人間とは何か.もっとよく知ろう、自然、命、人間、心.
4 感情と行動について 

            心の構造と機能→→「心(こころ)」とは何か  生命言語説とは 
                             フロイト批判 マズロー批判 脳と心


 「昔の人々からわれわれのうけついだ知識が、いかに欠陥の多いものであるかは、彼
等が情念について書いたことのうちにもっともよく現れている。
というのは、情念という主
題の認識はいつの時代でも大いに求められてきたにもかかわらず、そしてまた、誰でも情念を
自己自身のうちに感ずるのであって、その本性を見いだすために、他から観察を借りる必要が
ないのだから、この主題はきわだってむずかしい主題に属するとは思われないにもかかわらず、
昔の人々がそれについて教えているところは、まことにとるにたりないものであり、大部分信
用しがたいものであって、私には、彼等のとった道から遠ざかることによってしか、真理に近
づく希望が持てないほどだからである。」
                              (デカルト,R.『情念論』 野田又夫 訳)


 「感情の本性やその力や、或いはまた、それにたいする精神の統御力やについては、私
の知るかぎり、まだ一人としてこれを決定したひとあるを聞かない。」
 「三つの感情<喜び・悲しみ・欲望>以外に私は、他の基本的感情を認めない。すなわち、
ほかの一切の感情は、この三つから成り立つのである。」
                          (スピノザ『倫理学<エティカ>』高桑純夫訳)


★ われわれは、上記引用における「感情の謎」についての、決定的な解答を用意している。
 感情とは何か? 感情をどのように捉えるか?
 感情は、生きるための欲求を充足する反応(行動)過程で、内外の変化に反応して快・
不快を判断・表現し、さらなる反応(行動)の動因となり、行動を推進(または抑制)する
働き・機能である。

 感情は、ただ喜怒哀楽を表現しているだけでなく、ある種の反応行動でもあり、またその反応
行動の内部に次の反応行動の動因、または推進・抑制力を内包している。喜びは更なる喜びを
求めさせ、怒りはその対象への反撃・抗議行動を予定している。哀しみはその対象への同情・
憐れみを含んで、行動を抑制し、楽しみはそれをもたらす対象と状況を求める行動へと駆り立て
る。これらは動物も人間も共通の情念・感情である。しかし、人間はさらに、これらの感情を意識
的に言語化し、その原因を求め、緊張を解消安心をもたらす肯定的な喜びや楽しみをさらに意識
的意図的に追求(夢や希望)し、「否定的な感情(不快・緊張・ストレス)」となる怒りや哀しみを解
消するために、呪術や宗教を含む適応機制を意図的に行う。人間が、否定的感情を抑制・克服し、
「肯定的感情(快・安心・喜び)」の永続化(幸福)を求めて、夢や希望を感じ、欲求充足を求める
意図や意欲の感情は、人間に特有の「意図的感情」として位置づけされる。

    

 感情と行動は、生命の行動様式としては内的外的刺激と欲求に対する反応である。
感情は,高等な哺乳類にも認められると仮定できるが,本質的には意図的理性的抑制が可
能な人間に固有のもの
である(チンパンジーに,喜怒哀楽の感情を確認できることに異論
はないであろうが,これは情動とみなすべきか)。情動は通常は生理的身体的変化を伴い,
外的行動として表れるが,感情は内在的な反応であり必ずしも表情や行動には表れない。
ただ,緊張や心臓の鼓動,発汗やのどの渇きなどの生理的・情動的変化を伴うことが多い。

 感情をコントロールすることが情動をコントロールすることにつながる。人間の幸福は、一般
的には、快苦の感情の動揺(煩悩)の過程で、肯定的感情(例えば快、喜び、楽しさ)の状態
が優位となり、否定的感情(例えば苦、哀しみ、怒り)が抑えられることによって得られる。
 日常的習慣的行動は、習慣化されるまでは何らかの欲求(個体と種の維持)に促され
感情や情動を伴う運動である。
従って、行動の成功をもたらすには、行動の原動力となる
肯定的感情と否定的感情が調和して、統一した行動を導かなければならない。

 自分の感情の起伏を知ることは、自分の性格や行動様式を知り、社会の中で自分を
生かせる条件ともなる。
デカルトもスピノザもそれなりに人間心理の解明に努めたが、真理
に近づくどころか逆に、世間的常識から遊離したのではないだろうか。スピノザにおいては、
欲望と感情の区別もつけられなかった。「人間は欲のかたまり、感情(喜怒哀楽)の動物」とい
う世間知は、いかに正しいか。これに仏教的明智が生かされれば、西洋哲学などはお払い箱
になるのではないだろうか。

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付録  
感情について

 感情
は,内的外的変化に対する大脳皮質的反応で,情動的起源をもつ。感情が高揚すると情動反応(身体的生理的反応)を誘発する。感情は意志や意欲・思考などの大脳前頭連合野の機能により,情動よりも持続的な反応である。例えば,愛する人を失った悲しみの情動は,悲しみの感情としてある期間持続するが,何かの機会(思考による想起や写真などの知覚的刺激)にその情景の記憶が呼び戻されると再び悲しみの情動が引き起こされる。また異性への恋慕は,心臓の鼓動を高めるし,宗教的信仰は,わが身を忘れさせるほどの感激をもたらすことがある。

 感情は人間において最も発達し,直接的外的刺激によらずとも,思考や想起によって反応が起こる。例えば環境の悪化を予想することによって未来に対する不安感が生じたり,恋人との再会を思うことによって喜びがこみあげてくることなどである。感情は,様々の知的判断の影響をうけ,矛盾した判断によって,矛盾した複雑な感情が生起する。例えば,けんかの絶えない夫婦が離婚することによる一人身の寂しさと,自由であることによる喜び・解放感との両価的(アンビバレント)な感情などである。

[感情の形成]
 感情は,情動反応が幼少時からの経験や大脳皮質前頭連合野のコントロールを受けることによって派生的に形成され,人間において自覚される内的反応である。感情が情動と異なるのは,感情が大脳皮質における快・不快の価値感情を伴い,意志や思考(あわせて理性とも知性とも言いうる)の介入をうけるが,直接的には身体的生理的反応を起こさないことである。しかし,感情が高揚すると情動反応へ移行し,理性の働きを低下させて身体的生理的変化や行動をもたらす。

 感情は,発生的にみると,乳児期の単純な興奮(おそらく快・不快)と平静ないし抑制から発達が進み,快(肯定的)感情と不快(否定的)感情に分化していく。感情の持続は,感情を生起させる直接的刺激とともに行動と思考の動因となる。感情は,意志や意欲,希望や絶望,永遠性など人間的心的内面的反応であり,いわゆる精神的な側面が強く,大脳生理学的に言えば大脳皮質とりわけ前頭葉的な反応である。

 また,感情は,情動と異なり個体維持や種族維持という生理的身体的な特定の反応を引き起こす反応には分類できず,喜怒哀楽など基本的な感情から,夢や希望,芸術性や宗教性など精神性の高い感情まで含んでいる。後者の精神性の高い感情は,環境の可変性の中に,生命の永続性を求める根源的欲求と結合している。生命の意に反した環境の変化に対して,生命の永続性と安全をもたらすものには快を,生命の永続性と安全性を損なうものには不快の感情反応が引き起こされる。多くの宗教的信仰は,「信じるものは救われる」というように,いかに欺瞞に満ちた非科学的なものであっても,人間の心に高揚した快感情(救い、癒し、覚り)をもたらすことを目ざしている。

