8 現象学の誤りとは   人間存在研究所 人間存在 Q&A
                                 西洋思想批判 カント批判 ハイデッガー批判

・現象学のつまずきの石は言語である。現象学理論では、意識や思考の本質を解明できない。
事象をありのままに記述する手段としての言語を、ありのままに捉えられないからである。


生命言語論では、地球という特殊な環境における特殊な存在形態としての「生命」主体の立場から
認識を考える。人間の認識作用は、人間的認識を成立させる言語の解明から始めなければならない。


・人間は生命的・言語的先入観を越えて哲学を構築することはできない。言語の解明無き認識論は、
人間的認識や知識を論じるに値しない。現象学は見果てぬ夢を追求する徒労の学問である。

 ──よそながら 思ひしよりも 夏の夜の 見果てぬ夢ぞ はかなかりける──(「大和物語」)

 “プラトンからライプニッツおよび近代の記号論理学によって手をつけられたような、どんな言語批判も言語の
範囲内で動くことしかできない。哲学と詭弁は、言語という共通の基盤に立って、同じものに属している。”
                                             K.レービット『世界と世界史』


・厳密な哲学には、哲学的認識を可能にする「言語」への吟味・考察が必要である
 「2+3=5」の演算式は、現象学を含めた西洋合理主義哲学における「真理」の前提となっていますが、「生命言語説」においては、この演算式成立の前提となっている「言語」の解明を通じて現象学の誤りを明らかにします。上の演算式は、人間の言語の存在を前提として、言語的な認識・判断によって、はじめて「演算式の理」すなわち真理性を成立させています。2,3という数字も+(プラス)という記号やその結果としての5という数字も、言語記号を手段として用いた認識・判断の結果成立しているものです。それゆえ数学は人間の創造の所産であり、人間の介在する思想を持つのです。
 数字・数学や図形・幾何学は、人間の言語記号による創造的産物(対象)であり、自然界には存在しません。数字「123・・・」や演算「+−×÷」、図形「直線、三角形、円等」の認識は、人間の言語的創造性の産物です。数字も図形も言語記号という表現手段によって創造的に成立しています。だから、演算や幾何学的定理の「理」や「真理性」は、言語記号という「表現(創造)手段」の存在を前提としてはじめて成立します。
 現象学が、すべての存在に対する「判断中止(エポケー)」をしようとしても、エポケー自体が「言語的認識・判断」なので、「生命言語説」から見れば当然「論理矛盾」となります。だからフッサールのように厳密な哲学をする場合は、哲学的認識を可能にする言語への吟味・考察が必要なのです。そもそも常識的に考えても、『「判断中止」という「判断」』の意味を心理哲学的に説明できないのが現象学なのです。


・現象学的認識は、言語の解明の前でその思考を止める
 現象学的方法の本領は,意識の直接与件をその与えられるがままに記述するところにあるが,現象学的方法の礼賛者は,「与えられるがままに記述すること」自体の意味を,現象学的に解明することができない。人間において記述されたあらゆる与件は,人間的言語的認識の区別・選択・判断の結果である。したがって,本来現象学は「記述すること」すなわち「認識そのもの」を現象学の「対象」にすべきであるにもかかわらず,人間的認識において重要な役割を果たす言語を対象化して,記述や認識と関連づけることができない。これこそ西洋的限界であり現象学を破綻へと導いたものである。現象学的方法のつまづきの石は,「言語」である。

 現象学における事象(Sache)のありのままの「記述」とは,事象に対する疑問の解明であり特定の対象への問題意識を前提としている。つまり事象への問題意識(疑問)があってはじめてその対象への認識が成立し,記述が始まるのである。従って,事象をありのままに記述しようとする前に,まずもって記述することそのものの意味が究明されなければならない。つまり「記述すること」それ自体を事象として記述する必要がある。まず必要なのは,自己意識の中で自己を対象として記述するのではなく,「記述すること」それ自体,すなわち問題意識の解明の意味そのものを記述するのである。

 またそれはフッサールのいう「生活世界(Lebenswelt)」でなく,未来に向かって生存し続ける「生命」そのものを対象とするものでなければならない。「生活」に「世界」を付けることは生命を認識の主体から隔離し,世界の対象化を忌避することにつながる。さしあたって,生命は主体であり,世界は生命にとっての客体すなわち環境である。ただこのことは人間の言語による認識と思考の能力を考察する場合のことであって,生命と環境を含む全体を「世界」と呼ぶことは一向に差し支えない。

