科学的社会主義・日本共産党批判        by Y.Kakasi
 マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する
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・コメント全文は、下記URLかまたは「科学的社会主義・日本共産党批判」でネット検索してください

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■科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その17)

http://www.asyura2.com/12/senkyo126/msg/587.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 2 月 21 日 21:47:23: BW32mpuE76J86

 日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長の古典教室12回は最終回
となりました。今回は、「マルクス、エンゲルス以後の理論史」という題で、レーニンの業績と活動を述べ、「マルクス・レーニン主義」の名で歪んだ社会主義独裁体制を築いたスターリンとその後継者の過ちを批判しています。そして日本共産党が、ソ連の干渉や、「誤った理論」とたたかいながら自主独立路線を守り、科学的社会主義の理論を現代に生かすために努力してきたと、自画自賛の歴史と立場が語られます。
 その内容については、「『レーニンと資本論』をめぐって不破哲三さんに聞く」(『赤旗』1998/9/15~23)と併せて視聴されるとさらによくわかります。
古典教室→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
「レーニンと資本論」→http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/

 さて、今まで科学的社会主義・マルクス主義の反科学性と人間抑圧性を述べてきましたが、批判の基本は単純なものでした。マルクスが資本主義的生産様式の基本とした剰余価値説は、労働者搾取が「等価交換」によって行われているというものです。この認識の誤りは、アダム・スミス以来の西洋経済学が、商品交換成立の結果をすべて「等価」「均衡」とみなすのみならず、思考や認識の「結果」を合理的(法則的)と考える西洋的思考様式が根底にあるというものでした。

 今回の不破さんの講義は、ロシア革命によって建設されたソ連が、本格的な社会主義と言えるものではなく、世界史的には「生成期(幼年期)」の社会主義で、マルクス主義とは似て非なるものだということでした。そして、不破さんたちの立場(自主独立、多数者革命論)が、今後の社会主義の未来社会論のあるべき方向をいかに正しく示しているかというものでした。

 しかし、なぜ、マルクス主義の名において誤った社会主義が成立し、失敗してしまったのか、なぜ、高度に発達した資本主義が延命し、問題を露呈しながらも繁栄しているか、また、マルクス主義を理論的支柱とする共産党がいつまでも多数派を形成できないばかりか、少数派として定着しているのかが十分説明できていません。指導者が誤っていたからというのでは、自らの責任も問われるでしょう。

 マルクスやエンゲルスにも誤りはあるし、レーニンも誤っていた。彼らの思想の眼目は「人間の自由な発達」であり、マルクス・エンゲルスの魂をつかんで古典を21世紀の現代に生かすことが必要だ。日本共産党は、発達した資本主義社会で社会主義を成立させるという人類の課題にとりくむ党です。と言うだけでは多数派を形成することはできません

 不破さんは優れた理論家で、マルクス主義を誰よりもよく理解し、現実の政治変革に生かそうとされていますが、マルクス主義の誤りと限界のなかでは、人類史に貢献できる未来社会論を構築することは不可能です。社会科学(経済学)の中で整合性ある説明のできない「等価交換」を、資本主義的生産様式解明の理論的前提(商品論)としたマルクス経済学と社会主義革命理論は、労働者の社会的地位の向上にとって積極的な側面もありましたが、それらを相殺して余りある多くの悲劇をもたらしています。

 マルクス主義は、ロシア革命、中国革命、キューバ革命、ベトナム革命等、旧来の帝国や植民地の専制支配から解放する理論としては、革命正当化の有効性を発揮しました(開発独裁)。しかし、生産手段の社会化を厳密に行おうとした国はことごとく失敗しています。国家権力を階級支配の道具に過ぎないとする国家観は、革命後の社会においては、マルクス主義労働者党(共産党)の一党支配を必然とするのです。「人間の自由な発展」をめざす独裁政党が、革命後は人間の自由な発展を抑圧する機関となるのです。

 不破さんは今一度、今日の混迷する社会主義の現状からマルクス以前に戻り、マルクス思想の根源に疑問を持ち、「人間とは何か」「人間にとって労働や生産・発展、商品とは何か」「利潤の根源とは何か」「人間の解放とは何か」等々や、『資本論』によって正しく資本主義の原則が解明されたのかどうかを、問い直す必要があるのです。「等価交換」にもとづく欧米のすべての経済学(社会科学)は、現代社会の政治経済の混迷を正しく分析し有効な処方箋を示すことはできませんでした。マルクスもまた、人間の交換関係を市場の平均化(需給・等価・均衡・発展・循環・没落)という概念で法則化してしまったのです。

 不破さんは、ソ連の社会主義の失敗に対して、それはマルクス主義でも本格的な社会主義でもなかったと言われますが、その失敗がマルクス理論から生起した事実を否定することはできないでしょう。また、マルクス主義自体に、スターリンや毛沢東やチャウシェスク等の独裁者を生じさせる原因があったことを否定できないでしょう。天才的革命家レーニンがもっと長生きし、トロツキーが政権を継承しておれば、二人の知性と教養、洞察力と柔軟性によって、世界の社会主義はもっと発展していたかもしれません。しかしこれらの革命の失敗を、個人的資質や歴史的社会的未成熟のせいにしてはならないのです。

 不破さんは、ソ連の崩壊がマルクス主義の未来社会論(社会主義論)の失敗だと言う人々に対して批判しています。すなわち「マルクスは、資本主義の分析では成功したが、社会主義論では失敗した」という間違った偏見は、ソ連はマルクスとは縁もゆかりもないとしてきた共産党だから批判できると自分たちの自主独立路線を正当化し、あわせてマルクス主義をも弁護します。しかし、現実には、ソ連崩壊が、マルクスの資本主義分析も社会主義論も失敗していることを示しているのです(唯物史観の想定外)。

 またソ連の社会主義建設の失敗は、ロシア革命の指導者達が、ロシアと世界の革命を進展させると期待した先進国ドイツの革命が失敗したことによって、スターリンの「一国社会主義」を採用せざるを得なかったことによる、と解釈する向きもあります。しかしむしろ、ソ連の失敗を招いたマルクスの誤りは、民主主義の進展によって先進国に資本主義の「修正」(福祉国家)が起こり、また、マルクス主義共産党が多数派を形成できなくなったことで、革命が不可避なものでなくなったことでも検証できます(理論的欠陥が明らかなので今後も不可能)。

 さらに、今までのマルクス批判は、ネット上でも見られますが、マルクス主義を体系的に批判したものではありませんでした。Kakasiたちの批判は、前回まで述べてきたように、科学的社会主義の基本となる剰余価値説と唯物史観の誤りを、経済学の非常識である「等価交換批判」と、認識論を革新する「生命言語理論」(ネット検索可)によって解明し、「道徳的社会主義」を提唱するものです。社会主義を持続的なものとするためには、商品交換の不等価性と人間言語の存在規定性を解明することによって、資本主義的契約関係を公正公平な制度に変革し、社会正義と道徳性を不断に追求できるしくみをつくることで可能となるのです。

 不破さんは、この講義で、労働者階級の希望とされたソ連が崩壊したことが、マルクス主義の欠陥によるのではないことを説明し、諸国の独自な社会主義の未来論を追求する必要を述べています。しかし従来の社会主義論のように、生産手段の社会(共有)化によって分配的正義を実現するだけでは、計画的分配のための官僚(統制)主義は避けられません。だから、交換的正義によって社会的不公正を隠蔽する交換過程を透明化し、そこに公正と道徳を実現して初めて人間的共同体が成立するのです。

 今回の古典教室で不破さんの講義は終了です。ご苦労さんでした。次回は、志位委員長の「綱領教室」2/21です。政局ばかりじゃ退屈でしょう。志位さんの未来社会論が楽しみです。
(Kakasiの投稿検索は、★阿修羅♪内の検索を、「科学的社会主義」でクリックしてください。サイトでは→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html です。)  


コメント
01. 2012年2月22日 08:29:35 : 9pmCv7djFc
科学的社会主義とユダヤの関係も講義してほしい。
マルクスはユダヤ人だけれどユダヤ文化を越えています。

02. 2012年2月22日 12:48:43 : OTTz7QEtUs
見出しがなかなかいい。
誰だったか,資本主義が終わらない限り、マルクスは生きつづける、
などと言っていたが、マルクスを生かしている人間がまだいるんだ。
等価交換による労働者搾取など、
弁証法のイドラで狂った革命家と、学者の戯言にすぎない。
資本主義制度のもとでの搾取というのは、
労働者を価値以下で合法的に買取り、酷使するペテンの制度だ。

金儲けというのは、等価交換の仮面をかぶって、
不等価交換しようとする欺瞞的人間の行為だ。
そんなことは、世間の人間が一番よく知っているぞ。
ペテン師マルクスや経済学者は、資本主義を延命増長させている。
マルクス主義による人間疎外をアウフヘーベンしよう!!!!

03. 2012年2月22日 15:46:55 : 5m8VS6folk
Kakasiさんに質問したい。
 経済学がすべて「等価交換」を前提していたといわれますが、「不等価」を前提とする経済学は本当に無いのですか。
 「商業利潤」でネット検索すると次の文がありました。
「商業資本は流通資本にほかならず、再生産過程のうち流通過程だけで機能し運動している資本ですから、価値も剰余価値も生産しない。・・・・商人資本の得る利潤は流通過程の操作だけから部分的に生じるもので、資本主義的生産の未発達を前提している。」

 マルクス経済学では「価値も剰余価値も生産しない。」とありますが、商業(流通)過程で、価値がA資本からB資本に「価値が移動した」とは書いてありません。「利潤は流通過程の操作だけから部分的に生じるもの」とあるのも意味不明です。どうなっているのでしょう。

 こんな文もありました。
「商業に“分け前”を多くあげても、商業は消費者ではなく販売者なので“分け前”は現実のものにはならない」これもよくわかりません。暇があればよろしく。


04. Y. Kakasi 2012年2月23日 18:25:21 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
01)さん コメントありがとうございます。
不破さんの講義を希望されているのでしょうか。とてもわかりやすいですから・・・。
 Kakasiの考えでは、マルクスとその理論は、ユダヤの文化をはるかに超えているので、興味本位で追求しても意味はないだろうとおもいます。興味本位なものなら、「マルクス ユダヤ」でネット検索されると面白いかも・・・・。
02)さん とても元気なコメントありがとうございます。
 「等価交換による労働者搾取」というマルクスの考えを、批判的に理解していただけて感激です。誤解は多いけれど、なかなか理解していただけないのは、Kakasiの説得力の限界のようです。反省をしておりますが、真理は単純なので、あとは工夫しながら継続は力なりで続けます。


03)さん 根本的な質問なので、少し時間をください。


05. Y. Kakasi 2012年2月25日 00:26:38 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
03)さん 返答が遅れました。
Kakasiも「商業利潤」検索してみました。ほとんどがマルクス経済学のものでした。03)さんの疑問は、前回(その16)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html で述べた、「等価交換」に絡む「商業利潤」と「産業利潤(剰余労働)」の違いをふまえたものだとおもいます。
<交換は平等で、生産は不平等>
 「等価交換」は、自由で平等な市民社会の市場では、交換の成立も対等な関係だから、契約成立の時点で等価であるとされます。しかし、労働者が工場で実質的な不平等であることは、交換が成立(等価)しているのだから文句の言いようがないのです。交換過程で平等だから、生産過程では我慢しなさい。これはマルクスだけでなく経済学者全体の了解事項であり、前回もコメントしたように、この点では資本家に平等や公正を要求することは論外だったのです。だから誰も資本制社会を「不等価交換」で解明することはできなかったのです。(専門家ではないので、そのような学者がいれば教えてください。マルクスが批判したプルードンは、交換を重視している。)

