科学的社会主義・日本共産党批判        by Y.Kakasi
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する
<14~16>
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・コメント全文は、下記URLかまたは「科学的社会主義・日本共産党批判」でネット検索してください

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科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その14)

http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 1 月 23 日 22:56:03: BW32mpuE76J86

 下の曲を聴きながら読んでいただくと元気が出てきます。「★阿修羅♪」の賑やかな議論に圧倒されないために、音楽を聴きながら書いています。今日の混迷した時代に、「地上の星」の一つになれるよう表題の批判を続けます。
  http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

 前回「一隅より」さんからとても貴重な質問・意見をいただきました。それは、Kakasiたちの提案する「道徳的社会主義」を「透明化され公正公平な商品交換経済より成り立つ社会主義社会」とまとめて、そのような社会がモラルとして成立可能なのか、むしろマルクス主義的に経済原理をはたらかせてその行き詰まりから社会主義を実現するほうが現実的ではないかという提案(反論?)でした。

 Kakasiたちの道徳的社会主義(社会参加)の考えは、次の原則に要約できます
① 市場経済と社会主義、自由と平等は、正義と道徳(万民の幸福)による調整によって両立する。
② 社会主義は社会的利潤の追求をめざし道徳的・建設的であるが、資本主義は個人的利潤の追求をめざすことによって反道徳的・破壊的である。
③ 修正資本主義では、民主主義の成熟とともに、労働者保護政策、財政金融政策、福祉(社会保障)政策等の分配的社会主義化が進んでいる。
④ 道徳的社会主義は、③の分配的正義だけでなく、市場の透明化と公正公平、企業倫理、社会的責任、社会連帯等の交換的正義(win win関係)を推進することによって安定的・持続的成長をめざす。
⑤ 道徳的社会主義において、会社法人(企業の資産・組織・活動)は、民主的経営・管理、と交換・分配的正義(公共の福祉)を前提として、経済社会の中心的存在となる。
⑥ 道徳的社会主義では、不正不当な個人的蓄財や個人的独占、社会的格差を助長する反社会的資産は制限される。しかし「生産手段の社会化(私有財産の廃止・公的所有)」は、社会主義の絶対的前提とはならない。
⑦ 個人の労働によって得られた、生涯生活を支えるための蓄財は奨励される。私有財産は、強度の累進相続税によって社会に還元される。

    [編集後注:⑦ は、(その16―27)で追加したものです]

 以上は厳密な要約ではありませんが、個人の自由と自律と連帯にもとづく「交換的(市場的)正義」を重視する新しい社会主義の理念です。新しいと言っても、それほど奇抜なものではなく、今までの資本主義や社会主義の論議をふまえた、常識(良識)の範囲内の理論(結論)です。「道徳」という概念には、多くの人に違和感があると思われますが、その違和感は、地球環境の有限性と経済成長の限界という目前の現実を考えれば、氷解するものです。人間の意識(知識・理念・イデオロギー)は、人間の社会的存在(在り方・生き方)を規定するものであり、地球の限界をふまえて人間と社会の発展を制御し、持続的な平和的生存を可能にするのは道徳(倫理)的意識なのです。 

 さて本題である日本共産党志位委員長の「綱領教室第10回」についての批判です。演題は前回に続き「民主主義革命と民主連合政府(2)」ですが、まずは志位さんの巧みな講義を是非視聴していただきたいです。  http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 まず特定の価値観を絶対的なものとして押しつけないという観点から、「イスラムなど異なる文明間の対話と共存を通じ、共通の価値観を見いだし相互尊重をはかる」ということがめざされています。ここで、異なる文明の立場を相互に理解し尊重することや、国連憲章にあるようなより普遍的な価値観を追求するというのは問題ないようにみえます。しかし、「共通の価値観をめざす」こと、すなわち「国連憲章にあるような普遍的価値観」を追求することに関しては、普遍性の西洋的限界を問題にしなければなりません。

 つまり、国連は、賞味期限を過ぎている、もはや時代錯誤になりつつあるということです。それは、①第二次世界大戦の戦勝国中心の組織であること、②「世界人権宣言」における人権観の限界、③世界連邦的権力(世界政府)樹立への展望がないことの三つの点で、限界があるということです。世界連邦は、欧州連合や東アジア共同体等地域連合のまとまりさえ不十分なのに、夢のまた夢ではないかと思われるかもしれません。
 しかし、マルクス主義を標榜する共産党である限り、「万国のプロレタリアは団結せよ!」という国際主義の理念は必須のものです。単に綱領にある「社会制度の異なる諸国の平和共存および異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立」と「共通の価値観の追求」というだけでは、未来の展望は開けないでしょう。もちろん「万国のプロレタリアは団結せよ」というスローガンを共通の価値観とすれば、偏狭で時代錯誤な価値観とならざるを得ないでしょう。

 ②の「世界人権宣言」については「生命言語説」(ネット検索可)からの説明が必要です。つまり第1条で「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とありますが、このような単純な人権では、有限で複雑多様な人類社会の共通の価値観にするのは困難です。(説明はコメント欄へ)

 また国際的な統治機構(世界政府)の構想の欠如は、国際的国家資本主義競争(国益競争)の永続を意味し、生産手段の社会化など望むべくもありません。成長の限界に直面している「宇宙船地球号」の内部での国際競争では、一国社会主義は、独裁的支配体制か地球号内での国家的対立や社会的混乱以外ありません。

 もともとマルクス主義では、労働者階級の空想的団結が優先されて、国家間や労働者内部での利害対立は十分想定されていませんでした。帝国主義戦争や民族対立が現実のものになっても、レーニンなどは世界革命を期待し続けたのです。その根源は、マルクスが共同体・国家間の商業取引を含む商品交換(市場経済)の不等価性(非対称性)を十分吟味してこなかったこと、および意識形態(言葉、知識、観念、理論、法等)の重要性を認識できなかったことによります。

 次に綱領「憲法と民主主義」については有益な話です。とくに憲法制定時の内閣発行『新憲法の解説』からの引用は示唆に富んでいます。文明は戦争によって成立したのであり、「文明が戦争を抹殺」するにはどうすればいいのか。文明と戦争は対立概念ではないし、憲法9条の「戦争放棄」は、戦争抹殺の方法を示していません。綱領では日本の平和が言及されていますが、戦争抹殺と世界平和の方法については、志位さんも述べていません。

 私見では、戦争の抹殺・抑止には、アメリカやロシアや中国の軍をコントロールできる世界政府軍が必要と考えます。戦争や私有制の根源は、生命や人間の存在そのものにもあるので、戦争抹殺のような単純な発想よりも戦争抑止、しかも今日のような均衡抑止よりも「世界政府による絶対抑止」が必要です。憲法9条は、違憲性のある自衛隊を、国連軍の一員として絶対抑止の一翼を担い、日本と世界の平和に寄与させる役割があります。もっともその前に、マルクス主義(共産主義ではない)の誤りが世界的常識となる必要がありますが・・・・。

 天皇制については、民主主義や平等と両立しないが、将来情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものとされています。明治憲法の絶対主義天皇制は批判できても、象徴天皇制そのものを批判するのは難しいようです。なぜなら象徴天皇制を批判するには、日本人の依存(甘え)的国民性そのものを批判する必要があるし、それをすれば共産党の指導(前衛)性そのものが問われることになるからです。結局世論を考慮しての問題の先送りにならざるをえないのでしょう。まずは平和憲法体制の維持、加憲や創憲も認めないという結論になります。天皇制についての私見は、哲学の成熟しなかった日本に、哲学が確立すれば自然に解決する問題だということになります。

 次に「経済的民主主義」についてです。志位さんの結論は、綱領を読めば解説はいらない、社会改良主義そのものです。すなわち、「ルールなき資本主義」の現状を打破し、労働者の長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる、というものです。「ルールなき」というのは「新自由主義」「市場万能主義」を意味するのでしょうか、実際には、強者優先・競争優先のルールがあるのだから、説得力はないし科学的とは言えないでしょう。
 マルクスも日本共産党も、ずっと説明を続けているように、「利潤の本質」を捉え損なっているのです。

 問題はむしろ次回(1月24日)の講義になるのでしょうか、統一戦線や民主連合政府という時代錯誤な提案についてです。大企業の労働組合や小選挙区制が、共産党にとってどうにかならない限り未来は厳しいものです。次回の講義で何らかの展望が開けるのでしょうか。

前回までは<BW32mpuE76J86> または表題を検索してください。

「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪」
 

コメント
01. Y. Kakasi 2012年1月23日 23:00:10 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
上記投稿の補足です。
 世界人権宣言 第1条は、西洋近代における理性主義ヒューマニズムの限界を示しています。というのも、人間は欲望と感情の動物であり、理性や良心は教育と環境の所産だということ、その自覚から理性も良心も前提でなく目標であること、そして、その自覚によって始めて人間の権利や正義が成立するものだからです。自由、平等、理性、良心等は、人間社会に求めるべき理想であって、その理想であるという自覚から人類の共通の結合が始まるのです。

 人間は本来自然でも社会でも自由ではありません。人間を自由にするのは、自由でない人間を自己認識するところから始まりました。単なる欲望充足や反抗・逃避は自由ではありません。偏見や差別や抑圧を、体験し自覚したところから自由が獲得されてきたのです。だからフランス人権宣言が「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある」というのも、自由の限界を十分捉えていない点で正しくありません。人生の有限性と人間関係の困難性(利己性と利他性)、そして現実の偏見や差別・抑圧を自覚した上で、永続的な自由や平等が追求されるのです。

 だから、第1条の前半と「人間は、理性と良心とを授けられており」というのは人間に対する誤った命題(前提)であり、「互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」だけが努力目標として正しいのです。人間の本性を無視した自由や平等は、人間を利己心と欲望肥大に導き、人間社会に不信から生じる無益な競争と混乱、偽善と欺瞞をもたらします。


02. 天の網島 2012年1月23日 23:53:03 : roto1wtJR0WMQ : UDWhozKeFI
この投稿は「阿修羅」(政治)には似つかわしくないから、中止された方がいい。
そう提言したのですが、まだ続けるのですか?
いい加減にして、専用ブログでも立ち上げて、そこで喚いてください。
今回の「道徳的社会主義」①~⑥の概説で、その底の浅さと非科学性がはっきりしました。まさしく空想的社会主義の域を出ていません。今や、資本主義は「生産と交換」の域から「貨幣と信用」の肥大した架空化というバカげた怪物に変化し、しかも、全世界的にその矛盾を散播し始めています。
一国社会主義の限界は、資本の本性の攻撃の前に無力であることも明らかです。

処方箋はマルクスに回帰し、「万国の労働者の団結」による「同時的革命」、即ち
政権奪取ーマスコミ制圧を先ずやらなければならないのです。

マルクス主義は「資本論」だけではなく、「ドイツイデオロギー」の階級闘争理論を忘れてはなりません。


03. クロイツブルガー 2012年1月24日 01:46:45 : 1nA7klhqkLJtg : qYLRgkj6S
E

私も何度も板違いでは?と指摘し、以前
ルロワグーランやら認知言語論のコメントをしていました。
ここは残念ながら政局メインです。
持論はご自信のサイトでやられたほうがよいです。
(BBSを再開されないんでしょうか?)

しかしカカシさんのような識者がこの堕落した板
日本のツァイトゲノシッシェポリティークについて
意見を発することはとても意義があるとおもいます。


04. 一隅より 2012年1月24日 22:40:17 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
前回「その13」のKakasiさんのコメント06について。
>自由主義やマルクス主義・・・の背景になったのが、欧米の経済学の根本にある「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」なのです。

自由主義とマルクス主義を並列するところがおかしい。

自由主義(自由市場経済主義)の言い分は、資本主義的生産において「資本家は労働者にすでに正当な対価を支払っている。だから、それを越えて得られた利潤は正当にも資本家のものだ」、というものです。
つまり、労働者は「等価交換」で雇われているのだ、「等価交換原則」は貫かれているのだ、というのです。
この限りでは(=自由市場経済主義の言い分の限りでは)、「同意・契約の結果はすべて正義である」ということになります。

これに対してマルクスはこうです。
労働者が自己の労働力を手放すのは自身の交換価値(再生産費用)と等価な限りにおいてである。
ところが資本家がその労働力から引き出すものはその労働力の使用価値だ。資本家は、買い取った労働者の労働力(=その使用価値)を「使用」することによって利潤をあげる。つまり利潤の源泉は労働者の労働(=労働力の使用)だ。これ(労働力の使用価値)にたいしては、労働者は正当になど支払われていない。自由市場経済主義のいう、「同意・契約の結果はすべて正義」という言いかたには、この点で欺瞞がある。

◇Kakasiさんの言いかたは、こうなるべきです。

自由市場経済主義の考える経済学の根本にあるのは、「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」だ。

しかし、マルクスの考える経済学(批判)ではこうなる。
資本家は労働者の再生産費用を支払って労働力を買い入れる。
たしかに、その同意・契約は「等価交換法則」にもとづく。しかしその結果は「正義」ではない。

◇>自由主義やマルクス主義・・・の背景(は)・・・「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」なのです、
という一文は、不正確だ。
自由主義について、とマルクス主義についてと、分けて考えるべきだ、と思います。

どうでしょうか、Kakasiさん。

ただし私は相変わらず、
「経済原理そのものから資本主義・競争原理社会の行き詰まりの可能性をさぐる」、という方向で考えているので、「労働者は正当には支払われていない」ことが「正義でない」かどうかはあまり本質的なことではない、(マルクスもその点を問題にしているのではない)、と思っています。

(中途ですが、Kakasiさんに言いたい/聞いてみたいことの、前半です。今回「その14」について聞いてみたいことはまた書きます。)


05. Y. Kakasi 2012年1月25日 00:15:39 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
02)、03)さん、重ねてのコメントありがとうございます。
たぶん以前にも申し上げたのですが、板違い等の指摘は、管理人さんに一任しております。
 Kakasi 自身は政治的な意図をもって投稿しており、挑戦的な表題が気に入っています。マルクス主義を好意的に解釈することは、その人の選好の問題です。内容についての反論を期待しております。
02)天の網島さん、マルクスやエンゲルスが、道徳的義憤から労働者階級の解放を誰よりも強く願い、『ドイツ・イデオロギー』や『資本論』を書いたことは、Kakasiも労働者階級の一員として十分共感理解しているつもりです。
 しかし、彼らも西洋哲学思想の限界を受け継いでいます。それは哲学では弁証法的発展理論、経済学では労働価値説にもとづく等価交換説、思想的にはユダヤ教的歴史決定論です。これら西洋的限界に由来する誤りは、資本主義的搾取制度を断罪することとは別の問題です。
 確かに道徳的社会主義と空想的社会主義はよく似ています。でも前者における搾取なき社会の実現は、交換的正義とそれに由来する連帯によります。要求や憎悪にもとづく連帯ではなく、正義と道徳にもとづく連帯です。階級闘争を遂行すれば社会主義・共産主義が実現するというような、無責任で欺瞞的な歴史決定論ではありません。

03) クロイツブルガーさん、前回と同様難しいコメントです。
「生命言語説」についてはどうでしょう。検索できます。
「等価交換による剰余価値説」についての意見を聞かせてください。
残念ながらKakasiにはBBSのできる時間的能力的余裕がありません。

04)一隅よりさん、コメント重ねてありがとうございます。
初めての本質的な意見なので、うれしく思います。
 交換過程(契約)と生産過程をどう考えるかということと、抑圧された労働者の再生産費用をどう考えるかという問題です。すでに説明していると思うのですが、少し時間をください。



06. 2012年1月25日 16:57:40 : FUviF2HWlS
>>05
>(マルクス主義は)思想的にはユダヤ教的歴史決定論です。
ちょっと、ヒトラーぽい。
「プロレタリア革命=最後の審判」のように、マルクスの世界観は、キリスト教の新約聖書の世界観の影響の方を多く受けているのではないか?


