真理、幸福、生命─イエスかブッダか
ゆきこさん、はじめまして。あなたの思いやりと優しさのあふれる投稿に、心を洗われる思いがしました。私がもし聖書の研究をしていなければ沈黙を守っていたでしょう。しかし私はキリスト教や仏教を研究し、既成の宗教に疑問をもっているために、私の考えを述べざるを得ないと思いました。
私の身近な知人には、何人かのクリスチャンがおり、いずれもゆきこさんのように、救い主イエスへの信仰をもち、善良で清らかな心を持っておられます。そのような方々とは論争はしませんが、Bunkouさんの掲示板なので、いささか難しい話しになりますが、お許しください。
現在、私は仏教徒を自認していますが、イエスも仏陀(釈尊)と同じく、人類史上の奇跡と思われるほど素晴らしい人物であることは否定できません。キリスト教の聖書については、旧約も含めて何度か読み返し、そのたびに感動を覚えました。そこには人々にもたらされる様々の災厄や罪に対して、預言者と神の子イエスによる多くの希望と癒しの言葉が述べられています。
しかし、聖書(新約)には神への信仰(と死後の永遠の生命)の大切さは述べられていますが、地上の生命の大切さについては述べられていません。イエスは、「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。」(マタイ10-34)と言って、地上に争いをもたらし、また、「信じてバブテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16-16)と諭して、イエスの福音を信じない者を、地獄に落とそうとします。彼自身も、生命の大切さより、むしろ血による贖い(あがない:罪人の救済)を選択し、自ら十字架刑にかかりました。クリスチャンが、生命(肉体)よりも信仰(魂)を守ろうとするのは、敬虔なクリスチャン(ムスリムもそうですが)である先制攻撃のブッシュ大統領が、最も悪い典型例としてあげられます。
聖書に真理を認め、救い主イエスへの信仰によって救われたい、幸福でありたい、平安でありたいという気持ちはわかりますが、生命を大切にするという考え方では、仏陀(仏典)のほうがはるかに優れています。例えば「(130)すべての者は暴力におびえる。すべての生き物にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ブッダの真理のことば』中村元訳岩波文庫)「あたかも、母が己(おの)がひとり子を身命を賭(と)しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみのこころを起こすべし。」(『ブッダのことば』同上)
ゆきこさん、もし許される時間があれば、ぜひ仏典にも目を通してください。イエスとブッダを競わせるつもりはありませんが、目の前の地上の生命の大切さ(天国での永遠の命に希望を持つのではなく)を主張する点では、ブッダの方に「真理」があると思います。ただ、ブッダは、信仰よりも智恵や洞察、修行を大切にするので、幸福を得るにはイエスの教えよりも努力が必要かも知れません。
ゆきこさん、真理は決して一つだけではないと思います。真理は一つという信仰は、確かに、そう信じる人に幸福をもたらしますが、世の中に争いの種を増すばかりです。これからの時代は、いろんな考えの人が、いろんな希望と幸福を求めて、お互いを認め合い共に生きる時代になると、私は思うのですがいかがでしょうか。
幸福や希望は、神の存在を必要としない
ゆきこさん、私の主張へのご意見をありがとうございます。キリスト教についての細部にわたる議論は、掲示板では限界がありますから、私の主張をまとめてみます。
①まず一般論として、「神は存在します。」しかし、神は実在としてではなく「言葉」として存在し、その意味・内容は、神(キリスト教の神、日本の神々等)を創った文化や文明、さらに、その神についての個人の解釈により異なります。
②それでは、イエスの父とされる神(旧約の神)に対して、人間はどのように位置づけられるでしょうか。神は、天地とそこに生きる生命・人間を創造し、人間(アダム)に、この天地とそこに生きるすべての生命を食物として与え、エデンの園に住まわせました。そして、園の中央の「善悪を知る木」の実を食べるなと命じました。しかし、狡猾な蛇にそそのかされたエバとアダムはこれを食べてしまい、神の命令に背いた罪で園を追放され、神から「出産と労働と死の苦しみ」を命じられました。キリスト教にとっての人間の歴史は、この命令違反(原罪)による楽園追放に始まります。
③この原罪思想は、地上の人間を罪人(ツミビト)とみなし、地上の生活の苦難からのがれ永遠の生命と平安を得るために、神による救済の必要性を説きます。
④しかし、人間にもたらされる災厄や苦難の原因は、神の命令違反という「原罪」によるのでしょうか。人間は本当に罪人としてこの世に存在しているのでしょうか。私は、人間の日常生活における苦しみ(不快)の根源は、生きる(行動する)ための現象にすぎないのであり、災厄は自然現象であると考えています。ところが、多くの人間は、この苦しみの因果(縁起)を悟らず、感情を高ぶらせて利己心と我欲にとらわれ、物事の道理(真理)を見抜くことができずに、「神(や仏)を創って救いを天国(や極楽)に求める」ようになったのです。
⑤私達人間は、神を創って、神に救いを求めることで、天国での永遠の生命を保証されるという、虚構の希望を持つ必要はありません。人間存在を正しく認識し、神との虚構の契約によらない、人間同士の新しい社会契約によって、地上での幸福な生活への希望を持つことができるのです。
⑥神の存在(絶対的真理が存在するという様々の主張)は、今日では、人々の不信を募らせ、争いをもたらす根源の一つになっています。人間は自らが創った神の呪縛から解放され、神を創った人間自身の存在意味を自覚すべきです。言葉を持った人間の創造的精神によって、神の存在を前提とせずに、すべての生命とともにこの地上に共存し、幸福な生活と希望を持てる社会を創造し、永続させていく努力が必要なのです。