<形式的平等は、革命によって実質的平等となる>
 マルクスにとっては、公正や正義の道徳や社会の改良よりも、資本主義的生産様式が引き起こす恐慌と、それに伴うプロレタリアートの団結と革命が歴史的必然として期待されたのです。欧米では形式的論理(等価交換)が優先するのですが、それがマルクスにとっては工場での実質的不平等を産み出すけれども、最後は革命によって実質的平等をもたらすと考えたのです。金持ち(資本家)と貧乏人(労働者)は、ともに自由で平等で等価な関係だけれども、両者の格差(実質的不平等)は革命が成功して初めて、実質的な自由で平等な発展の時代になると考えたのです。

<発達した資本制社会では、商業利潤は産業利潤の分配による>
『資本論』を全3巻読まれればわかることですが、マルクスは商品の売りと買い<商品の貨幣への転化(W―G)=売り、貨幣の商品への転化(G―W)=買い>、そして商業利潤<G―W―G’>について、何度も説明しています。
 しかし、「安く買って高く売る」「商品をそれが値するよりも高く売る」というのは、商業資本の支配する時代は通用するが、産業資本の時代になると、転倒した見方になります。「現象において示されるままの」「単なる外見」だけを見ても、発達した資本主義的生産様式における資本の運動法則の謎は解けません。産業利潤の取得すなわち剰余価値の搾取は、等価交換で買った労働力商品の使用価値を、生産過程で消費することによっておこなわれます。未発達な商業資本の利潤(商業利潤)は、遠隔地から商品を安く買って高く売って得られた(不等価交換による)が、産業利潤は等価交換のもとでの剰余(不払)労働(搾取)によって取得され、商業利潤は剰余労働の分配を受けることになる、というものです。

<価値は労働が生産するが、その移動・交換は等価とは限らない>
 その理由は、マルクスによれば「流通過程では、何らの価値も、何らの剰余価値も、生産されない。」からです。価値の生産を重視するために、「交換における価値(財・富・[資源])の移動」を排除して、等価交換を価値法則として合法則化してしまったのです。Kakasiの考えでは、価値(商品・資源)は所有者間で非対称的に移動する(交換される)ものであるにもかかわらず、労働力商品の価値=人間の価値を過少評価(抑圧)してしまったのです。交換・流通過程は、価値を生産しませんが、その交換比率は等価であるとは限らず、価値(商品・資源)所有者間の非対称性(不等価性)を利用(悪用)して商業利潤も産業利潤も得られるのです。

<マルクスは利潤の源泉を価値の生産過程に限定したが、価値の不等価な交換・移動によっても集積される>

 マルクスは、社会全体の総資本の運動法則を解明しようとしました。つまり、社会の総労働と総資本の戦いを弁証法的法則として解明するのが『資本論』の目的でした。そこでは個別の商品売買は、等価交換でよかったのです。つまり、交換や流通の過程は、自然法則(価値法則)が主体となって、人間の価値判断(人間の意識・交換過程)を規定してしまうのです。個別資本(各企業)の利潤を問題にするのではなく、総資本の運動を解明する限りで個別資本が問題になるのです。だから、利潤という価値が、「誰から誰に移転するか」ということが重要ではなく、集積された総利潤がどのように分配されるか(平均利潤率)が問題とされるのです。

 だから、03)さんの、引用は不完全なので、マルクスとして正しくは、発達した資本主義的生産では、商業利潤の源泉は、産業資本が生み出した社会的総剰余価値(総利潤)の一部分ということになります。しかし、Kakasiたちの立場では、商業利潤の源泉は、交換過程における買いと売りの市場取引で取得され、産業資本の総利潤の分配によるものではありません。また、産業資本の利潤自体も、原材料や労働力の市場での安い買いと、高度な労働使役(搾取)、生産物の高い売りによって取得されたものということになります。


06. Y. Kakasi 2012年2月25日 11:40:10 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

上の説明を、『資本論』の記述を引用して追加しておきます。
「貨幣と商品との形態転換によって、これらの形態の一から他への貨幣の単なる[等価交換による]転化によって、いかにして[産業]利潤が生ずるのかは、全然見当がつかない。また、ここでは、彼[アダム・スミス]は流通部面でのみ運動する商人資本をもって始めるのであるから、説明も全然不可能になる。」(『資本論 第二巻』10章向坂訳[ ]は引用者)
★→→ここでスミスが、商業利潤と産業利潤を混同していることを、マルクスが批判しています。

「商人[商業]資本は、流通部面の内部で機能する資本以外の何ものでもない。流通過程は総再生産過程の一段階である。しかし、流通過程では、何らの価値も、したがってまた何らの剰余価値も、生産されない。ただ同じ価値量の形態変化[G―W―G]が行なわれるにすぎない。そのものとしては、価値創造または価値変化[G―W―G’]には何の関係もない諸商品の変態以外には、実際、何も行なわれない。生産された商品の販売で剰余価値[G’]が実現されるとすれば、それは、その商品のうちに、すでに剰余価値が存在するからである。」(『資本論 第三巻』第16章向坂訳)
★→→剰余価値は交換過程(の市場)の不等価で決まるとすれば、何の問題もありません。しかし、生産過程で総利潤を決めてしまうから、商業利潤の決定において、マルクスのような面倒な説明が必要になります。

「いかにして商人[商業]資本は、生産[産業]資本によって産み出された剰余価値、または利潤のうちから自己に割当てられる部分を、引寄せるのか?
 商業利潤は、単なる追加である、商品の価値以上への商品の価格の名目的引上げである、というのは、ただ外観だけのことである。
 商人は、彼によって売られる商品の価格からのみ、彼の利潤を引出すことができる、ということは明らかである。また、彼の商品の販売で彼が得るこの利潤は、彼の購買価格と彼の販売価格との差額に、前者にたいする後者の超過額に、等しくなければならない、ということはもっと明らかである。」(同上第17章 向坂訳)
★→→マルクスにとって、商業利潤は「ただ外観だけ」の「単なる追加」です。販売価格の超過額は、不等価に見えるようだけれども、「自己に割当てられる部分を、引寄せ」ただけなのです。だから、不等価交換の「安く買って高く売る」「商品をそれが値するよりも高く売る」というのは転倒した見方から生じることになります。

・マルクスは、交換の過程を単純に、商品の貨幣への転化(W―G)=売りと、貨幣の商品への転化(G―W)=買いとしますが、Kakasiたちにとっては、利潤はこの単純な関係から生じます。それは買いと売りとの非対称性=不等価交換(G―W―G’)によります。。商業の原理は、マルクスの言うような単なる「産業生産の召使い」(『資本論三巻』第20章)ではありません。産業資本は、従来からの商業利潤の不等価交換の原理を取り込みながら、機械を導入して労働者を搾取しているのです。

なお、ヨリ具体的には、前回(その16)の23、27で説明しているので、是非ご覧ください。『資本論』の転倒した発想を理解すると、マルクス主義による悲劇の根源がわかって頭がすっきりしますよ。頑張れ。マルクスの好きなモットーは、、「すべてを疑え」ということでした。

もうゴマカシはうんざり
本当のことを探す
★阿修羅♪

07. Y. Kakasi 2012年2月28日 01:17:57 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

(その16―46)→http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html
 からの続きです。
 さてそこで、母系社会さんから、広松哲学についての根本的な問いかけがありました。
 Kakasi自身は『ドイツ・イデオロギー』『唯物史観の原像』『マルクス主義の成立過程』『マルクス主義の理路』『マルクス主義の地平』『資本論の哲学』『世界の共同主観的存在構造』『今こそマルクスを読み返す』を読み、広松渉著作集 全16巻で未読のものに目を通したぐらいしか知りません。現象学とマルクス理論は、西洋思想の限界の理論であり、誤っているという先入見がありますから、広松哲学も一時的流行と考え十分関心を持ってきませんでした。今回良い機会を与えていただき、ポイントにしたい点をコメントしておきます。

 この投稿への反論は、共産党系学者の教条的なものだろうと思っていましたが、「等価交換による剰余価値説」へのまともなものはありませんでした。経済学全体が、価格の平均的等価性や需給均衡という市民社会の契約合理性を、無批判に前提としているので、簡単には核心的反論をできないと思います。母系社会さんの指摘は、広松哲学が中心なので苦手な分野ですが、Kakasiなりに『マルクス主義の地平』と『資本論の哲学』をどのように読んだかを報告しておきます。

★ まず広松は『マルクス主義の地平』で、『ドイツ・イデオロギー』の唯物史観の有名な記述を引用した後で次のように述べています。
 「ここにみる通り、人間の歴史的存在が人間の意識を決定するというのが趣意である。いうところの『存在』は『存在被拘束性』というときの“存在”に近いものであって、認識対象ないしは存在者一般を意味するものではない。因みに、『意識とは意識された存在である』。ただし、『人間の存在とは彼の現実的な生活過程の謂いである』と明言されており、この故に、『意識が生活を規定するのではなく生活が意識を規定する』というようにザインがレーべンで置換されているのである。存在が意識を決定するという命題は、意識の歴史的・社会的被規定性を表わす命題として受取らなければならない。
 この命題を正しく理解し、かつ唯物史観が元来何を説明しようと図ったのかを諒解しうるとき、わけても晩年のエンゲルスが一連の手紙で強調している意識の相対的な能動性と下部構造に対する上部構造の反作用という命題も、唯物史観と整合ずることを知る。」(p211-2)

 広松は、エンゲルスが、「存在被拘束性」を『ド・イデ』では確定していたのも拘わらず、晩年に「意識の相対的な能動性」を強調しているとしています。さらに晩年の書『フォイエルバッハ論』では、「人間各人が、自分の、意識的に意欲した目的を追求することによって、人間が歴史をつくる」と引用して、人間の主体的な「観念的動因力」を認め、その背後にある「起動力=歴史的原因」を闡明するべきことを引用して、次のように述べています。

 「今や明らかであろう通り、歴史の主体たる人間の“自由なる”意志行為、これを裏打ちする観念的動因、この自由行為や観念的動因を一応承認したうえで、この動因それ自体を説明すべく、それを規定しているより根底的な起動力を遡求していくこと――階級闘争はもはや、かかる下向の一階梯・一局面たるにすぎない――、論理的にはかかる思考の途を辿って、マルクス・エンゲルスは経済的下部構造にまで下向を進め唯物史観を確立したのであった。」(p214)

 広松哲学の意義は、マルクス主義に人間の主体性(被投的投企)を取り戻そうとしたと思われますが、しかし、マルクスの『経済学批判 序言』における公式では、「下部構造に対する上部構造の反作用」は明言されていません。このことは、『資本論』の記述自体が、労働・生産・商品・貨幣・資本の自己運動という弁証法的発展の形態をとっていることをみれば、明らかです。人間の「観念的動因力」の背後にある「起動力=歴史的原因」を闡明するべきことが明らかであるとしても、それらのすべてが唯物史観や『資本論』の記述で解明されたわけではありません。

 例えば、資本家が労働者を支配する起動力は、利潤や競争や価値法則と言えるのか、なぜ交換が発達してきたのか、なぜ生産力の発展が可能であったのか、なぜ西欧の労働者は革命よりも生活の向上を求めてきたのか、なぜ途上国ロシアや中国で革命が起こったのか、革命のためにマルクス理論は必要であったのか、そもそもブルジョア社会では、理論や思想・宗教等のイデオロギー的上部構造が下部構造にどのような影響をもたらしてきたのか、また「自由行為や観念的動因」とは何なのか、等が十分解明されていません。