07. Y. Kakasi 2012年1月26日 00:48:20 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

>>04 
一隅よりさん、コメントが遅れて申し訳ありません。端的に答えます。
一隅よりさんは、Kakasiは次のように言うべきだとされます。
>資本家は労働者の再生産費用を支払って労働力を買い入れる。
たしかに、その同意・契約は「等価交換法則」にもとづく。しかしその結果は「正義」ではない。
→しかしマルクスは、
「労働力一日間の使用でつくり出される価値(交換価値と剰余価値)が、労働力自身の日価値(交換価値・労賃分)の二倍であるという事情は買手(資本家)にとっては特別な幸運であるが、とはいえ、売手(労働者)に対する不法(Unrecht)では決してないのである」(『資本論』向坂訳 岩波文庫(二)第五章労働過程と価値増殖過程p93、カッコはKakasi、この文は12/1 投稿のコメント01に補足しています)
と記述しているとおり、「売り手に対するUnrecht(不正・不当・誤謬・侮辱等)では決してないaber duruchaus kein Unrecht gegen den Verkäufer」としています。
 実は、マルクスを好意的に理解しようとする人は、一隅さんのような誤解をされているのです。マルクスの考える「経済原理」は、厳密に人間の社会的意識を規定する「自然法則」であって、競争の強制法則の働く自然史的過程は、人間や国家によってはコントロールできないものとされていたのです。

 しかし私見では、過剰生産恐慌や金融恐慌は、生産や流通の無政府性にあるのは確かですが、マルクス的経済原理によるものではなく、資本主義(市場経済)のもとで、目先の利己的利益しか考えない利潤追求行為が、パニックの悪循環(連鎖反応)を引き起こしたものだと思います。詳しくは述べられませんが悪しからず。

06)さん コメントありがとうございます。
>マルクスの世界観は、キリスト教の新約聖書の世界観の影響の方を多く受けているのではないか?
→とのことですが、権威主義的なマルクスの性格から言うと、『新約聖書』愛の神よりも、『旧約聖書』の怒りの神に近いのではないでしょうか。本人は宗教を否定しているので断定できないと思います。



08. 一隅より 2012年1月27日 00:46:31 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA

Kakasiさん、>私(一隅より)のような誤解、のところだけコメントさせていただきます。
 誤解ではありません。Kakasiさん引用中の、マルクスのした『幸運』とか『不法』という言葉づかいは、皮肉なのですから
私がいいたかったのは、経済的事実を評価するに公平公正を重視するKakasiさんの立場からいえば、
>資本家と労働者のかわす交換は(不等価なものではなく)まさに等価交換だが、それでも(これを道徳的に評価するならば)、それは結果的には「正義」ではない、ということになるのではないか、ということでした。
これに対してマルクスは、これらの経済上の事実を道徳的に評価する、という立場にたちません。
(だからマルクスが『幸運』とか『不法』という言葉を使っても、それは皮肉なのです。)


それに続く、>マルクスの考える「経済原理」は・・・「自然法則」であって・・・人間や国家によってはコントロールできないものとされていた、のところはその通りだと思います。
(ただしマルクスは、「これまでは」コントロールできなかったし、「今のままでは」コントロールできない、という文脈でいっています。)

Kakasiさんは、>過剰生産恐慌や金融恐慌は・・・マルクス的経済原理によるものではなく・・・目先の利己的利益しか考えない利潤追求行為が・・・引き起こしたものだ、
と考えるようです。

問題は、およそ経済上の事実を、「利己的」利益の追求・・・という概念で説明できるか、ということです。
マルクスはたしかに資本家の利潤追求行為に繰り返し(道徳的観点から)悪罵をあびせていますが、それはいわば修辞的なだけのもので、いざ経済上の諸事実を説明しそこから来る問題の解決を論じるときには、完全に「道徳的観点をはなれた」立場から説いています。


前提のところでやりとりしていてなかなか本題にはいれません。
次には、Kakasiさんが利潤の源泉を「商品交換の非対称性」に求めるというのはどうなのだろうか、
ということについて、言いたい/聞いてみたいと思っています。


09. Y. Kakasi 2012年2月06日 15:14:34 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

コメントへの返信は、(その15)につづきます。
→http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/458.html



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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その15)
 
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/458.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 1 月 29 日 00:55:28: BW32mpuE76J86
 前回(その14)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
 の続きで、一隅よりさんのご意見がもっとも本質的なものなので、今回は、Kakasiの考えを整理をしておきます。水掛け論や言いっ放しにならないように注意しますのでよろしく・・・・。
 前提が多いので厄介ですが、Kakasiたちは商品交換一般について、「市場で売買契約が成立すればすべて等価交換である」とは考えません。ということは労働価値説でなく、等価交換を前提とする一般的な経済学の立場を批判するということですが、これを議論すると長くなるので今はやめます。

 さて、詐欺や脅しや不正取引は、違法であることがわかれば犯罪であり一般的にも等価交換とは言えませんが、
市場経済は自由競争が前提であるため、不正や不等価が隠された交換が、日常的に行われています不正で信用をなくすような取引は、競争で淘汰されるというのは市場主義者の言い分ですが、現実はそのように甘くありません。今日では多くの法的ルールが定められています。しかし、例を挙げるまでもないですが、道交法と同じようなもので、法の網の目をすり抜けようとするのが優勝劣敗競争の実態でしょう。派遣法のように同一労働差別賃金を法自体が認め、不正を容認しているのが現実です。

 一般に商業の譲渡利潤や独占市場の独占利潤、外国貿易等は不等価交換(交換の非対称性の典型)であるといわれています。Kakasiたちは資本主義のもとでの労働者の賃金(交換価値)も、原則的に資本家に有利な不等価交換になっていると考えます。だから労働者の低賃金(搾取)を、「再生産の費用」として合理化・正当化(不正でない)とするマルクスの考えは、人間としての労働者を抑圧するものとなります

 Kakasiの考えは、マルクスや一隅よりさんのような「労働者が自己の労働力を手放すのは自身の交換価値(再生産費用)と等価な限りにおいてである」という前提を認めません。「等価でなくても」資本家に労働力を売らなければ、(人間らしい)生活ができないのです。つまり労働者の再生産費用(交換価値・賃金)は、資本家による労働者酷使の背景があった初期資本主義の時代だけでなく、今日においても、「正常なる生活状態を維持する足りる」ものとは言えない状態があるのです。
どうして低賃金を労働者(人間)の再生産費用と等価であると決めつけられるのでしょうか。労働者は、本当に「再生産費用と等価な限りにおいて」自己の労働力を手放しているのでしょうか。

 マルクスは、労働者の「必要なる欲望の範囲」を、抑圧された状態での「歴史的産物」であり、「一国の文化段階に依存している」と述べています。マルクスにとっては、労働者(人間)が資本家(人間)並みの欲望をもたないものと前提しているのです。マルクスは、抑圧された社会での、不利な条件にある労働者の再生産費用(賃金)を、階級的に抑圧されたものと捉えずに歴史的に等価として与えられたものだから、「決して不正ではないduruchaus kein Unrecht」とするのです。これは皮肉ではなくマルクス的事実を端的に表現しているのです。

 労働者の賃金は、単に文化的に規定された労働者の最低限の再生産費用をまかなえるだけの交換価値分でいいのでしょうか。現在の再生産(必要なる欲望)をまかなえないからこそ我々労働者は、組合を作って賃上げを要求するのではないでしょうか。我々労働者は、人間だからこそ一日の労働力使用分にふさわしく、また人間らしい欲望を充たせる再生産費用(賃金)となるように賃上げを要求するのです。また最近では、不当に労働力の評価に格差をつけることにも反対しています。

 Kakasi的「経済上の事実」は、労働力(人間)の価値が、どの社会的状態にあっても、マルクスが考えるほど低くはないということです。なぜなら労働力とは、資本家に使用される間も単なる使用価値ではなく、人間の価値だからです。マルクスが等価と考える労働者の再生産費用(賃金)は、マルクスの時代であっても低すぎます。その意味で、
マルクスは、一方では、使用価値の不正使用を告発して労働者を解放しようとする道徳的側面をもつのですが、他方で、交換価値の被抑圧的水準(低賃金)を歴史的に合理化(正当化)するという反道徳的・人間抑圧的性格を持つのです。彼は、交換の過程では等価なので不正はなく、労働力の使用価値の不正使用を創作して、搾取の不当性(とその隠蔽性)を暴露したことにするのです。

 マルクスは「(労働力商品は)価値の源泉であり、しかもそれ自身が有するよりもヨリ多くの価値の源泉であるという、この商品の特殊なる使用価値」という表現をしています。しかし、この意味深長な記述は、Kakasi的事実ではありません。労働力が価値の源泉というのは正しいとしても、労働力自身が有するよりも「ヨリ多くの価値の源泉」というのは正しくありません。資本家が使用する労働力は、人間的労働力に応じた量の価値の源泉です。
この人間的労働力の価値を過小評価して、不等価で買おうとするのが資本家です。この資本家の詐術と欺瞞と致富欲が、剰余価値を産み出します。

 資本家の欺瞞性は、使用価値(労働力の使用結果)におけるマルクス的搾取にあるのではなく、交換(売買・流通・契約)過程における等価の欺瞞性にあります。その証拠にマルクス自身も、「不正ではない」としたそのすぐ後で、「我々の資本家には、彼を喜ばせるこの事情が前からわかっていたのである」と述べています。これはもちろん売買契約(交換価値の決定)の前に、労働力を搾取(使用)するとことがわかっていたということです。つまり、Kakasiの立場からすれば、
マルクスは、労働価値説と等価交換の誤った前提のままに、交換過程でなく労働(生産)過程での労働者搾取を理論づける必要があったのです。

 マルクスの基本的な考え「等価が交換されるとすれば,剰余価値は成立せず,非等価が交換されるとしても,また何らの剰余価値も成立しない。流通又は商品交換は何らの価値を生まない。」(『資本論』第4章第2篇注31直前)というのは、利潤や剰余価値の捉え方、商業利潤の本質理解の限界を示しています。マルクスには、人間の価値の本質は労働であり、労働による生産と再生産が、所有関係を含むすべてを規定(自然と人間・社会を支配)するという『創世記』的前提があります。だから、交換過程よりも労働(生産)過程が重視されます。

 しかし、Kakasi的前提は、
人間の生産する生産物や所有物(価値)は、誰から誰に移動するか、または交換されるか(資源配分とも言える)によって規定され、商品社会における利潤や剰余は、交換契約による所有移動(価値または資源移動とも言える)であると考えます。『資本論』的に言えば、労働力の使用価値支配は、搾取的売買契約(等価交換!)に始まり、労働過程における全人格的支配に終わるということになります。労働力商品に関しては、交換価値と使用価値は、人間の所有する一体のものであって労働過程においても分離することはできないのです。マルクスのように分離することによって交換価値の評価を低めることは、マルクスが意図しなかったとしても、人間労働者(の労働力)の価値を低め、人間を自然史過程(自然必然性)の支配下に置き、人間的解放を抑圧することになるのです。

 ということで、長々と書きましたが、Kakasit的立場や、表題の意味は理解していただけるのではないかと思います。マルクス主義とは対立しますし、平行線に終わるだろうことも予想されますが、議論を続けることができれば何かが生まれそうな気がします。よろしく。


コメント
01. 2012年1月29日 09:12:59 : ZMELvM1Cw2
≫労働力が価値の源泉というのは正しいとしても、あなたはマルクスのオリジナルをつかんでいない。
マルクスは自然を源泉とし人間の感覚器官と合作すれば、と記しているのだ。
アジアが仏教に統一されてところと同じ感性なのだよ。
西洋においてもギリシャ、そしてシェリング、ゲーテと繋がっているんだ。
マルクスが苦労したのは思考以前の、無意識の輪郭を文字で汲み取ってもらうこと。
ビルマ、清、李それぞれ無理やり開国された。
当時、アジアにおいては資本主義でない選択肢を含んでいた。
あなたは、私たちが、なぜ、今、この地点に生きているのかが、わかっていない。


02. 2012年1月29日 14:11:18 : swsf4Tw1P2

マルクスと日本共産党とは本質的に無関係である。
名前が共通しているだけ。

03. 母系社会 2012年1月29日 16:29:02 : Xfgr7Fh//h.LU : 3JwV8BNo8Y

マルクスは、『資本論』で、いきなり自説を展開するような書き方はしていません。なぜなら、いきなり自説を極力厳密に論証しようとすると、形式論理学の典型である数学のように、まず、基礎的な概念(A)の定義を行い、それを用いて端初となる独自の公理的な原理を設定して、その原理から理論を展開する演繹論的方法が考えられますが、これでは必然的に独断論となるからです。

というのは、基礎的な概念の定義を行う場合には、様々な他の概念(B)を使って、その概念(A)を定義するしかありませんが、その様々な概念(B)自体が本当に正しい概念であるのか、吟味=検証せずに使用して基礎的な概念(A)の定義をするしかないからです。

というのは、説明するまでもありませんが、その概念(B)自体も吟味=検証してから、概念(A)の定義に使用するには、更に他の様々な概念(C)を使用して吟味しなければならないので、これではA→B→C→D・・・と無限退行に陥り、最初の概念(A)の定義ができなくなるので、概念(B)は正しいと仮定して使用するしかありません。

すると、一見、最も厳密な学問であるかのよに思える形式論理学(数学)の理論にも、必ずその理論自体では論証はもちろんですが、言及さえもされていない暗黙の前提=概念(B)は正しい=があることになります。

通常、こうした演繹論的方法論は、多くの人々から正しい方法論だと思われているし、概念(B)も余りにも正しい概念なので、いちいち吟味する必要はないと思念されているのですが、それは概念(B)は様々な小さなパラダイムに正当性を保障されながら、最終的には、我々の時代の大パラダイム=必ずしも統一された世界観というわけでもありませんが=が正当性を支えている概念だからです。

しかし、ある時代の大パラダイムといえど、天動説が地動説に変ったり、また、この地動説的世界観が洗練されてニュートン力学的世界観が生まれ、更に、それが相対性理論的世界観に変ったように、我々が現在、絶対的に正しいと考えているパラダイムも、将来は忘れさられて新しいパラダイムに変るかもしれません。

ですから、本当は概念(B)の「正しさ」や、大パラダイムではなくとも、概念(B)を直接支えている小パラダイムぐらいは吟味=検証しなければ、自説を「論証」したことにはならないのですが、基礎的概念(A)の真の意味での定立さえもが不可能なように、全ての理論・命題・概念には、必ずそのもの自体では論証も、言及さえもされていない暗黙の前提があることになります。

通常、論争をしようとしても、なかなかまともな論争にはならず、それぞれが自説を一方的に述べるだけに終わるのは、こうした暗黙の前提にまで遡った論争がされないからです。

ところで、ある理論を先ほどの演繹論的に主張するということは、たとえその主張自体では直接批判しなくても、実質的には、他の理論を必然的に批判する立場になります。
まして、直接他の理論を批判したなら、批判された側が「前提が異なる」と反論すれば、お互いに正当性が論証されていない前提に基づいている理論なので、この反論は権利的には正当な反論です。

つまり、演繹論的に批判するのは独断論的批判=<外在的批判>=ということです。

反進化論者に対して進化論を主張する場合でも、演繹論的方法を採用した場合は無効であり、馬鹿馬鹿しい反進化論者の「前提が異なる」という反論であっても、是認するしかありません。

そこで「資本論」では、マルクスはスミスやリカードらの古典経済学の継承者から、「前提が異なる」という反論を防ぐために、一旦、最終的には批判する古典経済学を受け入れる地点、つまり、古典経済学(近代経済学も同じ)は、資本主義社会の「常識」=資本主義時代のパラダイム=に取り込まれた意識で構築された経済学ですから、そうした意識の立場から捉えられた商品の概念の説明・論述から始め、そうした資本主義に取り込まれた意識の商品観には疑問点・弱点があることを、少しづつ、段階的に指摘して資本主義社会の「常識」から引き離し、徐々にマルクスの真の意識に近づけてゆく手法=一般的に受け入れられている概念を端初に設定して吟味してゆくマルクス的上向法=を採用したのです。

つまり、古典経済学の誤りに古典経済学者自身が気づき、自ら修正させる<内在的批判>を目指したのです。

こうした弁証法的な方法論がわからない人は、マルクスの論述には矛盾があるとか、的外れな初歩的マルクス批判をして、マルクスを批判した気になっています。

マルクスといえど、我々と同じように時代的制約の下で思考したのですから「誤り」があるはずで、そうした限界性の問題はヘーゲル自身が既に気づき、マルクスも継承していたので、マルクス理論を内在的に批判するなら、マルクス自身が大歓迎するはずです。

