ダーウィンの自然選択説批判――生命適応進化説による――
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★人類の言語の起源や進化は多様で複雑な環境に対する生命の主体的生存力(内的要因としての多様な個性・適応力・認識力・好奇心)を自覚することなしに論じることはできない。
 なぜか?生命細胞における生化学反応は、生存(生命)の持続を目的(注)にしている。生命活動は無限に変化する環境との相互的刺激反応関係(縁起性・相依性)による均衡(恒常性・ホメオスタシス)の維持そのものであり、それは代謝や遺伝における有限な生化学反応の主体的持続力(生細胞構造維持力)を前提としているからである。生命進化とは、有限な生命の無限な環境への適応様式の多様化であり、進化論とは、生命の生存様式の適応多様化論である。(注:進化は生命の存続を目的としており、その目的は生命の誕生以後に発生した。)
★ 自然は、「生命にとって有益かつ有害な変化(突然変異を含む)をするのみ」であり、自然(外的要因または進化を制御する法則)が主体的に競争的選択をするのではい。
 この文は「有益または有害または中立的変異」が正しい、とされる方がおられるだろうが、内外環境自体も無限の変化をするから、変化の益害(損益)は生殖を介して永続的に見た結果としてしかわからない。
 自然(人為に対する自然、外的要因、環境)が生命の適応的な生き方(生存様式)を選択するのではなく、
生命が有益かつ有害で多様な自然(環境)への、多様な生き方(種としての多様な生存様式;個性・変異性)を選択して、適応的に生存を存続する。しかし、諸生命が独自の生き方を選択しても、永続的適応(生存)となるとは限らない。生命(自然:進化の内的主体的要因・適応)を誕生させた環境(自然:進化の外的法則的要因・競争ではなく物理化学的要因)は、無限の変化をするが、生命は有限の存在だから適応(共生的かつ競争的生存という内的要因)には限界がある。自然の変化に適応(変異)できない生命は存続することができない。生命の進化(DNAの生化学的変異)は、環境の変化に応じた生命自体の選択的適応変化によるのであって、自然(外的要因)の選択によるのではない。生命は、偶然的(と見えるよう)な突然変異を行うし、また獲得形質を選択的に遺伝することもできる
生物学(総合説)における自然選択の発想は、絶対的な選択主体(外的要因)が、生命自然(内的主体的要因)ではなく環境自然(外的自然法的要因)であると考える(自然法概念全能説)
  しかし、自然は競争的選択をする主体ではなく、逆に、生命(内的要因)こそが自然(外的要因)の無限の変化と多様性に合わせて自己の生き方・生存様式を競争的・共生的・適応的に選択しているのです。人間は生命であり、生命は自然(不可知な絶対者・無限)の一部だから、自然の法則性は、自然(個体間、種間競争による適者生存法則)の立場からではなく、無限の自然に対する有限な生命すなわち人間の立場から生命の変化(進化・多様化・複雑化)を探究しなければならない。科学的知識(探求)の出発点(選択判断の原点)は、自然(神=絶対者=創造主=外的要因)からではなく、人間の認識能力(すなわち言語的知的能力) から始めなければならないのです。そしてその言語能力でさえ生命の内的選択的適応能力によって「獲得」(遺伝子変化)されたのです。  

