言語構造とは何か?――言語表現限定構造としての文法試論              Home
       
 日本語と英語に共通する<平叙文>の文法の概略をみることによって,チョムスキーのめざした普遍文法の可能性を探ってみる。まず文法とは「言語表現における対象限定と情意表現構造規則」又は「言語による疑問解決と自己表現構造規則」とも名づけうるものである。個別言語によって単語(品詞・語類)の意味や語順,語彙変化・屈折などは異なるものの,諸言語から単語構成上の共通規則を抽出したものが普遍文法と考えられる。
 文は単語を規則的に連結して表現対象を限定・修飾し叙述することによって成立する。また文は,対象名詞(主語)の状態や運動,主体の意図(述語)を表現するため,主語・述語を修飾したり他の名詞との関係(目的語)を叙述する。つまり文の生成・叙述・構成は主語と述語を含む主文と,主文に含まれる特定の語句(自立語)を修飾・限定する語・句・節から構成されている。(限定するとは、define すなわち範囲を定め、意味を明確にし、定義することである。)
 一般的に、文の生成は、対象の状態や対象間の関係性(時空における運動性)への疑問(何がどのようにあり、どのような関係にあるか?)の解決(表現)過程であり、その間に何を強調するか(意図の明晰性・曖昧性、運動の自動性・他動性等)によって文法構造を異にする(例:西洋語と日本語)。

(1)主文の構成(平叙文の場合)
 主語と述語は相互に相手を限定する。主語は「何が(what)」に対し,また述語は主語に対して「どのようにあるか(how)」を答えるもので,文は「何がどのようにあるか,又はなすか(How is what, or how does what )」を叙述する。主語が示されれば必然的に述語が求められ,逆に述語は主語を要請する。対象としての「りんご」(主語)が示されれば,それが「どのようにあるか」(状態・運動→述語)が求められ,「落ちる」(述語)が示されれば,「何が」(主語)が要請される。
 対象やその状態が文脈上明らかであれば主語や述語は省略されうる(一語文となる)が,文の本質を形成する叙述の完結性や客観性は消失する。また主語を修飾する語・句・節は主部を,また述語を修飾する語・句・節は述部を構成し,述部の中で特定の述語動詞(他動詞)は,特定の目的語を要請する。従って,文における要素は以下のように分類して説明される。(日本語の助詞,英語の前置詞は便宜上助詞と表すこともある)
@主部(表現対象の指示) 
 ・主語(名詞)+修飾的語・句・節
   日本語:主語は,名詞を主格の助詞で指示限定
         (私は,彼が,空は)
   英 語:主語は,名詞(主格の代名詞)を動詞の前に置く
         (I am, He went,)
A述部(表現対象の状態・運動・意図の叙述)
 ・述語(動詞・形容詞・助動詞)+目的語(=名詞)+補語(名詞,形容詞)+修飾的語・句・節 (目的語は述語が他動詞の場合)
   日本語:格助詞による目的語の限定(〜を,〜に)
英 語:動詞に対する位置(代名詞の目的格)による目的語,補語の限定
      直接・間接目的語(me,you,him give him prise)
 例:日本語――誰が,何を,どのようにしたか。
   その注意深い学生は,教授が強調した 話の中の すべての言葉    を 書き留めた。
    (修飾句)(主語), (連体修飾節)(連体修飾句) (目的語)(述語)。
<主 部>   <述 部>
   英 語――WHO, WHAT, HOW did.
    The cautious student wrote down every phrase in the
    professor's speech that he stressed. )
     (修飾句)(主語) (述語)(目的語)(修飾句)(関係代名詞)
<主 部> <述 部>