日本共産党(不破氏)の理論をいくら批判しても、彼ら自身がマルクスを誤解しているので、マルクスを批判したことにはなりません。マルクスを批判するなら、「資本論」などのマルクスの著作自体を対象にして、しかも<内在的に批判>しなければ、マルクスを批判したことにはならないのです。

ヘーゲルやマルクスが作り出した世界観は、現代思想自身が後追いしている状態であり、まだ、誰も超えてはいません。是非、広松渉の著作を真剣に検討して下さい。

広松は現象学も批判しています。現象学をいくら批判しても、広松を批判したことにはなりません。
広松もマルクスと同じ歴史的相対主義の立場ですから、まともな批判なら、広松自身があの世で大歓迎するはずです。
とにかく、マルクスや広松を<外在的に批判>するのは止めて下さい。お願いします。


0
4. 一隅より 2012年1月29日 23:19:58 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
(以下では、〔>>03 母系社会さんのおっしゃるのもそこのところかもしれませんが〕、まずとりあえずは互いに皆の間でも通用する、できるだけ日常的な言葉で考えてみたいと思います。そうすれば水掛け論にはならないと思います。)
Kakasiさんが、利潤の源泉を「商品交換の非対称性」に求めるのは果たしてどうなのだろうか質問してみようと考えていたところ、今回、先にこたえていただいたようです。
こう書かれています。
 ↓
労働者は、>「等価でなくても」資本家に労働力を売らなければ、(人間らしい)生活ができないのです。つまり労働者の再生産費用(交換価値・賃金)は・・・今日においても、「正常なる生活状態を維持するに足りる」ものとは言えない状態があるのです。

◇Kakasiさんは次のA,Bのうちどちらを問題に(どちらをより大きな問題と)しているのか。
この地球上にあってわれわれ人間に関わる「もの」(=精神的なことを除く)を、3つに分けます。
1.はじめから誰のものでもなく「存在」して、いまも誰でも自由につかえるもの。意外に少ない。太陽の熱・光と、空気、雨水くらいか。
2.現在、誰かのものであって、人間の利用享受できるもの。
3.上の1、2のものを用いながら人間が、2のものに『付け加えて』うみ出した(生産した)もの
まず、この3が、利潤の源泉の問題です。A=「付け加えて」うみ出されたものはどこから来るか、です。
次に、B=この3、「付け加えて」うみ出されたものをどう分配するか、の問題があります。

◇Kakasiさんは、B=付け加えてうみ出されたものの分配を、その不公平・不公正を、主に問題にされているようです。
分配の不正義は、マルクスも厳しく指摘している。
しかしこの不正義=労働者からの「不等価・非対称」の収奪がされるのは、合理的な経済原理によってではない。
それは、経済外原理(要するに「強制」されて、あるいは騙されることもあるが)によってされる。
資本主義は、その「合理的」経済原理だけでは、永続的にはやっていけない。

そこで(ときどき)「経済外原理」(=経済外的強制や欺瞞・欺罔)に頼らなければならなくなる。
Kakasiさんも「その13」で、>労働者のように弱い立場の・・者は、交渉(取引契約)によっては、あからさまな損失・・を受け(る)、といっている。
富・財の移動移転の不合理=不正義のかたちはさまざまだ。
かつては帝国主義的侵略(=経済外的暴力だ)が、新大陸で、アジア・アフリカであった。

市場拡大先が狭くなってからは、恐慌や戦争によって、過剰になった生産力をムダに費消し(=労働者の負担において)、調整することが必要になった。戦争はまた、もともと存在しない需要を人工的・強制的につくりだすことでもある。

もっと重要なのは、税だ。徴税という権力的強制によらなければ資本主義はその維持費用をまかなえない。
だからときどき増税を必要とする。今の日本もそうだ。

日常的にいちばん重要なのは、労働強化=労働時間の収奪だ(裏返していえば賃下げ圧力だ)。
これが、労務管理、「合理化」という、経済外圧力でされていることは、日々体験する。(派遣労働という安価労働力の確保も、その手段として大々的にやられている。)

このように様々なやりかたで資本主義は、その存続の費用のためにも、労働者から強制的にかき集める。あるいは、労働者の損失・費用=犠牲で(=生産力破壊で)、何とか一息つく。そうでなければやっていけないのだ。

◇Kakasiさんが問題とするのは、これらの点(とくに最後の、労働者からの「収奪」)ではないでしょうか。

たしかに労働者は、自ら働き生活する者たちは、「収奪」されている。
だから自ら働き生活する者たちは、さまざまな経済外圧力=強制=不合理・不公平とたたかっていかなければならない。
戦争にたいしては、平和運動で。国際連帯を求めて。
増税にたいしては、生活を守れと訴えて。
賃下げ・合理化にたいしては、賃上げ・労働条件改善を要求して。

しかし、これらは分配=利潤の取り分の調整、の問題(=B)だ。(A=利潤の源泉の問題ではない。)

Kakasiさんは、この(分配=利潤の取り分の)公平公正な調整をどのようにして実現しようというのか。いや、「どのように」=方法の問題の前に、まず「どのようなところに公平のラインを設定するのか」、聞いてみたいと思います。

◇私は、この公平公正のレベルの設定も、まず、A=利潤の源泉の問題から論じなければ答えは出ない、と思います。(これはまた後にします。)


05. Y. Kakasi 2012年1月30日 00:43:52 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
 皆さんコメントありがとうございます。
01)さん、難しくてKakasiの教養ではいまいち理解できません。
とても哲学的な内容なので、なぜ、今、この地点に生きているのか、
教えてください。とても興味があります。

02)さん、でも不破さんたちは、マルクスをとてもよく勉強しておられます。どこがおかしいのでしょうか。

03. 母系社会さんの主張はよく理解できます。
でも、なかなか「阿修羅の世界」で<内在的批判>をするのは難しいです。またここは<内在的批判>をする場所でもなく、独断的な<外在的批判>こそが面白いのだと思います。

 広松さんを推奨されているようですが、Kakasiは、広松さんのように「近代的世界了解の先入観をしりぞける」(『世界の共同主観的存在構造』)ことだけでは、人間とその社会の本質を捉えそこなうと思っています。つまり、ギリシアに始まる西洋的合理主義の批判的解明(言語論の革新)が必要という独断的主張になります。

 今日の認識論の探求では、言語の役割が注目されていますが、広松の「言語的世界の存立構造」では、近代的認識論の限界を超えることはできません。彼の独断的な「言語の四機能説」は、ヴィゴツキーやルリヤの解明した「内言」の機能を取り入れていません。言語には、自己と対象をどのように合理化するか、というような言語による思考や自己規制の機能もあるのです

 広松自身が自らのことを述べているように、彼の理論は「所詮プレルディエンたるにすぎぬ」ということなのです。
 内在的批判らしきものは、次のweb sitteへよろしく。
 →http://www.eonet.ne.jp/~human-being/purato.html

05一隅よりさん、独断的な主張の投稿にも拘わらず、丁寧でわかりやすいコメントにいつも感心しています。「日常的な言葉」はとても大切です。
マルクスが日常的な言葉ではないので、つい難しくなります。
気をつけますので時間をください。



06. 2012年1月30日 08:34:32 : rPadd1o9PI

>>05
「とても哲学的な内容なので」
マルクスの核心は1、感性それ自体を思考の対象にすること(個別性)、
2、社会は個別性から感じると、偶然的、抽象的、平均的で個別性を奪われること、です。
「なぜ、今、この地点に生きているのか、」
就職して、同じ仕事でも会社に賃銀が違う状態。
自分の肉体とこころを再生産するにしても資産によって住居にかかる費用は違う。
 結婚して子どもができても、育てるのに所得によって割合が違う。
自分や子どもを育てるにしても社会的位置によって社会的協働が違う。
 すべて市場を通して個人の責任で要求を充足することになっている。
しかし、その個人の前提が社会的位置で違うだろう。


07. Y. Kakasi 2012年1月30日 21:41:56 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
06)さん、やはり難しいです。
「個別性」というのは、平田清明氏による「個体的所有の再建」という、マルクスの『資本論』解釈についての話題でしょうか。
 また「個人の前提が社会的位置で違う」というのは、マルクスに対する批判でしょうか。マルクス理解が浅いと言うことでしょうか。
★一隅よりさん、
 商品交換における利潤には、二つの源泉があると考えます。
① 商業利潤:安く買って、高く売る
 この利潤は、買いと売りにおける二つの非対称性が利用されます。
 1)空間的・時間的非対称性:場所と時間の違いによる価値の違い
 2)欲望・効用的非対称性:価値の主観性による評価の違い

② 産業利潤:安く買い、安く作って、高く売る
この利潤は商業利潤に加え、機械と労働者を使って価値を付加します。
1)機械は技術革新によって労働を集約し、さらに価値を増大させます。
2)労働は機械と共に集約化され、生産コストは低減されます。

 利潤(価値・富の移動・集積)は、買いと売り(流通・売買・交換)の過程で発生するのが原則となります。しかし、生産過程では、労働と技術革新による商品生産の集約(低コスト)化と価値の付加によって、飛躍的な利潤の増大が図られます。


 次に、交換と分配について、もう少し時間をください。


08. 2012年1月30日 22:46:19 : zXyYNsJYbo
>>07
『「個別性」というのは、平田清明氏による「個体的所有の再建」という』
私は平田は知らない。
「個別性」とは、私やあなたのことですよ。
あなたや私は個々感性が違うだろう。
しかし、お金を通すると、現象的にその違いの「差が消え」てしまう。
『「個人の前提が社会的位置で違う」というのは、マルクスに対する批判でしょうか』
マルクスの批判ではない。
今の社会は個々の感性の違いの「差が消えて」しまい、しかも要求の充足が政府が設置する市場を経由になっている。
個体の要求の実現が社会的位置、つまり資産などでによって違うだろう。
なにせ個人の責任で市場を通さないと要求が充足されないようになっている。
資産がない私などは自分の感性と異なるものを代用させて充足させる状態である。

マルクスはブルジョア社会は個別性の個体と、その個別性の個体を奪う社会とのアンサンブルと記しているよ。


09. Y. Kakasi 2012年1月30日 23:15:18 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

>>08
早速の返信ありがとうございます。
ようやくよくわかりました!!

でも今度の後半は、平田の主張とよく似ていますね。感謝!

10. 2012年1月30日 23:51:55 : zXyYNsJYbo
>>09
マルクスのオリジナルの一つは、私が自分の感性に働きかけて感性を変えることにある。
マルクスの個体の把握はシェリングやゲーテの「感受性、被刺激性、再生」である。
マルクスの感性は冒険心、不安であった。
ただ発見したテーマをまとめるまでには、例えば「資本論」第1巻の出版までにエネルギー発散のために、無駄遣いや、資料をノートに写すことが必要だった。
「資本論」第1巻まではイェニ―、エンゲルスの組み合わせでマルクスの感性が伸びた。
さらに「資本論」第1巻の出版で数年後に印税が入り、生活が楽になると、マルクスの衝動の素である冒険心や不安が薄くなったので、人生の後の10年は体が錆びついた状態となった。
マルクスの主張は、個体の感性が要求が実現できて、自分も他者も成長に喜びを感じられて、自由自在に動けることに快感が感じられる個体と社会の再建をめざした。


11. Y. Kakasi 2012年1月31日 22:43:23 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
>>07 の続きです。
04)>>Kakasiさんは、この(分配=利潤の取り分の)公平公正な調整をどのようにして実現しようというのか。いや、「どのように」=方法の問題の前に、まず「どのようなところに公平のラインを設定するのか」、聞いてみたいと思います。
→ということについて、

 地上の1)自然的富と2)人間の生産的富がどのように、①所有され、②収奪され、(③交換され、)④分配され、(⑤消費され)るか、一隅よりさんが①②④について素描されていますが、よくわかります。

 一隅よりさんの質問は、Kakasiの立場からすると、「利潤の取り分の公正公平な調整」は、「④分配」という概念だけでなく、「③交換」という概念を必要とします。というのも、労働者の賃金は、等価交換の場合、利潤でなくコストで計算されますが、私の場合マルクスの剰余価値(利潤)分もコストに算入されるべきであるという考えです。

 また企業の利潤だけでなく、税金を含めれば国民経済の総生産物が、家計(個人)と企業と国家(自治体)でどのように交換、分配(再分配)されるかという問題を含んでとても複雑になります。

 そこで、企業の利潤とされる分は、資本家(株主)、経営者(役員)、労働者(従業員)にどのように分配されているのか、また労働力は、賃金(報酬)としてどのようにコスト評価され交換されているかを考えます。公平公正の原則は、同一労働同一賃金ですが、賃金コストは労働者にとって低すぎる、または、格差がありすぎるというのが実態です。

 かつての労働者(の労働力)は、ほとんど人間的欲望を充たせない低賃金のコストでしか評価されませんでした。しかし今日では、利潤が多い場合には、多少はボーナスとして人事管理上の格差をつけて分配されます。問題は、生産コストとしての労働者の賃金は、公平公正な評価基準にもとづいて労働力と交換されていないということになります。

 利潤だけで言うと企業格差、賃金格差、財産格差、学歴格差、男女格差等々、不公平不公正な格差社会の現状を考えると気が滅入るし、政治の貧困に腹立たしくなることは共有できると思うので止めて(ネットで見ていることにして)、端的に「公平のライン」を考えます。そのためには、人間の欲望と感情の理解を前提に、人為的な能力・努力差、平等性、競争、福祉政策等の原則を考慮する必要があります。しかしこれらもスルーして・・・・・。

 ずばり、道徳的に公平の基準はどうなるかという立場からすれば、もちろん独断的に考えて、次のようなラインはどうでしょう。現在の修正資本主義の下で、生涯所得を考慮しながら、平均年収400万円とすると、企業経営者で上限5倍の2000万円(×80年分として生涯収入16億円)、芸能スポーツなど全面的に個人の能力によって評価される場合でも10倍の4000万円(生涯所得32億円)を越えることが妥当だとは思えません。更なる公平化を図るためには累進課税や、株の配当や財産等の譲渡所得など「不労所得」に相当する分には相応の課税が必要でしょう。

 理由は、いかに能力や努力によって社会的に支持され評価されても、平均的人間の能力や努力の10倍を超えることはないということです。ほとんどの優れた能力は、社会的歴史的条件によって恵まれたものであり、また他人との競争的勝者として評価されているものだからです。つまり、社会的責任を果たすより、自己の利己的利益のためのみ考え、弱肉強食で他人に能力的に勝とうとすることは、反道徳的だと考えるからです(逆に道徳的勝者は、それにふさわしい精神的評価が与えられるでしょう)。

 例えば、ゴーン氏の収入は従業員の切り捨て(合理化)によるところ大ですし、イチローの年俸は野球ファンあってのものだから、多すぎることは反道徳的だと言えます。一般に一部の人間の高収入は、多くの人間の犠牲やメディアによって作られた宣伝・人気・支持によるものであり、社会の価値観が変われば変わるものだからです。

 資本主義の下における格差的報酬は、社会的責任を果たした結果というよりも、利己的欲望のために他者の犠牲の下に得られた高収入であり、社会的責任があらゆる分野で言われるのも、資本主義的利潤の追求が反道徳的な本質をもっているからです。人間の生産労働や社会的活動の多様化を考えれば、マルクスのように労働時間のみによって労働力や人間の価値を決めるのは評価を誤ることになるでしょう。

 長くなりました、資本主義社会では、交換や分配は、出発からして不公正で不平等、格差だらけから出発しています。やはり革命的・根本的な「調整」がなければ正義は実現されないと思います。
 十分答えられていないと思いますが、今回はここまでにします。よろしく。



12. 母系社会 2012年2月02日 18:21:21 : Xfgr7Fh//h.LU : Vq8Rd7Li6A

 独断論であることを認めるということは、「いいがかり」であるということであり、反マルクスの政治的プロパガンダであるということを認めるということですよ。
阿修羅は、単なるプロパガンダの場ではありませんよ。現在の日本でも、最高の知性が集まっている場の一つです。
それは、小沢氏に対する冤罪攻撃の本質を、多くの阿修羅人が認識していることや、原発のカラクリも認識していることからもわかります。

