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仏教の現代化─幸福な未来社会のために─
  宗教と道徳の起源 幸福論と宗教批判  『ブッダのことば(スッタ・ニパータ)』と科学  金子みすゞと仏教

 聖者釈尊の時代の問題意識(輪廻転生・一切皆苦からの解脱)は古くなってしまった。2500年に及ぶ仏教の歴史は、今日では色あせようとしている。科学技術が発達し、自然や人間や社会についての知識も大きく変化した。生活も豊かで便利となった。この現代において、未だに、そしてこれからも変わらないだろう人間存在(人生苦・科学的知識)の根源的課題と、人類が引き起こした地球規模の新たな問題(温暖化・経済成長の限界)に、今のままでは仏教は対応できないだろう。
 偉大な哲学者にして宗教家であった釈尊は、東洋的な悠久の自然との一体化、人生苦(生存苦)の根本的な解決をめざした。しかし、仏教が今日までどのような成果をもたらしたのか、そしてこれからどのような有意義な貢献をなし得るのか。「葬式仏教」「仏教の興行化」という批判に限らない深刻な理論的疑問と問題解決の一方法を提案してみよう。
 具体的に述べると、まず
@ 釈尊自身が解脱し「生存の素因を断ち切った」と自覚したこと(正覚成道)は、万人が理解し、納得できるものであったのか。
A 解脱、悟り、涅槃の境地の獲得は、四つの真理(四諦)によって説明が尽くされるのか。
B 彼の生きた時代の文化的社会的背景は、人類に共通の課題であったのか。
C 仏教思想の本質のうち、科学的認識によって否定されるべきものは何か、
D また将来に継承されるべき知恵があるとすれば、修正あるいは追加の必要なことは何か。

以上5項目について、仏教の現代化が可能であるという立場から検討を加えてみよう。

@ 衆生(シュジョウ、すべての生命)が、生存の苦しみを繰り返すという
輪廻転生の思想は虚構であり、そこから生じている解脱の課題は万人には必要ない。生病老死等の人生苦は、人生の定在であり、完全な消滅は生存中にはありえない。 人間の求めるべきは,人生苦の徹底的な軽減すなわち持続的幸福の実現である。持続的幸福とは、避けることのできない人生苦の課題(四苦八苦)の解決と克服、そして心の平安とそれを支える最小限の経済的安定と世界平和である。
A 人生最大の苦しみである死を、物質的手段によって安楽に迎える方法はあるかも知れない。また他の苦しみを金銭的に解決する方法(功利主義)もあるだろう。しかし、そのような生き方だけでは、言葉と理性と感情を正しく用いて、利害の絡む社会で人間らしい有意義な人生を送ったとは言えないだろう。通常の人間は、社会的な愛情や安心を求め、憎しみや不安から遠ざかろうとする。しかし他人の欲求や感情を見抜くことに限界のある主観的人間は、自己の意志を正当化し拡大しようと、他人を排斥し支配し屈服させようとする(利己主義・性悪説)。この人間の利己的本性を、仏教的縁起の洞察(集諦:十二縁起説ないし空観)によって克服することはできない。摩擦を避けられない人間関係によって成立する社会(在家)的経済生活は、悟りや涅槃を許さない煩悩の生活である。たとえ出家修行(道諦)によって、煩悩や執着を減少させたとしても、聖者釈尊が到達したと信じたような解脱は困難である(大乗思想の必然性)。
B 釈尊がいかに偉大であり、奇跡的ともいえる高潔な人格者であるとしても、時代や社会、文化的思想的背景(インドの宗教的背景)を超えることはできない。そのために、釈尊の後継者は、彼の功績や名声を利用して,教義の発展と称し様々の分派をつくり、自らの解脱の在り方を最善であると説いて(大乗諸派等)、救いを求める民衆に布教し対立(小乗の排斥=維摩経)することになったのである。これはキリスト教やイスラム教などすべての偉大な思想家や宗教家の後継者に起こったことであった。後世の教義の発展や分立は、その創始者自身も予想したことであろう(?)が、科学的認識の方法論(客観的知識の獲得法)が確立していない時代にあっては、やむを得ざることであったであろう。
C そこで、今日の科学的認識によって否定されるべき釈尊(時代)の思想の4つの誤りを明らかにする。
  一つは
輪廻転生である。
  二つには
一切皆苦(厭世思想)である。
  三つには
十二縁起説である。
  四つには釈尊時代ではなく大乗仏教の中心思想となる
空観(思想)である。
これらの思想の限界性が科学的に究明され、釈尊がめざそうとした諸個人(衆生)の持続的幸福と、それを可能とする社会的条件が地球的規模で実現されなければならない。
D 最後に、悠久の価値を持つ釈尊の叡智は、人生苦の実相の顕現と、心の平安をもたらす持続的幸福の実現可能性とその方法の追究、衆生への相互的な慈悲の実践、そしてそれらの知恵の背景となった諸現象の無常性・縁起性・関係性の洞察である。そして、修正ないし追加すべきものとしては、在家の経済生活の基礎の上に、出家またはそれに準ずる学問研究機関の設置、社会の意志を統合し利害を調整するものとしての新しい社会契約と政治参加の必要性である。これらの理想は、一部社会福祉政策として実現されている。しかしこれらの政策は、哲学と道徳性が不十分であるため功利的な市場的・競争的均衡(強者支配)によってようやく維持されているにすぎない。人間が人間存在の意義をみいださず、このままの不安定な均衡のままで物質的な成長発展に解決策を求めることは、地球の限界性を考えると不可能である。今こそ仏教の現代化によって、釈尊の願いを人類のめざすべき理想として再構成しなければならない。
 この世に生まれて良かった。毎日の生活が充実している(日々好日)。この人生が有意義であった。安らかな気持ちでこの世を去ることができる。──と言えるように。
 「
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」(『スッタニパータ』)
内容:
仏教の現代化──言語論的展開(認識と幸福の実現)
仏教思想における<言語論>の意義
釈尊の輪廻思想の誤り
釈尊の欲求縁起論の誤り
釈尊の縁起認識論と大乗の「空観」の誤り
『維摩経』批判
『般若経』空論批判
『中論』批判──大乗の形而上学的論理批判
・法華経における「さとり」の現代化

 