★ 生存に有利な変異はどうして起こるのか?偶然(突然変異)か、必然(合目的的変異=獲得形質)か?
 という問に対して、「主体性(内在性)進化論」は次のように答えます。生命は、内外環境(自然)の不断の変化に対して「生命存続のための適応(主体的適応)」を目的として、変異(適応・調整)を含む生化学反応を常時行っている。そのエピジェネティッ クな反応過程での適応的獲得形質の遺伝、すなわち細胞質・体細胞の適応変化(おそらく種々のRNAの働き)から核・生殖細胞・DNAへの影響(相互作用)は必然である。これは分子生物学の主流の中心原理central dogma(DNA⇒RNA⇒タンパク質)を制御する反対仮説となります(レトロウィルスによる逆転写等)。なお偶然と突然変異とは直接結びつきません。偶然というのは想定外のことを示す概念で、人間の認識能力の有限性を表わしているのであって、理想的な科学的認識には必要のない概念です。また突然変異(mutation)における「突然」は訳語として必要なく、遺伝子の置換、欠損、または挿入等の生化学反応の「ミス」とされても、単に通常とは異なる環境条件の変化刺激のために「反応の変化」が起こったのです。だから、生存や繁殖に影響を与える変異反応であっても科学的な因果関係にもとづいた反応なので、偶然も突然も必要ないと言えるのです。
  「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。」(『平家物語』)
 「自然選択説のイデオロギー性」については『人間存在論 前編』 (2001)ですでに紹介しています。ダーウィンは、 『種の起源』(1859、ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION, OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE.(自然選択の方法による種の起源につい て、すなわち生存闘争における有利な種族の保存)において、種の起源が生存闘争と自然選択によることを述べて いる。しかしそこでは、生命の多様な生存様式(多様な種と種内の個性:多様な遺伝子DNA)が、多様な環境(物理化学的生態学的環境)の中における それぞれの適応様式であ り、「個体と種族の存続をめざした多様な変化(適応化)の結果生命の活動目的は、多様な環境への主体的な適応 的生存維持)」であることが強調されていません。種は、多様な環境への多様な生き方であり、自然が選択するもの ではなく、多様な自然(外的要因)に対する生命自体の適応選択よりわかりやすく言えばエピジェネティックな遺伝↓が可能な、競争的・共生的自己適応・変革力)によりますこれは生命自体の選択的変容(突然変異を含む獲得形質)が、適応的であったか否か という問題であって、結果的に不適応であれば、種としての安定的生存や繁栄が得られず、種を形成しないということです。
 つまり多様な自然(物理化学的・生態学的環境)の厳しさや生きることの困難に適応できなかった生命が、種としての存続に失敗(絶滅の「方向」 の選択)したのであって、その失敗を自然(外的要因)による選択(ダーウィンにとって、生命の多産・繁殖による生存闘争・適者生存が自然 の法則である)ということはできません。種として生存している適者は、自然が選択したのでなく、自然が 無限の選択の機会(選択の失敗もあり得る)を生命に与え、それに適応(変異)選択した形質を持つ生命が一つの種を形成す ることになるのです。(その意味で適応は失敗することもあり、人類も絶滅の「方向」を選択する可能性があります。生命は適応の可能性をめざして常に選択しているのです。)
 生命の進化、とくにここでは言語を獲得した人類の進化を問題にするので、「神経組織を持った動物の行動様式の 適応進化(刺激認知と反応行動の統合化)」について、動物(生命)が、与えられた環境の多様な状況に応じて、多 様な一定の方向性(自然が方向性を選択するのではない)を選択することになります。つまり、動物は外界の無限に複 雑な環境状況(の情報)に対して、生存を維持するために的確な認識と分析(選択・判断・思考)による的確な適応的行 動が必要とされます。それらの「認識と行動」は、感覚器官と情報処理能力、そして行動能力の進化(環境に応じた適応) によって多様な動物の生存(行動)様式をもつ動物種として地上に出現してきました。動物の生存様式の定向的進化(神 経系の大進化)は、人類において最高度に達し情報処理器官としての大脳の発達をもたらしました。この状態は「言語 による情報伝達と認知能力の飛躍的発達」となり創造(想像)力を高め、人類の文化と文明の発展の原動力となったのです。
 さてこの適応生存能力は自然選択によるのか、それとも生命の主体的な選択(生命選択)によるのか、今までも今西錦司による自然選択説に対する批判的議論がありました。「生命言語理論」は、今西の問題意識を継承しています(種 の進化=多様化は、「適者生存」の原理を前提として特定環境への「棲み分け適応=選択」と言うことができます。また「共生適応」もごく一般的な生存様式です)。つまり、生命も自然の一部であると は言え、自然から特化して生命が誕生したのであり、その生命の主体的生存力(適応力)注※を自覚することなしに、 人類や言語の起源を論じることはできないという考えです。西洋の合理主義思想においては、総じて生命や人間を、 「不死の神々」(ギリシア神話)や「創造神」(ユダヤ・キリスト教)、または「自然法」(古代ギリシャ・ローマ、近代合理主義の外的ロゴス主義)の支配下にあると考えてきました。「生命言語理論」では、このような西洋思想の限界性を克服し、新たな人間生命中心のものの見方考え方(内的ロゴス・言語主義)を提供しようとするものです。これは、理性中心の近代ヒューマニズムの限界を超えるものでもあります。
 結論として、ダーウィンの『種の起源』の表題は、次のように改めて全面書き直しされるべきなのです。すなわち、ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF ADAPTIVE SELECTION, OR THE PRESERVATION OF FAVOURABLE RACES IN THE ADAPTATION FOR LIFE.(適応的選択の方法による種の起源について、すなわち生存のための適応における 有利な種族の保存)となります。ここで「適応」とは、個体と種族を取り巻く環境に対する闘争と共生を含みながら多様な生存様式、すなわち多様な形質をもった種の生態学的存続をめざすことを意味します。また、FAVOURED 「有利に された」は、受動態になりますので、これを主体的・適応的に有利となるように、FAVOURABLEと可能態にします。『種の起源』第4章の表題は、第一版では単に「自然選択」でしたが、第五版では“or the Survival of the Fittest適者生存)”が加えられ多少現実的かつ適応的になりました。新たな「種の起源論」があるとすれば、「自然選択」の用語は批判的にのみ記述されるでしょう。日本語訳に「自然淘汰」というのがあって著名な学者が多く使用していますが、淘汰は排除の意味が強く、ダーウィンの意向とも異なり(第四章を読めばわかる)誤訳と言えます。自然選択は人為選択(the power of man in accumulating by his Selection ;序言から)という外的な操作(育種・品種改良における選択)と同様に、「自然の生存闘争という外的な選択の力」を対比した用語です。しかし、生存闘争は生存の維持存続という生命の内的な活動(衝動・本能)なのであって、自然選択という概念によって生存闘争や繁殖を含む生命の内的主体的な適応性(変異性、刺激反応性)を排除しているのです。ダーウィン自身は自然選択が「唯一のものではなかった」と強調しているにもかかわらず(Natural Selection has been the main but not exclusive means of modification. ;序言、第六版十四章)、多様な環境の無限の変化に対する生命の適応的変化(変異反応)は、生命誕生以来の生化学反応の適応的原理であり、この原理を排除することは生物進化はもちろん生命の本質理解を混乱に導く元凶なのです。

