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まとめ(1)からつづき

[47]宗教批判と道徳の再建・創造(1)宗教一般について 管理人 
[48]宗教批判と道徳の再建・創造(2)キリスト教について 管理人
[49]宗教批判と道徳の再建・創造(3)仏教について 管理人>
[50]宗教批判と道徳の再建・創造(4)大乗仏教について 管理人
[51]宗教批判と道徳の再建・創造(5)大乗仏教について  管理人
[52] 今年も疑問がいっぱいです。よろしく。 平成の閑人 
[53] CHANGE(変化)だけでなくREFORM(変革)を 管理人
[54] 仏教の現代化・科学化のポイントは 閑人
[55] 仏教の現代化(ポイント) 管理人


[47] 宗教批判と道徳の再建・創造(1)宗教一般について 管理人 Date:2008/12/07(日)

 閑人さん、難しい話にお付き合い下さりありがとうございます。当初はやさしくと考えておりましたが、問題が難しくどうもうまくいきません。金融危機はなぜ起こったのかという具体的な問題ならもう少しやさしくなるのでしょうか、誰もがわかっていることですから。

 今回は9月12日の質問の返答です。問は「過去の道徳における論理(例えば宗教的背景をもつもの)は、一面的真理はあるものの
現代の心理的諸科学(生物学・生理学・脳科学・言語学等)によって検証されなければなりません。」についてどういうことかでした。話題は全面的に変わります。まず結論から言えば、「言語論の革新」の立場から、まず「宗教心理学」と「臨床心理学」を全面的に見直し、宗教における「救済」と「解脱」、「愛」と「慈悲」の観念を科学的に再構成すること、そしてその基礎の上に、「公正と正義」を実現できるより透明性のある道徳的人間関係(社会共同体)を築く必要があるということです。具体的には掲示板の域を超えますので、一つの思考実験(理想の創造)として簡略(?)に述べてみます。

 今日の思想状況は、まさに混迷の状況です。百家争鳴と言うより地球的限界が明らかになり、世界的にも日本的にも過去の宗教、哲学、倫理などは単なる装飾品のように扱われ、落ち着いた精神性のある風景はほとんどありません。神社仏閣教会など宗教的な聖なる空間は、一時的な慰めの場所で、家の中のテレビの風景や繁華街、ショッピングセンターでは、刹那的な欲望を満たす享楽的笑顔(または悲しみ)であふれています。そんな中で今更宗教や道徳など必要ないと思われるかも知れません。

 すでに
過去の宗教は、文化的伝統の力は持っていても、現実には科学的知識と物質的豊かさによってその存在意義を失っています(少なくとも日本では)。それにもかかわらず人生における問題の解決は、宗教的な解決、すなわち精神的な癒しや生き方、道徳の意義づけ・根拠を必要としています。

 我々は、過去の宗教の限界を明示し、宗教的文化遺産を現代と未来に生かす道を見いだす必要があります。今日では、宗教は結婚式や葬式などの行事や儀式、観光名物としての価値しか認められなくなっています。しかし、自然消滅させるにはあまりにも惜しいものがあります。
「伝統」は明らかに良いものと悪いもの(有益と無益)があり、我々は良く吟味して未来に生かす道を探らなければなりません。

 宗教や哲学は、人間存在とは何かを追究してきましたが、すべての探求の欠陥は
言語論の意味づけの失敗に起因します。私の立場は、今まで人類が成功できなかった人間存在の根源を言語の解明に求めます。言語の解明は、生命存在の解明に依存しますが、その説明は別項にゆずり、言語を基準に3つの宗教の根源的な誤りを指摘し、今後の宗教ないし哲学再興の基礎造りをしたいと思います


[48] 宗教批判と道徳の再建・創造(2)キリスト教について 管理人 Date:2008/12/07(日)