●マルクスは『資本論』第三巻第十章で、「商品の交換価格がそれの価値とほぼ一致する条件」、つまり<価値法則>がほぼ実現する条件として、三条件を提示しています。
①は、商品交換が、「偶然的・臨時的な交換ではなくなること」、②は、商品の生産が需要とほぼ一致していること、③は、自然的な、人為的な独占で「取引当事者の一方が価値よりも高く売ることができたり、価値よりも安く手放さざるをえないとかいう事情がない」ことの三条件です。

Y. Kakasiさんは、主に③の件を取り上げているのだと思いますが、このように、この不公平な取引の問題は、既にマルクスやエンゲルス自身が見聞きしていて、理論的には検討済みの問題なのです。
そうでなければ、この問題をこの三条件の一つとして、取り上げるはずがありません。

マルクスが生きていたころは、既に資本主義がかなり発展した段階であり、「平均利潤の法則」に媒介されて市場価格が形成され、生産価格も形成されていた時代ですから、生産価格が商品交換を規制する原理になっていたので、<価値法則>が平均的には実現されていた時代は終わっていました。
ですから、<価値法則>が商品交換を直接統制・規制していた時代の商品価格は、生産価格の先行者であり、マルクスの時代には、過剰生産による恐慌が起きていたことからもわかるように<価値法則>の時代は終わり、<価値法則>は生産価格を形成する要因の一つに過ぎず、不完全な形で、屈折した形でしか実現されていないことは明らかで、その点は二人とも認識していました。

 等価交換の議論がある第一巻の最初の部分の商品は、資本主義以前の単純商品だとか、昔から様々な議論がありましたが、この商品は、資本主義に取り込まれた意識から見た商品、つまり大部分の読者がイメージしている古典派経済学の商品であり、マルクスは、これを暫定的に肯定するところから議論を出発させているのです。

とりわけ、第一章の「商品」の狙いは、資本主義的商品の価値とは何かという問題を解明することが趣旨の議論ですから、この部分では等価交換の問題には触れていないのです。

マルクスは、<価値法則>が貫徹していた社会は理論的想定であるばかりではなく歴史的事実でもあると考え、そうした社会は独立自営農民が社会の大部分を占める社会=労働者が生産手段を所有していた社会とマルクスは述べています。

つまり、資本主義的意識では、労働者は労働力という資本を持つ一種の資本家=独立自営民と見なしていて、「賃金奴隷」とは考えず、資本家とは対等の存在と考えているわけです。ですから、労働力の売買も等価交換と見なすわけです。

ご存知のように、エンゲルスは有名な共産主義者でしたが、一方で、先進的経営で非常に成功した工場経営者でもあり、マルクスはエンゲルスからビジネス界の様々な最新情報や実態を聞いていたので、その成果が『資本論』にも取り入れられているのです。

Y. Kakasiさんが指摘する事態は確かに沢山起きていて、現代の日本でも時々は「優越的地位の濫用」=不公平取引として「独占禁止法」が適応されていますが、この三条件に取り入れられたので、当時から起きていたのです。

従って、どの記述を根拠にマルクスは「市場で売買契約が成立すればすべて等価交換」と主張していたと Y. Kakasiさんが断定するのかわかりませんが、誤解だと思います。明確なのは、<価値法則>が実際に機能していたのはせいぜい初期の資本主義時代までであり、その後は、平均的にさえも機能していないとマルクスは考えていました。

資本主義の神話には、資本主義のイデオローグたちが創りあげた資本主義的意識・価値観などもありますが、人類史的なレベルでの、非常に強固な神話もあり、古典派経済学には様々な欠陥がありますので、実際問題としても、一つ一つ取り上げて、批判するしかありません。

ですから、最初の部分では問題とはしていないだけであり、また、そうしたものを前提としても、価値の秘密を暴露できるからですが、その意味で、暫定的に認めているのでと思います。

●古典派経済学の商品論を暫定的に肯定するところから議論を出発させている理由は前回書きましたが、その理由は『資本論』が弁証法で書かれているからです。

マルクスは、自身も含めて人間が真理と確信することも、一方では、人類の意識の弁証法的な変化史の一部でしかないということ、そして、人間の意識は、人間の対自然的、対社会的諸関係の対自化=自覚化なので、現在なら資本主義という歴史的制約や社会文化的制約(この制約をするものがいわゆるパラダイムであり、マルクスの言葉では「支配的思想」)があること、そして、そもそも、人間が考えることは、その時点での<過去の総括>でしかないこともヘーゲルから学び、知っていたのです。
 ですから、学問である以上、あくまでも普遍性を目指すのですが、一方でそのような宿命的制約を帯びてしまっていることも自覚して論述しなければならないということ、つまり・・・ ヘーゲルが弁証法的理論は「自分で自分を吟味し、自分自身に即して自分の限界を規定し、自分の欠陥を指示していかねばならない」と述べたような理論でなければならないと言ったことを継承しています。ですから、誤った認識でも頭ごなしに否定するような乱暴なことはしません。なぜなら、妄想の類は別ですが、誤った認識でも、その前提が正しいと仮定した場合には、部分的には正しい面も含んでいるからです。ですから、その前提の必然性次第で、後に否定しますが、暫定的にマルクスは認める態度で書いています。それは、徐々に変化してゆく読者の意識を想定し、それに寄り添いながら、ともに進むスタンスで記述しているからです。自分で自分を吟味しながら論述しているとも言えます。
 マルクスは一人二役とか、三役とかを演じているのであり、その意味で、様々な人々の対話を論文に直しているとも言えます。
それで『資本論』には、資本主義に取り込まれた見地からの認識が書かれている部分があり、その都度、論理的にはそうした認識への疑問点・限界性が提起され、そうした疑問に答える次のステージに導かれ、更にそこでも別の疑問点が提示され、単なる認識の修正ではなく、悟性的認識自体に疑問が生じるように教導しているのです。

ですから、『資本論』の登場人物はマルクスだけではないので、まずは、誰から見た事態の記述なのかを見極めないと理解できません。古典経済学者なのか、読者なのか、あるいはリンネルの所有者なのか、上着側か、あるいは世人=世間一般の人々や、マルクス自身なのかです。更に、たとえマルクス自身のコメントでも、最終的評価とは限りませんので間違いやすいのです。

●一例をあげれば、『資本論』(国民文庫版)の第一巻の第一章「商品」の第四節「商品の呪物的性格とその秘密」には、ストレートに「客観的な思想形態」と評価してその思想の「正しさ」を認めずに、「社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである」(P141)というような奇妙な、まわりくどい表現をしているところがあります。社会的に認められていても、誤りであることは多いのですから、この評価は奇妙です。
 実は、これは古典経済学のカテゴリーへの評価ですから、当然にもマルクスの最終的な評価では「誤り」であることは明白です。しかし、そうは言っても、全くの妄想でもなく、資本主義という社会の内側で生きている人には、その思想形態が正しいように見えるそれなりの「必然性」=カラクリ=があるので、古典経済学者やその支持者(読者)が真実と見なしてもやむを得えない面があり、「誤りだ」と頭ごなしに否定するような批判はせずに、むしろ、そうしたカラクリを前提とすれば「客観的な思想形態」だと、暫定的認めています

また、第二節でマルクスは、「社会的実体」という形容矛盾した造語を使用しています。「実体」という言葉は、通常は物質的な存在、自然的存在を指し示す言葉ですが、それに「社会的」という相矛盾する形容詞を付け加えたのが「社会的実体」という奇妙な言葉=実体主義に妥協した便宜的な言葉=を創りだして、非実体主義的発想法を理解させようとしたのです。

その他、『資本論』には、注意して読むと暫定的評価であることがわかる書き方が沢山あります。そもそも、第一行からして、「一つ一つの商品は、その富の基本形態として・・・現われる」と書いていて、「である」とかの表現は避けています。これでは誰に対して「現れる」のかわかりませんが、良く読むと、資本主義に取り込まれた人、つまり、古典経済学者やその支持者の読者の意識に対して「現れる」と書いていていることがわかります。

つまり、彼らの目に映る商品を、そのまま記述することから出発しています。ですから、まずは、読者は無理なく同意できる商品論となっています。
マルクスは、最終的にはそうした商品概念を否定したい立場なので、「である」とは書きませんでした。

●『資本論』は、何しろ、人類史と同じくらい長い間、実体主義的世界観を信じてきた人類に、関係主義=非実体主義的世界観を理解してもらうためにも書かれた書であると思います。なぜなら、それが理解できないと、「資本」とは何かが理解できないからです。

ですから、人類史的レベルで取り扱われるべき画期的な文化革命的事業の「書」であり、しかも、そうした事業を、実体主義的意味・概念媒介する言語を使用して行うしかないのですから、更に一層困難です。そうした意味でも、いきなり独断論的に非実体主義を提示するのは、キリスト教徒に、いきなり仏教の教義を提示するようなもので、誰も理解できませんから無意味です。

そこで、実体主義的世界観を信じている読者の意識を、それから引き離し、中間的な意識レベルへと教導し、最終的に第四節で、大どんでん返しが行われて、商品の秘密を明かされる構成になっています。


マルクスには、ヘーゲルやエンゲルスなどがいて、しかも、西欧理論哲学の成果がありましたが、釈迦はほぼ同じ事業を、約2400年前にインドで行おうとしたのですから、驚くべきことです。
その意味で、マルクス主義には、ほぼ同じ世界観を持った仏教徒という非常に巨大な仲間がいるのだと思います。
ですから、両者が手を結べば、<<世界革命>>も夢ではなくなるでしょう。

13. 2012年2月02日 21:21:28 : J2M3s4zCN6

>>12
「その意味で、マルクス主義には、ほぼ同じ世界観を持った仏教徒という非常に巨大な仲間がいるのだと思います。」賛成です。
マルクスの言う「主体」と釈迦の言う「島」と同じである。
Kakasiさんは例えば、○○さんは当事者と言う意味で「主体」を使われている。この使い方は西洋哲学の一つの流れである。
マルクスの「資本論」第1巻を日本語で読むと、「現象」や「あらしめている」「現れる」と読める個所が幾つもある。
西洋の労働者は背景に仏教がないから核心を掴むのに難儀をしたのではないだろうか。

14. 2012年2月03日 11:18:17 : GTYYDZv9UM
>>12
「ですから、『資本論』の登場人物はマルクスだけではないので、まずは、誰から見た事態の記述なのかを見極めないと理解できません。古典経済学者なのか、読者なのか、あるいはリンネルの所有者なのか、上着側か、あるいは世人=世間一般の人々や、マルクス自身なのかです。更に、たとえマルクス自身のコメントでも、最終的評価とは限りませんので間違いやすいのです。」

 「資本論」第1巻を読むさいの面白さですね。
マルクスは「実体主義」ではないので、主語を使っていないのです。
主語を立てると、読んでいる人にマルクスの主張が入っていかないからです。それは読んでいる人自身に考えてもらうためのサデスションを挿入しているからです。
 Kakasiさんは「実体主義」的傾向があるので、薄くするともっと能力を発揮できますよ。

15. Y. Kakasi 2012年2月06日 23:01:21 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

12) 母系社会さん 長文のコメントをありがとうございます。
13)、14)さんの賛同意見もよくわかりました。
 Kakasiたちの考えは、関係主義的ではなく実体主義にもとづいています。私たちの実体主義では、人間の本性は、欲望と感情を持ち、言語を用いて自己と対象を認識し意味づける「生命言語」的存在であると考えています。従って、商品や貨幣・資本を分析する場合も、それらを作り出してきた人間の本性から分析します。
 つまり、人間を規定しているのは何なのか、人間自身と人間社会を認識する方法はどのようなものか、商品を生産する労働とは何か、労働は人間と社会の発展にとって何だろうか、また、商品交換を規制する貨幣は、人間または人間社会にとってどのような意味を持つのだろうか。そもそも商品交換社会は人間にとってどのような意味を持っているのか、等々のように人間を主体的実体として考えます。

 マルクスの場合、おそらくそれらのことを考え、基本的には人間を労働や生産という自己対象的・発展的存在と考えています。その上で労働生産物である商品を、資本主義的生産様式の社会の中に関係づけ、それを自然史的運動法則の弁証法的過程として描写します。
 マルクス的社会認識は、西洋的思考様式の限界とりわけ弁証法的認識の限界に制約されています。ヘーゲルの場合は、世界を概念(精神の所産)の自己運動として構想描写しました。これに対し、マルクスの場合は、これを転倒させ、資本家的生産様式を労働(生産力)の自己運動として構成描写しました。

 弁証法的自己運動は、人間の認識主体にとっては、受動的な「現れersheinen」という表現になります。商品も人間関係の所産ではなく、逆に人間の関係性を支配する、労働の自己運動的「現れ」として捉えられます。商品交換の成立すなわち「結果としての等置」が、当事者の非対称性(不等価性)を平均化して「等価」とみなします。等価交換の内在性を検証すれば、交換の不等価性を見いだせるのですが、マルクスは古典派経済学の欺瞞性を継承して、結果として、等置の商品は等量の労働を含み「平均的に等価である」(労働価値説)とします。

 市場の商品等置を等価とみなす傾向は、労働価値説をとる古典派経済学だけでなく、欲望や効用を重視する近代経済学においても引き継がれます。つまり経済学的認識では、商品交換の行われる市場の合理性=交換結果としての等価性は、学問的前提とされているのです。しかし市場の実態(実体)は、今日明らかにされているように、不正と欺瞞と不平等の温床となっています。これは今も昔も変わりません。景気の変動は、金融危機や自然災害、政治的不安定性、暴動や戦争等々による交換の非対称性を拡大させる事象の影響を強く受けています。

 マルクスを含めた諸経済学の原理論が、今日の経済情勢を分析するのに有効性を失っているのも、交換・流通・貿易(つまり市場)の非対称性・不等価性の事実の認識・分析を怠っていることが原因の一つです。そしてそれらの非対称性の中で、労働力商品についての階級的非対称性=有産者と無産者の間の非対称性、をめぐる不等価交換(低賃金・劣悪な労働条件)の人間抑圧性・道徳的不正を合理化し、隠蔽して、階級闘争と歴史の必然性に解消しようとしたのがマルクスなのです。

 だから、『資本論』が、関係主義=非実体主義的世界観で「資本」を解明したものならば、それは西洋的思考様式の限界を抜け出しておらず、また人間と人間が造りだした資本の本質を正しく実体的に解明できていないと言うことができます。そればかりでなく、商品も貨幣も資本も剰余価値も、実体概念である人間から解明しないと、自己の理論を絶対化して神話化し、理論のために人間を抹殺してもそれを正当化するような「理論崇拝」「理論による自己疎外」を引き起こす人間を作ってしまうのです。

 補足です。①“「誤りだ」と頭ごなしに否定するような批判はせずに” ②“彼らの目に映る商品を、そのまま記述する” ③“マルクスは「実体主義」ではないので、主語を使っていないのです。”①については、まずマルクスの前提としている「労働価値説」「弁証法的認識論」を批判・吟味することが必要。②は、西洋的偏見の目に映る商品は、人間を主語にして批判吟味することが必要。③は、「生命言語説」の立場は「実体主義」なので、言語で認識・思考する「人間と生命」を主語としてすべての理論を構成します

 残念ですが、立場や見解の相違は認めざるを得ません。立場の違いから何かを学ぶことは必要ですが、以上のことを再認識しました。とても勉強になりました。ありがとうございました。

○仏教については下のサイトを見てください。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html#bukyouge

転載後の注:母系社会さんは、Kakasiが、等価交換と価値法則を同一のものとして批判していると捉えていますが、Kakasiは価値法則の平均的法則性そのものを否定しています。なお「市場で売買契約が成立すればすべて等価交換である」は、マルクスの引用ではなく、経済学一般の前提をまとめたものです)


