言語の起源について(言語起源論

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     なぜ言語の究明が必要か 人間存在 Q&A 言語起源と進化論

Q.言語の起源を、生命言語説ではどのように説明しますか?
  ――言語の起源論争に終止符を打てるでしょうか――

A.乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す

<初めに:生命言語説による言語の起源の捉え方>
――人間言語成立の条件と進化的起源 : 知覚・行動と認識・発語の分離――
<一語文の成立から二語文へ>
<一語文の獲得と道具の製作・使用――人類の誕生>
<二語文(構成文)段階の認知と行動――幼児の場合>
<二語文以上の構成文――旧人と現生人類>
――意図・情報の伝達の明確化と文法の成立 : 現生人類の創造性――
(別ページ)


 われわれ言語を獲得した人間が、宇宙や生命や神の存在を含む森羅万象(all what・全対象)を、どのように認識して、それらを言語によってどのように表現・伝達するか?この問いが言語の起源を解明する鍵になります。
 つまり、言語の本質は、@情報や意図の伝達とAそれらの内容(意味・概念)を認識・思考・表現することにあります。言語表現の本質は、生命の生存様式(環境刺激・統合・反応様式=刺激反応性)に淵源があり、個体と種の生存のためには、的確な刺激・情報の認知(判断・思考)とその情報の的確でわかりやすい表現・伝達が必要ということであり、これ(認知・伝達欲求=知りたい・伝えたい)を理解しない限り言語の起源の解明には到らないということです。
 それでは生命にとって「刺激反応性」とは何なのでしょうか?

 生命(細胞)は、地球という特殊な環境から、特殊な物理化学反応によって誕生したものであり、無限に多様な外部環境(外界の刺激)に対して、不断にエネルギー代謝と安定・安全の維持を目的とする「適応的反応を持続」させる必要があります。このため、動物においては積極的に適応的環境を選択し(自然が選択するのでなく生命が選択する:生命選択説※注)、またそれを維持しようと、自己の属する生存環境を知覚・認識し、適応的な反応・行動をおこなっています(適応のためにwhat, howの疑問解決: この無限の対象世界 what を、いかに how, why 捉え、どのように how 生きるかを認識すること)。地球環境は多様であり、個々の種は自らの環境に応じた生存様式(形質)を獲得しています。多細胞動物においては神経系を発達させて中枢系(脳)に情報を集めて蓄積して統合・判断し、環境への適応的反応・行動をおこなっています。

 環境への適応的行動は、個々の個体にとっても種の存続のためにも、社会集団を形成しその集団間の的確な情報伝達が、「個体と種の存続の成否」を決定します。そのためすべての多細胞動物は、種に応じた知覚・伝達機能を持っています。軟体動物、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類等それぞれの種は、それぞれの外界に応じた知覚機能と神経系を持ち、得られた情報を認識・選択・判断して、直接・間接の接触から、臭い、音、視線、動作、音声など様々な方法を用いて得られた情報と意図を伝達します。それらの知覚・統合・伝達機能の中で人間の言語は、音声を通じて認識内容や意味・概念・知識を相互交流する進化の最高形態です
 では一体人間の音声言語はどのように進化発展してきたのでしょうか?
(※注) 生命は、多様で不安定な環境に対して、最適の生存環境を不断に選択し、また自らを適応させ、生存様式を進化させます。下記ダーウィンの自然選択説批判を参照して下さい。

生命言語説による言語の起源の捉え方>
 「言語起源論」には様々の理論がありますが、生命(細胞)の生存様式の原理から説明したものはわれわれの知るところ一つもありません。それらの混乱した理論の数々についてはWikipediaの詳細な解説に任せて、直接「生命言語説」の説明を続けましょう。ただ一点付け加えるならば、生命の生存様式(環境刺激反応様式、または刺激認知・適応反応様式、つまり刺激反応性)から説明していない理論は、すべて何らかの欠陥があるということです。例えば、コーバリス,M.の『言葉は身振りから進化した』(邦訳2008)では、知覚(視覚と聴覚等)による認識と、行動・表現(身振りと音声)の統合性が正しく説明されていません。動物音声(唸り、叫び、さえづり等)は、身振りとともに複雑な意図を伝達できるし、一部の受容器(視覚)と反応器(身ぶり=身体)の優位性を強調しても「音声言語起源の解明」にはつながりません。動物音声の意図・意思伝達における自由性や効率性・正確性は、身振りや音声を含む行動の全体性から考察する必要があるのです。身ぶりによる伝達に対する音声言語の優位性は、「直接的知覚と行動」から「認識思考過程(再構成・創造過程)」の独立可能性を高め、環境(刺激・情報・対象)への操作・加工・創造能力を増大させるのです。