 とりわけKakasiたちの立場からすれば、『ド・イデ』で、言語の役割を捉え切れていない点、マルクス・エンゲルスが生涯倒錯した世界観をもつに至った根源をみておきます。それは広松の引用に続き、言語を述べた次の文です。
 「言語は意識と同じように古い――言語は実践的な意識であり、他の人間たちにとっても現存するところの、従って私自身にとってもそれでこそはじめて現存するところの、現実的な意識であり、そして言語は意識と同じく他の人間たちとの交通の必要、必須ということからこそ成立する。」(『全集3』p26)

 前半はおおむね正しいのですが、後半、言語の成立は、「他の人間たちとの交通の必要」からと述べています。しかし、この捉え方が言語の定義として決定的に不十分なのです。言語の成立にとって交通(相互伝達)は必要条件ではありますが、十分条件ではありません。というのも、自己の意図を他者に伝達するためには、自己の意図や情報を、まず認識する必要があるからです。認識することによって行動しまた伝達するのです。つまり言語的認識=
言語的思考による対象の把握・構成によって、意図や情報を伝達するのです。

 だから言語は単に交通・伝達の道具としてでなく、認識・思考の道具であり、認識された内容(意味・知識・イデオロギー)によって、他者ばかりでなく自己自身の存在や行動を意味づけ方向づける手段でもあるのです。この点は、意識(言語・知識・イデオロギー)が、生活や生産の過程、生産力と生産関係自体にも創造的な役割を果たし、人間の歴史を豊かに発展させてきたのです。

 広松哲学では、言語の役割を重視しているようですが、その生物学的・人間的本質を捉えているとは言えません。彼は『世界の共同主観的存在構造』で、言語の機能を「指示、述定、表出、喚起」の四つの契機からなっているとしていますが、これでは言語的認識(思考)による創造的・発展的機能を説明できません。なぜ人間の欲望や労働や生産、その他すべての文化的営みが発展的なのか、マルクスや広松哲学では説明できません。

★『資本論の哲学』から→Kakasiたちは、マルクスの商品・貨幣論に見られる物象化論は、実体的ではなく、また科学的でもないと批判します。つまり、等価交換や価値形態論、貨幣生成論に「人称性」を与え、不等価であっても、または不等価であるからこそ交換が促進され、貨幣の必要性が高まると考え、商品交換に商品所有者(人間)の交換(利潤追求)動機を重視します。マルクスは貨幣に物神的性格や謎的性格を与え、いかにも商品や貨幣が人間の交換行為を支配しているように記述しています。しかし、商品の物象化や貨幣の謎は、決して謎ではなく、マルクスの創作にすぎないのです。
 一般のマルクス信奉者は、「貨幣物神の謎は、商品物神の謎が人目に見えるようになり、人目をくらますようになったものに過ぎない」(『資本論一』第二章)という表現をそのまま実体的に受け取ります。しかし、広松氏は、マルクスの叙述を、物象化的倒錯視に陥っている商品所有者(読者)に合わせたものとして把えなおします。

 すなわち「かれわれが留意すべきことは、よしんば一定の倒錯視ないし物象化的錯視にもとづくものであれ、それが歴史的・社会的に不可避的な現相である場合、マルクスはそれを単に錯視だといって卻けてしまうのではなく、それのもつ一応の“妥当性”、“一応の客観性”を踏んだうえで対象の理論的定式化を図るという行ぎ方をしていることである。」(『資本論の哲学』p249)という叙述に見られるように、読者の倒錯視に合わせて「一応の“妥当性”、“一応の客観性”」のもとに捉えなおしたもということになります。つまり、一般のマルクス信奉者が、物象化論を実体的である(商品には投下労働が等価値含まれている)と考えるのに対して、広松説では、教条的な解釈を避け、マルクスは等価交換に商品所有者を絡ませ、倒錯視は「一応」の理論的定式化であったと考えます。

 だからKakasiの結論は、教条主義にしろ、広松哲学にしろ商品交換を実現する商品所有者間の実体的関係(非対称的・不等価的交換関係)を解明しない限り、剰余価値の解明・利潤の解明・資本主義の解明はなされないということになります。つまり、マルクスは商品自体の人間支配性を強調し、広松哲学は人間を加味し、Kakasiたちは人間の意識や判断等の主体性を全面に置くのです。

 広松氏は、実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があってこそ実体があると考える事的世界観を提起しました。しかし、Kakasiたちからいうと、実体と関係を分離することはできない。実体の中に関係を見なければいけない。だから生命言語論の立場は、強いていえば実体的関係主義となるのです。広松哲学は、商品論の中に人間を見て現象学を生かそうとしていますが、等価交換の実体を見ない限り、人間の本質を把握することはできないでしょう。

●43)さん 検証の仕方、論理の組み立て、反論の仕方が誤っているのではないでしょうか。
 「科学」で検証できなくても、いくらか知的に役立っているように思います。生活の向上に役に立つ「科学」を、今求められてもそれは無理だと思われませんか?



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科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その18)

http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/201.html
投稿者 Y. Kakasi
日時 2012 年 3 月 03 日 18:37:07: BW32mpuE76J86

 日本共産党の志位委員長が、共産党のHPで動画の「綱領教室」を公開しています。今回は第11回「民主主義革命と民主連合政府(3)」ということで、民主主義から社会主義に移行する戦術である「統一戦線」について解明しています。今回面白いのは、実現しそうもない「民主連合政府」のあり方と、上部構造である巨大メディアの解明です。
HP→ http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2
動画→↓http://www.youtube.com/watch?v=tRM6053kvTA&feature=player_embedded#!
 
 志位さんの講義については、以前(その5)で紹介しました。
→http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/635.html
 そこでは、「社会主義への移行の問題」、すなわち「資本主義社会における民主主義革命のあり方」に焦点を絞って、志位さんの講義の問題点を明らかにしました。

 社会主義への移行の問題は、マルクス主義の二つの誤った原則(「等価交換による剰余価値説」と「唯物史観」)を前提にする限り解決ができません。「生産手段の社会化」は、マルクス主義的社会主義では、党組織と官僚による労働者・国民支配にならざるを得ません。つまり、定式による「社会化」は、政治的上部構造である意識的・イデオロギー的形態ですが、それにふさわしいイデオロギーは、唯物史観では成立し得ないのです。なぜなら唯物史観では「人間の意識がその存在を規定するのではない」からです。この理論的矛盾は、マルクス主義が自己自身を否定する以外解決しないのですが、志位さんたちにはその見通しがないからです。

 被支配者が支配者になるという敵対の逆転、すなわち、労働者独裁の移行段階では、階級闘争という唯物史観イデオロギーを体現した政党と官僚による敵対者(資本家はいないのでKakasiのような反対者)への抑圧・支配が続くのです。マルクス主義をご都合主義的に利用しようとしても、また、エンゲルスの晩年の言葉(「多数者の本来の利益のための革命」=『フランスにおける階級闘争 序文』)をつまみ食いしても、二つの誤った原則の非科学性を承認(自己否定)しない限り、未来の「多数者」にはなり得ません。日本共産党の生きる道は、マルクス主義の原則そのものを批判し放棄する以外にはないのです。

 志位さんは、エンゲルスの「多数者革命」は、今日では、「多数者が目標をあらかじめ自覚(理解)した革命」としています。しかし、問題の核心は、その「目標」が何かということです。志位さんたちには「科学的社会主義」という目標があるわけですが、Kakasiたちは、これを似非科学、空想的共産主義、人間抑圧の理論と批判しています。志位さんは、状態(階級的立場)と意識(イデオロギー)の間にはギャップがあり、これを一致させるには、「複雑な歴史的過程」を必要とすると言いますが、このギャップを埋めるには科学的社会主義の放棄しかないでしょう。この問題は、マルクス・エンゲルスのつまみ食いでは解決できないほど根が深いのです。  

 志位さんの講義は、この根本的な問題をスルーして、目標を曖昧にし、意識(思想・価値観)の意義・役割を過小評価して、多数者を「統一戦線」に結集しようとするのです。つまり、志位さんたちは、唯物史観・剰余価値説に基づいて、非常に意識的・イデオロギー的活動をしているのに、自らはその意識性に気づかず、または隠して「客観的・階級的利害(基盤・状態・地位)」で一致する大衆と「統一戦線」を組もうとしているのです。労働者・大衆と階級利害が対立するのは、大企業の役員や大資産家約6万人(0.1%)だから、99,9%の大衆は統一戦線に結集できるというのです。

 綱領では「目標」について、綱領(一三)で次のように記述しています。 「(一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。」

 ここで、民主主義的な変革の目標は、「独立、民主主義、平和、生活向上」であり、統一戦線は反動的党派とたたかいながらつくりあげられ、成長発展するとされています。しかし、これらはいずれも重要な問題ですが、「共同と団結」の前提としては不十分です。「当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結」というのは、それぞれの主張や組織原則の違いはあっても、相互に信頼できる前提が必要でしょう。定義の明確でない「反動的党派」とのたたかいは、敵を作って攻撃し合う階級闘争一元論の泥沼に落ち込んでしまいます。

 そこで「共同と団結」を推進するには、公正と正義という道徳的基準と、それらを保証するための情報の透明性と討議が必要になります。科学的社会主義の世界観を絶対化し、「信条の違いをこえて」と言いながら、自己の信条を巧妙に押しつける独善的な姿勢は、綱領の中にもよく現れています。「人間の意識がその存在を規定するのではなくて・・・・」(唯物史観の公式)と言いながら、自分の誤った意識(信条・歴史観・世界観等)で自らを救世主のように規定し、人民を自己の目標に導こうとするのです。

 ただ、多数派の形成とは、人民(世論)の支持を得ることなので、人民の欲求や願望、不満や心情に対応することが必要です。支配階級が、権力を使ってあからさまな、人民支配をする場合には扇動も有効でしたが、民主主義(普通選挙)が進み、ある程度生活が豊かになると多数派の形成が困難になってきました。社会主義の多様化、革命の非人間的側面の暴露、資本主義の修正による福祉国家の成立、商業主義マスメディアの影響力等、マルクス的共産主義にとって不利な状況が生まれてきました。

 では、なぜマルクス主義は、まだ現実的な勢力を維持しながら、同時に、増大しないのでしょうか。それは志位さんたちが、何よりも人民の被支配・被抑圧状況からの解放をめざしていると信じながら、同時に、「人間を解放する弁証法」を見いだしていないからなのです。志位さんは99.9%の利益を代表すると言っていますが、実は「99.9%の無知」を実現しようとしているのです。マルクスは、資本主義の没落を「否定の否定」と言いましたが、更なる否定・マルクス主義そのものの自己否定無くして、人間の解放はあり得ないのです。

 志位さんや共産党は、資本主義体制を維持しようとする権力の分析に優れています。その点で「綱領教室」後半の「巨大メディア」批判は見事でした。しかし、そのメディアが、権力中の権力である特捜検察と結託して、小沢冤罪事件を引き起こしたことについて、むしろ率先して「政治と金」を前面に出し、検察擁護と小沢批判を繰り返したことは、いかに共産党が人民を無知に追い込もうとしているかを示しています。これこそ公正と正義に反し、権力の闇を覆い隠しているのです。

 21世紀のマルクス主義は、残念ながら自己変革の勇気を失い、民主連合政府や統一戦線という旧態依然のご都合主義と偽善的民主主義に陥らざるを得ないのです。でも「少しは期待していますよ」と言わざるを得ないのは、人権や民主主義の根幹になければならない公正や正義(の道徳)が、あまりにも行われていないからです。偽善でもいいから、悪党小沢よりはるかに悪質な権力の大悪人たちを追求するべきなのです。巨大メディア以下にはなってほしくないですね。
 赤旗「政治と金」→http://www.jcp.or.jp/akahata/web_keyword/key078/

 さて長くなりました。書いている途中で「綱領教室」の内容が、「赤旗」の記事になりましたので是非見てください。
→→http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-23/2012022309_01_0.html
 この教室もあと一回になりました。「上部構造での戦い」の勝利は、「マルクス主義の自己否定」なしではありえないことが、次回でもっと明らかになるでしょう。

(Kakasiの投稿検索は、★阿修羅♪内の検索を、「科学的社会主義」でクリックしてください。サイトでは→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html です。もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪ ガンバレ!)  