ゆきこさん、クリスチャンであることによって、幸福と希望と平安を得られていることは素晴らしいことです。しかし、他人の信仰を変えることは難しいものです。「聖書」すなわちイエスの贖罪への信仰とイエスの再臨によって、終末を迎えた人間を救おうとする「最後の審判」の瞬間が、早く来る方がいいと思いますか。私は、まだ1万年は終末が来ないようにすべきであると思っています。しかし、地球は現在すでに地球温暖化などで危険な状態になりつつあります。人類が協調して、助け合わねばならない時代です。神や仏に救済を願い、自己満足をしている時代ではありません。
ゆきこさん、自己を犠牲にして愛する人を救おうとするのは、「神の御名」を必要とせず、また「神の国」ばかりで偉大なのではなく、地上においても賞賛されます。自己犠牲の精神は、種の維持を図ろうとする生命の本性でもありますが、悪くすると自爆テロリストや特攻隊を生じさせます。
また、神が与えたとされる人間の「自由意志」とは、私にとっては「神をも創造する意志」であり、人間が神を創造して、自ら神に愛されようとする意志です。自己の存在について思いをめぐらす人間は、クリスチャンのように「聖書」を拠り所として自分の存在理由を創造します。クリスチャンにとっての存在意義は、人間によって創造された神を信じ、神に愛されて、天国での永遠の生命を保証されると信じることで、地上(現在)の苦しみを克服し,幸福と希望と平安を得ることです。私にとっては、クリスチャンにとっての「自由意志」を、そのように解釈しますがどうでしょうか。ゆきこさん、あなたも自己の存在を肯定し、幸福を得るために、自由意志に基づいてクリスチャン的世界を創造しているのではないでしょうか。人間は、言葉によって自己の存在の意味を求め(疑問)、自己を肯定的に創造(合理化・論理化・解明)する存在であり、それが人間存在の真理なのです。
断定的な表現になりましたがお許しください。このような考え方で地上での幸福と希望を見いだしている人間がいることは、神の与えた自由意志のおかげでしょうか。私は神に感謝すべきなのでしょうか。神は存在します。しかしそれは単に言葉として存在するのです。そして、その言葉で人間は生死を選択することもできるのです。言葉は人間存在の本質なのです。
・・・・・・・・・・言葉についてよく考えて下さい。
どのような問題意識を持つか
ゆきこさん、丁寧な書き込みをありがとうございます。イエスの誕生後、およそ2004年目(?)が終わろうとしています(!)。あわただしいですが、難しい話におつきあいください。
さて、私達が直面する困難──人生に意味を見いだせない、生きる気力がわかない、何か虚しい、家族や友人と不和である、人を信じられない、自信が持てない、失敗が多い、不安、空虚、孤独、寂しさ、怒り、そして死への恐怖というように、人生は否定的な情況や不如意なことが多いものです。他方人間は、物事が順調に進んでいるときや成果が現れるとき、夢や希望を持てるとき、誰かに必要とされ期待され評価され信頼されているとき等は、あまり人生の意味や自分の価値などについて深く考えず、文化や伝統、宗教や慣習等自分の経験の範囲で、直面する問題を肯定的に解決していくことができます。
しかし、前者のような深刻な困難に直面すると、その問題解決のために苦悩し考えます。先哲の思想や宗教に関心を向け、人の意見に耳を傾け、解決法を探ります。そして、どのような問題意識を持つかによってその解答も異なってきます。問の確かさが、答の確かさを生み出し、問の不十分さが答の不十分さを作り出します。不正確な問いかけは、不正確な答を導きます。この問いかけは、本当に根源的な問いかけなのだろうか。問題解決にとってふさわしい問いかけなのだろうか、の吟味が常に必要です。
私は、人間とは何かを考える場合、神が自分の似姿に人間を創造したと考えるのではなく、まず人間の本質とは何かと問います。人間は二本足で立ち自由な両手でものを作り、大脳の発達した動物であるととらえます。そして、人間がものを作り文化を創造し、情報を交換しながら知識を共有・蓄積し、お互い助け合って生活できるのは、「言葉」を獲得したことによると考えています。「言葉」は、単に知識や情報の伝達というのではなく、情報を再構成したり(思考・創造)、自らの感情や行動そのものを言葉の情報によって方向づけます。「神が人間を創った」のか「人間が神を創った」のかという「言葉」の問いかけでさえ、人々の感情を揺さぶり混乱に陥れ、問題意識を持たざるを得なくします。
「何が、なぜ人生の苦しみや困難を生じさせるのか?」「苦しみや困難の解決策はないのか?」イエスとブッダは全く異なる原因を考え、問題解決の道すじを見いだしました。イエスは、神への信仰が、人間救済(心の平安)の絶対条件と考えました。ブッダは、縁起の法(四諦の説)を知り実践することが解脱(心の平安)への道であると考えました。いずれも人生の不如意・不条理の根源を求め、その解決を示すことによって人々の支持を得て、世界宗教としての立場を確立しました。
しかし、人間は、イエスやブッダのような根源的な問題意識にまで到らなくても、言葉をもつことによって日常経験的に、学習した過去を記憶し、生き方を考え、未来を築き創造するなど、自分の問題意識(経験)に従って、世界を再構成し合理化しながらその人生観や価値観によって生きている存在です。
「神が人間を創造したか」「人間が神を創造したか」かは、『聖書』の言い方を借りれば、「神の本質は言葉である」のか「人間の本質は言葉である」のか(言葉は、神の本質か、人間の本質か)の違いです。『聖書』では、言葉は神の本質であり、神は言葉そのものです。しかし、人間もまた言葉を自由に使え、また、新しい言葉も創ることができるのです。従って、神の本質も、人間の本質も言葉であることになります。私達が使う言葉は、神の本質でもありますが、神と同様に、人間は「神」を含めて様々のものを創ります。
