言語起源と進化論

言語の起源と進化論について

――人はどうして言葉を話すようになったのだろう?――                                  ?  言語の起源について

                                    人間存在研究所 大江矩夫


「人間は生まれつき知ることを欲する」アリストテレス『形而上学』

「人間は社会(ポリス)的動物である」アリストテレス『国家』

「人間の知識と力は合一する(知識は力なり)」ベーコン、F.『新機関』

「自然法とは、理性によって発見された戒律または一般法則である」ホッブス,T.『リヴァイアサン』
「私は想像しがちだが,もしも知識の道具としての言語の不完全がもっと徹底的に考量されたら,
世をあれほど騒がせた論争の多くは独りでになくなり,真知への道は,そしておそらくは平和へ
の道も,いまより大いに開けるだろう。」  (ロック.J『人間知性論』大槻春彦訳)



(はじめに) 言語起源の解明を困難にしてきた三つの人為(理論)的理由


1)キリスト教(ユダヤ教、イスラム教)の「創造説」では、『聖書』に書かれているように、神が人間を含む万物を創造し、神の本質が言語であると考え、『聖書』は預言者を通じて述べられた神の言葉であるとされています。それに対し、生命言語説では、万物の創造主である全知全能の神は、実は、有限な人間が自己の不条理で苦悩の多い人生に絶対的な存在価値を見いだすために創造したということになります。

 つまり、人間は『聖書』に述べられているような神の創造物(被造物)ではなく、逆に、神は人間の被造物ということになります。そうなると人間の存在意味はどうなるかという不安が生じ、世界の秩序や権威、そして道徳の根源が揺らいでしまうと創造論者は考えます。だから「創造論」では、言語の起源は、神の存在そのものに由来し、生物学的進化論などの科学的探求になじまないとするのです。つまり創造論では、言語の起源は神の創造によるので、言語が認識や想像の手段でもあり、『聖書』に書かれていること以外の事実の発見や人間による創造を認めません。

 しかし、生命言語説では、言語の主観性・相対性を主張するとともに、言語の創造性を重視し、普遍的道徳も、生命の永続性と共生性、言語の真理追究性(虚偽可能性)の原則によって、既成の非科学的宗教から科学的真実にもとづいた人類にとっての普遍的道徳を再創造すべきと考えます。? 参照 参照


2)チョムスキーの発見した普遍文法の法則は生得的なもの(脳内の初期装置・統語構造)についてですが、その起源は解明できず謎として残されましたその背景として、チョムスキー言語論では、言語の認知・思考機能(論理構成機能)が重視され、欲求や感情・行動という生存活動の生得的な動因(認知欲求等)や意思伝達の機能を言語論の考察から排除したこと行動主義批判・認知革命)が考えられます

 つまり、チョムスキーが、行動主義を言語論から排除し、言語論の全体像を見失わせたことの弊害が大きく、言語の論理性だけが強調されてしまったのです。そのため、論理性(併合や構成)が、行動や好奇心(認知欲求にもとづく疑問・認知の形式、what/how形式)に由来することが隠蔽され、言語の起源だけでなく言語の本質(意図・情報の的確な表現・伝達のための認知・限定化=疑問の解明・表現・伝達=生成文法の起源)が見失われてしまいました。

 言語の生得性は、少ない言語刺激(刺激の貧困)で無限の言語表現を生成する謎を、生得的普遍文法の原理で説明しようとするものです。しかし、乳幼児にとって言語刺激は貧困であっても、音声言語化する興味関心の対象は無限であり、生得的な好奇心と模倣・表現の欲求は、幼児自らが言語の生成(構成)能力を持つことを示しています(「これな〜に?」「どうするの?」「・・して」という疑問や要求の表現)。乳幼児の欲求は、化石人類にも当てはまるというのが、生命言語説の主張です。→ 参照

 

3)ダーウィン進化論の自然選択説では、遺伝的変異の「偶然性」が強調され、進化における生命の生存目的や変異の方向性が無視され、また無限の環境に対する認識と行動の主体的意味(好奇心・模倣等の欲求実現)を問うことができませんでした。そのため、乳幼児の言語発達における言語の主観性や曖昧性を克服するための主体的努力(意味の理解=好奇心、言語的自己表現・伝達)が十分評価されませんでした。言語の獲得とその論理性(普遍文法)は、偶然性の結果ではなく、生命(動物)の認識と行動における適応進化の目的ないし方向性(環境認識と表現・伝達の的確化)の実現なのです。
 つまり、自然選択説では、突然変異(偶然性)の進化的意味が重視された結果、不安定な自然環境における「個体の維持と種の持続的生存」という生命存在の主体的意味や目的が軽視され、動物の認知・行動様式の進化・発達(神経系の発達による適応様式の高度化=大進化)が、言語の獲得に到ったことが解明できなかったのです。 