<キリスト教の言語論的批判> 

 まずキリスト教の起源であるユダヤ教の『旧約聖書』の「神」概念と言語の意義についてです。ユダヤ教の神は、万物の創造神ですが、その創造物としての
旧約聖書の世界は、人間の構想(創造)力の産物です。「人間とは何か」を問うことは、科学的進化論が確立するまでは、神の創造物と考える以外ありませんでした。また、人間は進化の産物としても、さらに今日では、生命の起源や元素の起源、地球や宇宙の起源を追求しています。しかし、言葉とは何か、言葉の起源は何かを考えると、我々の頭脳(中枢神経系)の中に構成された知識や思想内容を考えざるを得ません。この点は私の「言語論」ですでに述べているように、「何がどうあり、どのようにすべきか」という「疑問の形式」が言語(的表現)の起源であるということでした。

 唯物論では古くから、「神」は人間の観念の産物であり、「宗教は民衆のアヘンである」(マルクス)として「観念論批判」を展開してきました。しかし、
観念そのものの起源が言語(的構成・創造物)にあることを見破ることはできませんでした。そのため、神が観念の産物であることを指摘しても、人間そのものが言語的観念的存在(世界を合理化する存在)であること、すなわち唯物論そのもの(知識や理論)も観念の産物であることを理解できず、マルクス主義理論のように、自己の理論を、科学(的法則)の体裁を取りながら絶対化するという過ちを犯してきたのです。

 言語論の洗礼を受けた我々は、科学的法則を含めて、
人間の知識や理論が、認識の対象の単なる反映でなく、人間の観念の選択や構成や創造によるものであることを自覚する必要があるのです。その上で、あらゆる知識や理論の再構築をしなければならないのです。つまり、世界中のあらゆる神々は、人間の観念の産物であり、神の存在を合理化(正当化)する哲学的理論的部分は、科学的には成立し得ないのです。しかしこのことは、神という虚構を中心にして構成された宗教が、人間の不幸を軽減し苦しみから救済したという事実(逆の事実も多い)を否定するわけではありません。つまり、宗教ないし宗教的世界観は、善にも悪にも、正義にも不正義にも、自らを正当化するために都合よく利用されてきたのです。  (ここ参照)
                                                      


[49] 宗教批判と道徳の再建・創造(3)仏教について 管理人 Date:2008/12/07(日)

<仏教の言語論的革新>


 私は仏教徒であることを自認していますが、
釈尊(釈迦)のような解脱(ブッダになること、生死を超えること)は実現できません。私には出家はできないし、輪廻や死後の世界を信じることはできません。仮に多くの人間が出家を志せば、地上における生物的生存が不可能となります。釈尊の目ざしたものは出家することによる解脱であり、在家の人々の人生への配慮は十分ではありません。当時のインドにおける宗教的解脱の修行者(バラモン)の目標は、私にとっては実現不可能な極めて目標の高いものです。

 それでは在家信者の救済を目標に創始された神秘的な大乗の教義(般若経、華厳経、法華経、阿弥陀経等々)が、科学的合理的批判に耐えられるかというと多くの問題があります。色即是空や一念三千、極楽往生や菩薩信仰など、仏教になじみのない人にとっては容易に理解しにくい発想があります。自力救済(解脱)が困難なために、菩薩(救済援助者)の慈悲にすがりたい衆生・凡夫の気持ちや願望に応えようとしているのはわかりますが、釈尊の的確な心理分析と比べると
神秘性(菩薩信仰)や依存性(他力本願)に頼り、合理性を低下させています。このことは、釈尊の本来の教えである自力救済による自己の欲望・執着の抑制や努力が軽視され、東洋的融和の精神にもとづく甘えや直観性・依存性・忍従性に合致しているとも言えます。

 それにもかかわらず
釈尊の思想(原始仏教)と大乗の精神に未来を託したいのはなぜでしょうか。それを明らかにするためには、人間存在についての今日的な知識を活用して、仏教の根本原理を批判的創造的に解明する必要があります。

 まず人生苦と知識(無明と明知)の関係を見てみます。
 「『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。・・・・・・・・
 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永い間このように輪廻してきた。しかし明知に達したいける者どもは、再び迷いの生存に戻ることがない。」((『ブッダのことば 728-30』中村元 訳))