仏教の現代化──言語論的展開(科学的認識と幸福の実現

仏教の衆生救済
 釈尊(シャカ・ブッダ)は、人々を生存の苦しみから救おうとした。

@背景:輪廻思想、厭世思想、縁起思想、涅槃思想
A目標:苦の生存からの解放・解脱=涅槃・心の平安の獲得
B苦の原因:生存への執着と煩悩
        →十二縁起説(無明→→生死・苦の繰り返し)
C仏教認識論:五蘊(色・受・想・行・識)による人生苦と縁起の認識
D解脱の方法:出家→八正道(正しい見解、思惟、精進、言葉、瞑想等)
       在家→五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)
E生救済:慈悲→衆生の苦への共感的理解(大乗では慈悲は空の本質?)
F大乗の智慧:空観=分別・対立的認識の克服、仏・菩薩への帰依と救済


仏教の現代化とは>
 釈尊の願いは、現状の仏教で実現できるか。否、科学的現代化を必要としている。

(1)現代化の基本
   生物学・心理学、臨床心理学等による科学的再検討
   輪廻転生・厭世思想の克服、十二縁起説(超越的認識論)の修正
   人生苦の克服と相対化、解脱の臨床心理学(臨床幸福学)の創造
    (幸福な人生のための生理的、心理的、社会的条件の整備)

@ 釈尊の涅槃と心の平安、迷いと執着からの「解脱」は、生と老衰の苦を乗り越えることがなくても、また彼岸(死)に至らなくても現世において実現可能である。従って、
人生を「一切皆苦」と想定する必要はない(苦の中道化)。

A 人生は、個人(自己)としては一回性のものであるが、生命、家族、人類等としては過去から未来につながり、地球的広がりをもっている。また一回性の人生も
「一切皆苦」ではなく、「苦主楽従」(または「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」)なので、苦を克服し楽を追求する(「越苦至楽」)ことによって、心の平安と幸福のうちに充実した生存を終えることができる。

B 生命は、快を求め不快(苦)を避ける活動によって、個体を維持(欲望・執着)する。
人間は言語的活動によって理知的精神的快楽(心の平安・持続的幸福・解脱)を得ることができる。(言語的活動には八正道や涅槃的直観の制御を含む。)

C 「解脱や悟り」は、「持続的幸福・心の平安」の獲得を意味し、それは
人間存在の正しい知識、物質的生存のための生産労働、契約と信頼にもとづく社会的連帯を条件として実現可能である。反対に、大乗の空観に見られるような「否定(という分別)」による無分別知や直観は中道とはいえず、在家(社会)的生存を肯定的に理解することのない非社会的主観的知識と実践は、持続的幸福をもたらさない(大乗仏教は御利益仏教、葬式仏教に堕落する)。

D 釈尊は、「解脱や悟り」を得るために、生存・欲望への執着を断つことを求めたが、歴史的社会的文化的制約から、自らが「解脱や悟りに執着」していることを認識しなかった。そのため「人生苦の縁起」や「苦からの解脱や悟り」について種々の解釈を許すことになった。仏教の現代的再生のためには、
生命言語説にもとづく認識論の確立(真理や幸福とは何か)からはじめる必要がある。


(2)現代化の方法

@縁起(無明と明知・真理、解脱、生死等々)の認識や区別は「言語」的認識による。
      →生命言語説による仏教的認識論の修正または再構成(
参照:言語論
      →
生死や執着・欲望のある生命から、言語的知識(無明・明知)が生じた
      のであって、その逆ではない。
A
仏教認識論は、言語や知識への分析を欠いているため、認識結果(言語・知識)とその評価の関係が曖昧になり、認識・判断主体の知識内容や価値評価だけでなく、物質的・精神的対象そのものをすべて「縁起」「無自性」「空」と見なす誤りに陥った(無分別知というが、知は分別を避けられない)。
  
B
精神的快楽(心の平安・幸福)は、精神集中を含む知的自己実現(目標実現、課題達成)による場合と、心理観察による精神集中(禅定)そのものによって達成可能である(精神的快楽は、ある程度肉体的苦痛を克服できる)。

C「方便論」と強迫観念の克服:人生苦の真実(縁起・煩悩・相対性)を生物学的・心理学的・社会学的に明らかにし、
自我と欲望の抑制による幸福実現の道筋を追求する。従って、輪廻の脅迫(想像上の地獄の苦しみ)や方便・神通力による解決ではなく、科学的真実によって衆生に自覚を促し、持続的幸福が可能となる。〈大乗の智慧や方便は「智慧の完成(般若波羅蜜)」には到っていない。〉

D大乗的神秘的救済の克服:現世における生存努力の評価と社会的連帯による互助的救済、充実した人生と互助的社会の創造によって、大乗的知恵の限界、菩薩的神通力の限界を克服する。→慈悲と社会的関係性の洞察・正義の実現、分業と交換の透明化
●般若思想 : 仏教的真理(智恵・明智・般若)では、自然の縁起は空であるとしても、人間存在の縁起(人為)は空ではなく有である。人間の認識は有の縁起(生命言語説)に始まり、空を認識して涅槃にいたる可能性を得る。(空を方便として悟りを得、またそのような般若思想による菩薩的他力の信仰によって悟りや救いを得ることが、心理的事実として存在してきたことは認められねばならない。)

●法華思想 :法華経における
一仏乗・方便の知恵は、認識と涅槃の真実の追究を放棄し、菩薩の神通力に依存するがために現代と未来社会に適応力を持たない。慈悲や涅槃は、方便や神通力ではなく、人間性の真実を科学的に認識することによって可能となる。(宗教的信仰は、科学的検証を得てはじめて強固になる)
                             
(3)仏教思想における言語論の意義

 人間の言語によって得られる区別・分別と構想(創造)力は、人間の欲求と執着を拡大・増幅・記憶し、生病老死や煩悩の苦しみを持続させる根源となった。しかし、人間は言語によって心(欲望や感情)や行動を制約し、心の平安や善的道徳的行動を導くことができる。言語認識における対立物の克服は、言語操作(戯論)や判断・分別の中止・克服(空観)ではなく、目標や基準(幸福・平安・真実・公正・正義等)を明確にして選択または新たに構想・創造することによる。
仏教における言語・知識の解明ないし相対化の欠如は、「無明」の意義、瞑想、論理論争、涅槃(心の平安・解脱についての明智・真理)、縁起論、空観の解明に限界を生じさせてきた
 つまり、知識や論理が「生命(自我)にとって何であるのか」、が理解されないまま「無明」や「明知(般若)」が論じられたため、生存における精神的幸福追求(への執着の意義)が軽視または神秘化されたのである。たとえば、釈尊の解脱や悟り(仏になること)がきわめて困難(部派仏教では出家しても阿羅漢まで)であったり、逆に、大乗におけるように菩薩や阿弥陀仏の救いによって容易になったりしたのである。