コメント
01. 日高見連邦共和国 2012年3月03日 20:05:43 : ZtjAE5Qu8buIw : nn9BcWcoc2
資本主義が悪魔の契約である事はすでに証明されている。
新解釈・新理論の社会主義の“萌芽”を期待する。一応ね!


02. 2012年3月03日 20:39:30 : wO7TnF0TW2
マルクス主義がどうのこうのではなく
共産党の連中の、人間性の問題だろう。
自分の手を汚さず、口先だけの連中だ。
その点、ピンハネ派遣会社の、経営者連中と何ら変わらん。

額に汗して、自らの手を汚し、必死になって働け!
共産党のバカ者どもよ!


03. 2012年3月03日 21:28:48 : 9pmCv7djFc
小沢氏に対していまだにマスコミと一体となって攻撃している共産党に、理論も何もない、あっても、自己を正当化する自己陶酔理論だ。国民をだましてはいけない。

04. 2012年3月04日 00:49:59 : PCIZeFQqpE

大丈夫。橋本様が、共産党をこの国から追い出してくれます。
サヨクがいない大阪。なんてすばらしい。
強い政治、新自由主義、市場原理主義、橋下徹万歳!!

大切な事なので3回言います
橋下徹万歳!!
橋下徹万歳!!
橋下徹万歳!!

05. 2012年3月04日 01:28:03 : 1BHyEc81RE
ねえねえ

共産党って助成もらわないから党員から募金を党費以上に搾取しているらしいけど
本当なの?♪

おすえておすえて!

06. Y. Kakasi 2012年3月04日 20:59: BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM

皆様、コメントありがとうございます。
 コメントを見て、Kakasiの気持ちは複雑です。
 というのも、マルクス主義は誤っており、今日では人間の幸福や進歩にとって有害です。しかし、共産主義自体はユートピア(理想郷)思想として、あってもいいと思うからです。
01)日高見共和国さま、阿修羅で高名な方にコメントをいただき光栄です。 
 ところで「資本主義が悪魔の契約である」ということについて、質問が2点あります。① この表現はかなり刺激的ですが、出典はあるのでしょうか、オリジナルでしょうか。② 資本主義は、かなり修正されて、福祉政策が成功している国もありますが、これも悪魔の契約と言えるのでしょうか。ちなみに、Kakasiは資本主義を悪魔の契約とは考えず、人間の利己的・衝動的・権力的本性の表れと考えます。

02)さん 
>マルクス主義がどうのこうのではなく、共産党の連中の、人間性の問題だろう。
→→について、Kakasiは、「人間性の問題」ではないと思います。不破さん、志位さんはじめ、皆さんいい人が多いですよ。やはり悪いのは、誤った信仰や信念に欺かれることです。欺かれるくらいだから、人がいいのです。人間は欺されやすいから、よほど理論には注意が必要です。
 労働者の搾取(低賃金)が、等価によるのか、そうでないのか、どう考えられますか。
 Kakasiは幼い頃、「バカと言うものがバカだ」と教えられました。

 一つぐらい建前で原則を貫く政党もいないと、政治が面白くないでしょう。自分たちの考えで、問題がほとんど解決するように大衆を欺して支持を得ようとしているところは、ハシズムとよく似ています

03)さん
>自己を正当化する自己陶酔理論だ。
→→というのは正しいと思います。預言者や革命家、扇動的指導者や宗教家に多いタイプです。気をつけましょう。

04)さん
>大丈夫。橋本様が、共産党をこの国から追い出してくれます。サヨクがいない大阪。なんてすばらしい。
→→というのは、自己陶酔タイプの方でしょうか。共産党を追い出してはいけません。橋本様は競う相手がいなければ、寂しくなるでしょう。サヨクがいるから、ウヨクも存在意義があるのです。ウヨクだけなら、また戦争になります。Kakasiは正義は大切にしますが、戦争は嫌いです。「大事なこと」はよく考えることです、欺されないように・・・・・。

05)さん
>募金を党費以上に搾取しているらしい
→→については、「募金」は、生活を削るようでなければ、自由意志だから、搾取とは言わないでしょう。でも共産党ファンがいて、高額献金者も多いから、余り心配しなくてもいいのではないですょうか。ただ宗教ほどにのめり込めば、詐欺的搾取になってしまうですょうね。


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科学的社会主義・日本共産党批判――
マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その19)
「等価交換の欺瞞性」

http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/577.html
投稿者 Y. Kakasi
日時 2012 年 3 月 13 日 23:58:03: BW32mpuE76J86

 日本共産党志位委員長の「綱領教室」が、最終12回(3/6)になりました。今回は綱領の「第5章 社会主義・共産主義の社会をめざして」という「未来社会論」になります。内容については、わかりやすい要約がHPに出ているので、動画を視聴しながらチェックすると簡単に理解できます。
動画・要約→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 今回は、最終回ということもあって感動的な講義になりました。内容は不破さんの講義も含めると繰り返しが多かったですが、まとめとして今まで以上に志位さんたちの主張がよくわかりました。最後の言葉「日本共産党の名前は、人類社会の本来の姿が花開く理想とロマンに結びついた名前です」というのは、空想的共産主義の面目躍如という感じでした。

 しかし、前回までに述べたように、志位さんたちは、マルクスが解明した資本主義の運動法則の分析と見通しの誤り(「等価交換による剰余価値説」と「意識従属論による唯物史観」)を見逃したままで、どのような「未来社会=社会主義・共産主義社会」を実現しようとするのでしょうか。『共産党宣言』にみられるような、階級闘争主義による決定論的未来社会は、共産党の支配が花咲く、共産党だけの理想とロマンと自由の実現ということにならざるを得ないでしょう。Kakasiなどのような批判的労働者は、とても自由にさせてもらえない社会のようです。

 さて不破さんや志位さんの資本主義批判の眼目は、「利潤第一主義」にあります。この点ではKakasiの問題意識と同じであり、多くの人々の共感を得られると思います。問題は、その「利潤の源泉がどこにあるか」ということです。この問題は、社会主義実現の前提になる「生産手段の社会化」は、①所有・管理・運営が、どのように行われるのか、②市場経済・商品交換との関係はどうなるのか、また③「生産手段の社会化」の前提となる「労働者の連帯・団結(国民の合意)」は、どのように保証されるのか、ということと深く関連してきます。

 志位さんは、資本主義がもたらす社会悪の根源が、「生産手段の私的所有」にあり、そこから「利潤第一主義」が生じる、だから、「生産手段の社会化」をすれば、生産の目的・動機が「社会と人間の利益」に大きく変化する、と考えます。しかしこの捉え方は根本のところで間違っています。私的所有(私有財産)と私的利潤(私利)の追求は、人間の言語的(創造的)本性に由来する相互に一体のものなのです。そして、資本主義はその本性が、利己心・向上心・致富欲・権力欲・商品交換・国民国家・科学発達・技術革新等と結合して発展したものだからです。

 志位さんは、マルクスが「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて自由でありうる」という命題から、「すべての生産手段の集団への返還」という目標を、きわめて簡潔かつ論理的に明らかにしたとしています。しかし、「生産者の集団」が、生産手段を所有したところで、誰がどのように指導・運営するのでしょうか。また綱領(一七)-(2)に「市場経済を通じて社会主義に進む」とあるように、社会主義・共産主義においては市場経済・商品交換は前提とされていません。一体、生活必需品や生活向上・享楽品はどのように分配されるのでしょうか。

 本当の自由は、マルクスや志位さんの考えるような「労働時間(労働日)の抜本的な短縮」による時間的自由だけによって得られるものでしょうか。党官僚主導の生産者集団が生産手段を所有して、恣意的な分配があっても、「市場における選択の自由」がなければ、本当の自由とは言えないでしょう。そもそも宇宙船地球号の成長の限界の中で、また限られた資源や生産・生活条件の多様性のなかで、市場経済・商品交換を前提としないで、個別的利害の調整や資源・財・価値の適切な配分が可能でしょうか。多くの学者が指摘するように、ソ連や東欧の失敗を検証するまでもなく、また、いかにコンピュータが発達した未来社会においても、それが不可能なことは、今日では常識的に明らかでしょう。

 そもそも資本主義の下では、生産手段を自由にできる資本=貨幣さえあれば自由な発達が保証されます(少数者のみ)。だから、社会主義においても、実体としての生産手段を所有して労働時間を短縮すると同時に、生産手段の別形態である貨幣=資本(株式)を所有する方が、自由の拡大には貢献できるでしょう。私的所有と商品交換を円滑にする貨幣は、人類の偉大な発明品です。貨幣は、経済社会(欲望と労働、交換と消費の人間活動)を調整する有効な手段でもあります。そして、貨幣は、市場経済・商品交換を前提としてのみ自由で効果的に機能します。

 資本主義がもたらす矛盾は、マルクスのように、貨幣(資本)が人間の交換関係を支配する(価値法則・等価交換)と考え、資本(家・企業=生産手段)の労働(者階級)支配を、労働(者階級)による資本の社会的所有によって終わらせ、解決できるというものではありません。人間の本性(利己心等)が商品交換を促進し、貨幣を創造し、資本の集積・労働者の搾取・欲望の肥大化を奨励しているのだから、交換そのものを公正と正義、社会的責任という道徳的原理で[自己]規制する必要があるのです。

 つまり、資本主義的運動法則(恐慌等)による階級闘争や団結の必然性ではなく、資本主義的生産と交換の矛盾や欺瞞に対する社会的自覚と責任が意識的に必要となるのです。人間は言語的創造的な動物だから、科学的知識や意欲によって、意識的に構想し、議論し、契約し、自らの未来社会を築くことができます。人間の意識は、社会的に規定されるだけでなく、自らを社会的存在として積極的に位置づけますが、それによって社会を変革できるのが言語をもつ人間存在なのです。

「古典・綱領教室」は今回で終わりましたが、Kakasiの批判投稿はまだ中途半端です。もう一回すればちょうど20回になります。それで終われるように努力します。
 なお今までの投稿を、わかりやすく読んでいただけるように、以下にまとめてみました。→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html  

コメント
01. 2012年3月14日 16:19:41 : qcVEEsiCok

投稿のまとめはよくわかる。HPは、むずいが・・・・
反論を楽しみにしている。誰かいないか、いないな・・・
等価交換はたしかに欺瞞だ。
欺瞞を見抜くのが科学的検証だ。
現象の背後にあるものを表に出して知識にするのが科学だ。
現象をそのまま記述するのは詐欺師のペテンだ。
しかも.結果はメチャメチャ、
スターリンは何人殺したか、ポルポトは何人だ?
ヒトラーもハシモトもマルクスに毒されて狂った。
20世紀は、帝国主義とマルクスで狂った世紀だった。
で、21世紀はどうなるの?、Kakasiさん。
言語論の革新?、西洋思想批判?よくわからないが・・・


