12 幸福論と宗教批判   Home
  
 <仏教の知恵を現代に生かすために>
    無明こそ最大の汚れである。(釈尊)無明とは無知のこと)
               宗教と道徳の起源  仏教の現代化   生命言語理論によるキリスト教神学の終焉論
      
  生きることの意味は何か──人はなぜ、何のために生きるのか       幸福論の三類型
 人間は類人猿のように、その場その時の欲求を充足することで生存しているだけではない。人間は、世界の現象を言語的に認識するようになって以来、つまり、「何がどのようにあり、どのように行動すべきか」を認識するようになって以来、また世界の現象の因果関係(縁起)を言語的に考え、想像し構想する」ようになって以来その解答を創造することによって自然現象を超越して、「何が」を考えだし、「どのように」を創造し、大脳に記憶するようになった自然に従って生きることから、人間が想像し、創造した世界に生きるようになった。その最も根源に宗教的な世界があった。

 人間を含めて動物は、快を求め不快を避ける。これは情動的反応である。どのように快を求め、不快を避けるか。「不快」は、不安や嫌悪感など動物的な情動反応であり、不快で否定的な感情の根源である。否定的な感情は解消され、快適で肯定的な感情が求められねばならない。情動的解決──気分転換、叫び、歌、踊り、祈りによってストレスを解消し,昇華させ、快適な気分にならなければ、人間は生命力を喪失させてしまい、免疫力は低下して病気に陥り、やがては早すぎる死を招くことになる。

 しかし、不快な状況を生じさせる原因は何か。動物は、自然のもたらす適応的進化によって、つまり、その動物に固有の刺激反応性すなわち本能的行動によって欲求を充足させ、そうでなければ不快の状況にひたすら耐え、不運にも状況が悪ければ死に至る。人間はどうか。人間は言語を獲得して以来,現象の因果を考え、自ら因果の解明の困難さに恐れおののき悩める存在になってしまった。人間は、存在に対する根本疑問を追求せざるをえない存在になった。われわれはどこから来て、どこへ行くのか。死とは何か。永遠の生命と幸福は存在するのか。生きることの意味は何か。欠乏、妨害、争奪、病気、別離、そして避けることのできない死、人生は不条理に満ちている。それでも人間は生命であり、生存し続けなければならない。それではどうするか。存在の根本疑問にどう答えるか。人生にどのような意味を見いだすか。ここに宗教成立の根源がある。

 人間は、この根本疑問に多くの解答を見いだした。それらは文化人類学、民俗学、宗教学等の学問が解明している。それらによれば、宗教は、人々の悩みや苦しみ疑問を解決し、人生の喜びや楽しみ、幸福感、生きる意味や希望、そして日常生活の道徳や規範などを与えてきた。しかし、「宗教は民衆の阿片である」と批判され、今日では冠婚葬祭の儀式的活用がほとんどである。そして最大の問題は、どの宗教も「信仰」を隠れ蓑にして自らの限界を自覚せず、旧来の体制の維持と保身をはかっていることである。たしかに多くの「民衆」は、人生に対する意味づけを宗教に求めてきた。死者を弔うこと、結婚の決意、日常の祭礼や通過儀礼など生活の中で多くの役割を担ってきた。
 たしかに現状の宗教でも、人生を取り繕い当面の幸福を得ることはできる。しかし、人生の根本疑問に答え、民衆を人間として自覚させ主体的な生き方をさせることはできない。今までの宗教は、絶対的な救済者を、主体にではなく他者に求めたからである。人間は、様々の神や仏や超能力者を求め、創造してきた。それらに依存し信じ祈ることによって、貧困や飢餓、病気や死の恐怖から逃れ永遠の幸福を得ようとしてきたのである。

 しかし、今日の科学技術の進歩や物質的豊かさ、金銭万能主義やマスメディアによる刹那主義・享楽主義の流布 は、自己の存在に疑問を持つ機会を少なくし、浅薄でプラグマティックな人生観が幅をきかせている。民衆は以前に比べて物質的には豊かになり、人生を享楽する機会は多くなった。しかし人間を堕落させ、精神を荒廃させる利潤追求のみの競争主義は、地球環境そのものの破壊をまねいている。危機は深まっている。民衆は、人間としての主体的な生き方をする条件を、社会そのものの仕組みの中で奪われ、強者による操作や管理の対象にされている。――それでいいのか?

 ここに一つの解決策がある。 民衆の幸福感を、人間の幸福感に高めること。人間が、人間の本質である「ことば」を自覚し、動物的生命(情動的・感性的存在)に気づき、自らを生命と人間の世界に位置づけ、新しい社会契約による主体的生き方を見いだすこと――時代の閉塞状況を打破し解決する道は、何人にも自ら考え感じる限り同意しうるような常識や良識から出発することで開けてくる。一人一人の人間が、自らと隣人と社会のすべての構成員を大切にし、またそのことが可能となる社会的条件を作ること。そのことのみが来世における永遠の生命でなくて、未来に希望と光を与え、現世における充実した人生を保証しうるのである。
内容:
<永続的に希望をもてる幸福な人生の条件>
真理、幸福、生命イエスかブッダか
幸福や希望は、神の存在を必要としない
どのような問題意識を持つか
人間存在と宗教成立の背景
何を諦め、何に執着するか
「青い鳥」は変幻自在
「希望」は「諦め」をともないます

愛は神の呪いに打ち勝ちます
積極的幸福論=希望の幸福論

仏教の現代化言語論的展開(認識と幸福の実
仏教思想における<言語論>の意義
釈尊の縁起認識論と大乗の「空観」の誤り

中論』批判──大乗の形而上学的論理批判
                                                                                                     
キリスト教神学の終焉神は人間の言葉の被造物である
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 「人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。
 幸福は肉體的快樂にあるか精神的快樂にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かやうな問に對しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉體であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格といふものが形成されるものであることを意味してゐる。
 今日ひとが幸福について考へないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相應してゐる。そしてこの事實は逆に幸福が人格であるといふ命題をいはば世界史的規模において證明するものである。
 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるやうにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし眞の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と鬪ふのである。幸福を武器として鬪ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。」  三木清 『人生論ノート』
 
付 「幸福論試論」  掲示板投稿から)
 何が「幸福」かは、主観的な価値観の問題で、人それぞれに違っています。当然それでOKです。美味しいものが食べられる、旅行・スポーツなど諸々の趣味に打ち込む、愛するパートナーと一緒にいる、そして家族や友人との語らいなどいろいろあります。そしてそれらの「幸福感」に共通するのは、自己肯定の感情すなわち「安心」「快適」「喜び」「充実」「希望」等です。なかでも「希望」(目的性・持続性)は、言葉をもつ人間特有の肯定的感情です。

 例えば、美味しいものは動物でも満足感や快感を与え、好物として記憶され、次の満足への期待へとつながります。しかし、動物の場合この期待は、想像や夢のような広がりを持ちません。人間の場合、言葉という内的な刺激によって満足感への期待は想像力を駆り立て、夢や希望として持続的・目的的に広がります。夢や希望があれば、多少の苦労もがまんできます。というより、苦労自体を幸福感に転化できます。スポーツ選手は栄光の勝利をめざして、自ら苦しい鍛錬に挑戦します。多くの宗教では、難行・苦行も解脱や救済への「希望」によって耐えられるものとなります。そればかりか他人から見て苦労や無意味と思われることも、快楽に転じることがあります。(脳内に快楽物質が放出される。)

 使徒パウロが、キリスト教の三元徳として信仰と愛に、「希望」を加えているのには大きな意味があります。孔子の信念を支えたものは、「天命」という名の希望であったし、フランクルの分析(『夜と霧』)では、ナチスの強制収容所で人々の生きる意志を支えたのも希望(生きる目的)でした。また仏教の始祖釈尊の説いたことは、欲望から起こる煩悩を断ち切ることによって得られる涅槃(解脱・浄福)への希望でした。

 人間にとって幸福の最大の条件は「希望」です。希望のない愛や信念や行動は、一時的な快楽(幸福感)を得られても、言葉を持ち、未来を考えざるを得ない人間にとっては、空虚で不安なもの(つまり未来なき快楽=刹那主義=不幸)にならざるを得ません。肯定的感情には、常に、未来への「希望」が伴っていることは、何人も認めざるを得ないでしょう。(もっとも、考えたくない人、考えようとしない人、反省も後悔もしないで「幸福など糞食らえ」「夢も希望もない、今さえ良ければいい」と開き直る幸福な人もいるようですが、人間存在の本質を知らない不幸な人?と言えるでしょう。)

 さてそこで、単なる身体的・物質的・動物的快楽による幸福ではなく、内面的・精神的・人間的快楽、つまり目的的・持続的な幸福、夢や希望を伴う快楽とはどのようなものであるのか、その条件を考えてみます。
<永続的に希望をもてる幸福な人生の条件>
@幸福とは何かについて知ること
・幸福とは、幸福感・満足感・充実感という感情によって、感性的に知覚し理解される心(精神)の状態です。この感情は欲求の充足によって得られますが、欲求が充足されない場合不幸になります。人間の場合、欲求は想像力によって肥大化するため、想像力自体をコントロールして、幸福感を持続させることができます。この想像力(創造力、思考力、言語力、精神力)によって得られた人生観(生き方)、価値観(世界観=ものの見方考え方)、人生目的などが、個々人の幸福を左右することになります。人生の目的を、家族の慎ましやかな生活とするか、大金持ちや権力者になるか、芸能やスポーツのスターになるか、精神世界に浸るか、社会変革をめざすか等々によって、幸福観とその実現のための過程は大いに異なります。そして、これらの人生目的を実現するためには、それぞれの理由付け、つまり幸福を獲得するための人生観(価値観、世界観)の確立が必要となります。
A自分で納得できる幸福観を持つこと
・幸福感(観でない)は、個人の人生観(価値観・人生目的・自己認識)によって異なります。最低限、毎日の物質的・精神的生活が、不可解なものとしてでなく、自分の人生観と一致(満足)するか、または許容範囲(不満でない)の内容であることが必要です。そのためには自分の幸福観を明確にした人生観の検討・吟味と幸福実現の不断の努力が必要です。幸福であるかどうかを意識しないことが幸福であると言う幸福観もありますが、「幸福論」だから幸福を意識し考え論じます。幸福は追求するものであり、その獲得能力を高めること自体(幸福は獲得できるものだという希望)も幸福につながります。
B幸福は追求し創造することによって強化されること
・人間として可能な求めるべき幸福、人生の最終幸福は何か、そもそもそのようなものはあるのか、あるとすればどのようにして身につけるのか。人間の行動は、快・不快の情動や感情(脳内の快不快中枢の反応)に支配されます。しかし人間は、言語的思考の働き(理性につながる)によって、単なる情動的動物的な快・不快の反応を越えた知性的精神的な快不快の感情を得ます。さらに苦痛を快感情に高めるような、より高次の快の感情(自己肯定的な精神的感情)によって、永続的な幸福を得ることもできます。言葉によって自己の存在や行動を合理化し、幸福の感情を引き出すことも可能なのです。幸福という自己肯定的感情(快適、安心、満足、充実等々)は、自覚しなければ、その場の否定的情況に支配され、すぐに不快や不安、不満足な感情(不幸な状態)が全身を襲います。しかし自分がどのような状態にあるかを自覚できる人は、不幸の原因を避けるか、取り除くか、問題を解決するかなどによって克服することができます。問題状況を合理的に分析し、または言葉の内的刺激によって、感情や行動のコントロールをおこなうのです(合理化、気分転換、精神集中)。このような能力を高めるには、指導者の援助を伴うような学習や訓練・修行が必要です。言語を伴う人間の判断は、社会的に形成されるものだから社会的な関係性が必要とされるのです。
C自分の人生観が、社会的承認を得られるものであること。
・自分の人生観(目的)に疑問が起こっても、誰かの理解・支持を得られる内容であれば、情緒的安定又は満足感が得られます。人間の判断や人生観の根源は情緒的(又は本能的であり合理性には限界がある)かつ社会的に形成されたものですから、一人の理解者(感性的又は知性的理解)があるだけでも自信をもつことができます。人生目的は究極的には主観的なものだから、自分一人でも納得できますが、他人の批判や無理解・曲解があれば不安が生じるものです。人間は社会的動物であるために、社会の中で安心感を得るものであると同時に、社会の中で人間になるので、自己の人生観や生き方について自分で納得するだけでなく、社会的承認を求めるのです。
D自分の人生観が、社会的情況の変化に対して、修正可能であること。
人生観(人生目的)に確実性や永続性、社会性があると、幸福は社会的評価に対して安定的になります(人々が既成の宗教に依存しやすいのはそのためです)。人生の目的は、その根拠や実現の可能性が、確実であればあるほど、得られる幸福は盤石なものとなります。幸福が確実で永続的であるためには、まず物質的に生存するための最低限の欲求の充足(福祉社会)が必要です。しかし、時代や社会的価値の変化によって、自分の人生の目的と異なる(思い通りにならない)状態になることは不幸です。現在の幸福観がいつまでも真理であるとは限りません。社会の変化に揺るがない普遍的な基準(真理)を持つと同時に、社会の変化に自分の幸福観や人生目的が対応できること、柔軟性を持つこと、そして何よりも大切なのは不断に向上心を持って、自分だけでなく社会との関係の中で幸福を追求することです。
E個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながること。
 幸福は、究極には、個人的主観的ですから、社会的条件を考慮する必要がないと考える人もいます。しかし、誰もが幸福であるためには、社会が安定しており、最低限の生活が保障される福祉社会が必要です。自然の災害や戦争、犯罪、環境破壊など、個人の努力を越えたところで、物質的生存を脅かしているのが現実の社会です。いくら幸福を追求しても、それが個人の努力を越えるものであれば、社会的な連帯の力で、すべての人々の幸福を実現できる条件を創造する必要があります。自然災害は別にしても、戦争や犯罪、環境破壊などは人災です。これらは人間の力によって防ぐことができます。

