人間存在についての「不都合な真実」                  HOME
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              ──ふるさとを大切にしよう,私たちの地球──
はじめに                    
 アメリカ合衆国元副大統領アル・ゴア氏の講演ドキュメンタリー映画『不都合な真実』は、我々に深く深刻な感動をもたらしている。
 地球温暖化は人類にとってばかりでなく、地球上に生きるすべての生命にとっても解決すべき焦眉の問題である。

 温室効果ガス(二酸化炭素、メタンガス等 )の排出による地球温暖化という物質文明のもたらした陰の部分は、地球破壊という悲劇的な結末を迎えかねない。人間は今日に至るまで科学技術の発展によって生産力を飛躍的に発展させ、少なくとも先進国においては、貧困、病気、階級や諸集団の対立などの多くの問題をある程度解決してきた。

 経済発展は、人間と社会における困難の多くを解決することができる。しかし、温暖化に伴う地球規模の災害──氷河や両極の氷の消失、海面上昇による人口密集地の水没、巨大台風・旱魃などに対しては、今日の世界の思想的混迷状況と国連を中心とした対策のみでは、人類共同体としてほとんど無力である。

 差し迫る危機的な状況と今我々にできることを、アル・ゴア氏はわかりやすく示してくれた。しかし残念ながらそれ(個々の人間が生活スタイルを変える)だけでは不十分であることは良識ある人々には理解されている。人間の存在意義自体が問われているのだ。日常の物質的享楽的生活におぼれやすい人間にとって、想定される危機に対して今何が最も必要なのか、それが人間にとっていかに不都合であろうとも真実から目をそらせてはならないのである。
 自己の利益、主義や主張、思想や信条、宗教的教義、地位や権力、名声や名誉等々に合致しないこと、批判や反論されること、つまり自己にとって不都合なことは数知れない。しかし<不都合な真実>の中にこそ自己にとっての成長や利益につながることが多いものである。人類にとっての<不都合な真実>は、地球温暖化問題にとどまらない。そして現代の閉塞状況をもたらしている様々の不都合な真実を明らかにし、人類共通の課題を解決する最後の機会ともなる。時代錯誤な文化や伝統的価値観(とりわけ宗教や西洋的思考様式)を見直し、新しい人類文明を築くために<不都合な真実>の解明を進めなければならないだろう。
 ここではまずはアル・ゴア氏の著作からの抜粋を引用し、さらに人間存在にとっての<不都合な真実>を明らかにしたい。
 ただ、注意すべきは、アル・ゴア氏も言うように誰にとって不都合なのかということである。「真実」を知ることが「不都合」なのはどのような人々なのか、この点も明らかにしたい。ある人にとって不都合なことは、別の人にとっては都合がいいかも知れないからだ。
 
        http://www.futsugou.jp/
1.地球温暖化についての「不都合な真実」
2.映画「不都合な真実」をどう考えるか
3.人間とは何か、についての「不都合な真実」
4.いかに生きるべきか、についての「不都合な真実
5.哲学、政治経済理論についての「不都合な真実」
6.「不都合な真実」の克服は可能であるか。
<資料>
気候変動に関する国際連合枠組条約
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書
 

1.地球温暖化についての「不都合な真実」

    (アル・ゴア『不都合な真実』 枝廣淳子 訳 ランダムハウス講談社から )    
@ 「今起こっている温暖化の大部分は人間が起こしているものであり、私たちが直ちに行動をとらない限り、地球という私たちの故郷にとって取り返しの付かない結果をもたらしてしまう。」

A 「温暖化は、ひとりひとりの一生から見ていると、少しずつしか進んでいないように思えるかも知れない。しかし地球の歴史から見れば、実は電光石火のスピードで進んでいるのだ。今ではそのスピードが非常に加速しているので、私たち自身の一生の間でも、鍋が沸騰しかけていることを示す泡ぶくが見え始めている。

 もちろん、私たちはあのカエル (鍋の中のカエル )とは違う。私たちは、自分たちを取り巻いている危険を理解するために、鍋が沸騰するまで待つまでもない──そして私たちには、自分たちを救い出す力がある。」

B
「地球温暖化を政治問題化する
──気候の危機に関する真実は、自分たちの暮らし方を変えなくてはならないという、「不都合な真実」なのである。──
 世界中を回って温暖化のスライドを見せ、講演をしている時、特に米国内で、この危機がどれほど危険なものになっているかをすでに知っている人々から、最もよく聞かれる質問が 2つある。

(1)「たくさんの人たちが、まだこの危機は本物ではないと思っているのは、なぜなのだろうか?」
(2)「なぜこれは、そもそも政治問題なのか?」

 最初の質問に対する私の答えは、自分のスライドつき講演──そして、本書──をできるだけ明快で説得力のあるものにすることだ。なぜ、これほど多くの人々が、事実が明確に示しているものに対して、今でも抵抗しているのか──理由の1つは、気候の危機に関する真実は、自分たちの暮らし方を変えなくてはならないという、「不都合な真実」だからではないかと思う。こういった変化のほとんどはよいものであって、温暖化防止以外の理由でもやったほうがよいことなのだが、それでも不都合なのである。変えるべきものが、冷暖房の温度設定を調整するとか、新しい種類の電球を使うといった小さなことにしろ、石油や石炭から再生可能な燃料に切り替えるといった大きなことにしろ、そのためには骨を折らねばならないからだ。

 最初の質問に対する答えは、 2つ目の質問にも関係している。温暖化に関する真実は、一部の力の強い人々や企業にとって特に不都合であり、歓迎せざるものなのだ。そういった人々や企業は、地球をいつまでも住める場所にするには、自分たちに巨額のお金を儲けさせてくれている活動を、大きく変えなくてはならない、ということを十分に承知しているのである。こういった人々──特に、そういった意味で最も問題となっている 2,3の多国籍企業の人々──は、毎年何百万ドルもの資金を費やして、温暖化に関して人々を混乱させる方法を考え出そうとしている。このような人々は、互いの利益を守ろうと意気投合したほかのグループとうまく結託し、この連合がこれまでのところ、温暖化に対応する米国の力を麻癖させることに成功しているのだ。ブッシュ─チェイニー政権は、この連合から強力な支持を受けており、その利害を満たすためにできることなら何でもやっているようである。

 たとえば、政府機関で温暖化の研究に携わっている多くの科学者は、気候の危機に関する発言に気をつけるよう命じられ、マスコミには話をするなと指示されている。もっと重要なことには、温暖化に関する米国の政策はすべて、温暖化など問題ではないという非科学的な考え方──政権の考え方──を反映するように、改ざんされているのだ。温暖化に取り組む国際交渉の場では、米国の代表者は「石油・石炭会社に不都合をもたらしかねない行動へ向かう動きはすべて止めよ」と言われている。そのために外交的な機構を乱すようなことがあったとしても、である。

 さらにブッシュ大統領は、石油会社で温暖化の情報かく乱運動を担当していた人物を政府のあらゆる環境政策を指揮する地位に据えた。この弁護士兼ロビイストは、科学的な教育をまったく受けていないにもかかわらず、環境保護庁をはじめとする連邦政府の省庁から出される温暖化に関する公式な評価に手を入れたり、検閲したりする権限を大統領から与えられたのだった。

 政治的指導者──特に大統領──は、国政に大きな影響を与えうるばかりではなく (特に大統領の属する党が議会の支配政党である場合、議会は従順で、大統領の思うままになる )、世論を左右できる。特に、「自分は大統領についていく」と思っている人々への影響力は大きい。

 このような事実を考えてみてほしい。全般的には、米国人は温暖化への懸念を募らせている。しかし世論調査をすると、大統領の属する党の党員は関心を失いつつあるのだ。おそらく、当然と言えば当然だが、「証拠が十分にあるわけではないので、大統領の言っていることは間違っていないのだろう」と思うからだろう。

 いわゆる“温暖化懐疑論者 ''は、気候の危機の解決へ向けてのいかなる行動にも反対をしているが、その理論的根拠はこの数年間に何度か変遷している。最初は、「温暖化などまったく起こっていない」と主張していた。作り話にすぎないと言っていたのだ。いまだにそう言う人もいるが、今では否定しようのない証拠によって論破されてしまったため、ほとんどの反対論者は戦術を変更せざるをえないと判断した。今では、地球は確かに温暖化していると認めてはいる。しかしすかさず、「でもそれは”自然の原因”''のせいだ」と言う。

 ブッシュ大統領自身、今でもその立場を取ろうとしている。確かに世界は、温暖化しつつあるようだが、ちょっと待ってくれよ、それが人間のせいだという説得力ある証拠などないではないか、と。そして、自分をがっちりと支援してくれている石油・石炭会社が温暖化に関係しているなんてありえないことだと、特に強く確信しているようだ。

 関連して、「そう、地球温暖化は起こっているように見受けられる。しかしそれはきっと私たちにとってよいことだ」という否定論者の議論もある。「もちろん、それを止めようとすることは、経済にとって悪いことに違いない」と、言葉を続けるのである。

 しかし、変化に反対する人々が最近言い出している理由──最も恥ずべきものだと思う──は、「そう、温暖化は起こっている。しかし、それに対して実際に自分たちにできることなど何もない。だから、何かをやってみようだなんて、むださ」というものだ。このグループは、温暖化がもたらす危機が現実に起こりつつあり、有害なものだと認めながらも、温暖化汚染物質を大気中に排出し続けることをよしとしているのである。言ってみれば、「食べて、飲んで、楽しくやろうじゃないか、明日になれば、子どもたちがこの危機の最悪の部分を受け継いでくれるだろうから。それはあまりにも不都合なことだから、私たちは気にしないことにしよう」という考え方ではないか。
 このように、反対の根拠は変遷してきたが、だいたいの場合、根底にある政治的戦術は同じだ。「科学は不確実で、根本的な事実に重大な疑いがある」と主張する作戦である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
私たちは、もはやこれ以上行動をとらずにいることはできない。率直に言って行動をとらない言い訳は何もないのだ。私たちが望んでいることは、みんな同じだ。子ども達やその後の世代に、健全な人間文明を支えられる清浄で美しい地球を受け継いで欲しいと願っている。この目標は政治を超越しているはずだ。

 そう、科学はどんどん進み、つねに次々と展開していく。しかし、疑いなく私たちが問題に陥っていることを示すデータも被害も、もうすでに十分にある。これは是か非かというイデオロギーの議論ではない。地球はたった一つしかないのだ。地球に住まう私たちのすべてが、同じ未来を共有しているのだ。今、私たちは、地球規模の緊急事態に直面している。行動を起こすべき時である。政治を麻痺させるためにでっちあげられた論争を続けている暇はないのだ。」
(下線は引用者による )