 フッサールにおいては2つの根本的誤りがある。1つは「判断中止(エポケー)」という「判断」を,人間の思考の産物と認識しないで,自己の「思考の結果」として絶対視していること,2つには自己の現象学的思考を個人的経験に基づくものでないと独断的に考えていることである。
 前者については,人間の判断や思考がその生物学的起源においては生存のためにおこなわれており,いかに彼が「判断中止」と判断しても,人間は判断・思考から超越できるものではなく,それゆえにまず,思考すべきことは,生物にとっての思考,人間にとっての言語的思考を解明する必要があるということである。

 後者については現象学の記述は,「経験的個人の体験または体験的部類に係わるものではない。なぜなら個人については・・・・・私や他人の体験については,現象学は何ら関知せず,何も憶測しないからである。」(『論理学研究』第二版の序言)としている。しかし,言語的思考や判断は,言語の意味・内容が究極において個人の経験に支配される以上,経験的個人(例えばフッサールその人)の体験に関係する。彼が現象学的思考をするとき,言語を使用しないなら話は別であるが,人間的思考とは言語的思考であるからそのようなことはありえない。

 現象学の難解さは、自らは「事象そのものへ」と言いあるがままに事象を記述しようといいながら、実際には記述することの意味を解明せず(カントの認識論を越えることができない)、主観的な世界(「判断中止」といいながら主観的判断を行う)の中に閉じこもり、結論を回避するということにある。ハイデガーの言語論 (解説はこちら) はその典型である。現象学の克服すなわち西洋哲学の限界の解明なくして時代の閉塞状況を打破することはできない。多様な文化や思想とそれを創造した様々の文明の共生共存は、人類的共通性の基盤のもとにのみ花開くのである。

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付録1


第5-1章 現象学批判T(フッサール)  (『人間存在論(後編)』において割愛した部分)

 はじめに                           
 現象学的方法の本領は,意識の直接与件(データ)をその与えられるがままに記述するところにあるが,現象学的方法の礼賛者は,「与えられるがままに記述すること」自体の意味を,現象学的に解明することができない。人間において記述されたあらゆる与件は,人間的言語的認識の区別・選択・判断の結果である。したがって,本来現象学は「記述すること」すなわち「認識そのもの」を現象学の「対象」にすべきであるにもかかわらず,人間的認識において重要な役割を果たす言語を対象化して,記述や認識と関連づけることができない。これこそ西洋的哲学における限界であり、現象学を破綻へと導いたものである。現象学的方法のつまずきの石は,「言語」である。
 人間が抱く自己の存在に対する疑念は,確実な生存を求める生命欲求の顕現である。そして,人間は他の動物と同じ生命であり,それゆえ,共に生き続けなければならないということを自覚する必要がある。それとともに,人間を言語をもつ生命として位置づけ,地球生命全体にとっての責任を自覚して,西洋哲学の根源にある問題(哲学的混迷)の最終解決を図らなければならない。西洋思想の限界のうちにある「現象学の呪縛」を解くことが現在の人類にとっての緊要の課題である。

「カントが『批判』において多少なりとも一義的に確かな仕方で完遂している研究の積極的な性格は,一体どのようなものであるのか。われわれは簡潔に,次のように言うことができる。『批判』の方法とは,その根本的な姿勢としては,われわれがフッサール以来現象学的方法として理解し,遂行し,より根元的に根拠づけることができるようになった,そういう方法なのである。だからこそ『批判』の現象学的な解釈は,カント独自の意図――完全に判明に語り出されてはいない意図ではあるが――に対して,唯一適切な解釈なのである。」(ハイデッガー『カントの純粋理性批判の現象学的批判』邦訳 p74下線は引用者)

「私は、哲学の概念において、哲学の最も根源的な理念を再興するものである。その理念は,プラトンによってその最初の確固たる定式化を得て以来、われわれのヨーロッパ哲学と学問の根底に存し、またそれら哲学と学問に対し一つの決して失われることのない課題を言い表すものなのである。」(フッサール『イデーンT-1』邦訳p12下線は引用者)

第1節 『論理学研究』
 ――心理学主義批判について――
 厳密で必然的な思考の法則として論理学を確立しようとしたフッサールにとって,現実(リアルなもの)との妥協はありえなかった。むしろ論理学は現実から離れたところで超然として現実を支配するものでなくてはならなかった。しかし思考の法則性は,概念(意味を内包する言語)の相対性の上に成立している

