人間存在研究

人間とは何か―その本質は言葉である

――言葉、アイデア、イデオロギーが世界を変える――

言語・観念・思想の力で人間と社会の変革をめざそう東西思想を超えて人類の哲学を創造しよう!

by the Life-wordsTheory    to our Reserch for HUMANBEING

Human Being Institute
人間存在研究所

10.社会契約論と資本主義

政治権力とは、・・・所有権を調整し保全するために死刑、およびそれ以下のあらゆる刑罰をふくむ法律を執行し、外的から国家を防衛するに当たって共同社会の力を使用する権利のことであり、しかもおしなべてこのようなことを公共の福祉のためにのみ行う

ロック『統治論』

国家的秩序は神聖な権利で、他のあらゆる権利の基礎をなしている。それにもかかわらず、この権利は自然から由来するものではなく、従っていくつかの合意にもとづくものである。そこでこの合意とはいかなるものかを知ることが問題となってくる。

ルソー『社会契約論』

自然権とは、生存しているとの理由で人間に属する権利のことなのであって、この種の権利としては、すべての知的権利ないし精神の持つ権利があり、また他人の持つ自然権を侵害しないで、自分自身の慰めと幸福とを求めて個人として行動するすべての権利が挙げられる。市民権とは、社会の一員であるとの理由で人間に属している権利を指す。

トマス・ペイン『人間の権利』

人および市民の権利宣言(フランス人権宣言)

第1条 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会 的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。

第2条 あらゆる政治的団結の目的は、人の、消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。

第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も国民から明示的に発しない権威を行い得ない。

第4条 自由は、他人を害しないすべてのことをな得ることに存する。その結果各人の自 然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同一の権利の共有を確保すること以外の 限界をも たない。これらの限界は、法によってのみ規定することができる。(以下略)

『人権宣言集』

 フランス革命の思想家、そして近代思想の開拓者であったルソーは、『社会契約論』において、「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」として、自律した諸個人間の社会契約にもとづく人民主権国家を構想した。しかしこれは前提からして正しくない。人間は、「生まれながらにして自由」ではないしまた、「自由の刑に処せられている」(サルトル『実存主義とは何か』)のでもない。

 人間は生物学的に生きることを強いられ、個体死を避けることはできない。生存中も欲求と感情が自由を束縛し、幸福はほとんどの場合努力だけでは実現できない。個人は多様な異なる不平等な環境条件の中でこの世に生まれ、労働によって生存し、結婚によって子孫を残し、わずかの希望も十分に果たせず、やがては死ななければならない。

 人間は生まれながらに不自由であり、自然においても社会においても不平等である。

 しかし、理性すなわち言語的思考力を持ち知恵ある人間は、この不自由と不平等、不運と不幸を拡大し固定するのではなく、これらを克服しなければならない。人間は自由を拡大し不平等を縮小して、すべての生命や隣人とともに豊かで快適で幸福な生活を送れるように、持てる能力を十分に発揮して助け合いながら生き続けなければならない。

 言語と理性と知恵を持つ人間は、与えられ、自ら獲得した精神的・肉体的能力を最大限使って、そのための条件をこの地上に、自然に、社会に創らなければならない。我々知恵ある人間は、それにふさわしい欲望と希望、意志と叡智を持つ限り、地球上にすべての人々にとっての楽園を創ることができる。

 我々は、西洋合理主義の中に素晴らしい人類発展の契機を見いだすが、同時に誤った人間観による精神的・物質的欲望肥大化と自己破滅・自然破壊の要素を見いだすことができる。前者の肯定的側面は、科学的知識とその応用技術による産業の発展、それによる人類福祉の向上である。後者の否定的側面は、創造神に由来する地上の生命に対する支配と終末思想による審判と破壊(「ヨハネ黙示録」の世界)である。

 社会契約論は、市民革命前の啓蒙思想期に自然法理論として成立した。その考えの基本は、政治国家存立の基盤は自由な諸個人の権利(生命、自由、財産等の自然権)を保証するための社会契約にあるとするものである。その第一人者ホッブスは、「平等から不信が生じ、不信から戦争が生じる」(『リバイアサン』第13章)と述べているが、この戦争状態をなくすために社会契約が結ばれ、絶対王制国家による統治が必要と考える。
周知のようにロックやルソーは、社会契約を市民政府論や人民主権論に発展させた。
 社会契約論は、中産市民を主体とする市民革命の理論的支柱となり、また近代議会制民主主義の基本理論ともなり今日に至っている。このように理性的思考の帰結である自然法を根拠として、自律した自由平等の諸個人により社会契約が成立するという観念論的法理念が,経験的事実を超えて自然の法典として永久・不変の法規範とされてきた。

 しかしこうした近世啓蒙期の自然法理論は,19世紀の初め,サビニーをはじめとする歴史法学派によってその非歴史性が批判された。理性の演繹による必然的かつ永久的帰結とされるものの中に,実際には当時の思想家たちに意識されていた願望や通俗的臆見が多分に盛り込まれていて,永久・不変のものでないことが明らかにされた。人間は自由平等なものとしてこの世に存在しているのではないのである。

 経済学においても、古典派経済学(A.スミス)は、個人主義に立脚し,諸個人がみずからの利益のみに関心をもちそれを追求すれば,かえって社会は調和に導かれ,ひいては富の蓄積が進み、人類の幸福がもたらされるとする自然法による普遍主義を唱えた。しかし、ドイツを中心に起こった国民経済学としての歴史学派は、国民経済を歴史の生成と変化の相のもとに把握しようとする。歴史学派は国民主義に立脚し,経済社会を一つの有機体だと考えて,その生成・発展のありさまを理論面,実証面で明らかにしようとしたのである。
またイギリスの功利主義は,自然権のような先験的普遍的なものは存在しないし、正邪の判断の基準である「最大多数の最大幸福」のために,社会を構成する諸個人の快楽の総計の確保を求め,社会福祉政策の理論的基礎を作った。

 その後の資本主義の発展と社会主義の台頭、福祉国家政策など二度の世界大戦の経験を経て、自然法や普遍主義は遠ざけられた。新大陸アメリカでは、単純な自然状態の設定から始まる社会契約説は、人権と民主主義の初歩教材として(『独立宣言』やリンカーンの人民主権演説等のように)活用されたが,先験的な伝統的哲学と決別したプラグマティズムを中心として様々の政治・経済理論と学派が形成され、学問的には過去の理論とされていた。

 ところがそのアメリカに、装いを新たにした社会契約に基づく『正義論』が現れたのである。
近代以降に現れた社会主義に類する理論(空想的社会主義からマルクス主義とその修正などにいたるまで)は、資本主義の矛盾(人類全体の財産であるべき科学技術と自然の財産が、一部の人間に独占され、貧富の拡大と社会的対立の温床となったこと)を解決しようという正義の理論であった。しかしマルクスは社会主義を科学にしたと思いこみ、階級闘争による歴史的必然によって従来の伝統的な正義論を切り捨ててしまった。

 そこに、正義論を高く掲げて登場したのがロールズであった。彼は生まれつき恵まれた立場にある人々は、恵まれない人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利益を得ることが許される」という「格差原理」を提唱し社会政策(変革)の基礎理論としようとした。
 そこでまず彼の正義論の限界として経済的事例をあげておこう。例えば、金儲けの才能に恵まれたものは、どのようにしてその利益を得たのか。交換過程において不公正な方法で利益を得る才能は正義であるか。そして不正な交換によって得た利益を、分配の過程で恵まれない人々に還元するのは、真実の正義と言いうるであろうか。否である。ビジネスの才能に恵まれたものは、交換の過程に於いて社会正義を発揮すべきである。分配的正義は道徳的正義の十分条件ではない。社会正義は、人間と人間の生の交換関係において発揮されてこそ「売り手良し、買い手良し、世間良し」の、いわゆる「三方良し」が、交換的正義として成立するのである。

 ここでロールズを取り上げるのは次の二つの点からである。一つは、社会的公正ないし正義とは何かを考え、それを「生来の義務」として実践することの必要性を強調したことである。
 二つには、ロールズが『正義論』において、カントの道徳論の限界を越えられなかったその理由を解明するためである。彼は、後の著作において批判に答える形で軌道修正をして、功利主義との妥協をはかっているが、根本においてカントの道徳法則を実現しようとしている。
正義は、カント、ロールズが考えるように人間理性を拘束する「所与の法則」(この法則を認識するのが理性の自由である)としてあるのではない。正義は、社会的利害の調整において、社会的公平さがいかなるものであるかを創造的に思考・判断し、その結果を力(権力、武力、多数決、説得等)によって実現させるところにある。
カントやロールズの「道徳法則(普遍的立法)」や「格差原理」を、合理的理性によって想定することは、「理性的存在者は、目的自体として存在する」(『道徳形而上学原論』)ことを前提としており、批判を許さない盤石の前提であるかのようである。

 しかし人間とその社会は、理性という人間の思考力を生み出した生物学的前提をもっている。人間の思考は、言語的に創造されるものであり、感性的・経験的な過程を経て形成されるものである。また、社会の利害や組織は人間の思考力(理性)によって一律に規定されるものでもない。なによりもカントのように「理性的存在者」が規定されれば、それ以外のものもカントによって他律的に規定されねばならず、それは現実的には他律的共生にならざるを得ない。つまり、カントの「理性的存在者」は、人間性の真実(とりあえず感性的・経験的であること)に基づかない観念的に考えられた存在者であるために、自律的・自覚的な「公正としての正義」の成立する社会構築(社会契約)にはなり得ないのである。