つまり、神は存在してもしなくても、人間が現に言葉をもつ限り、「神」を創造することができるのです。「神」は存在します。しかしそれは、イスラエルの神であり、イエスの神であり、ゆきこさんの神であり、Bunkouさんの神なのです。私の神こそが、イスラエルの神こそが、イエスの神こそが唯一絶対で、普遍的創造的であると、「言葉」では言うことはできます。しかし、それは決してすべての人間に共通する「真理」ではありません。人間(という言葉をもつ特殊な動物)は、単に「言葉」によって、自己の存在を意味づけ、自己の存在を合理化するために、神という「言葉」によって、自らを創造してくれる「神」を創ったのです。人間は、自らを救済してくれる「神」を創り信仰するのです。人間はそれによって、存在の意味や人生の困難に納得し、満足し、救われ、平安や希望や永遠の生命を得ることのできる存在なのです。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」というのは、人間存在にとっての真理です。言葉によって──たとえ神が与えたものであるとしても──、はじめて人間は、人間であるのです。自らの存在の意味を自問し、快楽や幸福、安心や救済そのものを求め、その手段として神を創造することになったのです。『聖書』における「言葉」についての真理は、同時に、人間の言葉によって『聖書』が創られたこと、救世主として自らを自覚したイエスが偉大な人間であったこと、を示していないでしょうか。
私はイエスを仏陀と同様に人間の奇跡と思い、尊敬しています。イエスの贖罪の犠牲は決して無駄ではありませんでした。『新約聖書』のイエスの素晴らしい言葉は、神を信じたイエスの迷える子羊に対する愛と救世主としての確信で満たされています。イエスとその父なる神を信仰して、平安と人生への希望を得られ、さらに信仰を深めることは素晴らしいことです。大切なのは「今ここで」心の平安があり未来への希望がもてることです。
しかし、イエスの神を信じなくても、十分に心の平安や希望を得られること──ブッダや他の宗教の存在を忘れないでください──、そして大切なことは、自分の宗教を信じない人を罪人にしたり、排除しないことです。私はイエスの神を祝福し、その信仰ゆえに幸福である人を大切にしたいし、うらやましいとも思います。人間はそれほど強い存在ではなく、困難は次々と起こります。だからこそ人間は絶対的な救い主を創り、自らの救いと心の平安を求めます。人間はそのように自分の存在を「言葉」によって意味づけ合理化するのです。そのようにせざるを得ないのが人間という存在なのです。
私自身はブッダを尊敬し、ブッダの教えに未来の希望を見いだしています。ブッダ的な方法で自分の存在を意味づけ、心の平安と希望を得ています。しかし、当然のことながら、ブッダの思想(意味づけ・合理化)そのものは、現代から見ると非科学的で、反現世的な面が強く、そのままでは正しくありません。仏教の批判は今後の私の課題であり、Bunkouさんの掲示板への投稿も、その課題解決を目指しています。ご迷惑かも知れませんが今後もおつきあいください。
ゆきこさん、あなたの優しい気遣いと私の問題意識を明確にしていただいた勇気に感謝し、さらに信仰を深められ永遠の生命をえられるようにお祈りしています。
皆さん良い新年をお迎えください。
人間存在と宗教成立の背景
Bunkouさん、イエス誕生2005年の新年おめでとうございます。
昨年末以来、クリスチャンであるゆきこさんの投稿で、宗教と信仰について真剣に考えさせていただきました。『聖書』という2000年近くの風雪に耐え(新約)、人類の歴史に多大の足跡を残した書物を相手に議論するのは大変です。このような機会が与えられたことに感謝します。とくに「進化論」に対立する「創造説」をHPで、あらためて学び、科学的方法とは何かを考えることができました。
「創造説再評価HP」 http://www.concentric.net/~hnori/earth.htm では、科学的認識の出発点が、「全知全能の神」であって、神の存在を科学的仮説とする余地が全くないので、前提の議論ができません。『聖書』を科学的真理の前提にすれば、天地創造6日間、宇宙の歴史6000年を、証明することが「創造科学」(という表現)の役割ということになります。人間の科学的探求心・知的好奇心の出発点ともなり、実証科学の長所である「知識(真理)の仮説性」(相対性・有限性)の逆手をとって、科学的議論を「全知全能の神」の名において封じ込めるようとしているのです。神業を肯定することが、地上における人類の幸福に否定的結果をもたらすものであることを改めて痛感します。
(「エホバの証人」http://biblia.milkcafe.to/index.html は、創造論をとっていますが比較的寛容です。)
過去のキリスト教では、教義の対立や教会の経済的利害から、宗教戦争や宗教裁判・魔女狩りなどがキリスト=イエスの名において行われました。その反省から宗教的寛容が定着しつつあると理解していたのですがそうではないのでしょうか。私の知るクリスチャンは、「そんな考え方もありますね。でも私の信仰は堅いですよ。」と言われ、お互いに人間的な感情でおつきあいできます。進化論を推論に過ぎないという人が、神の存在もイスラエルの民と人類を救済するための推論であり、仮説であるとなぜ言えないのでしょうか。
宗教的信仰が、ある程度独善的になるのはやむを得ません。しかし、Bunkouさんの指摘されるように、現代の科学的「常識」を「全知全能の神」によって否定してしまうのは、無理があり「非常識」と言わざるをえません。もっと穏やかで力強い宗教にしようと思えば、「神の言葉は、実は人間の言葉である」と考えれば、有限で罪深い人間を救済しよう、という警鐘を込めたイエスの死も無駄にならないと思います。