16. 2012年2月07日 08:25:02 : WMkw86onhg

Kakasiさんたちへ
01です。
マルクスについて書かせて頂き、こちらこそありがとうございます。
さて、私は若いころマルクスは仏教の勉強をしたかな、と思っていました。
生まれも育ちもトリーアでゲーテやシェリングは、マルクスの親父の世代なんですよ。
シェリングなどの人間観は仏教の異体と同体における用(ゆう)・体関係ですよ。
もろ関係主義です。
西洋でも実体主義が多数で主流を占めているのは、たかだか「人間復興」以後です。
日本なんかでも共産党や左翼で表現している人などは実体主義者です。
実体主義で生きていると疲れますよ。
ではまた。

17. Y. Kakasi 2012年2月10日 21:31:28 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsF
M
 Kakasiも仏教は大好きです。しかし、大乗の非科学的なところは克服するべき限界があります。仏教は科学的に、臨床心理学的に現代化することが可能だと思います。
 実体主義でも疲れない方法があります。大乗仏教よりも、より深い悟りを得ることです。そのためには知恵と悟りの本質を、実体的につかむことです。まず、生命とは、言語とは何か、から始めようとしています。探求の苦しみを越えると持続的な心の平安が得られるのではないでしょうか。


18. 2012年2月11日 08:02:16 : qZQEQz3Uag

 Kakasiさんたちへ
16です。
返事ありがとうございます。
あなたがたにとり「科学的」とは、とても意味があることなのでしょうね。
「大乗の非科学的なところは克服するべき限界があります」とは、あなた個体のとっての限界ですか。
それともあなたの個体を離れての大乗なのでしょうか。
あなたの体を離れて「法」の現象があるのでしょうか。
 さてわたしは言葉を「本当も言えるし、嘘も言える」と感じています。
一方お釈迦様は「中州=島」に依拠して生きろと、教えています。
だから私=自分の言葉をよく聞く必要があると思っています。
ではまた。


19. Y. Kakasi 2012年3月10日 00:07:13 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
18)さん 返答を忘れておりました。 
大乗の限界については、Kakasiの個体を離れての限界です。 というのも、「大乗非仏説」というのをご存知でしょうか。
 釈尊(ブッダ)は、主に出家した修行者の教育・指導にあたり、また出家を勧めました。在家信者にたいしても「法」を守り、自らを律することを求めました。
 後の大乗仏教は、在家信者への配慮(妥協)から、「法」よりも菩薩の救済に依存させるようになりました。
 しかし、釈尊の本意は次のとおりだと思います。
“この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。”
“感受について感受を観察し、心について心を観察し、諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
(『ブッダ最後の旅』中村元訳)


*****************************************************************************************
■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その16)

http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 2 月 09 日 23:45:51: BW32mpuE76J86
 日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長と、志位委員長のネット公開教室は、とてもわかりやすいので科学的社会主義・日本共産党批判をするのにとても役立ちます。今回は不破さんの第11回古典教室について考えてみます。まず是非講義を視聴してください。
→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 今回の内容は、エンゲルス『「フランスにおける階級闘争」への序文』の第2回です。要約にもあるように、エンゲルスの“遺言”となった『序文』(1895)は、マルクス主義政党として出発した「ドイツ社会民主党」(1890ドイツ社会主義労働者党から改名)が、ドイツ革命の見通しを誤らないようにという警告の文書となっています。つまり、普通選挙による多数派の形成は重要であるが、機が熟せば武装蜂起もありうることを述べています。

 当時のドイツ党指導部は、皇帝ヴィルヘルム2世の労働者保護政策に懐柔されたこともあり、武装蜂起の可能性を述べた『序文』の一部を削除して公表しました。エンゲルスにすれば、労働者の合法的な多数派獲得が進めば、権力側が追い詰められ合法性を破り、「公然たる攻撃を選ぶだろう」から準備を怠るなということでした。しかし、エンゲルス死後、ベルンシュタインが、マルクス主義の歴史決定論を批判するようになると「社会改良か、革命か」「武装蜂起か、議会主義か」ということが問題になり、ベルンシュタインは敗北します。(コメント欄で引用)
 
 ところで、不破さんが講義で言われるとおり、民主主義は多数を獲得することなので、「多数者革命」というのは正しいのです。しかし、問題はマルクス主義的革命に多数者の資格、つまり人間(労働者)の主体的自己解放、人間に特有の社会組織の主人、自然の主人、自分自身の主人(『空想から科学へ』)となれる可能性(資格)があるかということです。

 単に物質的生活向上や基本的人権の実現だけなら、資本主義の枠内での社会民主主義(改良主義)や福祉主義によってある程度可能です。しかし不破さんは、マルクス主義多数者革命(空想的共産主義)の立場から、強力を伴う「生産手段の社会化」を歴史的必然と考える理論を捨てません。 だから、不破さんは、ベルンシュタインを「マルクスは古くなったと言って一番右にひっくり返った」と批判します。マルクス主義者がプチブルと批判するベルンシュタイン主義(修正主義・社会改良主義)の評価については、科学的な検討(生活向上や中産階級の増大等の可否)を十分しないで、ロシア革命とマルクス主義の後継者としてのレーニンへの高い評価につながるのです。

 不破さんは、レーニンの『国家と革命(1917.8)』や十月革命後の一時期には、多数者革命不可能論(少数者革命論)というマルクスの読み違えによる理論的に誤った「荒れた時代」があったとしています。また、マルクスも言わなかった市場経済を導入した新経済政策(ネップ)や平和共存路線を評価し、レーニンによって不破理論を補強しています。しかし、レーニンが『国家と革命』で言いたかったのは、それらだけでなく、「国家の揚棄(廃絶)」や「プロレタリアートの独裁(執権)」「暴力革命の不可避性」です(コメント欄に引用)。
 これらを棄てると(「綱領」では極力抑制してありますが)、革命の過程で起こる少数者(反革命)の抵抗を抑えられないので、『序文』を継承し『国家と革命』を多少とも容認する不破さんの説明では、民主連合政府の成立はあり得ないでしょう。マルクス主義の創造的理解者であるなら、逸脱したロシア革命とその指導者レーニンへの評価よりも、帝国主義戦争前後に修正されてきた先進資本主義国家の利害調整機能や財政政策、改良主義や福祉国家政策についても触れるべきでしょう。

 前回まで述べてきたように、マルクス主義が反人間的・抑圧的理論であるということは、剰余価値説を表面的に理解しただけではわかりません。商品の等価交換法則によって、労働者の低賃金・劣悪な労働条件が、労働者(人間)の「必要労働」「再生産費用」であると歴史的に規定したところに問題があります。マルクスによると、階級的に規定された低賃金(再生産費用)は、等価交換だから「不正ではない」のです。しかし隠された搾取の不正を正すには、階級闘争の歴史的必然(唯物史観)によって、労働者階級が支配階級としての資本家を倒し、生産手段を社会化すれば、その支配組織である国家自体も死滅するというのです。

 ところが、現実に労働者の生活向上(人間的生活に必要な再生産費用の増大)に取り組んできた労働者や労働組合の活動家(政治家・革命家)からすれば、マルクス主義的・革命的社会主義の原則であった「生産手段の社会化」が実現しなくても、議会制民主主義を通じて労働者階級の生活向上と諸要求を実現する展望が見えてきました。「革命の時代」といわれる19世紀でしたが、資本主義の発展や普通選挙権も拡大し、労働者の生活や権利が拡大してきました。そのためドイツのベルンシュタインはエンゲルスの死後、マルクス主義を修正し、議会を通じて社会主義を実現するべきであると主張するようになりました。

 いったい「国家の揚棄(廃絶)」という想定は正しいのでしょうか、国家の役割が階級支配のためだけでないのは、生産手段の社会化と計画経済だけを考えても国家組織は必要になるので、共産主義で国家が廃絶されるというのは論理矛盾になるでしょう。国家(法)による調整を必要とする経済的政治的「利害」は、階級利害にとどまらず、地域的、集団的、個人的等の利害がありますし、また国家の行う徴税とその再分配が廃絶されることはあり得ないでしょう。さらに思想的には、反マルクス主義などを排除する必要があるでしょう。

 今回の講義の終わりには、フランスやイタリアの共産党にも触れられています。フランス共産党は、レジスタンスで活躍し国民の支持もあつかったのですが、ソ連の資金援助によって活動していたということもあり、ソ連崩壊後は実質的にマルクス主義を放棄したとされています。イタリア共産党は、早期にマルクス主義を放棄して「構造改革路線」をとり、右派のキリスト教民主党と「歴史的妥協」をはかって、共産党の名称も棄ててしまいました。

 そこで不破さんによれば、日本共産党は、ソ連依存ではなく「自主独立」の党であったからこそ、ソ連崩壊後も正しく「多数者革命」を継承発展させることができると強調します。そして日本に、民主連合政府による多数者革命が行われれば、人民の力・意志で、初めての新しい社会の仕組みをつくる変革が行われ、日本の国民はさらに進んだ変革に自信を持つようになる、と展望を語ります。

 さて不破さんの展望は、実現可能性があるのでしょうか。その展望をさらに追加の講義で、次の12回(2/7)に語られます。公開されるのを楽しみに待ちましょう。


 前回までは、表題<科学的社会主義・・・>を「★阿修羅♪検索」で検索してください。
「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪」

01. Y. Kakasi 2012年2月09日 23:49:58 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
●ドイツ社会民主党の理論家であったベルンシュタインは、イギリス亡命中にマルクスやエンゲルスとも親交がありました。エンゲルス死後、カント主義的立場から、科学的社会主義に対する批判を強めました。レーニンによって「背教者」とされたベルンシュタインの唱える社会主義は、イギリスやドイツにおける中産階級の増加を背景にして、科学的社会主義の歴史決定論を批判し、社会改良主義、修正主義を唱えて後の福祉国家主義への道を開いたのです。
 日本共産党の綱領にある「資本主義時代の価値ある成果」の多くは、レーニン的社会主義の理念によってではなく、ベルンシュタイン的社会主義の理念によって北欧諸国を中心に実現されてきました。彼はマルクスを克服することはできませんでしたが、社会主義に人間の道徳と正義の理想が実現されることを求めていたのです。
 ベルンシュタインの『科学的社会主義はいかにして可能か 1901』からわかりやすい部分を引用しておきます。

 “労働者階級にとって民主主義を闘いとることの必要性を疑ったような人物は、ひとりもいない。なにが論争されたのかといえば、崩壊論がそれであり、また、ドイツの現在の経済的発展とその都市・農村労働者の成熟度とにかんがみて、突然の破局が社会民主党にとって好都合でありうるのかどうかという問いがそれである。私はこの問いに否定をもって答えてきたし、今なお否定をもって答える。なぜなら、私の考えでは、破局が生みたす可能性にくらべて、不断の前進のうちには、より大きな永続的成功の保証がひそんでいるからである。”(序文p9)

 “科学としての領域では、社会主義は理論の統一性を拡大する方向にではなく、逆に理論の壊滅に向かっているように見え、確信に代わって懐疑と放心とが社会主義の理論的代表者を捉えているかに思われる。・・・・・すなわち、社会主義と科学とのあいだには、そもそも内的関連が存在するのだろうか。科学的社会主義は可能なのであるか。そして――社会主義者として私はつぎの問いを追加するのたが――
科学的社会主義はそもそも必要なのか。”(p304)

 “社会主義と科学との関係を論じるのである以上、まずわれわれは、社会主義という語のもとにそもそも何を理解する必要があるのかを明らかにしなければならず、そののち、つぎの問いに移ってゆくのでなければならない。いわく、科学的社会主義は可能であるか。そしてそれは、いかにしてであるか。”(p305)

 “社会主義にはつねに、ある理想主義的要素が混和している。つまり、それぞれそのものがこの理想であるか、それとも、このような理想に向かっての運動であるかのどちらかである。・・・・・それはあるべきものなのである。あるいは、あるべきものに向かって運動するものなのである。”(p306)

 “運動としての社会主義は、その最重要動機としての利害関心により導かれる。だが、ここではっきりと注意しておかなければならないが、この場合の利害関心とは、もっぱら個人的、ないしは経済的な自己関心と理解されてはならない。道徳的な(社会的に感受された)利害関心、理想主義的な利害関心というものも、やはり存在する。”(p307)(『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務 1899』佐瀨昌盛訳 ダイヤモンド社 )

レーニン『国家と革命』(宇高基輔訳 岩波文庫)
 “国家は「特殊な抑圧権力」である。エンゲルスの、このすばらしい、最高度に深遠な定義は、ここ[『反デューリング論』]では、このうえもなく明瞭にくだされている。ところが、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、ひとにぎりの富者が数百万の勤労者を「抑圧するための特殊権力」は、プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊権力」(プロレタリアートの独裁)と交替しなければならない、ということである。「国家としての国家の揚棄」とは、まさにこのことなのである。社会の名においておこなわれる生産手段の掌握の「行為」とは、まさにこのことなのである。”(p31)

 “ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と「死滅」の道を通じて交替するのことは不可能であり、それは、通常、暴力革命によってのみ可能である。エンゲルスが暴力革命にささげた賛辞は、マルクスのたびたびの言明にも完全に一致しているが、――(われわれは、暴力革命の不可避性を堂々と、公然と声明している『哲学の貧困』と『共産党宣言』との結語を思い出すし、またそれよりほとんど三〇年後の一八七五年の『ゴータ綱領批判』を思い出す。この『批判』では、マルクスは、この綱領の日和見主義を容赦なくむちうっている)――この賛辞は、けっして「はずみ」でもなければ、大言壮語でもなく、また論争上の脱線でもない。暴力革命にたいするこのような――まさにこのような――見解をもって大衆を系統的に教育する必要が、マルクスおよびエンゲルスの全学説の基礎にあるのだ。”(p36)



02. 2012年2月10日 00:24:11 : EVskgte9f6

JCPを擁護するわけでは有りませんが。
分業化の進んだ現在、調整役としての国家あるいは公務員の存在は否定できません。実際、JCPは民主党が言うところの議員定数削減には反対の立場です。

ここでkakasiさんに尋ねたいのですが。
かつてkakasiさんは市場における不等価交換という話をされていましたが、この点に限って言えばkakasiさんはマルクスを批判されていたように思います。一方、他の幾つかの点については、JCPがマルクスの主張を受け継いでいないと批判されている。

私にはkakasiさんが誰を批判するかはどうでもいいことなのですが、kakasiさんが何を最善としているかが判りません。もちろん、過去の論文を土台とした批判(=改善)でも充分です。ただ、そこでさえ未だにはっきりしないような気がするのです。

良かったら意見をお聞かせ下さい。
特に、等価交換あるいは道徳的な平等性が、極めて具体的に何を意味するかどうかについて意見をお聞かせいただければありがたいです。


03. Y. Kakasi 2012年2月11日 00:11:59 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

02)さん このような本質的なご意見(質問)をいただけることをうれしく思います。
 商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)。しかし経済学理論では、産業資本主義においては、等価交換が一般的に行われていることを前提としています。(『経済学辞典』で確認されることをおすすめします。)
 Kakasiたちは、少なくとも産業資本主義における剰余価値の搾取(労働者の低賃金)は、不等価交換であると考えています。だから、マルクスが「等価交換にもとづく剰余価値説」を理論化したからといって、決してマルクスだけを批判しているのではありません。等価交換は、ほとんどの経済学者が陥っている西洋思想的誤りだけれど、人間解放を唱えるマルクスが、人間性を含む労働力商品を低賃金と等価交換することは、論理的に、労働者から人間性(人間的生活と権利)を奪う理論(革命目的主義)になると批判しているのです。

 さらに今まで近代市民革命以後の民主主義の発展において、社会主義や福祉主義は、社会や国家による分配の公正・公平や基本的人権の保障を実現しようとしてきました。社会主義は、生産手段の社会化によって、労働に応じた公正・公平な分配をしよう、福祉主義は、基本的人権・最低生活の保障(セーフティネットとも)のために税金による分配をしよう、というものです。これらは
「分配的正義」と言います。

 しかし私たちは、基本的人権を守ったり、公正・公平な所得を得ることは、生産手段の社会化(国有・公有)や国家的福祉政策だけでなく、人間と人間の交換関係(家族や地域、利益集団等を含む)にも、公正・公平の原理を実現していこうというものです。これは
「交換的正義」と言います。