 今日の政治哲学が、自然法に基づく社会契約(マルクス主義を含め社会主義もその影響を受けている)の理論の影響を強く受けていることはいうまでもない。しかし社会契約論に限界があることも事実である。われわれは主体性を失わせる西洋近代の社会契約の限界を克服しなければならない。その根本には自然権、天賦人権等の単純な基本的人権論がある。これは「正義論」としてもちろん正しい。しかし人権はこれを正義たらしめるために人間としての主体的な義務、責任、使命と結合されなければならない。人間の正義は、天や神が与えたものでなく、人間自らが不断に創造していくものであるという自覚が、新しい社会契約として推進されなければならないのである。

(基本的人権を生来の自然権とみなす旧来の西洋的な社会契約論に対して、人間の歴史的な創造的観念とみなす新しい社会契約の観念は、諸個人や政府・国家の在り方を変革するにとどまらない。経済関係の多くは契約関係であり、資本主義の在り方を根本から変えることになる。これら経済と政治についての詳論は後日に行う予定である。)


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何が問題か

◎自由と福祉国家論について

 「政府の介入や干渉のいっそうの増大を、という大きな運動は、何か悪いことをしてやろうという、邪悪な意図を持った人々によって、もたらされたでは決してありません。政府による統制活動が、大幅に増大してきたのは、善意に満ち満ちた人々が、社会のために善いことをしようとした結果、生み出されてきたのです。・・・・・・・(しかし問題は)、他人の資金で、社会のために善いことをしようとする、最初の道のりは楽なものです。そこには、一方において、税金を支払ってくれる多数の人々がおり、他方においては、社会福祉政策によって、善いことをする対象となる人々の数は、まだ少数だからです。けれども、この道を進んでいくにつれて、状態は一方的に困難なものになって行きます。社会福祉政策による利益を受ける人々の数が、増大して行くにつれて、人口の50%の人々を助けるために、残りの50%に税金を課さなくてはならなくなるでしょう。それどころか、社会福祉政策の恩恵を、人口の全員にもたらすために、全員に重税を課さなくてはならなくなるでしょう。」(フリードマン,M.『フリードマンの思想─危機に立つ自由』西山千明 編訳 東京新聞出版局 p185)

★→複雑に発展する経済社会の利害の調整を、政治が行おうとすれば、政府権力や官僚機構とともに国家財政(税金)が増大し、社会的浪費と財政破綻が起こるのは一般的には当然のことである。財政を縮小しようとして、弱肉強食と優勝劣敗の市場原理主義にまかせようとすれば、道徳の退廃と拝金主義、社会的格差と矛盾を増大させ、大衆の不満が募って、政治権力の介入が必要となる。そして特殊利益保護のための財政の出動と自由競争の規制が行われることになり、フリードマンの恐れる事態となる。しかし、大衆迎合の民主主義システムは、基本的に他人の金すなわち国家財政に依存しようとするから、増税が必要となる。好景気によって経済成長があれば税収は増大するが、成長が鈍化して増税が社会的合意を得られなければ再び市場原理主義が台頭し、市場原理主義と小さな政府が求められる。この循環ないし変動を制御可能なものにするためには、消費の拡大や技術革新(産業構造の転換)による適度な経済成長が必要である。

 しかし、世界経済は、資源エネルギー問題や環境問題、南北問題など国家利害の対立を含みながら成長の限界を迎えている。アメリカ一国主義的繁栄を前提としたフリードマンの自由の概念はもはや神話となりつつある。ルソーも言うように人間の根源的な自由の感情は、第一義的に配慮されなければならない。自由こそは幸福や創造的精神の原動力である。しかし、今や何を選択するかの自由が問われている。自由は利己心と表裏一体の関係(私の自由勝手です!)にあるために、何を選択するかの知識と知恵(判断力)の質が問われなければならない。結論的には、英米の功利主義的人間理解に基づく福祉国家論では、人類の直面するグローバルな政治経済的困難を解決できない。自由と民主主義、基本的人権の保障を前提として、社会的自覚と主体的な社会参加をめざし、自助と共助を原則とし、公助を生存の権利と義務(社会正義)と考える社会契約を不断に確認できる社会システムの実現(公助の道徳性の再検討)以外にはありえない。

◎社会契約論の問題点

「人間は本来、万人が自由平等独立であるから、何人も、自己の同意なしにこの状態を離れて他人の政治的権力に服従させられることはない。人が自分の自然の自由を棄て市民社会の覊伴のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである。その目的は、彼らの所有権の享有を確保し、かつ協同体に属さない者による侵害に対してより強い安全保障を確立し、彼らに安全、安楽かつ平和な生活を相互の間で得させることにある。」(ロック『市民政府論』鵜飼信成 訳 岩波書店 p100)

★→人間は本来、自由平等独立ではなく、相互の依存と制約と利害のもとにある。従って、協同体への同意は、無所有者にとっては自由な契約というより、貧困への自由にすぎなかった。たしかに無所有者も、独立した個人として、自己の同意なしに他人の政治権力に服従させられてはいけない。しかし「同意・契約」は、必ずしも市民的な独立と自由を意味しない。無所有者すなわち労働力のみの所有者(小作人、賃金労働者)は、生きるために、所有者(地主、資本家)の支配下にはいることに「同意」しなければならない。それは安全、安楽かつ平和な生活とは限らず、過酷な労働と低賃金、失業への不安に脅かされる生活であった。
 経済的交換関係における「同意・契約」は、公平・対等とは限らず、それゆえ同意による交換の成立を、等価交換であるとみなすことはできない。交換における不公正を認識・抑制し、相互に扶助しあえる協同体を創ることが新しい社会契約の条件となる。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見いだすこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。」(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳 岩波書店 p29)

「各個人は、人間としては、一つの特殊意志を持ち、それは彼が市民としてもっている一般意志に反する、あるいは、それと異なるものである。彼の特殊な利益は、公共の利益とは全くちがったふうに彼に話しかけることもある。・・・・・・従って、社会契約を空虚な法規としないためには、この契約は、何びとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる。」(ルソー『社会契約論』 p35)

★→「一般意志」は、国家権力を確立する憲法原則であるが、ルソーが考えるようには明確ではなく、むしろ多くの市民は、与えられた国家権力のもとで特殊利益中心に生活している。市民は自明のものとして共通の「一般意志」を持っているのではなく、例えば日本国憲法の三原則は知っていても、その意義まで自明のものであるわけではない。「一般意志」の内容は、イデオロギーや宗教などによって異なり、ルソーの一般意志自体が一つのイデオロギーである。社会関係における利害(特殊意志)は、複雑な商品交換社会にあっては、共同の意志や力ですべて調整し正義を実現できるとは限らない。社会は人間(個人・市民)と人間の関係があって成立しており、個人がその社会全体(共同利益)を直接に認識できるものではない。したがって「一般意志」の内容をどのように規定し、構成員がそれを了解し、どのように社会契約に参加するかが問題となる。

 「一般意志」(共同利益・共同の幸福)は、与えられたものとして自明なのではなく、人間か創造し共通に了解していくものである。その了解がなければ、いかに憲法や国家権力の正当性が主張されても、構成員の間に不信感が広まり、法律の規制を破って恥じない不道徳が広がることになる。特殊利益が一般意志(例えば憲法三原則)の仮面をかむり、私的利権や詐欺・偽装が横行し、競争による不正と格差が拡大しすることによって社会秩序が混乱すると、「各構成員の身体と財産」を守ることさえ多大のエネルギーを必要とするようになる。
殺人や暴力は、現状では国家や自己の利益のために合法化(合理化・正当化)される場合(戦争・犯罪・テロ等)があるが、人類社会としての了解(社会的自覚)のもとに一般意志として非合法化すれば、これらの不正を減少させることも可能である。また財産を共同の力で守ることについては、交換的正義のもとに、正当な所得かどうかが吟味されねばならない。

 いずれにせよ、社会契約は、自明のもの、既定のものなのではなく、不断に検証し、社会的責任として自覚されなければならないのであって、その自覚の過程の必要性こそがまず「一般意志」として了解されねばならないのである。つまり、一般意志の必要条件として、「社会的自覚」を不断に育成し、確認する社会契約の過程が、一般意志自体の内容として求められるのである。

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資本主義擁護論・市場原理主義の批判

新古典派経済学──ワルラス・マーシャル的限界効用理論の誤り

<商品の交換価値(価格)の決定>

① 商品の交換は、市場における商品所有者間の暗黙または公然の契約(合意)によって成立する。

② 商品所有者は、交換において相互の商品の価値と損益を比較考量して、交換するか否かを決める。

③ 相互の商品の比較考量は、供給側は自己商品の価値を高く評価し、需要側は相手商品の価値を低くみようとするが、自己の商品の生産・獲得に要した費用(労働量・原材料等の資本)、商品の効用・満足度、商品所有量(必要不必要度・需要供給量)、損益度(利益率の増加:安く買い、安く作り、高く売る)などを基準としてなされる。

④ 商品交換の成立により、相互の商品の価値が相対的に評価され、交換価値が交換当事者間で定まる。ここに貨幣商品が介在すると商品価格として数量的に表現される。この取引成立による交換価値(価格)は、他の多くの交換の判断基準となり、社会的平均的市場価格(均衡価格・相場)を成立させる。

