきものです。労働者の労賃・生活費分は、労働力商品(人間の全体性)との「等価ではなく」、労働力商品の価値を下回る低賃金なのです。マルクスはこれを不当なものとしてでなく、唯物史観的に肯定的に「等価値」と考えるから、マルクス主義は、労働(者)を人間抑圧に転化していると言えるのです。労働力は、単なる生産能力ではなく人間そのものなのです。

 だから論理的には、マルクス主義では、低賃金・労働条件の劣悪性は不当ではないから、賃上げ(生活・労働条件の改善向上)よりも階級対立をあおり、労働者の組織化や労働運動も生活向上のためというよりは、単に唯物史観に合わせて社会主義革命をするための手段、共産党の活動を拡大させるための手段に過ぎなくなるのです。マルクス主義共産党が、唯物史観(歴史の必然性)という「強迫観念(偏見)」によって、生活向上、福祉国家よりも、共産主義(党への忠誠)をめざすのはそのためです。そしてその根底に「等価交換=等労働量交換=労働価値説」があるのです。
 なお『資本論』批判の要点については、以下に詳しいので参照してください。→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub4.html

 前回予告していた「市場と不等価交換と社会契約」についての説明は、長くなるので要約だけにします。
 資本主義競争市場における商品交換が、互恵(win win)的側面よりも格差拡大的・不等価的にはたらき、自由平等な社会契約(等価交換)はその美名とは逆に、労働契約に典型的に見られるように、不正で欺瞞的な契約関係を増大し、腐敗と道徳的退廃をもたらしてきました。これはマルクスとエンゲルスが、著作の中で克明に描いてきたとおりです。

 また現下の問題では、アメリカ主導のTPPに日本が加入すれば、まだいくらか残されている日本的道義心や美徳は、金銭欲と享楽主義と功利主義によって破壊し尽くされるでしょう。美しい日本と世界の自然も刹那的享楽や功名心、強欲が買い占め、メディアやネットを操って人間的良心や善性を麻痺させ崩壊させるでしょう。今や日本で、中国で、世界で人間の心が蝕まれています。そして、世界をこのような現状にした責任は、商品交換(社会契約)市場に「等価交換」しか見なかったマルクスにもあるのです。

 競争市場の不等価な交換契約の現実を吟味し、分配的正義(福祉国家政策)とともに、より日常的な「交換的正義」を実現することによって、はじめて自律した人間の共同社会が可能になるというのがKakasiたちの基本的考えです。『資本論』的社会観(マルクス主義)が、人間の解放をめざしても、理論的にそれが不可能であるばかりか、人間抑圧を招くものであることを説明できればと思います。これはきわめて政治的な提案なのです。

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ここは本当の事を一緒に探していくサイトです。」よろしく。
 管理人さん頑張ってください。これは政治的挑戦です!!


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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その11)

http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/901.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 24 日 23:19:12: BW32mpuE76J86

 今日の自称マルクス主義政党(中国、日本、北朝鮮等)は、真のマルクス主義ではないし、日本の共産党員でさえ古典を読むことは少ないのに、今さらマルクス主義の批判をしても意味ないだろう、と考える人もあるかと思います。また、『資本論』は難解なのでまともに読み通した人はあまりいないでしょう。なのでとりあえず、共産党の不破さんと志位さんが分かりやすく解説している「綱領・古典教室」を読まれることをお奨めします。
 →http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 欧米や日本など先進国では、マルクス主義の現実的な力は弱まっていますが、中国共産党規約、朝鮮労働党規約は明確にマルクス・レーニン主義を党是とした一党支配が行われています。
 http://jpn_cpc.people.com.cn/69716/4726318.html
 http://infoseek_rip.g.ribbon.to/chorea.hp.infoseek.co.jp/dprk/kwp/kwpchar.htm

 マルクス主義について正しい認識を持つことは、東アジアの国際政治を考える上できわめて重要です。マルクス主義者たちは、自らを解放する理論をもたない(前回参照)ので、その負担・犠牲は人民に押しつけられます。具体例をあげる必要はないでしょうが、党の方針・理論をめくる権力闘争は、今まで述べてきたように避けられません。一党独裁を、発展途上国に見られる開発独裁の必要悪と捉え、経済成長が可能な限り問題は潜在化するでしょう。しかし、現実には党組織は民衆抑圧の手段となり、もはや悲劇的な段階として顕在化しています。中国が和諧社会、朝鮮が主体思想、ベトナムがドイモイ(刷新)のように国情に合わせて体制を維持しようとしても、マルクス主義に依拠する限り、共産主義は空想的であるばかりでなく人間抑圧の理論とならざるを得ないのです。残された道は、対立政党(理論)の容認またはマルクス主義との決別以外にはありません。 

 さて前回の続き「市場と不等価交換と社会契約」についてです。まず「不等価交換による剰余価値の搾取」と言う見方は、近代経済学の主観的価値論とされる「限界効用理論」の似非科学性を批判します。というのも、資本主義市場では、効用(要望充足)は単なる生活消費的効用だけでなく、商品交換を通じて(利用して)利潤を追求するという強力な効用(致富欲望)を実現する目的で競争的取引が行われます。これは労働力商品(人間力)を最大限活用(搾取)し、また商品市場の独占的利益を目ざして不等価交換(売り手と買い手の非対称性=格差)を最大化しようとするものです。資本主義市場は、近代経済学が考えるような市場需給の均衡が常態なのではなく、またマルクス経済学の想定するような等価交換が常態なのでもありません。ともに欧米の合理主義的(自然法的)思考様式の偏見(合意=契約成立=等価交換)がもたらした、商品市場に対する歪んだ法則的理解にすぎないのです。(インド人A.センはこの問題の解明に尽くしました。Kakasi達の見解も西洋的思考様式の批判を前提にしています。)

 そこで、彼ら経済学者には見ることができなかった市場の交換過程における「不等価性」の洞察が、資本主義社会の諸問題・諸矛盾に対してどのような処方箋があるのかを考えてみましょう。
 マルクスは、社会主義社会では、生産手段を社会化することによって「分配的正義」を実現しようとしました。その精神の一部は、社会民主党の政権による「福祉国家」に実現しています。しかし、福祉国家における資本主義市場経済のもとでの分配的正義は、成長経済(好況)のもとで税収が豊かな場合には公的支出も豊かでうまく機能しますが、景気低迷(不況)になると人件費等の諸経費が捻出できず(公共)サービス低下が起こります。
 また景気循環における産業構造の変化や、競争力をなくした企業が撤退ないし倒産すれば失業者を出します。安直な企業買収や倒産回避は、商品交換の不正を招きます。例えば、商品生産で利益を上げるには、安価(低コスト)で良質な商品ではなく、安直な商品模倣や宣伝、賃金削減が行われます。つまり、一般商品や労働力商品の「交換的正義」が失われモラルが低下します。資本主義競争社会のモラルの低下は、法則経済学が忌避した「不等価交換」にその根源があるのです。

 マルクス主義(空想的共産主義)と市場原理主義(新自由主義)に共通するのは人間的モラルの崩壊です。前者に、階級的連帯のモラルがあるとしても、自らを労働から人間に高めるモラルはありません。人間や社会に対する認識が誤っている(弁証法)かまたは欠如している(言語論)からです。また後者に、自由主義的モラルがあるとしても、それは敗者の困窮に自己責任を求める 利己的勝者のモラルであって、やはり人類社会の未来に禍根をもたらす(私的利益優先)ものです。

 結論として、共産主義自体は一つの理想社会の建設を目ざすものとして容認できても、マルクス主義を前提とする限り、「交換的正義」の検討の余地がない(多くの経済学に共通の欠陥ですが)ため、市場経済を通じて社会主義を実現することはありえないのです。社会的抑圧や支配、搾取や格差、差別や偏見、一般に道徳的腐敗や社会的混乱は、市場(市民社会)における交換過程(社会契約)の中にこそ、その根源をもっているからです。
 この点はKakasi達の主張する「道徳(倫理)的社会主義」の考え方の根本になりますが、長くなるので次回に投稿します。

 次回は、志位委員長の第9回教室(12/20)と、「社会契約」を資本主義と社会主義に関連づけて述べてみます。前回までは<
BW32mpuE76J86> を検索してください。