(2)修飾語句の構成
  ・名詞,動詞・形容詞を修飾・限定・状況説明するための意味のまとまり
@名詞修飾・限定(形容詞的用法)
 a.形容詞型=名詞の限定・修飾 [形容詞+名詞]
    日本語:数詞(一の)連体詞(この,その)形容詞(高い,赤い,大きい)
    英 語:冠詞(the,a,an),形容詞(this,high,red,big,etc)
 b.助詞型=名詞の格を決め,他の名詞との位置づけ関係を明示する。[(名詞)+助詞+(名詞)]
    日本語:格助詞属格〜の(机の上の本),主格〜が〜は,目的格
        〜を〜に
    英 語:前置詞,in,on,of,for,by,over,etc(a table in
        the room, a book on the table,)
 c.動詞活用型=動詞の変形により名詞を修飾・限定する。
        [動詞変形+名詞]
    日本語:動詞連体形(動く列車,盗むバッグ,盗まれたバッグ)
    英 語:現在分詞(the moving train)・過去分詞(the
         stolen bag)
A動詞・形容詞修飾・限定(副詞的用法)
 a.副詞型=動詞,形容詞の修飾・限定 [副詞+動詞・形容詞]
    日本語:すごく早く走る,おそらく早い,決して走らない
    英 語:very fine day, hardly true, run fast,
        live happily 
 b.助詞型=動詞の方向・状態を説明(時空への位置づけや情意表現)[動詞+助詞+名詞]
    日本語:格助詞 〜へ,と,で,から,より (部屋の中へ入る)
        副助詞 〜まで,だけ,ほど,ばかり (駅まで行く)
        係助詞 〜は,も,こそ,でも,しか (今日は寒い)
    英 語:前置詞 into , above , from (go into the
            room,)
 c.動詞活用型=[動詞活用形+動詞]
    日本語:動詞・形容詞連用形(食べ歩く,明るく笑う)
    英 語:現在分詞(keep mouving, lay watching)
過去分詞(get injured, sit surrounded by
             children)

(3)節の構成
 文の構成にとって本来節の構造は不必要である。節は文中の語句や状況を付加説明するために,文中(主文)に主語・述語の文構造(従属文)を挿入するものである(ここでは接続詞による並列節構造は省略して,あくまでも文中の語句や状況の修飾節を扱う)。これは日本語では動詞の連体形で名詞を修飾するか終止形(連用形)を助詞が受ける形式をとり,英語では関係代名詞や関係副詞の形式をとる。
 英語の場合,文中の語句や状況を説明するとき,疑問詞や that を使用して関係節を作るため、説明意図が明確となる。文が説明的であるのは関係節をもつ言語に共通した特徴である。
@日本語
 a:動詞連体形+名詞(格助詞〜の)
     私は学校へいく少年を知っている。
     彼がいうこと(の)は本当だ。
     私は少年が学校へいくこと(の)を知っている。
 b:動詞連体形+接続助詞(が,から,けれど,と,ので,のに),
     その少年は学校へいくが,私は休んだ。
   動詞連用形+接続助詞(たり,て,ても,ながら,ば)
     その少年は学校へいきながら考えた。
 c:動詞連体形+副助詞(か)
     君が行くか行かないか,私が決めます。
   動詞連用形+副助詞(さえ)
     私が行きさえすれば,すぐ決まります。
A英 語
 a関係代名詞節(名詞節):名詞+that,which,whoなど,what,that節
     I know the boy who rides a bicycle.
     What you say is true.
 b関係副詞節(副詞節):名詞+where,when,why,how,that
 This is the station where we said good-by.
 He explained the reason why he was late.

<日本語の曖昧性・深義性と主語の省略、助辞の多様性について>
  日本語に主語は必要である。「主語」廃止論は、科学的認識の劣化を招く。

 日本語文法学者には、日本語は「主語」概念が不要または、廃止すべきと唱える人々がいる。三上章の『現代語法序説』(三上1953、72)を典型とする考え方である。
 日本語は「主語」という概念を、英語のように文構成(文法)上の基軸に据えても、現状の日本語の文法上の特性(主語の省略や助辞の多様性)を理解する妨げにはならない。むしろ日本語の特性を分析するためにも「主語」の概念は必要である。またそれ以上に、言語の普遍的意義は、情報や意図の伝達とそのための対象の的確な認識・判断であるから、日本語に希薄な主語(対象名詞)への意識を確認するため、また因果関係を明確にし科学的認識に習熟するためにも主語概念は必要である。
 人間をとりまく諸現象(森羅万象)は、それらの現象(運動)の因果関係や縁起を正しく把握し、人間の生存のための知識体系や知恵を探求し、的確な判断をするためにも、因果関係(変化や運動)の主体(主語)となる対象を明確にすべきである。