2.映画「不都合な真実」をどう考えるか
物質文明がもたらした地球温暖化の危機
 地球的な規模の危機が近づいている。危機は誰の目にも明らかになりつつある。それは近代西洋に始まった科学技術文明がもたらしたものである。人間の現世的な幸福はまずは生活の安定である。生活の安定の条件は、貧困や病気などの苦しみのない物質的に豊かな生活である。
 しかし、そのような物質的に豊かな生活は、石炭や石油・天然ガスなどの化石エネルギーを必要とし、大気中にその産物として二酸化炭素などの温室効果ガスを排出してきた。その結果、地球は温暖化が非可逆的に進行している。温暖化の進行は、氷河や両極の氷の融解による海水面の上昇や気候変動による大災害をもたらしつつある。この危機を克服するために、人類に残された時間はあまり無い。
 だが、世界は危機を自覚し、「京都議定書」のような対策を講じながら効果的な行動がなされず事態はますます悪化の一途を辿っている。それ以上に悪いのは、この危機を過小評価して「不都合な真実」に目を向けず、私的利益や国益追求のための競争に奔走し、競争を煽り国民を戦争に駆りたてようとしている。曰く、「新自由主義、グローバルスタンダード、テロとの戦い、国益至上主義、国防の充実」と。                                               
 なぜ人類は危機の到来に気づきながら共通の利益でなく私的利益にとどまるのか。競争原理を前提とする市場原理に依存せざるを得ないのか。また社会的自覚と連帯が困難なのはなぜか。人間はどこまで自己と社会の制御が可能なのか。いくつかの理由と処方箋が考えられる
1)多くの人間は利己的な存在であり,目先の自己の物質的精神的安定と安心を優先して認識し行動するものである。
2)自己の安全と安心を保全するために、他者よりも優位であること、則ち競争に勝つことが必要になる。隣人愛や社会奉仕のための行動という主張ですら競争を伴い、異なる主張との間の派閥を作り対立を生み出す。
3)すでに優位な立場にある人間(集団、企業、国家等の強者)は、さらなる競争によって既得権益を守ろうとする。なぜなら、競争は、強者にとって優位な立場を強固にするものであるからである。
4)歴史的には、
@諸個人、諸集団間の競争は、指導権争いや戦争を引き起こし、強者(勝者)の支配体制(社会制度・階級制度)を成立させてきた。
A勝者は支配体制を維持するために、物質的精神的手段を創出・利用して自己の立場・体制を強化、則ち直接的武力・金力支配や精神的支配を強化してきた。
B西洋近代の科学革命と啓蒙主義は、市民や農民の一部に封建的支配と迷信の不当性を自覚させ、自由や平等、幸福の追求、人民の共通利益を追求する人権と民主主義の必要性を示した。
C欧米の市民革命は、差別され抑圧された人々に自由と平等の人権意識を芽生えさせた。しかし社会的自覚に基づく共同体意識の育成は、自由競争主義者(強者)の意図とマルクス主義などの思想的限界によって実現することはなかった。
D産業革命の進行と資本主義の確立は、科学技術の進歩と物質的生活の向上をもたらし現状への不満(不都合)を和らげた。しかし世界的規模での競争(商業主義・戦争・植民地支配)は貧富の格差を固定化させ、既成の伝統文化や宗教・道徳の儀式化商業化をうみだし、金銭至上主義を横行させて人心の荒廃を招いている(とりわけ日本)。
Eポスト資本主義の成立は、独占的に情報を掌握し、意図的に垂れ流すマスメディアによる共通利益(国益・企業益・国民益)の矮小化・低俗化(商業主義・享楽主義・刹那主義)に象徴されている。高度な情報技術(IT)の根幹はMSの独占状態であり、知的財産権は独占的利益と格差の温床になり、市場の不等価交換を増大し固定化している。
● どのような考え方と行動をとるか
1) アルゴア氏の場合
@地球温暖化を「人間の行為の結果」として認識する。
A地球温暖化は、地球の歴史から見れば、実は「電光石火のスピード」で進んでいる。だから政治問題化しなければならない。
B「経済か環境か」ではなく、市場資本主義を味方にして、環境に配慮したビジネスを追求する。
C「私たちにはできる」と希望を持って、日常の消費生活を省エネ省資源になるように見直す。
2) われわれの場合
 アル・ゴア氏の提言を受けつつ、地球温暖化への対応には、地球的な利害対立を克服することが必要なことから、以下の目標を追求する。
@生命言語論(人間の本質は言語であるという考え方)にもとづいて、理性と感情を統一し、地球生命の一員として自己抑制できる人間存在の在り方を追求し、議論(言語的交流・対話)を深めていく。
A多くの宗教や思想・道徳に見られる天国(来世)や精神世界での永続的幸福ではなく、精神や物質を含む地上(現世)での持続的幸福を実現するため、世界宗教(思想・道徳)や政治経済体制の見直しをはかる。
B自然(生命を育む地球環境)と共に生きる東洋的発想(情念を対象化しない)を再生し、自然(情念を含む)の支配や技術革新を目指した西洋の科学的合理主義との融合・止揚をはかる。
C生命共生的人間関係の倫理を確立すると共に、交換関係としての人間関係を透明化して、公正・公平な市場ルールを確立し、世界の経済構造を、win-lose (弱肉強食)から win-win (協力共生)の市場関係に変革し、相互利益と共存共栄をはかる。
D地球環境問題の解決とともに、世界平和と人権の確立を実現し、富(資源)を分かち合い格差を是正して共生するために、世界連邦政府の実現をめざす。
 
3.人間とは何か、についての「不都合な真実」
 地球温暖化以外にも、真実を知りたくない人々にとって「不都合な真実」は、存在する。それは温室効果ガスの削減という世界的な取組だけでは解決できない人間の精神的な創造を必要とする。
 例えば、
西洋思想の限界、言語に関する真実、物質的成長の限界、マルクス主義の誤り、世界宗教の時代錯誤、競争と格差の拡大、マスメディアの在り方、利潤追求の反道徳的性格等々である。

 しかし、これらの「不都合な真実」か解明され、目指すべき人間の目標──世界の平和、福祉そして自己抑制と相互扶助に基づく人類の幸福──が明確になり、地上においてそれらを実現する新しい契約を結ぶことに成功するならば、つまり、「不都合な真実」を克服するならば、人類にとっての新しい歴史が始まるであろう。例えば、伝統的な宗教的教義を信仰しながらも、科学的な知識との乖離 (創造神や輪廻思想、天国・極楽等々の説明 )や、教祖時代の救済と現実の救済との違いに疑問を抱き説明困難を感じている人々に光明を与えることになるであろう。
 人間存在とはどのようなものか。このような疑問の解明が、ある人々にとっては不都合となる。以下に、人間存在の解明にとって必要な真実を見ようとしない人々の「不都合な真実」をあげておこう。
1)西洋的思考様式(認識論・存在論)の限界の解明は、「言語とは何か」という問に答えることではじめて可能となる。
2)認識や言語の謎は、「生命とは何か」という問によってはじめて解明することができる。
3)西洋観念論(デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール等)の誤りは、言語論の解明によって可能となる。
4)マルクスを含む唯物論の誤りは、言語によって形成される人間意識の創造性を無視したことに起因している。
5)西洋近代政治思想の出発点となった社会契約説の限界は、契約の自然性所与性によるのではなく、契約する人間の創造性更新性(不断の意識改革)という観点によって克服することができる。
6)市場経済・自由競争における調和均衡は、経済学者の願望に過ぎず、またその政治的調整は市場構成員(市民)の社会的自覚によってのみ公正さと秩序を維持することができる。 
7)西洋的社会主義思想は、自由と平等(富と貧困)の相克から成立したが、経済的平等を民主主義的多数決のみで実現しようとし、道徳的な公正や正義の概念を欠落させたために失敗した。自由と平等の統一は公正と正義があるときのみ永遠である。
8)社会主義は社会正義と公正にもとづき、自由と平等を目指す意識的活動であるが、資本主義は利己心と非道徳性によって成立している衝動的経済体制である。またそれ故に、前者は未来の人類に属するが、後者は過去の社会体制に属し、現在は両者の中間に位置している。
9)自然宗教や民族宗教・世界宗教は、人間の幸福や安心を求める自然的心情や願望を実現し、社会的政治的秩序を維持するためにするために成立したものであるが、非科学的知識にもとづいて成立したものであり、現代の科学的知識や常識的批判に堪えるものではない。
10)人間存在の有限性や煩悩の常在性について疑うものはいないが、それらを日常の認識や行動に生かしている人間は多くない。まして、煩悩を克服して持続的幸福を得ようとするものはほとんどいない。ほとんどの人々は日常の生活に追われ苦と楽の間を揺れながら生涯を終わる。
 しかし人間存在の「不都合な真実」を正しく理解することによって充実した幸福な人生を送ることができる。ただそのためには、真実に目を開き、物質的な快楽や功利を克服する努力と忍耐、すなわち人間存在への根源的な洞察と自己抑制が必要である。このことは物質的な快楽や既成の権威に依存して刹那的な幸福感に浸り、真実を見ようとしない人々にとっては「不都合な真実」である。しかし、それは持続的な幸福と充実した人生を送るための条件でもある。
 
4.いかに生きるべきか、についての「不都合な真実
 地球温暖化や西欧近代文明以外の「不都合な真実」は、存在する。それは温室効果ガスの削減という世界的な物理的取組だけでは解決できない人間存在の根源的有限性──生死や病気の問題、人間関係における煩わしさ(ストレス)や孤立感や不安感、怒りや絶望などの否定的感情──にかかわる問題である。これらに対しては、過去の偉大な宗教家や思想家が格闘したような、人間性に対する深刻な深い洞察が必要となる

 例えば、ヤスパースが指摘したような、紀元前500年前後における人間に対する認識は、釈尊や孔子、ソクラテスやユダヤの預言者
など偉大な宗教家や思想家を生み出した。人間とは何か、如何にあるべきか、人間にとっての救いは何か、死すべき人間のなすべきことは何か。争い、残忍、絶望、不安不信、悪徳、偽証、裏切り、人間のあらゆる否定的な感情を引き起こす出来事をどのように考えるのか。人間存在とは何か、人間が不安や絶望を克服し永遠の幸福を得るにはどうすればよいのか。

 これらの「不都合な真実」か解明され、目指すべき人間の目標──世界の平和、福祉そして自己抑制と相互扶助に基づく人類の幸福──が明確になり、地上においてそれらを実現する新しい契約を結ぶことに成功するならば、つまり、「不都合な真実」を克服するならば、人類にとっての新しい歴史が始まるであろう。例えば、伝統的な宗教的教義を信仰しながらも、科学的な知識との乖離(創造神や輪廻思想、天国・極楽等々の説明)や、教祖時代の救済と現実の救済との違いに疑問を抱き説明困難を感じている人々に光明を与えることになるであろう。