クリスチャンにとっては非常識な話になりますが、神の存在と世界創造の神話は、無知な時代の人間の創造神話です。科学技術の進歩した現代の人間が追求するべきは、言語的本質をもつ人間性(神の言葉は、実は人間の言葉)の科学的な理解と、「地上」における人類社会の平和と幸福を実現するための地道な努力ではないでしょうか。
前回述べたように、神は存在しなくても人間の幸福や希望は得られます。また人間存在について研究すれば、「全知全能の神」も、人間の創造物であり、地上の幸福や心の平安は、人間の創造的活動(努力)によって実現可能であると思います。「神」という言葉を創って、人間の言葉(自己の存在を合理化・正当化・強化する働きがある)を、「全知全能」の神の言葉として強化する必要は全くありません。それでも「神」という言葉にすがりたいという人は、人間存在の真理に背を向けることになると思います。
ところで、宗教が、人々に存在の意味や幸福・平安を与え(寺院や教会・モスクにおける信者の心)、政治や権力者に利用されてきた(階級支配の手段として)し、現に利用されている(イスラエルの建国、ムスリムのテロリスト、クリスチャンのブッシュなど)のは事実です。なぜ宗教にはそのような力があるのか。人間が、宗教を信仰し帰依することによって精神的物質的幸福を得ようとする背景は何か、という観点に限って、宗教活動の存在しうる背景をまとめてみます。
①人間存在(人生)は、問題解決(欲求充足)すべき事態に常に直面している。
これらの問題事象の捉え方と解決の仕方によって、人生観(宗教や哲学・思想)が形成される。
②問題事象の根源とその根本解決を追求すると宗教的信仰が有益となる。
通常、人間は根源を追求せず、慣習に従い適度な問題解決で満足するか、あきらめることで問題解決を図ろうとする。しかし、個人では解決できないほどの困難や不幸に対しては、絶対的権威をもつ宗教信仰に依存することによって平安や希望を見いだそうとする。
③問題事象(人生苦)の根源は、人間存在の3つの有限性にまとめられる。
生命の有限性:欠乏、病気、競争、災害、老化、死(生存の不安定性)
人間の有限性:感情の動揺、想像の飛躍、認識の限界(言語の不完全性)
社会の有限性:利害の対立、相互の不信、強者の専横(競争の無制約性)
(それぞれに詳細な解説が必要ですが省略します。)
④問題事象は、持続的な否定的感情として自覚される。
否定的感情とは、欲求が充足されない心の状態であり、不満、不安、悲哀、恐怖、憤怒、憎悪、怨恨、焦燥、悔恨、恥辱、抑うつ、喪失、嫉妬、挫折、劣等、不信、不幸、絶望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(汗、涙、震え、緊張、脱力など)を伴う。
(なお感情の分析についてはhttp://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html を参照してください)
⑤問題事象の解決はどのようにされるか。
問題解決の仕方は、どのような問題意識(疑問)──何が、どのようにあり、どうすればよいか──をもち、どのように言語的解決(理論、教義、思想)を図るかによる。たとえば、科学的解決、医学的解決、政治的解決、キリスト教的解決、仏教的解決、功利的解決、逃避的解決、暴力的解決等々がある。
⑥問題事象は、肯定的感情の獲得によって解決する。
肯定的感情とは、欲求が充足された心の状態であり、満足、安心、歓喜、親愛、信頼、爽快、優越、幸福、平安、永遠、希望など脳内の反応としておこり、生理的身体的な変化(涙、震え、気力、生気など)を伴う。
⑦肯定的感情は、言語的解決をもとに実践的行動的に獲得される。
言語的解決(合理化)は、それ自体で喜びであるが、解決の希望を仲間と共有して実践することでさらに確実なものとなる。
過去のほとんどすべての宗教的活動は、このような原則をもとに教義、教団、修行(祈り)を構造化することで成立してきた。人間存在の解明は、創造神の存在を前提とする『聖書』も、人間の創造神話に過ぎないことを明らかにします。
説明抜きの断定的な表現になりましたが、Bunkouさんの「神のシステム」論を意識しています。ご批判いただければありがたいです。
何を諦め、何に執着するか
Bunkouさん、再び幸福論を掲示していただき、あらためて考え直せる機会ができたことを嬉しく思います。豊かな現代人の苦しみや悩みについてのBunkouさんの現状認識は、誰もが了解できるものだと思います。現代の資本主義社会における「欲望の肥大化」──美しいもの、楽しいもの、美味しいもの、自分を肯定するもの、便利さ、快適さ等々の過剰。そしてそれらに対する欲求不満耐性(我慢力)の低下にもかかわらず、常に期待値を上げようとする利益追求社会の在り方を、私達は問題にしなければならないと思っています。
しかしとりあえず、豊かな社会の中で、心の平安や幸福を得るにはどうすればよいのかを考えます。Bunkouさんは、「諦め」の宗教を主張されています。これは私から見ると、「諦め」によって持続的な幸福を追求することに「執着」しておられることになると思います。私にとって宗教は、以前に述べたとおり、「幸福への希望」です。既成の宗教では、人間心理の分析に優れた仏教(釈尊の教え)に最も近いと思っています。
キリスト教や仏教は「希望」を実現することに執着しています。キリスト教はパウロが言うように「神の国」での永遠の生命が得られることを希望にしています。仏教は解脱による苦しみからの解放を希望にしています。両宗教は共に、自力による救済にしろ、他力による救済にしろ求めるものは「救済への希望」です。別の言い方をすれば、脱世間的、超理想主義的、精神主義的宗教です。それに対し、中国の道教や儒教(道徳宗教として)は、積極的に救済を求めず、むしろ現実主義的「諦め」や処世術的道徳によって現世利益的な宗教であると言えます。日本の神道(日本仏教の一部)は、お祓いや祈祷による霊力で「おかげ」を得る現世利益宗教です。