「心理主義的論理学者はイデア的法則とリアルな法則,規範化的規整と因果的規整,論理的必然性とリアルな必然性,論理的根拠とリアルな根拠間の,永遠に橋渡しのできぬ根本的本質的な相違を見落としている。どのような量的段階差を考えてみても,イデア的なものとリアルなものとを媒介することは不可能である。」(『論理学研究1』邦訳 p89太字は引用者、以下同じ)

 イデア的なもの(確実なもの・不変なものとして考えられた観念)の本質を理解し得ないフッサールにとって,リアルなものとの区別がつかないのは当然である。両者の媒介となるものは言語である。両者の橋渡しは,言語の本質を理解してはじめて可能となる。すなわちイデア的なものを言語を媒介とすることによってリアルなものに近づけること,またはリアルなものとしての言語から、考えられ想定されたものとしてのイデアを導き出すことによってイデア的なものの根拠を解明することである言語または言語意味内容としての概念は,本質的に相対的であり,概念構成をする思考論理もまた相対的とならざるを得ない。しかるに彼は、イデア的絶対性・完全性に執着し、そこに到達できないことそれを根拠づけできないことに落胆し、挫折する。

論理法則は《事実問題》を含まず,また表象とか判断ないしその他の認識現象の実在も含んではいないのである。論理法則は――その真の意味によれば――心的生活の事実性に対する法則ではなく,したがって表象(すなわち表象作用の体験),判断(すなわち判断作用の体験)およびその他の心的諸体験に対する法則ではない。」(同上 p90)

 彼は自らが考え構想した論理法則を絶対化している。それはある面では現実を反映しているが,現実の法則ではありえない。彼には言語の本質を解明し得なかった。言語の解明を達成することなくして論理法則の解明はありえない。そして,論理法則は生物学的言語学的事実性からのみ,またそれであるがゆえに,心理主義的な側面を取り入れることによって始めて説明が可能になる。彼はカントの誤り、西洋観念論哲学の「錯覚」(アインシュタインの言葉)を踏襲する。

「本然的に理解された[論理学的]諸法則が,基礎づけの面でも内容の面でも心理学的なもの(つまり心的生活の事実性)を前提せず,ともかく純粋数学の諸法則と同じであることを,彼ら[心理学主義者]は見落としているのである。」(同上 p90)

 純粋数学(例として2+3=5のような真理命題)は,カント批判でも述べたように,定義や仮定にもとづく人間の思考の産物であって,思考を支配する法則ではない。純粋数学もまた現実を反映するとはいえ,ミクロやマクロの世界にあっては厳密には数字や図形は当てはまらない。現実は人間の思考よりも遥かに精妙ではかりがたいのである。
 [注:現象学の存在意義としてよく出される論議に、確実な知識<真理>として、2+3=5のような純粋数学の命題の根拠は何かという問題がある。これを生命言語説の立場から再度略述するなら、自然数(1,2,3,・・・)も加える(+)などの数学的操作(計算)も、言語(記号)を思考の道具とした人間の経験的約束にもとづく観念(イデア)的操作によってはじめて成立するというものである。人類が対象の数を数えること、つまり対象を数(記号・言語)として区別(分けること=分かること)することによって成立したのであって、人間の言語記号による観念的操作以前に確実な数学的真理と言うものも存在しなかったのである。しかし純粋数学の発展は、近似的にではあるが、人間による自然現象の法則的理解やその応用による自然支配(コントロール)に偉大な貢献をしてきた。フッサールは、初期において、カントに習って純粋数学の根拠を確立しようとしたが失敗し、現代物理学の近似性・程度性の理解に到達したが、ついにはアプリオリで絶対的・明証的な「統一的な自然の数学」に到達することはできず、「見果てぬ夢」に終わらざるを得なかったのである。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 第9節』参照]

 現象学における事象(Sache)のありのままの「記述」とは,事象に対する疑問の解明であり特定の対象への問題意識を前提としている。つまり事象への問題意識(疑問)があってはじめてその対象への認識が成立し,記述が始まる。従って,事象をありのままに記述しようとする前に,まずもって記述することそのものの意味が究明されなければならない。つまり「記述すること」それ自体を事象として記述する必要がある。まず必要なのは,自己意識の中で自己を対象として記述するのではなく,「記述すること」それ自体,すなわち問題意識の解明の意味そのものを記述するのである。
 またそれはフッサールのいう「生活世界(Lebenswelt)」でなく,未来に向かって生存し続ける「生命」そのものを対象とするものでなければならない。「生活」に「世界」を付けることは生命を認識の主体から隔離し,世界の対象化を忌避することにつながる。さしあたって,生命は主体であり,世界は生命にとっての客体すなわち環境である。ただこのことは人間の言語による認識と思考の能力を考察する場合のことであって,生命と環境を含む全体を「世界」と呼ぶことは一向に差し支えない。