 仏教の根本原理に、「四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)」または「四諦(苦集滅道)説」というのがあります。これらの原理が人生(人間存在)をどのように捉えているかは明確です。釈尊は人生を、「一切皆苦」「四苦八苦」とみなし、その原因を「無明(根本無知)」にあると考えます。人は「無明」によ(縁)って物事に執着し(起)、苦しみの生存から解脱できないのです。従って
「縁起の法」を学び明知を得て、出家と修行(八正道)によって苦しみの連鎖から解脱し、永遠の平安(涅槃・ニルヴァーナ=究極の精神的快楽・幸福)を得ることを勧めます。

 「人々は『わがものである』と執着したもののために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものは変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。」(『ブッダのことば 805』中村元 訳)
 「自ら道を修して完全な安らぎ[ニルヴァーナ]に達し、疑いを超え、生存と衰微をとを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼし尽くした人、──彼が<修行僧>である。」(『ブッダのことば 514』)
 「この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩を伴っている。生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。」(『ブッダのことば 574-5』)

 しかし、
人生は本当に「一切皆苦」なのでしょうか。人生が苦しみ(煩悩)の連続であることは了解できますが、すべてを苦しみと考えることは真実でしょうか、それとも「方便」として理解するべきなのでしょうか。私は、人生とは「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」というのが正しく(より厳密には「苦主楽従」)、苦楽の評価(価値観)は、個々人の人生観そのものであると考えています。そして、精神的な快楽、持続的幸福の追求こそ個人と社会の平和的存続に必要なものでではないでしょうか。また、今日のように物質的に豊かな社会で、過去の宗教が時代錯誤に陥り、人心から離れていくのは、幸福な生存の本質的理解を怠っているために、この科学技術の時代に対応できていないのではないかと考えています。(ここ参照)

 釈尊は、「涅槃の状態」を、苦の生存(輪廻の苦しみ)からの解脱と考え、単なる現世的(物質的)快楽とは考えていません。しかし私は、「涅槃」を
人生の究極の精神的快楽(持続的幸福・安らぎの境地)と考えます。そしてこの快楽は、出家によらずとも、また地獄や極楽を想定しなくとも、在家のままで幸福を持続させるために人間心理を正しく理解し、自己を見つめ精神集中の修練をすることによって可能なのです。釈尊は、現世と欲望に執着しないことが「涅槃」に至る道であると説きますが、涅槃獲得への希望を持ち、それに執着・集中すること(涅槃への希望=執着)もまた心の平安をもたらさないでしょうか。<つづく>


[50] 宗教批判と道徳の再建・創造(4)大乗仏教について 管理人 Date:2008/12/17(水)

 (承前)釈尊の求めた
「解脱・涅槃」という「希望と幸福」(への執着=幸福への希望)は、今日から見ると人間存在への科学的知恵、すなわち人間が「言語」を持つことによって創造的存在になったという知恵(縁起)を欠いていました(無明)。そのため、解脱や涅槃、地獄極楽、輪廻転生が人間の創造世界であることを知らず、虚偽の希望と幸福を求めることになったために、在家における現世利益(物質的ではなく精神的な利益──希望と幸福の獲得)的な宗教・道徳にはなり得なかったのです。当時のインド的思想状況においては、持続的な幸福を求めようとした人々(バラモン、道の人)の目標は、輪廻の苦しみ(人生苦)からの解脱にあったのでやむを得ないことなのですが、今日における「縁起の法」は、「言語論の革新」と人間心理(欲望と感情)の科学的分析(参考 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html )を踏まえた根本的な改変が必要なのです。つまり、釈尊の求めた道(完全な安らぎ、涅槃、持続的幸福)が、現代的知識のもとに人間の目標となる時、真の平和が地上に実現すると思いたいのです。
 以上は釈尊の基本的な思想(原始仏教)を中心に述べたものです。次に大乗について述べてみます。