 つまり、言語の起源の基礎は、自然環境への適応性を増大させるための自由で的確な環境の認識と伝達にあり、その「目的は種と個体の永続的な維持・存続または適応的行動の確保」にあります(但し、その目的が自己中心性に傾き、認識の誤りや複雑化による歪みが生じ、不適応状態に陥ることはよくあることです――言語による人為的・習得的な虚偽・誤解・威嚇・擬制・冗長等の発生・拡大)。そのため、言語の獲得による認識の基本は、当面する問題(食糧の獲得、自然の脅威、人間関係の困難等)の把握と解決のために、言語による的確な疑問の解明と判断(知的・理性的思考)が必要となり、同時に、言語的思考・伝達過程を集団で共有し相互理解するための言語表現規則(文法)が形成されてきます。その言語規則は、対象の特定(what, who 名詞、主部―但し、対象の特定が明確である場合、省略されることが多い―日本語等)とその状態(how 動詞、形容詞等の述部)、対象間の関係(助詞、前置詞等)、時間や空間(where, when)の位置づけ等の生得的要請(他の高等動物にも必要)普遍文法の基本原理(注1)となります。

 ここまで説明すれば自明となりますが、言語の起源は、対象としての環境とその状態、また人間関係や主体の意図・判断を言語記号化することによって、自然と社会の環境を的確に把握し、いかに適応的に生きていくかを言語的に再構成・創造し、それを集団で共有し、また自らの存在を意味づけ行動することにあるのです。つまり、人間における言語の進化・獲得は、生命(細胞)の生き方・生存様式に関わる「環境刺激の認知・統合・反応構造(システム)」として到達した、進化の究極の適応様式への転換点(過程)になると考えるべきものなのです。だから人間の言語は、単に対象や認識結果の言語記号化(理性的情報処理)と伝達の手段としてだけでなく、常に様々の次元の環境に生きる生き方、ものの見方考え方の手段として考える必要があるのです。このように言語の起源を考えるには、全生命共通の生存様式――環境適応・永続的生存維持(個体と種の維持・存続)――すなわち人間の場合は、生存の意味や生き方を求める(知的・認知的欲求の強い)(注2)動物なので、そのために必要な知識としての「生命とは何か?」と、価値判断としての「いかに生きるか(何を選ぶか)?」という問題意識を常に念頭に置く必要があるのです。言語の機能・役割(の理解)と人間の生き方(の探求:幸福であること、公正と正義を求めること)とは、つねに深い関わりがあるのです(注3)

(注1)普遍文法の基本原理については、「生命言語説」によってその成立の根拠が説明できます。句構造生成文法、ミニマリスト・プログラムの統語論(文法論)の生物学的根拠は、生命言語説によれば、「対象とその状態(何がどうあるか?)」「対象間の関係性(自己や対象間の関係はどうなっているか?)」という、生存欲求実現のための「問題意識と疑問解明」の神経生理的過程(刺激統合・反応過程)が、音声表現をとって生成したものであると考えます。つまり、統語法・文法とは、無限の対象(存在・名詞what)の状態や関係性(how)、そして主体の意図や願望を音声信号(言語)によって、明確に表現・伝達する方法・様式なのです。
 動物の適応行動にとって基本的認知・行動様式は、多様な環境をどのように認識して、生存欲求を実現していくか(環境刺激⇒認識判断⇒反応行動⇒欲求実現)ということに尽きます。動物にとって安全の確保や食糧の獲得等の適応的行動のために、その対象認識と相互理解の的確性が必須とされ、音声言語を用いる意思伝達の方法が集団内でさらに進化してきたのです。人間の疑問解明(とその言語的表現)は、自己の疑問、他者からの正確性を求める要請によって緻密な文法を形成することになりましたが、その基本は動物に共通する単純な認知行動様式にあったのです。いわゆる再帰性や関係代名詞もまた疑問解明の思考過程の的確性・限定性の表現であり方法なのです。

 乳幼児を観察する人にとっては、乳幼児が常に人の音声や行動・諸現象を、好奇の目と耳、心(what, how, etc)をもって聴き、見つめ観察しているのを知っています。乳幼児は世界の有様をそれによって、初めは動物的な感覚と知能で、そして後には獲得した言葉によって整理し、得心しているのです。好奇欲求は、生きる世界の安全確保のためであり、動物に起源があます。人間においては、疑問(問題状況)の内容を言葉によって解決し、また過去から未来へとつなげていくために、言語的判断と思考をシステム(構造・構成)化し、また表現(産出)するのですが、その思考法則、表現法則、産出法則が普遍文法なのです。何(対象・名詞)がどうあるか?対象と対象はどのような関係にあるのか?対象はなぜそのような結果をもたらすのか?等々・・・・以下はこちら
 以上によって、普遍文法や再帰性の起源についての謎も氷解するでしょう。(チョムスキー批判を参照のこと)