 人間存在とはどのようなものか。このような疑問の解明が、ある人々(既成の信仰や知識に依拠している人々)にとっては不都合となる。以下に、真実を見ようとしない人々にとっての「不都合な真実」をあげておこう。
 まずは、人間が過去において、人生の不都合をどのように考えてどのようにその不都合を克服してきたかを見てみよう。「人間とはどのような存在か」「人間はどのような存在として自覚すべきか」──無数の解答から、ある文明に特徴的なものをあげておこう。
◎ ギリシア思想から──生きることの意味は何か──
 「かの人を語れ、ムーサ(詩女神)よ。トロイエーの聖き都を掠(カス)めた後に、諸所方々をさ迷って、数々の人の町を見、その俗を学んだ、機に応じ変に処するにたけた男(オデュッセイア)を。命を護り、一党を無事に帰国させんとて海上で数々の苦労を心になめたが、苦心の甲斐もなく、一党を救うことはできなかった。愚かな者共よ、日の神ヒュペリーオーンの牛を喰らったばかりに、神は帰国をかれらより奪い、おのれの愚行でかれらは身を滅ぼしたのだ。ゼウスの姫なる女神(ムーサ)よ、御心のままに、いずこよりとも物語を始め給え。・・・・・・・人の子と神々の父なるゼウスは口を切った。おちこちにその名も高いオレステース(アガメムノーンの子)に討たれた貴いアイギストス(アガメムノンを暗殺)を思い浮かべていたからだ。かれを心に、不死の神々の間で口を開いた。死すべき人の子が神々を責めるとは、何たることだ。禍はわれらから来ると申しているが、かれらはおのれの愚かさゆえに、定めを越えた苦労をなめている。・・・・・・」        (ホメーロス『オデュッセイア』高津春繁 訳)
★ 現象・事件の原因追求方法の合理性、森羅万象の原因としての神々の設定(特に価値・感情の原因となる神々)。不死や絶対性への願望と有限な死すべき人間としての運命をどのように了解するか。死や苦労(人生苦・有限性)をいかにして克服するか。神が原因ならば神に責任を転嫁すればよい。そのようにしてギリシアの道徳は、有限な人間への倫理・道徳(運命の甘受・生き方)を合理化した。この思想的伝統は、今日の西洋思想の閉塞状況を生み出している「不都合な真実」の発端である。
 人間は死すべきもの、有限な存在であるが、その限界の中で生き続けなければならない存在である。そして、神に依存することなく生きるために、よく世界を認識(よく見てよく考える)し、生き続ける努力をしなければならないのである。
「人間の肢体に散らばっている感官は狭く限られてあり、/しかもそこに襲いきたって物思いを鈍らせる悲惨事の数かず。/命あるあいだ 生のわずかな一部を見てとるや、/はかなく死ぬ人間どもは、煙のごとく、空高く運ばれて飛び去っていく。 彼らはかなたこなたへとこの世を追いまわされる道すがら、/人それぞれがたまたま出会ったものだけを信じこんで、それをもって全体を発見したと傲りたかぶる。/それほどこれらの物事は人間たちにとって、見がたく 聞きがたく、また心(思惟)によってとらえがたきもの。さあれば彼は逃れてここへ来たからには、/ただ死すべき知力の達しうるだけのことを学ばねばならぬ。」(エンペドクレス『自然について』藤沢令夫 訳)
★ エンペドクレスは、生命と人生の真実をかなり現代的に見抜き、有限な人間に自然の全体を捉えることは困難であり、自然は四元素(火、水、土、空気)の混合(愛)と分離(争い)があるのみと考えた。有限な人間の認識能力には限界があり、心では捉えがたいが、人間は偶然的に認識した物事を真実(全体)であるとみなしてしまう。このことが、気づかないうちに人間の傲慢な思想と行動を生み出してまう。いわゆる「木を見て森を見ず」を戒めている。
 しかし彼もまた真実を見誤っている。それは科学の十分に成立していない時代には当然かも知れないが、混合と分離、愛と争いという二分法は、人間のつけた「名目」と同じように、
言語をもつ人間の認識能力の所産にすぎない。事象の「名目(言葉・ロゴス)」は、「混合と分離」、「愛と憎しみ」、「生誕と死の終末」等々にも当てはまる。それらの事象は確かに存在している。存在していると認識したから、名目を与えて区別(差異化)している。それを踏まえた上で、彼には「何のために」が欠けている。「生きるために」認識し、区別し、名目(言葉)を与えるという認識が欠けているのである。
 人間的な価値に由来し、自然の運動を支配する「愛と争い」は、何のために、何を目標として存在するのか。彼の提起する問題は、ギリシア思想の限界性を示すものとしても重要である。惨めな死すべき人間は、惨めなままで死ぬものではないのだから・・・・・・。
◎インド思想から──生きることに希望を与える──
「そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして、測るべからざる水は存在せりや。
 太初において、暗黒は暗黒に蔽(オオワ)れたりき。この一切は標識なき水波なりき。
空虚に蔽れ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)
 
最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。
 誰か正しく知るものぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ、。この創造(現象界の出現)はいずこより生じ、いずこより(来たれる)。神々はこの(世界の)創造より後なり。しからば誰か(創造の)いずこより起こりしかを知るものぞ。」       (『リグ=ヴェーダ賛歌』辻 直四郎 訳)
★ 古代インドのバラモン教の聖典において、現象(有)の根源(原因)は神々ではなく、それゆえ言語(名称)でもない。神々を越え、名称を越えるもの、すなわち唯一者(宇宙の原理ブラフマン=梵)である。唯一者は、言語による表現を越えるもの(包括的な力)であるから、創造神ではない。そして人間(個の原理アートマン=我)はこの唯一者(梵)と合一することができて、はじめて生存の苦しみの輪廻(リンネ)を克服し解脱に到ることができる。
 人生苦の克服を求めるインドの人々にとって、俗世の欲望や束縛から逃れ出家修行し、ブラフマンとの一体化を図り永遠の安らぎを得ること(解脱)が人生の究極目的であった。たしかに肉体の鍛錬と精神集中は悟りの境地(涅槃や恍惚感)を現出する。しかし、このような解脱は、全く主観的(秘教的)なものであり、一般化するには、
「解脱の心理」についての科学的究明を必要とする。地上における現世的幸福(解脱)を得ることが人生の目標であるとするならば、インドの思想は人類の未来に希望を与えてくれるのではないだろうか。
◎「この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をとも−なっている。 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。・・・・・・・・・・
 苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々──かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻の苦しみを)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることはない。」                           (『ブッダのことば
─大いなる章 八、十二』中村 元 訳)
★ ブッダは苦しみの根源が、無明(根本無知、迷妄)にあり、十二の縁起によって死(生死の輪廻、苦の連鎖)に至ることを説いた。究極の安らぎ(涅槃・解脱)を求める人にとっては、非科学的な「縁起説」も修行を合理化するために必要であったかも知れない。確かに無知は迷妄の根源である。
 しかし、現世の生活は「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」ではないのか。そして
苦を楽に転化すること、つまり苦(道諦、修行)を通じて楽(安心、幸福)を実現する希望を持ち続けることが解脱につながるのではないのか。希望は人間に安心と活力を与え、同時に苦しみや節制に耐える力を生じさせるからである。仏教は苦しみの人生を諦めさせるのではなく、苦しみの根源を明らかにして克服する哲学なのだから。
 しかし、ブッダは知恵の根源が「ことば」であることを知らなかった。欲望や執着が「ことば」によって増幅することを知らなかった。科学的認識に基づく生命存在の意味を知らなかった。苦や楽の生理学的心理学的意味を知らなかった。「無」や「空」もまたことばである。今日の仏教信者にとって、生命や人間存在の意味や幸福についての「真実」を知ることは、おそらく不都合であろう。しかしブッダの教えの求める方向(持続的幸福=心の解脱)は、将来においても人類にとっての追求すべき理想になるのではないだろうか。
◎『聖書』から──地上での幸福を諦める?──
 「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。  一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。
 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく、 耳は聞いても満たされない。 かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。
 
太陽の下、新しいものは何ひとつない。 見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。」             (『旧約聖書 コヘレトの言葉』 日本聖書協会訳)
★ 人生は空しいか。否、人生は労苦を伴うけれども豊かで幸福に生きる希望がある。希望があれば労苦にも耐えられるのである。また、人生は常に新しい。日々挑戦と創造がある。自己の心(精神・感情)と行動、他者の心と行動、誕生・成長・恋愛・結婚・労働・政治等々。よく見つめれば人生は常に新しく豊かである。自然もまたしかり。すぐれた芸術や文学は人生と自然の豊かさを我々に示してくれる。
◎「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。  わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。  わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。  自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ込まれるよりは、片目になって命に入る方がよい。」             (『新約聖書 マタイによる福音書』 日本聖書協会訳)
★ なぜ永遠の命を得るために争いを必要としたのか。なぜこの世で罪の誘惑を断ち切り持続的幸福を得ようとしないのか。「悔い改め」は、天国での永遠の命を得るのではなく、地上の人間の生命と平和と幸福こそが求められねばならないのではないのか。救い主イエスは人間の奇跡ではあるが、地上の人間を幸福にするものではないのではないか。これは信じがたいと思われるかもしれないが、欧米の文明にとっては「不都合な真実」なのである。
◎中国思想から──人生は定かではないが、生きるに値するもの──
子曰、朝聞道、夕死可矣。「子曰わく、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」(孔子『論語』里仁第四─八)
子不語怪力亂神。「子、怪力乱神を語らず。」 (孔子『論語』述而第七─二十)
子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜。「子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎(お)かず。」(孔子『論語』子罕第九─十七)
季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死。「季路、鬼神に事(つか)えん事を問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉(いずく)んぞ能く鬼(き)に事えん。曰わく、敢(あ)えて死を問う。曰わく、
未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」(孔子『論語』先進第十一─十二)
有物混成、先天地生。寂兮寥兮、獨立而不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大。而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。
 
物有り混成し、天地に先んじて生ず。寂(せき)たり、寞(ばく)たり、独立して改(かわ)らず、周行して殆(あやう)からず、以って天下の母と成すべし。吾れ其の名を知らず。これに字(あざな)して道という。強いてこれが名を成して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝く。逝けばここに遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。 故に道は大、天も大、王も亦(ま)た大なり。域中に四大あり。而して王は其の一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。            (『老子道徳経』二五章)
◎中国詩から
人生無根蔕  人生 根蔕なく
瓢如陌上塵  瓢として陌上の塵の如し
分散随風転  分散し風に随いて転ず
此已常身非  此れ已に常身に非ず
落地成兄弟  地に落ちては兄弟と成る
何必骨肉親  何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
得歓当作楽  歓を得なば当に楽しみを作すべく
斗酒聚比隣  斗酒もて比隣を聚めん
盛年不重来  
盛年 重ねては来たらず
一日難再晨  一日 再び晨なり難し
及時当勉励  時に及んで当に勉励すべし
歳月不待人  歳月 人を待たず                 (陶淵明『雑詩十二首』其一)
◎日本の散文から──あるがままに──
 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
 玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
 あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。 そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。」                         (鴨長明『方丈記』)
「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。・・・・・・・・・・・・・・・・ 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊とい。」                            (夏目漱石『草枕』)
 