⑤ 平均的市場価格は、商品と商品所有者(生産者)をめぐる条件──生産技術の革新、新商品の発明、宣伝や流行、大量生産、価格競争の激化、需給量等々──によって、不断に変動するもので、完全自由競争による「均衡」状態とは、西洋的な理念重視の観念と現状を肯定しようとする立場の経済学者の願望の表現にほかならない。

⑥ 交換価値(価格)の決定は、完全不完全競争にかかわらず商品所有者(需要・供給の主体)の社会的力関係によって左右され、需給量はその力関係における一つの重要な要因にすぎない。弱い立場の労働者・消費者は、自由な選択権は持つけれども、強い立場の企業(資本家経営者)の価格支配力に個々人での対抗は困難である(独占価格)。ここに、多様な民主政治による多様な政策的市場介入の余地が生ずる(反独占政策・福祉政策)。

<限界効用理論の誤り>

① 需要量・供給量と価格の関数(需給曲線、需給量と価格の関係)は、交換成立すなわち価格決定の一条件を示すにすぎない。交換の成立は、商品に含まれるとされる労働量や効用だけでなく、交換主体(需給者)の利益への欲望や意図、また相互の力関係を除いてありえない。需要者は、単に安価な商品を求めるばかりでなく、その質や独自性も求める。また供給者は多量の商品を高価に売るために宣伝や供給調整、独占や寡占、特許制度を利用する。さらに市場均衡の前提となる完全な競争というものは、現実には今までなかったし、今後もありえない。新古典派経済学者の経済分析は、資本主義市場では、「市場均衡」と「自由競争」の名のもとに、現実の不平等と不公正と不道徳を隠蔽するものになっている。

② 完全自由競争を前提とした分析手法は、商品所有者の平等と自立、理性的存在を前提としている。しかし、現実における利潤追求の過酷な競争は、企業や家計において不平等と支配・依存の関係を再生産し、動物的な無意識的情緒的反応や不安を駆りたて、人間を単なる労務提供者、与えられた商品消費の享楽者にしようとしている。効用とは単に直接的な消費による欲望の充足だけでなく、利潤を拡大する欲望、貨幣による人間支配の欲望(効用)をも含むものである。

③ 資本主義市場では、企業(資本家・商品供給者)の利潤原理が優先され、ワルラスの考える商品の希少性、すなわち「効用と量の制限」が、商品の価値を決める、という現実にはなっていない。供給者としての企業は、効用を商品化するばかりではなく、利潤のために希少性を利用し、需要者である消費者を供給者側の価格設定の独占的支配下におこうとする。また需要者としての企業は、労働力商品(人間)の効用を高め安価なものとするため競争を操作し、雇用水準を低下させ(量の制限)て労働力の価値の低減を図ろうとする。そのため消費者は不必要で有害な商品を押しつけられ(娯楽商品に多い)、労働者は競争のもとに低賃金と孤立化を強いられる。ワルラス市場における限界効用理論は、数学を用いた純粋科学理論の体裁を採りながら、現実においては「強者の支配による市場均衡」を隠蔽・奨励・擁護・願望しているのである。

◎商品価値は自然的事実?!よく考えよう

「小麦1ヘクトリットルは24フランの価値がある。まず第一に、この事実は自然的事実の性質をもっていることを注意しよう。銀であらわした小麦のこの価値すなわちこの小麦の価格は、売り手の意志から生じたものででもなく、買い手の意志から生じたものでもなく、またこの二人の意志の合致から生じたものでもない。売り手はもっと高く売りたいのであるがそうすることができない。なぜなら、小麦はこれ以上の価値がないからであり、また売り手がこの価格で売ることを欲しなければ、買い手はこの価格で売ろうとしている他の幾人かの売り手を見いだし得るからである。」(レオン・ワルラス『純粋経済学要論』久武雅夫訳 岩波書店 p36 下線は引用者による)

★→ ワルラスの主張には、基本的な事実誤認がある。小麦1HLは、24フランの価値があるというのは自然的な事実ではなく、社会的な、それゆえに一時的または平均的な事実である。ワルラスが「自然的」というのは、自然科学的というのを含意している。「24フランの価値がある」というのは、交換価値(価格)の変動性を留保して、まず理念的な均衡価格の存在を強調したいがための一方的な思い込みである。「小麦はこれ以上の価値がないから」24フランなのではなく、需給関係の一時的な結果にすぎない。そのような結果を、社会的定在とみなしたいのはわかるが、それは労働価値説と同じような思い込みにすぎない。しかもワルラスも認めるように、買い手も売り手も個々には「24フラン」が適正な均衡価格とみなしているとは限らないから、変動こそが自然的事実と言えるのである。ワルラスのいう「他の幾人かの売り手を見いだし得る」という可能性もまた「ワルラス(限定・純粋)市場」における思い込みにすぎない。商品価格は基本的に市場における従属変数であり、無数の社会的交換の結果なのである。結果は次の交換の価値判断の材料にはなるが、独立変数ではありえない。重要なのは需給量でも結果としての価格でもなく、商品を所有し交換の主体となる人間の価値判断(どのような効用を意図しているか)なのである。儲けるために売ろうとする商品には、様々なバイアス(不正、独占、偽装等)がかかって取引価格が決定する。

◎完全競争?

「我々は初めから終わりまで完全競争の仮定の下に進むであろう。すなわち、売り手が自分の行う販売によって価格に影響の及ぶことを打算することから起こってくるような、供給への影響をほとんどつねに無視するであろう。(需要についても同様である。)事実においては、供給および需要の多くはおそらくある程度までこのような打算によって影響されている。否、それらは著しい程度にまで影響されているのかもしれない。けれども最も単純な問題においての他は、この影響に考慮を払うことは非常に困難である。だから、不完全競争にヨリ多くの注意を払ったならば本書の分析は確かに改善されたのであろうが、わたくしとしては、本書の比較的重要な成果がこの省略によってさほど傷つけられるとは思わない。が、それは明らかに時機を得て吟味される必要のある問題である。」(J.R.ヒックス『価値と資本』安井・熊谷 訳 岩波書店P39)

★→ヒックスは正直な経済学者である。新古典派経済学の「完全競争の仮定」に欠陥(不都合)があることをよく知っていた。現象の単純化は合理的精神の一つの条件ではある。しかし、不都合があることを洞察している場合でも、自己の社会的階級的立場や問題意識の欠如から来る偏見によって、真実を見抜くことは困難である場合が多いものである。完全競争なるものは、これまでなかったし、現在もないし、これからもないであろう。マルクスの「等価交換」と同様に、「完全競争」もまた現実を隠蔽する有害な神話(虚構)にすぎない。

◎すべての富は望ましい?・・・富(財─goods)はgoodとは限らない

「すべての富は望ましいものからなっている。換言すれば人間の欲求を直接間接に満たすものからなっている。しかし望ましいものがすべて富に算えられるわけではない。たとえば友情は福祉の重要な要素であるが、富には算えられない、・・・・・。望ましいすべてのもの、人間の欲求を満たすすべてのを表現する通常に使用される短い言葉がないために、財 goods という言葉を用いてよいであろう。」(マーシャル『経済学原理』永沢 訳 第1分冊p76)

★→「すべての富は望ましいものからなっている。」というのは吟味を要する表現である。たとえば武器は自己を防衛し敵を倒す富であるが、人を殺傷し富を破壊する富でもある。これを望ましいとみなすのは強者の論理である。ある人にとっての望ましい富(武器,薬物等)は、他の人にとっては忌避すべき富であり、ある時代の望ましい富(PCB,アスベスト等)は、他の時代には廃棄すべき富である。富はその使用の仕方や有害性によって good にもなれば bad にもなる。人間の欲求を肯定的にのみ捉えるのは功利主義の伝統であるが、同時に近代における経済学の伝統でもある。

◎ 価値は何に支配されるか?・・・問題からの逃避

「価値は生産費によって支配されるか効用によって支配されるかを問うことは、紙を切るのが鋏の上刃であるか下刃であるかを問うのと、同じ程度の合理性しか持たないといってよいかも知れない。」(マーシャル『経済学原理』永沢 訳 第3分冊p37)

★→この有名なフレーズは、彼の理論を正当化するのによく用いられてきた。しか、しこれは交換価値の本質を隠蔽するのに役立っている。なぜなら生産や効用を前面に押し出し、古典派と新古典派経済学の統一という外見を作ることによって、交換における供給者の利潤最大化の意図や交換の成立(価値決定)における社会的力関係(不公正な競争関係)を見抜くことを排除しようとしているからである。このことはとりわけ近代化された営利至上の企業が、大量生産によって大量消費(大量需要)を必要とする場合に顕著になっている。このような企業は、宣伝や広告を用いることによって需要者の効用(欲望・生活)をも支配しようとするのである。さらに労働力商品の価値については、生産費(賃金)を切り下げ、労働力の効用を高める(労働強化)ことによって労働者(人間)支配を進めようとするのである。つまり資本主義経済の本質(すべてではないが)は、価値(労働力の価値を含む)が企業の利益至上主義によって支配(創造)されることであり、新古典派経済学は、その本質を隠蔽することになるのである。

新自由主義──ハイエクの「社会的自覚なき自由」

◎不平等が人類の進歩の条件!?