「抽象的概念と具体的概念は区別され,そして概念とは名辞の意味のこととされている。従ってこの区別には同時に諸名辞の区別が対応しており,現に唯名論的論理学では通例このような文法的区別のみが挙げられている。」(『論理学研究2』 p241)

 厳密で必然的な思考の法則として論理学を確立しようとしたフッサールにとって,現実(リアルなもの)との妥協はありえなかった。論理学は現実から離れたところで超然として現実を支配するものでなくてはならなかった。しかし思考の法則性は,概念(意味を内包する言語)の相対性の上に成立している。その意味では彼が批判する唯名論的見解がより真理に近いものなのである。


第2節『イデーン:純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』

 フッサールの諸構想は遠大なものである。それは「哲学を厳密学として樹立しようとする偉大な目論見」(『イデーン』邦訳p13)であり、その実現のために「根本的な省察」を遂行し、「哲学の理念の真正な意味を志向的に解釈」し、「考えられうる究極の認識前提」へと立ち帰って問い直すことである。そのためには「全般的な主観的な存在および生」と「あらゆる意味付与と存在確証との根源的な場所である『超越論的主観性』」に連れ戻される必要がある。「連れ戻される」というのは奇妙な表現であるが、要は、カントが『批判』において、人間共通の感性と悟性の認識形式を確定したことに対し、「考える自己(自我)」の主観的な認識根源に迫ろうというわけである。どのようにするのか。それは日常的自然的経験の態度に「現象学的還元」と呼ばれる変更を行い、世界内的主観性(人間)から「超越論的主観性」への上昇を果たす必要がある。この「超越論的」というのは、カントの認識論における経験を越え、経験を規制する純粋な形式(形相)であるが、フッサールはこの形式の由来を認識主観の根源(超越論的主観性の本質構造)に「還元」し、純粋(超越論的)現象学として学の基礎づけに用いようとする。どうするのか。現象学的還元とは何か。ここにフッサールの行うマジックがある。

「自然的かつ内観心理学的な態度を変更して、それが超越論的態度に変貌するゆえんのあの変更を、遂行してみよう。そうすれば、心理学的主観性は、素朴に経験的にあらかじめ与えられた世界の中における実在物という妥当性をおのれに与えるゆえんのものを、まさに失うことになるであろう。つまり心理学的主観性は、あらかじめ与えられた空間時間的自然のうちに現存在する身体に付着した心であるという存在意味を、失うであろう。というのも、身体と心を備えた自然といったもの、素朴に端的に私にとって存在するものの全体としての世界一般といったものは、現象学的エポケー[判断中止]によって、その存在妥当を失うからである。」(『イデーン』Tp20-21[ ]と太字は引用者)

 上の「現象学的エポケー」というのがマジックの種である。この種によって自然的経験にもとづく一切の判断は、排除せられる。従ってまた、一切の実証的学問も、排除せられる。「純粋に、そのものとして見られたかぎりにおける、意識世界」は、多様に流れ去りゆく意識生活のうちで意識されたものとして、捉えられることになる。こうして現象学者は、首尾一貫して採られる現象学的態度のうちで呈示されてくるものとしての、「純粋諸現象」によって、導かれ、存在するものの、無限の、それ自身において完結し、絶対的に独立した「純粋もしくは超越論的主観性の王国」が開かれてくるのを見る。何と素晴らしい!ブラボー!と叫びたいところであるが、「一切の判断は排除せられる」と言いながら、なぜ現象学者だけがこのような王国を見るという「判断」を下せるのか。一体フッサールのこの判断、マジックの仕掛けはどこにあるのだろうか。彼は次のように言う。

「現象学者は、彼が超越論的記述を行うときはすべて、世界については寸毫も判断せず、また世界的に存在するものとしてのおのれの人間という自我については寸毫も判断しない。けれどもそうはいっても、現象学者が絶えず存在するものとして判断を下しているのは、当のおのれの自我に関してなのである。けれども今や、その自我は、超越論的な自我なのである。すなわち一切の世界存在に「先だって」絶対的にそれ自身においてまたそれ自身独立に存在するものとしての、自我なのである。そして一切の世界的存在は、この自我のうちでこそ、何よりもまず最初に、存在妥当を得るのである。」(同上p22-23太字は引用者)