 主語廃止論者は、主語は補語と同じく述語に従属しているだけであり、主格ではあっても西洋語のように主語(の性・数・格)が述語(の活用)を支配していないから、「主語」という概念は使用すべきでないという。彼等としては、文の成分となる名詞はすべて動詞の補語ないし連用修飾語として扱われる。しかし、主語は、述語に従属するから「主格」という表現で十分であるというのは、主語の表現や省略の本質への洞察、すなわちなぜ日本語には主語の省略が多いのかという日本文化への問題意識をも不十分ならしめる。また彼等の解釈は、言語が話者の意図や対象の状態等の情報を正しく明確に認識・表現し、伝達するという言語本来の存在意義を見失わせるおそれがある。

 つまり主語と述語はお互いを、「何がどうある」「こうあるのは何か」「何が何とどう関係するか」「何をどう考えるか」等々を明晰にしあうという相互関係があり、主語対象が何(what=主語)であり、どのように存在しているか(状態にあるか)(how=述語)は、生物学的認識様式、すなわち普遍的言語表現様式の基本なのである。日本語では、誰が?誰に?何を(どのように)?するのか、表現しなくても理解してもらえるだろう、理解しているはずだという、対話する相互にとっての「甘え、諦め、曖昧さ」によって成立している。それは日本文化の特性であり長所でもあるが、人間としてまた国際社会の一員として生きてゆくためには克服していくべき課題なのである。(※参照『日本語の省略がわかる本How can we know who did what to whom in japanese?』成山重子 明治書院 2009)

 日本語の特性は、主語の省略だけでなく助詞・助動詞(助辞)の多様性等の明晰性を追求しない曖昧な表現様式(文法)にもある。それによって人間の心(欲求・関心や感情等)の微妙な動きや情緒の豊かさを表現し、他人への思いやり、以心伝心や和の精神、自然と共に生きる生活態度等々という好ましい心情や意図(日本的美意識)を、表現・伝達することができる。しかし他方、主語廃止論は、日本語の特徴を言い当てているとはいえ、言語と認識の生物学的普遍性の追求を阻害し、科学的認識や合理的精神を劣化させ、日本語の弱点を隠蔽することにつながるのである。
 以下に、言語の人間的普遍性を重視するわれわれの「生命言語説」の立場から、「主語廃止論」を批判し、西洋語の違いと日本語及び日本文化の関連についても述べてみたい。

・三上章による主語廃止論
 「主語否定(廃止)論」(三上章 1953,59,63等)、「日本語に主語はいらない」(金谷武洋2002)といわれている。これは西洋語特に英語の文法(SVO文法)を、標準的普遍的なものと考える立場(日本語の学校文法)への反論として提示された。つまり、英語文法における主語述語は、文構成の必須要件であるのに、日本語では現実の場面で主語(subject)が省略されることが多く、また係(副)助詞(名称はいずれも狭義すぎる)「は」や格助詞「が」は、西洋語的「主語」と言えるほど「述語」との結びつきをもっていないので、「主語」と規定するべきではない。もし文中に何らかの主題(theme題目)が必要だとしても、それは述語(動詞)の補語(または連用修飾語)として位置づけられるべきであって、西洋語のような不動の「主語」の位置を占めるものではないというのである。
 まずは彼の「主語廃止論」の主張の強さと主述関係への敵意を見ておこう。

 「ヨオロッパ語のセンテンスが主述関係を骨子として成立することは事実であるが、それは彼等西洋人の言語習慣がそうなっているというにすぎない。決して普通国際的な習慣ではないし、また別に論理的な規範でもない。わが文法界は、それを国際的、論理的な構文原理であるかのように買い被ってそのまま国文法に取り入れ、勝手にいじけてしまっている。だから、主述関係という錯覚を一掃し、その錯覚を導入しやすい「主語」を廃止せよ、というのは、いわば福音の宣伝なのである。」
                (三上章『続・現代語法序説』くろしお出版 1972 p29)

 三上の言語表現(文法)の捉え方は、日本語表現の特性である曖昧性に着目しており、日本文化を理解するためにも必要な観点である。しかし、文構成の要素である対象(名詞主語what)とその状態(動詞述語how)の相互関係性を重視する「生命言語説」の立場からは根本的に誤っているといえる。ここではその言語観の誤りと日本文化論的な意味について、「生命言語説」による西洋的思考様式への批判の立場から原則論を述べてみる。