(注2)常に生存の危険や食糧の確保のために活動しなければならない動物にとっては、環境に対する知的欲求や好奇心が生存のための基本的欲求であることは自明のことに属します。とりわけ直立二足歩行を常態とするようになった人類にとっては、他の高等動物よりも視野は大きく広がり、自由な両手の活用についても視覚の重要性は高まります。そのため大脳の発達に伴い諸情報の記憶・蓄積が進み、また仲間との情報共有・伝達の機会も広がります。このような「認知と伝達の可能性」を飛躍的に高めたのが言語という音声信号でした。一語文の場合は、もっぱら情報の記憶・伝達・共有が中心であり、旧石器時代の数百万年間は、石器の変化も少なく狩猟採集の原始的生活が続いたでしょう。しかし、二語文以降の言語の発達に伴う構成力・創造力は、急速に発展し、まずは自然の脅威に対する呪術的世界観に支配され、物質的豊かさや人口増加には到りませんでした。言語使用は複雑な文法があるとしても「知的欲求や好奇心は呪術的思考や世界観(言葉のもたらすタブー・禁忌)によって制約」され、自然と一体化した「未開の生活」が続いたのでしょう、農業革命が起こるまでは・・・・。

(注3)人間の生き方やものの見方考え方が、言語の働きと強いつながりがあるということは、未開社会の呪術的生活や世界観、そして現代社会の宗教の存在と深い関係があります。われわれの時代の合理主義や科学的世界観では、自然の現象や運動、人間関係や幸福や不幸、善悪の判断などに伴う因果関係は、迷信や思いつき、誤魔化しや言い逃れでは解決したとは見なされません。解決しなくとも、または、解決しないから結局、知的好奇心を阻む無理遣りの「信仰」、力と力の対立、またはカネや多数決の決定が幅をきかし、力なく分裂・混乱する言葉や思想が展望のない論争を繰り返し、今日の世界を閉塞状態にしているのです。
 伝統的な三大世界宗教などにおいても「信仰」や「救済」、「ご利益」や「奇跡」等の言葉で宗教の意義が強調されますが、それらはすべて言葉(教義・謂われ・由来)による意味づけが為されています。三大宗教における意味づけは「仏典」「聖書」「コーラン」を中心とする膨大な文書が、それに伴う儀式とともに絶対的な権威付けが為されて今日に残され、一時的地方的な安定と持続的世界的な混乱を招いているのです。しかし他方で、今までの一時的地方的な安定は、民族主義とも密接な関係があり、安定を求めるよりもむしろ教義の尖鋭化が進み、テロや差別・排除の温床になっています。
 そこで、人間の本質である言語の意義を明らかにすることは、混乱した宗教・教義の限界を明らかにし共通性・普遍性を求める観点から、言語の本質理解のために起源を明らかにすることが必要になっているのです。


――人間言語成立の条件と進化的起源 : 知覚・行動と認識・発語の分離――
 その上で、具体的な言語の起源を求めるなら、胎児の成長において進化の過程が再現されることを示す「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題と同様に、「乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す」という命題が成立することが考えられます。つまり、乳児は一歳頃にハイハイから歩行ができるようになる段階から、急速に様々の対象への好奇心が増し、行動の範囲を広めます。同時に発声における乳児特有の喃語(2音の発声・アーウー、バーブーなど)によって相手を選んでのダッコへの要求や対象(玩具や養育者たち)の区別やこだわり・選好(人見知り等)が目立ってきます。また模倣(ミラーニューロンの働き)や好奇心の活発化とともに行動(動作)を読み取り学習することもできるようになり、養育者等の発声も音節の違いが聞き取れるようになります(注4)
                                     
<一語文の成立から二語文へ>
 一歳半にもなるとワンワン、ニャンニャ、マンマ、ダッコ、イヤなど欲求(マンマ、パイパイなど)や感情(オイチ、イヤイヤなど)、行動(チッチ、イクーなど)の表現・指示ができるようになり、その場の状況を理解できる場合は、意味を持った一語文(または状況文、未分化文(注5))として成立します。しかし重要なのは、この段階での言葉は養育者の模倣学習であり、直接的知覚や欲求・感情の表現としての行動(動作)の延長と考えられます。思考や判断は単純で、状況に制約され、言語を記号として大脳内で操作的に用いるものにはなっていません。この場合の一語文は、いわゆる動物的な段階の「直示的(here and now)」知覚反応・行動の一部として使われているのです。ピアジェの思考発達段階説によれば、感覚と運動が表象(脳内の記憶イメージ)を介さずに直接結び付いている時期(感覚運動段階)と言えるでしょう。この段階では、他の類人猿等と比較して、分節音声の発達(神経生理的・解剖学的な発達)が顕著にあらわれ、いつでも出し入れ自由な表象付の音声記号(第2信号系)としての役割を果たしていることになります。