 現代社会は、地球規模での相互依存の時代であり、個人の幸福の実現のために、避けられる不幸を最小限にする社会的・公共的な努力が求められます。現代は、人類が幸福の実現を追求すれば可能な時代です。その障害となっているのは何か。人間の共通理解の欠如(仏教で言う「無明」)と利己主義(同じく「我執」)を根源とする相互不信と不安、そして経済的な競争主義と富の不平等です。現代は、個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながることと、逆に、すべての人間の幸福と生命の存続が、個人の幸福につながる時代なのです。だから、世界人類が幸福になるような社会的条件を創造できる希望を持ち、その実現のための行動をすることも幸福の条件になるのです。

 他人の不幸や犠牲・失敗をもとに幸福になろうとする人がいます。しかし、そのような不正義な人を少なくする教育的条件(環境)をもつ社会は可能です。それが理想であり、夢や希望であるとしても、そのような夢や希望を持つことによってこそ、はじめて永続的な幸福を、個人的主観的にも実現できるのです。「希望」こそは、言葉をもつようになった人間の最大の幸福の条件なのだからです。

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Bunkou氏主宰『単純教』掲示板への投稿より
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真理、幸福、生命イエスかブッダか  
 ゆきこさん、はじめまして。あなたの思いやりと優しさのあふれる投稿に、心を洗われる思いがしました。私がもし聖書の研究をしていなければ沈黙を守っていたでしょう。しかし私はキリスト教や仏教を研究し、既成の宗教に疑問をもっているために、私の考えを述べざるを得ないと思いました。
 私の身近な知人には、何人かのクリスチャンがおり、いずれもゆきこさんのように、救い主イエスへの信仰をもち、善良で清らかな心を持っておられます。そのような方々とは論争はしませんが、Bunkouさんの掲示板なので、いささか難しい話しになりますが、お許しください。
 現在、私は仏教徒を自認していますが、イエスも仏陀(釈尊)と同じく、人類史上の奇跡と思われるほど素晴らしい人物であることは否定できません。キリスト教の聖書については、旧約も含めて何度か読み返し、そのたびに感動を覚えました。そこには人々にもたらされる様々の災厄や罪に対して、預言者と神の子イエスによる多くの希望と癒しの言葉が述べられています。
 しかし、聖書(新約)には神への信仰(と死後の永遠の生命)の大切さは述べられていますが、地上の生命の大切さについては述べられていません。イエスは、「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。」(マタイ10-34)と言って、地上に争いをもたらし、また、「信じてバブテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16-16)と諭して、イエスの福音を信じない者を、地獄に落とそうとします。彼自身も、生命の大切さより、むしろ血による贖い(あがない:罪人の救済)を選択し、自ら十字架刑にかかりました。クリスチャンが、生命(肉体)よりも信仰()を守ろうとするのは、敬虔なクリスチャン(ムスリムもそうですが)である先制攻撃のブッシュ大統領が、最も悪い典型例としてあげられます。
 聖書に真理を認め、救い主イエスへの信仰によって救われたい、幸福でありたい、平安でありたいという気持ちはわかりますが、生命を大切にするという考え方では、仏陀(仏典)のほうがはるかに優れています。例えば「(130)すべての者は暴力におびえる。すべての生き物にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(『ブッダの真理のことば』中村元訳岩波文庫)「あたかも、母が己(おの)がひとり子を身命を賭()しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみのこころを起こすべし。(『ブッダのことば』同上)
 ゆきこさん、もし許される時間があれば、ぜひ仏典にも目を通してください。イエスとブッダを競わせるつもりはありませんが、目の前の地上の生命の大切さ(天国での永遠の命に希望を持つのではなく)を主張する点では、ブッダの方に「真理」があると思います。ただ、ブッダは、信仰よりも智恵や洞察、修行を大切にするので、幸福を得るにはイエスの教えよりも努力が必要かも知れません。
 ゆきこさん、真理は決して一つだけではないと思います。真理は一つという信仰は、確かに、そう信じる人に幸福をもたらしますが、世の中に争いの種を増すばかりです。これからの時代は、いろんな考えの人が、いろんな希望と幸福を求めて、お互いを認め合い共に生きる時代になると、私は思うのですがいかがでしょうか。
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幸福や希望は、神の存在を必要としない  
 ゆきこさん、私の主張へのご意見をありがとうございます。キリスト教についての細部にわたる議論は、掲示板では限界がありますから、私の主張をまとめてみます。
@まず一般論として、「神は存在します。」しかし、神は実在としてではなく「言葉」として存在し、その意味・内容は、神(キリスト教の神、日本の神々等)を創った文化や文明、さらに、その神についての個人の解釈により異なります。
Aそれでは、イエスの父とされる神(旧約の神)に対して、人間はどのように位置づけられるでしょうか。神は、天地とそこに生きる生命・人間を創造し、人間(アダム)に、この天地とそこに生きるすべての生命を食物として与え、エデンの園に住まわせました。そして、園の中央の「善悪を知る木」の実を食べるなと命じました。しかし、狡猾な蛇にそそのかされたエバとアダムはこれを食べてしまい、神の命令に背いた罪で園を追放され、神から「出産と労働と死の苦しみ」を命じられました。キリスト教にとっての人間の歴史は、この命令違反(原罪)による楽園追放に始まります。
Bこの原罪思想は、地上の人間を罪人(ツミビト)とみなし、地上の生活の苦難からのがれ永遠の生命と平安を得るために、神による救済の必要性を説きます。
Cしかし、人間にもたらされる災厄や苦難の原因は、神の命令違反という「原罪」によるのでしょうか。人間は本当に罪人としてこの世に存在しているのでしょうか。私は、人間の日常生活における苦しみ(不快)の根源は、生きる(行動する)ための現象にすぎないのであり、災厄は自然現象であると考えています。ところが、多くの人間は、この苦しみの因果(縁起)を悟らず、感情を高ぶらせて利己心と我欲にとらわれ、物事の道理(真理)を見抜くことができずに、「神(や仏)を創って救いを天国(や極楽)に求める」ようになったのです。
D私達人間は、神を創って、神に救いを求めることで、天国での永遠の生命を保証されるという、虚構の希望を持つ必要はありません。人間存在を正しく認識し、神との虚構の契約によらない、人間同士の新しい社会契約によって、地上での幸福な生活への希望を持つことができるのです。
E神の存在(絶対的真理が存在するという様々の主張)は、今日では、人々の不信を募らせ、争いをもたらす根源の一つになっています。人間は自らが創った神の呪縛から解放され、神を創った人間自身の存在意味を自覚すべきです。言葉を持った人間の創造的精神によって、神の存在を前提とせずに、すべての生命とともにこの地上に共存し、幸福な生活と希望を持てる社会を創造し、永続させていく努力が必要なのです。
 ゆきこさん、クリスチャンであることによって、幸福と希望と平安を得られていることは素晴らしいことです。しかし、他人の信仰を変えることは難しいものです。「聖書」すなわちイエスの贖罪への信仰とイエスの再臨によって、終末を迎えた人間を救おうとする「最後の審判」の瞬間が、早く来る方がいいと思いますか。私は、まだ1万年は終末が来ないようにすべきであると思っています。しかし、地球は現在すでに地球温暖化などで危険な状態になりつつあります。人類が協調して、助け合わねばならない時代です。神や仏に救済を願い、自己満足をしている時代ではありません
 ゆきこさん、自己を犠牲にして愛する人を救おうとするのは、「神の御名」を必要とせず、また「神の国」ばかりで偉大なのではなく、地上においても賞賛されます。自己犠牲の精神は、種の維持を図ろうとする生命の本性でもありますが、悪くすると自爆テロリストや特攻隊を生じさせます。
 また、神が与えたとされる人間の「自由意志」とは、私にとっては「神をも創造する意志」であり、人間が神を創造して、自ら神に愛されようとする意志です。自己の存在について思いをめぐらす人間は、クリスチャンのように「聖書」を拠り所として自分の存在理由を創造します。クリスチャンにとっての存在意義は、人間によって創造された神を信じ、神に愛されて、天国での永遠の生命を保証されると信じることで、地上(現在)の苦しみを克服し,幸福と希望と平安を得ることです。私にとっては、クリスチャンにとっての「自由意志」を、そのように解釈しますがどうでしょうか。ゆきこさん、あなたも自己の存在を肯定し、幸福を得るために、自由意志に基づいてクリスチャン的世界を創造しているのではないでしょうか。人間は、言葉によって自己の存在の意味を求め(疑問)、自己を肯定的に創造(合理化・論理化・解明)する存在であり、それが人間存在の真理なのです。
 断定的な表現になりましたがお許しください。このような考え方で地上での幸福と希望を見いだしている人間がいることは、神の与えた自由意志のおかげでしょうか。私は神に感謝すべきなのでしょうか。神は存在します。しかしそれは単に言葉として存在するのです。そして、その言葉で人間は生死を選択することもできるのです。言葉は人間存在の本質なのです。
                             ・・・・・・・・・・言葉についてよく考えて下さい。
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どのような問題意識を持つか  
 ゆきこさん、丁寧な書き込みをありがとうございます。イエスの誕生後、およそ2004年目()が終わろうとしています()。あわただしいですが、難しい話におつきあいください。
 さて、私達が直面する困難──人生に意味を見いだせない、生きる気力がわかない、何か虚しい、家族や友人と不和である、人を信じられない、自信が持てない、失敗が多い、不安、空虚、孤独、寂しさ、怒り、そして死への恐怖というように、人生は否定的な情況や不如意なことが多いものです。他方人間は、物事が順調に進んでいるときや成果が現れるとき、夢や希望を持てるとき、誰かに必要とされ期待され評価され信頼されているとき等は、あまり人生の意味や自分の価値などについて深く考えず、文化や伝統、宗教や慣習等自分の経験の範囲で、直面する問題を肯定的に解決していくことができます。
 しかし、前者のような深刻な困難に直面すると、その問題解決のために苦悩し考えます。先哲の思想や宗教に関心を向け、人の意見に耳を傾け、解決法を探ります。そして、どのような問題意識を持つかによってその解答も異なってきます。問の確かさが、答の確かさを生み出し、問の不十分さが答の不十分さを作り出します。不正確な問いかけは、不正確な答を導きます。この問いかけは、本当に根源的な問いかけなのだろうか。問題解決にとってふさわしい問いかけなのだろうか、の吟味が常に必要です。
 私は、人間とは何かを考える場合、神が自分の似姿に人間を創造したと考えるのではなく、まず人間の本質とは何かと問います。人間は二本足で立ち自由な両手でものを作り、大脳の発達した動物であるととらえます。そして、人間がものを作り文化を創造し、情報を交換しながら知識を共有・蓄積し、お互い助け合って生活できるのは、「言葉」を獲得したことによると考えています。「言葉」は、単に知識や情報の伝達というのではなく、情報を再構成したり(思考・創造)、自らの感情や行動そのものを言葉の情報によって方向づけます。「神が人間を創った」のか「人間が神を創った」のかという「言葉」の問いかけでさえ、人々の感情を揺さぶり混乱に陥れ、問題意識を持たざるを得なくします。
 「何が、なぜ人生の苦しみや困難を生じさせるのか?」「苦しみや困難の解決策はないのか?」イエスとブッダは全く異なる原因を考え、問題解決の道すじを見いだしました。イエスは、神への信仰が、人間救済(心の平安)の絶対条件と考えました。ブッダは、縁起の法(四諦の説)を知り実践することが解脱(心の平安)への道であると考えました。いずれも人生の不如意・不条理の根源を求め、その解決を示すことによって人々の支持を得て、世界宗教としての立場を確立しました。
 しかし、人間は、イエスやブッダのような根源的な問題意識にまで到らなくても、言葉をもつことによって日常経験的に、学習した過去を記憶し、生き方を考え、未来を築き創造するなど、自分の問題意識(経験)に従って、世界を再構成し合理化しながらその人生観や価値観によって生きている存在です。
 「神が人間を創造したか」「人間が神を創造したか」かは、『聖書』の言い方を借りれば、「神の本質は言葉である」のか「人間の本質は言葉である」のか(言葉は、神の本質か、人間の本質か)の違いです。『聖書』では、言葉は神の本質であり、神は言葉そのものです。しかし、人間もまた言葉を自由に使え、また、新しい言葉も創ることができるのです。従って、神の本質も、人間の本質も言葉であることになります。私達が使う言葉は、神の本質でもありますが、神と同様に、人間は「神」を含めて様々のものを創ります。
 つまり、神は存在してもしなくても、人間が現に言葉をもつ限り、「神」を創造することができるのです。「神」は存在します。しかしそれは、イスラエルの神であり、イエスの神であり、ゆきこさんの神であり、Bunkouさんの神なのです。私の神こそが、イスラエルの神こそが、イエスの神こそが唯一絶対で、普遍的創造的であると、「言葉」では言うことはできます。しかし、それは決してすべての人間に共通する「真理」ではありません。人間(という言葉をもつ特殊な動物)は、単に「言葉」によって、自己の存在を意味づけ、自己の存在を合理化するために、神という「言葉」によって、自らを創造してくれる「神」を創ったのです。人間は、自らを救済してくれる「神」を創り信仰するのです。人間はそれによって、存在の意味や人生の困難に納得し、満足し、救われ、平安や希望や永遠の生命を得ることのできる存在なのです。
 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」というのは、人間存在にとっての真理です。言葉によって──たとえ神が与えたものであるとしても──、はじめて人間は、人間であるのです。自らの存在の意味を自問し、快楽や幸福、安心や救済そのものを求め、その手段として神を創造することになったのです。『聖書』における「言葉」についての真理は、同時に、人間の言葉によって『聖書』が創られたこと、救世主として自らを自覚したイエスが偉大な人間であったこと、を示していないでしょうか。
 私はイエスを仏陀と同様に人間の奇跡と思い、尊敬しています。イエスの贖罪の犠牲は決して無駄ではありませんでした。『新約聖書』のイエスの素晴らしい言葉は、神を信じたイエスの迷える子羊に対する愛と救世主としての確信で満たされています。イエスとその父なる神を信仰して、平安と人生への希望を得られ、さらに信仰を深めることは素晴らしいことです。大切なのは「今ここで」心の平安があり未来への希望がもてることです。
 しかし、イエスの神を信じなくても、十分に心の平安や希望を得られること──ブッダや他の宗教の存在を忘れないでください──、そして大切なことは、自分の宗教を信じない人を罪人にしたり、排除しないことです。私はイエスの神を祝福し、その信仰ゆえに幸福である人を大切にしたいし、うらやましいとも思います。人間はそれほど強い存在ではなく、困難は次々と起こります。だからこそ人間は絶対的な救い主を創り、自らの救いと心の平安を求めます。人間はそのように自分の存在を「言葉」によって意味づけ合理化するのです。そのようにせざるを得ないのが人間という存在なのです。
 私自身はブッダを尊敬し、ブッダの教えに未来の希望を見いだしています。ブッダ的な方法で自分の存在を意味づけ、心の平安と希望を得ています。しかし、当然のことながら、ブッダの思想(意味づけ・合理化)そのものは、現代から見ると非科学的で、反現世的な面が強く、そのままでは正しくありません。仏教の批判は今後の私の課題であり、Bunkouさんの掲示板への投稿も、その課題解決を目指しています。ご迷惑かも知れませんが今後もおつきあいください。
 ゆきこさん、あなたの優しい気遣いと私の問題意識を明確にしていただいた勇気に感謝し、さらに信仰を深められ永遠の生命をえられるようにお祈りしています。
 皆さん良い新年をお迎えください。
 