注※ 主体的生存力(適応力)とは、ランダムで偶発的な突然変異を含み、適応力によってすべての生命の適応的生存が実現するとは限らない。 非合理的な無限の環境(運動・変化)への安定的な生存(種の形成)は、特定の有限な環境に適した合理的・適応的形質によって可能となる。しかし、 変異にお けるすべての形質が適応的であるわけではなく、環境の無限の変化に対応できずに偶発的な変異を生じることも適応力に含まれる。ある 意味、生命が不適応な変異を可能にしていること自体が適応力なのである。生命の進化は、「対刺激最適反応性」を実現する方向性をもつ(これは 自然選択によるのではない)。
 適応は、生存(生殖)か、絶滅(不稔・不妊)かを結果としてのみ評価でき、そのことを「自然選択」と形容することもできる。しかし、生命は絶滅が予 想される不適応な突然変異をしても、その偶発性・多様性によって、様々な適応生存の可能性を開くことができる。生命は、環境の不安定性のなか の「一時的な安定的存在」なので、結果的に不適応な生存形態となる突然変異であっても、生命の一つの生存形態なのである。生命の進化、すな わち安定的な種の形成は、地球環境の無限性と生命の不安定性を前提にしていることの理解が、合理的自然選択説による進化論にはみられない ことから、あえて生命主体の適応力の意義を強調する必要があると思われる。(今西の議論では、「種の主体性」が強調される傾向があったが、わ れわれにとっては、「生命の主体性」すなわち個体と種にとっての主体性を意味する。また今西には「環境の無限性と生命の有限性」という観点は ない。)

