生命言語理論による

仏教の現代化─幸福な未来社会のために─

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 聖者釈尊の時代の問題意識(輪廻転生・一切皆苦からの解脱)は古くなってしまった。2500年に及ぶ仏教の歴史は、今日では色あせようとしている。科学技術が発達し、自然や人間や社会についての知識も大きく変化した。生活も豊かで便利となった。この現代において、未だに、そしてこれからも変わらないだろう人間存在(人生苦・科学的知識)の根源的課題と、人類が引き起こした地球規模の新たな問題(温暖化・経済成長の限界)に、今のままでは仏教は対応できないだろう。

 偉大な哲学者にして宗教家であった釈尊は、東洋的な悠久の自然との一体化(物心一如、梵我一如)、人生苦(生存苦)の根本的な解決をめざした。しかし、仏教が今日までどのような成果をもたらしたのか、そしてこれからどのような有意義な貢献をなし得るのか。「葬式仏教」「仏教の興行化」という批判に限らない深刻な理論的疑問と問題解決の一方法を提案してみよう。

具体的に述べると、まず

  1. 釈尊自身が解脱し「生存の素因を断ち切った」と自覚したこと(正覚成道)は、万人が理解し、納得できるものであったのか。
  2. 解脱、悟り、涅槃の境地の獲得は、四つの真理(四諦)によって説明が尽くされるのか。
  3. 彼の生きた時代の文化的社会的背景は、人類に共通の課題であったのか。
  4. 仏教思想の本質のうち、科学的認識によって否定されるべきものは何か、
  5. また将来に継承されるべき知恵があるとすれば、修正あるいは追加の必要なことは何か。

以上5項目について、仏教の現代化が可能であるという立場から検討を加えてみよう。


  1. 衆生(シュジョウ、すべての生命)が、生存の苦しみを繰り返すという輪廻転生の思想は虚構であり、そこから生じている解脱の課題は万人には必要ない。生病老死等の人生苦は、人生の定在であり、完全な消滅は生存中にはありえない。 人間の求めるべきは,人生苦の徹底的な軽減すなわち持続(=永続;以下同じ)的幸福の実現である。持続(永続)的幸福とは、避けることのできない人生苦の課題(四苦八苦)の解決と克服、そして心の平安とそれを支える最小限の経済的安定世界平和である。
  2. 人生最大の苦しみである死を、物質的手段によって安楽に迎える方法はあるかも知れない。また他の苦しみを金銭的に解決する方法(功利主義)もあるだろう。しかし、そのような生き方だけでは、言葉と理性と感情を正しく用いて、利害の絡む社会で人間らしい有意義な人生を送ったとは言えないだろう。通常の人間は、社会的な愛情や安心を求め、憎しみや不安から遠ざかろうとする。しかし他人の欲求や感情を見抜くことに限界のある主観的人間は、自己の意志を正当化し拡大しようと、他人を排斥し支配し屈服させようとする(利己主義・排他主義・性悪説)。この人間の利己的本性を、仏教的縁起の洞察(集諦:十二縁起説ないし空観)によって克服することはできない。摩擦を避けられない人間関係によって成立する社会(在家)的経済生活は、悟りや涅槃を許さない煩悩の生活である。たとえ出家修行(道諦)によって、煩悩や執着を減少させたとしても、聖者釈尊が到達したと信じたような解脱は困難である(大乗思想の必然性)。
  3. 釈尊がいかに偉大であり、奇跡的ともいえる高潔な人格者であるとしても、時代や社会、文化的思想的背景(インドの宗教的背景)を超えることはできない。そのために、釈尊の後継者は、彼の功績や名声を利用して,教義の発展と称し様々の分派をつくり、自らの解脱の在り方を最善であると説いて(大乗諸派等)、救いを求める民衆に布教し対立(小乗の排斥=維摩経)することになったのである。これはキリスト教やイスラム教などすべての偉大な思想家や宗教家の後継者に起こったことであった。後世の教義の発展や分立は、その創始者自身も予想したことであろう(?)が、科学的認識の方法論(客観的知識の獲得法)が確立していない時代にあっては、やむを得ざることであったであろう。 そこで、今日の科学的認識によって否定されるべき釈尊(時代)の思想の4つの誤りを明らかにする。
  4. 一つは輪廻転生である。
    二つには一切皆苦(厭世思想)である。
    三つには十二縁起説である。
    四つには釈尊時代ではなく大乗仏教の中心思想となる空観(思想)である。
    これらの思想の限界性が科学的に究明され、釈尊がめざそうとした諸個人(衆生)の持続的幸福(⇒永続的幸福)と、それを可能とする社会的条件が地球的規模で実現されなければならない。
  5. 最後に、悠久の価値を持つ釈尊の叡智は、人生苦の実相の顕現と、心の平安をもたらす持続的幸福(⇒永続的幸福)の実現可能性とその方法の追究、衆生への相互的な慈悲の実践、そしてそれらの知恵の背景となった諸現象の無常性・縁起性・関係性の洞察である。そして、修正ないし追加すべきものとしては、在家の経済生活の基礎の上に、出家またはそれに準ずる学問研究機関の設置、社会の意志を統合し利害を調整するものとしての新しい社会契約と政治参加の必要性である。これらの理想は、一部社会福祉政策として実現されている。しかしこれらの政策は、哲学と道徳性が不十分であるため功利的な市場的・競争的均衡(強者支配)によってようやく維持されているにすぎない。人間が人間存在の意義をみいださず、このままの不安定な均衡のままで物質的な成長発展に解決策を求めることは、地球の限界性を考えると不可能である。今こそ仏教の現代化によって、釈尊の願いを人類のめざすべき理想として再構成しなければならない。