 「自然選択」という用語は、単に生存競争という「自然現象」(の一部)と同様の表現で、生存に有利な形質をもつ変異個体(適者・勝利者)の一時的存続を示すものであっても、どうして有利(適応的)になったかや、種の起源を示すものではありません。進化(種の多様化)は、個体間や対環境の「生存闘争」(struggle であってcompetitionではない)が一つの原因となりますが、それだけでは生存に敗北(?)した不利な種の適応存続(弱小亜種)や退化した種または亜種の形成、種内の共存や「棲み分け」の原因等について説明することはできません。むしろ進化(新種の形成)という自然現象(選択)を引き起こす原因は、無限な環境の変化に適応し多様な安定的生存を目的とする生命の適応的活動の一つなのです。それは単に偶然的に起こる変異の自然競争的選択なのでなく、環境(自然)に対する生命(自然)の主体的選択による適応的変異の結果なのです。エピジェネティクス(後成遺伝学)の新しい知見は十分にその検証を可能とするでしょう。 → 参照 



<生命論と進化論>
生命にとって言語を獲得したことの意義は、無限の環境への認識と適応能力を高め、個体と種の存続をはかるための生命の究極の努力と選択による進化であった。そして、言語的存在への進化は、言語自体が人間にとってどのような機能や意義を持つのかという科学的検証の結果(生命言語説)によって、人間自身のさらなる生存様式(生き方、ものの見方考え方、価値観)の進化・発展が期待できるようになっているのである。

@ 生命が生きるとは?

地球という特殊な環境に誕生した生命が、無限に変化する環境(自然)に対し、有限な生命状態を「個体と種族」において永続的に適応・存続しようとすること。


A 生命にとって環境とは何か?

 生命を誕生させた環境は、生命に、生と死・快と苦・優しさと厳しさ・恩恵と困難などをもたらし、変化と多様性に満ちている。生命はこのような環境に適応しながら、多様な生存様式(形質)によって「個体的生命性と種族的永続性」をめざしている。

 

B 生命に生存の目的はあるのか?

 ダーウィン的進化論(総合説)は、進化には目的なく、偶然的変異と適応競争を通じて有利な個体が自然選択され、交配不能な新しい種を創造したと考える。しかしそれは生きることの意味を考えさせない一面的な誤りでないか。生命には、多様な環境への多様な生存様式による永続的生存という目的がある。                                                          


C 生命の目的の実現はどのようにされるか?

 生命(細胞)は、代謝と生殖、安全保持によって永続的生存の目的を実現する。動物の場合、代謝は食糧の獲得、生殖は雌雄結合と養育を行い、これらは安全保持を含めて、(生存様式)の違いに応じた対象(環境)の認知・判断と反応・行動の様式を持つ(多様な刺激反応様式)。進化とは、無限の環境の変化に対して、生命が多様な生存様式によって生存目的を実現しようとする手段の一つである。

 

D 生命が環境に適応する原則は何か?

 多様な環境への多様な生命の生き方(生存様式)に優劣はない。生命は様々な生存様式(形質)を持つ。動物の適応の目的は、「個体と種の存続」のための欲求(食欲・性欲・安全欲等)の実現である。動物にとって、環境に応じた認知・判断力や表現・行動力の発達が、適応進化の方向性となる(大進化:魚類⇒両生類⇒爬虫類⇒哺乳類等)。

 

E 生命の進化(多様化)とは何か?

進化とは、多様な環境への多様な生存様式の獲得(多様化)のこと。生命は多様な環境への多様な生存様式(形質)を選択できる。

⇒ 獲得形質の遺伝(エピジェネティクな遺伝の現実性、大進化における定向的進化、ラマルク・今西錦司の再評価(主体性進化論)

エピジェネティクな遺伝 :遺伝子DNAの発現を後天的に調節し生殖細胞に影響する。生命は環境の変化に常に適応しようとしている。その結果は遺伝の可能性を持つ。

 

F自然選択進化論(ダーウィン説)は正しいか?