 十二縁起説における「無明」は、生死の原因とされたが、これは
輪廻思想という想像上の知識の所産(無明)であり、苦の生存を解脱したという慰めを得る「方便」としてしか意義がない。本来、人間の知識は、言語を用いて対立物の関係を因果(縁起)的に再構成(主語・述語・修飾語等)したもので、自性的なものではない。つまり言語的知識は、対象それ自体ではなく、人間の選択的構成的認識の創造物・結果・論理なのである。しかし知識は絶対化されると、人間の感情や行動を支配するようになる。知識の本質が、言語による構成物であることを理解していないと、仏教の真理(法・ダルマ)という知識の内容に様々の解釈が生じることになる。釈尊は法の前提に「諸行無常」をおいたが、大乗の思想においては概念の対立性や縁起(無常)さえも「空」とみなして絶対化し、新たな無明を構想して(空観)、幸福追求への認識を(様々に)ゆがめてしまったのである。

 伝統仏教におけるように、前世の因縁や宿業が人生苦や不幸の原因であるかのように脅迫し、現世の苦痛を逃れ幸福をもとめ、また未来の極楽往生を願って意味不明のお経を唱え布施をはずませなくても、
現世の幸福を得られる知恵を見いだす方がよほど釈尊の願いにかなうのではないだろうか。「生病老死」の苦は、生物学的個体の脆弱性にもとづくが、生命の持続性や関係性(縁起、自然必然性)の自覚や肉親・隣人の支えによってある程度克服することができる。また主に社会的人間関係から生じる「愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦、五うん盛苦」等のストレス(苦)も、社会関係の修正によって低減することができる。

 また 生命力の根源である欲求と快苦の感情は、人間の善性(慈悲・仁愛)を高め、悪性(利己心)を抑制することによって制御可能であり、それによって精神的快楽を持続させることができる。欲求や感情は主観的な要素が多く、個々人の自己分析や科学的分析が今後の課題である。

【臨床幸福学のキーワード】
・悟り・解脱・涅槃の現代化:精神集中と精神的快楽、心の平安・幸福感
・欲求と感情:快苦と肯定否定の感情、精神的快楽・平安の本質(意志的感情)
・認識論と縁起・無我・空理論の現代化:因果と論理実証、価値の転換
・瞑想と修行の現代化:心(欲求と感情と言語)の観察と精神集中、
・慈悲と社会正義の実現:慈悲・善性の自覚と社会的公正・正義の吟味
            社会的連帯と新しい持続的契約
・「心のしくみ」は、欲求と感情と言語によって構成される。(参照:
欲求感情)(掲示板参照;宗教批判と道徳の再建


■釈尊の輪廻思想の誤り

「514 みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。
516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。
517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」
519 一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。
520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。」
(『スッタニパータ』中村元訳から抜粋)


★ 聖者釈尊は西暦紀元前のインド文明を背景として思想形成をした人であり、時代的文化的制限のあるのは当然である。釈尊は経験主義的合理的認識態度を備え、まれに見る人間心理への深い洞察力を持った人物であったが、今日常識になっている物理学や生物学などの科学的世界観は、まだ未発達な時代に思想形成をした人物であった。彼は進化論や遺伝子DNA,大脳生理学や科学的心理学の知識はない。またヨーロッパ文明や中国文明の世界観の理解もなかった。とりわけ彼の思想形成の背景となった「輪廻転生」の思想は、古代インドのウパニシャッド哲学に背景をもち、今日のヒンズー教に到るまでインド人の精神的な生活の一部となっている。

 釈尊の教えは、このようなインド的「輪廻転生」の限界を超え、人間心理の分析を深め、自己抑制と精神集中、持続的幸福と心の平安を実現し、生命あるものへの慈悲の大切さを説いて、出家と在家の教団を組織し、仏教的道徳を確立した。彼の教えは、インド文明の中で新たな発展をしながら東南アジアや中国など各地に広まり、今日も多大の影響を与えている。

 彼の教えは、「科学の時代に適合しない神秘主義的側面」をもっているが、「宇宙船地球号」と言われる生命共同体の、あるべき未来の人間の生き方や道徳の基本になる普遍性をもった思想を含んでいる。このことは仏教思想を理解する東洋の思想家だけでなく、西洋の多くの思想家や心理臨床家の等しく指摘しているところである。(http://meaning.main.jp/ 中村僚さん「仏教をたたえる人々」を参照してください。)

 しかし、今さら、
なぜ「輪廻転生」の非科学性を問題にするのか。

 結論から言えば、上記の引用にあるような「みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え」、「諸々の感官を修養し」、「生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで」、「一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し」、「安らぎに帰」すことは、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人でなくても、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人でなくても、生を滅ぼしつくすに至った人でなくても、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人でなくても、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人でなくても可能であると考えるからである。

 つまり、洞察力あり完全な安らぎに達し、汚れなく清らかで、みずから安立することは、生存を捨て、滅ぼし尽くさなくても、また、生と死を超越しこの世を厭い「輪廻を超える」ことを想定しなくても可能ではないかということである。さらに端的に言えば、
欲望への執着を抑制して悟りや解脱に至るのに、苦の生存の繰り返し(輪廻)を前提する必要はない。心の平安を得るのに、苦主楽従よりも人生苦を強調し、生存の苦しみの繰り返しによって脅迫しなくても、心の平安や幸福を追求(することに執着)することで解脱の目標は達成できるのではないか。

 特に輪廻思想は、生物学的常識である
「個体維持と種の存続」や、「地上のすべての生命の存続」という生命の目的を否定的に捉え、死を頂点とする人生苦を過大に評価し、在家の生活と人生の楽しみを軽んじて、消極的否定的また厭世的に生きる方法を勧めている。このような小乗的思想は、人生を積極的肯定的に捉え、労働や社会参加に否定的となり、後世に見られる在家中心の大乗運動を推進することにもなったのである。