02. Y. Kakasi 2012年3月15日 00:29:58 : BW32mpuE76J86 : aXHUyUuvPo
副題が文字数オーバーで抜け落ちました(^_^;)。追加しておきます。→ 「等価交換の欺瞞性が、資本主義の矛盾と不正の根源」です。
 01)さん 読んでいただきありがとうございます。
 Kakasiも反論を期待しておりますが、皆さん小沢冤罪事件で話がもちきりのようです。まあ、政治に関心を持つ人は、マルクスにも関心を持ったと思うので、たまにマルクスや共産主義を思い出していただけるのもありかなと思っています。

「等価交換は確かに欺瞞だ」と端的に同意していただけるのは大変励みになります。交換が成立すれば等価だ、とか、価値が個々の交換を規定する、等という発想は、合理主義や法則主義、イデア主義や観念主義という、自らも自覚できない西洋的偏見・神話に過ぎないと思います。

 マルクス主義の根底にある唯物論や弁証法なども、本人たちは気づいていない観念主義の産物です。マルクスは言語や知識(科学)を相対化して、人間生命との関係を見いだすことができなかったのです。是非「生命言語説Life-words theory」L-W 理論を研究してみてください。

「現象をそのまま記述するのは詐欺師のペテンだ。」というのは意味深長な表現です。現象学の批判でしょうか。今の世の中、学問も政治も宗教も金儲けも、詐欺師とペテンのオンパレードですね。「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪」ことが本当に大切になっていると思います。


03. 2012年3月15日 15:11:50 : o3hH0dwaro
Kakasiさん いまいちわからないところがあります。
>資本主義は、その(人間の)本性が、利己心・向上心・致富欲・権力欲・商品交換・国民国家・科学発達・技術革新等と結合して発展したものだからです。

というのは単純すぎないでしょうか。人間の欲望に「狂気」は入らないのでしょうか。と言うのも、01さんのように、狂っているのはヒトラーやスターリン、ハシモトばかりでなく、オザワ冤罪事件を引き起こした連中も、常識の通じない「狂気」の部類にはいるし、金儲けで犯罪を犯す連中も、単なる「利己心・向上心・致富欲・権力欲」ではなく、「狂っている」のではないでしょうか。

04. 2012年3月16日 00:57:31 : r3ZBWmgvpo
私も、03さんと同じく、「人間の本性」に引っかかります。
「人間の本性(利己心等)が商品交換を促進し、貨幣を創造し、資本の集積・労働者の搾取・欲望の肥大化を奨励しているのだから、交換そのものを公正と正義、社会的責任という道徳的原理で規制する必要があるのです。」

 Kakasiさんの言われる本性は、利己心のように否定的なものだけでしょうか。スミスが言うように同情心や利他心・互助心というものが人間にはあると思います。そうすれば、押しつけ的な道徳的原理などなくても良いのではありませんか。

 自由放任とまでは行かなくても、道徳的原理は社会主義の考え方と両立するのでしょうか。生産関係や社会の仕組みを変えれば、利他的本性が芽生えてくるのではないでしょうか。意見を聞かせてください。

05. 母系社会 2012年3月16日 16:28:42 : Xfgr7Fh//h.LU : osJXujfQhI
多くの人が、マルクスの唱えたマルクス主義=共産主義とは、
まず、歴史観としては階級闘争史観であり、共産主義とは
共産主義社会の実現を目指している運動だと理解していますが、
これらは、厳密に言えばマルクスが唱えた共産主義の誤った
解釈です。
なぜ、このような誤解が生じたのかと言えば、それはマルクス
主義の後継者たちが共産主義を誤って解釈し、世間に広めた
からです。

マルクスが生きていた頃の西欧哲学界では、デカルトが唱えた
「物心二元論」をどうしたら克服できるかという大きな課題を
抱えていました。

なぜなら、物と心は別々の実体であり、別々の原理で活動=運動
しているという「物心二元論」では、物(身体)と心(精神)から
成る肝心の人間が説明できないからです。

また、この頃の西欧哲学界には、中世以来続く「普遍論争」という
未解決のテーマもありました。この「普遍論争」とは、概念は実在
するという実念論と、実在しないという唯名論の存在論を巡る論争
でしたが、これも未解決でした。

この二つをマルクスは、「唯物史観」=「関係主義」という新しい
世界観を確立することで解決し、その視点で「資本論」を書いたの
です。

ですから、マルクスは、たとえば人間は「社会的諸関係の総体」
であるとか、人間や社会、商品、資本などの重要な概念の全てを、
「関係」という視点で規定する理論をつくりあげたのです。

通常、「物心二元論」は、「唯物論」=「物質一元論」で克服された
と解釈されていますが、エンゲルスは「自然弁証法」で・・・

「人々は脳の分子・化学運動に思惟を実験的に還元することであろう。
だが、思惟の本質がそれで尽くされるであろうか。」

と述べて、思惟=思考=意識活動=を物質に還元しても、人間の意識
活動の有り様=機制が解明されたわけではないこと、つまり近代科学
流の「原子論的」、「要素還元主義」的発想法=対象の解明とは、
対象の究極的な構成物=素粒子=素材を解明することという考え方=
の誤りを指摘していました。

しかし、大半のマルクス主義者は、近代科学のこうした発想法=
実体主義=本質主義=はマルクスの唯物論と同じと考え、「心」を
「物質」に還元して、生理科学的=脳科学的な解明で「心」=「意識」
の機制が解明さると考えるようになり、エンゲルスの指摘・杞憂は
無視するレベルへと退化してしまったのです。

マルクスの唱えた「唯物史観」の核心は「物心二元論」と「普遍論争」
の対立を克服した上部構造と下部構造の相互作用の関係にあり、それ
以外の歴史についての記述などは副次的なものに過ぎません。

ですから、「唯物史観」は、単なる歴史観ではなく、認識論であり、
存在論であり、論理学でもあるもので、自然界と人間界を統合した
世界観です。

下部構造には、当然ながら自然界も含まれるのですから、下部構造を
人間界の<経済>のことのように理解する考え方は、旧ソ連のスターリン
公認「マルクス主義」の考え方であり、俗流化されたマルクス主義です。

マルクスは、マルクスの哲学的な、根本的な立場を書いた「ドイツ・
イデオロギー」で、共産主義とは永遠の改革運動であり、何らかの実現
すべき目標・状態を持つような運動ではないと明確に述べています。

ですから、いわゆる「社会主義社会」とか「共産主義社会」というのも、
資本主義時代に生きる人間の理想社会像に過ぎず、その意味では暫定的な
理想社会像に過ぎません。

マルクスは、人間の意識は歴史的・社会文化的制約・拘束を受けているので、
そもそも、ある特定の時代を生きる人間(マルクス)が、
人類の究極的な理想社会なるものを想像することはできないと考えていたのです。

これが、ありとあらゆるものが生成流転していると考える仏教的なマルクス思想の大前提であり、
正に仏教と同じように「関係性」で「物」も「心」も一元的に規定するマルクス主義の立場です。

ですから、実体主義の立場でマルクス思想を解釈するのは、キリスト教の
教義を前提に、仏教の教義を解釈するようなものであり、<誤り>とし
か考えられないのは必定なのです。

商品に使用価値と価値が「ある」のは、物に5グラムと10グラムの二つの重さがある
というのと同じですから矛盾そのものです。

そして、この矛盾は、物の「重さ」という「性質」はそのものの実体的な
性質ではなく、その物と地球、厳密に言えばその物と全宇宙との万有引力
の「関数」のような存在に過ぎないと考える「関係主義」的精神・非実体
主義的精神でないと絶対に解けない「ナゾ」なのです。

是非、広松渉の「ドイツ・イデオロギー」(岩波文庫)を読んで下さい。
そこには、もう一人のマルクスがいます。


06. Y. Kakasi 2012年3月17日 18:26:55 : BW32mpuE76J86 : r3ZBWmgvp
o

03)04)さん 人間の本性についてのご意見ご質問ありがとうございます。返答が遅れました。簡単に説明するのが難しいのです。
 資本主義を発展させるのが、人間の本性であることを検証するのはKakasiの個人的な能力を超えています。これは研究者の課題です。しかしマルクスの考える人間の本質と比べることはできます。

 マルクスは人間の本質を、自然に対する生産的労働の、合目的的発展的性質に置きます。彼は、蜘蛛や蜜蜂の巣の作製と建築師の技術を比較して、人間の作製の場合は、事前に頭の中に表象(観念)として存在していた結果(目的)が出てきて実現したものと考えます。これを歴史的社会的に見ると「人間は、その生活の社会的生産において、一定の必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ」ということになり、この物質的生活の生産様式が土台となって、意志的意識的精神的形態(政治・宗教・芸術・思想等)が上部構造を形成しているとなります。

 しかしマルクスは、思想家・社会科学者であると同時に、革命家・扇動家でもあるので、『共産党宣言』でわかるように複雑な経済的利害を、階級的利害に一元化して支配階級への憎しみをあおります。階級概念は、歴史的分析概念であるにもかかわらず、実践的現実的課題として目的化してしまうのです。つまり、マルクス主義理論(知識)自体が意識的産物、しかも弁証法的偏見と人間抑圧の理論であるにもかかわらず、現実の生産諸関係を変革しようとするのですから、理論の存在自体が現実の矛盾と混乱を引き起こしてしまうのです。これを克服するには、理論崇拝の否定と止揚が必要(必然)となるのです。

 そこでマルクス理論を克服する理論が、Kakasiたちの「生命言語理論」ということになります。これをここで展開することはできませんが、マルクスとの対比で言えば、人間の意識や理論・思想とは何か、また、それらは人間の存在や行動(労働や生産、信仰や宗教、契約や政治、欲望や享楽等々)にとってどのような意味を持つのか。そして、それらの人間的意識を規定するのは、人間の本質としての「言語」であるということになります。「人間の本質は言語である」ということから、マルクス主義だけでなく、合理主義や西洋思想そのものの限界を克服する視点が明らかになります。

 マルクスやエンゲルスが展望した「自由の王国」としての共産主義社会も、マルクス的「必然の王国」の自然法則理論を克服するためには、マルクス主義自体の自己否定なくして、すなわち、「人間の本質である言語」の意義を理解し、自己自身について知ることがなければ実現不可能なのです。人間の本質についての新しい知識は、東洋と西洋、諸文明の特殊性、価値観の対立を乗り越え、人間の普遍性、文化や文明の伝統と普遍性のもとに共生することを可能にし、地上のすべての生命の更なる持続的繁栄の条件となるでしょう。

 なにやら難しい話になりましたが、人間の本質について考えると、以上のような理屈が生まれてきます。これはKakasiたちだけの考えということでなく、生命とは何か、人間とは何か、これからの社会はどうあるべきかという問題意識を持てば、誰もが考えつく解答だと思うのですが、どうでしょうか。試みにあらゆる偏見を棄てて、生命と人間について、その未来について考えてみてください。決して「日本共産党綱領」のようにはならないでしょう。

 質問の「狂気」と「利他的本性」については、もう少し時間をください。

 母系社会さん、投稿ありがとうございます。
もう一度
マルクスの関係主義と、Kakasiたちの依拠する仏教の縁起主義との違いを考え直してみます。


07. Y. Kakasi 2012年3月19日 21:54:08 : BW32mpuE76J86 : r3ZBWmgvpo
母系社会さん 詳しいコメントで、考えを深める機会が得られて感謝します。
 おそらく母系社会さんがこだわっておられるのは、広松の指摘する次のことでしょう。
 「物象化の秘密を知らず、物神崇拝に陥るとき、客観主義的な歴史把握、ひいては決定論的な歴史把握を生ずることになる。
 そして不幸にも、唯物史観は、しばしばそのような科学主義的な客観主義として、しかも一種の歴史的決定論として誤解されている。読者の中には、それは誤解ではなくして、まさしくマルクス・エンゲルスの思想であると思われるむきもあるかもしれない。現にマルクスは『資本論』の中で次のように明言しているではないか、これは一種の客観主義的・決定論的発想の自己表明ではないか、と言う指摘を受けるかもしれない」(『唯物史観の原像』p125)