Bunkouさんの「諦めへの執着」─表現が悪ければ訂正します─において、言葉としての「諦め」は消極的にみえますが、執着(固執・こだわり)することは容易ではないことは理解できます。「諦め」は、仏教的には真理を明らかにすることです。また、言われるような「諦め」は、自分の生き方(おそらく自己環境秩序)にもとづいて「生きること」を制御することでしょう。しかし、諦めの困難性についてよく理解できるだけに、諦めの困難性を克服できるような「希望」が必要なのではないでしょうか。何事か大切なことを諦めても、求めるべき幸福への希望があってはじめて、諦めることの苦痛を乗り越えられるのではないでしょうか。
実は、釈尊の誤りの一つは、彼が執着を脱して悟り(解脱)を求める、と言いながら、悟りを求めることに執着している自分を自覚していなかったことです。そのため、後世の仏弟子は「空」という概念によって釈尊の教えを神秘化し、大乗仏教の教派を作りました。人間の幸福は、様々の思想、宗教、生活、娯楽労働等々の中で得ることができますが、幸福に普遍性を持たすためには─今日では人間の共通理解のために普遍性が求められています─、Bunkouさんが言われるように、単純で理にかなった、わかりやすく正しい宗教が求められていす。何を「諦め」、何に「執着」すれば、持続的な幸福を得ることができるのか。さらに議論が深まれば幸いです。
「青い鳥」は変幻自在
Bunkouさん、今回「幸福」と「愛」との関連について新しい問題提起をされ、私もどのようにまとめるべきか悩みます。「幸福」も「愛」も主観的で多義的な概念なのでとても掲示板には書き切れませんが、議論を豊かにするためにまとめてみます。
メーテルリンクは戯曲『青い鳥』の「幸福の楽園」の場面で、「母の愛」は、比べるものがない喜びであるとしています。「母の愛」は、生命的(本能的)根源を持つ深いものです。また釈尊は、「あたかも、母が己がひとり子を身命を賭(と)しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」と言っています。釈尊の言葉は、生命の根源に結びつきながら、すべての生命への愛(慈悲という道徳)へ広げようとするものです。
他方,『聖書』における「父なる神の愛」は選別的であり、すべての生命への愛ではなく、「神」を信じるものへの愛です。イエスの愛は、生命の根源につながる「母の愛」や「幼子への愛」「男女の愛」「友情にもとづく愛」等々ではなく、創造主である神と終末を前提とした「隣人への愛」であり、人間の秩序を創造しようとする権威的道徳的な愛です。しかし生命の根源につながる愛(自然的愛)に、神の権威は必要ありません。
結論的なことを言えば、一つは、生命的な「自然の情にもとづく愛」に、神の存在は必要ないということです。二つ目は、「救済的な愛」の追求(信仰)は、自然(の感情)に対して抑圧(支配・権威)的に働くことです。そして三つ目には、創造的な動物である人間が、持続的な幸福を確立するためには、「自然的な愛」を前提にして、社会(共同体)と未来につながる愛(道徳的人類愛)を創造しなければならないということです。
愛は幸福(感)を伴いますが、幸福にとって愛は必要条件ではありません。なぜなら幸福は孤立しても成立しますが、愛は他者の存在を前提とします。また自然的愛は、嫉妬やねたみ、利己心や独善性そして愛への執着(愛執)を含み、結果として不幸を招く場合があります。さらに神仏にもとづく愛(慈悲、救済、おかげ)は、人間存在の根源(言葉の意味や限界についての知識)を隠して見えなくし、自己の言葉に幻惑され、愛や幸福を神秘化します。そして独善的な教団や教派(セクト)を作り、ついには愛や幸福自体を崩壊させてしまいます。愛のある幸福は望ましいものですが、「智恵」を働かす余地をなくしてしまいます。「愛」は盲目になりやすいので、注意が必要です。
さて「幸福の青い鳥」はどこにでもいますが、すぐに逃げていくものです。どうすれば「青い鳥」を、私達から逃げないようにすることができるでしょうか。私達が飼っている「青い鳥」をもっと青いものにし、逃げ出さないようにするのは、メーテルリンクは述べていませんが、育て方によると思います。今までの育て方には限界があったのです。「青い鳥(人間の幸福)」についての無知(無明)が、育て方を誤らせていたのです。戯曲の中では、「光」がチルチルとミチルの先導役になり「智恵」を授けていました。しかし光は見る人によって、感じる人によって、考え方によって異なります。結局「幸福」はそれぞれの人がそれぞれに見いださねばならないのです。
「青い鳥」は、メーテルリンクの戯曲の中では変幻自在でした。幸福は確実なものではありません。しかし「時」は、子供達を地上に送るとき、生きること、希望を持つことを伝えました。幸福は人を愛することによっても、欲望を諦め自己を制御することによっても、確実に得られるとは限りません。永続的な幸福の第一歩は、幸福は求めれば得られるという希望(信仰)を持つことです。希望はあらゆる困難を克服させてくれます。ただ、希望には、その裏付けとなる智恵(光)が必要です。希望を与える智恵(教え)が宗教となるのだと思いますがどうでしょうか。
「希望」は「諦め」をともないます
Bunkouさん、「希望と諦め」についての示唆に富んだ貴重なご意見に感謝します。私は言葉の多義性や曖昧性を克服することを、自分のモットーの一つとしていますが、いつも曖昧なところがでてしまい、人を当惑させることがあります。前回の<「青い鳥」は変幻自在>というのもそうかも知れません。しかし、我々が議論している内容自体が、とても重大で困難な問題を含んでいるのために明晰さを欠くことになるのかも知れません。
さて、「希望」と「諦め」について結論を言えば、①「希望」は、主観的で多様なものであり、「幸福」であるために「完全な希望(目標)」は必要ではなということ、また②何らかの「希望」を持つことは、何らかの「諦め」を伴うものであるということです。