・自然選択説(総合説)は、西洋の自然法的世界観(合理主義)の限界を反映している。自然は選択するのでなく、無限に変化するのみである。生命にとって自然のもたらす適・不適な変化に適応することが進化・多様化の要点である。

生命の生き方(適不適の選択)は、自然が選択するのではなく、生命自体が自然(適・不適な環境)に対して多様な生き方()を選択し適応する。

・諸生命が独自の生き方を選択しても、永続的適応となるとは限らない(所行無常)。生命(自然)を誕生させた環境(自然)は、無限の変化をするが、生命は有限の存在だから適応には限界がある。

 

G 従来の進化論の限界は何か?

・総合説は、偶然的変異(突然変異)による適応の選択は、生存競争による自然の選択であるとしたため、生命主体の「生存や進化の目的」よりも自然環境の優位(生命は自然・外的環境法則に従属的≠創造説)を理論化した。

・「個体と種の維持存続」の目的を実現する多様な生命構造(多細胞動物では行動の動因である欲求とその生存様式・形質)は、生存環境の多様性に対して、生命が主体的に選択・進化した結果である(主体性進化論)

 

H 動物の認知・行動様式が、どのように言語の獲得まで進化したか?

・動物は、環境の変化に対して刺激反応的に行動する。多様な環境に適応するには、環境刺激の的確な認知と活動方法(身体構造)が必要である。生命の進化は、「対刺激最適反応性」を実現する方向性をもつ(これは自然選択によるのではない)。

動物の認知・行動様式は、神経系の統合をめざして進化してきた。動物は適応的行動を取るために、知覚を高め、情報を蓄積し、的確な判断をする必要がある。

・ 動物の認知と行動は、個体維持(食糧・安全の確保)や種の存続(生殖・養育)をめざして、集団活動や敵の威嚇、求愛のための、意思疎通を図るために行われる。それらの実現のために、知覚能力・統合能力・表現伝達様式の高度化としての「人間言語への進化」がおこなわれてきた。



<言語の機能と起源―乳幼児の言語発達からの仮説

乳幼児は、生まれつき養育者の発話(音声信号≒言語)の意味を理解(知ろうと)し、模倣しようとします。化石人類もまた、仲間の行動や発声(鳴声、原言語)の意味を理解し模倣しようとします。つまり、両者ともに、言語は、音声信号の意味を問う(認知欲求・好奇心)ことから始まります。そして、集団生活(相互理解)をより適応的にするために、さらに多様で明確な発声と表現方法を工夫し創造するでしょう。その意味で言語の起源は、ヘッケルの「個体発生は系統発生をくり返す」に倣って「乳幼児の言語発達は、人類の言語進化をくり返す」と言えないでしょうか。

@ 言語の機能と思考・知識・行動の関係はどのようになっているか?

<言語は、意思伝達と情報処理(記憶・思考・創造)に加えて、言語的な知識・情報によって感情や行動を支配する機能がある。>

・意思・情報伝達:言語で伝える情報は単なる欲求や感情の表現だけでなく、思考による的確な情報整理法(普遍文法)を必要とします。

情報処理・思考言語表現(思考による文の生成)は、主観的曖昧性を避け、客観的正確性を保つだけでなく新たな文化的世界を創造してきた。

感情・行動制御言語表現・伝達の行動は、他者の行動・判断を左右するだけでなく、自己の判断や行動を自己制御する(知的・理性的制御)。

 

A 言語が人間の認知・行動に与えた影響は何ですか?

<言語(音声信号)は、個体と集団の認知(情報処理)能力を高め、物質的生産力を発展させたが、生活・行動の文化的複雑性を増大させてきた。しか〜し!>

生産力の発展道具の製作・火力の利用・科学技術の応用⇒生活向上

生活・行動・社会関係の複雑化呪術・宗教、私有財産・階級対立・自由主義・資本主義 (but)⇒成長の限界・環境破壊・資源枯渇・文明崩壊の危機

B 言語の起源の条件についてどんなものがありますか?

<「生命の起源」と同様に,再現検証ができないので,すべて仮説となる。>

分節発声の起源直立歩行、大脳・声帯の発達、複雑な発声が可能

認知・思考の発達直知的行動の抑制  自由な両手・道具の製作使用  疑問の解消と問題の解決  言語的情報蓄積  直観・洞察・因果の解明

・情報の相互伝達:道具製作・使用法の共有、狩猟等の生産活動、共同生活

認知情報の音声信号化言語表現の構造化⇒対象の状態と関係性の表現法則(主語・述語・目的語、何がwhatどうあるかhow?)⇒普遍文法へ

 

C 「乳幼児の言語発達は、人間の言語進化をくり返す」ことの意味は何?