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人間存在と宗教成立の背景 
 Bunkouさん、イエス誕生2005年の新年おめでとうございます。
 昨年末以来、クリスチャンであるゆきこさんの投稿で、宗教と信仰について真剣に考えさせていただきました。『聖書』という2000年近くの風雪に耐え(新約)、人類の歴史に多大の足跡を残した書物を相手に議論するのは大変です。このような機会が与えられたことに感謝します。とくに「進化論」に対立する「創造説」をHPで、あらためて学び、科学的方法とは何かを考えることができました。
 「創造説再評価HP」 http://www.concentric.net/~hnori/earth.htm では、科学的認識の出発点が、「全知全能の神」であって、神の存在を科学的仮説とする余地が全くないので、前提の議論ができません。『聖書』を科学的真理の前提にすれば、天地創造6日間、宇宙の歴史6000年を、証明することが「創造科学」(という表現)の役割ということになります。人間の科学的探求心・知的好奇心の出発点ともなり、実証科学の長所である「知識(真理)の仮説性」(相対性・有限性)の逆手をとって、科学的議論を「全知全能の神」の名において封じ込めるようとしているのです。神業を肯定することが、地上における人類の幸福に否定的結果をもたらすものであることを改めて痛感します。(「エホバの証人」http://biblia.milkcafe.to/index.html は、創造論をとっていますが比較的寛容です。)
 過去のキリスト教では、教義の対立や教会の経済的利害から、宗教戦争や宗教裁判・魔女狩りなどがキリスト=イエスの名において行われました。その反省から宗教的寛容が定着しつつあると理解していたのですがそうではないのでしょうか。私の知るクリスチャンは、「そんな考え方もありますね。でも私の信仰は堅いですよ。」と言われ、お互いに人間的な感情でおつきあいできます。進化論を推論に過ぎないという人が、神の存在もイスラエルの民と人類を救済するための推論であり、仮説であるとなぜ言えないのでしょうか。
 宗教的信仰が、ある程度独善的になるのはやむを得ません。しかし、Bunkouさんの指摘されるように、現代の科学的「常識」を「全知全能の神」によって否定してしまうのは、無理があり「非常識」と言わざるをえません。もっと穏やかで力強い宗教にしようと思えば、「神の言葉は、実は人間の言葉である」と考えれば、有限で罪深い人間を救済しよう、という警鐘を込めたイエスの死も無駄にならないと思います。
 クリスチャンにとっては非常識な話になりますが、神の存在と世界創造の神話は、無知な時代の人間の創造神話です。科学技術の進歩した現代の人間が追求するべきは、言語的本質をもつ人間性(神の言葉は、実は人間の言葉)の科学的な理解と、「地上」における人類社会の平和と幸福を実現するための地道な努力ではないでしょうか。
 前回述べたように、神は存在しなくても人間の幸福や希望は得られます。また人間存在について研究すれば、「全知全能の神」も、人間の創造物であり、地上の幸福や心の平安は、人間の創造的活動(努力)によって実現可能であると思います。「神」という言葉を創って、人間の言葉(自己の存在を合理化・正当化・強化する働きがある)を、「全知全能」の神の言葉として強化する必要は全くありません。それでも「神」という言葉にすがりたいという人は、人間存在の真理に背を向けることになると思います。
 ところで、宗教が、人々に存在の意味や幸福・平安を与え(寺院や教会・モスクにおける信者の心)、政治や権力者に利用されてきた(階級支配の手段として)し、現に利用されている(イスラエルの建国、ムスリムのテロリスト、クリスチャンのブッシュなど)のは事実です。なぜ宗教にはそのような力があるのか。人間が、宗教を信仰し帰依することによって精神的物質的幸福を得ようとする背景は何か、という観点に限って、宗教活動の存在しうる背景をまとめてみます。
 
@人間存在(人生)は、問題解決(欲求充足)すべき事態に常に直面している。
 これらの問題事象の捉え方と解決の仕方によって、人生観(宗教や哲学・思想)が形成される。
A問題事象の根源とその根本解決を追求すると宗教的信仰が有益となる。
 通常、人間は根源を追求せず、慣習に従い適度な問題解決で満足するか、あきらめることで問題解決を図ろうとする。しかし、個人では解決できないほどの困難や不幸に対しては、絶対的権威をもつ宗教信仰に依存することによって平安や希望を見いだそうとする。
B問題事象(人生苦)の根源は、人間存在の3つの有限性にまとめられる。
 生命の有限性:欠乏、病気、競争、災害、老化、死(生存の不安定性
 人間の有限性:感情の動揺、想像の飛躍、認識の限界(言語の不完全性
 社会の有限性:利害の対立、相互の不信、強者の専横(競争の無制約性
 (それぞれに詳細な解説が必要ですが省略します。)
C問題事象は、持続的な否定的感情として自覚される。
 否定的感情とは、欲求が充足されない心の状態であり、不満、不安、悲哀、恐怖、憤怒、憎悪、怨恨、焦燥、悔恨、恥辱、抑うつ、喪失、嫉妬、挫折、劣等、不信、不幸、絶望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(汗、涙、震え、緊張、脱力など)を伴う。(なお感情の分析についてはhttp://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html を参照してください)
D問題事象の解決はどのようにされるか。
 問題解決の仕方は、どのような問題意識(疑問)──何が、どのようにあり、どうすればよいか──をもち、どのように言語的解決(理論、教義、思想)を図るかによる。たとえば、科学的解決、医学的解決、政治的解決、キリスト教的解決、仏教的解決、功利的解決、逃避的解決、暴力的解決等々がある。
E問題事象は、肯定的感情の獲得によって解決する。
 肯定的感情とは、欲求が充足された心の状態であり、満足、安心、歓喜、親愛、信頼、爽快、優越、幸福、平安、永遠、希望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(涙、震え、気力、生気など)を伴う。
F肯定的感情は、言語的解決をもとに実践的行動的に獲得される。
 言語的解決(合理化)は、それ自体で喜びであるが、解決の希望を仲間と共有して実践することでさらに確実なものとなる。
 過去のほとんどすべての宗教的活動は、このような原則をもとに教義、教団、修行(祈り)を構造化することで成立してきた。人間存在の解明は、創造神の存在を前提とする『聖書』も、人間の創造神話に過ぎないことを明らかにします。
 説明抜きの断定的な表現になりましたが、Bunkouさんの「神のシステム」論を意識しています。ご批判いただければありがたいです。
 
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何を諦め、何に執着するか  
 Bunkouさん、再び幸福論を掲示していただき、あらためて考え直せる機会ができたことを嬉しく思います。豊かな現代人の苦しみや悩みについてのBunkouさんの現状認識は、誰もが了解できるものだと思います。現代の資本主義社会における「欲望の肥大化」──美しいもの、楽しいもの、美味しいもの、自分を肯定するもの、便利さ、快適さ等々の過剰。そしてそれらに対する欲求不満耐性(我慢力)の低下にもかかわらず、常に期待値を上げようとする利益追求社会の在り方を、私達は問題にしなければならないと思っています。
 しかしとりあえず、豊かな社会の中で、心の平安や幸福を得るにはどうすればよいのかを考えます。Bunkouさんは、「諦め」の宗教を主張されています。これは私から見ると、「諦め」によって持続的な幸福を追求することに「執着」しておられることになると思います。私にとって宗教は、以前に述べたとおり、「幸福への希望」です。既成の宗教では、人間心理の分析に優れた仏教(釈尊の教え)に最も近いと思っています。
 キリスト教や仏教は「希望」を実現することに執着しています。キリスト教はパウロが言うように「神の国」での永遠の生命が得られることを希望にしています。仏教は解脱による苦しみからの解放を希望にしています。両宗教は共に、自力による救済にしろ、他力による救済にしろ求めるものは「救済への希望」です。別の言い方をすれば、脱世間的、超理想主義的、精神主義的宗教です。それに対し、中国の道教や儒教(道徳宗教として)は、積極的に救済を求めず、むしろ現実主義的「諦め」や処世術的道徳によって現世利益的な宗教であると言えます。日本の神道(日本仏教の一部)は、お祓いや祈祷による霊力で「おかげ」を得る現世利益宗教です。
 Bunkouさんの「諦めへの執着」表現が悪ければ訂正しますにおいて、言葉としての「諦め」は消極的にみえますが、執着(固執・こだわり)することは容易ではないことは理解できます。「諦め」は、仏教的には真理を明らかにすることです。また、言われるような「諦め」は、自分の生き方(おそらく自己環境秩序)にもとづいて「生きること」を制御することでしょう。しかし、諦めの困難性についてよく理解できるだけに、諦めの困難性を克服できるような「希望」が必要なのではないでしょうか。何事か大切なことを諦めても、求めるべき幸福への希望があってはじめて、諦めることの苦痛を乗り越えられるのではないでしょうか。
 実は、釈尊の誤りの一つは、彼が執着を脱して悟り(解脱)を求める、と言いながら、悟りを求めることに執着している自分を自覚していなかったことです。そのため、後世の仏弟子は「空」という概念によって釈尊の教えを神秘化し、大乗仏教の教派を作りました。人間の幸福は、様々の思想、宗教、生活、娯楽労働等々の中で得ることができますが、幸福に普遍性を持たすためには今日では人間の共通理解のために普遍性が求められていますBunkouさんが言われるように、単純で理にかなった、わかりやすく正しい宗教が求められていす。何を「諦め」、何に「執着」すれば、持続的な幸福を得ることができるのか。さらに議論が深まれば幸いです。
 