[感情の分類]
 感情は,高等な哺乳類にも認められると仮定できるが,本質的には意図的理性的抑制が可能な人間に固有のものである(チンパンジーに,喜怒哀楽の感情を確認できることに異論はないであろうが,これは情動とみなすべきか)。情動は通常は生理的身体的変化を伴い,外的行動として表れるが,感情は内在的な反応であり必ずしも表情や行動には表れない。ただ,緊張や心臓の鼓動,発汗やのどの渇きなどの情動的変化を伴うことが多い。

 感情の分類は,情動と重複する面がありながら,情動に比べてはるかに困難である。心理学において明確に感情や情動を定義し区分した定説はない。感情は,意志や思考・判断,過去の感情・情動の経験が複雑にからみあって形成され自覚・認識されるものだからである。例えば,喜怒哀楽は感情の説明によく出されるが,喜びには強弱濃淡様々あり,これに怒りが加わるとより複雑な感情になる。給料が増加していながら,物価がそれ以上に上昇している場合とか,原稿が完成したがさっぱり評判がよくないなど「苦い思い」「複雑な感情」はこれに当たるだろう。否定的な感情が重複し蓄積すると「コンプレックス(複雑感情,劣等感)」とされることもある。
 従って,個々の感情と相互の関連や重複については多様な説明が可能であるが,ここでは大きく肯定的感情と否定的感情,そして人間に特有なものとして意志的感情を分類してみよう。

 
  
肯定的感情
    [一般的感情] 快,充実,自由,安心,喜び,楽しみ,おかしさ,公正等、生命活動一般について
    [社会的感情] 連帯,愛情,保護,優しさ,安全,解放等、自然や社会環境一般について
    [優越的感情] 優越,自信,自尊,勝利,所有,支配等、個別的対人関係について

  否定的感情
    [一般的感情] 不快,空虚,不安,悲哀,恐怖,当惑,失望,不正等生命活動一般について
    [社会的感情] 孤独,憎悪,排除,怒り,嫉妬,閉塞等、自然や社会環境一般について
    [劣等的感情] 劣等,不信,自虐,敗北,軽蔑,拘束,恥辱等、個別的対人関係について

  意志的感情
    好奇,探究,希望,期待,意欲,信仰,義務,高揚,戦い等、主体的な困難解決について
    (自己の意図や目的、欲求や希望を実現するとき、実現したときの感情、充実感・達成感を含む)


[感情と言葉]
 情動を伴わない通常の音声信号としての言葉は,まず知覚を通して大脳皮質に働きかけ,言葉の刺激が大脳皮質を興奮させることによって感情反応を引き起こす。連想テストはこれを心理人格分析に応用したものである。感情反応は,主に否定的な場合には問題意識を引き起こし認識や思考を活性化させ,次の行動のエネルギーとなる。しかし否定的感情の強度が強すぎる場合は,情動(大脳辺縁系)に刺激を送って生理的身体的変化を起こし,不安や絶望の情動が思考や行動を困難にすることもある。(肯定的感情は快感情であり,それ自体が目的であるため認識・行動としては完結的である。)

 例えば,大学受験の結果を待つ場合,たとえ不合格通知が「さくら散る」という簡単な言葉であっても,本人にとっては期待が大きければ大きいほど失望が大きくなる。しかしここで「また来年がある」という言葉があれば再挑戦の行動にもつながる。言葉は,快不快を惹起する感覚的刺激を記号化することにより,絶えざる変化のなかにある感覚的対象の多様性と微妙な変化を,記憶にとどめ,永続的な存在に転化させる。それらの変化に対する感情的反応は,単なる情動的反応や快・不快をこえた永遠性を求める感情として成長する。言葉は記憶の持続性や多様性を深めることによって,感情に微妙な変化をもたらす(快不快、喜怒哀楽等々)。

 例えば,幼小期に神への祈りとともに聖書の一節を暗唱した人は,その言葉によって自己の宗教的な感情生活を維持するであろう。また努力すること,耐えることすなわち「頑張りなさい」「努力しなさい」「負けるな」と教えられた場合を考えてみよう。それによって良い結果が得られれば,安心や喜び,優越や自信の感情が形成され,逆に失敗して結果が悪ければ,不安や不快感が生じ,孤独や憎悪,劣等感や不信感が育成されることになるであろう。

 想像と言葉の世界は人間の感情を増幅・拡大・固定化し,神的霊的天国的世界と悪魔的退廃的地獄的世界をもたらした。聖書における終末思想や仏教の地獄の世界はこれを教訓的に描いたものである

(以下は、目次を参照してください)


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  感 情 論 (再説)
 
「感情の本質は感覚ではなく、危険から遠ざかり、利益になるものに近づこうとする生き残りのメカニズムである。」(カーター, R.『脳と心の地形図』 1999 )
 「われわれが今行なっているようにわれわれをふるまわせるものは、われわれの感情であり、とくに快と苦痛に連合しでいる感情である。人間社会の営みにあっては、熱情が支配し知性が従っている。」(ロピンソン『現代心理学の体系』 1983)

 感情とは何か
 すべての多細胞生命の生命活動の基本は、単細胞生物の生存原理が含まれている。例えば人間の約60兆の細胞のうち生殖細胞を除くすべての細胞が、系統的に分化し固有の刺激反応性を持つとはいえ、共通の細胞質とDNAをもって人間の生存を支えている。人間を含むすべての多細胞生物の構造(身体)は、機能分化した細胞の連合体である。
 単細胞生物である原生動物(アメーバーやゾウリムシ等)にも、刺激反応的活動の中に感情(情動emotion)の原理が含まれている。それは原生動物の活動を観察すれば、環境刺激に対する反応様式が定型的であったり、刺激の強弱によって異なり、また反応様式が記憶されることからもわかる。人間を含むすべての動物もまた、単細胞原生動物の生存(活動)様式(刺激反応様式)を基本としている。人間の感情は、基本的には刺激に対する生理的身体的反応であり、自律神経や内分泌の変化によって内臓や筋肉・皮膚等に変化が起こって活動を準備し、反応行動に到る。つまり、何らかの刺激(問題状況)に対し、感情が発現する(感情反応が起こる)ことによって、問題解決行動(適応活動)の動因または安定状態の維持、または欲求の表出状態を示す心的身体的反応(行動変化)が起こるのである。(英語で活動はmotion であり,情動emotion は内的な活動motion を外へex 表出することである。)

(※注)脳科学者であるダマシオは、感情を「命の調節反応」と考えたが、それは同時に単細胞生物の生存活動に根源を持つものと考えた。「単純な有機体にも『情動的な』反応があることを示す証拠は豊富にある。たとえば孤独なゾウリムシ。単純な単細胞生物で、全部が体。脳もないし心もないが、外部環境中の潜在的危険──たとえば、尖った針、多くの振動、高熱、低温──から、即座に泳いで逃げる。栄養物の化学的勾配にそって、エサにありつける方向へ素早く泳いでいくこともある。・・・・・この、脳のない生き物の中の事象には、われわれ人間がもっている情動のプロセスの本質──つまり、回避や忌避、是認や接近を促す対象や事象の存在の感知──が、すでこ含まれている。」(ダマシオ『感じる脳』2005 p67)