 
<エピジェネティックな遺伝――獲得形質も遺伝することがある>  「長年にわたって、真のエピジェネティックな遺伝はありえないとされてきた。これまでは、精子や卵子が作られる段階で エピジェネティックな特徴はすべて取り除かれ、それでも残っていたエピジェネティックな付着は、受精直後のリプログラミ ングで除去され、新しい世代はどれもエピジェネティックには白紙の状態から出発すると考えられてきたのだ。しかしながら、 近年、エピジェネティックな特徴はリプログラミングによってすべて消えるわけでないことがわかってきた。環境的要因が誘 発したものなど、エピジェネティックな変化の一部は除去されず、次の世代に伝えられるのである。」   (リチャード・C・フランシス『エピジェネティクス 操られる遺伝子』野中香方子 訳ダイヤモンド社2011 p105-106)
 ※注:エピジェネティック(epigenetic)とは、「後成的」と訳し、生物の形質や構造は、発生の過程において次々に新しくできあがっていくもので、最初か ら仕込まれているもの(アリストテレス由来の前成説)ではないという後成説(epigenesis)の考え方にもとづく。学問としてはエピジェネティクスと言う。エピ ジェネティックのエピは「後または上」、ジェネティックスは「遺伝学」、あわせて「遺伝を修飾・調整・制御するような」という意味の形容詞。 参照⇒NHKスペシャル人体U「遺伝子」第2集 "DNAスイッチ"が運命を変える  更新日2019年5月12日
☆ 生命進化の新原則(主体性進化論)
新しい進化の原則となる「主体性進化論」の要約
  「生命の進化は、自然環境の無限の変化と多様性に対する、生命の主体的な適応的選択による生活様式の変異と多様化である。生命の生存活動(生化学的反応)は、基本的に適応的ではあっても闘争的ではない。また、選択的であっても競争的ではない。生命は無限の自然(進化の外的要因)に適応する限界(程度と手段、競争と共生)をわきまえている。生命は生き続けるために自ら適応的に進化する。」
 その原則は以下のとおりです。
@ 自然は選択するのではなく、競争と共生を含む無限の変化と多様性の状態にある。
A 進化とは、無限の変化と多様な自然(外的要因)に対し、生命が自らを多様に適応・変異・進化させることである。
B 生命は変化に適応するために、自らの生活様式と環境を選択するが、その選択は有限であり失敗することがある。
C 生命の選択の基準は、個体と種の持続を目的とする適応性(適応選択)であり、その分子生物学的(生化学的)な選択・
変異反応を、誤って「自然選択」と言わず「適応選択」と言うべきである。 
D 動物の行動原則は、自らの内的外的環境からの刺激・変化の的確な認知と適応的な行動である。
E 生命の適応進化は、多様な環境における多様な生存様式への変化と安定性への主体的な追求である。
※ 補足:遺伝子突然変異は、偶然的・ランダムに起こるのではなく、必然的に起こる物理化学反応である。また、適者生存(自然選択)は、必ずしも持続的な安定的新種形成に至らない。

<生命と動物の進化論>

 生命は、原始地球に誕生して以来、無数の生存形態(種)に進化多様化)してきたが、それらは@なぜ、A何のために、そして、Bどのようにして行われてきたのでしょうか?――その答を得るために、生命の生存原則、動物には行動原則を知る必要があります。

 生命の生存原則としては、まず、「生命は、不断に変化する原始地球環境の所産であり、危険と安全を伴う無限に多様な環境での永続的生存を目的としている」ことを前提としなければならない。その上で、全生命に共通する三大生存原則は、

A.生命の原初的恒常性維持機能(代謝・適応・生殖)の存続追求、

B.無限で多様な地球環境への有限な恒常性維持のための生存形態の多様化、

C.多様な生化学的変異と無限で多様な環境への適応生存(適応選択進化論)

と考えられる。それに加えて、

 動物の行動原則は、次のようになります。(動物は多細胞・後生動物。海綿・平板動物は除く。)

A.生命(動物)は、環境における無限の刺激情報の中から、生命恒常性の維持(欲求の充足)のために、刺激を選択的に知覚(受容)し、快を求め不快を避ける行動をとる。

B.欲求が充足され生存が維持される場合、快反応として中枢神経系で快楽物質(ドーパミン等)が放出され、快感情(主に哺乳類の快楽、安心、満足等の肯定的感情)を知覚し、その経験は主に神経細胞に記憶され(学習)、次の快を求める行動に向かいます。

C.反対に、生命恒常性の維持に障害がおこり、安全や快楽を損なう事象が発生するようになる場合、不快感情(不快や苦痛、怒りや恐れ等)が生じ、快感情と同じように、その経験は記憶され、不快を与える事象(原因)から逃避したり、その事象を排除・克服しようとします。

D.快を求め不快を避け内的恒常性を求める過程で、外的環境に対しての行動手段(感覚器官や胴手足等の筋肉器官)や行動様式は、生命の刺激反応原則に従って、知覚・判断・記憶・行動を制御する神経系の発達を伴い、中枢・末梢神経等の分化・統一へと進化してきました。