<大乗教典の限界>
 大乗仏教は、出家を前提とした釈尊の解脱(自力救済)の教えが、在家の衆生にとっては困難な課題であるため、その限界を乗り越えようとして成立しました。釈尊の教えは正しいが、直弟子(阿羅漢)や後継者が在家の一般信徒たちを見下したり対立を引き起こし、形式に偏り、知的で厳格すぎて民衆にはわかりにくいものになりました。そこで、釈尊の教えは、本来すべての生命(衆生)、民衆の救済にむけられるべきであるので、
自力(出家)救済を説く釈尊を絶対化し、自己の解脱よりも在家の信徒の解脱を優先する「菩薩」の役割を重視する教団が作られ、自らを「大きな乗り物(大乗)」と称しました。

 また「大乗」にふさわしい
哲学的世界観として「空観」理論が構築されました。それは『般若心経』の「色即是空」にみられるように、「縁起の法」(因果的論理)を神秘化して、すべての物事は独立的に存在するのではない(無自性)から、対立的事象(有・無、我・無我、無明・明知、常住・断滅等々)への執着を克服して(不二一体)、判断・思考(分別)を停止するところに解脱があるとしました(不二法門、中観)。それによって、菩薩や如来への帰依(他力救済・信仰)による直観的解脱(煩悩解放)を可能にし、縁起の洞察(自己認識)や八正道(正見・正思)の負担を軽減し(無念無想)、出家なしでは困難な解脱・救済を容易にしました。その代わり、菩薩(出家者、修行者)の慈悲行(自未渡先渡他)がより重視されるようになったのです。

 大乗の中心思想となる「空観」とは『般若経』や『中論』に詳しいのですが、まず有名な『般若心経』の「色即是空」(諸現象は存在しない)の是非について批判的説明をします。「空観」は、解脱のために執着を断じる「方便」としてなら理解できますが、科学的言語論的検証に耐えるものではありません。我々生命現象(色)においては、外界の刺激を受容し適応的に反応するために、「眼・耳・鼻・舌・身・意」と「色・声・香・味・触・法・・・・・」が存在しない(無)ということはありえません。釈尊は諸現象(色)が人生苦(欲望・執着・煩悩)の原因であることを認めた上で、それらへの執着からの解脱を求めたのですが、
大乗では現象(縁起)への「認識の過程(刺激受容・思考)」を省略して、初めから「色即是空」だから「般若波羅密多(知恵の完成)」を信頼して安心して誰でも解脱できると説くのです。ここでは本来の釈尊が説いたような自己省察や瞑想、精神集中への努力(正見、正思、正語、正業、正精進等)は必要とされません。

 大乗仏教の予備知識がないと、とても難しいですが、直観的には、『般若心経』を唱えたり、「南無妙法蓮華経」の題目とか「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば成仏できる。何も心配せず諸仏・諸菩薩を信仰し、六波羅蜜の布施や布施、持戒、忍辱、精進等の徳目を実践して、ひたすら大乗経典(とそれらを説く僧侶)に帰依しなさいというものです。人間は何かを信仰すると、その目標を実現することに専念し、柔軟な思考力・判断力を弱めますが、悩みや迷い、不安はなくなるものです。それを理論化したのが「空観」(色即是空)なのです。
煩悩や執着の対象すべてを「空」とみなせば、どうということはない。「空」は、執着を断念するために「執着するべき概念」とされたのです。この概念の追求の内に心の平安・清浄、生存の苦しみからの解脱があるのです。
 さて一般論はこのくらいにして、具体的に大乗の経典を引用しながらその趣旨と私の考える限界を説明してみましょう。(つづく)


[51] 宗教批判と道徳の再建・創造(5)大乗仏教について  管理人 Date:2008/12/29(月)

 閑人さん。掲示板の限界を超えてしまい、うんざりされているかも知れません。実は大乗については、インドにおける成立時から様々の批判があり、日本でも近世から「大乗非仏説」があり、今日も大乗批判は学問的立場から行われています。自称仏教徒であり生命言語論の提唱者としては、
「仏教の現代化・科学化」によって、「解脱と慈悲の精神」をわかりやすく(!)再理論化したいと考えています。人類の永続的平和と幸福な生存、道徳的社会主義の理論化にとってどうしても必要と考えるからです。前置きはこのくらいにして、前回に続けます。