 感情を定義づけるのは困難であり、ジェームズは、感情の分類や記述は「デカルトから今日に至るまで心理学の中で最も退屈な部分の一つである」(『心理学』1892)と述べている。確かに感情は、喜怒哀楽愛悪欲(七情:仏教語)などの基本的感情が重複して現れるため、細分化しても有用性が増加するとは限らない。著名な哲学者心理学者が様々な立場から分類しているが統一した見解はない(参照:宇津木成介『基本的感情の数について』)。日本における第一線の研究でも「ダーウィンから130年あまりを経過した現在においても,感情研究はいまだ一種のカオス状態にある」という評価が一般的である。
 「感情研究の道は険しい。一歩進むごとに思わぬ障害物にでくわすかもしれない。しかしいま,私たちはそれらをのりこえていかなければならない。こんにちのヒト社会の問題は,感情研究なくして解決できるようには思えない。さらにいえば,感情の理解なくして人類の,いや地球社会の未来をえがけるようには思えない。」(藤田和生『感情科学 序』 2007 pⅴ)

 上記の指摘に共感するが、感情研究がそれほど重要と考えられているにもかかわらず、単に現象面だけ観察したり、実証的成果にこだわると、感情の原理や本質を見逃してしまう。感情研究の困難性はその主観性(意識性・気づき)と客観性(生理的・身体的反応)の曖昧さにあり、両者の相異を自覚して感情を自らが体験する必要がある。感情体験や自らの感情に対する自覚が乏しいと感情を十分対象化し研究することができないのである。動物に感情を認めるなら動物の気持ちを理解する必要があるし、自分自身の感情経験を豊かにする必要がある。感情研究とは自己自身の感情経験の自覚でもあるのである。(将来的に大脳皮質内の情報処理のシステムと情報内容が多少とも分かるようになるかも知れない。その場合は感情経験の主観性を克服できるが、技術的問題とともに研究者の脳自体が処理しきれないのではないだろうか。)

情動(emotion)と感情(feeling)

 われわれは前編において情動と感情の関係について、以下のように述べておいた。
 「感情は,内的外的変化に対する大脳皮質的反応で,情動的起源をもち,感情が高揚すると情動反応(身体的生理的反応)を誘発する。感情は意志や意欲・思考などの大脳前頭連合野の機能により,情動よりも持続的な反応である。」(『人間存在論 前編』2001 p101)

 「感情は,情動反応が幼少時からの経験や大脳皮質前頭連合野のコントロールを受けることによって派生的に形成され,人間において自覚される内的反応である。感情が情動と異なるのは,感情が大脳皮質における快・不快の価値感情を伴い,意志や思考(あわせて理性とも知性とも言いうる)の介入をうけるが,直接的には身体的生理的反応を起こさないことである。しかし,感情が高揚すると情動反応へ移行し,理性の働きを低下させて身体的生理的変化や行動をもたらす。」(同上)

 上の説明で最も重要なのは、感情が「情動的起源をもつ」ということである。脳神経科学では、感情(情動)刺激による知覚神経からの電気インパルスが、自律神経系の生理的反応と大脳皮質的認知・判断過程の2方向に同時に信号を送ることが解明されている。情動は客観的な生理的反応(心拍、発汗、表情等)を伴って自覚されるものであるのに対し、感情は主観的な大脳皮質的認知反応で、両者を完全に分離することは不可能である。恐怖や悲哀など強い情動刺激では身体生理反応が激しくなり(心拍の増加、発汗等)、精神的にも興奮してパニックになると、大脳皮質的な認知や正常な判断のできない状態になることがある。特に皮質的コントロールの経験未熟な子どもの場合は、皮質的な精神的受容ができず感情の次元を越えることになる。この場合は心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの病的傷跡を残すことがある。それに対し、同じ恐怖や悲哀の情動刺激でも、刺激が弱かったり耐性がある場合、身体反応も少なく刺激対象への認知や適切な行動判断が可能になる。このような場合、刺激事象と対処法が知的に認知処理され感情と共に学習・記憶され、次回の問題解決に活用されるであろう。このように感情は情動的起源をもち、情動も含むが、人間に特徴的な大脳皮質的過程であると言えるのである。

 情動(emotion)は文字通り「情の動き」であり、感情(feeling)は「情を感じること」である。言葉の意味からも分かるように、情動の本質は身体的生理的反応であり、感情は情動刺激と身体反応を認知・判断(情報処理)し、適応的行動を選択する大脳皮質的過程の推進エネルギーである。その意味で、いわゆる「ジェームズ=ランゲ説」といわれる「情動における感じは身体的表出の結果である(泣くから悲しい)」という考えやダマシオの情動と感情を分離し、「情動は感情に先行するする」という表現は正しくないと考える。

 「通常使われている情動という言葉には、感情の概念も包含されていることが多い。しかし、情動からはじまって感情で終わる一連の複雑な事象を理解しようというなら、そのプロセスを、外にあらわれる公的な部分と内にとどまる私的な部分とに原理的に分離することが助けになるだろう。研究の目的にそって、私は前者を「情動」、後者を「感情」と呼んでいる。」(ダマシオ『感じる脳』2005 p50 下線は引用者)

 上の引用文で、「外にあらわれる公的な部分」は身体反応である情動、「内にとどまる私的な部分」は進化的に遅れて発達した感情である。ダマシオが両者の関係を「情動は身体という劇場で演じられ、感情は心という劇場で演じられる」(同p52)と述べているのは、おおよそは正しい。しかし両者を「原理的に分離すること」が厳密に行われると、問題を正確に理解することができない。なぜなら、脳科学によれば、外的な情動刺激は視床下部から大脳皮質と自律神経(身体)の両方に伝達して、身体反応だけでなく脳内で感情反応が認知されるとされている。また、そもそも感情は、生得的適応基準であるとともに、経験的判断基準ともなるからである。つまり、ダマシオのように身体変化(情動)を「脳内身体マップ」がモニターすることによってはじめて感情が認知されるのであれば、脳内の認知・判断・命令や記憶情報の利用に時間的遅れが出て、進化的にも適応的有益性が減少することになるからである。

 例えば、危険(有害)な事態は恐怖(嫌悪)の情動・感情を引き起こすが、「何が」危険(有害)であるかは経験的に獲得され記憶される。幼児が火(ある種の虫)を危険(恐怖、嫌悪)と感じるのは、火(虫)の熱さ(虫さされ・気味悪さ)を自ら経験するか、火(虫)に関心を示し近づいたとき大人から「危ない!」と感情的警告(脅し、嫌悪感)を受けたときである。この経験は火(虫)への恐怖(嫌悪)を記憶に焼き付け、ふたたび火(虫)にであったとき、身体反応など待っておれば、往復の伝達ロスになる。つまり情動は快不快にかかわらず身体的反応を伴うが、この反応に関わる情報(情動刺激と情動反応)は、初回の情動経験こそ「公的な部分」と言えるが、一度情動情報が記憶されてしまうと「私的な部分」すなわち脳内の情動と情動情報の処理システムに吸収され、「心と身体」「感情と情動」は一体化してしまうのである。例えば特定の「虫の名前(言葉)」を見る、聞く、連想するだけで、心の中で感情情報(虫さされの不快経験等)が思い出され、身体反応(顔が思わずゆがむ等)が起こるのである。