【ダーウィン主義(総合説)の批判】

★ 生命進化(多様化)の傾向は、多様な環境への多様な主体的適応生存であって、ダーウィンの『種の起源』におけるような生存競争と自然選択にもとづく適者生存ではない。
 『種の起源』を継承する「自然選択説」のように競争に有利な偶然的(突然)変異が子孫を増やすのか、それともラマルクや今西錦司に親和性をもつ「適応進化説」のように、競争と共生を含む適応的変異が子孫を存続させるのか?別の言い方をすれば、競争に有利な突然変異が、自然から選択されて生き残り、子孫を増やすのか、それとも多様な環境に対する適応的生存を求めて主体的に変異をするのか?このような二者択一は、神による「創造説」に対抗しながら、19世紀以来、種の多様性の起源を求めて論争が続けられてきました。
 今日でも、神の存在を前提とした「創造説」を支持することは、一部の宗教的な立場で強力に主張されていますが、科学的な立場で人間の被造物である神を創造主とすることはできません。そこで問題は、「自然選択説」と「適応選択説」の二者択一ということになるのです。
 つまり、競争的生存の結果、自然選択的に進化(多様化)するのか、それとも適応的生存を求めて主体的に多様化(適応)するのか?競争の結果進化するのか、適応を求めて進化するのか?ということになります。ダーウィン的進化論は、生命の立場からではなく、「創造主(『種の起源』第六版末尾)※注↓」に擬した自然の立場から、「自然による選択」という有限な人間の知的洞察力によって創作されたものとなるのです。
 しかし、「適応選択説」の立場からは、生命の生存の目的は、無限に変化する環境への適応的生存の永続化であって、種内種間における生存競争への対応は、適応的生存の一側面にすぎません。適応するべき、またそのための変異は、競争を含めた無限に多様な自然――物理化学的、地学的、生態学的自然への適応なのです。決して競争の勝者だけが、増殖し生存を続け新たな種をつくるとは限りません。

(※注 There is grandeur in this view of life, with its several powers, having been originally breathed by the Creator into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone cycling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being evolved.(『種の起源』第六版第十五章末尾、by the Creatorを第二版で追加

 今日ダーウィン主義(総合説)は、エピジェネティクス(後成遺伝学)の新たな発見である獲得形質の遺伝が起こりうるという知見によって大きく揺らいでいる。「獲得形質は遺伝しない」という原則は、20世紀分子生物学に支えられた進化論の常識であった。しかし、21世紀になって遺伝子DNAの制御に関わるエピジェネチックな機能が生殖細胞に影響をもたらし、獲得形質でも遺伝することが実験的に確かめられるようになってきた。このため総合説を提唱してきた著名な生物学者のグールド, S. J.やマイア,E.等のダーウィン主義者の主張が揺らいでいる。以下に彼らの主張と問題点を批判する。

グールド, S. J.『ダーウィン以来 : 進化論への招待』浦本昌紀, 寺田鴻訳,早川書房,上巻 1984】
「ダーウィン理論の本質は、自然淘汰は進化にとっての創造的な力であって、単に不適者の死刑執行人にすぎないのではい、という主張にある。自然淘汰は適者を構築するのでもなければならない。自然淘汰は、変異の無方向な幅の中から環境に対して有利な部分を世代から世代にわたって保存することで、段階的に適応をうち立てているはずである。自然淘汰が創造的であるためには、変異についてのわれわれの第一の言明は、次のニつの制約を追加することで拡大される必要がある。
 まず第一に、変異は無方向でなければならない。あるいは少なくとも、あらかじめ適応への傾斜をもつものであってはならない。なぜなら、もし変異があらかじめ正しい方向に向けられて生ずるなら、淘汰は何も創造的な役割を果たすのではなく、正しい方向に変異していない不運な個体を排除するだけのことになってしまうからである。ラマルク主義は、動物たちはその必要に創造的に反応し獲得形質を子孫に伝える、と主張するが、この点で非ダーウィン的理論である。遺伝的突然変異についての現在のわれわれの知識からすると、変異はあらかじめ適応への傾斜をもつように方向づけられてはいないと主張した点でダーウィンは正しかった、と考えられる。進化は偶然と必然との混在である。偶然というのは変異のレべルにおいてのことであり、必然というのは淘汰の働きにおいてのことである。
 第二に、変異の規模は、新しい種が確立される際の進化上の変化にくらべて、小さくなければならない。というのは、もし新しい種がたった一回の変化で生ずるとすれば、淘汰は、自分が手を貸しもしなかった改良品に道をあけるために、先住者を除去しなければならないだけのことになるからである。この場合にも、遺伝学について現在われわれが理解しているところからすると、小さな突然変異が進化的変化の素材であるというダーウィンの見解は支持される。」(p12-13下線は引用者による)