    この世に生まれて良かった。毎日の生活が充実している(日々好日)。この人生が有意義であった。安らかな気持ちでこの世を去ることができる。──と言えるように。
    「147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」(『スッタニパータ』)

    内容:

★仏教の現代化──言語論的展開(認識と幸福の実現)

<仏教の衆生救済>
釈尊(シャカ・ブッダ)は、人々を生存の苦しみから救おうとした。

  1. 背景:輪廻思想、厭世思想、縁起思想、涅槃思想
  2. 目標:苦の生存からの解放・解脱=涅槃・心の平安の獲得
  3. 苦の原因:生存への執着と煩悩         →十二縁起説(無明→→生死・苦の繰り返し)
  4. 仏教認識論:五蘊(色・受・想・行・識)による人生苦と縁起の認識
  5. 解脱の方法:出家→八正道(正しい見解、思惟、精進、言葉、瞑想等)        在家→五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)
  6. 衆生救済:慈悲→衆生の苦への共感的理解(大乗では慈悲は空の本質?)
  7. 大乗の智慧:空観=分別・対立的認識の克服、仏・菩薩への帰依と救済

<仏教の現代化とは>

釈尊の願いは、現状の仏教で実現できるか。否、科学的現代化を必要としている。

(1)現代化の基本

生物学・心理学、臨床心理学等による科学的再検討
輪廻転生・厭世思想の克服、十二縁起説(超越的認識論)の修正
人生苦の克服と相対化、解脱の臨床心理学(臨床幸福学)の創造
(幸福な人生のための生理的、心理的、社会的条件の整備)
生物学・心理学、臨床心理学等による科学的再検討
輪廻転生・厭世思想の克服、十二縁起説(超越的認識論)の修正
人生苦の克服と相対化、解脱の臨床心理学(臨床幸福学)の創造
(幸福な人生のための生理的、心理的、社会的条件の整備)

  1. 釈尊の涅槃と心の平安、迷いと執着からの「解脱」は、生と老衰の苦を乗り越えることがなくても、また彼岸(死)に至らなくても現世において実現可能である。従って、人生を「一切皆苦」と想定する必要はない(苦の中道化)。
  2. 人生は、個人(自己)としては一回性のものであるが、生命、家族、人類等としては過去から未来につながり、地球的広がりをもっている。また一回性の人生も「一切皆苦」ではなく、「苦主楽従」(または「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」)なので、苦を克服し楽を追求する(「越苦至楽」)ことによって、心の平安と幸福のうちに充実した生存を終えることができる。
  3. 生命は、快を求め不快(苦)を避ける活動によって、個体を維持(欲望・執着)する。人間は言語的活動によって理知的精神的快楽(心の平安・永続的幸福・解脱)を得ることができる。(言語的活動には八正道や涅槃的直観の制御を含む。)
  4. 「解脱や悟り」は、「永続的幸福・心の平安」の獲得を意味し、それは人間存在の正しい知識、物質的生存のための生産労働、契約と信頼にもとづく社会的連帯を条件として実現可能である。反対に、大乗の空観に見られるような「否定(という分別)」による無分別知や直観は中道とはいえず、在家(社会)的生存を肯定的に理解することのない非社会的主観的知識と実践は、永続的幸福をもたらさない(大乗仏教は御利益仏教、葬式仏教に堕落する)。
  5. 釈尊は、「解脱や悟り」を得るために、生存・欲望への執着を断つことを求めたが、歴史的社会的文化的制約から、自らが「解脱や悟りに執着」していることを認識しなかった。そのため「人生苦の縁起」や「苦からの解脱や悟り」について種々の解釈を許すことになった。仏教の現代的再生のためには、生命言語説にもとづく認識論の確立(真理や幸福とは何か)からはじめる必要がある。