「少数者によって享受され、大衆が夢にも見なかった贅沢または浪費とさえ今日思われるかも知れないものは、最終的には多数の人々が利用できる生活様式の実験のための出費である。試行され、後の発展するものの範囲、全ての人に利用可能になる経験の蓄積は、現時点の利益の不平等な分配によって大幅に拡大する。つまり、最初の段階に長い時間を要し、その後に多数がそれから利益が得ることができるならば、前進の割合が大いに増加するのである。・・・・・・今日の貧しいものでさえ自分たちの相対的な物質的幸福を過去の不平等の結果に負っているのである。」(ハイエク『自由の条件Ⅰ自由の価値』気賀、古賀 訳 春秋社 p66)

★→ハイエクは、少数者または収奪者(強者)の富の独占と永遠の貧富の差を、自由の名によって肯定し、人類の進歩と発展の必要条件と考える。たしかに、人間の福祉にとって豊かな富は必要不可欠であり、自由な競争は進歩と発展の活力を生み出した。そして、その利益はまずは少数者の独占するところとなり、多数者の民主的な活動によって広く分配されることになった。

 しかし、「現時点の利益の不平等な分配」は、過去においては不平等・不等価で一方的な収奪であったし、今日においても多数者には労働強化や詐欺的な商品売買などによって、不当な利益が少数者に集積している。さらに、大衆化した贅沢や浪費は、不道徳と不正義と社会的腐敗と地球環境の破壊につながる。ハイエクの論理によれば、少数者はいつまでも贅沢を享受し、貧しいものは未来においても貧しいことが、人類の発展と前進に必要なのである。彼は社会進化の非合理性を合理化し、理性的論理によって社会的な貧困・抑圧・腐敗を温存しようとする。これはハイエク的反合理主義哲学の論理矛盾であり、人間理性の構成的可能性に対する無知であり、その理性(思考力)による人間の肯定的・創造的な実践に対する挑戦である。

 今日では、地球的規模で起こる環境破壊と地球温暖化に緊急に対応することに加えて、資源エネルギー問題や成長の限界、南北問題に代表される地球規模の格差、そしてそれらの問題から利害や権益の対立と戦争や混乱が予想される。もはや、人類は、ハイエクの言う自生的秩序論や合理主義批判では解決できない深刻な問題に直面しているのである。アル・ゴア氏の例えを借りるなら、ハイエクの理論は「ゆでかえる」のように目先に危機が迫らないと自己のおかれた状況がつかめないであろう。そして、気づかないかも知れないが、気づいたときには最早手遅れなのである。

◎社会正義と強欲

「『社会的正義』という福音は、はるかに下劣な心情を目ざしている場合が一層多い。そうした心情は、ジョン・スチュアート・ミルが『すべての熱情の中で最も邪悪で反社会的なもの』とよんだ自分より暮らし向きの良い人々に対する憎悪または単なる羨望であり、他者が基本的ニーズすら満たされていない一方で、ある人々が富を享受していることを『スキャンダル』として表明する大きな富に対する敵意であり、正義を処理すべき何ものをももっていないものを正義の名の下に偽装することである。少なくとも、より多くのものを受けるに値するある人々がその富の享受にあずかることを期待するからではなく、富者の存在を人の道に外れたものとみなすが故に、富者を略奪することを願う人は、全て、彼らの要求にいかなる道徳的正当性をも求めることができないばかりか、全く不合理な熱情にひたっているのであり、事実、彼らが強欲な本能に訴えかける当の人々を害しているのである。」(ハイエク『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』篠塚 訳 春秋社 p138)

★→この引用文において、ハイエクがマルクスなどの社会主義者に対し、どれほど強い敵意を抱いていたかがわかる。しかし、貧富の格差是正を求める社会的正義は、ギリシアの昔以来、ソクラテス・プラトンの素朴な見解や、経験主義的手法を用いて中庸を求めたアリストテレスの「倫理学」や「政治学」において十分に理性的に公正に吟味されてきた。ハイエクの言うような、富者に対する「下劣な心情」は虐げられた一部の人々や権力者の心情であって、ミルですら社会主義には好意的な姿勢を示している。

 人間理性に対する懐疑や不信は、未来への希望を喪失させる。人間の人間たるゆえんは、人間理性を信頼し人間理性の限界性を認識しつつ(そのためには言語理解と西洋的思考様式の限界性の認識を前提とするが)、過去と現在の科学的分析に基づいて、望ましい未来を構築することである。ハイエクがその努力を怠り(または放棄し)、市場原理主義に依存してしまったことは知的敗北といわざるを得ない。 たしかに科学的社会主義と自称した人々に、科学と知識に対する理解と謙虚さがなく、決定論と下劣な熱情を鼓舞して多くの犠牲を出したことはたしかである。しかし人間の社会的自覚や利他心、福祉や公共の精神までも排除する自由競争万能の市場主義は、地球環境の保全という人類的課題を解決するためには極めて不都合な理論である。人類の持続的生存のためには、利己的営利追求を万能と考えるようなビジネスモデルを克服する(利己心という人間本性は克服できないが)新しい社会経済政治的モデルが必要とされているのである。

◎才能を発揮できる機会は公正か

「自由社会に対してむけられるもっとも重大な非難、もっとも厳しい怨恨の源はおそらく、自由社会において誰も人の才能の適切な用途を知る義務を負わず、誰もその特別な天賦の才能を用いる機会にたいする請求権を持たないこと、かれ自身がそのような機会を見つけなければ、その才能は浪費されるように思われることにある。・・・・・/有用性の範囲、適切な仕事を自ら見つけ出さなければならないということは、自由社会がわれわれに課するもっとも困難な規律である。けれどもそれは自由と切り離しがたいものである。・・・・・自由社会の本質は、人の価値や報酬が抽象的な能力に依存するのではなく、対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずることに依存しているところにある。そして自由の主要な目標は、一個人が獲得できる知識の最大限の利用を保証する機会と誘因の両方を提供することである。」(ハイエク『自由の条件Ⅰ自由の価値』気賀、古賀 訳 春秋社 p115)

★→個人の才能を育成・開花させ、能力適性に見合う適切な職業を就くことは、生涯の良き伴侶を見いだすのと同様、人生にとって最大の選択的課題である。これは自由社会に限らず、社会主義社会においても同様である。しかし、ハイエクのいう自由社会(自由競争・市場原理の社会)では、経済的に恵まれない多数者にとっては、個人の能力の育成(子育てから職業教育にいたるまで)は生まれる前から競争原理にさらされるだけで十分な教育の機会を得られないのが通常である。個人の成長の意欲に反して教育機会を奪われ、自己の能力を発揮できずに転職し挫折する若者があまりにも多いのが自由社会の現実である。自由社会は、少数の勝ち組(勝者)を作って多くの負け組(落伍者)を産みだし、格差を作ってそれを維持していこうとする社会であるから、多少の栄枯盛衰(勝者と敗者の交代)はあってもまた公正な競争をめざそうとしても限界がある。格差社会では公正な競争の前提(出発点)となる教育機会の均等は、義務教育制度の下である程度は確保されるが、家庭教育の面での経済的余裕のなさは格差を助長させろ一因となっている。また、大企業における組織的労働への競争的評価の導入は、協働に必要な表面的従順性・協調性・積極性と内面的不信・不安・敵愾心に満たされ、ストレスによるうつ病などの精神疾患や心身病、家庭の崩壊状況を生じさせる要因となっている。

 また「対価を支払う他者(すなわち経営者・資本家)にとって有用な具体的サービス」を提供する労働者・従業員間の競争は、就職(入社)試験時の能力だけでなく、出世のための競争能力に及び、いかに他人を利用しまた利用されるか、またそれによっていかなる成果を上げたかが、人の価値や報酬(名誉や地位)を決定することになる。個人的事業ならともかく、発達した資本主義において能力を生かせる主要な場は組織化された企業であり、そこでは他人は目的とされずに手段として扱われ、道徳的資質は出世の妨げとなり、組織の歯車として働くことが要求される。不正は組織ぐるみで隠蔽され、「一個人が獲得できる知識」は、利潤追求・効率重視に限定され、人間的なつながりや仕事への充実感は排除される。自由社会では、生産性は上がるがその果実は、地位と報酬を獲得目標とするため、そして面従腹背を強いられるために、人間の道徳性が破壊され人心の荒廃を招くのである。

 人は対価を得るために労働を提供するが、対価を得るために生きるのではない。しかし資本主義的自由競争は、対価を得るために人生を費消させ、人間的創造的才能を利己的野心の実現に向かわせる社会システムである。資本主義の問題点を克服しようとするすぐれた経営者も多く活躍している。しかしハイエクのような市場万能・自由放任の理論の信奉者は、人間性の現実の一面しか見ようとしていない。「人間のかけがえのない統一性を、物質的な価値を志向する『現実的な』人間と、よりよい『理想的な』人間とに分断してしまった責任は自由放任思想にある。自由放任思想はまた、経済的決定論の偏見を多少とも無意識のうちに助長し、われわれの社会的創造力を麻痺させている。」(ポランニー、K.『経済の文明史』玉野井 平野 編訳 筑摩書房 p69)