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「青い鳥」は変幻自在  
 Bunkouさん、今回「幸福」と「愛」との関連について新しい問題提起をされ、私もどのようにまとめるべきか悩みます。「幸福」も「愛」も主観的で多義的な概念なのでとても掲示板には書き切れませんが、議論を豊かにするためにまとめてみます。
 メーテルリンクは戯曲『青い鳥』の「幸福の楽園」の場面で、「母の愛」は、比べるものがない喜びであるとしています。「母の愛」は、生命的(本能的)根源を持つ深いものです。また釈尊は、「あたかも、母が己がひとり子を身命を賭()しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」と言っています。釈尊の言葉は、生命の根源に結びつきながら、すべての生命への愛(慈悲という道徳)へ広げようとするものです。
 他方,『聖書』における「父なる神の愛」は選別的であり、すべての生命への愛ではなく、「神」を信じるものへの愛です。イエスの愛は、生命の根源につながる「母の愛」や「幼子への愛」「男女の愛」「友情にもとづく愛」等々ではなく、創造主である神と終末を前提とした「隣人への愛」であり、人間の秩序を創造しようとする権威的道徳的な愛です。しかし生命の根源につながる愛(自然的愛)に、神の権威は必要ありません。
 結論的なことを言えば、一つは、生命的な「自然の情にもとづく愛」に、神の存在は必要ないということです。二つ目は、「救済的な愛」の追求(信仰)は、自然(の感情)に対して抑圧(支配・権威)的に働くことです。そして三つ目には、創造的な動物である人間が、持続的な幸福を確立するためには、「自然的な愛」を前提にして、社会(共同体)と未来につながる愛(道徳的人類愛)を創造しなければならないということです。
 愛は幸福()を伴いますが、幸福にとって愛は必要条件ではありません。なぜなら幸福は孤立しても成立しますが、愛は他者の存在を前提とします。また自然的愛は、嫉妬やねたみ、利己心や独善性そして愛への執着(愛執)を含み、結果として不幸を招く場合があります。さらに神仏にもとづく愛(慈悲、救済、おかげ)は、人間存在の根源(言葉の意味や限界についての知識)を隠して見えなくし、自己の言葉に幻惑され、愛や幸福を神秘化します。そして独善的な教団や教派(セクト)を作り、ついには愛や幸福自体を崩壊させてしまいます。愛のある幸福は望ましいものですが、「智恵」を働かす余地をなくしてしまいます。「愛」は盲目になりやすいので、注意が必要です。
 さて「幸福の青い鳥」はどこにでもいますが、すぐに逃げていくものです。どうすれば「青い鳥」を、私達から逃げないようにすることができるでしょうか。私達が飼っている「青い鳥」をもっと青いものにし、逃げ出さないようにするのは、メーテルリンクは述べていませんが、育て方によると思います。今までの育て方には限界があったのです。「青い鳥(人間の幸福)」についての無知(無明)が、育て方を誤らせていたのです。戯曲の中では、「光」がチルチルとミチルの先導役になり「智恵」を授けていました。しかし光は見る人によって、感じる人によって、考え方によって異なります。結局「幸福」はそれぞれの人がそれぞれに見いださねばならないのです。
 「青い鳥」は、メーテルリンクの戯曲の中では変幻自在でした。幸福は確実なものではありません。しかし「時」は、子供達を地上に送るとき、生きること、希望を持つことを伝えました。幸福は人を愛することによっても、欲望を諦め自己を制御することによっても、確実に得られるとは限りません。永続的な幸福の第一歩は、幸福は求めれば得られるという希望(信仰)を持つことです。希望はあらゆる困難を克服させてくれます。ただ、希望には、その裏付けとなる智恵()が必要です。希望を与える智恵(教え)が宗教となるのだと思いますがどうでしょうか。
 
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「希望」は「諦め」をともないます    
 Bunkouさん、「希望と諦め」についての示唆に富んだ貴重なご意見に感謝します。私は言葉の多義性や曖昧性を克服することを、自分のモットーの一つとしていますが、いつも曖昧なところがでてしまい、人を当惑させることがあります。前回の<「青い鳥」は変幻自在>というのもそうかも知れません。しかし、我々が議論している内容自体が、とても重大で困難な問題を含んでいるのために明晰さを欠くことになるのかも知れません。
 さて、「希望」と「諦め」について結論を言えば、@「希望」は、主観的で多様なものであり、「幸福」であるために「完全な希望(目標)」は必要ではなということ、またA何らかの「希望」を持つことは、何らかの「諦め」を伴うものであるということです。
 @については、ご指摘のような「完全な完成」を得る「希望」を私は考えていません。イエスの行おうとした「救済」も、釈尊の追求した「解脱」も完全を目指していますが、「完全」も結局は主観的なものです。Bunkouさんの言葉を借りるなら「60%の希望」でもいいし、具体的には信頼できる人がいるとか、憧れる人または片思いできる人がいるとか、金銭や名誉・地位への希望があるとか、成功の見込みがあるとか、何万分の一かの確率での宝くじ当選への希望とか、その希望(期待)が続く限り幸福が得られます。オー・ヘンリーの『最後の一葉』 http://www.hyuki.com/trans/leaf.html のように、「希望」という「心の働き」が、人間の弱い心を救います。
 救済への希望、解脱への希望、持続的幸福への希望など、より高次の宗教的希望でも、とにかく現実の苦悩や辛さ、ストレスを克服でき、「心の平安」「自己への信頼」を得ることができれば「希望」があると考えます。しかし、当然最も社会的に価値があり、自分でも納得でき、実現が可能であるような「希望」を、「創造」または「発見」することができれば、より強く持続的な幸福()が得られるでしょう。そして、そのような「希望」という「心の働き」は完全なものでなくても、誰にでも理解し実現できること、つまり心理学的に検証可能であることも必要です。
 Aについては、「人間、何かを得れば、何かを失う」の格言と同じことで、一度に多くの目標(希望)を実現することはできず、一つの目標を持てば、他の多くの目標を犠牲(諦め)にしなければなりません。また、自己の幸福(快楽)自体を危うくするような希望(他人を害したり犯罪性のあるもの)は、一時的には幸福であっても「希望」の名に値しないでしょう。@と同じように大切なのは「どのような希望を持つか」または「どのような幸福に執着するか」ということなのです。最も簡単であり、実現できそうなのは、「幸福はそこにあるという希望を常に持てる」つまり「徹底して楽天的・人生肯定的になる」ということです(前に紹介したHPhttp://www.din.or.jp/~honda/index.htm や武者小路実篤の作品のように)

 しかし残念ながら人生は、Bunkouさんも指摘されるように楽天的になるにはあまりにも哀しみや苦労が多すぎます。自分の人生をどのように意味づけ、どのように生き、そしてどのように死んでいくのか。目先の快楽を追求しても、偶然に恵まれて幸福な人は、幸福であり続けて欲しいと願うばかりですが、何の準備もなしに起こる不幸(不運)や不正義・不公正に対処する術も知っておかなければなりません。人間存在の根源と、人生の意味や困難の解決方法を知り、持続的で確実な幸福を実現すること、そこに宗教の意義があると思います。ところが既存の宗教(思想)はその役割を果たすことができないばかりか、伝統尊重の名の下に、新しい希望や理想の追求を忘れようとしているのではないでしょうか。
 Bunkouさんの主張のように、人生を幸福に生きるために、実現しない欲求を求めるよりも「諦め」る方が現実的かも知れません。しかし私にとっての幸福は、精神的自律を前提とした幸福です。それは欲求を抑制し(諦め)た上での幸福です。だから「幸福であるために諦める」のであれば、「幸福への希望」が前提となります。「現在の幸福」は、「未来への不安」があれば成立しません。「未来の幸福への希望」があるからこそ「諦め」(自己抑制)も肯定的な意味をもちます。
 釈尊(本来の仏教)の「諦め」は消極的なものではなく、とても積極的(肯定的)なものです。「諦め」は、「明らめる」ことによって得られる知識としての「真理」または「悟り」であって、中途で欲求を断念することではありません。釈尊の欲求は、彼の究極の目標(希望)であるニルバーナ(涅槃)に到ることです。ニルバーナとは、煩悩を消滅した心の状態で、日常の生活の中で得られるものではありません。「反省」は必要ですが、釈尊の目標に達するためには、出家による不断の修行と知的探求が必要です。我々俗世の人間にとってはやはり「希望」にすぎません。
 私は釈尊を尊敬していますが、彼が説く「輪廻転生」や「地獄」の存在は科学的検証に耐えることはできないと思っています。だから日常の幸福につながる「悟り」への希望は持ち、ささやかな努力はしますが、現実は、「悟り」を先送りをして「諦め」ざるを得ないほど、生活のための日常の雑事に追われています。しかし理想としての「悟り」への「希望」があるからこそ、その実現のために生活が充実し、こうして投稿し議論ができるのだと思っています。
 釈尊は、35才で解脱に達しブッダになったと自覚しましたが、「悟り」を得るというのは「主観的」なものです。彼の悟りがどのような心の状態であるかはわかりません。しかし、彼の解明した「四諦の説」(縁起の法=真理)は、多少の修正をすれば、今日でも十分通用する驚異的な教えです。修正すべき点は、釈尊が、Bunkouさんの言われるような「完全な完成」を目指しすぎているという点です。「四苦八苦」と言われる人生苦の洞察は見事なものですが、本当に正しいでしょうか。
 私は「@苦あれば楽あり、A楽あれば苦あり」の方が真理に近いと思っています。ただ根源的に重要なことは、あくまでも順序はAが先でなく、@が先です。生命の誕生は、宇宙における有限な地球という特殊な環境の中で起こりました。生命という存在形態は力強いものですが、地球環境の中では極めて不安定で弱いものです。水や一定の温度、細胞を形成する化学物質がないと生存できません。しかし、条件が整えば様々の存在形態をとって活動が活発になり繁栄します。生命の不安定さは「苦」ですし、良い条件におかれれば「楽」になります。
 釈尊は人生苦を絶対化し、それに対立させて解脱による完全な「楽」を追求しました。彼のように精神的快楽だけをすべての人間が目指せば、地上における人間の生存は成立しません。家族や教育、労働や産業はどれも苦楽を伴いますが、煩悩()の原因を排除していまうことはできません。現実に困難な理想を追いかけても、Bunkouさんの言われるように苦労が増すばかりか自滅することになるでしょう。そこで検証可能で説得力のある「希望」が必要になるのです。人間は「希望」を創造することができます。私達が目指すことのできる「共通の希望」はないのでしょうか。
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愛は神の呪いに打ち勝ちます   
 ゆきこさん、愛についてのパウロの美しい言葉をありがとうございます。私は常々『聖書』におけるイエスとパウロの絶妙な一体化に感心しています。しかし同時に、イエスの率直さに対して、パウロの言葉は、あまりにも美しいがゆえに疑問が起こってきます。パウロもまた愛の言葉を語りながら、引用された言葉のすぐあとで「もし主を愛さないものがあれば、のろわれよ。」(1コリント1622)と言っています。私はイエスという人物を尊敬し愛していますが、「主なる神」という人間の創造物を愛せません。私の幸せにとって、また人類にとっても神は必要でないと思うからです。私はイエスの言葉に、奇跡的な愛を感じますし、イエスからは愛される自信がありますが、父なる神からは呪われるだろうと思います。おそらくパウロは私を愛さないでしょう。
 しかし、神の愛のみを信じ、その恐ろしさをご覧になっていない、ゆきこさんの深い愛は、神への信仰のない私を憐れみ許して下さるでしょう。私は、残念ながら、神を創った人間の罪深さを歴史の中に、また現代においても数多く見ています(もちろんイエスの福音によって救われている多くの人たちゆきこさんを含めても知っています)神を創って自己の主張を強化し、世界を解釈し、永遠の生命と救いを得ようとする人間の弱さを理解できます。しかし今や時代は、神を創る人間自身の存在がどのようなものであるかの理解が可能な時代です。人間の不幸・苦しみ・悩み等々や、幸福・楽しさ・喜び・救い等々の根源を知り、すべての人が神を必要とせず、地上での幸福を得られる時代が近づいています。
 パウロは次のように言っています。「神は、いかなる艱難の中にいる時でも、私たちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。」(2コリント14 しかし、私たちが人々を慰めることができるのは、神の慰めによってでなく、人間の善なる本性ないし道徳性とそれらによって創られる知恵によって、人間存在の有限性や困難性を共感し、同情することができるからです。我々は「神の恵み」によらなくても、「人間の知恵(道徳心)」によって慰め合い助け合うことができます。
 更にパウロは言います。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方のうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなるものだからである。『神は、知者たちをその悪知恵によって捕らえる』と書いてあり、更にまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある。だから、だれも人間を誇ってはならない。」(1コリント318~20)この言葉は、半分は正しく半分は誤りです。
 正しいのは、この世の知恵についての謙虚さです。しかしその意味は、パウロが語るように、人間は神の賢さを越えることはできないからではなく、神を創らざるを得なかった人間が、本性的に賢く(全知全能で)ないからです。論議がむなしいのは、知恵の根拠を神に求めるからであり、人間を罪人としてさげすみ貶めるからであり、地上の幸福を求めないからです。人間は、神を創ったものとして自覚できることを誇ってよいのであり、人間について、また神について大いに議論をすべきなのです。私たちは「地上の知恵」によってこそ「地上の幸福」を手に入れることができるのです。個人の知恵を誇ってはならないけれども、人間存在は誇ってよいのです。
 この世の知恵は、神についての知恵を含めて、究極的には個人の知恵です。独善的でない人間的な知恵を得るためには、Bunkouさんのように批判を受け入れる忍耐強い議論の継続が必要です。議論を継続するには、問題が解決するであろうという「希望」が必要です。私は、生命や人間についての共通理解が可能であるという「希望」を持っています。ゆきこさんの愛の力は、神を必要としないで、ゆきこさん自身と隣人のために活かされると信じています。
 