①については、ご指摘のような「完全な完成」を得る「希望」を私は考えていません。イエスの行おうとした「救済」も、釈尊の追求した「解脱」も完全を目指していますが、「完全」も結局は主観的なものです。Bunkouさんの言葉を借りるなら「60%の希望」でもいいし、具体的には信頼できる人がいるとか、憧れる人または片思いできる人がいるとか、金銭や名誉・地位への希望があるとか、成功の見込みがあるとか、何万分の一かの確率での宝くじ当選への希望とか、その希望(期待)が続く限り幸福が得られます。オー・ヘンリーの『最後の一葉』 http://www.hyuki.com/trans/leaf.html のように、「希望」という「心の働き」が、人間の弱い心を救います。
救済への希望、解脱への希望、持続的幸福への希望など、より高次の宗教的希望でも、とにかく現実の苦悩や辛さ、ストレスを克服でき、「心の平安」「自己への信頼」を得ることができれば「希望」があると考えます。しかし、当然最も社会的に価値があり、自分でも納得でき、実現が可能であるような「希望」を、「創造」または「発見」することができれば、より強く持続的な幸福(感)が得られるでしょう。そして、そのような「希望」という「心の働き」は完全なものでなくても、誰にでも理解し実現できること、つまり心理学的に検証可能であることも必要です。
②については、「人間、何かを得れば、何かを失う」の格言と同じことで、一度に多くの目標(希望)を実現することはできず、一つの目標を持てば、他の多くの目標を犠牲(諦め)にしなければなりません。また、自己の幸福(快楽)自体を危うくするような希望(他人を害したり犯罪性のあるもの)は、一時的には幸福であっても「希望」の名に値しないでしょう。①と同じように大切なのは「どのような希望を持つか」または「どのような幸福に執着するか」ということなのです。最も簡単であり、実現できそうなのは、「幸福はそこにあるという希望を常に持てる」つまり「徹底して楽天的・人生肯定的になる」ということです(前に紹介したHPhttp://www.din.or.jp/~honda/index.htm や武者小路実篤の作品のように)。
しかし残念ながら人生は、Bunkouさんも指摘されるように楽天的になるにはあまりにも哀しみや苦労が多すぎます。自分の人生をどのように意味づけ、どのように生き、そしてどのように死んでいくのか。目先の快楽を追求しても、偶然に恵まれて幸福な人は、幸福であり続けて欲しいと願うばかりですが、何の準備もなしに起こる不幸(不運)や不正義・不公正に対処する術も知っておかなければなりません。人間存在の根源と、人生の意味や困難の解決方法を知り、持続的で確実な幸福を実現すること、そこに宗教の意義があると思います。ところが既存の宗教(思想)はその役割を果たすことができないばかりか、伝統尊重の名の下に、新しい希望や理想の追求を忘れようとしているのではないでしょうか。
Bunkouさんの主張のように、人生を幸福に生きるために、実現しない欲求を求めるよりも「諦め」る方が現実的かも知れません。しかし私にとっての幸福は、精神的自律を前提とした幸福です。それは欲求を抑制し(諦め)た上での幸福です。だから「幸福であるために諦める」のであれば、「幸福への希望」が前提となります。「現在の幸福」は、「未来への不安」があれば成立しません。「未来の幸福への希望」があるからこそ「諦め」(自己抑制)も肯定的な意味をもちます。
釈尊(本来の仏教)の「諦め」は消極的なものではなく、とても積極的(肯定的)なものです。「諦め」は、「明らめる」ことによって得られる知識としての「真理」または「悟り」であって、中途で欲求を断念することではありません。釈尊の欲求は、彼の究極の目標(希望)であるニルバーナ(涅槃)に到ることです。ニルバーナとは、煩悩を消滅した心の状態で、日常の生活の中で得られるものではありません。「反省」は必要ですが、釈尊の目標に達するためには、出家による不断の修行と知的探求が必要です。我々俗世の人間にとってはやはり「希望」にすぎません。
私は釈尊を尊敬していますが、彼が説く「輪廻転生」や「地獄」の存在は科学的検証に耐えることはできないと思っています。だから日常の幸福につながる「悟り」への希望は持ち、ささやかな努力はしますが、現実は、「悟り」を先送りをして「諦め」ざるを得ないほど、生活のための日常の雑事に追われています。しかし理想としての「悟り」への「希望」があるからこそ、その実現のために生活が充実し、こうして投稿し議論ができるのだと思っています。
釈尊は、35才で解脱に達しブッダになったと自覚しましたが、「悟り」を得るというのは「主観的」なものです。彼の悟りがどのような心の状態であるかはわかりません。しかし、彼の解明した「四諦の説」(縁起の法=真理)は、多少の修正をすれば、今日でも十分通用する驚異的な教えです。修正すべき点は、釈尊が、Bunkouさんの言われるような「完全な完成」を目指しすぎているという点です。「四苦八苦」と言われる人生苦の洞察は見事なものですが、本当に正しいでしょうか。
私は「①苦あれば楽あり、②楽あれば苦あり」の方が真理に近いと思っています。ただ根源的に重要なことは、あくまでも順序は②が先でなく、①が先です。生命の誕生は、宇宙における有限な地球という特殊な環境の中で起こりました。生命という存在形態は力強いものですが、地球環境の中では極めて不安定で弱いものです。水や一定の温度、細胞を形成する化学物質がないと生存できません。しかし、条件が整えば様々の存在形態をとって活動が活発になり繁栄します。生命の不安定さは「苦」ですし、良い条件におかれれば「楽」になります。
釈尊は人生苦を絶対化し、それに対立させて解脱による完全な「楽」を追求しました。彼のように精神的快楽だけをすべての人間が目指せば、地上における人間の生存は成立しません。家族や教育、労働や産業はどれも苦楽を伴いますが、煩悩(苦)の原因を排除していまうことはできません。現実に困難な理想を追いかけても、Bunkouさんの言われるように苦労が増すばかりか自滅することになるでしょう。そこで検証可能で説得力のある「希望」が必要になるのです。人間は「希望」を創造することができます。私達が目指すことのできる「共通の希望」はないのでしょうか。