5.哲学、政治経済理論についての「不都合な真実
    (作成中─HOME参照)
1)西洋的認識論──カントの認識論・現象学の「不都合な真実」
◎経験は悟性概念に規定される!?
「経験そのものが認識の一つの仕方であり、この認識の仕方は悟性(認識力・思考力)を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリ(先天的)に前提していなければならない。そして、かかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念(カテゴリー、思考の形式→質や量、関係性、因果性等)によって表現せられるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念に従って規定せられ、またこれらの概念は一致せられなければならない。」(カント『純粋理性批判』篠田英雄 訳 岩波書店 p34)
★→人間の認識は、言語的(主語述語)に表現されるが、その形式は「何がどのようにあるか」である。「どのように(How)」「なぜ(Why)」「どれだけ(how much)」等々という疑問の形式が、カントの言う悟性規則に当たる。その、悟性規則を分類すれば、悟性概念としてカテゴリー表にまとめられる。しかしこの「概念(純粋概念)」なるものは決して先天的なものではなく、生物学的な根拠をもつものである。
◎ア・プリオリな純粋原則は、経験科学の批判に堪えられるか?
「だが我々は、ア・プリオリな純粋原則が我々の認識のうちに実際に存すること証明するのに、わざわざこのような実例(ヒュームの言う「習慣」)を挙げなくても、かかる原則が経験そのものを可能ならしめるために欠くことができないものであることをア・プリオリにも証示できると思うのである。実際、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがって、また偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。そうだとしたら、誰だってかかる偶然的規則を、第一原則として認めることはできないはずである。」(カント『純粋理性批判』 p61)
★→確実性は生命にあり、生命の持続性が、経験の確実性を保証する。カントにおける生命言語論の欠如は、認識のカテゴリー表の欠陥を明らかにする。空間や時間を含めて、分量や性質、関係や様態等の区別(判断、思考の形式)は、生命的・言語的根拠をもたなければならない。カントは、思考の形式を抽出するために、言語と思考の関係を科学的経験的に究明する必要があるという問題意識を持つことができなかった。
◎「汝の意志の確率が普遍的立法に妥当するように行為せよ」(『道徳形而上学原論』)
★→カント道徳論の不都合な真実:普遍的立法は存在しない。多様な個々人の多様な信念から合意できる平均的確率のみが、社会契約によって普遍的立法とすることができる。我々にとって普遍的立法は、不断に創造し体得しなければならず、その過程が社会契約を実現することになる。
2)社会契約論──ロック・ルソー的社会契約の「不都合な真実」
◎人間は本来、万人が自由平等独立である?
「人間は本来、万人が自由平等独立であるから、何人も、自己の同意なしにこの状態を離れて他人の政治的権力に服従させられることはない。人が自分の自然の自由を棄て市民社会の覊伴のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである。その目的は、彼らの所有権の享有を確保し、かつ協同体に属さない者による侵害に対してより強い安全保障を確立し、彼らに安全、安楽かつ平和な生活を相互の間で得させることにある。」(ロック『市民政府論』鵜飼信成 訳 岩波書店 p100)
★→人間は本来、自由平等独立ではなく、相互の依存と制約と利害のもとにある。従って、協同体への同意は、無産者にとっては自由な契約と言うより、貧困への自由すなわち有産者への隷属にすぎなかった。ロックの言う所有権とは独立自営の有産者にとってのみ意味があり、従属的な無産者にとっては安全安楽よりも、生活の不安と抑圧の永続化を意味していた。
◎身体と財産の保護が公共の利益・一般意志?・・・財産はどのように獲得されるのか
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見いだすこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。」(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳 岩波書店 p29)
「各個人は、人間としては、一つの特殊意志を持ち、それは彼が市民としてもっている一般意志に反する、あるいは、それと異なるものである。彼の特殊な利益は、公共の利益とは全くちがったふうに彼に話しかけることもある。・・・・・・従って、社会契約を空虚な法規としないためには、この契約は、何びとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる。」(ルソー『社会契約論』 p35)
★→「一般意志」はルソーが考えるようには明確ではなく、むしろ多くの市民は特殊利益中心で生活している。また市民が自明のものとして「一般意志」を持っているのでもない。社会関係における利害(特殊意志)は、共同の意志や力で調整することができ、また全員がその調整を納得できるようにできるものでもない。個人は社会全体(共同利益)を直接に認識できるものではなく、人間(個人・市民)と人間の関係があって成立している。
 「一般意志」(共同利益・共同の幸福)は、与えられたものとして自明なのではなく、人間か創造し共通に了解していくものである。殺人や暴力は、現状では自己の利益のために合法化(合理化・正当化)される場合があるが、これらを人類社会として非合法化することも可能である。また財産を共同の力で守ることについては、正当な所得かどうかが吟味されねばならない。
 いずれにせよ、社会契約は、自明のもの、既定のものなのではなく、不断に検証し、社会的責任として自覚されなければならないのであって、その自覚の過程の必要性こそがまず「一般意志」として了解されねばならないのである。
3)古典派経済学──スミス・リカードゥ経済学の「不都合な真実」
◎同胞との取引の公平性はどう保証されるか?
「人間は、ほとんどつねにその同胞の助力を必要としていながら、しかもそれを同胞の仁愛だけに期待しても徒労である。そうするよりも、もしかれが、自分に有利になるように同胞の自愛心を刺激することができ、しかもかれが同胞に求めていることをかれのためにするのが同胞自身にも利益になるのだ、ということをしめしてやることができるならば、このほうがいっそう奏功する見込みが多い。およそどのような人でも、、他人にある種の取引を申し出る場合には、こういうことをしようと提案するものである。わたしのほしいものをください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう、というのがこのような申し出のあらゆる場合の意味なのであって、こういうふうにしてこそ、われわれは、自分たちが必要とする世話のはるか大部分のものを互いに受け取り合うのである。」(スミス『諸国民の富』大内・松川 訳 岩波書店(一)p118)
★→「経済学の父」とされるアダム・スミスは、同情心にもとづく道徳感情論を踏まえて、人間の利害関係(経済的交換関係)についての根源的な考察を行った。彼は交換における相互利益と分業による相互協力を重視し、それらに生じる競争は、調和的な社会の活力と進歩・発展を生み出し、諸国民を富ませると考えた。商品交換における彼の基本的な考え方が、願望を込めて上の引用文に述べられている。
 たしかに、諸個人が同胞への気配りをしながら相互利益を目ざせば、社会の諸階級・諸国民の調和的発展を生じるし、なんら「不都合」はないかにみえる。すべての同胞に便利で快適、豊かで充実した生活を支える社会的地位と収入・資産があれば何ら問題はない。しかし、スミスの考えるような交換と分業(生産)の世界(相互利益・経済発展)は、現実には、資本主義的競争が進行し、資本家間、大小企業間、資本家と労働者などの競争が激しくなり、資本を集積した大企業が、国家と一体化して国内の労働者の搾取と支配を強化し、海外へは植民地に対する収奪を強めていったのである。
 排他的利己的な利潤競争や貧富の格差を社会発展の原動力とする社会では、「同胞との取引(交換)」における商品の交換価値は、その商品所有者の社会的立場の強弱によって不公正・不等価にならざるを得ない。ある種の状況におかれた権力志向的人間は、同胞の自愛心を貨幣で刺激し、権力と貨幣による人間支配をも喜びとするようになるのである。
◎商品の交換価値はどのように決まるか
「商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その希少性からと、その獲得に要する労働量からとである。」(リカードゥ『経済学および課税の原理』羽島・古澤 訳 岩波書店 p18)
 「労働は、売買され、また分量が増減されうる他のすべてのものと同様に、その自然価格と市場価格とをもっている。労働の自然価格は、労働者たちが、平均的にみて、生存し、彼らの種族を増減なく永続することを可能にするのに必要な価格である。」(リカードゥ『経済学および課税の原理』羽島・吉澤 訳 岩波書店p136)
★→商品の交換価値は、交換の結果として決定するのであって、交換(取引)以前に決まるものではない。商品の効用や希少性・投下労働量は、取引の有力な判断材料ではあるが、商品所有者にとっては利潤の最大化もまた取引条件であり、交換相手を屈服させたいという欲望を満たす効用(ここに不等価交換の意味がある)をもつ。商品の効用だけが交換の動因ではなく、希少品を獲得するという欲望を満たすことは、単にそれを所有することの満足だけでなく、交換相手との交渉に有利な立場となったとき、取引の成功は相手への支配という一面をもつのである。交換の合意は必ずしも双方の利得を意味しないし、現実の市場競争はwin-winの関係とは限らないのである。
 「労働の自然価格」すなわち賃金は、不平等な立場の取引の典型である。労働(力)の所有者は、人間(労働者)であり、労働と人間は不可分の存在である。職場に人間を拘束しておいて、単に種族を永続させるのが自然価格であるとすれば、労働者には人間的な生活や向上を期待していないことになる。
マルクスはリカードゥの価値論を踏襲し、「労働の自然価格」を「等価」とみなして剰余価値論(搾取論)を構築したが、労働者を人間的な欲望をもつ存在と考えるならば、この「自然価格」とは、不平等で不公正な「人為的価格」「不等価交換」と考えざるを得ないのではないだろうか。
 市場に出された商品の価値は、その商品の生産の費用や商品への効用(必要度)、所有者の利益志向や力関係によって取引され、その結果、社会的標準的交換価値として評価され了解され、さらに立場の違いによっては強制される。その交換価値の評価は、次の商品交換(取引)において社会的評価の基準となりうるのである。
4)マルクス主義──マルクス的世界観の「不都合な真実」
  (本HP 「9 マルクス主義批判」 参照)
◎交換者は交換関係において受動的か?
「この価値の大いさは,つねに交換者の意志,予見,行為から独立に変化する。彼ら自身の社会的運動は,彼らにとっては物の運動の形態をとり,交換者はこの運動を規制するのではなくして,その運動に規制される。相互に独立して営まれるが,社会的分業の自然発生的構成分子として,あらゆる面において相互に依存している私的労働が,継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは,私的労働の生産物の偶然的で,つねに動揺せる交換関係において,その生産に社会的に必要なる労働時間が,規制的な自然法則として強力的に貫かれること,あたかも家が人の頭上に崩れかかる場合における重力の法則のようなものであるが,このことを経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには,その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。」(『資本論』向坂訳 岩波書店 p99)  
★→ 自由放任のもとでの資本制社会で,マルクスが人間の主体的判断を無視したのには,それだけの歴史的社会的条件があった。しかし今日では,人間は経済活動をある程度は政治的にコントロール可能なことを知っている。いわゆる独占資本主義が階級社会を貫徹するために,資本家や労働者に自制を求めそれを制度化しているのは,「重力の法則」と違って,労働価値説がマルクスの虚構の産物であることを端的に示している。マルクスの『資本論』が,「資本主義的生産の自然法則」(序文)を解明しようとした意図とは逆に,社会から人間の主体的判断を疎外することによって,『資本論』を似非科学の体系としたのである。