 
生物科学的に見ると、人は生存し続けねばならないし、またその場合に幸福であり続けなければならない。にもかかわらず、輪廻的な苦の生存を克服するという文化的背景の中で、人生苦の制止・消滅のためには、生存の素因である執着(生命活動)そのものを滅却することが、彼岸に到り苦の生存を繰り返さない道であるということが真理(法)とされたのである。そして、釈尊の限界を超え、在家の衆生にも彼岸への道を保障するために、「菩薩という救済者」が必要とされ、大乗の思想が形成されたのである。

 心の平安と持続的幸福の実現は、人間存在と人間心理の解明、そして幸福追求の意志と努力があれば可能である。現代の心理学的知識によって、
解脱に至る新たな知恵と方法がある。その方法を見出すために、釈尊のアイデアが科学的に再構成され生かされるというのが「仏教の現代化」の意義である。釈尊のアイデアは、輪廻思想に由来する彼岸への道でなく、この現世、この地上の生活においてこそ実現されなければならないのではないだろうか。


釈尊の欲求縁起論の誤り

「867世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪(ムサボ)りは、欲望にもとづいて起こる」
は正しい。しかし、「<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。」のではない。(引用文は中村元訳『スッタニパータ』から)
「世尊は次のように説いた。「では比丘たちよ、縁起とは何か。比丘たちよ、無明(無知)を縁(条件)として(形成力)がある。行を縁として(識知)がある。識を縁として名色(精神的存在と物質的存在)がある。名色を縁として六処(六つの認識の場)がある。六処を縁として(接触)がある。触を縁として(感受)がある。受を縁として渇愛(欲望)がある。渇愛を縁として(固執)がある。取を縁として(生存)がある。有を縁として(誕生)がある。生を縁として老死(老いることと死ぬこと)と愁(憂悠)・悲(悲しみ)・苦(苦しみ)・憂(憂悩)・悩(苦悶)が生じる。このようにしてすぺての苦の集まりの生起がある。比丘たちよ、これが生起といわれる。
 無明が残るところなく消え去り消滅することにより行の消滅がある。行の消滅により識の消滅がある。識の消滅により名色の消滅がある。名色の消滅により六処の消滅がある。六処の消滅により触の消滅がある。触の消滅により受の消滅がある。受の消滅により渇愛の消滅がある。渇愛の消滅により取の消滅がある。取の消滅により有の消滅がある。有の消滅により生の消滅がある。生の消滅により老死と愁・悲・苦・憂・悩が消滅する。このようにしてこのすべての苦の集まりの消滅がある。」
 (『原始仏典U 相応部経典第二巻』浪花宣明 訳 春秋社2012 p3-4 下線は引用者により、「十二縁起」を示す )

 ★ 釈尊の生命観の誤りの根本は、<無明>によって認識と欲望が起こり、生命の生起と老死の苦しみがあるという考え(十二縁起説)である。真実は、逆に、生命を維持しその欲望を充足させるために認識があり、その
認識の結果として<無明>や<明知>という言語的知識が成立する。そして<快><不快>も、縁起説では欲望の原因となっているが、逆に、欲望を充足する過程的基準として<快><不快>の感情が反応として起こり、それが新たな認識や行動の原因となるのである。従って、「新たな認識や行動」は、新たな欲望を生み出すけれども、その根本原因はあくまで起動因としての欲望であって、<快><不快>は大脳中枢における反応なのである。つまり、欲望と快・不快の関係は、欲望が原因となって快を求め不快を避ける認識とその結果としての行動を導くのである。たとえば、食欲が起こり食事が美味しければ(快)、さらに美味しいものをとの欲望が起こり、美味しくなくても(不快)、次回は美味しいものをとの欲望が起こるのである(ともに欲望に執着する)。
「870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。(『スッタニパータ』)

 ★ さらに、上記の引用文は、欲望と関係づけ、快を求め不快を避けるように接触(感受)しているという場合は正しい。しかし縁起説としては、「感官」があって「接触」が起こり、物質的存在を「感受」することになっているので、
物的存在(環境)と生命主体(欲望)との「相互関係(縁起)」が捨象されてしまう。つまり、多様な環境の中で、生命は個体維持のために、不断に感官による接触をしているのに、「感官による接触が存在しない」ことはあり得ないからである。おそらく釈尊は、「感覚と感情の制御」を指摘されたいのであろうが、現代科学はこの制御を心理分析とカウンセリング、教育と自己省察等々によって可能とするのであろう。また環境との接触の中で、特に不快な事象を感受しなければ、自覚しなくとも<快>の状態であることはいうまでもない。 
 
 世界の現象や人間の心(欲望・感情・言語)を、関係性(縁起)として捉えることは正しいが、具体的関係性になると「輪廻思想」や「十二縁起説」のように、科学的知見からその誤りを認め克服せざるを得ないのである。

   *<十二縁起説>とは 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死


■釈尊の縁起認識論と大乗の「空観」の誤り

「872 名称と形態に依って感官による接触が起こる。」
(『スッタニパータ』)

 ★ 「名称と形態」とは、名前(言語記号)と現象(物質的対象)であるが、インド・仏教思想において、言語をどのようにとらえたかは、現代思想として対応できるかどうかの試金石となる。ヴェーダ讃歌においては、言語はヴァーチュという女神であり、宇宙の根本原理の地位に高められている。例えば 「われ(ヴァーチュ)は財宝を集むる支配者なり。賢明にして崇拝すべきもののうちの第一人者なり。 われは、万物を把握しつつ、風のごとく吹きわたる。天のかなたに、地のかなたに。われはかくばかり偉大なるものとなりたり」(『リグ・ヴェーダ讃歌』辻直四郎訳)のように。
 しかし、言語が神に祭り上げられて以降(西洋と同じように)、ウパニシャッド哲学においても釈尊においても、言語を認識や論理の根源として、また人間の心を操る力(刺激)として考察するよりも、言語を抽象的対象(記号)や表現手段として平凡に考える傾向があった。釈尊は上記872の見解をいたるところで述べているが、これは言語表現(刺激─単語や文の記号)が直接的知覚や間接的想起をもたらし、物的知的対象への欲望や執着を引き起こすという認識論を述べたものである。釈尊は言語表現(記号)が欲望を喚起することを見抜いていたが、自己自身をも制御することを見抜くことはできなかった。これは後世の仏教そのものの発展を戯論(言葉遊び、空観)の方向へ歪めたが、仏教に限らず人類の自己認識(言語認識)の限界を示すものでもあった。
 大乗仏教の「空観」を追求した龍樹の『中論』においても、言語論理の意義(対象の正しい表現─正思・正語)を形而上学的に悪用して、ただ無分別(直観)知を論証するために、対立物を曖昧化し、論敵(有・実在論者)を混乱させるだけの言葉の遊戯(超論理・戯論・詭弁)に陥り、論理実証的に「空」を究めることはできなかった。人間の言語や判断・論理の意義を無視した縁起の分析は、常に内容のない「空論」陥らざるを得ないのである。(参照「言語論」

