政治権力とは、・・・所有権を調整し保全するために死刑、およびそれ以下のあらゆる刑罰をふくむ法律を執行し、外的から国家を防衛するに当たって共同社会の力を使用する権利のことであり、しかもおしなべてこのようなことを公共の福祉のためにのみ行う
ロック『統治論』
国家的秩序は神聖な権利で、他のあらゆる権利の基礎をなしている。それにもかかわらず、この権利は自然から由来するものではなく、従っていくつかの合意にもとづくものである。そこでこの合意とはいかなるものかを知ることが問題となってくる。
ルソー『社会契約論』
自然権とは、生存しているとの理由で人間に属する権利のことなのであって、この種の権利としては、すべての知的権利ないし精神の持つ権利があり、また他人の持つ自然権を侵害しないで、自分自身の慰めと幸福とを求めて個人として行動するすべての権利が挙げられる。市民権とは、社会の一員であるとの理由で人間に属している権利を指す。
トマス・ペイン『人間の権利』
人および市民の権利宣言(フランス人権宣言)
第1条 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会 的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。
第2条 あらゆる政治的団結の目的は、人の、消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。
第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も国民から明示的に発しない権威を行い得ない。
第4条 自由は、他人を害しないすべてのことをな得ることに存する。その結果各人の自 然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同一の権利の共有を確保すること以外の 限界をも たない。これらの限界は、法によってのみ規定することができる。(以下略)
『人権宣言集』
フランス革命の思想家、そして近代思想の開拓者であったルソーは、『社会契約論』において、「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」として、自律した諸個人間の社会契約にもとづく人民主権国家を構想した。しかしこれは前提からして正しくない。人間は、「生まれながらにして自由」ではないしまた、「自由の刑に処せられている」(サルトル『実存主義とは何か』)のでもない。
人間は生物学的に生きることを強いられ、個体死を避けることはできない。生存中も欲求と感情が自由を束縛し、幸福はほとんどの場合努力だけでは実現できない。個人は多様な異なる不平等な環境条件の中でこの世に生まれ、労働によって生存し、結婚によって子孫を残し、わずかの希望も十分に果たせず、やがては死ななければならない。
人間は生まれながらに不自由であり、自然においても社会においても不平等である。
しかし、理性すなわち言語的思考力を持ち知恵ある人間は、この不自由と不平等、不運と不幸を拡大し固定するのではなく、これらを克服しなければならない。人間は自由を拡大し不平等を縮小して、すべての生命や隣人とともに豊かで快適で幸福な生活を送れるように、持てる能力を十分に発揮して助け合いながら生き続けなければならない。
言語と理性と知恵を持つ人間は、与えられ、自ら獲得した精神的・肉体的能力を最大限使って、そのための条件をこの地上に、自然に、社会に創らなければならない。我々知恵ある人間は、それにふさわしい欲望と希望、意志と叡智を持つ限り、地球上にすべての人々にとっての楽園を創ることができる。
我々は、西洋合理主義の中に素晴らしい人類発展の契機を見いだすが、同時に誤った人間観による精神的・物質的欲望肥大化と自己破滅・自然破壊の要素を見いだすことができる。前者の肯定的側面は、科学的知識とその応用技術による産業の発展、それによる人類福祉の向上である。後者の否定的側面は、創造神に由来する地上の生命に対する支配と終末思想による審判と破壊(「ヨハネ黙示録」の世界)である。
社会契約論は、市民革命前の啓蒙思想期に自然法理論として成立した。その考えの基本は、政治国家存立の基盤は自由な諸個人の権利(生命、自由、財産等の自然権)を保証するための社会契約にあるとするものである。その第一人者ホッブスは、「平等から不信が生じ、不信から戦争が生じる」(『リバイアサン』第13章)と述べているが、この戦争状態をなくすために社会契約が結ばれ、絶対王制国家による統治が必要と考える。
周知のようにロックやルソーは、社会契約を市民政府論や人民主権論に発展させた。
社会契約論は、中産市民を主体とする市民革命の理論的支柱となり、また近代議会制民主主義の基本理論ともなり今日に至っている。このように理性的思考の帰結である自然法を根拠として、自律した自由平等の諸個人により社会契約が成立するという観念論的法理念が,経験的事実を超えて自然の法典として永久・不変の法規範とされてきた。
しかしこうした近世啓蒙期の自然法理論は,19世紀の初め,サビニーをはじめとする歴史法学派によってその非歴史性が批判された。理性の演繹による必然的かつ永久的帰結とされるものの中に,実際には当時の思想家たちに意識されていた願望や通俗的臆見が多分に盛り込まれていて,永久・不変のものでないことが明らかにされた。人間は自由平等なものとしてこの世に存在しているのではないのである。