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コメント
01. 2011年12月25日 00:09:16 : ys9TYjHKqY
マルクスが憎んだものは強欲な資本家が搾取する一方で愛だの博愛だの善だの美などとはやし立て欺くその品性ではないでしょうか。虚構、虚偽を憎む文言がいたるところにみられます・今でもその構造はかわっていません。さらに加速されています。たとえば普通選挙になったところで、はなから人民は生まれた時から洗脳され続けています。自分の意思で選ぶことはないのです・

02. 2011年12月25日 01:00:52 : ayWHhcAkAY
>階級的連帯のモラルがあるとしても、自らを労働から人間に高めるモラルはありません。人間や社会に対する認識が誤っている(弁証法)かまたは欠如している(言語論)からです。
何度も指摘してますが、言語論では答えになっていませんね。長文HPのリンクは結構です。簡潔に述べられないんでしょうか?
(それともHPの宣伝で投稿してるんでしょうか。)
「科学の視座」から救済など無理なんですよ。マルクスは人間や社会に対する感受性は鋭かったでしょう。しかし彼の理論より、自らのルーツであるユダヤ思想の方が救済により近い。


03. 2011年12月25日 01:24:12 : DYgZcAEmBU
難しくてついて行けない。もっとかみくだいてくれないと、読むのが面倒で、スルーする。文章中の漢字の量は、せいぜい半分位で。
ですます調はいいです。
前置きは不要。「結論として」以降も半分くらい不要かな。本とは違う書き方でお願いします

04. Y.Kakasi 2011年12月25日 11:47:47 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
コメントありがとうございます。
指摘されていることは、きちんと応えたいと思っています。
なお自己主張、自己満足、思い込み、宣伝でないのか。
言語を論じるならもっと分かりやすい言葉で語れ等々・・・・。
情報が氾濫する中、多少とも関心を持っていただいたことに、感謝。

05. 2011年12月25日 16:00:44 : BvRwEG5pHk
共産主義のイロハも理解していない人の投稿文ですね。kakasiさんは、マルクス、エンゲルス、レーニンの文献の1冊も読んだことがない人のようです。もし違うなら、その文献と内容で解説してみて下さい。
レーニンは「青年同盟の任務」の中で、共産主義とは何かについて述べています。

そこでは、資本主義社会の学校では雑多な知識を教える――東大の原発御用学者のように物を知っていればいいというものではないということ――共産主義の理論は人類の知識の価値ある科学や知識の総和の上に成り立つものであり故に発展させるものである――雑多な知識の中から社会に有益な価値ある知識のみをより分ける能力を身につけること、そうでなければ共産主義と言えない、そして、言行を一致させて社会活動を行うこと、、、共産主義者は、まだその言うことについて人々がそれを信じないにせよ分からないにせよ、人々の経験に照らして、この人たちの行動は間違ったものではなく、真に信頼できる人々だと心から納得できるように活動や生活ができなければ、それは共産主義者と言えない、なぜならそれは現行不一致の社会に役立たない「理論と実践の分離」を意味し資本家階級のあり方そのものであるからだ、としています。

このようにレーニンがいうのが共産主義だとすれば、共産主義者を自称したり、共産主義理論を自称しても、それらが「理論と実践の統一」の上にあり、私たちの経験に照らして真に信頼に足りる人々、運動、理論、政治であるのかどうかが問題になるのです。

ですから、不破、志位さんは実際の運動で成功していれば「理論と実践の統一」ということで、レーニンのいうところの共産主義者として認定できるし、運動が失敗していれば口先だけの人ということで共産主義者とは言えない、本人たちがどのように弁じようともブルジョアジー的なのです。

kakasiさんは、マルクスを批判するなら、直接にマルクスの文献内容により論を展開できないようでは論じたことにはならないのです。

06. 2011年12月25日 17:23:34 : 1HOeyxVvSk
02です。カカシ氏はマルクスをアクチュアルな話題と断言しているなら↑のような教条主義はむしろ誤りで、マルクスが今日どういう意味があるか示すべきです。なんども書いてきましたが、ハイデガーに対する誤りとか言語論とか現象学とかHPの文は執拗に冗長で方角も独自な研究に見えません。救済を目指しているならマルクスは脇において、ローゼンツヴァイクがいうようにギリシアからヘーゲルまでモノローグを繰り返してきた哲学者は必ず誤謬に陥ること、そうではなくディアローグから言語接近すべきです。また以前も指摘した非人称の話も同様です。相互主観性という視点を欠くと人間について何も語れません。科学的、対象化の視点では、倫理や救済の問題から遠ざかるのみで発話者が隠蔽され接近不能です。掲示板でディアローグを採用しようとしするなら、以前に書いたリンクを読んでくれという態度ほど高慢なものはありません。

07. 2011年12月25日 17:49:33 : qoVHGfd6sY
奸やら賤獄やら一見社会主義者にみえる連中は、本心は、スターリン毛沢東主義者なんだよな、すくなとも、今のカストロ型なら
少しは共産主義に温かい目でみてあげるのだが、野心家の成り上がりが多すぎるんだよ。日本の社会主義者や共産主義で
政治を目指す人間は、奸や賤獄は上り詰めると、グルメ三昧だからね

08. 2011年12月25日 18:34:34 : BvRwEG5pHk
06は知ったかぶりで、人とコミュニケーションが図れない人のようだ

09. 2011年12月25日 18:48:10 : 1HOeyxVvSk
>>08
反論できずに人格攻撃ですか、ドグマがないと何も思考できないんでしょうね。

10. 2011年12月25日 18:58:09 : EVskgte9f6

一つの見解として受け取って欲しいのですが、マルクスがモラルを問題にしたかというと、たぶん、それはなかったと思います。彼は科学的な視点を目指したのだから、共産主義はモラルに裏打ちされる思想ではない(はず)。
じゃあ、何に裏打ちされるのか。これは、経済のさらなる発展に裏打ちされる、ということだと思います。

マルクスによると、
資本主義では、資本家が労働者から搾取する一方で、労働者が物を買うだけの余力を与えねばならないという矛盾がある。これを解決するために、生産手段をいったん資本家の手から奪いとり、あらためて労働者と資本家で共有することで、2つの階層の区別を無くそう、ということだったんだろうと思います。そうすれば、資本主義で限界に達した経済がさらに成長できる、と。

ここで話は変わるのですが(すみません)、
彼の言う『搾取』は、労働者階層が次の世代を生み育てるだけの生活を保障するためのものを、資本家が労働者に与えないことを指すわけで、これを解決するために福祉を充実させるという解決方法は、正直、共産主義とは関係が薄いと思います(共産主義では、生産手段は誰でも使えるのだから、自分で欲しいだけ作ればよい)。ここらへんが、現代が共産主義ではなく、修正資本主義であることの現れなのかなと思ったりします。

追記:
少し気になったことが。
『市場と不等価交換』と書かれていますが、市場が需給均衡で価格決定するならそれは等価交換と呼ばれるような気がします。ですので、市場には不等価交換は(市場が機能する限り、定義的には)存在しないような気がします。
市場の機能不全(情報の平等性や参加者の判断の完全性の欠如等)については皆さんご存知と思いますし、むしろそちらの方が問題としては大きいのではないかと。

11. Y.Kakasi 2011年12月26日 00:35:23 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
多くのコメントありがとうございます。
01)さん
>自分の意思で選ぶことはないのです。
→の「自分意思」の定義が難しいです。騙されていても、自分で判断すれば「自分の意思」とせざるを得ないのではないでしょうか。
02)さん
>言語論では答えになっていませんね。
→というのは指摘のとおりで説明不足でした。言語論に限定するのではなく、言語を認識論(言語と思考と知識の関係)として説明する必要がありました。つまり、言語を単に伝達の手段として捉えるのではなく、対象を把握し、自らの判断や行動を方向づけるもの(知識)として捉えることが必要なのです。西洋思想にはこの点で限界があります。

03)さん
>難しくてついて行けない。・・・本とは違う書き方でお願いします。
→というのは、全く頭を悩ます問題です。「交換的正義」とか「分配的正義」などの説明は、投稿の範囲を超えてしまうのです。逆にKakasiの方からお願いとして、難しい言葉はネットで検索すると、案外分かりやすい説明がでてくるものです。視野を広めることにもなりますのでお奨めです。
今後とも、気を付けますが、ネタ元が難しいのでため息がでます。