◎商品交換に内在的な法則=等価物の交換!!
「貨幣の資本への転化は、商品交換に内在的な法則の基礎の上に展開すべきものである。したがって、等価物の交換が出発点として考えられる。まだ資本家の蛹として存在しているにすぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売らなければならぬ。そしてそれにもかかわらず、この過程の終わりには、彼が投入したよりも多くの価値を引き出さねばならない。彼の蝶への発展は、流通部面で行われなければならず、また流通部面で行われるべきものでもない。これが問題の条件である。Hic Rhodus, hic salta !(ここがロドスだ、さあ跳べ!) 」(『資本論』向坂訳 岩波書店 p215)
★→「 商品交換に内在的な法則」とは、労働価値説に基づく等価交換の法則であるが、マルクスによれば、資本家は、剰余価値(利潤)を「等価物の交換」によって正当に獲得することになる。労働者の賃金は、労働力商品と「等価」で交換されるというのである。だが果たして労働者の賃金は、資本家(企業家)の利得と比較して正当な等価なのだろうか。貨幣なくして生活できない商品社会においては、資本(貨幣)を有する資本家(借金する企業家を含む)が強い立場にあり、貨幣をもたない「個々の」労働者と対等かつ正当な交換契約が成立することは一般的にはない。労働者保護法はそのような観点から立法されたものであった。リカードゥが懸念し、マルクスが明確にした剰余価値の搾取は、不当な交換契約(不等価交換)そのものによるのであって、マルクスが論証したとする生産過程の中で隠蔽されているとされるたものではない。不正義な交換は、交換契約そのものの透明化によって解決しなければならない。すなわち、人間の人格を破壊するような労働を強制し、自己の労働の何倍もの収入を獲得することが、正義の原則に適い道徳的に許される行為なのかということが問題視されねばならないのである。
5)功利主義──ベンサム・ミルの哲学と経済学の「不都合な真実」
◎ 幸福こそ道徳の基準!・・・・主観的幸福・刹那的幸福・持続的幸福
「『功利』または『最大幸福の原理』を、道徳的行為の基礎として受け入れる信条に従えば、行為は幸福をます程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味する。」
 「幸福こそ人間の行為の唯一の目的であり、幸福の増進はあらゆる人間行動を判断する判定基準である。そこから必然的にこう結論できる。幸福こそ道徳の基準でなければならない、部分(幸福の手段)は全体(幸福)の中に含まれているからである、と。」(J.S.ミル『功利主義論』伊原 訳 中央公論社)
★→生物学的にみれば、快楽や幸福の追求は、人間(動物)にとっての生存のための方便であり生存活動における過程である。快楽や幸福は、生きるため、すなわち個体維持と種族維持のために人間に備わっている生物学的反応様式である。人間は、快楽を求め不快を避けるのを行動の基準とする。しかし、人間存在にとって重要なのは、快楽の追求自体が人生の目的になるべきなのではなく、個体を維持し生き続けることでなければならない。人間の生存が何を目的としているか、何のために生き、何のために快楽を追求するのかは、倫理や道徳の基本として考えられねばならない。
 西洋的思考方法にとっては、人間そのものの生存よりも、自己対象化活動とそのための認識を生存の意味と捉える傾向が強かった。神によって創造されたもの(被造物=受動的存在)としての西洋的人間存在は、人生を生きること、生き続けることそのものを価値あるものと捉えることが困難であった。人生を謳歌するルネサンスでさえ、人間は死すべきものであるがゆえに神の庇護を必要としながら進歩と快楽を得ようとしたのである。
 功利主義の倫理観は、神への依存をさらに弱めたけれども、『功利』または『最大幸福』を人生の目標と考えたために、功利や幸福の目的自体が何であるかという考察を軽視した。そこに一貫してみられるのは、理性的観念的に構想された自己対象化活動や自己発展的活動であった。西洋的科学主義や個人主義、キリスト教拡大を伴う植民地主義・帝国主義、さらに現象学や実存哲学・弁証法でさえ合理的な自己対象化活動である。それらに共通にみられる原理は自然と人間(自己)の支配であった。西洋においては自然を越える観念的合理的永遠性や完全性(プラトンのイデアはその代表)の追求が目的であって、自然そのものの永遠(無限)性や多様性・感覚性は、求めるべき関心の対象とはならなかった。
 快楽を求めることを否定するべきではない。どのような快楽が人間にとって望ましいのかが問われなければならないのである。
6)新古典派経済学──ワルラス・マーシャル的限界効用理論の「不都合な真実
 ◎不都合の基準
 <商品の交換価値(価格)の決定>
@ 商品の交換は、市場における商品所有者間の暗黙または公然の契約(合意)によって成立する。

A 商品所有者は、交換において相互の商品の価値と損益を比較考量して、交換するか否かを決める。

B 相互の商品の比較考量は、供給側は自己商品の価値を高く評価し、需要側は相手商品の価値を低くみようとするが、自己の商品の生産・獲得に要した費用(労働量・原材料等の資本)、商品の効用・満足度、商品所有量(必要不必要度・需要供給量)、損益度(利益率の増加:安く買い、安く作り、高く売る)などを基準としてなされる。

C 商品交換の成立により、相互の商品の価値が相対的に評価され、交換価値が交換当事者間で定まる。ここに貨幣商品が介在すると商品価格として数量的に表現される。この取引成立による交換価値(価格)は、他の多くの交換の判断基準となり、社会的平均的市場価格(均衡価格・相場)を成立させる。

D 平均的市場価格は、商品と商品所有者(生産者)をめぐる条件──生産技術の革新、新商品の発明、宣伝や流行、大量生産、価格競争の激化、需給量等々──によって、不断に変動するもので、完全自由競争による「均衡」状態とは、西洋的な理念重視の観念と現状を肯定しようとする立場の経済学者の願望の表現にほかならない。

E 交換価値(価格)の決定は、完全不完全競争にかかわらず商品所有者(需要・供給の主体)の社会的力関係によって左右され、需給量はその力関係における一つの重要な要因にすぎない。弱い立場の労働者・消費者・中小業者は、自由な選択権は持つけれども、強い立場の企業(大資本家経営者)の価格支配力に個々人での対抗は困難である。ここに、多様な民主政治による多様な政策的市場介入の余地が生ずる。
<限界効用理論の誤り>
@ 需要量・供給量と価格の関数(需給曲線、需給量と価格の関係)は、交換成立すなわち価格決定の一条件を示すにすぎない。交換の成立は、交換主体(需給者)の欲望や意図・判断・力関係を除いてありえない。需要者は、単に安価な商品を求めるばかりでなく、その質や独自性も求める。また供給者は多量の商品を高価に売るために宣伝や供給調整、独占や寡占、特許制度を利用する。さらに市場均衡の前提となる完全な競争というものは、現実には今までなかったし、今後もありえない。新古典派経済学者の経済分析は、資本主義市場では、現実の不平等と不公正と不道徳を隠蔽するものになっている。

A 完全自由競争を前提とした分析手法は、商品所有者の平等と自立、理性的存在を前提としている。しかし、現実における利潤追求の過酷な競争は、企業や家計において不平等と支配・依存の関係を再生産し、動物的な無意識的情緒的反応や不安を駆りたて、人間を単なる労務提供者、与えられた商品消費の享楽者にしようとしている。効用とは単に直接的な消費による欲望の充足だけでなく、利潤を拡大する欲望、貨幣による人間支配の欲望(効用)をも含むものである。

B 資本主義市場では、企業(資本家・商品供給者)の利潤原理が優先され、ワルラスの考える商品の希少性、すなわち「効用と量の制限」が、商品の価値を決める、という現実にはなっていない。供給者としての企業は、効用を商品化するばかりではなく、利潤のために希少性を利用し、需要者である消費者を供給者側の価格設定の独占的支配下におこうとする。また需要者としての企業は、労働力商品(人間)の効用を高め安価なものとするため競争を操作し、雇用水準を低下させ(量の制限)て労働力の価値の低減を図ろうとする。そのため消費者は不必要で有害な商品を押しつけられ(娯楽商品に多い)、労働者は競争のもとに低賃金と孤立化を強いられる。ワルラス市場における限界効用理論は、数学を用いた純粋科学理論の体裁を採りながら、現実においては「強者の支配による市場均衡」を隠蔽・奨励・擁護・願望しているのである。
◎商品価値は自然的事実?!よく考えよう
「小麦1ヘクトリットルは24フランの価値がある。まず第一に、この事実は自然的事実の性質をもっていることを注意しよう。銀であらわした小麦のこの価値すなわちこの小麦の価格は、売り手の意志から生じたものででもなく、買い手の意志から生じたものでもなく、またこの二人の意志の合致から生じたものでもない。売り手はもっと高く売りたいのであるがそうすることができない。なぜなら、小麦はこれ以上の価値がないからであり、また売り手がこの価格で売ることを欲しなければ、買い手はこの価格で売ろうとしている他の幾人かの売り手を見いだし得るからである。」(レオン・ワルラス『純粋経済学要論』久武雅夫訳 岩波書店 p36 下線は引用者による)
★→ ワルラスの主張には、基本的な事実誤認がある。小麦1HLは、24フランの価値があるというのは自然的な事実ではなく、社会的な、それゆえに一時的または平均的な事実である。ワルラスが「自然的」というのは、自然科学的というのを含意している。「24フランの価値がある」というのは、交換価値(価格)の変動性を留保して、まず理念的な均衡価格の存在を強調したいがための一方的な思い込みである。「小麦はこれ以上の価値がないから」24フランなのではなく、需給関係の一時的な結果にすぎない。そのような結果を、社会的定在とみなしたいのはわかるが、それは労働価値説と同じような思い込みにすぎない。しかもワルラスも認めるように、買い手も売り手も個々には「24フラン」が適正な均衡価格とみなしているとは限らないから、変動こそが自然的事実と言えるのである。ワルラスのいう「他の幾人かの売り手を見いだし得る」という可能性もまた「ワルラス(限定・純粋)市場」における思い込みにすぎない。商品価格は基本的に市場における従属変数であり、無数の社会的交換の結果なのである。結果は次の交換の価値判断の材料にはなるが、独立変数ではありえない。重要なのは需給量でも結果としての価格でもなく、商品を所有し交換の主体となる人間の価値判断(どのような効用を意図しているか)なのである。儲けるために売ろうとする商品には、様々なバイアス(不正、独占、偽装等)がかかって取引価格が決定する。
◎完全競争?
 「我々は初めから終わりまで
完全競争の仮定の下に進むであろう。すなわち、売り手が自分の行う販売によって価格に影響の及ぶことを打算することから起こってくるような、供給への影響をほとんどつねに無視するであろう。(需要についても同様である。)事実においては、供給および需要の多くはおそらくある程度までこのような打算によって影響されている。否、それらは著しい程度にまで影響されているのかもしれない。けれども最も単純な問題においての他は、この影響に考慮を払うことは非常に困難である。だから、不完全競争にヨリ多くの注意を払ったならば本書の分析は確かに改善されたのであろうが、わたくしとしては、本書の比較的重要な成果がこの省略によってさほど傷つけられるとは思わない。が、それは明らかに時機を得て吟味される必要のある問題である。」(J.R.ヒックス『価値と資本』安井・熊谷 訳 岩波書店P39)
★→ヒックスは正直な経済学者である。新古典派経済学の「完全競争の仮定」に欠陥(不都合)があることをよく知っていた。現象の単純化は合理的精神の一つの条件ではある。しかし、不都合があることを洞察している場合でも、自己の社会的階級的立場や問題意識の欠如から来る偏見によって、真実を見抜くことは困難である場合が多いものである。完全競争なるものは、これまでなかったし、現在もないし、これからもないであろう。マルクスの「等価交換」と同様に、「完全競争」もまた現実を隠蔽する有害な神話(虚構)にすぎない。
◎すべての富は望ましい?・・・富はgoodとは限らない
「すべての富は望ましいものからなっている。換言すれば人間の欲求を直接間接に満たすものからなっている。しかし望ましいものがすべて富に算えられるわけではない。たとえば友情は福祉の重要な要素であるが、富には算えられない、・・・・・。望ましいすべてのもの、人間の欲求を満たすすべてのを表現する通常に使用される短い言葉がないために、財 goods という言葉を用いてよいであろう。」(マーシャル『経済学原理』永沢 訳 第1分冊p76)
★→「すべての富は望ましいものからなっている。」というのは吟味を要する表現である。たとえば武器は自己を防衛し敵を倒す富であるが、人を殺傷し富を破壊する富でもある。これを望ましいとみなすのは強者の論理である。ある人にとっての望ましい富(武器,薬物等)は、他の人にとっては忌避すべき富であり、ある時代の望ましい富(PCB,アスベスト等)は、他の時代には廃棄すべき富である。富はその使用の仕方や有害性によって good にもなれば bad にもなる。人間の欲求を肯定的にのみ捉えるのは功利主義の伝統であるが、同時に近代における経済学の伝統でもある。
◎ 価値は何に支配されるか?・・・問題からの逃避
「価値は生産費によって支配されるか効用によって支配されるかを問うことは、紙を切るのが鋏の上刃であるか下刃であるかを問うのと、同じ程度の合理性しか持たないといってよいかも知れない。」(マーシャル『経済学原理』永沢 訳 第3分冊p37)
★→この有名なフレーズは、彼の理論を正当化するのによく用いられてきた。しか、しこれは交換価値の本質を隠蔽するのに役立っている。なぜなら生産や効用を前面に押し出し、古典派と新古典派経済学の統一という外見を作ることによって、交換における供給者の利潤最大化の意図や交換の成立(価値決定)における社会的力関係(不公正な競争関係)を見抜くことを排除しようとしているからである。このことはとりわけ近代化された営利至上の企業が、大量生産によって大量消費(大量需要)を必要とする場合に顕著になっている。このような企業は、宣伝や広告を用いることによって需要者の効用(欲望・生活)をも支配しようとするのである。さらに労働力商品の価値については、生産費(賃金)を切り下げ、労働力の効用を高める(労働強化)ことによって労働者(人間)支配を進めようとするのである。つまり資本主義経済の本質(すべてではないが)は、価値(労働力の価値を含む)が企業の利益至上主義によって支配(創造)されることであり、新古典派経済学は、その本質を隠蔽することになるのである。
 