 しかし、音声記号(言葉)ではあっても、記号を表象とともに自由に操作できる段階ではありません。つまり、2語文(構成文:主述や関係性の表現)のように言葉を組み合わせて、表象を操作することは難しく、言語の機能の飛躍的発展を遂げる創造的段階(2〜3歳頃から生じる幼児の積み木や描画の具象化のように)に到っていません。言わば、言葉が知覚や行動とともにあって、対象を記号として再構成(表象操作:客観化・抽象化・相対化)できない段階(注6)であるということになります。そこで次の創造的段階に発達するには、対象(もの・人)に対する直接的な認知・行動過程を抑制・制御し、言語的思考と行動が間接的・客観的に行われる必要があります。

<一語文の獲得と道具の製作・使用――人類の誕生>
 言語を持たないチンパンジーが堅果を割る道具使用の場合は、その道具を作るのは、道具を大脳内で表象(イメージ)化して作るのではなく、目の前に適度な材料(石)がある(直知的)ことが必要です。チンパンジーの場合と一段階進んだ人間の一語文段階では、表象(道具としての石器や火のイメージ)を音声記号(言葉)とともに記憶することになり、現物の道具を直知的にコントロールする上で大きな進歩です。しかしそれは未だ創造的とは言えません。表象と言葉(音声記号)の同時記憶は、人類の誕生に大きな役割を果たします。道具としての打製石器や火等の製作、使用の方法を、動作(道具を作り使うジェスチャー)としてだけでなく、いつでも取り出せる音声記号として、仲間や子孫に伝えることができるからです。おそらく火の使用が確認できる北京原人の段階までは、動作を伴って意志を伝える一語文の段階以上には進化していなかったと思われます。論争はありますが、言語(一語文)の起源が猿人にあり、一段階進んで原人の段階では、一語文として成立していたと考えられます。

<二語文(構成文)段階の認知と行動――幼児の場合>
 次に、人間の幼児は、二・三歳頃になると言語表現は一語文から二語文となります。二語文の特徴は対象(名詞what )とその状態(動詞・形容詞how )や、対象と対象の関係(目的語と助詞・前置詞等)が表現できるようになることです。それは表現するべき内容(意味・概念)に対する疑問、すなわち「何がどのようであるか?」や、「対象AとBの関係性がどのようであるか?」の表現の正確さを求めることが意識されていることになります。乳幼児の好奇心の強さは、自分自身の対象への関心だけでなく、他人に何を伝えたいのかや、他人の疑問にどう答えればよいのかの解答表現にもつながります。コミュニケーションによる相互の正確な情報伝達は、動物集団の生存維持にとって必須の条件であり、正確性が要請されますから、幼児は養育者との対話や遊びを通じて疑問を解決しながら、正しい言語表現法(文法)を学習していくのです(乳幼児の学習は、単に養育者から教育的に与えられるものではなく、自ら主体的・積極的に世界や言語記号の意味について獲得し創造するものであることの理解が重要です。注4)。
 一語文は、名詞や動詞・形容詞と明確な区別は難しく、名詞としての「ママ」や「マンマ」には「来て!」や「食べる!」のような動詞や、「楽しい」「美味しい」等の形容詞や、単に間投詞・感嘆詞のように使われることもあります。このような多義的で曖昧な一語文の表現は、言葉の意味を正確に伝えるには限界があります。そこで対象とその状態等の曖昧な言語表現である一語文の解釈についての疑問(曖昧性)を解明するために、二語文としては「ママ来て!」や「マンマ食べる」となり、それは三語以上の文としての「ママが私に来て欲しい」「私が食事を食べる」に展開します。このように、文の意味と構成は、常に疑問の解明にもとづく内容の明確化であり限定化なのです。

<二語文以上の構成文――旧人と現生人類>
 これを人類の言語進化に当てはめてみると、一語文が原人段階までと考えられるのに対し、ネアンデルタール人を代表とする旧人段階では、埋葬の痕跡が残されており、死後の世界に対する何らかの観念があったことが想像されます。死後の観念は、直知的現象の中で生きている原人段階の人間の認知や思考では想定するのは困難(現代人でも死後の観念を<持つ必要がないので>持たない・考えない人は多い)であり、認識上の壁を越えねばなりません。その壁は、人類進化の一段階となる認知行動の抑制・制御による構想力・想像力・反省力を必要とします。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、生命を絶たれることなどの考察とその意味の認識は、直知できない過去や未来、空間の広がりを記憶し自由に操作できなければ不可能です。そのような直接的知覚や行動に囚われない自由な認識や思考は、言葉という第二信号(刺激)系によって初めて可能になります。しかも、「一語の自由」(乳幼児や原人)ではなく、「二語(以上)の自由な構成」すなわち、「何がwhat、どのようにあるかhow?」さらには現象の因果関係を求める「なぜwhy?」という疑問への認識と思考が可能でなければ成立しません。そのためには主語・述語という言語構成(統語)の構造が必要になるのです。