 そう、Kakasiたちは「物象化の秘密」などはないと考えるし、「歴史的決定論として誤解」もしていないのです。マルクスの言う「物象化の秘密」とは、資本主義とその歴史的運命の神秘化であり、『資本論』の基本法則である「等価交換=価値法則」は、商品交換の欺瞞性と非道徳性を隠蔽する独断的・決定論的法則・理論になっていると主張するのです。

 マルクスは、搾取の隠蔽性を暴露したと言います。しかし、それは西洋的認識の制約や偏見に毒された政治経済学者の「労働価値説にもとづく等価交換」、という虚構にもとづいているのです。マルクスや広松は、これらのブルジョア経済学の前提そのものを批判すべきだったのです。

 また広松は、上に続く『資本論』からの引用で、「経済的な社会構造の発展を一つの自然史的過程としてとらえる私(マルクス)の立場」から、「諸人格」は「経済的諸カテゴリーの人格化」にすぎない、とすることに対して、「いったい人間の意識的能動性はどう処遇されるのか?」という本質的な問いを発しています。そしてその答を、エンゲルスの説明に求めて、

「唯物史観が決して通俗の意味での意識的能動性を否認するものではないこと、唯物史観はこの意識的な能動性をその根底で規定しているところの究極的な起動力にまで問い進まねばならないという課題を対自的に設定し、それに答える場面で下部構造の究極的な規定性――これは協働の物象化に淵源するわけだが――意識形象の存在被拘束性を措定するのだということ、今やこの間の事情が明らかになったものと考える。」(同上p127-8)

と述べています。しかし、マルクスの唯物史観は、人間の意識的能動性すなわち階級的自覚と連帯に正しく反映されてきたでしょうか。むしろ多くの理論的解釈や対立を生じ、先進国ではマルクス的歴史法則とは逆に、共産党の存在によって労働者の自覚と連帯を阻害し、途上国では、歴史法則とは想定外の革命(ロシアや中国等)によって混乱と不幸を引き起こしたのではないでしょうか。いわゆる帝国主義が産み出した東西対立も、マルクス主義理論がもたらしたものです。
 
 つまり、「下部構造の究極的な規定性」や「意識形象の存在被拘束性」は、唯物史観という理論そのものによって否定されてきたのではないでしょうか。生産力と生産関係の発展に伴う「協働の物象化」(人間の物的関係性と連帯)が、物象化の理論・マルクス主義自体によって歴史の閉塞状況を生産してしまったのです。残念ながら広松理論は、マルクス主義の理論上の抑圧的性格を擁護・延命・発展させることはできないのです。

 母系社会さんの提起される問題は多いのですが、Kakasiたちの依拠する縁起主義について説明しておきます。
 マルクスの関係主義が、生産と再生産、生産力と生産関係という認識結果(原則的知識・法則)から出発するのに対し、仏教の縁起主義は、知覚できる実体(自然と生命)を基準にしますが、その認識論は「無明」(無知・迷い)から出発します。つまり科学的認識(知識)の成立根拠にさかのぼって、生命にとっての言語と知識の意味をまず解明します。

 縁起とは、「これがあれば、あれもあり、これがなければ、あれもない。」と相互に依存し合って存在することです。この意味は、始まりとしての原因があって、終わり(目的)としての結果があるという絶対的因果関係ではなく、原因から結果だけでなく結果から原因を認識し、最終的にその認識は「無知や明知」に相互転換するものです。つまり「これやあれ」の存在を、認識する前提にさかのぼって相対的・相互的に認識するということです。
 しかしマルクスの関係主義は、物心二元論は克服していると思いますが、『資本論』におけるマルクスの科学的因果認識は、認識の結果としての「等価交換」を前提として、不等価や偶然性という実体自体を記述しているのではないのです。だから、『資本論』の弁証法のように、明確な合理的因果主義(平均的法則による実体支配・制約)の立場は、現象の相互関係を認める関係主義(弁証法の一形態)ではあっても、縁起主義ではありません。

 なぜなら等価交換は認識の結果に過ぎません。認識に過ぎない因果の現象を、原理法則の根本に置くと必ず現実との間に矛盾が生じます。その意味でミクロ・マクロの自然は認識の限界があります。現代科学はミクロの世界での運動を、対象が確定できないため確率的にしか因果の説明ができないことを知っています。しかし、マクロの段階では、「ビッグバン」のような仮説的現象を、西洋的偏見に歪められて、さも実在的知識であるかのように流布しています。

 不十分な説明ですが、これぐらいしか答えられません。もう少し単純で具体的な質問ならもっと答えやすいです。よろしく。「狂気」と「利他的本性」については、また次に・・・・

※補足:唯物史観的相互関係主義は、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」のように物質的因果関係にもとづくものです。しかし、仏教的縁起主義は、人間は意識的存在であって、意識と存在を対立的に捉える相互関係ではなく、社会的存在の中に意識を含む相互依存関係があると捉えます。従って、人間の意識はその社会的存在を規定し、人間存在と社会的存在の在り方自体を規定し変革するものと捉えるのです。(4月12日追加)


08. Y. Kakasi 2012年3月23日 00:28:12 : BW32mpuE76J86 : r3ZBWmgvpo

03)さんの質問は、資本主義社会に、人間の本質として「狂気」が現れているのではないか、ということでしょうか。
 「狂気」の定義にもよりますが、ヒトラーのような独裁者を「狂気」であるとすれば、資本主義に限らず、いつの時代にも出現していました。特に社会が不安定な変革の時期に多かったのではないでしょうか。しかし、スターリンやハシモトを「狂気」であるとするには疑問があります。「狂気」が、自己の行動の異常さを自覚し秘密にしようとする限り、通常の理性と判断力をもっていることでしょう。
 ヨーロッパでは宗教改革後の混乱期に、魔女裁判などの集団的「狂気」が起こりました。戦争や災害、過度な競争のもとの不安は、人間から通常の判断力を奪い、恐怖や憎悪・怒り等の否定的感情を高めます。問題の原因を単純化して解決策を示すと、人間は一定の方向に扇動されやすくなります。

 問題は「金儲けと狂気」の関係ですが、モンテスキューは商業を肯定的にとらえ「野蛮な習俗を匡正し、温和にする」と述べています。経済が成長し社会全体が豊かになるときは、競争の問題が表面には現れませんが、弱肉強食の競争状態となると問題は深刻になります。営業(企業)の存立が危ぶまれるようになると、ヒトラーのようにわかりやすい敵(ユダヤ人、共産党)を作り、扇動と宣伝で正常な判断力が失わせ、合理的であるはずの資本主義が非合理的激情に動かされてしまうのです。

 競争、それは社会的成長が見込まれ、多くの大衆に多少とも見返りが目に見える場合であれば我慢できますが、競争相手を踏み台にして競争の勝者になるならば、著しく公正を欠いたものになります。競争自体が人間の悪性を喚起するものではなく、商品交換の欺瞞性(利益のための人間関係)が人間の悪徳と狂気性を誘発するのです。資本主義は、生活を豊かにし活力を生み出しますが、資源の浪費と道徳の退廃を招き、人類文明の衰退を促進します。



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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その20)「最終まとめ」
http://www.asyura2.com/12/senkyo128/msg/694.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 4 月 10 日 01:04:51: BW32mpuE76J86



 これまで日本共産党の「古典・綱領教室」について表題の投稿をしてきましたが、今回はその最終回になります。激動の政局にあって、本政治板での投稿に反論もありましたが、★阿修羅♪の優れたシステムと運営方針に守られ、続行してきました。感謝です。

 読者の方には、投稿者Kakasiが期待した内容豊かな意見・反論・批判をいただきました。このようにオープンに反論していただけたことが、一番の収穫でした。特に「母系社会」さん、「一隅より」さんの具体的な反論は有意義でした。しかし、マルクス主義のもつ問題の本来的な深さ・複雑さ・難解さのため、理解されることの困難さを知りました。

 当初は、日本共産党のマルクス理解や綱領が、創造的であってもマルクス主義から逸脱しているという批判的意見がありましたが、マルクス理論に対しては護教的な意見が多いようでした。とくに、科学的社会主義の根幹である「等価交換による剰余価値説」と「意識従属(反映)論による唯物史観」の批判は、「阿修羅掲示板」の愛読者であれば容易に理解されると思っていましたが、Kakasiの力不足からか説得するには至らなかったようです。しかし、マルクスの真理性や正当性を証明できる説得力ある反論もなかったので、今後も機会を見つけてマルクス批判を続けようと思います。

 最終回は、今までの反省を込めて、難しい議論は止めて、軽いタッチで自説を述べてみます。まず「利潤(剰余価値)の源泉」について、マルクス経済学者林直道氏の『経済学入門』(青木書店 1997)から引用します。彼は、「現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけは、どこから出てくるのだろうか?」という設問を投げかけ、次のように答えます。

不等価交換では真の説明にならない
 ①ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格で仕入れてそれな価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。
 ②ところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはすで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。だから、安く買うとか、高く売るというような、不等価交換はひとまず脇へおかねばならない。
 ③理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。」(第3章p28 引用で3段落に分けた)
 
まず①段落では、普通の常識として商業利潤の源泉を述べています。これは[利潤の源泉においては]普通の常識が正しいのです。そして、商業利潤の原則が、労働力商品にも当てはまり、労働者搾取の源泉となっている。つまり労働力商品を安く買って、労働者を長時間劣悪な労働条件の下で酷使しているのです。労働者の搾取は[マルクスの考えるような]秘密でも見えにくいものでもありません。

 ところが②では、個々の資本家間の商品売買にかかわる損得の話をしながら、とつぜん「社会全体、資本家全体では差し引きゼロ、何ももうけはなかった」という話になり、不等価交換が考慮の外に置かれることになるのです。個々の資本家のもうけ[利潤]は、商品価値を生産する労働者所有の労働力商品を、本来の労働力(人間)の価値より安く買ったもの[が利潤の一部]であり、ここで「社会全体、資本家全体」のもうけを持ち出す必要は全くないのです。

 だから③のように、等価交換を前提とする必要も全くないでしょう。マルクスにとっては、人間の交換関係が問題なのではなく、その交換関係を支配する「賃労働と資本」の運動法則の弁証法的解明が目標だったのです。だから、マルクスが「社会全体、資本家全体」を持ち出す意図は、欺瞞に満ちた等価交換の商品社会で、社会的労働を搾取することによって自己運動をする[社会全体の]「総資本」の、生成・発展・消滅の運動法則を明らかにすることにあったのです。

 しかし、このマルクスの考え方こそ交換関係の非対称性(不等価性)を過小評価し、人間抑圧をもたらす理論なのです。なぜ人間抑圧の理論なのか。それは、労働力(人間)の価値を、階級的に抑圧された再生産価値と規定したこと、またそれによって労働者(人間)の生活向上や欲望や願望、すなわち人間の意識的・意欲的・道徳的判断、自由や平等、正義や公正、人間としての要求や権利を求める心を過小評価したことにあります。