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なぜ道徳的社会主義が必要なのか

① 資本主義は、人間存在と人間関係を不透明にします。

 資本主義は、人間の豊かで便利で安楽な生活がしたいという欲求を、商品交換関係(商売)の中で実現するものです。商品交換においては、人間の利己的本質が発揮されて、自他の私利欲求を利用することにより、相互の致富欲求を満たす(豊かになる)ことが可能になります。しかし交換関係は対等な関係ばかりではなく、むしろ不透明で不等価な関係(「手の内は証さない」)が常態であることを見抜かなければなりません。いかに努力をしても報われない(いわゆる搾取)ことがあったり、発明や発見で新商品の開発をして大もうけの機会があっても、他人に商品販売の権利を奪われたり、販売競争に敗れて無一文になったりするのはそのためです。

 また企業経営の中で人件費(労賃)の在り方や原価計算を、不透明で差別的なものとすることは、競争する企業経営の要諦です。とりわけ独占的企業にとって秘密や特許は企業の死活を左右します。企業秘密の存在は情報操作を意味します。一般の労働者や大衆にとっては、メディアなどの広告・宣伝による情報操作によって操作の受動的な対象とされるのです。

 人間の存在(労働や経営)の意味を考えたり人間関係をよくしようと思うことは、商品交換関係の中では形式的方便にすぎません。商売の秘訣は、金儲けにならないことは考えない(隠しておく)ことなのです。人間存在や人間関係について考える、つまり社会的な自覚によって信頼関係を高め協働し社会的責任をはたし、金銭的人間関係や私有財産欲望を自制することは、資本主義的利潤追求とは矛盾するのです。

② 資本主義は、人間社会を刹那的な浪費社会にします。

 資本主義は当面の利益に関心があり、費用の計算は私的利益中心に行われ、社会的責任は利益の範囲内に限定されます。しかも競争の強制法則は、敗者を倒産あるいは吸収合併に追い込み、敗北企業の存在を否定します。市場や消費者・労働者も金銭的利害と物質的豊かさを求めて適応するのに心を奪われ、競争社会の中に飲み込まれ、社会的責任に気づかないのです。

  競争の敗者は、税金で維持されるセイフティネットで救済し、再チャレンジすればよいといわれます。しかしそのためには、成長が維持され新技術・新商品・新産業が展開されることが前提となります。それができなければ人間の欲望を開発し、浪費を煽り社会を堕落させざるを得ないのが資本主義的競争であり、その究極が戦争(浪費の典型)なのです。

 企業は、生活を便利で豊かにしたいという消費者のニーズを先取りし、新たな欲望を喚起することで消費を拡大しようとします。しかし、商品は売れれば利益が上がっていいわけですが、その後のこと(故障、廃棄等)には基本的に関心がありません。最近では企業も、エコやリサイクル、アフターケアー等で商品価値を高め、企業評価を良くしようとしていますが、収益の範囲内でのことにすぎません。世論や政治が規制するビジネスのルールを守ること(商法・民法等の法令遵守)は、基本的には浪費社会を抑制することにはならないのです。

 かつて「消費者は王様」と言われたことがあります。大企業は商品選択の自由を与えているような宣伝をしましたが、実際には、消費者の判断力と自制心を奪い、必要以上の浪費を強いるものなのです。

③ 資本主義は、人間の活力や創造力を引き出すために、能力・成果を金銭化し、社会を所得格差競争に駆りたてます。

 競争に勝ち、勝者の地位を守るためには不断の努力が必要です。しかし努力には限界があり、勝者が真の実力を発揮しているとは限りません。そこに幸運と不正の余地があります。幸運は制御できませんが、不正は市場で排除することもできます。ところが競争市場の取引は、売買契約が成立すれば、不等価であっても公正であるとみなされますから、強者は弱者に格差を押しつけることになります。希少品をもつ強者(例:石油供給者)は、それを必要とする弱者(石油需要者)に高値で買わせることができます。経済学者は、需給のバランスで均衡価格になると言いますが、強者の支配は続きます。

 また資本家は、貨幣をもたない労働者の労働力を安値(低賃金)で買います。労働者は、自分のもつ唯一の商品である労働力を安値でも売らなければ生活できないのです。さらに雇用された労働者は、管理者の厳しい評価・査定を受けます。労働者は分断され、管理され、緊張を強いられます。労働組合は、安定した大企業では組織化できるものの労使協調が進み、多くの中小企業では組織化さえ充分にはできません。

 資本主義は、企業や個人が商品の生産と供給を通じて最大の私的利益を得るために、他の企業や個人との競争に勝ち抜くことをめざします。少数企業の共存はありますが、国際競争、企業間競争、個人間競争を通じて勝者と敗者を作り出すことによってしか生産力の向上、経済成長を望めないシステムなのです。そしてその犠牲になるのが、充分な生育環境や機会に恵まれず競争に敗北した労働者大衆なのです。資本主義は格差を作って人間を労働に駆りたてるシステムなのです。

④ 資本主義は、人間の善意や互助の精神を、金銭的取引に利用し、悪意や利己的精神が裏で活躍する非道徳的社会を温存します。

 人間の自然な感情は、遺伝的な気質を核にして、乳幼児期の生育環境に大きく左右されて形成されることは周知のことです。通常、子どもは可愛いらしい存在として、親や家族などの愛情の中で育てられます。しかし保護されながら生育すると共に生存競争にもまれ、喧嘩や遊びを通じて社会のルールを学習し社会的行動様式を身につけます。

 資本主義社会は、農村的、地域的、民族的な互助連帯の強かった共同体的社会から、貨幣を媒介とした自由な商品売買が支配する社会に変質したものです。それまでの人間同士の全人格的な関係は、迷信や不条理、身分や差別による権力的支配はありますが、「金さえあればなんとかなる」という関係ではなく、個々の人間の人生や過去未来に配慮した家族中心の持続的な社会であり、善意や悪意、互助心や利己心のバランスを取りながら共存共栄する社会でした。

  ところが、閉鎖的な差別的身分社会を倒して生まれた、自由平等を原則とする資本主義は、商品売買を通じて私的利益を追求することが、社会全体を豊かにすると考えられた経済原則です。貨幣は人間の夢や希望を実現し、生活を豊かにし、同時に悪意や権力欲を充たしてくれる強力な力を持っています。だから豊かで快適な生活をするためには、貨幣を求めて自己の労働力を商品として売って職業に就く必要があります。しかし市場や職場での資本主義的競争は、善意や互助の精神を利益追求のために利用し、真実の意図を隠します。

 商品市場では、売り手は宣伝広告を通じて心地よい商品のイメージを作り、購買意欲を駆りたてます。職場では、経営者は出世や高収入の目標を与えて企業への忠誠を誓わせ働かせます。上昇志向の労働者にとって人生とは、高級住宅と乗用車、高級商品に囲まれた生活であり、そのために企業に一身を捧げ、少ない高給ポストをめざす出世競争に勝って、老後の安定した生活を獲得することです。競争は善意と互助の精神をむしばみ、人間のバランス感覚(安定性)を歪めて社会そのものを荒廃させます。

 問題は、企業が労働者の福祉よりも投資家・経営者の利益を優先し、利潤をあげるために労働の尊厳を犠牲にして労働の喜びや連帯を奪い、生産性の向上を図ろうとすることです。人間関係に不信と不満をもたらし(性悪説)、当面の成果で全人格を評価するのが、資本主義の合理化・効率化です。地位や収入だけが人間評価の基準となり、独占的なメディアがそのような社会風潮を維持しようとします。多くの労働者にとって、労働が人間の自己実現のためでなく、生活費のために苦痛と緊張を強制され人間性を喪失させるものであるとすれば、存続させるべきシステムとは言えないでしょう。

⑤ 資本主義は、人類的な財産である文化的科学的成果や技術革新のもたらす豊かさを私的に商品化して、万人の福利のためよりも一部の人間の満足を持続させるための手段とします。

 資本主義社会では、人間の欲望を満たすすべてのものが商品化され、金銭に換算され評価されます。そのこと自体は、自由で豊かな社会生活を円滑に送るために有効なことであり、否定されるべきことではありません。商品交換当事者が、相互に利益を得るしくみは、平和で豊かな社会に必要なものです。しかし、ここに利己的独占的利益を望むものが現れると、人間の善性は失われ、社会は混乱します。

 修正された資本主義社会は、公平な競争を法的に規定(独禁法等)していますが、資本主義の出発点は決して平等公正ではなく、封建社会で形成された格差や不平等、差別や特権を継続しています。例えば、日本では農地改革によって私有財産はかなり是正されたものの、山地や都市部の宅地・農地の財産や教育財産の格差は解消されていません。相続税の累進化でも、社会的自覚を伴わなければ不正相続を持続させます。

 また、人類共通の知的財産である科学的発見や発明は、かつては私的営利の手段というより、権力者の独占的庇護のもとにあるか、職業集団の秘伝として扱われました。しかし、商業の発展と共に、権力者や国家の保護のもとに特許制度として認められるようになりました。今日では、知的財産権として、特許権の他に著作権や商標権等が法律化され、独占的に使用できることになっています。ところが独占的利益のために技術の発展や福利の障害(エイズ治療薬等)になったり、著作権が本人の死後も継続するのは、技術や文化の発展になるのか問題にされなければなりません。

⑥ 資本主義では、地球資源の偏在と地域発展における南北格差、および競争原理のもたらす所得格差とその永続化は、貧富の対立と戦争の温床となります。また自由競争の無政府性は、地球温暖化や資源エネルギー問題の解決に必要な成長の抑制と、富の公正な分配による地球共存社会の実現を阻害します。