05)さん
>マルクスを批判するなら、直接にマルクスの文献内容により論を展開できないようでは論じたことにはならないのです。
→検証可能性を大切にしておりますので、Kakasiは大月書店版「マルクス・エンゲルス全集全53巻」を所有しております。しかし、「阿修羅」では、「等価交換による剰余価値の搾取」をどう考えますか、ぐらいでいいのではないでしょうか。お手本を示して頂ければありがたいです。
 共産主義についてはいろんな見解がありますし、Kakasiは共産主義者ではありませんから余り深入りしたくはありません。あしからず。

06)さん〜10)さんとても貴重な指摘なので、よく考えてから次にコメントします。



12. 天の網島 2011年12月26日 01:56:24 : roto1wtJR0WMQ : lbP6pc3mTs

マルクス主義に依拠する限り人間抑圧にならざるをえないとか、マルクスは道徳を論じないとか、やたらと偉そうなことを論者ぶって述べているが、マルクスを読んだうえでの論述とは思えません。資本論は難しいから君も読んでないのでしょう。
マルクスほど道徳的に「人間解放」を思弁しぬいた人はいないでしょう。
大内兵衛のマルクス論を読んでみてください。

資本論の本質は、本来人格と感情をもつ人間の労働力さえ「商品」として取引し、それなくしては成り立たない資本制生産の矛盾を明らかにしたこと、そして資本が膨張するという本質、つまり、利潤=剰余価値獲得のために更なる拡大・膨張を止めがたいこと、したがって全世界にその矛盾と害悪を拡散せずには置かないことを明らかにしたことです。現在のグローバル化は彼の予見したとおりです。
しかも、労働者の人間性を無視してまでも「労働力を安く買いたたく」−それはトヨタやキャノンの非正規労働者への仕打ちをみれば明瞭です。安い労働力を求めて世界中にその矛盾を拡大している現実をみれば納得できることです。

革命後の「一党独裁」も資本家階級サイドからの反革命への対抗策として是としたのです。エンゲルスがいうようにいつの時代も階級闘争の歴史なのです。
その意味では、一国社会主義は岩の上の卵で、周囲の資本主義国家の反革命の脅威にさらされます。ソ連の崩壊も中國の資本主義化も北朝鮮の核化もいわば反革命への体制護持のための一つの必然といえなくもないでしょう。
マルクスの思想があまりにも魅力的だったがゆえに、レーニンも毛沢東も急ぎ過ぎたのです。生産力の未発達な国での共産主義的体制は、それを梃子に他の資本主義国へ波及させようという点に無理があったのです。

グローバル化し、資本主義の矛盾もまた世界的になった今こそ「万国の労働者、団結せよ」の宣言が重要性を増しているといえないでしょうか?
真の人間解放はマルクス主義の真意を読み解き、流布し、労働者が自立して立ち上がる以外にはないでしょう。抑圧的な指導者は自立し、自覚した労働者が引きずりおろせばよいのです。それは資本主義国「日本」にも当てはまることです。
小沢一郎が週刊ポストでいうように「莚旗を押し立てて政府に詰め寄る」そんな国民・労働者の自立が今問われています。

13. Y.Kakasi 2011年12月27日 00:12:38 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs

06)さん Kakasiは多分単純な人間なので、神や救済を信じていません。それらは人間の言葉によって構成されたもので、幸福や救済や悟りは言葉を超えたところ(自己を持続的・永遠的に肯定する感情)にあると考えています。これは検証の難しい主観的なものになるので議論はしません。
>マルクスが今日どういう意味があるか示すべきです。
→については、マルクスの思想が社会主義理論として、今日でも世界の共産主義運動に大きな影響力を与えていることです。しかしまた、限界も明らかになっている(検証の必要はないと思います)ので、その根源を明らかにして人類社会の存続の在り方を考えるのは自然なことだと思います。マルクスを含めた西洋思想の限界が、「人間とは何か」という問に答えられず、混迷しているのも事実でしょう。そして、おそらく人間の本質である「言語」の解明が、現代の思想的・政治的・経済的混迷を打開する契機になるだろうというのがKakasi達の考えです。その混迷の筆頭に来るのが、社会主義・共産主義をめぐるマルクスの思想にあります。その点では「現象学」など全く自然消滅してもおかしくない程度のものです。

>ディアローグから言語接近すべき
→というのは、方法上の違い、見解の相違でしょうか。私たちは「生物学的・生理心理学的方法」をとります。
>相互主観性という視点を欠くと人間について何も語れません。
→相互主観性は、生物学的に見ても重要ですが、人間の主観は社会的なものだけでなく、自然的環境に対しても「対象主観性」として無視できません。というか、相互主観性は、対象主観性の中に含まれているもので、生物学的には、個体維持が種族維持に優先すると同じように、個体の対象主観性が根源的であるという考えです。従って、「言語」も、主体(個体)の認識主観性(何がどうあるか=主体の疑問)を前提にして成立します。だから、モノローグであっても十分満足できるのです。(これは06さんだけに分かって頂けるように書いています。)

07)さんに同意します。
08) 09)さん そんなにキツいことを言わないで・・・・・

10)さん マルクスが生産力第一主義であったのはそのとおりだと思います。でもかつての資本家にそのような義務感があったとは思えませんが・・・・。「修正資本主義」の話は同意です。

>市場が需給均衡で価格決定するならそれは等価交換と呼ばれるような気がします。
→については、10)さんの指摘が、マルクスを含めた経済学の常識です。しかしKakasiは、この「経済学の常識が誤っている」と言っています。10)さんの指摘される「市場の機能不全(情報の平等性や参加者の判断の完全性の欠如等)」すなわち「売り手と買い手の非対称性」は、価値の不等価な移動を含んでいます。「機能不全」といわれる状態は、弱者と強者の交換関係の格差(競争)から生じ、またこの格差が商品市場を活性化させています。だから、交換(市場価格)が成立しても、価値は弱者(貧者・浪費者)から強者(富者・欲張り)に多く流れていくという考え方です。
 投稿でも述べているように、「国際的不等価交換」や「独占価格」が典型例ですが、需給均衡で価格(等置)が成立しても、様々な不等価交換(価値・富の不等な移動)が生じます。Kakasi達の「不等価交換による剰余価値(労働)の搾取」説では、労働者の低賃金・劣悪な労働条件も典型的な不等価交換となります。どのような交換が等価か不等価かの検証・判断の基準は、明確にはなりにくいですが、価値(富・利潤・剰余)がどのように配分されているかを検証すれば、交換過程でどのような不等価交換が行われたかを検証できます。少なくとも莫大な利益を上げている企業が低賃金であったり、同一労働が差別賃金であれば(パートや派遣労働のように)不等価であるのは明白です。是非反論を・・・・

12)さん なかなかの名文で、気持ちもよく分かりますが、投稿の趣旨を理解されていないようです。誤解のないように、毎回のようにマルクスの「等価交換による剰余価値説」の人間抑圧性を説明しています。頭を冷やして『資本論』第二編と第三編を読み直してから反論して下さい。よろしく。


14. 2011年12月27日 00:31:10 : cmiP3p59TI
>、神や救済を信じていません。
それらは人間の言葉によって構成されたもので、もちろんです。信じろといってませんし、私も信仰をもちません。
救済=神という紋切り型を言っているのではありません、もっと広義なものです。
マルクスの「眼差し」はユダヤ的な世界観から要請されてきたもので、切り離すことは不可能でしょう。
不正を糾弾するため、また学問的厳密性を強調するために科学という言葉を使ってはいますが、マルクスの動機にあるのは紛れもない救済への衝動でしょう。

何度も指摘しましたが、政治板でカカシさんの投稿は浮いています


15. 2011年12月28日 21:48:21 : EVskgte9f6

>>13
>投稿でも述べているように、「国際的不等価交換」や「独占価格」が典型例ですが、需給均衡で価格(等置)が成立しても、様々な不等価交換(価値・富の不等な移動)が生じます。Kakasi達の「不等価交換による剰余価値(労働)の搾取」説では、労働者の低賃金・劣悪な労働条件も典型的な不等価交換となります。どのような交換が等価か不等価かの検証・判断の基準は、明確にはなりにくいですが、価値(富・利潤・剰余)がどのように配分されているかを検証すれば、交換過程でどのような不等価交換が行われたかを検証できます。少なくとも莫大な利益を上げている企業が低賃金であったり、同一労働が差別賃金であれば(パートや派遣労働のように)不等価であるのは明白です。是非反論を・・・・