 マルクスのように、労働者の解放のために「等価交換による搾取」というトリックなど使わなくても、もっと人間と人間の関係を具体的に見れば、交換契約(商品売買・取引)における欺瞞や搾取の不当性はよくわかることなのです。日々の職場で労働現場の実態を見れば、搾取が労働力の売買の欺瞞的等価交換によって行われていることは明らかなのです。

 経済学は、商業や産業活動から得られる、利潤、利殖、致富を悪いものとは考えず、奨励する立場にあります。現状に安住する研究者には、人間本性の快苦や善悪等の肯定と否定の二面性をバランスよく追求する必要性や問題意識が不十分です。合意的契約によって成立する商品交換(売買)を、等価交換と不等価交換の二面性で捉え、表面的には等価に見える交換行為を、両当事者の立場の非対称性において捉えるのは、J. E.スティグリッツやA. セン等の新しい経済学に見られる傾向でもあるのです。

 アリストテレスは商品交換を、「非難せられて然るべきもの」(『政治学』1-10山本訳)と述べているのに対して、モンテスキューは商業を肯定的にとらえ「野蛮な習俗を匡正し、温和にする」(『法の精神』20-1根岸訳)と述べています。発展する社会の経済活動は、スミスを代表としてほとんど肯定的で、不等価交換の場合であっても否定的側面への言及はほとんどありません。マルクスが『資本論』で批判したコンディヤックの「交換の不等価性」も、社会的総価値の増殖(剰余価値の形成)として説明しているのではなく、価値(利潤)が交換を通じて誰の元に移動・集積するかという意味で、積極的に捉えているのです。

 近代の経済活動(生産、流通、消費)による資本主義の発展は、人類に豊かで便利な生活を可能にすると共に、植民地支配や戦争、周期的恐慌や私的富の集積と偏在、労働者の貧困や失業を生じさせ、社会全体の政治的制御・経営の必要性が増大しました。こうなると、人間本性や倫理的観点から資本主義の運動法則を考察する余裕はなくなり、もっぱら功利主義の観点から体制維持的な市場均衡を追求する経済学に移行し、需要供給や景気循環を数学理論で説明して満足することになりました。そしてその前提として、ありもしない完全競争の市場や交換結果の等価性という絵空事を法則化して、経済活動を合理的に解明したと称しているのです。

 しかし、20世紀になると帝国主義的対立の中から、社会主義ソ連が成立し、ブルジョア経済学の限界が明らかになりました。第一次世界大戦と世界恐慌の混乱に危機を覚えたイギリスのJ.M.ケインズは、自由放任による周期的恐慌は、社会不安をもたらすとの懸念から、国家が積極的に経済に介入し有効需要を創出すべきであるとしました。彼の場合、人間の本性を快苦・善悪の二元論で楽観的に捉えるのではなく、経済活動を政治的プラグマティズムで調整しようとしたのです。個々人が市場で利己的利益の追求だけを考え、自由競争を進めれば社会的調和と繁栄が導かれるという考えや、階級闘争が矛盾を解決するというような単純な発想では現代の課題を解決することはできません。

 ではどうすればいいのか?それには生命が、自ら創造した進化の最高形態である言語によって、自らを抑制し制御する哲学や思想・道徳を必要とするのです。そしてそのために、言語を持つ生命である人間が、自らと自ら創り発展させてきた文化と社会の在り方を、正しく認識し合理化し制御する必要があるのです。市場依存主義(新自由主義)のように、利己心に任せて経済成長を図るというのは、単に強者の市場支配を奨励するのに過ぎません。貨幣が(によって)市場と人間生活を、適正・円滑に、豊かで便利なものにするのですが、同時に、不等価で不正な貨幣(数的言語)による欺瞞的交換と富の偏在(格差)をもたらします。

 しかし、マルクス(共産党)批判が真に理解されるならば、これから我々は、何の躊躇もなく、商品市場の「等価交換」や「完全競争」という原則を、経済学的神話であると批判することができるし、また、平均的法則や純粋理論を経済学的前提とすることはできなくなるでしょう。逆に、言語意味論において、言語の意味が歴史的・社会的に平均的制約を受けつつ主観的相対的なものであると同様に、商品の価値の社会的平均的な共通価値(適正価格!?)を認めつつも、個々人の欲望や交換条件にもとづく主観的相対的なものであることを前提とする必要があるでしょう。また「不等価交換」や「不完全競争」そしてそこから生じている利潤(剰余価値)や不平等・格差・貧富さらに政治的・経済的支配や抑圧、不公正や不正義、欺瞞や宣伝(情報の非対称性)を是正する発想(公正と正義・社会的責任・道徳的社会主義)が生じてくるでしょう。

 以上がKakasiたちの「科学的社会主義・日本共産党批判」の結論です。この結論は、人間存在研究所の沢谷や大江のアイデアによる「生命言語説Life-words(L-W)theory」を理論的根拠にしています。おそらくこの理論は、マルクス主義のみならず、今日までの自然と人文科学にかかわるあらゆる知識や信仰の根底を変革することになるでしょう。神の言葉に依拠するユダヤ・キリスト教、菩薩信仰を基調とする大乗仏教(各宗派、創価学会)、自然・人物崇拝にもとづく神社神道などは、伝統や既得権維持の頑迷固陋な指導者(詐偽師!)によって言葉の真実を見えないようにするでしょうが、やがて闇は開けるでしょう。「生命言語説」の詳細は、ネットで検索するか大江著『人間存在論』をご覧ください。

 長文を最後までお読みいただきありがとうございました。  


コメント
01. Y. Kakasi 2012年4月10日 01:06:38 : BW32mpuE76J86 : htdQncqo9Y

 この投稿は、小沢一郎氏に対する既得権維持勢力の悪質不正な権力犯罪(冤罪事件)を、日本共産党が見抜けない、または法曹権力と結託して隠蔽しようとしたことに疑問を感じてはじめたものです。日本共産党の党員たちは善良な人が多いのですが、知識に偏りがあります。これは宗教信者にも共通する点ですが、自分たちが問題の根源を解明し尽くしているという自己欺瞞(をもつ指導者の信仰)に依存しているために、安心しているのであって、そのこと自体を批判するものではありません。
 小沢氏を独裁者呼ばわりする人がありますが、ハシズムや共産党のように敵を作って自己を正当化する人ではありません。政治家や官僚の人間性をよく見抜き、既得権益にメスを入れ、自立した人間の民主主義を確立するために、積極果敢に行動しているだけです。この点、衆愚政治を利用するハシズムや偽善と日本的集団主義を売り物にする共産党とは違います。国民との約束である「マニフェスト」を実現しようとする正義の味方・悪党小沢一郎を支持・応援します。一応後何年か頑張ってください。マンデラは75歳で大統領になったし、鄧小平が復活したのは73歳だった。まだ若いネ。


02. 2012年4月10日 06:36:12 : BRP8XuFlZc

Y. Kakasiさま
>国民との約束である「マニフェスト」を実現しようとする正義の味方・悪党小沢>一郎を支持・応援します。一応後何年か頑張ってください。マンデラは75歳で大>統領になったし、鄧小平が復活したのは73歳だった。まだ若いネ。

初めて支持します。
争点は「国民との約束」です。
政治の手法は、これを、国会議員が、私たちに投げ掛けるのです。
そして、私たちは「国民との約束」勢力と一緒に、受け皿をつくるのです。
受け皿とは、全国の有権者とのつながりです。
この装置がないと、票の受け皿になりません。
私たちは国会議員でないので、直接に内政と外交の決定に関与できません。
ですから、国会議員を通して関与する仕組みをつくることです。
小沢支援の動きは、その萌芽の可能性があります。
実体主義者と関係主義者が手をつなげるのは、現実の具体的政治に関与することからです。
スターリニストより


03. 2012年4月10日 22:16:11 : c867B5lDzc

ご苦労様でした。結局のところ、マルクス批判が主で、
誰もが試行錯誤するところである価値の本質については
商品価値の流通過程、つまり、市場で決まるというお決まりの
近代経済学的視点でした。
共産党に同じく、Kakasiさんの党派性的執念には頭が下がりますが、
読者が求めているのは新しい答えです。
流通過程で決まる価格=価値としてしまっては、
従来の愚論を復唱しているだけで、
価値の本質を一向に暴くことができず貨幣数量詐欺の餌食になるだけです。


04. Y. Kakasi 2012年4月10日 23:04:41 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM
02)さん
 長文の投稿を読んでいただいたかどうか判明ではありませんが、コメントへの支持ありがとうございます。
 戦後高度経済成長によって確立した既得権維持・体制安住の守旧権力とアメリカ依存の新自由主義勢力は、今日の日本の民主主義の成長を歪め衆愚政治と社会の混迷を助長しています。これを打開するのはハシズムのような自立闘争の民主主義ではなく、小沢氏の自立福祉の民主主義出なければなりません。支離滅裂の競争と権力の哲学による「維新八策」よりも、小沢氏の「公正な国」をめざす「改革八策」の方が優れているのは一目瞭然です。
小沢の「政策とオピニオン」改革八策→http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/06_0417_01.htm

 さてスタイリストさん、「実体主義者と関係主義者」というのはどうも理解しかねます。Kakasiは「縁起主義者」なので、現在だけでなく、過去も未来にも配慮しながら行動するのを旨としております。小沢氏を支持しますが、彼には依存せずにもっと先のことに関心があるのです。

 阿修羅での投稿は、急速に流されていきます。しかし今までの投稿と「生命言語説」しっかりと次のHPに錨を降ろしています。「マルクス批判」でも検索してください。
→ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html 


05. 2012年4月11日 10:59:38 : eiaL4p9cTY

>>03 誰もが試行錯誤するところである価値の本質
 いったい誰が試行錯誤するのか。Kakasiさんは「価値の本質」を「生命言語説」で説明しているよ。この問題を経済学だけで解決するには無理がある。もう少し西洋思想(哲学)の本質や限界をを勉強した方がいい。
 それよりも「貨幣数量詐欺の餌食」の説明をした方がいいよ。それと、反論をするにはそれなりの覚悟をして、相手の主張の本質(すべてとは言わないから)を理解してからにすべきだろう。「従来の愚論」についても、もっと具体的にね。



06. 2012年4月11日 16:17:58 : zYLNDAeHs2

Kakasiさん、ご苦労さんでした。でも相変わらず難しいね。
経済学や資本論を勉強しないと、本当の共産党の姿がわからないのは、ハードルが高い。マルクスや共産党に、階級的憎しみがあっても公正や正義(道徳)がないのは確かだ。労働者階級の連帯には、単なる利害や憎しみだけでなく公正や正義(交換的正義!)も必要なのがよくわかる。マルクスを勉強すると共産党の未来社会の希望には、実は希望がなくて空想的であり、科学的なのではなく弁証法的欺瞞なのだ。
是非もっと易しい内容で投稿されることを希望します。


07. Y. Kakasi 2012年4月12日 01:01:50 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM

03) 05) 06) の皆さんコメントありがとうございます。
03>>誰もが試行錯誤するところである価値の本質については、商品価値の流通過程、つまり、市場で決まるというお決まりの近代経済学的視点でした。
→について、「試行錯誤」「価値の本質」「商品価値の流通過程」「近代経済学的視点」どれも内容豊かな概念なので、つっこみどころ満載ですが、具体的に何を指摘しようとされているかわかりません。一体「近代経済学的視点」の何が問題なのか明言すべきだと思います。議論を望んでおられるようでもないようです。
 以下「読者が求めているのは新しい答え」とは何でしょうか。Kakasiの「等価交換」と「唯物史観」に対する単純な批判が「新しい答え」なのです。「読者が求めている」こととは関係ありません。あとは05)さんのおっしゃるとおりです。理解されないのはKakasiの能力不足でしょう。管理人さんに許される限り、同じ表題で投稿を続ける必要を感じます。