7)新自由主義──ハイエク・フリードマンの「社会的自覚なき自由」の「不都合」
◎自由と福祉国家論について
 「政府の介入や干渉のいっそうの増大を、という大きな運動は、何か悪いことをしてやろうという、邪悪な意図を持った人々によって、もたらされたでは決してありません。政府による統制活動が、大幅に増大してきたのは、善意に満ち満ちた人々が、社会のために善いことをしようとした結果、生み出されてきたのです。・・・・・・・(しかし問題は)、他人の資金で、社会のために善いことをしようとする、最初の道のりは楽なものです。そこには、一方において、税金を支払ってくれる多数の人々がおり、他方においては、社会福祉政策によって、善いことをする対象となる人々の数は、まだ少数だからです。けれども、この道を進んでいくにつれて、状態は一方的に困難なものになって行きます。社会福祉政策による利益を受ける人々の数が、増大して行くにつれて、人口の50%の人々を助けるために、残りの50%に税金を課さなくてはならなくなるでしょう。それどころか、社会福祉政策の恩恵を、人口の全員にもたらすために、全員に重税を課さなくてはならなくなるでしょう。」(フリードマン,M.『フリードマンの思想─危機に立つ自由』西山千明 編訳 東京新聞出版局 p185)
 ★→複雑に発展する経済社会の利害の調整を、政治が行おうとすれば、政府権力や官僚機構とともに国家財政(税金)が増大し、社会的浪費と財政破綻が起こるのは一般的には当然のことである。財政を縮小しようとして、弱肉強食と優勝劣敗の市場原理主義にまかせようとすれば、道徳の退廃と拝金主義、社会的格差と矛盾を増大させ、大衆の不満が募って、政治権力の介入が必要となる。そして特殊利益保護のための財政の出動と自由競争の規制が行われることになり、フリードマンの恐れる事態となる。しかし、大衆迎合の民主主義システムは、基本的に他人の金すなわち国家財政に依存しようとするから、増税が必要となる。好景気によって経済成長があれば税収は増大するが、成長が鈍化して増税が社会的合意を得られなければ再び市場原理主義が台頭し、市場原理主義と小さな政府が求められる。この循環ないし変動を制御可能なものにするためには、消費の拡大や技術革新(産業構造の転換)による適度な経済成長が必要である。

 しかし、世界経済は、資源エネルギー問題や環境問題、南北問題など国家利害の対立を含みながら成長の限界を迎えている。アメリカ一国主義的繁栄を前提としたフリードマンの自由の概念はもはや神話となりつつある。ルソーも言うように人間の根源的な自由の感情は、第一義的に配慮されなければならない。
自由こそは幸福や創造的精神の原動力である。しかし、今や何を選択するかの自由が問われている。自由は利己心と表裏一体の関係(私の自由勝手です!)にあるために、何を選択するかの知識と知恵(判断力)の質が問われなければならない。結論的には、英米の功利主義的人間理解に基づく福祉国家論では、人類の直面するグローバルな政治経済的困難を解決できない。自由と民主主義、基本的人権の保障を前提として、社会的自覚と主体的な社会参加をめざし、自助と共助を原則とし、公助を生存の権利と義務(社会正義)と考える社会契約を不断に確認できる社会システムの実現以外にはありえない。
◎不平等が人類の進歩の条件!?
「少数者によって享受され、大衆が夢にも見なかった贅沢または浪費とさえ今日思われるかも知れないものは、最終的には多数の人々が利用できる生活様式の実験のための出費である。試行され、後の発展するものの範囲、全ての人に利用可能になる経験の蓄積は、現時点の利益の不平等な分配によって大幅に拡大する。つまり、最初の段階に長い時間を要し、その後に多数がそれから利益が得ることができるならば、前進の割合が大いに増加するのである。・・・・・・今日の貧しいものでさえ自分たちの相対的な物質的幸福を過去の不平等の結果に負っているのである。」(ハイエク『自由の条件T自由の価値』気賀、古賀 訳 春秋社 p66)
★→ハイエクは、少数者または収奪者(強者)の富の独占と永遠の貧富の差を、自由の名によって肯定し、人類の進歩と発展の必要条件と考える。たしかに、人間の福祉にとって豊かな富は必要不可欠であり、自由な競争は進歩と発展の活力を生み出した。そして、その利益はまずは少数者の独占するところとなり、多数者の民主的な活動によって広く分配されることになった。

 しかし、「現時点の利益の不平等な分配」は、過去においては不平等・不等価で一方的な収奪であったし、今日においても多数者には労働強化や詐欺的な商品売買などによって、
不当な利益が少数者に集積している。さらに、大衆化した贅沢や浪費は、不道徳と不正義と社会的腐敗と地球環境の破壊につながる。ハイエクの論理によれば、少数者はいつまでも贅沢を享受し、貧しいものは未来においても貧しいことが、人類の発展と前進に必要なのである。彼は社会進化の非合理性を合理化し、理性的論理によって社会的な貧困・抑圧・腐敗を温存しようとする。これはハイエク的反合理主義哲学の論理矛盾であり、人間理性の構成的可能性に対する無知であり、その理性(思考力)による人間の肯定的・創造的な実践に対する挑戦である。

 今日では、地球的規模で起こる環境破壊と地球温暖化に緊急に対応することに加えて、資源エネルギー問題や成長の限界、南北問題に代表される地球規模の格差、そしてそれらの問題から利害や権益の対立と戦争や混乱が予想される。もはや、
人類は、ハイエクの言う自生的秩序論や合理主義批判では解決できない深刻な問題に直面しているのである。アル・ゴア氏の例えを借りるなら、ハイエクの理論は「ゆでかえる」のように目先に危機が迫らないと自己のおかれた状況がつかめないであろう。そして、気づかないかも知れないが、気づいたときには最早手遅れなのである。
◎社会正義と強欲
「『社会的正義』という福音は、はるかに下劣な心情を目ざしている場合が一層多い。そうした心情は、ジョン・スチュアート・ミルが『すべての熱情の中で最も邪悪で反社会的なもの』とよんだ自分より暮らし向きの良い人々に対する憎悪または単なる羨望であり、他者が基本的ニーズすら満たされていない一方で、ある人々が富を享受していることを『スキャンダル』として表明する大きな富に対する敵意であり、正義を処理すべき何ものをももっていないものを正義の名の下に偽装することである。少なくとも、より多くのものを受けるに値するある人々がその富の享受にあずかることを期待するからではなく、富者の存在を人の道に外れたものとみなすが故に、富者を略奪することを願う人は、全て、彼らの要求にいかなる道徳的正当性をも求めることができないばかりか、全く不合理な熱情にひたっているのであり、事実、彼らが強欲な本能に訴えかける当の人々を害しているのである。」(ハイエク『法と立法と自由U 社会正義の幻想』篠塚 訳 春秋社 p138)
★→この引用文において、ハイエクがマルクスなどの社会主義者に対し、どれほど強い敵意を抱いていたかがわかる。しかし、貧富の格差是正を求める社会的正義は、ギリシアの昔以来、ソクラテス・プラトンの素朴な見解や、経験主義的手法を用いて中庸を求めたアリストテレスの「倫理学」や「政治学」において十分に理性的に公正に吟味されてきた。ハイエクの言うような、富者に対する「下劣な心情」は虐げられた一部の人々や権力者の心情であって、ミルですら社会主義には好意的な姿勢を示している。
 人間理性に対する懐疑や不信は、未来への希望を喪失させる。人間の人間たるゆえんは、人間理性を信頼し人間理性の限界性を認識しつつ(そのためには言語理解と西洋的思考様式の限界性の認識を前提とするが)、過去と現在の科学的分析に基づいて、望ましい未来を構築することである。ハイエクがその努力を怠り(または放棄し)、市場原理主義に依存してしまったことは知的敗北といわざるを得ない。 たしかに科学的社会主義と自称した人々に、科学と知識に対する理解と謙虚さがなく、決定論と下劣な熱情を鼓舞して多くの犠牲を出したことはたしかである。しかし人間の社会的自覚や利他心、福祉や公共の精神までも排除する自由競争万能の市場主義は、地球環境の保全という人類的課題を解決するためには極めて不都合な理論である。人類の持続的生存のためには、利己的営利追求を万能と考えるようなビジネスモデルを克服する(利己心という人間本性は克服できないが)新しい社会経済政治的モデルが必要とされているのである。
◎才能を発揮できる機会は公正か
「自由社会に対してむけられるもっとも重大な非難、もっとも厳しい怨恨の源はおそらく、自由社会において誰も人の才能の適切な用途を知る義務を負わず、誰もその特別な天賦の才能を用いる機会にたいする請求権を持たないこと、かれ自身がそのような機会を見つけなければ、その才能は浪費されるように思われることにある。・・・・・/有用性の範囲、適切な仕事を自ら見つけ出さなければならないということは、自由社会がわれわれに課するもっとも困難な規律である。けれどもそれは自由と切り離しがたいものである。・・・・・自由社会の本質は、人の価値や報酬が抽象的な能力に依存するのではなく、対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずることに依存しているところにある。そして自由の主要な目標は、一個人が獲得できる知識の最大限の利用を保証する機会と誘因の両方を提供することである。」(ハイエク『自由の条件T自由の価値』気賀、古賀 訳 春秋社 p115)
★→個人の才能を育成・開花させ、能力適性に見合う適切な職業を就くことは、生涯の良き伴侶を見いだすのと同様、人生にとって最大の選択的課題である。これは自由社会に限らず、社会主義社会においても同様である。しかし、ハイエクのいう自由社会(自由競争・市場原理の社会)では、経済的に恵まれない多数者にとっては、個人の能力の育成(子育てから職業教育にいたるまで)は生まれる前から競争原理にさらされるだけで十分な教育の機会を得られないのが通常である。個人の成長の意欲に反して教育機会を奪われ、自己の能力を発揮できずに転職し挫折する若者があまりにも多いのが自由社会の現実である。自由社会は、少数の勝ち組(勝者)を作って多くの負け組(落伍者)を産みだし、格差を作ってそれを維持していこうとする社会であるから、多少の栄枯盛衰(勝者と敗者の交代)はあってもまた公正な競争をめざそうとしても限界がある。格差社会では公正な競争の前提(出発点)となる教育機会の均等は、義務教育制度の下である程度は確保されるが、家庭教育の面での経済的余裕のなさは格差を助長させろ一因となっている。また、大企業における組織的労働への競争的評価の導入は、協働に必要な表面的従順性・協調性・積極性と内面的不信・不安・敵愾心に満たされ、ストレスによるうつ病などの精神疾患や心身病、家庭の崩壊状況を生じさせる要因となっている。
 また「対価を支払う他者(すなわち経営者・資本家)にとって有用な具体的サービス」を提供する労働者・従業員間の競争は、就職(入社)試験時の能力だけでなく、出世のための競争能力に及び、いかに他人を利用しまた利用されるか、またそれによっていかなる成果を上げたかが、人の価値や報酬(名誉や地位)を決定することになる。個人的事業ならともかく、発達した資本主義において能力を生かせる主要な場は組織化された企業であり、そこでは他人は目的とされずに手段として扱われ、道徳的資質は出世の妨げとなり、組織の歯車として働くことが要求される。不正は組織ぐるみで隠蔽され、「一個人が獲得できる知識」は、利潤追求・効率重視に限定され、人間的なつながりや仕事への充実感は排除される。自由社会では、生産性は上がるがその果実は、地位と報酬を獲得目標とするため、そして面従腹背を強いられるために、人間の道徳性が破壊され人心の荒廃を招くのである。