「ダーウインはモラルを欠いた愚か者ではなかった。ただ彼は、西欧思想に深く浸みこんだあらゆる偏見を自然に対して押しつけるのを好まなかっただけである。実に、真のダーウィン的精神は、西欧の傲岸さを好みのテーマ、つまりわれわれはあらかじめ運命づけられたプロセスの最高の被造物であるから、地球とそこに住む生物をコントーロールし支配するようになっているのだという考えを否定することによって、涸渇した世界を救うものであると私は主張したい。」(p15下線と太字
は引用者による。以下同じ)

マイア,E.『これが生物学だ : マイアから21世紀の生物学者へ』 八杉貞雄, 松田学訳. シュプリンガー・フェアラーク東京, 1999.】
 「ギリシヤ時代から19世紀まで、世界の変化が偶然によるのか必然的なのかという疑問について大論争があった。この古くからの難問に明快な解答を与えたのダーウインであった。変化は両方によるのである。変異の生産では偶然が支配し,一方選択自身は主として必然的に作用する。しかしダーウインが「選択」という用語を選んだのは不幸であった。なぜなら、その用語は自然には故意に選択する何らかの要因があることを意味するからである。実際は「選択された」個体は、単に、すべてのあまり適応していない、あるいはあまり幸運にめぐまれていない個体が個体群から除去された後に生存しているにすぎない。したがって選択という用語は「非ランダム排除」という用語で置き換えるべきだということが主張されてきた。おそらく進化生物学者の大部分をしめる、選択という用語を使い続ける人々も、それが実は非ランダム排除を意味し、自然には選択の力など存在しないことを決して忘れてはならない。我々はこの用語を、ある個体の排除を引き起こす負の環境の全体としてのみ用いる。そして、もちろん、そのような「選択力」は環境要因と表現型の資質の複合体なのである。ダーウイン主義者はこのことを当然のこととみなすが、彼らの反対者はしばしばこの用語を文字どおりに解釈することを非難するのである。」(p215-6 )

【説明】
  偶然(contingency)か必然(necessity)かは、ものごとの変化の捉え方による。変化の原因が説明不能なほど多ければ偶然と言われるし,単純であれば必然と言われる。級友と50年ぶりにあった場合、繁華街で会えば偶然だし,クラス会で会えば必然と言える。ダーウィンのような育種的感覚で進化を捉えれば、有利な「偶然的変異(突然変異)」の定着(適応)を必然的な自然選択によるとして小進化を認めることができることもある(交配可能な亜種)。しかし、単細胞から人類に到る大進化を考えるなら、変異(の生産)の累積を通じた進化には、環境への適応の多様化(安定的形質として)と高度化(例えば神経系の発達)という「進化の方向性や必然性」が認められる
 また、ダーウィンによる「自然選択」という用語の使用法の「選択の不幸」は、決して不幸という問題ではなく西洋思想の必然的な限界を示している(参考:「西洋思想批判」)。彼の「自然選択」は、『種の起源』における致命的な誤りであり、経済学者アダム・スミスの「見えざる手」と同様、当時の思想界における「自然法」思想に由来することは明らかである。19世紀はニュートン的な合理的法則(時空の絶対性≒創造神が前提)が、自然や社会を支配していると考えられていた。それは「自然選択」にも反映され、キリスト教の創造説を否定するけれども、合理的科学的解釈であると考えられていた。当時の自然法を根拠とする思想家たち(万有引力のニュートン、社会契約論のホッブスやロック、自由放任のスミス、人口論のマルサス、唯物史観のマルクス等々)の主流は、いずれも限界のある思想系列に属しているのである。
 著者のマイアは、今日「選択」という用語が優劣をともなって差別的であると誤解されるのを恐れて弁明をしているが、ダーウィンには弱肉強食・優勝劣敗を進化論の自然法則として認める傾向があったのである。個体と個体、集団と集団、種と種の間の生存競争が、共存共栄とともに自然の摂理であることは生態学的事実であり、生物進化・多様化の基本である。しかし、それは自然の領域でも生物自然の選択(生命選択・適応⇒主体的適応選択)の問題であり、人間で言えば、言語を獲得した人間の道徳的選択(イデオロギー)の問題なのである。つまり、ダーウィンが、第三者的な自然法則に道徳を委ねたか、それとも人間の問題を自ら主体的に解決するべきであると思ったかの違いなのである。それは彼の『人間の由来』における優生学的発想を見れば明らかである。以下の『人間の由来』における主張を読者はどのように読まれるだろうか?