 『中論』においては、現象の変化や運動が存在せず、認識も成立しない(空)ことを示すために、「帰謬法」を用いる。しかし帰謬法は数学的に厳密な証明としてなら成立するが、背理を恣意的に仮定することが可能な命題においては証明法としては厳密性を欠き言葉の遊戯に陥る。そもそも言語は、対象を認識し表現する手段であり、その表現(概念と命題)は、厳密には主観的なものにすぎず、平均的にしか客観性がないのだから、
言語の定義を無視して運動や認識等の不成立(空)等を論証できることなどあり得ない(数学は厳密な公理の上に成立している)。

 「唯識」思想は心の構造と働きを追求し、自我(末那識)や無意識(阿頼耶識)の存在を見いだしたが、心(欲求・感情・思考)の動きや無意識を自覚し統御する「言語の働き」を明らかにすることはできなかった。人間の心は、欲求や感情を伴って対象を認識し、それを言語によって再構成し評価する。
言語の役割は単に対象を記号化(命名)するだけでなく、自我(主体)と対象の関係を構成(創造)して自らの行動を評価し合理化し方向づけるのである。これが「言語を媒介した人間の認識」の真実であって、今日にあって言語を媒介せずに認識論を確立できることはあり得ないのである。

 従って、上で見たように、釈尊が分析した苦の生起と苦からの解放の縁起(集諦と滅諦)は、論理としては成立しても、生命主体の生存欲求と感情(苦楽)の因果関係への分析がなく、
言語不在の認識論にもとづいており、科学的事実としては正しくはない。それではどのような持続的な心の平安・幸福への論理が考えられるであろうか。そのためには「言語を持つ生命としての人間存在」という観点から仏教の限界を超える以外にないと思われる。

 
726-7 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
 
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがないというのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

730 
この無明とは大いなる迷いであり、それによって永い間このように輪廻してきた。しかし明知に達したいける者どもは、再び迷いの生存に戻ることがない。(『スッタニパータ』)

★ 釈尊にとって無明が苦しみの根源であり、悪である。いかにして無明を脱し、明知に達するか。それを知るためには、まず、
人間的知識の根源である言語について知らなければならない。釈尊には、認識について矛盾する二つの見解が併存している。それは「諸行無常 諸法無我」を良く分別して明知(法)を得ることと、分別を執着と煩悩の原因と考えて、これを止滅しようとすることである。その結果(原因とも考えられるが)、知識(法)の相対化が不可能となり、縁起自体を絶対化(空化)することになってしまったのである。

■『維摩経』批判

 『維摩経』では、大金持ちの主人公である維摩が,釈尊の直弟子達を厳しく批判し、「空」の思想(空観)によって「諸法無我」と「解脱・涅槃」が、在家信者に直観的(容易)に得られるようにします。次の引用文は、大金持ちの主人公である維摩が、@釈尊の弟子神通第一のマウドガリヤーヤナ(目連)に、説教した例と、同じくA知恵第一のシャーリープトラ(舎利子)に菩薩の意義を説いた例です。

@「白衣をつけた世俗の家主[在家]のために法を説くには、今あなたが説いているようなことではいけません。そもそも説法とは、法のごとくに説くのでなければなりません。・・・・法には無意義な議論はなされない。何となれば畢竟空であるから。法には<わがもの>という関係はない。何となれば、<わがもの>という関係を離れているが故に。法には分別というものがない。何となればもろもろの識別作用を離れているが故に。・・・・法は空に順じ、無相に従い、無作(無願)に応じている[註:三解脱門=解脱は、空を念じ、分別をせず、願望を持たない状態。]。・・・・
 そもそも法を説くものには実は説くこともなく、示すこともない。譬えば、幻術使いが幻の人のために法を説くようなものである。このような心がまえをして法を説くべきである。」(『維摩経第三章』中村元訳)

A「維摩が言った、『そもそも太陽は何故にこの大陸に現れるのですか?』 (シャーリープトラは)答えていわく、『明るく照らすことによって、くらやみを除こうとするためです。』
 維摩が言った、『菩薩もそのとおりです。不浄の仏土に生まれて来るけれども、それは生けるものどもをみちびくためであって、愚かな迷いの闇に合するためではないのです。ただ生けるものどもの煩悩の闇を滅ぼそうとするためだけなのです。』」(『維摩経第十二章』)

 前者@の引用においては、法(縁起)それ自体が空であり、識別(認識)作用がないから分別もないとされています。本来の釈尊においては、法とは「縁起」であり、現象の因果関係なので、これを究明(分別)し明知を得て解脱に至ったのでした。しかし、大乗ではその識別過程をも否定します。そもそも衆生(生命)はこの自然世界の中で環境世界の実相を識別し、最も安定的な生存を全うしようとしている存在です(参照:生命とは http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page1.html ))。にもかかわらず、大乗経典では、「法は一切の分別の行を離れている」から「幻術使いが、幻の人のために法を説く」ように法を説けと言います。それによって人生の真実、煩悩の闇、苦しみの連続を認識せずに、直観的に極楽世界と菩薩の慈悲を思い浮かべ、現状の労苦や煩悩を我慢し乗り越えなさいということなのです。

 後者Aの引用においては、大乗の教えが、菩薩(太陽)による衆生の救済によって実現することを示しています。維摩菩薩は、衆生の「煩悩の闇」を滅ぼす使命を持ち、そのために清浄な国である妙喜国から転生してこの現世の不浄な仏土に到ったのです。維摩が強調するのは、菩薩の役割が、シャーリープトラのように自己の解脱に満足するのではなく、衆生の煩悩の闇を滅ぼすこと、つまり救済者(絶対者・超越者)であることです。このような救済主義の問題点は、自らを絶対化・正当化することによって独善に陥り、批判者に対して排他的となり、慈悲心を失わせます。