 「分配的正義」が、功利主義的損得勘定、合理主義的社会契約中心なのに対して、「交換的正義」は、家族関係のような情緒的関係から、組織の上下関係、労働力売買・評価・雇用関係、一般的商品交換等、すべての個別的人間関係を含みます。つまり、交換的正義では、愛情や信頼、互助や奉仕、公開や配慮、命令や服従、相互の共感的理解等の個別具体的な人間関係が重視され、主体的道徳的判断が行われます。分配的正義が客観的合理主義的なのに対して、交換的正義は主観的情緒的側面が重んじられます。

 交換的正義を重視することは、今まで学問的に軽視されてきた商品交換の不等価性(商業利潤、独占利潤、労働者搾取等)を透明にして、等価交換の欺瞞性を明らかにし、交換の公正・平等化を追求しようとするものです。それは同時に、マルクス主義の欺瞞性人間抑圧性を明らかにすることにもなります。それを一言で言えば、「交換契約の社会的責任をはたす」ことになり、さらに進めれば、近代の利己的自由・平等の個人主義から、
「道徳的社会主義の実現をめざす」ということになります

 机上の空論といわれればそれまでですが、言葉の創る理論や知識は、人間の心を捉えれば社会を変える力になります。不十分な答えですが参考になればありがたいです。



04. 母系社会 2012年2月11日 09:54:50 : Xfgr7Fh//h.LU : Fm7ffvNnyc


●例えば、Kakasiさんが外国人に、先の戦争で日本軍が自殺攻撃である特攻作戦のような異常な戦術を行ったことを説明する場合には、戦前の日本がどのような国家・社会であったのか説明しなければならないでしょう。
そのためには、戦前の日本ではファシストにより天皇は<生き神>とされ、
日本国民は<生き神>である天皇を自らの命を犠牲にしてでも守るように洗脳されていたこと、それで日本軍は自殺戦法さえも正式な軍の戦術として採用したし、兵士も特攻を拒否すると家族が非国民と見なされて迫害されると考えて、従わざるを得なかったなどと説明すると思います。

しかし、そのように説明したからといって、Kakasiさん自身が天皇は<生き神>だと考えているわけではないのは明白です。とにかく、戦前の日本国民は、政府の洗脳により天皇制ファシズムに取り込まれ、人間である天皇を<生き神>と思わされていたという事実を説明し、なぜ、日本が特攻などという非常識な自殺作戦が実行されたのか説明しただけでしょう。

マルクスは古典経済学な資本主義像の批判を通じて、自らの資本主義像を説明したのであり、その説明で資本主義体制下の労働者は古典経済学が説明するような存在ではなく、労働力商品として、つまり人間が商品として扱われていると理論的に提示したのです。

 労働者は説明するまでもなく人間であり、商品であるわけがありませんから、マルクスは資本主義では人間が商品として扱われていることを暴露したのであり、その不当性を告発したのです。

Kakasiさんのマルクス解釈は、Kakasiさんが戦前の日本を説明したことで、
Kakasi地震が天皇は<生き神>であると主張していると誤解するのと全く同じ誤解であり、正反対の解釈=大誤解です。

 正に、マルクスは資本主義の思想に取り込まれている人々は、天皇制ファシズム思想に取り込まれた人々が天皇を神と見なしたように、労働者を労働力という商品を所有する一種の資本家と見なし、資本を所有する資本家と対等な立場で、労働力を商品として売買していると考えてしまうカラクリを明らかにしたのです。

労働力を商品と見なすことで、商品としての労働力提供の対価(賃金)は労働力の再生産費となり、不当に安くされていると暴露したのであって、労働力を商品として見なすことは正しいとか、それで良いとかと言っているのではなく、逆に、資本主義という経済システムは、労働者を商品に貶め、それにより労働者を搾取する体制だと暴露したのです。

Kakasiさんは、自分が戦前の日本では、政府やマスゴミによる組織的・計画的な洗脳により、天皇は<生き神>であると、多くの国民から見なされていたと説明したことを、Kakasiさんは天皇は<生き神>であり、それは正しいと主張していると非難されたら、誤解だ!と怒るでしょう?

●また、Kakasiさんは、マルクスが<労働>という言葉を、文脈毎に様々な意味で使っていることを理解していません。

仮に、マルクスがKakasiさんのいうような労働至上主義者であるなら、「資本論」でマルクスが、労働者の生業(生きるために仕方なくする労働)としての労働時間の短縮と自由時間の拡大を何度も訴えているようなことはしなかったと思います。

権力を掌握した各国のスターリニストにより、労働至上主義のような思想が流布され、権力の維持に利用されてきたのは事実ですが、マルクス自身は、生業的な労働時間は短縮することを何度も何度も訴えていました。

そして、将来的には生業としての労働から、広い意味での人間活動、つまり半ば趣味でもあるような複数労働への転化=固定的な専門職をもたない状態=肉体労働と頭脳労働に分離された「分業」の廃止=を理想としていたのは、マルクスの(暫定的な)理想社会の構想からも明らかです。

ですから、マルクスを労働至上主義者のように考えるのは、とんでもない誤解であり、スターリニストの労働観を、そのままマルクスの労働観と誤解しているのではないかと思います。


05. 2012年2月11日 11:31:23 : qZQEQz3Uag

母系社会さんへ
あなたにケチをつけるつもりはありません。
私はあなたの説を補強したいのです。
私は左翼ですが、「スターリニスト」について理解できません。
マルクスはマルクス、エンゲルスはエンゲルス、レーニンはレーニン、スターリンはスターリンの感受性があると思います。
でもそのマルクスの感受性は、その上で、マルクスを必要とした周りの人の感受性に影響を受けている合作だと思います。
それは人間が社会的な動物だからです。
マルクスは上流階級の出です。
そのマルクスがドイツ出身の亡命した職人の必要性に応えて、自己の解放と労働者階級の経済的解放のための立場に立ちました。
「スターリニスト」はどんな諸関係を指しているのでしょうか。


06. Y. Kakasi 2012年2月11日 15:23:37 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
3)母系社会さん、コメントありがとうございます。
 母系社会さんは、正しくマルクスを理解されています。だからおそらく水掛け論にはならないでしょう。なぜなら誤解しているのは母系社会さんでもKakasiでもなく、西洋思想の限界の中で物事を考えてきたマルクスだからです。
 Kakasiたちは、マルクスとエンゲルスが、自らの社会主義理論を「科学的社会主義」と規定するのは、西洋思想的誤解であり、彼らの意図とは逆に人間抑圧の理論となっていると批判しています。
 おそらく母系社会さんは、社会主義を科学にしたといわれる「等価交換にもとづく剰余価値説」と「唯物史観」の認識論となる「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」という公式を真理と考えられるのでしょう。しかし、Kakasiたちはこれがマルクスの誤りであると断じています。
 
 この説明は何度かしてきましたが、唯物史観の公式中の「人間の社会的存在がその意識を規定する」について付け加えておきます。それは、人間の意識が、単に社会的存在によって“ある程度”規定されることはあっても、人間の創造的意識が人間の存在や未来の活動を規定し、社会的存在を変革できる、ということです。簡単に言えば、人間存在における意識(理論・思想・知識=言葉で思考されるもの)を重視することです。
 ただ念のため、マルクスの『経・哲草稿』や『ドイツイデオロギー』『フォイエルバッハに関するテーゼ』等におけるマルクスの革命的意識や情熱を持ち出して、マルクスは革命的・階級的意識の役割の重要性を説いていると述べても、それは科学ではありません。
 マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず、「プロレタリアートがプロレタリアートを止揚」できず、永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです。

 母系社会さんの言われるとおり、マルクスが資本主義の不正やカラクリを明らかにしようとしたのはその通りです。しかし問題は、マルクスの弁証法的・合理主義的思考の方法が、西洋的限界内にあったということです。労働者が労働力商品として搾取されていることを解明するためには、古典派経済学から今日まで続いている、等価交換による商品交換理論――市民社会の自由で平等な自律的人間による社会契約論――の限界や欺瞞性(商品交換の非対称性、不等価性)こそ解明して、低賃金や劣悪な労働条件での交換が、いかに不等価で非人間的な交換であったかを示すべきだったのです。それは今日の格差社会にあってますます必要になっています。

 母系社会さんが、Kakasiが「大誤解」をしていると言われるのはよくわかります。現在の経済学の世界が「等価交換」を正しいとしていますし、唯物弁証法や認識論に至っては、現象学や科学的心理学においても百家争鳴の状態です。私たちは、今までの哲学や科学、経済学や政治学等の西洋学問の伝統(常識)を、できるだけ正確に理解した上で、「生命言語論」の立場から人類の知(科学)を革新しようとしています。
 いつ止めろと言われるかわかりませんが、共産党のネット教室が続き、小沢批判と検察擁護が続く限り、続けますのでまた建設的なコメントを期待しています。


07. 2012年2月11日 22:30:49 : EVskgte9f6

>>03
丁寧な返答、有難うございます。
kakasiさんの言われる不等価について私が質問させていただいた理由は、不等価というものの実態が明らかになるまでは、その改善も出来ないのではないかという考えからです。

市場における等価交換というのは需給のつりあいで達成されるもので、市場が機能する限り(定義的には)等価交換以外ありえない(と以前お伝えしたように思います)。つまり、kakasiさんの仰る

>商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)。しかし経済学理論では、産業資本主義においては、等価交換が一般的に行われていることを前提としています。(『経済学辞典』で確認されることをおすすめします。)

という主張は主客転倒のように思えるのです(等価交換とは市場の「中」で定義される)。

この主張を仮定して、それでは不等価交換とは何なのか。

実例としては、生産者の寡占化による供給力の集中化や、巨大資本による流通の制御など幾つか考えられます。これらのように具体化すれば個別に対応できると思うのですが、不等価交換という表現のままでは改善が困難ではないかと思います。だから、kakasiさんがおっしゃる『商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)』、という状態ではマルクス主義は兎も角、現行の市場の仕組みに対する批判としてkakasiさんの言われる事がどのような意味を持つのかが、私には理解しにくいのです

その顕著な部分として、例えば、市場と市場原理主義との区分があります。

市場はそもそも物々交換の場であり、その利便性から自然発生したもので、等価交換というのは市場のあとから出たのだと私は思います(市場に貨幣が流通する以前から「搾取」に相当する行為はあったでしょう)。だから、市場に欠陥があるとしても、市場そのものの存在理由には肯定的なものが存在する、と、私は思います。また、道徳が普及し市場取引に何らかの変化が入れば、kakasiさんも市場は正常に機能していると判断できる状態になりうると思います。

一方、市場原理主義というのは需給バランスで価格が決定する(これを現代では等価交換と呼ぶわけですが)ことを最も妥当な仕組みとみなす思想をさす。ところが、これは、等価交換といいながらも実質は「需給均衡価格」と呼ぶべきもので、価値というのは個人の価値観によって異なるがゆえに、価値という言葉を国語辞典的に使うのであれば、等価交換は「ありえない」。そう思うのです。

ちょっと話は飛びますが、価値と同様に道徳も個人によって異なる。だから、そこを主軸に論理展開するのはなかなか難しいように思うのです(たぶん、kakasiさんはマルクスのような科学的なアプローチは非人間的と考えられていると思うのですが、科学的、すなわち第三者から検証可能な主張でなければ賛同も否定も不可能な状態になってしまうと思うのです)。


08. 2012年2月12日 10:56:11 : NyHjCf44pY
Y. Kakasi さま
 以下の主張について補強します。
「マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず、「プロレタリアートがプロレタリアートを止揚」できず、永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです。」
「マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず」とありますが、これはユニークな社会観と思います。
 マルクスは社会を「総体」と言っています。
マルクスの社会観の発想には私たちの「同体」にちかいのがあります。
同体とは同じ筒の中のAとかBの関係のさまのことです。
これはシェリングからです。
 
 また「永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです」は、同体の現象の変化のことです。
 同体の現象の変化はゲーテからです。
動物は節目をもつて生まれてきます。
植物は発芽してから節目をつくります。
同体の中での関係の変化で、同体の現象が変わります。
その関係の変化の端緒は発芽しての節目つくりです。

 母系社会さまが、マルクスの労働を「活動」としても把握されています。
その通りだと思います。
その活動が使えるのは節目ができた後の社会でのことになります。

09. Y. Kakasi 2012年2月12日 15:19:56 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

●>>03 >>07 さん このような場で冷静な議論をしていただけるのをうれしく思います。なにせ表題はいささか論争的ですから・・・。
 さて
 「商品社会における価値交換は、そもそも等価なのか、不等価なのか?
という問題は、自律した当事者がお互い納得して交換(等置)し、市場もそれを認めて均衡が取れているのだから、等価にしておこうというぐらいのことで、経済学者たち(マルクス経済学の人たちも)もあまり深く考えていないと思います。

>現行の市場の仕組みに対する批判としてkakasiさんの言われる事がどのような意味を持つのかが、私には理解しにくい。>
→という疑問は、マルクスの『資本論』が科学的運動法則を解明したとされていることへの批判のためです。一般的商品交換は、等価・不等価の基準を定められないけれど、労働力商品については多くの企業が、多くの労働者に対して不等価な交換によって利益を得ているということです。

 しかも労働力から得る利益(剰余価値)は、マルクスの言うように生産の過程であれば、等価交換だから「不正ではない」のです。しかしマルクスも認めるように、資本家は交換過程で知っていたのです。ということは、道徳的な立場からは、交換過程で搾取を前提に取引が行われているから、交換自体が不等価で欺瞞的なものである(交換過程搾取論)ことになります。さらに『資本論』が人間と人間労働を抑圧的(再生産費用の過少評価)に捉え、その抑圧性と歴史必然性が、共産党の独善性につながることは何度か述べたとおりです。

 この意味を、理解していただければ、ありがたいと思いますが、
>科学的、すなわち第三者から検証可能な主張でなければ賛同も否定も不可能な状態になってしまう。>
→と言われると、確かにその通りです。そこで、今まで単に商業利潤(安く買って高く売る)と独占利潤(独占的必需品を高く買わせる)と剰余価値(交換過程搾取論)の不等価性で説明しましたが、さらに商品交換の非対称性を「欺瞞性」として捉えてみます

 商品A=商品Bにおける等価交換は検証可能か?
 A=Bが等価であるという限り、等価の基準は当事者相互の合意によります。市場もそれを認めれば市場の合意(需給の一致)、平均的な均衡価格として等価が決定します。近代経済学ではそうなります。

 しかしマルクスは労働価値説なので、検証抜きでこれを等価とします。交換の合意は人間の欲望や判断を越えたものと考えるからです。つまり、唯物史観の公式が適用され、一定の歴史的社会的状況では、A、B双方には同じ労働量が含まれているから「社会的存在が意識を規定」し、等価として交換されているということになります。

 実は、商品の価値を正確に計る基準などないので、等価と見なす近経もマル経も共に平均的なものにすぎません。だから最後に残された検証可能な方法は、当事者の価値評価の非対称性によります。つまり商品売買の当事者が、売り手と買い手で売買条件が違うのです。その条件はその商品の生産コスト(人件費、材料費、投下資本)、希少性、効用性、そして利潤(欲望・意欲・期待等)ですが、いずれも主観的部分があります。

 実はこの主観的部分の非対称性が、商売のおもしろさであり資本主義の活力源になっています。そして、この具体的非対称性における、等価・不等価の現実が、検証可能な経済活動なのです。平均的に均衡であったり、等置されることが等価を原因とするのではなく、価値が不等価であることが原因となって交換(等置A=B)が成立するのです。

 つまり、交換における具体的な非対称性=不等価性が、交換成立(A=B)の原因だから、これを不等価交換とするべきなのです。物事を科学的に見るためには、結果だけでなくその原因を正しく見る必要があるのです。結果としての等価は、必ずしも原因としての等価ではないのです。逆に、不等価であるからこそ等価という現象が生じるのです。

 長くなりました。社会現象の法則性を探求した天才学者たちに対する批判は、ほんとに難しいです。もともと検証できない理論を、検証によって批判するのは歴史の審判を待たねばならないのです。マルクス主義は歴史が検証しつつありますが、中国、北朝鮮、日本等はどうなるでしょう。次回に考えたいと思います。