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積極的幸福論=希望の幸福論  
 Bunkouさん、私の「希望の幸福論」についての懸念は、よく理解できます。
「希望」もまた「欲望」の一種であり、「我を忘れさせる」恐さがあるというのはその通りです。独裁者ヒトラーやスターリンにも、クリスチャンのブッシュやユダヤ教徒のシャロンにも、ロシア革命のレーニンや黒人指導者のキングにも、いやおそらくすべての人々に希望はあると思います。しかし希望が実現しなければ、「絶望」という人間にとって最も不幸な状態が訪れます。だから「恐さ」を避けるためには、どのような「良い希望」を持つかということが問題となります。
 幸福が「変幻自在」で、様々な形態があるように、希望にもその人の経済的社会的事情や、人生観世界観によって多様性があります。独裁者の希望もあれば、宗教者の希望もあり、金持の希望もあれば浮浪者の希望もあります。しかしここでは、すべての人間に共通する永続的幸福の条件となる、永続的希望について考えてみます。
 様々の幸福があるとはいえ、物質的快楽(幸福食・性・安全等)は物質の存在に左右され不安定です。しかし、精神的快楽はその精神を支える思想や信仰がある限り永続します。恋人といる幸福を永続させることは希ですが、神を心に描いて得る幸福は永続的です。物質的快楽は、物質的肉体的欲求の充足によって大脳の快楽中枢が刺激されて得られます。それに対し、精神的快楽は様々の問題を言語的(思想的)に解決(合理化)し、快楽中枢を言語(記号)的に刺激し続ける(信仰・祈り・瞑想・音楽等)ことによって得られます。
 「希望」は、本来人間に特有で精神的なものなので、快楽中枢を刺激し続ける力を持ちます。「希望の感情」は、単なる生理的快楽にもとづくのではなく、生命力を生み出す「意志的感情」に属するhttp://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html )ので、積極的に幸福を追求することができるのです。希望の感情が強い力を持ち、永続的幸福をもたらすのはそのような理由によります。しかし、いかに希望の感情が強力であっても、希望の内容(目標)が物質的なものであったり、真理性が検証に耐えられない場合、永続性は困難です。だから「永続的な希望」は、検証に耐えられる思想的真理に支えられなければなりません。人間は様々な神を創りそれに意味づけをして、有限で不安定な自己の存在を合理化し、不安な感情を克服してきました。私もまた自己の存在を合理化します。
 まずは<生命の本質とはなにか>という疑問について考えます。Bunkouさんは、「生きること」は、まず「環境に働きかけてエネルギーを獲得すること」だと言われます。しかし私はそうは考えません。生きること(生命の本質)は「まず個体性(細胞性)を維持すること」すなわち外的環境から自らを隔離する自立的化学反応構造を持続させることです。その次に、その個体性を維持するために外的エネルギーの獲得が必要になるのです。これはとても微妙な問題ですが、生命の本質を考える上で重要です。
 原始生命誕生の時、蛋白質や核酸を含む有機体(一種の化学反応工場)は、原始地球の環境によって作られ、それ自体がエネルギー物質で構成されていました。地球という生命の母なる特殊な環境が、エネルギーを与え、外界から独立する化学反応系を作り、原始生命を誕生させ維持させたのです。だから、私にとってはあくまで、「エネルギーの獲得」という外的能動的な個体反応は、個体性維持のための二次的な反応なのです。
 なぜこの微妙な違いを強調するのかといいますと、生命の外的反応(環境への働きかけ)を一次的なものと考えると、受動的な生命である植物の構造や、動物における個体性の維持(内的恒常性の維持すなわち外界からの自立)の意味が見失われるからです。動物は環境に対して能動的積極的な存在ですが、何のために外的行動をとるのかと言えば、あくまで自律的な内的恒常性(ホメオスタシス)を維持するためなのです。そして、動物はそのために神経系を発達させて環境をより的確に認識し、より適応的に行動するように進化しました。その頂点に人間があり、言語(何がどうあり、どう行動するか)があります。
 ところが人間は、言語を獲得したがために、神仏や地獄極楽を創ったり、幸福や不幸を考え、自己を世界の中に言語的に位置づけようとしてきました。また欲望を肥大化させ、道具や機械を発明することによって自然を利用支配し、戦争やテロを行い、今日の豊かだけれども不安定な物質文明を築いたのです。
 つまり、生命にとっての目的(希望・意志)は、「個体性(内的恒常性)の維持すなわち欲求の充足」であるにもかかわらず、欲求充足のための外的活動(エネルギーの獲得や自己保存、異性の獲得)が、生命の本質からかけ離れてしまい(疑似現実を作り肥大化する)、生命そのものの存在を危うくしている(生命の自己疎外)のが人間なのです。例えば、民族戦争、宗教戦争、イデオロギー、過剰な競争、環境破壊、犯罪などの多くは、不可避のものではなく、生きることの本質を見ることができず、利己的排他的な欲望を実現しようとした結果なのです。なるほど有限な環境の中で、限度以上の個体が増殖すれば生存のための競争は避けられません。しかし問題は、言語的認識がもたらす過剰な敵対意識(不信や憎悪)や欲望の肥大化による環境破壊なのです。
 このことは幸福論とも関係しています。人間は物質的には豊かになり便利で快適な生活ができるようになって幸福の条件は増大しました。しかし同時に欲望も増大し、不満はそれ以上に増大しています。このような過剰な物質文明の中で幸福を得るために、Bunkouさんの「諦め」すなわち「欲望の抑制」の必要性が主張されるのは当然のことです。「足るを知る」ことは、欲求不満(不幸)にならないための必要条件であるのは確かです。
 しかし私はこの物質文明自体を抑制しなければ、地上の生命に未来はないと考えています。単なる利己的な自己主張や経済的利益の追求、刹那的欲求不満の解消、さらには検証のできない旧来の閉鎖的信仰に頼って、身内だけの独善的な幸福(自己満足)に安住し(諦め)ていては、未来の希望は保証できず、不安な感情はますます人々を刹那的な快楽に走らせると思うのです。
 「希望」は確かに「我」を忘れさせます。しかし私にとっての「希望」とは、「生命の存続」を前提にした「地上における人間の幸福」です。独善的で利己的になりやすい「我」や、検証を拒み神秘的な力に頼りたがる「我」とは何かを解明し、人間的な「真実の自己」を発見しようとすることを意図したものです。私は「真実の自己」は、「言語」や「欲求・感情」の分析解明によって可能になると考えています。人間は欲のかたまりであり、感情の動物です。その欲や感情を言葉で取り繕い、行動を制御しているのが人間という動物なのです。そして「真実の自己」を発見するとき、新しい「自己の創造」という積極的な「希望」を持つことが可能になるのです。 
 真実の自己とは何か。私は釈尊の言葉の中に一つのイメージを描いています。少しだけ引用しておきます。(引用は『真理のことば』中村 元訳 岩波文庫)
 「悟りの究極に達し、恐れることなく、無欲で、煩いのない人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。」(351)
 「明らかな知恵のない人には精神の安定統一がない。精神の安定統一していない人には明らかな知恵がない。精神の安定統一と明らかな知恵が備わっている人こそ、すでにニルヴァーナ(心の平安)の近くにいる。」(371)
 「実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。ゆえに自分をととのえよ。」(380)


仏教の現代化──言語論的展開(認識と幸福の実現

<仏教の衆生救済>
 釈尊(シャカ・ブッダ)は、人々を生存の苦しみから救おうとした。

@背景:輪廻思想、厭世思想、縁起思想、涅槃思想
A目標:苦の生存からの解放・解脱=涅槃・心の平安の獲得
B苦の原因:生存への執着と煩悩
        十二縁起説(無明→→生死・苦の繰り返し)
C仏教認識論:五蘊(色・受・想・行・識)による人生苦と縁起の認識
D解脱の方法:出家八正道(正しい見解、思惟、精進、言葉、瞑想等)
       在家五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)
E衆生救済:慈悲衆生の苦への共感的理解(大乗では慈悲は空の本質?)
F大乗の智慧:空観=分別・対立的認識の克服、菩薩への帰依と救済

<仏教の現代化>
 釈尊の願いは、現状の仏教で実現できるか?。否、科学的現代化を必要としている。

()現代化の基本
   生物学・心理学、臨床心理学等による科学的再検討
   輪廻転生・厭世思想の克服、十二縁起説(超越的認識論)の修正
   人生苦の克服と相対化、解脱の臨床心理学(臨床幸福学)の創造
    (幸福な人生のための生理的、心理的、社会的条件の整備)

@ 釈尊の涅槃と心の平安、迷いと執着からの「解脱」は、生と老衰の苦を乗り越えることがなくても、また彼岸(死)に至らなくても現世において実現可能である。従って、人生を「一切皆苦」と想定する必要はない(苦の中道化)。

A
人生は、個人(自己)としては一回性のものであるが、生命、家族、人類等としては過去から未来につながり、地球的広がりをもっている。また一回性の人生も
「一切皆苦」ではなく、「苦主楽従」(または「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」)なので、苦を克服し楽を追求する(「越苦至楽」)ことによって、心の平安と幸福のうちに充実した生存を終えることができる。

B
生命は、快を求め不快()を避ける活動によって、個体を維持(欲望・執着)する。
人間は言語的活動によって理知的精神的快楽(心の平安・持続的幸福・解脱)を得ることができる。(言語的活動には八正道や涅槃的直観の制御を含む。)

C
「解脱や悟り」は、「持続的幸福・心の平安」の獲得を意味し、それは
人間存在の正しい知識、物質的生存のための生産労働、契約と信頼にもとづく社会的連帯を条件として実現可能である。反対に、大乗の空観に見られるような「否定(という分別)」による無分別知や直観は中道とはいえず、在家(社会)的生存を肯定的に理解することのない非社会的主観的知識と実践は、持続的幸福をもたらさない(大乗仏教は御利益仏教、葬式仏教に堕落する)。

D
釈尊は、「解脱や悟り」を得るために、生存・欲望への執着を断つことを求めたが、歴史的社会的文化的制約から、自らが「解脱や悟りに執着」していることを認識しなかった。そのため「人生苦の縁起」や「苦からの解脱や悟り」について種々の解釈を許すことになった。仏教の現代的再生のためには、
生命言語説にもとづく認識論の確立(真理や幸福とは何か)からはじめる必要がある。


()現代化の方法

@
縁起(無明と明知・真理、解脱、生死等々)の認識や区別は「言語」的認識による。
      生命言語説による仏教的認識論の修正または再構成(
参照:言語論
      
生死や執着・欲望のある生命から、言語的知識(無明・明知)が生じた
      のであって、その逆ではない。
A
仏教認識論は、言語や知識への分析を欠いているため、認識結果(言語・知識)とその評価の関係が曖昧になり、認識・判断主体の知識内容や価値評価だけでなく、物質的・精神的対象そのものをすべて「縁起」「無自性」「空」と見なす誤りに陥った(無分別知というが、知は分別を避けられない)。
  
B
精神的快楽(心の平安・幸福)は、精神集中を含む知的自己実現(目標実現、課題達成)による場合と、心理観察による精神集中(禅定)そのものによって達成可能である(精神的快楽は、ある程度肉体的苦痛を克服できる)。

C
「方便論」と強迫観念の克服:人生苦の真実(縁起・煩悩・相対性)を生物学的・心理学的・社会学的に明らかにし、
自我と欲望の抑制による幸福実現の道筋を追求する。従って、輪廻の脅迫(想像上の地獄の苦しみ)や方便・神通力による解決ではなく、科学的真実によって衆生に自覚を促し、持続的幸福が可能となる。〈大乗の智慧や方便は「智慧の完成(般若波羅蜜)」には到っていない。〉