<乳幼児の発達は、人類の誕生と言語の起源・発達を解明するヒントになる。

乳幼児の発達の特性「生理的早産」、可塑・模倣・好奇心、活動性、創造

言語発達喃語(アーウー、バブバブ)から一語文(状況文、1歳頃)、さらに二語文以上(分析・構成文、1.5歳頃)への言語発達の意味と、ハイハイから直立歩行と両手の自由な操作への身体の発達との関係は、化石人類の言語進化や道具製作、火の使用、呪術的観念との関連性を明らかにする。(曖昧・多義性から明確・限定性へ)

 

D 一語文の成立から二語文への発達の意味は?

<認知行動のステップ : 動物的な刺激反応的認知・反応から、人間的な音声信号操作への進化・発達 ⇒ 言語は、対象の音声記号化によって表象(イメージ・意味記憶を区別化し、その表象を直接的な認知・行動から独立させ、試行錯誤を通じて無限の操作・構造化(文化創造)を可能にした。>

動物の鳴声は直知的な欲求・行動に制約されるが、人間の言語(音声信号+表象・対象のイメージ・意味)は、言語使用(操作=思考・伝達)の欲求・行動(感情)からの独立性を高めた。人間言語は一語文であっても「自由な一語(多様で自由な意味をもつ一語)」である。

一語文から二語文への発達(飛躍)は、乳幼児にとっては完成言語を教示する養育者への「模倣と好奇心」によって可能になる。しかし、現生人類(ホモ・サピエンス)の言語進化にとっては、絶滅種(ネアンデルタール人等)とは独自に「対象(what)とその状態(how)=何がどうあるか?」の分析・構成によって獲得できたと考えられる。

 

E 一語文の獲得と道具の製作・使用が、人類の誕生とどう関連するか?

化石人類の言語の痕跡は限定的道具(石器)の製作や火の使用は、対象(石器や火)の「表象(イメージ)の固定化」が伴い、そのために一語文が使用されたことが想定される(危険動物を区別して知らせるサルが存在する)。

石器製作と両手の制御両手の使用は、リスや猿にも見られるが、人間の場合は直接的欲求充足でなく、製作・使用目的が間接的(時間的・空間的に)である。

 

F 二語文(構成文)段階の認知と行動が、幼児に与える変化とは?

認識・表現の分析・論理性対象とその状態についての文章表現、対象名詞と状態動詞・形容詞の区別と結合(主語+述語)、対象間の関係性の表現(主語+述語+目的語、名詞+助詞+名詞a book on the table等、 時間的空間的関係の表現が可能

因果関係への問い直知的・感覚的因果追求から、言語的表象の操作(how, why)によって空間的・時間的因果関係を拡大して認識することができる(洞察・了解的行動)。

 

G 二語文以上の構成文で、旧人と現生人類がどう分かれたのか?

旧人の一語文旧人(ネアンデルタール人)は二語構成が可能な語彙量(狩・行く、山・越える等の未分化語)を持っていたと考えられるが、一語(狩、山)とジェスチャーで二語分の意図を伝達し手板と思われるが、結局絶滅した。対象の区別・言語化には成功した(原言語)が構成文にすることはできなかった(「自由な一語」での停滞)。

旧人の停滞と新人の飛躍現生人類である新人は、一語文から二語文構成への飛躍に成功した。何が新人と旧人を分ける要因となったか?化石の分析から、旧人には正確な分節発声が困難であったとされるが、それと同時に、一語文の曖昧性に対する意味的正確さを求める欲求・関心が弱かったと思われる。直接的知覚に囚われれば、「対象(名詞)とその状態(動詞・形容詞等)についての分析的表現(主語+述語)」は必要なかったのである。

新人の知的適応力の向上言語記号の主観性・曖昧性の克服は、環境の多様性・不安定性・生存困難性に対する集団の連携・協働・結束の必要性から、適応的認知能力の進化・発展が求められた(曖昧性の克服、知的欲求の強さ5W1H等の疑問

 

H 文法の成立と情報の蓄積・再構成は、現生人類の文化をどう創ったか?