では反論を、と行けば良いのですが、意見を交わしているうちに、Kakasiさんと私は認識が非常に近いような気がしてきて居ます。
ですので、やや瑣末な話にならざるを得ないのですが、そこはご勘弁下さい。

Kakasiさんの言われる「不等価交換」には、幾つかの種類あるような気がします。

1)市場が機能しない状態における搾取
2)市場が機能する状態における搾取
3)その他

1についてはインサイダー取引に代表されるような情報の不平等性などがあります(独占は含めません。それについては後述します)。

2は大雑把に言えば、市場が機能していても、それ以外の部分の影響が大きいものです。例えば天賦の才に恵まれた人が努力に不相応な報酬を受ける、あるいは親族が人脈に恵まれ、その恩恵を受けて多くの顧客を受ける人など。

3については、例えば独占が相当します。
一つのたとえ話として、寿命が100年の電球が出来たとします。それを作ったメーカーは売り上げを伸ばし、100年近い需要が満たされます。他のメーカーは廃業し、100年電球のメーカーだけが生き延び、独占状態になります。
この例で厄介なのは、市場が機能した結果、最終的に機能しなくなることです。市場を機能させようとすると機能しなくなる。たぶん根本的な問題だと思います。

で、ちょっと話は変わるのですが、売り手と買い手の非対称性というのは、市場は織り込み済みでは、という気がしなくもありません。売り手が競い合うことで価格は下落しますし。

Kakasiさんは等価交換という表現の「価」という部分を、一般に言われる「価値」という意味で使われていると思います。以前Kakasiさんは、一般社員の報酬と役員の報酬が、会社への貢献度を超えて異なるのではないか、と仰っていたように思います。そこは私も同意です。そこは非常に納得できるのですが「市場における等価交換」という表現に限っては、それを言い出すと、話が収束しないような気がします。

とりとめが無くなってしまって申し訳ありません。


16. 天の網島 2011年12月29日 02:27:34 : roto1wtJR0WMQ : eyt0rEmdgs

13>kakasi
そして誤解しているつもりはありません。
マルクスの言う商品の価値はすべて「労働の集積」ということ、そして、等価交換の商品市場に「労働力商品のみ不等価交換(価値以下に買うこと)」を一般化し、その労働力が造り出した価値との差額を詐取することを「搾取」というのです。

 更にマルクスは言います。かかる資本制生産を可能にするのは「二重の意味で自由な労働者」の存在が前提となる、と。即ち、誰に縛られることなく契約できる自由、自分の労働力を売る以外に生活できない=一切の生産手段から自由な労働者の存在が。つまり、低賃金でも労働力を売らざるを得ない慢性的な失業は資本制生産にとっては不可欠な必要悪であると。ここに、現代日本においても非正規・低賃金でも労働力を売らざるを得ない基本構造があるのです。それは減反製作など農村を疲弊させ、土地を取り上げ無産大衆を造り出した資本側の政治に由来しています。
マルクスは「ドイツ・イデオロギー」で喝破しています。「その時代の支配的思想は物質的支配階級の思想である」と。それ故に、革命の成果を得るためには第一に政権を奪取しなければならない、というのです。

 マルクスは君が言うように「市場のなかで共産主義が成就できる」などとは考えてもいません。又、資本家と労働者が生産物を分け合うことも想定してはいません。分かりやすく言えば、「会社を労働組合が支配する」と考えてもいいでしょう。資本家も経営者も一労働者になることです。それを拒む資本家は文字通り「敵」なのであって、その点では毛沢東は正しいともいえましょう。そうした共産主義を成就させるためには何よりも労働者が思想的にも物質的にも自立しなければならないのです。資本の側のマスコミに幻惑されることなく。

こういったからと言って、日本共産党を是認するつもりもなければ、中国共産党の資本主義化是とするものではないことを断っておきます。

とまれ、この投稿は、しかも連載投稿は阿修羅にはふさわしくありません。
ブログでも立ち上げて議論されることを勧めます。    いじょう

17. Y.Kakasi 2011年12月29日 23:49:02 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
それぞれ重ねてのコメントありがとうございます。
14)さん
>マルクスの動機にあるのは紛れもない救済への衝動でしょう。
→について「救済への衝動」については今一度よく考えてみます。マルクスの動機について、ユダヤ・キリスト教的な背景があることは確かです。しかし中心になっているのは、『経哲草稿』に見られるような、労働による生産力の発展の成果が、逆に労働者階級を抑圧しているという「自己疎外」状況に対する「義憤」なのではないでしょうか。
 投稿が浮いているのは確かです。でもKakasiはそれほど気にしていません。このような表現の機会を与えてもらえる管理人さんの度量に感謝するばかりです。お気遣いありがとうございます。

15)さん 内容豊かなコメントありがとうございます。
 Kakasiは単純な人間なので、労働者の低賃金が、マルクスの言うように「価値どおり(等価交換)」に決まることはありえない、ということから出発しています。
 労働力商品といっても、労働者は「人間らしい生活のための労働やその対価」を求めているのだから、マルクスの言うように 必要労働分が労賃であり、これは不当とは言えないという論理は許されないと考えています。一般商品が等価であろうが不等価であろうが、互恵的交換が成立すれば問題はないでしょう。しかし、人間労働力の対価が、最低生活を満たしておれば合法的である、というのは人間道徳に反します。
 労働運動は、搾取が隠蔽されているから起こるのではなく、人間労働の評価や労働強制が非人間的だから起こるのです。剰余労働の隠蔽性が暴露されたから労働組合が結成されたり、社会主義や共産主義が生まれたわけではありません。
 ということで、経済学者の想定している「市場における等価交換」は、15)さんの言われるように、話は収束していないのです。

16)さん
>マルクスの言う商品の価値はすべて「労働の集積」ということ、そして、等価交換の商品市場に「労働力商品のみ不等価交換(価値以下に買うこと)」を一般化し、その労働力が造り出した価値との差額を詐取することを「搾取」というのです。
→という誤解を、多くの方がされているのは残念なことです。Kakasiの知人の党員もほとんどそのような考えです。誤解を防ぐために、(その6)に、『資本論』からの引用をしておきました。
→http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/942.html

 なお申し訳ありませんが、
>マルクスは君が言うように「市場のなかで共産主義が成就できる」などとは考えてもいません。
→の「 」のような意味不明の記述はしておりません。空想よりも幻想は、より注意が必要です。幻想的見解は、阿修羅にはふさわしくありません。なおブログ(HP)については、以下を参照して下さい。   いじょう

→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
                       (失礼あればご容赦を)

18. 2011年12月31日 18:49:54 : EVskgte9f6
>>17
>労働力商品といっても、労働者は「人間らしい生活のための労働やその対価」を求めているのだから、マルクスの言うように 必要労働分が労賃であり、これは不当とは言えないという論理は許されないと考えています。一般商品が等価であろうが不等価であろうが、互恵的交換が成立すれば問題はないでしょう。しかし、人間労働力の対価が、最低生活を満たしておれば合法的である、というのは人間道徳に反します。

マルクスが、或る側面から、道徳や感情に否定的に見えるのは、彼なりに色々考えた結果だろうと思います。

不破さんが講義で言われていたように、道徳を根拠とする革命は、致命的な問題があるように思います。
第一に、道徳は定量的でない事です。何をどこまでやればいいのか、それ以前に目的もはっきりしない。その結果、政策が大きく触れ悲劇が生じ、例えばフランス革命のように粛清や王政復古などが起こる。
第二に、道徳は人によって異なるが故に、革命の同士を募るのが困難という事。一方、飢餓などのような物理的・科学的事象は万人共通であるため同士を得やすい。事実、フランス革命は飢餓をきっかけとした(日本の百姓一揆もそうですが)。経済恐慌では飢餓とまでは行かなかったためか、革命には結びつかなかった。