(承前)まず
『維摩経』では、釈尊の直弟子達を厳しく批判し、「空」の思想(空観)によって「諸法無我」と「解脱・涅槃」が、在家信者に直観的(容易)に得られるようにします。次の引用文は、大金持ちの主人公である維摩が、@釈尊の弟子神通第一のマウドガリヤーヤナ(目連)に、説教した例と、同じくA知恵第一のシャーリープトラ(舎利子)に菩薩の意義を説いた例です。

@「白衣をつけた世俗の家主[在家]のために法を説くには、今あなたが説いているようなことではいけません。そもそも説法とは、法のごとくに説くのでなければなりません。・・・・法には無意義な議論はなされない。何となれば畢竟空であるから。法には<わがもの>という関係はない。何となれば、<わがもの>という関係を離れているが故に。
法には分別というものがない。何となればもろもろの識別作用を離れているが故に。・・・・法は空に順じ、無相に従い、無作(無願)に応じている[註:三解脱門=解脱は、空を念じ、分別をせず、願望を持たない状態。]。・・・・
 そもそも法を説くものには実は説くこともなく、示すこともない。譬えば、
幻術使いが幻の人のために法を説くようなものである。このような心がまえをして法を説くべきである。」(『維摩経第三章』中村元訳 )

A「維摩が言った、『そもそも太陽は何故にこの大陸に現れるのですか?』 (シャーリープトラは)答えていわく、『明るく照らすことによって、くらやみを除こうとするためです。』
 維摩が言った、『菩薩もそのとおりです。不浄の仏土に生まれて来るけれども、それは生けるものどもをみちびくためであって、愚かな迷いの闇に合するためではないのです。ただ生けるものどもの煩悩の闇を滅ぼそうとするためだけなのです。』」(『維摩経第十二章』)

 前者@の引用においては、
法(縁起)それ自体が空であり、識別(認識)作用がないから分別もないとされています。本来の釈尊においては、法とは「縁起」であり、現象の因果関係なので、これを究明(分別)し明知を得て解脱に至ったのでした。しかし、大乗ではその識別過程をも否定します。そもそも衆生(生命)はこの自然世界の中で環境世界の実相を識別し、最も安定的な生存を全うしようとしている存在です(参照:生命とは
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page1.html ))。にもかかわらず、大乗経典では、「法は一切の分別の行を離れている」から「幻術使いが、幻の人のために法を説く」ように法を説けと言います。それによって人生の真実、煩悩の闇、苦しみの連続を認識せずに、直観的に極楽世界と菩薩の慈悲を思い浮かべ、現状の労苦や煩悩を我慢し乗り越えなさいということなのです。

 後者Aの引用においては、大乗の教えが、菩薩(太陽)による衆生の救済によって実現することを示しています。維摩菩薩は、衆生の「煩悩の闇」を滅ぼす使命を持ち、そのために清浄な国である妙喜国から転生してこの現世の不浄な仏土に到ったのです。維摩が強調するのは、菩薩の役割が、シャーリープトラのように自己の解脱に満足するのではなく、衆生の煩悩の闇を滅ぼすこと、つまり
救済者(絶対者・超越者)であることです。

 『維摩経』の内容は、一貫して「空観」にもとづいて、対立する事項(生と滅、受と不受、汚と浄、明知と無明等々)を超えたところに真実がある(不二の法門)と考えます。
在家の衆生は、切実に救いを求めるがゆえに、分別や瞑想の必要(余裕)はないということなのでしょうか。ところが『維摩経』の最終章では、菩薩には悪い者もいると「分別」するのです。それは『維摩経』という深遠な経典を「驚き恐れ、疑いを生じて随順することができない」者と「理解しているけれども相[現象、すがた]にとらわれて分別する」者を分別して排除しようとします。つまり、この経典は、すべての生命には「悟りの本性(仏性)」があり「空観」によって「分別するな」(差別するな)と言いながら、慈悲の心を捨て、疑いをもつものを分別し、反対者を排斥するのです。