 さて仕掛けは「超越論的自我」「純粋自我」だけはエポケー(判断中止)の例外だよ、ということになる。こうしてあの「労苦に満ちた」『論理学研究』や『イデーン』の大作によって、超越論的自我の構築が行われる。
 フッサールにおいては3つの根本的誤りがある。1つは「判断中止」という判断を,人間の思考の産物と認識しないで,超越論的自我内部(超越論的主観性)の現象学的「思考の結果」として絶対視していること,2つには自己の現象学的思考を個人的経験に基づくものでないと独断的に考えていること、3つには最も決定的なことであるが、人間的思考の手段となる言語が、主観性内部でさえ解明されずに論理学の成立を目ざしていることである。
 簡単な説明を加えておこう。1つめは,人間の判断や思考がその生物学的起源においては生存のためにおこなわれており,いかに彼が「判断中止」と「判断」しても,人間は判断・思考から「超越」できるものではなく,それゆえにまず,思考すべきことは,生物にとっての思考,人間にとっての言語的思考を解明する必要があるということである。
 2つ目については、現象学の記述は,「経験的個人の体験または体験的部類に係わるものではない。なぜなら個人については・・・・・私や他人の体験については,現象学は何ら関知せず,何も憶測しないからである。」(『論理学研究』邦訳p13)としている。しかし,言語的思考や判断は,言語の意味・内容が究極において個人の経験に支配される以上,経験的個人(例えばフッサールその人)の体験(西洋哲学への耽溺)に関係する。彼が現象学的思考をするとき,言語を使用しないなら話は別であるが,人間的思考とは言語的思考であるからそのようなことはありえない。また現象学者と称するマジシャンだけに理解できる内容なら、その社会的価値は、入場料を取って観客を喜ばせる興行にすぎないであろう。3つ目については、人間的思考や認識についてだけでなく、文化や文明の発展についても当てはまる。言語こそ人間存在の本質だからである。
これらは1つでも不備があると論理的破綻を来すものであるが、フッサールはすべてについて説明責任を果たすことができなかった、むしろそのような問題意識さえもつことができなかった。彼は深刻に「ヨーロッパ諸学の危機」を自覚したけれども、西洋哲学自身がこの危機を克服するのは至難の業なのである。

 さて『イデーン』の内容については、彼が心や認識の構造をどのように考えたのかについて知ることは、興行的おもしろさはあるかも知れない。しかしそれは読者におまかせして、ともに楽しむことはなく入り口で終わることになる。私は『論理学研究』についても観客となったが、全く若い哲学徒にお奨めできるものではない。時間つぶしにはなるだろうか、現代哲学にはそのようなものが多い。しかし見方を変えれば、人類が自らを知るのにこれほどにも労苦が必要だったのかと感嘆することもできる。これほどの困難を越えれば、人類の未来に多少の光が見えるようになるであろう。残された時間は余り無いのであるが・・・。

第3節『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

「生活世界」という概念は,『諸学の危機』において多用されているフッサール用語である。これは今まで対象について客観的・論理的世界を追求してきた西洋的学問伝統に対して、その根拠づけをするために求められた主観的・相対的世界である。しかし生活世界の概念は、『イデーン』において客観的認識の根拠を求めて超越論的主観を構築しようとして失敗したフッサールが、生活世界に根拠の基盤を移そうとしたものである。つまり彼は「事象そのものへ」と言いながら自らの意識――超越的主観に閉じこもり自らの世界を作り,その限界を自覚するに及んで「生活世界」を思いついたものである。その「生活世界」は,「あらかじめ与えられてある世界」(『諸学の危機』邦訳 p213)であり,何らかの確実性をもつ世界である。しかし,生活とは単に与えられてあるだけでなく,過去において生活を自ら変化させ創成してきたものであり,また未来に向かって世界を創るものでもある。彼が認識し構成する「生活世界」は,人間の思考や判断を支配するものでありながら,その中で世界の根拠を見いだそうとして,自らを世界の中心に置こうとするが,人間的認識の根拠である言語の解明がなければ、自己を相対化することもできず挫折せざるをえないのである。
 彼の「生活世界」とは,生きかつ生活を変化させ,人間社会を創造してきた主体的人間を排除し,むしろ人間を支配する知識を構築しようとしながら,そのことを認識できていない。その意味で「生活世界」とは,現象学の理論的破綻を象徴する自己弁護的な作り話にすぎない。人間(自己自身)を正しく世界に位置づけるには,自然環境において主体的創造的に生きようとする生物としての人間を,対象として相対化しなければならない。しかし彼は,自己の絶対化を試みているにもかかわらず,思考の結果としてのイデア的世界をつくろうとしている。「あらかじめあたえられてある世界」も,彼の創造的世界である。「与えられた生活世界」ではなく,生命を包む世界,人間が創りそこで生きている世界──言語によって構成・合理化(論理化)された観念的イデアの世界を対象化しなければならない。