経済学においても、古典派経済学(A.スミス)は、個人主義に立脚し,諸個人がみずからの利益のみに関心をもちそれを追求すれば,かえって社会は調和に導かれ,ひいては富の蓄積が進み、人類の幸福がもたらされるとする自然法による普遍主義を唱えた。しかし、ドイツを中心に起こった国民経済学としての歴史学派は、国民経済を歴史の生成と変化の相のもとに把握しようとする。歴史学派は国民主義に立脚し,経済社会を一つの有機体だと考えて,その生成・発展のありさまを理論面,実証面で明らかにしようとしたのである。
またイギリスの功利主義は,自然権のような先験的普遍的なものは存在しないし、正邪の判断の基準である「最大多数の最大幸福」のために,社会を構成する諸個人の快楽の総計の確保を求め,社会福祉政策の理論的基礎を作った。
その後の資本主義の発展と社会主義の台頭、福祉国家政策など二度の世界大戦の経験を経て、自然法や普遍主義は遠ざけられた。新大陸アメリカでは、単純な自然状態の設定から始まる社会契約説は、人権と民主主義の初歩教材として(『独立宣言』やリンカーンの人民主権演説等のように)活用されたが,先験的な伝統的哲学と決別したプラグマティズムを中心として様々の政治・経済理論と学派が形成され、学問的には過去の理論とされていた。
ところがそのアメリカに、装いを新たにした社会契約に基づく『正義論』が現れたのである。
近代以降に現れた社会主義に類する理論(空想的社会主義からマルクス主義とその修正などにいたるまで)は、資本主義の矛盾(人類全体の財産であるべき科学技術と自然の財産が、一部の人間に独占され、貧富の拡大と社会的対立の温床となったこと)を解決しようという正義の理論であった。しかしマルクスは社会主義を科学にしたと思いこみ、階級闘争による歴史的必然によって従来の伝統的な正義論を切り捨ててしまった。
そこに、正義論を高く掲げて登場したのがロールズであった。彼は「生まれつき恵まれた立場にある人々は、恵まれない人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利益を得ることが許される」という「格差原理」を提唱し社会政策(変革)の基礎理論としようとした。
そこでまず彼の正義論の限界として経済的事例をあげておこう。例えば、金儲けの才能に恵まれたものは、どのようにしてその利益を得たのか。交換過程において不公正な方法で利益を得る才能は正義であるか。そして不正な交換によって得た利益を、分配の過程で恵まれない人々に還元するのは、真実の正義と言いうるであろうか。否である。ビジネスの才能に恵まれたものは、交換の過程に於いて社会正義を発揮すべきである。分配的正義は道徳的正義の十分条件ではない。社会正義は、人間と人間の生の交換関係において発揮されてこそ「売り手良し、買い手良し、世間良し」の、いわゆる「三方良し」が、交換的正義として成立するのである。
ここでロールズを取り上げるのは次の二つの点からである。一つは、社会的公正ないし正義とは何かを考え、それを「生来の義務」として実践することの必要性を強調したことである。
二つには、ロールズが『正義論』において、カントの道徳論の限界を越えられなかったその理由を解明するためである。彼は、後の著作において批判に答える形で軌道修正をして、功利主義との妥協をはかっているが、根本においてカントの道徳法則を実現しようとしている。
正義は、カント、ロールズが考えるように人間理性を拘束する「所与の法則」(この法則を認識するのが理性の自由である)としてあるのではない。正義は、社会的利害の調整において、社会的公平さがいかなるものであるかを創造的に思考・判断し、その結果を力(権力、武力、多数決、説得等)によって実現させるところにある。
カントやロールズの「道徳法則(普遍的立法)」や「格差原理」を、合理的理性によって想定することは、「理性的存在者は、目的自体として存在する」(『道徳形而上学原論』)ことを前提としており、批判を許さない盤石の前提であるかのようである。
しかし人間とその社会は、理性という人間の思考力を生み出した生物学的前提をもっている。人間の思考は、言語的に創造されるものであり、感性的・経験的な過程を経て形成されるものである。また、社会の利害や組織は人間の思考力(理性)によって一律に規定されるものでもない。なによりもカントのように「理性的存在者」が規定されれば、それ以外のものもカントによって他律的に規定されねばならず、それは現実的には他律的共生にならざるを得ない。つまり、カントの「理性的存在者」は、人間性の真実(とりあえず感性的・経験的であること)に基づかない観念的に考えられた存在者であるために、自律的・自覚的な「公正としての正義」の成立する社会構築(社会契約)にはなり得ないのである。
今日の政治哲学が、自然法に基づく社会契約(マルクス主義を含め社会主義もその影響を受けている)の理論の影響を強く受けていることはいうまでもない。しかし社会契約論に限界があることも事実である。われわれは主体性を失わせる西洋近代の社会契約の限界を克服しなければならない。その根本には自然権、天賦人権等の単純な基本的人権論がある。これは「正義論」としてもちろん正しい。しかし人権はこれを正義たらしめるために人間としての主体的な義務、責任、使命と結合されなければならない。人間の正義は、天や神が与えたものでなく、人間自らが不断に創造していくものであるという自覚が、新しい社会契約として推進されなければならないのである。
(基本的人権を生来の自然権とみなす旧来の西洋的な社会契約論に対して、人間の歴史的な創造的観念とみなす新しい社会契約の観念は、諸個人や政府・国家の在り方を変革するにとどまらない。経済関係の多くは契約関係であり、資本主義の在り方を根本から変えることになる。これら経済と政治についての詳論は後日に行う予定である。)