 西洋語と対比した日本語の独自性は、SOV型文、多様な人称・敬語、助詞の多様性等々あるが、「主語廃止論」に限定して考えてみよう。
 「主語廃止論」を唱えた三上は、日本語における係助詞「は」は文の題目を示し、格助詞「がのにを」のそれぞれを「代行(兼務)」している。しかし、それらの格助詞を顕在化し「は」を潜在化することによって、文自体を「無題(目)化」することができるので、格助詞「が」を「主格」として示せば、取り立てて「主語」という用語を必要としないと考える。例えば次のように。

 象は、鼻が長い。(「は」は「の」を代行)→象の鼻が、長い。(「は」の潜在化」)
 彼は、財産が多くある。(「は」は「に」を代行、「財産が」は主格補語)→彼に財産が多くある。
 歌は、私が歌った。(「は」は「を」を代行)→歌を、私が歌った。
 私は、赤い花が好きです。(「は」は「が」を代行、「赤い花」は主格補語)
                     →私が、赤い花が好きです。

 二重主語文とも言われる「象は鼻が長い」の文の構造をどのように説明するか。「象は」と「鼻が」はどちらが主語か。この議論は現在も決着のついていない問題であるが、三上は「主語」という概念を廃止することで解決できると考えた。
 ここで三上が主張するのは、助詞「は」は格助詞「が、の、に、を」を代行(兼務)しており、「が」は主格となるが、「の」は所有格、「に、を」は目的格であるから、必ずしも「は」は主語を規定するのではない。だから「象は、鼻が長い」という文を、主語が二重になっているという立場(二重主語文または総主語+述部主語)で考えると、「主語が述語を規定する」という西洋語的文法では説明がつかない(「鼻」は「象」とは並列ではない)。また「象は」という主語と「鼻が長い」という「連語述語」も考えられるが、格助詞「が」のみが主格の資格があるのであって、副(係)助詞としての「は」は文の題目(=「象について言えば」)を示しても、主格としての主語ではありえない、と考える。

 係助詞「は」は、通常、動詞の格をとらないとされるが、主格助詞「は」と考えれば問題は解決する。助詞「は」は、認識主体(話者)が対象(名詞)への注意を喚起し、「何(what)?」と疑問をもたらす表現であり、その説明として用言(動詞・形容詞)との関係を生じさせる。その関係が主格主語(「何が」または文頭)となる場合もあれば、「母象が小僧に乳を飲ませる」のように対格・与格目的語との関係を生じて「何を」「何に」となる場合もあるのである。また「は」が「が」の代行になるのならば、「は」が主格を代行して「象は」を主語としても何の問題もないのである。

・文法上の<主語=subject> における西洋的かつ日本的誤解

 <subuject> の本来の意味は、「下へ(sub)投げる(ject)→thrown under」から「認識・支配などの対象となる人・物」(名詞の場合)とされる。
 西洋的誤解とは、本来認識の対象(客体)であるべきsubuject が、哲学的には「主体・主観」の意味も併せ持つことになったことである。subuject は、認識(思考・研究)すべき「対象」であることから、「主語・主題・題目・話題」の意味をもつことは容易に了解できる(支配される対象である「臣下・家来」も意味するが)。しかしsubujectに主体の意味をもたせることによって、二つの問題が起こってくる。一つには、西洋語において人間の行動を表現する場合、文構成の認識主体である話者の立場(欲求や興味・関心の主体)が弱められ、対象であるべきsubujectが独立した主体となって他の対象(認識主体)に働きかけ支配する(他動詞)ようになること(例えば「怒りの感情が、敵への復讐にかりたてる」のように個体の一部の反応である感情が個体から分離されsubuject=主体となって個体を操作する)。二つには日本語にsubujectが主語として導入されるとき、必須事項として主語が文頭に要請され、日本語の微妙な表現に貢献している主語の省略や助詞の曖昧さ(日本語の文化的特色)が阻害・軽視されてしまう。

 すでに他の場所で述べているように(西洋的思考様式の意義と限界)、西洋的思考様式(に由来する文法)の限界は、「認識や思考の結果(所産)である言語的知識」を、生命的情緒的主体(理性的主体でなく欲求や情緒の主体)の認識の所産であると認識できなかったことである。西洋的合理主義の根源はロゴス主義であり、ロゴス(言語)が存在とされる(ギリシア哲学)が、ロゴスを操作する真の生命的情緒的主体もロゴスで対象化(ホメロスの叙事詩における怒りや嘆きの対象化)することによって、個体的生命主体から情緒(的主体)を分離し、ロゴスによって個体的生命を操作(制御)しようとしたのである。