 このような論理矛盾をもたらす原因は、言語の意義に対する無知にあります。次回は生命言語論の立場から解脱と慈悲の精神について考えてみます。お付き合いありがとうございます。どうぞよいお年をお迎え下さい。

[52] 今年も疑問がいっぱいです。よろしく。 平成の閑人 Date:2009/01/02
 
明けましておめでとうございます。と月並みな挨拶をしたいところですが、昨年の経済危機がさらに深まる年になりそうだ(なる)と聞くと、とても手放しで祝えない年になりそうです。今年もよろしく。
 さて道徳的社会主義から宗教批判の話になりましたが、このような発想は20世紀の思想界であまり見られなかったものではないでしょうか。今まで西洋的な人権や民主主義の思想が万全で、道徳は過去の伝統にもとづく保守的権威主義的なものと一般的には忌避されてきたような気がします。管理人の言われる生命言語論が、相当広い視野をもつものであることが解ってきましたがこの点どうなのでしょう(疑問1)。
 それにしても、アメリカ的な新自由主義・市場万能主義が、世界を巻き込み、底知れぬ人間の腐敗や堕落をもたらし損害を与えるものであることが暴露されることになりました。この危機の時代に、従来の権威──宗教、哲学、人文科学、既成政党等が、有効な提言をなすことができないのはどういうことでしょう。小泉改革の立役者であった経済学者の竹中氏は、未だに、日本の危機の原因は、構造改革が推進されなくなったことによるとか、情緒的なラベリングをやめてリアリストであれとか言っています。確かに改革が必要だし現実を見なければならないことは認めても、問題は竹中流の市場万能的な構造改革の「内容」にあるのではないでしょうか。また福祉政策推進の立場ではどうなのでしょうか。道徳の再生・創造を主張される管理人はこの点をどう考えますか。何らかの意識上の改革が求められているように思うのですが(疑問2)。(参照http://policywatch.jp/ )
 また宗教について「信仰は理屈に優る」と言いますから、神の存在や空観を否定して、信仰に代わる何かを提示して賛同を得るのはかなり困難だと思われますがどうでしょう。せっかくの体系的な理論を、わかりやすく理解されるような何かを考えておられますか(疑問3)。
 正月早々難しい質問ですが、易しく(これが難しいのかな)説明してください。よろしく。


[53] CHANGE(変化)だけでなくREFORM(変革)を
 管理人 Date:2009/01/15
 閑人さん、今年もよろしく。また新たな課題をいただきありがとうございます。私と同様の問題意識を持って読んでいただいていると、意欲がわき思考が刺激され、励みになります。今後ともよろしくお願いします。

 さて、疑問はありがたいのですが、私としてはまだ「宗教批判」の解明が終わっていません。それと、新たな心理臨床への応用も考えなければなりません。待ち時間ばかりかかりそうですが、お許し下さい。取り急ぎ要点だけ投稿しておきます。

【疑問1】について、 「生命言語論」の人類史的意義を理解していただいていることに心強く思います。ご承知のように、「人間は単細胞生命からの進化の産物である」ことが常識になってから、まだ百年程度しかたっていません。人間は長い迷妄の中で神や悪魔、天国や地獄を想定し、自分たちの価値観や行動の原動力としてきました。

 西洋近代の科学的世界観は、人間中心の思想(啓蒙思想、個人主義、民主主義等)と科学技術の応用による資本主義の発展に寄与してきました。しかし、西洋思想本来がもつ合理主義(ロゴス主義)の人類史的意味づけ(特に東洋思想との相異)については、哲学者による反省(ショーペンハウアー、ニーチェ等)はあるものの、現状を功利的・実用的に追認する以上のことはありませんでした。また現象学・実存主義は西洋哲学の挫折の所産ですし、マルクス主義は社会の関係性を透明化するよりも、終末思想と社会発展に幻惑された救済宗教でした。