 06)さん、読んでいただいているのに難しくてすみません。共産党のように「党派的執念」で、わかりやすい表現に努めます。今後ともよろしく。



08. 2012年4月12日 07:33:22 : xO5YYLHgp2

価値と価格を明確に使い分けた考察を期待します。
Kakasi氏のいうところの価値はあくまで哲学の範囲であり
経済学でいう価値ではないことはわかりました。

Kakasi氏のいうように流通過程、つまり、市場できまる価格を価値とする
視点では商品間の価値の関連性は見えてこないです。
また、この視点の普及は市場が失敗したときに、
貨幣の価値尺度を変えて辻褄を合わせようとする思惑に大いに役に立ちます。

流通過程、つまり、市場できまる価格が 絶対に価値を体現できているでしょうか。
阿修羅の皆さんにはそこのところを考えていただきたいです。

09. Y. Kakasi 2012年4月13日 01:05:28 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM
08)さん 察するところ03)さんと同じ疑念だと思います。
08>>Kakasi氏のいうところの価値はあくまで哲学の範囲であり、経済学でいう価値ではないことはわかりました。
→について「経済学でいう価値」は、経済学の立場により異なることはご案内だと思います。まずご自分の立場や見解を明らかにされると理解しやすいのではないでしょうか。
 「市場できまる価格を価値とする視点では商品間の価値の関連性は見えてこない」ということであれば、マル経に近いとも思えますし、「市場できまる価格が 絶対に価値を体現できているでしょうか。」というお考えであれば、価値相対主義となり、Kakasiの立場と近くなります。

 いずれにせよ、「価値」という概念は哲学的考察を必要とし、言語論的にしか解明できないのです。商品の価値でいえば、まず主観的相対的価値(マルクス的には使用価値に近い)があって、市場の駆け引きを通じて社会的平均的な価値の基準が価格(相場)として表現され、最終的に交換の成立によって客観的な価値=価格(交換価値)が決定・確立するのです。しかし、その価値=価格も市場の不断の変動によって変動します。
価値も価格も「縁起」の世界で動いているのです。
 
 Kakasiの考えでは、商品の価値が一定の基準にもとづいて数量化されたものが価格です。言語で言えば、記号(能記・シニフィアン)は価格であり、意味内容(概念・所記・シニフィエ)は価値ということになります。


13. 2012年11月28日 13:44:23 : wXPShKYgaw
 まとめのまとめです。
「マルクス主義はわれわれの時代の哲学としてとどまっている。それを生んだ状況がいまだのりこえらていないため、マルクス主義はのりこえられることはできない。われわれの思惟は、どんなものにもせよ、この腐植土[資本主義社会]の上にしか形成されることはできない。思惟はマルクス主義があたえる枠内に包含されるべきであり、さもなければ虚ろなものとなって消えてしまうか後退するより他はない。」(サルトル『方法の問題1960』平井訳 [ ]は引用者)

 サルトルの指摘するマルクス主義の枠組は、新自由主義と同じく人間についての無知で無責任な、自由放任市場[腐植土]における原理、すなわち「等価交換」という西洋的妄信にもとづいています。たしかに市場原理は、取引者の多くが従っているようにみえますが、取引には常に損失のリスクが伴い、利益を得る少数者が出現し、既得権益を維持拡大しようとします。経済成長の果実の一部(滴りtrickle)が、この現実を埋め合わせてくれるのですが、成長の限界が地球的規模で明らかになっている今日では、「等価交換」や「市場均衡」という経済学の欺瞞(ごまかし)は許されません

 市場における取引倫理の確立は、資本主義社会全体の問題です。われわれは新社会契約または道徳的社会主義という理念(交換的&分配的正義)で、この問題を解決しようとしています。これは東西思想の融合という日本が世界に自信を持って提案できる原則です。
                            by kakasi & HBI

14. y.kakasi 2013年2月04日 12:04:19 : hWt4MHUbwLqMk : TXWSdG29UM
 われわれのマルクス批判に対し、疑問を持つか、理解困難な方が多くおられます。それは『資本論』自体が難解なためですが、それ以上に『資本論』を読み、かつ疑問を持ちながらも、世界中の誰一人の学者も、われわれのように西洋思想批判の中にマルクス主義を位置づけることができないからです。その根底には、人間の本質であり、哲学的認識論上の壁になっている「言語」の解明がなされていないからです。コメントの中にも、それが原因のピント外れの批判があります。
 そこでこの疑問を払拭するために、以下の見解を追加しておきます。

https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai/keizainingen
◇ 言語と商品価値の共通性とは何か
―言語の意味と商品の価値(価格)は社会的共通性をもっている―
商品・貨幣価値の謎の解明は、言語の謎の解明によってはじめて可能となる

○ 言葉と商品の共通性は、ともに「観念的信号」であること
 今日の言語学(意味論)と経済学(価値論)は、ともに西洋思想(特に西洋的認識論・思考様式)の「限界」を共有しています。両者はともに人間と人間との意思疎通(言語による意味伝達と商品による価値交換)によって生じる「観念的信号」ですが、その観念性(知識性)が主観的(個人的・相対的)なのか、客観的(社会的・絶対的)なのか、また主観と客観の相互の関係性はどうなっているのかについて結論が見いだされていません。この認識論上の難問(観念・知識とは何か?)は、生命言語説によってはじめて解明することができます。


○ 「観念的信号」は社会的に創られ個人的に実現する
 「観念的」というのは、言語にとってはその意味の主観性(例えば「愛」という言葉であれば、個人的経験による主観的な自分だけの意味)と平均的客観性(辞書的に誰もが理解できる社会的客観的意味)であり、商品にとっては商品価値の主観性(個人にとっての価値・使用価値)と平均的客観性(誰もが認める相場的価値・交換価値)です。言語においては意味を持ち、商品においては価値を持ちますが、両者はともに個人と社会が創造し共有する観念的な表象(「愛」という言葉や「100円」の商品というイメージ・意味内容・観念)によって意味づけられ価値づけられています。また、「信号」というのは、言語では音声(文字)信号として広く表現され、商品では音声信号に含まれる数量信号(円・ドル等)として表現されます。


○ 西洋思想では「観念」の主観性と客観性を確定できなかった
 言語の意味も商品の価値も、社会的平均的な客観性をもちますが、その客観性は相対的なものであって、時間的空間的に変化します。またその意味や価値の内容を決定するのは最終的には主観的なものです。ところが西洋思想にあっては、プラトンやデカルト・カント・ヘーゲルを代表とする観念論哲学者のように、言語の意味は、何らかの絶対的な観念(神や概念・理念・ロゴス)や人間(個人)の判断を越えた基準や目的をもっていると考えていました(決定論)。(唯物論や経験論は、観念の絶対化を避けようとしたが、言語の相対化までは確定できなかった。)


○ 人間が主体とならない西洋的観念は人間を疎外する
 近代に起こった言語学や経済学も、意味と価値の「観念の相対化」を確定することができませんでした。例えば近代言語学の父と呼ばれたソシュールは、言語の個別性相対性を理解できませんでした。、現代の言語哲学(現象学や分析哲学の系統)も行き詰まりを見せています(『人間存在論 後編』)。経済学においては、スミス、リカード、マルクス等の「労働価値説にもとづく等価交換説」は、市場における人間(個人)の欲望や判断(交換契約)を「労働」が規定するという決定論であり、マルクスにあっては人類社会の発展を、人間個人の選択を越えた階級闘争に一元化するという人間疎外の理論体系を築いて、現代世界を歪めてしまいました(言語・理論による人間疎外)。


○ 市場原理は交換的正義を放棄し強者支配を正当化します
 現代の経済学である新古典派や新自由主義の市場原理主義的経済学は、価値論は「主観(効用)価値説」をとりますが、完全競争市場が決める均衡価格(価値)による、需要と供給の「客観的な」調整的機能を認めています。しかし、完全競争市場はそもそも存在しないし、均衡状態は不均衡価格での取引を前提としており、均衡価格自体が一時的平均的なものに過ぎません。需要・供給と価格には相関関係はあるものの、価格(価値)が取引量を一義的に決めるのではなく、商品所有者の利潤設定や情報の非対称性から来る力関係などの条件のもとで市場の取引が行われ価格を決めているのです。対等平等な取引などは偶発的にしか存在せず、強者優位が市場の常態なのです。


○ 言語の意味や商品価格の理想状態は、不断の検証が必要です
 言語についても意思(観念)の疎通がきわめて不完全であることは日常にも経験することです。言葉の意味は、社会的平均的な共通理解はあるものの、正確な理解は、問題が複雑であるほど、また相互の言語理解に経験的な開きがあるほど困難になります。その意味で主観的に理解している内容を、相互理解や客観的理解に高めるのはとても難しいのです。数学の理解を文学や哲学の理解と比べてみると、表現者(作家や思想家)の意図を正確に理解することがいかに困難かわかります。均衡価格という理想状態は、商品価格が取引上の妥協の産物であり、対話における完全理解と同じく、相互の情報の非対称性や力関係の違いからもたらされる相対的なもの なのです。


○ 言語は、社会的に意味づけ合理化する力によって商品価値を決定する
 しかし、言語による判断・行動に対する意味付けや合理化は、財やサービスの対象(商品)を、欲望や感情によって価値付けするよりも強い力を持っています。商品取引で多大の損失があった場合でも、自己責任を巧みに回避し、他の事象や他人の責任にして言い逃れることはよく見られます。究極の言い逃れ・欺瞞は「想定外・不可抗力」という「言葉」です。言語による意味づけは、市場取引における商品の価値付けを支配します。言語は情報・知識に裏付けられた力(交渉力・営業力・取引力)の源泉であり、欲望や感情の力は、人間社会では言語(知恵・理知)力あっての欲望・感情なのです。これで「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」の取引が、商品価値を決めれば最善なのですが、競争市場ではそうなるとは限りません。強者支配の独占・寡占市場では、弱者・消費者はマスメディアによる宣伝の言葉の力で操作されているのです。


○ 市場の商品価値を正当化してきた経済学の欺瞞性は、言語の正しい理解によってはじめて克服することができます。
 言語の意味と商品の価値(価格)の「社会的共通性」の意味を理解していただけたでしょうか。意味も価値も、社会的客観性と個人的主観性の「縁起的関係性」によって成立しています。言語の意味は、知識や情報を構成し、世界や対象(商品)の価値付けをします。
 取引成立後の商品の交換価値(市場価格)は、強者優位による社会的な妥協の産物です。これを均衡価格とか社会的平均価値として法則化(マルクスの価値法則)して、個々の取引を支配するとみなす経済学は、経済現象に言語的意味づけ(合理化)をして交換の欺瞞的実態を隠すものです。
 言葉(の意味)が人を欺くと同じように、市場が決めた商品価格も人を欺きます。交換の合理性(契約の成立)を「等価」として理論化してきた経済学の欺瞞性は、資源の効率的配分と交換的正義を両立させるためにも克服しなければならないのです。そのためには、様々の価値を合理化してきた言語そのものの本質を、まず理解する必要があるのです。

※ 要約:貨幣を含む商品価値は、市場(交換)を通じた言語(数字を含む)情報によってコントロールすることができる。商品の価値は市場で決まるが、市場で示される商品の言語情報が価値評価の最大の基準になる。いったん決まった評価(価格)は、次の交換の基準になるが絶対的なものではない。これは言語の意味が社会的平均的なもので、絶対的なものでないのと同じである。
                


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