 従って、subuject もまた文構成上の動作や状態の主体(動作主体)であるかのように理解され、また通常西洋語では文構成の必須要件として文頭に来るため、文の中心であるかのように誤解され、日本語においても「主語」と翻訳されたのである。ところが日本語のように膠着語では、名詞に膠着する助詞の役割がきわめて重要で、助詞の用い方が話者の微妙な判断・表現に影響をもたらし、またそれが日本語及び日本文化の根源にも影響をもたらしているのである。古代日本人が言葉に霊性を観じたのも、微妙(曖昧)な人間の心情に留意することのできた世界的に卓越した能力と言えるのではないだろうか。

 しかし他面で、心情への配慮は合理性への忌避を意味する。合理性の忌避は科学的認識の忌避をもたらす。その点で西洋的合理主義にもとづく文法(思考様式)は、対象(主語)の状態や対象間(主語・目的語等)の動作や運動の関係を明晰に表現する。日本文化に科学的合理性が希薄であり、現代の日本人に個人の自立性が不十分であるという事実を克服するためには、言霊や言語力そのものへの不断の反省が必要ではないだろうか。



付論 「は」と「が」の違いについて

《「は」について》
 日本的助詞、スーパー助詞
 助詞「は」は、日本語の表現を特徴づける助詞である。「は」文の主語(主格)だけでなく目的語(対格を、与格に)等も導きだすから、外国人が、「は」の使い方に習熟することは、日本語と日本文化の根幹(曖昧性)に習熟することでもある。
 助詞「は」を付属(使用)する対象(名詞)は、話者が常にそれ以外の他の対象を意識しその関係性や継続性の中で意味をもたせている。つまり「は」は、一般的に「〜については」とか「〜においては」のように文の題目や主題になったり、他の対象と区別して取り立てたり、対比をされたりする。別言すると、助詞「は」は、継続的に意識されている旧知の対象(主題、名詞)を、他の対象と区別・対比して提示したり(主語・主格)、関係づけたり(目的語/対格・与格)、時や場所を示す場合に用いる。特に後者の主格の場合以外は区別や対比が強調される場合に用いられる。

 さらに、松下文法(1924,'78)における助詞「は」が、題目の提示(提示助辞、主格の場合)をするといわれるのは、ある対象(主格名詞)に問題意識(疑問what,how)を持ち、それを表現・明示・叙述しようとする話者主体の態度を示している。これは佐久間鼎が指摘していることでもある。
 
 「思考のおよぶ局面は、その問題としてかかげられたるものが何なのかということによってきまってくる次第で、題目の提出によって一定の「課題の場」が設定されることになります。そこに課題の提起によって生じた場の緊張状態は、適切な解答としての説明をまってはじめて平衡を得て解消します。」          (『現代日本語法の研究』くろしお出版1956改訂版 p202)

 下記の例文で具体的な説明をする。
 @a)の「母は」「父は」と@c)の「母が」「父が」は、ともに主語である。しかし、前者は日常的(継続的)な話題を述べ、母と父の役割を対比させているが、後者は一回的な情景(現象)を述べており、母と父の行為は対比ではなく順次的に述べられているだけである。b)は母が日常的に食事を作り、後半の父は父が食事を運ぶ情景を述べている。c)の「食事は」は「作る」の目的語対格である。d)の「それは」は、運ぶの対格であり、その食事を特に区別し強調して表現している。e)の「は」は二巻と場所について対比し区別・強調している。Ae)は、対格の「夕食は」が、主格の「母は」と区別がつきにくく明確性を欠いて文として成立しにくい。以下簡単な説明を付けているので、適宜解釈されたい。

《「が」について》
 助詞「が」は、新規に(改めて)、対象(名詞・主語)の状態や話者の意図を、限定的直接的に説明・表現する(動詞・形容詞・助動詞=述語)場合に用いる。つまり、「が」が提示する対象(主語)は、陳述される情景に対して限定的となる。例えば「母が食事を作る」場合、母は食事を作ること(その情景)に焦点化されている。それに対し、「母は食事を作る」場合は、母は食事を作ること以外にも関心を持っている事が前提となっている。母は一連の家事活動の継続性のなかで食事を作っているのである。