情報伝達の意味情報の認知・表現と伝達手段としての言語による仲間との交流と情報共有、集団生活による安心・安全の確保

文法の起源食糧獲得・危険回避・仲間との協働等への状況把握・問題解決(5W1H等の疑問解決)のための情報交換・共有

表象・観念の構成・創造言語による表象・観念の曖昧性の克服と創造(想像)⇒狩猟・採集道具の製作改良、集団生活の掟・タブー、呪術的世界観

 

言語起源論の意味は?

1)言語の起源は、生命の起源と同様に確定できない。しかし、生命が「言語を獲得した目的」は確定することができる。その目的は、生命を誕生させ生存させてきた環境(情報)についての正しい認識(知識)を種とともに共有し、生命の幸福な永続的生存を確保するためである。

2)言語が、人間の知識の根源にあり、その起源の解明が人生の意義や幸福について明らかにできるなら、人間は創造主による世界支配の神話を必要としなくなる。

3)人類が、人間存在と世界についての普遍的な認識や価値を持つことができれば、世界平和や地球温暖化、持続的成長や人類福祉についての共通理解によって人類の生存の困難を軽減することができる。

 

(番外) 人間はなぜ宗教や思想を必要としてきたのでしょうか?  ? 参照
1)言語の獲得が、森羅万象への好奇心や疑問に対する認識の質を高め、非科学的知識のもとではあったが、人生への疑問と解答を今日に至るまで、深化させてきた(呪術的世界観から神話・宗教、そして科学的世界観への人間の思想史)。

2)今日までの多様な思想は、宇宙の神秘や生命の有限性、人生や社会の不条理に伴う人生苦に対する多様な疑問や問題解決を目的としていた。

 (西洋思想・宗教の多くは、神や自然法の合理性や絶対性に解決と救いを求めた。東洋思想の多くは、自然そのものの非合理性(無常・無限性)の中で安心立命を求めることに救いを求めた。)

3)多くの思想家・宗教者は、上の疑問に挑戦し人生苦からの解放や永遠の幸福を求めて思索を重ねてきた。しかし、すべての過去の思想は、「言語とは何か?」(知ることの意味=認識論)の問いに答えられず、今日混迷状態にある。

 (ギリシャ・ヘレニズム思想では、自然に対する人間の精神世界の絶対性(理性・ロゴス)を求め、キリスト教では創造神への依存(愛・信仰・希望)が強調され、近代思想では経験論(功利主義・唯物論)と観念論(現象学)が主流を占めてきた。)

4)すべての過去の思想・宗教教義は、今日では政治や経済に取り込まれ、権力支配や利害対立に利用されて、哲学的経験論や観念論だけでなく、実証にもとづく科学的世界観自体が閉塞状態に陥っている
5)どうすればいいのか?――言語認識の主観性・曖昧性を自覚して、人類についての共通理解を模索すること。具体的には、まず宗教(神または仏などの絶対的救済者、愛や慈悲、善や悪など)の存在(創造)意義を問い直すこと、またそれらの知識・教義の根源的な問い直しと再構成をすること・・・・・・多くのヒトの力が必要です!



◇ 人間として生きることと言語の関係:

 生命には生存の維持・存続という意味(目的)があり、生命として言語を獲得し生命進化の頂点にある人間は、その生命存在の意味(個体と種の存続)を言語的に的確に表現し(「生き続けよう」と)、体現しなければなりません。言語獲得の意義は、生命が環境の状態(刺激・情報)を言語的に認知し、社会的(相互的)に伝達・共有して、言語的思考(理性・ロゴス)によって的確に生存活動を行えるようにするものです。ただ、認知や伝達には誤りや意図的な欺き・嘘があり、道具としての言語は十分慎重に検討して理性的に使うのが望ましいものです。



ダーウィン主義(総合説)の批判 】
 今日ダーウィン主義(総合説)は、エピジェネティクス(後成遺伝学)の新たな発見である「獲得形質の遺伝が起こりうる」という知見によって大きく揺らいでいる。「獲得形質は遺伝しない」という原則は、20世紀分子生物学に支えられた進化論の常識であった。しかし、21世紀になって遺伝子DNAの制御に関わるエピジェネチックな機能が生殖細胞に影響をもたらし、獲得形質でも遺伝することが実験的に確かめられるようになってきた。このため総合説を提唱してきた著名な生物学者のドーキンス,R.やグールド, S. J.、マイア,E.等のダーウィン主義者の主張が揺らいでいる。以下に彼らの主張と問題点を批判する。