D
大乗的神秘的救済の克服:現世における生存努力の評価と社会的連帯による互助的救済、充実した人生と互助的社会の創造によって、大乗的知恵の限界、菩薩的神通力の限界を克服する。慈悲と社会的関係性の洞察・正義の実現、分業と交換の透明化
般若思想 : 仏教的真理(智恵・明智・般若)では、自然の縁起は空であるとしても、人間存在の縁起(人為)は空ではなく有である。人間の認識は有の縁起(生命言語説)に始まり、空を認識して涅槃にいたる可能性を得る。(空を方便として悟りを得、またそのような般若思想による菩薩的他力の信仰によって悟りや救いを得ることが、心理的事実として存在してきたことは認められねばならない。)

法華思想 :法華経における一仏乗・方便の知恵は、認識と涅槃の真実の追究を放棄し、菩薩の神通力に依存するがために現代と未来社会に適応力を持たない。慈悲や涅槃は、方便や神通力ではなく、人間性の真実を科学的に認識することによって可能となる。(宗教的信仰は、科学的検証を得てはじめて強固になる)
                             
(3)仏教思想における<言語論>の意義

 人間の言語によって得られる区別・分別と構想(創造)力は、人間の欲求と執着を拡大・増幅・記憶し、生病老死や煩悩の苦しみを持続させる根源となった。しかし、人間は言語によって心(欲望や感情)や行動を制約し、心の平安や善的行動を導くことができる。言語認識における対立物の克服は、言語操作(戯論)や判断・分別の中止・克服(空観)ではなく、目標や基準(幸福・平安・真実・公正・正義等)を明確にして選択または新たに構想・創造することによる。仏教における言語・知識の解明ないし相対化の欠如は、「無明」の意義、瞑想、論理論争、涅槃(心の平安・解脱)、縁起論、空観の解明に限界を生じさせてきた
 つまり、知識や論理が「生命(自我)にとって何であるのか」、が理解されないまま「無明」や「明知(般若)」が論じられたため、生存における精神的幸福追求(への執着の意義)が軽視または神秘化されたのである。たとえば、釈尊の解脱や悟り(仏になること)がきわめて困難(部派仏教では出家しても阿羅漢まで)であったり、逆に、大乗におけるように菩薩や阿弥陀仏の救いによって容易になったりしたのである。

 十二縁起説における「無明」は、生死の原因とされたが、これは輪廻思想という想像上の知識の所産(無明)であり、苦の生存を解脱したという慰めを得る「方便」としてしか意義がない。本来、人間の知識は、言語を用いて対立物の関係を因果(縁起)的に再構成(主語述語修飾語等)したもので、自性的なものではない。つまり言語的知識は、対象それ自体ではなく、人間の選択的構成的認識の創造物・結果なのである。しかし知識は絶対化されると、人間の感情や行動を支配するようになる。知識の本質が、言語による構成物であることを理解していないと、仏教の真理(法・ダルマ)という知識の内容に様々の解釈が生じることになる。釈尊は法の前提に「諸行無常」をおいたが、大乗の思想においては概念の対立性や縁起(無常)さえも「空」とみなして絶対化し、新たな無明を構想して(空観)、幸福追求への認識を(様々に)ゆがめてしまったのである。

 伝統仏教におけるように、前世の因縁や宿業が人生苦や不幸の原因であるかのように脅迫し、現世の苦痛を逃れ幸福をもとめ、また未来の極楽往生を願って意味不明のお経を唱え布施をはずませなくても、現世の幸福を得られる知恵を見いだす方がよほど釈尊の願いにかなうのではないだろうか。「生病老死」の苦は、生物学的個体の脆弱性にもとづくが、生命の持続性や関係性(縁起、自然必然性)の自覚や肉親・隣人の支えによってある程度克服することができる。また主に社会的人間関係から生じる「愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦、五うん盛苦」等のストレス(苦)も、社会関係の修正によって低減することができる。

 また 生命力の根源である欲求と快苦の感情は、人間の善性(慈悲・仁愛)を高め、悪性(利己心)を抑制することによって制御可能であり、それによって精神的快楽を持続させることができる。欲求や感情は主観的な要素が多く、個々人の自己分析や科学的分析が今後の課題である。

【臨床幸福学のキーワード】
・悟り・解脱・涅槃の現代化:精神集中と精神的快楽、心の平安・幸福感
・欲求と感情、快苦と肯定否定の感情、精神的快楽・平安の本質
・認識論と縁起・無我・空理論の現代化:因果と論理実証、価値の転換
・瞑想と修行の現代化:心(欲求と感情と言語)の観察と精神集中、
・慈悲と社会正義の実現:慈悲・善性の自覚と社会的公正・正義の吟味
            社会的連帯と新しい持続的契約
・「心のしくみ」は、欲求と感情と言語(と記憶)によって構成される。(参照:欲求  感情

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神を想定することの意味と是非

 『聖書』におけるように「天地の創造主、全能の父なる神」を想定することは,人間存在を神から受動的に与えられたものとして示すことである。『創世記』では「神は自分のかたちに人を創造された」とある。しかし、我々人間は、ダーウィンの『進化論』以来、自然の産物であり自然の特殊な存在形態である生命・動物として生存しているものとされるようになった。我々は何らかの絶対的な存在(神または神の言葉)があって生きている、または生かされているのではなく,主体的に「生きていること自体」が我々にとって絶対的なのである。「我々」「自己」[自我」「生命」等という言葉で表される人間存在は,生命の誕生と進化によって,幾億もの細胞で構成され統合した生命個体(細胞統合体)である。そして、自らを表現する言語は神から由来するものでなく、生存形態の進化の結果、生命の生存手段(認識、記憶、伝達の手段)として生命が獲得したものである。

 自然が生命を選択的に人間に進化させたとして、「自然」に代わって汎神論的に「神」を想定することに罪はないが,神の言葉,神の摂理(世界計画、神託)は生物科学的にはあり得ない。あるとしても人間が自らの存在を合理化し意味づけるための、想像(空想)的世界観である。しかし、汎神論では多義的な解釈が可能になって、何らかの絶対的な信仰を求める場合には、自然を絶対神に置き換えることも可能になる。例えば、宇宙の始まりや重い病気の自然的治癒など何らかの理由づけを好む人間にとっては、最適の科学的知識が確立していない場合、神の計画や奇跡を想定することは自然的な欲求である。ただ検証可能な科学的事実の認識、すなわち言語が生命進化の所産であるにもかかわらず、「神の世界計画・天地創造」は人間の言語と想像力の所産であることを否定することは、自らの知的水準や洞察力の低さを公言することになる。人間が物事の根源(アルケー)を求めるのは、言語的認識(疑問の解明:何が、どのように、なぜあるのか)を行う人間の本質なのである。

 人間個体(言語を持つ細胞統合体)は生物学的に老化し、百歳前後で滅びるのであるが、生存とは様々の課題解決の過程であり、仏教で言う四苦八苦の苦労・煩悩は消え去ることはない。また人間は言葉をもつことによって様々の欲求や感情を継続的に意識化し、また否定的な感情に伴う記憶は無意識下に抑圧して、神経症や心身症などの病的症状を生み出してしまう。このよう解決困難な課題のある場合に、知的認識能力を高め精神的な弱さを克服し、前向きで肯定的な感情を得ようとすれば、何らかの援助や救済を必要とする。人生には時として、失望、挫折、落胆、不安など生きる気力を失わせるような事態や、そこまでいかずとも、日常直面する仕事の重圧や人間関係の煩わしさでストレスを感じることが多いものである。「私の人生っていったい何なのだろう」と人生の意味を考えることや生きること自体が、うざい、たいくつ、つまらない、むなしいと思えることもある。そこでこれらの疑念やストレスを解消する方法を考えるが、安易な解決を望む場合も多く、超能力者や超人、預言者や魔術師、架空の神々、スーパーマンやウルトラマンを要請するのと同じような感覚で「全知全能の神」が想定・創造される。超人的な能力を持つ神や仏に依頼して希望を叶えようとするのは、言語を持つ人間にとってごく自然な願望であり解決法である。科学的世界観や人間観を知らない古代人が、人生苦についての根本的な解決や救済を求めて宗教をつくり、人生の意味や確実性を求めて哲学や思想を追求したのは、言語による世界の合理化をせざるを得ない人間の宿命であった。

 しかし、今や時代は、全能の神を必要としない。人間は生命の獲得した言語的認識能力(知性・理性)によって、自らの存在理由を明らかにし、傲慢さに気づき、科学技術を利用して、持続的な幸福を得るために自らを抑制しつつ人生を楽しむことができる。しかしそのために、創造神としての全能の神を想定することは、狭量で排他的な独善的信仰に依存し、人間の自由と幸福を追求する努力を妨害し毀損するものとなる。旧来の絶対神信仰の宗教が、民族的・集団的狭量や利害と結合して、暴力的な思想や行動となることは、多くの宗教戦争や今日のテロリズムが実証している。人間が未来社会の平和共存と幸福な地球共同体を実現するために、まずは生命と言語の科学的究明による人間存在についての共通理解が必要となる。人間は自己を言語的に意味づけ合理化する存在である。生命としての人間存在は絶対的なものではないが、今日まで人間の言語的創造力は絶対的な神や善、悪魔や敵、天国や地獄等を造って、狭量で排他的な自民族中心、自宗派中心の行動をとってきた。しかし今日の地球世界は相互依存、相互理解をすすめ、共存共栄を目ざす運命共同体になりつつある。さらに一歩前進するためには、「宇宙船地球号」「地球的思考と地域的行動」的発想に加えて、神仏によらない人間自身の「生命言語的自覚による自己抑制」が求められるようになるであろう。


神による自然と世界の合理化・意味づけ──キリスト教神学の終焉

 言語の本質の一つである「世界の合理化」「自己の存在や行動の合理化」の機能を自覚することができれば、人は自らが合理化している世界を相対化することが可能になる。人間は世界を様々に合理化してきた。しかしそれらの多くは、言語の人間的本質に無知であるため無意識的におこなわれたものであった。一つの言語、一つの命題(文)には、その言語を使用する人間の欲求や意志や感情が含まれている。言語は人間生命の発露であり、人を動かし感動させ、死をも導く武器となる。神という言葉はその言葉に思いを寄せる人にとっては、生存のすべてでもある。『ヨハネ福音書』冒頭の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というのは、言語の本質を知らないで、言語によって神を絶対化する究極の合理化であった。

 なぜ神が必要であったか、なぜ自然と世界を合理化する必要があったか。それは宇宙の中の地球という極めて特殊な存在が、生命という同じく特殊な存在形態を創りだしたことに始まる。そして言語を持ち知性化した人間生命が、自己の存在の不条理性に気づき、不安になって存在の意味を追求するとき、世界の合理化が始まったのである。その不条理性とは不如意な生存の厳しさであり、人間関係の煩わしさであり、個体死の恐怖である。ユダヤ、キリスト、イスラム教的に言えば原罪であり、仏教的には輪廻転生と苦諦である。これらの不条理性、不安、恐怖から逃れ、救済と慰安と生きる希望を与えてくれたのが、人間救済を目ざす普遍宗教であった。

 感情を持つ動物にとって不安や恐怖等の否定的感情は、危険を避け生存を維持するための基本的反応でありかつ動因である。言語を持つようになった人間もまた感情の動物である。しかし人間は、言語を持つことによって不条理の意味を問い、問題を解決しなければ、不安や恐怖が記憶から消去できない存在になってしまった。「何が、なぜ、どのようにしてwhat, why, how」の疑問は、否定的感情と結合することによって無意識下に抑圧される。言語刺激等によって想起され心を乱す否定的感情は、容易に認識を歪め病的な行動を誘発する。しかし、人間は生きなければならない。生きることは生命の根源的意志である。生きる希望を見いだすには。不安や恐怖をもたらす根本原因を解明し、解決の道を見いださなければならない。そこに宗教的天才の奇跡的偉業が成し遂げられる機会がある。初めは部族的、民族的指導者であるが、閉鎖的宗教間の抗争と混乱を経て、民族を越えた普遍宗教が出現する。

 例えば、ユダヤ民族の創造神ヤハウェの子であると「自覚した」イエスによって創始されたキリスト教は、古代西洋思想によって神学としての理論化が進められた。その神学の確立すなわち「神の存在証明」がいかに困難であったかは、アウグスティヌス(354-430)の『告白』(1)や『三位一体』、トマス・アクィナスの『神学大全』等に現れている。