《主格の疑問詞文の「は」と「が」》
 生命言語説における文構成の基本的立場は、対象名詞を主格・主語におき、その状態・運動・動作や他の対象名詞との関係(主格以外の関係=諸格)を動詞・助動詞等の述格・述語によって表現・叙述することであり、それらの対象名詞の何であるか(what)を確定(限定)し、その状態やそれらの関係性が如何にあるか(how)を解明・叙述することであった。その意味で文の叙述がどのような疑問・問題意識によって成立したものであるかは、文の意味を明らかにする上でも基本になる。

 下の例によって説明してみよう。よく指摘されることであるが、対象(主格)が既知・継続である場合に疑問の余地はないので「誰(何)は?」という表現はない。@a)の場合、主格の「は」を付属した対象名詞「母」は、既知の事項であり、他の誰か(ここでは「父」)と対比して説明・叙述していると説明できる。疑問代名詞文「誰(何)が〜?」が可能となるのは、「誰(何)」が未知の人物(事項)だからである。つまりCa)b)の場合のように「誰(何)は〜?」不可能であり、主格「が」を使用するのが正しくなる。

 またc)の場合は、「彼の演奏する曲」が話題の提供であり主格の位置にあり、「何」が補語となるため「は」が使われている。なぜ「曲が」とできないのか、それは「彼の演奏する曲」がまだ限定されていない(未知の)ため、「が」を使うことはできないのである。
 補足として、@a)「母は食事を作り、父はそれを運ぶ。」において「母は」と「父は」を解明する疑問文では、疑問代名詞を使うことはできない(×誰は食事を作りますか?)。疑問代名詞は「誰が〜?」で、通常その解答はc)となる。しかし@a)において「母は」と「父は」としているのは、解答者の付加説明(区別・対比の強調)なのである。助詞「は」がスーパー助詞といわれる理由の一つである。

・助詞「は」「が」の例(格の指示のないものはすべて主格)
@a)母は食事を作り、父はそれを運ぶ。(継続性、対比)
 b)母は食事を作り、父がそれを運ぶ。(準継続、準対比、準情景)
 c)母が食事は作り、父がそれを運ぶ。(情景、「食事は」は対比)
 d)母が食事は(を)作り、それは(を)父が運ぶ。(「それは」は対格で対比)
 e)今日は、私の家庭は、母が食事を作り、父がそれを運ぶ。
  (「今日は」は時間格、「私の家庭は」は場所格)

Aa)母が夕食は作ったが、父がまだ帰らない。(全体が情景、「夕食は」は対格で区別、)
 b)母が夕食を作ったが、父はまだ帰らない。(「母が」は情景、「父は」は継続)
 c)母は夕食を作ったが、父はまだ帰らない。(「母は」「父は」は継続、区別、対比)
 d)母は夕食は(を)作ったが、父がまだ帰らない。(「母は」は継続、「夕食は」は対格で対比)
e)夕食は母が作ったが、父がまだ帰らない。
  (×夕食は母は作ったが、父はまだ帰らない。)(対格の「夕食は」と主格の「母は」の区別)

Ba)母が、父の食事を準備した。(情景)
 b)母は、父の食事を準備した。(「母は」父に対比して主格)
 c)母が、父の食事は準備をした。(情景、「食事は」は対格で区別)
 d)父の食事は、母が準備した。(「食事は」は対格で区別、)
 e)母は、父には食事の準備をした。(情景、「父には」は与格で区別)

Ca)Q.今日の音楽会には、誰が来ますか?(×誰は来ますか?)(未知、主格)
A.A氏が来て演奏します(A氏です←主語省略)。
 b)Q.今日の音楽会では、何が演奏されますか?(×何は演奏されますか?)(同上)
  A.『新世界より』が演奏されます(『新世界より』です←主語省略)。
 c)Q.彼の演奏する曲は、何ですか?(「曲が」は×、「曲は」は区別・取り立て、「何」は補格)
   A.それは『新世界より』です。(それが『新世界より』です。←は可能、新規さの強調)
 d)Q.誰が(×は)山田さんですか? A.私が山田です。(a)に同じ)