10. 2012年2月12日 22:51:14 : EVskgte9f6
>>09 丁寧な返答、ありがとうございます。
kakasiさんの仰ることは、おそらく「交換というものは、双方が得をすると信じた上で行われるものである」ということなのだと思います。

一例ですが、海辺の住民が魚を取り、内陸の住人が野菜や果物を採って、互いに持ちよれば交換が成立します。人間にとって必要な食物で、かつ、それぞれの住民にとって欠乏しがちであるという状況だから交換が成立する。しかし、これらは物理的に見て異なる物体である。

このように交換というのは基本、それによって双方が得をするものだと思います。だから成立する。交換に参加する人々それぞれの立場に立てば、常に「不等価交換」であるし、そうでなければ交換は成立しない。

この例で重要なのは、不等価交換が、双方の生活の向上に寄与している点です。物理的に等価ではなく、交換の参加者それぞれにとっても等価ではない、そのような、いわば不等価な交換が参加者全員の利益になる。つまり、「成立する交換」というのは不等価交換なのだと思います。

いや、そうではない、交換全体を眺めて「交換の参加者が交換から受ける効用が全て等しい」(数値化できるという主張が無茶なのはわかっていますが、そこは御理解下さい)という意味で等価だ、と考えるとしても、それを判断するには神の様な能力が必要になります。従って等価かどうかの判断は今の人類には無理である。

ですので、私が思うに
・不等価交換の克服は不可能である
・不等価交換であっても交換の参加者全員が正の効用を受けることができる
・そのような不等価交換を促進する手段とは何かを考えるべきである

と考えたいのです。

また、人間は物理的な存在であるがゆえに、多少なりとも『科学的』視座から「人間における世の事物の効用関数」というものを見出していけると思いたいのです。この願いは私個人の「信仰」ではありますが、そうしていくことで、道徳や平等といった表現を、より検証可能なものに置き換えていけるのではないかと期待しております。


11. 一隅より 2012年2月12日 23:02:45 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA

Kakasiさん、皆さん。
どうも皆さんで、価値とか利潤とか使っている用語が同じものを指しているのかどうか私には分かりません。
そこで取りあえず以下ではごく日常的な用語で考えます。(それに貨幣〔であらわされた値段〕の存在も前提してしまいます。)
そうすると、こうなります。
  ↓
まずたとえば、「郊外でネギ1本50円で仕入れて、トラック・燃料の費用を50円かけて町中に運び、150円で売る。」
50円のもうけ。
この50円は誰のものか。

第二に、同じことを人を雇ってやらせたら、もうけの50円は誰のものか。


すみません、以上の質問をさせてください。

というのは、私にはどうも、Kakasiさんは問題の前半はマルクスと同じことを言っているのじゃないかと思われるからです。
そうすると上の質問の答えから、問題の後半でどの点からマルクスと異なってくるのか私に分かるのではないか。

あるいはそうではなくて、
そもそもの出発点からマルクスを(あるいは労働価値説を)批判する立場なのか。それはどんな立場なのか
これも上の質問の答えから、うかがえるのではないか。

(質問はできるだけ狭く、「交換」と「儲け」の点だけにしました。お答えはもちろんもっと幅広く、主観、嗜好、意識などの点にまでわたることになるのかも知れませんが。)


14. Y. Kakasi 2012年2月13日 01:08:47 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

一隅さんの話(質問)は、わかりやすいです。Kakasiの話は、いつも難しくなるので反省しています。
 さて、質問に三を加えて、
一、商業利潤:安く買って、高く売る。
二、商業利潤:安く買って、安い費用(運送費+人件費)で、高く売る。
三、産業利潤:原材料と労働力を安く買い、大量に安く造って、高く売る。
一の儲けは本人のもの。
二の場合は、一に人件費の費用が加わるので儲けは50円にはならない。人件費を40円にすれば、10円の儲けが雇主に入る。
一と二では、マルクスとの違いはわからず、三ではじめてマルクスと異なります。三で、マルクスは、労働力を価値通りに等価で買い、価値以上に働かせます(剰余労働)。しかし、Kakasiは、上記のように労働力を価値以下で安く買うことが異なります。あとは人間の限界まで働かせ、技術革新で生産性を高め、利潤率を上げて、その儲けは資本家・経営者(・地主)で山分けをします

 ここで労働価値説(等価交換という商品法則)をとるマルクスは、人間的生活の再生産ができない低賃金を、等価と見なして歴史的に合理化します。それを批判するKakasiは、労働者が人間的生活の再生産ができない不公正不当な低賃金で働かされるということになります。マルクスにとってはこの低賃金は、論理的には、革命による生産手段の社会化による以外改善されないのです。
 
 なお、Kakasiの価値説は、相対的主観価値説で、社会的価値(商品相場・市場価値・交換価値・平均価値・均衡価格)は、人間の主観的判断の材料になるけれども、主観を支配する絶対的固定的なものではない、というものです。
 また難しくなってしまいました。これはKakasiの能力の限界だけでなく、マルクスが弁証法の限界を理解できなかったことにもよるのです。

10)さん コメントありがとうございます。仕事の関係で次回に。晩安


15. Y. Kakasi 2012年2月13日 23:10:32 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
10)さん コメントありがとうございます。
 全体としてとても共感できる内容です。「人間における世の事物の効用関数」は面白い発想なので、具体的内容を知りたいものです。
>>10 kakasiさんの仰ることは、おそらく「交換というものは、双方が得をすると信じた上で行われるものである」>
→というのは、若干違います。これは取引関係の微妙なところですが、交換はwin win の関係ばかりとは限りません。資本主義的企業活動では、利己的利益の追求が、結果として相互の利益になると考えます。しかし、商売では「損して得取る」という言葉があるように、投機的要素が強い場合、損を覚悟で大儲けをねらうことも多く、理想通り行くとは限らないのです。だから「信じた上で」というのは、「信じるものは損をする」ということにもなりかねません。ただ近江商人の「三方よし」は、営業(商道徳)の基本だと思います。

>交換に参加する人々それぞれの立場に立てば、常に「不等価交換」であるし、そうでなければ交換は成立しない。>
→これは同じ意見です。一般的な経済学のように、交換が成立したのだから、結果として等価と言えるというのは「欺瞞」を生じる根源です。私利の追求を無くすことは難しいですが、経済学のように「欺瞞」に盲目になるのは無責任だと思います。商品交換における欺瞞性を減らすには、「相互の情報の共有」「情報の透明化」が必要条件になるのではないでしょうか。

>不等価交換であっても交換の参加者全員が正の効用を受けることができる。>
→というのは、Kakasiたちの「道徳的社会主義」も、そのような社会をめざしているような気がします。



16. 一隅より 2012年2月13日 23:23:52 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA

>>14、Kakasiさん
>「一、二、商業利潤・・・、三、産業利潤・・・」のところ。

 ネギだと商業利潤になってしまうので、産業=たとえば「歯ブラシ」製造業にします。数字も設定しなおして、「工場・機械などに(歯ブラシ1本あたり)50円、原材料・燃料に50円、人を雇って人件費に50円、で200円で売る」、とします。これについて、3点述べます。

1.安く買って高く売る、とは、何に比べて安くか、何に比べて高くか

かけた元手にくらべて高く売る、(=あるいは売値にくらべて安く仕入れてつくる)、ではトートロジーです。
今は、かけた元手と売値との「差額」を問題にしているのですから。
 創意工夫あるいは才覚をはたらかせて(たとえば最新の機械設備を導入して)他の同業者よりも安く買ったり高く売ったりということはあるでしょう。しかし、それではまだ答えになりません。
その場合には、才覚のある者は多く儲け、そうでない者は少なく儲けるかも知れないが、それでも平均的な製造者には平均的な儲けがあるのですから。
この、(時代遅れで、一定期間のあいだに結局やがては潰れてしまう企業は別として、取りあえずは)「誰にでも多かれ少なかれはある、儲け」が問題なのです.
「安く買って高く売る」では、この「差額=儲け」がどこから来るかは、相変わらず説明されていません。


. Kakasiさんのいう通り、ネギの例で、「(仕入れ値、輸送費を支払ったあと、さらに)人件費を40円にすれば、10円の儲けが雇主に入り」、ます。
しかしこの40円と10円の線引きはどうしますか。どこに引きますか
人件費(賃金分)が30円で儲けが20円、あるいは45円と5円というふうにはならないのですか。
 なお40円と10円は、たとえば労働運動・組合活動で、41円と9円になったりはします。また、労働力の需給関係で、41円と9円や、39円と11円になったりはします。しかし、そのもとになるそもそもの「大まかな」線引きは、何を基準にされますか。
 あるいは質問の仕方をかえれば、こうです。
 歯ブラシ工場で、工場主は人件費ふくめて150円の元手をかけてつくった歯ブラシを200円で売り、その200円を受け取ります。
この200円は、な・ぜ・工・場・主・が(あるいは会社が、株主が)受け取るのですか。

 なおマルクスだったら、この200円は歯ブラシをつくった者が(工場の労働者その他すべて歯ブラシをつくるにあずかった者が)、すべて受け取ってもよいということにもなります。(もちろんその場合でもすべてを自分らで消費するわけにはいかず、社会の維持管理に必要な費用と、適度な拡大再生産に振り向ける分とは、控除しなければなりませんが。)

◇以上の1、2はおそらくは、Kakasiさんとマルクスとが、はじめから違うところです。私には(相変わらずKakasiさんの説明が理解できないのか)、Kakasiさんの説明ではまだ不足で、1、「儲けがどこから来て」、2、「それを資本家とそのほかの者とがどういう基準でどう分けるのか」、は説明されていないと思います。

3.
最後は、おそらくKakasiさんとマルクスとは同じなのに、Kakasiさんがマルクスについて独特の見方をしているために難しくなっているのではないか、と私には思われる点です。

>労働価値説(等価交換という商品法則)をとるマルクスは、人間的生活の再生産ができない低賃金を、等価と見なして歴史的に合理化します。それを批判するKakasiは・・・
のところです。
「母系社会」さんも言っていると思いますが、マルクスは資本論で、労働価値説を基本に資本主義社会を説明してみせただけ、商品法則原理によればこうなると分析してみせただけで、べつにそれを「合理化」してはいないのではないでしょうか。

マルクスとKakasiさんと同じところというのは、そのような社会は不公平不公正に満ち満ちていると考えるところです。ただ(マルクスは他では大いに、あるいは資本論でチクチクとは言っていますが)、「資本論」ではそれが中心の問題とはなっていないだけです。
「資本論」の副題が、「政治的経済学批判」となっているのは、その意味ではないでしょうか。

◇もしそうだとすると(Kakasiさんとマルクスとは同じ前提に立ってもいるのだとすると)、これから論ずるべきは、こうです。

「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」
「そのように皆で分けることのできる社会にどうやってするか、その方法は」、(なお、いわゆる資本家がとつぜん良心にめざめ、公平公正な分配ができるようになるということはないでしょう。それどころか今や資本は無人格化しつつある〔=株式持ち合いや、大銀行支配など〕のですから。〕

さらに、
「議会、選挙、政党民主主義の方法で上のことが実現できるか」、(資本家を従わせ公平公正に分配するための体制・法制をつくる?)
 そして最後に、(これがおそらく最大の問題として残されることになるであろうが)、
「(皆でつくり産み出したものを皆で分けるときに)、社会の維持管理に必要な費用と適度な拡大再生産に振り向ける分とをどう控除し、それを誰が管理し、それをどのようにして最も適当に拡大再生産に振り向け、皆のため社会をますます豊かにしていくのか」、というその方法(と可能性)の問題です。(そんなことのできる可能性はない、というならそもそも話は別です。)
 なおこのことは資本論には書いてありません。だから資本論は、「分析・解明」なのであって、マルクスの主張では少しもないのです。

◇Kakasiさんが3の問題をどう考えるか、大いに知りたいです。
 しかしそうすると、今はあまりに先へ進みすぎてしまうことになるかも知れません。それはまだもう少し後のことと、期待して待っています。
その前に、1、2について、どう説明されるのか、も引き続き疑問としてあります。

17. 一隅より 2012年2月13日 23:58:53 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
 ↑
追加
なお、念のため、>マルクスの『経・哲草稿』や『ドイツイデオロギー』『フォイエルバッハに関するテーゼ』等におけるマルクスの革命的意識や情熱を持ち出して・・・も(>>06)、もちろん、「それは科学ではありません」。
 マルクスの政治的主張は、「共産党宣言」その他でされています。
資本論では少しもされていません。
ただ、資本の集中、利潤率逓減、過剰生産の必然を説明しています。
(それは違う、そうではないというのなら、そう「科学的に」批判すればよいのです。)
またその原因が、社会の生産が複数の私的資本の個々別々・無連絡な資本投入行動からなっているためであること、がいわれます。
 さらにそのコントロール不能のため社会的生産力の無駄遣いがあり、人類社会にとってマイナスであること、がわかるように書かれています。
たとえばその余剰生産力の解消のため、ときどきの不況・大失業と、戦争とが必要であること、などです。
 マルクスの革命的意識や情熱は、他でと同様に資本論の背後にもあるにはあるだろうが、とりあえず論ずるには全く出てこない、不必要なものになっています。


18. 2012年2月14日 11:11:26 : Xyg7Ljbe7
6
Kakasiさん
あなたがたの「科学」とはなにを指すのか。
マルクスの言うところの「科学」とは?
説明が不足していますよ。


19. 母系社会 2012年2月14日 14:18:51 : Xfgr7Fh//h.LU : 7TCYLiF82U

18さん
その通りですね。
マルクスは、「ドイツイデオロギー」で、科学者や物理学者を批判していますね。
マルクスが言う科学とは、我々が常識的な意味で使う科学という言葉とは、意味が違いますね。
マルクスは、「矛盾律」を認めない弁証法の立場ですから、「矛盾律」を根本的な原理として認めている大半の科学者とは、根本的に立場が違うのですね。
Kakasiさんの唯物史観の理解も、根本的に間違っています。
日本共産党のマルクス主義は、ソ連で捏造されたスターリン主義的なマルクス解釈がベースになっているので、ダメなのです。
是非、広松渉訳の「ドイツイデオロギー」(岩波文庫版)を読んでもらいたいですね。
そこには、Kakasiさんが想像しているマルクスとは、全く違うマルクスがいます。

20. 2012年2月14日 21:26:41 : EVskgte9f6

>>19 母系社会さん。
ごめんなさい、ちょっと教えてください。

>マルクスは、「矛盾律」を認めない弁証法の立場ですから、
>「矛盾律」を根本的な原理として認めている大半の科学者とは、
>根本的に立場が違うのですね。

矛盾律は、一部の数学や論理学では成り立つでしょうが、社会問題を扱う場合には必ずしも成り立つとは思えないのです。

一例ですが、自己参照可能な(つまり回帰的な参照が可能な)言語においては、否定・肯定を厳密に判断不可能な文章を書くことができます(ゲーデルが示したように)。数学でさえ、実数の濃度概念(つまり無限大にも大小関係がある)など、未だに厳密に考察し切れていないと思われるものが残っています。

ですので、矛盾律を認めるかどうかが科学的態度にとって根本的だとは中々思えないのです。もっと言えば、「単純な事柄に対しては矛盾律を肯定するが、複雑なことになると矛盾律を肯定しきれなくなる」、というのが殆どの人の立場ではないかと思います。

ですので、kakasi さんの言われる「科学的」と、マルクスが考えていた(と推察される)「科学的」の違いがどれほどなのか、同時に、どれほど重要性があるのかが、どうもはっきりしないのです。



23. Y. Kakasi 2012年2月15日 00:45:41 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
● 一隅より さんのコメントはわかりやすいので、Kakasiの頭も良く整理されます。
1.について
>「安く買って高く売る」では、この「差額=儲け」がどこから来るかは、相変わらず説明されていません。>
→について。マルクスにとって「商品はきわめて気むずかしい物」と見え、「交換が商品の価値の大いさを規制するのではなく、逆に、商品の価値の大いさがその交換比率を規制する」(『資本論』第1章三・B・一)とされます。しかし、マルクスが。このように転倒した見方をしてしまうのは、弁証法的唯物論と労働価値説の偏見に歪められているからです。
 商品交換の事実において商品が気むずかしく見えるのは、商品を扱う当事者(商人・資本家・営業担当)が、「買いと売り」(交換過程)によって「商品の価値の大いさ」に、差をつけよう(儲け競争に勝とう)とするからなのです。この「買いと売り」における非対称性(不等価性)は、一当事者の頭の中で起こるばかりではなく、交換当事者間でも起こります。