 旧人と現生人類(新人)の言語能力の違いは、現在検証することが困難であり、乳幼児の言語発達から推測する以外に方法がありません。化石人骨から推測される解剖学的知見によれば、旧人段階(初期新人を含む)において分節言語の発声は可能であるとしても、十分であるとは確定できず、石器(旧石器段階)の種類や形状・機能から見ても創造性に乏しく、自由な言語使用はされていないと考えられます。しかし、上に述べたように埋葬の観念は重要です。単に当面する日常生活への関心だけでなく、過去から未来につながる生前から死後への連続性(どこから来てどこへ行くのか?)に対する疑問、不安や恐れの解決としての埋葬・儀式の存在は、一語文段階での死体放棄で終了する解決とは、明らかな進歩があります。また、一語文の乳幼児が、自己(や他者)の死の意味を(相対化・客観化して)考えられないのと違って、死の意味は、二語文を必要とするwhat, how, why, where等の認識・思考・表現段階で、初めて理解が可能になったと考えられます。(注:一語文段階の乳幼児や高等動物にも、適応的行動のための好奇心欲求とともに因果性や関係性への疑問や認識能力は備わっています。ここではそれらを言語記号化・表現することの意味を考えて下さい。つまり、認識・理解と表現可能性とは明らかな違いがあるのです。)

 現生人類の祖先の一語文段階(原言語)が、どのようにして二語文の段階に飛躍したのかは、「自由な一語」に加えて、単語としての音声信号(一語文)を、分化・構成する必要があります(what+how、主語名詞+述語動詞・形容詞)。この飛躍には、一語文を、単に模倣表現するだけでなく、その意味の追求・明確化(強い好奇心)が必要になります。つまり、「マンマ」が、「ママ」なのか食事なのか明確な発音上の区別だけでなく(状況で判断できる)、「マンマ」を対象名詞と、要求語(食べたい)・存在語(ある)・拒否語(いらない)等に区別・構成できることが必要になります。この過程は、完成言語をもつ養育者の存在を必要としません。必要なのは模倣と好奇心の追求(正確な認知への欲求、疑問の解明)です。頑迷で保守的な成人には、このような飛躍は困難でしょうが、柔軟な発想のできる子どもには可能なのです。乳幼児の言語発達に、人類言語の進化・飛躍を見いだすことが言語学の発展にとっても必要なのです。


(注4)乳幼児の言語の習得は、養育者の完全な言語の存在を前提としています。乳幼児と違って、化石人類(猿人、原人、旧人)においては、何もないところから言語を獲得した理由が解明されなければならない。つまり言語の起源は、現生人類の乳幼児の言語の獲得(習得)と同列に論じてはいけない、という批判があります。これは当然の批判ですが、この批判に対しては次のように答えることができます。
 ⇒ 音声の分節的発声(母音・子音の音韻の明確化)つまり単語の発声は、乳幼児の二足歩行の発達と同じように、模倣・訓練・学習による自発的習得を必要とします。乳幼児の二足歩行も分節的発声も、子どもの人間的成長・発達が臨界期を越えれば困難なように、健全な人間という模倣の対象が必要です。人間的発達において二足歩行と分節的発声を同列に置くことが正当であるかは議論の余地がありますが、すくなくとも両者ともに未熟児として出生した乳幼児が、人間的環境の影響を受けることは確かだと思われます。二足歩行が生育環境の影響を受けるかどうかを実験的に示すことはできませんが、乳幼児の歩行訓練や野生児の事例を考えると、模倣や訓練の重要性を指摘せざるを得ません。
     それに対し、化石人類が、人間として二足歩行と言語を獲得するには、二足歩行が進化の過程で突然変異と適応的な行動(成長・発達:サバンナにおける二足歩行の適応性)が必要であったように、言語も適応的情報伝達の進化(個体の適応的成長発達によって分節的発声への適応的突然変異・進化・発達がおこなわれる)によって可能になりました。その可能性を発達させるのが、まず化石人類における乳幼児の発声です。誰かが分節的でより的確な情報伝達のための有利な適応を獲得すれば、後の者はその模倣・訓練によって二足歩行や分節発声がひろがります乳幼児の可塑性は、集団生活の中で適応的な言語進化(当初は、行動・動作・鳴き声の延長として、次いで自然や生活上の必要事象の意味を固定された多様な音声信号・一語文(単語)として)を支え、自由を拡大する音声信号が有用性を増大させます。その「言語進化の方向性」は、言語の情報伝達とその的確性(分節性・構成性=二語文以上)の追求、つまり、言語による疑問の解決・好奇心欲求・合理性追求であったのです。またこのような言語の進化は、個体と種の永続的存続のために、神経系の発達・統合と膨大な音声情報の獲得・創造によって、適応的な機能という方向性を持つとして現在も続いています(絵・文字・音楽・デジタル信号等)。
(※化石人類の「言語進化の方向性」における「分節性と構成性」の的確化は、単語の音韻的正確性―マンマかママーか、ワンワかワンワンかの発声の曖昧性の克服と、単語と単語の構成の正確性―こっちいてー[こっちへ来て]等の発声の曖昧性と助詞欠落を伴う幼児語の克服を意味します。また言語は集団で獲得するのであって、「孤独なミュータント」の問題として知られる「最初に言語を獲得した個体」という実体は存在しません。)