愛は神の呪いに打ち勝ちます
ゆきこさん、愛についてのパウロの美しい言葉をありがとうございます。私は常々『聖書』におけるイエスとパウロの絶妙な一体化に感心しています。しかし同時に、イエスの率直さに対して、パウロの言葉は、あまりにも美しいがゆえに疑問が起こってきます。パウロもまた愛の言葉を語りながら、引用された言葉のすぐあとで「もし主を愛さないものがあれば、のろわれよ。」(1コリント16:22)と言っています。私はイエスという人物を尊敬し愛していますが、「主なる神」という人間の創造物を愛せません。私の幸せにとって、また人類にとっても神は必要でないと思うからです。私はイエスの言葉に、奇跡的な愛を感じますし、イエスからは愛される自信がありますが、父なる神からは呪われるだろうと思います。おそらくパウロは私を愛さないでしょう。
しかし、神の愛のみを信じ、その恐ろしさをご覧になっていない、ゆきこさんの深い愛は、神への信仰のない私を憐れみ許して下さるでしょう。私は、残念ながら、神を創った人間の罪深さを歴史の中に、また現代においても数多く見ています(もちろんイエスの福音によって救われている多くの人たち─ゆきこさんを含めて─も知っています)。神を創って自己の主張を強化し、世界を解釈し、永遠の生命と救いを得ようとする人間の弱さを理解できます。しかし今や時代は、神を創る人間自身の存在がどのようなものであるかの理解が可能な時代です。人間の不幸・苦しみ・悩み等々や、幸福・楽しさ・喜び・救い等々の根源を知り、すべての人が神を必要とせず、地上での幸福を得られる時代が近づいています。
パウロは次のように言っています。「神は、いかなる艱難の中にいる時でも、私たちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。」(2コリント1:4) しかし、私たちが人々を慰めることができるのは、神の慰めによってでなく、人間の善なる本性ないし道徳性とそれらによって創られる知恵によって、人間存在の有限性や困難性を共感し、同情することができるからです。我々は「神の恵み」によらなくても、「人間の知恵(道徳心)」によって慰め合い助け合うことができます。
更にパウロは言います。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方のうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなるものだからである。『神は、知者たちをその悪知恵によって捕らえる』と書いてあり、更にまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある。だから、だれも人間を誇ってはならない。」(1コリント3:18~20)この言葉は、半分は正しく半分は誤りです。
正しいのは、この世の知恵についての謙虚さです。しかしその意味は、パウロが語るように、人間は神の賢さを越えることはできないからではなく、神を創らざるを得なかった人間が、本性的に賢く(全知全能で)ないからです。論議がむなしいのは、知恵の根拠を神に求めるからであり、人間を罪人としてさげすみ貶めるからであり、地上の幸福を求めないからです。人間は、神を創ったものとして自覚できることを誇ってよいのであり、人間について、また神について大いに議論をすべきなのです。私たちは「地上の知恵」によってこそ「地上の幸福」を手に入れることができるのです。個人の知恵を誇ってはならないけれども、人間存在は誇ってよいのです。
この世の知恵は、神についての知恵を含めて、究極的には個人の知恵です。独善的でない人間的な知恵を得るためには、Bunkouさんのように批判を受け入れる忍耐強い議論の継続が必要です。議論を継続するには、問題が解決するであろうという「希望」が必要です。私は、生命や人間についての共通理解が可能であるという「希望」を持っています。ゆきこさんの愛の力は、神を必要としないで、ゆきこさん自身と隣人のために活かされると信じています。
積極的幸福論=希望の幸福論
Bunkouさん、私の「希望の幸福論」についての懸念は、よく理解できます。
「希望」もまた「欲望」の一種であり、「我を忘れさせる」恐さがあるというのはその通りです。独裁者ヒトラーやスターリンにも、クリスチャンのブッシュやユダヤ教徒のシャロンにも、ロシア革命のレーニンや黒人指導者のキングにも、いやおそらくすべての人々に希望はあると思います。しかし希望が実現しなければ、「絶望」という人間にとって最も不幸な状態が訪れます。だから「恐さ」を避けるためには、どのような「良い希望」を持つかということが問題となります。
幸福が「変幻自在」で、様々な形態があるように、希望にもその人の経済的社会的事情や、人生観世界観によって多様性があります。独裁者の希望もあれば、宗教者の希望もあり、金持の希望もあれば浮浪者の希望もあります。しかしここでは、すべての人間に共通する永続的幸福の条件となる、永続的希望について考えてみます。
様々の幸福があるとはいえ、物質的快楽(幸福─食・性・安全等)は物質の存在に左右され不安定です。しかし、精神的快楽はその精神を支える思想や信仰がある限り永続します。恋人といる幸福を永続させることは希ですが、神を心に描いて得る幸福は永続的です。物質的快楽は、物質的肉体的欲求の充足によって大脳の快楽中枢が刺激されて得られます。それに対し、精神的快楽は様々の問題を言語的(思想的)に解決(合理化)し、快楽中枢を言語(記号)的に刺激し続ける(信仰・祈り・瞑想・音楽等)ことによって得られます。