 「人類の福祉をどのように向上させるかは、最も複雑な問題である。自分の子どもたち卑しい貧困状態に陥るのを避けられない人々は、結婚するべきではない。なぜなら、貧困は大きな邪悪であるばかりか、向こう見ずな結婚に導くことで、それ自体を増加させる傾向があるからである。一方、ゴールトン氏が述べているように、慎み深い人々が結婚を控え、向こう見ずな人々が結婚したなら、社会のよくないメンバーが、よりよいメンバーを凌駕することになるだろう。人間も他の動物と同様に、その速い増殖率からくる存続のための争いを通じて、現在の高い地位に上ったことは疑いない。そして、もしも人間がさらなる高みへと進むべきなのであれば、厳しい競争にさらされ続けていなければならない。そうでなければ、人間はすぐ怠惰に陥り、より高度な才能に恵まれた個人が、そうでない個人よりも、存続のための争いで勝ち残るということはなくなってしまうだろう。そうだとすると、われわれの自然な増加率が高いことは、多くのあからさまな悪へと導くには違いないにせよ、それを何らかの手段で抑えようとすべきではないに違いない。すべての人々は、競争に対して開かれているべきで、最もすぐれた人々が、最も多くの数の子を残すことは、法律や習慣によって阻まれるべきではない。存続のための争いは重要であったし、今でも重要だが、
人間の最も高度な性質に関する限りは、さらに重要な力が存在する。自然淘汰は、道徳感情の発達の基礎をなしている、社会的本能をもたらした原因であると結論してかまわないだろうが、道徳的性質は、直接的にせよ間接的にせよ、自然淘汰によってよりもずっと強く、習慣、理性の力、教育、宗教、その他の影響を通して向上するのである。」(チャールズ・ダーウィン『人間の由来』下巻 長谷川眞理子訳 講談社, 2016、p490-491)
 ダーウィンにとっての「社会的本能」とは「存続のための争い」であろうが、生物にあるのは争いばかりではない。生物の社会には、共存や共生、さらに棲み分けという社会的本能が存在します。人間道徳の基本になる理性の力や宗教は、争いや不安を克服し、永続的な平和と安心を求める生命の本性から人間が主体的に創造した価値観なのです。生命の誕生以来、生命は自然淘汰(選択)という第三者的要因だけによって進化してきたのではなく、個体と種の存続のために、変化と多様性の環境に適応して多様な生存様式を主体的に創造してきたのです。とりわけ人類は、言語を獲得することによって想像力や構想力を身につけ、神による世界創造や自然選択という「おとぎ話」創る能力で、自らを欺いてきました。しかし、今や歴史は、生命(人類)の真実のあり方を自覚することによって、人類社会の平和共存と幸福安寧を実現できる希望を持つことができるステージに到っているのです。



※参照⇒生命の適応と進化」(『人間存在論』2001より)
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三種類の突然変異について (ダーウィンは創造~を自然に仮託している)

 ―突然変異は生化学反応の法則による必然的反応、生命は適応的突然変異を主体的に選択する―
 ―進化の総合説の欠陥は、生命自体が適応的突然変異の選択主体であることを排除したこと―
 ―偶然的突然変異の適応性(生存と繁殖)を選択するのは、競争的自然ではなく生命自体の適応性である。生命の適応性は、生化学反応を継続できる生細胞の恒常性維持環境である。―


 生物進化学において突然変異は、生命(細胞)内外の環境変化や化学結合のミス(であっても法則的反応である)や分子の置換、欠失、付加などに伴ってDNAやRNA、または染色体等に(個体にとっては)偶然的に起こる生化学反応であり、それによってタンパク質製造の設計図と触媒の働きを変質させると考えられます。一般に化学反応は安定的な物質でさえ、光や熱、放射線や無数の化学物質(誘導物質、触媒等)の偶然的な(無数の物理化学的)影響を受けて、上記のような多様な反応(変異)を起こします。さらに、生殖細胞における突然変異や発生における表現形質に直接影響を与える遺伝子発現は、まだ十分にそのメカニズムが解明されていませんが、遺伝子DNAをエピジェネチック(後成的)に制御することが知られています。これは獲得形質を子孫へ遺伝するのを可能とすると言われていますが、DNA本体を変異させるとはされていません。しかし、生化学反応そのものは、法則的に起こるものであり、原因のわからない(ミスや置換、欠失等とされるような)突然変異であっても、化学反応の一種、つまり偶然的突然変異も科学的必然性によるということが言えます(量子化学的説明が必要かもしれません)。