(注5)未分化文とは、主語名詞と述語動詞に分化しておらず、WHAT/HOW疑問に明確に答えていない曖昧な表現なので、状況を把握せずには理解できない一語文(状況文)であること。例えば、名詞「ひ(火:ほのお)!」は、「火をともせ」「火をよこせ」「火で肉を焼け」等を意味したり、動詞「おせ(押せ)!」が「獲物を圧えよ」「気持ちを抑えよ」「後ろから押せ」等のように、その場の状況で解釈できる範囲の音声表現を、未分化文とします。この場合、統語規則・文法は必要ありません。それで十分相互の意思疎通が可能な化石人類の時代が、長く続いたことが想定されます。この時代に、言語を用いた直示的な認知・思考・記憶能力は発達したことが推測されますが、二語文(品詞分化文・構成文)のように主述の構成力とともに、何がwhat、どのようにhow、なぜwhy、その他の疑問形式が発達していないために、想像や創造の能力は発揮されなかったと思われます
 しかし、一語文(未分化文)の意味の曖昧性を克服して、意味を限定・明確(分化・解明・define)にすることは、人間が自ら発声した音声信号(言語)の意味を求め、問い続けることで、それによって表現・統語能力や統語・文法規則を複雑にしてきたと思われます。当然のことながら言語の意味は、自然現象や日常生活や社会秩序等についての異文化における諸価値観の分化・多様化を含むものとなります。したがってまた、異なる文化における言語の意味や文法もそれぞれの生活様式や自然観、人生観(生き方)を反映して分化、多様化、複雑化してきたのです。

(注6)「再構成できない」ということは、トマセロ,M. の言うように(1999)、大人の発音 “I-wanna-do-it,”や“Where-the-bottle.” を、私見であるが、例えば 乳児がwanni(うぉんにー)やwhebotto(うえーぼっと)と発音したとしても、乳児自身が一単語ごとに分化できなければ、一語文と見なすべきであることを意味している。
<情報・意図の伝達の明確化と文法の成立――現生人類の創造性>・・・・「言語の原理」へ続く
                                                        by HBI人間存在研究所

言語の起源に、メタ言語(普遍文法)があるとすれば、それは「生存環境に対する生命維持行動という判断基準」をもつ刺激認識・反応性(what, how:この無限の対象世界をいかに捉え、どのように生きるか))に、音声発語過程を加えたものです。動物の行動は、環境への不断の認識・判断そして行動の過程である。人間の言語は、動物の認識判断過程を音声言語化することによって、世界についての情報処理能力(記憶・伝達と構成・創造能力)を飛躍的に高めたのです。動物にとっての世界とは、その生命種が生存する環境のすべて、すなわち動物にとっての欲求・関心の対象である自然の運動や状態、対象間の関係性、空間(時間)について認識・判断するべき対象です。雨、風、水、空気、獲物・食糧そして安全な住処、家族・種族・集団の繋がりや力関係、すべては認識と判断の対象である。野生の動物が生存をかけて敵の存在に警戒を怠らず、獲物の獲得に全力を傾けるときのように、自然は常に認識と判断と連携の対象なのです。

 さらに人間にとっては、内的(脳内)第二信号系としての言語的思考による創造と想像の世界(文化全般)が加わり、対象としての石器や火、木製の道具等だけでなく、自然を支配する霊魂や神々が生活の中で重要な対象となる。諸対象とその状態や関係性についての音声信号(言語)化とそれらの言語による認識・反応は、原始現生人類においては地域によって異なる生活様式と言語の表現方法を発展させ、多様な地域文化と言語を創り出しました。
 しかし、地域や民族等により異なる多様な言語(語彙と文法)が存在するにもかかわらず、人類共通の言語信号による対象認識と思考・表現は、個体と種の存続にとって最も適応的に行動し欲求を実現できる対象認識と表現方法として普遍的に存在します。それは対象とその状態、そして対象と対象の関係性(因果性を含む)の的確な認識と明確化です。つまり「言語原理」の項でも述べているような、対象の指示(what、名詞)とその状態(how、動詞・形容詞)の表現、および、対象間の関係(主述や目的語との関係、助詞や前置詞による簡略表現)、空間(where)や時間(when)なのです。それら生存のための疑問ないし問題意識、つまり生存への困難の解決や好奇心の充足への希求が、疑問詞(5W1H等)の解としての人類共通の文と文法の成立(メタ言語・普遍文法)の基準ということになるのです。