「それ(哲学の原初的な動機)は,あらゆる認識形成の究極的な始元へと立ち帰ってそれに問いかけんとする動機であり,認識者がおのれ自身ならびにおのれの認識する生――そこでは,彼にとって妥当する学的形成体が,合目的的に生起し,獲得されたものとして保存され,過去および未来にわたって自由に使いこなされる――へ自己省察をくわえんとする動機なのである。」(同上p178太線は引用者)

 あらゆる認識形成の究極的な始元とは「考える自我」ではあり得ない。それは動物的生命固有の認識と行動の存在形態に始元をもっており,とくに人間的な言語的認識がどのような役割を果たしているかを問い、かつ解明することが必要である。「考える自我」は、いかに身体的・個体的自己を制御できるとしても、自己の経験を超越することはできない。もしできるとしても身体のない、欲求や感情のない、そして経験的に獲得される言語的思考のない「考える自我」はありえない

第4節『デカルト的省察』

 現象学は,常に「考える自我」を意識の対象とするため,デカルトに対する的確な批判があれば,現象学的混乱に陥ることはない。デカルト批判を一言で言えば,J.G. ハーマンが言うように,「我思う,ゆえに我あり」ではなく,「我あり,ゆえに我思う」であり,またより正しくは「我生きる,ゆえに我思う」が生物学的なのである。しかし思考を相対化できない哲学には,デカルトの相対化は不可能である。
 次に,デカルトの中心的な思想を引用する。ここでなぜ,いわゆる観念論者が,デカルト哲学を容易に批判し得ないのかを考えてみて欲しい。

「次いで,私がなにであるかを注意深く吟味し,次のことを認めた。すなわち私は,私が身体をもたず,世界というものも存在せず,私のいる場所というものもない,と仮想することはできるが,しかし,だからといって,私が存在せぬ,とは仮想することができず,それどころか反対に,私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から,きわめて明証的にきわめて確実に,わたしがあるということが帰結する,ということ。逆にまた,もし私がただ考えることだけをやめたとしたら,たとえそれまで私が想像したすべての他のものが真であったとしても,だからといって私がその間存在していた,と信ずべき何の理由もない,ということ。さてこれらのことから私は次のことを知った,すなわち,私は一つの実体であって,その本質あるいは本性はただ,考えるということ以外の何ものでもなく,存在するために何らの場所をも要せず,いかなる物質的なものにも依存しない,ということ。したがって,この「私」というもの,すなわち,私をして私たらしめるところの「精神」は,物体から全然わかたれているものであり,さらにまた,精神は物体よりも認識しやすいものであり,たとえ物体が存在せぬとしても,精神は,それがあるところのものであることをやめないであろう,ということ。」 (デカルト.R『方法序説』野田又夫訳 中央公論社 1974 p43ー44 太線は引用者)

 上記のように,デカルトはまことに単純に,私をして私たらしめる者は,物体(肉体)からまったく分離している「精神」であると断言する。デカルトは人間において物体と精神をそれぞれに分析するのであるが,両者の結合についての考察を排除する。精神は肉体(情動・感情)がなくても存在するというのが彼の考え方だから。だとすれば,彼にとっての精神とは,思考と論理であり,それらを支える言語の構成能力であるということになる。
 これに対し,デカルトの呪縛を乗り越えられないフッサールは,師であるブレンターノに学んで,「私」すなわち「自我」の意識体験を「志向性」という言葉で分析しようとする。志向性とは何か。それは我々の用語で,欲求,意志,関心,興味,問題意識等を意味する。

「意識体験を私たちが志向的とも呼ぶ時,この志向性という言葉は,何かについての意識であること,すなわち思うこととしてその思われたものを自らのうちに伴っていること,ほかならぬまさにこのことを意味している。」(『デカルト的省察』邦訳 p69)