 いずれにせよ、生命にとっての突然変異(mutation)には三種類あり、「適応的変異adaptable mutation、不適応的変異、中立的変異」に分類できます。適応的というのは自然選択説で言う「生存に有利な変異favourable variations 」ではなく、危険な生存環境に自らを適合させる(変異する)ことで、水中から陸上へ、温暖から寒冷にあわせたり、獲物を捕らえたり逃避できる無限に多様な変異を主体的に選択することです。また突然変異には、DNAやRNA等の高分子化合物に起こる生化学的変異と細胞分裂時の固体の形質に生じる表現型変異があります。栄養素の欠如や毒物の摂取は、高分子化合物や遺伝子の発現に障害を与え、病気として発症する場合があります。また個体の形質の変異は、獲得形質として遺伝的(発生的)に子孫に影響をもたらすことがあります。いずれも変異による不適応的な症状は、個体の生存や子孫を残すことを困難にすることになります。(ダーウィンは変異を、favourable variations と injurious variationsとvariations neither useful nor injuriousに三分類する。『種の起源』第四章)

 適応的変異は、環境に適応し子孫を存続させることができますが、不適応的変異は種にとっての病気であり、子孫を存続させないことがあります。遺伝子や固体における中立的変異は、生命の存続に影響せず、種内の多様な個性的生存様式をもたらします。遺伝子DNAにおける突然変異は、反応エラーとして修正される場合もありますが、多くの反応エラーは個体の生存に影響を与えず、種の形成にも至りません。動物や植物の品種改良(育種)における人為選択は、生命の主体的選択を人間の好みに応じて増幅させますが、保護や管理が不十分であれば先祖帰りをしたり、子孫を増やすことができません。
 自然選択説では、生存に有利な突然変異(の累積した個体)が生存競争の厳しさに打ち勝って繁殖し、新種の起源になりうると説きます。しかし、適応選択説では、環境との調和やバランスをとる適応的な選択で、個体や種、生態系のバランスをとって永続的生存をめざすと考えます。自然の多様な変化は、生命の存続にとって個体死や種の絶滅という過酷な面もありますが、生命を育み種を永続させる恵みと優しさを併せ持ち、そのために、生命は自然環境の不安定や弱肉強食に適応しながら、多様な個体と種による生態系のバランスを保っているのです。生命(個体と種)に生存と生殖に有利な突然変異(適応的変異)が起こるとしても、その有利さは、適応の有利さであって、競争の有利さだけではなく、棲み分けや共生・互助の有利さでもあるのです。つまり、生命の進化(多様化)は、無限の多様性に対しての「優位性」ではなく、有限であるとしても永続的生存のためのバランスのとれた「調和性」こそ適応的生存とみなせるのです。(生命の幾何級数的増殖とされるのは、生存の有限性・困難性を補償するための生命の戦略であって、増大性が目的ではなく永続性が目的である)

 以上のように、突然変異は、DNAの複製ミスであっても偶然的なものではなく、自然法則に基づく必然性を持っており、「偶然性を強調する」のは人間の認識の有限性を認めている(ミスや偶然に見えるだけ)に過ぎないのです。このような自然選択(適応選択の主体を自然とみなす)という理解の混乱は、東洋思想と親和性を持つ量子生物学の知見の蓄積によってやがて解明されると思われます。しかし、今日生物学の主流を占める総合進化説(ダーウィン流の自然選択説、ネオダーウィニズム)では、突然変異に「適応的な必然性」があることを認めていません。これは、それぞれ立場は違って個性的ではあるけれど、総合進化説(自然選択説を中心にした進化説)を正しいと見なす生物学の俊才・大家達、J.ハクスリー、E.マイヤー、E.O.ウィルソン、R.ドーキンス等々に共通の西洋的合理主義(自然法思想・世界は時計仕掛け説)の偏見です。とくにウィルソンの「遺伝子=文化共進化説」とドーキンスの「ミーム説」については、遺伝子中心主義における人間(文化)理解の基本的欠陥(文化における言語論の欠如)をよく示しているので別稿で批判的に論じます。                 参照⇒言語の起源について     
  なおグールドやE.O.ウィルソン、ドーキンスの「総合説」による「創造説批判」の限界は、生命言語説によって徹底的に解明されます。→検索