 『維摩経』の内容は、一貫して「空観」にもとづいて、対立する事項(生と滅、受と不受、汚と浄、明知と無明等々)を超えたところに真実がある(不二の法門)と考えます。在家の衆生は、切実に救いを求めるがゆえに、分別や瞑想の必要(余裕)はないということなのでしょうか。これは人間尊重の態度と言うよりも、人間の無知をもてあそび自己の独善に従わせようという態度です。また『維摩経』の最終章では、菩薩には悪い者もいると「分別」します。それは『維摩経』という深遠な経典を「驚き恐れ、疑いを生じて随順することができない」者と「理解しているけれども相[現象、すがた]にとらわれて分別する」者を分別して排除しようとします。つまり、この経典は、すべての生命には「悟りの本性(仏性)」があり「空観」によって「分別するな」(差別するな)と言いながら、慈悲の心を捨て、疑いをもつものを分別し、反対者を排斥するのです。
                                         掲示板参照
 
般若経空観批判

 『金剛般若経』は、『般若心経』に次いでよく知られ、大乗の「空観」の初期の段階の経典であると言われているが、「空」という概念はまだ使用されてません。それだけにこの経典の創作された意図が素直に現れています。すなわち@分別的判断の克服(盲目的服従)、A修行よりも布施(寄進)による功徳の推進(寺院の華美化)、B経典自体の受持(教団の結束と拡大)、です。たとえば次のように。

<例1>スブーティ長老(須菩提:釈迦十大弟子の一人)がブッダに、求道者(菩薩)のあり方を問う
 「生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、<悩みのない永遠の平安>という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰一人として永遠の平安に導き入れられたものはない。
 それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が、<生きているものという思い>をおこすとすれば、もはやかれは求道者とは言われないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、誰でも<自我という思い>をおこしたり、<生きているものという思い>や、<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。・・・・・・
 それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの(徳高く、戒律を守り、知恵ふかい)求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。」(『金剛般若経』中村元訳 岩波書店)
(さらに、「思うということも、思わないということもおこらない。彼らには執着がない.法さえも捨てなければならない」と不二絶対の思想が続く。)

<例2>求道者(菩薩)が積む功徳はこの法門を読誦し広め、布施をすること
 「師は言われた――そこでまた、実にスブーティよ、立派な若者や立派な娘があって、このはてしなく広い宇宙を、七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目覚めた人々に施すとしても、この法門(『金剛般若経』)から四行詩ひとつでも取り出して、他の人たちのために詳しく示し、説いて聞かせるものがあるとすれば、こちらの方が、・・・・数え切れない功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、・・・・この上ない正しい覚りも、それ(この法門)から生じたものであり、目覚めた人である世尊らもまた、それ(この法門)から生まれたからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、<目覚めた人の理法というのは、目覚めた人の理法ではない(仏法者即非仏法)>と如来が説いているからだ。それだからこそまた目覚めた人と言われるのだ。」(『金剛般若経』中村元訳 岩波書店)


★ このフレーズは、短い本経典の中で数回出てくる。その要点は「仏法は仏法ではない」だから「仏法」なのだという、否定を通じて肯定する「空」の論法である。つまり、有と無、否定と肯定のように対立物の分別を超えたところに真実の境地を見ようとしている。また、もう一つの主張は、上位者(仏など)に対する布施の心構えである。布施は、高価な七宝(金銀瑠璃珊瑚真珠等)が要求され、しかも、功徳を増やそうとすれば、求道者・菩薩は「跡を残したいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない」のである。
 さらに布施よりも大切なことは、「他の人」にこの経典を教え信者を増やすことである。結局、空の実践とは、思考・分別をやめて、ひたすらこの経典に従い、教団と高僧に布施を行い、信者の拡大が意図されていることがわかる。
 善男善女の永遠の幸福(解脱)への願いを利用し、経典への盲目的服従によって布施を求めるのが神秘化した宗教の共通の傾向性なのである。

★原始仏教から大乗仏教への連続性・発展性を肯定する中村元は、「人間存在の逆説性」を説いて大乗の「空観」に理解を示す。

 「考えてみると、われわれ人問の存在というものは、ひじょうに逆説的なものではないか。形式論理では割り切れないものがたくさんある。たとえば、われわれは眠りたいというときに、眠ろうとつとめると眠られない。眠らなくてもいいんだと思うと、案外やすらかに眠られる。そういう逆説的な面をわれわれの存在はもっているが、この点を般若経典、ことに『金剛経』はよくついている。われわれの生存のうちにある矛盾を超えた境地である。」(『仏教思想6空』 中村元 第1章 空の意義 平楽寺書店 1981)

 しかし、これは逆説ではない。逆説という認識は、現象を正しく見ていないから起こる。真実は、眠ろうと努めれば神経が緊張するから眠れないだけの話である。神経が興奮しないようなことを考えればいいのである。たとえば、『聖書』や『仏典』の癒しの言葉で祈りを捧げるとか、羊の数を数えるのも緊張をほぐすことがあるように。
 同じように、「空観」も真実を表現しないで、
分別を否定することによって「空」を強調することに「執着」するから、論理矛盾になって『中論』のように実証性を喪失することになるのである。つまり論理矛盾自体が恣意的な認識(論理)なのである。真理が矛盾や逆説なのではなく、論理のみが矛盾や逆説なのである。世界の空であることを表現するためには、「縁起」としての相依相関を説くだけでよいのである。「分別を否定すること自体が分別である」ことを認識しないのが、空論の空論たるゆえんであるが、これは現象学が閉塞状況になったのと同じような、言語の意義の理解できない戯論である。


『中論』空観批判    
龍樹(ナーガルジュナ)著 中村元訳
                (下線はすべて引用者による)
§ 帰敬序
 〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく一不異義〕、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去ることもない(不出)。戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