 世界の主要国は、国内的には資本主義の修正ないし市場経済への政治的(民主的)介入、によって、景気変動の調整をしています。また、世界経済も国連の機関やIMF、その他の国際会議等(サミット、蔵相会議等)を通じて調整し、経済恐慌や戦争を未然に防ぐ工夫をしています。しかし、世界経済の「成長の限界」が、1970年代に唱道され始めて以来、論争は続いていますが、時を経るに従って問題が深刻になってきています。とりわけ石油埋蔵量の限界は、現代文明が石油漬けと言われるなかで現実のものとなってきました。その上二酸化炭素等の温室効果ガスの増加によって、急速な気候変動の危険が迫っています。

 世界は、地球温暖化の阻止のために、とりあえず、2050年までに排出量を50%削減をめざしています。ヨーロッパの先進資本主義国ではかなり取組が進み、企業の社会的責任(CSR)が言われ、投資においても低炭素社会をめざす取組が進められています。

 しかし問題は、欧米の富の蓄積が、アジア・アフリカ諸国に対する植民地支配によるものであり、当然のことながら途上国からは先進国のもたらした温暖化に、途上国の発展を犠牲にしたくないと反発しています。まずは先進資本主義国が、今日の地球的危機の本質(格差と成長の限界)を自覚し、人類の持続的生存(と発展)を確保するために、不公正な競争を抑制し、資源と富を分かちあうことが求められます。

⑦ まとめ  資本主義の原則は、人間関係における仁愛や慈悲、正義や真実などの人類共通の伝統的道徳を歪め、社会的視野と歴史的展望から目をそらせ、自由の名のもとに当面の利己的利益を優先して、地球と文明の破壊を進め、持続可能な発展と人類の福祉実現を危うくします。資本主義にも道徳を語る余地はあります(商道徳)が、それは競争をルール(法)で公正化する程度のものです。社会正義や社会的責任は、資本主義のルールとは両立困難であり、社会的自覚(正義や責任)が道徳として確立し法的ルールとなったとき、資本主義は社会主義に変質するのです。

 資本主義は人間の利己的欲望と言語的構想力から発展し、今日まで世界史的な広がりを見せ、地球の生態学的限界を超えようとしています。いったい100年前に誰が、このような地球の急激な温暖化を予想したでしょうか。これから何世代にも渡って、この地球上で生存していく生命と、全生命を代表する人類のために、われわれは何をすべきなのでしょうか。

補足 道徳的社会主義とは
 道徳的社会主義にとって資本主義は、人間の本性から発展したものなので、これを全否定することはできません。道徳的社会主義は、人間本性の利己的傾向を抑制し、社会的(歴史的)自覚によって制御しようとするもので、資本主義の修正を含み、資本主義の自由放任を越えようとするものです。マルクス主義のように、資本家的支配制度を倒し、労働者階級による政治的経済的支配を続ければ、人間の社会的意識も変革されるというのは、人間本性への一面的な理解です。
 また人間の本性は、自由・平等を求めるものであっても、人間存在が自由・平等なものであるというのではありません。基本的人権としての自由・平等は、人間関係の公正と正義を求める人間本性(「それっておかしいじゃん」という素朴な問題意識)から生じるもので、まず優先するべきは、何が正しいか・正しくないかを考え検証することです。道徳的社会主義はまず、人間存在について素朴に感じ考えることから始まります。

<参考1>リカードウ『経済学及び課税の原理』から

「商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その稀少性からと、その獲得に要する労働量からとである。
・・・・・・・・
だが、これらの商品[稀少品]は、市場で毎日交換される総量の中の、ごく小部分を占めているにすぎない。欲求の対象となっている財貨の中の、際だって大きな部分は、労働によって取得される。
・・・・・・・・
そこで、
商品、その交換価値、及びその相対価格をを規定する法則を論ずる際には、われわれはつねに、人間の勤労の発揮によってその量を増加することができ、またその生産には競争が無制限に作用しているような商品だけを念頭におくことにする。
社会の初期の段階には、これらの
商品の交換価値、すなわち一商品のどれだけの分量が他の商品との交換において与えられなければならないかを決定する法則(ルール)は、もっぱらそれぞれの商品に支出された相対的労働量に依存している。」(羽島・吉澤 訳 岩波書店 p18-19 下線・角括弧は引用者による。以下同様)

「労働を商品の価格の基礎とし、またその生産に必要な相対的労働量を、相互の交換において与えられるべき財貨のそれぞれの数量を決定する法則とするからといって、われわれが、商品の現実価格または市場価格が、この価値、つまり商品の本来的な自然価格から偶然的・一時的に乖離することを否定するものと考えてはならない。」(同上 p130)

「労働は、売買され、また分量が増減されうる他のすべてのものと同様に、その自然価格と市場価格とをもっている。労働の自然価格は、労働者達が、平均的に見て、生存し、彼らの種族を増減なく永続することを可能にするのに必要な価格である。」(同上 p135)

●○ リカードウの労働価値説を述べたものであるが、これは商品の交換価値を規定する法則が、人間(の市場取引)の価値判断以前にあって、現実の市場価格は、その法則によって決まる自然価格が、偶然的・一時的に乖離したものにすぎないと考える。また、マルクスと同様に、労働力商品の価格(価値)は、労働者が単に生存し種族の永続に必要な価格のみであるとしている。これはマルクス批判(http)でも述べているように、労働者の非人間的状態を法則的に肯定したものであるが、労働者の要求すなわち自らの価値判断をそのように法則化するのは誤りである。等価交換を主張する経済学者は、「経済法則」の名を借りて、不正な交換関係を隠蔽していることに気づいていないのである。

<参考2>ミル『経済学原理』から

「無限に増加させることのできない物[稀少品]の価値は、すべて需要供給がこれを支配する。但し、これらの物でも、勤労によって生産される場合には、生産費によって決定される最低限の価値というものが存在するものであって、この点は別である。しかしながら、無制限に増加させることができる物[通常商品]の場合には、すべて需要供給はある期間における価値の動揺を決定するのみであり、しかもその期間は、供給を変化させるのに必要な期間を超えることができない。需要供給は、一方ではこのように価値の振動を支配しながら、今一方では、それ自身より優勢な力、価値を『生産費』」の方へ引きつけられるようにし、絶えず新しい攪乱的影響が発生して、今一度価値を生産費から離れさせるということがない限り、価値を生産費のところに落ち着かせ、そこに定着させるところの力──このような力に支配されるものである。同じ比喩の系統をたどっていえば、需要と供給とはいつも平衡に向かって殺到している、けれども安定な平衡の状態というのは、もろもろの物が互いにその生産費に従って交換されている時、あるいは私達が先ほど用いた表現によれば、もろもろの物がその『自然的価値』にあるとき、のことである。」(J.S.ミル『経済学原理』末永茂喜 訳 岩波書店 1959年(三)p55 下線・丸括弧は引用者による)

●○ミルは、古典派経済学の一員として、労働価値説と同根の「生産費説」を提唱した。ただミルの場合は、生産費に労働の賃金と資本の利潤、租税と生産要件中の費用を加えている。しかし基本は、商品が「自然的価値」にあるとき「安定な平衡の状態」にあると考えている。つまり価値の決定を、需要と供給によって決まる結果で判断し、市場の交換における力関係を見ていないのである。
「安定と平衡の状態」とは何か。それは独占価格の安定であり、労働者の低賃金の安定つまり格差の固定的安定と平衡である。経済学の求める「安定と均衡」をもたらす法則とは、結果の追認であり、資産家・勝者の支配述であり経済的矛盾や格差、不等価な交換過程の隠蔽である。

<参考3>ハイエク『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』

「われわれは、なお、既知の人々[顔見知り・同胞]の特別な既知のニーズに便益を与えることがなされる場合(部族社会・閉鎖社会)に限って、良いことを行っていると敬意を払うし、我々の知らない100人の人々の切実なニーズに慰めを与えてやること[市場社会・開かれた社会・偉大な社会・普遍的正義]よりも、我々の知っている一人の飢えた人を助けてやる方が、現実によりよいとみなす[部族倫理・部分的正義]。しかし、実際には、われわれは、一般に、利得を求めることによって最大の良いことを行っているのである。アダム・スミスが、利得を求める利己的な努力と、既知の欲求を満たす利他的な努力の間に、あたかも重大な相異があるかのような印象を与えた時に、それは、多少、誤解されることになったし、彼の主張は有害となった。成功した企業家が自分の利潤を使いたいと思う先は、自分の住む町のために病院を提供することであっても、美術館を作ることであってもよい。しかし、利潤を稼いだ後でそれをどう処理したいかという問題とは全く別に、彼は、もし彼が既知の人々のニーズの充足に専念したとすればできたであろう以上の便益を、最大の利得をめざすことによって人々に与えるようになる。彼は、市場という見えざる手に導かれて、彼が知ることさえない最も貧しい家庭へ、現代の便利な品々を差し入れしているのである。」(全集第9巻 篠塚慎吾 訳 1987 p200 下線・角括弧は引用者による)