話は変わりますが、マルクスは最低生活を満たせばいい、とは結論付けなかったように思います。記憶が曖昧ですが、時代の平均的な生活水準が目標だったような・・・。なぜ彼がそう判断したかというと、次の時代を築く人間は、その直前の時代の(少なくとも)平均的生活の上に育った人、と思ったからでしょう。この想像は科学の分野に限っては極めて良く当たっていると思います。

そんなこんなでマルクスは科学的態度を取ることに決めたのだと私は思います。


19. Y. Kakasi 2012年3月05日 21:41:28 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
18) EVskgte9f6さん 投稿を見直していてコメントが抜けているのに気づきました。十分考えるべき問題提起に感謝します。さて、

>マルクスが、或る側面から、道徳や感情に否定的に見えるのは、彼なりに色々考えた結果だろうと思います。・・・道徳を根拠とする革命は、致命的な問題があるように思います。・・・・・・そんなこんなでマルクスは科学的態度を取ることに決めたのだと私は思います。
→→について。
 前半はその通り、彼なりに考えたのだと思います。しかし、それはマルクスの生きた19世紀の、しかも西洋的思想(哲学、経済学、社会主義思想)の限界の中での問題解決であって、今日的課題の解決になるどころか、障害になっているというのが、Kakasiたちの見方です。
 「道徳を根拠とする革命」を認めるとして、現実の「社会民主主義」や「福祉国家主義」は、基本的人権や正義や友愛を求める道徳を根拠としていないでしょうか。科学的と言っても、結局、正義や連帯・友愛は道徳的なものであって、マルクス主義のように、要求を阻む階級敵を打倒・支配するための団結も、道徳的意識活動がなければ憎しみと闘争の連鎖から悲惨な結果を生み出すことになるでしょう。
 科学的態度は、道徳的な背景がなければ危険なことは、戦争遂行者やテロリストの理性的合理的な科学的態度を見ればわかります。

 「時代の平均的な生活水準」については、次のとおりです。
 「いわゆる必要なる欲望の範囲は,その充足の仕方と同じく,それ自身歴史的の産物であって,したがって,大部分は一国の文化段階に依存している。なかんずく,また根本的に,自由なる労働者の階級が,いかなる条件の下に,したがって,いかなる価値と生活要求をもって構成されているかということに依存している。したがって,他の商品と反対に,労働力の価値規定は,一の歴史的の,そして道徳的の要素を含んでいる。だが一定の国にとって,一定の時代には必要なる生活手段の平均範囲が与えられている。」 (『資本論』注42の次)

○ 階級社会における労働者の必要なる欲望の範囲は,抑圧され強いられたものであって,「与えられた」ものではありません。「必要なる生活手段の平均範囲」は,人間的な生活をするものとしては,不十分であり抑圧され不正なものでした。それを歴史の必然性によって合理化し,抑圧したものを免罪するべきではありません。人間である労働者にとっての必要な欲望が,同じ人間としての資本家の必要な欲望と異なるという合理的な理由は何もありません。

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■科学的社会主義・日本共産党批判――
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その12)

http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/298.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 31 日 00:58:40: BW32mpuE76J86

 社会の閉塞状況の中で大切なことはよく考えること、よく自分の考えを考え直してみることです。マルクスは今まで正しかったのか、今もこれからも正しいのか。
 マルクス主義は、日本にとても関係が深いのです。今の政治の混迷を考えるのに、根本の問題を考える必要があります。中国や北朝鮮、そして東アジアや世界の人々と、今もこれからも、隣国として人間同胞として、共存共栄を図るために、共通の政治的課題を考え直してみましょう。
 まずは東アジア共同体として平等互恵の関係を築くために、アジア・東洋の心をよりどころとして、今こそ西洋的限界の頂点であるマルクス主義を克服する必要があります。経済優先だけでは限界があると思うからです。
 ロシアを含む欧州では、マルクス主義の限界を現実的に、社会改良的・福祉国家的に乗り越えてきました。しかし、どうも東アジアでは、マルクス主義の理解が不十分なために、また西洋思想の行きづまりの根源が理解されていないために、現実を思想(知識・イデオロギー)に合わせようとする歪んだ姿をとっているようです。
 19世紀欧米の資本主義発展や革命時代の思想を、われわれの宇宙船地球号が成長・発展の限界を自覚した時代にも適用できる、と考えること自体が、時代錯誤的なのです。マルクス主義は、人類の歴史に大きな影響を与え、現在もその惰性は続いています。しかし、東アジア人民は、欧米のの生産・労働・発展・利己主義・自由放任の無責任な楽観主義から決別する時代にきています。

「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す★阿修羅♪」さん こんな場所を提供してくれてありがとう。Kakasiは案山子の鹿驚。カッカしないで考えましょう。

 さて(前置きが長くなってすみません。漢字が多いのもご容赦。次も前フリ)、マルクス主義の重要性を理解するのに、共産党の指導者による分かりやすい公開講義を学ばない手はありません。今回新しく志位委員長の第9回綱領教室「民主主義革命と民主連合政府(1)」(12/20)が公開されました。内容は以下の動画で聴講して下さい。
 引用→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 この講義での「発達した資本主義国での民主主義革命」という発想は、マルクス主義を創造的に発展させるものとして評価できます。志位さんは「世界の運動の『常識』を覆す先駆的路線、日本の半世紀の政治史で生命力が検証された」として自慢しておられます。この考え方で、かつての社会党の「社会主義革命一本槍」が批判され、「国民多数の意志にもとづく段階的発展」が推奨されます。
 この一連の講義は、志位さんの人柄とも合わせて、共産党の活動方針に安心感を与えてくれます。後半のリンカーンとマルクスの話も信頼感を与えるには効果的です。でも現実にこのように楽天的に事態を捉えていいのでしょうか。彼らの構想が単純に、多数派として拡大していくのでしょうか。Kakasiは、マルクス主義の欠陥を放棄し、修復しない限り、空想的(理想的)共産主義・科学的社会主義に未来はないと考えます。

 では何が問題か、ということになるとやはりマルクス主義と民主主義をどう理解し結びつけるかということになります。アメリカ流の自由と強者支配に依存する日米安保条約の廃棄は、世界と東洋平和のための必要条件なので、志位さんの主張のように正しいでしょう。まずは現在の平和憲法を自主・独立・国際主義の方向で実現することが必要です。  
 しかし、マルクス主義的に民主主義を実現することは、理論的に致命的な欠陥があります。それは今まで指摘してきたように、商品市場の契約関係を「等価交換」と見なしてきたことによります。これは「生産手段の社会化」を、民主主義的に目指しても、人間関係の不等価な利害の調整を、マルクス主義は前提としていないからです。そこでは多数決の原理や偽善・欺瞞は通用しますが、公正や正義の原理、共同体的なつながり、社会的自覚や責任という道徳的な判断は排除されます

 綱領では、マルクス主義という言葉はありませんが、「科学的社会主義」がマルクス主義を示していることは明らかです。「科学的」という言葉が科学的でなければ、社会主義・共産主義という言葉は偽善と欺瞞に陥ることになります。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量をもつだけに、民主主義を先導することの危険性が高まります。労働組合の指導者の多くが、既得権に安住しようとするために、共産党のやさしい言葉に危険性を感じるのも、「似非科学」の影を見抜いているからなのです。

 一つの結論としては、マルクス主義的民主主義革命では、今日的な資本主義的課題を解決できないということです。21世紀的な民主主義は、階級的利害や要求実現のみに偏った民主主義ではなく、市場における諸個人、諸階級や経済的諸団体の利害を超え、国際や国家・自治体の福祉と人権(human rights)を実現する民主主義、すなわち市民(市場)社会の不等価性(差別性、搾取性)を見抜き、自己の利害や要求を自制することのできる、自治的、共生的、互助的、道徳的民主主義です

 具体的には、今日でも世界的に認められようとしている社会的責任(SR: Social Responsibility)論を、政治機構、企業、労働組合、政党その他の諸団体・組織・個人で実現すること、すなわち政治・経済・文化の各領域で「道徳的社会主義」を確立していくことです。
 これは資本主義社会においては、公正や正義に反する強者支配の強権的・詐欺的営利活動を否定するものになります。正当な資本投資による企業経営は必要ですが、社会的責任を放棄した利己的・利益独占的経営は、排除されるという社会貢献的・良識的な市場の交換契約を一般化するということです。今日の社会においては、「国際標準化機構/社会的責任作業部会(ISO/SR)」のISO2600が示すような基準を一例として、さらに社会正義や公正が実現するような哲学と道徳を加え強化した、「新たな社会契約」を必要としています。