 【ドーキンス,R.『利己的な遺伝子』日高敏隆,岸由二 他訳1991、『ブラインド・ウオッチメイカー(盲目の時計職人)』日高敏隆監修1993】
「われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。」(1976年版へのまえがき)
「自然淘汰は盲目の時計職人である。盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についてのもくろみをもたず、めざす目的がないからだ。」

 【グールド, S. J.『ダーウィン以来 : 進化論への招待』浦本昌紀, 寺田鴻訳,早川書房,上巻 1984】
「ダーウィン理論の本質は、自然淘汰は進化にとっての創造的な力であって、単に不適者の死刑執行人にすぎないのではい、という主張にある。自然淘汰は適者を構築するのでもなければならない。自然淘汰は、変異の無方向な幅の中から環境に対して有利な部分を世代から世代にわたって保存することで、段階的に適応をうち立てているはずである。自然淘汰が創造的であるためには、変異についてのわれわれの第一の言明は、次のニつの制約を追加することで拡大される必要がある。

 まず第一に、変異は無方向でなければならない。あるいは少なくとも、あらかじめ適応への傾斜をもつものであってはならない。なぜなら、もし変異があらかじめ正しい方向に向けられて生ずるなら、淘汰は何も創造的な役割を果たすのではなく、正しい方向に変異していない不運な個体を排除するだけのことになってしまうからである。ラマルク主義は、動物たちはその必要に創造的に反応し獲得形質を子孫に伝える、と主張するが、この点で非ダーウィン的理論である。遺伝的突然変異についての現在のわれわれの知識からすると、変異はあらかじめ適応への傾斜をもつように方向づけられてはいないと主張した点でダーウィンは正しかった、と考えられる。進化は偶然と必然との混在である。偶然というのは変異のレべルにおいてのことであり、必然というのは淘汰の働きにおいてのことである

 第二に、変異の規模は、新しい種が確立される際の進化上の変化にくらべて、小さくなければならない。というのは、もし新しい種がたった一回の変化で生ずるとすれば、淘汰は、自分が手を貸しもしなかった改良品に道をあけるために、先住者を除去しなければならないだけのことになるからである。この場合にも、遺伝学について現在われわれが理解しているところからすると、小さな突然変異が進化的変化の素材であるというダーウィンの見解は支持される。」(p12-13下線は引用者による)

「ダーウインはモラルを欠いた愚か者ではなかった。ただ彼は、西欧思想に深く浸みこんだあらゆる偏見を自然に対して押しつけるのを好まなかっただけである。実に、真のダーウィン的精神は、西欧の傲岸さお好みのテーマ、つまりわれわれはあらかじめ運命づけられたプロセスの最高の被造物であるから、地球とそこに住む生物をコントーロールし支配するようになっているのだという考えを否定することによって、涸渇した世界を救うものであると私は主張したい。」(p15下線は引用者による)


【マイア,E.『これが生物学だ : マイアから21世紀の生物学者へ』 八杉貞雄, 松田学訳. シュプリンガー・フェアラーク東京, 1999.】
「ギリシヤ時代から19世紀まで、世界の変化が偶然によるのか必然的なのかという疑問について大論争があった。この古くからの難問に明快な解答を与えたのダーウインであった。変化は両方によるのである。変異の生産では偶然が支配し,一方選択自身は主として必然的に作用する。しかしダーウインが「選択」という用語を選んだのは不幸であった。なぜなら、その用語は自然には故意に選択する何らかの要因があることを意味するからである。実際は「選択された」個体は、単に、すべてのあまり適応していない、あるいはあまり幸運にめぐまれていない個体が個体群から除去された後に生存しているにすぎない。したがって選択という用語は「非ランダム排除」という用語で置き換えるべきだということが主張されてきた。おそらく進化生物学者の大部分をしめる、選択という用語を使い続ける人々も、それが実は非ランダム排除を意味し、自然には選択の力など存在しないことを決して忘れてはならない。我々はこの用語を、ある個体の排除を引き起こす負の環境の全体としてのみ用いる。そして、もちろん、そのような「選択力」は環境要因と表現型の資質の複合体なのである。ダーウイン主義者はこのことを当然のこととみなすが、彼らの反対者はしばしばこの用語を文字どおりに解釈することを非難するのである。」(p215-6 下線は引用者による)