(2)現代化の方法

  1. 縁起(無明と明知・真理、解脱、生死等々)の認識や区別は「言語」的認識による。 →生命言語説による仏教的認識論の修正または再構成(参照:言語論) →生死や執着・欲望のある生命から、言語的知識(無明・明知)が生じたのであって、その逆ではない。
  2. 仏教認識論は、言語や知識への分析を欠いているため、認識結果(言語・知識)とその評価の関係が曖昧になり、認識・判断主体の知識内容や価値評価だけでなく、物質的・精神的対象そのものをすべて「縁起」「無自性」「空」と見なす誤りに陥った(無分別知というが、知は分別を避けられない)。
  3. 精神的快楽(心の平安・幸福)は、精神集中を含む知的自己実現(目標実現、課題達成)による場合と、心理観察による精神集中(禅定)そのものによって達成可能である(精神的快楽は、ある程度肉体的苦痛を克服できる)。
  4. 「方便論」と強迫観念の克服:人生苦の真実(縁起・煩悩・相対性)を生物学的・心理学的・社会学的に明らかにし、自我と欲望の抑制による幸福実現の道筋を追求する。従って、輪廻の脅迫(想像上の地獄の苦しみ)や方便・神通力による解決ではなく、科学的真実によって衆生に自覚を促すことで永続的幸福が可能となる。〈大乗の智慧や方便は「智慧の完成(般若波羅蜜)」には到っていない。〉
  5. 大乗的神秘的救済の克服:現世における生存努力の評価と社会的連帯による互助的救済、充実した人生と互助的社会の創造によって、大乗的知恵の限界、菩薩的神通力の限界を克服する。→慈悲と社会的関係性の洞察・正義の実現、分業と交換の透明化
 

●般若思想 : 仏教的真理(智恵・明智・般若)では、自然の縁起は空であるとしても、人間存在の縁起(人為)は空ではなく有である。人間の認識は有の縁起(生命言語説)に始まり、空を認識して涅槃にいたる可能性(空想的創造性)を得る。(空を方便として悟りを得、またそのような般若思想による菩薩的他力の信仰によって悟りや救いを得ることが、心理的事実として存在してきたことは認められねばならない。)

●法華思想 :法華経における一仏乗や方便の知恵は、認識と涅槃の真実の追究を放棄し、菩薩の神通力に依存するがために現代と未来社会に適応力を持たない。慈悲や涅槃は、方便や神通力ではなく、人間性の真実を科学的に認識することによって可能となる。(宗教的信仰は、科学的検証を得てはじめて強固になる。臨床心理学の実現)

(3)仏教思想における言語論の意義

 人間の言語によって得られる区別・分別と構想(創造)力は、人間の欲求と執着を拡大・増幅・記憶し、生病老死や煩悩の苦しみを持続させる根源となった。しかし、人間は言語によって心(欲望や感情)や行動を制約し、心の平安や善的道徳的行動を導くことができる。言語認識における対立物の克服は、言語操作(戯論)や判断・分別の中止・克服(空観)ではなく、目標や基準(幸福・平安・真実・公正・正義等)を明確にして選択または新たに構想・創造することによる。仏教における言語・知識の解明ないし相対化の欠如は、「無明」の意義、瞑想、論理論争、涅槃(心の平安・解脱についての明智・真理)、縁起論、空観の解明に限界を生じさせてきた。

 つまり、知識や論理が「生命(自我)にとって何であるのか」、が理解されないまま「無明」や「明知(般若)」が論じられたため、生存における精神的幸福追求(への執着の意義)が軽視または神秘化されたのである。たとえば、釈尊の解脱や悟り(仏になること)がきわめて困難(部派仏教では出家しても阿羅漢まで)であったり、逆に、大乗におけるように菩薩や阿弥陀仏の救いによって容易になったりしたのである。

 十二縁起説における「無明」は、生死の原因とされたが、これは輪廻思想という想像上の知識の所産(無明)であり、苦の生存を解脱したという慰めを得る「方便」としてしか意義がない。本来、人間の知識は、言語を用いて対立物の関係を因果(縁起)的に再構成(主語・述語・修飾語等)したもので、自性的なものではない。つまり言語的知識は、対象それ自体ではなく、人間の選択的構成的認識の創造物・結果・論理なのである。しかし知識は絶対化されると、人間の感情や行動を支配するようになる。知識の本質が、言語による構成物であることを理解していないと、仏教の真理(法・ダルマ)という知識の内容に様々の解釈が生じることになる。釈尊は法の前提に「諸行無常」をおいたが、大乗の思想においては概念の対立性や縁起(無常)さえも「空」とみなして絶対化し、新たな無明を構想して(空観)、幸福追求への認識を(様々に)ゆがめてしまったのである。

 伝統仏教におけるように、前世の因縁や宿業が人生苦や不幸の原因であるかのように脅迫し、現世の苦痛を逃れ幸福をもとめ、また未来の極楽往生を願って意味不明のお経を唱え布施をはずませなくても、現世の幸福を得られる知恵を見いだす方がよほど釈尊の願いにかなうのではないだろうか。「生病老死」の苦は、生物学的個体の脆弱性にもとづくが、生命の持続性や関係性(縁起、自然必然性)の自覚や肉親・隣人の支えによってある程度克服することができる。また主に社会的人間関係から生じる「愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦、五うん盛苦」等のストレス(苦)も、社会関係の修正によって低減することができる。

 また 生命力の根源である欲求と快苦の感情は、人間の善性(慈悲・仁愛)を高め、悪性(利己心)を抑制することによって制御可能であり、それによって精神的快楽を持続させることができる。欲求や感情は主観的な要素が多く、個々人の自己分析や科学的分析が今後の課題である。

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