* 文法の統語構造の生物学的原型は、高等動物全般に共通する行動様式の「認知⇒判断統合⇒反応過程」に含まれています。すなわち、刺激対象に対する「何か(what)」という区別・指示(対象としての名詞)と、その状態に対する「どのように(how)」という判断(状態表現としての動詞・形容詞等)、さらに認知主体としての行動を「どのように(how)」決めるかの判断・行動の過程です。また統合過程には、対象(名詞)と対象(名詞)の関係性も含まれる。関係性の多くは、述語動詞の主語と目的語の関係性として、また目的語の関係を位置づける助詞・前置詞によって諸対象の状態と関係が限定または明らかにされるのです。

 これら言語表現に含まれる多くの構造は、他の高等動物の認知・統合・反応過程において、行動と一体化して記号化される(動作や音声での表現を伴うことも、故意に欺くこともある)ことはあり、環境に対する生体の生存(神経系の活動)過程として文法の統語構造の基礎となっています。どのような敵や獲物(what)が、どんな様子(how)で、どこに(where)どれだけ(how much)いるか、どこから(from)どこへ(to)動いているか、これらの動物的知覚・判断構造はそのまま、人間言語の文法構造につながっています。再帰構造もまたしかりで、変化する無限の対象の存在と運動の修飾・限定の認識活動(疑問の解明)が、そのまま関係節・修飾句として文中にはめ込まれるのです。 一部の売名的学者が、動物のジェスチャー(行動の一部)や小鳥の歌(さえずり:名詞whatと動詞howの基本的区別がない)に言語の起源を見いだそうとしたり、西洋的合理主義の限界を超えられないチョムスキーの普遍文法論のように、動物の生存・行動様式の基本(刺激認知・判断統合・反応行動様式=無限の環境刺激に対する認知反応・適応様式)に目を向けない視野の狭い知的態度が、言語の起源に対する探求の障害となっているのです。

 「生命言語理論」では、生命とは何か?人間(言語)とは何か?いかに生きるべきか?という問題意識なしに、人間や言語についての解明はあり得ず、また学問の発展や人類社会の持続的繁栄と幸福の実現はありえないと考えます。同時に、「言語の起源」という検証困難な課題について、中途半端で逆に混乱を招くような仮説(論者自体がその限界を知りながら、つまり、生命や言語についての知見の不十分さを知りながら、起源について論じること)は、もっと控えめにすべきとおもわれます。これは、宇宙の起源(ビッグバン)や生命の起源、天地創造仮説やわれわれの言語起源論についても言えます。人間存在や人間知の限界、理論や知識の意味についても学問(science, Wissenschaft)の前提として共通了解すべきですし、当人間存在研究所でも自戒を込めて知の相対性の絶対化を明記したいです。


※ 「何がぁ・・・?何でぇ・・・?分からないから、もっともっと言語について説明してよ!」
   人間は常に、自分自身と他人に問いかけます。貴方はどのように答えますか?   
   疑問/問いかけ/自問自答/説明責任―ある国の首相は、見え透いたウソをつくのがお上手です。
   自分さえ、今さえ良ければそれでよいと考える人間は、
   真実を隠して偽りを創り、それを他人に語って欺くことができます。権力者のウソを許してはいけません。
   言葉について探求することは、人間について知ることです。
   もっともっと知ろうとすることが再帰性(回帰性、what? what?, how? how?,why?why?)の根源です。
   文構成の再帰性とは、語彙と文の表現する意味内容への無限の問いかけとその解答なのです。
   「人間とは何か?」 ⇒ 「人間の本質は言語である。」
   (私はその本質が言語である人間です。
I am a human whose nature is language

★ 初めに生命があった。生命は言葉によって人間となった。人間は言葉と共にあった。人間は言葉によって神を作り、神によって人間を尊厳なものとし、また悪魔と差別を作りまし。 
 だが、今や人間は、人間存在の真実を知り、地上のすべての生命と人間に永続的幸福をもたらすことができるようになりました。人間は、まもなく「生命言語説」によって「自分とはなにか?」の真実に目覚めることでしょう。