●○企業家達が、利己的な利得を得るためであるとはいえ、危険を冒して市場を拡大し、生産技術を進歩させ、労働者大衆の生活を豊かで便利なものにしたことは、人類の福祉の向上のために良いことであった。また良心的な企業家が、利得を慈善事業等に寄付することも素晴らしい。しかし、その利得を得る行為が、本人達が自覚しているか否かにかかわらず、不正義(不等価)な商品交換によって得られ、経済学者たちがそれを正当化してきたことは自覚されねばならない。
同時に、多くの企業家が、利得を拡大するために、大半の消費者である労働者大衆そして若者達を、単なる利潤獲得の手段にし、マスメディアを使って浪費的で刹那的な大衆の再生産を行っていることは、現代資本主義を考える上で見過ごすことはできない。彼ら勝者・エリートは、その利益と自らの立場を守るために大衆を愚民化し、社会的自覚・政治的自覚を抑制しようとする。今日の日本の教育政策やメディア戦略、市場操作は、批判的で賢明な消費者の育成と社会的自覚を阻んでいる。
経済成長が無限に続けられ、豊かさが万民に享受できるなら、不満や腐敗はある程度抑えることができるかも知れない。しかし、地球の環境や資源が有限である以上、人間は社会的にも個人的にも自己抑制が必要となるだろう。そして「市場という見えざる手」にまかせ、格差や不正が隠蔽され温存されようとする限り社会の混乱は持続するだろう。社会正義を幻想と考えるのは、商品交換における当事者の関係性(利害・価値の取引)を、透明化できない、またはしたくないハイエクのような御用学者やマルクス主義者たちなのである。

「抽象的秩序[市場ルール]というのは、人がそれに依拠することを学習し、そのために多勢の人々の努力と平和裏に調整することができるようになったものであるが、不運にも、それは、小集団において最高の徳目をなす、愛といったような感情に根拠を置くことができない。愛というのは具体的なものだけが喚起する心情であり、偉大な社会[自由で開かれた市場社会]は、特定の他の人々を助けるという狙いによってではなく、自分の意図の追求の抽象的ルールによる自己の意図追求の限定によって導かれた、個々人の努力を通じて、可能になってきたのである。」(同上 p206-207)
「すべての公共的ニーズは強制組織によって充足されるべきであり、個々人が公共的意図に喜んで捧げようとするすべての手段は政府の制御下に置かれるべきであるという有害な観念[民族主義・共産主義]は、自由社会の基本的原理と全く相容れないものである。真の自由主義者は、逆に、ルソーやフランス革命の個人主義が抑圧したいと望んだ、個人と政府の間にある自発的組織のような、『国家の中にある特定の社会』に、できるだけ多くのものを望むに違いない。しかし、彼らは、すべての排他的で強制的な権力をそれらから奪いたいと思っている。自由主義は、構成員に対する排他的権利を偽称する組織の傾向性への疑念は当然にもっているものの、『すべての人が自分のために』という意味では個人主義的ではない。」(同上 p207)

<参考4>竹内靖雄『法と正義の経済学』

「正常な交換はつねに『等価交換』でなければならない。この状態が『交換の正義』と呼ばれる。(1)
・・・・・・・・
しかし等価交換ということは一応の原則であって、それほど厳密なものではない。第一、ものの価値は重量のように、天秤を使ってはかるわけにはいかない。自分も相手もこれで交換してよいと思った状態が等価交換であり、その時の(商品)XとYは価値が同じであると『見なされる』だけのことである。
・・・・・・・・
貨幣、市場とともに、都市も国家も登場し、人類は文明の段階に入る。そして文明社会では、『正しい交換』をしながら生きることが大原則となる。市場で行われるあらゆる取引は、『交換の正義』が守られていること、天秤が水平になっていることを前提として行われる。(2)もしも相手を騙して価値のないものを売ったり、約束した代金を支払わなかったりすれば、それは詐欺であり、契約違反であり、不利益をこうむった側は、この不正を許さない。『交換の正義』を回復するため、相手を訴えることになる。民法、商法をはじめとする法律は(3)、個人と個人の関係に不正が生じてはならないこと、正義が維持されねばならないことを原則としている。個人間の交換の関係においては、それが『交換の正義』という一層厳密な形で要求される。民事法はこの『交換の正義』を維持するためのルールの体系であるといってもよい。
このような『交換の正義』は、相手が異なる社会の人間であろうと、個人と個人が交換や市場の取引を行う場合にはつねに維持されなければならない。その意味で、普遍的に通用する正義(4)はこの『交換の正義』だけである。」(竹内靖雄『法と正義の経済学』新潮社2002年p28-29 下線・丸括弧は引用者による)

●(1)正常な交換はつねに「等価交換」とは限らない。「交換の正義」とは、交換における不等価性をできるだけ透明にして、当事者間の納得・同意・契約を社会的に再評価・吟味することでなければならない。正義とは社会的正義であって、当事者間だけの契約を直ちに「交換の正義」とみなすことはできない。

●(2)自由競争の「文明社会」では、「正しい交換」によってどれだけの利益が得られるか(損をしないか)を日常的に考量しながら生きることが大原則となる。市場で行われるあらゆる取引(日常の買物を含む)は、損得勘定で行われ、「交換の正義」が守られていることをつねに疑わなければならない。交換的不正義(不等価交換)の隠蔽は、西洋思想の限界における経済学にも結果として反映し、今日の政治経済学の混乱を作りだしている。「神の見えざる手」とは、人間存在の本質(創造的可能性)を見誤り、人間と人間社会を恐慌と戦争に導くだけでなく、強者の安楽と悪意を放任する反道徳的なイデオロギーにすぎない。

●(3)民法、商法をはじめとする法律は、「商品交換の不正義」を合法化するためにも必要とされている。

●(4)以上の論理から、竹内「経済学」のいう「交換の正義」とは、普遍的正義を隠蔽する「経済学の不正義」であることが了解されるであろう。だが、この市場経済における不正義は、人間存在の本質から生じるものであり、これをいかにコントロールするかは道徳と政治の問題になることは、賢明な読者にとっては明らかであるだろう。

2008 金融・証券投機恐慌の本質は不等価交換

 今回の世界金融市場の崩壊は、政府・中央銀行等の介入によってある程度救済されましたが、資本主義市場経済が自己コントロールや均衡、ないし単純な景気循環の状態には収まりきらないこと、また今日の金融資本主義を理論的に支え、政治経済の主流となっていた新自由主義理論の底の浅さを示しました。

 この経済恐慌状態は、利潤追求のために過剰生産・過剰投資をした結果生じた1929年の世界恐慌と外見ないし発進源は異なっていますが、本質は同じです。それは、金を儲けるためには(合法性の仮面は付けるけれど)手段を選ばない、利己主義・反道徳性・不正義・社会的責任の欠如いわゆるモラルハザード、自己の利益だけの、競争に勝って勝者となるためだけの経済活動であるということです。

 もちろん、今日の企業家・資本家・経営者の多くは社会的責任感のある人たちです。しかし、マスメディアや巨大企業の経営者、体制維持の政治家たち(多くは市場原理主義者・利己的自由主義者)は、企業活動・利潤追求において「競争や効率」のみを金科玉条のごとく唱え、勝者としての社会的責任と指導力を発揮することなく、自己の地位・立場・収入・支配力の確保と安定をまず第一に考えて発言し行動します。曰く、グローバル競争に勝ち抜くためには「競争と効率」化・非人情的経済合理性・弱肉強食は避けられない、と。しかし、そこには、利己的金銭競争や格差・差別を利用することによってしか人間は動かない、という皮相で貧困な性悪説的人間観があります。(単純に性善説のみで人間が行動すると考えるのも皮相ですが)

 今回の金融恐慌は、貨幣や投機とは何かを端的に示すものとなっています。
本来貨幣は、不等価な商品の交換困難性を克服し、商品価値の尺度と手段として、交換を円滑にするために市場で発明され、その価値(貨幣商品)の信頼性を高めるために市場管理・権力者達によって流通させられているものです。歴史的には、分業の拡大によって交換(市場)経済は発展しましたが、貨幣は市場において交換・流通手段として大きな役割を果たしました。

 貨幣が、自生的にそれ自体価値を持つ金や銀(商品)で流通し、それで市場が機能している場合は良かったのですが、貨幣の質や量に限界や問題があり、市場のコントロールも困難でした。そこで、市場管理者(政府・銀行)によって信用貨幣(有価証券 securities)が作られ、貨幣自体に価値がなくても国家の保証のもとに貨幣商品として流通するようになり、国家の都合で市場をコントロールしやすくなりました。また個々の銀行等が価値の信用創造をするようになり、信用取引によって利益を得失するような証券化商品の取引も可能になりました。

 ここに実体経済とは遊離した、信用(金融・投機・先物・虚構)市場経済が生じる根拠があります。信用創造の原理が、「投機」(リスクはあるが儲かるだろう)の手段として利用されると、不良債権(実体価値以上の信用創造)が生じ、金融機関の破綻が起こるのです。

 ここで資本主義の本質、金儲けの本質が不等価交換にあることを、岩井克人氏の新聞掲載主張(朝日新聞10月17日付け朝刊)から説明してみましょう。岩井氏は新聞の見出しに「資本主義は本質的に不安定」「貨幣自体が実は純粋な投機」「セカンドベスト目指すしかない」と述べています。彼の主張に賛同するところも多いのですが、基本的な人間存在の洞察が欠けています。(以下は次回に)