 志向性とは,現象学的方法による意識の解明をめざす概念である。意識は自らが自らを対象とする――つまり私とは何か,どのように私を認識するかを解明する根源となる。「考えられるもの(対象)」が内面(心・精神)にあること,その内面にある意識を対象とすること――これが,意識の心理学である。我々にとって「意識」とは,まず外的対象への認識態度とその対象への興味・関心であり,対象がどのようにあり自らがどのように行動するべきか,ということが問題となる。従って,意識は欲求を充足するための認知・判断・創造の機能であり,その過程である
 しかるにフッサールは,外的対象とは離れて,まず意識を外的対象として意識するのではなく,その意識を内面的対象として意識する。つまり自分(自我)が自分の内面を解明しようとする。しかし我々は,フッサールの意識(彼が何をどのように考えているか)を対象化できるように,自分自身の意識とその志向的過程を,外部から対象として解明することができる。自分自身の意識が自分自身の意識を解明することには,人間的意識に伴う根源的な限界があり,循環論に陥らざるを得ない。その循環論を打ち破るものこそ「言語の解明」なのである。つまり,人間的思考や意識の根源には言語があり,その言語は対象化して科学的に解明することができるし,それ以外の方法はないのである(後にハイデッガーの試みた戯画的な現象学的言語解釈を批判する)。
 それでもまだ,自我をどのように考えるか,の余地は残る。フッサールにとっての自我の反省と超越論的な反省とは何か。反省によって何を見いだそうとするのか。

 「世界のうちに自然に入り込んで経験し,何らかの仕方で生きている自我を,世界に『関心をもっている』と呼ぶとすれば,現象学的に変更され,変更が維持されている態度の本質は,この素朴に関心をもっている自我のうえに,現象学的な自我が,『無関心な傍観者』として立てられることによって,一種の自我分裂が行われる,ということにある。このことが生じるということ自体は,新たな反省によって近づくことができるが,この新たな反省は,超越論的な反省として,さらに「無関心な」――とは言いながらも,観察し十全に記述すると言う,それだけが彼に残されているような関心をもった――傍観者という態度をとることを要求する。」(同上 p72太線は引用者)
 「自然的な態度にある自我としての私は,同時にそして常に,超越論的な自我でもあるが,私がこのことを知るのは,現象学的還元を行うことによってのみである。」  (同上 p76 太線は引用者)

 まず自然的な世界に関心をもっている自我について考えてみよう。我々は,自己の心を反省するとき,心を対象化して客観的に見つめようとする。例えば,友人との関係が気まずくなったとき,「自分が正しい」と友人を非難して自己を正当化する場合もあるが,自己が非を認める場合,恥ずべき言動と自らを責めて反省し,自己の見解を改めようとする。ここに「見る自己」と「見られる自己」の分離があらわれる。「見る自己」は「考える自我」(自己は個体的なものとし,自我は精神的なものと考えるが,厳密なものではない)であり,「見られる自我」を対象化して,価値評価をする自我である。この場合,見られる自我は,「見る自我」の客体となり,知的情緒的認識・判断の対象であり,反省すべき対象としての自我である
 しかるに,フッサールの想定する「現象的な自我」は,自我の構造(意識)を,価値的判断を含まないで傍観者的に観察し記述する。このような自我は超越論的な自我であり,「現象学的還元」を行うことによってのみ可能となる。いわゆる現象学的哲学者が,自然科学的実証的態度の根拠を求めるとき必要とされる(思考・認識の)態度である。自然的・科学的認識の態度を可能ならしめる認識の根拠とは何か、カントにおいて不備であった認識を成立させるカテゴリーの形式ではなく、そのカテゴリーを造る悟性の根拠は何かというのである。フッサールは厳密な認識の根拠を求めて,『イデーン』にみられるような「純粋意識」の構造をつくりあげようとする。そして失敗する。なぜか――人間的認識と思考の手段としての言語の役割を解明することができなかったからである。厳密な学の根拠の構築に失敗した彼の意図は挫折し破綻した。彼の厳密性の追求は,西洋的な幻想に基づくものであり,この幻想を打破するのは,フッサールの思考を支えている言語そのものの解明なのである。

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 人間は生命的・言語的先入観(意味)を越えて対象を認識することはできない。現象学は西洋観念論哲学の終焉に当たって見果てぬ夢を追求する徒労の学問であるといえる。
   ──よそながら 思ひしよりも 夏の夜の 見果てぬ夢ぞ はかなかりける──(『大和物語』)