★戯論を述べるのはナーガルジュナの方である。彼は言語や論理が人間にとってどのようなものであるかを知らない。消滅も、生成も、終末も、常恒も、同一も、分別も、去も来も感覚的(想像的)に現象した対象の状態を述べている言語表現(命題・名)であって、そこには現象(意味内容・色)とその表現(言語記号)とが実在(有)している。部派仏教におけるアビダルマ哲学(ブッダの教え(ダルマ)に対する(アビ)究明)は、両者(名と色)を区別することができずに、言語表現を独立的本質的な存在(自性・有)として絶対化し、縁起における無と空の相違(無は有の対立物、空は縁起の相)を理解できなかった。それに対して、大乗の空理論を正当化したナーガルジュナは、すべての現象(言語表現を含む)が縁起によって成立しているために、固定的自性的なものは存在せず(空)、執着の対象も存在しないことを示そうとした。しかし、彼は、
空相を表現する言語が、固定性自性性を生じることがあるのを理解できず、自らが詭弁を弄し戯論を述べていることを自覚できなかった。戯論消滅のためには、言語の謎の解明による「言語論の革新」が必要なのである。

 以下に空観の説明の言語論的誤謬の一部を指摘しておく。★印は引用者の解説、*印は訳者の付記である。


  
第一章 原因(縁)の考察
一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
 *縁起が<不生>の意味であるということを説明している。

二 縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁縁)と、心理作用がつづいて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。

 ★著者(ナーガルジュナ)は、対象(事物)そのものに存在する縁起(因果関係)と、対象の縁起を認識し言語(表現)化する過程を区別しようとしている。しかし、「助力するものとしての縁」を持ち出すことによって、認識と言語化の過程(等無間縁と増上縁)を、認識対象から独立させていないことがわかる。そのため認識主体の命題構成(思考)原理を、対象から相対化できずに恣意的に用いてしまい、詭弁を真理と見なしてしまうのである。つまり、認識は対象を指示し(主語)、対象の状態と関係性を明らかにする(述語)ものであるのに、
縁起を用いて対象の自性性を排除し、恣意的に論理を構成するのである。認識とは生命である人間が行うのであるから、生命が自性的に存在しないと対象の認識も「空」という言語表現も論理もあり得ないことになってしまう。大乗経典の「空観」は、あくまで幻想の中で「方便」としてのみ了解されるべきであり、今日の科学的認識論として成立しないものである。

三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(〔自性〕。本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。

 ★「それ自体(本質)」は、アビダルマ哲学が抽象し「法(ダルマ・真理)」と見なしたものであるが、彼はこれを否定しようとしている。著者の支持する空観哲学にとっては、釈尊が述べた「識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」(『スッタニパータ 1037』)「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。」(『同 1119』)という考えを強化するためには、事物の自性性を否定する必要があったのである。アビダルマ哲学の自性性は、言語表現を抽象的な本質的存在と見なすので、縁起を超えてしまうという弱点をもつので、これを捉えて縁起によって自性性を否定したのである。しかし後述のように、
釈尊は「空」を絶対化することはなく、「観ぜよ(avekkassu)」と言ったのである。

四 〔結果を生ずる〕作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは縁は作用を所有するものとして有るのであろうか。〔そうでもない。〕   (中略)

 ★ この文で問題となるのは、「作用」と「縁」と「所有」の用語の関係である。因果関係で言うと、「作用」はある運動の原因となり、その原因によ(縁)って結果が生じるのだから、「縁」は「作用」が「所有」するものではなく、結果との関係を表現するものである。換言すれば、「ある作用がある結果を引き起こした」と能動的に表現するところを、「ある作用によってある結果が生じた」と受動的に表現したものである。従ってこの文脈において、「所有」という概念は全くふさわしくないのである。また、「作用」は、必ず何らかの結果をもたらすので「縁起」の意味を含むとしても、「作用」が主語になって「縁」を「所有」するか否かの論理が成立するわけではない。言語はあくまでも表現手段なのである。この言語の限界を超えて、言語を存在それ自体と考えたところに「アビダルマ哲学」の誤りがあり、逆にまともに否定したところに空観の誤りがあるのである。『中論』は万事がこのように言語の意義を理解しないもので、『中論』という標題自体が、中論の名に値しないのである。

  
第二章 運動(去ることと来ること)の考察 
一 まず、すでに去ったもの(已去)は去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに、<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの(去時)>も去らない。
 
〔*第一詩の後半、「現在の<去りつつあるもの>が去らないということはいえないはずではないか」と反対者が第二詩を述べる〕
二 動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは<現在去りつつあるもの(去時)>に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に、<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。

 ★第一詩の反対者は、動きが存在すれば<去るはたらき>があるから、<現在去りつつあるもの>は去らないことはない、と反論した。運動する物自体の本質である<去るはたらき>自性的であることを述べたのである。肝心なことは、言語は現象を表現するものであって、言語の論理だけで意味が整合的に成立するものでないということである。<去るはたらき>は論理によって存在するのではなく現象の中に存在している。この点ではアビダルマ哲学は正しいといえる。


〔第二詩に対して、ナーガールジュナは答える〕
三 <現在去りつつあるもの>のうちに、どうして<去るはたらき>がありえようか。<現在去りつつあるもの>のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに。

 ★著者は、論理で答える。<現在去りつつあるものが去る>という論理には<去る>が、主語と述語の両方に用いられている。だから両方に<去るはたらき>があるが、これは成立しないというものである。これは詭弁・戯論といわざるをえないであろう。

四 <去りつつあるもの>に去るはたらき(去法)が有ると考える人には、去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、しかも<去りつつあるもの>が有るという〔誤謬が〕付随して来る。
 *もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、このようなことはありえない。

 ★著者は、「去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして」と言うが、「去りつつあるものが去る」ことになれば、もはや<去るはたらき>はなくなるはずであるのに、<去りつつあるもの>がまだ存在しているのはおかしいと述べている。
誤った条件や前提のもとに論理を組み立てても、結論が混乱するのは当然である。つまり、<去りつつある>というのは運動の状態であるが、<去るはたらき>というのは運動の原動力であって、「去りつつあるものが去る」ことが終了しても後者は存在し続ける。<去りつつあるものが去る>としても<去るはたらき>は消滅しない。<去るはたらき>を同時に去ら(消滅さ)せようとすれば、そのような条件や前提が必要になるのである。この場合は<現在去りつつあるもの>という主語を、<去る>という述語で表現する前提がおかしいのである。

五 <去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、二種の去るはたらきが付随して来る。〔すなわち〕<去りつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、また<去りつつあるもの>における去るはたらきとである。
 *すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として付加される「去」と二つの<去るはたらき>が付随することとなる。