 ダマシオの思想には共感できる面も多い(恒常性や欲求の分析、幸福論への言及)のであるが、今ひとつ問題点を指摘しておく。それは「感情は主として特定の身体状態の知覚によって構成されている」「身体状態の知覚が感情の本質を構成する」「感情は知覚である」という表現についてである。

 「感情は知覚であって、その知覚にとって最も必要な支えは、〈脳の身体マップ〉に生じると私は考えている。これらのマップは身体各部と身体の状態を示している。快や苦が姿を変えたもの、それが、われわれが『感情』と呼んでいる知覚の不変の内容である。」
(ダマシオ,A.2005 p121)

 確かに「情動が感情に先行する」という理解に立てば、感情は「身体状態の知覚」ということになるが、情動刺激が受容され、視床下部から自律神経を通じて指令が出されるとき、どのような程度の指令が出されるかは視床下部(細部はまだ特定されていないが)の認知・判断による。人によって、また個人においても状況と経験の度合いによって情動(身体)反応が異なるのはそのためである。偽物のゴムの蛇(情動刺激)を見て、初めは嫌悪を感じても、慣れてくればある程度反応が減少するのは、身体反応の前に脳内での認知判断が加えられるからである。もっとも刺激が強すぎて初回にパニックに陥った人、心的外傷を与えられた人が、ゴムの蛇に慣れるのは極めて困難であるが、これも「身体状態の知覚」によるというのは実証ができるのであろうか。身体状態が、感情ほどに豊かで陰影に富むとはとても思えないのである。

人間と動物の感情

 人間と他の動物との感情反応の違いは、動物が身体生理的刺激と、外的物理化学的刺激への反応に限られるのに対して、人間はそれらに加えて内的想起的(心的)刺激に対する多様かつ微妙な反応が起こるという特徴がある。例えば、動物の異性に対する愛情表現は生得的であり、直接的に性的行動(と養育行動)につながるが、人間の愛情は文化的習慣による制約や修飾を受ける。文化的習慣とは、あからさまな競争や偶然的結合ではなく、社会的承認や家族制度などの複雑なしくみを持つことである。

 人間の感情が、動物的起源をもっていることは、動物の脳や身体構造、表情の研究どでも明らかである。猛獣であっても幼児期は、人間の幼児と同様に養育感情が反応するし、恐怖や怒り、攻撃の表情等は共通の理解が可能である。内分泌や脳内の変化も、種によって違いはあっても人間と他の動物はそう変わらないであろう。感情は基本的には、「今ここで」の生物学(動物行動学)的適応行動の動因となっている。しかし、人間の場合、感情に関わる経験的知識や情報(特に幼少時の経験)は、それが強烈なものほど記憶され蓄積され、関係する刺激(機会、出来事)があるごとに想起される。例えば、嫌なこと、恥ずかしいこと、腹立たしいこと等の否定的感情はそれらをひきおこす具体的経験と結合し、トラウマ(精神的外傷)ともなって、二次的な複雑感情を形成することがある。否定的不快感情の伴う経験が偏って増大すると、人間は(もちろん動物も)ストレスによって神経症になりついには抑鬱症状が出て自死に陥る場合がある。

 このように両者の感情は共通点が多いが、人間の感情は、思考や知性・文化の影響を受け複雑微妙なものとなった。特に、人間の本質としての言語によって、感情的経験が表象やイメージ、知識として記憶され、様々の場面で想起され、価値判断(快不快、好悪、善悪)に影響を与えている。動物における直接的刺激反応性は、単純な生得性にもとづき、安全や危険、攻撃や防衛など生命の生存に直接つながるものがほとんどであるが、人間の場合は、感情経験は言語的に処理され記憶される場合が多い。例えば、幼なじみの名前を聞いたり思い出したりしただけで、懐かしい情景が思い浮かび思わず涙する場合もあれば、無理解な教師に恥をかかされたことが思い出され、学校の名前を聞いただけで怒りに我を忘れるということもある。望ましくまた肯定的な感情が想起される場合は問題ないのであるが、不快をもよおす嫌な感情の場合は、イソップ童話の「すっぱいブドウの話」のように、キツネが言葉で悔しい思いを合理化し、否定的感情を抑圧または発散しなければならない。

欲求と感情との関係

 欲求については、前節で述べたように、個体と種の維持・存続を実現する動因となる機能である。基本的なものとしては、食欲や安全欲、性欲や育児欲等々があり、特に人間においては、二次的欲求として文化的文明的発展に合わせて精神的充足(心的満足)への欲求が増大してきた。宗教・芸術・文学への欲求は日常生活から生まれ、やがてそれ自体の発展を遂げるようになってきた。それに対し感情は、欲求を充足する行動に伴って、内的外的刺激・状況に対する反応として生起し、思考や行動を促し持続させる動因ともなるのである。個体維持の欲求は、個体内外の恒常的バランスが崩れるような問題状況になるとき発現し、認知・思考・行動によってその状況を解決・適応する。その過程で問題状況の程度を認知し思考・行動の準備と促進のエネルギーとなるのが感情の基本である。

 ただし、欲求(刺激─食欲・安全・性欲等々)の生起に対して感情反応が必ず起こるとは限らない。食欲や好奇欲求のように、欲求によっては感情反応なしに、または感情反応を抑えて、または習慣的に認知・行動から欲求の充足に到ることがあり得るからである。「美味しい、美味しい」と言いながら感激と感謝の気持ちを持って食事をする人もおれば、何の感激も感情もなく機械的に空腹を満たす人もいる。また、科学的認識のように、初めは発見的喜びに満たされても、好奇心を理性的(言語的)に抑制することによって欲求を実現することもあり得る。従って、ロス・バックが次のように主張するとき、二重の誤りをすることになる。

 「動機づけ状態が生命に必要な内的条件を維持するためには,その状態はこれらの条件を維持するように作られた複数の系──適応的─ホメオスタシス系,表出系、認知系──に適切に影響を及ぼさなければならない。感情はこの影響が実行される過程である。本質的には,感情は動機づけ状態の読み出しであり、いわば適切な反応装置(引用者注:心拍・発汗等と行動器官)に動機づけ系の状態がどのようであるかを伝える即時性の「進行報告」(progress report)である。動機づけと感情とは,したがって同一硬貨の裏表,同一現象の二つの局面──動機づけ─感情状態(motivational-emotional state>──と見られるのである。」(バック,R.『感情の社会生理心理学』2002 p31)

 その誤りの一つは、「動機づけ状態」という表現が示すように、ロス・バックは「動機づけと感情の関係」を解明するのに失敗している。というのも、動機づけは、表出系や認知系に影響を及ぼすことがあっても、動機づけの原因(刺激)となるべきホメオスタシス系に影響を及ぼすはずはないのである。正しくは、ホメオスタシス系の変化(血糖値の低下等)が刺激(原因)となって行動の動機づけが始まり、場合によっては不快感情反応が行動を促進することになる。このとき不快感情は、反応であるとともに行動の動機づけとなるのである。また二つ目の誤りは、「感情は動機づけ状態の読み出し」ではなく、感情反応自体が動機づけになるが、決して感情だけが動機づけ状態を読み出すのではないから「同一現象の二つの局面」ではないのである。つまり動機づけの概念は感情だけでなく欲求という概念からも読み出されるものなのである。そればかりでなく、言語を持つ人間は言語的疑問(「何がどうあるか」「なぜそうなるか」等々)に自問自答する場合のように、”ほとんど”感情抜きに動機づけられ、認知・行動に到ることも可能なのである(もちろん言語には感情抑制機能とともに、感情喚起機能がある)。