 ISO/SRは、現状維持的基準(現行法の尊重、国内委員参照)であり、国民の主体的な参加による民主主義や社会正義の拡充には不十分です。しかし、社会的責任(参加)の意識が民主的に定着できれば、資本主義の腐敗(利己・貪欲、低俗メディア)や堕落した政治(現在の日本の政治!)の変革に大きな役割を果たすでしょう。要求依存的(おまかせ)民主主義にならないために、社会的責任や正義・公正を実現する社会契約の新しい考え方が必要なのです。以下参考までに・・・・。
 ISO/SR国内委員会→http://iso26000.jsa.or.jp/contents/
 ISO/SR宣伝ビデオ→ http://www.youtube.com/watch?v=D4I_Ocie19Q&annotation_id=annotation_862854&f
 まだ続きます。次回は「生産手段の社会化と社会契約」について考えてみます。最後までお読みいたきありがとうございました。前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。よいお年を。


コメント
01. 2011年12月31日 02:20:21 : 5slFU5sHO3

>科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。
批判しなくてもいいよ、
いつ暴発するかもしれないKIチガイ国家を批判してくれ!
侵略強盗殺人の共犯者に成り下がった若者が何食わぬ顔で日常に回帰しているのである。
がいま我われの町のどこかを平然と歩いている。
しかも、
いい年をした大人が愛子「様」などと只のコドモに昼間から異様な敬語を使っている。
http://esashib.web.infoseek.co.jp/kenpo05.htm
現に日本の三井、三菱、川崎重工などというのは、もう自動車とかの平和生産から、戦車などの軍需生産に移らぎるをえない。
そういう状態にまでなっている。
この八月に日産自動車がアメリカの兵器産業のマーチン社と「軍事提携」したのなんか、その露骨な例だ。いよいよ自動車会社が、ミサイルをつくるのだ。
『日刊ゲンダイ』に五木寛之君のエッセイが毎日のっているが、その中でも、そういう事態が指摘されているくらいだ。
利潤生産というのは、永遠に平和生産をしていけるというものではないのだ。
現に平和生産では、もう物が売れなくなっている。世界的にそうなっている。それでは来年になれば、購買カが上がるかというと、見通しはまったくない。
それで現に軍需生産が、全世界的に行なわれている。
それにともなって、君の心も「臨戦体制」 に移らされようとしている。

今までの、欲望でしばった空っぽな心というもので、もうじゅうぶんその下地ができているからだ。なんとかいい品物を手に入れる、いいものを食う、いい生活をする、そうした闘争心がこんどは国のために戦えというふうに、いっせいに方向を変えられる。かんたんに変えられてしまう。これがファシズムである。


02. 2011年12月31日 05:37:59 : qoVHGfd6sY
基本的にキリスト教にしろ仏教にしろ、創始者は自由平等で貧者の味方だった、既存宗教が既得権益化し官僚主義化してことに、批判したことの具現化である。その点でマルクス主義もなんら宗教と変わらない。
特に欧米においてはキリストの呪縛による、開放が大きなテーマだった。
知識階層の多いヨーロッパでは、文字通りの共産の可能性を夢みたかもしれないが、ロシアにおける識字率の低さは、レーニンにエリートによる集団独裁の選択しかなかった。批判恐れるずに喩えるなら、ヨーロッパでのマルクス主義は上座部仏教で、ロシアからアジアアフリカへの伝播は
大乗仏教となったマルクス主義で、僧侶=共産党員による、大衆への共産主義信仰の布教と檀家管理なのだ。

 弁証法的価値観では勝ち残ったのは正義だ、共産党は勝ち残った正義だから間違わない。だかられを習得した共産党員は間違わない。だから共産党員が指導する大衆は間違わない。奸や賤獄にもこの考えが染み付いている。識字率があがり、情報を鵜呑みしない
成熟した大衆が多くなった日本で、自分の価値観で善導を押し付ける。よらしむべし、しらしむなかれで、権力を握った彼らは、共産主義国家を目指したのだ。正しい自分達が運営すれば間違わない。結局ミニ独裁体制でのグルメ三昧、官僚依存によるバカ殿やりたい放題、ビルマや北朝鮮とかわらない。民主主義を方便としてしか考えていない。
なにせ勝ったものが正義である以上、ペテン師や詐欺師と言われて、彼らの頭の中には勝って、王様になれる権力が欲しいだけなのだ。


03. Y. Kakasi 2011年12月31日 18:15:05 : BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん コメントありがとうございます。
 Kakasiの想定外の名文に驚いています。言葉と感情に関心を持っているものとしても考えさせられます。現状認識が共有できそうなのですが、言葉が線香花火のように暴発して飛び散ってしまい、理解が困難になる感じがします。眩暈がしそうというのでしょうか・・・・。
 是非不破さんや志位さんの講義を聴講して感想をいただきたいと思います。Kakasiは、マルクス主義批判をしていますが、科学的に言葉を使うことが大切だと思っています。01)さんが、もしこの国家の住人なら、自分が××××の一員になってしまわないか心配です。
 また「いい生活をする」というのは、それほど「闘争心」を必要としないのでは・・・。日本文化の心性の根本は「和」にあります。情報が豊かな時代に、戦前のような言論統制は不可能です。「阿修羅」が健在である限りファシズムにはなりません。せいぜいハシズムかネトウヨで終わるでしょう。しかし、「和」を嫌う人がいるのも事実ですが・・・・。
 なお願わくば、「等価交換」についてのコメントをいただきたいです。
02)さんコメントありがとうございます。
 ご高説を拝読しましたが、理解できそうで、意味不明のところがあります。
 何事も対象の判断は、対象の正しい認識が必要です。
 その点マルクス主義をどのように理解しておられるのでしょうか。とくに「科学」とされる二つの理論「剰余価値説」と「唯物史観」についての見解を、是非聞かせてもらいたいものです。
>彼らの頭の中には勝って、王様になれる権力が欲しいだけなのだ
→というのは、「彼ら」の頭の中は、確たる哲学はありませんが、それなりの政治的構想はあるのでは・・・・。ただ正義や公正などの道徳観念は皆無でしょう。権力亡者的なところは巡礼しても払拭できないようです。人間の自己中心性や煩悩はなかなか克服できないし、幼少時の人格・性格も変わらないようです。


04. 2012年1月01日 04:03:37 : qoVHGfd6sY
2です
 マルクス主義について特に学者ではないので、Kakasiさんのように特に勉強してません。その上であくまでも見解としてお答えします「剰余価値については生産した物に、必ず需要もしくは売れるという前提の、特殊な場合においてのみ成り立つ理屈と思います。その上で資本家と労働者の間の、分配に関する理屈だと理解してます。

 唯物論については、進化論を否定する。万物は全て神が創ったとするキリスト教に対する、無神論を肯定するための理屈だと思います。ただ西欧的考えの根底にある、世の中は正義と悪に二分できると、決め付けているように理解しています。その中で正義は勝つのだから、勝ったものが正義なのでしょう

 唯物論での危惧は、知らない事、わからない事はないという、全てを強引でも説明してしまう、この点にあるように思います。マルクス主義に首肯できないのは、結局共産党政権が、一番その国の国民を、結果的に弾圧しおている現実があるからです。寡聞にして、君主製でよい国は重い浮かびますが、共産主義国家で、うらやましい国は浮かびません


05. Y.Kakasi 2012年1月01日 23:50:29 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
02)04)さん 重ねてのコメントありがとうございます。
>唯物論での危惧は 
知らない事、わからない事はないという
全てを強引でも説明してしまう
この点にあるように思います
○→という02)04)さんの危惧は、不破さんが講義で引用している『賃金、価格、利潤』の内容でよく分かります。
講義→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
要綱→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/data/02_01.pdf
しかし不破さんの講義では、マルクスの真意は分かりません。そこで『賃金、価格、利潤』第7章労働力の引用と批判を加えておきます。