 中世神学の精華ともいえる『神学大全』の内容は、序言にあるように「初学者の教育に適した方法で伝える」ため、三部門五百余の設問をさらに小項目に分類して、邦訳では四十五冊にわたる大部のものである。『神学大全』は、教会付属学校schola等の教科書となり、スコラ学の代表的著作とされていた。第一部門は、神と神からでるもの(世界創造、三位一体)について論じる。第二部門は、神の被造物である人間が神に戻る方途(理性、意志のはたらきと神の恵み)について述べる。第三部門は、罪人を神のもとに戻す神の恵みとしてのキリスト・イエスの意味づけを述べる。彼の神学がどのようなものであるかのほんの一端を、第一部門(神について)の目次で紹介しておこう。

第一問題 聖教sacra doctrinaについて──それはどのような性質のものであるか、
    またその及ぶところ如何
 第一項 哲学的諸学問のほかになお別個の教えの行われる必要があるか
 第二項 聖教は学であるか ・・・・
 第六項 この教えは智慧であるか ・・・・・
 第十項 聖書は一つの字句のもとに幾つかの意味を含むものであるか
第二問題 神について──神は存在するか
 第一項 神が存在するということは自明的なことがらであるか
 第二項 神が存在するということは論証の可能なことがらであるか
 第三項 神は存在するか
 ・・・・・・・・・・
第十三問題 神の名について
 第一項 神に適合する何らかの名称があるか
 第二項 神について実体的な仕方で語られるような何らかの名称があるか
 第三項 固有の仕方で神について語られるような何らかの名称が存するか
  ・・・・・・・・・・・
 第十一項「在るところの者」という名称は、如何なる名称にもまして神に固有な名称であるか
 第十二項 肯定命題が神について形成されることができるか 
・・・・・・・・・・

 『神学大全』は大部な書物であり、その内容は図書館等で一見してもらう以外ない。初学者対象なので疑問に対する討論形式をとり、「異論」「反対異論」「主文」「異論解答」と定型化されている。そのため、アリストテレスの哲学と倫理学、アウグスティヌスの信仰と神の存在証明、それに『聖書』があれば(それらの習得自体は困難ではある)誰にでも理解できるような内容である。また正直言えば、具体的経験的検証は排除されており容易に説得されてしまうような、単純な文献引用的論証で成立している。ごく一部であるが、言葉・名称にかかわる問題についてコメントしておこう。

 第一問題の「聖教」とは「神の啓示にもとづく教義」であり、人間理性を越えたものとされる(聖書の神学)。それに対し、「哲学的諸学問」とはアリストテレス等の学者によって得られた人間理性にもとづく知識(哲学上の神学:聖教の婢女)である。両者の立場に対しトマスは、「人間救済のためには、人間理性を以て探求されるところの哲学的諸学問のほかに、なお神の啓示に基づく或る種の教えの存することが必要であった」(『神学大全』邦訳1-p5)というように、聖書等の神的な啓示を信仰によって受容することが必要であり、そのために人間理性とは異なる上位の神学の意義があるとする。さてそこで、「神の啓示」「神知」「神の言葉」としての『聖書』の記述内容の意味が問われなければならない。信仰は命題なしにありえないが、「聖教はその出発点たる諸々の基本命題を、何ら人知の学scientia humanaに仰ぐのではなく、却ってこれを神知scientia divinaに、即ち、我々のあらゆる認識がそれによって秩序づけられている最高の意味における智慧であるところの神知に、仰ぐのである。」(同上p18)とあるように、言語によって構成される教義、学(scientia, science, Wissenschaft知識の体系)、理論、知識、知恵とされるものは、いずれも命題によって成立しているのである。そこで、論理学の基本である命題(文)とは何か、命題を構成する概念(言語)とは何かが問われなければならない。命題それ自体には神の命題も、人間の命題も区別はないからである。
 以上のことは、次の第二問題 「神は存在するか」において重要になる。

「かくて私[トマス・アクィナス]はいう。『神は存在する』という命題は、それ自身におけるかぎりでは自明的な命題である。というのは、ここでは述語は主語と同じものなのだからであって、神は、すなわち、・・・まさしくみずからの『存在』でありたもう。しかしながら我々は神についてその『何たるか』を知らないものなるがゆえに、この命題は、我々にとっては自明的な命題であるわけでなく、それは却って、『我々に関するかぎりはより明らかな、然し本性的にというかぎりにおいてはより少くしか明らかでないところのもの』によつて、換言すれば、神の諸々の果effectusによって、論証されることを必要とする命題なのである。」(p38下線は引用者による)

 有限な被造物である人間理性に、無限な創造主である神(の全体像)は認識できない。しかし、神を原因とする結果(被造物)については認識できるので、すべての被造物の認識から神の存在を理解できるとトマスは考える。だがこの「神は存在する」という命題自体は人間の判断である。なぜなら簡単で重要なことであるが、「神は存在するか」という疑問は、全知全能の神が発するものではなく、疑問をもつということが有限な人間に特有のものであり、であれば当然解答である「神は存在する」のもまた人間のものだからである。たとえ神が原因として、人間に疑問をもつようにしたとしても、やはり人間の判断である。つまり命題は神と人間に関係なく、人間の判断であり、神が主語であるのは人間が創作したものであるということになる。

 神が人間の創作物であることは、「第三項 神は存在するか」でさらに明らかになる。トマスは、神の存在をアリストテレスの『形而上学』における四原因説や「不動の動者」等に倣って5つの方法で証明している。それらは@第一動者 A第一作動因 B自らによって必然的なもの C最高度の完全性に至らせる原因 D自然的物体を目的的に秩序づける力としての神であるが、結局科学的実証的検証に基づかない権威と思弁(speculation推測)に依存した創作であるにすぎない。アリストテレスに依存する限りやむを得ないのであるが、被造物(自然現象)の論証としては不十分であり、命題や概念・言語への言及もない。 次いで言葉の問題を第十三問題第一項で見ておこう。神をどのように名づけるか、すなわち「神に適合する何らかの名称があるか」という問に対して、異論は「神に適合するごとき名称はない」、なぜなら「名称」(記号)では「自存する完全な何ものか[神]」を表示するに不十分(不可能)である、と名称の意義自体を考察することもない。また「神には質もなければ如何なる付帯性もなく」等という理由で「神は、如何なる仕方においても我々によって名づけられ語られることのできないものである」とされ、神の定義は恣意的となるとされる。我々の立場からは、神の定義は有限な人間の創造によるから、「恣意性」こそ神の定義の本質となる。従ってまた、神の「絶対性」も恣意的であることになる。

 他面、その反対の論には、『出エジプト記』の紅海脱出直後に神を賛美した歌「主はいくさびとのごとくその名は全能Omnipotens」(p260)と引用し(2)、名前自体が全能とされるのである。そして両者の立場を検討して、結論として言う。神の名称は、神の実体を表示はするが、神そのものを表現するには不足している。「諸々の名称は、すなわち、我々の知性が神を認識する限りに従って神を表示する。・・・・こうした知性は、諸々の被造物が神を表現しているかぎりに従って、神を認識する」(同上p266)ということになる。つまり言葉(名称)とは何かの疑問は出されない。言葉は神なのか、人間の認識の手段(記号、唯名論)であるのかは明確にされない(3)。この点でトマスはアウグスティヌスと同じ動揺と誤った確信を持っていた。動揺とは、『ヨハネ福音書講解説教』における前の引用において、「神と共にあったというその言(コトバ)はいったい何あろうか。それは、響いて過ぎ去って行ったとわたしたちが言うことばではないのか。すると、神の言も響いてのちに終るのだろうか」(p17)であり、誤った確信とは「言(コトバ)」が神そのものということである。彼らには、人間における言葉と神の言(ロゴス)違いを確定できないのである。アウグスティヌスは『三位一体』において、『ヨハネ福音書』冒頭の言葉を引用した後で次のように述べている。

「『言は初めに神と共にあった。すべてのものはそれによって造られ、それによらずに造られたものはなかった.(1-3,4)『すべてのもの』とは造られた限りのもの、すべての被造物である。すべてのものは言によって造られたが、その言が造られたものでないことは、ここからして全く明らかである。言は造られたのではないから、被造物ではない。」(『三位一体』邦訳p19 下線は引用者)

 アウグスティヌス(およびラテン語翻訳者)が、ギリシア特有のロゴスの意味(ratio・原理・理由・理性の意味を含み、verbum・言葉・発話に限定されない)を正しく理解していたなら(4)、もう少し明晰に神の原理が説明され、下線部のような苦しい弁明がされなかったであろう。世界を支配する原理としてのギリシア語のロゴスは、単なる言verbumword or language)ではないので、「被造物ではない」とする必要は全くない(言語は生命の被造物であり、人間を規定する本質である)。このことはギリシャ語聖書のロゴスΛ?γο?とラテン語訳聖書のverbumの違いが正しく理解されているとは言えない神学者たちの混乱を示している。それに対し、我々は明確にverbumは神そのものでも、神の被造物でもなく、生命の獲得物ないし被造物であると断言する。そのことによって、イエスが自らを神の子と信じ奇跡的な珠玉の言葉を残し、人類の苦しみを贖おうとしたことに感銘を受け、イエスを人間救済の気高い信念を持った傑出した人物、人類の教師として、永遠に尊敬することができるのである。

 さて『神学大全』の第三部(山田晶訳注解)は、神がイエスという人間の姿をとって(「受肉」と言う)、救世主キリストになることの意味を明らかにする。これは旧約聖書にはない発想(メシア・キリスト・救世主は、預言者や王などの指導者であって、神のひとり子というのは奇跡的な発想)であり、創造主、神聖にして完全な善としての神の存在を、神と神の子イエスと聖霊の三位一体として創出し、新たなキリストの物語が始まる。この三位一体説を、被造物にして罪人である人間の救済にどのように結びつけているか。人間の苦しみや悲惨さが救済され永遠の命を得るために、救世主イエスが出現することによってどのような物語が作られたか。自己の存在を意味づけ合理化する存在としての人間が、罪人から救済されるために、キリスト教徒としていかにあるべきかが、緻密に構成された論証として示されている。それらが空想の産物であるとしても、その一端を知っておく必要があると思われるので、言(コトバ)がどのように取り扱われているかを中心に、一部の項目をあげておこう。第三部も第一問から始まり第九〇問まで続き、それぞれ細目の項によって説明される。

第一問 受肉の適合性について
 第一項 神が受肉することは適当であったか
 第二項 人類の回復のために神の言が受肉することは必要であったか
 第三項 もし人間が罪を犯さなかったとしても、やはり神は受肉したであろうか
 第四項 神が受肉したのは原罪を癒すためよりもむしろより主要的に自罪を癒すためであったか
 第五項 神が人類の始めから受肉することは適当であったろうか
 第六項 受肉の業は世の終りまで延期されるべきであったか
第二問 受肉した言の合一の仕方について、合一そのものに関し
 第一項 受肉した言の合一は一つの本性においてなされたか
 第二項 受肉した言の合一はぺルソナにおいてなされたか
 第三項 受肉した言の合一は主体ないしヒュポスタシスにおいてなされたか
 第四項 キリストのぺルソナは合成されたものであるか
 第五項 キリストのうちに魂と肉体との合一があったか
 第六項 人間本性は神の言に付帯的に合一したか
 第七項 神の本性と人間本性との合一は何か被造のことであるか:
 第八項 合一は受容と同じことであるか
 ・・・・・・・・・・・・・・
第六問 受容の秩序について
 弟一項 神の子は魂を介して肉を受容したか
 第二項 神の子は霊を介して魂を受容したか
 第三項 キリストの魂は言によって肉よりも先に受容されたか
 第四項 キリストの肉は魂と合一するよりも先に言に受容されたか
 ・・・・・・・・・・・・・・ (『神学大全25』第三部)

 第一問は、神が人間イエスとして出現する(受肉する)ことの意味を問う。全知全能の創造神が、なぜ人間に生存の苦しみを与えているのか、なぜ神の子イエスに多大の苦しみを与える必要があったのか、なぜ神は、人間の苦しみを今まで放置してきたのか等への疑問に答える。その解答は、人間が悪の誘惑(人間の始祖アダムを欺いたサタンのもたらす悪)に打ち勝ち、「人間が神に成る」(『神学大全25p17)というアウグスティヌスの言葉に集約される。アダムの犯した罪(原罪:神から食べるなと言われた「善悪を知る」木の実を食べた)が、人間の善的理性的本性を歪めたため、人間が癒され罪の償いを自覚するためには、神(の子)が受肉して、人類全体が所有する深刻な罪を残酷な十字架刑によって贖罪する必要があったというのである。トマスは、アウグスティヌスの言葉を要約して次のように説明している。

「言が肉と成った。肉があなたを盲目にしてしまった。それで、肉があなたを癒して下さるのです。まことにキリストは、肉を以て肉の欠陥をうち滅ぼすためにきたり給うた。」(同上p28