※なお野田尚史の『「は」と「が」』(くろしお出版1996)を参照して下さい。。。。。

日本語と朝鮮語と文化

 日本語と韓国朝鮮語(以下韓朝語)は共に膠着語として同一のルーツをもつといわれている。言語社会学者の渡辺吉鎔(キルヨン)は、『朝鮮語のすすめ』(1981)で、朝鮮語と日本語における助詞や主語の省略の共通性をわかりやすく説明している。そのなかで、文化論との関係で、日本語学者の大野晋や金田一春彦の日本語独自論を、朝鮮語を無視し欧米語との比較に偏っていると批判して次のように述べている。 

(引用1)”日本語の「主語なし文」が野暮を嫌う日本的な美意識のあらわれであるとか、省略の美学のあらわれであると唱えても、全く同じ「主語なし文」を有する韓国人にはそんな美意識はない。したがって,論理的に美意識と「主語なし文」は無関係であるということになる。むしろ、私にとって「主語なし文」を美学とか美意識とかに結びつけようとする心情が、非常に日本的な言語観のように映り、興味深い。はたして言語現象は、すべてその文化独自の性格を投影するものなのであろうか。”(渡辺吉鎔『朝鮮語のすすめ』講談社 1981 p95)

(引用2)”日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシである。このモノサシなしで、日本文化・日本人の特色を測ることを試みれば、欧米語との違いを日本語の特色と誤認し、その日本語の特色を日本文化の特質と無理やりに関連づける、従来の日本語論の轍をふむことはさけえない。その結果、ゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができないのはあきらかである。
 地理的には日本に最も近い韓国、そして言語的に類似性の高い朝鮮語に目を向けたうえで、日本人は自らが何であるのかを正しく見つめ直す作業を一日も早く開始すべきである。日本の本当の意味での国際化への道はここにはじめて可能になる。”(同上p117)

 日本語が韓朝語と同一のルーツをもち、語順(SOV型)や助詞の多様性、主語の省略、指示詞(コソアド)など文法的・語用論的に似通っていながら、自己主張の強(韓朝)弱(日本)や「暗黙の了解(以心伝心)」の有(日本)無(韓朝)について隔たりがあることは、著者が指摘するとおりであろう。おそらくそれらの違いは、韓国朝鮮が北方遊牧民との接触によって大陸的な社交的生活文化であるのに対して、日本の孤立的・島国的な閉鎖的生活文化(縄文・弥生?の地域生活)との違いから生じているものである。しかし、欧米語と日・朝共通文法の違い(主語・助詞の省略使用等)は、朝鮮よりも孤立した島国日本において、より洗練(純粋化または単純化)された文化を形成したことは否めないであろう。これは、日本の生活文化の特色であり、朝鮮語とは異なる日本語文化の特色(和や縮みの文化)(※注)とすることができる。

 つまり、日韓の文法は類似していても、生活様式の違い(大陸性と島国性)から来る文化の独自性(差異)は、時代の経過とともに日韓それぞれに大きくなる。それは基本語彙(生活に密着した数や身体語など)についての日韓の類似性が、きわめて小さいことにも現れている(安本美典1990)。 しかし渡辺氏による上記の指摘は一面的真理(言語と文化の安易な関連づけへの警鐘)はあるものの、積極的に日韓文化の違いの背景を説明するものではなく、また欧米との比較の重要性を低減するものでもない。

 韓国における「道理と情」による価値観は、ドライな割り切り型で自己主張が強い。それに対し、日本における「和と情」の価値観は、相手思いのウェット型で自己主張が苦手である。その意味で渡辺氏の(引用1)に見られる指摘は当たっている。「主語なし文」のような文法的類似性は、「美学とか美意識」のような「その文化独自の性格を投影する」ものではない。また、(引用2)に主張されているように、日本語と朝韓語の文法上の類似点が、日本文化の特質(内向的和=縮み)を形成したのではなく、自然環境がもたらす生活様式が、文化の様式を創出したのである。この点で大野や金田一の日本語文化の考察に「ゆがんだ自国語論・自国文化論」といわれる面があったことは事実である。
 しかし、「日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシである」というのは正しくない。上記のように、文法(的文化)は民族文化よりも根源的であり、個別の文化を規定すると断定することは困難である。つまり、文法(表現・思考規則)は語彙(言葉)に優先するのである。例をあげれば印欧語は文法だけでなく語彙においても共通起源をもつが、インド、イラン、ヨーロッパの文化は個々に変化し大きく異なっている。言語は文化の基本となるが、印欧語族における諸民族の文化の違いとウラル・アルタイ語族に位置づけられる日本や韓国・朝鮮文化の違いを比較すれば、後者の方が語彙の面からは文化的差異が大きい。にもかかわらず(自覚しているかどうかは定かでないが)、日本語学者が、韓国・朝鮮語よりも欧米語との比較に大きな意味を見出すのは、文法が文化の根源をなす認識規則や価値観(何をどのように考えるか)の根源であるからである。