「希望」は、本来人間に特有で精神的なものなので、快楽中枢を刺激し続ける力を持ちます。「希望の感情」は、単なる生理的快楽にもとづくのではなく、生命力を生み出す「意志的感情」に属する(http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page4.html )ので、積極的に幸福を追求することができるのです。希望の感情が強い力を持ち、永続的幸福をもたらすのはそのような理由によります。しかし、いかに希望の感情が強力であっても、希望の内容(目標)が物質的なものであったり、真理性が検証に耐えられない場合、永続性は困難です。だから「永続的な希望」は、検証に耐えられる思想的真理に支えられなければなりません。人間は様々な神を創りそれに意味づけをして、有限で不安定な自己の存在を合理化し、不安な感情を克服してきました。私もまた自己の存在を合理化します。
まずは<生命の本質とはなにか>という疑問について考えます。Bunkouさんは、「生きること」は、まず「環境に働きかけてエネルギーを獲得すること」だと言われます。しかし私はそうは考えません。生きること(生命の本質)は「まず個体性(細胞性)を維持すること」すなわち外的環境から自らを隔離する自立的化学反応構造を持続させることです。その次に、その個体性を維持するために外的エネルギーの獲得が必要になるのです。これはとても微妙な問題ですが、生命の本質を考える上で重要です。
原始生命誕生の時、蛋白質や核酸を含む有機体(一種の化学反応工場)は、原始地球の環境によって作られ、それ自体がエネルギー物質で構成されていました。地球という生命の母なる特殊な環境が、エネルギーを与え、外界から独立する化学反応系を作り、原始生命を誕生させ維持させたのです。だから、私にとってはあくまで、「エネルギーの獲得」という外的能動的な個体反応は、個体性維持のための二次的な反応なのです。
なぜこの微妙な違いを強調するのかといいますと、生命の外的反応(環境への働きかけ)を一次的なものと考えると、受動的な生命である植物の構造や、動物における個体性の維持(内的恒常性の維持すなわち外界からの自立)の意味が見失われるからです。動物は環境に対して能動的積極的な存在ですが、何のために外的行動をとるのかと言えば、あくまで自律的な内的恒常性(ホメオスタシス)を維持するためなのです。そして、動物はそのために神経系を発達させて環境をより的確に認識し、より適応的に行動するように進化しました。その頂点に人間があり、言語(何がどうあり、どう行動するか)があります。
ところが人間は、言語を獲得したがために、神仏や地獄極楽を創ったり、幸福や不幸を考え、自己を世界の中に言語的に位置づけようとしてきました。また欲望を肥大化させ、道具や機械を発明することによって自然を利用支配し、戦争やテロを行い、今日の豊かだけれども不安定な物質文明を築いたのです。
つまり、生命にとっての目的(希望・意志)は、「個体性(内的恒常性)の維持すなわち欲求の充足」であるにもかかわらず、欲求充足のための外的活動(エネルギーの獲得や自己保存、異性の獲得)が、生命の本質からかけ離れてしまい(疑似現実を作り肥大化する)、生命そのものの存在を危うくしている(生命の自己疎外)のが人間なのです。例えば、民族戦争、宗教戦争、イデオロギー、過剰な競争、環境破壊、犯罪などの多くは、不可避のものではなく、生きることの本質を見ることができず、利己的排他的な欲望を実現しようとした結果なのです。なるほど有限な環境の中で、限度以上の個体が増殖すれば生存のための競争は避けられません。しかし問題は、言語的認識がもたらす過剰な敵対意識(不信や憎悪)や欲望の肥大化による環境破壊なのです。
このことは幸福論とも関係しています。人間は物質的には豊かになり便利で快適な生活ができるようになって幸福の条件は増大しました。しかし同時に欲望も増大し、不満はそれ以上に増大しています。このような過剰な物質文明の中で幸福を得るために、Bunkouさんの「諦め」すなわち「欲望の抑制」の必要性が主張されるのは当然のことです。「足るを知る」ことは、欲求不満(不幸)にならないための必要条件であるのは確かです。
しかし私はこの物質文明自体を抑制しなければ、地上の生命に未来はないと考えています。単なる利己的な自己主張や経済的利益の追求、刹那的欲求不満の解消、さらには検証のできない旧来の閉鎖的信仰に頼って、身内だけの独善的な幸福(自己満足)に安住し(諦め)ていては、未来の希望は保証できず、不安な感情はますます人々を刹那的な快楽に走らせると思うのです。
「希望」は確かに「我」を忘れさせます。しかし私にとっての「希望」とは、「生命の存続」を前提にした「地上における人間の幸福」です。独善的で利己的になりやすい「我」や、検証を拒み神秘的な力に頼りたがる「我」とは何かを解明し、人間的な「真実の自己」を発見しようとすることを意図したものです。私は「真実の自己」は、「言語」や「欲求・感情」の分析解明によって可能になると考えています。人間は欲のかたまりであり、感情の動物です。その欲や感情を言葉で取り繕い、行動を制御しているのが人間という動物なのです。そして「真実の自己」を発見するとき、新しい「自己の創造」という積極的な「希望」を持つことが可能になるのです。
真実の自己とは何か。私は釈尊の言葉の中に一つのイメージを描いています。少しだけ引用しておきます。
(引用は『真理のことば』中村 元訳 岩波文庫)
「悟りの究極に達し、恐れることなく、無欲で、煩いのない人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。」(351)
「明らかな知恵のない人には精神の安定統一がない。精神の安定統一していない人には明らかな知恵がない。精神の安定統一と明らかな知恵が備わっている人こそ、すでにニルヴァーナ(心の平安)の近くにいる。」(371)
「実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。ゆえに自分をととのえよ。」(380)