 つまり、感情は基本的には、<欲求の充足に影響を与える刺激>に対する反応であり、その反応の基準は、個体と種の維持にとって有利か不利か、欲求を充足するかどうか、つまりその刺激に対して適応的か否かということである。ある刺激が有利であれば感情は肯定的になり、欲求充足の動因(意志的感情)が高められる。通常の感情反応は何らかの身体的変化を誘発し、行動の動因となる。しかし、一般的には、情動刺激に対し「快と不快」の反応を自動的に発現する価値的(評価的)感情が中心的なものと考えられているが、人間の場合は特にそれらの感情に加えて、価値中立的な意志的感情想定分類するのがわれわれの主張である。次に意志的感情を含む感情の分類について検討してみる。


感情分類の意義

 感情・情動は、他人の反応や表情、行動を観察することによって研究できるが、基本的には主観的経験を自覚することなしに理解することはできない。特定の感情を経験したり、また感受性を歪められたり不十分な発達しかしていない人には理解できない場合がある。例えば幼少時から虐待を受けたり、偏った教育を受けた人物は、愛情を感じられなかったり人間不信に陥り自己の感情さえ顧みることのできないことがある。さらに生命の活動を観察する機会を得ることができなかった人にも、感情についての総合的な見通しを持つことは難しい。実に感情の研究は人間だけでなく生命全体の認識を必要とするのである。

 感情は、基本的に反応であり単細胞の活動様式に起源をもつ。単細胞は環境の物理化学的刺激に反応するが、高等動物においても物理化学的刺激(光・音・臭い等々)は生理的身体反応として表出される。恐れや不安、快不快等の基本的情動はすべて身体反応である。

 感情の研究の困難性は、身体的動物的反応としてはそれほど問題とはならない。問題になるのは人間の感情である。動物では感情・情動の反応は正常な自然環境の元では持続的ではない。もし動物園などで持続的な不快状況(ストレス)が持続すると、食欲や活動力・免疫力が衰え死に至る場合が多い。しかし、人間の場合は、様々な感情が重複し、生活経験に伴う膨大な知識と共に記憶され、しかも不快な感情は無意識下に抑圧され病的に発現する場合も多い(精神病、神経症等)。仏教の創始者釈尊が分析したように、通常(在家・世俗)の人生は快適に感じることよりも不快(苦)に思うことの方が圧倒的に多い。釈尊は基本的な人生苦を、生物的な生老病死と求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、怨憎会苦(嫌な人に出会う苦しみ)、愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)、五蘊盛苦(心身の活動が盛んになる苦しみ)の8種に大別したが、いずれも強い否定的感情を伴うものである。これらは動物では一時的なものであるが、人間では否定的な複雑感情として生活に彩りを与えるものとも言える。

 以上のような<快と不快の感情>は、何らかの状態(刺激)に対する自動的評価反応であり、一般的な感情の分類である。しかしわれわれは、これらの分類に加えて、人間の構想した願望や目的・信念などを積極的に支え実現するエネルギー(パワー)としての<意志的感情>の存在を提案する。

 古来日本では、人間の心(精神機能)を「知・情・意」と分類・表現しそれらのバランスを重視した。つまり知性・感情と意志とは性格の異なるものとしながら一体のものとしてとして捉えられていた。ではなぜわれわれは感情の中に意志的なものを含めることにしたのか。それは意志という“ある目標を実現しようとする心的状態”には、感情反応が含まれていると考えるからである。意志は高等哺乳類にもその基盤はあると思われる(特定の欲求実現に時間をかけてその狙いを持続させる──習慣ではない)が、人間の知性的行動において最も端的に現れる。知性によってめざす目標を定め、意志の力によって実現する行動様式は人間に特有のものである。例えば、知性的に欲望を抑える場合や目標を実現しようとする場合、「意志の力で」とか「意志を固める」「困難に立ち向かう」のような表現をする。それと同時に、気持ちを引き締め筋肉を緊張させ、襟を正し、「よし、やろう」「ファイト!」等の身体的内言的行動をとり、感情を内的に高揚させるのである。この場合の身体的心的反応は、<快と不快の感情>とは明らかに異なるものである。人間の心を「知・情・意」に分類することは科学的根拠を持つが、このように意志を推進する感情を分離することも必要なのではあるまいか。

 それなら知性・思考にも感情が含まれるのではないかと問われれば、そのとおり、<快と不快の感情>に含まれると答えることができる。つまり、知性・思考は<快不快の感情>に支えられ、意志・願望は<意志の感情>に含まれるのである。別言すれば、快不快の感情(反応)が知性・思考を機能させて問題状況を知的に解明し、それに従って(その反応によって)<意志的感情>が生起し問題解決行動や願望実現行動が持続的に進められるのである。『情念論』を心身二元論にもとづいて論じたデカルトも、意志と情念の区別を主張しながら「情念を精神の情動(des émotions de l'âme )」(『情念論』28節)と呼び、「意志は、精神に関係する、精神の情動と呼ぶことができる。」(『情念論』29節)と述べているように、意志は情念(des passions de l'âme)の一種であると考えていた。

 哲学者の西田幾多郎は、禅の精神統一の境地に、「知情意」の統一(純粋経験)を想定したが、感情は知性にも意志にも含まれているのである。

 「元来我々の意識現象を知情意と分つのは学問上の便宜に由るので、実地においては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡てこの方面を具備しているのである(たとえば学問的研究の如く純知的作用といっても、決して情意を離れて存在することはできぬ)。しかしこの三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理学者のいうように、我々の意識は始終能動的であって、衝動を以て始まり意志を以て終るのである。それで我々に最も直接なる意識現象はいかに簡単であっても意志の形を成している。即ち意志が純粋経験の事実であるといわねばならぬ。」(西田幾多郎『善の研究』青空文庫 第三章)

 人間の感情を、動物の感情と比較するのに<外的刺激><内的刺激>を分類したが、反応ではなく、感情の原因となる刺激の違いによって分類することもできる。内外の刺激のうち生理的刺激は、空腹や満腹、外傷や病気などに伴う刺激で、快や不快の感情をもたらす。例えば、空腹時の食事は強い満足感をもたらし、病気による高熱は、恐怖や不安の感情を引き起こす。また<内的刺激>のうち想像・想起的刺激は、おそらく人間特有の刺激であって過去の出来事や想像に伴う感情と共に記憶された表象が刺激となるものである。天国・極楽や地獄、まだ見ぬ人への憧れ、勝利や失敗への思いなど、想像をめぐらせると快や不快の感情を伴って心中を去来する。また思い出し笑いや初恋の淡い思い出などは幸福感で満たされるものであるが、親しい人の喪失、嫌な思い出などは無意識下に抑圧され神経症の原因となる場合も多い。しかし、刺激による分類は、感情の原因となる刺激の質や違いを明確にするものではないのでここでは扱わない。なお、楽しみや自尊、当惑や恥辱、期待や信念等の高度に人間的な感情は、文化や伝統(刺激)の違いによって大きく異なるので、どのような刺激がどのような感情反応をひきおこすかは、文化人類学的に極めて重要である。