8)ケインズ経済学、ロールズ正義論は「不都合な真実」を解決しうるか。
◎ケインズ:有効需要の創出による失業と不況の解消は、正義(格差原理)に適い、成長の限界と矛盾しないか。
◎ロールズ:正義の原理(格差原理)は、格差の根源を解明し、地球規模の格差と成長の限界に対応しうるか。
 ・地球規模の破壊と対立を生じている経済と政治の問題にどのように対応するか、「成長の限界」をどう評価して政策に生かすか。
 ・国家的な功利(欲望)と利害対立(市場)の経済学から、地球的な正義の経済学をどのように構築していくか。
 ・いま、新自由主義と旧社会主義の神話、そしてその前提にある功利(享楽)主義の神話をどのようにして克服するかが問われている。
 ・地球的危機を救うためには、政治や経済に新しいモラル(道徳)を導入し、新たな契約を広めることが必要である。そのために従来の宗教・哲学・思想の「不都合」を解明し、政治経済の基礎をなす人間存在の哲学を確立することが求められるのではないだろうか。

6.「不都合な真実」の克服は可能であるか。
    ──ピンチをチャンスに変えることができる──

 人間は物質的情動的的感性的存在であるとともに、意識的精神的理性的存在である。人間の理性的言語的認識は、感性的認識と結合して行動を方向づけ、人間存在の社会的在り方そのものを変えることができる。
 人類共通の「不都合な真実」に、正しく目を向けるならば、人類共通の利益すなわち人類共同体の平和と福祉は実現できる。そのために、地上の生命と人間存在の意義、原始宗教を含む
人類文明1万年余りの知恵の批判的検討が必要になる。
 あらゆる呪術や宗教、哲学や思想がめざした持続的究極的幸福の追求(人生苦の克服)は、苦しみや禍をもたらす「不都合な真実」の解釈(原因の解明)とその処方箋によって成立している。死すべき存在、病気や災厄、反目や裏切り、抑圧や差別等々の不都合は、生命と人間存在の科学的究明とその存在価値の確立、そして幸福であることへの希望と努力によって克服が可能である。
 しかし、それらの不都合の克服のためには、不都合を避けたり誤魔化したりせず、まずその不都合の存在そのものに向き合わなければならない。人間の幸福感は本質的に刹那的生理的なものであり、主観的個人的に決定されるが、その主観は歴史的社会的な制約をもち、他者との比較(物質的精神的判断と競争)において成立する。大切なことは人生の「不都合な真実」についての問題意識を持ち言語化することである。非科学的で根拠のない不安や確信、または快楽や現状維持は「真実」を見抜くためには障害となる。
 地球温暖化による生命環境の危機は、人類共同体の一員としての自覚のためのチャンスでもある。どのようなチャンスなのか。危機を共有することによって、世界の一体化をより促進することができる。宇宙船地球号の乗組員として、様々の文明や伝統文化の違いを乗り越え、生命と人類に共通の価値を創造することができる。仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして様々な自然宗教の違いと対立を乗り越えることができる。過度の競争と格差によって破壊されてきた人間の善性と道徳性を再創造することができる。
 人間は宇宙や自然の無限性に対してあまりにも微力であるが、神や仏、天国(極楽)や地獄を創造することによって自己の存在を合理化(強化)し、社会の秩序を維持し、現在と未来に対して安心と幸福を確立しようとしてきた。しかし今や我々は、過去に人間を規定し、現在に不安と不信と対立を引き起こしている様々の信念・宗教や格差・地球環境破壊等の「不都合な真実」を克服し、
新しい歴史を創造する希望を持つことができるのである。
 「私たちは、21世紀を再生の時代にするという選択をしなければならない。この危機に内包されているチャンスをつかむことで、創造力やイノベーション、インスピレーションを解き放つことができる。こういったものは、強欲や狭量に陥りやすい人間の性(サガ)と同じく、私たち人間に生まれつき備わっているのだ。未来は私たちのものなのである。」(アル・ゴア『不都合な真実』枝廣淳子 訳)
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(資料 )--------------------------------------------------------------------------------
   気候変動に関する国際連合枠組条約
-United Nations Framework Convention on Climate Change/UNFCCC-
作 成  1992年5月9日(ニューヨーク)効力発生  1994年3月 21日
日本国  1992年6月 13日署名、 93年5月 14日国会承認、5月 28日受諾の内閣決定、同日受諾書寄託、 94年6月 21日公布・条約第6号、3月 21日発効
[出典:官報]

この条約の締約国は、
 地球の気候の変動及びその悪影響が人類の共通の関心事であることを確認し、
 人間活動が大気中の温室効果ガスの濃度を著しく増加させてきていること、その増加が自然の温室効果 を増大させていること並びにこのことが、地表及び地球の大気を全体として追加的に温暖化することとなり、自然の生態系及び人類に悪影響を及ぼすおそれがあることを憂慮し、


 過去及び現在における世界全体の温室効果ガスの排出量の最大の部分を占めるのは先進国において排出されたものであること、開発途上国における一人当たりの排出量 は依然として比較的少ないこと並びに世界全体の排出量において開発途上国における排出量 が占める割合はこれらの国の社会的な及び開発のためのニーズに応じて増加していくことに留意し、


 温室効果ガスの吸収源及び貯蔵庫の陸上及び海洋の生態系における役割及び重要性を認識し、
 気候変動の予測には、特に、その時期、規模及び地域的な特性に関して多くの不確実性があることに留意し、


 気候変動が地球的規模の性格を有することから、すべての国が、それぞれ共通 に有しているが差異のある責任、各国の能力並びに各国の社会的及び経済的状況に応じ、できる限り広範な協力を行うこと及び効果 的かつ適当な国際的対応に参加することが必要であることを確認し、
  1972年6月 16日にストックホルムで採択された国際連合人間環境会議の宣言の関連規定を想起し、
 諸国は、国際連合憲章及び国際法の諸原則に基づき、その資源を自国の環境政策及び開発政策に従って開発する主権的権利を有すること並びに自国の管轄又は管理の下における活動が他国の環境又はいずれの国の管轄にも属さない区域の環境を害さないことを確保する責任を有することを想起し、


 気候変動に対処するための国際協力における国家の主権の原則を再確認し、
 諸国が環境に関する効果的な法令を制定すべきであること、環境基準、環境の管理に当たっての目標及び環境問題における優先度はこれらが適用される環境及び開発の状況を反映すべきであること、並びにある国の適用する基準が他の国(特に開発途上国)にとって不適当なものとなり、不当な経済的及び社会的損失をもたらすものとなるおそれがあることを認め、


 国際連合環境開発会議に関する 1989年 12月 22日の国際連合総会決議第 228号(第 44回会期)並びに人類の現在及び将来の世代のための地球的規模の気候の保護に関する 1988年 12月6日の国際連合総会決議第 53号(第 43回会期)、 1989年 12月 22日の同決議第 207号(第 44回会期)、 1990年 12月 21日の同決議第 212号(第 45回会期)及び 1991年 12月 19日の同決議第 169号(第 46回会期)を想定し、
 海面の上昇が島及び沿岸地域(特に低地の沿岸地域)に及ぼし得る悪影響に関する 1989年 12月 22日の国際連合総会決議第 206号(第 44回会期)の規定及び砂漠化に対処するための行動計画の実施に関する 1989年 12月 19日の国際連合総会決議第 172号(第 44回会期)関連規定を想起し、


 更に、 1985年のオゾン層保護のためのウィーン条約並びに 1990年6月 29日に調整され及び改正された 1987年のオゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書(以下「モントリオール議定書」という。)を想起し、
  1990年 11月7日に採択された第2回世界気候会議の閣僚宣言に留意し、
 多くの国が気候変動に関して有益な分析を行っていること並びに国際連合の諸機関(特に、世界気象機関、国際連合環境計画)その他の国際機関及び政府間機関が科学的研究の成果 の交換及び研究の調整について重要な貢献を行っていることを意識し、


 気候変動を理解し及びこれに対処するために必要な措置は、関連する科学、技術及び経済の分野における考察に基礎を置き、かつ、これらの分野において新たに得られた知見に照らして絶えず再評価される場合には、環境上、社会上及び経済上最も効果 的なものになることを認め、
 気候変動に対処するための種々の措置は、それ自体経済的に正当化し得ること及びその他の環境問題の解決に役立ち得ることを認め、
 先進国が、明確な優先順位に基づき、すべての温室効果ガスを考慮に入れ、かつ、それらのガスがそれぞれ温室効果 の増大に対して与える相対的な影響を十分勘案した包括的な対応戦略(地球的、国家的及び合意がある場合には地域的な規模のもの)に向けた第一歩として、直ちに柔軟に行動することが必要であることを認め、


 更に、標高の低い島嶼(しょ)国その他の島嶼(しょ)国、低地の沿岸地域、乾燥地域若しくは半乾燥地域又は洪水、干ばつ若しくは砂漠化のおそれのある地域を有する国及びぜい弱な山岳の生態系を有する開発途上国は、特に気候変動の悪影響を受けやすいことを認め、
 経済が化石燃料の生産、使用及び輸出に特に依存している国(特に開発途上国)について、温室効果 ガスの排出抑制に関してとられる措置の結果特別な困難が生ずることを認め、


 持続的な経済成長の達成及び貧困の撲滅という開発途上国の正当かつ優先的な要請を十分に考慮し、気候変動への対応については、社会及び経済の開発に対する悪影響を回避するため、これらの開発との間で総合的な調整が図られるべきであることを確認し、
 すべての国(特に開発途上国)が社会及び経済の持続可能な開発の達成のための資源の取得の機会を必要としていること、並びに開発途上国がそのような開発の達成という目標に向かって前進するため、一層高いエネルギー効率の達成及び温室効果 ガスの排出の一般的な抑制の可能性(特に、新たな技術が経済的にも社会的にも有利な条件で利用されることによるそのような可能性)をも考慮に入れつつ、そのエネルギー消費を増加させる必要があることを認め、