【説明 】
 まずは過激な主張だが説得力ある論理で有名なドーキングについて、
 偶然(contingency)か必然(necessity)かは、ものごとの変化の捉え方による。変化の原因が説明不能なほど多ければ偶然と言われるし,単純であれば必然と言われる。級友と50年ぶりにあった場合、繁華街で会えば偶然だし,クラス会で会えば必然と言える。ダーウィンのような育種的感覚で進化を捉えれば、有利な「偶然的変異(突然変異)」の定着(適応)を必然的な自然選択によるとして小進化を認めることができることもある(交配可能な亜種)。しかし、単細胞から人類に到る大進化を考えるなら、変異(の生産)の累積を通じた進化には、環境への適応の多様化(安定的形質として)と高度化(例えば神経系の発達)という「進化の方向性や必然性」が認められる。

 また、ダーウィンによる「自然選択」という用語の使用法の「選択の不幸」は、決して不幸という問題ではなく西洋思想の必然的な限界を示している(参考⇒「西洋思想批判」)。彼の「自然選択」は、『種の起源』における致命的な誤りであり、経済学者アダム・スミスの「見えざる手」と同様、当時の思想界における「自然法」思想に由来することは明らかである。19世紀はニュートン的な合理的法則(時空の絶対性≒創造神が前提)が、自然や社会を支配していると考えられていた。それは「自然選択」にも反映され、キリスト教の創造説を否定するけれども、合理的科学的解釈であると考えられていた。当時の自然法を根拠とする思想家たち(万有引力のニュートン、社会契約論のホッブスやロック、自由放任のスミス、人口論のマルサス、唯物史観のマルクス等々)の主流は、いずれも限界のある思想系列に属しているのである。

 著者のマイアは、今日「選択」という用語が優劣をともなって差別的であると誤解されるのを恐れて弁明をしているが、ダーウィンには弱肉強食・優勝劣敗を進化論の自然法則として認める傾向があったのである。個体と個体、集団と集団、種と種の間の生存競争が、共存共栄とともに自然の摂理であることは生態学的事実であり、生物進化・多様化の基本である。しかし、それは自然の領域でも生物自然の選択(生命選択・適応⇒主体的適応選択)の問題であり、人間で言えば、言語を獲得した人間の道徳的選択(イデオロギー)の問題なのである。つまり、ダーウィンが、第三者的な自然法則に道徳を委ねたか、それとも人間の問題を自ら主体的に解決するべきであると思ったかの違いなのである。それは彼の『人間の由来』における優生学的発想を見れば明らかである。以下の『人間の由来』における主張を読者はどのように読まれるだろうか?

 「人類の福祉をどのように向上させるかは、最も複雑な問題である。自分の子どもたち卑しい貧困状態に陥るのを避けられない人々は、結婚するべきではない。なぜなら、貧困は大きな邪悪であるばかりか、向こう見ずな結婚に導くことで、それ自体を増加させる傾向があるからである。一方、ゴールトン氏が述べているように、慎み深い人々が結婚を控え、向こう見ずな人々が結婚したなら、社会のよくないメンバーが、よりよいメンバーを凌駕することになるだろう。人間も他の動物と同様に、その速い増殖率からくる存続のための争いを通じて、現在の高い地位に上ったことは疑いない。そして、もしも人間がさらなる高みへと進むべきなのであれば、厳しい競争にさらされ続けていなければならない。そうでなければ、人間はすぐ怠惰に陥り、より高度な才能に恵まれた個人が、そうでない個人よりも、存続のための争いで勝ち残るということはなくなってしまうだろう。そうだとすると、われわれの自然な増加率が高いことは、多くのあからさまな悪へと導くには違いないにせよ、それを何らかの手段で抑えようとすべきではないに違いない。すべての人々は、競争に対して開かれているべきで、最もすぐれた人々が、最も多くの数の子を残すことは、法律や習慣によって阻まれるべきではない。存続のための争いは重要であったし、今でも重要だが、人間の最も高度な性質に関する限りは、さらに重要な力が存在する。自然淘汰は、道徳感情の発達の基礎をなしている、社会的本能をもたらした原因であると結論してかまわないだろうが、道徳的性質は、直接的にせよ間接的にせよ、自然淘汰によってよりもずっと強く、習慣、理性の力、教育、宗教、その他の影響を通して向上するのである。」(チャールズ・ダーウィン『人間の由来』下巻 長谷川眞理子訳  講談社, 2016、p490-491)