 なお、意外な対象や情報についての「驚き」の反応を、情念や感情に含める場合がある。しかし、我々はこれを感情の分類には含めず、個別の具体的感情として認知される直前または感情に伴う意外性の表現(形容)であると考える。例えば、突然、思いがけなく喜びや怒り、不安や恐怖、悲しみやおかしさ等々の「快や不快感情」が引き起こされる場合の生体反応が「驚き」である。だから、「突然の喜びに驚く」とか「驚き怒る」「突然の物音に驚き不安になる」「訃報に驚き悲しむ」等々のような表現が可能になるのである。単に「驚く」だけでなく、何に対してどのように驚いたのかは、動物の死活問題である。このように、驚き(ショック)反応は、一時的なものであるが、原因となる刺激がどのようなものであるか認知(無意識もありうる)されると、それに応じた様々な感情に分化していく。予期せぬ(意外な)ことが起こると、ハッとするが、これが驚きである。その出来事の意味が分かると、笑ったり恐怖におののくことになる。初めから恐怖の感情が驚きを伴うこともある。

 デカルトは『情念論』において、「驚き」を情念(知覚、感覚、情動)の筆頭にあげた。彼は人間の構造を、精神(思考)と身体に分離し、両者のうち精神の機能は受動(情念:邦訳による「情念」とは「精神の受動」Les passions de l'ame である)と能動(意志)があると考える。精神にとっての受動(passion)は、苦しみ、受難の意味があるが、この表現は西洋思想にとっては実に深い意味をもっている。デカルトは心身二元論の立場であったが、両者の相互作用の構造と意志(能動)による情念(受動)支配の解明が『情念論』の課題であった。デカルトの考える「驚き(L'admiration = 感嘆)」が、不意打ち的な驚き(surprise)ではなく、“感嘆”する意味の驚きである(注)のは、情念が精神の受動(受難)であるのと深い関係がある。つまりデカルトにとって情念とは、受動的な受難ではあるが、意志の能動的な力によって克服されるべきもの(受難の克服=驚き=感嘆)と考えられていたのである。ギリシャ思想以来、感情は精神を動揺させ狂わせる否定的なものとして捉えられていた。しかし感情は肯定的なもの、必ずしも支配押し克服するべきものではなく、肯定的感情のように求めるべきものもあるのである。

 情念(知覚を通じた情動反応)は、我々の考える情動や感情とやや異なる概念であるが、まずは「反応」であった。そして、反応は決して受動的(刺激受容)なだけでなく、「快を求め不快を避ける」ような能動的判断や行動を含むものである。情動(感情)自体が、肯定・快と否定・不快との感情反応に分離して表出されるのは。両者の反応それぞれに具体的な接近と回避の反応行動が予定されているためである。

(注1) 「それ(驚き)は、対象が私たちに適したものであるかそうでないかまったく分からないうちに起こるので、驚きはあらゆる情念のうちで最初のものと思われる。」(『情念論』53下線部引用者)
(注2) 「驚きは、精神の受ける突然の不意打ちである(L'admiration est une subite surprise de l'âme)。それは、例がなく異常に見える対象を精神が注意深く考察するようにさせる。」   (『情念論』70)

 肯定的感情:                                                 
  [一般的感情] 快,満足,自由,安心,喜び,楽しみ,おかしさ等、生命活動一般について   
  [社会的感情] 連帯,愛情,保護,優しさ,安全,解放,感謝等、自然や社会環境一般について  
  [優越的感情] 優越,自信,自尊,勝利,所有,支配等、個別的対人関係について        
 否定的感情:                                                  
  [一般的感情] 不快,空虚,不安,悲哀,恐怖,当惑,失望、疲労等、生命活動一般について  
  [社会的感情] 孤独,憎悪,怨恨,怒り,嫉妬,閉塞,負債等、自然や社会環境一般について  
  [劣等的感情] 劣等,不信,自虐,敗北,拘束,恥辱,罪悪等、個別的対人関係について    
 意志的感情:                                                  
  好奇,希望,期待,意欲,信念,義務,正義,挑戦、退行等、主体的な困難解決について   
  (自己の意図や目的、欲求や希望を実現するとき、実現したときの感情、充実感・達成感) 

                                                   2013/12 改訂
感情分類の説明

<肯定的感情>


 肯定的(ポジティブ)感情は、快楽・快適・安心を感じさせる感情である。多くは欲求が実現されたとき生じる反応であるが、欲求不満すなわち否定的感情(緊張・不快)状況が終結し解放された状態になっても肯定的感情が起こる。例えば、食欲が摂食によって充足された場合、肯定的感情が生じるが、空腹による不快が解消されたということでも、(単なる食欲充足以上に)快適感情が生じる。不快状態は生命にとっての危険信号であり、不快を避けること自体も欲求であるが、欲求それ自体は感情を喚起するものではない。また接触や性的刺激、甘味刺激は快感をもたらすが、それは単なる生理的快感であって、肯定的快感情となるとは限らない。肯定的感情の内的生理状態は、副交感神経が活発になり身体的緊張が弛緩しリラックスした状態になる。また性的欲求においては、異性間の恋慕の状態から接触・性交にいたって快感情の高まりがあり、オルガスムスで頂点に達しリラックス状態となる。

 意志的感情との関係では、肯定的感情が刺激に対する解放的反応であるのに対し、意志的感情は個体の欲求(目標)実現への意志や意欲から来る緊張した感情である。優越的感情は、肯定的感情と意志的感情が同時に高められるとき増大し、行動の力となる。

 社会的感情は、類人猿でもよく発達していることが観察されている。チンパンジーでは外敵に対して連帯感を発揮するし、群れの秩序が保たれている限り愛情や保護・同情・共感の感情も発達している。しかし、主導権をめぐっては厳しい対立があり、群れの中での優越感や自己主張、騙しあいや駆け引きも見られるようである。人間の社会的感情は、仲間の中では肯定的なものは平和や友好的な関係、自己の安心が担任と共有できる場合、相互の了解のもとでの自由で開放的な気分が支配する。文化的環境の相異が社会的感情に影響を与えることもある。例えば、封建社会の陰鬱な感情の支配よりも、画家ゴーギャンが愛した南海の楽園タヒチの社会の方が肯定的感情が発達している。愛情のうち性愛と母性愛は、特定の異性や乳幼児の存在を前提とする強い反応であるが、一般的に愛情は、社会的影響を受けやすく、家族愛や友情、同志愛を含めて期待や信念・義務など意志的感情を伴っている。

 優越的感情は、社会的なものが主たるものであるが、競争社会の中で有利な立場を獲得する感情である。社会的感情に対して個人的感情である。自信や勝利、所有や支配などは、快や喜び、自由など一般的な感情や安全や解放感など社会的感情を伴って表出される。優越的感情は劣等的自虐的感情と表裏の関係であり、サディスティックな感情としても捉えられる。

 また肯定的感情には社会的優越的感情を含めた総合的感情として宗教的感情がある。世俗や在家から出離することによって(宗教家だけでなく一部の芸術家や学者、専門家、職人なども含まれる)特定の目標や境地に没入することのできる人たちは、精神的な満足(自由、喜び、連帯、解放、勝利、崇高等)の感情を得ることができる。