 われわれの生命言語説の言語規則(文法)においても、伝達するべき対象の確定(主語)とその叙述(述語)が文法の基本だから、主語が省略できるという日本語と韓朝語の共通の文法的特徴は、日本と韓朝の文化の違い(語彙等)よりもはるかに大きな意味をもっている。つまり日・欧の文法上の違いが、日・韓の文化的違いを凌駕している。従って、日本語及び日本文化の特色は、欧米語のように違いの大きいものとの比較によってより明確になるのである。

 文法(的文化)と語彙(的文化)は分離して考えるべきである。文法は、東洋と西洋の文化というより大きな違いの説明が可能であり、語彙は、日本と韓朝の文化というより小さな違いを説明することができる。つまり欧米語との違い(合理主義と非合理主義)を検討することは、東洋的な共通の文化(非合理主義と情緒主義)を見出すことにもなるのである。ここで合理主義とは、認識の対象となる森羅万象を言語的存在と見なすこと、すなわち、認識対象としての非合理的存在(森羅万象)を、言語によって合理化し、その結果を存在そのものと見なすことである。

 日・韓の言語表現にみられる省略や微妙な情緒的表現は、必ずしも非理性的(irrational)ではない、むしろ日本の詩歌(特に俳句や和歌)に見られる省略や情緒的表現は、論理的(logical)ではなくてもきわめて理性的抑制的、つまり非論理的・理性的であり情緒的である。だから日本の「和」や「縮み」の文化は、情緒的かつ理性的であってこそ成立するのである。しかし、同じ省略でも、韓国朝鮮のように論理的・道理的(reasonable)ではあっても、情緒的非理性的なことはあり得るのである。

 「日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、」という条件的要請を、より人間的に深めるならば、朝鮮語を超えて、欧米語の文法や思考様式は、必要不可欠で最適なモノサシである。このモノサシなしで、朝鮮語との比較による日本文化・日本人の特色を測ることを試みても、相互にゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができず、文化的違いや対立を深めるだけで多文化共生の創造的関係を築き永続化することは困難である。自国文化の根源にふれるには、認識の根源となる文法の根源、すなわち「生命言語説」を理解することが必要なのである。

(※注)「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン)によると、「縮み文化」とは、小さいものを神格化したり、有り難がったりする文化。日本人は、トランジスタラジオを発明したり、手のひらサイズのLSI電卓を発明したりとモノを縮める・小さくする技術に優れている。扇子、風呂敷、巻物…等々 、「可愛い」小さくまとまっていて、愛でるような気持。
 内向的な「縮み」志向は、島国の稲作文化から生じた「和」の精神と通じている。稲作農耕は、自然に依存し村落内の融和を必要とするため、現状のありのままを維持し内的結束を重んじる。自然の変転と無常に立ち向かうには、自然に逆らわず自然を自己のうちに取り入れざるを得ない。そのような人間生活と社会集団をふくむ自然(八百万の神々)との融和は、必然的に自然の縮小化(縮み)による内的取り入れを含む。
 日本の右翼的発想(排他的自国中心主義)は、和の精神が縮んだ(矮小化した)ものである。しかしこの縮みは、物事を矮小化することが本旨ではない。俳句や生活工芸品、坪庭や盆栽、茶道や華道等々における自然描写は、人間生活と自然の融合を図り、対象を縮小しながらも、大きなイメージを思い浮かばせるものである。縮みや和の精神は、広大で変転する自然・宇宙を自己のうちに内在化し、自己自身との融和と安心立命を図る契機ともなるのである。
                                       言語論本論へ       Home