 「生命言語論」は、言語が単なる伝達の手段であるだけでなく、思考や思想・知識の根幹であることを示し、文化や文明を創造してきた人間の本質であることを明らかにしています。人類が今日の閉塞状況を打開するには、生命と言語への深い洞察と共通理解が必要になると思っています。

【疑問2】について、 新自由主義や竹中教授の人間観には、人間(の善性・理想)への絶望・不信感がみられます。資本主義においてリアリストであることは、売買競争において経済的勝者をめざすことです。彼らの思想は、宗教や哲学的理想の崩壊した時代にはふさわしい勝者のための知恵だと思います。しかし同時に、人類的危機の時代を認識しない「ゆでがえる」の知恵ともいえます。(参照
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/hutugou2.html#hayek

【疑問3】 新しい発想というのは、新しく問題意識を持とうとしている人にとっては受け入れやすいでしょうが、すでに自分の価値観や思想、社会的立場が確立している人にとっては理解することは困難でしょう。「生命言語論」は、生命やその行動様式である刺激反応性の科学的理解だけでなく、生命と環境の関係性(無限と有限、無常性)についての深い洞察が必要ですし、何よりも自分の生命性の自覚が求められます。

 価値観(思想信条)に関わることは押しつけることはできませんので、同じような問題意識を持っていただけるように訴えていく以外にありません。自分の人生をどのように考えて生きていくか。様々なものの見方や考え方がありますが、この世に生まれて悔いのない生き方をすること、そのために、自分たちにできる最大限の努力をすることです。私にとっての人生目標は、言葉をもつことによって得た自由で創造的な人間的能力を生かし、先人の知恵の現代化または未来化をはかることだと思っています。

 しかし未だ道半ばなので当面の目標は、『人間存在論』の後編の出版と、「人間存在研究所」を設立して活動することです。CHANGE(変化)だけでなくREFORM(変革)をめざしています。今後ともどうぞよろしくお願いします。


[54] 仏教の現代化・科学化のポイントは
 閑人 Date:2009/02/12(木) 11:35
 閑人です。「仏教の現代化・科学化」に期待しているのですが、ヒマジンながら(なので)気になります。一体仏教は再生できるのでしょうか。メディアでは仏典上の理論的なことは何も話題にならず、神秘的な文化的伝統としてのみ扱われているように思います。私も仏教に共感するところが多いのですが、仏教の現代化・科学化のポイントを教えてください。
 また、『法華経』が未来を切り開く新宗教であるかのごとく政治的活動に利用している宗教団体もありますが、どうなのでしょうか。やや生臭い話になりますが、御意見を拝聴したいと思います。