★ 「宇宙の起源」と同じように、「生命の起源」を確定することはできません(注)。しかし、人間の言語は、生命が(!)自らを適応的に維持・存続させるために獲得したものであり、「言語の起源」を確定することはできるのです。生命は(!)、個体と種の維持・存続のために、外界を的確に認識し、適応的な行動をとる。言語はそのための認識・思考と伝達・行動の手段なのです。
 だから、起源の分からない宇宙や生命を、「神のみ業」「知的設計」の被創造物と意味づけることは可能ですが、生命が獲得した「人間の言語」を、神の創造物(作品)のように確定することはできないのです。むしろ
神を人間の創造主(人間は神の被造物)とするような考察は、人間(生命)存在の有限性や脆弱性を、「神」や「創造主」という人間の獲得した「言葉」によって意味づけ強化したものに過ぎません。人間は、言葉によって自らを意味づける存在なのです。 

(注) 遺伝子・核酸と細胞・蛋白質の融合と、外界からの独立を実験的に確認することは不可能である。言語は高等動物の鳴き声・発音から確認できる進化の産物であり、音声の複雑な構成と意味表現は、その起源を経験的に確定できる。それが上に示した生命言語説による「言語起源論」である


【ダーウィンの自然選択説批判】
 ★人類や言語の起源は
生命の主体的生存力(適応力)を自覚することなしに論じることはできない
 ★ 自然は選択するのでなく、変化するのみである。
  自然が生命の生き方を選択するのではなく、生命が多様な自然(環境)への多様な生き方(種)を選択・適応する。諸
 生命が独自の生き方を選択しても永続的適応となるとは限らない。生命(自然)を誕生させた環境(自然)は、無限の変
 化をするが、生命は有限の存在だから適応には限界があるのである。


 「自然選択説のイデオロギー性」については『人間存在論 前編』 (2001)ですでに紹介しています。ダーウィンは、『種の起源』(1859、ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION,OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE.(自然選択の方法による種の起源について、または生存闘争における有利な種族の保存)において、種の起源が生存闘争と自然選択によることを述べている。しかしそこでは、生命の多様な生存様式(多様な種)が、多様な環境の中における それぞれの適応様式であり、「個体と種族の存続をめざした多様な変化(適応化)の結果」であることが強調されていません。種は、多様な環境への多様な生き方であり、自然が選択するものではなく、多様な自然に対する生命自体の適応的選択によります。これは生命自体の選択的変容(突然変異を含む)が、適応的であったか否かという問題であって、結果的に不適応であれば、種としての安定的生存や繁栄が得られず、種を形成しないということです。

 つまり自然(環境)の厳しさや生きることの困難に適応できなかった生命が、種としての存続に失敗(絶滅の「方向」の選択)したのであって、その失敗を自然(ダーウィンにとって、生命の多産・繁殖による生存闘争・適者生存が自然の法則である)による選択と言うことはできません。種として生存している適者は、自然が選択したのでなく、自然が無限の選択の機会(選択の失敗もあり得る)を生命に与え、それに適応選択した形質を持つ生命が一つの種を形成することになるのです。(その意味で人類も絶滅の「方向」を選択する可能性があります。生命は適応の可能性をめざして常に選択しているのです。)

 生命の進化、とくにここでは言語を獲得した人類の進化を問題にするので、「神経組織を持った動物の行動様式の進化(刺激認知と反応行動の統合化)」について、動物(生命)が、与えられた環境の多様な状況に応じて、多様な一定の方向性(自然が方向性を選択するのではない)を選択することを重視することになります。つまり、動物は外界の無限に複雑な環境状況(の情報)に対して、生存を維持するために的確な認識と分析(選択・判断・思考)による的確な適応的行動が必要とされます。それらの「認識と行動」は、感覚器官と情報処理能力、そして行動能力の進化(環境に応じた適応)によって多様な動物の生存(行動)様式をもつ動物種として地上に出現してきました。動物の生存様式の定向的進化(神経系の進化)は、人類において最高度に達し情報処理器官としての大脳の発達をもたらしました。この状態は「言語による情報伝達と認知能力の飛躍的発達」となり創造(想像)力を高め、人類の文化と文明の発展の原動力となったのです。

 さてこの能力は自然選択によるのか、それとも生命の主体的な選択(生命選択)によるのか、今までも今西錦司による自然選択説に対する批判的議論がありました。「生命言語理論」は、彼の問題意識を継承しています。つまり、生命も自然の一部であるとは言え、自然から特化して生命が誕生したのであり、その生命の主体的生存力を自覚することなしに、人類や言語の起源を論じることはできないという考えです。西洋の合理主義思想においては、総じて生命や人間を、「不死の神々」(ギリシア神話)や「創造神」(ユダヤ・キリスト教)、または「自然法」(古代ローマ、近代合理主義)の支配下にあると考えてきました。 「生命言語理論」では、このような西洋思想の限界性を克服し、新たな人間生命中心のものの見方考え方を提供しようとするものです。これは、理性中心の近代ヒューマニズムの限界を超えるものでもあります。詳しくは上記『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判 』をご覧下さい。
                       ? 以下はここに続く