 現在及び将来の世代のために気候系を保護することを決意して、
 次のとおり協定した。

<以下略 HP参照
http://www.gispri.or.jp/kankyo/unfccc/ccintl.html >
 京都議定書概要  http://www.env.go.jp/earth/cop6/3-2.html
                
http://www.env.go.jp/earth/ondanka/mechanism/gaiyo_k.pdf
                
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/kiko/cop3/k_koshi.html 
 
(資料)-----------------------------------------------------------------
報道発表資料
平成19
2月2日
文部科学省 経済産業省 気象庁 環境省
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書
1 作業部会報告書(自然科学的根拠)の公表について
はじめに
 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1 作業部会第10 回会合(平成19 年1 月29 日〜2月1 日、於 フランス・パリ)において、IPCC 第4 次評価報告書第1 作業部会報告書(自然科学的根拠)の政策決定者向け要約(SPM)が承認1されるとともに、第1 作業部会報告書本体が受諾2された(IPCC の概要については別紙2 を参照)。
 過去3 年間にわたる取りまとめ作業の仕上げとなる本会合での議論により、地球温暖化の実態と今後の見通しについての、自然科学的根拠に基づく最新の知見を、本報告書にバランスよく取りまとめることができた。今後本報告書は、「気候変動に関する国際連合枠組条約」をはじめとする、地球温暖化対策のための様々な議論に科学的根拠を与える重要な資料となると評価される。
 同報告書の取りまとめに当たり、わが国の多くの研究者の論文が採用されたほか、報告書の原稿執筆や最終取りまとめにおいてわが国は積極的な貢献を行ってきた。
IPCC 第1 作業部会第10 回会合の概要
開催月日:平成19 年1 月29 日(月)から2 月1 日(木)までの4 日間
開催場所:国連教育科学文化機関(UNESCO)本部(フランス・パリ)
出席者:107 か国の代表、世界気象機関(WMO)、国連環境計画(UNEP)等の国際機関等から合計306 名が出席。わが国からは、経済産業省、気象庁、環境省などから計9 名が出席した。
報告書の主な結論
 同報告書SPM の主な結論は以下の通りである(SPM の概要を別紙1に示す)。
●. 気候システムに温暖化が起こっていると断定するとともに、人為起源の温室効果ガスの増加が温暖化の原因とほぼ断定。(第3 次評価報告書の「可能性が高い」より踏み込んだ表現)
●. 20 世紀後半の北半球の平均気温は、過去1300 年間の内で最も高温で、最近12 年(1995〜2006 年)のうち、1996 年を除く11 年の世界の地上気温は、1850 年以降で最も温暖な12 年の中に入る。
●. 過去100 年に、世界平均気温が長期的に0.74℃(1906〜2005 年)上昇。最近50 年間の長期傾向は、過去100 年のほぼ2 倍。
●. 1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均気温上昇は、環境の保全と経済の発展が地球規模で両立する社会においては、約1.8℃(1.1℃〜2.9℃)である一方、化石エネルギー源を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では約4.0℃(2.4℃〜6.4℃)と予測(第3 次評価報告書ではシナリオを区別せず1.4〜5.8℃)
●. 1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均海面水位上昇は、環境の保全と経済の発展が地球規模で両立する社会においては、18cm〜38cm)である一方、化石エネルギー源を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では26cm〜59cm)と予測(第3 次評価報告書(9〜88cm)より不確実性減少)   (引用者注:両極の陸・海氷が全融解すると、5〜6m上昇することを含んでいない)
●. 2030 年までは、社会シナリオによらず10 年当たり0.2℃の昇温を予測(新見解)
●. 熱帯低気圧の強度は強まると予測
●. 積雪面積や極域の海氷は縮小。北極海の晩夏における海氷が、21 世紀後半までにほぼ完全に消滅するとの予測もある。(新見解)
●. 大気中の二酸化炭素濃度上昇により、海洋の酸性化が進むと予測(新見解)
●. 温暖化により、大気中の二酸化炭素の陸地と海洋への取り込みが減少するため、人為起源排出の大気中への残留分が増加する傾向がある。(新見解)
<以下略 HP参照           
http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=9125&hou_id=7993  >
JCCCA:全国地球温暖化防止活動推進センター (Japan Center for Climate Change Action) http://www.jccca.org/
独立行政法人環境再生保全機構 http://www.erca.go.jp/index.html 
IPCC第4次評価報告書 http://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/ipcc/ar4/index.html
 
(資料)----------------------------------------------------------------- 
世界経済における成長と責任(サミット首脳宣言)(仮訳)   ハイリゲンダム(ドイツ) 2007年6月7日
      <一部抜粋>
気候変動
48.我々は、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の最近の報告に留意するとともに懸念を有する。最新の報告は、地球の気温は上昇しており、それは主に人間の活動によって引き起こされており、さらに、地球平均気温の増加がある場合、生態系の構造と機能における主要な変化があると見込まれ、例えば、水や食糧供給といった生物多様性及び生態系にとっては主に負の影響を伴うであろうと結論付けている。
気候変動との闘い
49.我々は従って、気候変動の取組において、気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水準において温室効果ガスの濃度を安定化させるため、強固かつ早期の行動をとることにコミットしている。最近発表された気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告にある科学的知識に鑑みると、地球規模での温室効果ガスの排出の上昇がピークを迎え、これに続いて、地球規模での排出が大幅に削減されなければならない。本日我々が合意したすべての主要排出国を巻き込むプロセスにおいて、排出削減の地球規模での目標を定めるにあたり、我々は2050年までに地球規模での排出を少なくとも半減させることを含む、EU、カナダ及び日本による決定を真剣に検討する。我々は、これらの目標の達成にコミットし、主要新興経済国に対して、この試みに参加するよう求める。
50.気候変動は地球規模の問題であり、その対応は国際的でなければならない。我々は、先進国及び開発途上国の双方に存在する幅広い活動を歓迎する。我々は、長期的なビジョンを共有し、次の10年にかけて行動を加速する枠組みの必要性に合意する。相互に競合するより調整し合う補完的な国、地域及び地球規模の政策的枠組みは、こうした措置の効果を強化するであろう。このような枠組みは、統合されたアプローチの中で、気候変動のみならず、エネルギー安全保障、経済成長、及び持続可能な開発目標についても取り組むものでなければならない。それらの枠組みは、将来の必要な投資に関する決定に重要な方向付けを提供するであろう。
外務省HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/heiligendamm07/pdfs/g8_s_ss.pdf
 
(資料)----------------------------------------------------------------- 

第22回世界連邦日本大会宣言

 世界はいま、戦争の二十世紀から平和の二十一世紀に扉を開こうとしています。情報技術の急進により、多数の人々が国境を越えて結ばれ始めました。このとき、日本第一号の世界連邦都市宣言を五十年前に発した綾部市において、世界の平和を求めてやまない有志が相集い、世界連邦日本大会を開き、新千年紀への祈りをこめて「永遠の平和への道」について真摯に話し合いました。
 その合意は、国連を改革、強化し、二百余の国と地域、六十億余の人々が共存共生する世界を、二十一世紀初頭にも実現させるという平和の祈りの成就であります。
 世界は、核廃絶を達し得ず、地球環境を荒廃させ、地域では民族と宗教の対立が頻発しています。人々はモラルを喪失し、自己閉鎖主義に傾いています。 この窮状を打開する道は、人間性を高める宇宙共生の大思想であり、世界を一つに結ぶ地球家族的秩序、すなわち世界連邦の実現であります。
 国連はミレニアムの本年、非政府組織(NGO)や宗教者の平和サミット、さらに国連自体のサミットを催しましたが、未だ新世紀の平和の道筋を見いだせずにいます。世界は、ここで国際法を世界法に改め、人類愛を優先する世界連邦の実現に向け、偉大な一歩を進めるべきであります。
 人類は、相和し相扶ける総調和の世界を、その本性において求めています。綾部市が「平和を願い、祈りのあるまちにしよう」を市民憲章に掲げるゆえんはここにあります。
 私たちは今日、世界のあらゆる人々に寛容の心を持ち、宗教や民族の違いを超え、手を携えて世界連邦の実現に向かうことを誓い合いました。これこそ永遠の平和への道であります。世界のより多くのみなさまの協力、特に政治的指導者と精神的教導者の力強い献身を切望してやみません。
 右宣言します。

二〇〇〇年十月十四日

世界連邦運動協会HP    http://www.wfmjapan.org/

(資料)-----------------------------------------------------------------
成長の限界の反省
『明日の地球世代のために──「成長の限界」をめぐる世界知識人71人の証言』から
                                    (編著・ウィレム・L・オルトマンズ 訳・公文俊平 日貿出版1973)
アーノルド・トインビー
 人間というものはすべて食欲なものだが、西欧の少数者は食欲を神聖視して、それを意図的に目的化した。こういうことが始まったのはアメリカ大陸の発見されたときで、これが西欧諸民族に偽りの印象を与えた。無限の空間と富があって、それは西欧人の意のままに使えるものだという印象であった。次には十八世紀末に蒸気力の発明から産業の機械化が始まり、これがまた無限な生産源を開発したという印象を与えた。現代においては人類の活動の機械化はとんでもない極端に達したが、今になって急に私ども、この生物圏が有限であり、物質的拡張に対し絶対に超えがたい限界のあることを悟ったわけだ。こうした限界には、増加した技術力や人口増加により、近い将来ぶつかるわけだ。この単純明快な事実を人類が認めるかぎり、『成長の限界』は人生の目的・理念に対する私どもの態度に革命的な影響を与えるはずである。これは、この五百年聞の人類の歴史において、西欧人の態度・目的を逆にしたものであるから、大いに苦痛であり、困難なことである。いっぽう多数者である非西欧人は西欧を羨んでそれを模傲してきた。こういう人たちに、発展しようとする努力をやめろというのはたいへんな困難だろう。とりわけ、もっとも貧困で技術的にもっとも遅れた民族こそ人口増加がもっとも早く、生産増加に迫られている度合いももっとも大きいのだから。私の知るかぎり、問題は「破局にぶち当たる前に人類が全体として、その態度・目的を逆にすることができるか」ということだ。
■マーガレット・ミード
 自動車が発明されると、それは平均的人間を解放するものと思われた。一台のフォード車を買えるということが、それが各人に、今までにない自由を与えた。そう思った。それが今になってみると、私たち、自動車文明を築いて来たんだと判明する。それは牢獄のようなもので、全国の空気を危険にさらし、我が国の都会を危うくし、生活を危うくするばかりか、自動車なしではどこにも行けないようになってしまったんだから、人を牢獄に入れたも同じだとわかる。こうして、私たちは、自分を牢屋に入れるような種類の経済体制を作り、それが巨大な量のエネルギーを使うのだと認識しはじめています。そして、かけがえのない世界の資源が、世界の他の場所をすっかり消耗してしまう。世界の他の場所の人々を搾取するからです。それどころか、我が国の中の一部をも貧しく、栄養不良な、不幸なものにしてしまいます。
 私たちのシステムには動いていないものがある。変えなければならないものがある。何にしても経済成長が解決するだろうという、第二次大戦後に説かれた信条、技術援助によって富んだ国と貧しい国の間の不均衡は、正されるだろうという信条これは、どちらも、誤っていたことが明らかになってきました。それを変えなければなりません。私たち、生活様式を再構成しなければなりません。
 
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