[55] 仏教の現代化(ポイント) Name:管理人 Date:2009/02/19(木) 00:59
 閑人さん、質問ありがとうございます。「仏教の現代化」という大きな目標を掲げたために、仏典や仏教論説の研究に追われ、返信が遅れています。
 ご指摘のように、仏教始祖の釈尊があまりに偉大であったためか、大乗批判や葬式仏教批判は散見されるものの、現代における原理的な仏教批判は皆無(!、に近い)と思います。人間存在の意味を深く考えるなら、釈尊の問題提起と解決の道筋(四諦)を全否定することは不可能に近いからでしょう。
 しかし私は、仏教現代化が必要であると考えるので四諦説をもとにポイントをまとめてみます。
 @苦諦。まず「一切皆苦」についてです。「生病老死」や「欲望・感情(五蘊とくに否定的感情)の生起」は、人間(高等動物)存在にとって生理的事実(普遍的な!生存原理)であり、生存のためには生理的社会的欲望を満たさざるを得ません。だから想像力のある普通の人は、人生に重荷や苦痛を感じるのは当然で、人生を「苦悩」の連続であると捉えることは合理的だと思います。しかし、釈尊の生きた当時のインド哲学の主流にみられるように、人生を悲惨なもの(苦)の繰り返し(輪廻転生)と決めつけてしまうと、解決策は出家修行以外になくなります。
 また、人生を「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と、「苦」や「楽」を曖昧にすることは、「日本人的」ではありますが、「老死」という厳しい現実から目をそむけて、人生苦を認識させないような仏教の「現代化」もあり得ません。さりとて人生に楽しみや希望がないかというとそうでもありません。そこで、私の言う「仏教の現代化」とは、まずは人生を「一切皆苦」ではなく「苦主楽従」と捉えます。これが第一のポイントです。(ちなみに、現代社会を主導する資本主義と功利主義とヒューマニズムの原理は、人生苦を少なくして人生楽を謳歌し、刹那的で利己的な幸福に耽溺することにあります。人生の有限性の真実を隠蔽し、偽装することによって過剰な消費を目指し、解脱につながる永続的(精神的)な幸福の追求から目をそらすことは、仏教の本旨に反することです。)
 A集諦。次のポイントは、「人生苦」の原因を究める「縁起の法」についてです。この世のすべての現象が、「縁起」(単なる部分的機械的科学的因果ではない)に基づいているというのはいいのですが、人生苦の縁起についてはその根源を「無明(無知)」におくのは正しくありません。「生死」が「無知」によって生起する(十二縁起説)というのは、「輪廻転生」という「無知」に由来しているものであり、科学的認識論的に見ても誤りです。無知(無明)も明知(般若)も、人間の言語・知識(構想力)の産物だから、人間の生存や欲望があってはじめて成立するもの(生存のための言語・知識)だからです。このような釈尊(インド哲学)の誤りの原因は、人間存在の本質である言語が人間的知識の根源であり、人間自身の感情や行動を規制するという「生命言語説」の基本を釈尊が見抜くことができなかったことによります。これは別に解説します。(
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html
 B滅諦のポイントは、釈尊が追求した「苦の生存からの解脱」「涅槃の境地」すなわち「悟り」であり「ブッダ(覚者)」となる(成道)ことについてです。「悟り」とは、人生苦の根本解決とそれによって得られる心の平安、欲望と執着の消滅の状態です。釈尊は「われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。」(『真理のことば353 』中村元訳)と述べていますが、これは在家においても、おそらくは出家をしても不可能です。「愛欲」なき生活は、個体死を意味しますし、解脱への執着(八正道)は「悟り」への条件です。現代において「悟りとは何か」は、幸福論と関わるのですが、私にとっての今後の課題です。
 C道諦(八正道)のポイントは、出家の可否と修行・戒律についてですが、後に教義上の争いを招くことになります。どのような知的実践的精神状態を解脱や悟りと見なすのかは、客観的な評価は困難ですから、解釈者の主観によって諸分派を生じるもとになります。初期仏教における仏陀、阿羅漢、独覚、菩薩等の区別は、その始まりです。解決のポイントは、人間存在やの認識能力の有限性を前提に、評価資料を公開して議論を尽くし、「すべて」「完全」「絶対」をやめて中道に従うことです。現代には現代の中道があります。
 Dのポイントは大乗非仏説と同根のものです。「空観」は、生命言語説の科学的認識論に反して神秘思想を肯定し、創造的思考や議論を否定(拒否)する危険性があります。大乗仏教の菩薩信仰主義の再検討も今後の課題です。
 次に生臭い問題で、閑人さんは遠回しで遠慮がちに表現されていますが、創価学会などの現代的新仏教への疑問だろうと思います。創価学会は日蓮を宗祖としますが、池田教とも言われるように、池田大作氏の個性を色濃く発揮しています。私は『法華経』ならその限界を指摘することができますが、日蓮や池田氏のような宗教者について的確な評価を下すことはできません。
 もし何らかの意見を述べるならば、彼らが信奉する『法華経』は、想像力豊かでロマンあふれる壮大な構成で、一仏乗の大慈悲を実現しようとする点では共感きますが、釈尊の意図を歪め人間存在の実相(本質・生命言語説)を理解しない妄想的な展開があると考えています。今後も検討を加えますので、意見・質問などありましたらよろしくお願いします。

                                                 
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