<投機は不等価交換を利用した利潤追求行為から生じる>

 岩井氏はケインズを引き合いに出して、「市場経済は不安定であり、政策によるある程度のコントロールが不可欠である」としています。しかし、市場経済に限らず、自然や人間存在そのものは、本質的に不安定で、生存のためには知性的(言語的)コントロールが必要なのです。このようなケインズ的発見ないしは理解が必要になったのは、資本主義を「神の見えざる手」とか「需給の均衡」、「唯物史観」等々で法則的に説明しようとする西洋的経済理論の偏見にすぎません。むしろ東洋的思考様式を知っておればケインズを待つこともなかったのです。

 世界恐慌と戦争という社会的混乱の克服からコントロールの必要性が自覚されたわけですが、そのような現実を待つ必要までもなく、人間という利己的創造的な存在には、抑制とコントロールが必要です。西洋近代においては、人間中心のヒューマニズム思想によって無限の発展(神と人間の栄光)が期待されましたが、20世紀にいたってその限界と自己抑制の必要性が明らかとなってきたのです(東洋思想では自然との共生という観点からつねに自己抑制を重視してきました)。

 ではなぜ資本主義が不安定なのか、岩井氏の答えは、「それは基本的に投機によって成立しているからだ」といいます。これは正しいのですが、しかし、岩井氏が「資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考える」ことから誤りに陥ることになります。投機とは英語でspeculation (思索、推測、思惑)のことですが、貨幣は決して投機でも投機的なものでもありません。貨幣はあくまでも交換、評価、蓄積の手段となる商品なのです。彼はマルクスを批判しますが、マルクスの価値論(西洋的思考様式)の呪縛から逃れてはいません。商品交換や貨幣について論ずる場合には、市場の交換当事者の関係性(相互の状況)を考慮に入れる必要があります。つまり、商品交換にはつねにそれによって何らかの利益が得られるという思惑(speculation)と思想を持つ人間が存在するということです。この思惑こそが商品交換と投機(的利潤追求・ビジネス)の動因・動機・誘因なのです。

 将来的に利益(profit)がある・儲け(gain)られるという思惑(地価が上昇する、石油が減少する、小豆が不作になる、トウモロコシの需要が高まる等々)に確実性が高ければ投資になるし、リスク(賭博的・詐欺的思惑、危険性)が低い場合は投機になります。ということは投機の対象となる商品(地価・石油・小豆等々)の価値は、本来的に不安定・流動的であるということであり、不等価性(得失)の割合が大きいということです。変動の激しい商品の交換が成立して、その時は等価であったといってみても何の意味もありません。等置(交換成立)は等価ではありません。

 このことは投機的商品に限らず、すべての商品交換の前提となります。つまり、商品の真の価値は主観的なものであり、それを購入し消費してみなければわからないのです。商品の買い手は、売り手の商品について1)価値があるだろう(交換原因)、2)価値がある(交換成立)、3)価値があった(なかった・交換結果)と判断をしますが、三者には交換の原因(誘因)と結果で決定的な違いがあります。2)の段階で社会的平均的価値(交換価値・価格)が決まりますが、この価値は3)の使用(価値)段階におけるように交換原因とは異なる場合があります。ここに交換における不安定性・危険性がありますが、またそこには資本主義的利潤追求の危険性(投機性→価値があるだろう→予想・先物)と誘因性(おもしろさ→私にもチャンスがある→希望・夢)があるのです。

 交換成立による商品の価値評価(交換価値・価格)は、社会的平均的なものであって、労働価値説のような絶対的なものではなく、一時的相対的なものにすぎません。しかしそこには相対的(主観的・人間的)であるがために商品の価値を偽装して、実体以上の価値で交換し得るという詐欺的(競争的)要素があるのです。つまり社会的平均的価値は、一時的相対的なものであるにもかかわらず、次の交換の商品価値を過大または過小に評価する基準ともなり、過大な(儲かる)場合は供給量は増大し、需給の安定を崩し、市場全体を不安定なものにします。強いものはますます強く、弱いものはますます弱くなるのですが、このカラクリは「市場へのコントロール」がない限り実体経済とかけ離れ、需要と供給の法則を越えて、やがて破壊します。

<投機は不等価交換の将来的拡大を想定した利潤追求行為>

 それでは貨幣は、資本主義的利潤追求において、どのような役割があるのでしょうか。
まず利潤は、商品の売却額から生産や流通にかかる費用(コスト)を差し引いた金額で、基本的には3つの形態があります。一つは商業利潤すなわち商品を安く買って高く売ること、二つには生産(加工)利潤すなわち安く作って(機械使用)高く売ること、三つには雇用(搾取)利潤すなわち労働者(労働力商品)を安く買って(低賃金で)効率的に使用(労役)することです。何度も強調するように、商品交換(売買)以外から利潤は生まれないのですが、交換当事者の利潤は双方平等(等価)である(win win)とは限りません。交換に納得して契約が成立したから等価の交換である、というのは交換の実体を見ようとしない強者の論理です。

 上記三者の内で、商業利潤と雇用利潤は、価値(労働力・富)の単純な移動による富の蓄積になりますが、工業利潤は労働価値以上の価値を生産するため、市場全体の経済成長(富の蓄積)の中心になります。貨幣は三つの利潤のすべてに活躍しますが、貨幣(富)の蓄積に余裕がでると富への信用が生まれ、貨幣と信用自体を利用して利益(手数料・利子)を得る銀行業が生まれるのです。

 貨幣は、資本主義でなくとも市場があれば存在するものですが、市場や分業が進んで自給自足が崩壊し商品社会となると、利潤追求が経済活動の中軸になって、貨幣も利潤追求の手段とされるようになります。
本来、両替や為替、手形、金貸しなどの金融業務は、流通を円滑にするため信用ある業者や企業(商業資本家)が、貨幣を扱う産業(銀行)として成立します。やがて蓄積した貨幣をもとに、金融資本が産業資本を支配し、実体経済とは別のところで貨幣を融通する株券や債券の証券市場が作られ、利潤追求が行われるようになります。貨幣や証券を動かす(融資、証券売買)ことによって利潤が成立するのです。

 また貨幣本来の3つの役割(交換、評価、蓄積の手段)は、市場の円滑な取引を可能にするのですが、それと同時に貨幣(商品)そのものの量と質を操作して市場をコントロールすることができることがあるのです。これは貨幣を操作することのできる権力者・政府・銀行が行うことで、貨幣に罪はありません。貨幣は、それを手段・道具として使用する権力を持った人間の価値観や能力に依存しています。そのような人間は当然貨幣を所有しているか、所有していなくともその貨幣を動かす能力(借金して投資する)を持つことによって利潤追求を進めるのです。

 貨幣の便利さは、社会的信用に基づきます。その信用を悪用したのがサブプライムローンとそれを証券化商品としたものです。住宅価格の持続的な上昇という虚構をもとに、将来の実体価値以上の証券化商品をつくり(金融工学)、しかも他のローンを組み合わせて実体のわからないものにしてトリプルAの安全性(危険性)を付けるという何重にも重なった詐欺であり不等価交換なのです。
その意味で投機とは、貨幣の本質から生じるのではなく、商品交換固有の本質(それは人間の創造的・投機的本質と関係がある)から生じ、不等価交換の将来的拡大を目指した詐欺的利潤追求行為と言えるのです。

■強者支配と文化破壊のTPPへの、日本の参加に反対します。

 アメリカ主導のグローバリズムは、地球環境や固有の文化を破壊し、国際福祉を推進しない。

 現代の世界的諸課題は、国益や階級益だけでは解決できない人類益を必要としています。人類益には、それにふさわしい新しいイデオロギーを必要としますが、TPP推進論者にはそれがありません。

 PPの前提となる「原則(?)関税撤廃」、すなわち原則自由競争市場は、強者の勝利を完全に保証・保障します。勝利した強者(メジャー企業)は利益の独占をはかり、国民(国際)福祉をめざす現代の正義と敵対しようとします。

 国際市場には、世界の福祉(富の再分配・調整)を図る世界政府はありません。強者であり続けようとする超大国アメリカも、国家を越えようとする独占企業にも、人類福祉をめざす意志も計画もありません。

 「正義と公正を担保する世界政府」のない現状では、国民国家はその多様な文化と特技を生かし、それぞれの固有の権利とルールを認め、関税でコントロールしながら公正と正義に基づく(win win の)国際自由市場を工夫すべきなのです。
人間は本質的に自由ではありませんし、地球には成長の限界があります。有限な人間は、自らを制御して共存共栄を図らなければなりません。TPP推進論者は、過去の高度成長の歪んだ成果にしがみつき、営利獲得の自由競争がすべてを解決できるような幻想を宣伝しています。

 歴史が示すように、自由を強調するものは伝統的価値や文化を破壊しようとします。しかし今や、市場競争による破壊や合理化は、欲望の肥大化と人間性の劣化と腐敗を拡大するだけで、新しい公正や正義を生み出せなくなりました。
自由や創造性は、人間のもつ至高の価値ですが、交換と分配における社会正義と多様で公正なルールを排除する新自由主義(市場原理主義)は、人類福祉にとっての敵です。人間は、経済的・営利的欲求のみによって生きるのではありません。

 環太平洋を、エコノミックアニマルの修羅場にさせてはなりません。現代の閉塞的状況の問題は、帝国主義的格差のグローバル化を克服し、人類的福祉を実現する目標をもつことによってはじめて解決可能になります。

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