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kakasi のコメント

 あるブログ(「現象学Memo」)に、「言葉のエポケー}という表題で、現象学と言葉の関係を述べておられました。現象学批判としながら、現象学を擁護しているわかりやすい内容なので、「自由に使ってください」というコメントに甘えて批判させていただきます。

言葉のエポケー [現象学批判]
哲学は、言葉を使用し、言葉を前提せざるをえないのだから、「哲学の無前提」は矛盾である、という批判がある。
現象学は超越物をエポケーするが、言葉はエポケーしないのか、という疑問を見ることもある。
確かにこの問題は少しわかりにくい面がある。
答えるとすると、次のようになるだろうか?

現象学は、「言葉(記号)」を前提しているのではなく、「言葉(記号)」は「理」を指すため、「理」に至るための道具として使用されている。
例えば、「2×3=6」という演算式がある。これは「演算式の理」を名指すために、「記号(言葉)」が使用されている。この演算式において、「記号」はこの「理」の前提だろうか?
「記号」はあくまで伝達や理解の道具として使用されているのであり、「理」の正当性の条件として「記号」があるのではない。「記号」が現在このようであるのは偶然でしかないが、しかし演算の「理」は永遠である。
これと、言語のエポケーの問題は同様である。現象学の「理」は、言葉によって「理」が変わったりするものではなく、(だから「理」を同じものとして別の言語に翻訳できるのであり)「理」を指し、伝達する道具としてあくまで「言語」が使用されている、と、言えるはずである。
演算式の正当性の前提として「記号」がある訳ではないように、現象学の「内容の正当性」の前提として「言語」があるわけではない。
それでも、「言語」がなければ、理論も何もないではないか?言語があることにより、理論は可能になる、と批判する人がいるかも知れない。
しかし、この手の批判は、事の本質を見誤っている。この批判は、言語の使用を禁じているのであり、哲理の「無前提」ということとはかかわりはない。
それは、生活の中で哲学の論文を書くことにおいて、(生活が前提になっているので)生活を禁じるのと同様である。
数学の証明において、記号や図を使うのを禁じるのと同様である。
結論に至るための「手段」を禁じているだけである。
確かに、「充実した言語」や「前提となる理念」がないと「深い認識論」に至ることは難しい。デカルトやカントなど近代哲学の成果がないと、いきなり現象学を始めることはフッサールといえど困難である。しかし、充実の度に、再び元の認識論も批評、整備されていくのであり、それと「言語が前提になっているという批判」とは関係がない。つまり「理論」の整備を目的としているのであり、「言語」の整備を目的としているのではない。


※⇒上の内容は、「言葉のエポケー」という現象学批判の形態をとった現象学擁護の主張ですが、言葉に対する誤解にもとづいたよくある現象学の誤りの例だと思います。
 言葉は単に、「理を得るための道具」ではありません。言葉は、「理」自体(知識・理論)を創造(観念構成)するのです。つまり、言葉は、自然・対象を捉えるために、対象をイデアとして再構成(イデア化)するのです。その典型例が、数1,2,3・・・と、それを用いて再構成された数学大系(演算式体系)です。人間が言語的思考をするまでは、この宇宙に数や演算は存在しませんでした。人間が言葉で考えるようになってはじめて、自然的対象を区別し、言語記号化することによって、加法や減法等々の操作を加え、自然的対象を理解するために発明したのです。つまり言葉は、演算式の正当性の前提となるのです。
 だから、「言語があることにより、理論は可能になる」という批判に対して、現象学的立場では「この批判は、言語の使用を禁じている」という荒唐無稽な批判にしかならないのです。まずは、現象学理論を成立させている「言葉」について、自分の生活の中で「自然的態度」を用いて言葉による「反省」をすれば、いかにして自分の心の中で、現象学理論の擁護を再構成されているかが分かるでしょう。ただこのような誤解は、西洋思想上の背景をもっているため根が深く、まずは自然的態度で言葉についての理解を深めることが必要になるのです。

◇ 生命言語説による現象学批判は、単に現象学者自身の主張の矛盾や現象学者間の主張の対立的側面を批判するのではなく、現象学の依拠する西洋思想的限界と検証可能な自然科学的知見にもとづいて現象学存立の基盤そのものから批判している。われわれの現象学批判を検討されようとする諸兄は、生命言語説に対する細心の注意をもって批判されることを望みます。