 ダーウィンにとっての「社会的本能」とは「存続のための争い」であろうが、生物にあるのは争いばかりではない。生物の社会には、共存や共生、さらに棲み分けという社会的本能が存在します。人間道徳の基本になる理性の力や宗教は、争いや不安を克服し、永続的な平和と安心を求める生命の本性から人間が主体的に創造した価値観なのです。生命の誕生以来、生命は自然淘汰(選択)という第三者的要因だけによって進化してきたのではなく、個体と種の存続のために、変化と多様性の環境に適応して多様な生存様式を主体的に創造してきたのです。とりわけ人類は、言語を獲得することによって想像力や構想力を身につけ、神による世界創造や自然選択という「おとぎ話」創る能力で、自らを欺いてきました。しかし、今や歴史は、生命(人類)の真実のあり方を自覚することによって、人類社会の平和共存と幸福安寧を実現できる希望を持つことができるステージに到っているのです。

 ドーキンスのこの有名な命題は、彼の博学で説得力ある文章にもかかわらず、西洋的合理主義の浅薄さを示すものである。生命誕生の謎は解明することが困難であるが、細胞質の代謝エネルギー利用の


<哲学カフェ5期第3回2019年7月27日(土)>

人はどうして言葉を話すようになったのだろう?

 ――人間にとって言葉の持つ意味とは何か?――

                              

 私たちは日常生活の中で、何気なく言葉を使って会話や考え事をしています。自分の話す言葉や言葉を使って物事を考えることについて、特に気にしたり疑問に思うことはほとんどありません。でも、人の話が聞き取れなかったり、誰かが自分の噂(ウワサ)をしたり、幼児が意味不明の発話をしたりしたとき、一体何を言ってるのかその意味を知りたくなるでしょう。その疑問を聞きたいと思ったり、話してみたくなることがあるでしょう。また、私たちは、なぜ、何のためにこの世に生きているのかについて疑問に思うこともあるでしょう。

 他の高等動物は、動物として多くの点で人間と同じような生きるための困難(食糧や安全の確保、良き伴侶の獲得等)に直面し、考えたり情報交換をします。しかし、言葉を持たないために、論理(文法)的に表現・伝達したり記憶することはできません。だから自然への疑問や生きていることの意味を問うことも思い悩むこともありません。

 人間の乳児も一年間ぐらい言葉を話せません。人間の乳児は他の哺乳類に比べて生理的早産と言われ、養育者に依存する期間が長いですが、ハイハイができるようになると、好奇心(探索・疑問「何?」)を発揮して動き回り、又養育者の行動を進んで模倣します。乳幼児が言葉を話せるようになるのは、1歳前後から二足歩行が可能になり、「ママ」「マンマ」等の単語(一語文)が発音できるようになり、一歳半になると幼児語としての二語文(「ママ来て」)が話せるようになります。一語文、二語文の意義を考えると化石人類との比較が分かるようになります。

 さて人類はなぜ、どのようにして言葉を話すようになったのでしょう。言葉の起源の謎を解明すると、哲学上の難問の多くが氷解していきます。

人間にとって言葉とは何か? 言葉の働きとは? 知識とは? 心とは?
言葉はどのように自分や他人を操り、動かし、騙し、諦めさせるのか?


「長年にわたって、真のエピジェネティックな遺伝はありえないとされてきた。これまでは、精子や卵子が作られる段階で エピジェネティックな特徴はすべて取り除かれ、それでも残っていたエピジェネティックな付着は、受精直後のリプログラミングで除去され、新しい世代はどれもエピジェネティックには白紙の状態から出発すると考えられてきたのだ。しかしながら、近年、エピジェネティックな特徴はリプログラミングによってすべて消えるわけでないことがわかってきた。環境的要因が誘発したものなど、エピジェネティックな変化の一部は除去されず、次の世代に伝えられるのである。」
  (リチャード・C・フランシス『エピジェネティクス 操られる遺伝子』野中香方子 訳ダイヤモンド社2011 )

 「獲得した表現型の変化は、DNAという台本の上に何らかの方法でフイードバックされてそのDNAの情報を大きく変える必要があり、そうすることで獲得した形質が世代という時間を超えて親から子どもへ伝えられる。」
                (ネッサー・キャリー『エピジェネティクス革命』中山潤一訳 丸善出版 2015)