 ★著者は、言語が対象の指示や状態、対象の関係性を表現するものであって、概念や命題自体はその手段であることを理解していない。この場合対象はあくまで一つであって、<去りつつあるものが去る>という同義反復的表現でも理解できないことはないが、正しくは<去りつつあるものがある>または<あるものが去りつつある>で十分なのである。

六 二つの去るはたらきが付随するならば、〔さらに〕二つの<去る主体>(去者)が付随する。何となれば、去る主体を離れては去るはたらきはありえないから。      (後略)


第三章 認識能力の考察

一、見るはたらき、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、思考作用これらは六つの認識能力(六根)である。見られる
もの(色、かたち)などが、これらの認識能力の対象である。
★ 基本的に科学的な正しい判断である。しかし「思考作用」については人間の場合は「言語作用」「言語操作」が加わる。この点の欠如は「空観」の決定的な弱点となる。

二、実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。自己を見ないものが、どうして他のものを見るのであろうか。
★ 上の論理は『中論』によくみられる非実証的で恣意的な論理の飛躍である。「見るはたらき」は、生物学的に「他のもの」を見るはたらき
であって、自らの自己を見るものではない。しかし、人間は言語のはたらきを活用することによって、自己を対象化(客観化)し、自己を反省的に見ることができる。鏡等を使用しても、自己を見ることができる(類人猿でも自己の鏡像を、ある程度は「自己」と認識できるらしい?!)


三、(火は自分を焼かないが、他のものを焼くという)<火の譬え>は、<見るはたらき>を成立せしめるのに充分ではない。<見るはたらき>と<火の楡え>とは、〔すでに第二章において〕<いま現に去りつつあるもの>と<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とによって、すでに排斥されてしまった。
そのとおりに排斥した。言語は、表現すべき対象を、まずは実証的にありのままに表現し、その事実を再構成して、新たな対象を創造するのである。

四、何ものをも見ていないときには、<見るはたらき>ではない。<見るはたらき>が見るというなら、どうしてこのことが理に合うであろうか。
★ 言語表現を恣意的におこなえば、理に合わないことが出てくるが、それは理に合わない論理を使用しているからである。<見るはたらき>は、生物学的に休止させることができるのである。ナーガルジュナは、関係(縁起)させるべきでないことを関係(縁起)させているだけのことである。縁起は、論理的に認識されるものであるが、事実関係を誤れば科学性を喪失させてしまうのである。仏教の幸福論は、科学的方法論の確立していない時代の産物であるが、大乗仏教の「空観」には、特に非科学的な「戯論」や「空論」が多用されている。それは「方便論」(悟りのために嘘も許される)としても、人間的な許容限度を超えるものである。実在した釈尊は、「方便としての嘘」を許しただろうか。
 釈尊は次のように説いている。
「会堂にいても、団体のうちにいても、何人も偽りを言ってはならぬ。また他人をして偽りを言わせてもならぬ。また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。すべて虚偽を語ることを避けよ。」 (『スッタニパータ 397』中村 元訳)

五、<見るはたらき>が見るのではない。<見るはたらきでないもの>が見るのでもない。<見るはたらき>を〔排斥しおわったこと〕によって<見る主体>〔の成立しえないことも〕説明されたと理解せよ。
★ <見る主体>とは生命であり、人間であれば<言語を操る主体>である。どのように言語を用いているか、また用いるべきかを考えよう。

六、<見るはたらき>を離れても、離れなくても、<見る主体>は存在しない。<見る主体>が存在しないから、<見られるもの>も、<見るはたらき>も、ともに存在しない。
★ このような論法を、「帰謬法」または「背理法」というのであろうか。真とすべき判断や前提が偽でれば、それを否定しても真となるとは限らない。あとは異曲同工なので省略する。

・・・・・無我と空(世間虚仮、唯仏是真)、色即是空空即是色、諸行無常諸法無我、事実と真実、空相に生きるか現実に生きるか・・・・・人は生きなければこれらすべての言葉(判断・知恵)はない。・・・・・空観は夢幻のごとく事実であるが真実ではない。夢幻のみで生きることはできないから、空観は真実ではない。しかし、人間は夢幻に救いや覚りを求めることはできる。
 もし、生命は縁起の存在であるから空であると規定すれば、縁起(生命存在)が縁起を認識する、すなわち空が空を認識するということになり、これは論理的に成立しないことになる。
 なぜなら認識主体である生命自体が空であり、実体をもたないことになるから、そのような空として実体をもたない存在に、生命自体を空とも有とも認識できないからである。別言すれば、言語をもつ生命主体(有)であるからこそ、空という言語的判断が可能なのである。
 では、なぜこのような「空観」という誤った認識論が生じたのかと言えば、大乗教団の僧侶やナーガルジュナ(龍樹)らの仏教哲学者が、現世への執着を離れられず、貧困や争乱に苦しむ煩悩深き衆生を救う「方便」として必要と感じたからである。
 大乗では衆生救済のための「方便」が肯定(推奨)されるが、これは科学的認識の発達していない社会的文化的背景のもとでは全く了解可能なものである。しかし、科学的認識が発達し、認識の根源であり人間の本質でもある言語の謎が解明された今日にあっては、空観や菩薩信仰は全くの空論・幻想であるというだけでなく、大乗の慈悲の精神や釈尊の目指した解脱(無執着・涅槃)の現世的意義をも否定することになる。


法華経における「さとり」の現代化 (工事中)

さとりの心理学的解明:無明からの離脱、明知の確立、執着の克服
  一時的なさとりと永続的なさとり  一時的な幸福と永続的な幸福  
 
一時的な快楽と持続的な快楽  物質的な快楽と精神的な快楽
 感覚的快楽と内面的知的快楽  有的快楽と空的快楽 

<資料> 釈尊(ブッダ)は成道以降は論争を好まなかった。偽りを方便として肯定しなかった。

 397 会堂にいても、団体のうちにいても、何人も偽りを言ってはならぬ。また他人をして偽りを言わせてもならぬ。また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。すべて虚偽を語ることを避けよ。
 661
嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
 895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
 896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、
汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
 973
他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
                     (『スッタニパータ』中村 元訳)


※なぜ上記のような釈尊の言葉を掲載したのか。法華経は衆生救済のために方便を肯定しましたが、釈尊によればそれは偽りであり、衆生救済のためには方便は必要なく、真実のみが衆生を救済するからです。
 『スッタニパータ(ブッダのことば)』現代語訳リンク→→スッタニパータ(全) (coocan.jp)
        

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