 「では、労働力の価値とはなにか?
 ほかのあらゆる商品の価値と同じく、労働力の価値も、それを生産するのに必要な労働量によって決定される。人間の労働力は、彼の生きている個体のなかだけに存在する。人間が成長し生命をつなぐためには、一定量の生活必需品を消費しなければならない。・・・・・・
 とはいえ、この機会をとらえて言っておかなければならないことがある。それは、労働力の質が違えば労働力の生産費も違うのと同じように、労働力の価値も、その労働力の使用される事業が違えば違ってこざるをえない、ということである。したがって賃金の平等という要求は、まちがった考えをもとにしているもので、けっしてみたされるはずのない気ちがいじみた望みなのである。それは、前提を認めながら結論を避けようとするあのうすっぺらなにせ過激論の所産である。
 賃金制度を基礎とするかぎり、労働力の価値もほかのあらゆる商品の価値と同じようにして決められるのであって、種類の違う労働力は、その価値も違うから、つまり、それらを生産するのに必要な労働量も違うから、それらの労働力は労働市場で別々の価格をつけられるほかはない。賃金制度を基礎としながら、平等な報酬、それどころか公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。諸君がなにを正当ないし公正と考えようと、問題外である。一定の生産制度のもとではなにが必然で不可避なのかが、問題なのである。」(全集16 p130改行は引用者)

○→はじめの段落は、労働価値説にもとづく等価交換について説明しています。労働力の価値すなわち労働賃金(支払労働、必要労働分)は、「一定量の生活必需品」を消費する分に限られるというものです。剰余労働は、それ以外の不払労働分で、一つの想定としては労働賃金と同程度分が、資本家の搾取する利潤となります。
 マルクスにあっては、労働力の価値(われわれにとっては「人間の価値」)は、単に「生きているのに必要な労働量によって決定される」のであり、子供の教育費等を含む「生活必需品」の価格にすぎないのです。また、「労働力の質が違えば労働力の生産費も違う」から「賃金の平等という要求」はまちがっており、「けっしてみたされるはずのない気ちがいじみた望み」なのです。でも平等という「要求や望み」が、なぜ気違いじみているのでしょうか。合理的(弁証法的)な人間にとってはそのように判断できるかも知れませんが、「価値の違い」や「労働量の違い」をどのように計量するのでしょうか。


 さらに引用文の「賃金制度を基礎とするかぎり」以下の主張は、科学的社会主義の人間抑圧的、要求抑圧的傾向を端的に示しています。結局、マルクスによれば、「なにが必然で不可避なのか」といえば、唯物史観にもとづく階級闘争の「必然性と不可避性」を知っている前衛政党の指導に従えばよいということになります。生活向上の労働組合的要求は、マルクスとしては、階級闘争の歴史の必然性や革命の不可避性を知らない次元の低い愚かなものなのです。

 不破さんの話は分かりやすいですが、とても発展的・創造的なので誤魔化されないようにして下さい。

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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(
その13

http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/563.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 1 月 09 日 23:58:15: BW32mpuE76J86

(前ふり)この投稿には反発される方が多いのですが、Kakasiは「案山子」「鹿驚」なので目障りでしょうが我慢してください。
 投稿のきっかけは、この「阿修羅」掲示板に、日本共産党の機関誌「赤旗」の記事が目立ってきたのでそのHPを見たことです(検察批判ではなく小沢批判をしている!)。HP中に「綱領・古典教室」があり、今でもマルクスの古典が、共産党の理論的背景になっていたことに驚きました。日本共産党はすでにマルクス主義を卒業していると思っていたからです。これは党員にとっても日本の国民にとっても不幸なことです。
 共産主義という理想をめざす政党があるのは問題ないのですが、その理念がマルクス主義に支配されているのは時代錯誤であり、ましてこれを科学的真理とみなすことは、人類にとっては知的怠慢に他ならないと思うのです。そればかりか21世紀の時代に19世紀の自由競争万能の市場原理主義(マルクス主義も結論は真逆ですが、自然経済法則優先の思想です)がまかり通ることは、地球上の生命と人類の持続的生存を脅かすことになると考えるからです。

(本論)前回「生産手段の社会化」だけで社会主義を論じることはできない、ということを述べました。マルクス主義は、生産手段の社会化が生産過程の社会的管理につながり、社会主義の実現の基礎が作られると考えています。しかし、以前にも指摘しているように、Kakasiたちの考えである剰余価値が交換過程(労働力商品の売買)から生じるのであれば、社会化にも契約関係の透明化が必要になります。社会主義社会は生産手段の社会化だけでなく、社会主義的契約が必要になるのです。そうでなければ理論的に考えて、管理・経営する党組織(前衛・官僚)の労働者支配が生じてくるのです。

 このような見方は、資本主義市場の捉え方とも関わってきます。というのも、マルクスは市場の商品交換(等置)を「等価交換」と見なしましたが、これでは商品交換の多様性の問題点(非対称性=不等価性=格差性)を見逃すことになります。利潤を追求する資本主義市場では、商品交換の非対称性を利用することによって、他人の所有する価値(商品=富)からより多くの価値を取り出し、自己の財産(価値)を増大させようとします。だから、表面的には「等置(交換契約)」によって相互利益(互酬性、win win)が成立しているように見えても、労働者のように弱い立場の商品所有者は、交渉(取引契約)によっては、あからさまな損失(loss)を受けていることもあるのです。

 マルクスを含む経済学者たちが、資本主義市場の不等価性(価値の不等移動性)を見逃すことは、同時に社会主義市場においても交換価値の不等価性を見逃すことになります。すなわち商品交換市場では、表面的・形式的に自由で平等とされる商品交換の等価性(合意・納得・互酬性)が、実質的には不平等・不公正な社会契約の可能性(現実性)になるのです。つまり、過剰な利益(損失・格差)の生じるようなリスクのある取引契約(特に労働力商品や金融商品、独占商品、貿易商品等)が、自己労働(犠牲)によるのではなく、他者を犠牲にして欺瞞的に成立できることが、利己的利潤追求を目的とする資本主義社会の活力源になっているのです。

 だから、戦前のファシズムにおいて、資本主義と国家社会(全体)主義が反撥しながらも、しばしば結合して海外侵略や諸個人の自由を奪い抑圧することになったのは、商品交換という契約関係を、国家による形式的な自由平等で捉え、実質的には欺瞞的全体主義によって運用しているためなのです(独占資本主義)。全体主義は、今日のような大衆民主主義においても、欲望を拡大し営利を追求しようとするメディアの大衆支配という姿をとって現実のものとなるのです。

 しかし、民主国家のあるべき「社会契約」は、単に人権保障を基本にした(分配的正義の実現を含む)国家との社会契約だけではなく、個人と個人の公正公平で互助的な交換関係――「実質的な等価関係」、利己的かつ利他的な「交換的正義」を市場的に実現する関係――を必要としているのです。なぜなら、今までの資本主義的社会契約は、人権の保障、権利の保護を国家に要求することが中心の社会契約でしたが、これからの社会契約は、国家や社会を構成し参加するものとしての「社会的責任」が、すべての構成員に求められるべきと考えるからです

 また社会契約の基本にある「財産権」は、社会的・法的に守られてこそ、その保全と拡大を保障されるのですが、それが一部の人間にのみ集中的に利益をもたらしてしまうということが問題なのです。私有財産は、国家・社会によって保全されているのだから、それ(私有財産の保全)に対して「社会的対価が払われてこそ社会的責任が果たされる」はずです。だから近代国家においては、その収入(所得・財産)に応じた社会的対価が税金によって徴収され、社会的責任が果たされているのです。

 しかし、「交換的正義(不等価交換の是正)」を強調する我々の立場からは、商品交換(市場)を通じて得られる資本家優先の所得・財産について、不等価性を是正する道徳的要請(公正・公平性)を、社会的責任(交換的正義)に加えることが必要と考えます。具体的には、すべての個人の所得・財産の透明化と格差の是正を、課税を通じた再分配だけでなく、金銭と商品交換のあらゆる場面で行うことです。そのような動きは、前回紹介したように「国際標準化機構/社会的責任作業部会(ISO/SR)」のISO2600等で始められています。
  
 今まで経済学において、「分配的正義」はアリストテレス以来、盛んに議論され、社会民主主義的福祉国家政策として実現されてきました。しかし、合意にもとづく売買契約を前提とする「交換的正義」については、十分配慮されてきませんでした。合法的な契約は、明白な詐欺でない限り正義であり、当事者の貧富の差や力関係、有利不利の売買条件は、偶然や交渉能力の違いであって、不正ではない(等価交換)と考えられてきたのです。
  