<否定的感情>

 否定的感情は生命の生存を脅かす刺激に対する不快な感情反応である。生体に耐えがたいストレスを強いるとともに、ストレス状態からの脱出の行動(退避・防衛、摂食・攻撃)が準備される。生命は、基本的に生命状態の断絶(死)の危機を伴って地上に誕生した。生命活動は、内的には恒常性の維持、外的には個体の安全性が危険にさらされると、その反応として不快な否定的感情(ストレス反応)が起こり、その解消のための行動が喚起される。否定的感情は、それをひきおこす危機状況を認知して適応的行動をとるための身体反応であるが、問題状況を解決できない場合、その否定的感情は無意識下に記憶され、心身に悪影響を与える。多くの場合抑圧された無意識的反応として神経症や心身症などの病気の原因となる。精神分析治療を創始したフロイトは、乳幼児期の葛藤や願望が抑圧され無意識の心的世界を形成し、機会あれば病的状態を生じさせると考えた。しかし無意識の形成が性的原因に偏り、その背景にある否定的感情全般の原因まで究明することには失敗した。動物(人間)が、生命に危険が及ぶような嫌なこと(問題状況)に直面する(想起する)と、適応的に解決しようとするが、解決(判断)困難な場合パニックや退行のような病的状態に陥るのは生物学的な事実である。

 一般的感情として基本的なものは、不快と不安の感情である。不快は単に欲求が充足されない状態の感情であるが、不安は心身に支えをなくすような感覚であり、恐怖のような対象はない。乳児が母親の胸からおろされるとき、エレベーターで下降するとき、睡眠からさめて自分の所在を失ったとき、人は不安を感じる。これは物理的感覚であるとともに、愛する人を失ったときや人生の目的がつかめないとき、人は空虚な底知れない不安を覚える。人間心理を分析したプラトン、アリストテレス以来の西洋の思想家は、不安の感情について関心を持つことがほとんどなかった。キルケゴールが「無が不安を生む」(『不安の概念』)と言ったのは、人間心理への新たな洞察であった。当惑と失望は、問題解決の方向性が見えない状況、期待との乖離の場合に起こる感情である。当惑よりも失望のダメージが大きい。当惑はまだ解決の余地があるが、失望には選択の余地がない。

 快感情と不快感情の関係について、前節で引用したフロイトやマレーのように、快は不快の解消・低減状態であり、不快の方が快よりも生存にとって重要であるという主張(緊張低減動因論)がある。「苦(不快・緊張)あれば楽(快・解放)あり、楽あれば苦あり」という表現は、苦楽相対的であることを意味しているが、前者「苦があるから楽がある」を優先する考えである。例えばデカルトは『情念論』で次のように述べている。
 「精神が、身体を害するものについて直接に知らされるのは、精神の持つ苦痛の感覚によってのみで、この苦痛の感覚は、精神のうちに第一に悲しみの情念を生みだし、つづいて第二にその苦痛を引き起こすものへの憎しみを、第三にそれから遁れようとする欲望を生みだすからだ。・・・・・さらに、悲しみは、ある意味で第一であり、喜びよりも不可欠である。そして憎しみは愛よりも不可欠である。なぜなら、害となり破壊するかもしれないものを斥けるほうが、なくても生きていけるなんらかの完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。」(デカルト,R.『情念論』2008 p115 下線は引用者による )
 だが、「悲しみ(憎しみ・不快)が、喜び(愛・快)よりも不可欠である」というのは正しくない。喜びは、「完全性を加える」ものではなく、生存のための必須の反応結果である。生命の誕生そして生命の存続は、快適さや喜びではないのか。生命の積極的活動が肯定的なものでないなら喜びや楽しみなどの感情を感じられることの意味は何であろうか。確かに生きることは困難であり個体の死は避けることはできない。しかし喜びは、生きること・欲求実現の結果であり、欲求が実現されないところに生存の持続はない。食欲や安全の欲求が充たされ、性的満足が実現して喜びや愛が得られることは、持続的生存のためになくてはならない自然的条件である。肯定的感情と否定的感情は、自律神経系における交感神経と副交感神経のように両者拮抗して適応的行動がとれるのである。

 自然現象の脅威になすすべを知らず、戦争や強欲、強権や圧政、欺瞞や背信等々、現世の人間とその人生を否定的に捉え、肯定的感情よりも否定的感情打ちひしがれた先史時代からの伝統は、強弱はあっても過去のすべての文明に共通している。自然災害や病気、食糧不足や利害対立そして死への恐怖等の原因究明と問題解決の困難さに対し、先史未開の人類は、呪術、祈祷、タブー、犠牲、祭祀、儀礼等による和解や融和、欲求や願望の実現を試みた(原始宗教:アニミズム、シャーマニズム、トーテミズム)。ようやく文明とされる時代が到来し、世界を主宰する神々の物語(神話による世界解釈)──すなわち言語による世界の合理化が行われるようになって、自然や人間の不可思議な事象に対する原因とその対処法が体系づけられるようになった。その内容は、すべての民族文明における多神教(ギリシア・北欧神話、インドのベーダ、中国神話、日本神話等々)からユダヤ・キリスト教とイスラームの創造神と原罪説、仏教の四諦説に到るまで、否定的感情を肯定的・意志的感情に転化しようとするものであった。人生において不可避の否定的感情の生起は、宗教の姿をとって低減・回避する必要があったのである。「ヒトはパンのみにて生きるにあらず、神の口から出るすべての言葉によって生きる」(『申命記』8-3)というのは、神に仮託してモーセがイスラエルの民に告げたものであるが、「言葉によって生きる」というのは人間存在の真実の一部を述べているのである。宗教と感情の関係については後の章に詳説する。

 否定的感情が、人生を肯定的に転化させることについて、もっと身近な例を考えてみよう。異性に対する恋慕の情は、美しい肯定的な感情であるが、相手に気持ちが伝わらないときの悲哀の情(失恋の反応感情)は否定的感情である。しかし、否定的感情はしばしば詩や音楽(文学や芸術)の創作のテーマとなってきた。

異邦人-シルクロードのテーマ 久保田早紀 作詞/作曲
♪子供たちが 空に向かい
 両手をひろげ 鳥や雲や夢までも
 つかもうとしている その姿は
 昨日までの 何も知らない私
 あなたに この指が届くと 信じていた

♪空と大地が ふれあう彼方
 過去からの旅人を 呼んでる道
 あなたにとって私 ただの通りすがり
 ちょっとふり向いてみただけの異邦人


 この大ヒット曲となった歌(詩)は、オリエンタルでもの悲しい旋律の曲にのせて、シンガーソングライター自身が、透明で澄んだ声で歌ったものである。詞と曲、そして歌声は一体のものであるが、あえて詩だけについてみてみよう。主題は失恋、そしておそらく片思い。純真であった子どもが、異性に目ざめ思いを寄せる人にめぐりあう。誰もが経験するだろうあの狂おしい恋愛感情、そして恋愛感情から派生する憧れ、夢、永遠の感情等は青年(少女)の心を虜にする。恋愛感情は至福の肯定的感情であるが、憧れや夢は生命の存続(生殖欲求)につながる意志的感情である。しかし、幸運な恋愛と憧れの成就は、異性の同意と共感を必要条件としている。同意がなく失恋ともなれば、思い(恋愛感情)が強いほど、絶望と悲哀、不安と卑小感によって傷心し落ち込むことになる。不幸な行き違いがある場合には、怒りや恥ずかしさという否定的感情に襲われるかも知れない。