 つまり、「郊外でネギ1本50円で仕入れて、トラック・燃料の費用を50円かけて町中に運び、150円で売る。」業者は、仕入れ(買い)50円、費用(買い)50円と算盤をはじいて、売りには50円を加えて150円とし、その差額を儲けとするのです。これを買った消費者は、ちょっと高いけど「味噌ごま」にすればおいしい!得した、ということになります(逆もあります、売れなくて腐った。買ってもおいしくなかった)。

 だから、商品所有者(a)が、買い(コスト=仕入れ50円+運送費等50円)に、儲け50円を加えて150円で売りに出し(供給)、貨幣所有者(b)が150円で買う(需要)という交換が成立すれば、(a)に50円の儲けが生じます。このとき(a)の儲け50円は、(a)の売りから(b)の買いという交換を通じて、(b)の所得から(a)に「移動」したことになります。

2.について
>そ[儲けですね]のもとになるそもそもの「大まかな」線引きは、何を基準にされますか。>
→について、儲けの「大まかな」線引きは、2段階になります。まず①主観的な基準としては、商品所有者(a)の頭の中で、ネギを商品とする費用(100円)と、良品なので100円の儲けにして200円で売れるだろうと考えます。(b)さんも、安くておいしいネギを買いたいと考えています。しかし、②客観的な基準として、当日の市場相場(歴史的社会的制約あり)をみると150円だったので、結局妥協して150円にすると(b)さんが買ってくれた。つまり、①売り手の思惑と②市場の相場が売買の「大まかな」基準になります。

 この際重要なのは、社会的交換価値として市場で商品価格が決まるけれども、もし(a)が、ネギに工夫を凝らして、新鮮野菜とレシピの包装をすれば、価値を加えた(費用もかかるが)商品として、200円商品を市場が認め、新たな商品価格と儲けの基準が成立することになります。つまり、資本主義的競争市場では、常に商品価格が需給で均衡しつつも、新商品の出現(効用と営利の追求)によって均衡価格(基準)そのものが変動しているのです。

>こ[ハブラシ価格]の200円は、な・ぜ・工・場・主・が(あるいは会社が、株主が)受け取るのですか。>
→については、工場の従業員の賃金は、原材料費等々と同じように商品製造のコストにすぎないからです。コストの初期費用は資本家が投資し、経営者(工場主)が生産販売計画を立て、工場、原材料、労働力を買って、その労働者を使用することによってハブラシを製造します。すべては企業(工場)経営者と資本(投資)家の収益になり、その収益に労働者による剰余価値が含まれます。

 ここで企業の利潤の多くは、
Kakasiによれば、交換過程(労働者=人間の労働力の売買における非対称性=不等価交換)において、高い(多い・大きい)価値を持つ労働者の労働力を、企業は安く買って劣悪な労働条件で働かせます。マルクスによれば、労働者の労働力を価値通りに買い、生産過程で不払労働(剰余労働)として搾取します。Kakasi は不等価・低賃金の<支払労働分>と考えるし、マルクスは公正な等価で買った労働力の<不払労働分>と考えます。マルクスでは、人間の交換関係から道徳性を排除し、唯物史観に人間(労働者)を従えようとする人間抑圧の本質があります。

 以前(その12)に引用した『賃金・価格および利潤』から、その一部を再度引用します。マルクス主義の本質がよくわかります。
 「賃金制度を基礎としながら、平等な報酬、それどころか公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。諸君がなにを正当ないし公正と考えようと、問題外である。
一定の生産制度のもとではなにが必然で不可避なのかが、問題なのである。」(『賃金、価格、利潤』全集16 p130)

3.について
>Kakasiさんがマルクスについて独特の見方をしているために難しくなっているのではないか、> 
→について。たしかにマルクスについて「独特の見方」をしています。Kakasiたちのこの独特の見方が、マルクスの「労働解放=人間抑圧の弁証法理論」から、労働者と人間を救い解放するのです

 マルクスは、上で引用したように『資本論』で、「交換が商品の価値の大いさを規制する(regulieren)のではなく、逆に、商品の価値の大いさがその交換比率を規制する」としました。
Kakasiからみると、この転倒した理論は、交換という人間関係を、商品という物的関係によって規定します。だから、社会的に規定された労働価値説による交換価値が、交換における売買基準を規定することになります。

 1,で説明したように、商品交換における利潤は、①主観的価値の非対称性(売りと買いの力関係、両者の条件の違い)と②市場の需給関係による価格相場によって、「価値の移動」として決まります。だから産業利潤の場合も同じように、①と②の相互関係があって、労働力商品の価値より低い賃金として、労働者から資本家に価値が移動し、また原材料と生産商品の売買においても価値の移動があるのです(安く買って安く造って、高く大量に売る)
マルクスが解明したような、①、②を規制する等価交換法則や労働者の抑圧的再生産費用が、労働者の低賃金・不払労働と資本家の利潤を規制するのではありません。

 マルクスは、「労働力の価値[労賃]は,その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値[再生産費用]である。」と規定していますが、この低賃金の水準に対して、「公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。」(上記)と主張するのです。今日(Kakasi)から見れば、これほど人間抑圧的・非道徳的暴言はないと思うのですがどうでしょうか。
 これ以上は、→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub4.html (4)剰余価値説について を参照してください。

 長く難しくなってしまいました。この難しさは、Kakasiたちの「独特の見方」が原因なのではなく、むしろマルクス主義の転倒した弁証法的な「独特の見方」が難しくしていると思われませんか? マルクスの資本の弁証法のように労働が主語になるよりも、人間の利己心(利己的利潤欲求)が主語になった方が、利潤追求の事実をわかりやすくすると思われませんか?
人間(労働者)の価値や公正・正義を求める心は、歴史や社会の変化で変わると思われますか? 生産力が十分に発展すれば、「人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる」(『空想から科学へ』)と断定できるでしょうか?

 Kakasiは、自称マルクス主義者を観察していて、レーニンや毛沢東だけでなく身近な人たちについて、歴史的制約があるとは言え、彼らマルクス主義の描く未来社会が、空想的なばかりでなく、人間の進歩と人権・幸福の追求にとって有害に思えてなりません。最近では、小沢氏に対する検察・司法の恣意的な権力行使を擁護するなど、マルクス主義者のご都合主義的な反道徳的活動の典型ではないかと思うのです。

少々愚痴を述べてしまいました。
>「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」>
→については、次回のコメントで考えてみます。
コメントが増えていますが、またの機会に・・・・再見 晩安


24. 2012年2月15日 12:14:36 : OTTz7QEtUs

Kakasiくん 一人がんばっとるな
科学的とは、検証しながら
冷静に理論を組み立てることだが、
たまに皮肉を交えて
カッカする事も必要だぜ。

マルクスは労働者の解放を目指して
いつもカッカしていたな。
まさにユダヤの預言者だよ。

でも世の中、階級対立ばかりじゃないからな
コイズムやハシズムのように無理やり対立を作って
拍手喝采を得ようとするやつらもいる。
検察やマスメディアのように悪人を仕立てて
正義ぶるやつもいる。ウヨサヨいろいろいるからな。

世の中変えようと思ったら、もっと燃えなきゃ。
覚悟はあるのかね。
単純なやつらにマルクスの呪文はしぶといぞ。
古いとか、死んだとかいろいろあるが
まだあちこちで生きているようだ。

もと無政府主義者のオレとしては、
応援のエールを送っとこう。孟子の言葉だ。
「自らにかえりみて縮《なお》ければ、
千万人といえども、われ往かん」

かっこいいいね、ひゅーひゅー。


27. Y. Kakasi 2012年2月17日 00:37:17 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

いろんなコメントをいただきました。課題は多いようです。
とにかく一隅よりさんの質問に答えます。
「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」
→については、Kakasiたちの考える「
道徳的社会主義」においての分配でしょうか。その前提で考えてみますが、一応すでに一隅よりさんの要請で(その14)に提案してみました。その特徴は、分配的正義」の実現だけでなく、「交換的正義」を重視するということです。
(その14)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
 この中で、⑥にある「私有財産の廃止」の説明が不十分なのは否めません。「私有財産と財産相続」に関して追加する必要があります。そこで⑦を加えておきます。
 ⑦ 個人の労働によって得られた、生涯生活を支えるための蓄財は奨励される。私有財産は、強度の累進相続税によって社会に還元される。
(説明不十分ですが、家族の絆や伝統継続には物質的保証が必要です。)

 その上で、まず社会主義や分配的正義の基準として、「財産への強度な相続税」と「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」という原則が前提になります。問題になるのは、市場的・常識的基準を定める場合に、能力差、労働量、業績評価等で、公正・公平な「分配基準」をどのようにするかです。

 分配基準は、国家・社会による「分配的正義」の実現と考えると、強制を伴う法的制度で行われます。修正資本主義または社民主義では「生産手段の社会化(国有)」が一部行われていますが、効率性・生産性の面で問題があり、民営化路線との間で対立があります。定着しているのは、最低賃金法等の労働法制、累進税制、生活保護法等福祉法制による再分配ですが、反社会主義からの反対意見も根強いのです。
 企業社会内での儲け(利潤)の分配については、資本家への配当、役員への報酬・賞与、労働者への賃金・賞与がありますが、生産手段(企業)自体を社会化し「労働者自主管理」の形態で、貨幣・物資・生産計画等の透明化ができれば、何億円もの法外な報酬はなくなるでしょう。道徳的社会主義にとっては、分配的正義の実現と連帯そのものが目的となります。だから、自己実現や達成感によって労働意欲や活力そのものが向上し、悪平等批判の根拠はなくなります。

 次に、「
交換的正義」は、交換の不等価性を積極的に自覚し、実質的な対等の条件の上で、相互の利益(win win)をめざします。つまり交換的正義は、交換における相手の立場への配慮、私利と他利の統一による公益の実現をめざします。分配的正義は、社会的強制を伴い個人からは消極的にみえますが、交換的正義は人間関係において積極的道徳的意味を持ちます。交換的正義は、利己的動機(欲望)をもちながらも、相手への道徳的心情(公正・思いやり・共助)が伴うため、相互の満足を産み出します。
 「交換的正義」は、商品交換すなわち不等価交換による「儲け」「価値の移動」を問題にします。問題になる商品交換は、独占商品、労働力商品、詐欺的不当商品があります。しかしこれらも、20世紀に入って、マルクスの時代には考えられなかった、独占禁止法や労働者保護法などの「改良」が進んでいます。
道徳的社会主義によって、商品交換の不等価性が、個人と個人、個人と組織の交換関係の透明化によって、さらに実質的な等価に近づくでしょう。そうすれば分配の基準の必要性も低下します。経営者の報酬が、労働の量と質において不等価とされるからです

 なお、競争は、利己心を駆り立て意志や意欲を高め、活力を生みますが、何のための競争かを選択すれば、一律に否定すべきことではありません。つまり、競争には道徳的なものもあれば、利己的排他的で非道徳的なものもあります。企業組織の構成員を管理・支配し、利己的利益を追求のための手段とするような競争は否定されますが、職人や芸術家、スポーツや芸能で自己の能力を向上させ、社会に貢献するような競争は奨励されるでしょう。

>「議会、選挙、政党民主主義の方法で上のことが実現できるか」、(資本家を従わせ公平公正に分配するための体制・法制をつくる?)
→もちろん、道徳的社会主義は、様々の対立的な利害や考えをもった市民たちの、議論を尽くした多数決の民主主義を通じて実現できるものです。人間が、この地上に持続可能な福祉社会を建設するには、情念的な暴力的闘争よりも、納得できる議論と相互理解が必要です。
 また、そのような社会の管理と利害の調整には、道徳的・知的に訓練され、民衆に奉仕し支持される公務員・教育者と、正義と公正を求める市民の社会参加とボランティアが必要です。(その12)でも取り上げたように国際標準化機構では、「社会的責任」という概念を、世界のあらゆる組織に標準化(ISO/SR26000)しようとしています。このような試みが、個人の次元でも「社会的正義」として標準化していけば、道徳的社会主義の実現も夢ではないでしょう。

(その12)→http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/298.html

長くなりました。十分な検討はしていませんが、今後の課題にしていきたいと思っています。貴重な質問をありがとうございました。


<この間 略 投稿と無関係なので>


40. Y. Kakasi 2012年2月25日 00:54:26 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

知らぬうちにたくさんコメントがありました。Kakasiに関係ありそうなものだけ答えておきます。哲学的なのは難しくてダメです。よく勉強させてもらいます。
>>18. 2012年2月14日 11:11:26 : Xyg7Ljbe76
>Kakasiさん あなたがたの「科学」とはなにを指すのか。
 マルクスの言うところの「科学」とは?説明が不足していますよ。
→→Kakasiたちの科学?生物学、生理学、動物行動学、心理学、言語学、政治経済学などでしょうか。検証可能性を重視しております。
 マルクスの科学は、社会科学の基礎理論を提供していますが、社会主義・共産主義について、これらを科学にしたというのは誤っていると思います。とりわけ「等価交換による剰余価値説」と「人間意識の存在規定性を無視する史的唯物論」は、科学でないことを実証しています。


あと幾つかいくつかありますが、また後ほど

<この間 略 >

43. 2012年2月25日 11:24:55 : zIcN4tErBM
Y. Kakasiさん
18です。
返事ありがとうございました。
>>40
 「検証可能性を重視しております。」

 昨年3月以降、庭の植物に奇形が数多くありました。
根、茎、花などの器官の変形です。

 そして人間も。
私も含めて周りの知り合いに、膚、喉などに違和感があります。

 直感的に放射能か、と思っています。
私が住んでいる地域は、年間100ミリシーベルト以下です。
さらに、植物に放射線を浴びせると、奇形になるそうです。
そして何割かは、遺伝子も変形するそうです。

私は確かに、学校で呼吸器・消化器は植物の葉が形態進化したものと、習いましたが。
ところが人間は、仕組みが植物より複雑なので、年間100ミリシーベルト以下については安全だそうです。
遺伝も心配ないそうです。
このように、「科学」は私の心配ごとの膚、喉の個別は放射能との関係が「検証」できないので、生活には役に立たないです。

 生活の向上に役に立つ「科学」をお願いします。


・・・・・・・<この間 略 投稿の趣旨から離れているので>・・・・・・・


46. Y. Kakasi 2012年2月28日 00:11:59 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
いろいろ意見がありました。
 Kakasiの問題意識は浅いので、常識的な意見しか述べられません。
 哲学には弱いのですが、仏教思想には関心を持っているので、関係主義は縁起思想と関連づけられれば全く同意できます。だからKakasiの立場は、「実体的関係主義」と言えるかもしれません。
 マルクス批判も単純で常識的なものです。
 「等価交換」などおかしいと思われませんか。交換契約をしても、損した得した、割に合わない、欺されたというのは、平均的交換価値(価格)の中に山ほどあるではないでしょうか。

 資本主義制度の金儲けは、等価交換の外見が誤りであって、経済学自体が自由平等の名において詐欺を行っているのです。そしてそのような商品交換の面白さ、楽しさ、快適さ、期待の充足、物珍しさ、達成感、優越感等が、資本主義の活力になっているのではないでしょうか。

 また、人間の意識は社会的に規定・形成されながらも、自らの経験と判断で新たな意識を想像・想像し、自らの存在を切り開いていくものではないでしょうか。マルクスは根本的な人間観・社会観・歴史観で誤っています。人間の意識は、言語的に形成され、その創造性によって生活を豊かにし、社会や歴史を造ってきました。ただ人間はそのことを十分に知らなかったために、自己の思想や信条、財産や権力・社会的立場を守り拡大しようとして争ってきたのです。

長くなりそうなので、(その17―06)に続けます。

→→http://www.asyura2.com/12/senkyo126/msg/587.html



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