 第二問は「受肉した言(コトバ)の合一」すなわち、キリスト・イエスにおいて神性と人性とが、ペルソナ(特性・個性:人格でなく神人格と訳すべきか)において一つになることが、どのようになされたかを考察する。ここで「言」とは神のことであり、言が受肉するとは、神が人間の姿(イエス)をとって出現することである。第二問の概略的な解答は、神の子イエスは、無限(不変・不死)である神の本性は、「受肉した言」であり、有限(変化・消滅)である人間の本性(肉)が「神化した」のではなく、肉が「神の言の肉」となったとされる。だからキリスト・イエスにおいて神性と人性は融合したのではなくその本性を残しながら合一したと言われる。なぜこのようなことが問題になるかと言えば、もしイエスか神の受肉した本性的存在そのもの(単一性説)であるとすれば、刑死することはありえないことになるからである。そこで神と人との両性の共通本質である言(コトバ)が意味をもち、「神の言」が主体となって神の子イエスが受肉する。つまりイエスのペルソナにおいて神性と人性の両性が合一することになるのである(両性説:キリスト・イエスは神であり人間である)。さらに第三部においては、人間の特性としての肉に加え、魂、知性(精神、霊)が神の言によって受容されることが述べられる。本論ではトマス神学の全体を述べることが主眼ではないので、上記の問いのすべてを紹介するゆとりはないが、アウグスティヌスとともにトマス・アクィナスにおいても「言verbum=言葉」が、神とイエスの関係で決定的に重要な役割を果たしていることが分かる。

 そこで、問題はトマスにおいて、創造神を「神」と言わずに「言」と表現することの奇異性にある。『ヨハネ福音書』の「初めに言(コトバ)があった。言は神と共にあった。言は神であった。云々」の解明は、前にも述べたように、アウグスティヌスの重要な指摘である。そこで、我々の生命言語理論の立場から評価するのは、中世神学が、神の存在証明に当たって、この冒頭の命題における「言」を根源的なものと考えたことである。というのも、近代西洋哲学におけるデカルト、カント、ヘーゲル、実存主義等の観念論の系譜が、言語の問題を正面から捉えず、むしろ忌避したのは、言語について考えることが聖書と抵触すると考えたからであろうか。近代哲学は、個人(自我)の思考(思惟)の自立性や絶対性・完全性を重視したが、その思考・認識の根拠となる言語については十分吟味できなかった。近代観念論哲学の大成者とされ、思考(彼にとっては存在そのもの)の弁証法的発展を理論化したヘーゲルは、精神内における思考の運動を次のように神の存在証明と考えていた。

「いわゆる神の存在証明とは、思惟するものであり、感性的なものを思惟するものである精神の自己内における行程を記述し分析したものと見なしてよい。感性的なものを超える思惟の高揚、有限者を超えて無限者へと達する思惟の超出、・・・・、これはすべて、じつは、思惟そのものであり、この移行こそ思惟にほかならぬ。・・・・・実際、動物はこの移行をしない。動物は感性的感覚と直観とにとどまっている。だから動物は宗教な持たないのである。」(『精神現象学』邦訳p80 下線部引用者による)

 彼は、「学[wissenschaft 知識・真理の体系]を現存させるものは概念の自己運動にあると、私は考える」(『精神現象学』p53 )と述べ、「概念の自己運動」、すなわち「弁証法的思考(精神の現象)」が、概念(意味を内包する言語、ロゴスに近い)にもとづいていることを示唆している。しかし、アウグスティヌスは、もっと根源的かつ単純に、思考や理性の構成要素となる言葉そのものを神と考えたのである。それは彼によるヨハネ福音書冒頭の解説によくあらわれている。これは我々の生命言語理論にもとづく西洋思想批判にとって決定的に重要なので、彼の主張を長文になるが掲載する。それで我々が、言葉は生命が獲得した人間の本質であるということの意義──「初めに言葉があった」のではなく、また神そのものでもなく、逆に、生命が言語を獲得し、人間が言語によって神を創造したということの哲学的意義が明確になるであろう。

 あなたは「言」というのを耳にした時に、何か安価なものの形をこれに与えてはいけなないし、日常聞くくことばを推量してもいけないのである。すなわち、あの人はこんなことばを語ったとか、こんなことばが言われているとか、こんなことばをわたしに聞かせる、といった時のそれである。人々はそれをことばと呼んでいるが、それによってことばの価値を低くしている。しかしあなたは、「初めに言があった」と聞くとき、ふだん人間のことばを聞いて思うのが常であるような安価なものをそれとみなしてはいけないのである。よく聞きなさい。「言は神であった」。これがあなたの考えるべきことである。

 ところで今、だれか知らないが不信仰なアリウスの徒がここに来て、神の言は造られたのだと言うとしよう。いったい、神が万物を言によって造った時に、神の言が造られたということがありうるだろうか。もし神の言それ自身がまた造られたとしたら、何か別の言によって造られたのだろうか。もし言の言があり、これは言によって造られたのであるとその人が言うとしたら、わたしはその言とは神の独り子そのかたであると言おう。しかし、言の言といったことは言わないのであれぱ、万物がそれによって造られたそれは造られたのではないと認めるべききである。むろん、万物がそれによって造られたそれが、それ自身によって造られたということはありえない。

 それゆえ、福音書記者を信じなさい。彼はモーセが「初めに神は天地を創造された」(11)ことを述べたのと同じく、「初めに神が言を造られた」と述べることができたであろう。モーセはそれから万物を数えて、「神は言われた、あれ、するとあった」(11)と述べたのである。そのとき「言われた」のはだれであったのか。もちろん「神」である。では、「創造された」のは何であったのか。もちろんある被造物である。語る神と成つた被造物との間には、言以外の何があるだろうか。被造物はその言によって成ったのである。神はあれと言われた、すると成ったのであるから。この言は不変のものである。可変的な諸物が御言によって成った以上、御言自身は不変である。
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 福音書記者は言っている、「初めに言があった」と。それなのにきみは言う、「初めに言が造られた」と。彼は「万物は言によって成った」と言っているのに、きみはその言自身また造られたのだと言う。福音書記者は「初めに言が造られた」と言うことができたかもしれないが、「初めに言があった」と言ったではないか。「あった」のであれば「成った」のではない。したがって、被造物は皆それによって生じたのであり、それによらずには何ものも生じなかったのである。それゆえ、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」のであれば、きみはそれが何であるかを考えることができない場合、成長するまでは(その問いから)離れていなさい。御言は(堅い)食物である。むしろ乳を飲んで育ちなさい。そうすれぱ丈夫になって、(堅い)食物を摂るようにななるだろう(Iぺト22)。(『ヨハネ福音書講解説教』p19-21下線は引用者による)

 上記引用文の最後の言葉は逆説的である。現代科学の時代は、進化論を土台にして生命の誕生とその根本原理を明らかにしようとしている。それで分かっていることは、言葉には神の言葉というものはなく、人間の言葉によって人間はどのように自己と社会を認識しコントロールしていくかという課題である。イエス出現以来二千年を経過して、人類は飛躍的に成長し、新しい時代を築こうとしている。もう十分に堅い食物をとることができる。我々には、神の庇護と恵みと審判を想定しなくても、地上の幸福を享受できる時代が到来している。問題は、未だに、人類が過去の誤った知識と信仰に禍されて、人間の本質である言語の意義を理解していないことである。そして、その理解の障害になっているのが、言、言葉、ロゴス、言語とそれによって成立する論理を、生命の生存様式(自己保存の欲求と感情、刺激反応性の原理)から理解せず、人間に与えられたもの(前提としての存在)として捉えるギリシア以来の西洋的思考様式にある。

 我々は、自己を神の子キリストとして自覚したイエスの出現を人類の奇跡であり、ユダヤの民族宗教から人類救済のための精神的愛の教えに昇華した比類なき宗教的人格であったと考える。人間イエスは、人間諸個人では償えない原罪(人生苦ないし不条理)を、神の子として十字架にかかることによって、人類全体の贖罪を果たそうとした。その神の愛への信仰と人間救済の行為、そして十字架刑による悲惨な自己犠牲は、死人からの復活と終末における再臨という使徒達の信仰によって、キリスト教団を成立させた。イエスの十字架刑を贖罪と見なし、イエスを神の子・救世主と信じるキリスト者は、天国での永遠の命が約束されると意味づけられたのである。そして彼の教え(福音good news「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコ1-15)を信じ伝道しようとする使徒達の、迫害に対する自己犠牲的行動にも、愛と信仰と希望の力の偉大さを感じることができる。

 しかし、科学的知識や技術の発達した現代から見れば、存在の根本原因として創造神を想定したり、人間の苦しみの原因を原罪(命令違反(注6))に求め、終末後の神の国(ユダヤ人の国(7))での永遠の繁栄を約束するというユダヤ教の神話物語は、人為的判断と努力の大切さを見失わせる危険性を伴っている。われわれは、新たな数千年数万年の人類と生命の未来のために、科学的検証に耐え人類の共通認識をもたらす生命と言語の新しい知識にもとづいて、この地上に正義と平和、幸福と福祉の実現する社会を築かねばならない。イエスのもたらした愛と希望と信仰は、神の命令(契約?)や審判を必要とするのではなく、人間自身の不断の反省と自己研鑽によってこそ実現が可能となるのである。
(1)アウグスティヌスは、宗教的な煩悶の中で母モニカに支えられてキリスト教に真理を見いだすまでの苦しみを次のように告白している。
 「わが幼きよりの希望よ。あなたは私にとっていずこにましまし、いずこにしりぞきたもうたのでしょうか。あなたは私を造り、四足の動物や空飛ぶ鳥から区別し、これらのものよりも賢い者にお造りになったのではありませんか。それなのに私は、すべりやすい闇路を歩きながら、あなたを自分の外にさがし、心の神を見いだすことができませんでした。そのようにして、深い海の底に沈み、真理発見の自信を失い、絶望してしまったのです。」(『告白』6-1邦訳p186

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2) この引用は、日本聖書教会の口語版(1955改訳)では「主はいくさびと、その名は主」とあり、文語版(大正訳)では「ヱホバは軍人(イクサビト)にして其の名はヱホバなり」とある。また、ヘブライ語の関根訳では「ヤハヴェは戦士(イクサビト)、ヤハヴェはそのみ名」であり、ラテン語聖書ではDominus quasi vir pugnator. Omnipotens nomen eius. 「主はいくさびとのごとくその名は全能」となっている。ローマ人は神=主自身のの「全能Omnipotens」を強調したが、本来のヘブライ語は、ヤハヴェの「戦士としての」役割を強調したものであろう。言葉は戦いにおいて、また表現において人間を鼓舞するが、神を呼ぶ言葉であればなおさらであろう。

(
3) トマスには、アウグスティヌスのような深い洞察はないが、ことばverbumについての混乱は共有している。
 「聖書の作者は神であり、この作者の能力には、表示のために単に「ことば」vocesを供するのみならず、──これだけならば人間にもなしうる──、更にまた「事物」resそのものをもこれに供するということが属している」(『神学大全』1-p31

(
4) ヨハネによる福音書1章1節の日本語訳、ギリシア語原文、ラテン語訳、英語訳をあげておく。とくにロゴスがどのように訳されているかに注意して欲しい。理解の要点は、ギリシア語のΛ?γο?(ロゴス)がどのような世界観のもとで諸言語に翻訳されたかという、キリスト教にとって根源的な問題を含んでいる。初期キリスト教教父や神学者が最も頭を悩ました問題であった。しかしこの問題は、生命言語説によって、ロゴスも神も言語を獲得した人間の創造物であることを検証することによってすべて解決する。
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。(日本聖書協会)
Εν αρχ? ην ο Λ?γο?, και ο Λ?γο? ?ταν με το Θε?, και ο Λ?γο? ?ταν Θε??
In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.(
ウルガータ版)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.(
日本聖書協会)

(
5) イエスが、自らをキリスト(救世主)であり、神の子であると自覚していたとみなすのは聖書の中心思想の一つである。
 「そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。」(マタイ福音書 16-20
 「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」・・・「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハネ福音書14- 6,10,11

(
6) 旧約聖書における神と人との契約は、すべてアブラハムやモーセ等々の指導者を通じて行われた神による一方的な命令である。原罪は、楽園における善悪の木(知恵の実)への摂食禁止の契約違反による。これによってアダムとエバは死すべきものとなり、善悪や裸であることを知ことになる。これらの物語を事実と考えるものはいないが、人間存在の不条理性の起源を示す象徴的な出来事として、評価されることがある。これは誤りである。人間の認知能力(知恵)や欲望の増大、それらに伴う悪徳や不幸や争乱等は、神を創造することによって世界と人間存在を意味づけたことと同様に、生命が言語能力を獲得したことに伴うものである。

(
7) 旧約聖書には、ユダヤ人にとっての神の支配する国はあっても、天国における神の国という発想はない。しかし、バビロン捕囚の苦難の中から、終末における審判と永遠の国の到来が期待されてくる。ダニエルは夢の中で次のような言葉を聞く。「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民[ユダヤ民族]に与えられる。彼らの国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼ら[ユダヤ民族]に仕え、かつ従う。」(『ダニエル書』7-27
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