 ではこの詩は何を表現し、作者は何を語ろうとしているのだろうか。真実は作者のみが感じ知るものであるが、おそらく作者は、失恋(片思い?)の悲哀を救済(何かへの信仰)の感情に転化(昇華)していると思われる。そのことは自分を異性にとっての「異邦人」、何かに憧れ何かを求めて悠久のシルクロードを旅する人と捉えていることからも理解できる。この場合、異性からも「異邦人」と思われていること、単なる通りすがりと自己規定していることを考えれば、作者にとって求めるものは異性ではなく、もっと永遠なものだったのではないだろうか。この歌(詩)が生み出す感情は、深い悲哀の否定的感情であるが、同時に、何か永遠なものに憧れ信仰に救いを求めようとする意志的感情を内包している。

 否定的感情は、悲哀であれ、憎悪であれ、不安であれ、屈辱であれ人間の行動を動機づけ、古来多くの創造的活動を生み出してきた。屈原や司馬遷の屈辱、法然の悲哀、マルクスの怒り、キルケゴールの不安、野口英世の劣等感等々歴史上の偉人で、幼少時の傷心の経験や青年時代の正義感、信念への妨害等から生じる否定的感情を持続させ、これを意志的感情に転化し、創造的偉業を成し遂げた人物は数知れない。実に感情こそが言語的知性を活性化させ、人間行動の推進力となるのである。

<意志的感情>

 われわれの知る限り、意志を感情に含める研究はない。感情分類の意義において述べたように意志は欲求にもとづく快・不快の反応でなく、快不快の評価的反応を越えた人間的な知性にもとづく、希望・願望・決断・命令・信念・努力という積極的な意識にもとづく感情である。意志は類人猿にもその兆候が認められるが、全面的に明示化されるのは意志的計画的(言語的)目的性をもつ人間の行動に特有のものである。従って意志的感情とは、そのような言語的意志的行動に伴って生起する感情である。感情はすべて反応であるが、意識的感情もまた知性的・知識的背景(知識。情報は反応を導く刺激である)を持つ身体的生理的反応である。ただその反応は目的性に支えられた積極的反応であり、快を求め、不快や苦痛に挑戦し克服することのできる持続的反応であるということができる。

 まず「好奇」の感情は、好奇欲求に由来している。知的探求には独特の高揚(わくわく)感があり、これを快感情と捉えることもできるが、基本的に自己保存・安全確認の欲求に伴う意志的感情である。希望や期待も快感情を伴うが、現実の刺激に伴うものではなく仮想的なものである。飼い犬が主人の愛情やエサを期待する行動をとるが、これは主人の直接的存在が前提となる。次に、「意欲、信念、義務、正義」は、積極的な生き方や価値観を内容として含んでいる。どのような意欲か、何に意欲を感じているのか、それは単なる欲求ではなく、「社会貢献できる仕事がしたい」とか「成果を上げて認められたい」のように、「社会貢献」や「成果」に対する知的理解や目標が前提となる。これらの感情は、自由や安全、自信や勝利など肯定的感情と結びつくが、消極的受動的(passive,negative)なものではなく、積極的能動的(activ, positiv)なものであって、内容はどうであれ道徳的感情とされるものである。次に「挑戦」は、前著では「戦い」としていた意志的積極的行動を実行する感情であるが、「意欲」よりも活動的で、受験への挑戦から暴力的戦争まで幅が広い。

 「退行」は、精神分析上の用語で、何らかのストレスに耐えられず、幼児期の状態に逆戻りすることである。一般的に退行は無意識に起こる否定的病的なものが多いが、ストレスの解消や創造的活動のために意図的肯定的に行われることもある。否定的な場合は、自己自身の閉ざされた世界への執着や閉じこもり等のような病的な感情である。欲求不満やストレスによって憎悪や不信等の否定的感情が蓄積すると、適応機制が不可能となって神経症的症状が起こり、否定的な意味での意志的目的的行動となるため意志的感情に含めるのである。

 意志的感情は、祈りや詩歌、命令や決意の表明等に典型的に表れる。次のような例示は意志的感情を示している。あなたはどのような感情を経験されるだろうか。できる限りリズムと抑揚を付けて読んでいただきたい。

① 熟田津(ニキタツ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は 漕(コ)ぎ出でな
   額田王『万葉集』
② 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
                          式子内親王『新古今和歌集』
③ 諸々の禍事(マガコト) 罪穢(ケガレ)有らむをば 祓(ハラ)へ給ひ 清め給へと白(マオ)す事を 
 聞食(キコシメ)せと 恐(カシコ)み恐みも白す。               『祝詞』
④ あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の 苦労は、その日一日だけで十分である。   『マタイによる福音書 6-34』
⑤ 子曰わく、内に省(カエリ)みて疚(ヤマ)しからずんば、夫(ソ)れ何をか憂え何をか懼(オソ)れん。
     『論語 顔淵編』
⑥ 我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶ るべからず。                         日蓮『開目抄』
⑦ 民を殺すは國家を殺すなり。法を蔑(ナイガシロ)にするは國家を蔑にするなり。皆自ら國を毀(コ ボ)つなり。財用を濫(ミダ)り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何(イカン)。
          田中正造『亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問』

【欲求と意志と感情

 自由意志によって──すなわち動物的行動の原則を越えた知的・観念的目的によって、自己の行動をコントロールすることができるのは,人間独特のものである。意志(will)は、他の動物にも認められる(類人猿の欺き行為等)が、基本的には人間に特有のものである。人間は欲求を充足する行動において、単純な刺激反応性(生得性)を越えた意識的目的的行動すなわち意志的行動をとるが、その行動を導き支えるのが意志である。

 つまり、意志とは、直接的な欲求の充足ではなく、間接的に目的を定めて欲求実現の行動を促す意識(脳内の変化)である。例えば、目の前のリンゴをとって食べるというのは、単なる直接的な欲求の実現(充足)・刺激に対する反応であり、意志的行動とはいわない。しかし、リンゴを食べたいが、目の前にリンゴがない場合、果物屋まで買いにいくか、リンゴの木を育てて実らせる以外に方法はない。買い物に行ったり、木を育てることは意識的目的的行動であるが、この場合意志の働きが必要になる。チンパンジーが、自然状態で石の道具を使いクルミの殻を割って食べようとするのは、生得的な行動ではなく意識的目的的にエサを得ようとする意志が働いているということができる。しかし類人猿は、クルミや石という対象を目前にすることなく、脳内だけで表象として再構成することはできない。人間でも条件反射的な無意識的行動をしている場合は意志の働く必要はない。例えば、車の運転自体に意志の働きは必要なく、目的地・時間に注意し、安全運転などを意識的に行えば意志を働かせていることになる。

 肯定的・否定的感情と意志的感情の関係は、デカルトの言葉で言えば、前者は受動的な身体的精神的反応であり、後者は前者の感情をある程度統制することのできる精神的(言語構成的)精神活動である。友人の健康を喜んだり、親の死を悲しむのは人間の自然な感情であるが、その喜びを抑制したり、悲しみに耐えてさらに精進しようとするのは、人間的欲求(目標や願望)を実現しようとする希望や期待、挑戦等の意志的感情である。欲求と意志と感情は、人生の目標や人間関係の中で密接に関係し、人生を複雑で豊かなものにしていくのである。