 今回の結論としては、@社会主義は「生産手段の社会化(共有)」という「等価交換(労働価値説)」を前提とした「分配的正義」の実現だけでは不可能であり、A分配的正義だけでなく、市場経済の永遠性を前提に、不等価な交換関係を透明化し、公正・公平な「交換的正義」を不断に追求する「社会的責任」が要請される、ということになります。この考えは、単にマルクス主義的社会主義の批判だけでなく、今日の厚生経済学や福祉国家理論の限界を克服するためにも有効です。

 今回理屈に片寄りました。次回は政治板にふさわしく、志位委員長の「綱領教室」第10回(1/10予定)を、表題のように述べる予定です。


01. 2012年1月10日 00:37:31 : GWQq0ADEc2

いや、難しく考えなくていいんでね?
人間イデオロギーに支配されると
それがどんな理想から生まれた物でも
心が歪みます
何かに心が支配された人間は他者の心も支配しようとしてしまう

ま、そんだけの話です


02. 2012年1月10日 00:57:30 : E8oRzIz44U
マルクス主義は結局プロフェッショナルな(党)官僚に依存することを否定できない限り、限界は見えていたし、その意味で日本の現状と大差ない。

03. Y. Kakasi 2012年1月10日 21:44:53 : BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん お読みいただきありがとさんです。
 おっしゃることは、まったくそのとおりです。
世の中をそのように達観できるのは、うらやましい限りです。
 ところが残念なことに、
「人間の本質(人間とは何か)」がわからないために、
問題の解決をわざと難しくしようとする人達がいて、
またそれで飯を食っているという悲しい現実があるのです。
今日の宗教や哲学、政治学や経済学、
アカデミックな学問や権威のほとんどが、
そのような部類に入ります。

 ところで
>人間イデオロギーに支配されると・・・・・
→とありますが、01)さんもふくめて、イデオロギーに支配されない人間はいないのです。問題は、「どんなイデオロギーに支配されるか」だと思います。01)さんのように、「心の歪まないイデオロギー」が一番です。
それだけのことですが、それが難しいのです。

 さらに残念なことに、世の中には悪意や強欲が満ちています。
 心の歪みがどこからやってくるのか、
 歪まない心をいつまでもと願わずにはおられません。


04. 一隅より 2012年1月10日 22:17:25 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
Kakasiさん
今回のは平易に説いてあって、私にもすこし分かりやすかったです。(このように分かりやすく、引き続きお願いします。)

Kakasiさんの問題意識も、
>社会化にも契約関係の透明化が必要・・・、そうでなければ・・・党組織(前衛・官僚)の労働者支配が生じてくる。
のあたりにあるのか、と思います。

しかしそうだとすると、その解決策として、
>不等価性を是正する道徳的要請(公正・公平性)を・・・加える、
>交換関係を透明化し、公正・公平な・・・「社会的責任」が要請される、
というのは、どうなのでしょうか。
いわば、「透明化され公正公平な商品交換経済より成り立つ社会主義社会」とでもいうものでしょうか。
それではあまりにも人々の善意、モラルに頼ることになりませんか。

 まず第一に、そのようなモラルはどこから得られるのですか。アプリオリに与えられているものなのでしょうか。
つぎに、公正・公平をよしとするモラルは、競争と優勝劣敗をよしとする考え方よりも、なぜ優れたものといえるのでしょう。
 価値的な優劣はないのではないでしょうか。
 第三に、(かりに我々のあいだにそのようなモラルが得られた〔共有できた〕としても)、競争の中で利を得ることをよしとする勢力にたいして、どうのようにしてそれを(そのシステムを・モラルを)守るのでしょうか。
 けっきょく経済外原理で(強力=体制的暴力によって)、でしょうか。

◇公正・公平の概念は、価値相対主義の前には、やや力弱くはありませんか。
そのような(基盤の弱い)善意、道徳心によらなくても、経済原理そのものから資本主義・競争原理社会の行き詰まりの可能性をさぐるほうが確実ではないでしょうか。
マルクスは、それをしようとしたのではないでしょうか。


05. Y. Kakasi 2012年1月11日 00:21:37 : BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs

04. 一隅より)さん、本質を突いた有益な質問・意見をありがとうございます。
直ちに返答できる問題ではないので、時間の猶予をおねがいします。
おそらく04)さんの問題意識に答えられたら、今日の閉塞状況はかなり改善するでしょう。Kakasiにはその力はありませんが、よく考えて後日コメントします。あしからず、ご容赦を・・・。


06. Y. Kakasi 2012年1月12日 00:17:08 : BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
一隅より)さん、コメントが遅れて申し訳ありません。
 確実に理解してもらうにはあまりに根源的な問いなので、「人間存在研究」のHPの全体を見ていただくとありがたいです。しかしそれでも疑問の背景がややわかりにくいので、本当に納得してもらうほど十分な答えにならないと思います。
 まずマルクスを擁護しようとされているようですが、どうでしょうか。多少とも理解していただくには、マルクス主義の二つの柱である、「等価交換による剰余価値説」と「唯物史観」が明確に誤りであること、そればかりか人間理解の欠陥による抑圧の理論であることを理解していただく必要があります。

 具体的には今まで説明してきたのですが、前者については「商品交換は異なる価値の移動であること(不等価交換)」、後者については「人間の意識は、社会的に規定されると同時に、人間の主体的判断(意識・知識・理論)が社会を変えるものであること」ということになります(後者は、「フォイエルバッハに関するテーゼ」の限界を前提にしています)。

 その上で、モラルがどこまで社会的矛盾や悪徳(搾取、格差、恐慌、失業、差別、欺瞞、犯罪、暴力、抑圧等の人権侵害)の解消や解決に実効性があるのかということになります。
 まず「生産手段の社会化」によって商品経済を消滅させる(空想的共産主義)なら別です。しかし商品交換の消滅(配給計画経済の永続)はあり得ないので、搾取や格差を解消するために、交換の不等価性を透明化し公正公平な交換的正義を実現します。今日の修正資本主義のもとで、それらのことはある程度(分配的正義として)実現されていますが、その背景は「基本的人権の保障」というモラル意識と民主主義による政治的(法的)強制です。福祉国家の成立は、資本主義の経済原理(競争)にもとづいているという考えもありますが、Kakasiは「モラルの力」が民主主義を成長させたと考えています。

 利己心(競争)による社会調和(新自由主義)ないし社会破綻(マルクス主義)の理論では、《商品交換を通じて》社会関係に起こる矛盾(搾取・格差・失業等)についての問題意識(交換の不等価生)がなく、せいぜいケインズ的な調整策かマルクス的な要求実現・階級闘争をおこなうしか対応策がありません。福祉国家でさえ富の分配政策なので、不透明で(!)高率の消費税に頼らざるを得なくなります。

 福祉国家の実現に見られるように、モラルというのは「(基盤の弱い)善意、道徳心」という心の在り方ではなくて、具体的な知識・論理・人間の正義(人権)にもとづくとても力強いものなのです。ところが新自由主義やマルクス主義は、このように人間の行動・欲求・感情を力強く動かす道徳原理を、「自生的秩序」や「需給の均衡」、「階級闘争」や「諸要求実現」という言葉でごまかしてきました。その背景になったのが、欧米の経済学の根本にある「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」なのです。

 この
等価交換の法則の誤りを解明して交換的正義のモラル体系(道徳的社会主義=新社会契約)を構築すれば、「経済原理」に由来する資本主義の矛盾を、自然に、又は積極的に解消・解決していけるというのがKakasiたちの考えです。前回指摘したような「社会的責任SR」や「成長の限界」「環境問題への対応」という国際的な大きな動きと共に、世界はすでにこのような方向に向かって進んでいるのです。

 それをさらに前進させるためには、政治・経済・哲学などの西洋的常識を打破する必要があります。その第一歩とするために、人間存在研究所の主筆大江による「言語論の革新と西洋思想批判」が必要だったのです。以下に紹介していますので是非ご覧ください。(宣伝ですがお許しを)
  →http://www.eonet.ne.jp/~human-being/index.html


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